■佐世保高1殺害
読売新聞2014年08月03日
なぜ少女は凶行に走ったのか
長崎県佐世保市の県立高校1年の女子生徒を殺害したとして、同級生の少女が逮捕された。
少女はなぜ、凶行に及んだのか。捜査当局には徹底解明を求めたい。
少女は自宅マンションで、女子生徒を工具で殴った後、首を絞めて殺害し、ノコギリなどで遺体の一部を切断したとされる。
殺害された女子生徒は歴史好きで、大学の文学部への進学を希望していた。
父親は告別式で「娘は宝物だった」と語ったという。
悲しみは、察するに余りある。
少女は調べに対し、「人を殺してみたかった」という趣旨の供述をしている。
女子生徒とは中学時代からの同級生で、2人の間にいじめやけんかなどはなかったという。
事件当日も、犯行直前まで2人で買い物を楽しんでいた。
その友人をなぜ、殺害せねばならなかったのか。
猟奇的な面も際立つ。
理解に苦しむばかりだ。
少女は幼い頃から成績が良く、スポーツにも熱心だったが、小学生時代には、給食に洗剤などを混入するトラブルを起こした。
昨秋、母親が病気で死亡した。
今年に入って父親が再婚した頃、少女は父親に金属バットで暴力を振るった。
小動物を解剖する問題行動も見られたとされる。
多感な年頃である。家庭環境の変化が、少女の心に何らかの影響を及ぼしたのだろうか。
少女は今後、家庭裁判所に送致される見通しだ。
犯行に至る心理状態を解き明かすには、精神鑑定のほか、家庭環境や成育歴の詳しい調査が求められよう。
少女は今春からマンションで一人暮らしを始めた。高校には、ほとんど登校していなかった。
中学時代の教員らが時折、少女を訪ね、一緒に食事をしながら、相談に乗っていた。
少女を支えようとする学校関係者の努力が実らなかったのは、残念である。
児童相談所には6月、少女を診察した精神科医から「人を殺しかねない」と相談があったが、児相は助言をしただけだった。
少女の行為が深刻さを増しているという情報が、学校や警察に伝わらず、適切な対処につながらなかったことが悔やまれる。
経緯の検証が欠かせない。
佐世保市では10年前にも、小6女児が同級生を失血死させる事件が起きた。
その後、命を大切にする教育が全国で広がっただけに、今回の事件の衝撃は大きい。
時事通信 8月2日
長崎県佐世保市の県立高校1年女子生徒(15)が殺害された事件で、逮捕された同級生の少女(16)を 診察した医師が、事件前に少女の両親と面談し、「このままでは事件を起こしてしまう可能性がある」と 伝えていたことが1日、関係者の話で分かった。
少女は医師と両親が面談した後もマンションで1人暮らしを続け、事件を起こした。
医師は6月10日、県の児童相談窓口に電話し、少女が小学6年生の頃に給食に異物を混入させたことや、 父親に暴力を振るいけがをさせたことなどを挙げ、「人を殺しかねない」などと相談していた。
関係者によると、医師は県側の助言などを受け、事件前の7月、3回にわたって両親と病院で面談。
「事件を起こしてしまう可能性がある」などと告げ、対処を求めたという。
少女は高校に進学した4月から、事件現場のマンションで1人暮らしをしていたが、医師と両親が面談した後も1人暮らしを継続。
7月26日に事件を起こした。
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J-cast news2014/7/30
酒鬼薔薇事件との共通性を指摘する声
長崎県佐世保市の殺人事件は、加害者の女子高生(16)が同級生を解剖したと報じられるなど、残虐な側面が浮き彫りになっている。
専門家からは、1997年にあった神戸連続児童殺傷事件との共通性を指摘する声が出ている。
「ネコを解剖したことがあり、人間でもやってみたかった」。
加害生徒は、長崎県警の調べにこう供述したといい、同級生は実際に、首や左手首ばかりでなく、胸から腹にかけても大きく切り開かれていたという。◆人に苦痛を与えることに性的な興奮を覚える?
生徒は「恨みはなかった」とも供述し、同級生との具体的なトラブルも確認されていない。
自宅マンションのベッドの上でこうした行為をしていたとみられ、証拠隠滅を図っただけとは言いがたいようだ。
その異常な行動には、予兆のようなことも度々起こっていたと報じられている。
小学6年生だった2010年12月には、同級生2人に「バカにされた」として給食に洗剤を混入させる騒ぎを5回も起こしていた。
中学生時代には、小動物を解剖していたとされている。
さらに、母親が13年10月に膵臓ガンで亡くなった後、再婚しようとした父親の寝込みを襲って金属バットで殴り、頭の骨や歯を折るなどの重傷を負わせていたという話もある。
生徒は、その後の14年4月から、マンションで高校生としては異例の一人暮らしを始めている。
こうした行動については、神戸連続児童殺傷事件で「酒鬼薔薇聖斗」を名乗り当時14歳の男子中学生だった犯人と似ているとの指摘が多い。
当時の報道によると、中学生は、裁判で精神鑑定にかけられ、2つの精神障害の合併症だとされた。
それは、人や動物に対して攻撃的な特徴のある重症の「行為障害」と、人に苦痛を与えることに性的な興奮を覚える「性的サディズム」だ。
行為障害とは、大人なら人格障害に当たり、人格が完成していない子供に使われる。■神戸連続児童殺傷事件(1997年)
転載元 庚寅夜話
参考文献:
「『少年A』この子を生んで・・・・・・」
/「少年A」の父母(文春文庫)
あの「酒鬼薔薇聖斗」の事件です。
神戸市須磨区の小学校の正門に「挑戦状」とともに行方不明だった小学生・土師淳君の遺体の頭部が置かれていました。
当時、日本中を震撼させた事件です。
犯人のA少年(当時14歳)は、これ以前にも連続通り魔事件を起こしており、女児一人を殺害、三人に怪我を負わせています。
少年の家族構成は、会社員の父親、専業主婦の母親、弟二人の五人です。
母方の祖母が、少年の小学校入学のころから同居していましたが、事件の四年前に亡くなっています。
母親は否定していますが、精神鑑定書によると幼児期に厳しいしつけ(虐待)を受けていたようです。
家庭における親密体験の乏しさを背景に、弟いじめと体罰との悪循環の下で「虐待者にして被虐退者」としての幼時を送り、“争う意思”すなわち攻撃性を中心に据えた、未熟、硬直的にして歪んだ社会的自己を発達させ、学童期において、狭隘で孤立した世界に閉じこもり、なまなましい空想に耽るようになった。
そして、精神鑑定書は事件に至る過程を説明しています。
《思春期発来前後のある時点で、動物の嗜虐的殺害が性的興奮と結合し、これに続く一時期、殺人幻想の白昼夢にふけり、現実の殺人の遂行を宿命的に不可避であると思い込むようになった。
この間、「空想上の遊び友達」、衝動の化身、守護神、あるいは「良心なき自分」が発生し、内的葛藤の代替物となったが、人格全体を覆う解離あるいは人格の全面的解体には至らなかった。
また、独自の独我論的哲学が構築され、本件非行の合理化に貢献した。
かくして衝動はついに内面の葛藤に打ち勝って自己貫徹し、一連の非行に及んだものである。》
また、少年には異常な性癖、行動があったわけですが精神病ではないとされています。
普通の知能を有し、意識も清明である。
精神病ではなく、それを疑わせる症状もない。責任能力はあった。
精神鑑定書にも簡潔に過程を説明してありますが、母親の話を基に少年の成長過程を追ってみたいと思います。
少年は三人兄弟の長男です。
次男は少年が一歳半の時に生まれています。
さらに三男は少年が三歳の時に誕生しています。
三人の赤ん坊をかかえた核家族の母親の大変さには同情しますが、長男への母親の愛情の分配が薄くなったことは十分想像できます。
また、母親は厳しいしつけをする人だったようです。
祖母にも「あんたは、子供たちをよく叱って厳しすぎる。そんなんやったらあかん。子供が萎縮してしまうわ」と言われていたようです。
また、母親自身も「三男が生まれた頃は、Aが四歳、次男は三歳で寝不足な日も続いていたので、長男のAには厳しく怒って注意していたかもしれません。」と述懐しています。
少年が五歳のころ「足が痛い、痛い」と言うので病院に連れていくと医者に
「長男さんをもっとかまってあげてください。おそらく精神的な面からくる症状でしょう。」
と言われています。
幼時期のころの少年について母親は
「いつもおとなしく、いつもフニャとして人の後に付いていく子でした。」
「性格も少し気が弱く、内向的でした。
『取られたら、取り返しなさい』
覇気を持ってもらいたいと思い、よくそう注意したものです。」
と言っています。
また、幼稚園時代にいじめられていたようですが、母親は事件後の報道で知りましたと説明しています。
少年は長男らしい几帳面な性格だったようです。
「変に几帳面なところがあって、服はきっちり着て、夏でも襟のあるカッターシャツをつけ、ソックスをはかないと気が済まない子でした。」
少年の小学校での成績は良くなかったようです。
「通知表は2ばかりでした。」と母親は言っています。
少年は、塾には通ってなく、小学校二年から六年まで少林寺拳法を習っていたようです。
小学校入学のころ、母方の実家に引っ越しており祖母が家族に加わります。
厳しい母親に対し祖母はやさしかったようです。
少年が小学校三年生のときの作文があります。
《「まかいの大ま王」
お母さんは、やさしいときはあまりないけど、しゅくだいをわすれたり、ゆうことをきかなかったりすると、あたまから二本のつのがはえてきて、ふとんたたきをもって、目をひからせて、空がくらくなって、かみなりがびびーっとおちる。
そして、ひっさつわざの「百たたき」がでます。
お母さんは、えんま大おうでも手が出せない、まかいの大ま王です。》
少年が小学校三年生のときに少し異常なできごとが起きています。
「兄弟三人が、三つ巴で取っ組み合いの喧嘩をしているところに帰ってきた夫が、長男のAに手を上げ、怒鳴りつけました。
するとAは、急に目を剥くというか変に虚ろな目になり、宙を指差して、
『前の家の炊事場が見える、団地に帰りたい、帰りたい』
とうわ言のように喋りました。
その様子がとても普通ではなく、怯えたようにガタガタ震えだしました。」
この時は母親は少年を神経内科に連れていきましたが、「軽いノイローゼ」と診断されています。
少年が小学校四年生のころ祖母が亡くなっています。
母親は知らなかったそうですが、これを境に少年の蛙やなめくじの解剖が始まったようです。
母親によると、少年は泣き虫で気の弱い子供でしたが、小学校高学年のころには、友達も多くなり、よく外に出て遊ぶようになっていたようです。
しかし、小学校六年生の時に、図工で赤色を塗った粘土の固まりに、剃刀の刃をいくつもさした不気味な作品を作って、
少年は「粘土の固まりは人間の脳です」と説明しています。
また、母親に問いただされ「ぼくの友達がいじめられとって、その子に仕返しをするために刃をつけたんや」と答えています。
さらに、小学校六年生の時に問題行動が現れてきます。
後の被害者・土師淳君は三男の同級生ですが、少年が土師淳君を殴る騒ぎを起こし学校から連絡を受けています。
少年は、職員室で「あの子がちょっかいを出したからや」と説明したそうです。
翌月の春休みに友達と四人と万引きで補導されています。
万引きした品物は温度計です。
母親はもちろん知らなかったのですが、少年は温度計の水銀を集めて猫に飲ませて実験をしていたようです。
中学校に入学すると、部活として卓球部に入ります。
しかし、少年の悪さはおさまりませんでした。
四月早々に、カッターナイフで小学生の自転車のタイヤをパンクさせ、学校から連絡がきます。
「その小学生がAと友達に石を投げてきたので、その仕返しをした」とのことでした。
六月に少年が部活中にラケットで仲間を叩いたとして、学校から連絡を受けています。
「そいつが僕の足をひっかけたから、仕返しをしたんや」
が少年の言い訳でした。
次には、友達三人と同級生の女生徒の体育館用のシューズを燃やし、その子の鞄を男子トイレに隠すという事件を起こしています。
本人は「自分のことはいいが、家族をバカにされたので頭にきてやった」と説明しています。
問題行動が多く、小学校三年生の時の異常なできごともあったので母親は、神経小児科に連れていきMRI検査も受けています。
一歳半の時に頭を強打し五針も縫っていることもあり心配になったのです。
結果は脳に異常はなし。
IQも70で普通ですと言われています。
ただし、「注意散漫・多動症」とも診断されました。
後の審判時に「Aは、自分は周囲と違い、異常だと思い、落ちこんでいた」と母親は聞かされています。
中学二年生になっても、母親がよく学校に呼び出されています。
このころ
「学校から帰って来ると、Aは『しんどい、しんどい』としきりに漏らすようになりました。
めっきり口数が減って、暗い表情になり、友達と外にもあまり出掛けなくなりました。」
と母親は書いています。
また、何があったか不明ですが、親子で次のような会話をしています。
「みんな、僕のこと怖がってるみたいやわ」
「あんた、何かしたん?」
「誰かが、僕のあることないこと言いふらしてるから、そのせいとちゃうか」
さらには、事件の「前兆」が現れます。
家の軒下の空気孔から家のものではない家庭用斧が見つかったり、床下から猫の死体が出てきたりしています。
また、少年の部屋からナイフが見つかり、何度か母親が取り上げています。
11月にはレンタルビデオ店でホラービデオを万引きして警察に補導されましたが、このナイフも万引きしたものだったようです。
三学期には少年は連続通り魔事件が起こしています。
犯行ノートに次のよう書いています。
《H9・3・23 愛する「バモイドオキ神」様へ
朝、母が「かわいそうに。通り魔に襲われた女の子が亡くなったみたいよ」と言いました。
新聞を読むと、死因は頭部の強打による頭蓋骨の陥没だったそうです。
金づちで殴った方は死に、おなかを刺した方は回復しているそうです。
人間は壊れやすいのか壊れにくいのか分からなくなりました。
容疑も障害から殺人、殺人未遂に変わりましたが、捕まる気配はありません。
目撃された不審人物もぼくとかけ離れています。
これというのも、すべてバモイドオキ神様のおかげです。
これからもどうかぼくをお守りください。》
中学三年生の5月に同級生を殴ったとして、親が呼び出されています。
ナイフで脅したり、拳に時計を巻いて歯が折れるまで殴ったそうです。
このとき、少年は父親が何を聞いてもブルブル震えるばかりで様子がおかしかったようです。少年は猫を殺しているなどと、その友達に悪口を言いふらされて腹を立てての行動だったようです。
この暴力事件をきっかけに少年は不登校になり、母親と一緒に児童相談所に通うことになります。
母親は少年に生きる気力がなく、投げやりになっているのが心配だったようです。
少年は「世の中、面白くない。生きていても、楽しいことなんか何もない。」と言っていたようです。
児童相談所の性格テストで
「掴み所がなく、分かりにくい」
「防御がきつくて分かりにくい」
と告げられています。
そして、この児童相談所に通っている時に、世の中を震撼させたあの事件を起こしています。次に掲げるのは少年の書いた「挑戦状」です。
《さあ、ゲームの始まりです
馬鹿な警察諸君
ボクを止めてみたまえ
ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくてしょうがない
汚い野菜共には死の制裁を
積年の大怨に流血の裁きを
SHOOL KILLER
(スペルの間違いは原文のまま)
学校殺死の酒鬼薔薇 》
少年は逮捕後、精神鑑定医に「自分の好きな本を五冊あげてください」と尋ねられて、
「はてしない物語」、
「わが闘争」、
「ゲーム理論の思考法」、
「推理脳を鍛える本」
を挙げています。
ファンタジーの「はてしない物語」からは空想世界から抜け出ていない少年が、
世紀の悪人とも言えるヒトラーの半生記「わが闘争」からは自分自身の生き方を模索する少年が伺えます。
少年には厳しいしつけをする母親とやさしい祖母がいました。
幼児期には母親の愛情を受けられなかったため安定した精神を育めず、内にこもる性格になったように見えます。
もし、幼児期に祖母が一緒に住んでいたら、また祖母が少年の第二次反抗期のころまで生きていたら、悲劇的な事件は起きなかったように思います。
少年の第二次反抗期は、問題行動が顕在化する小学校六年生のころに始まっています。親に不信感を持つと、反抗は非行になりがちです。
第二次反抗期では、大人になるために親をモデル(原型)に自分自身を形成しようとします。
親の良い部分をまねしようにも、それがないと感じると、家庭外に自分をぶつけてみます。
それが非行です。
内心では自分を導いてくれる信頼できる大人を求めています。
少年は「世の中、面白くない。生きていても、楽しいことなんか何もない。」と言っていました。
少年の絶望感が感じられます。
将来、何になるのか、今、何をしたらよいのか、分からなくなっていたのです。
結局、少年は「まかいの大ま王」である母親に対して、「バモイドオキ神」を創り出し、その導きに従おうとしました。
子供たちは空想、妄想の世界が好きですが、それが現実とは違うことは早いうち気が付くのが普通ですが、少年は信頼できる大人がまわりに居なかったのでしょう。
そのため、妄想の世界を突き進んだように見えます。■神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)
転載元
キュリトピ.net curious topics collection site
この記事は、下記サイトより記事内容を転載しています。
神戸連続児童殺傷事件|Wikipedia
1997年(平成9年)に兵庫県神戸市須磨区で発生した当時14歳の中学生による連続殺傷事件。別名『酒鬼薔薇事件』。
数ヶ月にわたり、複数の小学生が殺傷された。
通り魔的犯行や遺体の損壊が伴なった点、特に被害者の頭部が「声明文」とともに中学校の正門前に置かれた点、地元新聞社に「挑戦状」が郵送された点など、強い暴力性が伴なう特異な事件であった。
また、犯人がいわゆる「普通の中学生」であった点も社会に衝撃を与えた。
警察は聞き込み捜査の結果、少年が動物への虐待行為をたびたびおこなっていたという情報や、被害者男児と顔見知りである点などから、比較的早期から彼に対する嫌疑を深めていたが、対象が中学生であるため、極めて慎重に捜査は進められた。●事件の経緯
・第一の事件
1997年(平成9年)2月10日午後4時ごろ、神戸市須磨区の路上で小学生の女児2人がゴムのショックレス・ハンマーで殴られ、1人が重傷を負った。
・第二の事件
3月16日午後0時25分、神戸市須磨区竜が台の公園で、付近にいた小学4年生の女児に手を洗える場所はないかとたずね、学校に案内させた後、
「お礼を言いたいのでこっちを向いて下さい」といい、振り返った女児を八角げんのう(金槌の一種)で殴りつけ逃走した。
女児は病院に運ばれたが、3月23日に脳挫傷で死亡した。
さらに、午後0時35分ごろ、別の小学3年生の女児の腹部を刃渡り13センチの小刀で刺して2週間の怪我を負わせた。
ナイフの刃先は胃を貫通して、背中の静脈の一歩手前で止まっていた。
仮に静脈まで達していたら、救命は不可能だったという。
また、手術の時に、1.8リットルの輸血を要した。
・第三の事件
5月24日午後、神戸市に住む男児を通称「タンク山」と呼ばれている近所の高台に誘い出し、殺害。
(中略)
その後、男児の左胸に右耳を当て心音を確認し、心音が聞こえなかったので、完全に死んだと確認した。
男児をそのままにして少年は登ってきた道順と同じ道順でタンク山を降り、ママチャリに乗り、5分ほど走らせて、コープリビングセンター北須磨店へ向かった。
そこで、糸ノコギリと南京錠を万引きした。
そして、山へ引き返し、アンテナ施設を取り囲んでいるフェンスの入り口に掛けられている古い南京錠のUの字部分を金鋸で切り、死体を施設の中に運び入れた。
金鋸をフェンスに沿った溝側にたまっている落ち葉の下に隠し、入り口に新しい南京錠を掛け替えて山を下りた。
友人と4時にビデオショップ「ビブロス」の前で待ち合わせしていたため急いで向かい、4時30分ごろに着いた。その後家に帰ると、少年の母が「○君がおらんようになったみたいよ」と言うと、少年は「ふうーん」と返事をした。
午後8時50分に被害男児の家族より須磨警察署に捜索願が提出された。
5月25日、少年は10時から12時にかけて起床し、自分でパンを焼いて食べ、午後1時から3時の間に、男児の首を切るために自宅を出た。
(中略)
黒いビニール袋の上に置いた男児の遺体を、糸ノコギリの両端を持ち、一気に左右に2回切ると、ノコの歯が細かったためか、スムーズに切れ、切り口が見えた。
人間の肉が切れることを確認した少年は左手で男児の額のあたりを押さえながら、右手で首を切っていく。
この時、少年は「現実に人間首を切っているんだなあと思うと、エキサイティングな気持ちになった」と供述している。
その後、しばらく地面に置き、正面から鑑賞しながら、「この不可思議な映像は僕が作ったのだ」という満足感に浸った。
首を切断して射精した。
ところが、しばらくすると、男児の目は開いたままで、眠そうにみえ、どこか遠くを眺めているように少年には見えた。
さらに、男児は少年の声を借りて、少年に対して、「よくも殺しやがって 苦しかったじゃないか」という文句をいった、と供述している。
それで、少年は男児に対し、「君があの時間にあそこにいたから悪いんじゃないか」といい返した。
すると、男児の首はさらに文句をいった。
少年は、これは死体にまだ魂が残っているためだと考え、魂を取り出すため、また、眠たそうな男児の目が気に入らなかったため、「龍馬のナイフ」で男児の両目を突き刺し、さらに、2、3回ずつ両方の瞼を切り裂き、口の方からそれぞれ両耳に向け、切り裂いた。
その後は文句を言わなくなったという。
さらに、「殺人をしている時の興奮をあとで思い出すための記念品」として持ち帰ろうと考え、舌を切り取ろうとしたが、死後硬直でかなわなかった。
さらに、ビニール袋に溜まった男児の血を飲むが、金属をなめているような味がしたと述べている。
少年は血を飲んだ理由として、
「僕の血は汚れているので、純粋な子供の血を飲めば、その汚れた血が清められると思ったからです。
幼い子供の命を奪って、気持ち良いと感じている自分自身に対する自己嫌悪感の現れなのです」
と供述している。
5月26日、男児の行方不明事件として午前11時40分に須磨警察署が公開捜査を開始。
警察、PTA、消防団合わせて150名が捜索にあたった。
少年は男児の頭部を家に持ち帰る。
そして、土や木の葉で汚れた頭部を風呂場で15分ほどかけて洗って、自分の部屋の天井裏に隠した。
少年は首を洗った理由を
「理由は二つ。一つは、殺害場所を特定されないように、頭部に付着している土とか葉っぱ等を洗い流すためでした。
あと一つの理由は、警察の目を誤魔化すための道具になってもらう訳ですから、血で汚れていたので『せいぜい警察の目から僕を遠ざけてくれ。君の初舞台だよ』という意味で、顔を綺麗にしてやろうと思ったのです」
と供述している。
少年は首を洗った時も興奮して勃起し、髪の毛にクシを入れながら射精した。
少年は「警察は自分の学校に首を置くはずはないと思い、捜査の対象から逸れると考えた」と、友が丘中学校の正門前に男児の首を置くことを決めた。
また、ただ首を置くだけでは捜査が攪乱できるかどうかわからないと考え、「偽りの犯人像」を表現する手紙を咥えさせようと考えた。
漫画「瑪羅門の家族」第3巻の目次から引用したり、別の本で覚えていた言葉を組み合わせて、手紙を書き上げた。
《さあゲームの始まりです
愚鈍な警察諸君
ボクを止めてみたまえ
ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくて見たくてしょうがない
汚い野菜共には死の制裁を
積年の大怨に流血の裁きを
SHOOLL KILL
学校殺死の酒鬼薔薇》
5月27日未明、頭部が入ったカバンを自転車の前カゴに入れて、中学校の校門前に遺棄した。正門前に頭部を置いて、手紙を口に咥えさせ、その光景を5、6分見ていた。
少年は初め、正門右側塀の上に首を置こうとしたが、据わりが悪く、地面に落ちたため「正門の前だと一番目につくところだし、地面なら据わりもいいだとろうと思い、正門の鉄扉の中央付近に顔を道路側に向けて置きました。
手紙を取り出し”酒鬼薔薇聖斗”の文字が見えるように縦に『酒』いう文字の方を口にくわえさせたのです」と供述しており、その時の光景を「学校の正門前に首が生えているというような『ちょっと不思議な映像だな』と思って見ていたのです」と供述している。
また、この時少年は「性的興奮は最高潮に達し、性器に何の刺激も与えてないのに、何回もイッてました」という。
少年はのちにその時の光景を「作品」と呼んでいる。
6月4日、神戸新聞社宛てに赤インクで書かれた第二の声明文が届く。
声明文を書くにあたって、少年は次のような犯人像をイメージして書いたという。
《高校時代に野球部に所属したことがある三十歳代の男。
父親はおらず、母親からは厳しいスパルタ教育を受けながら、学校では相手にされず孤立している。
学校関係の職場で働いていたが解雇され、今は病身の母親と二人暮らし。
学校時代にいじめにあったので、自分を「透明な存在」と思うようになり、そんな自分を作り出した義務教育を怨んでいる。
被害妄想と自己顕示欲が人一倍強く、社会を憎み、密かに復讐を考えている。》
しかし、少年は「はっきり言って、調子づいてしまった」と供述しており、
「新たに手紙を書けば、僕の筆跡が警察に分かってしまうと思ったが、僕自身、警察の筆跡鑑定を甘く見ていた。『あれで捕まるんやないか、失敗したなぁ』と思ったが、どうしようもなかった」と逮捕後供述している。
捜査関係者によると
「もともと、数多く著作からの寄せ集めだから、原本は簡単に割り出せなかったが、Aが浮上して彼の作文などを調べたら、すぐに同一人物の筆致だと分かったよ。特に『懲役13年』という作文は大いに参考になった」
という。
また、用紙の余白に「9」という数字を書いたことについて少年は
「僕が1番好きな数字が9であり、切のいい数字が10だと思っているので、その一つ前がいいからだ」
と供述しているが、少年が浮上した段階で間接証拠の一つとして使われていたという。
なお、少年の作文と二つの犯行声明文の筆跡鑑定を行ったが、鑑定結果は
「類似した筆跡が比較的多く含まれているが、同一人の筆跡か否か判断することは困難である」
というものであり、そのために少年の逮捕状を請求出来なかったという。●神戸新聞社へ送った手紙の内容
《この前ボクが出ている時にたまたま、テレビがついており、それを見ていたところ、報道人がボクの名を読み違えて「鬼薔薇」(オニバラ)と言っているのを聞いた
人の名を読み違えるなどこの上なく愚弄な行為である。
表の紙に書いた文字は、暗号でも、謎かけでも当て字でもない。
嘘偽りないボクの本名である。
ボクが存在した瞬間からその名がついており、やりたいこともちゃんと決まっていた。
しかし悲しいことにぼくには国籍がない。
今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。
もしボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ切断した頭部を中学校の正門に放置するなどという行動はとらないであろう
やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできたのである。
ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。
それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない
だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない
そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。
すると彼は、
「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもなければそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」
その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。
しかし今となっても何故ボクが殺しが好きなのかは分からない。
持って生まれた自然の性 さが としか言いようがないのである。
殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。
人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。
最後に一言
この紙に書いた文でおおよそ理解して頂けたとは思うが、ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている。
よって自分の名が読み違えられたり、自分の存在が汚される事には我慢ならないのである。
今現在の警察の動きをうかがうと、どう見ても内心では面倒臭がっているのに、わざとらしくそれを誤魔化しているようにしか思えないのである。
ボクの存在をもみ消そうとしているのではないのかね
ボクはこのゲームに命をかけている。
捕まればおそらく吊るされるであろう。
だから警察も命をかけろとまでは言わないが、もっと怒りと執念を持ってぼくを追跡したまえ。
今後一度でもボクの名を読み違えたり、またしらけさせるような事があれば一週間に三つの野菜を壊します。
ボクが子供しか殺せない幼稚な犯罪者と思ったら大間違いである。》
6月28日、現場近くに住む少年に朝から任意同行を求め、事情を聞いていたところで犯行を自供。
少年は当初犯行を否認していたが、取調官が第一の犯行声明文のカラーコピーを取り出して、「これが君の書いたものであるということは、はっきりしている。筆跡が一致したんや」と突きつけると、声を上げて泣き出し、自供を始めた(前述のように実際には少年の筆跡が一致したという証拠はなかった)。
午後7時5分、殺人及び死体遺棄の容疑で少年逮捕。
同時に、通り魔事件に関しても犯行を認めた。
成人の刑事裁判と異なり、少年審判は非公開であり、審判の内容は公開されない。
審判の結果も公開されないか報道されない事例が大部分であり、多くの人々に注目された事件の審判の結果(初等少年院、中等少年院、医療少年院への送致など)が公開され報道される程度であるが、この事件は人々からの注目度が著しく高かったので、家庭裁判所は例外的に精神鑑定の結果を公開した。
精神鑑定結果として下記の特徴が解明された。
・脳のX線検査、脳波検査、CTやMRIによる脳の断層検査、染色体の検査、ホルモン検査に異常は無い。
・非行時・鑑定時とも精神疾患ではなく、意識は清明であり、年齢相応の知的能力がある。
・非行時・鑑定時とも離人症状と解離傾性(意識と行為が一致しない状態)があるが、犯行時も鑑定時も解離性同一性障害ではなく、解離された人格による犯行ではない。
・未分化な性衝動と攻撃性の結合により、持続的で強固なサディズムがこの事件の重要な原因である。
・直観像素質(瞬間的に見た映像をいつまでも明瞭に記憶できる)者であり、その素質はこの事件の原因の一つである。
・自己の価値を肯定する感情が低く、他者に対する共感能力が乏しく、その合理化・知性化としての虚無観や独善的な考え方がこの事件の原因の一つである。
この事件は長期的に継続された多様で漸増的に重症化する非行の最終的到達点である。
少年は小学校5年の時から動物に対する殺害を始め、最初はなめくじやかえるが対象だったが、その後は猫が対象になった。
少年自身が友人に、全部で20匹ぐらいの猫を殺したと語っている。
標準的な人は性的な発育が始まる以前の段階で、性欲や性的関心と暴力的衝動は分離されるが、少年は性的な発育が始まった時点で性欲や性的関心と暴力的衝動が分離されず(鑑定医はその状態を未分化な性衝動と攻撃性の結合と表現した)、動物に対する暴力による殺害と遺体の損壊が性的興奮と結合していた。
性的な発育過程にある標準的な感覚の男子は、自分の周囲の同年代の女子や少し年上の女性を、性欲を発散する対象として想像しながらオナニーをして(または生身の女性と現実の性交をして)性欲を発散し、性的な経験を積み重ねながら肉体的・精神的な成長をして行くのだが、少年は動物を殺害して遺体を損壊することに性的な興奮を感じるようになり、猫を殺して遺体を損壊する時に性的な興奮や快楽を感じて性器が勃起し射精した。
少年はその性的な興奮や快楽の感覚や要求が、人を殺害して遺体を損壊することによって、猫の殺害と遺体損壊よりも大きな性的な興奮や快楽を得たいとの欲求へとエスカレートし、それが自分の運命と思い込むようになり、この事件を行ったのであり、殺人の動機の類型としては快楽殺人である。
少年は鑑定医から被害者を殺害したことについて問われると、自分以外は人間ではなく野菜と同じだから切断や破砕をしてもいい、誰も悲しまないと思うと供述した。
被害者の遺族の悲しみについて問われると、あの時あの場所を通りかかった被害者が悪い、運が悪かったのだと供述した。
女性に対する関心はあるかと問われて、全く無いと答えた。
精神鑑定結果は、少年に完全な責任能力はあるが、成人のパーソナリティ障害に相当する行為障害(18歳未満の場合は人格形成途上なので行為障害と表現する)があり、鑑定医の意見としては、行為障害の原因を除去して、少年の性格を矯正し、Aが更生するためには、長期間の医療的処置が必要(医療少年院への送致が最も適切な処遇)との提案がされた。■過去に起こった日本の快楽殺人事件
転載元 Wikipedia Never等◆大阪姉妹殺害事件
大阪姉妹殺害事件(おおさかしまいさつがいじけん)とは大阪市浪速区のマンションで2005年11月17日に、飲食店店員の姉妹が刺殺された事件である。
文中の年齢は当時の満年齢である。
加害者の男は、中学卒業後の2000年7月29日、山口市内の自宅アパートで金属バットで母親を殺害した(山口母親殺害事件)。
当時16歳。
この際、「返り血を流すためシャワーを浴びたら、射精していたことに気づいた」と姉妹殺害事件の大阪地検検事に後に述べている。
同年9月に中等少年院送致の保護処分を受けた後、2003年10月に仮退院、2004年3月に本退院したが、この際、精神科医師は、男が「法律を守ろうとはそんなに思っていない」と話していたことなどから、更生に疑問を抱き意見を提示していた。
2005年2月ごろパチスロ機を不正操作しコインを盗むグループに加わるが、そのグループが福岡から大阪に活動拠点を移した同年11月には、稼ぎが上がらず、離脱したい旨を仲間に伝えグループの活動拠点のマンションを出た。
離脱後、近くの境内や公園などに野宿をしていたが、生活のめどが立たない中で、母親殺害の際に感じた興奮と快楽を再び得るために被害者らを狙った。
2005年11月17日午前2時半ごろ、まず飲食店での仕事を終えて帰宅した姉(当時27歳)がドアを開けた瞬間に背後から襲撃。
ナイフで胸を突き刺し、片足のズボンと下着を脱がせ強姦、跡を残さないための工作を行った。
約10分後には妹(当時19歳)が帰ってきたためナイフで胸を突き刺し、姉のすぐ側で強姦した。
その後、ベランダで煙草を吸った後に姉妹の胸を再び突き刺してとどめを刺し、室内に放火し現金5000円や小銭入れ、貯金箱などを奪った上で逃走した。
2人は病院に運ばれたが搬送先で間もなく死亡した。
大阪府警は同年12月5日、建造物侵入容疑で加害者を逮捕。
12月19日には強盗殺人容疑で再逮捕した。
この逮捕で、被疑者が少年時代の山口母親殺害事件を起こしていたことがメディアで取り上げられた。
警察の調べに対し加害者は
「母親を殺したときの感覚が忘れられず、人の血を見たくなった」
「誰でもいいから殺そうと思った」
と供述。
弁護士には「ふらっと買い物に行くように、ふらっと人を殺しに行ったのです」と述べた。
2006年5月1日に大阪地方裁判所で初公判が行われた。
初公判で加害者の供述が検察により読まれたが、その内容は「刺す度に性的興奮が訪れた」という内容であった。
5月12日、第2回公判が開かれたが、被告人質問で加害者は「人を殺す事と物を壊す事は全く同じ事」と述べた。
母親殺害との関連性についても質問されたが
「自分では判断できない」と答えた。
6月9日から10月4日まで精神鑑定が実施されたが、10月23日に裁判長の並木正男は、アスペルガー障害を含む広汎性発達障害には罹患していないと判断し、検察側の「人格障害(非社会性人格障害、統合失調症質人格障害、性的サディズム)である」とする完全な責任能力を認める精神鑑定書を証拠として採用した。
10月27日の第10回公判では、法廷に2万2796人分の死刑を求める嘆願書が提出されたが、加害者は検察官に「どう思う」と問われても「何も」としか答えなかった。
11月10日午後、弁護側の最終弁論公判の最後に裁判長から意見陳述を促されたが、これに対し加害者は「特に何もありません」とだけ述べ結審する。
2006年12月13日午前、大阪地裁(裁判長:並木正男)において、死刑判決が下された。
死刑判決の瞬間も、加害者はまっすぐ前を見据えたまま微動だにしなかった。
加害者は自分の存在について、弁護人が差し入れたノートに
「何のために生まれてきたのか、答えが見つからない。人を殺すため。
もっとしっくりくる答えがあるのだろうか。
ばく然と人を殺したい」
と記している。
判決後「控訴する考えはない」と弁護人に話していたが、12月26日弁護人権限で控訴する。
本人は接見中「生まれてこない方がよかった」などと話していたという。
その後、2007年5月31日付で加害者本人が控訴を取り下げ、死刑判決が確定した。
2009年7月28日、大阪拘置所にて加害者である死刑囚の死刑が執行された。
執行時の年齢は25歳であった。
20代の死刑囚に対する執行は1979年に執行された正寿ちゃん誘拐殺人事件の死刑囚(死刑執行時29歳)以来30年ぶりであり、25歳での死刑執行は1972年に執行された少年ライフル魔事件の死刑囚以来37年ぶりであった。
また、死刑判決確定から2年という短期間での執行は、同日に執行された自殺サイト殺人事件の加害者同様に、他の死刑囚と比較して早期の執行である。◆自殺サイト連続殺人事件
【事件概要】
2005年8月、大阪府堺市の派遣社員・前上博(当時36歳)が、3人の男女を殺害していたことが発覚。
被害者とはいずれも自殺サイトで知り合い、「ネット心中をしよう」ともちかけて落ち合った。
前上は人が窒息する表情を見て興奮するという特殊な性癖の持ち主で、自殺をする気などはなく、自身が満足するためだけに被害者を襲っていた。
【自殺志願者殺し】
2005年2月23日、若い女性の遺体が大阪府河内長野市加賀田川の砂防ダム付近で見つかった。遺体は下着姿で、豊中市の無職・M子さん(25歳)と判明。
M子さんは2月19日から行方がわからなくなっていた。
同年8月5日、同府堺市の人材派遣会社員の前上博(当時36歳)が殺人・死体遺棄の容疑で逮捕された。
M子さんとはある自殺サイトで知り合い、2004年12月から20回近くメールのやりとりをしていたのだという。
そして「練炭で自殺しよう」とM子さんを誘い、2月19日夜に合流。
その際、証拠隠滅のためM子さんにやりとりしていたメールを削除するように求めていた。
レンタカーのライトバンの後部座席でM子さんの手足を縛ったうえで、シンナーを嗅がせたり、鼻と口を手で押さえて数回にわたって苦しませた末、殺害した。
「男でも女でも、口をふさいで苦しむ姿に性的興奮を覚えた。
苦しむ顔が見たかった。
自分は自殺するつもりはなかった」
自宅からは、女性を縛った上で口や鼻を圧迫して窒息させる映像が映った市販のわいせつビデオが多数押収された
前上はさらに「自殺サイトで知り合い、5月中旬に中学生、6月上旬に若い男性も殺した」と供述。
「大阪府南部の和歌山県境付近の2ヶ所で崖から落とした」と話した
6日夕、和歌山県との境に近い和泉市の山中で捜索が行われ、神戸市北区の中学3年・X君(14歳)の遺体が発見された。
X君は5月21日に家出、行方がわからなくなっていた。
同月4日にも置手紙を残して家出をしており、岡山県内で保護されていた。
2度目の家出の直前には、「自殺サイトで知り合った大阪の男性と会うことになっている」と携帯メールを友人に送信している。
7日午前には河内長野市加賀田の林道斜面で、近畿大3年の男子学生・Yさん(21歳)の白骨化した遺体が発見される。
Yさんは三重県出身で、東大阪市で1人暮らしをしていたが、6月初め頃にアパートから姿を消して、家族から捜索願が出されていた。
X君とYさんとはやはり同じ自殺サイトで知り合ったのだという。
X君は手足を縛られながらも抵抗し、命乞いをしたが、失神と覚醒を繰り返させて殺害した。
すべての犯行を自供し終えると、前上はこう語った。
「もう、すべて終わらせたい。
自分で自分の欲望を止められないのなら、死刑になって、幕引きしたかった」
【あの小説の挿絵のように】
前上は1968年生まれ。4人家族の長男で、父親は元警察官。
大阪府堺市の高校から石川県の金沢工業大学に進んだ(1年で中退)。
性格はおとなしく、近所の人は「目立たなかった」と口をそろえる。
大学生のころ「眠れない」と病院に通ったことがあるという。
地元に戻った前上はタクシー運転手などの職を転々とし、人材派遣会社に就職。
04年5月からはカメラ製造会社に派遣されていた。
ここでの評価も「おとなしい」「真面目」といったものだった。
前上が異常な性癖に目覚めたのは幼稚園の頃である。
郵便局員のかぶった白いヘルメットに性的興奮を覚えた。
(このことは法廷では話さず、面会した東海女子大教授・長谷川博一氏に語った)
前上は中学生の頃、推理小説の挿絵に子供が口を押さえられる様子が描かれているのを見て興奮した。
やがてそうした絵を見て自慰するようになった。
以後、高校を卒業するまでに、薬品を染み込ませたガーゼで近所の児童らの口を押さえ、窒息させるという犯行を何度も繰り返した。
さらに2001年3月から6月にかけて、堺市の路上で通りがかりの女性ら2人にベンジンを染み込ませたタオルを押し当てるという事件を起こし、懲役1年執行猶予3年の有罪判決を受ける。
翌年の4月にも男子中学生の口をふさぐなどして、傷害・暴行罪で懲役10か月の実刑判決を受けた。
警察官だった父親は退職金を慰謝料に充てた。
前上は窒息の表情だけでなく、白いソックスにも異常な執着を示した。
中学生の時、教育実習生がはいていた白いスクールソックスに興奮したのが目覚めだという。
郵便局で働いていた頃(1995年)、白ソックスを履いていた同僚男性に劣情を催し、スタンガンで襲って逮捕された。
この事件では起訴猶予となる。
元警官の父親が一千万円近い示談金を払っていた。
白ソックスについては後に殺害した3人の男女にも履かせていた。
性の対象は高齢者でなければ、男女どちらでも良かったという。
前上は2001年頃から自身のホームページを開設。
主人公が人を窒息死させるという内容の自作の小説を掲載する。
それは偽装工作をして迷宮入りにするものだった。
自身をブログで「窒息王」と名乗っていた。
「直美はうめき声を上げながら、必死に首を左右にふろうとして抵抗する。
その苦しんでいる姿を眼に焼き付けながら、俺は満足感に浸っていた」
(小説より)
前上は任意聴取の時は否定していたが、復元されたこのサイトをつきつけられると他の2人の殺害を認めたという。
前上は自宅向かいの白いプレハブ小屋で生活をしていた。
ここには大量のビデオテープを保管されており、「観賞部屋」にしていた。
事件発覚直後、「遺体をカメラなどで撮影し、観賞するため画像を保存していた」との供述通り、パソコンには被害者が苦しむ様子を記録した画像や音声が「実行記録」として保存されていた。
なお、Yさんを殺害した後もネットカフェで4人目の標的を探して、自殺サイトで知り合った数人とメール交換していた。
【私の分析を】
2006年3月、精神鑑定開始。
同年12月22日、大阪地裁・水島和男裁判長は、事件当時の前上の責任能力について認めた慶応大医学部の作田勉専任講師(司法精神医学)作成の精神鑑定書を証拠採用した。
鑑定書では「性的サディズムや(特定の物にこだわる)フェティシズム、人格障害の混合状態での犯行だった」と指摘、
出廷した作田講師は、「性的衝動による犯行で、行動制御能力はあった」と述べた。
2007年2月20日、検察側は「犯罪史上例をみない凶悪非道な犯行で、極刑がやむを得ないのは火を見るより明らか」と死刑を求刑。
同年3月28日、大阪地裁・水島和男裁判長は
「犯行は冷酷で残虐非道。
わずか4か月間に3人を殺害するなど結果はあまりに重大。
特異な性癖は根深く、改善の可能性は乏しい」
として、求刑通り死刑を言い渡した。
同年7月5日、前上は控訴を取り下げ。
死刑が確定した。
同日、前上と接見を続けていた東海学院大教授(臨床心理学)・長谷川博一氏が記者会見し、
「被告から『私を分析して社会に役立てて』と言われた。
犯罪を防ぐため、経験を世に伝えるべきだとも考えているようだ」
と話した。
また長谷川教授に託された手紙は「私の犯した罪は死をもって償うしかない」などと書き、年内の執行を求めていた。
そして2009年7月28日、大阪拘置所において、前上の死刑が執行された。享年40。■快楽殺人
転載元 犯罪心理学の基礎知識
殺人犯の中に、殺人行為そのものに快楽を覚えるタイプがあります。
いわゆる「快楽殺人」と呼ばれるものです。
快楽殺人の根本にあるのは、性的快楽です。
私たちが性的快楽を見出すのは主に性行為ですが、快楽殺人犯は、殺人に性的快楽を見出し、死体を見ながら自慰行為を行うことがあります。
ですから、性嗜好そのものに異常性があるのです。
このような傾向が現れる理由は、幼少期の体験によるところが大きいようです。
まず、秩序型の殺人犯は、幼少期に親からの愛情に恵まれない傾向があります。
そこから性的な空想に歪みが生じ、「性=サディスティックな行為を伴うもの」という認識が固定化していくのです。
こうして、人を虐待することに性的快楽を覚えるようになり、快楽を求めるがあまり、殺人に手を染めていきます。
ですから、私たちが愛のある性行為に満足するように、殺人行為に満足するので、反省することは不可能です。
一方、無秩序型殺人犯も、秩序型同様に、幼い頃の虐待経験を持つ傾向にありますが、無秩序型の場合は自己統制能力に乏しく、社会にも適応できません。
ですから、孤独のうちに殺人の妄想ばかりが広がり、衝動的に殺人行為に手を染めます。
秩序型とは、思春期以降の社会での動向に決定的な違いが生じているのです。
しかし、いずれにしても「殺人が究極の快楽である」がために殺人への欲望を抑えきれず、次々に人殺しをしてしまいます。
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佐世保高1殺害/なぜ少女は凶行に走ったのか
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解離性障害の悲劇
転載元 庚寅夜話
■解離性障害と霊感
解離性障害は多重人格や健忘、離人症などに代表される精神障害です。
◆多重人格(解離性同一性障害)
まったく別の人格が交代して現れる現象です。
別の人格がしたことを本人(本来の人格)が覚えていないこともよくあります。
◆健忘(解離性健忘)
何か衝撃的なことが起きると、その前後の記憶がなくなってしまうことがあります。
また、日常的に「知らないうちに違うところにいる」、「買った記憶のない物を持っている」などの症状を起こす人もいます。
◆離人症(解離性離人性障害)
自分が離れたところから自分自身を見ているような感覚を持つ現象です。
たとえば後ろから自分自身の行為を見ているようなこともあります。
◆その他の症状
解離性障害では、その他にも多様な症状を現すことがあります。
これらは霊的な現象と非常によく似た症状を示しているように思えます。
●気配過敏症
たとえば、カーテンの向こうに誰かいるような気がしたり、部屋の隅に人影があって、それがすっといなくなったり、漠然と何処からか見られているような気がしたりします。
●幻視
実際にはいないはずの人を見たり、霊のようなものを見たりします。
また、隣の部屋ことも見えるように分かったりもします。
●幻聴
いないはず人が話しかけてきたり、おしゃべりをしたりします。
頭の中から声がして対話するようです。
●体外離脱
自分の意識を飛ばしてしまうことができる人がいたりします。
自分の体を斜め後ろ上方から見下ろしていたりします。
また、突然気絶した自分自身を上方から見ていたり、そのまま場所を移動して戻ってきたりします。いわゆる幽体離脱です。
●遁走
突然、家庭や職場からいなくなり放浪したりすることがあります。
この時、記憶をなくしていたりすることもあります。
また、本人が混乱していて、別の自分を装うこともあるようです。
◆解離性障害の原因
解離性障害は、幼児期の性的外傷、虐待、育児放棄などによって起きることが多いとされています。
つまり、安心して居られる場所がなかったケースです。
家族内では、両親の不仲や離婚、親からの虐待、母親との一時的な分離体験、親のアルコール症などが原因になるようです。
家族外では、学校での持続的ないじめや交通事故なども原因になります。
また、幼少時からおとなしく自己主張をしない子、自分を抑えて聞き分けがいい子が解離性障害を発症することも多いようです。
●霊感
霊感の強い人や霊能者の経験する現象は解離性障害の症状と良く似ています。
●霊の気配
自称霊感の強い人などは、霊の気配が分かるなどと主張します。
そこに霊が居るとか、そこが霊の通り道だとか、今、霊が通ったとか言うことがあります。
これは解離性障害の気配過敏症の一種であるとも理解できます。
●憑依
宗教関係では、神が降りてきて様々な託宣などを述べることもあるかもしれません。
あるいは、最近は少なくなってきているかもしれませんが、江戸時代以降、高度成長が始まる比較的最近まで「狐つき」はよくある現象だったようです。
これらも解離性障害の人格交代(多重人格)の一種と考えることもできそうです。
●幽体離脱
超常現象として、あるいは臨死体験として幽体離脱が報告されることがあります。
寝ている自分の姿を上方から見ていた、また、窓から外へ出て空中を移動して行ったことのない場所の風景を見てきたなどの経験が語られることがあります。
解離性障害の患者も同じような体験を語ることがあるようです。
中には日常的に自分の意識を飛ばして叱れている自分を上方から眺めていたというような事例もあるようです。
●霊視
霊能者と呼ばれる人たちは、守護霊を見ることができると主張したりします。
あるいは、あなたには悪い霊が憑いているとして、お祓いのようなことをする宗教家がいたりします。
これらの霊能者に、本当に霊が見えるのかどうか分かりませんが、解離性障害でも幻視の現象があります。
幼い子供が、架空の存在である友達と会話したり遊んだりすることもあるようです。
また、霊を見たことがあると訴える解離性障害の患者もいるようです。
●霊能者
世の中には多くの「霊能者」がいるとは思いますが、伝記などで、その生い立ちなどを含めて詳細に報告されている人は案外少ないのですが、実例として「宜保愛子」と「出口なお」の2人を紹介したいと思います。
◆宜保愛子(1932-2003)
宜保愛子は80年代から90年代にテレビに出演するなどして活躍した霊能力者です。
その人の守護霊を見て霊視したり、心霊スポットに出向いてそこに居る霊を見たりする霊能力者のスタイルを確立した人だと思います。
宜保愛子は、オカルト的なおどろおどろしさや宗教家にありがちな高圧的な感じのない普通のやさしい主婦といった物腰で、本物ではないかと思わせる雰囲気を持った人でした。
宜保愛子は2003年に胃がんのため亡くなっています。71歳でした。
宜保愛子は1932年(昭和7年)に神奈川県で生まれています。
本人の証言によると
「父は大変がんこな人で、何か言うと、母や私達をどなっていました。」
とあります。
母や子供たちは父親に怯えながら暮らしていたのかもしれません。
宜保愛子には9歳年上の兄と2歳年下の弟がいましたが、兄は昭和19年に戦死、弟は昭和20年に交通事故で死亡しています。
他に姉と妹がいるようです。
宜保愛子は3歳の時、弟の持っていた火箸が左目に落ちて失明しています。
しかし、この視力の少なくなった左目で霊の姿を見ることができるようになったそうです。
宜保愛子が霊能力を自覚し始めたのは小学校1年生のころだったそうです。
例えば、亡くなったはずの級友の声が聞こえたり、そのゲタの声が聞こえたりするような幻聴を経験しています。
また、入水自殺のポチャンという音が聞こえ、川へ行くと水死体を発見することがよくあったそうです。
そして、その死者が家族への伝言を頼んできたこともあるそうです。
その他に、事件を予知することもあったようです。
近所の火事や心中事件を予言しています。
「ある家を見て『この家はいつか燃えちゃうんだ』と思い、数日後、現実にその家が火事になった。」
「『お父さん、あのおばちゃん、もうじきおじちゃんと一緒に死んじゃうよ。』と言ったら、一ヶ月もたたないうちに二人は心中した。」
宜保愛子は普段は無口で自閉症気味の子供だったようですが、小学校5年生の時に見過ごせない級友の不正行為を必死の思いで告発した事件をきっかけに自閉的な学校生活にピリオドを打ち、性格も明るくなったようです。
この時は、普段しゃべらない子が発言したので、まわりに驚かれたそうです。
宜保愛子は、13歳のころ夢に現れる弟によって死後の世界を知ったそうです。
宜保愛子は、21歳の時に病気で死にかけてから霊能力がなくなったそうです。
その後、結婚し長女・長男・次男の3人の子供を産んでいます。
そして、この3人の子供を育てていて、一番下の子が幼稚園に入園したころに霊能力が復活したそうです。
宜保愛子によると守護霊は次のよう見えるそうです。
霊は相談者の右また左の肩のやや後ろ立ちます。
普通の人と大きさは変わりませんが、やや薄めに見えます。
霊はその人をじっと見つめているのが常です。その表情を見て、幸か不幸かわかります。
海で事故を起こす恐れのある人は、霊のそばに青々とした海が広がり、その絵が広がったと同時に、霊の表情が急に暗くなり、首を振って教えてくれます。
仕事などがうまくいく方法を教えるときは、具体的に数字などを目の前に浮かべてくれます。質問には、うなずいたりして教えてくれます。
なお、霊視をすると大変疲れるそうです。
宜保愛子は、幽体離脱は大人になってから数回経験したことがあると言っています。
それは、寝ている間の夢を見るような体験ですが、目が覚めた後の体はへとへとに疲れており、翌日の仕事に支障をもたらすほどだったそうです。
また、後で、幽体離脱で訪れた場所へ行ってみると、幽体離脱で見たとおりだったそうです。
◆出口なお(1837-1918)
出口なおは大本教(おおもときょう)の開祖です。
大本教は出口なおの娘婿の出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)によって全国的な有力教団へと発展しましたが、戦前に政府による弾圧によって壊滅状態になりました。
なお、大本教は正式には宗教法人「大本」といい、戦後に復興され現在も活動しています。
出口なお(旧姓は桐村)は天保7年12月16日(1837年1月22日)に福知山で誕生しました。
父親は、藩の御用を努め名字帯刀を許されていたという有力な大工の家系を継ぎましたが、出口なおが生まれたころには家は没落し、かなり困窮していたようです。
父親は放蕩者だったようです。
家族は祖母、両親、兄、妹の5人でした。
父親は出口なおが9歳の時に亡くなっています。
そのため、生活はますます困窮したようです。
出口なおは10歳の時に奉公に出ています。
孝行娘として評判だったらしく12歳の時に藩主から表彰されています。
その後、16歳になって奉公をやめて自宅に戻っています。
出口なおは、6、7歳のころから日常的なささいな予言をして的中していたそうです。
また、奉公していたころ、3日くらい姿を隠し、夕方にぼんやり帰ってきたことがあったようです。
事情を聞かれると、山の中で修行してきたと答えたそうです。
17歳になった出口なおは綾部に住む叔母の出口ゆりの養女となります。
しかし、半年後に実家に戻っています。
その後、養母の出口ゆりが井戸に身を投げて亡くなりますが、その翌年に出口なおは出口家へ戻り、大工職人の政五郎と結婚します。
夫の政五郎は、仕事に熱心ではなく、酒を飲み歩くような人だったそうです。
そのため、出口家は傾き、次第に困窮していったようです。
結婚した出口なおは日々の生活に苦労しながらも3男5女を産み育てています。
夫の政五郎は明治20年(1887)に病死しています。
明治25年(1892)、57歳の出口なおに帰神(憑依)がおこり始めます。
艮の金神(うしとらのこんじん)という神が降りて来ました。
無学な出口なおですが、神がかりになり独特の書体のひらがなで「お筆先」と呼ばれる文書を書き始めます。
その文書の内容は「大本出現の由来と使命、神と人の関係、日本民族の使命、人類への予言・警告」などだったそうです。
そして、出口なおが祈願すると病気が治ったため信者が出始めてきます。
さらに、日清戦争を予言したので評判が高まります。
その後、出口なおの教えは、宗教として整備され大本教として発展していきます。
大本教の開祖となった出口なおは、大正7年(1918)に81歳で亡くなっています。
大本教を宗教として確立して行ったのは、出口なおの5女の婿養子となった出口王仁三郎です。
王仁三郎によって大本教は全国レベルの教団に発展しますが、その王仁三郎の言動などに危険性を感じた政府によって徹底的に弾圧され、大本教は壊滅状態になります。
●第一次大本事件 大正10年(1921)
不敬罪、新聞紙法違反で出口王仁三郎が検挙され懲役5年の判決が出されますが、大正天皇の崩御の恩赦で免訴となっています。
この時には、神殿は取りこわしにあい、開祖の出口なおの墓も壊され縮小改築されています。
●第二次大本事件 昭和10年(1935)
この時は幹部が一斉に逮捕され、当局は組織の解散、建造物の強制破却を決めました。
聖地はダイナマイトやハンマーで徹底的に破壊され 開祖の墓も壊され共同墓地の片隅に移されています。
聖地は鉄条網が張りめぐらされ立ち入り禁止になりました。
出口王仁三郎らは治安維持法違反、不敬罪、出版法違反、新聞紙法違反で起訴され、第1審では王仁三郎は無期懲役、他の幹部は懲役2年~15年の判決が出されました。
しかし、最終的には終戦をむかえて大赦令が出されて青天白日の身となっています。
■解離性障害と犯罪
◆解離性障害の事件
解離性障害については、一般の人の理解が進んでいるとは言いがたい状況にあると思います。
そうした状況下で、犯人が解離性障害を発症していると思われる殺人事件も多く発生しています。
・宮崎勤 連続幼女誘拐殺人事件(1988年)
・酒鬼薔薇聖斗 神戸連続児童殺傷事件(1997年)
・11歳女児 佐世保同級生殺害事件(2004年)
・畠山鈴香 秋田連続児童殺害事件(2006年)
・三橋歌織 夫バラバラ殺人事件(2007年)
・武藤勇貴 渋谷区短大生死体切断事件(2007年)
これらの事件の捜査にあたる警察官や検察官は、犯人が解離性障害だと思っていませんから、犯人に事件当時のことを思い出させ、ストーリーを組み立てます。
しかし、犯人が多重人格や健忘の場合、事件前後については覚えてないことがあります。
そのため、検察が無理やりにストーリーを組み立て、供述書を作っても裁判で綻びが露わになってしまいます。
また、解離性障害の人の場合、思いついたことを実行に移す傾向があり、時として脈絡のない不合理な行動を取ることもあります。
これについても検察が一般常識に従い筋書きを作ると、後々裁判で破綻することがあります。おそらく、解離性障害の人は目的もなく、思いついた事を実行しています。
そうした解離性障害の事例を各事件を通して見てみたいと思います。
◆宮崎勤(26) 連続幼女誘拐殺人事件(1988年)
宮崎勤は1962年8月21日に五日市町(現あきるの市)で生まれています。
父親は印刷業で地元新聞を発行する名士です。両親は不仲だったようで、家族はバラバラで解離状態だったとも言われています。
宮崎勤には手の障害があり、手のひらを上に向ける動作ができなかったようです。
両親は彼には冷たかったようですが、祖父には可愛がられて育ったようです。
なお、宮崎勤は小さいころから「はっと気づくと別の場所にいる」という解離性障害を思わせる体験をしているようです。
高校は都内の名門である明大中野高校に通っていました。
高校卒業後は東京工芸大学短期大学部画像技術科に入学。
短大を卒業した後は小平市の印刷会社に勤務しましたが、仕事ぶりは熱心ではなく、転勤命令が出た機会に退職したようです。
退職後は家業を手伝うこともあったようですが、ほとんど引きこもり生活だったようです。
88年5月、宮崎勤の良き理解者であった祖父が死亡します。
この時のことについて宮崎勤は次のように語っています。
「おじいさんが見えなくなっただけで、姿を隠しているんだと強く思った。」
「本当の両親は別のところにいるんだと、ぴーんとわかった。」
そして、このころから宮崎勤は異常行動や精神病理的現象を示し始めます。
12月8日には、父親の髪の毛を掴んで車のドアに何回か頭を打ち当てました。
このため父親は病院に入院し手術しています。
宮崎勤は祖父の死後の数ヶ月で、立て続けに幼女を誘拐し殺害しています。
●88年8月22日、今野真理ちゃん(4歳、入間市)が行方不明。
宮崎勤は山林に連れ込み絞殺。
殺害現場をビデオで撮影しています。
●88年10月3日、吉沢正美ちゃん(7歳、飯能市)が行方不明。
宮崎勤は山林に連れ込み絞殺。
●88年12月9日、難波絵梨香ちゃん(4歳、川越市)が行方不明。
12月15日に雑木林で全裸の状態で発見されました。
●88年12月20日、難波絵梨香ちゃんの父親宛に葉書が届きます。
そこには「絵梨香」、「かぜ」、「せき」、「のど」、「楽」、「死」という文字が貼られていました。
●89年2月6日、今野真理ちゃんの自宅玄関前に遺骨の入ったダンボールが置かれていました。
そこにはワープロで「真理」、「遺骨」、「焼」、「証明」、「鑑定」と打たれた紙とピンク色のショートパンツの写ったインスタント写真が入っていました。
しかし、この遺骨の歯についての鑑定では、真理ちゃんとは別人の物とする結果が出されました。
89年2月11日、朝日新聞に「今田勇子」からの犯行声明が届きました。
そこには真理ちゃんの眠ったような写真も添付されていました。
遺骨の鑑定結果に反論するために出された犯行声明です。
89年3月11日、朝日新聞と今野真理ちゃん宅に「今田勇子」の告白文が届きました。
この日は今野真理ちゃんの告別式の日でした。
89年6月6日、野本綾子ちゃん(5歳、江東区)が行方不明。
6月11日に飯能市の宮沢湖霊園の公衆トイレで野本綾子ちゃん遺体が発見されました。
首、両手、両足が切り取られた状態でした。
89年7月23日、八王子市で6歳の女児を脱がして写真を撮ろうとしていた宮崎勤が、追ってきた父親に捕まりました。
宮崎勤の精神鑑定は2回行われています。
1回目の精神鑑定では、「精神分裂病を含む精神病状態になく、人格障害の範囲にあった」とされました。
2回目の精神鑑定では意見が分かれ、「多重人格障害」と「精神分裂病状態」の2つの結果が提出されています。
宮崎勤には、多様な解離性障害の症状が出ています。
宮崎勤は店で一度に50~60本のビデオテープを万引きしていますが、この時のことを次のよう語っています。
・体外離脱
「もう一人の自分がのそりのそりと万引きしているのを、本人がどっきんどっきんしながら後ろから見ていた。
この時には、懐かしいスリルを感じていた。」
・健忘
「どこで入手したか分からないビデオテープが大量に車のトランクにあった。」
「値札の付いたテープが知らないうちに自分の部屋にずらりと並んでいた。」
・瞬間移動
自分がはっと気づいた時に別の場所にいる。
・祖父の幻視
どんな姿をして出て来るの?
「普段着、余所(よそ)行き、寝巻姿など、いろいろ。
おじいさんが 決めている。」
大きさはどのくらい?
