昭和58年(1983年)11月12日、
予定通り羽山記者はまずニューヨークに飛んだ。
ニューヨークでは、白川千鶴子の姉享子に会って話しを聞くだけの予定だったから、1日しか日程は取っていず、このすぐ後にロスに入る予定だった。
羽山は、記事にする場合は享子の名前を伏せるという誓約書を持参していた。
会ってみると、彼女が何故こんなものを編集部に要求したのか、理由がわかった。
彼女は知人から、三浦を怒らせると何をされるかわからないと忠告され、真剣に怯えていたのだった。享子ベイカーの話しを要約する。昭和51年の秋にこちらに来てもう7年になります。
三浦には、千鶴子より先に、私の方が出遭ったんです。
場所はこのニューヨークで、時期は私がこっちに来てすぐの、だから昭和51年の冬だったと思います。
こっちにきて知り合ったサチという日本人女性がいるんです。
彼女はもとバレリーナで、イタリアに留学し、続いてニューヨークに留学しているときに、交通事故に遭って、バレエを断念した人です。
とても性格のさっぱりした気持ちのいい人で、この人の家でしばらくお世話になっていて、ある朝、「おはようございま-す」という大きな日本語で目が醒めたら、それが三浦でした。
彼も、日本で古着なんかを売る商売を東京で始めたばかりで、こっちに買出しに来てたんです。
初対面の挨拶をしたら、すぐに私の名前を呼び捨てにしたりして、オーバー・アクションで、私の最も嫌いなタイプでした。
しかし彼は月に一度くらいのペースで日米を往復しているということで、東京のチー坊に何か言づてを頼んだり、日本からちょっとした小物を買って運んでもらったりするのに重宝な存在でした。
そういう私の打算が、結局チー坊を不幸にしてしまったんです。
その頃の三浦に関する私の記憶というと、とにかくよく喋る人ということです。
人が聞いてようがいまいがお構いなしといった調子で一人で喋ります。
だから会話になりません。
その頃彼が言ってたことで覚えていることというと、「大学生の頃に学生運動をやっていて逮捕され、刑務所に入ったことがある」
「僕は水の江滝子の甥なんだけど、もしかするとホントの子どもかもしれない」
といったようなことです。
昭和52年の6月になって、チー坊の夫の栗元氏が、単身ニューヨークにやってきました。
で、「どうも最近、千鶴子の様子がおかしい」と言うんです。
私はちょうどビザ切れになりそうだったし、栗元氏と一緒に日本に帰ることにしたんです。
この飛行機の中で彼は、一郎が生まれてからこっち、不潔だと言って自分を全然寄せつけてくれなくなって、だからもう5年夫婦ではないんだ、などというようなことを言ってました。
原因は栗元さんの浮気です。
チー坊は昔から勝気で、潔癖症なところがありましたから。
羽田には、チー坊が車を運転して迎えに来てくれたんですけど、別人のように化粧が濃くなっていて驚きました。
たぶん、それが三浦の好みだったのでしょう。
栗元の家でもチー坊はすっかり性格が変わっていて、一郎をヒステリックに叱りつけたりしてるんです。
栗元さんの浮気以降、チー坊はちょっと狂ってしまってたんです。
じゃあ離婚したらと言うと、離婚だけは絶対に嫌、子供のことがあるからと言うんです。
ニューヨークに戻って、昭和53年の1月末のことだったと思います。
やはり日本に里帰りしていたサチが戻ってきて、東京の三浦の会社に行ってみたら、千鶴子が勤めていたと言うんです。
そして二人は深い仲で、そういう関係はもう1年くらい続いているというんです。
そうすると私が荷物を頼んで以来ということですから、もうびっくりしました。
サチは、あの三浦という人はとにかく女性関係の評判が良くないので気をつけたほうがいい、妹さんは今、離婚訴訟を起こしているらしいけど、弁護士は三浦が紹介した人らしいから、三浦が妹さんの慰謝料を狙ってると言う人もいた、と言うんです。
