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中坊公平/「体制」にハメられた男が、静がに眠る

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中坊公平氏、死去 
整理回収機構の初代社長 83歳

産経新聞 5月6日(月)
森永ヒ素ミルク事件の被害者弁護団長や香川県・豊島(てしま)の産業廃棄物不法投棄問題の住民側弁護団長を務めた元日弁連会長で、整理回収機構(RCC)初代社長の中坊公平(なかぼう・こうへい)氏が3日午前8時5分、心不全のため京都市内の病院で死去した。83歳。
 
 
悲しみ広がる豊島の人々 
産廃問題に命かけた中坊さん惜しむ声
中坊氏とともに産廃問題の解決に奔走した豊島住民会議顧問の児島晴敏さん(74)は「急なことで言葉もない」と驚いた様子。
「我々のことに一生懸命になって親身になってくれた。大変お世話になった人なだけに、式には参列したかった。感謝と誠意を尽くしたい」と話した。
 

 

中坊氏の「光と影」 法曹界に大きな影響

司法制度改革の旗振り役や消費者問題での活躍…。
3日亡くなった元日弁連会長、中坊公平さんは法曹界に大きな影響を与える一方、晩年は刑事告発されて弁護士バッジを手放すことになり、「光と影」を経験した。
 
京大法学部卒業後の昭和32年に弁護士登録。
48年に森永ヒ素ミルク中毒被害者弁護団長、60年には金のペーパー商法で多数の被害を出した「豊田商事」の破産管財人となった。
平成2年4月から2年間日弁連会長。香川県・豊島の産業廃棄物問題の住民側弁護団長としても活動するなど“市民派弁護士”の代表格とされ「鬼の中坊」の異名も。
手腕を買われ就任した整理回収機構(旧住宅金融債権管理機構)社長時代は不良債権回収の実績を上げたが、協力しない借り手らを警察に告発する手法に「在野法曹の弁護士が権力と癒着した」との批判も受けた。
 
 

<中坊公平氏死去>
「平成の鬼平」被害者救済に奔走

毎日新聞 5月5日(日)
「平成の鬼平」の異名を取った元日本弁護士連合会会長の中坊公平さんが亡くなった。
「弱い者が強い者と戦って自信を取り戻すことが大切」が信念。森永ヒ素ミルク事件や豊田商事事件で見せた弱者救済の姿勢は高く評価されているが、批判も相半ばした。
1955年の森永事件発生当時、ミルクには種別があった。
高い製品にはヒ素が入っておらず、ある親は「安物を買った自分たちが悪かった」と悔やんだ。
これを聞いた時の「裁判にどれだけの意味があるのか」との思いが「原点」だった。
 
森永ヒ素ミルク中毒事件資料館(岡山市)の岡崎久弥館長は「被害者支援には感謝する」と話す。
ただ近年、著書などで「被害者は(補償した)森永乳業に感謝している」と受け取れる発言をすることがあったといい、「被害者感情を逆なでする発言で、批判は多い」とも指摘する。
 
住宅金融債権管理機構社長時代は無給で住専問題の債権回収などに奔走する姿が称賛され、98年には野党の「首相候補」に。
一方で、2000年には内閣特別顧問に就任し「権力へのすり寄り」との批判も浴びた。
 
関係者によると05年に心臓手術を受けた。左目はほとんど失明状態。
「世間の人に忘れてもらうことでほっとする生活の寂しさも味わっています」。
知人宛ての05年秋の手紙にはそう書かれていた。
中坊公平氏死去:「ヒ素ミルク」原点 覚悟と行動の人
 
毎日新聞 2013年05月05日 
何度、涙を見ただろうか。
中坊公平さんは森永ヒ素ミルク事件被害者の訪問体験を語る時、いつも涙ぐんだ。
母親はヒ素入りミルクを飲ませた自分を責め、その子は、母が教えたこともない「あほう」という言葉を投げかけられ、覚え込んでしまった。
社会の冷たさと弱者の痛み。「原点」と呼んだ体験が40代からの半生を貫いた。
「強きをくじき」という言葉が好きだった。少年時代の自分を「落ちこぼれ」と呼び、弱者の側に立つよう努めてきた。
 