「小ぢんまりしている。9割くらい。
だから不思議なの。」
・幼女について
「出会った子は私と同じ意思、考え方を持っているから、私と違う考え方をしない。
いつも私に味方する親切な脇役。
そばに居るんだけと居ないみたい。」
・ネズミ人間
宮崎勤は、幼女が泣き出すとネズミ人間が出てくると言っています。
犯行時のことは、本人は覚えていないようです。
犯行はネズミ人間がやったということらしいのです。
「長い髭を生やした顔は大人より大きく、身長もヌーッとして大人より大きい。
手と足は人間と同じだが灰色をしている。
何も喋ることなしにいきなり襲ってくる。
10人くらいで取り囲むように出てくる。
呼び出せる子供が呼び出すと、どこからともなく出てきて襲ってくる。」
・死体のビデオ撮影
「昨日おかしな夢をみたけど、夢かな、本当かな、もし本当で生き返っていなかったら肉物体(死体)がそこにあるわけだから・・・・・・。
肉物体を映像にするという考えが出て、新しい自分(分身)が動き出した。
もう一人の自分(分身)は、のそりのそりというか、淡々とやっている。
あれだけ冷静にやれるから不思議だなあ・・・・・・と。
もう一人の自分(分身)が執着心を持っている。いつも、後ろ姿、たまに斜めとか横の姿が見える。」
・祖父に捧げる
宮崎勤は祖父に捧げる奇妙な儀式を行っています。
分身は祖父の物置にあった藁を出す。
それで50センチ大の藁人形を作る。
自分の部屋に戻って、遺体を撮影したビデオを本棚に立てて供えた。
藁人形の周りに円形のロープを置く。
宮崎勤の格好といえば、頭にロウソクを2本立てて鉢巻をし、火をつけ、体を前後に振りながら1、2分間、ロープの周囲を回った。
「テープをおじいさんに送って甦らせる」ための儀式だったという。」
・犯行声明文(今田勇子)
今田勇子からの犯行声明文について、宮崎勤本人は「あんなめんどっちいことしない」と否定しています。
宮崎勤の書いた上申書の文字は丸っこい字ですが、今田勇子の犯行声明文の文字はわざと角張った字で書いてあります。
しかも、かなり長文です。
捜査本部が専門家に依頼して、この声明文の分析を行っています。
性別:7対3で男、年齢:40歳前後、という結果になっていました。
宮崎勤の別人格は見事に世間を騙せました。
・M鑑定人に対する鑑定拒否文
精神鑑定のM鑑定人に対して、宮崎勤は鑑定拒否文を書いています。
ただし、後日、本人はこれを書いたことを覚えていないようです。
普段の宮崎勤からはうかがえない冷静で鋭い文章を書いています。
《あなたは<姿が一人>というのと<孤立している>というのとの意味の違いさえ知らない人間だ。
あなたは何でも、姿が一人である人を見ると「その人は自分で、孤立していると思っているはずだ」としか思うことの出来ない哀れな、いや恐ろしく決めつけの強い人間だ。
<姿が一人>というのと<孤立している>というのとの違いさえ知らぬ者が今まで医者でやってきただってえ!?
少しは恥を知った方がいい。
そんなんで人を診られるわけがない。
鑑定の手伝いなどと決まったそうだが、自分から辞退される位の姿勢は見たいものだ。
今まで何人も診てきたと聞くが、今まで「何人ひとを決めつけてきたか」を数えてみるがいい。
私はあなたを断る。》
・接見弁護士の印象
弁護士は宮崎勤について不可解、不思議な人物であるという印象を受けたと述べています。
1.とても無表情であったこと、機械的というか、冷たい印象を受けたこと。
2.悪いことをしたという意識がないということ。とりわけ、極刑になるという認識は持っていないように思った。
3.事実についてぽつぽつ語るが、話し方に主語がないこと。単語が短いこと、用語がわかりづらいところがある。事実関係については、人ごとのように話す。
4.祖父との関係などについて独特の世界、考え方があるという強い疑いを持った。
5.ビデオとの関係についても同様に独特の考え、あるいは世界があるという強い疑いを持った。
・多重人格
内沼幸雄鑑定人(帝京大学教授)によると、宮崎勤の内面には、次の4人の人格がいるようです。
A:幼稚な部分と哲学的部分が混在した被告本人
B:衝動的殺人者である子供
C:冷静な人物
D:犯行声明を書いた「今田勇子」
・裁判中の宮崎勤
宮崎勤は自分の裁判中も他人事のように過ごしています。
裁判長から「あらためて言いたいことがありますか」と尋ねられて、
「私の車とビデオテープなんですけど、全部返してほしい。
免許のことも気になるので免許証を返してほしい。
車に油をくれないと乗れなくなるので、車に油をやってほしい。」と答えています。
裁判中は無関心なようすで着席するとすぐペンを執って「絵描き」に熱中します。
そして、裁判長に質問されると
「あっ、聞いてなかった」
「ずっと何か書いてたでしょう」
「あっ、絵かいてたから」
と答えています。
拘置所への差し入れの書籍、雑誌には「ドラゴンクエスト」や「ゴジラ対キングギドラ」の他に「逸脱の精神史」とか「刑事弁護」といった本もありました。
普段の宮崎勤が読みそうな本ではありません。
最高裁で死刑が確定した後も
「何かの間違い」
「無罪になる」
「私が残忍だと勘違いされた」
と淡々と答えています。
06年1月17日、死刑が確定。
08年6月17日、宮崎勤の死刑が執行されました。
◆女児(11) 佐世保同級生殺害事件(2004年)
女児は1992年11月21日生まれのようです。
共働きの両親と祖母、高校生の姉の5人暮らしでした。
父親は教育熱心であり、家にはパソコンが数台あったそうです。
女児は幼少期から泣いたり甘えたりすることが少なく手のかからない子として育てられたようです。
女児が2歳のころ父親が長期間入院したため、母親も父親の面倒や仕事で忙しく女児の面倒を見られなかったようです。
女児は小学校4年生の時に地元のミニバスケットボールのチームに入っていましたが、学校の成績が下がったため、親に勉強がおろそかになるなら辞めなさいと言われ、6年になる直前に辞めています。
そして、女児は6年生になってから中学受験のため塾に週3回通い始めています。
両親や周りの人たちの女児に対する印象は「おとなしく明るい子」、「イエス、ノーをはっきり言えない」というものでした。
学校の調査によると女児の印象として、「まじめ」、「努力家」などの証言が多く、学習や係活動等において地道に頑張っていたことがうかがえます。
しかし、同級生たちによると
「すぐ怒る。短気。」、
「からかわれると、相手が男子でも殴ったりけったりしてくることがあった。」
ということでした。
女児は「バトルロワイヤル」のようなホラーや殺人場面が出てくる小説をよく読んでいたようです。
そして、「バトルロワイヤル」をまねた自作小説も自分のHP(ホームページ)に載せています。おそらく、空想好きな一面があったのです。
また、事件の少し前に、自分のHPに次のような書き込みをしています。
不平不満がたまっていたことがうかがえます。
《うぜークラス
つーか私のいるクラスうざったてー。
エロい事考えてご飯に鼻血垂らすわ、
下品な愚民や
失礼でマナーを守っていない奴や
喧嘩売ってきて買ったら「ごめん」とか言って謝るヘタレや
高慢でジコマンなデブスや
カマトト女しったか男、
ごく一部は良いコなんだけど大半が汚れすぎ。
寝言言ってんのか?って感じ。
顔洗えよ。》
女児と同級生である被害者の御手洗怜美さんは、
「交換日記を行うほどの交友関係にあった。
担任の手伝い等は必ず2人で行い、2人とも絵をかくこと、パソコンをすることなど、共通の点が多かった。」
ようです。
仲は良かったが親友同士というまではいかなかったという付き合いだったそうです。
04年6月1日、女児は仲の良かった御手洗怜美さんをカッターナイフで首の右側を深く切りつけ殺害しました。
この時のことを、女児は県警に次のように話したようです。
給食が始まる午後0時20分ごろ、「ちょっとおいで」と言って怜美さんを学習ルームに誘った。
部屋に入ると、まず外から見えないように2人でカーテンを閉めた。
そのあと、タオルのようなもので被害者に目隠ししようとした。
でも、嫌がられたので椅子に座らせ、後ろから手で目隠しして切った。
女児は動機について次のように言っています。
5月末ごろ、怜美さんのHP(ホームページ)に自分のことを「ぶりっこ」「いいこぶっている」などと書き込まれた。
やめてほしいとHP上で伝えたが、同じようなことを再び書かれ、この世からいなくなれと思った。
また、書き込みの数日前、女児は怜美さんを含む複数の友達とおんぶし合って遊んだ際、
「重い、重い」とふざけ合ったことを、
「自分の体重を言われたと思った。気にしていた。」とも話しています。
なお、女児は小柄で太ってなどいなかったようです。
●精神鑑定(要約)
女児は幼少期から泣いたり甘えたりすることがなく、一人で遊んだりテレビを見たりして過ごすことが多かった。
両親はそれを「育てやすい」と誤解した。
そのため、女児は自分の欲求や感情を受け止めてくれる人がいるという基本的な安心感や他人への愛情が希薄になった。
両親の情緒的働きかけが十分でなく、女児には自分の感情を受け止めてくれる他者がいるという安心感が希薄である。
安心感や愛着を基盤とする対人関係や社会性、共感性の発達も未熟である。
また、女児は情緒的な分化が進んでおらず、情動に乏しい。
女児は愉快な感情は認知し、表現できるものの、その他の感情の認知・表現は困難で、とりわけ怒り、寂しさ、悲しさといった不快感情は未分化で適切に処理されないまま抑圧されていた。
女児は怒りを回避するときに空想に逃避する傾向や、強い怒りを急激に感じたときの行動を問われても記憶を想起できない場合があることなどからすると、時には短時間、女児の処理できない強い怒りの反応として生じる解離状態となって攻撃衝動の抑制も困難となるものと推測される。
以上に述べた女児の特性などは、いずれも重篤ではなく、何らかの障害と診断される程度には至らない。
女児は自らの行為を振り返り、内省する時間と機会を十分持った。
その中で女児なりに努力する様子を見せたものの、現在も被害者の命を奪ったことの重大性や、その家族の悲しみを実感できないでいる。
女児が贖罪の意識を持ちがたい背景には、殺害行為に着手した直後に解離状態に陥ったことで、自分の行為に現実感がなく、実行行為の大半の記憶が欠損していること、処理しかねる強い情動には目を向けないようにして抑圧する対処が習慣化していることなども指摘されよう。
(筆者にて要約)
長崎家裁佐世保支部において審判が行われ、04年9月、女児は児童福祉法に基づく児童自立支援施設の国立きぬ川学院に移送されました。刑事責任が問われない14歳未満としては最も厳しい処分でした。
ミニバスケットボール部を辞めさせられたことで、熱中できる居場所をなくし、さらに塾に通わされたことでストレスが溜まっていたのかもしれません。
そして親しかった友人(被害者)とのネット上のトラブルが起きたことで、被害者への怒りを爆発させ、事件へのきっかけとなったようです。
加害者女児は事件の時に解離状態に陥ったようですが、自分の起こした結果の衝撃のせいだったのかもしれません。
なお、事件以前の女児については空想的な傾向はあったようですが、解離的な症状は報告されていないようです。
◆畠山鈴香(33) 秋田連続児童殺害事件(2006年)
畠山鈴香は1973年2月2日に能代市で生まれています。
父親は砂利運搬会社を経営、社会的には成功者です。
彼女には4歳下の弟がいました。
父親は母親の失敗をののしり殴るような人だったようです。
その暴力は幼い畠山鈴香にも及び、彼女は不安な幼少期を過ごしたようです。
この父親の暴力は彼女が高校を卒業して実家を離れるまで、次第にエスカレートしながら続いていました。
小1のころ、畠山鈴香は、担任教師の発言のせいで「心霊写真」と呼ばれていじめられていたようです。
小4のころには、学校では給食が食べられず、厳しい教師から無理やり食べさせられていました。
時間が来ると両手に給食の残りを載せて全部食べるよう強制させられています。
そして、服や机を汚すため「ばい菌」というあだ名をつけられ、いじめられていました。
また、いつごろかは不明ですが、学校から情緒不安定を理由に修学旅行への不参加を打診されたこともあったようです。
91年、高校を卒業すると栃木県の温泉に就職しています。
暴力を振るう父親から離れたかったようです。
最初は仲居をしていましたが、後に収入の良いコンパニオンになっています。
しかし、間もなく父に連れ戻され実家に帰っています。
秋田に戻ってからはウェイトレスやホステスなどをしていたようです。
94年、畠山鈴香は前夫と駆け落ちし、栃木に戻りコンパニオンをしていました。
その後、まもなく前夫と実家に戻り結婚しています。
97年、畠山鈴香は夫の浮気や借金などのため、離婚しています。
そして、町営住宅に住みながら実家と行き来して生活していました。
そして、このころ借金のため自己破産処理をしています。
03年、体調不良などを理由に精神科に通院。
04年、卵巣腫瘍の手術。
ヘルパー2級の資格を取得。
05年、睡眠薬で自殺未遂。
体の不調などが理由だったようです。
05年9月、父親が倒れ、畠山鈴香がその介護をせざるをえなくなりました。
06年4月10日、畠山鈴香の娘の彩香さん(9歳)が水死体となって自宅から10キロ離れた川で発見されました。
このとき、警察は当初は事故死と判断しています。
06年5月17日、畠山鈴香の近所に住み、彩香さんと遊び友達だった米山豪憲くん(7歳)が行方不明となり、翌日に同じ川で遺体となって発見されました。
06年6月4日、畠山鈴香は、豪憲くん殺害容疑で逮捕され、その後、彩香さん殺害容疑でも逮捕、起訴されています。
畠山鈴香は娘の彩香さんが橋から落ちた時のことについては、よく覚えていないようです。
そのため、精神鑑定では解離性健忘が認定されています。
彩香さんの事件について警察が事故死と発表すると、畠山鈴香は納得できず警察に再捜査を依頼し、情報を求めるビラを作成し配っています。
さらに、「TVのちから」という番組に犯人を見つけてほしいと依頼しています。
畠山鈴香には本当に記憶がなかったからだと思われます。
もし自分が犯人なら事件ではなく事故死とされた方が良かったはずです。
畠山鈴香の生活態度は、あまり褒められたものではなく家はゴミ屋敷状態だったようです。
体調のせいもあったかもしれませんが、食事を作るのも得意ではなく、毎日実家で夕食を食べるような生活だったようです。
そして、何らかの障害があったのか性格的には他人の気持ちが理解できない人だったようです。
そのため周りからは良くは思われていない人でした。
畠山鈴香は、事件当時には、おそらく衝動的、発作的に行動しています。
思いつきを行動に移すような解離性障害にありがちな行動です。
その行動に目的意識や合理的な考えはなかったように見えます。
なお、畠山鈴香に空想癖があったかどうかは不明ですが、意外と読書もしている人のようです。
◆三橋歌織(32) 夫バラバラ殺人事件(2007年)
三橋歌織は1974年7月29日、新潟市に生まれました。
父親、母親、弟の4人家族で育っています。
父親は製本、印刷、事務用品と事務機器の販売の会社社長です。
体育会系の人だったようです。
歌織は、幼いころから厳しい父親の体罰の下で育っています。
父親は理由を説明することもなく殴るような「しつけ」を行っていたようです。
歌織の高校時代は「品のいいお嬢さまキャラ」、「キャアキャアしない」冷めたタイプの人だったようです。
プライドが高く、ブランド物好きでバブリーな感じの人というのが周りの人の評価です。
94年、歌織は父親の意向で女子大(白百合)に一浪して入学しました。
ようやく父親の拘束から自由になりました。
高校時代とは違ってのびのびと自由に生きていたようです。
しかし、95年ころ父親の事業が傾き始めます。
このためか、歌織は新宿で風俗関係のバイトをしていたようです。
98年、歌織は大学を卒業。
しかし、就職はうまくいかず、派遣社員として働き始めています。
そして、給料だけでは生活できないため、風俗のバイトで知り合った会社社長の愛人となり、世田谷区野沢のマンションに住むようになりました。
02年の初めに、歌織は新潟の資産家の息子とお見合いし結納を交わしましたが、結局、破談しています。
02年の秋、歌織は夫となる祐輔さんと知り合い、同棲生活を始めています。
当時、祐輔さんは法律事務所でバイトをしながら司法試験の勉強する身分で、収入は12万円程度だったそうです。
なお、このころから祐輔さんから歌織へのDV(家庭内暴力)があったようです。
03年、歌織と祐輔さんは入籍しています。
その後、二人は武蔵小山のマンションに引越しています。
このころ、歌織は元愛人から嘘をついて30万円を借りています。
04年5月、歌織はDVが原因で離婚を決意し新潟の実家へ帰っています。
父親は、泣いている歌織に対して「おまえが悪い」と怒鳴り続けていたようです。
また、一方で父親は祐輔さんに対しては電話で「絶対に離婚させる」と言っていたようです。
しかし、結果的には、5日ほどで歌織は東京に戻っています。
実家は居場所ではなかったようです。
05年1月、歌織は渋谷のデパートで洋服を万引きし、常習犯で書類送検されています。
このころ、祐輔さんはモルガン・スタンレー系列の会社に転職。
キャリアアップしています。
05年2月、二人は恵比寿のマンションに転居しています。
05年6月、祐輔さんに激しく殴られた歌織は、病院から連絡を受けた目黒警察署に保護されています。
この時、歌織は鼻骨骨折の重傷を受けています。
この後、歌織はDV用のシェルターに送られ一時保護されています。
その後、歌織は祐輔さんを公証人役場に連れていき公正証書を作っています。
今後暴力を振るったら離婚する、その際には慰謝料を3600万円払うことを明記したようです。
05年8月、祐輔さんの母親と義姉が上京し、歌織と離婚の話し合いをしています。
その後、歌織はDVの専門家という女性区議に相談しています。
05年9月、二人は渋谷区富ヶ谷のマンションに転居しました。
05年12月、歌織の両親が上京しホテル・オークラで祐輔さんと会い離婚の相談をしています。
しかし、祐輔さんは離婚を拒否しています。
05年暮れにはカフェでアルバイトをしていたと歌織は証言しています。
一応、離婚して自立することを考えていたようです。
また、離婚後に住む家も探していたようですが、熱心ではなく本気ではなかったかもしれません。
06年3月、歌織は、祐輔さんの元同僚の目の前で壮絶な夫婦ケンカを繰り広げています。
この時は祐輔さんの浮気疑惑が原因で、歌織が祐輔さんを自宅から無理やり追い出したようです。
二人は互いに主導権を取り合おうとして激しく争っていたようです。
06年6月、歌織は高校時代の級友と新宿のデパートで遭遇しています。
この友人は歌織が「キレイになったなぁー」と思ったそうです。
「洋服は上下、白だったと思います。
下は白のパンツで、ドレッシーな服を品よくまとめて、シンプルにサラリと着こなしていました。
眉毛はキレイなアーチラインで、メイクもちゃんとして、トータルバランスにセンスの良さを感じました。
時計はシャネルのスポーツタイプで、アクセサリーも品がよくて、いい生活してるな、と思いました。
勝ち組、負け組で言ったら勝ちの方だなと」
また、「DVで苦しんでいるようには外見からは全然うかがえませんでした」とも言っています。
06年11月、歌織は母と叔母と恵比寿のウェスティン・ホテルで会い、離婚を進めるための相談をしています。
06年11月、祐輔さんに結婚を約束する女性が出現しました。
12月9日、歌織はリビングにICレコーダを仕掛けて外出し、祐輔さんの浮気相手との電話の録音に成功します。
12月11日の夜、歌織は友人を呼び録音内容を聞かせています。
12月12日の午前4時、祐輔さんが帰宅。
歌織は眠った祐輔さんの頭をワインボトルで何回も殴り殺害しました。
その後、歌織は遺体をノコギリで解体し、胴体を新宿の路上に、下半身は近所の民家の庭に捨て、頭部は町田市の公園に埋めています。
12月16日、ゴミ袋に入った胴体が新宿の路上で発見されました。
12月28日、渋谷区神山町の民家の庭で下半身が発見されました。
1月10日、事情聴取された歌織が犯行を認めています。
裁判の精神鑑定で、祐輔さん殺害時の歌織は解離性障害(離人症性障害)だったと判断されています。
「被告は、祐輔さんの寝顔を見ていると、『等身大の裸の女性が、血を流している姿が見えた』と言っています。
また、『助けて』という女性の声が聞こえる、自分の魂が抜け出し、自分を見ている気分になりました。」
また、この時に幻視・幻覚があったようです。
「祖母からもらった携帯ストラップのクリスマスツリーが大きく迫ってくる」
「彼が読んでいた(いやらしい)男性雑誌の表紙が大きく、ありありと見え、とても不愉快」
「祖母がインターホン越しに話しかけてくる」
「風船の中にいるみたいな人間ぐらいの大きさのキレイな女性。
フィギュアみたいにスタイルが良くてキレイすぎる東洋人かアジア人の雰囲気」
「火の見櫓に登る八百屋お七」
08年4月、東京地裁で懲役15年の実刑判決。
弁護側は判決を不服として控訴しましたが、東京高裁では控訴棄却。
弁護側は上告権を放棄したため、10年6月に刑が確定しました。
三橋歌織は離婚を望んでおり、そのために積極的に行動しているように見えます。
そして、離婚のための決定的な証拠とも言える電話の録音を手に入れた直後に祐輔さんを殺害しています。
歌織は表面的には離婚を望んでいますが、深層心理的には祐輔さんを失いたくなかったのだと思います。
そのため、たびかさなるDVにもかかわらず逃げ出さず祐輔さんとの生活に戻っています。
祐輔さんとの離婚が決定的になった時、祐輔さんを失うことが分かった時、誰にも渡さないために歌織は祐輔さんを殺害したのではないかと思います。
不合理な行動と矛盾した思いは、解離性障害の患者の特徴ではないでしょうか。
◆武藤勇貴(21) 渋谷区短大生死体切断事件(2007年)
武藤勇貴は1985年に渋谷区幡ヶ谷で生まれました。
両親、兄、妹の5人家族で育っています。
両親はともに歯科医で、武藤勇貴(当時21歳)は医大の歯学部を目指し3浪中でした。
被害者である妹の亜澄さん(当時20歳)は短大2年生で、同時に女優としてVシネマなどに出演していました。
亜澄さんは自由奔放な性格で、両親に反発して家出するなど、家族とトラブルになることも多く、この当時は兄の武藤勇貴とは不仲だったようです。
06年12月30日、武藤勇貴は、妹の亜澄さんと口論になり、亜澄さんに「私には夢があるけど、兄さんにはないね」となじられたため逆上し、亜澄さんの背後から木刀で殴り、タオルで首を絞め、浴槽内に顔を沈めさせ窒息死させています。
その後、浴室で包丁とノコギリを使って亜澄さんの遺体を15個に切断。
髪をそり、両胸と下腹部を切り落とし、内臓はプラスチック容器に入れています。
そして、切断した遺体をポリ袋に詰めて、クローゼットとキャビネットに保管していました。
12月31日、父親に「観賞用のサメが死んで異臭がすると思うけど、部屋には入らないで」と告げて、予備校の合宿に出かけました。
1月3日、帰省から戻った母親が異臭に気づき、切断遺体を発見し事件が発覚しました。
「勇貴被告は生まれながらにアスペルガー障害に罹患していたが、高校卒業までは一般的な社会生活が著しく障害されることはなく、社会性のでは軽度の発達障害というべき病態だった。」
と判決は述べています。
そして、殺害時の心理状態については
「勇貴被告は、殺害時もことの善し悪しを見分ける能力は十分にあったが、亜澄さんから挑発的な言動を受けたことにより、怒りの感情を抱いた。
しかし、怒りの感情を抑制する機能が弱体化していたため、内奥にある激しい攻撃性が突出し、亜澄さんを殺害した。」
と述べています。
さらに、
「殺害に及んだことが衝撃となって解離性同一性障害による解離状態が生じ、死体損壊時には、本来の人格とは異なる獰猛な人格状態になっていた可能性が非常に高い。」
としています。
また、精神鑑定医は
「勇貴被告には、犯行時の記憶がほとんどなく、犯行前後の記憶もない。
解離性健忘が生じた場合、その前後の記憶がなくなるという逆行性健忘や前向きの健忘を伴うことがよくある。」
とも述べています。
08年5月、東京地裁は殺人罪で懲役7年の判決を下しました。
死体損壊罪については、精神鑑定の結果を採用して無罪としました。
しかし、東京高裁では「死体損壊時にも責任能力はあった」として懲役12年とされています。
09年9月、最高裁が弁護側の上告を棄却して刑が確定しました。
この事件は、3浪中でストレスを抱えていた武藤勇貴が、妹の挑発的な言葉で逆上した結果の犯罪だったようです。
ただし、本人は受験に対するプレッシャーは感じてなかったと証言しています。
なお、武藤勇貴については、一般的に解離性障害の原因となるような幼時の虐待などは報告されていません。
そして、精神鑑定医は武藤勇貴の解離性障害はアスペルガー障害を基盤としていると報告しています。
しかし、地裁の判決では「アスペルガー障害を基盤にして解離性障害を発症した症例に関する研究は十分になされていない」とも述べられています。
三橋歌織と武藤勇貴の事件は同じ時期に起きています。
しかも、事件の現場となった二人の自宅(富ヶ谷と幡ヶ谷)は2キロ程度の距離の近さにあります。
同じ時期に近所で同じようなバラバラ殺人事件、しかも解離性障害が指摘される殺人事件が起きたのは、偶然なのでしょうが不思議な気がします。
◆少年A(14) 神戸連続児童殺傷事件(1997年)
少年は1982年7月7日生まれです。
父親は重工業メーカーに勤務、母親は専業主婦です。
少年は長男で1歳年下の次男、3歳年下の三男の3人兄弟で育ちました。
7歳までは2DKの社宅暮らしでしたが、その後は、2階建ての母方の祖母の家に引っ越しています。
母親は厳しいしつけをする人だったようです。祖母にも「あんたは、子供たちをよく叱って厳しすぎる。そんなんやったらあかん。子供が萎縮してしまうわ」と言われていたようです。
また、母親自身も「三男が生まれた頃は、少年Aが四歳、次男は三歳で寝不足な日も続いていたので、長男の少年Aには厳しく怒って注意していたかもしれません。」と述懐しています。
少年が五歳のころ「足が痛い、痛い」と言うので病院に連れていくと医者に
「長男さんをもっとかまってあげてください。おそらく精神的な面からくる症状でしょう。」
と言われています。
少年が小学校3年生のときの作文があります。
《 「まかいの大ま王」
お母さんは、やさしいときはあまりないけど、しゅくだいをわすれたり、ゆうことをきかなかったりすると、あたまから二本のつのがはえてきて、ふとんたたきをもって、目をひからせて、空がくらくなって、かみなりがびびーっとおちる。そして、ひっさつわざの「百たたき」がでます。お母さんは、えんま大おうでも手が出せない、まかいの大ま王です。 》
少年が小学校3年生のときに少し異常なできごとが起きています。
「兄弟3人が、三つ巴で取っ組み合いの喧嘩をしているところに帰ってきた夫が、長男の少年に手を上げ、怒鳴りつけました。
すると少年は、急に目を剥くというか変に虚ろな目になり、宙を指差して、
『前の家の炊事場が見える、団地に帰りたい、帰りたい』とうわ言のように喋りました。
その様子がとても普通ではなく、怯えたようにガタガタ震えだしました。」
この時、母親は少年を神経内科に連れていきましたが、「軽いノイローゼ」と診断されています。
少年が小学校4年生のころ祖母が亡くなっています。
母親は知らなかったそうですが、これを境に、少年の蛙やなめくじの解剖が始まったようです。
(中略:一連の『酒鬼薔薇』事件発生に至る前後の経緯と少年の逮捕)
母親は否定していますが、精神鑑定書によると少年は幼児期に厳しいしつけ(虐待)を受けていたようです。
《家庭における親密体験の乏しさを背景に、弟いじめと体罰との悪循環の下で「虐待者にして被虐退者」としての幼時を送り、“争う意思”すなわち攻撃性を中心に据えた、未熟、硬直的にして歪んだ社会的自己を発達させ、学童期において、狭隘で孤立した世界に閉じこもり、なまなましい空想に耽るようになった。 》
そして、精神鑑定書は事件に至る過程を説明しています。
《思春期発来前後のある時点で、動物の嗜虐的殺害が性的興奮と結合し、これに続く一時期、殺人幻想の白昼夢にふけり、現実の殺人の遂行を宿命的に不可避であると思い込むようになった。
この間、「空想上の遊び友達」、衝動の化身、守護神、あるいは「良心なき自分」が発生し、内的葛藤の代替物となったが、人格全体を覆う解離あるいは人格の全面的解体には至らなかった。
また、独自の独我論的哲学が構築され、本件非行の合理化に貢献した。
かくして衝動はついに内面の葛藤に打ち勝って自己貫徹し、一連の非行に及んだものである。》
また、少年には異常な性癖、行動があったわけですが精神病ではないとされています。
普通の知能を有し、意識も清明である。
精神病ではなく、それを疑わせる症状もない。責任能力はあった。
そして解離性障害の傾向や兆候も指摘されています。
非行時ならびに現在、離人症状、解離傾性が存在する。
しかし、本件一連の非行は解離の機制に起因したものではなく、解離された人格によって実行されたものでもない。
鑑定書の中で空想上の友達を語り、その姿も描いていたようです。
母親は手記で次のように書いています。
《「エグリちゃん」と名付けた身長45センチぐらいの女の子。
その絵は気持ち悪くなるようなグロテスクなものでした。
頭から脳がはみ出て、目玉も飛び出している醜い顔で、エグリちゃんはお腹が空くと自分の腕を食べてしまうそうです。
「ガルボス」という空想上の犬(絵はない)も友達で、「僕が暴力をふるうのは「ガルボス」の凶暴さのせい」と、話していました。》
「酒鬼薔薇聖斗は自分の中にいて、彼の存在を心の中で感じられていました。
だから、絵は描けません。
でも、エグリちゃんは自分の外にいる友達なので、絵にすることができます。」
宮崎勤は祖父が亡くなると、おかしくなり凶行を開始しました。
少年Aの場合は祖母が亡くなってから、異常な行動が始まっています。
良き理解者、保護者がいる安心できる生活環境が失われたことが、精神の変調を招き事件につながったように見えます。
■解離性障害と霊感
解離性障害は多重人格や健忘、離人症などに代表される精神障害です。
◆多重人格(解離性同一性障害)
まったく別の人格が交代して現れる現象です。
別の人格がしたことを本人(本来の人格)が覚えていないこともよくあります。
◆健忘(解離性健忘)
何か衝撃的なことが起きると、その前後の記憶がなくなってしまうことがあります。
また、日常的に「知らないうちに違うところにいる」、「買った記憶のない物を持っている」などの症状を起こす人もいます。
◆離人症(解離性離人性障害)
自分が離れたところから自分自身を見ているような感覚を持つ現象です。
たとえば後ろから自分自身の行為を見ているようなこともあります。
◆その他の症状
解離性障害では、その他にも多様な症状を現すことがあります。
これらは霊的な現象と非常によく似た症状を示しているように思えます。
●気配過敏症
たとえば、カーテンの向こうに誰かいるような気がしたり、部屋の隅に人影があって、それがすっといなくなったり、漠然と何処からか見られているような気がしたりします。
●幻視
実際にはいないはずの人を見たり、霊のようなものを見たりします。
また、隣の部屋ことも見えるように分かったりもします。
●幻聴
いないはず人が話しかけてきたり、おしゃべりをしたりします。
頭の中から声がして対話するようです。
●体外離脱
自分の意識を飛ばしてしまうことができる人がいたりします。
自分の体を斜め後ろ上方から見下ろしていたりします。
また、突然気絶した自分自身を上方から見ていたり、そのまま場所を移動して戻ってきたりします。いわゆる幽体離脱です。
●遁走
突然、家庭や職場からいなくなり放浪したりすることがあります。
この時、記憶をなくしていたりすることもあります。
また、本人が混乱していて、別の自分を装うこともあるようです。
◆解離性障害の原因
解離性障害は、幼児期の性的外傷、虐待、育児放棄などによって起きることが多いとされています。
つまり、安心して居られる場所がなかったケースです。
家族内では、両親の不仲や離婚、親からの虐待、母親との一時的な分離体験、親のアルコール症などが原因になるようです。
家族外では、学校での持続的ないじめや交通事故なども原因になります。
また、幼少時からおとなしく自己主張をしない子、自分を抑えて聞き分けがいい子が解離性障害を発症することも多いようです。
●霊感
霊感の強い人や霊能者の経験する現象は解離性障害の症状と良く似ています。
●霊の気配
自称霊感の強い人などは、霊の気配が分かるなどと主張します。
そこに霊が居るとか、そこが霊の通り道だとか、今、霊が通ったとか言うことがあります。
これは解離性障害の気配過敏症の一種であるとも理解できます。
●憑依
宗教関係では、神が降りてきて様々な託宣などを述べることもあるかもしれません。
あるいは、最近は少なくなってきているかもしれませんが、江戸時代以降、高度成長が始まる比較的最近まで「狐つき」はよくある現象だったようです。
これらも解離性障害の人格交代(多重人格)の一種と考えることもできそうです。
●幽体離脱
超常現象として、あるいは臨死体験として幽体離脱が報告されることがあります。
寝ている自分の姿を上方から見ていた、また、窓から外へ出て空中を移動して行ったことのない場所の風景を見てきたなどの経験が語られることがあります。
解離性障害の患者も同じような体験を語ることがあるようです。
中には日常的に自分の意識を飛ばして叱れている自分を上方から眺めていたというような事例もあるようです。
●霊視
霊能者と呼ばれる人たちは、守護霊を見ることができると主張したりします。
あるいは、あなたには悪い霊が憑いているとして、お祓いのようなことをする宗教家がいたりします。
これらの霊能者に、本当に霊が見えるのかどうか分かりませんが、解離性障害でも幻視の現象があります。
幼い子供が、架空の存在である友達と会話したり遊んだりすることもあるようです。
また、霊を見たことがあると訴える解離性障害の患者もいるようです。
●霊能者
世の中には多くの「霊能者」がいるとは思いますが、伝記などで、その生い立ちなどを含めて詳細に報告されている人は案外少ないのですが、実例として「宜保愛子」と「出口なお」の2人を紹介したいと思います。
◆宜保愛子(1932-2003)
宜保愛子は80年代から90年代にテレビに出演するなどして活躍した霊能力者です。
その人の守護霊を見て霊視したり、心霊スポットに出向いてそこに居る霊を見たりする霊能力者のスタイルを確立した人だと思います。
宜保愛子は、オカルト的なおどろおどろしさや宗教家にありがちな高圧的な感じのない普通のやさしい主婦といった物腰で、本物ではないかと思わせる雰囲気を持った人でした。
宜保愛子は2003年に胃がんのため亡くなっています。71歳でした。
宜保愛子は1932年(昭和7年)に神奈川県で生まれています。
本人の証言によると
「父は大変がんこな人で、何か言うと、母や私達をどなっていました。」
とあります。
母や子供たちは父親に怯えながら暮らしていたのかもしれません。
宜保愛子には9歳年上の兄と2歳年下の弟がいましたが、兄は昭和19年に戦死、弟は昭和20年に交通事故で死亡しています。
他に姉と妹がいるようです。
宜保愛子は3歳の時、弟の持っていた火箸が左目に落ちて失明しています。
しかし、この視力の少なくなった左目で霊の姿を見ることができるようになったそうです。
宜保愛子が霊能力を自覚し始めたのは小学校1年生のころだったそうです。
例えば、亡くなったはずの級友の声が聞こえたり、そのゲタの声が聞こえたりするような幻聴を経験しています。
また、入水自殺のポチャンという音が聞こえ、川へ行くと水死体を発見することがよくあったそうです。
そして、その死者が家族への伝言を頼んできたこともあるそうです。
その他に、事件を予知することもあったようです。
近所の火事や心中事件を予言しています。
「ある家を見て『この家はいつか燃えちゃうんだ』と思い、数日後、現実にその家が火事になった。」
「『お父さん、あのおばちゃん、もうじきおじちゃんと一緒に死んじゃうよ。』と言ったら、一ヶ月もたたないうちに二人は心中した。」
宜保愛子は普段は無口で自閉症気味の子供だったようですが、小学校5年生の時に見過ごせない級友の不正行為を必死の思いで告発した事件をきっかけに自閉的な学校生活にピリオドを打ち、性格も明るくなったようです。
この時は、普段しゃべらない子が発言したので、まわりに驚かれたそうです。
宜保愛子は、13歳のころ夢に現れる弟によって死後の世界を知ったそうです。
宜保愛子は、21歳の時に病気で死にかけてから霊能力がなくなったそうです。
その後、結婚し長女・長男・次男の3人の子供を産んでいます。
そして、この3人の子供を育てていて、一番下の子が幼稚園に入園したころに霊能力が復活したそうです。
宜保愛子によると守護霊は次のよう見えるそうです。
霊は相談者の右また左の肩のやや後ろ立ちます。
普通の人と大きさは変わりませんが、やや薄めに見えます。
霊はその人をじっと見つめているのが常です。その表情を見て、幸か不幸かわかります。
海で事故を起こす恐れのある人は、霊のそばに青々とした海が広がり、その絵が広がったと同時に、霊の表情が急に暗くなり、首を振って教えてくれます。
仕事などがうまくいく方法を教えるときは、具体的に数字などを目の前に浮かべてくれます。質問には、うなずいたりして教えてくれます。
なお、霊視をすると大変疲れるそうです。
宜保愛子は、幽体離脱は大人になってから数回経験したことがあると言っています。
それは、寝ている間の夢を見るような体験ですが、目が覚めた後の体はへとへとに疲れており、翌日の仕事に支障をもたらすほどだったそうです。
また、後で、幽体離脱で訪れた場所へ行ってみると、幽体離脱で見たとおりだったそうです。
◆出口なお(1837-1918)
出口なおは大本教(おおもときょう)の開祖です。
大本教は出口なおの娘婿の出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)によって全国的な有力教団へと発展しましたが、戦前に政府による弾圧によって壊滅状態になりました。
なお、大本教は正式には宗教法人「大本」といい、戦後に復興され現在も活動しています。
出口なお(旧姓は桐村)は天保7年12月16日(1837年1月22日)に福知山で誕生しました。
父親は、藩の御用を努め名字帯刀を許されていたという有力な大工の家系を継ぎましたが、出口なおが生まれたころには家は没落し、かなり困窮していたようです。
父親は放蕩者だったようです。
家族は祖母、両親、兄、妹の5人でした。
父親は出口なおが9歳の時に亡くなっています。
そのため、生活はますます困窮したようです。
出口なおは10歳の時に奉公に出ています。
孝行娘として評判だったらしく12歳の時に藩主から表彰されています。
その後、16歳になって奉公をやめて自宅に戻っています。
出口なおは、6、7歳のころから日常的なささいな予言をして的中していたそうです。
また、奉公していたころ、3日くらい姿を隠し、夕方にぼんやり帰ってきたことがあったようです。
事情を聞かれると、山の中で修行してきたと答えたそうです。
17歳になった出口なおは綾部に住む叔母の出口ゆりの養女となります。
しかし、半年後に実家に戻っています。
その後、養母の出口ゆりが井戸に身を投げて亡くなりますが、その翌年に出口なおは出口家へ戻り、大工職人の政五郎と結婚します。
夫の政五郎は、仕事に熱心ではなく、酒を飲み歩くような人だったそうです。
そのため、出口家は傾き、次第に困窮していったようです。
結婚した出口なおは日々の生活に苦労しながらも3男5女を産み育てています。
夫の政五郎は明治20年(1887)に病死しています。
明治25年(1892)、57歳の出口なおに帰神(憑依)がおこり始めます。
艮の金神(うしとらのこんじん)という神が降りて来ました。
無学な出口なおですが、神がかりになり独特の書体のひらがなで「お筆先」と呼ばれる文書を書き始めます。
その文書の内容は「大本出現の由来と使命、神と人の関係、日本民族の使命、人類への予言・警告」などだったそうです。
そして、出口なおが祈願すると病気が治ったため信者が出始めてきます。
さらに、日清戦争を予言したので評判が高まります。
その後、出口なおの教えは、宗教として整備され大本教として発展していきます。
大本教の開祖となった出口なおは、大正7年(1918)に81歳で亡くなっています。
大本教を宗教として確立して行ったのは、出口なおの5女の婿養子となった出口王仁三郎です。
王仁三郎によって大本教は全国レベルの教団に発展しますが、その王仁三郎の言動などに危険性を感じた政府によって徹底的に弾圧され、大本教は壊滅状態になります。
●第一次大本事件 大正10年(1921)
不敬罪、新聞紙法違反で出口王仁三郎が検挙され懲役5年の判決が出されますが、大正天皇の崩御の恩赦で免訴となっています。
この時には、神殿は取りこわしにあい、開祖の出口なおの墓も壊され縮小改築されています。
●第二次大本事件 昭和10年(1935)
この時は幹部が一斉に逮捕され、当局は組織の解散、建造物の強制破却を決めました。
聖地はダイナマイトやハンマーで徹底的に破壊され 開祖の墓も壊され共同墓地の片隅に移されています。
聖地は鉄条網が張りめぐらされ立ち入り禁止になりました。
出口王仁三郎らは治安維持法違反、不敬罪、出版法違反、新聞紙法違反で起訴され、第1審では王仁三郎は無期懲役、他の幹部は懲役2年~15年の判決が出されました。
しかし、最終的には終戦をむかえて大赦令が出されて青天白日の身となっています。
■解離性障害と犯罪
◆解離性障害の事件
解離性障害については、一般の人の理解が進んでいるとは言いがたい状況にあると思います。
そうした状況下で、犯人が解離性障害を発症していると思われる殺人事件も多く発生しています。
・宮崎勤 連続幼女誘拐殺人事件(1988年)
・酒鬼薔薇聖斗 神戸連続児童殺傷事件(1997年)
・11歳女児 佐世保同級生殺害事件(2004年)
・畠山鈴香 秋田連続児童殺害事件(2006年)
・三橋歌織 夫バラバラ殺人事件(2007年)
・武藤勇貴 渋谷区短大生死体切断事件(2007年)
これらの事件の捜査にあたる警察官や検察官は、犯人が解離性障害だと思っていませんから、犯人に事件当時のことを思い出させ、ストーリーを組み立てます。
しかし、犯人が多重人格や健忘の場合、事件前後については覚えてないことがあります。
そのため、検察が無理やりにストーリーを組み立て、供述書を作っても裁判で綻びが露わになってしまいます。
また、解離性障害の人の場合、思いついたことを実行に移す傾向があり、時として脈絡のない不合理な行動を取ることもあります。
これについても検察が一般常識に従い筋書きを作ると、後々裁判で破綻することがあります。おそらく、解離性障害の人は目的もなく、思いついた事を実行しています。
そうした解離性障害の事例を各事件を通して見てみたいと思います。
◆宮崎勤(26) 連続幼女誘拐殺人事件(1988年)
宮崎勤は1962年8月21日に五日市町(現あきるの市)で生まれています。
父親は印刷業で地元新聞を発行する名士です。両親は不仲だったようで、家族はバラバラで解離状態だったとも言われています。
宮崎勤には手の障害があり、手のひらを上に向ける動作ができなかったようです。
両親は彼には冷たかったようですが、祖父には可愛がられて育ったようです。
なお、宮崎勤は小さいころから「はっと気づくと別の場所にいる」という解離性障害を思わせる体験をしているようです。
高校は都内の名門である明大中野高校に通っていました。
高校卒業後は東京工芸大学短期大学部画像技術科に入学。
短大を卒業した後は小平市の印刷会社に勤務しましたが、仕事ぶりは熱心ではなく、転勤命令が出た機会に退職したようです。
退職後は家業を手伝うこともあったようですが、ほとんど引きこもり生活だったようです。
88年5月、宮崎勤の良き理解者であった祖父が死亡します。
この時のことについて宮崎勤は次のように語っています。
「おじいさんが見えなくなっただけで、姿を隠しているんだと強く思った。」
「本当の両親は別のところにいるんだと、ぴーんとわかった。」
そして、このころから宮崎勤は異常行動や精神病理的現象を示し始めます。
12月8日には、父親の髪の毛を掴んで車のドアに何回か頭を打ち当てました。
このため父親は病院に入院し手術しています。
宮崎勤は祖父の死後の数ヶ月で、立て続けに幼女を誘拐し殺害しています。
●88年8月22日、今野真理ちゃん(4歳、入間市)が行方不明。
宮崎勤は山林に連れ込み絞殺。
殺害現場をビデオで撮影しています。
●88年10月3日、吉沢正美ちゃん(7歳、飯能市)が行方不明。
宮崎勤は山林に連れ込み絞殺。
●88年12月9日、難波絵梨香ちゃん(4歳、川越市)が行方不明。
12月15日に雑木林で全裸の状態で発見されました。
●88年12月20日、難波絵梨香ちゃんの父親宛に葉書が届きます。
そこには「絵梨香」、「かぜ」、「せき」、「のど」、「楽」、「死」という文字が貼られていました。
●89年2月6日、今野真理ちゃんの自宅玄関前に遺骨の入ったダンボールが置かれていました。
そこにはワープロで「真理」、「遺骨」、「焼」、「証明」、「鑑定」と打たれた紙とピンク色のショートパンツの写ったインスタント写真が入っていました。
しかし、この遺骨の歯についての鑑定では、真理ちゃんとは別人の物とする結果が出されました。
89年2月11日、朝日新聞に「今田勇子」からの犯行声明が届きました。
そこには真理ちゃんの眠ったような写真も添付されていました。
遺骨の鑑定結果に反論するために出された犯行声明です。
89年3月11日、朝日新聞と今野真理ちゃん宅に「今田勇子」の告白文が届きました。
この日は今野真理ちゃんの告別式の日でした。
89年6月6日、野本綾子ちゃん(5歳、江東区)が行方不明。
6月11日に飯能市の宮沢湖霊園の公衆トイレで野本綾子ちゃん遺体が発見されました。
首、両手、両足が切り取られた状態でした。
89年7月23日、八王子市で6歳の女児を脱がして写真を撮ろうとしていた宮崎勤が、追ってきた父親に捕まりました。
宮崎勤の精神鑑定は2回行われています。
1回目の精神鑑定では、「精神分裂病を含む精神病状態になく、人格障害の範囲にあった」とされました。
2回目の精神鑑定では意見が分かれ、「多重人格障害」と「精神分裂病状態」の2つの結果が提出されています。
宮崎勤には、多様な解離性障害の症状が出ています。
宮崎勤は店で一度に50~60本のビデオテープを万引きしていますが、この時のことを次のよう語っています。
・体外離脱
「もう一人の自分がのそりのそりと万引きしているのを、本人がどっきんどっきんしながら後ろから見ていた。
この時には、懐かしいスリルを感じていた。」
・健忘
「どこで入手したか分からないビデオテープが大量に車のトランクにあった。」
「値札の付いたテープが知らないうちに自分の部屋にずらりと並んでいた。」
・瞬間移動
自分がはっと気づいた時に別の場所にいる。
・祖父の幻視
どんな姿をして出て来るの?
「普段着、余所(よそ)行き、寝巻姿など、いろいろ。
おじいさんが 決めている。」
大きさはどのくらい?
「小ぢんまりしている。9割くらい。
だから不思議なの。」
・幼女について
「出会った子は私と同じ意思、考え方を持っているから、私と違う考え方をしない。
いつも私に味方する親切な脇役。
そばに居るんだけと居ないみたい。」
・ネズミ人間
宮崎勤は、幼女が泣き出すとネズミ人間が出てくると言っています。
犯行時のことは、本人は覚えていないようです。
犯行はネズミ人間がやったということらしいのです。
「長い髭を生やした顔は大人より大きく、身長もヌーッとして大人より大きい。
手と足は人間と同じだが灰色をしている。
何も喋ることなしにいきなり襲ってくる。
10人くらいで取り囲むように出てくる。
呼び出せる子供が呼び出すと、どこからともなく出てきて襲ってくる。」
・死体のビデオ撮影
「昨日おかしな夢をみたけど、夢かな、本当かな、もし本当で生き返っていなかったら肉物体(死体)がそこにあるわけだから・・・・・・。
肉物体を映像にするという考えが出て、新しい自分(分身)が動き出した。
もう一人の自分(分身)は、のそりのそりというか、淡々とやっている。
あれだけ冷静にやれるから不思議だなあ・・・・・・と。
もう一人の自分(分身)が執着心を持っている。いつも、後ろ姿、たまに斜めとか横の姿が見える。」
・祖父に捧げる
宮崎勤は祖父に捧げる奇妙な儀式を行っています。
分身は祖父の物置にあった藁を出す。
それで50センチ大の藁人形を作る。
自分の部屋に戻って、遺体を撮影したビデオを本棚に立てて供えた。
藁人形の周りに円形のロープを置く。
宮崎勤の格好といえば、頭にロウソクを2本立てて鉢巻をし、火をつけ、体を前後に振りながら1、2分間、ロープの周囲を回った。
「テープをおじいさんに送って甦らせる」ための儀式だったという。」
・犯行声明文(今田勇子)
今田勇子からの犯行声明文について、宮崎勤本人は「あんなめんどっちいことしない」と否定しています。
宮崎勤の書いた上申書の文字は丸っこい字ですが、今田勇子の犯行声明文の文字はわざと角張った字で書いてあります。
しかも、かなり長文です。
捜査本部が専門家に依頼して、この声明文の分析を行っています。
性別:7対3で男、年齢:40歳前後、という結果になっていました。
宮崎勤の別人格は見事に世間を騙せました。
・M鑑定人に対する鑑定拒否文
精神鑑定のM鑑定人に対して、宮崎勤は鑑定拒否文を書いています。
ただし、後日、本人はこれを書いたことを覚えていないようです。
普段の宮崎勤からはうかがえない冷静で鋭い文章を書いています。
《あなたは<姿が一人>というのと<孤立している>というのとの意味の違いさえ知らない人間だ。
あなたは何でも、姿が一人である人を見ると「その人は自分で、孤立していると思っているはずだ」としか思うことの出来ない哀れな、いや恐ろしく決めつけの強い人間だ。
<姿が一人>というのと<孤立している>というのとの違いさえ知らぬ者が今まで医者でやってきただってえ!?