それで私は慌てて、サチが教えてくれたフルハムロードとかいう、三浦の会社に電話したんです。
そしたらチー坊が電話に出たので、私は思わず詰問口調になりました。
「ねぇ、チー坊、正直に言いなさい。あなたは三浦さんと深い仲なんでしょ?三浦という人は女癖が悪いそうだから気をつけないとダメよ」
そしてらチー坊は黙ったままです。
「栗元さんとまだ離婚したワケじゃないんだから、子供もありながら、どうしてそんなふしだらなことするの!」
するとチー坊はこう言いました。
「だって私は栗元から家を追い出されて、子供だって取り上げられたのよ!」
「だからってふしだらが許されるものでもないでしょ」
そう言ったら、チー坊もとても怒り出しました。
「何よ!お姉さんなんか子供生んだこともないのにえらそうなこと言わないでよ。私の気持ちなんかわかるワケないでしょう!」
チー坊は電話で泣きわめいて、一方的に電話を切ってしまったんです。
それまでのチー坊からは考えられないような態度でした。
そしてこれが私がチー坊の声を聞いた最後になってしまったんです。
昭和53年5月に、私は日本に帰りました。
宇部市まで母の顔も見に帰りました。
この帰国のとき、チー坊を捜して回ったんですが、どうしても彼女とは会えませんでした。
フルハムロードがあったという古い原宿の木造アパートに行ってみると、最近火事があったとかで、跡形もなく整地されてました。
次に高松の叔母から聞いた、チー坊が住んでいるという南麻布の有栖川マンションというのに電話してみると、電話口に出た女性が、わざとらしく要領を得ない返事をするんです。
そこで直接訪ねてみました。
でも2度行ったら2度とも留守で、誰とも会えませんでした。
仕方なく友人のところに行ってみたら、この人が白川姉妹が互いに嫉妬しているという噂を知っているか、と私に訊くんです。
つまり、三浦を巡って、私たち姉妹が嫉妬し合ってると言うんです。
噂の出所は、どうやら三浦自身でした。
その後まもなく私は、レコーディング技師のデビッド・ベイカーと結婚しましたから、ますますニューヨークを動けなくなりました。
昭和54年の3月にチー坊は離婚したはずですね。
気にはなっていたんですが、私にはチー坊に連絡をつける方法がありませんでした。
だから、その後失踪しているなんてことも、全然知らなかったんです。
それからしばらくして高松の叔母から私に手紙が来て、離婚の傷を癒すために、しばらく北海道に行ってくるという電話がチー坊からかかってきたと書いてありました。
私はそれで一応安心して、妹のことはしばらくそっとしておこうと考えてたんです。昭和54年11月に、主人の仕事でひと月ほど一緒に東京に行きました。
このときも時間が許す限りチー坊を捜しましたが、やはり会えませんでした。
だから私がチー坊が行方不明になったという噂を聞くのは、ようやく1年後の昭和55年になってからです。
それでもニューヨークでの生活がある私ですので、ついつい何もできずにいたら、昭和56年になって急に三浦夫妻がロスで撃たれるという事件があって、もうびっくりしたんです。
今、三浦は、日本ではヒーロー扱いされてるようですが、このニューヨークでは非常に評判が悪くて、ロスの事件に関しても良くない噂がたっています。
アメリカにはわずかなカネで人を殺すような人間はいくらもいますから。
あの事件の前にも三浦の奥さんはロスで襲われていて、このときは、彼女が騒いだもんだから未遂におわったというふうに私は聞いています。
あの銃撃事件以来、私は激しい不安を感じたものですから、それから真剣にチー坊の行方を捜し始めたんです。
そしたら三浦が東京でチー坊を半殺しの目に遭わせたという話にぶつかりました。
これは昭和53年の5月のことらしいですけど。
このときはチー坊の友達が、チー坊を三浦から隠すため郊外(のちに三鷹と判明)の病院に担ぎ込んだそうです。