90年代初めに日弁連会長として旗を振った司法改革の運動が裁判員制度の導入などで現実化しつつある。
しかし、会長当時は、改革に消極的とみた最高裁や法務省を相手に「喧嘩(けんか)中坊」を自らの看板にした。
会長退任後、存在がクローズアップされたのは、住宅金融専門会社(住専)の不良債権処理と香川県・豊島(てしま)の産業廃棄物処理に対するボランティア的な活動だった。
豊島の産廃問題では香川県など行政当局に見放された住民に、自ら立ち上がらなければ権力機構は動かないと説き続け、先頭に立った。「観客民主主義」を批判し、自ら血を流す覚悟を求めた言葉は、説得力に富む。
揮毫(きごう)を求められれば、「現場に神宿る」と書いた。
 
強烈な個性ゆえに、毀誉褒貶(きよほうへん)は避けられなかった。
弁護士を廃業し、晩年は京都の自宅で「忍辱の日々」と表現する生活だった。
しかし腎臓の透析を受けつつ、淳子夫人との生活を大切にし、「世の中で一番価値のあるものは、想(おも)い出」と書き残した。
 

 

平成の鬼平、中坊公平氏死去

中坊 公平(1929年8月2日 - 2013年5月3日)。
 
経歴
京都府京都市出身。同府綴喜郡井手町育ち。
 
1948年 同志社大学(新制)入学
 
1952年 初の司法試験を受験するも不合格。
 
1953年 京都大学卒業、2度目の司法試験不合格。列車乗車時にヤミ米の摘発に遭う、ヤミ米を所持していると間違われて没収されかけたことに激怒「米を認めないなら麦も取れ」と持っていた麦を米にブチ撒けて公務執行妨害で検挙。
 
1954年 3回目24歳にして司法試験合格、翌年に司法修習生(9期)となる。
 
1957年 2年間の司法修習生活を終え「イソ弁」(居候弁護士の意)に。
 
1959年4月に独立し大阪に事務所を構えるも閑古鳥が鳴き、事務所で終日タバコを吸うかパチンコをして過ごす。

 
1960年 事務所存亡の危機になるも町工場の債権処理の依頼を受け、自ら町工場に出向き工員と経営者を直接指導し仕事を手伝い工場再建のメドをつけ、債権者と話し合い和議に至る。
これをきっかけに事務所に仕事がくるようになり現場主義に目覚める。
 
1962年 東京オリンピック開催に伴う東海道新幹線の高架敷設による立ち退き問題で京都にある小売市場の自治会役員が中坊の事務所を訪ねる。
約20店の店子とその家族と共に補償問題が解決するまで工事を行わないよう(建前上は)実力行使も辞さない構えを取り、強行着工してきた場合には「男は一歩引いて、まずは女達に任せろ」と中坊が指示、店子達はその言葉を額面通り受けてしまい強行着工の連絡を受けて現場に駆けつけた中坊は、子供を背負った店子の女性達が重機に立ち向かう光景を見て真っ青になる。
こうした運動の結果、国鉄(現JR)と直接交渉の場を得る。
 
1973年 森永ヒ素ミルク中毒事件の弁護団長を引き受ける。
同年4月大阪地方裁判所にて第一回口頭弁論に立つも持参の弁論原稿は読まずに被害者訪問の報告結果を約40分述べて途中で裁判長が落涙しかける(一審で勝訴の判決を得る)。
その後裁判は毎月2日、終日開廷というハイペースで進み、会議、調査、資料作成打ち合わせに忙殺された中坊は入眠困難、味覚障害などの体調及び精神面での障害を起こす。
同年12月、執行部が原告団に提訴取り下げを通告、突然の出来事に中坊はショックで駅のホームから飛び降りそうになる。
 
1985年 ペーパー商法で破産した豊田商事の管財人に就任。
同社の外務員が国に一度納めた源泉徴収済みの所得税を返還させるため、一人で大蔵省へ通いつめたり、実情を知りながら同社の資金に群がっていた企業を説得したり、元社員らの住居を訪ね支払われた給与の返還を求めたり、結果、被害総額の一割を回収、被害者へ還付する。
当時の活動は「プロジェクトX~挑戦者たち~・悪から金を取り返せ」として採り上げられた。
 