少しは恥を知った方がいい。
そんなんで人を診られるわけがない。
鑑定の手伝いなどと決まったそうだが、自分から辞退される位の姿勢は見たいものだ。
今まで何人も診てきたと聞くが、今まで「何人ひとを決めつけてきたか」を数えてみるがいい。
私はあなたを断る。》
・接見弁護士の印象
弁護士は宮崎勤について不可解、不思議な人物であるという印象を受けたと述べています。
1.とても無表情であったこと、機械的というか、冷たい印象を受けたこと。
2.悪いことをしたという意識がないということ。とりわけ、極刑になるという認識は持っていないように思った。
3.事実についてぽつぽつ語るが、話し方に主語がないこと。単語が短いこと、用語がわかりづらいところがある。事実関係については、人ごとのように話す。
4.祖父との関係などについて独特の世界、考え方があるという強い疑いを持った。
5.ビデオとの関係についても同様に独特の考え、あるいは世界があるという強い疑いを持った。
・多重人格
内沼幸雄鑑定人(帝京大学教授)によると、宮崎勤の内面には、次の4人の人格がいるようです。
A:幼稚な部分と哲学的部分が混在した被告本人
B:衝動的殺人者である子供
C:冷静な人物
D:犯行声明を書いた「今田勇子」
・裁判中の宮崎勤
宮崎勤は自分の裁判中も他人事のように過ごしています。
裁判長から「あらためて言いたいことがありますか」と尋ねられて、
「私の車とビデオテープなんですけど、全部返してほしい。
免許のことも気になるので免許証を返してほしい。
車に油をくれないと乗れなくなるので、車に油をやってほしい。」と答えています。
裁判中は無関心なようすで着席するとすぐペンを執って「絵描き」に熱中します。
そして、裁判長に質問されると
「あっ、聞いてなかった」
「ずっと何か書いてたでしょう」
「あっ、絵かいてたから」
と答えています。
拘置所への差し入れの書籍、雑誌には「ドラゴンクエスト」や「ゴジラ対キングギドラ」の他に「逸脱の精神史」とか「刑事弁護」といった本もありました。
普段の宮崎勤が読みそうな本ではありません。
最高裁で死刑が確定した後も
「何かの間違い」
「無罪になる」
「私が残忍だと勘違いされた」
と淡々と答えています。
06年1月17日、死刑が確定。
08年6月17日、宮崎勤の死刑が執行されました。
◆女児(11) 佐世保同級生殺害事件(2004年)
女児は1992年11月21日生まれのようです。
共働きの両親と祖母、高校生の姉の5人暮らしでした。
父親は教育熱心であり、家にはパソコンが数台あったそうです。
女児は幼少期から泣いたり甘えたりすることが少なく手のかからない子として育てられたようです。
女児が2歳のころ父親が長期間入院したため、母親も父親の面倒や仕事で忙しく女児の面倒を見られなかったようです。
女児は小学校4年生の時に地元のミニバスケットボールのチームに入っていましたが、学校の成績が下がったため、親に勉強がおろそかになるなら辞めなさいと言われ、6年になる直前に辞めています。
そして、女児は6年生になってから中学受験のため塾に週3回通い始めています。
両親や周りの人たちの女児に対する印象は「おとなしく明るい子」、「イエス、ノーをはっきり言えない」というものでした。
学校の調査によると女児の印象として、「まじめ」、「努力家」などの証言が多く、学習や係活動等において地道に頑張っていたことがうかがえます。
しかし、同級生たちによると
「すぐ怒る。短気。」、
「からかわれると、相手が男子でも殴ったりけったりしてくることがあった。」
ということでした。
女児は「バトルロワイヤル」のようなホラーや殺人場面が出てくる小説をよく読んでいたようです。
そして、「バトルロワイヤル」をまねた自作小説も自分のHP(ホームページ)に載せています。おそらく、空想好きな一面があったのです。
また、事件の少し前に、自分のHPに次のような書き込みをしています。
不平不満がたまっていたことがうかがえます。
《うぜークラス
つーか私のいるクラスうざったてー。
エロい事考えてご飯に鼻血垂らすわ、
下品な愚民や
失礼でマナーを守っていない奴や
喧嘩売ってきて買ったら「ごめん」とか言って謝るヘタレや
高慢でジコマンなデブスや
カマトト女しったか男、
ごく一部は良いコなんだけど大半が汚れすぎ。
寝言言ってんのか?って感じ。
顔洗えよ。》
女児と同級生である被害者の御手洗怜美さんは、
「交換日記を行うほどの交友関係にあった。
担任の手伝い等は必ず2人で行い、2人とも絵をかくこと、パソコンをすることなど、共通の点が多かった。」
ようです。
仲は良かったが親友同士というまではいかなかったという付き合いだったそうです。
04年6月1日、女児は仲の良かった御手洗怜美さんをカッターナイフで首の右側を深く切りつけ殺害しました。
この時のことを、女児は県警に次のように話したようです。
給食が始まる午後0時20分ごろ、「ちょっとおいで」と言って怜美さんを学習ルームに誘った。
部屋に入ると、まず外から見えないように2人でカーテンを閉めた。
そのあと、タオルのようなもので被害者に目隠ししようとした。
でも、嫌がられたので椅子に座らせ、後ろから手で目隠しして切った。
女児は動機について次のように言っています。
5月末ごろ、怜美さんのHP(ホームページ)に自分のことを「ぶりっこ」「いいこぶっている」などと書き込まれた。
やめてほしいとHP上で伝えたが、同じようなことを再び書かれ、この世からいなくなれと思った。
また、書き込みの数日前、女児は怜美さんを含む複数の友達とおんぶし合って遊んだ際、
「重い、重い」とふざけ合ったことを、
「自分の体重を言われたと思った。気にしていた。」とも話しています。
なお、女児は小柄で太ってなどいなかったようです。
●精神鑑定(要約)
女児は幼少期から泣いたり甘えたりすることがなく、一人で遊んだりテレビを見たりして過ごすことが多かった。
両親はそれを「育てやすい」と誤解した。
そのため、女児は自分の欲求や感情を受け止めてくれる人がいるという基本的な安心感や他人への愛情が希薄になった。
両親の情緒的働きかけが十分でなく、女児には自分の感情を受け止めてくれる他者がいるという安心感が希薄である。
安心感や愛着を基盤とする対人関係や社会性、共感性の発達も未熟である。
また、女児は情緒的な分化が進んでおらず、情動に乏しい。
女児は愉快な感情は認知し、表現できるものの、その他の感情の認知・表現は困難で、とりわけ怒り、寂しさ、悲しさといった不快感情は未分化で適切に処理されないまま抑圧されていた。
女児は怒りを回避するときに空想に逃避する傾向や、強い怒りを急激に感じたときの行動を問われても記憶を想起できない場合があることなどからすると、時には短時間、女児の処理できない強い怒りの反応として生じる解離状態となって攻撃衝動の抑制も困難となるものと推測される。
以上に述べた女児の特性などは、いずれも重篤ではなく、何らかの障害と診断される程度には至らない。
女児は自らの行為を振り返り、内省する時間と機会を十分持った。
その中で女児なりに努力する様子を見せたものの、現在も被害者の命を奪ったことの重大性や、その家族の悲しみを実感できないでいる。
女児が贖罪の意識を持ちがたい背景には、殺害行為に着手した直後に解離状態に陥ったことで、自分の行為に現実感がなく、実行行為の大半の記憶が欠損していること、処理しかねる強い情動には目を向けないようにして抑圧する対処が習慣化していることなども指摘されよう。
(筆者にて要約)
長崎家裁佐世保支部において審判が行われ、04年9月、女児は児童福祉法に基づく児童自立支援施設の国立きぬ川学院に移送されました。刑事責任が問われない14歳未満としては最も厳しい処分でした。
ミニバスケットボール部を辞めさせられたことで、熱中できる居場所をなくし、さらに塾に通わされたことでストレスが溜まっていたのかもしれません。
そして親しかった友人(被害者)とのネット上のトラブルが起きたことで、被害者への怒りを爆発させ、事件へのきっかけとなったようです。
加害者女児は事件の時に解離状態に陥ったようですが、自分の起こした結果の衝撃のせいだったのかもしれません。
なお、事件以前の女児については空想的な傾向はあったようですが、解離的な症状は報告されていないようです。
◆畠山鈴香(33) 秋田連続児童殺害事件(2006年)
畠山鈴香は1973年2月2日に能代市で生まれています。
父親は砂利運搬会社を経営、社会的には成功者です。
彼女には4歳下の弟がいました。
父親は母親の失敗をののしり殴るような人だったようです。
その暴力は幼い畠山鈴香にも及び、彼女は不安な幼少期を過ごしたようです。
この父親の暴力は彼女が高校を卒業して実家を離れるまで、次第にエスカレートしながら続いていました。
小1のころ、畠山鈴香は、担任教師の発言のせいで「心霊写真」と呼ばれていじめられていたようです。
小4のころには、学校では給食が食べられず、厳しい教師から無理やり食べさせられていました。
時間が来ると両手に給食の残りを載せて全部食べるよう強制させられています。
そして、服や机を汚すため「ばい菌」というあだ名をつけられ、いじめられていました。
また、いつごろかは不明ですが、学校から情緒不安定を理由に修学旅行への不参加を打診されたこともあったようです。
91年、高校を卒業すると栃木県の温泉に就職しています。
暴力を振るう父親から離れたかったようです。
最初は仲居をしていましたが、後に収入の良いコンパニオンになっています。
しかし、間もなく父に連れ戻され実家に帰っています。
秋田に戻ってからはウェイトレスやホステスなどをしていたようです。
94年、畠山鈴香は前夫と駆け落ちし、栃木に戻りコンパニオンをしていました。
その後、まもなく前夫と実家に戻り結婚しています。
97年、畠山鈴香は夫の浮気や借金などのため、離婚しています。
そして、町営住宅に住みながら実家と行き来して生活していました。
そして、このころ借金のため自己破産処理をしています。
03年、体調不良などを理由に精神科に通院。
04年、卵巣腫瘍の手術。
ヘルパー2級の資格を取得。
05年、睡眠薬で自殺未遂。
体の不調などが理由だったようです。
05年9月、父親が倒れ、畠山鈴香がその介護をせざるをえなくなりました。
06年4月10日、畠山鈴香の娘の彩香さん(9歳)が水死体となって自宅から10キロ離れた川で発見されました。
このとき、警察は当初は事故死と判断しています。
06年5月17日、畠山鈴香の近所に住み、彩香さんと遊び友達だった米山豪憲くん(7歳)が行方不明となり、翌日に同じ川で遺体となって発見されました。
06年6月4日、畠山鈴香は、豪憲くん殺害容疑で逮捕され、その後、彩香さん殺害容疑でも逮捕、起訴されています。
畠山鈴香は娘の彩香さんが橋から落ちた時のことについては、よく覚えていないようです。
そのため、精神鑑定では解離性健忘が認定されています。
彩香さんの事件について警察が事故死と発表すると、畠山鈴香は納得できず警察に再捜査を依頼し、情報を求めるビラを作成し配っています。
さらに、「TVのちから」という番組に犯人を見つけてほしいと依頼しています。
畠山鈴香には本当に記憶がなかったからだと思われます。
もし自分が犯人なら事件ではなく事故死とされた方が良かったはずです。
畠山鈴香の生活態度は、あまり褒められたものではなく家はゴミ屋敷状態だったようです。
体調のせいもあったかもしれませんが、食事を作るのも得意ではなく、毎日実家で夕食を食べるような生活だったようです。
そして、何らかの障害があったのか性格的には他人の気持ちが理解できない人だったようです。
そのため周りからは良くは思われていない人でした。
畠山鈴香は、事件当時には、おそらく衝動的、発作的に行動しています。
思いつきを行動に移すような解離性障害にありがちな行動です。
その行動に目的意識や合理的な考えはなかったように見えます。
なお、畠山鈴香に空想癖があったかどうかは不明ですが、意外と読書もしている人のようです。
◆三橋歌織(32) 夫バラバラ殺人事件(2007年)
三橋歌織は1974年7月29日、新潟市に生まれました。
父親、母親、弟の4人家族で育っています。
父親は製本、印刷、事務用品と事務機器の販売の会社社長です。
体育会系の人だったようです。
歌織は、幼いころから厳しい父親の体罰の下で育っています。
父親は理由を説明することもなく殴るような「しつけ」を行っていたようです。
歌織の高校時代は「品のいいお嬢さまキャラ」、「キャアキャアしない」冷めたタイプの人だったようです。
プライドが高く、ブランド物好きでバブリーな感じの人というのが周りの人の評価です。
94年、歌織は父親の意向で女子大(白百合)に一浪して入学しました。
ようやく父親の拘束から自由になりました。
高校時代とは違ってのびのびと自由に生きていたようです。
しかし、95年ころ父親の事業が傾き始めます。
このためか、歌織は新宿で風俗関係のバイトをしていたようです。
98年、歌織は大学を卒業。
しかし、就職はうまくいかず、派遣社員として働き始めています。
そして、給料だけでは生活できないため、風俗のバイトで知り合った会社社長の愛人となり、世田谷区野沢のマンションに住むようになりました。
02年の初めに、歌織は新潟の資産家の息子とお見合いし結納を交わしましたが、結局、破談しています。
02年の秋、歌織は夫となる祐輔さんと知り合い、同棲生活を始めています。
当時、祐輔さんは法律事務所でバイトをしながら司法試験の勉強する身分で、収入は12万円程度だったそうです。
なお、このころから祐輔さんから歌織へのDV(家庭内暴力)があったようです。
03年、歌織と祐輔さんは入籍しています。
その後、二人は武蔵小山のマンションに引越しています。
このころ、歌織は元愛人から嘘をついて30万円を借りています。
04年5月、歌織はDVが原因で離婚を決意し新潟の実家へ帰っています。
父親は、泣いている歌織に対して「おまえが悪い」と怒鳴り続けていたようです。
また、一方で父親は祐輔さんに対しては電話で「絶対に離婚させる」と言っていたようです。
しかし、結果的には、5日ほどで歌織は東京に戻っています。
実家は居場所ではなかったようです。
05年1月、歌織は渋谷のデパートで洋服を万引きし、常習犯で書類送検されています。
このころ、祐輔さんはモルガン・スタンレー系列の会社に転職。
キャリアアップしています。
05年2月、二人は恵比寿のマンションに転居しています。
05年6月、祐輔さんに激しく殴られた歌織は、病院から連絡を受けた目黒警察署に保護されています。
この時、歌織は鼻骨骨折の重傷を受けています。
この後、歌織はDV用のシェルターに送られ一時保護されています。
その後、歌織は祐輔さんを公証人役場に連れていき公正証書を作っています。
今後暴力を振るったら離婚する、その際には慰謝料を3600万円払うことを明記したようです。
05年8月、祐輔さんの母親と義姉が上京し、歌織と離婚の話し合いをしています。
その後、歌織はDVの専門家という女性区議に相談しています。
05年9月、二人は渋谷区富ヶ谷のマンションに転居しました。
05年12月、歌織の両親が上京しホテル・オークラで祐輔さんと会い離婚の相談をしています。
しかし、祐輔さんは離婚を拒否しています。
05年暮れにはカフェでアルバイトをしていたと歌織は証言しています。
一応、離婚して自立することを考えていたようです。
また、離婚後に住む家も探していたようですが、熱心ではなく本気ではなかったかもしれません。
06年3月、歌織は、祐輔さんの元同僚の目の前で壮絶な夫婦ケンカを繰り広げています。
この時は祐輔さんの浮気疑惑が原因で、歌織が祐輔さんを自宅から無理やり追い出したようです。
二人は互いに主導権を取り合おうとして激しく争っていたようです。
06年6月、歌織は高校時代の級友と新宿のデパートで遭遇しています。
この友人は歌織が「キレイになったなぁー」と思ったそうです。
「洋服は上下、白だったと思います。
下は白のパンツで、ドレッシーな服を品よくまとめて、シンプルにサラリと着こなしていました。
眉毛はキレイなアーチラインで、メイクもちゃんとして、トータルバランスにセンスの良さを感じました。
時計はシャネルのスポーツタイプで、アクセサリーも品がよくて、いい生活してるな、と思いました。
勝ち組、負け組で言ったら勝ちの方だなと」
また、「DVで苦しんでいるようには外見からは全然うかがえませんでした」とも言っています。
06年11月、歌織は母と叔母と恵比寿のウェスティン・ホテルで会い、離婚を進めるための相談をしています。
06年11月、祐輔さんに結婚を約束する女性が出現しました。
12月9日、歌織はリビングにICレコーダを仕掛けて外出し、祐輔さんの浮気相手との電話の録音に成功します。
12月11日の夜、歌織は友人を呼び録音内容を聞かせています。
12月12日の午前4時、祐輔さんが帰宅。
歌織は眠った祐輔さんの頭をワインボトルで何回も殴り殺害しました。
その後、歌織は遺体をノコギリで解体し、胴体を新宿の路上に、下半身は近所の民家の庭に捨て、頭部は町田市の公園に埋めています。
12月16日、ゴミ袋に入った胴体が新宿の路上で発見されました。
12月28日、渋谷区神山町の民家の庭で下半身が発見されました。
1月10日、事情聴取された歌織が犯行を認めています。
裁判の精神鑑定で、祐輔さん殺害時の歌織は解離性障害(離人症性障害)だったと判断されています。
「被告は、祐輔さんの寝顔を見ていると、『等身大の裸の女性が、血を流している姿が見えた』と言っています。
また、『助けて』という女性の声が聞こえる、自分の魂が抜け出し、自分を見ている気分になりました。」
また、この時に幻視・幻覚があったようです。
「祖母からもらった携帯ストラップのクリスマスツリーが大きく迫ってくる」
「彼が読んでいた(いやらしい)男性雑誌の表紙が大きく、ありありと見え、とても不愉快」
「祖母がインターホン越しに話しかけてくる」
「風船の中にいるみたいな人間ぐらいの大きさのキレイな女性。
フィギュアみたいにスタイルが良くてキレイすぎる東洋人かアジア人の雰囲気」
「火の見櫓に登る八百屋お七」
08年4月、東京地裁で懲役15年の実刑判決。
弁護側は判決を不服として控訴しましたが、東京高裁では控訴棄却。
弁護側は上告権を放棄したため、10年6月に刑が確定しました。
三橋歌織は離婚を望んでおり、そのために積極的に行動しているように見えます。
そして、離婚のための決定的な証拠とも言える電話の録音を手に入れた直後に祐輔さんを殺害しています。
歌織は表面的には離婚を望んでいますが、深層心理的には祐輔さんを失いたくなかったのだと思います。
そのため、たびかさなるDVにもかかわらず逃げ出さず祐輔さんとの生活に戻っています。
祐輔さんとの離婚が決定的になった時、祐輔さんを失うことが分かった時、誰にも渡さないために歌織は祐輔さんを殺害したのではないかと思います。
不合理な行動と矛盾した思いは、解離性障害の患者の特徴ではないでしょうか。
◆武藤勇貴(21) 渋谷区短大生死体切断事件(2007年)
武藤勇貴は1985年に渋谷区幡ヶ谷で生まれました。
両親、兄、妹の5人家族で育っています。
両親はともに歯科医で、武藤勇貴(当時21歳)は医大の歯学部を目指し3浪中でした。
被害者である妹の亜澄さん(当時20歳)は短大2年生で、同時に女優としてVシネマなどに出演していました。
亜澄さんは自由奔放な性格で、両親に反発して家出するなど、家族とトラブルになることも多く、この当時は兄の武藤勇貴とは不仲だったようです。
06年12月30日、武藤勇貴は、妹の亜澄さんと口論になり、亜澄さんに「私には夢があるけど、兄さんにはないね」となじられたため逆上し、亜澄さんの背後から木刀で殴り、タオルで首を絞め、浴槽内に顔を沈めさせ窒息死させています。
その後、浴室で包丁とノコギリを使って亜澄さんの遺体を15個に切断。
髪をそり、両胸と下腹部を切り落とし、内臓はプラスチック容器に入れています。
そして、切断した遺体をポリ袋に詰めて、クローゼットとキャビネットに保管していました。
12月31日、父親に「観賞用のサメが死んで異臭がすると思うけど、部屋には入らないで」と告げて、予備校の合宿に出かけました。
1月3日、帰省から戻った母親が異臭に気づき、切断遺体を発見し事件が発覚しました。
「勇貴被告は生まれながらにアスペルガー障害に罹患していたが、高校卒業までは一般的な社会生活が著しく障害されることはなく、社会性のでは軽度の発達障害というべき病態だった。」
と判決は述べています。
そして、殺害時の心理状態については
「勇貴被告は、殺害時もことの善し悪しを見分ける能力は十分にあったが、亜澄さんから挑発的な言動を受けたことにより、怒りの感情を抱いた。
しかし、怒りの感情を抑制する機能が弱体化していたため、内奥にある激しい攻撃性が突出し、亜澄さんを殺害した。」
と述べています。
さらに、
「殺害に及んだことが衝撃となって解離性同一性障害による解離状態が生じ、死体損壊時には、本来の人格とは異なる獰猛な人格状態になっていた可能性が非常に高い。」
としています。
また、精神鑑定医は
「勇貴被告には、犯行時の記憶がほとんどなく、犯行前後の記憶もない。
解離性健忘が生じた場合、その前後の記憶がなくなるという逆行性健忘や前向きの健忘を伴うことがよくある。」
とも述べています。
08年5月、東京地裁は殺人罪で懲役7年の判決を下しました。
死体損壊罪については、精神鑑定の結果を採用して無罪としました。
しかし、東京高裁では「死体損壊時にも責任能力はあった」として懲役12年とされています。
09年9月、最高裁が弁護側の上告を棄却して刑が確定しました。
この事件は、3浪中でストレスを抱えていた武藤勇貴が、妹の挑発的な言葉で逆上した結果の犯罪だったようです。
ただし、本人は受験に対するプレッシャーは感じてなかったと証言しています。
なお、武藤勇貴については、一般的に解離性障害の原因となるような幼時の虐待などは報告されていません。
そして、精神鑑定医は武藤勇貴の解離性障害はアスペルガー障害を基盤としていると報告しています。
しかし、地裁の判決では「アスペルガー障害を基盤にして解離性障害を発症した症例に関する研究は十分になされていない」とも述べられています。
三橋歌織と武藤勇貴の事件は同じ時期に起きています。
しかも、事件の現場となった二人の自宅(富ヶ谷と幡ヶ谷)は2キロ程度の距離の近さにあります。
同じ時期に近所で同じようなバラバラ殺人事件、しかも解離性障害が指摘される殺人事件が起きたのは、偶然なのでしょうが不思議な気がします。
◆少年A(14) 神戸連続児童殺傷事件(1997年)
少年は1982年7月7日生まれです。
父親は重工業メーカーに勤務、母親は専業主婦です。
少年は長男で1歳年下の次男、3歳年下の三男の3人兄弟で育ちました。
7歳までは2DKの社宅暮らしでしたが、その後は、2階建ての母方の祖母の家に引っ越しています。
母親は厳しいしつけをする人だったようです。祖母にも「あんたは、子供たちをよく叱って厳しすぎる。そんなんやったらあかん。子供が萎縮してしまうわ」と言われていたようです。
また、母親自身も「三男が生まれた頃は、少年Aが四歳、次男は三歳で寝不足な日も続いていたので、長男の少年Aには厳しく怒って注意していたかもしれません。」と述懐しています。
少年が五歳のころ「足が痛い、痛い」と言うので病院に連れていくと医者に
「長男さんをもっとかまってあげてください。おそらく精神的な面からくる症状でしょう。」
と言われています。
少年が小学校3年生のときの作文があります。
《 「まかいの大ま王」
お母さんは、やさしいときはあまりないけど、しゅくだいをわすれたり、ゆうことをきかなかったりすると、あたまから二本のつのがはえてきて、ふとんたたきをもって、目をひからせて、空がくらくなって、かみなりがびびーっとおちる。そして、ひっさつわざの「百たたき」がでます。お母さんは、えんま大おうでも手が出せない、まかいの大ま王です。 》
少年が小学校3年生のときに少し異常なできごとが起きています。
「兄弟3人が、三つ巴で取っ組み合いの喧嘩をしているところに帰ってきた夫が、長男の少年に手を上げ、怒鳴りつけました。
すると少年は、急に目を剥くというか変に虚ろな目になり、宙を指差して、
『前の家の炊事場が見える、団地に帰りたい、帰りたい』とうわ言のように喋りました。
その様子がとても普通ではなく、怯えたようにガタガタ震えだしました。」
この時、母親は少年を神経内科に連れていきましたが、「軽いノイローゼ」と診断されています。
少年が小学校4年生のころ祖母が亡くなっています。
母親は知らなかったそうですが、これを境に、少年の蛙やなめくじの解剖が始まったようです。
(中略:一連の『酒鬼薔薇』事件発生に至る前後の経緯と少年の逮捕)
母親は否定していますが、精神鑑定書によると少年は幼児期に厳しいしつけ(虐待)を受けていたようです。
《家庭における親密体験の乏しさを背景に、弟いじめと体罰との悪循環の下で「虐待者にして被虐退者」としての幼時を送り、“争う意思”すなわち攻撃性を中心に据えた、未熟、硬直的にして歪んだ社会的自己を発達させ、学童期において、狭隘で孤立した世界に閉じこもり、なまなましい空想に耽るようになった。 》
そして、精神鑑定書は事件に至る過程を説明しています。
《思春期発来前後のある時点で、動物の嗜虐的殺害が性的興奮と結合し、これに続く一時期、殺人幻想の白昼夢にふけり、現実の殺人の遂行を宿命的に不可避であると思い込むようになった。
この間、「空想上の遊び友達」、衝動の化身、守護神、あるいは「良心なき自分」が発生し、内的葛藤の代替物となったが、人格全体を覆う解離あるいは人格の全面的解体には至らなかった。
また、独自の独我論的哲学が構築され、本件非行の合理化に貢献した。
かくして衝動はついに内面の葛藤に打ち勝って自己貫徹し、一連の非行に及んだものである。》
また、少年には異常な性癖、行動があったわけですが精神病ではないとされています。
普通の知能を有し、意識も清明である。
精神病ではなく、それを疑わせる症状もない。責任能力はあった。
そして解離性障害の傾向や兆候も指摘されています。
非行時ならびに現在、離人症状、解離傾性が存在する。
しかし、本件一連の非行は解離の機制に起因したものではなく、解離された人格によって実行されたものでもない。
鑑定書の中で空想上の友達を語り、その姿も描いていたようです。
母親は手記で次のように書いています。
《「エグリちゃん」と名付けた身長45センチぐらいの女の子。
その絵は気持ち悪くなるようなグロテスクなものでした。
頭から脳がはみ出て、目玉も飛び出している醜い顔で、エグリちゃんはお腹が空くと自分の腕を食べてしまうそうです。
「ガルボス」という空想上の犬(絵はない)も友達で、「僕が暴力をふるうのは「ガルボス」の凶暴さのせい」と、話していました。》
「酒鬼薔薇聖斗は自分の中にいて、彼の存在を心の中で感じられていました。
だから、絵は描けません。
でも、エグリちゃんは自分の外にいる友達なので、絵にすることができます。」
宮崎勤は祖父が亡くなると、おかしくなり凶行を開始しました。
少年Aの場合は祖母が亡くなってから、異常な行動が始まっています。
良き理解者、保護者がいる安心できる生活環境が失われたことが、精神の変調を招き事件につながったように見えます。
↧
↧
三鷹ストーカー殺人/池永被告に懲役22年
<三鷹ストーカー殺人>
池永被告に懲役22年 遺族は怒り収まらず
2014年08月03日
東京都三鷹市で昨年10月、高3の女子生徒(18=当時)を刺殺したとして、殺人罪などに問われた元交際相手の無職池永チャールストーマス被告(22)の裁判員裁判が1日、東京地裁立川支部で行われ、同被告に懲役22年(求刑無期懲役)の実刑判決が言い渡された。
判決理由で裁判長は
「別れを切り出され『存在を全否定された』と苦痛を感じ、恨みや怒りを抱いた。
動機は身勝手で同情の余地は乏しい」
と指摘。
「逃げる生徒の急所を多数回刺しており執拗で残忍。1週間以上、殺害機会をうかがうなど計画性も高い」
と述べた。
交際中に撮影した生徒のプライベートな画像を、事件前後にインターネットに流出させたリベンジポルノについては「命を奪うだけでは飽き足らず、社会的にも手ひどく傷つけたことは極めて卑劣だ」と非難した。
一方で「母親のネグレクト(育児放棄)や、その交際相手からの虐待など、成育歴が一定程度影響した。若くて更生可能性もある」と述べた。
女子生徒の両親は1日、判決について「失望した。なんでこんなに軽いのか、全く理解できない」とのコメントを出した。
代理人弁護士によると、2人とも喪服姿で検察官の後ろのついたてで隠れた席に座り、遺影を立てて傍聴した。
両親はコメントの中で「判決はストーカーたちに誤ったメッセージを送ったことになる。この程度で済むならばやってしまおう、ということになりかねない」と指摘。
リベンジポルノ問題についても両親は「(判決は)リベンジポルノの犯罪の本質、被害の大きさを全く理解していない」と厳しく批判した。
■ストーカー殺人の理由
転載元 庚寅夜話
近年、ストーカーによる重大事件が増えているように見えます。
2013年にも4件の大きな事件が発生しています。
藤沢母娘殺人事件(1982年5月)
群馬県一家3人殺人事件(1998年1月)
西尾市女子高生ストーカー殺人事件(1999年8月)
桶川女子大生ストーカー殺人事件(1999年10月)
沼津市女子高生ストーカー殺人事件(2000年4月)
耳かき店員殺害事件(2009年8月)
長崎(西海市)女性2人殺害事件(2011年12月)
小牧市母娘殺人事件(2012年7月)
逗子ストーカー殺人事件(2012年11月)
伊勢原女性刺傷事件(2013年5月)
茨城ストーカー殺人事件(2013年5月)
三鷹女子高生ストーカー殺人事件(2013年10月)
市川ストーカー殺人事件(2013年11月)
ストーカー事件の犯人は、なぜ一銭の得にもならないうえに自らの破滅を招く殺人という行為を実行するのでしょうか?
そこには、相手を破壊してしまいたい衝動的で精神的な理由があるはずです。
ここでは、文献などで詳細な情報の得られた次の4つの事件について検討してみました。
藤沢母娘殺人事件(1982年5月)
西尾市女子高生ストーカー殺人事件(1999年8月)
桶川女子大生ストーカー殺人事件(1999年10月)
耳かき店員殺害事件(2009年8月)
◆ストーカー殺人の原因
これらの事件には、原因と思われる次のような特徴があります。
・犯人には母親による見捨てられ経験がある
・犯人の子供っぽさ
・被害者女性からの強い拒絶
ストーカー殺人事件の犯人は、母親に見捨てられた経験がトラウマになっていて、被害者女性に強く拒絶された時に、衝動的に殺意が沸きあがるのではないかと思います。
また、犯人の特徴として子供っぽさにもつながるのでしょうか、「酒を飲まない」ということもあげられます。
酒を飲まないのでストレスが発散できないのでしょうか。
◆藤沢母娘殺人事件(1982)
82年5月27日夜、藤沢市の会社員畑光治さん(46)方で、妻の晴子さん(45)、長女の真輝子さん(16)、次女の真理子さん(13)が、長女の交際相手だった藤間静波(21)と藤間静波の少年院仲間だった岸純太郎(19)によって惨殺されました。
藤間静波らは、3人を包丁や繰り小刀でめった突きにして殺しています。
藤間静波は、この後、共犯の岸純太郎をも殺しています。
また、藤間静波はこの事件の7ヶ月前に別の少年院仲間をも殺していました。
藤間静波(ふじませいは)は、60年8月21日に茅ヶ崎市で生まれています。
両親と妹の4人家族で、4畳半と6畳の2間の借家で生活していました。
父親は、中学校を卒業して予科練に入隊。
戦後は家業の農業や自転車店を営んでいましたが、結婚後に子供が生まれると平塚市に移り、平塚市内の会社で工員として勤務していました。
母親は、高岡市出身で高等女学校を卒業後は地元の役所に事務員として就職。
その後、藤沢市に転居して市内の会計事務所に勤務していました。
母親は、割とインテリだったようです。
藤間静波は5歳の時に交通事故に遭っています。
そして、67年に妹が誕生しました。
この夫婦は少し変わっています。
夫婦は役割分担を決め、父親が藤間静波、母親は妹を担当することになったようです。
母親は藤間静波を疎んじ妹ばかりを可愛がったそうです。
母親は、藤間静波が悪さをしてもかばっていた時期もありますが、小4のころに「静波はもう当てにできない。見切りをつけることにした。」と言っていたそうです。
藤間静波は、母親に見捨てられてしまったわけです。
なお、父親はおとなしく気の小さい人だったそうです。
藤間静波は、孤独でニコリともせず黙りこくっていることが多かったそうです。
学習意欲に乏しく成績は悪く、クラスでは嫌われ者で喧嘩っ早さだけが目立っていました。
3年の頃には学校近くの商店で万引きすることが数回あったようです。
4年の頃には同級生から疎外されるようになっていました。
成績も最悪状態に近づいていきました。
小学校高学年の頃の藤間静波は意外と影が薄く、事件後の取材などでも藤間静波のことを覚えていない同級生も多かったそうです。
藤間静波は、中学校ではいじめられっこだったようです。
その鬱憤をはらすかのように妹をいじめるようになっています。
2年の頃に、母親がネフローゼで寝込んでしまいました。
そのため、藤間静波の家庭内暴力は余計にひどくなったようです。
4畳半と6畳の二間しかない借家に、小学生の妹がピアノを買ってもらい、妹は6畳間を独占しています。
藤間静波は、「いちばん悔しかったこと」として妹にピアノが買い与えられたことをあげています。
なお、「最もうれしかったこと」としてジャングルジムから転落した時に、父親が寝ずに看病してくれたことをあげています。
藤間静波が家庭内で疎んじられ、いかに愛情に飢えていたか分かるエピソードです。
藤間静波は、中学校を卒業後は近くの自動車部品工場に旋盤工として就職しました。
しかし、そこは3ヶ月で辞めてしまいます。
その後は工場や新聞販売店など職を転々としますが、長くて3ヶ月、短いと4日間で辞めています。
17歳になった藤間静波は、平塚市内の事務所に忍び込んで、現金2千円を盗んで平塚署に逮捕されました。
事務所荒らしについての家裁での審判は初犯であるため、在宅での試験観察となりました。
その後、藤間静波は新聞配達店に勤めますが長続きしません。
78年6月、藤間静波はひったくりで警視庁三田署に逮捕されます。
二度目の逮捕であり、今度は中等少年院送りと決定され、新潟県長岡市の新潟少年学院に入りました。
この少年院では、年末に藤間静波は脱走を試みて連れ戻されています。
79年3月、藤間静波は小田原中等少年院に移送されます。
10月、仮退院となった藤間静波は、川崎市内の社会復帰施設に移ります。
親が引き取りを拒否したようです。
自宅には寄らずに施設に赴いたようです。
10月16日、藤間静波は川崎市内の耐火施設会社で働き始めました。
葛飾区の清掃工場で焼却炉関係の仕事を手伝い、次いで尼崎で発電所の仕事を6日間行っています。
耐火施設の仕事を辞めた後は、食品会社に行ったり、新幹線の保守工事の下請け会社に入ったりしました。
80年3月、藤間静波は窃盗(ひったくり)で平塚署に逮捕されました。
自宅でバールを振り上げて暴れる藤間静波に身の危険を感じた父親が110番通報し、駈けつけた平塚署員に藤間静波がひったくりして持ち帰った女物のハンドバックを差し出したのでした。
4月、藤間静波は久里浜特別少年院へと送られました。
81年5月、藤間静波は特別少年院を退院。
今回も、親は引き取りを拒否したため、横浜市内の厚生施設に身を寄せますが、そこを1日で飛び出し、自宅に近い左官屋で住み込みの仕事を始めています。
しかし、ここも4日間いただけで辞めてしまいます。
その後、少年院仲間の平山勝美のところに転がりこみ、一緒に鎌倉市内の空調設備会社で働きますが、ここも5日間で辞めています。
以後は、定職に就くことはなかったようです。
藤間静波は、少年院を出て以後はひったくりで生活していました。
1年間で、分かっているだけで322万円を稼いでいます。
起訴された窃盗10件の内8件は平山勝美との共犯、2件が単独の犯行でした。
81年11月20日、自転車で帰宅途中の畑真輝子さんは、藤間静波に路上でナンパされました。
81年12月15日、真輝子さんは藤間静波と辻堂駅で落ち合いデート。
熱海後楽園に行っています。
81年12月27日、藤間静波が真輝子さん方を突然訪問。
押し問答の末、真輝子さんは藤間静波を帰らせました。
81年12月31日、藤間静波と真輝子さんは、辻堂駅南口で会っています。
ここで、藤間静波は交際を迫りますが、真輝子さんはこれを断りました。
82年1月5日、藤間静波の真輝子さんへの電話攻勢が始まりました。
藤間静波は、真輝子さんの学校に有りもしないことを告げ口するような電話をかけています。
また、真輝子さんの母親が倒れたというような偽電話を学校へかけています。
1月下旬、藤間静波は真輝子さん宅に電話をかけ、応対した父親に真輝子さんに貸した金を返せと要求しました。
2月、藤間静波は真輝子さん宅を訪問。
金を返せと要求しています。
熱海でデートした時の費用を返せとの要求でした。
この時、父親は要求に応じて藤間静波に3千円を渡しています。
しかし、それでも藤間静波の電話攻勢は止みませんでした。
3月11日、藤間静波から電話があり、真輝子さんは辻堂駅で会うことになりました。
ここでも、藤間静波は交際を迫りますが、真輝子さんはこれを断っています。
3月下旬、真輝子さんは藤間静波と、また辻堂駅で会っています。
4月1日、藤間静波は、真輝子さん宅を訪問。しかし真輝子さんは不在でした。
事情をよく知らない妹の真理子さんが、藤間静波を真輝子さんの部屋へ招き入れています。
数日後、藤間静波は路上で偶然、真輝子さんと出会いますが、ここで、藤間静波は真輝子さんに3千円を返しています。
4月、藤間静波の電話攻勢がまた始まりましたが、真輝子さんはもちろん交際を拒絶しています。
真輝子さんは、電話で藤間静波との交際をきつい言葉で拒否したようです。
父親も電話に出ることもあったようですが、やはり交際を拒絶しました。
こうしたことで藤間静波は畑さん一家から侮辱されたと感じ、殺意が芽生え始めたようです。その後、畑さん宅には真夜中に無言電話がかかるようになります。
4月中旬、藤間静波は横浜で文化包丁1本購入。
兵庫県尼崎市で刺身包丁1本を万引き。
殺害の準備を始めています。
また、5月には自宅近くで繰り小刀も購入しています。
5月8日午後7時頃、藤間静波は畑さん宅を訪問しましたが、応対に出た母親の晴子さんに追い返されました。
午後8時過ぎ、藤間静波は畑さん宅を再び訪問。
母親が応対している間に、父親は110番に電話。
藤間静波は逃げて行きました。
その後、藤沢署員2名がやって来て事情を聴取して帰りました。
この後、真夜中の無言電話攻勢がまた始まっています。
5月26日、藤間静波は、少年院仲間の岸純太郎(19)に畑さん一家の殺害計画を打ち明けています。
5月27日、藤間静波は、岸純太郎と二人で畑さん一家の殺害計画を実行。
実行犯の二人は逃走しました。
事件後、藤間静波と岸純太郎の二人は証拠物を処分後、藤間静波の自宅へタクシーで帰り、藤間静波の手の傷の手当をしました。
藤間静波は、三人殺してきたことを両親に告白。
両親は藤間静波に自首を勧めましが、警察に連絡するようなことはしていません。
5月28日、犯人の二人はJR普通電車で大阪に着き、更に尼崎に移動。
その後、新幹線で博多に向かっています。
6月1日、特に目的もなく熊本へ。
6月2日、博多へ戻りました。
6月5日、寝台特急で博多から大阪に戻りました。
その後、尼崎に移動。
その夜、尼崎のマンションの踊り場で、藤間静波は共犯の岸純太郎を繰り小刀で刺殺しました。
藤間静波が岸純太郎の裏切りを恐れたからでした。
6月6日、夜中に、藤間静波はタクシーを乗り継ぎ名古屋へ移動。
ここで岸純太郎殺害の証拠物を始末しています。
その後、普通列車で静岡に移動。
6月7日、静岡から新幹線で東京駅に着き、池袋に移動。
6月8日、藤間静波は、池袋で手配師に声をかけられ大宮の建設工事現場で働くことになりました。
6月14日、警察は藤間静波の少年院仲間の証言から埼玉県内にいることをつかみ、聞き込み調査を行っています。
その結果、大宮の建設作業宿舎の近くで藤間静波は逮捕されました。
81年10月6日、藤間静波は少年院仲間の平山勝美(20)を殺しています。
藤間静波と平山勝美は、ひったくりを繰り返しながら横浜市鶴見区で共同生活をしていましたが、平山勝美は藤間静波の財布から現金20万円を盗んで姿をくらましました。
藤間静波は、平山勝美を探し出し返済を要求。藤間静波は平山勝美が裏切ったと感じたため、10月6日早朝に横浜市戸塚区で平山勝美を殺害しました。
その日の夜、藤間静波は横浜市鶴見区で無免許違反の現行犯で逮捕されました。
藤間静波は平山勝美の殺人容疑でも調べられましたが、10日間の勾留で釈放されています。藤間静波の母親が、自宅で寝ていたと嘘のアリバイを申し立てたおかげでした。
畑さん一家殺害の事件後、藤間静波は実家の母親に電話しており、母親は息子が大宮に居るのを知っていても、警察には話さず「北海道にいる」と答えています。
藤間静波は、拘置所の独房で窓ガラスを、頭を打ち付けて割り、割れたガラスで喉を突き刺そうとして刑務官に止められています。
「被告人は幼少時から集団生活になじまず、強い者には弱い一方で弱い者には強圧的になる傾向が強く、弱い者に対するいじめぶりは、子どものいたずらをこえる凶暴さが目立ち、そのため学友から結束して疎外され馬鹿にされて孤立化し、暴力行使の対象を家庭に移して家庭内暴力を累行し、対人不信、猜疑心の強い情性欠如・凶暴性を備えた偏倚な性格は長ずるに従ってますます深化昂進しているのである。
このような性格形成には、素質のほか親の思いやりに欠け、理に走る養育態度が影響していることが否定し得ないとしても、決して不遇な境遇に育ったものでもなく、また心身は健全で、精神障害は認められない。」
88年3月、地裁で死刑判決
00年1月、高裁で死刑判決支持
04年6月、最高裁で死刑が確定
07年12月、死刑執行
藤間静波は非行少年にしては珍しくシンナーはやりませんでした。
それどころか酒やたばこにも手を出さなかったようです。
藤間静波の好きだったのは牛乳で、他には果物も大好きで、チョコレートなどはいつもポケットに入れていたそうです。
藤間静波は、幼く見られることが多く、やさしい言葉使い、どちらかというとなよなよとした印象があったそうです。
同世代の女性によれば、「感じのいい人だな」と思ったという証言もあります。
それゆえに、畑真輝子さんは藤間静波に引っかかったのかもしれません。
◆西尾市女子高生ストーカー殺人事件(1999)
99年8月9日、愛知県西尾市で、高校2年の永谷英恵(はなえ)さんは自転車で登校途中にナイフで刺され死亡しました。
犯人は元同級生で無職の鈴村泰史(17)で、その場で逮捕されています。
犯人の鈴村泰史は、被害者の永谷英恵さんにストーカー行為をくりかえしていました。
鈴村泰史は、神戸の事件の酒鬼薔薇聖斗と同い年であり、酒鬼薔薇聖斗にあこがれていました。
この事件は、2000年に続発した少年による凶悪犯罪の先駆的な事件と言えると思います。
鈴村泰史の一家は、六畳二間の市営住宅に家族7人で暮らしていました。子供は2男、3女。鈴村泰史は長男で82年生まれです。
父親は中学卒業後、トヨタ自動車に養成工として2年間勤務した後、トラック運転手をしていました。
母親は高校卒業後、看護学校に入学し準看護学生として外科病院に勤務していましたが、そこで知り合った父親と結婚しています。
父親は仕事を転々としており鈴村泰史が小学校に上がるころには失業状態で、サラ金からの借金問題で夫婦は喧嘩が絶えなかったようです。
気の短い父親は、子供たちの前でも大声を出したり妻を殴ったりしていました。
母親によれば「夫は普段は大人しいが、いったん怒り出すと大声を出し、私を引きずりまわして足蹴りにするなど暴力的になりました」
父親は酒やギャンブルにものめりこんでいました。
96年にはサラ金からの負債が限度を超え、借金の調整裁判が行われています。
鈴村泰史は、無口で大人しく内向的な性格でした。
母親は弟妹を、間をおかずに出産しており鈴村泰史には十分な愛情を注げなかったようです。
そのため、鈴村泰史は、幼い頃から自分だけで悩みを背負い込み人に心を開かない内向的な性格になってしまったようです。
幼い頃は普通の子供と同様に友達と一緒に外で遊んでいました。
三年の時にクラス換えがあり友達がなくなって暗くなり元気がなくなったようです。
仮病で欠席することもあったそうです。
四年の時には、悪い友達と付き合い、喫煙や万引きをしたこともありました。
六年の頃には人と話すのが面倒になり放課後などには一人で机に座っているのが多くなったようです。
四、五年の頃には母親が何か聞いても答えず反抗的になり、以降は両親とはほとんど会話がなくなっています。
中学に入ると内向的な性格を直そうと明るく振舞うようになります。
しかし、三年になるとクラスでは寝てばかり過ごすようになりました。
高校受験に備え、祖母が出資して母屋の横にプレハブ小屋を建て、鈴村泰史の勉強部屋になりました。
父親が母屋に居る時には、鈴村泰史は小屋から一歩も出なかったそうです。
父親が不在でも母屋に来るのは食事や風呂の時ぐらいで、居心地の悪い我が家を抜け出し祖母の家に入り浸っていました。
この頃、神戸で事件を起こした同い年の酒鬼薔薇聖斗に強い影響を受けています。
鈴村泰史は、中学二年の9月ころから日記をつけ始め、その日あったことや、思いを連綿と綴っています。
この日記は事件を起こす前日まで書き続けられていました。
中学一年、鈴村泰史は英恵さんと同じクラスになり、異性として意識するようになります。
英恵さんに対しては落書きをしたり、マンガ本のエッチな部分を広げて見せたり、いたずらばかりでした。
鈴村泰史は、英恵さんとセックスがしたいと妄想していました。
中学二年、鈴村泰史は、英恵さんとは別のクラスになりましたが、英恵さんに対する欲望は変わりませんでした。
また、同時に別の女の子にも好意を持つようにもなっています。
中学三年、鈴村泰史は、英恵さんとは別クラスです。
英恵さんに好意を告白したいと思い続けていました。
10月6日午後3時頃、鈴村泰史は、公園横の路上で帰宅途中の英恵さんに「好きだ」「付き合って欲しい」と告白しましたが、「ごめん、他に好きな人がいる」と断られています。
10月24日にも英恵さんに話かけましたが冷たくされています。
12月6日、鈴村泰史は英恵さんがデートしているのを目撃。大きなショックを受けています。
12月下旬、鈴村泰史は異常なラブレターを英恵さんの下駄箱に入れています。
また、英恵さん宅にいたずら電話を頻繁にかけるようになります。
さらに、英恵さんの後をつけることも行っています。
「僕は女の子と話すのが苦手で、女の子と仲良くなったり付き合ったりできないなら、その代わりにレイプしたいと考えるようになりました」
高校時代、
鈴村泰史は、西尾東高校に合格し英恵さんと同じクラスになりますが、二週間後には学校に行かなくなりました。
この頃から、次第に悪いことを意識的に実行し始めています。
深夜徘徊、ごみあさり、自転車を盗むなどの行為をおこなっています。
7月中旬、鈴村泰史は高校に籍を置いたまま職安で職を探し、安城市内の自動車部品工場で働きますが一週間で辞めてしまいます。
7月27日、高校を正式に退学しました。
8月、鈴村泰史は、次第に英恵さんを殺す決意を固めます。
9月、英恵さん以外の女生徒にもいたずら電話を始めています。
10月、中三からやっていた新聞配達も遅刻がちになり、辞めています。
10月29日、鈴村泰史は、英恵さんを追いかけパソコンのプリンタを投げつけています。
脅かそうと思ったようです。
12月22日、鈴村泰史は、高校のガラス割りを実行しましたが、ニュースにはなりませんでした。
2月、鈴村泰史は、酒鬼薔薇聖斗のまねをして、猫の死骸を校門に置いています。
また、路上で女子高生を殴打する事件も起こしています。
3月5日、鈴村泰史は、高校の窓ガラスを61枚割る事件を起こしました。
その事件は、夕刊に小さく載ったようです。
4月1日、鈴村泰史は、自転車で引ったくりを実行し、現金6万2千円を得ています。
4月29日、鈴村泰史は、英恵さんの家に侵入し自転車を盗もうとしますが、鍵がかかっていたため断念しました。
腹いせに後輪をパンクさせています。
7月14日、鈴村泰史は、母親が貰ってきた西尾東高校のクラス写真を見て「自分は一人寂しい生活を送っているのに、てめえら、普通に高校に通いやがって」という猛烈な怒りを感じています。
この後、鈴村泰史は近所のホームセンターでぺティナイフ2本を購入しています。
7月、高校が夏休みに入っても、鈴村泰史は英恵さんを狙って周辺を徘徊しています。
そして、連日、英恵さんの家に偽名で電話をかけて在宅を確認しています。
8月9日、鈴村泰史は自転車で登校する英恵さんをつかまえ殺人を決行しました。
鈴村泰史は精神鑑定で「分裂病型人格障害」と診断されました。
精神病ではないが普通ではないという判断です。
鈴村泰史は永谷英恵さんの両親に謝罪の手紙を出していますが、その内容は謝罪にも反省にもなっておらず子供っぽい身勝手なものでした。
「僕みたいな社会に迷惑な人間が生き、英恵さんのような素晴らしい人格の人がなくなってしまい申し訳ない思いです。
恐らく永谷様は僕を憎み、死をもって償ってほしいとお思いだと存じます。
たいへん申し訳ない話なのですが、僕はこれだけ酷いことをしておきながらも早く外に出たいと思っており、当然のことながら、できるだけ長生きしたいと思っています。」
鈴村泰史は、懲役5年以上10年以下の刑に服することになりました。
18歳未満の少年に対する不定期刑としては最も重い刑です。
裁判官は次のように述べています。
「犯行に見られる被告人の自己中心的で、情感に乏しい人格が形成されるについては、夫婦喧嘩が絶えず、母親に暴力を振るう父親や、精神的に安定しない母親の存在など家庭環境の影響も大きいと考えられる」
鈴村泰史は、神戸の事件の酒鬼薔薇聖斗にあこがれており、日記では「猛末期頽死」を自称していました。
猫の死骸を校門に置いたり、女子高生を殴打する事件を起こしたりしたのは、酒鬼薔薇聖斗をまねしたものでした。
また、鈴村泰史は足立区綾瀬の女子高校生監禁殺人事件も参考にしており、女の子を監禁してレイプすることも夢想していました。
鈴村泰史は別の少女をレイプすることも考えていましたが、「僕は二人以上殺すと17歳の僕でも懲役15年くらいになってしまうだろうと予想していたので殺すのは英恵一人と決めていました」と日記に書いています。
鈴村泰史は、殺人を実行した場合、どのような刑事罰を受けるか、あるいは少年法により保護処分になるかを予想していました。
英恵さん一人を殺した場合、刑事罰の場合では懲役10年くらい、少年法を適用された場合は少年院で3年間くらいと予想していました。
鈴村泰史は、殺人を実行することにより、同級生たちをびっくりさせることを夢想していました。
高校のガラス割ったのも世間を騒がせることが目的でした。
一方で殺人のことを考えていて怖くなることもあったと供述しています。
鈴村泰史は、無理して悪を実行しようとしているという、気の小さい一面も持っています。
鈴村泰史は英恵さんを殺した動機の一番目として次のように書いています。
「英恵さんが他の男と付き合ったことが、大切な人が死んでしまったかのような人生最大のショックで、ふたりを見ていると苦痛を味わうので怒りを英恵さんに向けてしまった」
母親は弟妹を間をおかずに出産しており、鈴村泰史には十分な愛情を注げなかったようです。また、裁判でも指摘されていますが、母親には精神的に不安定なところがあったようです。
鈴村泰史には、幼い頃に母親に見捨てられたというトラウマがあったのではないかと思います。
12年8月、30歳になった鈴村泰史は蒲郡市内でコンサートを見に来ていた川崎市の女性(23)に「お前、俺の顔を見て気持ち悪いと言っただろう」と言いがかりをつけ、包丁を突きつけ、さらに女性を引き倒して引きずり、けがをさせています。
この事件で、鈴村泰史は、13年3月に名古屋地裁で懲役1年8ヶ月を言い渡されました。
◆桶川女子大生ストーカー殺人事件(1999)
99年10月26日、埼玉県のJR桶川駅前で女子大生の猪野詩織さん(21)が何者かに刺殺されました。
猪野詩織さんは執拗なストーカー被害にさらされていましたが、そのストーカーである小松和人(26)の依頼で、その兄が雇った男に殺された事件です。
主犯の小松和人は、池袋で7軒の違法風俗店を経営する男です。
兄の小松武史は板橋消防署の消防士ですが、弟の小松和人と風俗店を共同経営していました。
殺害実行犯は、兄の小松武史(33)に依頼された久保田祥史(34)です。
その他に殺人に関与したとして伊藤嘉孝(32)、川上聡(31)が起訴されました。
久保田祥史と川上聡は小松和人の経営する風俗店の店長でした。
また、伊藤嘉孝も店の幹部でした。
小松和人の上には見るからにヤクザ風の男がいて、時々、店にも顔を見せていました。
このヤクザ風の男は兄の小松武史でした。
事件後、池袋の店は閉めていましたが、数ヵ月後には池袋に新しい店を開いています。
99年1月6日、小松和人は、大宮のゲームセンターで猪野詩織さんと知り合っています。
小松和人は、偽名の小松誠という名刺を渡し車の販売をしている23歳の青年実業家と名乗っています。
年齢も3歳ほど若く自称しています。
小松和人は身長が180センチくらいある細身の男で、髪は天然パーマで少し染めていました。
真面目でやさしい印象があったようです。
それから2ヶ月ほどは、二人の付き合いは横浜にドライブに行ったり、ディズニーランドに遊びに行ったりと普通のものでした。
詩織さんの女性の友人を含む三人で沖縄旅行にも行っています。
そのうちに小松和人は詩織さんにヴィトンのバッグや高級スーツをプレゼントするようになります。
99年3月になって小松和人は本性を現し始めます。
詩織さんの言動で気に入らないことがあると
「うるせー、オラオラ、俺のことなめとんのか」と怒鳴るようになります。
また、「お前は俺に逆らうのか。なら、今までプレゼントした洋服代として百万円払え。払えないならソープに行って働いて金を作れ。今からお前の親の所に行くぞ、俺との付き合いのことを全部バラすぞ。」と脅すようになりました。
同時に、小松和人は詩織さんの生活を拘束するようになります。
携帯に30分おきに電話をかけ、繋がらないと自宅や友人のところまで電話をかけています。小松和人は嫉妬深い男でした。
4月21日、小松和人は詩織さんの携帯電話を折らせています。
登録してある電話番号を消させるためでした。
「お前は俺とだけ付き合うんだよ。その誠意をきちんと見せろ。」
小松和人は、詩織さんの男友達のところに電話して、「詩織に近づくな、俺の女に手を出すんなら、お前を告訴するぞ。」と脅しています。
また、小松和人は詩織さんの自宅電話番号、父親の会社などについて興信所に依頼して調査しています。
5月18日、詩織さんの21歳の誕生日でした。
小松和人が変貌して以来、プレゼントを受け取らない詩織さんに、小松和人はピンクの文字盤のロレックスと花束を持って詩織さんの自宅まで押しかけています。
この時は、詩織さんは花束だけを受け取っています。
6月14日、池袋の喫茶店で、詩織さんは意を決して小松和人に別れることを告げました。
「俺を裏切るやつは絶対に許さない、お前の父親に全部ばらしてやる」
小松和人は怒っていました。
小松和人は詩織さんに次のようにも言っていました。
「ふざけんな、絶対別れない、お前に天罰が下るんだ」
「お前の家を一家崩壊まで追い込んでやる」
「家族を地獄に落としてやる」
「お前の親父はリストラだ、お前は風俗で働くんだ」
この日、小松和人とやくざのような見知らぬ男二人が、詩織さんの自宅に押しかけ上がりこんでいます。
父親が帰宅し、男たちに抗議すると、小松和人の上司と名乗る男が「小松が会社の金を五百万ほど横領したんです。問いただしたところ、お宅の娘さんにそそのかされたと。私たちは娘さんを詐欺で訴えます。どうですか誠意を見せてもらえませんか。」と言いました。
詩織さんの父親は、この要求を突っぱねています。
「話があるなら警察に行こう」
しばらく押し問答した末、上司という男は「ここままじゃ済まないぞ。お前の会社に内容証明の手紙を送ってやる。覚えておけ。」と捨てゼリフを吐いて、男たちを連れて帰って行きました。
この小松和人の上司と名乗る大柄な男は兄の小松武史でした。社長を名乗るもう一人は仲間のYという男でした。
父親は、やり取りを録音しており、それを持って上尾警察署に相談しましたが、取り合ってもらえませんでした。
そして、小松和人は、この後に及んでも詩織さんに復縁を迫っていますが、もちろん詩織さんはこれを断っています。
猪野詩織さん宅に嫌がらせの電話が続き、
6月21日に家の電話番号を変更しましたが、2、3日後にはもう無言電話が入ってきています。
7月13日、自宅周辺に詩織さんを誹謗中傷するビラが大量に貼られていました。
また、ビラは詩織さんの通う大学近辺や駅構内、そして父親の勤める会社の近辺にまでばら撒かれていました。
さらに、板橋区内では詩織さんの写真に「援●交際OK」というメッセージ、自宅の電話番号までが印刷されたカードが発見されています。インターネットの掲示板でも同様の内容が流されていました。
7月29日、詩織さんは警察に働きかけ名誉毀損で刑事告訴を受理してもらいました。
しかし、警察は動くことはありませんでした。
しかも、後で警察はこの刑事告訴を取り下げるよう猪野さんに働きかけています。
こうした、一連の警察の動きは職務怠慢で、後に大問題となります。
8月23日、父親と詩織さんを中傷する手紙が、父親の会社に送られてきました。
勤務先の埼玉県内の支店に800通、東京の本社にも400通も送られてきました。
10月16日午前2時頃、詩織さんの家の前に2台の車が停まり、窓を開けたまま大音量で音楽をガンガン鳴らし、エンジンの空吹かしを行っています。
10月26日、詩織さんは桶川駅前で刺殺されてしまいました。
犯人は身長170センチくらいで小太りの30代の男です。
小松和人ではありませんでした。
小松和人は7月5日ころに沖縄へ逃げていたようです。
詩織さんへの嫌がらせが始まる直前です。
また、詩織さん刺殺事件の当日も小松和人は沖縄にいたようです。
12月19日、詩織さん刺殺の実行犯である久保田祥史が逮捕されました。
また、共犯として川上聡、小松武史、伊藤嘉孝もつかまりました。
川上聡は逃走車両の運転手役、伊藤嘉孝は詩織さんの見張り役だったそうです。
伊藤嘉孝も店の幹部でした。
兄の小松武史は実行犯3人に、報酬として1800万円を渡していました。
しかし、肝心のストーカー小松和人は逮捕されませんでした。
00年1月、警察は詩織さんを誹謗中傷するビラを撒いた名誉毀損の疑いで実行犯4人を含む12名を逮捕しました。
この件で、小松和人も指名手配されました。
指名手配された小松和人は北海道に潜伏していました。
1月27日、小松和人の遺体が屈斜路湖で発見されました。自殺だったようです。
道東からロシアに逃げようとしたが、失敗したようです。
詩織さんを刺殺した事件では、兄の小松武史が無期懲役、刺殺犯の久保田が懲役18年、見張り役の伊藤が懲役15年となりました。
また、名誉毀損の件では7名が略式起訴、2名が起訴猶予となりました。
小松和人は被疑者死亡のまま起訴猶予となりました。
3月、上尾警察署の3名の警察官が書類の改竄で懲戒免職され、書類送検されました。
後に3人は起訴され、執行猶予つきで懲役1年2ヶ月から1年6ヶ月の刑が言い渡されています。
その他に、埼玉県警本部長ら12人に減給、戒告などの処分が出ています。
また、この事件がきっかけとなりストーカー規制法が00年5月18日に成立しました。
小松和人には兄の他に姉もいるようですが、詳しい家族構成などは不明です。
また、小松和人の生い立ちなどについての情報もありません。
ただ、その性格うかがわせる多くのエピソードはあります。
○泣く男
風俗店を独立する時のトラブルで、小松和人は泣きながら「暴力団に言いつけてやる」と言ったそうです。
まるで子供のような言い方です。
○兄の保護
自動車販売店をクビになった時には、小松和人の兄が謝りに来たそうです。
また、詩織さん宅に兄などと押しかけた時に、小松和人は一言も喋らなかったようです。
詩織さんには強い態度で脅迫していますが、外に出ると何も言えない気の小さい男だったようです。
小松和人は兄の保護下で生きていたと言えるかも知れません。
○親に捨てられた
小松和人は、こぶしで壁を叩きながら「俺は親に捨てられたんだ」と泣きわめいたことがあったようです。
おそらく、親に見捨てられた体験がストーカー殺人を行うような不安定で激昂する性格になった原因の一つです。
○酒を飲まない
小松和人は、クラブに飲みに行っても、酒をほとんど飲まずに水ばかりを飲んでいたそうです。
なぜか、ストーカーは酒を飲まないようです。
先行するストーカー行為
小松和人は詩織さんの事件以前にも、女性とのトラブルを起こしていました。
一人はかつて沖縄にいた頃に知り合った女性で、もう一人はやはり埼玉の女子大生です。
どちらの場合も別れ話を持ち出されるとストーカー行為を繰り返していたそうです。
沖縄ではトラブルの果てに、自分の手首を切って自殺騒ぎを起こしていたようです。
小松和人は詩織さんに次のように言って脅かしたことがあるようです。
「前に同棲した女はさぁ、自殺未遂したんだよね。ちょっとお仕置きしたら、頭がおかしくなっちゃたんだ。」
◆耳かき店員殺害事件(2009)
事件
09年8月3日朝9時頃、千葉市に住む会社員・林貢二(41)が、新橋駅近くにある一軒の住宅に押し入り、鉢合わせした鈴木芳江さん(78)を一階で刺殺。
その後、二階で寝ていた孫の江尻美保さん(21)をメッタ刺しにしました。江尻美保さんは植物状態になり一ヵ月後に死亡しました。
江尻美保さんは山本耳かき店の秋葉原店に勤務しており、林貢二はその店の常連客でした。
07年12月、19歳の江尻美保さんは山本耳かき店の面接を受け「まりな」という源氏名で勤め始めます。
そして、林貢二は「よしかわ」という偽名で「まりな」の元に通い始めます。
この耳かき店は、腰板と天井から下げられた布またはすだれで仕切られた3~4畳ほど部屋で耳かき、耳の産毛掃除、手のひらマッサージ、ヘッドマッサージ、肩のマッサージのサービスを行っていました。
耳かきのサービスを行う時は、客の顔に折り畳んだ手拭いが掛けられ、手がじかに客の顔に触れないようにしていたそうです。
もちろん性的なサービスはありません。
基本料金は30分で2700円、1時間で4800円。
延長は30分ごとに2700円、指名料は30分ごとに500円です。
この耳かき店の従業員は、小町と呼ばれていたそうです。
山本耳かき店のホームページには、小町(従業員)のブログがあり、客もコメントを書き込めるようになっていました。
一般の人は客のコメントは読めないが、それに対する小町のコメント返しは読めるようになっていました。
江尻美保さんは和菓子店でアルバイトをしていましたが、腰を痛めたために、そのアルバイトを辞め耳かき店に勤め始めたようです。
耳かき店では、指名料を入れると1時間3千円が小町(従業員)の取り分でした。
美保さんは多い月で65万円を稼いでいたようです。
父親がケガで仕事を休んでいるので、家族のために一生懸命に働いていたようです。
08年2月に初めて来店した林貢二は、江尻美保さんを指名する常連客となりました。
08年6月頃には、一回あたりの滞在時間は3時間におよぶようになっていました。
林貢二は、土日には、いつも山本耳かき店に通っていました。
08年7月15日(火)、この日は美保さんの20歳の誕生日でした。
平日ですが、林貢二は特別に有給休暇を取って耳かき店の開店時間の12時に合わせ11時半頃には秋葉原駅に到着しました。
そこで、林貢二は出勤する美保さんにバッタリ出会います。
林貢二は偶然だと証言していますが、美保さんは待ち伏せされたと同僚たちに話しています。
二人はそこでは言葉を交わしただけで、美保さんが先に駅を出て、少し遅れて林貢二は店に向かいました。
耳かき店に着いた林貢二は、美保さんと同僚の話を立ち聞きしてしまいます。
美保さんは、林貢二に待ち伏せされたことを「嫌な目にあった」と話していたのです。
他のスタッフも「気持ち悪い」と言っていました。
それまでは、林貢二は美保さんが好意を抱いてくれていると思っていましたが、実は嫌われていることが分かったのです。
林貢二は、その日は予約してあったのですが、店には入らずに帰ってしまっています。
耳かき店の店長は、林貢二らしき人がうなだれて階段を降りて行くのを見たと証言しています。
この直後の土日(19、20日)にも、いつもの林貢二は山本耳かき店を訪れていません。
08年7月20日(日)、林貢二を心配したのか、美保さんはブログに「突然だけと元気かなぁピヨ吉・・・」と書き込んでいます。
ピヨ吉は林貢二のあだ名だったようです。
これを読んだのか、林貢二は早速、次回の予約を入れています。
8月の最終週になると、林貢二は土日に加え金曜日も耳かき店に通うようになりました。
こうして頻繁に通うようになった林貢二は、美保さんとも親しくなり、美保さんの本名や携帯のメールアドレスなどを教えてもらうようになりました。
この頃には、林貢二の土日の滞在時間は7、8時間にも及んでいました。
林貢二は、月に3、40万円を耳かき店につぎ込んでいたことになります。
08年11月末、美保さんは土日祝に新宿東口店での深夜勤務も始めています。
林貢二は、秋葉原店から新宿東口店への移動を美保さんと一緒に行きたいと要求しますが、店側に断られています。
08年の年末から年始にまで連続9日間、林貢二は耳かき店に来ていました。
09年のバンレンタインデーに、林貢二は美保さんに任天堂のゲーム機「Wii」をプレゼントしています。
美保さんの希望だったようです。
この頃、林貢二は美保さんに手を握っていて欲しいという要求を出しています。
美保さんは、手を握らせて欲しいと要求されて困っていると店長に相談しています。
09年3月、美保さんは土日のシフトを午後5時までに変更しました。
午後5時以降は林貢二の指名を受けるようにして、それ以前の時間に他のお客さんの予約を入れるようにするためだったようです。
09年4月5日、林貢二は、美保さんを強引に店外での食事に誘いますが店の決まりもあり、美保さんはこれを断ります。
美保さんの同僚の証言では、林貢二は「僕のことをどう思っているの?付き合ってくれないならもう来ない。」と言ったので、美保さんは「そういう気持ちで来るならもう来ないでください。」と答えたようです。
林貢二は「もういいよ。帰るよ。」と捨てゼリフを吐いて店を出たようです。
09年4月7日、林貢二は「また次行くから」とメールを入れますが、美保さんは「もう無理」、「もう来ないと言ったじゃないですか」と答えています。
4月の終わり頃か5月の初めに、林貢二は直接会って話をしないとダメだと思い、美保さんを待ち伏せします。
秋葉原駅から美保さんの後をつけ、新橋駅を降りて日比谷通りを超えたあたりで声を掛けています。
夜の10時半ころから11時ごろです。
林貢二は「(店に)また行きたい」と言いましたが、美保さんは「もう無理です」と答えています。押し問答を繰り返したようですが、美保さんは「無理です」を繰り返したそうです。
林貢二は、「(無理だという)理由も言っていない。正直、訳が分かりませんでした。」と証言しています。
林貢二による待ち伏せ事件の後、美保さんは新橋店の店長に自宅まで送ってもらうようになりました。
林貢二は、耳かき店で長時間に渡り美保さんと過ごして話している間に、美保さんの自宅のおよその住所や家族構成、彼女の部屋が二階にあることなどを知っていました。
しかし、新橋店店長のボディガードは7月上旬に終了しています。
林貢二は現れなかったようです。
7月19日、林貢二は美保さんを再び待ち伏せしています。
林貢二の証言によれば、この時も前回と同様の押し問答になり、美保さんは走って逃げたそうです。
この時は、美保さんはコンビニに逃げ込み警察に通報し、警察官と一緒に帰宅したようです。この後、店側は一週間ほど美保さんの送り迎えをしたそう。
待ち伏せ事件の翌日にメールで自分の思いを伝えようとして、林貢二は美保さんにメールを打ちますが、メールアドレスが変更されていて届きませんでした。
林貢二は
「(許してもらえる可能性は)限りなく『ない』と思いました」、
「怒りのような感情を持ちました」
と証言しています。
8月1日、美保さんの母親から「家の近辺に怪しい人影があり、送ってほしい」との連絡が店にあり、新橋店店長が同行して美保さんは帰宅しています。
この日、林貢二は美保さんに会えなくて絶望感があったと証言しています。
「私自身が行動を起こすと、私が追い詰められていく。
ひとつひとつの道が閉ざされ、追いつめられる感じ。絶望感でした。」、
「怒りや悲しみもありました。」
8月2日、美保さんは母親と一緒に帰っています。
二人の後ろから、さらに新橋店店長がついていったようです。
8月3日朝、林貢二はカバンにハンマー、果物ナイフ、ぺティナイフを入れて江尻美保さん宅に向かいました。
8時50分、林貢二は江尻家の玄関を開け、惨劇が開始されました。
逮捕された林貢二は、弁護士の初回の接見で、ほとんど泣き通しだったそうです。
すぐ泣く林貢二の姿がそこにありました。
10年11月1日、東京地裁は林貢二に無期懲役を言い渡しました。
11月15日、両者から控訴がなく無期懲役が確定しました。
裁判で、林貢二は美保さんに恋愛感情は持っておらず、『広い意味での好き』であったと主張し、このことにこだわっています。
しかし、裁判長は判決文で次のように述べて叱っています。
「被告人は江尻さんへの思いを募らせ、会えないことを悩み、強い殺意を抱くほど強い愛情を有することは明らかである。
-中略-
しかし、被告人は『恋愛感情』という言葉の定義にこだわり『恋愛感情は持っていなかった』と述べるに留まっている。
そのようなことにこだわるのでは、事件を真剣に振り返り、反省していることにはならない。」
二人っきりの部屋で、膝枕をしてもらうと男は一種の赤ちゃん返りの精神状態になり、馴染みになった女性に対し母親のように甘えたりすることは、有り得ることだと思います。
そんな環境下でも、林貢二は少し変わった人だと受け止められていたようです。
美保さんの同僚の話では、なんでもない会話で泣いたりすることが、よくあったようです。
美保さんが冗談で「けち」と言ったら泣いたり、美保さんが差し入れを食べないと泣いたりしていたそうです。
また、林貢二は自分のことをどう思うと聞くことがよくあったようです。
「僕のことを、かっこよくない、ふつう、かっこいい、の3段階で分けるとどのへん?」と聞かれて、美保さんが「ふつうよりちょっと上」と答えたら、林貢二は不機嫌になってふてくされていたそうです。
もちろん本当の母親なら、よしよしをして慰めてくれる場面かもしれません。
耳かき店店長は、林貢二は常に上から目線で話す人物で「江尻さんの前では泣いたりすねたり子供みたいな行為が多かったと聞きました」と証言しています。
耳かき店の従業員にとって、林貢二は面倒くさい人間だったようです。
耳かき店の従業員は、林貢二はよく泣いていたと証言していますが、本人は店内で泣いたことはないと主張しています。
金曜日にも通うことなった件や深夜の新宿東口店にも通うことになった件などは、美保さんに誘われたからだと、林貢二は証言しています。店外デートの件についても美保さんが誘ったかのような証言をしています。
また、林貢二は江尻美保さんに対して恋愛感情はなかったと証言していますが、これについては、前述したように裁判長にも「反省がない」と厳しく指摘されています。
林貢二が自分の都合よいように嘘をついているのか、それとも思い込みの激しい人なのか、よく分かりません。
林貢二は遺族に手紙を書いています。
『許されるなら、一生懸命に働いて、少しでも被害者のご家族にお役に立ちたいと考えております』
『私の思い上がりかもしれませんが、私にできることは懸命に働くことだと思います』
林貢二は、死にたくないと考えているようです。
何か往生際の悪い、子供っぽい自己中心的な考え方を感じます。
林貢二は、江尻美保さんの祖母の鈴木芳江さんにも執拗な凶行を加えています。
何度もハンマーで殴ったうえ、果物ナイフで頭・顔・首を20回以上メッタ刺しにしています。
ナイフは折れ曲がっていたそうです。
林貢二の目的は江尻美保さんであり、鈴木芳江さんは単なる障害物であったはずです。
邪魔な鈴木芳江さんは排除できれば、それで良かったはずなのに執拗にナイフで刺しています。
林貢二は、興奮状態にあったとも考えられますが、鈴木芳江さんの殺害後には冷静に階段を登り、音をたてないようにふすまを開け、ぺティナイフで江尻美保さんの殺害に及んでいます。
鈴木芳江さんへの執拗な攻撃には別の理由も考えられます。
林貢二は意識してないかもしれませんが、自身の母親への恨みです。
自分の母親と似たような年齢の女性だったので、自分の母親とイメージがダブったのではないでしょうか。
林貢二は、電気関係の専門学校を卒業後に設計関係の会社に就職。
事件当時もそこで働いていました。
肩書は設計主任です。
上司は、「黙々と仕事をこなし、人の嫌がる現場でも進んで仕事をしてくれる、まじめな人という印象」と証言しています。
酒が飲めないため、飲み会などではウーロン茶などを静かに飲んでいる人だったようです。
28歳から千葉市で一人暮らしをしています。結婚歴はなく独身です。
女性との交際は乏しく、女性と付き合ったことはなかったようです。
26歳のころ膠原病を発症しており、再発の恐れがあるため、結婚は考えなくなったと証言しています。
林貢二は、事件当時は一千万円ほどの預金がありました。
収入のほとんどを耳かき店につぎ込んでいましたので、生活費は預金を切り崩していたようです。
精神鑑定の結果、抑鬱反応は見られたが、精神状態に問題は認められませんでした。
林貢二の家族は両親と兄の4人です。
林貢二の小中学校のころの成績は下の方で、高校に入ってからは、成績はさらに落ちたそうです。
28歳で就職していますが、父親がわがままな人で、『出て行け』ということになり、一人暮らしを始めたようです。
林貢二は、実家には年に1、2回帰っていたそうです。
元旦には、たいてい午前中に来て、暗くなって夕飯を食べて帰ったそうです。
母親によれば、拘置所では、最初のころは何回行っても泣いており、話はできなかったそうです。
母親は、「父親がわがままな人で」と証言しています。
家族関係に問題がありそうですが、詳しいことは分かりません。
池永被告に懲役22年 遺族は怒り収まらず
2014年08月03日
東京都三鷹市で昨年10月、高3の女子生徒(18=当時)を刺殺したとして、殺人罪などに問われた元交際相手の無職池永チャールストーマス被告(22)の裁判員裁判が1日、東京地裁立川支部で行われ、同被告に懲役22年(求刑無期懲役)の実刑判決が言い渡された。
判決理由で裁判長は
「別れを切り出され『存在を全否定された』と苦痛を感じ、恨みや怒りを抱いた。
動機は身勝手で同情の余地は乏しい」
と指摘。
「逃げる生徒の急所を多数回刺しており執拗で残忍。1週間以上、殺害機会をうかがうなど計画性も高い」
と述べた。
交際中に撮影した生徒のプライベートな画像を、事件前後にインターネットに流出させたリベンジポルノについては「命を奪うだけでは飽き足らず、社会的にも手ひどく傷つけたことは極めて卑劣だ」と非難した。
一方で「母親のネグレクト(育児放棄)や、その交際相手からの虐待など、成育歴が一定程度影響した。若くて更生可能性もある」と述べた。
女子生徒の両親は1日、判決について「失望した。なんでこんなに軽いのか、全く理解できない」とのコメントを出した。
代理人弁護士によると、2人とも喪服姿で検察官の後ろのついたてで隠れた席に座り、遺影を立てて傍聴した。
両親はコメントの中で「判決はストーカーたちに誤ったメッセージを送ったことになる。この程度で済むならばやってしまおう、ということになりかねない」と指摘。
リベンジポルノ問題についても両親は「(判決は)リベンジポルノの犯罪の本質、被害の大きさを全く理解していない」と厳しく批判した。
■ストーカー殺人の理由
転載元 庚寅夜話
近年、ストーカーによる重大事件が増えているように見えます。
2013年にも4件の大きな事件が発生しています。
藤沢母娘殺人事件(1982年5月)
群馬県一家3人殺人事件(1998年1月)
西尾市女子高生ストーカー殺人事件(1999年8月)
桶川女子大生ストーカー殺人事件(1999年10月)
沼津市女子高生ストーカー殺人事件(2000年4月)
耳かき店員殺害事件(2009年8月)
長崎(西海市)女性2人殺害事件(2011年12月)
小牧市母娘殺人事件(2012年7月)
逗子ストーカー殺人事件(2012年11月)
伊勢原女性刺傷事件(2013年5月)
茨城ストーカー殺人事件(2013年5月)
三鷹女子高生ストーカー殺人事件(2013年10月)
市川ストーカー殺人事件(2013年11月)
ストーカー事件の犯人は、なぜ一銭の得にもならないうえに自らの破滅を招く殺人という行為を実行するのでしょうか?