こんなことを私が知っても警察に届けなかったのは、年とった母や親類が、千鶴子は今、本当に北海道で幸せに暮らしているかもしれない、警察沙汰にして波風を立てるのはどうか、言って反対したからです。
夫に事情を説明して、ようやく本格的に妹の足取りを追うことができたのが、今年の10月でした。
4年ぶりの日本で、たった5日だけの調査では何も手がかりは得られませんでしたが・・
それでも最後の日に、三浦にようやく会う決心をつけて三浦家に行ったんですが、三浦本人は居らず、お父さんの明さんにお会いしました。
連絡先の電話番号を教えて辞したら、すぐに三浦から電話が入って、
「実は僕も捜している。チコはある日突然消えちゃったんです。お姉さんが捜しているならお手伝いしましょう」
となんだか調子のいい、非常に協力的な態度でした。
そして「チコは、離婚の慰謝料が振り込まれたその日に消えたんだ」
と言いました。
慰謝料はいくらだったかと訊くと、
「自分は関係ないから知らない。チコは自分の荷物を全部運び出してから消えたんです。
そのとき、僕のカネも30万円ばかり持ち逃げしてる。
その後2か月くらいしてからチコから電話があり、今、自分は北海道で幸せにしているから捜さないで下さい。そっとしておいて下さい、と言ってました。
チコは僕とつき合ってる頃から男がいて、カネキという名です。
チコは今、このカネキと北海道で一緒に暮らしているんですよ」
それで私はこのように三浦に反論しました。
「あなたはロスで撃たれ、あれほど新聞やテレビで騒がれたじゃありませんか。奥さんが亡くなったときもテレビで騒がれた。当然、北海道にもニュースは流れたでしょうに、そのときも妹から連絡はなかったんですか?」
すると三浦は答えられない様子でした。
しかし、電話を切って2、3分してからまたかけてきて、
「今調べたら、事務所に記録が残ってました。
ロスの事件の直後、事務の女の子が『栗元さんより電話』というメモを残してる。
チコから電話はあったんです。しかも証拠もある」
私はああそうですかとだけ言っておきましたが、深夜ですよ。
そんな時間に2年前に会社の女の子が残したメモをすぐ見つけられますか?
三浦の言動はいつもこんな調子で、とても信用できません。
この際と思い私は、チー坊が半殺しにあったという話も、彼に質しました。
「あれは単なる痴話喧嘩ですよ」・・
痴話喧嘩で半殺しですか。
自分は、チー坊のことはもう諦めてます。
妹の生死はいずれわかることと思いますが、最も不安に思うことは三浦のやり口が巧妙だということです。
自分の周りの人に迷惑が及ばないか心配ですし、自分や夫にも何か危害が加えられないかと、今、大変恐怖を感じています。羽山記者は、ニューヨーク在住の日本人何人かに会い、話しを聞いた。
ニューヨークで三浦がたびたび行っていた盗難保険詐欺の手口を熱心に説明する者もあった。
日本を発つとき三浦は、所持品の高級カメラやラジオに盗難保険をかけておく。
ニューヨークに来ると彼はこれを売りさばき、警察には盗まれたと届けて盗難証明書を発行してもらう。
ニューヨークでは金品の盗難は日常のことだから、被害証明書は簡単に手に入る。
三浦はこれを日本に持ち帰り、保険会社に提出して保険金を取るというのだ。
三浦の特徴は、こういう手口を人に隠さず、ベラベラ喋ることだ。
彼の口ぶりから、こういうことは1度や2度ではないように受け取れたと証言者は語った。
ニューヨークの予備調査でも、多くの材料が集まった。
羽山はいよいよロスに入ることにした。
(島田荘司/三浦和義事件)千鶴子・・・白石千鶴子
享子・・美佐子
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ロス疑惑15/享子の話
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