1990年 日本弁護士連合会会長に就任。龍谷大学で客員教授として教鞭をとる。
 
1993年 豊島産業廃棄物問題について、地元住民と共に解決への活動を開始する。
 
 
1996年 住宅金融債権管理機構の社長、1999年には整理回収機構の社長に就任。
その間、ニュースステーション等の報道番組に出演し難解な法律、金融問題を解説していた。
しかし生来計算が苦手だった中坊は債権処理に携わってくれた銀行マンに「申し訳ないけど、銀行に勤めたとしても課長になれたかどうかも怪しい」と言われる。
 
1998年12月7日、住宅金融債権管理機構代表であった中坊は、安田好弘弁護士を強制執行妨害罪で警視庁捜査二課に告発、
安田弁護士は逮捕され、最高裁で罰金50万円の有罪判決が確定。(安田好弘強制執行妨害事件(安田事件))
 
1999年7月27日 司法制度改革審議会の委員に就任(2001年7月26日まで)。
 
2000年3月7日 小渕恵三首相から内閣特別顧問に任命された。
しかし4月に内閣が総辞職するにともない、内閣特別顧問を辞任した。
 
2000年 住宅金融債権管理機構の社長であった時に、同機構において一部で病気静養中の人間の私財を差し押さえるなど不適切な債権回収が行われていたことが明らかになる。
2003年 その責任を取る形で弁護士の登録取消届を提出。
 
2002年5月、司法改革国民会議が発足、運営委員に加わった。
 
2002年10月、朝日住建子会社の元社長増田修造により東京地検特捜部へ、詐欺罪で告発された。中坊公平ら4人(ほか顧問弁護士、社員二名)は、破綻した朝日住建資産回収の土地売却の際、担保権を設定していた横浜銀行と明治生命に対し、土地の価格を開示しないまま根抵当権を抹消させた。
機構は住専から引き継いだ朝日住建の資産回収の際、買主とは43億円での売却で合意していた土地について、明治生命と横浜銀行には「約32億円で売却する」と虚偽の説明を行い、その結果2社はそれぞれ9億円で抵当権を抹消した。
その結果15億円を搾取したとして告発された。
これを受けて中坊は機構社長を辞任した。
 
2003年10月10日、所属する大阪弁護士会に登録抹消届と退会届を提出し弁護士を廃業。
 
2003年10月17日、東京地検特捜部は中坊公平ら4人について起訴猶予とした。
 
2004年、大阪弁護士会は本件を綱紀委員会が「懲戒相当」と議決、弁護士法上の懲戒理由である「非行」と認定した
破綻した麻布建物元社長の渡辺喜太郎は、「債権回収の妨害をしたら告発すると脅かされた」「麻布グループは700-800億円相当を返しているはずだが、整理回収機構は159億円を買い取ったと発表している」と訴えている。
 
2003年10月10日、所属する大阪弁護士会に登録抹消届と退会届を提出し弁護士を廃業。
 
2005年11月11日に登録取消届が受理され、正式に廃業が決まった。
 
2007年3月22日、大阪弁護士会に入会申込書と弁護士登録請求書を一旦提出したが、各マスコミに辞任した経緯を再報道され批判と反発を呼び7月5日に自ら登録請求を取り下げ、弁護士会への再登録を断念した。
 
2013年5月3日、入院先の病院にて死去。83歳没。
 
人物
青年時代の一時期、身分の安定した企業付きの弁護士としてやってゆくことを志向したが、森永ヒ素ミルク中毒事件に弁護士として関わるか否か迷った際に、自分の父親から、「赤ちゃんに一体何の罪があるというのだ」と一喝されたことをきっかけに、弁護士の立場から同事件の解決に取り組んだ。
 
他にも千日デパート火災、甲山事件、豊島産廃不法投棄事件など多くの事件に関わり活躍した。これまでに約400件の裁判や事件を担当。
 
吃音が原因からか、友人の結婚式のスピーチでは座を白けさせ「弁護士なのに弁が立たない」と言われ、口述試験では中坊の喋りの悪さに試験官に笑われる(後に合格)。
 
家庭内の問題や、殊に男女間の諍いなど弁護人の内情や気持ちを汲むことに疎い上に苦手で、それらに関する訴訟や調停からは遠ざかる。
中坊はこれについて「自分がぼんぼん育ちだからではないか」と分析している。
 
数字の計算が大の苦手で二桁の暗算にも難儀する程だが、概算は得意で帳簿の粗探しに長けている。
 
 
 
03年、廃業を表明したときの言葉――
 
「弱い者に味方して強い者とケンカする。生きがいである仕事を失うのは、つらく、さみしい」

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