そこには、相手を破壊してしまいたい衝動的で精神的な理由があるはずです。
ここでは、文献などで詳細な情報の得られた次の4つの事件について検討してみました。
藤沢母娘殺人事件(1982年5月)
西尾市女子高生ストーカー殺人事件(1999年8月)
桶川女子大生ストーカー殺人事件(1999年10月)
耳かき店員殺害事件(2009年8月)
◆ストーカー殺人の原因
これらの事件には、原因と思われる次のような特徴があります。
・犯人には母親による見捨てられ経験がある
・犯人の子供っぽさ
・被害者女性からの強い拒絶
ストーカー殺人事件の犯人は、母親に見捨てられた経験がトラウマになっていて、被害者女性に強く拒絶された時に、衝動的に殺意が沸きあがるのではないかと思います。
また、犯人の特徴として子供っぽさにもつながるのでしょうか、「酒を飲まない」ということもあげられます。
酒を飲まないのでストレスが発散できないのでしょうか。
◆藤沢母娘殺人事件(1982)
82年5月27日夜、藤沢市の会社員畑光治さん(46)方で、妻の晴子さん(45)、長女の真輝子さん(16)、次女の真理子さん(13)が、長女の交際相手だった藤間静波(21)と藤間静波の少年院仲間だった岸純太郎(19)によって惨殺されました。
藤間静波らは、3人を包丁や繰り小刀でめった突きにして殺しています。
藤間静波は、この後、共犯の岸純太郎をも殺しています。
また、藤間静波はこの事件の7ヶ月前に別の少年院仲間をも殺していました。
藤間静波(ふじませいは)は、60年8月21日に茅ヶ崎市で生まれています。
両親と妹の4人家族で、4畳半と6畳の2間の借家で生活していました。
父親は、中学校を卒業して予科練に入隊。
戦後は家業の農業や自転車店を営んでいましたが、結婚後に子供が生まれると平塚市に移り、平塚市内の会社で工員として勤務していました。
母親は、高岡市出身で高等女学校を卒業後は地元の役所に事務員として就職。
その後、藤沢市に転居して市内の会計事務所に勤務していました。
母親は、割とインテリだったようです。
藤間静波は5歳の時に交通事故に遭っています。
そして、67年に妹が誕生しました。
この夫婦は少し変わっています。
夫婦は役割分担を決め、父親が藤間静波、母親は妹を担当することになったようです。
母親は藤間静波を疎んじ妹ばかりを可愛がったそうです。
母親は、藤間静波が悪さをしてもかばっていた時期もありますが、小4のころに「静波はもう当てにできない。見切りをつけることにした。」と言っていたそうです。
藤間静波は、母親に見捨てられてしまったわけです。
なお、父親はおとなしく気の小さい人だったそうです。
藤間静波は、孤独でニコリともせず黙りこくっていることが多かったそうです。
学習意欲に乏しく成績は悪く、クラスでは嫌われ者で喧嘩っ早さだけが目立っていました。
3年の頃には学校近くの商店で万引きすることが数回あったようです。
4年の頃には同級生から疎外されるようになっていました。
成績も最悪状態に近づいていきました。
小学校高学年の頃の藤間静波は意外と影が薄く、事件後の取材などでも藤間静波のことを覚えていない同級生も多かったそうです。
藤間静波は、中学校ではいじめられっこだったようです。
その鬱憤をはらすかのように妹をいじめるようになっています。
2年の頃に、母親がネフローゼで寝込んでしまいました。
そのため、藤間静波の家庭内暴力は余計にひどくなったようです。
4畳半と6畳の二間しかない借家に、小学生の妹がピアノを買ってもらい、妹は6畳間を独占しています。
藤間静波は、「いちばん悔しかったこと」として妹にピアノが買い与えられたことをあげています。
なお、「最もうれしかったこと」としてジャングルジムから転落した時に、父親が寝ずに看病してくれたことをあげています。
藤間静波が家庭内で疎んじられ、いかに愛情に飢えていたか分かるエピソードです。
藤間静波は、中学校を卒業後は近くの自動車部品工場に旋盤工として就職しました。
しかし、そこは3ヶ月で辞めてしまいます。
その後は工場や新聞販売店など職を転々としますが、長くて3ヶ月、短いと4日間で辞めています。
17歳になった藤間静波は、平塚市内の事務所に忍び込んで、現金2千円を盗んで平塚署に逮捕されました。
事務所荒らしについての家裁での審判は初犯であるため、在宅での試験観察となりました。
その後、藤間静波は新聞配達店に勤めますが長続きしません。
78年6月、藤間静波はひったくりで警視庁三田署に逮捕されます。
二度目の逮捕であり、今度は中等少年院送りと決定され、新潟県長岡市の新潟少年学院に入りました。
この少年院では、年末に藤間静波は脱走を試みて連れ戻されています。
79年3月、藤間静波は小田原中等少年院に移送されます。
10月、仮退院となった藤間静波は、川崎市内の社会復帰施設に移ります。
親が引き取りを拒否したようです。
自宅には寄らずに施設に赴いたようです。
10月16日、藤間静波は川崎市内の耐火施設会社で働き始めました。
葛飾区の清掃工場で焼却炉関係の仕事を手伝い、次いで尼崎で発電所の仕事を6日間行っています。
耐火施設の仕事を辞めた後は、食品会社に行ったり、新幹線の保守工事の下請け会社に入ったりしました。
80年3月、藤間静波は窃盗(ひったくり)で平塚署に逮捕されました。
自宅でバールを振り上げて暴れる藤間静波に身の危険を感じた父親が110番通報し、駈けつけた平塚署員に藤間静波がひったくりして持ち帰った女物のハンドバックを差し出したのでした。
4月、藤間静波は久里浜特別少年院へと送られました。
81年5月、藤間静波は特別少年院を退院。
今回も、親は引き取りを拒否したため、横浜市内の厚生施設に身を寄せますが、そこを1日で飛び出し、自宅に近い左官屋で住み込みの仕事を始めています。
しかし、ここも4日間いただけで辞めてしまいます。
その後、少年院仲間の平山勝美のところに転がりこみ、一緒に鎌倉市内の空調設備会社で働きますが、ここも5日間で辞めています。
以後は、定職に就くことはなかったようです。
藤間静波は、少年院を出て以後はひったくりで生活していました。
1年間で、分かっているだけで322万円を稼いでいます。
起訴された窃盗10件の内8件は平山勝美との共犯、2件が単独の犯行でした。
81年11月20日、自転車で帰宅途中の畑真輝子さんは、藤間静波に路上でナンパされました。
81年12月15日、真輝子さんは藤間静波と辻堂駅で落ち合いデート。
熱海後楽園に行っています。
81年12月27日、藤間静波が真輝子さん方を突然訪問。
押し問答の末、真輝子さんは藤間静波を帰らせました。
81年12月31日、藤間静波と真輝子さんは、辻堂駅南口で会っています。
ここで、藤間静波は交際を迫りますが、真輝子さんはこれを断りました。
82年1月5日、藤間静波の真輝子さんへの電話攻勢が始まりました。
藤間静波は、真輝子さんの学校に有りもしないことを告げ口するような電話をかけています。
また、真輝子さんの母親が倒れたというような偽電話を学校へかけています。
1月下旬、藤間静波は真輝子さん宅に電話をかけ、応対した父親に真輝子さんに貸した金を返せと要求しました。
2月、藤間静波は真輝子さん宅を訪問。
金を返せと要求しています。
熱海でデートした時の費用を返せとの要求でした。
この時、父親は要求に応じて藤間静波に3千円を渡しています。
しかし、それでも藤間静波の電話攻勢は止みませんでした。
3月11日、藤間静波から電話があり、真輝子さんは辻堂駅で会うことになりました。
ここでも、藤間静波は交際を迫りますが、真輝子さんはこれを断っています。
3月下旬、真輝子さんは藤間静波と、また辻堂駅で会っています。
4月1日、藤間静波は、真輝子さん宅を訪問。しかし真輝子さんは不在でした。
事情をよく知らない妹の真理子さんが、藤間静波を真輝子さんの部屋へ招き入れています。
数日後、藤間静波は路上で偶然、真輝子さんと出会いますが、ここで、藤間静波は真輝子さんに3千円を返しています。
4月、藤間静波の電話攻勢がまた始まりましたが、真輝子さんはもちろん交際を拒絶しています。
真輝子さんは、電話で藤間静波との交際をきつい言葉で拒否したようです。
父親も電話に出ることもあったようですが、やはり交際を拒絶しました。
こうしたことで藤間静波は畑さん一家から侮辱されたと感じ、殺意が芽生え始めたようです。その後、畑さん宅には真夜中に無言電話がかかるようになります。
4月中旬、藤間静波は横浜で文化包丁1本購入。
兵庫県尼崎市で刺身包丁1本を万引き。
殺害の準備を始めています。
また、5月には自宅近くで繰り小刀も購入しています。
5月8日午後7時頃、藤間静波は畑さん宅を訪問しましたが、応対に出た母親の晴子さんに追い返されました。
午後8時過ぎ、藤間静波は畑さん宅を再び訪問。
母親が応対している間に、父親は110番に電話。
藤間静波は逃げて行きました。
その後、藤沢署員2名がやって来て事情を聴取して帰りました。
この後、真夜中の無言電話攻勢がまた始まっています。
5月26日、藤間静波は、少年院仲間の岸純太郎(19)に畑さん一家の殺害計画を打ち明けています。
5月27日、藤間静波は、岸純太郎と二人で畑さん一家の殺害計画を実行。
実行犯の二人は逃走しました。
事件後、藤間静波と岸純太郎の二人は証拠物を処分後、藤間静波の自宅へタクシーで帰り、藤間静波の手の傷の手当をしました。
藤間静波は、三人殺してきたことを両親に告白。
両親は藤間静波に自首を勧めましが、警察に連絡するようなことはしていません。
5月28日、犯人の二人はJR普通電車で大阪に着き、更に尼崎に移動。
その後、新幹線で博多に向かっています。
6月1日、特に目的もなく熊本へ。
6月2日、博多へ戻りました。
6月5日、寝台特急で博多から大阪に戻りました。
その後、尼崎に移動。
その夜、尼崎のマンションの踊り場で、藤間静波は共犯の岸純太郎を繰り小刀で刺殺しました。
藤間静波が岸純太郎の裏切りを恐れたからでした。
6月6日、夜中に、藤間静波はタクシーを乗り継ぎ名古屋へ移動。
ここで岸純太郎殺害の証拠物を始末しています。
その後、普通列車で静岡に移動。
6月7日、静岡から新幹線で東京駅に着き、池袋に移動。
6月8日、藤間静波は、池袋で手配師に声をかけられ大宮の建設工事現場で働くことになりました。
6月14日、警察は藤間静波の少年院仲間の証言から埼玉県内にいることをつかみ、聞き込み調査を行っています。
その結果、大宮の建設作業宿舎の近くで藤間静波は逮捕されました。
81年10月6日、藤間静波は少年院仲間の平山勝美(20)を殺しています。
藤間静波と平山勝美は、ひったくりを繰り返しながら横浜市鶴見区で共同生活をしていましたが、平山勝美は藤間静波の財布から現金20万円を盗んで姿をくらましました。
藤間静波は、平山勝美を探し出し返済を要求。藤間静波は平山勝美が裏切ったと感じたため、10月6日早朝に横浜市戸塚区で平山勝美を殺害しました。
その日の夜、藤間静波は横浜市鶴見区で無免許違反の現行犯で逮捕されました。
藤間静波は平山勝美の殺人容疑でも調べられましたが、10日間の勾留で釈放されています。藤間静波の母親が、自宅で寝ていたと嘘のアリバイを申し立てたおかげでした。
畑さん一家殺害の事件後、藤間静波は実家の母親に電話しており、母親は息子が大宮に居るのを知っていても、警察には話さず「北海道にいる」と答えています。
藤間静波は、拘置所の独房で窓ガラスを、頭を打ち付けて割り、割れたガラスで喉を突き刺そうとして刑務官に止められています。
「被告人は幼少時から集団生活になじまず、強い者には弱い一方で弱い者には強圧的になる傾向が強く、弱い者に対するいじめぶりは、子どものいたずらをこえる凶暴さが目立ち、そのため学友から結束して疎外され馬鹿にされて孤立化し、暴力行使の対象を家庭に移して家庭内暴力を累行し、対人不信、猜疑心の強い情性欠如・凶暴性を備えた偏倚な性格は長ずるに従ってますます深化昂進しているのである。
このような性格形成には、素質のほか親の思いやりに欠け、理に走る養育態度が影響していることが否定し得ないとしても、決して不遇な境遇に育ったものでもなく、また心身は健全で、精神障害は認められない。」
88年3月、地裁で死刑判決
00年1月、高裁で死刑判決支持
04年6月、最高裁で死刑が確定
07年12月、死刑執行
藤間静波は非行少年にしては珍しくシンナーはやりませんでした。
それどころか酒やたばこにも手を出さなかったようです。
藤間静波の好きだったのは牛乳で、他には果物も大好きで、チョコレートなどはいつもポケットに入れていたそうです。
藤間静波は、幼く見られることが多く、やさしい言葉使い、どちらかというとなよなよとした印象があったそうです。
同世代の女性によれば、「感じのいい人だな」と思ったという証言もあります。
それゆえに、畑真輝子さんは藤間静波に引っかかったのかもしれません。
◆西尾市女子高生ストーカー殺人事件(1999)
99年8月9日、愛知県西尾市で、高校2年の永谷英恵(はなえ)さんは自転車で登校途中にナイフで刺され死亡しました。
犯人は元同級生で無職の鈴村泰史(17)で、その場で逮捕されています。
犯人の鈴村泰史は、被害者の永谷英恵さんにストーカー行為をくりかえしていました。
鈴村泰史は、神戸の事件の酒鬼薔薇聖斗と同い年であり、酒鬼薔薇聖斗にあこがれていました。
この事件は、2000年に続発した少年による凶悪犯罪の先駆的な事件と言えると思います。
鈴村泰史の一家は、六畳二間の市営住宅に家族7人で暮らしていました。子供は2男、3女。鈴村泰史は長男で82年生まれです。
父親は中学卒業後、トヨタ自動車に養成工として2年間勤務した後、トラック運転手をしていました。
母親は高校卒業後、看護学校に入学し準看護学生として外科病院に勤務していましたが、そこで知り合った父親と結婚しています。
父親は仕事を転々としており鈴村泰史が小学校に上がるころには失業状態で、サラ金からの借金問題で夫婦は喧嘩が絶えなかったようです。
気の短い父親は、子供たちの前でも大声を出したり妻を殴ったりしていました。
母親によれば「夫は普段は大人しいが、いったん怒り出すと大声を出し、私を引きずりまわして足蹴りにするなど暴力的になりました」
父親は酒やギャンブルにものめりこんでいました。
96年にはサラ金からの負債が限度を超え、借金の調整裁判が行われています。
鈴村泰史は、無口で大人しく内向的な性格でした。
母親は弟妹を、間をおかずに出産しており鈴村泰史には十分な愛情を注げなかったようです。
そのため、鈴村泰史は、幼い頃から自分だけで悩みを背負い込み人に心を開かない内向的な性格になってしまったようです。
幼い頃は普通の子供と同様に友達と一緒に外で遊んでいました。
三年の時にクラス換えがあり友達がなくなって暗くなり元気がなくなったようです。
仮病で欠席することもあったそうです。
四年の時には、悪い友達と付き合い、喫煙や万引きをしたこともありました。
六年の頃には人と話すのが面倒になり放課後などには一人で机に座っているのが多くなったようです。
四、五年の頃には母親が何か聞いても答えず反抗的になり、以降は両親とはほとんど会話がなくなっています。
中学に入ると内向的な性格を直そうと明るく振舞うようになります。
しかし、三年になるとクラスでは寝てばかり過ごすようになりました。
高校受験に備え、祖母が出資して母屋の横にプレハブ小屋を建て、鈴村泰史の勉強部屋になりました。
父親が母屋に居る時には、鈴村泰史は小屋から一歩も出なかったそうです。
父親が不在でも母屋に来るのは食事や風呂の時ぐらいで、居心地の悪い我が家を抜け出し祖母の家に入り浸っていました。
この頃、神戸で事件を起こした同い年の酒鬼薔薇聖斗に強い影響を受けています。
鈴村泰史は、中学二年の9月ころから日記をつけ始め、その日あったことや、思いを連綿と綴っています。
この日記は事件を起こす前日まで書き続けられていました。
中学一年、鈴村泰史は英恵さんと同じクラスになり、異性として意識するようになります。
英恵さんに対しては落書きをしたり、マンガ本のエッチな部分を広げて見せたり、いたずらばかりでした。
鈴村泰史は、英恵さんとセックスがしたいと妄想していました。
中学二年、鈴村泰史は、英恵さんとは別のクラスになりましたが、英恵さんに対する欲望は変わりませんでした。
また、同時に別の女の子にも好意を持つようにもなっています。
中学三年、鈴村泰史は、英恵さんとは別クラスです。
英恵さんに好意を告白したいと思い続けていました。
10月6日午後3時頃、鈴村泰史は、公園横の路上で帰宅途中の英恵さんに「好きだ」「付き合って欲しい」と告白しましたが、「ごめん、他に好きな人がいる」と断られています。
10月24日にも英恵さんに話かけましたが冷たくされています。
12月6日、鈴村泰史は英恵さんがデートしているのを目撃。大きなショックを受けています。
12月下旬、鈴村泰史は異常なラブレターを英恵さんの下駄箱に入れています。
また、英恵さん宅にいたずら電話を頻繁にかけるようになります。
さらに、英恵さんの後をつけることも行っています。
「僕は女の子と話すのが苦手で、女の子と仲良くなったり付き合ったりできないなら、その代わりにレイプしたいと考えるようになりました」
高校時代、
鈴村泰史は、西尾東高校に合格し英恵さんと同じクラスになりますが、二週間後には学校に行かなくなりました。
この頃から、次第に悪いことを意識的に実行し始めています。
深夜徘徊、ごみあさり、自転車を盗むなどの行為をおこなっています。
7月中旬、鈴村泰史は高校に籍を置いたまま職安で職を探し、安城市内の自動車部品工場で働きますが一週間で辞めてしまいます。
7月27日、高校を正式に退学しました。
8月、鈴村泰史は、次第に英恵さんを殺す決意を固めます。
9月、英恵さん以外の女生徒にもいたずら電話を始めています。
10月、中三からやっていた新聞配達も遅刻がちになり、辞めています。
10月29日、鈴村泰史は、英恵さんを追いかけパソコンのプリンタを投げつけています。
脅かそうと思ったようです。
12月22日、鈴村泰史は、高校のガラス割りを実行しましたが、ニュースにはなりませんでした。
2月、鈴村泰史は、酒鬼薔薇聖斗のまねをして、猫の死骸を校門に置いています。
また、路上で女子高生を殴打する事件も起こしています。
3月5日、鈴村泰史は、高校の窓ガラスを61枚割る事件を起こしました。
その事件は、夕刊に小さく載ったようです。
4月1日、鈴村泰史は、自転車で引ったくりを実行し、現金6万2千円を得ています。
4月29日、鈴村泰史は、英恵さんの家に侵入し自転車を盗もうとしますが、鍵がかかっていたため断念しました。
腹いせに後輪をパンクさせています。
7月14日、鈴村泰史は、母親が貰ってきた西尾東高校のクラス写真を見て「自分は一人寂しい生活を送っているのに、てめえら、普通に高校に通いやがって」という猛烈な怒りを感じています。
この後、鈴村泰史は近所のホームセンターでぺティナイフ2本を購入しています。
7月、高校が夏休みに入っても、鈴村泰史は英恵さんを狙って周辺を徘徊しています。
そして、連日、英恵さんの家に偽名で電話をかけて在宅を確認しています。
8月9日、鈴村泰史は自転車で登校する英恵さんをつかまえ殺人を決行しました。
鈴村泰史は精神鑑定で「分裂病型人格障害」と診断されました。
精神病ではないが普通ではないという判断です。
鈴村泰史は永谷英恵さんの両親に謝罪の手紙を出していますが、その内容は謝罪にも反省にもなっておらず子供っぽい身勝手なものでした。
「僕みたいな社会に迷惑な人間が生き、英恵さんのような素晴らしい人格の人がなくなってしまい申し訳ない思いです。
恐らく永谷様は僕を憎み、死をもって償ってほしいとお思いだと存じます。
たいへん申し訳ない話なのですが、僕はこれだけ酷いことをしておきながらも早く外に出たいと思っており、当然のことながら、できるだけ長生きしたいと思っています。」
鈴村泰史は、懲役5年以上10年以下の刑に服することになりました。
18歳未満の少年に対する不定期刑としては最も重い刑です。
裁判官は次のように述べています。
「犯行に見られる被告人の自己中心的で、情感に乏しい人格が形成されるについては、夫婦喧嘩が絶えず、母親に暴力を振るう父親や、精神的に安定しない母親の存在など家庭環境の影響も大きいと考えられる」
鈴村泰史は、神戸の事件の酒鬼薔薇聖斗にあこがれており、日記では「猛末期頽死」を自称していました。
猫の死骸を校門に置いたり、女子高生を殴打する事件を起こしたりしたのは、酒鬼薔薇聖斗をまねしたものでした。
また、鈴村泰史は足立区綾瀬の女子高校生監禁殺人事件も参考にしており、女の子を監禁してレイプすることも夢想していました。
鈴村泰史は別の少女をレイプすることも考えていましたが、「僕は二人以上殺すと17歳の僕でも懲役15年くらいになってしまうだろうと予想していたので殺すのは英恵一人と決めていました」と日記に書いています。
鈴村泰史は、殺人を実行した場合、どのような刑事罰を受けるか、あるいは少年法により保護処分になるかを予想していました。
英恵さん一人を殺した場合、刑事罰の場合では懲役10年くらい、少年法を適用された場合は少年院で3年間くらいと予想していました。
鈴村泰史は、殺人を実行することにより、同級生たちをびっくりさせることを夢想していました。
高校のガラス割ったのも世間を騒がせることが目的でした。
一方で殺人のことを考えていて怖くなることもあったと供述しています。
鈴村泰史は、無理して悪を実行しようとしているという、気の小さい一面も持っています。
鈴村泰史は英恵さんを殺した動機の一番目として次のように書いています。
「英恵さんが他の男と付き合ったことが、大切な人が死んでしまったかのような人生最大のショックで、ふたりを見ていると苦痛を味わうので怒りを英恵さんに向けてしまった」
母親は弟妹を間をおかずに出産しており、鈴村泰史には十分な愛情を注げなかったようです。また、裁判でも指摘されていますが、母親には精神的に不安定なところがあったようです。
鈴村泰史には、幼い頃に母親に見捨てられたというトラウマがあったのではないかと思います。
12年8月、30歳になった鈴村泰史は蒲郡市内でコンサートを見に来ていた川崎市の女性(23)に「お前、俺の顔を見て気持ち悪いと言っただろう」と言いがかりをつけ、包丁を突きつけ、さらに女性を引き倒して引きずり、けがをさせています。
この事件で、鈴村泰史は、13年3月に名古屋地裁で懲役1年8ヶ月を言い渡されました。
◆桶川女子大生ストーカー殺人事件(1999)
99年10月26日、埼玉県のJR桶川駅前で女子大生の猪野詩織さん(21)が何者かに刺殺されました。
猪野詩織さんは執拗なストーカー被害にさらされていましたが、そのストーカーである小松和人(26)の依頼で、その兄が雇った男に殺された事件です。
主犯の小松和人は、池袋で7軒の違法風俗店を経営する男です。
兄の小松武史は板橋消防署の消防士ですが、弟の小松和人と風俗店を共同経営していました。
殺害実行犯は、兄の小松武史(33)に依頼された久保田祥史(34)です。
その他に殺人に関与したとして伊藤嘉孝(32)、川上聡(31)が起訴されました。
久保田祥史と川上聡は小松和人の経営する風俗店の店長でした。
また、伊藤嘉孝も店の幹部でした。
小松和人の上には見るからにヤクザ風の男がいて、時々、店にも顔を見せていました。
このヤクザ風の男は兄の小松武史でした。
事件後、池袋の店は閉めていましたが、数ヵ月後には池袋に新しい店を開いています。
99年1月6日、小松和人は、大宮のゲームセンターで猪野詩織さんと知り合っています。
小松和人は、偽名の小松誠という名刺を渡し車の販売をしている23歳の青年実業家と名乗っています。
年齢も3歳ほど若く自称しています。
小松和人は身長が180センチくらいある細身の男で、髪は天然パーマで少し染めていました。
真面目でやさしい印象があったようです。
それから2ヶ月ほどは、二人の付き合いは横浜にドライブに行ったり、ディズニーランドに遊びに行ったりと普通のものでした。
詩織さんの女性の友人を含む三人で沖縄旅行にも行っています。
そのうちに小松和人は詩織さんにヴィトンのバッグや高級スーツをプレゼントするようになります。
99年3月になって小松和人は本性を現し始めます。
詩織さんの言動で気に入らないことがあると
「うるせー、オラオラ、俺のことなめとんのか」と怒鳴るようになります。
また、「お前は俺に逆らうのか。なら、今までプレゼントした洋服代として百万円払え。払えないならソープに行って働いて金を作れ。今からお前の親の所に行くぞ、俺との付き合いのことを全部バラすぞ。」と脅すようになりました。
同時に、小松和人は詩織さんの生活を拘束するようになります。
携帯に30分おきに電話をかけ、繋がらないと自宅や友人のところまで電話をかけています。小松和人は嫉妬深い男でした。
4月21日、小松和人は詩織さんの携帯電話を折らせています。
登録してある電話番号を消させるためでした。
「お前は俺とだけ付き合うんだよ。その誠意をきちんと見せろ。」
小松和人は、詩織さんの男友達のところに電話して、「詩織に近づくな、俺の女に手を出すんなら、お前を告訴するぞ。」と脅しています。
また、小松和人は詩織さんの自宅電話番号、父親の会社などについて興信所に依頼して調査しています。
5月18日、詩織さんの21歳の誕生日でした。
小松和人が変貌して以来、プレゼントを受け取らない詩織さんに、小松和人はピンクの文字盤のロレックスと花束を持って詩織さんの自宅まで押しかけています。
この時は、詩織さんは花束だけを受け取っています。
6月14日、池袋の喫茶店で、詩織さんは意を決して小松和人に別れることを告げました。
「俺を裏切るやつは絶対に許さない、お前の父親に全部ばらしてやる」
小松和人は怒っていました。
小松和人は詩織さんに次のようにも言っていました。
「ふざけんな、絶対別れない、お前に天罰が下るんだ」
「お前の家を一家崩壊まで追い込んでやる」
「家族を地獄に落としてやる」
「お前の親父はリストラだ、お前は風俗で働くんだ」
この日、小松和人とやくざのような見知らぬ男二人が、詩織さんの自宅に押しかけ上がりこんでいます。
父親が帰宅し、男たちに抗議すると、小松和人の上司と名乗る男が「小松が会社の金を五百万ほど横領したんです。問いただしたところ、お宅の娘さんにそそのかされたと。私たちは娘さんを詐欺で訴えます。どうですか誠意を見せてもらえませんか。」と言いました。
詩織さんの父親は、この要求を突っぱねています。
「話があるなら警察に行こう」
しばらく押し問答した末、上司という男は「ここままじゃ済まないぞ。お前の会社に内容証明の手紙を送ってやる。覚えておけ。」と捨てゼリフを吐いて、男たちを連れて帰って行きました。
この小松和人の上司と名乗る大柄な男は兄の小松武史でした。社長を名乗るもう一人は仲間のYという男でした。
父親は、やり取りを録音しており、それを持って上尾警察署に相談しましたが、取り合ってもらえませんでした。
そして、小松和人は、この後に及んでも詩織さんに復縁を迫っていますが、もちろん詩織さんはこれを断っています。
猪野詩織さん宅に嫌がらせの電話が続き、
6月21日に家の電話番号を変更しましたが、2、3日後にはもう無言電話が入ってきています。
7月13日、自宅周辺に詩織さんを誹謗中傷するビラが大量に貼られていました。
また、ビラは詩織さんの通う大学近辺や駅構内、そして父親の勤める会社の近辺にまでばら撒かれていました。
さらに、板橋区内では詩織さんの写真に「援●交際OK」というメッセージ、自宅の電話番号までが印刷されたカードが発見されています。インターネットの掲示板でも同様の内容が流されていました。
7月29日、詩織さんは警察に働きかけ名誉毀損で刑事告訴を受理してもらいました。
しかし、警察は動くことはありませんでした。
しかも、後で警察はこの刑事告訴を取り下げるよう猪野さんに働きかけています。
こうした、一連の警察の動きは職務怠慢で、後に大問題となります。
8月23日、父親と詩織さんを中傷する手紙が、父親の会社に送られてきました。
勤務先の埼玉県内の支店に800通、東京の本社にも400通も送られてきました。
10月16日午前2時頃、詩織さんの家の前に2台の車が停まり、窓を開けたまま大音量で音楽をガンガン鳴らし、エンジンの空吹かしを行っています。
10月26日、詩織さんは桶川駅前で刺殺されてしまいました。
犯人は身長170センチくらいで小太りの30代の男です。
小松和人ではありませんでした。
小松和人は7月5日ころに沖縄へ逃げていたようです。
詩織さんへの嫌がらせが始まる直前です。
また、詩織さん刺殺事件の当日も小松和人は沖縄にいたようです。
12月19日、詩織さん刺殺の実行犯である久保田祥史が逮捕されました。
また、共犯として川上聡、小松武史、伊藤嘉孝もつかまりました。
川上聡は逃走車両の運転手役、伊藤嘉孝は詩織さんの見張り役だったそうです。
伊藤嘉孝も店の幹部でした。
兄の小松武史は実行犯3人に、報酬として1800万円を渡していました。
しかし、肝心のストーカー小松和人は逮捕されませんでした。
00年1月、警察は詩織さんを誹謗中傷するビラを撒いた名誉毀損の疑いで実行犯4人を含む12名を逮捕しました。
この件で、小松和人も指名手配されました。
指名手配された小松和人は北海道に潜伏していました。
1月27日、小松和人の遺体が屈斜路湖で発見されました。自殺だったようです。
道東からロシアに逃げようとしたが、失敗したようです。
詩織さんを刺殺した事件では、兄の小松武史が無期懲役、刺殺犯の久保田が懲役18年、見張り役の伊藤が懲役15年となりました。
また、名誉毀損の件では7名が略式起訴、2名が起訴猶予となりました。
小松和人は被疑者死亡のまま起訴猶予となりました。
3月、上尾警察署の3名の警察官が書類の改竄で懲戒免職され、書類送検されました。
後に3人は起訴され、執行猶予つきで懲役1年2ヶ月から1年6ヶ月の刑が言い渡されています。
その他に、埼玉県警本部長ら12人に減給、戒告などの処分が出ています。
また、この事件がきっかけとなりストーカー規制法が00年5月18日に成立しました。
小松和人には兄の他に姉もいるようですが、詳しい家族構成などは不明です。
また、小松和人の生い立ちなどについての情報もありません。
ただ、その性格うかがわせる多くのエピソードはあります。
○泣く男
風俗店を独立する時のトラブルで、小松和人は泣きながら「暴力団に言いつけてやる」と言ったそうです。
まるで子供のような言い方です。
○兄の保護
自動車販売店をクビになった時には、小松和人の兄が謝りに来たそうです。
また、詩織さん宅に兄などと押しかけた時に、小松和人は一言も喋らなかったようです。
詩織さんには強い態度で脅迫していますが、外に出ると何も言えない気の小さい男だったようです。
小松和人は兄の保護下で生きていたと言えるかも知れません。
○親に捨てられた
小松和人は、こぶしで壁を叩きながら「俺は親に捨てられたんだ」と泣きわめいたことがあったようです。
おそらく、親に見捨てられた体験がストーカー殺人を行うような不安定で激昂する性格になった原因の一つです。
○酒を飲まない
小松和人は、クラブに飲みに行っても、酒をほとんど飲まずに水ばかりを飲んでいたそうです。
なぜか、ストーカーは酒を飲まないようです。
先行するストーカー行為
小松和人は詩織さんの事件以前にも、女性とのトラブルを起こしていました。
一人はかつて沖縄にいた頃に知り合った女性で、もう一人はやはり埼玉の女子大生です。
どちらの場合も別れ話を持ち出されるとストーカー行為を繰り返していたそうです。
沖縄ではトラブルの果てに、自分の手首を切って自殺騒ぎを起こしていたようです。
小松和人は詩織さんに次のように言って脅かしたことがあるようです。
「前に同棲した女はさぁ、自殺未遂したんだよね。ちょっとお仕置きしたら、頭がおかしくなっちゃたんだ。」
◆耳かき店員殺害事件(2009)
事件
09年8月3日朝9時頃、千葉市に住む会社員・林貢二(41)が、新橋駅近くにある一軒の住宅に押し入り、鉢合わせした鈴木芳江さん(78)を一階で刺殺。
その後、二階で寝ていた孫の江尻美保さん(21)をメッタ刺しにしました。江尻美保さんは植物状態になり一ヵ月後に死亡しました。
江尻美保さんは山本耳かき店の秋葉原店に勤務しており、林貢二はその店の常連客でした。
07年12月、19歳の江尻美保さんは山本耳かき店の面接を受け「まりな」という源氏名で勤め始めます。
そして、林貢二は「よしかわ」という偽名で「まりな」の元に通い始めます。
この耳かき店は、腰板と天井から下げられた布またはすだれで仕切られた3~4畳ほど部屋で耳かき、耳の産毛掃除、手のひらマッサージ、ヘッドマッサージ、肩のマッサージのサービスを行っていました。
耳かきのサービスを行う時は、客の顔に折り畳んだ手拭いが掛けられ、手がじかに客の顔に触れないようにしていたそうです。
もちろん性的なサービスはありません。
基本料金は30分で2700円、1時間で4800円。
延長は30分ごとに2700円、指名料は30分ごとに500円です。
この耳かき店の従業員は、小町と呼ばれていたそうです。
山本耳かき店のホームページには、小町(従業員)のブログがあり、客もコメントを書き込めるようになっていました。
一般の人は客のコメントは読めないが、それに対する小町のコメント返しは読めるようになっていました。
江尻美保さんは和菓子店でアルバイトをしていましたが、腰を痛めたために、そのアルバイトを辞め耳かき店に勤め始めたようです。
耳かき店では、指名料を入れると1時間3千円が小町(従業員)の取り分でした。
美保さんは多い月で65万円を稼いでいたようです。
父親がケガで仕事を休んでいるので、家族のために一生懸命に働いていたようです。
08年2月に初めて来店した林貢二は、江尻美保さんを指名する常連客となりました。
08年6月頃には、一回あたりの滞在時間は3時間におよぶようになっていました。
林貢二は、土日には、いつも山本耳かき店に通っていました。
08年7月15日(火)、この日は美保さんの20歳の誕生日でした。
平日ですが、林貢二は特別に有給休暇を取って耳かき店の開店時間の12時に合わせ11時半頃には秋葉原駅に到着しました。
そこで、林貢二は出勤する美保さんにバッタリ出会います。
林貢二は偶然だと証言していますが、美保さんは待ち伏せされたと同僚たちに話しています。
二人はそこでは言葉を交わしただけで、美保さんが先に駅を出て、少し遅れて林貢二は店に向かいました。
耳かき店に着いた林貢二は、美保さんと同僚の話を立ち聞きしてしまいます。
美保さんは、林貢二に待ち伏せされたことを「嫌な目にあった」と話していたのです。
他のスタッフも「気持ち悪い」と言っていました。
それまでは、林貢二は美保さんが好意を抱いてくれていると思っていましたが、実は嫌われていることが分かったのです。
林貢二は、その日は予約してあったのですが、店には入らずに帰ってしまっています。
耳かき店の店長は、林貢二らしき人がうなだれて階段を降りて行くのを見たと証言しています。
この直後の土日(19、20日)にも、いつもの林貢二は山本耳かき店を訪れていません。
08年7月20日(日)、林貢二を心配したのか、美保さんはブログに「突然だけと元気かなぁピヨ吉・・・」と書き込んでいます。
ピヨ吉は林貢二のあだ名だったようです。
これを読んだのか、林貢二は早速、次回の予約を入れています。
8月の最終週になると、林貢二は土日に加え金曜日も耳かき店に通うようになりました。
こうして頻繁に通うようになった林貢二は、美保さんとも親しくなり、美保さんの本名や携帯のメールアドレスなどを教えてもらうようになりました。
この頃には、林貢二の土日の滞在時間は7、8時間にも及んでいました。
林貢二は、月に3、40万円を耳かき店につぎ込んでいたことになります。
08年11月末、美保さんは土日祝に新宿東口店での深夜勤務も始めています。
林貢二は、秋葉原店から新宿東口店への移動を美保さんと一緒に行きたいと要求しますが、店側に断られています。
08年の年末から年始にまで連続9日間、林貢二は耳かき店に来ていました。
09年のバンレンタインデーに、林貢二は美保さんに任天堂のゲーム機「Wii」をプレゼントしています。
美保さんの希望だったようです。
この頃、林貢二は美保さんに手を握っていて欲しいという要求を出しています。
美保さんは、手を握らせて欲しいと要求されて困っていると店長に相談しています。
09年3月、美保さんは土日のシフトを午後5時までに変更しました。
午後5時以降は林貢二の指名を受けるようにして、それ以前の時間に他のお客さんの予約を入れるようにするためだったようです。
09年4月5日、林貢二は、美保さんを強引に店外での食事に誘いますが店の決まりもあり、美保さんはこれを断ります。
美保さんの同僚の証言では、林貢二は「僕のことをどう思っているの?付き合ってくれないならもう来ない。」と言ったので、美保さんは「そういう気持ちで来るならもう来ないでください。」と答えたようです。
林貢二は「もういいよ。帰るよ。」と捨てゼリフを吐いて店を出たようです。
09年4月7日、林貢二は「また次行くから」とメールを入れますが、美保さんは「もう無理」、「もう来ないと言ったじゃないですか」と答えています。
4月の終わり頃か5月の初めに、林貢二は直接会って話をしないとダメだと思い、美保さんを待ち伏せします。
秋葉原駅から美保さんの後をつけ、新橋駅を降りて日比谷通りを超えたあたりで声を掛けています。
夜の10時半ころから11時ごろです。
林貢二は「(店に)また行きたい」と言いましたが、美保さんは「もう無理です」と答えています。押し問答を繰り返したようですが、美保さんは「無理です」を繰り返したそうです。
林貢二は、「(無理だという)理由も言っていない。正直、訳が分かりませんでした。」と証言しています。
林貢二による待ち伏せ事件の後、美保さんは新橋店の店長に自宅まで送ってもらうようになりました。
林貢二は、耳かき店で長時間に渡り美保さんと過ごして話している間に、美保さんの自宅のおよその住所や家族構成、彼女の部屋が二階にあることなどを知っていました。
しかし、新橋店店長のボディガードは7月上旬に終了しています。
林貢二は現れなかったようです。
7月19日、林貢二は美保さんを再び待ち伏せしています。
林貢二の証言によれば、この時も前回と同様の押し問答になり、美保さんは走って逃げたそうです。
この時は、美保さんはコンビニに逃げ込み警察に通報し、警察官と一緒に帰宅したようです。この後、店側は一週間ほど美保さんの送り迎えをしたそう。
待ち伏せ事件の翌日にメールで自分の思いを伝えようとして、林貢二は美保さんにメールを打ちますが、メールアドレスが変更されていて届きませんでした。
林貢二は
「(許してもらえる可能性は)限りなく『ない』と思いました」、
「怒りのような感情を持ちました」
と証言しています。
8月1日、美保さんの母親から「家の近辺に怪しい人影があり、送ってほしい」との連絡が店にあり、新橋店店長が同行して美保さんは帰宅しています。
この日、林貢二は美保さんに会えなくて絶望感があったと証言しています。
「私自身が行動を起こすと、私が追い詰められていく。
ひとつひとつの道が閉ざされ、追いつめられる感じ。絶望感でした。」、
「怒りや悲しみもありました。」
8月2日、美保さんは母親と一緒に帰っています。
二人の後ろから、さらに新橋店店長がついていったようです。
8月3日朝、林貢二はカバンにハンマー、果物ナイフ、ぺティナイフを入れて江尻美保さん宅に向かいました。
8時50分、林貢二は江尻家の玄関を開け、惨劇が開始されました。
逮捕された林貢二は、弁護士の初回の接見で、ほとんど泣き通しだったそうです。
すぐ泣く林貢二の姿がそこにありました。
10年11月1日、東京地裁は林貢二に無期懲役を言い渡しました。
11月15日、両者から控訴がなく無期懲役が確定しました。
裁判で、林貢二は美保さんに恋愛感情は持っておらず、『広い意味での好き』であったと主張し、このことにこだわっています。
しかし、裁判長は判決文で次のように述べて叱っています。
「被告人は江尻さんへの思いを募らせ、会えないことを悩み、強い殺意を抱くほど強い愛情を有することは明らかである。
-中略-
しかし、被告人は『恋愛感情』という言葉の定義にこだわり『恋愛感情は持っていなかった』と述べるに留まっている。
そのようなことにこだわるのでは、事件を真剣に振り返り、反省していることにはならない。」
二人っきりの部屋で、膝枕をしてもらうと男は一種の赤ちゃん返りの精神状態になり、馴染みになった女性に対し母親のように甘えたりすることは、有り得ることだと思います。
そんな環境下でも、林貢二は少し変わった人だと受け止められていたようです。
美保さんの同僚の話では、なんでもない会話で泣いたりすることが、よくあったようです。
美保さんが冗談で「けち」と言ったら泣いたり、美保さんが差し入れを食べないと泣いたりしていたそうです。
また、林貢二は自分のことをどう思うと聞くことがよくあったようです。
「僕のことを、かっこよくない、ふつう、かっこいい、の3段階で分けるとどのへん?」と聞かれて、美保さんが「ふつうよりちょっと上」と答えたら、林貢二は不機嫌になってふてくされていたそうです。
もちろん本当の母親なら、よしよしをして慰めてくれる場面かもしれません。
耳かき店店長は、林貢二は常に上から目線で話す人物で「江尻さんの前では泣いたりすねたり子供みたいな行為が多かったと聞きました」と証言しています。
耳かき店の従業員にとって、林貢二は面倒くさい人間だったようです。
耳かき店の従業員は、林貢二はよく泣いていたと証言していますが、本人は店内で泣いたことはないと主張しています。
金曜日にも通うことなった件や深夜の新宿東口店にも通うことになった件などは、美保さんに誘われたからだと、林貢二は証言しています。店外デートの件についても美保さんが誘ったかのような証言をしています。
また、林貢二は江尻美保さんに対して恋愛感情はなかったと証言していますが、これについては、前述したように裁判長にも「反省がない」と厳しく指摘されています。
林貢二が自分の都合よいように嘘をついているのか、それとも思い込みの激しい人なのか、よく分かりません。
林貢二は遺族に手紙を書いています。
『許されるなら、一生懸命に働いて、少しでも被害者のご家族にお役に立ちたいと考えております』
『私の思い上がりかもしれませんが、私にできることは懸命に働くことだと思います』
林貢二は、死にたくないと考えているようです。
何か往生際の悪い、子供っぽい自己中心的な考え方を感じます。
林貢二は、江尻美保さんの祖母の鈴木芳江さんにも執拗な凶行を加えています。
何度もハンマーで殴ったうえ、果物ナイフで頭・顔・首を20回以上メッタ刺しにしています。
ナイフは折れ曲がっていたそうです。
林貢二の目的は江尻美保さんであり、鈴木芳江さんは単なる障害物であったはずです。
邪魔な鈴木芳江さんは排除できれば、それで良かったはずなのに執拗にナイフで刺しています。
林貢二は、興奮状態にあったとも考えられますが、鈴木芳江さんの殺害後には冷静に階段を登り、音をたてないようにふすまを開け、ぺティナイフで江尻美保さんの殺害に及んでいます。
鈴木芳江さんへの執拗な攻撃には別の理由も考えられます。
林貢二は意識してないかもしれませんが、自身の母親への恨みです。
自分の母親と似たような年齢の女性だったので、自分の母親とイメージがダブったのではないでしょうか。
林貢二は、電気関係の専門学校を卒業後に設計関係の会社に就職。
事件当時もそこで働いていました。
肩書は設計主任です。
上司は、「黙々と仕事をこなし、人の嫌がる現場でも進んで仕事をしてくれる、まじめな人という印象」と証言しています。
酒が飲めないため、飲み会などではウーロン茶などを静かに飲んでいる人だったようです。
28歳から千葉市で一人暮らしをしています。結婚歴はなく独身です。
女性との交際は乏しく、女性と付き合ったことはなかったようです。
26歳のころ膠原病を発症しており、再発の恐れがあるため、結婚は考えなくなったと証言しています。
林貢二は、事件当時は一千万円ほどの預金がありました。
収入のほとんどを耳かき店につぎ込んでいましたので、生活費は預金を切り崩していたようです。
精神鑑定の結果、抑鬱反応は見られたが、精神状態に問題は認められませんでした。
林貢二の家族は両親と兄の4人です。
林貢二の小中学校のころの成績は下の方で、高校に入ってからは、成績はさらに落ちたそうです。
28歳で就職していますが、父親がわがままな人で、『出て行け』ということになり、一人暮らしを始めたようです。
林貢二は、実家には年に1、2回帰っていたそうです。
元旦には、たいてい午前中に来て、暗くなって夕飯を食べて帰ったそうです。
母親によれば、拘置所では、最初のころは何回行っても泣いており、話はできなかったそうです。
母親は、「父親がわがままな人で」と証言しています。
家族関係に問題がありそうですが、詳しいことは分かりません。
↧
『代理出産リスク』…?/この言い方自体に違和感を感じる
【タイ】代理出産を依頼したオーストラリア人夫婦
ダウン症の赤ちゃん引き取り拒否Global News Asia 8月4日2014年8月4日、タイのメディアによると、タイ人の女性に代理出産を依頼したオーストラリア人夫婦が、生まれたダウン症の男の赤ちゃんの引き取りを拒否していた。代理出産のタイ人女性は、昨年12月に双子の男女の赤ちゃんを出産した。しかし、代理出産を依頼したオーストラリア人夫婦は、双子のうち健康な女の赤ちゃんだけを引き取り、ダウン症だった男の赤ちゃんの引き取りを拒否。タイに置き去りにされたままで、代理出産したタイ人女性が育てている。代理出産のタイ人女性は、妊娠4カ月目の時に、双子のうち1人がダウン症だと分かり、代理出産を依頼したオーストラリア人夫婦の仲介業者からは中絶するよう求められたが、中絶はタイでは犯罪になるため拒否して出産した。ダウン症の赤ちゃんは、重度の心臓病を併発しており、オーストラリアを中心に募金活動が行なわれており、日本円で約2000万円の寄付が集まっている。約150万円の報酬で代理出産を引き受けた21歳のタイ人女性は、苦しい経済状況の中で、自分の子供2人を育てている。子供の教育や借金の返済などの理由で、仕事として代理出産を引き受けたと言う。
【編集:安麻比呂】
…
やはり、『命』がこういうことになる。
以前の記事でこういうこと書いたことがある。
「子供ができないという理由でなく、スタイル維持のため、
セレブ御用達の『子産み屋』が後進国で重宝がられる時代がやがてくる」
…と。
そういう風潮を生む『代理母』の空恐ろしさは、
いま、現実にこうしてニュースになってきているが、
あまり目立たない、あまり目くじら立てる人もいない。
すでに当たり前のものになってきてるんだな。
そら自分の腹を痛めて産んだんじゃないんだから…考えたら、誰でもわかる当たり前の判断か(笑)、我が子を引き取らないという選択も。
カネがカタキの世の中が、
やがて「血を分けた我が子」という言葉も、死語するんだろう。
「宗教上の理由で、もしものときであっても中絶できないリスクが、タイにはある」
って言ってたキャスターを今朝に見た。
そこか? 問題は。
↧
朝日新聞、慰安婦問題で一部反省/「虚偽記事、取り消します」
■朝日新聞、慰安婦問題で一部反省
産経新聞2014.8.5
吉田証言「虚偽と判断し記事取り消します」
朝日新聞は5日付朝刊1面と16~17面で慰安婦問題の特集を組んだ。
1面記事では
「私たちは元慰安婦の証言や数少ない資料をもとに記事を書き続けました。
そうして報じた記事の一部に、事実関係の誤りがあったことが分かりました。
問題の全体像がわからない段階で起きた誤りですが、裏付け取材が不十分だった点は反省します」
と書き、これまでの慰安婦報道での誤報を一部認めた。
朝日が16回も取り上げた自称・元山口県労務報国会下関支部動員部長、吉田清治氏の「慰安婦を強制連行した」との証言については「虚偽だと判断し、記事を取り消します」とした。
また、もともと関係のない慰安婦と工場などに動員された女子挺身隊とを繰り返し混同した記事を掲載したことに関しては、
「当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました」
と間違いを認めた。
一方、元韓国人慰安婦、金学順氏の証言記事で、「『女子挺身隊』の名で戦場に連行」などと実際の金氏の経験と異なる内容を書き、慰安婦問題に火をつけた植村隆記者(今年3月退社)に関しては「意図的な事実のねじ曲げなどはありません」と擁護した。■朝日新聞が徹底検証 慰安婦問題どう伝えた
『す・またん』(8月5日)
辛坊次郎:
朝日新聞が、ついにと言いますか・・・
いわゆる『慰安婦問題』についての、徹底検証といいますか、朝日がこれまで慰安婦問題をどう伝えてきたのか、紙面の多くを使って書いてます。
見開きの28、29面で、「慰安婦問題どう伝えたか 読者の疑問に答えます」一面にも、「慰安婦問題の本質 直視を」。これ読んでみますと、「慰安婦問題に光が当たり始めた90年代初め、研究は進んでませんでした。私たちは元慰安婦の証言や少ない資料をもとに記事を書き続けました。そうして報じた記事の一部に、事実関係の誤りがあったことがわかりました。問題の全体像がわからない段階で起きた誤りですが、裏付け取材が不十分だった点は反省します」…と。じゃあ、何間違ってたのかというと、「読者の疑問に答えます」の中で、やはり、徹底的に問題を大きくしたのは、『吉田清治 証言』というのがあって、その人が各地で講演して、朝日新聞はそれを16回に渡って、「日本軍が銃剣を突きつけて女性を連れて行ったんだ」って話を書いた。この『吉田清治 証言』っていうのがあって日本が女性を拉致した、という今の国際社会の常識が出来上がってしまった。韓国はアメリカに石碑までつくって、日本が数十万人の韓国の女性を拉致したと、この説の原型がこの『吉田 証言』なんですね。これを朝日がこの記事で、どう結論づけたのか、というのがこれ。「裏付け得られず虚偽と判断」この中で、「読者の皆さま、吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。」まあ、これがでも、強制連行の、一番の証拠として、当時、記事が書かれたものですから。「虚偽だと判断し、記事を取り消します」で、済むか、って話なんです(笑)。それから女子挺身隊っていう…日本でもたくさんの方々が動員された。身を挺して働くから挺身隊って言うんだけども、それを90年代、朝日新聞は勘違いして、「身を挺してるってことは売春婦だ」と。それが十雨軍慰安婦なんだと…それが「何十万人説」の根拠になってるわけですよ。かなりメチャクチャな話なんですが…「挺身隊との混同」「同時は研究が乏しく…誤用」って記事なんだけど、「女子挺身隊」がそういうものじゃないって、戦後、みんな知ってたんです。朝日の記者だけが知らなかったのか?って話なんですよ。
■慰安婦問題を考える
◆慰安婦問題の本質 直視を
編集担当・杉浦信之(8/5)
慰安婦問題どう伝えたか
読者の疑問に答えます
朝日新聞の慰安婦報道に寄せられた様々な疑問の声に答えるために、私たちはこれまでの報道を点検しました。
その結果を読者の皆様に報告します。(慰安婦問題取材班)=文中の肩書は当時、記者の年齢は現在。
記事は断りのないものは東京本社版。◆慰安婦問題とは
Q 慰安婦とは何か。
A 戦時中、日本軍の関与の下で作られた慰安所で、将兵の性の相手を強いられた女性。
政府は1993年8月に河野洋平官房長官が発表した談話(河野談話)で「当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」と指摘した。
Q どんな人々が慰安婦にされたのか。
A 日本本土(内地)の日本人のほか、日本の植民地だった朝鮮半島や台湾出身者も慰安婦にされた。
日本軍の侵攻に伴い中国、フィリピン、ビルマ(現ミャンマー)、マレーシアなど各地で慰安所が作られ、現地女性も送り込まれた。
オランダの植民地だったインドネシアでは現地女性のほか、現地在住のオランダ人も慰安婦とされた。
政府は38年、日本女性が慰安婦として中国へ渡る場合は「売春婦である21歳以上の者」を対象とするよう通達した。
21歳未満の女性や児童の人身売買や売春を禁じた「婦人及び児童の売買禁止条約」のためとみられる。
ただ政府は25年に条約を批准した際、植民地を適用除外とした。
このため植民地や占領地では売春婦でない未成年女子も対象となった。
朝鮮からは17歳、台湾からは14歳の少女が慰安婦とされたとの記録がある。
Q 何人くらいいたのか。
A 総数を示す公式記録はなく、研究者の推計しかない。
現代史家の秦郁彦氏は93年に6万~9万人と推計し、99年に2万人前後と修正。
吉見義明・中央大教授(日本近現代史)は95年に5万~20万人と推計し、最近は5万人以上と改めた。
韓国や中国ではさらに多い数字をあげる人もいる。
Q 慰安所はいつ、どんな経緯で作られたのか。
A 満州事変の翌年、32年の上海事変で日本兵が中国人女性を強姦する事件が起きたため、反日感情の高まりを防ぐためとして九州から軍人・軍属専用の慰安婦団を招いたとの記録がある。
その後、性病蔓延による戦力低下や機密漏洩の防止、軍人の慰安のためなどの理由が加わった。
Q どのようにして集められたのか。
A 多くの場合、軍の意向を受けた業者がまず日本国内で、さらに植民地の朝鮮や台湾で集めた。
「仕事がある」とだまされたり、親に身売りされたりした場合も多いことがわかっている。
一方、フィリピンやインドネシアなど占領地では、日本軍が直接暴力的に連行したとの記録もある。
フィリピン政府の2002年の報告書によると、同国で日本軍は、現地の女性を暴力的に拉致・連行して日本軍の兵営とされた教会や病院に監禁し、集団で強姦を続けた事例もあったという。
Q 慰安婦の暮らしは?
A アジア女性基金のサイトでは「(慰安所で)兵士は代金を直接間接に払っていたのはたしかですが、慰安婦にされた人々にどのように渡されていたかははっきりしません」と記す。
戦況や場所により処遇にばらつきもあったことが推定される。
政府は93年、河野談話とあわせて調査結果を発表し「戦地では常時軍の管理下で軍とともに行動させられ、自由もない生活を強いられた」と説明している。
Q 慰安婦問題が国内で知られるようになった経緯は。
A 戦後まもない時期から兵士の体験談や手記で触れられていた。
70年6月、作家の故千田夏光氏が週刊新潮で「慰安婦にさせられた」という女性や旧軍関係者の聞き取りを紹介。
73年にルポ「従軍慰安婦」を刊行した。
当時はまだ戦時下の秘史という扱いだった。
Q 日韓間の問題として認識されたいきさつは。
A 90年1月、尹貞玉(ユンジョンオク)・梨花女子大教授が韓国ハンギョレ新聞に「挺身(ていしん)隊『怨念の足跡』取材記」の題で慰安婦問題の記事を連載。
5月の盧泰愚大統領訪日をきっかけに、植民地時代の朝鮮半島で日本の軍人・軍属とされた韓国人らから日本に謝罪と補償を求める声が高まった。◆慰安婦問題の主な経緯(肩書は当時)
1991年
8月 韓国で元慰安婦が初めて名乗り出る
12月 元慰安婦が日本政府を提訴。政府が調査開始
1992年
1月 宮沢喜一首相が日韓首脳会談で謝罪
7月 政府が調査結果発表。政府の関与を認める
1993年
8月 河野洋平官房長官が談話で慰安婦の募集、移送、管理に強制性を認め「お詫びと反省」を表明(河野談話)
1994年
8月 村山富市首相が談話で慰安婦問題の解決策について「幅広い国民参加の道を探求したい」と表明
1995年
7月 政府主導で民間のアジア女性基金が発足。
国民の寄付をもとに「償い金」を元慰安婦に支給するなどの「償い事業」を実施
2007年
3月 基金が解散
7月 米下院、慰安婦問題で対日謝罪要求決議を採択
2014年
6月 政府が河野談話作成過程の検証結果を公表◆強制連行 自由を奪われた強制性あった
〈疑問〉政府は、軍隊や警察などに人さらいのように連れていかれて無理やり慰安婦にさせられた、いわゆる「強制連行」を直接裏付ける資料はないと説明しています。
強制連行はなかったのですか?
●慰安婦問題に注目が集まった1991~92年、朝日新聞は朝鮮人慰安婦について、「強制連行された」と報じた。
吉田清治氏の済州島での「慰安婦狩り」証言(「『済州島で連行』証言」で説明)を強制連行の事例として紹介したほか、宮沢喜一首相の訪韓直前の92年1月12日の社説「歴史から目をそむけまい」で「(慰安婦は)『挺身(ていしん)隊』の名で勧誘または強制連行され」たと表現した。
当時は慰安婦関係の資料発掘が進んでおらず、専門家らも裏付けを欠いたままこの語を使っていた。
秦郁彦氏も80年代半ば、朝鮮人慰安婦について「強制連行に近い形で徴集された」と記した。
(注1)
もともと「朝鮮人強制連行」は、一般的に、日本の植民地だった朝鮮の人々を戦時中、その意思とは関係なく、政府計画に基づき、日本内地や軍占領地の炭鉱や鉱山などに労働者として動員したことを指していた。(注2)
60年代に実態を調べた在日朝鮮人の研究者が強制連行と呼び、(注3)
メディアにも広がった経緯もあり、強制連行は使う人によって定義に幅がある。
こうした中、慰安婦の強制連行の定義も、「官憲の職権を発動した『慰安婦狩り』ないし『ひとさらい』的連行」に限定する見解(注4)と、
「軍または総督府が選定した業者が、略取、誘拐や人身売買により連行」した場合も含むという考え方(注5)が研究者の間で今も対立する状況が続いている。
朝鮮半島でどのように慰安婦が集められたかという過程は、元慰安婦が名乗り出た91年以降、その証言を通して次第に明らかになっていく。
93年2月、「韓国挺身隊問題対策協議会」は、元慰安婦約40人のうち「信憑性に自信が持てる」(鄭鎮星〈チョンジンソン〉・挺身隊研究会会長)19人の聞き取りを編んだ証言集を刊行。
「軍人や軍属らによる暴力」があったと語ったのは4人で、多くは民間業者が甘い言葉で誘ったり、だまして連れて行ったりする誘拐との内容だった。
慰安婦たちは、徴集の形にかかわらず、戦場で軍隊のために自由を奪われて性行為を強いられ、暴力や爆撃におびえ性病や不妊などの後遺症に苦しんだ経験を語っていた。
93年8月に発表された宮沢政権の河野洋平官房長官談話(河野談話)は、
「慰安所の生活は強制的な状況で痛ましいものだった」
「募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」
と認めた。
関係省庁や米国立公文書館などで日本政府が行った調査では、朝鮮半島では軍の意思で組織的に有形力の行使が行われるといった「狭い意味の強制連行」は確認されなかったといい、談話は「強制連行」ではなく、戦場の慰安所で自由意思を奪われた「強制」性を問題とした。
談話発表に先立つ7月には、ソウルの太平洋戦争犠牲者遺族会事務所で、日本政府が元慰安婦たちに聞き取りをした。
今年6月に発表された河野談話作成過程の検証チーム報告は、聞き取りの目的について「元慰安婦に寄り添い、気持ちを深く理解する」とし、裏付け調査などを行わなかったことを指摘した。
河野談話の発表を受け、朝日新聞は翌日の朝刊1面で「慰安婦『強制』認め謝罪 『総じて意に反した』」の見出しで記事を報じた。
読売、毎日、産経の各紙は、河野談話は「強制連行」を認めたと報じたが、朝日新聞は「強制連行」を使わなかった。
官房長官への取材を担当していた政治部記者(51)は、専門家の間でも解釈が分かれていることなどから「強制連行」とせず単に「強制」という言葉を使ったのだと思う、と振り返る。
「談話や会見、それまでの取材から読み取れたのは、本人の意思に反する広い意味での強制連行を認めたということだった。
しかし、強制連行という語を使うと読者の誤解を招くと考え、慎重な表現ぶりになった」
93年以降、朝日新聞は強制連行という言葉をなるべく使わないようにしてきた。
97年春に中学教科書に慰安婦の記述が登場するのを機に、朝日新聞は同年3月31日朝刊でこの問題を特集した。
日本の植民地下で、人々が大日本帝国の「臣民」とされた朝鮮や台湾では、軍による強制連行を直接示す公的文書は見つかっていない。
貧困や家父長制を背景に売春業者が横行し、軍が直接介入しなくても、就労詐欺や人身売買などの方法で多くの女性を集められたという。
一方、インドネシアや中国など日本軍の占領下にあった地域では、兵士が現地の女性を無理やり連行し、慰安婦にしたことを示す供述が、連合軍の戦犯裁判などの資料に記されている。
インドネシアでは現地のオランダ人も慰安婦にされた。
97年の特集では「本人の意思に反して慰安所にとどまることを物理的に強いられたりした場合は強制があったといえる」と結論づけた。
河野談話が発表されて以降、現在の安倍内閣も含めて歴代の政権は談話を引き継いでいる。
一方、日本軍などが慰安婦を直接連行したことを示す日本政府の公文書が見つかっていないことを根拠に、「強制連行はなかった」として、国の責任が全くなかったかのような主張を一部の政治家や識者が繰り返してきた。
朝鮮など各地で慰安婦がどのように集められたかについては、今後も研究を続ける必要がある。
だが、問題の本質は、軍の関与がなければ成立しなかった慰安所で女性が自由を奪われ、尊厳が傷つけられたことにある。
これまで慰安婦問題を報じてきた朝日新聞の問題意識は、今も変わっていない。
●読者のみなさまへ
日本の植民地だった朝鮮や台湾では、軍の意向を受けた業者が「良い仕事がある」などとだまして多くの女性を集めることができ、軍などが組織的に人さらいのように連行した資料は見つかっていません。
一方、インドネシアなど日本軍の占領下にあった地域では、軍が現地の女性を無理やり連行したことを示す資料が確認されています。
共通するのは、女性たちが本人の意に反して慰安婦にされる強制性があったことです。
注1「従軍慰安婦(正続)」陸軍史研究会編「日本陸軍の本 総解説」(自由国民社、1985年)
注2外村大「朝鮮人強制連行」(岩波新書、2012年)
注3朴慶植「朝鮮人強制連行の記録」(未来社、1965年)
注4秦郁彦「『慰安婦狩り』証言 検証・第三弾 ドイツの従軍慰安婦問題」「諸君!」1992年9月号
注5吉見義明「『河野談話』をどう考えるか――その意義と問題点」「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクションセンター編「『慰安婦』バッシングを越えて」(大月書店、2013年)◆「済州島で連行」証言
裏付け得られず虚偽と判断
〈疑問〉日本の植民地だった朝鮮で戦争中、慰安婦にするため女性を暴力を使って無理やり連れ出したと著書や集会で証言した男性がいました。
朝日新聞は80年代から90年代初めに記事で男性を取り上げましたが、証言は虚偽という指摘があります。
●男性は吉田清治氏。
著書などでは日雇い労働者らを統制する組織である山口県労務報国会下関支部で動員部長をしていたと語っていた。
朝日新聞は吉田氏について確認できただけで16回、記事にした。
初掲載は82年9月2日の大阪本社版朝刊社会面。
大阪市内での講演内容として「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」と報じた。
執筆した大阪社会部の記者(66)は「講演での話の内容は具体的かつ詳細で全く疑わなかった」と話す。
90年代初め、他の新聞社も集会などで証言する吉田氏を記事で取り上げていた。
92年4月30日、産経新聞は朝刊で、秦郁彦氏による済州島での調査結果を元に証言に疑問を投げかける記事を掲載。
週刊誌も「『創作』の疑い」と報じ始めた。
東京社会部の記者(53)は産経新聞の記事の掲載直後、デスクの指示で吉田氏に会い、裏付けのための関係者の紹介やデータ提供を要請したが拒まれたという。
97年3月31日の特集記事のための取材の際、吉田氏は東京社会部記者(57)との面会を拒否。
虚偽ではないかという報道があることを電話で問うと「体験をそのまま書いた」と答えた。
済州島でも取材し裏付けは得られなかったが、吉田氏の証言が虚偽だという確証がなかったため、「真偽は確認できない」と表記した。
その後、朝日新聞は吉田氏を取り上げていない。
しかし、自民党の安倍晋三総裁が2012年11月の日本記者クラブ主催の党首討論会で「朝日新聞の誤報による吉田清治という詐欺師のような男がつくった本がまるで事実かのように日本中に伝わって問題が大きくなった」と発言。
一部の新聞や雑誌が朝日新聞批判を繰り返している。
今年4~5月、済州島内で70代後半~90代の計約40人に話を聞いたが、強制連行したという吉田氏の記述を裏付ける証言は得られなかった。
干し魚の製造工場から数十人の女性を連れ去ったとされる北西部の町。
魚を扱う工場は村で一つしかなく、経営に携わった地元男性(故人)の息子は「作っていたのは缶詰のみ。父から女性従業員が連れ去られたという話は聞いたことがない」と語った。
「かやぶき」と記された工場の屋根は、韓国の当時の水産事業を研究する立命館大の河原典史教授(歴史地理学)が入手した当時の様子を記録した映像資料によると、トタンぶきとかわらぶきだった。
93年6月に、吉田氏の著書をもとに済州島を調べたという韓国挺身隊研究所元研究員の姜貞淑(カンジョンスク)さんは「数カ所でそれぞれ数人の老人から話を聞いたが、記述にあるような証言は出なかった」と語った。
吉田氏は著書で、43年5月に西部軍の動員命令で済州島に行き、その命令書の中身を記したものが妻(故人)の日記に残っていると書いていた。
しかし、今回、吉田氏の長男(64)に取材したところ、妻は日記をつけていなかったことがわかった。
吉田氏は00年7月に死去したという。
吉田氏は93年5月、吉見義明・中央大教授らと面会した際、
「(強制連行した)日時や場所を変えた場合もある」
と説明した上、動員命令書を写した日記の提示も拒んだといい、
吉見氏は「証言としては使えないと確認するしかなかった」と指摘している。(注1)
戦時中の朝鮮半島の動員に詳しい外村大・東京大准教授は、吉田氏が所属していたという労務報国会は厚生省と内務省の指示で作られた組織だとし、
「指揮系統からして軍が動員命令を出すことも、職員が直接朝鮮に出向くことも考えづらい」
と話す。
吉田氏はまた、強制連行したとする43年5月当時、済州島は「陸軍部隊本部」が「軍政を敷いていた」と説明していた。
この点について、永井和・京都大教授(日本近現代史)は旧陸軍の資料から、済州島に陸軍の大部隊が集結するのは45年4月以降だと指摘。
「記述内容は事実とは考えられない」と話した。
●読者のみなさまへ
吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。
当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。
済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。
研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました。
(注1)吉見義明・川田文子編「『従軍慰安婦』をめぐる30のウソと真実」(大月書店、1997年)◆「軍関与示す資料」
本紙報道前に政府も存在把握
〈疑問〉朝日新聞が1992年1月11日朝刊1面で報じた「慰安所 軍関与示す資料」の記事について、慰安婦問題を政治問題化するために、宮沢喜一首相が訪韓する直前のタイミングを狙った「意図的な報道」などという指摘があります。
●この記事は、防衛庁防衛研究所図書館所蔵の公文書に、旧日本軍が戦時中、慰安所の設置や慰安婦の募集を監督、統制していたことや、現地の部隊が慰安所を設置するよう命じたことを示す文書があったとの内容だった。
慰安婦問題は90年以来、国会で繰り返し質問された。政府は「全く状況がつかめない状況」と答弁し、関与を認めなかった。
朝日新聞の報道後、加藤紘一官房長官は「かつての日本の軍が関係していたことは否定できない」と表明。
5日後の1月16日、宮沢首相は訪韓し、盧泰愚(ノテウ)大統領との首脳会談で「反省、謝罪という言葉を8回使った」(韓国側発表)。
文書は吉見義明・中央大教授が91年12月下旬、防衛研究所図書館で存在を確認し、面識があった朝日新聞の東京社会部記者(57)に概要を連絡した。
記者は年末の記事化も検討したが、文書が手元になく、取材が足らないとして見送った。
吉見教授は年末年始の休み明けの92年1月6日、図書館で別の文書も見つけ、記者に伝えた。
記者は翌7日に図書館を訪れて文書を直接確認し、撮影。
関係者や専門家に取材し、11日の紙面で掲載した。
政府の河野談話の作成過程の検証報告書によると、記者が図書館を訪れたのと同じ92年1月7日、軍関与を示す文書の存在が政府に報告されている。
政府は91年12月以降、韓国側から「慰安婦問題が首相訪韓時に懸案化しないよう、事前に措置を講じるのが望ましい」と伝達され、関係省庁による調査を始めていた。
現代史家の秦郁彦氏は著書「慰安婦と戦場の性」で、この報道が首相訪韓直前の「奇襲」「不意打ち」だったと指摘。
「情報を入手し、発表まで2週間以上も寝かされていたと推定される」と記している。
一部新聞も、この報道が発端となり日韓間の外交問題に発展したと報じた。
しかし、記事が掲載されたのは、記者が詳しい情報を入手してから5日後だ。
「国が関与を認めない中、軍の関与を示す資料の発見はニュースだと思い、取材してすぐ記事にした」と話す。
また、政府は報道の前から文書の存在を把握し、慰安婦問題が訪韓時の懸案となる可能性についても対応を始めていた。
記事で紹介した文書の一つは、陸軍省副官名で38年に派遣軍に出された通達。
日本国内で慰安婦を募集する際、業者が「軍部の了解がある」と言って軍の威信を傷つけ、警察に取り調べを受けたなどとして、業者を選ぶ際に、憲兵や警察と連絡を密にして軍の威信を守るよう求めていた。
西岡力・東京基督教大教授(韓国・北朝鮮地域研究)は著書「よくわかる慰安婦問題」で
「業者に違法行為をやめさせようとしたもの。
関与は関与でも『善意の関与』」
との解釈を示した。
これに対し、永井和・京都大教授は「善意の関与」との見方を否定する。
永井教授が着目するのは、同時期に内務省が警保局長名で出した文書。
慰安婦の募集や渡航を認めたうえで、
「軍の了解があるかのように言う者は厳重に取り締まること」
という内容だった。
永井教授は、業者が軍との関係を口外しないよう取り締まることを警察に求めたものと指摘。
そのうえで、朝日新聞が報じた陸軍省の文書については、著書「日中戦争から世界戦争へ」で
「警察が打ち出した募集業者の規制方針、すなわち慰安所と軍=国家の関係の隠蔽化方針を、軍司令部に周知徹底させる指示文書」
との見方を示している。
92年1月11日の朝日新聞記事に関し、短文の用語説明で、慰安婦について「主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。
その人数は8万とも20万ともいわれる」と記述したことにも、「挺身隊」と「慰安婦」を混同した、などの批判がある(両者の混同については「『挺身隊』との混同」で説明)。
慰安婦の人数に関しても議論があるが、公式記録はなく、研究者の推計しかない(「慰安婦問題とは」の中で説明)。
●読者のみなさまへ
記事は記者が情報の詳細を知った5日後に掲載され、宮沢首相の訪韓時期を狙ったわけではありません。政府は報道の前から資料の存在の報告を受けていました。韓国側からは91年12月以降、慰安婦問題が首相訪韓時に懸案化しないよう事前に措置を講じるのが望ましいと伝えられ、政府は検討を始めていました。◆「挺身隊」との混同 当時は研究が乏しく同一視
〈疑問〉朝鮮半島出身の慰安婦について朝日新聞が1990年代初めに書いた記事の一部に、「女子挺身隊」の名で戦場に動員された、という表現がありました。
今では慰安婦と女子挺身隊が別だということは明らかですが、なぜ間違ったのですか。
●「女子挺身隊」とは戦時下の日本内地や旧植民地の朝鮮・台湾で、女性を労働力として動員するために組織された「女子勤労挺身隊」を指す。
44年8月の「女子挺身勤労令」で国家総動員法に基づく制度となったが、それまでも学校や地域で組織されていた。
朝鮮では終戦までに、国民学校や高等女学校の生徒ら多くて約4千人が内地の軍需工場などに動員されたとされる。
(注1)
目的は労働力の利用であり、将兵の性の相手をさせられた慰安婦とは別だ。
だが、慰安婦問題がクローズアップされた91年当時、朝日新聞は朝鮮半島出身の慰安婦について
「第2次大戦の直前から『女子挺身隊』などの名で前線に動員され、慰安所で日本軍人相手に売春させられた」
(91年12月10日朝刊)、
「太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」
(92年1月11日朝刊)
と書くなど両者を混同した。
原因は研究の乏しさにあった。
当時、慰安婦を研究する専門家はほとんどなく、歴史の掘り起こしが十分でなかった。
朝日新聞は、国内の工場で働いた日本人の元挺身隊員を記事で取り上げたことはあったが、朝鮮半島の挺身隊の研究は進んでいなかった。
記者が参考文献の一つとした「朝鮮を知る事典」(平凡社、86年初版)は、慰安婦について
「43年からは〈女子挺身隊〉の名の下に、約20万の朝鮮人女性が労務動員され、そのうち若くて未婚の5万~7万人が慰安婦にされた」
と説明した。
執筆者で朝鮮近代史研究者の宮田節子さんは
「慰安婦の研究者は見あたらず、既刊の文献を引用するほかなかった」
と振り返る。
宮田さんが引用した千田夏光氏の著書「従軍慰安婦」は
「“挺身隊”という名のもとに彼女らは集められたのである(中略)総計二十万人(韓国側の推計)が集められたうち“慰安婦”にされたのは“五万人ないし七万人”とされている」
と記述していた。
朝鮮で「挺身隊」という語を「慰安婦」の意味で使う事例は、46年の新聞記事にもみられる。
44年7月に閣議決定された朝鮮総督府官制改正の説明資料には、未婚の女性が徴用で慰安婦にされるという「荒唐無稽なる流言」が拡散しているとの記述がある。
挺身隊員が組織的に慰安婦とされた事例は確認されていないが、日本の統治権力への不信から両者を同一視し、恐れる風潮が戦時期から広がっていたとの見方がある。
(注2)元慰安婦の支援団体が「韓国挺身隊問題対策協議会」を名乗っており、混同が残っているとの指摘もある。
92年1月の宮沢首相の訪韓直前、韓国の通信社が国民学校に通う12歳の朝鮮人少女が挺身隊に動員されたことを示す学籍簿が見つかったとする記事を配信。
「日本は小学生までを慰安婦にした」と誤解され、対日感情が悪化した。
朝日新聞は93年以降、両者を混同しないよう努めてきた。
当時のソウル支局長(72)は
「挺身隊として日本の軍需工場で働いた女性たちが『日本軍の性的慰みものになった』と誤解の目で見られて苦しんでいる実態が、市民団体の聞き取りで明らかになったという事情もあった」
と話す。
●読者のみなさまへ
女子挺身隊は、戦時下で女性を軍需工場などに動員した「女子勤労挺身隊」を指し、慰安婦とはまったく別です。
当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました。
注1 高崎宗司「『半島女子勤労挺身隊』について」デジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」
注2 藤永壮「戦時期朝鮮における『慰安婦』動員の『流言』『造言』をめぐって」松田利彦ほか編「地域社会から見る帝国日本と植民地 朝鮮・台湾・満洲」(思文閣出版、2013)◆「元慰安婦 初の証言」
記事に事実のねじ曲げない
〈疑問〉元朝日新聞記者の植村隆氏は、元慰安婦の証言を韓国メディアよりも早く報じました。
これに対し、元慰安婦の裁判を支援する韓国人の義母との関係を利用して記事を作り、都合の悪い事実を意図的に隠したのではないかとの指摘があります。
●問題とされる一つは、91年8月11日の朝日新聞大阪本社版の社会面トップに出た「思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」という記事だ。
元慰安婦の一人が、初めて自身の体験を「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)に証言し、それを録音したテープを10日に聞いたとして報じた。
植村氏は当時、大阪社会部記者で、韓国に出張。元慰安婦の証言を匿名を条件に取材し、韓国メディアよりも先んじて伝えた。
批判する側の主な論点は、
(1)元慰安婦の裁判支援をした団体の幹部である義母から便宜を図ってもらった
(2)元慰安婦がキーセン(妓生)学校に通っていたことを隠し、人身売買であるのに強制連行されたように書いた
という点だ。
植村氏によると、8月の記事が掲載される約半年前、「太平洋戦争犠牲者遺族会」(遺族会)の幹部梁順任(ヤンスニム)氏の娘と結婚した。
元慰安婦を支援するために女性研究者らが中心となってつくったのが挺対協。
一方、遺族会は戦時中に徴兵、徴用などをされた被害者や遺族らで作る団体で挺対協とは異なる別の組織だ。
取材の経緯について、植村氏は「挺対協から元慰安婦の証言のことを聞いた、当時のソウル支局長からの連絡で韓国に向かった。
義母からの情報提供はなかった」と話す。
元慰安婦はその後、裁判の原告となるため梁氏が幹部を務める遺族会のメンバーとなったが、植村氏は「戦後補償問題の取材を続けており、元慰安婦の取材もその一つ。義母らを利する目的で報道をしたことはない」と説明する。
8月11日に記事が掲載された翌日、植村氏は帰国した。14日に北海道新聞のソウル特派員が元慰安婦の単独会見に成功し、金学順(キムハクスン)さんだと特報。韓国主要紙も15日の紙面で大きく報じた。
植村氏は前年の夏、元慰安婦の証言を得るため韓国を取材したが、話を聞けずに帰国した経緯もあり、詳しい取材のいきさつは、朝鮮半島問題を扱う月刊誌「MILE(ミレ)」(91年11月号)に書いた。
この時期、植村氏の記事への批判はまだ出ていなかった。
また、8月11日の記事で「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」などと記したことをめぐり、キーセンとして人身売買されたことを意図的に記事では触れず、挺身隊として国家によって強制連行されたかのように書いた、
との批判がある。
慰安婦と挺身隊との混同については、前項でも触れたように、韓国でも当時慰安婦と挺身隊の混同がみられ、植村氏も誤用した。
元慰安婦の金さんが「14歳(数え)からキーセン学校に3年間通った」と明らかにしたのは、91年8月14日に北海道新聞や韓国メディアの取材に応じた際だった。
キーセン学校は宴席での芸事を学ぶ施設だ。
韓国での研究によると、学校を出て資格を得たキーセンと遊郭で働く遊女とは区別されていた。
中には生活に困るなどして売春行為をしたキーセンもおり、日本では戦後、韓国での買春ツアーが「キーセン観光」と呼ばれて批判されたこともあった。
91年8月の記事でキーセンに触れなかった理由について、植村氏は「証言テープ中で金さんがキーセン学校について語るのを聞いていない」と話し、「そのことは知らなかった。意図的に触れなかったわけではない」と説明する。
その後の各紙の報道などで把握したという。
金さんは同年12月6日、日本政府を相手に提訴し、訴状の中でキーセン学校に通ったと記している。
植村氏は、提訴後の91年12月25日朝刊5面(大阪本社版)の記事で、金さんが慰安婦となった経緯やその後の苦労などを詳しく伝えたが、「キーセン」のくだりには触れなかった。
植村氏は「キーセンだから慰安婦にされても仕方ないというわけではないと考えた」と説明。
「そもそも金さんはだまされて慰安婦にされたと語っていた」といい、8月の記事でもそのことを書いた。
金さんらが日本政府を相手に提訴した91年12月6日、別の記者が書いた記事が夕刊1面に掲載されたが、キーセンについては書いていない。その後も植村氏以外の記者が金さんを取り上げたが、キーセンの記述は出てこない。
●読者のみなさまへ
植村氏の記事には、意図的な事実のねじ曲げなどはありません。
91年8月の記事の取材のきっかけは、当時のソウル支局長からの情報提供でした。
義母との縁戚関係を利用して特別な情報を得たことはありませんでした。◆他紙の報道は
他の新聞社は慰安婦問題をどう報じてきたのか。
国立国会図書館に所蔵されているマイクロフィルムや記事を検索できる各社のデータベースなどを参考に、特に1980年代後半以降の読売新聞、毎日新聞、産経新聞の記事を調べた。
●論点は、朝日新聞が今回の特集で点検の対象とした、吉田清治氏(故人)をどう報じたか、
「慰安婦」と「女子挺身隊」を混同したか、
慰安婦問題を報じる際、「強制連行」という言葉を使ったか、
の3点。
韓国・済州島での「慰安婦狩り」を証言していた吉田氏。
同氏を取り上げた朝日新聞の過去の報道を批判してきた産経新聞は、大阪本社版の夕刊で1993年に「人権考」と題した連載で、吉田氏を大きく取り上げた。
連載のテーマは、「最大の人権侵害である戦争を、『証言者たち』とともに考え、問い直す」というものだ。
同年9月1日の紙面で、「加害 終わらぬ謝罪行脚」の見出しで、吉田氏が元慰安婦の金学順さんに謝罪している写真を掲載。
「韓国・済州島で約千人以上の女性を従軍慰安婦に連行したことを明らかにした『証言者』」
だと紹介。
「(証言の)信ぴょう性に疑問をとなえる声があがり始めた」
としつつも、
「被害証言がなくとも、それで強制連行がなかったともいえない。
吉田さんが、証言者として重要なかぎを握っていることは確かだ」
と報じた。
この連載は、関西を拠点とした優れた報道に与えられる「第1回坂田記念ジャーナリズム賞」を受賞。
94年には解放出版社から書籍化されている。
読売新聞も92年8月15日の夕刊で吉田氏を取り上げている。
「慰安婦問題がテーマ 『戦争犠牲者』考える集会」
との見出しの記事。
「山口県労務報国会下関支部の動員部長だった吉田清治さん」が、
「『病院の洗濯や炊事など雑役婦の仕事で、いい給料になる』と言って、百人の朝鮮人女性を海南島に連行したことなどを話した」
などと伝えている。
毎日新聞も吉田氏が92年8月に謝罪のために訪韓した様子を同年8月12日と13日の朝刊でそれぞれ報じた。
90年代初期には、「慰安婦」と「挺身隊」の混同もみられた。
朝日新聞の過去の記事に両者の混同があったことなどを批判した読売新聞は、91年8月26日朝刊の記事
「『従軍慰安婦』に光を 日韓両国で運動活発に 資料集作成やシンポも」の中で、
「太平洋戦争中、朝鮮人女性が『女子挺身隊』の名でかり出され、従軍慰安婦として前線に送られた。その数は二十万人ともいわれているが、実態は明らかではない」
と記載している。
また、92年1月16日朝刊に掲載された宮沢喜一首相の訪韓を伝える記事でも、
「戦時中、『挺身隊』の名目で強制連行された朝鮮人の従軍慰安婦は十万とも二十万人ともいわれる」
と記述するなど、混同がみられた。
毎日新聞も、元慰安婦の金学順さんを取り上げた91年12月13日朝刊「ひと」欄の記事の中で、
「十四歳以上の女性が挺身隊などの名で朝鮮半島から連行され、従軍慰安婦に。その数は二十万人ともいい、終戦後、戦場に置き去りにされた」
と報じた。
朝日新聞社は、ここで取り上げた記事について各社の現時点での認識を尋ねました。
毎日新聞社と産経新聞社からは次の回答がありましたが、読売新聞社は回答しませんでした。
〈毎日新聞社社長室広報担当の話〉
いずれの記事も、その時点で起きた出来事を報道したものであり、現時点でコメントすることはありません。
〈産経新聞社広報部の話〉
当該記事では、吉田清治氏の証言と行動を紹介するとともに、その信ぴょう性に疑問の声があることを指摘しました。
その後、取材や学者の調査を受け、証言は「虚構」「作り話」であると報じています。◆慰安婦問題の本質 直視を
編集担当 杉浦信之
日韓関係はかつてないほど冷え込んでいます。
混迷の色を濃くしている理由の一つが、慰安婦問題をめぐる両国の溝です。
この問題は1990年代初めにクローズアップされ、元慰安婦が名乗り出たのをきっかけに議論や研究が進みました。
戦争の時代に、軍の関与の下でアジア各地に慰安所が作られ、女性の尊厳と名誉が深く傷つけられた実態が次第に明らかになりました。
それから20年余、日本軍の関与を認めて謝罪した「河野談話」の見直しなどの動きが韓国内の反発を招いています。
韓国側も、日本政府がこれまで示してきた反省やおわびの気持ちを受け入れず、かたくなな態度を崩そうとしません。
慰安婦問題が政治問題化する中で、安倍政権は河野談話の作成過程を検証し、報告書を6月に発表しました。
一部の論壇やネット上には、
「慰安婦問題は朝日新聞の捏造だ」
といういわれなき批判が起きています。
しかも、元慰安婦の記事を書いた元朝日新聞記者が名指しで中傷される事態になっています。
読者の皆様からは「本当か」「なぜ反論しない」と問い合わせが寄せられるようになりました。
私たちは慰安婦問題の報道を振り返り、今日と明日の紙面で特集します。
読者への説明責任を果たすことが、未来に向けた新たな議論を始める一歩となると考えるからです。
97年3月にも慰安婦問題の特集をしましたが、その後の研究の成果も踏まえて論点を整理しました。
慰安婦問題に光が当たり始めた90年代初め、研究は進んでいませんでした。
私たちは元慰安婦の証言や少ない資料をもとに記事を書き続けました。
そうして報じた記事の一部に、事実関係の誤りがあったことがわかりました。
問題の全体像がわからない段階で起きた誤りですが、裏付け取材が不十分だった点は反省します。
似たような誤りは当時、国内の他のメディアや韓国メディアの記事にもありました。
こうした一部の不正確な報道が、慰安婦問題の理解を混乱させている、との指摘もあります。
しかし、そのことを理由とした「慰安婦問題は捏造」という主張や「元慰安婦に謝る理由はない」といった議論には決して同意できません。
被害者を「売春婦」などとおとしめることで自国の名誉を守ろうとする一部の論調が、日韓両国のナショナリズムを刺激し、問題をこじらせる原因を作っているからです。
見たくない過去から目を背け、感情的対立をあおる内向きの言論が広がっていることを危惧します。
戦時中、日本軍兵士らの性の相手を強いられた女性がいた事実を消すことはできません。
慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質なのです。
90年代、ボスニア紛争での民兵による強姦(ごうかん)事件に国際社会の注目が集まりました。
戦時下での女性に対する性暴力をどう考えるかということは、今では国際的に女性の人権問題という文脈でとらえられています。
慰安婦問題はこうした今日的なテーマにもつながるのです。
「過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております」
官民一体で作られた「アジア女性基金」が元慰安婦に償い金を渡す際、歴代首相はこんな一節も記した手紙を添えました。
歴史認識をめぐる対立を超え、和解へ向けて歩を進めようとする政治の意思を感じます。
来年は戦後70年、日韓国交正常化50年の節目を迎えますが、東アジアの安全保障環境は不安定さを増しています。
隣国と未来志向の安定した関係を築くには慰安婦問題は避けて通れない課題の一つです。
私たちはこれからも変わらない姿勢でこの問題を報じ続けていきます。
過ちては改むるに憚ること勿れ
辛坊が言ってるように、かなり往生際は悪いものの、
安倍政権下での朝日新聞社長の証人喚問の噂、かなり信憑性高く感じられ、それで観念して…ということもあるのかもしれないが(笑)…
この釈明(検証?)記事で、とりあえず朝日新聞は首の皮一枚残った。
これでようやく同じ土俵で議論する立場を得た、と思う。
主張はいろいろあるだろう。
「被害者を『売春婦』などとおとしめることで自国の名誉を守ろうとする一部の論調には、同意できない」
同感だ。
今後は朝日新聞を、
恣意的な捏造に懲りた新聞として、フェアに見守りたい、
この釈明(検証?)記事で、とりあえず朝日新聞は首の皮一枚残った。
これでようやく同じ土俵で議論する立場を得た、と思う。
主張はいろいろあるだろう。
「被害者を『売春婦』などとおとしめることで自国の名誉を守ろうとする一部の論調には、同意できない」
同感だ。
今後は朝日新聞を、
恣意的な捏造に懲りた新聞として、フェアに見守りたい、
と個人的には思う。
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『STAP笹井』自殺/懺悔のハラキリか、それとも現実逃避か、あるいは怨念か…
■医師が死亡を確認 小保方氏の指導役
産経新聞 2014.8.5 10:40 [STAP細胞]
兵庫県警などによると、5日午前、神戸市の理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(CDB)に隣接する先端医療センター病院の医師が、笹井芳樹CDB副センター長(52)の死亡を確認したという。
笹井氏は新型万能細胞とされた「STAP細胞」の論文を執筆した小保方晴子氏(30)の指導役。
今年1月に理研が成果を発表した記者会見にも同席しており、論文疑惑が発覚した後も、細胞が存在する可能性を強調していた。
笹井氏は兵庫県出身。
昭和61(1986)年に京都大医学部を卒業。平成15(2003)年に理研に入り、25年から副センター長を務めている。■遺書は秘書の机に2通、現場に3通
「心身共に疲れていた」 理研が会見
理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(CDB)の笹井芳樹副センター長(52)が自殺したことを受け、理研の加賀屋悟広報室長が5日午後、文部科学省で記者会見した。
加賀屋氏は、遺書のようなものは、少なくとも秘書の机の上に2通あったほか、笹井氏が自殺を図った現場に3通あったと聞いていると明らかにした。
あて名については、現時点で公表を控えるという。
CDBでは、「STAP細胞」論文を執筆した理研の小保方晴子氏(30)が、STAP細胞の有無を調べる検証実験に参加している。
ただ、加賀屋氏によると、遺体が発見された時間帯には、小保方氏はCDBに到着していなかったという。
笹井氏の自殺前の状況については、STAP細胞問題で、心身共に疲れていたと明らかにした。
笹井氏の自殺を受けて、小保方氏にも精神的ケアをするスタッフを配置したという。■誰も言わないから言うけど、笹井の自殺ってもしやこれが原因なんじゃ・・・
ソニック速報2014/08/05◆小保方氏側 Nスペの親密音読に不快感
デイリーニュース
NHKが27日夜に放送した、STAP細胞の論文問題を追及した「NHKスペシャル」(後9・00)で、独自入手したとされる理化学研究所・小保方晴子氏と、上司で論文共著者の笹井芳樹氏が論文作成当時に やりとりしたメール内容が、男女ナレーターが親密そうに音読する演出で明らかにされた。
放送内容に反発を強める小保方氏側は28日、「あの部分を出す必要があるのか」と“親密なやりとり再現”に苦言を呈した。
番組では、2012年4月以降、科学誌に3度、論文掲載を拒否されていた小保方氏を「論文執筆の天才とも言われる」笹井氏がサポートし、論文の評価が一変したと解説。
そのうえで、ほぼ2人で論文作成を進めていた当時の2人のメールとして、テレビ画面にメール文面が映される中、内容を男女のナレーターが読み上げた。
まず笹井氏の「東京出張」と題したメールでは、小保方氏に研究状況をうかがう前段部分の
「小保方さん、本日なのですが、東京は雪で寒々しております」
「小保方さんと、こうして論文準備できるのを、とてもうれしく、楽しく思っており、感謝しています」
と男性ナレーターが抑揚あるトーンで読み上げた。
これに返信したとされる小保方氏のメールは
「笹井先生、また近いうちにご相談にうかがわせていただけないでしょうか」
と弾んだ声で音読された。双方ともに、感情を込めて読み上げられたことは否めなかった。
この件に関して、小保方氏の弁護団関係者は28日、
「弁護団としては、プライベートなメールの詳細までは把握してません」
としたうえで、論文の分析・検証が進められた番組の中で、特異に映った公開内容に
「なぜあそこの部分を出す必要があったんだろうか」
と苦言を呈した。
今回の問題発覚後、小保方氏と笹井氏に関しては、一部で「不適切な関係があった」旨の報道もあったが、
両者とも会見で強く否定している。■小保方氏負傷 NHK追跡取材の全容
デイリーニュース 2014年7月24日
理化学研究所の小保方晴子ユニットリーダー(30)が23日夜に、NHKの報道スタッフから強引な追跡取材を受け「右ひじ筋挫傷」など全治2週間の負傷した問題で、代理人の三木秀夫弁護士が24日夕に会見し、NHKによる追跡取材の詳細を明らかにした。
三木弁護士によると小保方氏は現在、神戸市の理研発生・再生科学総合研究センターで、STAP細胞の有無を確認する検証実験に参加中。
23日も同センターに出勤していたが、夕方から周辺に「バイク隊」が確認されたため、小保方氏は午後8時ごろ、通常使っている車とは別のタクシーで同センターを出て帰路につき、途中、同市内のホテルで車を乗り換えた。
ところがホテルを出発した直後にバイクの追跡に気づいたため、そのホテルに戻り、女性用トイレに逃げ込んだという。
しばらくしてトイレを出たところで記者やカメラマンら5人が現れ、NHKであることを名乗ったという。
小保方氏は逃げ出したが、ホテル内のエスカレーターで上下からカメラ2台による“挟み撃ち”にあった。
取り囲まれた小保方氏は下りのエスカレーターを逆走して逃げようとしたが、その際に取材スタッフらと接触するなどして負傷したという。
その後、小保方氏は再び女性用トイレの個室に逃げ込んだが、NHKの女性スタッフがトイレ内まで確認にやってきた。
その際、外部と連絡をとりあう場面もあったという。
小保方氏はトイレを出ることを決断。
ホテル従業員に助けを求め、ホテル裏口から脱出して、午後10時ごろに三木弁護士に電話で連絡してきたという。
三木弁護士は「30分以上、ホテル内で追い回されたようだ」と明かした。
小保方氏は24日も同センターに出勤したが「体中が痛い」と訴え、夕方に神戸市内の病院で検査を受け「頸椎ねんざ」「右ひじ筋挫傷」で全治2週間と診断された。
利き腕の右手を負傷した小保方氏は「まるで犯罪者扱い。右手が痛くて実験に支障をきたしかねず、非常に悔しい」と話しているという。
三木弁護士は小保方氏の様子について「カンカンに怒っている」と明かした。
なお小保方氏は今月上旬までは大阪府内の病院に入院しているとされていたが、現在の入院の有無について同弁護士は「回答は控えたい」とした。■理研の笹井芳樹さん自殺と政治責任
山本 一郎(個人投資家)
2014年8月5日
山本一郎です。
まさかというか、薄々そういうことがあってはいけないとみんなが思いながら、その通りのことが起きてしまったわけですが…。
こんな馬鹿な事件で、笹井さんのように大変優れた人が判断ミスで自ら命を絶ってしまうなんて、本人や周辺のみならず、日本社会全体に対して大きな損害であることは言うまでもありません。
恐らくは、事実関係をすべてご存知の上で、取り返しのつかないことだと己を責め続けた結果、自ら死を選んだのでしょう。
辛かったのか、責任を取りたかったのか、真相は明らかではありませんが…
はっきり言って、笹井さんがサークルクラッシャーのような女性に取り込まれて舞い上がって組織を巻き込んでやらかしたのだという話だったとしても、筋道を立てて説明し、再発の防止に協力して、後進の育成や公正な評価に資する活動に笹井さん自らが身を投じていれば、あれは悪夢だったのだと忘れることもできたのでしょう。
挫折のない人が順調にレールの上を走ってくるほどに、ちょっとした事情で思い悩み、相談する相手も周囲になく、自分を追い詰めてしまうのはよく目にすることです。
勿体無いとしか言いようが無い。
確かに小保方晴子女史を引き上げた責任は笹井さんにあり、また微妙な捏造論文を科学誌に掲載させてしまうような後押しをしたにせよ、その事情を評価し事後処理を行う責任を持つのは紛うことなき行政と理研トップ、ひいては全体の方針を決定付ける厚生労働省文部科学省の大臣が責務を負っていたと思うわけです。
一口に研究組織のガバナンスの問題と言うのは簡単でしょうが、STAP細胞の再現実験に小保方女史を参加させるの、論文不正がどうだのといった、戦線が拡大してしまった理由と言うのも、人生を捧げている研究者の皆さんや、研究費を事実上負担している日本国民納税者が納得のいく厳正なる対処を進めることこそが唯一の解決方法だったのに、それを採らなかったことだと思うからです。
留保つきでもいいから、いったん小保方晴子女史の研究者としての資格を停止する判断をしていれば笹井さんだけが責任を感じることなく死なずに済んだだろうに、という点で、原因究明や小保方処分に逡巡したすべての関係者に責任があるんだろうと考えるわけですね。
「小保方女史をうっかり処分すると、他の問題にも飛び火するかもしれない」という躊躇が、結局メディアの関心を呼び起こして関係者の自殺にまで結びついてしまうわけですね。
誠に残念なことですし、一時期はノーベル賞候補を京都大学山中教授と争ったとまでされる俊英笹井さんの無念を考えると、もっと早く手を打っておけばと強く感じるわけですよ。
もちろん、情愛交じりのメールを公衆の目に晒したNHKのドキュメンタリーも、その後痛い腹状態で出てきた経費の不正使用疑惑も、すべては「3月4月ごろに論文の取り下げを行い、関係者の処分を迅速に行っていれば、これ以上のダメージもなく問題を処理できていたであろう」という点で、やはり理研執行部や監督官庁である文部科学省と、何よりも下村博文文科相のリーダーシップが発揮されていれば回避できたことだろうなあと感じるわけであります。
あくまで結果論ではありますが、いま思えば、この辺のすったもんだでいたずらに時間稼ぎをされてしまい、然るべき処分が遅れて問題の幕引きができなかったというのは大きいと思うわけですよ。
慎重にやった結果が、疑いが疑いを呼んで収拾がつかなくなるというスキャンダルのダメージコントロール問題は、今回のガバナンス不全の対応と併せていろんなものを浮き彫りにしたと思います。
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朝日新聞の『慰安婦検証記事』を検証する
日韓関係なぜこじれたか
朝日新聞 『慰安婦問題検証』慰安婦問題はどのようにして政治・外交問題へと発展していったのか。日韓両政府の解決に向けた努力にもかかわらず、なぜこじれて、今に至るのか。(慰安婦問題取材班)
河野談話 韓国政府も内容評価
2014年8月6日
慰安婦問題で韓国の反発が強まったのは1990年6月、参院予算委員会がきっかけだった。ハンギョレ新聞の記事を元に韓国で慰安婦問題に注目が集まる中、労働省の清水傳雄職業安定局長が慰安婦について「民間業者が軍とともに連れて歩いている状況のようで、実態を調査することはできかねる」と答弁。韓国世論は反発し、日本の国会で議論されるようになった。「政府の関与」
91年12月には元慰安婦が日本政府を提訴。内閣外政審議室は、慰安婦関連の資料の調査を始めた。河野談話の作成過程を検証した日本政府の報告書によると、当時、韓国は謝罪をするよう打診。日本は「できれば首相が日本軍の関与を事実上是認し、反省と遺憾の意を表明するのが適当」と内々検討したが、対外的に方針を示すことはなかった。92年1月11日、朝日新聞は防衛研究所にあった旧日本軍の通達を記事化し慰安所は「国が関与していた」と報じた。政府も同じ資料を7日に確認していたが、11日になって加藤紘一官房長官と石原信雄官房副長官が協議。宮沢喜一首相の訪韓が迫っており、石原氏は「ざっくり謝っておきましょう」と提案した。慰安所を使ったことがあるとの話を少年時代に元軍人から直接聞いていた加藤氏は同意し11日夜、日本軍の関与を初めて認める。朝日新聞の取材に「当時の軍の関与は否定できない」と明らかにし、宮沢首相は17日の日韓首脳会談で公式謝罪した。日本政府は92年7月6日、前年12月から進めていた調査結果を発表。加藤氏が「慰安所の設置、募集に当たる者の取り締まり、慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、衛生管理、身分証明書等の発給で政府の関与があった」と述べた。韓国政府は「努力を評価する」としつつ、「問題の全容を明らかにするに至っていない」と再調査を求めた。「強制性」
調査結果の内容に韓国側は「募集時の強制性を含め引き続き真相究明を行うことを求める。証言等で明らかな強制連行が調査結果に含まれていないことへの韓国世論の動向が憂慮される」と注文をつけた。10月中旬にも「『強制の有無は資料が見つからないから分からない』との説明は、韓国国民には真の努力がされていないと映る」。日本は「強制性の明確な認定をすることは困難だが、一部強制性の要素もあったことは否定できない」とする方針を同月下旬に決め、韓国側に伝えた。韓国の要求にどう応えるかが、日本の課題となった。日本は93年1月から軍や朝鮮総督府、慰安所経営の関係者にヒアリングを重ねた。しかし、関係者は官憲による「人さらい的」ないわゆる「狭義の強制連行」を否定。その後も朝鮮半島に関しての資料は見つからなかった。外務省は2月ごろ、「自らの意思に反した形で従軍慰安婦とされた事例があることは否定できない」との内部文書をまとめた。3月の参院予算委員会で、谷野作太郎外政審議室長が「強制は単に物理的に強制を加えることのみならず、脅かし、畏怖(いふ)させ本人の自由な意思に反した場合も広く含む」と答弁。「強制」を広くとらえる方向で検討が始まった。韓国も前年末には「慰安婦になったのが自分の意志でないことが認められるのが重要」と求めていた。日本政府は強制性についての考えや慰安婦への謝罪を表明するため官房長官談話の作成を始めた。韓国が求める元慰安婦への聞き取り調査も「事実究明より真摯な姿勢を示し、気持ちを深く理解する」ため実施を決めた。「お詫びと反省」
談話は日本の求めに応じた韓国とやり取りしながら作られた。例えば、原案にあった「心からおわび申し上げる」について、韓国は「反省の気持ち」を追加した方が良いとの考えを示し、日本も応じた。一方、慰安婦の募集について韓国が「軍または軍の指示を受けた業者」が当たったと提案。日本は軍ではなく軍の意向を受けた業者が主として行った、との理由で拒否。調整は「事実関係をゆがめない範囲」で進められた。ただ、占領下のインドネシアで軍がオランダ人を強制的に慰安婦にしたことを示す軍事裁判資料は参考にした。慰安婦の募集について談話には「官憲等が直接これに加担したこともあった」と記した。自民党が結党以来初めて下野した細川政権発足直前の8月4日、河野洋平官房長官が談話を発表した。発表前夜には、韓国から「金泳三(キムヨンサム)大統領は評価しており、韓国政府としては結構である」との趣旨が日本に伝えられた。石原氏は後に「問題は一応決着した」と振り返っている。発表された談話は、慰安婦について「募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。お詫びと反省の気持ちを申し上げる」と述べた。韓国外務省は「全体的な強制性を認めた。謝罪と反省とともに、歴史の教訓としていく意志の表明を評価する」との声明を発表した。◇《元慰安婦の方々に対する内閣総理大臣の手紙》
拝啓 このたび、政府と国民が協力して進めている「女性のためのアジア平和国民基金」を通じ、元従軍慰安婦の方々へのわが国の国民的な償いが行われるに際し、私の気持ちを表明させていただきます。いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多(あまた)の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております。末筆ながら、皆様方のこれからの人生が安らかなものとなりますよう、心からお祈りしております。敬具日本国内閣総理大臣(歴代内閣総理大臣署名:橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎)◇《河野官房長官談話(1993年8月4日)》
いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多(あまた)の苦痛を経験され、心身にわたり癒(いや)しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。
アジア女性基金に市民団体反発
2014年8月6日日本政府は元慰安婦に対する「謝罪」の意思を表す金銭的な支援を早い段階から検討していたが、具体的な制度設計に入ったのは1994年の村山政権になってからだ。同年10月、自民・社会・さきがけの与党3党が、戦後50年問題プロジェクトチームの「従軍慰安婦問題等小委員会」で議論を始めた。政府はもともと、65年の日韓請求権協定などで請求権に関する問題は解決済みとの立場で、法的責任は認めていない。日韓の市民団体は「国家賠償」を要求し、首相を出していた社会党も国家賠償を主張したが「少しでも戦後責任を前進させるべきだ」と妥協。民間による寄付金を集めることにした。95年6月、五十嵐広三官房長官は「女性のためのアジア平和友好基金」(仮称)の設置を発表した。基金の原資は募金で集め、政府も医療福祉事業費に資金を出す仕組みだ。韓国は医療福祉事業を念頭に「一部事業に対する政府予算の支援という公的性格は加味されている。誠意ある措置だ」との論評を発表。韓国の元駐日大使は「社会党が参加する政権だからこそできた動き」と語り、韓国政府も当初は、基金を評価した。「国家賠償を」
同年7月、「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」として発足したが、基金の実施を転機に日韓のすれ違いが大きくなる。構想段階から、日韓の支援組織などが「基金は国家賠償ではなく、日本政府の責任をあいまいにしている」と批判しており、中心となった韓国の市民団体「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」は責任者の処罰も求め、最後まで溝は埋まらなかった。法的責任を認めていない日本政府が「アジア女性基金は民間の事業」と説明し続けたことも、支援組織には責任回避に映った。韓国メディアが基金から支払う「償い金」を「慰労金」と訳したことも韓国世論がアジア女性基金の趣旨を理解することを妨げた。元慰安婦全員が挺対協と同じ意見だったわけではない。97年1月、基金の受け取りを希望した元慰安婦に初めて償い金と医療福祉事業費を支給した「伝達式」は、ソウル市内で非公開で進められた。関係者によると、橋本龍太郎首相名のおわびの手紙が韓国語で代読され、チマ・チョゴリの正装で出席した元慰安婦は泣き崩れたり、喜びの言葉を口にしたりした。だが、終了後に公表すると韓国社会で強烈な反発が出た。受け取った7人の氏名が公表され、「カネに目がくらんで心を売った」「罪を認めない同情金を受け取れば、被害者は公娼(こうしょう)になる」との強い非難が元慰安婦に寄せられた。韓国外務省も「我が政府と大部分の被害者の要求を無視して支給を強行したことは遺憾だ」とのコメントを発表。直後の日韓外相会談では柳宗夏(ユジョンハ)外相が支給手続きの中断を求めた。独自に募金
韓国政府が態度を変えたのは、別の案件で日韓関係が急速に悪化した事情もあった。96年初めに日本が排他的経済水域(EEZ)を設定する方針を決めると、日韓間で竹島領有権問題が再燃。反日運動が盛り上がるなか、韓国政府は市民団体の声に配慮せざるを得なくなった。当時の対日担当者は「金泳三大統領は真相究明を強調するばかりで、償い金の受け取りを認めなくなった」と証言する。挺対協など支援団体は、アジア女性基金に対抗して独自の募金活動を開始。韓国政府は98年5月、元慰安婦に政府支援金3150万ウォン(約312万円)と民間募金418万ウォン(約41万円)の支払いを始めた。基金を受け取る意思のない人だけが対象で、基金の活動は一層難しくなった。基金は2002年5月、韓国での事業を終了。村山富市理事長は記者会見で「種々の困難に直面したが、受け取りを希望した元慰安婦への償い事業を実施することができた」と総括した。◇〈アジア女性基金〉
河野談話を受けて1995年7月に発足。首相によるおわびの手紙と国民の寄付から償い金200万円、国費から医療福祉支援事業として120万~300万円を元慰安婦に支給した。韓国では韓国政府認定の元慰安婦207人中(2002年時点)、61人を対象に実施。基金受け取りを公表すると韓国社会からバッシングを受けたり、韓国政府からの支給金を受け取れなかったりしたため、水面下で事業を進めた。台湾では13人、フィリピンは211人が対象。オランダでは79人が医療福祉事業費のみ受け取った。インドネシアは元慰安婦の認定が困難だとして、高齢者施設を整備した。
韓国憲法裁決定で再び懸案に
2014年8月6日慰安婦問題に関して韓国政府は長く、日本政府には「金銭要求はしない」という基本方針を取ってきた。93年2月に発足した金泳三政権は、韓国政府が元慰安婦を金銭的に支援する政策を打ち出し、代わりに真相究明や青少年への学習指導などを日本に求めた。98年2月、金泳三政権を継いで生まれた金大中(キムデジュン)政権も日韓の友好を重視した。この時期、慰安婦問題を日本の教科書で取り上げることをめぐり日本国内で反発の声が上がったが、政権は慰安婦問題を日韓の懸案課題に据えることを避け、外交問題にしなかった。2003年2月に発足した盧武鉉(ノムヒョン)政権も基本的にこの路線を踏襲する。違憲と判断
ただ、韓国内では、1965年に締結された日韓基本条約の交渉過程を明らかにすることを求める運動が活発化し、関連文書の公開を求める裁判が起きた。裁判所が公開を命じたため、韓国政府は2005年8月、韓国側文書を全面公開。同時に、サハリン残留韓国人、元慰安婦、在韓被爆者を、韓国側の財産権放棄を定めた日韓請求権協定の例外とすることを確認した。これを受け、市民団体は慰安婦問題について、韓国政府の取り組み不足を問題とする裁判を起こした。訴えから5年。11年8月に韓国憲法裁判所が下した決定が、慰安婦問題を再び日韓間の大きな外交懸案に押し上げることになる。日本政府は協定によって請求権はすべて消滅したとしていたが、憲法裁は、元慰安婦らへの個人補償が協定の例外にあたるのかどうかを、韓国政府が日本政府と交渉しないことを違憲と判断した。もっとも、決定に対し韓国外交通商省は当初、請求権協定に基づき、解釈の違いを正す交渉を求めるにとどめた。当時の李明博(イミョンバク)大統領も、11年10月に訪韓した野田佳彦首相に対して慰安婦問題を提起しなかった。少女像建立
ところが状況が変わる。11年12月、慰安婦の支援団体が毎週ソウルの日本大使館前で行ってきた抗議集会が千回を記録した。記念して同所にこの問題を象徴する少女像を建立したことで、日本国内の世論が急激に悪化していった。直後に京都で開かれた日韓首脳会談。韓国側は、慰安婦問題のほか、日韓経済連携協定(EPA)や日韓物品役務相互提供協定(ACSA)を包括して解決する案を打診した。しかし、合意には至らず、逆に、日韓首脳が慰安婦問題で応酬する事態に発展した。日本側は翌12年3月、佐々江賢一郎外務事務次官が訪韓し、駐韓日本大使が元慰安婦を慰問することや政府予算で元慰安婦への支援事業を展開することなどを打診した。これまでの対日要求の水準を上回る提案だったが、韓国側は、「元慰安婦や支援団体などが総意として受け入れる案が必要」として、提案を拒否した。同年7月、李大統領の指示を受けた申ガクス(シンガクス)駐日大使らが解決策を探ったが、今度は日本側が態度を硬化させて受け入れなかった。さらに、李大統領が翌8月、韓国の現職大統領として初めて竹島に上陸。直後に韓国政府高官が、上陸の原因として慰安婦問題での日本の「不誠実な対応」を挙げたため、日本側は強く反発。日韓双方は、解決を目指して水面下で特使を交換したが、前進はしなかった。河野談話検証
13年2月、朴槿恵(パククネ)政権が発足すると、慰安婦問題をめぐる状況はさらに混迷を深めることになった。同政権は、安倍政権への不信感もあって日韓首脳会談の開催を拒否した。その間、韓国政府は水面下で、「佐々江提案」に加え、・安倍晋三首相が、自身の言葉で「村山談話と河野談話の継承」を表明する・慰安婦に対する政府予算による支援で「人道支援」という言葉を使わない――を求めた。この段階で「金銭要求はしない」とする金泳三政権時代の方針が崩れた。交渉も13年12月の安倍首相の靖国神社参拝で途絶えた。今年に入り、慰安婦問題を議題にした日韓外務省局長級協議が始まった。ところが、今年6月20日に日本政府の河野談話の検証結果が発表されると、韓国政府は日韓の協議内容を勝手に編集したものだと受け止め、態度を硬化させた。韓国政府関係者によれば、韓国外交省の趙太庸(チョテヨン)・第1次官は同月23日、別所浩郎・駐韓国大使に対して、「日本政府の信頼性と国際的な評判が傷つくことになる」と批判したという。韓国政府は、慰安婦問題に関する白書を出版・公表する準備に入った。
米国からの視線
慰安婦問題の解決を促している米国の識者はどう見ているのか。歴史学と国際政治学の研究者2人に話を聞いた。
女性への暴力、国際社会は注視 キャロル・グラックさん米コロンビア大教授(日本近現代史)慰安婦問題が世界的な注目を集めていることを理解するために、三つの観点から考えてみたい。第一に、慰安婦は国際法の分野で女性の権利侵害の歴史的な実例として1990年代から広く言及されてきた。ボスニア紛争などで起きた大量虐殺と集団レイプは、98年に合意された国際刑事裁判所の設立に影響を与え、レイプや強制売春は人道に対する罪として国際法のもとで裁かれるようになった。国際法の文献で慰安婦が第2次大戦中の性的犯罪として触れられるのは通常のこととなり、慰安婦問題は女性の権利に関わる国際的問題となった。NGOや女性団体の活動が拡大し、その国際的な協力が飛躍したことがもう一つの原因だ。韓国では80年代に始まり、日本の女性活動家たちが加わった。90年代にほかのアジア諸国と韓国系の米国人やカナダ人が声を上げるようになった。慰安婦問題は90年代の米国でのいわゆる「アイデンティティー・ポリティクス」の一部となり、米国の議会で日本政府に賠償と謝罪を求める決議が繰り返されてきた。政府レベルでも重要な主題となった。2011年の韓国憲法裁判所の決定は、元慰安婦らへの個人補償が日韓請求権協定の例外にあたるか、韓国政府が日本政府と交渉しないことを違憲とした。これを機に、韓国政府は日本政府に対してだけではなく、ニューヨークやジュネーブの国連機関を通じて国際社会に慰安婦問題をアピールしている。国連規約人権委員会は今年7月、日本政府に元慰安婦への謝罪と賠償、戦中の慰安婦制度の調査を勧告した。この25年で、慰安婦と女性の権利に関する世界の考え方が変わった。日本の政治家が「強制連行を裏付ける公文書は見つかっていない」といった発言を繰り返すと、世界中の反感を引き起こすことになる。米国で慰安婦の碑や像が増えつつあることはその一例だ。
「忘れない」と言い続けよう マイク・モチヅキさん米ジョージ・ワシントン大教授(国際政治学)慰安婦問題はもはや日韓問題ではなく、国際社会の関心事になっている。日本で河野談話を見直す動きなどが出るたびに、日本のおわびや反省の言葉が偽物だったと映り、米国での韓国系の活動を活発にさせている。日本政府の対応もお粗末だ。慰安婦像を撤去させようと職員を地元に派遣し、米韓で報じられ、事態を悪化させた。碑の文言や犠牲者数で反論があるかもしれないが、大きな視点で物事を見る必要がある。米国にも歴史問題がある。私は、父も祖父も太平洋戦争中に強制収容された日系人だが、日系人収容所問題での米国の対応を誇りに思う。80年代に連邦議会が謝罪をし、父は大統領署名の謝罪文と小切手を受け取った。直後の会合でミネタ元運輸長官ら日系人リーダーは「こんな日が訪れるとは想像もしていなかった。過去の失敗に向き合える米国を誇りに思う」と涙を見せていた。話はこれで終わらない。収容所は今、国立公園局下で修復されている。私も家族と収容所の跡地に見学に行き、改めて過去を学んだ。売店には強制収容の歴史を記した書籍などが並んでいた。記憶を風化させず、米国が二度と同じ過ちを繰り返さないための取り組みがここにある。多くの日本人が「もう十分だ。未来志向で行こう」と言うが、それを言うのは被害者の側であって、日本人はまず「私たちは忘れない。過ちを繰り返さない」と言い続けるべきだ。日本大使が、碑の前で河野談話を読み上げて、「戦後日本は、女性の権利、人権を推進する立場であり続けたし、これからもそうだ」と宣言するのも賢明なやり方だと思う。世界中のメディアを通して、前向きなメッセージを伝えられるだろう。過ちが繰り返されないよう、日本の若者には世界各地での女性の権利の擁護者になってほしい。強制連行の有無、検証あいまい秦郁彦さん(現代史家)慰安婦問題の主要な争点は、官憲による組織的、暴力的な強制連行の有無と、慰安所における慰安婦たちの生活が「性奴隷」と呼べるほど悲惨なものだったか否かの2点に絞られよう。政治的、国際的次元に波及したこともあり、論争は必ずしも決着していないが、二十数年にわたり慰安婦報道を終始リードした観のある朝日新聞が、遅ればせながら過去の報道ぶりについて自己検証したことをまず、評価したい。関係者は、6月20日に公表された河野談話をめぐる政府の検証報告書を上回る関心と期待で読み通すのではあるまいか。今回の検証ぶりについて私なりに個別の論点を取り上げてみたい。慰安婦問題の初期イメージを形成し、その後の論調を制約したのは、1992年1月11日の朝日新聞かと思う。「従軍慰安婦」と題した用語解説に「主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万とも」とある。翌日の社説でも同趣旨を繰り返した後、過ちを率直に償おうと呼びかけ、解決の方向性まで社説として示したのだ。これほど誤認と誤報の多い記事は珍しいが、他のメディアが追従したこともあり、結果的に、当時の河野洋平官房長官が強制連行を認めて謝罪し、アジア女性基金を創設して元慰安婦たちに「償い金」を給付する路線が実現してしまう。今回の検証では、当時の情報不足に起因するとして挺身隊との混同は認めたが、総数と民族別内訳は不明としている。強制連行の有無については、済州島における慰安婦狩りを証言した吉田清治を16回も紙面に登場させたが、虚言らしいと判明した93年以降は起用をやめ、強制連行の4文字も「なるべく使わないようにしてきた」と強調した。それでも、前回の検証(97年3月31日)では吉田証言に関して「真偽は確認できない」と抑え気味だったが、今回は「虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした」と改めた。謝罪の言がないことに不満の人もいようが、画期的だと評価する人も多かろう。しかし、強制連行を根拠づける唯一の証言だった吉田証言を否定しながら、中国やインドネシアで戦犯裁判にかかった命令違反や個人犯罪の数例を引いたり、慰安所での「強制」や「軍の関与」を強調したりして、「朝日新聞の問題意識は、今も変わっていない」とあいまいに逃げてしまったのは惜しまれる。その関連だろうか、前回の検証では米軍がビルマで捕虜にした朝鮮人慰安婦たちの尋問報告から、慰安婦の置かれた境遇について「一カ月三百―千五百円の稼ぎを得て(中略)『都会では買い物も許された』」と引用したくだりを今回は落としてしまった。付け加えると、彼女たちの稼ぎは兵士の数十倍という高収入で故郷へ送金していたし、廃業帰国や接客拒否の自由もあった。奴隷とは言いかねるのに、なぜか国際常識化しかけている性奴隷説に朝日は追随しようとしているかに見える。冒頭で述べた2大争点を1勝1敗で切り抜けようとする戦略的配慮なのか。皮肉にも韓国では6月25日に元米軍用慰安婦122人が、性奴隷とされたことに補償と謝罪を求め、韓国政府を相手に提訴した。他にも、韓国軍用慰安婦やベトナム戦における性犯罪を追及する声もくすぶる。「自分のことは棚に上げ、他を責める」のは国際情報戦の定石とはいえ、日本も反撃姿勢に転じればよいのではないか。被害者に寄り添う報道必要
吉見義明さん(中央大教授)朝日新聞は今回の特集で、女性たちが意思に反して慰安婦にさせられたという強制性に問題の本質があることを明確にした。軍・官憲による暴力的な強制連行がなければ日本政府に責任はないという、国際的に全く通用しない議論がいまだにあることを考えれば、改めて問題の所在を明示したことは意義があった。過去の報道について、訂正や誤った経緯の検証をしたことも、慰安婦問題を理解する上で重要だ。吉田清治氏の証言については、朝日新聞をはじめ複数のメディアが取り上げていた。証言の信用性が疑われるようになり、強制連行はうそで、慰安婦問題自体が虚構だという一部の主張を勢いづかせるきっかけの一つにもなった。証言が虚偽でもこの問題に与える影響はない。今回、関連する記事を訂正したことには賛成するが、問題の研究が進んだ1990年代の早い段階でできなかったかと残念に思う。慰安婦と女子挺身隊の混同についても同様に、もう少し早い対応が望まれた。問題と感じたのは、今回の紙面を読んでも、慰安婦問題の何が課題で、何をする必要があるのか、朝日新聞が考える解決策が見えてこないことだ。被害者に寄り添う姿勢が紙面からうかがえない。2日目の日韓関係に関する記事は、両政府の応酬の末に慰安婦問題がこじれていったかのように読める。一番の原因は被害者の声にきちんと向き合おうとしない日本政府の姿勢にある。そもそも河野談話は「多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」と認めたのに、その主体が誰なのか明記していない。女性の人権を侵害した軍や日本政府の責任があいまいにされたため、アジア女性基金では、本来政府が担うべき「償い金」を民間が支払うという根本の「逆転」を許してしまった。これでは被害者は納得できるはずがない。今回の紙面は、被害者の存在を無視するかのような日本政府の問題について触れていない。2日目の記事は、今年6月に発表された河野談話の検証結果をなぞり、追認しているだけのように見える。慰安婦問題は日韓請求権協定で法的に解決済みで、女性基金でも対応してきたし、あとは「未来志向」が大切だと日本政府はいうが、こうした姿勢と、朝日新聞も同じ立場なのだろうか。「未来志向」を語ることができるのは被害者であり、加害者は「忘れない」と言い続けるべきだというマイク・モチヅキ氏の指摘を見逃してはいけない。解決のためには、女性の人権侵害をした主体が軍であることを政府が明確に認めることだ。その上で、謝罪し、補償し、教育にも反映すべきだと思う。国外では慰安婦問題が浮上したあと、旧ユーゴやルワンダで起きた女性への集団レイプと慰安婦問題が、戦時下での女性への性暴力としてつながっているという認識が広がってきた。しかし、国内ではこの問題が私たちの未来のためにも克服すべき課題だという理解がなかなか進まない。しかも、慰安婦問題をめぐっては日本の責任を認めようとしない言論が今も一定の支持を集めている。どこの国にも見られるように、根底には自国の誇りや名誉を守りたいという意識があるのだろう。個人であれ国であれ間違うことはある。それでもその時には過ちを認め、再発防止の措置をとることが誇りにつながるはずだ。朝日新聞には被害者の立場を忘れずに、慰安婦問題を報道し続けてもらいたい。「過去の克服」をせずに、現在直面する課題に取り組もうとしても、世界の共感は得られないだろう。ガラパゴス的議論から脱却を小熊英二さん(慶応大教授)慰安婦問題が1990年代になって注目されたのは、冷戦終結、アジアの民主化、人権意識の向上、情報化、グローバル化などの潮流が原因だ。冷戦期の東アジア諸国は、軍事独裁政権の支配下にあり、戦争犠牲者の声は抑圧されていた。元慰安婦は、男性優位の社会で恥ずべき存在と扱われていた。80年代末の冷戦終結、韓国の民主化、女性の人権意識の向上などがあって問題が表面化した。韓国で火がついた契機が、民主化運動で生まれたハンギョレ新聞の連載だったのは象徴的だ。日本でも、自民党の下野と55年体制の終焉、フェミニズムの台頭があり、経済大国にふさわしい国際化が叫ばれていた。情報化とグローバル化は、民主化や人権意識向上の基盤となった。しかし、このことは同時に、民族主義やポピュリズムの台頭や、それに伴う政治の不安定化も招き、慰安婦問題の混迷につながった。例えば、外交は「冷静で賢明な外交官が交渉にあたる秘密外交」が理想とされることが多い。だが、民主化と情報化が進んだ現代では、内密に妥協すれば国民感情が収まらなくなる。政府が強権で国民を抑えられた時代しか、秘密外交は機能しない。日韓政府が慰安婦問題の交渉で両国民を納得させる結果を出せなかったのは、旧来の外交スタイルが現代に合わなくなったのが一因だ。大きな変化を念頭にこの問題をみると、20年前の新聞記事に誤報があったかどうかは、枝葉末節に過ぎない。とはいえ、今や日韓の外交摩擦の象徴的テーマとなったこの問題について、新聞が自らの報道を点検したのは意義がある。また90年代以降の日韓の交渉経緯を一望し、読者が流れをつかむことを助けてくれる。違和感が残ったのは特集の構成だ。1日目に自紙の報道を振り返り、2日目に慰安婦問題で揺れる日韓関係を書いている。しかし本来は、日韓でどう問題化しているかが中心であるはずで、報道の細部など読者の多くにとっては二の次だ。こうした構成にしたのは近年、過去の慰安婦報道をめぐり朝日新聞がネットなどで批判されているからだろう。だが、特集紙面を読むと、当時は他の新聞もあまり変わらない文脈で報道していたことがわかる。この問題に関する日本の議論はおよそガラパゴス的だ。日本の保守派には、軍人や役人が直接に女性を連行したか否かだけを論点にし、それがなければ日本には責任がないと主張する人がいる。だが、そんな論点は、日本以外では問題にされていない。そうした主張が見苦しい言い訳にしか映らないことは、「原発事故は電力会社が起こしたことだから政府は責任がない」とか「(政治家の事件で)秘書がやったことだから私は知らない」といった弁明を考えればわかるだろう。慰安婦問題の解決には、まずガラパゴス的な弁明はあきらめ、前述した変化を踏まえることだ。秘密で外交を進め、国民の了解を軽視するという方法は、少なくとも国民感情をここまで巻き込んでしまった問題では通用しない。具体的には、情報公開、自国民への説明、国際的な共同行動が原則になろう。例えば日本・韓国・中国・米国の首脳が一緒に南京、パールハーバー、広島、ナヌムの家(ソウル郊外にある元慰安婦が共同で暮らす施設)を訪れる。そして、それぞれの生存者の前で、悲劇を繰り返さないことを宣言する。そうした共同行動を提案すれば、各国政府も自国民に説明しやすい。50年代からの日韓間の交渉経緯を公開するのも一案だ。困難ではあるが、新時代への適応は必要だ。朝日 慰安婦 『誤報』 訂正まで32年の経緯
『す・またん』辛坊次郎:これ、しかし、朝日新聞、捏造しました、撤回します、で済むのか。この記事がひとり歩きして、日本軍が強制連行したという話になって、ニューヨークに数十万人が強制連行されて性的奴隷にされた、って石碑がたった。これ完全なデマです。そのデマが構築された原因はこの記事ですからね。それを今頃になって、30年も経ってから、撤回しますって…あんた。これ、一面で書かないとダメなんじゃないの?訂正するにしても、これちゃんと謝罪して訂正しないと、中身をよく読んだら、「ヒデーな」ってわかるけど、見出しだけだと、どれだけ反省してるかわからない。朝日の14面に「日韓関係なぜこじれたか」って…アンタんとこのせいだろ(笑)、そこんとこがサラッとしか書いてないんですよ。そら、韓国の人たちにそういうことがあったって思い込ませたら、そら韓国の人たちだって怒るでしょ。冷静に考えて、韓国で数十万人の若い女性って、当時の韓国の人口で考えたら、若い人全員か、みたいな…それがトラックでドンドン積まれて行って、それ黙って見てたのか、って話でしょ。有り得ないでしょ。戦時中はともかくも、戦争で日本が負けたとき、そんなことがあったならいくらでも声を上げれたはずなのに、この話出てきたの90年代になってからですからね。おかしいだろ、それって、って常識で考えたらわかる話なんだけど、これ朝日が検証すべきは、90年代の初めに、朝日新聞の中で何があったのか、って事…誰がこの記事を主導して、なんでこんなことになったのか、そこだと思いますよ。森:これ、でも、なんで今頃になって…?なんでこのタイミングだったんですかね。証言が疑問視されて32年も経ってから、認めたんでしょう?辛坊:おそらくですけども、一番最初に強制連行の記事を書いた記者がいるんですが、その記者がこの3月に退社してるんですよ。この記者は、ちょっとひどいんですけども、朝日の記事にも書いてますけども、「金学順」という女性が、日本軍に拉致されて慰安婦にさせられたっていうそういう記事だったんですけども、実はその女性は14歳で、キーセンという、売春宿に親に売られた、っていうのを本人が言ってたのに、朝日は最初に記事するときにそこを隠して日本軍が強制連行した、って書いた。その時の記事、書いた記者っていうのは、その事実、知らなかったんだと…この検証記事には書かれてるんですけども、ちょっとそれも、信じがたいですね。元々、職業売春婦だった人間が慰安婦になった、その事実を隠して強制連行の記事をでっち上げた…この責任は極めて重いですよ。世界的に広がってますからね。で、毎日新聞も方向性がトチ狂ってるなって思うのが、一面で石破さんが「朝日新聞を証人喚問すべきじゃないか」と言及したことに関して、それは大問題だ、とか書いてるんですが、そういうことよりも、朝日に追随して毎日も同じようなこと書き立ててた代表の新聞なんだから。まずやるべきは、自分とこの検証記事なんじゃないの?って気がしますよ。朝日慰安婦検証記事巡る 自民・石破幹事長の一問一答
毎日新聞 8月5日●朝日新聞が従軍慰安婦問題を巡る報道の一部に事実の誤りがあったと認めた。どう受け止めているか。石破氏私どもとして、この記事は非常な驚きをもって受け止めている。今まで有力紙たる朝日新聞が(慰安婦狩りをしたと証言した)吉田(清治)さんという方の証言に基づいて慰安婦問題を世論に喚起して、そしてそれが国際的な問題となってきました。それを取り消すということになれば、今までの報道は一体なんであったのか、ということだ。(朝日新聞は)どうしてこういうことになったのか紙面で述べておられますが、これだけ大きな問題になっている。我が国がそういうことをする国家であるということで国民も非常に苦しみ、そしてまた国際的な問題ともなっている。なぜ十分な裏づけが取れない記事を今日に至るまで、ずっと正しいものとしてやってこられたのか。その検証はこれから先、日本国の国益のためにも、この地域を友好の地域として確立をしていくためにも、極めて重要なことだと思っている。これは、これから国会の中で、我が党としていろいろと議論をしていくことですが、場合によっては、これだけ大きな地域の平和と安定、あるいは地域の隣国との友好、国民の感情に大きな影響を与えてきたことですから、検証というものを議会の場でも行うということが必要なのかもしれません。書かれた社の責任としてその責任を果たされたいと考えている。朝日慰安婦報道 「吉田証言」ようやく取り消し
読売新聞2014年08月06日◆女子挺身隊との混同も認める
日韓間の大きな棘とげである、いわゆる従軍慰安婦問題について、朝日新聞が過去の報道を点検し、一部だが、誤りを認めて取り消した。韓国・済州島で慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏の証言である。吉田氏は戦時中、労務報国会下関支部の動員部長だったとされる。朝日新聞は1982年9月、「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」とする吉田氏の発言をうのみにして報じた。◆世界に誤解広げた一因
これが韓国の反日世論をあおっただけでなく、日本について誤った認識が、世界に広がる根拠の一つとなった。今回、吉田証言を初めて虚偽と判断し、それをめぐる記事をようやく撤回した。もっと早い段階で訂正されるべきだった。92年には疑問が指摘されながら、20年以上にわたって、放置してきた朝日新聞の責任は極めて重い。朝日新聞は82年以降、確認できただけで計16回にわたって、吉田氏について記事にした。92年に歴史家の秦郁彦氏が吉田証言への疑問を指摘したが、修正することはなかった。97年3月の検証記事でさえ、吉田証言について「真偽は確認できない」と表記するにとどめた。吉田証言は、96年の国連人権委員会のクマラスワミ報告にも引用された。これが、慰安婦の強制連行があったとする誤解が、国際社会に拡大する一因となった。朝日新聞の報道におけるもう一つの重大な問題は、慰安婦と「女子挺身ていしん隊」との混同である。92年1月の1面記事で「主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」と記した。この記事は、宮沢首相の訪韓の直前に報じられた。政府が慰安婦問題を調査し、元慰安婦への「おわびと反省」を表明する河野談話を作成する発火点となった。朝日新聞は今回、「女子挺身隊は、戦時下で女性を軍需工場などに動員した『女子勤労挺身隊』を指し、慰安婦とはまったく別」と、初めて誤りを認めた。「93年以降、両者を混同しないよう努めてきた」としているが、小学生まで慰安婦にしたかのような誤解を生むことになった。「当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられた」と釈明したうえ、他紙も同様の報道をしたと指摘している。読売新聞にも当初、女子挺身隊や吉田氏に関して、誤った記事を掲載した例があった。だが、90年代後半以降は、社説などを通じて、誤りを正している。◆正しい歴史認識持とう
疑問なのは、「強制連行の有無」が慰安婦問題の本質であるのに、朝日新聞が「自由を奪われた強制性」があったことが重要だと主張していることだ。朝日新聞は当初、吉田証言などを基に、慰安婦の強制連行を問題視してきた。だが、強制連行の根拠が崩れると、慰安婦が慰安所に留め置かれていたことに強制性があると主張するようになる。今回も、問題の本質は、「慰安所で女性が自由を奪われ、尊厳が傷つけられたことにある」としており、その主張は基本的に変化していない。フィリピンやインドネシアなども含め、戦時中に多数の女性の名誉と尊厳が傷つけられる行為があったことは確かである。政府・軍の強制連行はなくとも、現在の人権感覚では、許されないこともあっただろう。しかし、「戦場での性」の是非と、軍の強制連行があったかどうかは、区別して論じる必要がある。広義の強制性があったとして日本政府の責任を問うことは、議論のすりかえではないか。正しい歴史認識を持つためには、あくまで真実を究明することが欠かせない。◆日韓関係の正常化を
韓国の朴槿恵政権は、クマラスワミ報告などを根拠として、日本政府が6月に発表した河野談話の検証結果にも強く反発している。その頑かたくなな対日強硬姿勢は、簡単には変わるまい。政府は、安易な妥協をすることなく、慰安婦問題に関する日本の立場に対する韓国の理解を粘り強く求めていかねばならない。日韓関係は今、首脳会談が2年以上も開かれない異常な状態にある。両国のメディアや国民も、冷静に事実関係を把握したうえで、未来志向の関係の構築に向けて、それぞれの努力を心がけたい。朝日慰安婦報道 「強制連行」の根幹崩れた
産経新聞2014.8.6
■これでは訂正になっていない
朝日新聞が慰安婦問題の報道について、一部の記事が虚構だったことを認めた。だが、その中身は問題のすり替えと開き直りである。これでは、日本がいわれない非難を浴びている原因の解明には結び付かない。最大の誤報は、慰安婦を「強制連行した」という吉田清治氏の証言である。朝日はこれを虚偽だと認め、記事を取り消すという。根拠なく作文された平成5年の河野洋平官房長官談話などにおける、慰安婦が強制連行されたとの主張の根幹は、もはや崩れた。《誤りは逐次正すべきだ》
遅きに失したとはいえ、朝日が慰安婦問題の事実関係について検証したことは評価できよう。記事取り消しも当然である。だが、真偽が確認できない証言をこれまで訂正せず、虚偽の事実を独り歩きさせた罪は大きい。訂正に当たる「証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します」との表現は特集記事中にあるが、1面記事にもどの面の見出しにもない。削除対象の記事ぐらいは明記すべきだ。朝日新聞は今回、編集担当名の記事の中で、「問題の全体像が分からない段階で起きた誤り」として専門家による研究が不足していることに責任を転嫁している。取材などで事実が判明すれば、その都度、記事化して正し、必要があれば訂正を行うのが当然の報道姿勢ではないのか。暴力で無理やり女性を強制連行したなどとする吉田氏の証言は、旧日本軍が慰安婦を「強制連行」したり、「慰安婦狩り」が行われたりしたという誤解がまかり通るもととなった。吉田氏は戦時中に山口県労務報国会下関支部動員部長だったと名乗っていた。昭和58年に『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』という本を出し、18年に韓国・済州島に部下を連れて上陸し泣き叫ぶ朝鮮人女性205人をトラックで強制連行したなどとしていた。朝日新聞は、吉田氏の講演内容を57年に報じたのをはじめ、コラムなどを含め、同証言をたびたび取り上げていた。しかし、平成4年に現代史家の秦郁彦氏が済州島で現地調査を行ったところ、地元のジャーナリストや古老らがそろって吉田証言を否定し、産経新聞がこの秦氏の調査結果を報じた。朝日新聞は9年の特集記事取材で、吉田氏への電話取材や済州島での取材を行ったものの、裏付けが取れなかった。今年4~5月、済州島で行った再調査でも証言は得られなかったという。慰安婦問題は、宮沢喜一政権発足まもない3年12月、慰安婦だったという韓国人女性が日本政府を相手取り、謝罪と損害賠償を求める訴訟を起こしたのがきっかけだった。宮沢首相訪韓を控えた4年1月には加藤紘一官房長官が十分な調査も行わず「おわびと反省」の談話を出し、宮沢氏も日韓会談で謝罪した。さらに翌5年に慰安婦募集の強制性を認めた河野談話が出された。当時、朝日新聞など日本の一部マスコミも慰安婦問題追及キャンペーンを展開した。この中には、慰安婦と工場などに動員された「女子挺身隊」と混同した記事もあった。朝日新聞は今回、誤用したと認めた。《事実が日韓の信頼築く》
朝日は今回の特集記事では、吉田氏の証言を他紙がどう報じてきたかという記事も掲載し、産経新聞が5年に大阪本社版夕刊の連載「人権考」で「吉田氏を大きく取り上げた」とした。しかし、その後、本紙は取材や秦氏らの実証的研究をもとに、証言が「作り話」であることを何度も報じている。朝日の報道が日韓関係悪化の発端となったにもかかわらず、「自国の名誉を守ろうとする一部の論調が、日韓両国のナショナリズムを刺激し、問題をこじらせる原因を作っている」と、ここでも責任を転嫁している。産経新聞が河野談話の虚構性や吉田証言が偽りであることなどをただしてきたのは、事実を重ね歴史認識を正しく伝えることが長期的に日韓両国の信頼につながると信じるからだ。菅義偉官房長官は「客観的事実に基づく正しい歴史認識が形成されることを望んでいる」とした。その通りである。事実を歪(ゆが)めては国際的な信用は得られない。慰安婦:朝日新聞が安倍首相に反撃「強制連行の証拠多い」
朝鮮日報日本語版 8月6日朝日新聞は5日、1面を含め3面にわたり従軍慰安婦問題に関する特集記事を掲載し、慰安婦の強制動員を否定する安倍晋三首相と極右勢力を批判した。日本政府は今年6月、河野談話検証報告書を発表し、日本の一般市民にも慰安婦捏造説が広まっている。検証報告書は「慰安婦が強制動員された証拠はなく、河野談話は韓日による外交的妥協の産物だ」とする極右勢力の主張をそのまま盛り込んでいる。安倍首相と産経新聞など極右メディアは、1991年に被害者証言記事を掲載し、慰安婦問題の公論化を主導した朝日新聞を標的として、「慰安婦=朝日新聞による捏造」という説を公然と主張している。■朝日「強制連行の証拠多い」
朝日新聞は「慰安婦問題の本質直視を」と題するコラムを1面に掲載し、「一部の論壇やネット上には、『慰安婦問題は朝日新聞の捏造だ』といういわれなき批判が起きている」「被害者を『売春婦』などとおとしめることで自国の名誉を守ろうとする一部の論調が、日韓両国のナショナリズムを刺激し、問題をこじらせる原因を作っている」と批判した。朝日新聞は1980年代から90年代にかけての報道で、「慰安婦」と「挺身隊」という用語を区別せずに用い、証拠が裏付けられない証言を報じたことについては反省した。しかし、朝日は一部の誤りによって慰安婦問題全てを否定することができないとした。慰安婦の強制動員を証明する資料が多い点も強調した。朝日は「(日本政府は)日本軍が組織的に連行したことを示す資料が発見されなかったというが、インドネシア、フィリピンでも日本軍が現地の女性を直接暴力的に連行したという記録がある」と指摘した。日本軍が1944年にインドネシアからオランダ人女性35人を強制的に慰安婦にした「スマトラ事件」については、戦後にジャカルタで開かれた戦犯の軍事裁判でその実態が公表された。日本政府は数多くの証言や資料があるにもかかわらず、日本軍が韓国で慰安婦を強制連行するよう指示した公文書はないという理由で、強制動員を否定している。朝日は「見たくない過去から目を背け、感情的対立をあおる内向きの言論が広がっていることを危惧する」と報じた。■安倍との10年戦争、朝日の反撃
朝日による今回の記事は「慰安婦の強制動員はなかった」という信念を持つ安倍首相に対する直撃弾だ。2005年に朝日は「安倍議員が2001年にNHKに圧力をかけ、日本軍の慰安婦問題を扱った特集番組の内容を一部削除させた」という特ダネ報道を行った。安倍首相はそれを契機として、朝日の信頼性を崩壊させるために、「信じるかどうかはあなた次第」だと言わんがばかりの批判的発言まで行った。「慰安婦問題は朝日新聞の誤報で生じた」(12年10月の党首討論会)、「朝日が安倍政権打倒を社是にしているという話を聞いた」(14年2月の国会答弁)といった発言だ。安倍首相が靖国神社参拝、集団的自衛権行使、原発再稼働などに批判的な論調を掲げる朝日を手懐けようと総力戦を展開しているとの見方も示された。朝日は河野談話検証報告書の発表以降、関連報道を行わず、「朝日は結局安倍首相に降参したのではないか」とのうわさも流れた。朝日新聞関係者は「日本政府が河野談話検証報告書を発表して以降、関連問題に対するさまざまな角度からの検証、取材を行ってきたため、報道が遅れた」と説明した。朝日は6日にも慰安婦問題に関する特集記事を掲載した。
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橋下徹大阪市長/朝日新聞の『慰安婦検証記事』を批判する
橋下市長・朝日慰安婦検証記事批判全文
産経新聞8月7日橋下徹大阪市長は8月6日、朝日新聞が5日、6日付朝刊に掲載した慰安婦報道の検証記事について市役所で記者団に問われ、朝日への批判を展開した。発言内容は次の通り。白旗揚げた朝日、「もう逃げられなくなったんじゃないですか」
橋下市長「世界へ誤報32年間、朝日新聞は大罪だ」産経新聞が頑張ったからじゃないですか。あの方、本名なんですかね。あの阿比留瑠比さん。もうあの方の力なんでしょうね。まぁ、あれだけしつこくしつこく、事実に基づいて報道してああいう風になれば、朝日新聞も、もう逃げられなくなったんじゃないですか。この間の名古屋の記者会見で、結いの党との合流の時のあの記者会見で、結いの党と維新の会の安全保障の問題で「どこが不一致なのか指摘してくださいよ」と僕が記者の皆さんに言ったら誰も答えられなくて。そんな不甲斐ない記者よりも、ああいう阿比留瑠比さんみたいな記者が集まってきてくれた方が、政治家としてもしゃきっとするんじゃないでしょうかね。これは産経新聞の、阿比留さんの力が大きかったと思いますよ。僕の発言きっかけなら、政治家冥利に尽きる
ただちょっと言わせてもらったら、これまでね、この慰安婦問題についてはいろんな政治家とか、いろんな週刊誌がいろいろ言ってたけれども、国民的なね、大きなそういう議論の広がりにならなかったところを、少しでも僕が発言したことがきっかけとなったんであれば、それはもう僕は政治家冥利に尽きますよ。32年間、朝日新聞がかたくなに過ちを認めなかったことをね、ここまで産経が頑張ってくれた。産経が頑張ることによって週刊誌も頑張りはじめて、いろんな雑誌も頑張り始めた。もう最後、朝日新聞、白旗揚げたわけですし。これまでのコメンテーターね、いいことしか言わない、きれい事しか言わないコメンテーター。個人名を出させてもらったら、僕にかなりどぎつい批判をしてきたあの大谷昭宏氏ですよ。何ていうかですね。強制連行っていうものはなかった。虚偽だったと、これではっきりしたんじゃないでしょうかね。急に口を閉ざした稲田大臣
ただね、今度間違ってはならないのが、産経新聞をはじめね、保守政治家、保守を気取る政治家が気を付けなきゃいけないのは、これをもって鬼の首を取ったようにね、日本を正当化したら、これは完全に誤ります。だから、これ産経新聞の正論なんかでも、稲田朋美さん、今の行革大臣ですか、あの方はかつていわゆる公娼制度があった、そういうことを持ち出して、慰安婦って問題、これは合法だったんだと堂々と産経新聞の正論で言ってましたけども、急に今、口を閉ざしてしまったけれども、僕が世界からも国内からもあれだけ批判を受けて急に稲田大臣は「橋下発言は女性蔑視発言だ」なんてことを言い出して、だんまりを決め込んでますけどもね。これは絶対にやっちゃいけないですね。間違っちゃいけない。個人の評論家とか、個人がね、いわゆる売春というものについていろいろ合法化論を唱えるのはいいのかも分かりませんけども、国家運営の責任者が、世界スタンダードで考えたときに、これを堂々と合法化論というものを唱えるのは、絶対に世界的にみても、世界の潮流からみてもこれは誤ってしまう。言い訳に満ちた記事
朝日新聞のね、あの記事はまぁ、本当に言い訳に満ちた記事というか。僕ね、やっぱり朝日は取材はね、しっかりしている新聞だと思うんですよ。それぞれの記者もよく勉強しているし。でもね、ロジックが最近もうむちゃくちゃ。場当たり的なロジックで全部自分のところへ跳ね返ってくる。僕があの記事を読んでいて一番不快に思ったのはね、結局、読売新聞や産経新聞も、他紙も同じように報じてたじゃないかと最後に付け加えてるわけですよ。あれは情けなかったですね。なぜかって言えばね、僕が慰安婦問題の発言をしたときにね、米軍やイギリス軍、ドイツ軍フランス軍、韓国軍だっていわゆる女性を利用していたという話をしたときにね、「なに正当化してんだ」と。「他国がやったからといって自分たちがいいといえるのか」と、これをさんざん言ってきたのが朝日新聞ですよ。ロジックが場当たり的
僕は違うよと、ロジックが違うよと。これは今までの日本の保守政治家のようにね、日本国内の問題だけとしてとらえて、日本を正当化してきた、そういうロジックは転換して、やっぱり世界スタンダードで考えればね、これは正当化しない。二度と過ちは繰り返さない。それを前提にただ、アンフェアなところはしっかり言っていこうと、そういうロジックで言っていたつもりなんですけど、なかなか今まであまり理解されなかったところもありましたけどもね。今回のあの朝日新聞の、昨日の記事ですか。見事に自分を正当化してるじゃないですか。「読売新聞や産経新聞も同じように報じてたんじゃないか」。あれを付け加えたことによってあの検証記事は台無しになりましたね。やっぱりね、朝日新聞の今、非常に弱いところ、もう世の中を動かすだけの力がなくなってきたのはね、ロジックがね、場当たり的。非常に場当たり的。選挙のこともね、集団的自衛権については「国民の信を問え」と言っておきながら、大阪都構想について僕が信を問うたら「それは意味のない選挙だ」と言ったりね。もうちょっと朝日新聞も頑張ってもらわなきゃいけないんじゃないですか。戦争の本当に不幸な話、謝るべきところは謝る
ただ強制連行の事実が、少なくとも朝鮮半島においてなかった。他の地域で、軍が強制的に女性に暴行を加えたという事実はあったんでしょう。これは、オランダ人捕虜のね、スマラン事件でもそうですけど、これは戦犯です。戦犯なんです。
だからこれは、どこの戦地においてもあってはならないけれども、生じうる、いわゆる兵によるレイプ事件、強姦事件としてこれはきちっと罰しなければなりませんけども、これは出てくるんですよ。これはもう戦争の本当に不幸な話なんです。だから絶対戦争なんかやめなきゃいけない。だけど、これ最後朝日のね、また学者を引用してコメント今日、出てましたけども「ガラパゴス的な議論にしてはいけない」と。朝日こそガラパゴスなんですよ。この問題はね、もう日本国内の議論だけに止めちゃいけない。日本がやったことを正当化してはいけない、これは当たり前だし、日韓関係だけの問題でもないんです。韓国に対しても、謝るべきところは謝らなきゃいけないんです。虚偽の話で国連をたきつけた
ただしね、やっぱり認めちゃいけないところ、これ何が問題になっているかといったら、世界から日本だけが特殊なことをやったという風に指摘されているわけですよ、「性奴隷」という言葉を使われて。でもこれ、強制連行の事実がなかった、強制連行がなかったということになれば、日本だけが性奴隷を使っていたという批判は当たりません。もし、日本がこの慰安婦を利用していたということで「性奴隷を使っていた」というんであれば「世界各国がみんな性奴隷を使っていた」ということにしなきゃいけないんです。どちらでもいいです。だから日本が性奴隷を使っていたという国連の人権報告書が出てますけども、それだったら世界各国が性奴隷を使っていたというように国連も改めなきゃいけませんね。朝日新聞はいろんな言い訳をしてますけども、これはもう非常に大きな問題。読売がきちっと言ってますけども、国連の人権報告書もたぶんその、今日の朝日のあの学者さん、「ガラパゴス的な議論をしてはいけない」ということを言っていたあの学者さん、国連の人権報告書も読んでないんでしょうね。1996年に出たクマラスワミ報告書っていうものによって日本が性奴隷を使っていたという話が広がってきたわけです。このクマラスワミ報告書の証拠はね、何かといったら、吉田清治さんの著書ですよ。だから全部つながってるんです。だから今回朝日が認めたね、吉田清治氏の虚偽の話。これは虚偽だともう認めたわけです。そしたらね、あの朝日の報道によってね、国連の人権委員会もたきつけられたわけなんですよ。日本に全部押しつけてきた
日本の戸塚さんという弁護士がどんどんNGOでね、国連の人権委員会に働きかけた。今回みてください。国連の自由権規約人権委員会から、日本は性奴隷を使っていたともっと厳しい批判が来ましたよ。その根拠は何かといったらね、この朝日が大宣伝をした、吉田清治氏のあの慰安婦についての話ですよ。済州島で日本の官憲が、兵隊が、とにかく女性狩りをやったと。その話が全部国連のこの1996年、クマラスワミ報告書、日本が性奴隷を使っていたということで批判を受けるようになった、世界から批判を受けるようになったクマラスアミ報告書の基礎資料に吉田清治氏の文献が証拠になってるということなんです。この吉田清治氏の文献が、今度はジョージ・ヒックスっていう、オーストリアでしたっけ、そっちの方のジャーナリストかなんかの文献の証拠になったりとか。だから朝日新聞は今回の問題、確かにね、消し去ることのできない事実であることは間違いないですよ。だから女性を、性的に利用していたということは絶対にあってはならないし、今後二度と繰り返してはいけない。だけれども、それは日本だけが特別にやっていたことなのかどうなのか。世界はみんな自分たちがやったことを棚に上げて、日本に対して全部押しつけてきているわけです。不当な侮辱を受けるのは32年間、間違いを認めなかった朝日の姿勢のせい
だから慰安婦像なんていうものがどんどんどんどん世界に広がってるじゃないですか。僕はずっと繰り返し言ってきたのが、日本も悪いけれども、世界各国だって戦争っていう場においては、それ以上のことをやっているわけです。ノルマンディー上陸作戦のときもそうだし、ソ連軍だって、第二次世界大戦の最後、日本に侵攻してきたときに満州でやってきたことなんて、もうレイプの連続じゃないですか。これも歴史的な史実であるわけですよ。そういうことは戦争の悲惨な過去。絶対こういうことは繰り返しちゃいけない。だけれども、日本国だけが性奴隷を使っていたというふうに、世界から不当な侮辱を受けることに対してはきちっと反論しなきゃいけないし、なぜそのような不当な侮辱を受けるようになったかといえば、朝日新聞のあの間違った報道、32年間、過ちを認めてこなかった姿勢によって、吉田清治氏のあの著書が、国連の人権委員会の重要な報告書の資料になっている。こういうところも、もうちょっと朝日新聞は検証しなきゃいけないですね。
だから「ガラパゴス的な議論にしてはいけない」というのはその通りだけれども、何も国内だけで、日本人がやってきたことは正しかったんだとか、間違ってないんだとか、そんな議論じゃないんですよ。日韓関係をこじらせたのは朝日の記事
これはもう、世界標準として考えて、日本がやってきたことはどこまでを反省して、どこからはきちんと反論すべきなのかってことを、しっかり考える。もう次のステップはそこですよ。だから今回、この問題ね、ここで収束させちゃだめですよ。一つは、国連人権委員会の報告書をもっともっと検証してもらって、吉田清治氏の文献が国連人権委員会のクマラスワミ報告書の第2章でどんどん引用されて、これが元になって、日本は性奴隷を使ったってなっているわけです。もし日本が性奴隷を使ったという評価なんであれば、これ日本だけじゃなくて世界各国です。第二点は、これは、日韓関係をこじらせたのは朝日新聞の記事なんです。なぜかといえば、通常の戦争犯罪であれば平和条約ですべて解消するというが原則ですよ。ルールです。通常の戦争犯罪とか戦争責任については平和条約で解消する。「強制連行」が重要な要素に
でもこれもね、世界スタンダードで、虐殺とかホロコーストとか、重大な人道違反の罪については時効はないと。平和条約では解決されないっていうのがこれもまた世界標準です。だからナチスドイツの犯罪だったりとか、イギリスが植民地に対して行っていたいろんな暴行事件についても、それは時効なく賠償していかなきゃいけない。これはもう、ある意味、国連の中の国際標準なんです。通常の平和条約ではね、解消されない罪もあるんだと。日韓基本条約、請求権並びに経済協定の中で、完全かつ最終的にこの慰安婦問題が解決されたというのは日本の主張だけれども、韓国は違うんですよ。で、国連の感覚も違うんです。この慰安婦問題っていうものは通常の戦争犯罪、戦争責任ではないという、そういう評価なんです。なぜかといったら、国が国家をあげて女性を強制連行して性奴隷にしたんだから、こんなのは通常の平和条約では、日韓基本条約、請求権並びに経済協定、平和条約では解決した問題ではないというのが韓国の主張でもあり、国連の評価でもある。だから強制連行というものが、重要な要素になってしまっている。いくら日本が、1965年の日韓基本条約、請求権並びに経済協定で、全部完全かつ最終的に解決されたと日本政府がいくら言っても、世界はそれを認めてくれませんよ。虐殺とか、ホロコーストとか、それから重大な人道違反については時効なし。永久にやった人間を処罰せよ。だから、今回の国連の自由権規約人権委員会からもまたそういうふうにまた勧告が出ているわけですよ。国際社会を見ていない議論
だからもっと、日本国民もジャーナリストの皆さんも、何が論点なのかということをもう一回、見定めないと。今まではずっと国内の問題だけでね、この慰安婦問題は当時は合法だったんだから日本人に責任ない、非常にドメスティックな国内の議論でずっとやってきた。それに対して、朝日新聞や毎日新聞は批判してきた。「そんな問題じゃない。責任を感じろ、反省しろ」と。それは国内の問題なんです。だから反省するところは反省して、おわびするところはおわびする。しかし今、世界の問題になってるんでね。この強制連行っていう事実によって、日本だけが性奴隷を使っていたという不当な批判受けていることと、それから平和条約では解決されない問題なんだよと世界から言われてしまっているんですよ。だから強制連行の事実がないっていうんだったら、これは通常の戦場の性の問題、通常の戦争責任の問題として考えて、やっぱり平和条約で解決したというふうに考えるのかどうなのか。こういうところを、日本と韓国でしっかり議論しなきゃいけないと思いますね。朝日の罪は大きすぎますよ、これ。本当に。こんな単純にこれ、今認めてね、「消し去ることのできない事実なんだから、強制連行の有無なんていうのは大した問題じゃない」。強制連行の有無なんて大した問題じゃないっていうのは、非常にドメスティックな、国際社会をみてない議論ですよ。強制連行があったかどうかってのは、国際社会ではものすごい重要なんです。智恵絞り日韓関係改善を
だから日本人も、産経新聞も、保守政治家も、今回の朝日のこの記事によって鬼の首を取ったように日本を正当化するんじゃなくて、謝るところは謝って、その代わり、国際社会で強制連行という事実がどれだけ重要視されて、日本が不当に批判を受けて、そして日韓関係がこじれているのか。もう一回これを議論し直して、韓国とやっぱりしっかりと協議をしていかなきゃいけないと思いますよ。
少なくとも、朝鮮半島においては強制連行という事実はなかった。このことを元にした議論というのはだめです。やっぱり日韓基本条約、請求権並びに経済協定の中で、解決する問題でもありね、けれども何かしらの知恵を絞って、日韓関係が改善できないかを探っていくべきなんでしょうね。朝日はどうなんですか。重大ですよこれ。本当に。32年間、それはね、間違ったらすぐ謝らないと。それは。これは大問題。で、今になって、あれびっくりしたけど、2014年の3月か4月にやっと取材に行ったんですか、あれ。記事に載ってたけどもね、あれはひどすぎると思いますよ。どこまで日本を侮辱し続けるのか
だから何を論点として何を騒いで、日本の、なんていうのかな。どこまで日本を、侮辱し続けるのかっていうかね、それで気持ちいいと思っているのかどうなのか分からないけども、これはね、罪大き過ぎると思いますよ。32年間、ずっとこの問題をこうやって報じて、やっとこれ、ここに来て逃げられなくなったから認めることになったんだろうけど。最後のあれなんて、もっと記者が怒んないと。あんな情けないことを、最後ね。「読売でもこう書いていた。産経新聞でもこう書いてた」なんて、あれを書いたことによって台無しですよ。結局あれ、他紙もやってたから、だから私もしようがないでしょって、まさに僕を批判してた、自分を正当化している論拠じゃないですか。
なんであんなもん載せたんですかね。他紙なんか関係ない、他国は関係ないと言い続けてたのは朝日新聞じゃないですか。「他国はどうであれ、日本がやったことについて反省しろ」って、僕に対して言い続けてきたんですよ。世の中が見抜き始めている
僕は別に日本を正当化するつもりはないですよと、ロジックが違うということは言い続けてきました。これはロジックの転換をやったから、当初はもう、メディアもみんなついてこられなかったわけです。今までの保守政治家ってものは、日本を正当化するために強制連行はなかったんだと。強制連行がなかったから日本は別に問題なかったんだと。僕はこれは違うっていうことは言い続けてきましたよ。強制連行があろうとなかろうと、やったことについて反省すべきところは反省する。ただ強制連行については、これは国際社会の評価の中で重大問題。だから僕が外国人の特派員協会のところに行ってもね、「強制連行やったじゃないか」ってその1点でした。「自分のところはやってない。あんたのところは強制連行やって性奴隷制度を使ってたじゃないか」と。
今回、強制連行がなかったということになったらね、日本だってこれ、誇れることはない。絶対に反省しなきゃいけないけれども、他国と同じような、まさに戦争の中の戦場における性の問題として、不幸な過去として、世界各国が共有すべきようなそういう事案、それと同じなわけですよ。それを強制連行、強制連行と言っていたもんだから、日本だけが性奴隷を使っていた、日本だけが特殊なことをやっていた、だから謝れ、謝れ。これはひどいと思いますよ。最後の最後に「他紙もこういう風に報じていた」。情けない。ほんと情けない。だから、集団的自衛権の話にしても何にしても、かつては朝日が言えばね、世の中がこうやって動いていたのかも分からないけど、みんなそういうことを見抜き始めたんですよ。
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大阪都構想(市闘編)/労組に謝罪
あの橋下サンが頭を下げた!
産経新聞 2014.8.6
労組に完敗、アンケート「迷惑かけた」めったに見られない橋下市長の謝罪
大阪市が平成24年に行った職員アンケートが労働組合活動を阻害する「不当労働行為」だったと中央労働委員会が認定したことを受け、橋下徹市長は8月6日、再発防止の誓約文を組合側に手渡し「ご迷惑をおかけした」と陳謝した。橋下氏は庁舎から組合事務所を立ち退かせるなど「組合適正化」を実績に挙げていたが、その手法をめぐって中労委、大阪府労委の審議の場で“負け”が続いている。全国的にも注目を集めた組合への強硬路線は修正を余儀なくされそうだ。腰を90度
「組合員の皆さんには大変ご迷惑をおかけした。申し訳ありませんでした」。市労働組合連合会(市労連、大阪市中央区)の会議室で橋下氏は上谷高正執行委員長に誓約文を手渡した後、腰を90度近く折った。報道陣のカメラのシャッター音が鳴り響く中、神妙な表情で「大阪市政についてよろしくお願いします」と再び頭を下げ、市長就任直後から組合の「適正化」を掲げてきた橋下氏の完敗を印象付けた。橋下氏は23年の市長選で組合が前市長を応援したことなどを問題視。市役所内の組合事務所立ち退き要求、職員の政治活動を規制する条例制定などさまざまな手法を打ち出し、アンケートもその一環だった。勇み足、立場苦しく
特定の政治家を応援する活動をしたかなど22項目の質問があり、市側は正確に回答しなければ処分対象とする方針を示していた。中労委は橋下氏が当時「全国の公務員組合を改めないと日本再生の道はない」などと語っていたことも考慮し「行き過ぎた調査」と指弾。再発防止の誓約文を組合に渡すよう命令した。「勇み足があったのは確かだが、組合には『自分たちだけが正義面するな』と言いたい」。橋下氏は平成25年3月に府労委が同様の命令を下した際、組合への敵愾心を露わにし、中労委への再審査申し立てを宣言。今回も中労委の命令の取り消しを求める訴訟を模索していたが、野党会派が主導権を握る市議会は訴訟に必要な議案を「橋下氏の意地に税金を投入することはできない」(自民市議団幹部)などと否決し、平成26年7月末に命令が確定した。ほかにも府労委が不当労働行為と認定し、誓約文交付などを求める命令が5件出ており、中労委で争われている。組合幹部は「中労委で同じ命令が出ると確信している。市長は苦しい立場に置かれるだろう」と話している。
《橋下氏は庁舎から組合事務所を立ち退かせるなど「組合適正化」を実績に挙げていたが、その手法をめぐって中労委、大阪府労委の審議の場で“負け”が続いている。
全国的にも注目を集めた組合への強硬路線は修正を余儀なくされそうだ。》
無問題。
橋下が問題提起せねば、組合は好き勝手し放題してた。
「アンケート」が不当労働行為に当たるからといって、この時、橋下が炙り出し、マスコミを通して市民一般に組合の実態が明るみになった「「トレーニングルーム」を隠してたりとかの)事実は変わらない。
完敗?
大局では勝ってる。
少なくとも、橋下がいるあいだは好き勝手できない。
連中は、そう、身に滲みてるはずだ。
90度頭を下げたのは、観念したからではない。
私にはサイコーのファイティングポーズに見えた。
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「従軍慰安婦問題」 32年ぶりのセカンドステージ
徹底検証
「強制連行報道」 32年後の衝撃
朝日新聞 異例の撤回 何が?『情報ライブミヤネ屋』8月8日宮根:「従軍慰安婦問題を考える」という朝日新聞の検証記事が出ました。今日は「慰安婦問題」に詳しい、東京基督教大学教授、西岡力さんにお話をお伺いします。よろしくお願いします。まず西岡さんはこの朝日新聞の検証記事、大きな紙面を割いて掲載されたんですが、なんか唐突な印象があるんですが、これをどうお考えになってますか?西岡力:いや、私は、朝日新聞もかなり追い込まれていたんだと思います。去年、橋下さんの主張が出たとき、読売新聞が、この問題は朝日新聞が事実関係を誤ったから契機になったんだと、したんですね。業界の中で、名指しで、誤報だといったんですね。それで私は朝日新聞に公開質問状を出してですね、読売が誤報と言ってるがどうなんだ、と。それは「女子挺身隊」を従軍慰安婦にしたところなんですが、これはどうなんですか?と訊いたんですが、答えてくれませんでした。今年になって、朝日新聞にいろんなメディアも質問出したんですが、そういうこともあってですね、朝日の誤報が日韓関係を悪くしてるんじゃないかという世論が高まっていて、同業他社からもそういうこと言われ出してこういうことになったんじゃないかと思います。宮根:いまアメリカではアチコチで慰安婦の石碑が建てられてます。ちょっと、これはどこかで歯止めをかけないといけないところなんですが…西岡さん、この吉見義明さんの「軍の関与を示す資料の存在を指摘」というのは一体…?西岡:これは、その資料をよく読んでみると、「業者が軍を騙って、日本国内で人さらいのようなことをやっているので、それを取り締まれ」という文書なんです。関与は関与でしょうが…私はこれを『善意の関与』だと言ってるんですがね。宮根:この記事が出たのが92年の1月なんですよね。そして数日後に、宮沢さんが韓国に行って初めて謝罪してる。これどういう経緯だったんですか?西岡:吉見教授の文書を朝日が報道して、それまで日本は慰安婦というのは業者がやっていたんだと、公的な問題ではなかったと言ってたんですが、「従軍」という言葉は公的なものを指すんですが、従軍看護婦とかね、当時従軍慰安婦なんていう言葉はなかったんですが、つまり、公的なものではなかったと言ってたんですが、吉見教授のこの記事でね、国は関与してるじゃないかとなって…それでまず、当時の加藤紘一官房長官が謝罪文書を出して、そして宮沢さんが訪韓して謝ったと…その前に91年、韓国の新聞よりも早く、朝日が元慰安婦の証言を初めて報道してるんですね。しかしその女性(金学順)についても朝日は今回書いてますが、貧乏でお母さんにキーセンに売られたんだと、その女性のことを「女子挺身隊として強制連行された人」と朝日は書いてしまった。そういうことでこの女性が91年に日本に来て裁判起こしたり、朝日が大キャンペーンしたんです。その流れで政府が謝っちゃったんですね。その一連の中で河野談話も出てきた。ここには「軍の直接、または間接の関与」、「官憲などが直接加担」、「慰安婦の生活は強制的な状況下での痛ましいもの」と書かれてます。でも、これ、なんの裏付けもない、アメリカの公文書図書館で調べても何の証拠もない、ただ、元慰安婦に聞き取り調査をしただけの、それもアヤフヤな証言だけでつくったものだったんです。宮根:朝日の検証記事にもある「吉田証言」は虚偽だった…?西村:この吉田清治という人は慰安婦問題に大変な影響を与えた人でですね、彼の書いた本に、「徴用」という言葉が出てくるんですが、この「徴用」というのは公的なものを指すんです。つまり制度に基づくものなんですね。従わないと罰せられるわけです、「徴兵」「徴用」というのは。彼はそして、「女子挺身隊として慰安婦狩りをした」と言ってるんです。自分がやったと。彼がそう言ったことで日本の学説が変わってしまった。「女子挺身隊という慰安婦制度があった」と、80年代になってしまったんです。それを、本が出る前に、書いたのが朝日新聞だったんです。※朝日新聞は計16回記事にした。(82年9月2日初掲載)「済州島で200人の韓国人女性を狩り出し」他、「(吉田氏が関与し、)強制連行した多くが人妻、3,4歳の子どもが母親に泣きながらしがみついた」(91年10月10日)、「吉田氏が連行した女性は少なくとも950人、誘拐し1年2年と監禁、集団強姦、日本軍退却時には戦場に放置」(92年1月23日)など…しかし、これは現代史家・秦郁彦氏が調査の結果、疑問とする記事を産経新聞の掲載(92年4月30付)したことに始まり、90年代半ばには他の研究者も否定。西岡:韓国の研究者も、89年に秦さんが初めて調査に入る前に調査して、これは根拠がないと言ってるんです。秦さんは現地に行ってそういう記事なんかも目にして92年に書いてるんです。済州島の新聞です。女性記者が書いてます。でね、今回、朝日は「再取材して、吉田市の証言が虚偽だったことがわかった」って書いてるんですが、おかしいんですよ。再取材って…最初に記事書いた時にちゃんと済州島に行って取材して書いたのか、ってことなんですよね。その時には根拠があったのか、と。済州島に行って取材してれば、当時の老人たちはそんなことなかったと、みんな言ってるんですよ。それを89年に済州新聞でも書いてるんです。宮根:これしかし、なんでもっと早く検証記事出さなかったんでしょうね…で、96年にラディカ・クマラスワミ氏が国連の人権委員会報告書で、日本政府に対し、「元慰安婦は20万人いて軍の性奴隷として徴集された」ことへの、「公式謝罪、関係者の処罰」を求めた、ということなんですが、それだけこの「吉田証言」の影響が大だったということなんでしょうか。西岡:そうです、この報告書の根拠は「吉田証言」ですから。その引用…それだけですからね。あと「コンフォート・ウーマン」という本もヒットしたんですが、その本の根拠も「吉田証言」なんです。朝日は今回、この「吉田証言」を取り消しましたが、クマラスワミ報告は取り消されてなくて英語の世界では、それが基準になっちゃってるんです。宮根:で、朝日が「慰安婦」と「女子挺身隊」を誤用したと…西岡さんは、それがために国際社会では日本が「12歳の少女を含む20万人の女性を性奴隷にした」という評判が流布している、とおっしゃってるんですが…これ西岡さん、戦争当時の混乱した時期であったから、慰安婦と挺身隊を誤用した、ということなんでしょうかね?西岡:いや、そもそも、誤用という言葉が姑息だと私は思いますよ。誤報ですよ。これ、公的か、業者がやってたかで全然意味合いは違うわけですからね。問題の性質が変わってきちゃうんですよ。挺身隊なら公的となっちゃうんですから。誤用じゃなく、誤報として、取り消すべきだと思いますよ。宮根:朝日は「元慰安婦 初の証言」の記事に捏造はない、と言ってます。91年8月11日の朝日新聞、「元慰安婦の一人がソウル市内に生存していることがわかり、『元慰安婦支援団体』が聞き取りして、その中で『17歳のとき、ダマされて慰安婦にさせられた、中国南部の慰安所で、毎日3,4人の相手をさせられた』との証言を得た」という記事を、韓国メディアに先んじて掲載したんですが、これについて西岡さんは、この記事を担当した記者の義理の母親は、元慰安婦が所属した別の団体の幹部で、この報道の客観性に疑問符がつくと、おっしゃってます。西岡:当時、キーセン学校という、まあ、いわゆる「芸者」の専門学校みたいなものなんですが、そこにこの慰安婦が通っていたという事実を意図的に伏せて書いてる記事なんです。で、この学校に通ってたのではなくてですね、この元慰安婦…金学順さんは、40円で母親に売られたんだと、これ朝日新聞がこの記事書いた数日後に記者会見してそう言って証言してるんですね、本人が。その記事は韓国の新聞にもちゃんと出てます。彼女が日本政府を訴えたその訴状にも書いてます。なのに、その情報を朝日が記事書く前に得てなかったっていうのは、いかにもおかしな話でね…そのことを隠し、金学準さんが、女子挺身隊として慰安婦になったと、書いたんでう。この朝日の植村っていう記者は。彼は遺族会、お金が欲しいと、政府に裁判を起こしていた団体の幹部の娘さんと結婚していたんです。義理のお母さんの裁判が有利になるような『誤報』を、紙面を使ってやった、という疑いがあるということです。私はそれを92年からずっと言ってるんです。宮根:朝日新聞はこの検証記事の中で、問題の本質は、「無理やり連行した資料はないが、自由を奪われる強制性はあった」「軍の関与がなければ成立しない慰安所で自由を奪われ尊厳を傷つけられたのは事実」と書いてるんですが…西岡さんね、この記事って、果たして、検証なのか、訂正なのか、謝罪なのか…どうなんですかね?西岡:あと、「弁解なのか」(笑)、ですよね。そもそも、済州島に再取材行ってそういう事実がないとわかったんなら、こういう大きな紙面使ってそこに小さく書くんじゃなくて、「自分たちの記事が間違ってたことが明らかになりました」と大きく載せるべきですよね。「読者の疑問に答えます」という検証の仕方自体がおかしいので…「無理やり連行した資料はないが、自由を奪われる強制性はあった」なんて玉虫色の書き方は、なんか記事は間違ってなかったってこと、書きたいのかなって思ってしまいますよね。宮根:西岡さん最後、政府、マスコミ、これからどのようにすべきか、お聞きしたいんですが。西岡:朝日新聞は検証記事を英文化してほしいですよね。朝日には英文のサイトがあるんですがこの記事はまだアップしていません。そしてこの記事でも認めた、「吉田証言」の間違い、これを国連にも言わなくちゃいけない。国連ではそれが事実だとなってるんですから。それが基準になってアメリカの議会でも決議され、それが韓国の憲法裁判所に影響を与えて、日韓関係の外交上に慰安婦問題が出てきてしまったんですから。国際広報、これをしないといけないと思いますね。朝日にはその責任がありますよ。朝日「強制連行証言は虚偽」
『ウェークアップ!ぷらす』8月9日
なぜ30年以上誤報を放置し続けたのか?今週、朝日新聞に掲載された、従軍慰安婦に関する特集記事が、波紋を呼んでいる。1982年から16回に及び掲載された「慰安婦の強制連行があった」とする証言が虚偽だった、と報じたのだ。誤報と判明したその報道は、これまで韓国世論を煽っただけでなく、国際社会に誤解を広げた。なぜ、30年以上も訂正されなかったのか。朝日新聞の記事は一連の動きの火付け役となった。しかし、肝心のこの吉田証言については、実は当初から信ぴょう性が疑われていた。辛坊治郎:実はこの証言、当初から信ぴょう性が疑われてて、朝日は今年になって済州島で再取材と書いてるんですが、実は朝日の最初の記事が出てから、他のマスコミも取材しに行ってて、80年代90年代から、違うんじゃないかと…済州島の新聞でも女性記者がそんな事実はなかったと書いてて、それを今頃なって再取材して、って…前川さん、朝日の社内で、この「吉田証言」はおかしいんじゃないのか、という声は当時、聞かれなかったんですか?これは違うんじゃないかって、いつごろ気がつき始めたんですかね。前川惠司(元毎日新聞記者)/元慰安婦や「吉田証言」本人らを取材 :正直言って、そのー、朝日社内にも、そうだという人と、違うんじゃないか、という人と二派ありまして、個人的にはそうなんだけども…この問題っていうのは会社の合意で、意思決定した上でやってたわけじゃないので、いろんな記者がいろんな考えで書くわけですよね。だから、その…辛坊:ちょっと、朝日の検証記事、読んでいきましょう。まず、済州島での強制連行はなかった。これに関しては「記事を取り消す」と、「虚偽であった」と。で、その強制連行があったのかなかったのかというと、「自由を奪われた強制性はあった」という見出しなんですね(笑)。ところが、読み進めていきますと、隅っこの方に小さく、「日本の植民地であった朝鮮や台湾では、軍の意向を受けた業者が『良い仕事がある』などとダマして多くの女性を集めることができ、軍などが組織的に人さらいのように連行した資料は見つかっていません」つまり、軍による強制連行はなかった、と言ってるわけですが、このあと続いてましてね、「一方、インドネシアなど日本軍の占領下にあった地域では、軍が現地の女性を無理やり連行したことを示す資料が確認されています」これ実は有名な話でしてね、スラマン事件という1944年の話なんですが、「インドネシアを占領した日本軍の関係者が収容所に抑留されていたオランダ人女性ら35人を慰安所に連行し、日本軍の将校に対する性的奉仕を強制した」と。だたし、これは軍が気がついた段階で、取り締まって、慰安所を閉鎖。関わった人間は戦後、BC級戦犯で処罰、中には死刑の判決を受けた者もいる…ということで言うと、これは強制連行の証拠ではなくて、むしろ、日本軍が強制連行していなかった、すれば処罰してた、という証拠資料と見るべきですね。野村修也:よくあの検察が冤罪事件を作る、その構図に似てて、先にストーリーを作る、それになんとなく関係ありそうなものをくっつけていく。パッチワークをつなげていって、強制があったようなストーリーを補強していく、そういう中で、全く関係ないインドネシアの話を、朝鮮の話でする、全く関係ない話ですよね。これを一緒にしてしまうというのは、おかしな話なんです。強制の意味を曖昧にして、その範囲をどんどん広げていってしまって、そうすると国がやったこと以外もですね、例えば、業者の方がダマして連れてきたものまで全部、入ってしまう概念になってるんですね。前川:強制連行の概念が広がったというのは、宮沢内閣の時の加藤官房長官の発言で広がったんです。朝日新聞が広げたんじゃないんです。花田:業者だってね、日本人が経営したといっても、実際の実務にあたって慰安婦集めてたのは朝鮮人なんですよ、ほとんどね」。辛坊:そして、20万人という数字は、朝日はこう書いてます。「挺身隊と混合した」「研究が乏しく、同一視してしまった」「当時は慰安婦問題の研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも、慰安婦と挺身隊の混同が見られたことから、誤用しました」ということなんですが…(笑)。私くらいの知識でも当時、すでに挺身隊が慰安婦じゃないことなんて常識だったじゃないですか。これで何が起こってるのかというと、ニューヨーク近郊に最近建った石碑にも書いてるんですが、「数十万人の婦女子が、性的奴隷になることを強制された」誰によってか、「日本の天皇の軍隊によって」…花田紀凱:今の研究ではせいぜい2,3万人の慰安婦の数、で、そのうちの20%が朝鮮人の数。その人たちの強制というのではなく、もちろん本人の意思に反してというのはそうなんですが、売春婦でしから、喜んでなる人もそういないでしょうから。でも、軍が強制して、というのは、ないんですよ。※韓国の大手紙、「朝鮮日報」の記事では、「朝日新聞、安倍に反撃」との見出しをつけ、今回の朝日新聞の報道を報じ、「大勢の朝鮮人女性を強制連行したとする日本人男性の証言が虚偽だった」と朝日新聞が誤りを認めた部分については「自己反省した」と短く報じ、その一方で、「慰安婦問題自体は否定できない」とする朝日新聞の記事を引用し、「朝日新聞が、安部総理と極右勢力を批判した」との論調を展開。辛坊:国際的に誤解が大きくなっていったターニングポイントは、「クマラスワミ報告」という国連人権委員会の報告書なんですが、これの基になってるのも、朝日が報じた「吉田証言」なんですね。橋本五郎:朝日新聞は、なぜ間違ったか、という言い訳で、「当時の研究が進んでいなかった」…これイイワケにもなってない。慰安婦問題言い出したのは自分たちじゃないかと。それをなんの研究もせず、取材もせずに、どんどん広げていった。16回も記事にした。それともう一つね、論点をずらして言ってるんですよ。「一部に誤りもあったけども、問題の本質はそうじゃない」と。「不当に女性が強制的に慰安婦にさせられたのが本質なんだ」と、すーっとずらしちゃうんですね。ここにね、ホントに反省を踏まえたものがあるのかというね、この誤報が世界に広まっているというね、その責任を感じてるのかという疑問を、持ちますね。花田:その国連人権委員会なんですが、なんの罰則もないんですよ。ただ行って、事前に資料出しといて、それが討議される。つい、こないだもジュネーブであったんですが、左側の団体が30くらい行って、資料を山と置くって言うんですよ。それに反対する連中なんて、ほとんど行ってないんで、全部そこでアピールされちゃうんですよ。辛坊:「吉田証言」を今回、朝日は撤回するんですが、前川さん、直接、吉田氏に会って…前川:僕があったのは80年なんです。その時は慰安婦の話なんて全く彼はしてなかったですね。だから、その2年後にその話出てきた時には、おかしな人だな、って思ったんですが…結局、その時、すでに本書いてたらしいんですが、その本も僕には見せなかったですね。ちょこっと慰安婦の話も出てたみたいですけどもね。花田:77年に、「朝鮮人慰安婦と日本人」っていう本を書いてるんですよ。これを書いた時に朝日新聞とかが彼をチヤホヤしたんですよ。何回もインタビューしたり。それでドンドン彼は図に乗っちゃったんですよ。辛坊:これ、日韓会談が行われる直前、この記事が出たと。「それは意図的なものではない」と朝日は言ってますけども、時系列を見ると明らかなんですよね。意図的ということで言えば、いわゆる「椿発言」というのがこの頃あって、当時、朝日が自民党政権を終わらせようとしてた時と、軌を一にしてます。55年体制で自民党政権がガタガタになってもう一押しという時に、ある意味、この問題も使われた、という気がしますね。「慰安婦狩り」証言はウソ
『新報道2001』8月10日
朝日新聞32年後の撤回●「強制連行」の論拠だった証言を朝日新聞は紙面でハッキリと違っていたと認めたわけですが、橋下さん、、この訂正記事、いかがですか?橋下 大阪市長:いや、もう、イイワケじみた、事の重大さを全くわかってない記事ですね。僕は朝日新聞の全部を否定する気はありませんが、まあ、この慰安婦記事については朝日の大バカさ加減を露呈した…これ、罪大き過ぎますよ。ただ、まずね、保守を自認する政治家、いわゆる保守論客と言われる人たち、この人たちに言いたいのは、この朝日の記事を持ってね、日本は悪いことをしてないと、何も問題がなかったと、また言い始めるかもわからない。これは間違ってます。違うんです。反省と謝罪、これは当時の女性たちに対して、ちゃんと示すのは政治家の役割です。ただ、それは、道義上のものですよ。これは日本だけじゃなく、韓国の朴大統領だって、これは米兵に対しての韓国慰安婦、これ韓国にあったんですから、ちゃんと言わなきゃいけない。それから、アメリカやイギリスだって、民間業者を使って女性を戦地の性の対象としていた。フランスやドイツも慰安所を持っていた。これを各国の指導者がね、戦場の性の問題をしっかりと受け止めて、その当時の女性たちに対して反省と謝罪をする。これは道義上のとことして各国の全指導者がやらないといけないんです。日本は決して正当化できない。ただ、重要なことは、今、国際社会においては、日本だけがレイプ国家だと非難受けてるわけですから、これについては違うでしょ、と。日本もそれを正当化しないけども、しかし日本だけを不当に侮辱するな、ということは言い続けたい。そして韓国に対しては、日韓基本条約、請求権並びに経済協定で、この問題は完全かつ最終的に解決されたというのが、日本の立場です。朝日新聞の報道によって、日本がレイプ国家だからゆえに、日刊基本条約では解決できない問題だというふうに認識しているのが韓国なんですが、道義上の反省と謝罪はもちろんしますけども、しかし、法的にはこの問題は終わってるんだと、いうことはしっかり伝えていきたいですね。金慶珠:慰安婦問題というのは、3つのレベルに分ける必要があると思います。第一に国際社会でこの問題がどう扱われているのか。明らかに女性の尊厳を傷つけた人権の問題として扱われてます。もう一つは、日韓の国同士の、この問題をどう精算し、和解に向けていくのか、お互いの解釈の違いをどう埋めていくのか。3つ目には、この問題を巡ってはそれぞれの国内で様々な意見があるわけです。韓国でも司法の判断と、政府の対応、市民団体、世論、それぞれの主張が必ずしも噛み合っていません。同様にこの朝日新聞の一連の報道、それに対する右派論壇の批判、これらも日本国内の議論であるわけですけども、残念なのは、朝日の今回の記事では、今後、朝日がどのような方向性で行くのか、国際社会に向けてどのように対応していくのか、その覚悟があまり見えなかった、ということですね。で、一つ不思議なのは、橋下さんはまるでこの従軍慰安婦問題が、全て朝日新聞の報道のせい、朝日だけが悪いかのごとく言われる。それは違うと思いますよ。橋下:「強制連行」ということの重大さをわかってない人はそういうふうに言うんです。これ、強制連行というのは国家により強制ということなんです。朝日が今回、往生際悪いのは、「(インドネシアの)個別兵士の暴行」とゴッチャにするところなんです。戦地においては…だから戦争はやめなきゃいけないんだけども、戦地においては兵士がレイプをするというのは、歴史的にも厳然たる事実としてあることなんです。だからこれは戦犯として処罰するんです。それは日本だけじゃなく、各国でも処罰されてますよ。そのことと、今言われてる朝日新聞が書いた、「強制連行」というものは、「日本だけが世界の中で「国家としてレイプをやっていた」と。ここが一番、国際社会で非難を受けてることなんです。ここは違うということをね、キチッと言わないといけないんですよ。韓国だって、米兵用の慰安婦っていうものがあったんだから、それを韓国大統領だってしっかりお詫びしないといけないんです。金:「強制」があったか、なかったか、の議論なんですが、私がすごく、そこが日本のドメスティックな議論だと思う理由は、日本では何か「強制連行」というものが土足でウチに上がり込んで、みたいなことはなかった、証明する資料はない、と。狭義の意味においての強制性とかを言われるんですが、それは、いわゆる拉致的なものがない限り、すべてこれは本人たちの自由意志によるものだと、そういった解釈があるように思うんですが、国際社会がいう強制性も、韓国がいう強制性も、あるいは河野談話がいう強制性も、それはそれも含めたより幅の広いものであって…野村修也:それ、金さん、ちょっと違うと思いますのはね、橋下さんと議論がズレてるのは、橋下さんが言ってるのは「国家が関与してるか」ということなんですよ。「強制性」という行為がどうだったかに議論をすり替えてしまいますと、日本の中でいま議論してることはズレていってしまうわけです。国家じゃない人たちが、例えば、ダマして連れて行くっていうのは、広い意味での強制性かもしれませんけども、そういう場合には国は謝らなくてもいいんですよね。
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橋下
橋下市長、朝日新聞の従軍慰安婦特集についてコメント
朝日新聞が5日、6日付朝刊で組んだ特集「慰安婦問題を考える」について、大阪市の橋下徹市長が8月6日登庁時のぶら下がり会見でおよそ20分間にわたり意見を述べた。
朝日新聞が5日、6日付朝刊で組んだ特集「慰安婦問題を考える」について、大阪市の橋下徹市長が8月6日登庁時のぶら下がり会見でおよそ20分間にわたり意見を述べた。
●市長、おはようございます。
朝日新聞が慰安婦を巡る一部の記事について取り消しましたけれども、そのことについて。
橋下
いや、産経新聞が頑張ったからじゃないですか。
あの方、本名なんですかね?あの阿比留瑠比さん。
あの方、本名なんですかね?あの阿比留瑠比さん。
もうあの方の力なんでしょうね。
まあ、あれだけしつこく、しつこく、事実に基づいて報道して、ああいう風になれば、朝日新聞ももう逃げられなくなったんじゃないですか。
この間の名古屋の、結いの党と合流の時の記者会見で、結いの党と維新の会の安全保障の問題で、"どこが不一致なのか指摘してくださいよ"と僕が記者の皆さんに言ったら、誰も答えられなくて。
この間の名古屋の、結いの党と合流の時の記者会見で、結いの党と維新の会の安全保障の問題で、"どこが不一致なのか指摘してくださいよ"と僕が記者の皆さんに言ったら、誰も答えられなくて。
そんなふがいない記者よりも、ああいう阿比留瑠比さんみたいな記者がみんな集まってきてくれた方が、政治家としてもシャキっとするんじゃないでしょうかね。
いやこれは産経新聞の、阿比留さんの力が大きかったと思いますよ。
いやこれは産経新聞の、阿比留さんの力が大きかったと思いますよ。
また、ちょっと言わさせてもらったら、これまでね、この慰安婦問題についてはいろんな政治家とか、いろんな新聞というか週刊誌がいろいろ言ってたけれども、国民的なね、大きなそういう議論の広がりにならなかったところを、まあ少しでも僕が発言したことがきっかけとなったんであれば、それはもう僕は政治家冥利に尽きますよ。
32年間、朝日新聞が頑なに過ちを認めなかったことをね、ここまで産経が頑張ってくれた。産経が頑張ることによって週刊誌も頑張り始めた、いろんな雑誌も頑張り始めた。もう最後、朝日新聞が白旗揚げたわけですし。
32年間、朝日新聞が頑なに過ちを認めなかったことをね、ここまで産経が頑張ってくれた。産経が頑張ることによって週刊誌も頑張り始めた、いろんな雑誌も頑張り始めた。もう最後、朝日新聞が白旗揚げたわけですし。
これまでのコメンテーターね、いいことしか言わない、綺麗事しか言わないコメンテーター。個人名を出させてもらったら、僕にかなりどぎつい批判をしてきた、あの大谷昭宏氏ですよ。何ていうかですね、あの、強制連行っていうものはなかったと。虚偽だったと。これではっきりしたんじゃないでしょうかね。
ただね、今度間違ってはならないのが、産経新聞を始めね、保守政治家、保守を気取る政治家が気を付けなきゃいけないのは、これをもって鬼の首を取ったようにね、日本を正当化したら、これは完全に誤ります。
だからこれ産経新聞の正論なんかでも、稲田朋美さんのね、今の行革大臣ですか、あの方は、かつていわゆる"公娼制度"があったと、そういうことを持ち出して、慰安婦っていう問題、これは合法的だったんだと、堂々と産経新聞の正論で言ってましたけども、急に今、口を閉ざしてしまったけれども、僕が世界からも、国内からもあれだけ批判を受けて急に稲田行革大臣は「橋下発言は女性蔑視発言だ」なんていうことを言い出して、だんまりを決め込んでますけどもね。これは絶対にやっちゃいけないですね。間違っちゃいけない。
個人の評論家とか、個人がね、いろいろその、いわゆる売春というものについていろいろ合法化論を唱えるのはいいのかも分かりませんけども、国家運営の責任者が、世界スタンダードで考えたときに、これを堂々と合法化論というものを唱えるのは、絶対に世界的に見ても、世界の潮流から見てもこれは誤ってしまう。
だからこれ産経新聞の正論なんかでも、稲田朋美さんのね、今の行革大臣ですか、あの方は、かつていわゆる"公娼制度"があったと、そういうことを持ち出して、慰安婦っていう問題、これは合法的だったんだと、堂々と産経新聞の正論で言ってましたけども、急に今、口を閉ざしてしまったけれども、僕が世界からも、国内からもあれだけ批判を受けて急に稲田行革大臣は「橋下発言は女性蔑視発言だ」なんていうことを言い出して、だんまりを決め込んでますけどもね。これは絶対にやっちゃいけないですね。間違っちゃいけない。
個人の評論家とか、個人がね、いろいろその、いわゆる売春というものについていろいろ合法化論を唱えるのはいいのかも分かりませんけども、国家運営の責任者が、世界スタンダードで考えたときに、これを堂々と合法化論というものを唱えるのは、絶対に世界的に見ても、世界の潮流から見てもこれは誤ってしまう。
朝日新聞のね、あの記事はまぁ、本当に言い訳に満ちた記事というか。
あの、僕ね、やっぱり朝日は取材はね、しっかりしている新聞だと思うんですよ。それぞれの記者もよく勉強しているし。でもね、ロジックが最近もう無茶苦茶。場当たり的なロジックで、全部自分のところへ跳ね返ってくる。
僕があの記事を読んでいて一番、あの、不快に思ったのはね、結局、読売新聞や産経新聞もね、"他紙も同じように報じてたじゃないか"、ってことを最後に付け加えてるわけですよ。あれは情けなかったですね。
あの、僕ね、やっぱり朝日は取材はね、しっかりしている新聞だと思うんですよ。それぞれの記者もよく勉強しているし。でもね、ロジックが最近もう無茶苦茶。場当たり的なロジックで、全部自分のところへ跳ね返ってくる。
僕があの記事を読んでいて一番、あの、不快に思ったのはね、結局、読売新聞や産経新聞もね、"他紙も同じように報じてたじゃないか"、ってことを最後に付け加えてるわけですよ。あれは情けなかったですね。
なぜかって言えばね、僕が慰安婦問題の発言をしたときにね、アメリカ軍やイギリス軍、ドイツ軍、フランス軍、韓国軍だって、いわゆる女性を利用していた、という話をしたときにね、"なに正当化してんだ"と。"他国がやったからといって自分たちが良いと言えるのか"と、これをさんざん言ってきたのが朝日新聞ですよ。
で、僕は違うよと、ロジックが違うよと。これは今までの日本の保守政治家のようにね、日本国内の問題だけとして捉えて、日本を正当化してきた、そういうロジックは転換して、やっぱり世界スタンダードで考えればね、これは正当化しない。二度と過ちは繰り返さない。それを前提に、ただ、アンフェアなところはしっかり言っていこうと、そういうロジックで言っていたつもりなんですけど、なかなか今まであまり理解されなかったところもありましたけどもね。
で、僕は違うよと、ロジックが違うよと。これは今までの日本の保守政治家のようにね、日本国内の問題だけとして捉えて、日本を正当化してきた、そういうロジックは転換して、やっぱり世界スタンダードで考えればね、これは正当化しない。二度と過ちは繰り返さない。それを前提に、ただ、アンフェアなところはしっかり言っていこうと、そういうロジックで言っていたつもりなんですけど、なかなか今まであまり理解されなかったところもありましたけどもね。
今回のあの朝日新聞の、昨日の記事ですか。見事に自分を正当化してるじゃないですか。"読売新聞や産経新聞も同じように報じてたんじゃないか"と。あれを付け加えたことによって、あの検証記事は台無しになりましたね。
やっぱりね、朝日新聞の今、非常に弱いところ。もう世の中を動かすだけの力が無くなってきたのはね、ロジックがね、場当たり的。非常に場当たり的。
やっぱりね、朝日新聞の今、非常に弱いところ。もう世の中を動かすだけの力が無くなってきたのはね、ロジックがね、場当たり的。非常に場当たり的。
あのー、選挙のこともね、"集団的自衛権については国民の信を問え"と言っておきながら、大阪都構想について僕が信を問うたら"それは意味のない選挙だ"と言ったりね。もうちょっと朝日新聞も頑張ってもらわなきゃいけないんじゃないですか。
ただ強制連行の、これで事実が、少なくとも朝鮮半島においてはなかったと。他の地域で、軍が強制的に女性に暴行を加えたという事実はあったんでしょう。これは、オランダ人捕虜のね、スマラン事件でもそうですけど、これはね、戦犯です。戦犯なんです。
だからこれは、どこの戦地においてもね、あってはならないけれども、生じ得る、いわゆる兵によるね、レイプ事件、強姦事件としてこれはきちっと罰しなければなりませんけども、出てくるんですよ。これはもう戦争の本当に不幸な話なんです。だから絶対戦争なんかやめなきゃいけない。
だからこれは、どこの戦地においてもね、あってはならないけれども、生じ得る、いわゆる兵によるね、レイプ事件、強姦事件としてこれはきちっと罰しなければなりませんけども、出てくるんですよ。これはもう戦争の本当に不幸な話なんです。だから絶対戦争なんかやめなきゃいけない。
だけど、これあの、最後朝日のね、また学者を引用してね、コメント、今日、出てましたけども、"ガラパゴス的な議論にしてはいけない"、と。朝日こそガラパゴスなんですよ。この問題はね、もう日本国内の議論だけにとどめちゃいけない。日本がやったことを正当化してはいけない、これは当たり前だし、日韓関係だけの問題でもないんです。韓国に対してもね、謝るべきところは謝らなきゃいけないんです。
ただしね、やっぱり認めちゃいけないところ、で、これ何が問題になっているかと言ったら、世界から、日本だけが特殊なことをやったという風に指摘されているわけですよ、"性奴隷"という言葉を使われて。でもこれ、強制連行の事実がなかった、強制連行が無かったということになれば、日本だけが性奴隷を使っていたという批判は当たりません。もし、日本がね、この慰安婦を利用していたということで"性奴隷を使っていた"というんであれば"世界各国がみんな性奴隷を使っていた"ということにしなきゃいけないんです。どちらでもいいです。だから日本が性奴隷を使っていたという国連の人権報告書が出てますけども、それだったら世界各国が性奴隷を使っていたというように国連も改めなきゃいけませんね。
朝日新聞はいろんな言い訳をしてますけどもね、これはもう非常に大きな問題。読売がきちっと言ってますけどもね、国連の人権報告書もたぶんその、今日の朝日の、あの学者さん、"ガラパゴス的な議論をしてはいけない"ということを言っていたあの学者さん、国連の人権報告書も読んでないんでしょうね。1996年に出た「クマラスワミ報告書」っていうものによって、日本が性奴隷を使っていたという話が広がってきたわけです。このクマラスワミ報告書の証拠はね、何かといったら、吉田清治さんの著書ですよ。だから全部繋がってるんです。だから今回朝日が認めたね、吉田清治氏の虚偽の話。これは虚偽だと、もう認めたわけです。そしたらね、あの朝日の報道によってね、国連の人権委員会も炊きつけられたわけなんですよ。
日本の戸塚(悦朗)さんという弁護士がどんどんNGOでね、国連の人権委員会に働きかけた。今回見てください。国連の自由権規約人権委員会から、日本は性奴隷を使っていたと、もっと厳しい批判が来ましたよ。その根拠は何かといったらね、朝日が大宣伝した、吉田清治氏のね、あの慰安婦についての話ですよ。済州島で日本の官憲が、兵隊が、とにかく女性狩りをやったと。その話がね、全部国連のこの1996年、クマラスワミ報告書、日本が性奴隷を使っていたということで批判を受けるようになった、世界から批判を受けるようになったね、クマラスワミ報告書の基礎資料に、吉田清治氏の文献が証拠になってるということなんです。
で、この吉田清治氏の文献が、今度はジョージ・ヒックスっていう、オーストラリアでしたっけ、そっちの方のジャーナリストかなんかの文献の証拠になったりとか。
だから朝日新聞はね、今回の問題、確かにね、消し去ることのできない事実であることは間違いないですよ。だから女性をね、そういう風に性的に利用していたということは絶対にあってはならないし、今後二度と繰り返してはいけない。だけれども、それは日本だけが特別にやっていたことなのかどうなのか。世界はみんなね、自分たちがやったことを棚に上げて、日本に対して全部押し付けてきているわけですよ。
だから慰安婦像なんていうものが、どんどんどんどん、世界に広がってるじゃないですか。
だから慰安婦像なんていうものが、どんどんどんどん、世界に広がってるじゃないですか。
僕はずっと繰り返し言ってきたのが、日本も悪いけれども、でも世界各国だって戦争っていう場においては、それ以上のことをやってるわけです。ノルマンディー上陸作戦のときもそうだし、ソ連軍だって、第二次世界大戦の最後、日本に侵攻してきた時に、満州でやってきたことなんて、もうレイプの連続じゃないですか。これも歴史的な史実であるわけですよ。で、そういうことは戦争の本当に悲惨な過去。絶対こういうことは繰り返しちゃいけない。
だけれども、日本国だけが性奴隷を使っていたという風に、世界から不当な侮辱を受けることに対しては、きちっと反論しなきゃいけないし、なぜそのような不当な侮辱を受けることになったかといえば、朝日新聞のあの間違った報道。32年間、過ちを認めてこなかったこの姿勢によって、吉田清治氏のあの著書が、国連の人権委員会の中の重要な報告書の資料になっている。こういうところも、もうちょっとね、朝日新聞は検証しなきゃいけないですね。
だから"ガラパゴス的な議論にしてはいけない"ってのはその通りだけれども、何も国内だけで、日本人がやってきたことは正しかったんだとか、間違ってないんだとか、そんな議論じゃないんですよ。
これはもう、世界標準として考えてね、日本がやってきたことはどこまでを反省して、どこからはきちんと反論すべきなのかってことを、しっかり考える。もう次のステップはそこですよ。だから今回、この問題ね、ここで終息させちゃだめですよ。
これはもう、世界標準として考えてね、日本がやってきたことはどこまでを反省して、どこからはきちんと反論すべきなのかってことを、しっかり考える。もう次のステップはそこですよ。だから今回、この問題ね、ここで終息させちゃだめですよ。
一つは、国連人権委員会の報告書をもっともっと検証してもらって、吉田清治氏の文献がね、国連人権委員会のクマラスワミ報告書の第2章で、これどんどん引用されて、これが元になって、日本は性奴隷を使ったって言う風になっているわけです。もし日本が性奴隷を使ったという評価なんであれば、これ日本だけじゃなくて世界各国です。
第二点は、これは、日韓関係をこじらせたのは朝日新聞の記事なんです。なぜかと言えばね、通常の戦争犯罪であれば平和条約ですべて解消する、というのが、これがもう原則ですよ。ルールです。通常の戦争犯罪とか戦争責任については平和条約で解消すると。
でもこれもね、世界スタンダードで、虐殺とかホロコーストとか、重大な人道違反の罪については時効はないと。平和条約では解決されない、っていうのが、これもまた世界標準です。だからナチスドイツの犯罪だったりとか、こないだもイギリスが植民地に対して行っていたいろんな暴行事件についても、それは時効なく賠償していかなきゃいけない。これはもう、ある意味、国連の中のね、国際標準なんです。通常の平和条約ではね、解消されない罪もあるんだと。
で、日韓基本条約、請求権並びに経済協定の中で、完全かつ最終的にこの慰安婦問題が解決された、というのは日本の主張だけれども、韓国は違うんですよ。で、国連の感覚も違うんです。
この慰安婦問題っていうものは、通常の戦争犯罪ではない、戦争責任ではないという、そういう評価なんです。なぜかといったら、国がね、国家を挙げて、女性を強制連行して性奴隷にしたんだから、こんなのは通常の平和条約では、日韓基本条約、請求権並びに経済協定、平和条約では解決した問題ではない、というのが韓国の主張でもあり、これが国連の評価でもある。
この慰安婦問題っていうものは、通常の戦争犯罪ではない、戦争責任ではないという、そういう評価なんです。なぜかといったら、国がね、国家を挙げて、女性を強制連行して性奴隷にしたんだから、こんなのは通常の平和条約では、日韓基本条約、請求権並びに経済協定、平和条約では解決した問題ではない、というのが韓国の主張でもあり、これが国連の評価でもある。
だから強制連行というものが、重要な要素になってしまっている。だからいくら日本が、1965年の日韓基本条約、請求権並びに経済協定でね、全部完全かつ最終的に解決されて、日本政府がいくら言っても、世界はそれを認めてくれませんよ。虐殺とか、ホロコーストとか、それから重大な人道違反についてはね、時効なし。永久にやった人間を処罰せよ。だから、今回の国連の自由権規約人権委員会からもまたそういう風にまた勧告が出ているわけですよ。
だからもっとね、日本国民も、ジャーナリストの皆さんも、何が論点なのかということをもう一回、見定めないと。今まではずっと国内の問題だけでね、この慰安婦問題は当時は合法だったんだから日本人に責任はない、非常にドメスティックな国内の議論でずっとやってきた。それに対して、朝日新聞や毎日新聞は批判してきた。「そんな問題じゃない。責任を感じろ、反省しろ」と。それは国内の問題なんです。
だから反省するところは反省して、お詫びするところはお詫びする。しかし今、世界の問題になってるんでね。この強制連行っていう事実によって、日本だけが性奴隷を使っていたという不当な批判受けていることと、それから平和条約では解決されない問題なんだよってことを世界から言われてしまっているんですよ。
だから強制連行の事実がないっていうんだったらね、これは通常の戦場の性の問題、通常の戦争責任の問題としてね、考えて、やっぱり平和条約で解決したというふうに考えるのかどうなのか。こういうところをね、日本と韓国でしっかり議論しなきゃいけないと思いますね。
だから反省するところは反省して、お詫びするところはお詫びする。しかし今、世界の問題になってるんでね。この強制連行っていう事実によって、日本だけが性奴隷を使っていたという不当な批判受けていることと、それから平和条約では解決されない問題なんだよってことを世界から言われてしまっているんですよ。
だから強制連行の事実がないっていうんだったらね、これは通常の戦場の性の問題、通常の戦争責任の問題としてね、考えて、やっぱり平和条約で解決したというふうに考えるのかどうなのか。こういうところをね、日本と韓国でしっかり議論しなきゃいけないと思いますね。
朝日の罪は大きすぎますよこれ。本当に。こんな単純にこれ、今認めてね、いや、消し去ることのできない事実なんだから、強制連行の有無なんていうのは大した問題じゃない。強制連行の有無なんて大した問題じゃない、っていうのは、非常にドメスティックな、国際社会を見てない議論ですよ。強制連行があったかどうかってのは、国際社会ではものすごい重要なんです。
だから日本人も、産経新聞も、保守政治家もね、今回の朝日のこの記事によって、鬼の首を取ったように日本を正当化するんじゃなくて、謝るところは謝って、その代わり、国際社会で、強制連行という事実がどれだけ重要視されてね、日本が不当に批判を受けて、そして日韓関係がこじれているのか。もう一回これをやっぱり議論し直して、韓国とやっぱりしっかりと協議をしていかなきゃいけないと思いますよ。
少なくとも、朝鮮半島においては、強制連行という事実はなかった。このことを元にした議論というのはだめです。やっぱり日韓基本条約、請求権並びに経済協定の中で、解決する問題でもあり、だけれども何かしらの知恵を絞って、日韓関係が改善できないかを探っていくべきなんでしょうね。
※編集部注:ここで、大阪市が実施し、不当労働行為と認定された職員対象アンケートについて、再発防止の誓約文書を労働組合側に提出、謝罪することについてのやりとりがあった。
(朝日新聞記者に)…で、朝日はどうなんですか?まあ明日僕さんざんやりたいんですけどね、重大ですよ、これ。本当に。32年間。僕はだから、別にこれと労働組合の問題を一緒にするつもりも無いけれども、それはね、間違ったらすぐ謝らないとそれは。これは大問題。で、今になってね、あれびっくりしたけど、今年の3月か4月にやっと取材に行ったんですか?あれ。記事に載ってたけどもね、あれは酷すぎると思いますよ。
だから何を論点として何を騒いで、日本の、何て言うのかな。どこまで日本をね、侮辱し続けるのかっていうかね、それで気持ちいいと思っているのかどうなのか分からないけども、これはね、罪大き過ぎると思いますよ。32年間、ずーっとこの問題をこうやって報じて、やっとこれ、ここに来て逃げられなくなったから、まあ認めることになったんだろうけど。
そのかわりね、最後のあれなんて、もっと記者が怒んないと。あんな情けないことを、最後ね、"読売でもこう書いていた。産経新聞でもこう書いてた"なんて、あれを書いたことによって台無しですよ。結局あれ、"他紙もやってたから。他紙もやってたでしょ、だから私もしょうがないでしょ"って、まさに僕を批判してた、自分を正当化している論拠じゃないですか。なんであんなもん載せたんですかね。他紙なんか関係ない、他国は関係ないと言い続けてたのは朝日新聞じゃないですか。"他国はどうであれ、日本がやったことについて反省しろ"って、僕に対して言い続けてきたんですよ?
僕は別に日本をね、正当化するつもりはないですよと、ロジックが違うということは言い続けてきました。これはロジックの転換をやったからね、当初はもう、メディアもみんな付いてこられなかったわけです。今までの保守政治家ってものは、日本を正当化するためにね、強制連行はなかったんだと。強制連行がなかったから日本は別に問題なかったんだと。僕はこれは違うっていうことは言い続けてきましたよ。強制連行があろうとなかろうと、やったことについて反省すべきところは反省する。
外国特派員教会で(昨年5月)写真拡大
ただ強制連行についてはね、これは国際社会の評価の中で重大問題。だから僕が外国人の特派員協会のところに行ってもね、"強制連行やったじゃないか"ってその1点でした。"自分のところはやってない。あんたのところは強制連行やって性奴隷の制度を使ってたじゃないか"と。
今回、強制連行がなかったということになったらね、日本だって、これ、誇れることじゃない、絶対に反省しなきゃいけないけれども、他国と同じような、まさに戦争の中の戦場における性の問題として、不幸な過去としてね、世界各国が共有すべきような、そういう事案、それと同じなわけですよ。 それを強制連行、強制連行と言っていたもんだから、日本だけが性奴隷を使っていた、日本だけが特殊なことをやっていた、だから謝れ、謝れ。これはひどいと思いますよ。
ただ強制連行についてはね、これは国際社会の評価の中で重大問題。だから僕が外国人の特派員協会のところに行ってもね、"強制連行やったじゃないか"ってその1点でした。"自分のところはやってない。あんたのところは強制連行やって性奴隷の制度を使ってたじゃないか"と。
今回、強制連行がなかったということになったらね、日本だって、これ、誇れることじゃない、絶対に反省しなきゃいけないけれども、他国と同じような、まさに戦争の中の戦場における性の問題として、不幸な過去としてね、世界各国が共有すべきような、そういう事案、それと同じなわけですよ。 それを強制連行、強制連行と言っていたもんだから、日本だけが性奴隷を使っていた、日本だけが特殊なことをやっていた、だから謝れ、謝れ。これはひどいと思いますよ。
で、最後の最後に"他紙もこういう風に報じてた"。"他紙もやってたんだから"。情けない。ほんと情けない。だから、集団的自衛権の話にしても、何にしても、かつては朝日が言えばね、世の中がこうやって動いていたのかも分からないけど、みんなそういうことを見抜き始めたんですよ。明日またやりましょう。
「僕だったらすぐ朝日新聞辞めます」橋下市長、朝日新聞の従軍慰安婦特集について再びコメント
8月7日夜、大阪市の橋下徹市長が退庁時のぶら下がり会見で、前日に引き続き再び朝日新聞の慰安婦問題検証特集についてコメントした。以下、その質疑の部分をお送りする。
日本維新の会 写真一覧
ー朝日新聞の関係者を国会に呼んで検証すべきじゃないかと、自民党の石破幹事長も…
ー朝日新聞の関係者を国会に呼んで検証すべきじゃないかと、自民党の石破幹事長も…
いや、石破さんもはっきりとは言ってないんじゃないですか。検討する、くらいでしょ。
ー必要であればと。
ま、国会でやるよりも、言論機関でもっとやりあってくださいよ。ええ。 国会でやったところで別にそれ、どちらの方が国民のみなさんに事実が知れ渡るかと言えば、国会の論戦よりもやっぱり言論によってね、産経新聞のように、またその他のいろいろな雑誌が言ってるじゃないですか。あのようにどんどん言って、それに朝日新聞が反論したらいいじゃないですか。
まさに言論の中で、読売がやり、産経がやり、毎日も朝日もやって、週刊誌もやって、雑誌もやってるんですから、そこに委ねたらいいと思いますよ。
ー昨日は検証をここで止めるべきではないという主旨のお話をされていましたが…
だから国会での検証ということではなくで、事の問題点というか、そういうところの議論をね、朝日・毎日は強制連行の有無はあまり問題じゃない、と。そういう被害者がいるんだから、女性の人権全般の問題としてね、きちんと考えるべきだという結論を出しましたよ。それはそうなんだけれども、強制連行を、無いものをあったと報道したあのことの影響について、朝日はちょっと能天気過ぎます。
あのことによって、だから、今までの保守を自称する政治家が悪かったんですよ、また保守論客という人もね、僕が批判を受けるまでの間は、強制連行はなかったからこれは合法だったんだと。もっといえば公娼制度の延長だってことを言い続けたひとたちが、僕がああやって世界からバッシングを受けたことで、誰もそれ言わなくなったんですよ。そういう議論をしてたからおかしくかったわけですよ。だから朝日も意地になってたんですよ。
かたやこっちに、強制連行が無ければ日本は悪くなかった、問題無かった、という論客がゴマンといたから、だから朝日が意地になってね、いや日本は悪かったんだ悪かったんだと言い続けて来たわけですよね。
だから朝日の検証記事にも…まさに朝日が見誤ったのは、国内だけの、国内の保守政治家、慰安婦問題を正当化する人達だけを対象に自説を述べようとしたから見誤ってしまって、強制連行の有無にかぎらず、やったことについては悪い悪いと言い続けてきたんだけども、強制連行の有無っていうものは、日本を正当化する、日本が良いか悪いかっていう、そういう基準じゃなくてね、通常の、いわゆる不幸な…通常のって言ったらまた誤解を生むかもわかりませんけども、不幸な過去、不幸な戦争の過去としてね、みんながどこかで最後、未来に向かって平和条約を結ぶわけですよ。そのの平和条約の中で解決されるような戦争責任の問題なのか、そうじゃない、平和条約で解決されないようなとんでもない事案だったのか、ここの分け目に強制連行の有無があるってことを、朝日はあまりのもちょっと認識不足ですね。
だから非常にドメスティックな議論で、慰安婦問題を正当化している政治家に反撃するために暴走しちゃったんでしょうね。だからもうそこはね、やっぱりこれは女性の人権問題として二度と繰り返しちゃいけない、当たり前の話ですから。そこはしっかり押さえて。
だから今回の朝日の記事よってね、鬼の首を取ったように、日本は悪くなかったんだ、日本は問題なかったんだ、当時は合法だったんだという議論は国際的には通用しません。
でも次からのステージはね、ドメスティックな議論じゃなくて、世界を相手に、きちっと議論しないといけないのは、平和条約で解決される、いわゆる不幸な過去、いわゆる戦争責任の問題なのか、平和条約でも解決できない戦争責任の問題なのか、ここの議論に移すべきなんです。
で、ナチス・ドイツの戦争犯罪については平和条約では解決できないだけの、もうとんでもない悲惨な、とんでもない重大な、残虐な、人道法に反する、違反行為であるということで、時効もなく影響に追及されるわけです。ナチス・ドイツの犯罪行為についてはね。それから、宗主国が植民地においておこなった数々の暴行、陵虐について、これもやっぱり平和条約では解決されないだろうという考え方が、今もうほぼそれが国際的なスタンダードですよ。
だからなんでね、日韓基本条約、請求権ならびに経済協定で、完全かつ最終的に解決された、と日本側が思っている慰安婦問題を、韓国側がまだ法的責任を追及してきて、国連人権委員会も、日本に賠償せよとかもっと誠意をもった対応を示せと言ってくるかといえば、強制連行という事実があったから、日本だけが特異な性奴隷を使っていたから、通常の戦場の性の問題とは違って、平和条約では解決されない事案なんだというふうに国際社会がみんな思っているわけですよ。とその根拠が強制連行の事実なんです。
だから強制連行の事実がなかったいうことであればね、こちらも大手振って正統化する、そんなことは絶対やってはならない戦争責任なわけですら、でもそれは1965年のね、日本と韓国のあいだのいわゆる平和条約、 戦争責任については精算する、日韓基本条約によってね、この問題は解決されたと見て行きましょうと。 そうでなければ、日本だって原爆を落とされたことについて、どうなんだって話になるわけですよそれは。あんなのあきらかに人道法違反ですよ。ナチス・ドイツの戦争犯罪と同じくらいの話だと思いますよ。民間人無差別爆撃やってね、東京大空襲、大阪大空襲あれだってどうなんだって話になりますよ。
でもサンフランシスコ条約によってね、いわゆる戦争問題については基本的には無しにしましょう、将来に向かって歩んでいきましょうっていうことをやったのが平和条約なわけですから。
戦争って、いろいろ悲惨な事案っていうか、本当に命や人権が蹂躙されるような、そういうことが次々と起きるから、戦争ってやってやいけないわけです。
そういうこと踏まえて平和条約結んだ、その平和条約で解決される問題なのか。そうではない問題なのか。これは強制連行の有無ってことで分かれるんですよ。
そういうこと踏まえて平和条約結んだ、その平和条約で解決される問題なのか。そうではない問題なのか。これは強制連行の有無ってことで分かれるんですよ。
だから強制連行がないといことになれば、朝日新聞のように、有無なんてのはあんまり意味ないんだと、こちらが反省する気持ちを持ち続けることが重要で、有無なんてのはどうでもいいんだっていうのは、全然国際社会を見ていない、非常にドメスティックな国内的な議論です。
朝日が日韓関係をこじらせた最大の原因ですよ、これ。そのままあんな報道がなければね、これは大変不幸な過去だけれども、でも平和条約でね、申し訳ないけれども一旦精算した問題ですよということをきちんと言っておけばね、ここまで日韓関係こじれなかったですよ。
強制連行があったと、あれだけのことをやって、あれだけの報道をやっていけばね、それは韓国サイドだって国連サイドだって、いや、これは日韓基本条約で解決されるような問題じゃない、ナチス・ドイツのホロコーストと同じような問題だと、みんなそう思ってるわけですよ。だからこじれてるんですよ。
朝日が日韓関係をこじらせた最大の原因ですよ、これ。そのままあんな報道がなければね、これは大変不幸な過去だけれども、でも平和条約でね、申し訳ないけれども一旦精算した問題ですよということをきちんと言っておけばね、ここまで日韓関係こじれなかったですよ。
強制連行があったと、あれだけのことをやって、あれだけの報道をやっていけばね、それは韓国サイドだって国連サイドだって、いや、これは日韓基本条約で解決されるような問題じゃない、ナチス・ドイツのホロコーストと同じような問題だと、みんなそう思ってるわけですよ。だからこじれてるんですよ。
だから朝日新聞の報道ですよ。僕は朝日の記者に問われた時に、慰安婦問題っていうものこそ、日韓関係の一番の問題点だってことを2年前か3年前に言って、自分も勉強不足だから一生懸命勉強して自分の論理を組み立てて、ああいう形で去年言いましたけれども、まあなかなか世間は付いてくれなくて、当初色々批判を受けましたけれども、やっとこういう形でね、何が問題で何が事実だったのかってことがこうやって国民に知れ渡るようになってきてよかったと思いますよ。
でもこれはあくまで言論でやりあってもらいたいですよ。もっと朝日に対して、あんな言い訳じみた、不十分な見解じゃなくて、国際社会における評価っていうところにステージを変えてね。
僕が外国特派員協会で喋ったときだって、もう、世界各国の記者は、いや強制連行やったんだろ、強制連行やったんだろ、の一点張りですよ。だから性奴隷。アメリカ軍、イギリス軍、フランス軍を持ち出すなんて、お前らは俺達とは違うんだと言わんばかりに、もう徹底的にそれでやられましたよ。これは、自分たちがやった戦場の性の問題とレベルが違うんだと。世界各国は思っているわけです。
僕が外国特派員協会で喋ったときだって、もう、世界各国の記者は、いや強制連行やったんだろ、強制連行やったんだろ、の一点張りですよ。だから性奴隷。アメリカ軍、イギリス軍、フランス軍を持ち出すなんて、お前らは俺達とは違うんだと言わんばかりに、もう徹底的にそれでやられましたよ。これは、自分たちがやった戦場の性の問題とレベルが違うんだと。世界各国は思っているわけです。
日本は正当化しちゃけないし、他国がやったからといって日本もやってもいいなんていうロジックはだめですよ。でも戦場の性の問題ととして各国が反省しなければいけない問題ですよと一生懸命言って、韓国のみなさんに対しても、不幸な過去についてはこちらも真摯な気持ちで対応しますよ、ということを示しながら、でも法的な問題としては、賠償責任の問題としては、やっぱり一旦結ばれた平和条約があるだから、将来に向かってなんとかやっていきましょう、と言い続けるしか無いと思うんですね。
で、朝日は終わりなんですか?あの検証は。
ー(朝日新聞記者)いや終わりということには特にしてないと思いますけどね。
ああいうの見てどう思うんですかね?社員として。
ー(朝日新聞記者)まあ、それは今、社内でいろいろ議論してますし…
僕だったらすぐ辞めますけどもね、そんな会社。いやそんなんもう、とてもじゃないけどいられませんよ。ここまでのことやって、よくいられますよね。すごい精神状態だなと思って。
ー(朝日新聞記者)いろいろ内部で議論してますので。
そうですよね。政治家向きですよほんとに、そこまでの精神。僕だったら報道出た瞬間に辞めますよ。というくらいまでのことに、朝日の社員のひとたちはあんまり感じてないんでしょうね。とんでもないことですよ。日韓関係こじらせてちゃって、もうどうするんですかね。こんな風にしてしまって。
だから慰安婦問題について、やっぱりそれはね、正当化した人達について追及していくのはいいと思いますよ。これは正当化する問題じゃないって。それは賛成します。
でも、強制連行っていうあの事実がね、これだけ国際社会に対して、日本国民、もっと言えば子どもや孫たちに対して、どれだけの不名誉なことをかぶせてしまったかと言ったらね、これはね、朝日は最後本気でやるんだったらね、もう赤字覚悟で国際版をとにかく毎日刷って、強制連行の話はありませんでした、日本は正当化するつもりはありません、日本はちゃんと反省しますけれども、強制連行はなかったんだから、性奴隷と評価するのはやめてほしいってことを赤字覚悟で世界各国に配信していくしかないんじゃないですか。とんでもない、一個人に対する名誉の侵害とかそういう問題じゃなくて、子どもとか、孫たち全員に対して汚名を着せたというか、これは僕だったら、そんな会社すぐ辞めちゃいますけどね。すごい精神力。
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東條英機元首相 公的遺書 全文
転載元 Red Fox■東條英機元首相 公的遺書 全文
8月15日は終戦記念日と言う事で、東條英機元首相の遺書を紹介させて頂く。
この公的遺書は、昭和23年12月23日の0時01分の死刑執行の直前、12月22日午後9時半から10時半に、独房における最後の面会の際、あらかじめ用意してあった文章を東條が読み、当時巣鴨拘置所の教誨師で東條ら7人の「A級戦犯」の処刑に立ち会った花山信勝氏が筆記したものである。
これは読む人によっていろいろ解釈が分かれたり、特にリアルタイムの世代の方達は複雑な思いが強い面もあるが、興味深いのは、第二次大戦の最高責任者の立場にあった人物が、敗戦の3年4ヶ月後に何を語っていたかと言う事である。
そこでは朝鮮の南北分断や共産主義の台頭から来たるべき冷戦時代や朝鮮戦争を予見し、武力放棄による平和主義に不安を持ち、それでもアメリカに日本の将来を託さざるを得ない大戦の時代の日本の指導者の複雑な思い、更に敗戦と国民を苦境に陥れた事への贖罪の思いと同時に、勝者の論理で罪に問われた事への批判が描かれている。
また、当時の世界における有色人種の地位と言うもの、これは現代の感覚からでは想像を絶するような状況であった事もこの遺書から伝わって来る。
当時の文章はなかなかすんなりは読みにくいものであるが、本エントリーでは現代の世代の人には馴染みの薄い表現に注釈とフリガナを加えてみた。
細かい微妙な表現も全て見る事で、東條氏の人物像がより見えて来るものと思う。◆東條英機元首相 公的遺書 全文
遺 書
開戦当時の責任者として敗戦のあとをみると、実に断腸の思いがする。
今回の刑死は個人的には慰められておるが、国内的の自らの責任は死を以て贖(あがな)えるものではない。
しかし国際的の犯罪としては無罪を主張した。今も同感である。
ただ力の前に屈服した。
自分としては国民に対する責任を負って満足して刑場に行く。
ただこれにつき同僚に責任を及ぼしたこと、
又下級者にまで刑が及んだことは実に残念である。
天皇陛下に対し、又国民に対しても申し訳ないことで深く謝罪する。
元来日本の軍隊は、陛下の仁慈[1]の御志に依
より行動すべきものであったが、一部過ちを犯し、世界の誤解を受けたのは遺憾であった。
此度の戦争に従事してたおれた人、及び此等の人々の遺家族に対しては、実に相済まぬと思って居る。
心から陳謝する。
1. 仁慈 (じんじ):いつくしみ
今回の裁判の是非に関しては、もとより歴史の批判を待つ。
もしこれが永久平和のためということであったら、も少し大きな態度で事に臨まなければならないのではないか。
此の裁判は結局は政治的裁判で終わった。
勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。
天皇陛下の御地位(ちかい)は動かすべからざるものである。
天皇存在の形式については敢えて言わぬ。
存在そのものが絶対必要なのである。
それは私だけではなく多くの者は同感と思う。空気や地面の如く大きな恩(めぐみ)は忘れられぬものである。
東亜の諸民族は今回のことを忘れて、将来相(あい)協力すべきものである。
東亜民族も亦(また)他の民族と同様に天地に生きる権利を有(も)つべきものであって、その有色たるを寧ろ神の恵みとして居る。
印度(インド)の判事[2]には尊敬の念を禁じ得ない。
これを以て東亜諸民族の誇りと感じた。
今回の戦争に因りて東亜民族の生存の権利が了解せられ始めたのであったら幸いである。
列国も排他的の感情を忘れて共栄の心持ちを以て進むべきである。
2. パール判事の事
現在日本の事実上の統治者である米国人に対して一言するが、どうか日本人の米人に対する心持ちを離れしめざるよう願いたい。
又日本人が赤化しないように頼む。
大東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにされねばならぬ。
実は東亜の他民族の協力を得ることが出来なかったことが、今回の敗戦の原因であったと考えている。
今後日本は米国の保護の下に生きて行くであろうが、極東の大勢がどうあろうが、終戦後、僅か三年にして、亜細亜大陸赤化の形勢は斯くの如くである。
今後の事を考えれば、実に憂慮にたえぬ。
もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上もないではないか。
今、日本は米国より食料の供給その他の援助につき感謝している。
しかし、一般人がもしも自己に直接なる生活の困難やインフレや食料の不足などが、米軍が日本に在るが為なりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。
依って米軍が日本人の心を失わぬよう希望する。
今次戦争の指導者たる米英側の指導者は大きな失敗を犯した。
第一に日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。
第二には満州を赤化の根拠地たらしめた。
第三は朝鮮を二分して東亜紛争の因たらしめた。
米英の指導者は之を救済する責任を負うて居る。
従ってトルーマン大統領が再選せられたことはこの点に関し有り難いと思う。
日本は米軍の指導に基づき武力を全面的に抛棄した。
これは賢明であったと思う。
しかし世界国家が全面的に武装を排除するならばよい。
然らざれば、盗人が跋扈する形となる。
(泥棒がまだ居るのに警察をやめるようなものである)
私は戦争を根絶するためには慾心[3]を人間から取り去らねばと思う。
現に世界各国、何(いず)れも自国の存在や自衛権の確保を主として居る。
(これはお互い慾心を抛棄しておらぬ証拠である)
国家から慾心を除くということは不可能のことである。
されば世界より今後も戦争を無くするということは不可能である。
これでは結局は人類の自滅に陥るのであるかも判らぬが、事実は此の通りである。
それ故、第三次世界大戦は避けることが出来ない。
3. 慾心 (よくしん):欲心
第三次世界大戦に於いて主なる立場にたつものは米国およびソ連である。
第二次世界大戦に於いて日本と独乙(ドイツ)というものが取り去られてしまった。
それが為、米国とソ連というものが、直接に接触することとなった。
米ソ二国の思想上の根本的相違は止むを得ぬ。
この見地から見ても、第三次世界大戦は避けることは出来ぬ。
第三次世界大戦に於いては極東、即ち日本と支那、朝鮮が戦場となる。
此の時に当たって米国は武力なき日本を守る策を立てねばならぬ。
これは当然米国の責任である。
日本を属領と考えるのであれば、また何をか言わんや。
そうでなしとすれば、米国は何等かの考えがなければならぬ。
米国は日本八千万国民の生きて行ける道を考えてくれなければならない。
凡(およ)そ生物として自ら生きる生命は神の恵である。
産児制限の如きは神意に反するもので行うべきでない。
なお言いたき事は、公、教職追放や戦犯容疑者の逮捕の件である。
今は既に戦後三年を経過して居るのではないか。
従ってこれは速やかに止めてほしい。
日本国民が正業に安心して就くよう、米国は寛容の気持ちをもってやってもらいたい。
我々の処刑をもって一段落として、戦死傷者、戦災死者の霊は遺族の申し出あらば、これを靖国神社に合祀せられたし。
出征地に在る戦死者の墓には保護を与えられたし。
戦犯者の家族には保護をあたえられたし。
青少年男女の教育は注意を要する。
将来大事な事である。
近事[4]、いかがわしき風潮あるは、占領軍の影響から来ているものが少くない。
この点については、我が国の古来の美風を保つことが大切である。
4. 近事:近頃の出来事
今回の処刑を機として、敵、味方、中立国の国民罹災者[5]の一大追悼慰霊祭を行われたし。
世界平和の精神的礎石としたいのである。
勿論、日本軍人の一部に間違いを犯した者はあろう。
此等については衷心[6]謝罪する。
然しこれと同時に無差別爆撃や原子爆弾の投下による悲惨な結果については、米軍側も大いに同情し憐憫[7]して悔悟あるべきである。
5. 罹災者 (りさいしゃ):被災者、
6. 衷心 (ちゅうしん):まごころ、
7. 憐憫 (れんびん):憐れむこと
最後に、軍事的問題について一言する。
我が国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。
あれでは陸海軍一本の行動は採れない。
兵役制については、徴兵制によるか、傭雇兵制によるかは考えなければならない。
我が国民性に鑑みて再建軍隊の際に考慮すべし。
再建軍隊の教育は精神主義を採らねばならぬ。忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任観念のないことは淋しさを感じた。
この点については、大いに米軍に学ぶべきである。
学校教育は従前の質実剛健[8]のみでは足らぬ。
人として完成を図る教育が大切だ。
言いかえれば、宗教教育である。
欧米の風俗を知らす事も必要である。
俘虜[9]のことについては研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。
8. 質実剛健:飾りけがなくまじめで、たくましく、しっかりしていること、
9. 俘虜 (ふりょ):捕虜
辞 世
我ゆくも またこの土地に かへり来ん
国に報ゆる ことの足らねば
さらばなり 苔の下にて われ待たん
大和島根に 花薫るとき◆『祖父東條英機「一切語るなかれ」』東條由布子 著 (文藝春秋) より
[校正、フリガナおよび脚註=岩谷]
*この遺書はパブリックドメインではない事、また本稿のフリガナおよび註釈は当ブログで制作したもののため、転載に関しては引用元の書籍名および註釈の文責の明記をお願いします。
尚この遺書は、祖父東條英機「一切語るなかれ」岩浪由布子 著 文春文庫から引用紹介させていただきました。
お読みいただき有り難うございます。靖国の御霊の心安らかなることを祈ります。
引用元のあきら氏のmixi日記より◆東條英機元首相 私的遺書 全文
昭和23年11月12日の死刑判決の6日後の11月18日、花山信勝師と面談時の遺書。
花山師と面晤(めんご)の機あるに依り左件を東條
一、裁判も終わり一応の責任を果たし、ほっと一安心し、心安さを覚える。
刑は余[1]に関する限り当然のこと、
唯、責を一身に負い得ず、僚友に多数重罪者を出したること心苦しく思う。
本裁判上、陛下に累[2]を及ぼすなかりしはせめてもなり。
1. 余 (よ):自分、
2. 累 (るい):悪影響、迷惑
二、裁判判決其のものについては、此の際言を避く、何れ冷静なる世界識者の批判に依り日本の真意を了解せらるる時代もあらん。
唯、捕虜虐待等など、人道上の犯罪に就いては、如何にしても残念、古来より有(あり)
之(これ)日本国民、陛下の仁慈及び仁徳[3]を徹底せしめ得ざりし、一(いつ)に[4]自分の責任と痛感す。
然して之は単に一部の不心得より生ぜるものにして、全日本国民、及(および)軍全般の思想なりと誤解なきを世界人士(じんし)[5]に願う。
3. 仁徳 (じんとく):他を慈しみ愛する徳
4. 一 (いつ) に:ひとえに、全く、
5. 人士 (じんし):教養ある人々
三、第二次大戦も終わりて、僅か二・三年、依然として現況を見て、日本国の未来に就中[6]懸念なき能[7]わざるも、三千年の培われたる日本精神は、一朝にしてか喪失するものにあらずと確信するが故に、終局に於いては、国民の努力に依り、立派に立ち直るものと信ず。
東亜に生くる吾(われ)は、東亜の民族の将来に就いても此の大戦を通じ世界識者の正しき認識の下にその将来の栄冠あるべきを信ず。
6. 就中 (なかんずく):とりわけ、
7. 能わざる:出来ない
四、戦死戦病死並びに戦災者の遺家族に就いては元より連合国側に於いても同情ある救済処置を願いたきものなり。
之も亦(また)誠、国に殉ずるものにして罪ありとせば、吾吾(われわれ)指導者の責にして彼らの罪にあらず。
而(しか)して[8]吾吾は処断[9]せられたり。
彼等を悲運に泣かしむるなかれ。
然も彼等を現況に放置するは遂に国を挙て赤化に追込むに等し、又現在巣鴨にある戦犯者の家族に就いても既に本人各、罪に服しあるものなるに於て、其の同情ある処置を与えられたきものなり。
ソ連に抑留せられしものは一日も速やかに内地帰還を願いて止まぬ。
敗戦及、戦禍に泣く同胞を思うとき、刑死するとも其の責の償い得ざるを。
8. 而 (しか) して:そうして、それから、
9. 処断:きっぱりと処置する事
『祖父東條英機「一切語るなかれ」』東條由布子 著 (文藝春秋) p. 135より
[校正、フリガナおよび脚註=岩谷]
*この遺書はパブリックドメインではない事、また本稿のフリガナおよび註釈は当ブログで制作したもののため、転載に関しては引用元の書籍名および註釈の文責の明記をお願いします。
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厄介な隣人のチープなリベンジ
転載元 木走日記■[メディア]産経記事のただの韓国報道紹介記事が韓国を激怒させた理由
2014-08-13
13日付け産経新聞記事から。
↓◆本紙支局長出頭要請、外相会談で議論
2014.8.13
韓国側は「当然」
【ソウル=名村隆寛】
韓国外務省報道官は12日の定例記者会見で、韓国検察当局が産経新聞ソウル支局の加藤達也支局長(48)に出頭を要請した問題について、
「産経新聞の報道は、根拠のない流言飛語を基に国家元首の名誉を毀損する悪意ある報道で、極めて重大」
と述べた。
岸田文雄外相が9日、ミャンマーでの日韓外相会談で、尹炳世(ユンビョンセ)外相に対し、「報道の自由、日韓関係の観点から心配している」という立場を伝えたことについて語ったもので、報道官は、
「韓日関係発展に向けた論議の過程で、韓日両国民の感情を傷つけてはならないとの次元で(尹外相は)最近の産経報道に言及した。日本側の注意を喚起したものだ」
と述べた。
外相会談でこの問題を取り上げたことについては、「韓国の国民感情を大きく悪化させるため、論議したことは当然」と明言した。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140813/kor14081309060002-n1.htm
(引用終わり)
うむ、ミャンマーでの日韓外相会談で、ある産経新聞のネット上の報道が問題視されたわけですが、
「産経新聞の報道は、根拠のない流言飛語を基に国家元首の名誉を毀損する悪意ある報道で、極めて重大」
(韓国外務省報道官)
とは穏やかでないです、問題の産経新聞記事が一気に新たな日韓の外交問題化する気配であります。
今回は当ブログとして本件を取り上げて、いったい問題の産経記事は何を報じたのか、そしてそれが何を韓国政府・韓国メディアを激怒させたのか、メディアリテラシー的に徹底検証したいと思います。
今回は2部構成のエントリーにいたします。
まずは事実を、産経新聞と韓国メディアの記事中心にトレースし、後半で問題の記事を分析・検証したいと思います。
【第一部】
激怒する韓国政府と韓国メディア~産経新聞ソウル支局長に出国禁止措置
問題の産経新聞記事は8月3日付けのこちら。
↓◆朴大統領が旅客船沈没当日、行方不明に…
2014.8.3[追跡~ソウル発]
誰と会っていた?
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140803/kor14080312000001-n1.htm
調査機関「韓国ギャラップ」によると、7月最終週の朴槿恵大統領の支持率は前週に続いての40%となった。
わずか3カ月半前には6割前後で推移していただけに、大統領の権威はいまや見る影もないことを物語る結果となった。
こうなると吹き出してくるのが大統領など権力中枢に対する真偽不明のウワサだ。
こうした中、旅客船沈没事故発生当日の4月16日、朴大統領が日中、7時間にわたって所在不明となっていたとする「ファクト」が飛び出し、政権の混迷ぶりが際立つ事態となっている。
(ソウル 加藤達也)
7月7日の国会運営委員会に、大統領側近である金淇春青瓦台(大統領府)秘書室長の姿があった。
まず、質問者である左派系野党、新政治民主連合の朴映宣院内代表と金室長との問答を紹介する。
朴代表
「キム室長。セウォル号の事故当日、朴大統領に書面報告を10時にしたという答弁がありましたね」
金室長
「はい」
朴代表
「その際、大統領はどこにいましたか」
金室長
「私は、はっきりと分かりませんが、国家安保室で報告をしたと聞いています」
朴代表
「大統領がどこにいたら書面報告(をすることになるの)ですか」
金室長
「大統領に書面報告をするケースは多いです」
朴代表
「『多いです』…? 状態が緊迫していることを青瓦台が認識できていなかったのですか」
金室長
「違います」
朴代表
「ではなぜ、書面報告なんですか」
金室長
「正確な状況が…。そうしたと…」
《朴大統領は側近や閣僚らの多くとの意思疎通ができない“不通(プルトン)大統領”だと批判されている。
大統領への報告はメールやファクスによる「書面報告」がほとんどだとされ、この日の質疑でも野党側は書面報告について、他人の意をくみ取れない朴大統領の不通政治の本質だとして問題視。
その後、質問は4月16日当時の大統領の所在に及んだ》
朴代表
「大統領は執務室にいましたか」
金室長
「位置に関しては、私は分かりません」
朴代表
「秘書室長が知らなければ、誰が知っているのですか」
金室長
「秘書室長が大統領の動きをひとつひとつ知っているわけではありません」
朴代表
「(当日、日中の)大統領のスケジュールはなかったと聞いていますが。
執務室にいなかったということですか」
金室長
「違います」
朴代表
「では、なぜ分からないのですか」
金室長
「執務室が遠いので、書面での報告をよく行います」
朴代表
「答えが明確ではありませんよね。
納得し難いです。
なぜなら大統領の書面報告が色々問題となっています」
《朴代表はここで、国会との連絡調整を担当する趙允旋政務首席秘書官(前女性家族相)に答弁を求めた》
朴代表
「趙政務首席秘書官、マイクの前に来てください。
女性家族部相のときも、主に書面報告だったと聞いています。
直接対面して大統領に報告したことがありますか」
趙秘書官
「はい、あります」
朴代表
「いつですか」
趙秘書官
「対面報告する必要があるときに」
朴代表
「何のときですか」
趙秘書官
「案件を記憶していません」
朴代表
「では、調べて後で書面で提出してください」
一連の問答は朴大統領の不通ぶり、青瓦台内での風通しの悪さを示すエピソードともいえるが、それにしても政府が国会で大惨事当日の大統領の所在や行動を尋ねられて答えられないとは…。
韓国の権力中枢とはかくも不透明なのか。
こうしたことに対する不満は、あるウワサの拡散へとつながっていった。
代表例は韓国最大部数の日刊紙、朝鮮日報の記者コラムである。
それは「大統領をめぐるウワサ」と題され、7月18日に掲載された。
コラムは、7月7日の青瓦台秘書室の国会運営委員会での業務報告で、セウォル号の事故の当日、朴大統領が午前10時ごろに書面報告を受けたのを最後に、中央災害対策本部を訪問するまで7時間、会った者がいないことがわかった」と指摘。
さらに大統領をめぐる、ある疑惑を提示した。コラムはこう続く。
「金室長が『私は分からない』といったのは大統領を守るためだっただろう。
しかし、これは、隠すべき大統領のスケジュールがあったものと解釈されている。
世間では『大統領は当日、あるところで“秘線”とともにいた』というウワサが作られた」。
「秘線」とはわかりにくい表現だ。
韓国語の辞書にも見つけにくい言葉だが、おそらくは「秘密に接触する人物」を示す。
コラムを書いた記者は明らかに、具体的な人物を念頭に置いていることがうかがえる。
コラムの続きはこうなっている。
「大統領をめぐるウワサは少し前、証券街の情報誌やタブロイド版の週刊誌に登場した」
そのウワサは「良識のある人」は、「口に出すことすら自らの品格を下げることになってしまうと考える」というほど低俗なものだったという。
ウワサとはなにか。
証券街の関係筋によれば、それは朴大統領と男性の関係に関するものだ。
相手は、大統領の母体、セヌリ党の元側近で当時は妻帯者だったという。
だが、この証券筋は、それ以上具体的なことになると口が重くなる。
さらに「ウワサはすでに韓国のインターネットなどからは消え、読むことができない」ともいう。
一種の都市伝説化しているのだ。
コラムでも、ウワサが朴大統領をめぐる男女関係に関することだと、はっきりと書かれてはいない。
コラムの記者はただ、
「そんな感じで(低俗なものとして)扱われてきたウワサが、私的な席でも単なる雑談ではない“ニュース格”で扱われているのである」
と明かしている。
おそらく、“大統領とオトコ”の話は、韓国社会のすみの方で、あちらこちらで持ちきりとなっていただろう。
このコラム、ウワサがなんであるかに言及しないまま終わるのかと思わせたが途中で突然、具体的な氏名を出した“実名報道”に切り替わった。
「ちょうどよく、ウワサの人物であるチョン・ユンフェ氏の離婚の事実までが確認され、ウワサはさらにドラマティックになった」
チョン氏が離婚することになった女性は、チェ・テミンという牧師の娘だ。
チョン氏自身は、大統領になる前の朴槿恵氏に7年間、秘書室長として使えた人物である。
コラムによると、チョン氏は離婚にあたり妻に対して自ら、財産分割及び慰謝料を請求しない条件を提示したうえで、結婚している間に見聞きしたことに関しての「秘密保持」を求めたという。
証券筋が言うところでは、朴大統領の“秘線”はチョン氏を念頭に置いたものとみられている。
だが、
「朴氏との緊密な関係がウワサになったのは、チョン氏ではなく、その岳父のチェ牧師の方だ」
と明かす政界筋もいて、話は単純ではない。
さらに朝鮮日報のコラムは、こんな謎めいたことも書いている。
チョン氏が最近応じたメディアのインタビューで、
「『政府が公式に私の利権に介入したこと、
(朴槿恵大統領の実弟の)朴志晩(パク・チマン)氏を尾行した疑惑、
(朴大統領の)秘線活動など、
全てを調査しろ』と大声で叫んだ」
具体的には何のことだか全く分からないのだが、それでも、韓国の権力中枢とその周辺で、なにやら不穏な動きがあることが伝わってくる書きぶりだ。
ウワサの真偽の追及は現在途上だが、コラムは、朴政権をめぐって「下品な」ウワサが取り沙汰された背景を分析している。
「世間の人々は真偽のほどはさておき、このような状況を大統領と関連付けて考えている。
過去であれば、大統領の支持勢力が烈火のごとく激怒していただろう。
支持者以外も『言及する価値すらない』と見向きもしなかった。
しかし、現在はそんな理性的な判断が崩れ落ちたようだ。
国政運営で高い支持を維持しているのであれば、ウワサが立つこともないだろう。
大統領個人への信頼が崩れ、あらゆるウワサが出てきているのである」
朴政権のレームダック(死に体)化は、着実に進んでいるようだ。
(引用終わり)
8ページに及ぶ長文記事ですが、産経新聞は実はウェブの特性をよく理解していて、紙の紙面では場所を取ってしまい掲載できないような情報をウェブ上に掲載することがよくあります。
記事自体は、旅客船沈没当日に朴槿恵大統領が7時間にわたり所在不明であったことを、韓国の国会答弁や韓国紙の情報をソースに、韓国内で囁かれている大統領に関する噂話に触れているものであります。
この産経新聞記事に対し、韓国政府は過剰に反応します、8日付けの韓国・中央日報記事から。
↓◆青瓦台
2014年08月08日
「産経新聞に民・刑事上の責任を問う」
韓国の青瓦台(チョンワデ、大統領府)は7日、日本の代表的な右翼メディアの産経新聞に対して民・刑事上の責任を問うと明らかにした。
産経は3日、「朴槿恵(パク・クネ)大統領が旅客船沈没当日、行方不明に…誰と会っていた?」という題名の記事で、韓国メディアのあるコラムと証券街の情報(俗称チラシ)等を引用して朴大統領の私生活疑惑を提起した。
大統領広報首席秘書官は同日、記者に会って「口にするのも恥ずかしいことを記事にした」として「最後まで厳しく対処していく」と述べた。
続いて「すでに市民団体が産経を告発した」とし「(青瓦台が)直接訴訟を起こすことについて検討している」と明らかにした。
http://japanese.joins.com/article/694/188694.html?servcode=A00§code=A10&cloc=jp|article|related
(引用終わり)
「口にするのも恥ずかしいことを記事にした」産経に対し「最後まで厳しく対処していく」、
「すでに市民団体が産経を告発した」とし「(青瓦台が)直接訴訟を起こすことについて検討している」(大統領広報首席秘書官)と韓国政府は激怒します。
韓国政府は、産経新聞ソウル支局長に出国禁止措置し加藤達也支局長に検察に出頭するよう要請します。
10日付け韓国・中央日報記事から。
↓◆韓国検察
2014年08月10日
産経新聞ソウル支局長に出国禁止措置
セウォル号沈没事故当日に朴槿恵(パク・クネ)大統領がある男性に会っていたという証券街でのうわさを報道し、出版物による名誉毀損容疑で告発された産経新聞ソウル支局長に検察が出頭するよう通知した。
検察は支局長を出国禁止にした。
ソウル中央地検は9日、加藤達也支局長に12日に検察に出頭するよう通知したと明らかにした。
産経新聞は3日に「朴槿恵大統領が旅客船沈没当日、行方不明に…誰と会っていた?」という見出しの記事で、朝鮮日報のコラムを引用し、セウォル号沈没事故当日の4月16日に7時間ほど朴大統領の所在が把握されていなかったと私生活の疑惑を提起した。
また
「当時朴大統領が秘密裏に接触した男性と一緒にいたといううわさが証券街の情報誌などを通じて出回っている」
「現政権がレームダックに入っている」
と評価したりもした。
加藤支局長は検察の出頭要請に応じる意向を伝えたという。
社団法人領土守護独島愛会のキル・ジョンソン理事長は7日、
「根拠のない虚偽の事実で国家元首の名誉を傷つけ国紀を乱した」
として加藤支局長をソウル中央地検に告発した。
キム理事長は
「産経新聞は慰安婦や独島(ドクト、日本名・竹島)問題が拡大している最近、韓国に対し否定的な報道を多くしている。
虚偽報道に対し徹底的に捜査してほしい」
と要請した。
これに先立ち青瓦台(チョンワデ、大統領府)は8日、朴大統領のセウォル号沈没事故当日の行方が議論になったことを受け、
「当時大統領は青瓦台にいた」と説明した。
青瓦台によると、朴大統領は当時執務室と官邸を行き来していた。
これまで野党は「7時間にわたる大統領の具体的な動線を明らかにすべき」と要求し、これに対し青瓦台は「国家元首の一挙手一投足を公開するのは難しい」との立場を守ってきた。
だが、産経新聞が朴大統領に対する名誉毀損的な報道を出すとすぐに釈明に出た。
青瓦台はこの日、産経新聞が加藤支局長の記事を報道したことに対して、「国家元首冒とく」と判断し、民事・刑事訴訟など強力な対応を予告した。
http://japanese.joins.com/article/743/188743.html?servcode=400§code=400&cloc=jp|article|related
(引用終わり)
出頭要請を受けて産経新聞は韓国政府の過剰対応に「理解に苦しむ」(小林毅・産経新聞東京編集局長)と表明します。
9日付け産経新聞記事から。
↓◆本紙ソウル支局長に出頭要請
2014.8.9
ウェブ記事「大統領の名誉毀損」
韓国検察
【ソウル=名村隆寛】
韓国のソウル中央地検は8日、産経新聞ソウル支局の加藤達也支局長(48)に対し、12日に出頭するよう求めた。
産経新聞のウェブサイトに掲載された記事が朴槿恵(パク・クネ)大統領の名誉を毀損しているとする韓国の市民団体の告発を受け、事情を聴くという。
問題とされる記事は、ウェブサイト「MSN産経ニュース」に3日掲載された加藤支局長による「【追跡~ソウル発】朴槿恵大統領が旅客船沈没当日、行方不明に…誰と会っていた?」。
今年4月16日に起きた韓国旅客船沈没事故の当日、7時間にわたって朴大統領の姿が確認できなかったことをめぐり、その間の朴大統領の行動などで韓国国内で論議が高まっているという内容。
記事は、韓国国会内での議論や韓国紙、朝鮮日報に掲載されたコラムなど、公開されている情報を中心に、それらを紹介するかたちで書かれている。
ウェブサイトへの掲載後、産経新聞には、韓国大統領府からソウル支局に抗議があったほか、在日本韓国大使館から東京本社に「名誉毀損などにあたる」として記事削除の要請があった。産経新聞は記事の削除には応じなかった。
小林毅・産経新聞東京編集局長
「問題とされた記事は韓国国会でのやりとりや朝鮮日報コラムの紹介が中心であり、この記事を理由に名誉毀損容疑で出頭を求められるというのは理解に苦しむ」
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140809/kor14080908350002-n1.htm
(引用終わり)
産経側の言い分は
「問題とされた記事は韓国国会でのやりとりや朝鮮日報コラムの紹介が中心であり、この記事を理由に名誉毀損容疑で出頭を求められるというのは理解に苦しむ」
とのことです。
で、出頭日は18日に決定したそうです。
11日付け産経新聞記事から。
↓◆産経新聞ソウル支局長 出頭は18日に
2014.8.11
【ソウル=名村隆寛】
ソウル中央地検が産経新聞ソウル支局の加藤達也支局長に出頭を求めた問題で、検察当局は当初、12日の出頭を要請していたが、手続き上の理由から出頭は18日となった。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140811/kor14081117200005-n1.htm
(引用終わり)
この間にも韓国メディアは産経新聞批判を強めます。
韓国・東亜日報は「産経新聞の韓国冒涜は度を越えた」題する社説を掲げます。
大変興味深い論説ですがとりあえず結語だけ引用。
↓◆[社説]産経新聞の韓国冒涜は度を越えた
(前略)
韓国憲法は、言論と表現の自由を保障しているが、他人の名誉を毀損し、人格を冒涜する自由までは許されない。
大統領府は、産経新聞の報道を国家元首に対する冒涜と見なし、民事・刑事訴訟などの対応を準備しているという。
検察捜査は検察に任せ、大統領府まで乗り出すことは言論の自由に対する侵害と映るため望ましくない。
ただ、産経新聞のような低劣な新聞を日本の他のメディアと同等に扱うことはできない。
政府も取材制限など適切な措置を講じなければならない。
http://japanese.donga.com/srv/service.php3?bicode=080000&biid=2014081155588
(引用終わり)
結語
「検察捜査は検察に任せ、大統領府まで乗り出すことは言論の自由に対する侵害と映るため望ましくない。
ただ、産経新聞のような低劣な新聞を日本の他のメディアと同等に扱うことはできない。
政府も取材制限など適切な措置を講じなければならない。」
とはすごいです。
「産経新聞のような低劣な新聞」は「言論の自由」の対象外にせよ、と暴論を吐いているわけです。
やれやれであります。
【第二部】
問題の産経新聞記事内容を徹底検証
さて問題となった産経新聞記事の内容を検証致しましょう。
産経新聞が参考にした韓国・朝鮮日報記事は崔普植(チェ・ボシク)記者による7月18日付けのこちら。
↓◆【コラム】大統領をめぐるうわさ
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版2014/08/10
大統領をめぐるうわさは、世間の人々は皆知っているが、当の大統領本人は知らないに違いない。
記者がそう思ったのは、7月7日、大統領府秘書室が国会運営委員会で行った業務報告がきっかけだ。
旅客船「セウォル号」沈没事故が発生した日の午前10時ごろ、朴槿恵(パク・クンヘ)大統領が書面で初めて報告を受けてから中央災難(災害)安全対策本部に出向くまでの7時間、
対面での報告も、大統領主宰の会議もなかったということが判明した。
当時、野党・新政治民主連合の朴映宣(パク・ヨンソン)院内代表と大統領府のキム・ギチュン秘書室長はこんなやりとりをした。
「大統領は執務室にいたのか」
「居場所については私は知らない」
「秘書室長が知らなくて、誰が知るのか」
「秘書室長がいちいち、一挙手一投足を全て知っているわけではない」
大統領のスケジュールをリアルタイムで把握できないというわけだ。
後になって知るという。
しかし、問題の日は大惨事が発生した日だ。
当然「大統領は今どこにいるのか」と尋ねたり、探したりしてしかるべきだ。
キム室長が「私は知らない」と言ったのは、大統領を守ろうとしたからだろう。
だがこれは、秘書室長にも隠したい大統領のスケジュールがあるという意味にもとられかねない。
世間では「大統領はあの日、ある場所で誰かと密会していた」といううわさが流れた。
いっそのこと「大統領の居場所について公の場で話すのは困る」と言っておけば、こんな状況にならなかったのではないだろうか。
大統領をめぐるうわさ話はつい最近まで、証券業界の情報紙やタブロイド紙で取り上げられるようなものだった。
良識のある人々は、そのようなことを口にすること自体、自らの地位を下げるものだと考えていた。
誰かが話題にしようものなら『そんないいかげんな話はやめろ』と止めたものだ。
そんな扱いをされていたうわさ話が、7日の国会でのやりとりをきっかけに、一般のメディアでも取り上げられるようになった。
プライベートな場での数人の人々の雑談の中でそのような話が出るのではなく、「ニュース」として登場しているのだ。
さらに、うわさ話に登場していたチョン・ユンヒ氏が離婚していたことまで判明し、事態はさらにドラマチックになった。
チョン氏は財産分与や慰謝料の請求をしないという条件で、妻に対し婚姻期間中の出来事について「秘密の維持」を求めた。
故・崔太敏(チェ・テミン)牧師の娘婿に当たるチョン氏は、朴大統領が国会議員時代に秘書室長を7年間勤めた。
チョン氏は最近、あるメディアとのインタビューで「私の利権への介入や(朴大統領の弟)朴志晩(パク・チマン)氏に対する尾行疑惑、裏での活動などについて、政府が公然と調査をやればいい」と大声で怒鳴った。
世間の人々は真実かどうかを抜きにして、このような状況を大統領と関連付けて考えた。
以前なら、大統領を支持する勢力は烈火のごとく怒っただろう。
支持者ではない人たちも「言及する価値すらない」と思ったに違いない。ところが今は、そのような常識が崩壊し、理性的な判断ができなくなっているようだ。
国政運営で高い支持率を維持していれば、うわさが流れることもないだろう。
大統領個人に対する信頼が失われたことで、あらゆるうわさが流れているのだ。
それは身体の免疫力が落ちたとき、鳴りを潜めていた病原菌が活発になるのと似ている。
これは大統領として、非常に深刻に受け止めなければならない。
なぜ、どこで免疫力が低下したのだろうか。
現政権ほど国政をめぐるアジェンダ(検討課題)の多い政権はない。
「国民の幸福」「国民の大統領」「不正常を正常に」「規制緩和」「統一大当たり」「国家の大改革」など。
だが、任期中にどれか一つでも十分やり遂げられると信じる人はいない。
大部分は掛け声倒れに終わるかもしれない。
自分の部下に誰を起用するかという問題だけで、多くの時間や精力を無駄にした。
また、これだけ論議を呼び、不信感を与えた政権もないだろう。
大統領は「時代の要求に応えられる方を起用するということは、決して容易なことではなかった」と言うが、世間の人々は「あんな候補者を一体誰が推薦するのか」という目で見ている。
こうして疑念が深まり、それが累積したことで、免疫力も次第に低下していったというわけだ。
「国家の大改革」を成し遂げることを第2次内閣のテーマに掲げたものの、街頭で誰に聞いてみても、それが可能だと考えている人はいない。
そんな状況を目の当たりにすると、韓国の将来に対する期待を持つのは難しい。
国家の大改革を目指すのなら、大統領本人や周囲の人々の大改革を実行するのが先決だ。
大統領は依然として、前時代のシンボル同然のキム・ギチュン秘書室長を従えている。
キム室長の忠誠心や、秘書室の安定を放棄したくないからだろう。
だが、キム室長がその職にとどまっている限り「大改革」に向けた大統領の意志を信じる人はいないだろう。
また、人事を行うたびに「大統領府の門番」3人の名が世間に知られるが、大統領府の内部では平穏な日常が続いている。
大統領が彼らを呼んで「少しでも誤解されるようなことや、職務を逸脱するようなことはあってはならない」と注意したという話も聞かない。
それはたとえ該当者にとって気に障るようなことでも、国民に向けたメッセージという意味で必要なことだ。
梅雨時のカビのように増殖するうわさを聞かないためにも、大統領は自らの耳をふさいではならない。
カビは太陽の光に当たれば死滅するのだから。
崔普植(チェ・ボシク)記者
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/08/10/2014081000868.html
(引用終わり)
だらだらと長い記事なので全文は直接お読みいただくとして、要約します。
論説は冒頭、
「旅客船「セウォル号」沈没事故が発生した日の午前10時ごろ、朴槿恵(パク・クンヘ)大統領が書面で初めて報告を受けてから中央災難(災害)安全対策本部に出向くまでの7時間、対面での報告も、大統領主宰の会議もなかったということが判明した」
事実から始まります。
その事実を受けて
「世間では『大統領はあの日、ある場所で誰かと密会していた』といううわさが流れた」
のだそうです。
どんなうわさなのか説明ないまま論説は、
そんなうわさなど、
「大統領をめぐるうわさ話はつい最近まで、証券業界の情報紙やタブロイド紙で取り上げられるようなものだった。
良識のある人々は、そのようなことを口にすること自体、自らの地位を下げるものだと考えていた。
誰かが話題にしようものなら『そんないいかげんな話はやめろ』と止めたものだ。」
「良識のある人々は、そのようなことを口にすること自体、自らの地位を下げるもの」
のような下品なものであることを示唆します。
で、低レベルな噂話が、
「そんな扱いをされていたうわさ話が、7日の国会でのやりとりをきっかけに、一般のメディアでも取り上げられるようになった。
プライベートな場での数人の人々の雑談の中でそのような話が出るのではなく、『ニュース』として登場しているのだ」
と、ニュースとして報道されていると指摘します。で、どんな噂話かはいっさい説明のないまま噂の登場人物が急に実名で登場します。
《さらに、うわさ話に登場していたチョン・ユンヒ氏が離婚していたことまで判明し、事態はさらにドラマチックになった。
チョン氏は財産分与や慰謝料の請求をしないという条件で、妻に対し婚姻期間中の出来事について「秘密の維持」を求めた。
故・崔太敏(チェ・テミン)牧師の娘婿に当たるチョン氏は、朴大統領が国会議員時代に秘書室長を7年間勤めた。
チョン氏は最近、あるメディアとのインタビューで「私の利権への介入や(朴大統領の弟)朴志晩(パク・チマン)氏に対する尾行疑惑、裏での活動などについて、政府が公然と調査をやればいい」と大声で怒鳴った。》
論説は次のように締めくくられています。
《梅雨時のカビのように増殖するうわさを聞かないためにも、大統領は自らの耳をふさいではならない。》
カビは太陽の光に当たれば死滅するのだから。
うむ、噂話の内容が謎のままなので、事情を知らない人間が読んでもはてさて何のことやらなわけです。
で、問題の産経新聞記事の登場です。◆朴槿恵大統領が旅客船沈没当日、行方不明に…誰と会っていた?
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140803/kor14080312000001-n1.htm
こちらも8ページに及ぶ長文記事なので、是非直接お読みください。
内容はほとんど朝鮮日報記事の紹介に終始していてパクリともいっていいようなただの紹介記事であり、
産経の言い分
「問題とされた記事は韓国国会でのやりとりや朝鮮日報コラムの紹介が中心であり、この記事を理由に名誉毀損容疑で出頭を求められるというのは理解に苦しむ」
も理解できます。
しかし産経記事はただ一点だけ、
朝鮮日報が触れていない噂の中身を、証券街の情報誌に載っていた証券街の関係筋の話として記載しているのであります。
そのウワサは「良識のある人」は、「口に出すことすら自らの品格を下げることになってしまうと考える」というほど低俗なものだったという。
ウワサとはなにか。
《証券街の関係筋によれば、それは朴大統領と男性の関係に関するものだ。
相手は、大統領の母体、セヌリ党の元側近で当時は妻帯者だったという。
だが、この証券筋は、それ以上具体的なことになると口が重くなる。
さらに「ウワサはすでに韓国のインターネットなどからは消え、読むことができない」ともいう。
一種の都市伝説化しているのだ。》
コラムでも、ウワサが朴大統領をめぐる男女関係に関することだと、はっきりと書かれてはいない。
コラムの記者はただ、
「そんな感じで(低俗なものとして)扱われてきたウワサが、私的な席でも単なる雑談ではない“ニュース格”で扱われているのである」
と明かしている。
おそらく、“大統領とオトコ”の話は、韓国社会のすみの方で、あちらこちらで持ちきりとなっていただろう。
うむ、日本人読者のために噂の内容を説明していたのであります。
何のことはない“大統領とオトコ”の話に触れてしまったのであります。
今一度激怒する東亜日報社説より。↓同紙は、「韓国国会内での議論や韓国紙、朝鮮日報に掲載されたコラムなど、公開されている情報を中心に、それらを紹介するかたちで書かれている」
としたが、内容を読んでみると、記事の出処の中心は証券街の情報誌だ。
セウォル号沈没事故の当日、朴大統領の行動に関する金淇春(キム・ギチュン)秘書室長の国会答弁の内容を詳細に紹介したが、朝鮮日報のコラムと証券街の情報誌を巧妙に配合し、かえって疑惑を増幅させた。
(引用終わり)
ふう。
まとめます。
産経新聞記事は何も問題はありません。
韓国の「朝鮮日報のコラムと証券街の情報誌」の内容をこんな噂もあると、報道しただけの記事であります。
この記事が問題ならば、そもそもこの記事のソース元である自国の朝鮮日報や証券街情報誌こそ責められなければなりません。
情報源はすべて韓国メディアにあるのです。
興味深いことです。
“大統領とオトコ”の話に触れて韓国を激怒させた産経新聞なのであります。
繰り返しますが、この産経新聞記事は何も問題はありません。
やれやれです。
(木走まさみず)
【関連記事↓】
転載元 自由人の思索■リーダーシップ問われる朴大統領の危機
評論家・洪ヒョン
2014.8.2
韓国の朴槿恵(パククネ)大統領のレームダックを思わせる表現がメディアに登場してきた。
大統領中心制で大統領が任期末にレームダックになるのは自然なことだが、任期が3分の1もたっていない時点でのレームダック説は前代未聞だ。
世論調査の支持率なら、今も40%台を維持しており、与党セヌリ党も補欠選挙に勝ち、国会の過半数を維持した。
なのになぜ、レームダックの話が消えないのか?
表向きには度重なる人事の失敗、
特に総理候補指名の連続した挫折と旅客船沈没事件などで浮き彫りになった政府の無能ぶりのためといわれるが、実情はそう単純でない。
権力構造に内在する脆弱性と矛盾を野党はもちろん、南北の左翼に突かれた結果だ。
結論的には大統領のリーダーシップが原因だというしかないが、内容を見れば、非常に複雑で、韓国政治の総体的な異常状態ともいえる。
いま韓国では、人事聴聞会や国政調査権などを持つ国会の権限が、実質的に大統領の権力を凌駕している。
国会が大統領より強力であれば、もはや大統領中心制とは言い難い。
この国会が朴大統領を徹底的に牽制しているのだ。
それは、重要案件は60%以上の賛成を規定した国会法のためで、野党が反対すれば、国政はまひする。
内閣制なら、国会を解散し総選挙をすればよいが、(韓国では)改憲なしでは不可能だ。
野党は当初から、親北勢力などと組んで、先の大統領選挙結果を承服しなかった。
そして、海難事故などあらゆることを政権退陣闘争の材料にしてきたのである。
問題は大統領が状況を客観的に把握していないことだ。
それに、メディアを味方に付けていない。
朴大統領には強固な支持層があるといわれてきたが、そもそも、朴大統領への支持・期待・好感は、詰まるところ「親の七光」によるものだ。
そのため、朴大統領はポピュリズムに頼り、政策路線は保守右派とはいえない。
福祉拡大や世宗市建設がその典型だ。
世宗市は、(左派政権の)盧武鉉(ノムヒョン)元大統領が「支配階層の交代のため首都を移転する」と言い放った違憲的発想だった。
朴大統領は北側の核ミサイル実戦配備への備えや韓米同盟の強化よりも、親中反日やポピュリズムの福祉拡大にこだわる。
過度な「反日」に国民は疲労感を覚えている。
国家の安全保障と憲法守護、そして戦時最高司令官としての責務への自覚が感じられない。
大統領としての法治の回復と国家正常化の努力を怠り、選挙に臨む政治家のように行動する。
そして、先の大統領選挙結果に承服しない従北勢力や野党の攻勢に結果的に屈服、迎合し、自分に投票した支持層を裏切った。
こうした朴大統領に失望した保守右派が見切りをつけたのが、早期レームダック説の根源だ。
もともと、保守右派は、極左親北政権の執権を阻止するため彼女に投票しただけ。
保守層が支持を撤回すれば、朴大統領の政治基盤は崩れ、動力を失った船のように難破の危機に直面する。
大衆迎合的なセヌリ党は果たして亡国のポピュリズム扇動と闘うだろうか。
朴大統領が権威とリーダーシップを保ちながら任期を全うする唯一の道は、国家安保と自由民主体制を守るために命をかけることだ。
そうすれば、背を向けた保守右派が大統領を助けるだろう。■慰安婦問題では「1ミリの譲歩もしない」 反日色をさらに強める朴槿恵政権
産経新聞 2014.7.26
日韓間の溝がますます深まっている。
韓国側が「関係悪化の核心」とする慰安婦問題は、23日の日韓局長級会談でも「日本が具体的な解決策を示すべきだ」と韓国サイドの強硬な姿勢が目立った。安倍晋三政権は8月初旬の東南アジア諸国連合地域フォーラム(ARF)で日韓外相会談を開催し、年内の首脳会談実現に繋げたいが、朴槿恵政権は旅客船「セウォル号」沈没事故後の求心力の影りのなかで、特に日韓問題では柔軟性を持ちにくくなっているという。(久保田るり子)慰安婦問題で「韓国は勝った」と硬化する韓国世論
日韓間の慰安婦問題で、議論の土台となっているとされるのが「3点セット」と呼ばれる解決案だ。日韓いずれも前政権だった2012年、日本の野田佳彦政権と李明博政権(いずれも当時)が検討した案で日本側が提示したとされる和解案。慰安婦問題を人道問題として(1)駐韓日本大使が慰安婦の女性に謝罪(2)これを受けて日韓首脳が会談(事実上の日本の謝罪)(3)日本が慰安婦女性に人道的支援の順とされる。
韓国サイドは慰安婦支援団体らが日本の法的責任を明確にする謝罪や、国家予算による慰安婦女性への賠償などを要求しているが、政府間協議では3段階解決案も「妥協案」として温存されてきた。そんな中で最近、朴政権側には強硬姿勢が目立つ背景には、韓国世論の硬化と朴槿恵政権の変化があるようだ。
韓国世論は安倍政権の河野談話検証や集団的自衛権問題で硬化し、慰安婦問題ではますます強気になっているからという。理由は国民に『日本は国際社会で負けた』『韓国が勝った』という意識が強いためで、「慰安婦問題で日本からどんな謝罪が取れるか、世論の期待が高い」(韓国の日本専門家)朴槿恵政権、レームダックの兆候?「日本には一ミリも妥協せず」
4月の旅客船「セウォル号」事故は順風だった朴槿恵政権の足腰を砕いた。その打撃は深く、現在も朴大統領のリーダーシップに影を落としている。行方を追っていた船のオーナーが変死体で発見され、検察、警察のズサンな捜査にまた国民的な非難な集中している。事故は政官財癒着の実態を暴き出し、社会的停滞ムードを拡大させ、事故処理をめぐって朴政権のガバナンス(統治力)への不信感を増大させた。60%付近だった朴政権の支持率は40%台に低下し、事後処理の政権人事は未だに終わっていない。その余波は日韓関係にも及んだ。朴氏の側近で有力政治家の李丙●(=王へんに其)・駐日大使(67)が急遽、国家情報院長に転出した。代わって柳興洙・元韓日議連幹事長(76)が新大使に内定した。李大使は日本重視人事とされていただけに、日韓関係のパイプが細る懸念も出ている。
朴政権は求心力の低下に歯止めがかかっていない。内政ではウォン高による輸出企業の業績低迷もあって経済政策が進んでいない。朴槿恵氏の人事の失敗も目立つ。引責辞任した首相の次の候補者をめぐって2転3転したあと適任者がおらず、引責辞任した前職が元のサヤに収まるという前代未聞の事態も発生。その後の閣僚人事でも失敗が続き失望を買っている。その結果、「任期3年以上を残してレームダックの兆候か」といった声さえ聞こえる。「批判を恐れる官僚の萎縮で、責任回避心理から政策決定の停滞が起きている」(関係筋)。
こうした国内政情を背景に朴政権が対日姿勢で原則主義の看板を下ろすことはますます困難になっている。今後も慰安婦問題では「一ミリも譲歩しないだろう」(前出の専門家)というわけだ。依然続く韓国の水産物輸入禁止問題、日本はいつまで我慢?
局長級の日韓協議では、日本産水産物の輸入禁止問題も協議した。韓国は、昨年9月から「東日本大震災の原発事故を汚染水が海に流れ込んでいる」と福島県など8県の水産物の輸入禁止措置を取り、日本は「科学的根拠はない」として解除を要求中だ。日本政府は今月初旬の世界貿易機構(WTO)会議で、韓国に対し公式な懸念表明を行った。韓国側も「科学的根拠がない」ことは承知しており輸入禁止解除も検討しているが、「食品の安全に敏感な世論や、悪化している対日感情によって対応に苦慮している」(朝鮮日報)状況が続いている。WTOの規約では各国の輸入禁止措置は「合理的期間内」となっており、日本がWTO提訴など強硬措置に踏み切れば韓国は敗訴が濃厚だ。今週、訪韓した舛添要一東京都知事の朴大統領表敬が実現するなど、韓国側に軟化の気配がないわけではない。しかし、これは日韓の改善への動きというより、日朝関係の進展が刺激になっている可能性が高い。日韓の関係膠着は、米国の仲介や日朝関係などの外部要因の刺激なしには動かないほど深刻な事態といえそうだ。
実はパクさんにはお礼を言わなければならないかも知れない。
この人が〝やり過ぎ〟てくれたおかげで、
慰安負婦の話は、捏造されたまま風化せず、目先の事しか見えない日本の政治家に造られかけた間違った歴史を、まだ時間が許すうちに、訂正する機会を与えてもらった。
もし、日韓関係が良好のままであったなら、
禍根は棚ざらしにされたまま、半永久的に背負い続けねばならぬ傷として遺ったろう。
とくに河野は感謝しろ!
売国奴とまでは言わぬにせよ、日本をおとしめた永久戦犯・政治家として、
この人が〝やり過ぎ〟てくれたおかげで、
慰安負婦の話は、捏造されたまま風化せず、目先の事しか見えない日本の政治家に造られかけた間違った歴史を、まだ時間が許すうちに、訂正する機会を与えてもらった。
もし、日韓関係が良好のままであったなら、
禍根は棚ざらしにされたまま、半永久的に背負い続けねばならぬ傷として遺ったろう。
とくに河野は感謝しろ!
売国奴とまでは言わぬにせよ、日本をおとしめた永久戦犯・政治家として、
取り返しのつかぬ瑕疵を未来永劫、責め続けられる『子々孫々の恥』を免れたのだから。
↧
↧
憲法はまだか
転載元 依存症の独り言 徒然なるままに語る
■憲法はまだか
2006/03/28
◆憲法はまだか
(NHK土曜ドラマ=1部:1996年11月30日・2部:12月7日放送)
1946年2月13日 首相官邸
松本蒸冶(憲法担当大臣):
ご報告を申し上げます。
本日午前10時より外相官邸にて、総司令部のホイットニー民生局長ほか3人(ハーバード大学出身の弁護士資格を持つ)と会談をいたしました。
幣原喜重郎(総理):
ご苦労さんでした。どうぞ!
首尾はいかがでした!
松本:
それが奇妙奇天烈(きてれつ=非常に不思議なさま。珍妙なさま)な話になりまして。
幣原:
奇妙奇天烈…?
松本:
結論から申し上げますと、マッカーサーはわれわれが提出した憲法改正案を受諾できないそうです。
幣原:
ほう~
やはり11条の軍規定が気に入らんのですか?
松本:
いや、そういう問題ではありません。
全面的に拒絶されたのです。
いや、拒絶したばかりではなく、驚いたことに、奴さんたち民生局で作った別案を持ってきました。
幣原:
別案を?
松本:
これがそうです。
われわれの政府案は要綱のみでしたが、向こうのは長ったらしく、憲法そのものを書いてきたのです。
幣原:
受け取ったのですか?
松本:
受け取らざるをえないじゃないか!
幣原:
序文が付いているんですか!
吉田茂(外務大臣):
そこは飛ばして、まず第1条をお読み下さい。
幣原:
The Emperor shall be the symbol of the State and of the Unity of the People,
楢橋渡(内閣書記官長):
symbol
幣原:
deriving his position from the sovereign will of the People, and from no other source.
(天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く)
松本:
一体、総司令部は何を考えているでしょうかね。
もっともホイットニーは、これを日本側に押し付けるつもりはないと、いいましたがね。
幣原:
詳しく話してください!
松本:
まあ、要するに強制はしない、強制はしないけれど、マッカーサー元帥は、アメリカ国内の、また他の国の強烈な反対を押し切って、天皇陛下を擁護するために苦心をかさねておると。
このGHQの憲法案の範囲であれば、なんとか、天皇陛下のご安泰を図れるであろうと。
幣原:
・・・
吉田:
総理、第8条はいかがですか!
幣原:
War as a sovereign right of the nation is abolished.
幣原:
abolished(放棄).
The threat or use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any other nation.
(武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する)
楢橋:
戦争の放棄ですか!
松本:
まあ、いずれにしても、これを丸ごと受け入れる義務はないでしょう。
日本の憲法は日本人の手でつくるべきなんですから。
幣原:
それは私も同感です。
楢橋:
しかし、GHQは日本政府案を受け付けないといっているのでしょう。
松本:
だから!さっそく終戦連絡局の白州次郎君を総司令部に派遣して、交渉にあたらせているんだ。
政府案とGHQと根本的な相違はないということをだな。
吉田:
しかしホイットニーは強硬でしたよ。
マッカーサー元帥は、このGHQの案が日本政府の案として発表されることを強く望んでいると。
松本:
冗談じゃない。
そんなみっともないまねできるもんかね。
吉田:
もしそれができないなら、マッカーサー元帥自身の手で、日本国民に発表することになるであろう。
松本:
恥をかきますよGHQは。
こんな途方もない憲法みたことがない。
まるで共産主義の作文ですよ…
とにかく憲法の何たるかをしらないんですな!
一院制になったら、困りますよ。
総理も私も吉田君も選挙に出なければならなくなる。
幣原:
吉田さん。この文章を知っているのは誰と誰ですか?
吉田:
ここにいる4人(松本・幣原・吉田・楢橋)と、白洲次郎君、
それに通訳の長谷川君だけで…
幣原:
定例閣議まで秘密にして置いてください。
トップシークレットです。
吉田:
はあ
◇
白州次郎(終戦連絡事務局次長):
けんもほろろです。
取り付く島 もありません!
松本:
われわれの立場はどうなるんだ。
憲法問題調査委員会の面目は丸つぶれじゃないか。
白州:
GHQ案は日本政府に最大のプレゼントだそうです。
善意と友愛に満ちたこの案を飲めないのなら内閣を総辞職すべきだ。
そこまでいわれました。
松本:
メイドインUSAの憲法案なんか飲めるわけがないだろう!
他人の褌(ふんどし=男子の陰部をおおう布)で相撲を取れというのか。
楢橋:
それにしてもGHQはいつの間に憲法なんか…
松本:
計画的なんだよ、最初から政府案を蹴るつもりだったんだ。
白州:
いや、そうじゃありません。
ケーディス大佐に聞いた話しなんですが。あの憲法案は民生局のメンバーがたった1週間でまとめ上げたそうです。
◇
GHQ民生局(GS)は、ニューディーラーで弁護士出身のホィットニー局長とケーディス次長に率いられ、占領初期の民主化政策を推進担当し、占領初期の日本民主化に大いに貢献した。
1933年以降、米国大統領F・ルーズベルトが大恐慌による不況の克服を目的として農業調整法(AAA)・全国産業復興法(NIRA)・社会保障法などを制定・施行し、テネシー渓谷開発事業(TVA)などを実施した。
この一連の社会経済政策をニューディール(New Deal=「新規まき直し」の意味)といい、ルーズベルトの下でこのニューディール政策を立案・執行した人々をニューディーラーという。
◇
松本:
1週間!
楢橋:
まさか!
白州:
マッカーサーからの作戦命令が出たのが2月3日、作業を開始したのが2月4日だといわれました。
◇
白州次郎(終戦連絡事務局次長):
この政府案は、閣議を経てませんので、決定案ではありません。
松本国務大臣によるあくまでも私案の段階です。
ホイットニー:
英語でなないようだが?
白州:
翻訳が間に合いませんでした。
ケーディス:
では、いますぐ翻訳しましょう。
松本蒸冶(憲法担当大臣):
この場で?
ケーディス:
そうです!皆さんお掛けしてください。
◇
ケーディス:
ミスターサトウ!前文がついていませんね。
佐藤達夫(法制局次長):
必要ですか?
ケーディス:
当然です。
憲法の精神を述べた前文の削除は論外だ。
松本:
待ってください。
ケーディス:
前文に関しては一言一句の変更も許されん!
松本:
前文をつけるならば、天皇のお言葉にしなければなりません。
ケーディス:
なぜですか?これは民主憲法ですよ!
◇
ケーディス:
「天皇ハ日本国民ノ至高ノ総意ニ基キ」
となっていますが、われわれの原文にある、
「それ以外のなにものにも基づくものではない」
これもカットされていますね!
松本:
憲法の文章は簡略なほどよろしい。
くどくど書くものではありません。
ケーディス:
あなた方には誠意がない!
われわれをだます気だ!
松本:
そんなことはない!
ケーディス:
内閣の“ホヒツ”とはどういうことか?
原文では「“助言と同意”の下に」と、なっているはずだ!
松本:
日本語の“輔弼”は同意語です。
ケーディス:
認められん!
松本:
日本語まで変えるつもりですか?
ケーディス:
聞き捨てならない!
松本:
あなたこそ失礼ではないか!
◇
ケーディス:
だめだ!
日本国民では外国人が除外されてしまう!
すべてのナチュラルパーソンは、人種、信条、性別、階級にかかわらず法の下に平等である。
佐藤:
ナチュラルパーソンにあたる適切な言葉は日本語にはありません。
ケーディス:
まさか!
憲法の精神を翻訳によって曲げることは許さん!
◇
1946年3月7日、政府憲法草案要綱を発表
マッカーサー全面支持
1946年7月17日 首相官邸
GHQ民政局のケーディス大佐が首相官邸へ
GHQの文書=憲法草案の日本文と英文の相違について、日本語訳は主権、
すなわちsovereign willを、
至高に変えてしまっている。
しかし、至高は法律的な意味において、
なんら主権の概念を伝えていない。
至高=
この上もなく高くすぐれていること。
最高(大辞林)
◇
ケーディス大佐:
ミスター金森、国会の答弁では、国体、および天皇の地位についてどのような説明を?
金森(憲法担当大臣):
国体とは、“国民国家の特質”であり、
“政治の形態”ではないと、そう説明しました。
ケーディス:
なんですと!
金森:
この憲法で“政治の形態”は変わります。
だが、“国民国家の特質”は変わりません。
ケーディス:
意味が良くわからない。
文書で書いて提出してください。
金森:
そうします。
ケーディス:
主権の所在について日本文の表現は、不明確だ。
前文もしくは条文で、主権が国民にあることを明示しなさい。
金森:
明示してあります。
ケーディス:
していない。
意図的に内容を歪曲しているとしか思えん!
金森:
それは誤解です。
ケーディス:
“国民の総意が至高”とはどういうことなのか。
主権が国家にあるともとれる一方で、天皇、内閣、国会、裁判所に分属するようにもとれる。
または、それらの国家機関も共有であるともとれる。
何通りもの解釈ができるような表現は一種の欺瞞だ。
主権が国民にあることを明文化しなさい!
金森:
・・・
◇
(首相らとの協議)
金森:
ケーディス大佐は聞きしに勝る頑固者ですな…
こっちも負けずに言ってやりましたがね。
議会の答弁はあれでいいと、私は信じている。どうしてもというのなら私は大臣を辞めるしかない。
いっそのこそ公職追放の対象にしたらどうですと!
芦田(憲法改正特別委員会委員長):
GHQも必死なんでしょう。
極東委員会の手前ね。
吉田(首相):
まるでジャンケンみたいなものだ!
芦田:
ジャンケン?
吉田:
日本はGHQに弱い。
GHQは極東委員会に弱い。
極東委員会は日本の復讐を恐れている。
芦田:
なるほど。
金森:
いかがいたしましょうか。
このままでは決着のつけようがありません。
芦田:
主権でいいじゃないですか。
sovereign willは主権ですよ。
至高という言葉は幣原さんがひねり出したたんです。
金森:
しかし、政府案担当者としては、いまさら手のひらを返すように主権でございますとは、いえませんね。
吉田:
自由党に提案させましょう。
金森:
自由党にですか?
吉田:
社会党や共産党を出し抜いて先手を打つんです。
与党の提案ということなら不名誉にはなりません。
芦田:名案ですな。
◇
(国会での答弁)
金森:
政府としましては、総司令部の指摘に対し、相当長く抵抗してまいりましたが、結局のところ衆議院の議決により主権と改めざるをえなくなりました。国際社会の目を尊重する意味であえて露骨な表現をとるに至りましたが、至高と主権とはおそらく同じ意味であり、文字が変わっただけであるとご理解下さい。
◇
1946年8月24日 芦田小委員会修正案衆議院可決
9月23日午前、首相官邸にホイットニー准将とケーディス大佐が・・・
ケーディス:
ワシントンの極東委員会で憲法修正案が論議され、その席上ソビエト側からの注文がついた。
その注文というのは「首相及び国務大臣は全てシビリアンでなければならない」との条文が欠落している、と。
金森(憲法担当大臣):
いまさらいわれても困るね。
すでに衆議院を通過したんだから!
ケーディス:
貴族院での修正は?
金森:
そう簡単にはいきませんよ。
ケーディス:
憲法を変えるわけではない。
シビリアン条項を加えるだけだ。
極東委員会に要請は尊重しなければ!
金森:
ソビエトがそんなにこだわる理由は?
ケーディス:
将来日本が再軍備しても、シビリアン条項があれば、軍部を支配できるからだ。
入江俊郎(法制局長官):
再軍備?しかし日本は戦争を放棄したんですよ。
ホイットニー:
それについて中国の代表から重大な指摘があった。
修正案の9条で使われている言葉で…
「前項の目的を達するために」
という文言がある。
つまり第1項の目的以外の目的ならば、再軍備が可能との解釈が成り立つ。
入江:
それは誤解です。
ホイットニー:
誤解を招くような言葉があってはならない。
中国代表はさらにこういっている。
もし日本が軍隊を持っても日本はそれを軍隊といわず、戦争をしても戦争とはいわないだろう。
◇
金森:
いやあ、驚きましたね。
日本の議員でさえ気づかないのに‥‥
中国は実に鋭いですね!
入江:
それはそうでしょう。散々侵略を受けた国ですから。
吉田:
シビリアン・コントロールは受け入れざるをえないな。
佐藤達夫(法制局次長):
シビリアンに訳語は日本語に見あたりませんが。
入江:
武官でなければ、文官でしょう。
金森:
イヤイヤ 武官が存在しないのに、文官というのは変だ。
佐藤:
そうすると、文民ですか。
入江:
文民ね・・・
なるほど。
吉田:
それでいこう。
シビリアン・コントロールなら文民統制でいいじゃないか。
入江:
かしこまりました。
金森:
第9条はどうするのですか。
前項の目的を達するため・・・
吉田:
そのままでいい。
入江:
そうですね。
文民条項を入れるわけですから。
金森:
また作業が遅れそうだな。
吉田:
(憲法の)公布は11月3日でどうだ。
金森:
明治節(明治天皇誕生日)ですな。
吉田:
そう、明治節だ!!! あっはっはっ!
◇
1946年11月3日 日本国憲法公布 新憲法公布記念祝賀都民大会
宮沢東大教授:
これは人類の理想を掲げた憲法です。
世界で一番優れた憲法だと思っていいでしょう。
日本は一切の戦争を放棄しました。
兵隊も鉄砲も軍艦も持たないと宣言したのです。
わたくしは、誇りもってこれを平和憲法と名づけたいのです。
記者:
そのー!国体についてですが。
変革したとお考えでしょうか?
宮沢:
当然です。
主権が国民に移ったのですからね。
わたしは、去年8月15日に革命が起きたんだと解釈しています。
もっともこの革命は国民が起こしたのでなく、ポツダム宣言の受諾という外圧によるものではありましたが・・・
◇
1947年1月4日
入江:
マッカーサーはこういっています。
本年5月3日の憲法施行後、初年度と2年度の間で日本国民はもう一度憲法を改正してよろしい。
金森:
ふ~ん
芦田:
どういう意味ですかね。
金森:
自己弁護ではありませんか?
占領軍の押し付けでないことを印象付けるための!
入江:
総理、返事はどう書きますか?
吉田:
おおきなお世話だ!
入江:
はあっ?
吉田:
おおきなお世話だと、書きなさい!!!
(了)
上記の迫真のやり取りは、日本国憲法制定の過程を描いたNHKのノンフィクション・ドラマを再現したものである。
このドラマは、1995年9月、衆議院帝国憲法改正案委員小委員会(通称:芦田均小委員会)の秘密議事録が50年ぶりに公開されたことをきっかけに企画され、翌1996年の日本国憲法制定50周年記念として製作された。
脚本は、ジェームス三木氏。
三木氏は、基本部分は史実に忠実に、そしてテレビに要求される臨場感あふれる場面を再現するために、部分的にフィクションを入れたと言う。
つまり、核心的部分は事実である、ということだ。
なお、三木氏は、後日「憲法はまだか」という長編小説を書いている。
この3月5日、三木氏は、この「憲法はまだか」という長編小説に関して毎日新聞のインタビューを受けている。
「戦後60年の原点:その時、子どもだった」という記事だ。
この中で、三木氏は、現憲法を支持していること、軍隊をあまり信用していないことなどを明らかにしている。
つまり、上記ドラマの脚本は、「憲法擁護派」によって書かれたものである。
■憲法はまだか
2006/03/28
◆憲法はまだか
(NHK土曜ドラマ=1部:1996年11月30日・2部:12月7日放送)
1946年2月13日 首相官邸
松本蒸冶(憲法担当大臣):
ご報告を申し上げます。
本日午前10時より外相官邸にて、総司令部のホイットニー民生局長ほか3人(ハーバード大学出身の弁護士資格を持つ)と会談をいたしました。
幣原喜重郎(総理):
ご苦労さんでした。どうぞ!
首尾はいかがでした!
松本:
それが奇妙奇天烈(きてれつ=非常に不思議なさま。珍妙なさま)な話になりまして。
幣原:
奇妙奇天烈…?
松本:
結論から申し上げますと、マッカーサーはわれわれが提出した憲法改正案を受諾できないそうです。
幣原:
ほう~
やはり11条の軍規定が気に入らんのですか?
松本:
いや、そういう問題ではありません。
全面的に拒絶されたのです。
いや、拒絶したばかりではなく、驚いたことに、奴さんたち民生局で作った別案を持ってきました。
幣原:
別案を?
松本:
これがそうです。
われわれの政府案は要綱のみでしたが、向こうのは長ったらしく、憲法そのものを書いてきたのです。
幣原:
受け取ったのですか?
松本:
受け取らざるをえないじゃないか!
幣原:
序文が付いているんですか!
吉田茂(外務大臣):
そこは飛ばして、まず第1条をお読み下さい。
幣原:
The Emperor shall be the symbol of the State and of the Unity of the People,
楢橋渡(内閣書記官長):
symbol
幣原:
deriving his position from the sovereign will of the People, and from no other source.
(天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く)
松本:
一体、総司令部は何を考えているでしょうかね。
もっともホイットニーは、これを日本側に押し付けるつもりはないと、いいましたがね。
幣原:
詳しく話してください!
松本:
まあ、要するに強制はしない、強制はしないけれど、マッカーサー元帥は、アメリカ国内の、また他の国の強烈な反対を押し切って、天皇陛下を擁護するために苦心をかさねておると。
このGHQの憲法案の範囲であれば、なんとか、天皇陛下のご安泰を図れるであろうと。
幣原:
・・・
吉田:
総理、第8条はいかがですか!
幣原:
War as a sovereign right of the nation is abolished.
幣原:
abolished(放棄).
The threat or use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any other nation.
(武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する)
楢橋:
戦争の放棄ですか!
松本:
まあ、いずれにしても、これを丸ごと受け入れる義務はないでしょう。
日本の憲法は日本人の手でつくるべきなんですから。
幣原:
それは私も同感です。
楢橋:
しかし、GHQは日本政府案を受け付けないといっているのでしょう。
松本:
だから!さっそく終戦連絡局の白州次郎君を総司令部に派遣して、交渉にあたらせているんだ。
政府案とGHQと根本的な相違はないということをだな。
吉田:
しかしホイットニーは強硬でしたよ。
マッカーサー元帥は、このGHQの案が日本政府の案として発表されることを強く望んでいると。
松本:
冗談じゃない。
そんなみっともないまねできるもんかね。
吉田:
もしそれができないなら、マッカーサー元帥自身の手で、日本国民に発表することになるであろう。
松本:
恥をかきますよGHQは。
こんな途方もない憲法みたことがない。
まるで共産主義の作文ですよ…
とにかく憲法の何たるかをしらないんですな!
一院制になったら、困りますよ。
総理も私も吉田君も選挙に出なければならなくなる。
幣原:
吉田さん。この文章を知っているのは誰と誰ですか?
吉田:
ここにいる4人(松本・幣原・吉田・楢橋)と、白洲次郎君、
それに通訳の長谷川君だけで…
幣原:
定例閣議まで秘密にして置いてください。
トップシークレットです。
吉田:
はあ
◇
白州次郎(終戦連絡事務局次長):
けんもほろろです。
取り付く島 もありません!
松本:
われわれの立場はどうなるんだ。
憲法問題調査委員会の面目は丸つぶれじゃないか。
白州:
GHQ案は日本政府に最大のプレゼントだそうです。
善意と友愛に満ちたこの案を飲めないのなら内閣を総辞職すべきだ。
そこまでいわれました。
松本:
メイドインUSAの憲法案なんか飲めるわけがないだろう!
他人の褌(ふんどし=男子の陰部をおおう布)で相撲を取れというのか。
楢橋:
それにしてもGHQはいつの間に憲法なんか…
松本:
計画的なんだよ、最初から政府案を蹴るつもりだったんだ。
白州:
いや、そうじゃありません。
ケーディス大佐に聞いた話しなんですが。あの憲法案は民生局のメンバーがたった1週間でまとめ上げたそうです。
◇
GHQ民生局(GS)は、ニューディーラーで弁護士出身のホィットニー局長とケーディス次長に率いられ、占領初期の民主化政策を推進担当し、占領初期の日本民主化に大いに貢献した。
1933年以降、米国大統領F・ルーズベルトが大恐慌による不況の克服を目的として農業調整法(AAA)・全国産業復興法(NIRA)・社会保障法などを制定・施行し、テネシー渓谷開発事業(TVA)などを実施した。
この一連の社会経済政策をニューディール(New Deal=「新規まき直し」の意味)といい、ルーズベルトの下でこのニューディール政策を立案・執行した人々をニューディーラーという。
◇
松本:
1週間!
楢橋:
まさか!
白州:
マッカーサーからの作戦命令が出たのが2月3日、作業を開始したのが2月4日だといわれました。
◇
白州次郎(終戦連絡事務局次長):
この政府案は、閣議を経てませんので、決定案ではありません。
松本国務大臣によるあくまでも私案の段階です。
ホイットニー:
英語でなないようだが?
白州:
翻訳が間に合いませんでした。
ケーディス:
では、いますぐ翻訳しましょう。
松本蒸冶(憲法担当大臣):
この場で?
ケーディス:
そうです!皆さんお掛けしてください。
◇
ケーディス:
ミスターサトウ!前文がついていませんね。
佐藤達夫(法制局次長):
必要ですか?
ケーディス:
当然です。
憲法の精神を述べた前文の削除は論外だ。
松本:
待ってください。
ケーディス:
前文に関しては一言一句の変更も許されん!
松本:
前文をつけるならば、天皇のお言葉にしなければなりません。
ケーディス:
なぜですか?これは民主憲法ですよ!
◇
ケーディス:
「天皇ハ日本国民ノ至高ノ総意ニ基キ」
となっていますが、われわれの原文にある、
「それ以外のなにものにも基づくものではない」
これもカットされていますね!
松本:
憲法の文章は簡略なほどよろしい。
くどくど書くものではありません。
ケーディス:
あなた方には誠意がない!
われわれをだます気だ!
松本:
そんなことはない!
ケーディス:
内閣の“ホヒツ”とはどういうことか?
原文では「“助言と同意”の下に」と、なっているはずだ!
松本:
日本語の“輔弼”は同意語です。
ケーディス:
認められん!
松本:
日本語まで変えるつもりですか?
ケーディス:
聞き捨てならない!
松本:
あなたこそ失礼ではないか!
◇
ケーディス:
だめだ!
日本国民では外国人が除外されてしまう!
すべてのナチュラルパーソンは、人種、信条、性別、階級にかかわらず法の下に平等である。
佐藤:
ナチュラルパーソンにあたる適切な言葉は日本語にはありません。
ケーディス:
まさか!
憲法の精神を翻訳によって曲げることは許さん!
◇
1946年3月7日、政府憲法草案要綱を発表
マッカーサー全面支持
1946年7月17日 首相官邸
GHQ民政局のケーディス大佐が首相官邸へ
GHQの文書=憲法草案の日本文と英文の相違について、日本語訳は主権、
すなわちsovereign willを、
至高に変えてしまっている。
しかし、至高は法律的な意味において、
なんら主権の概念を伝えていない。
至高=
この上もなく高くすぐれていること。
最高(大辞林)
◇
ケーディス大佐:
ミスター金森、国会の答弁では、国体、および天皇の地位についてどのような説明を?
金森(憲法担当大臣):
国体とは、“国民国家の特質”であり、
“政治の形態”ではないと、そう説明しました。
ケーディス:
なんですと!
金森:
この憲法で“政治の形態”は変わります。
だが、“国民国家の特質”は変わりません。
ケーディス:
意味が良くわからない。
文書で書いて提出してください。
金森:
そうします。
ケーディス:
主権の所在について日本文の表現は、不明確だ。
前文もしくは条文で、主権が国民にあることを明示しなさい。
金森:
明示してあります。
ケーディス:
していない。
意図的に内容を歪曲しているとしか思えん!
金森:
それは誤解です。
ケーディス:
“国民の総意が至高”とはどういうことなのか。
主権が国家にあるともとれる一方で、天皇、内閣、国会、裁判所に分属するようにもとれる。
または、それらの国家機関も共有であるともとれる。
何通りもの解釈ができるような表現は一種の欺瞞だ。
主権が国民にあることを明文化しなさい!
金森:
・・・
◇
(首相らとの協議)
金森:
ケーディス大佐は聞きしに勝る頑固者ですな…
こっちも負けずに言ってやりましたがね。
議会の答弁はあれでいいと、私は信じている。どうしてもというのなら私は大臣を辞めるしかない。
いっそのこそ公職追放の対象にしたらどうですと!
芦田(憲法改正特別委員会委員長):
GHQも必死なんでしょう。
極東委員会の手前ね。
吉田(首相):
まるでジャンケンみたいなものだ!
芦田:
ジャンケン?
吉田:
日本はGHQに弱い。
GHQは極東委員会に弱い。
極東委員会は日本の復讐を恐れている。
芦田:
なるほど。
金森:
いかがいたしましょうか。
このままでは決着のつけようがありません。
芦田:
主権でいいじゃないですか。
sovereign willは主権ですよ。
至高という言葉は幣原さんがひねり出したたんです。
金森:
しかし、政府案担当者としては、いまさら手のひらを返すように主権でございますとは、いえませんね。
吉田:
自由党に提案させましょう。
金森:
自由党にですか?
吉田:
社会党や共産党を出し抜いて先手を打つんです。
与党の提案ということなら不名誉にはなりません。
芦田:名案ですな。
◇
(国会での答弁)
金森:
政府としましては、総司令部の指摘に対し、相当長く抵抗してまいりましたが、結局のところ衆議院の議決により主権と改めざるをえなくなりました。国際社会の目を尊重する意味であえて露骨な表現をとるに至りましたが、至高と主権とはおそらく同じ意味であり、文字が変わっただけであるとご理解下さい。
◇
1946年8月24日 芦田小委員会修正案衆議院可決
9月23日午前、首相官邸にホイットニー准将とケーディス大佐が・・・
ケーディス:
ワシントンの極東委員会で憲法修正案が論議され、その席上ソビエト側からの注文がついた。
その注文というのは「首相及び国務大臣は全てシビリアンでなければならない」との条文が欠落している、と。
金森(憲法担当大臣):
いまさらいわれても困るね。
すでに衆議院を通過したんだから!
ケーディス:
貴族院での修正は?
金森:
そう簡単にはいきませんよ。
ケーディス:
憲法を変えるわけではない。
シビリアン条項を加えるだけだ。
極東委員会に要請は尊重しなければ!
金森:
ソビエトがそんなにこだわる理由は?
ケーディス:
将来日本が再軍備しても、シビリアン条項があれば、軍部を支配できるからだ。
入江俊郎(法制局長官):
再軍備?しかし日本は戦争を放棄したんですよ。
ホイットニー:
それについて中国の代表から重大な指摘があった。
修正案の9条で使われている言葉で…
「前項の目的を達するために」
という文言がある。
つまり第1項の目的以外の目的ならば、再軍備が可能との解釈が成り立つ。
入江:
それは誤解です。
ホイットニー:
誤解を招くような言葉があってはならない。
中国代表はさらにこういっている。
もし日本が軍隊を持っても日本はそれを軍隊といわず、戦争をしても戦争とはいわないだろう。
◇
金森:
いやあ、驚きましたね。
日本の議員でさえ気づかないのに‥‥
中国は実に鋭いですね!
入江:
それはそうでしょう。散々侵略を受けた国ですから。
吉田:
シビリアン・コントロールは受け入れざるをえないな。
佐藤達夫(法制局次長):
シビリアンに訳語は日本語に見あたりませんが。
入江:
武官でなければ、文官でしょう。
金森:
イヤイヤ 武官が存在しないのに、文官というのは変だ。
佐藤:
そうすると、文民ですか。
入江:
文民ね・・・
なるほど。
吉田:
それでいこう。
シビリアン・コントロールなら文民統制でいいじゃないか。
入江:
かしこまりました。
金森:
第9条はどうするのですか。
前項の目的を達するため・・・
吉田:
そのままでいい。
入江:
そうですね。
文民条項を入れるわけですから。
金森:
また作業が遅れそうだな。
吉田:
(憲法の)公布は11月3日でどうだ。
金森:
明治節(明治天皇誕生日)ですな。
吉田:
そう、明治節だ!!! あっはっはっ!
◇
1946年11月3日 日本国憲法公布 新憲法公布記念祝賀都民大会
宮沢東大教授:
これは人類の理想を掲げた憲法です。
世界で一番優れた憲法だと思っていいでしょう。
日本は一切の戦争を放棄しました。
兵隊も鉄砲も軍艦も持たないと宣言したのです。
わたくしは、誇りもってこれを平和憲法と名づけたいのです。
記者:
そのー!国体についてですが。
変革したとお考えでしょうか?
宮沢:
当然です。
主権が国民に移ったのですからね。
わたしは、去年8月15日に革命が起きたんだと解釈しています。
もっともこの革命は国民が起こしたのでなく、ポツダム宣言の受諾という外圧によるものではありましたが・・・
◇
1947年1月4日
入江:
マッカーサーはこういっています。
本年5月3日の憲法施行後、初年度と2年度の間で日本国民はもう一度憲法を改正してよろしい。
金森:
ふ~ん
芦田:
どういう意味ですかね。
金森:
自己弁護ではありませんか?
占領軍の押し付けでないことを印象付けるための!
入江:
総理、返事はどう書きますか?
吉田:
おおきなお世話だ!
入江:
はあっ?
吉田:
おおきなお世話だと、書きなさい!!!
(了)
上記の迫真のやり取りは、日本国憲法制定の過程を描いたNHKのノンフィクション・ドラマを再現したものである。
このドラマは、1995年9月、衆議院帝国憲法改正案委員小委員会(通称:芦田均小委員会)の秘密議事録が50年ぶりに公開されたことをきっかけに企画され、翌1996年の日本国憲法制定50周年記念として製作された。
脚本は、ジェームス三木氏。
三木氏は、基本部分は史実に忠実に、そしてテレビに要求される臨場感あふれる場面を再現するために、部分的にフィクションを入れたと言う。
つまり、核心的部分は事実である、ということだ。
なお、三木氏は、後日「憲法はまだか」という長編小説を書いている。
この3月5日、三木氏は、この「憲法はまだか」という長編小説に関して毎日新聞のインタビューを受けている。
「戦後60年の原点:その時、子どもだった」という記事だ。
この中で、三木氏は、現憲法を支持していること、軍隊をあまり信用していないことなどを明らかにしている。
つまり、上記ドラマの脚本は、「憲法擁護派」によって書かれたものである。
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終戦ジェノサイド/アメリカにある慰安婦石碑にキノコ雲をラクガキしよう
転載元 翻訳だだだ!
■「お前らの国では日本への原爆投下についてどう考えられてるの?」海外の反応
2012年09月27日
How do you and your nation (in general) think of the subject of the atomic bombs dropped on Japan?
●posted by Anonymous(アメリカ)
お前ら自身やお前らの国(一般論で)は日本に対する原爆投下についてどう考えてるの?
「アメリカでは、驚くことじゃないけど人々の受け入れ方はさまざま。
パールハーバーの報いだという愛国者様がいれば、原爆投下は人類史上他に類を見ない戦争犯罪だと大げさに同情してみせるやつらもいる。
俺としてはその両方とも無知なものの見方だなと思う。
他にほとんど選択肢がなかったんだから、原爆投下自体はまぁいい選択肢だろう。
英国とアメリカがドイツの市民街を爆撃していたように、アメリカは日本の市民街も容赦なく爆撃していたが、こういう爆撃のほうがもっと多くの人間を殺した。
その事実が俺が、原爆投下だけにスポットライトを当てる連中の意見を馬鹿らしくて見当違いだと思うメインの理由だ。
それに原爆が投下された後でさえも日本の最高司令部自体は降伏したがらなかった。
彼らは原爆を単なる大きな爆弾だとみなして、アメリカはすぐに爆弾を使い果たしてしまうだろうと見込んでいた。
彼らは戦争に勝てないとはわかってたけど、占領されずに降伏することは可能だと信じていたんだ。
もし原爆が天皇に将軍たちの権限を取り下げさせられなかったら、戦争はもっと長く続いていただろう。
ちなみに現代の日本は最高だと思うけどね 。
●posted by Anonymous(アメリカ)
戦争犯罪ではないし、申し訳ないとも思わない。
たぶん原爆で失われた命よりも、原爆で救われた命のほうが多いだろう。
さらに言うなら二発目の原爆に関しては俺たちは警告していた。
向こうの政府は助けられる命を助けることを拒否したんだよ
●
posted by Anonymous(ボスニア)
あれは糞ったれな行為だった。
●posted by Anonymous(カナダ)
70年代からの歴史家の一般的な意見は、原爆は必要なかったというものだね。
日本はソヴィエトが満州に全面侵攻するころには降伏していただろう。
アメリカは無条件降伏をさせたくて、日本は君主制を維持させる条件付き降伏にしてほしかった。
アメリカは無条件降伏をさせるために原爆を使ったんだ。
あとたぶん、ソヴィエトに脅威を与えるためにね。
必要だったか? いいや。
戦争犯罪か? そうかもね。
●posted by Anonymous(ブラジル)
日本人が先に攻撃して、アメリカは反撃した。
別に何かが悪いとか間違っているとか言いたいわけじゃない、単にそれが起こるべくして起こったことだと思ってるだけ。
戦勝国側にいたブラジルとしては、いいことだと思ってるよ。
あのいかれた奴らがリオデジャネイロを爆撃していたかもしれないことを考えるとね。
●posted by Anonymous(アルゼンチン)
アメリカ人によると彼らは今まで何にも悪いことをしてこなかったようだな…まったく何もね。
ナショナリズムってのは本当に客観性を失わせるね。
広島と長崎への原爆投下は世界的に大虐殺だと見られているよ。
アメリカの歴史で長いこと行われてきた多くの虐殺と同じようにね。
●posted by Anonymous(フィンランド)
大抵の人は原爆投下はひどいことだったと思うと思うけど、それが多くの人の命を救ったということには同意すると思う。
もっとひどいことになりえたとね。
●posted by Anonymous(メキシコ)
アメリカは日本を支配するために無条件降伏がほしかった。そして日本を他の国に分けずに自国だけのものにしたかった。
アメリカにとっては正しいことだったんだろう。
(帝国主義的な考えで言うと。)
●posted by Anonymous(ポーランド)
もし日本が原爆を持っていたら、アメリカと同じ事を何の躊躇もせずにやっていただろう。
彼らはナチ野郎だったし、たぶん二発だけで止めなかっただろう。
●posted by Anonymous(アメリカ)
どうでもいいだろ。
やらなかったらアジア人がもっと死んでただけ。
●posted by Anonymous(アメリカ)
必要不可欠かどうだったか俺にはわからん。
でもやらないよりはましだったと思うし、おかげで原爆の本当の危険性がわかるようになった。
もしあの時に原爆を使っていなかったら、幾年ヵ後にロシアに向けて使っていたかもしれないし、その時ロシアが原爆を撃ち返せる状態にあったらもっと最悪な状況になっていただろう。
●posted by Anonymous(スウェーデン)
>原爆を投下することで他国を救える。
さすがアメ公の論理…。
でも、日本がアジアや太平洋でやったことに対してあれが当然の報いだったいうことには同意する。
●posted by Anonymous(アメリカ)
戦争を終わらせる最高の手段だったね。
●posted by Anonymous(ペルー)
アメリカは原爆を投下するべきじゃなかった。
ソヴィエトが大日本帝国を無茶苦茶にしていたほうが面白かったはず。
●posted by Anonymous(アメリカ)
お前ら、原爆投下の決定はアメリカだけじゃなくて連合国全体で決められたものだったということはもちろん知っているよな?
●posted by Anonymous(アメリカ)
人道的見地から見るともちろん、爆撃はひどいことだった。
しかし現実的に見ると、当時としては良い選択肢だったろう。
トルーマンは原爆がアメリカ人の死傷者を最小限に食い止めるであろう戦争終結方法だと知っていたし、彼の仕事はアメリカ人を守ることだった。
太平洋戦争を起こした国の人間を守ることではなかった。
そしてそれだけじゃなく、アメリカはロシアが日本を侵略する前に、早急に日本を占領して戦争を終わらせなければならなかった。
そして日本を占領できたおかげで、アメリカは同盟国を作ることができ、ロシアとアメリカの間に戦争の緩衝地帯を作ることができた。
人命が危機にあるときは時間がもっとも大切だ。
アメリカは彼らに出来る最高のことをやったと思うよ。
●posted by Anonymous(フィンランド)
いやでも正直、俺は原爆投下は結局みんなにとって良かったことだと思うな。
戦争を続けるのは全ての側にとってストレスが強すぎただろう。
日本がアメリカに対価を支払うはめになったとはいえさ。
世界も原爆の「効果てきめんっぷり」を見せられてから、もっと平和で注意深くなったし。
もちろん原爆は戦争で起こった酷い悲劇のひとつだけどね。
■原爆投下は正しい選択だったのか
タカジンの『そこまで言って委員会』(8月8日)
加藤清隆:
実は私、20年ほど前に、新聞特派員やってた時に、エノラゲイの機長がまだ生きてて、記者会見に私も出たんですよ。
その時、彼が言うのは自分は原爆を落とさなければ、さらにもっと多くの人が死んでいた。
私は原爆を落としたことを誇りに思う、って言うんだけど、その中で彼が言う『多くの人』っていうのは、アメリカの軍人のことなんですよ。
100万人救ったって言うんですよ、エノラゲイに乗ってた彼らは。
日本人が何百人死のうが、彼らにとっては虫けらだから…
僕は被爆者2世だから、とくに怒って言うけども、長崎にせよ広島にせよ、その他、小倉、新潟、京都…その効果を調べるために通常爆撃をさせなかったんですよ。
原爆の効果を見たいから。
しかも、ウラン型とプルトニウム型という二つの違う原爆を落として、効果を調べて、という実験をして…
で、戦後はABCCという病院もどきのようなものをつくって、被爆者の研究調査をして、その効果を調べてる。
人道上、こんなの許されないですよ。
竹田恒泰:
アメリカの兵隊の命を守るため、というのは、これ、大統領自らの言葉ですからね。
トルーマン大統領が公式に、原爆投下直後にラジオ放送で言ってるんですけども、
投下の理由として、まず日本の戦争犯罪を糾弾してそういう相手に使ったのだ、ということと、これによってアメリカの若者の命が救われると。
「日本人の命」なんて一言も言ってない。
「早く戦争を終わらすことで日本人の命を救った」、という方をする人もいますけども、アメリカの公式見解は、日本人の命は虫けら同然で、「アメリカ人の命を救ったのだ」と。
ここがポイントなんです。
宮崎哲弥:
少し違うニュアンスで言ったのが、オバマ大統領。
この人は国際的演説で、「唯一の核兵器使用国としての責任」と。
この原爆投下の責任を公式に初めて言及した大統領ですよ。
その限りにおいては、一定の評価はしていいと思う。
口先だけでノーベル賞もらったとか、言うけど(笑)、言わないよりいったほうがマシですよ。
これ、アメリカの教育のなかでどういうふうに語られてるかというと、「100万人の米兵を救った」と…
それとこの原爆投下というのは、都市空爆というものの集大成なんです。
ドイツに対しても、日本に対しても、途中までは空爆の必要性ってあったし、実際、それは軍事基地に対してのものだった。
それがある時期から、『虐殺』に転じるんです。
大空襲という、明らかな虐殺。
これに対する道徳的責任、人道的責任を、戦勝国…連合国は取っていない。
そのやましさがあるから最後の最後まで、あの原爆は正しかったなんて、最後の最後まで言い募らなきゃいけないんだよ。
竹田:
もし、東京裁判が平等なものであったら、一番大きな罪に問われるのはトルーマン大統領ですよ。
だって200万人の日本の民間人を焼き殺したんですから。
これはヒトラーがやってることと、まったく一緒なんですよ。
宮崎:
そもそも非戦闘員を一方的に殺害してはいけないというのは戦時国際法の常識ですよ!
竹田:
これ、終戦の直前だったんですけども、ルーズベルト大統領が死んで、トルーマンが大統領になったんですよ。
選挙で選ばれた人じゃない副大統領が、急に大統領に格上げされた。
当時、原爆開発計画…マンハッタン計画というんですが、これに莫大な国家予算がつぎ込まれてた。
極秘中の極秘事項で、トルーマンも大統領に就任するまで計画の存在すら知らされてなかった。
それをポッと出てきた新しい大統領が途中で止めれるわけがない。
だから、あそこでルーズベルトが急に亡くなったっていうのも悲劇的だった。
マンハッタンで原爆を開発してたのはユダヤ人だったんですよ。
彼らは、にっくきドイツに落とす為につくってたんです。
で、出来た時に、ドイツは降伏しちゃったんですよ。
加藤
歴史的のホントにもったいなかったって思うのは、原爆を3発、インデアナポリスっていう巡洋艦に載せて、テニアン島まで運ぶ、そこからB29に乗せて日本に爆撃に出るんですが、なんとインデアナはその帰りに日本の潜水艦に撃沈されるんです。
その前に撃沈してれば、日本に原爆は落とされなかった。
広島にも長崎にも同じような碑があるんですが、そこには「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませんから」と書いてある。
これって、我われ日本人がそう言ってるみたいに書かれてるんだけど、原爆を落としたのはどこの国なのか…
戦後教育で、原爆落とされてもしょうがないんだって教育されてますから、みんなその碑を見て「そうなんだ」って思ってるけど、そんなことないでしょ!
こっちは原爆の被害者で、加害者はアメリカなんだから。
戦時中であっても、明らかに国際法で違反してることやられたんですから。
竹田:
実は、日本政府は広島に原爆が落とされた2日後に、アメリカ政府に公式に抗議してるんです。
どういう内容かというと、
「生物兵器とか、そういう非人道的な兵器というのを使うなと、高らかに言っていたのはアメリカじゃないか」と。
そのアメリカ自身がかの生物兵器をはるかに凌ぐ、悲惨で残虐な大量殺戮兵器を日本の投下した。
これは人類に対する罪であると。
人類の名においてアメリカ政府の罪を糾弾する、という立派な抗議文書を送ってるんですよ。
このことはあまり語られてない。
戦後の日本政府は、日本が悪いから落とされた、になった。
転載元 依存症の独り言
■残忍な人たち
2005/08/06
60年前の今日、広島に原爆が投下された。
死者は約14万~15万人とされる。
私は米国を、日本のかけがえのない同盟国だと思っている。
しかし、毎年8月がくると怒りがこみ上げてくる。
これは、もう理性を超越した、日本人としての血がなせる業だと思う。
やはり、今日は、原爆と米軍の話を書かずにはいられない。
私は、広島の平和記念公園を二度訪れたことがある。
もちろん、原爆死没者慰霊碑に首(こうべ)を垂れ、祈りを捧げた。
そのときは、「過ちは繰り返しませぬから」という碑文の文言には、何の抵抗もなかった。
しかし、今日、その碑文を読み直して強い違和感を覚えた。
原爆投下という過ちを犯したのは米国である。なのに「過ちは繰り返しませぬから」とは・・・
おそらく、この慰霊碑が建立された頃は、日本の誤った戦争が原爆の悲劇をもたらしたという認識が、我が国民に強かったということであろう。
当時の私も、何の抵抗も感じなかったのだから・・・
広島に原爆が投下されたことに対して、我が国及び我が国民に非は一切ない。
史上最大級の戦争犯罪を犯したのは米国である。
したがって、原爆被害に遭われた方々に対して、「過ちは繰り返しませぬから」などと言うのはもう止めにしたい。
「原爆の悲惨さは永遠に忘れません。
皆様の筆舌に尽くしがたい苦痛と無念を心の奥底に深く刻み込みます」
と誓いたい。
読者の皆さんの中には、米軍は紳士的だったと思われている方もおられるかもしれないが、とんでもない。
以下の記事は、週刊新潮8月11・18日夏季特大号に掲載された帝京大学教授・高山正之氏の連載コラム「変見自在」に、私の持つ知識を加味したものである。
映画「パールハーバー」の中の、日本の艦載機が病院を銃爆撃し、患者や看護婦がばたばた殺されていく場面を見て、石原東京都知事は「嘘が多すぎる」と言って怒った
そうである。
これは、明らかに米国の捏造である。
元JAL機長で、真珠湾攻撃にも参加した藤田怡与蔵氏は、
「米軍のパイロットならいざ知らず、日本軍はそんなことを思いつきもしない」
と言っている。
「米軍のパイロットならいざ知らず」とは、つまり米軍機は、非戦闘員や非軍事施設を狙うのが常だったということだ。
石原知事自身が「麦畑を走っていると米軍のP51がきて機銃掃射された」という。
また、知事は、二子玉川(東京)の床屋で、
「橋を渡って東京側に逃げる若い女性を米軍機が低空飛行で追跡し撃ち殺した。
パイロットの顔が地上からも見えた」
という話を聞いたとも語っている。
1942年東京に飛来したB25は、超低空で飛行し、必死で校舎に逃げ込もうとする国民学校高等科の14歳の少年を撃ち殺している。
高山正之氏によれば、米軍機が女子供を狙い撃ちした事例は数え切れないほどあるという。
要するに、彼らは狩猟感覚で日本の市民を撃ち殺していたということである。
米国は、日本の文化財に敬意を表して京都を爆撃しなかったというが、これも真っ赤な嘘である。
原爆の投下候補地は、
①直径3マイルを超える都市
②有効な損害を与えられる地形を持つ都市
③通常爆弾による爆撃を実施していない都市
であった。
これに適うのが京都、小倉、新潟、広島、長崎で、中でも盆地状の京都市街は申し分なかった。
したがって、本土爆撃が始まってからも京都爆撃は一切行われなかった。
最終段階で、京都は第一候補からはずされたが、「日本の文化財に敬意を表したから京都を爆撃しなかった」というのは嘘なのである。
広島も爆撃されなかったし、小倉、新潟、長崎も、他の大都市に比べればほとんど無傷だった。
ちなみに、長崎は第二候補だった。
広島とともに第一候補にされた小倉上空が曇りであったために、長崎が標的になったのである。
一方において、東京や大阪は、一面焼け野原となるほどの爆撃を受けた。
特に、1945年(昭和20年)3月の東京大空襲は、1日で死者10万人以上を出す地獄を生み出した。
1機平均6トン以上の焼夷弾を搭載した344機のB29が、低空飛行で東京の下町を襲ったのである。
約100万発(2000トン)もの焼夷弾が無差別に投下されたのだ!
しかも、先発部隊が江東区・墨田区・台東区にまたがる40k㎡の周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁を作っていた。
火の壁で市民の逃げ道を断ち、猛火の中に閉じ込めた状態での凶行だった。
(怒りで頭痛がしてきた・・・)
要は、ジェノサイドだったのだ!!!!!!
逃げ惑う市民には超低空飛行のB29から機銃掃射が浴びせられ、なんとか隅田川に逃げ延びた人たちも、川面をなめるように駆け抜けた焼夷弾の炎で焼き殺された。
幼子を背負ったまま焼かれた母親の背は白い、そして子供は・・・
/浅草・花川戸
涙が止まらない・・・私だけだろうか?
■東京大空襲の悲惨を忘れてはならない
2006/03/10
1945年(昭和20年)3月10日の米軍による東京大空襲は、1日で死者10万人以上を出す地獄を生み出した。
1機平均6トン以上の焼夷弾を搭載した344機のB29が、低空飛行で東京の下町を襲ったのである。
約100万発(2000トン)もの焼夷弾が無差別に投下された。
米軍はまず、先発部隊が江東区・墨田区・台東区にまたがる40k㎡の周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁を作った。
これは、火の壁を作ることで市民の逃げ道を断ち、猛火の中に閉じ込めることが目的だった。
そして、火の壁の中に閉じ込められた状態の何十万人もの人々の頭上に焼夷弾を雨あられと投下した。
つまり、東京大空襲は、あらかじめ予定された区域内にいる人間を全て焼き殺すように綿密に計画された無差別集団殺戮(さつりく)だったのである。
普通であれば、電力、水道、通信施設などのインフラや工場などの生産設備を破壊して、相手国の継戦能力を殺ぐ。
したがって、通常は高性能爆弾を使う。
これなら、市民=非戦闘員の被害は少なくてすむ。
しかし、米軍は爆弾ではなく高性能焼夷弾を使った。
しかも、工場が密集した地域ではなく、一般市民が密集して暮らす住宅街を狙った。
焼夷弾で一般市民を焼き殺すために。
これは、世界史に残る残虐行為であり、彼らが極東国際軍事裁判で裁いた「人道に反する罪」以外の何ものでもない。
炎から逃げ惑う市民には超低空飛行のB29から機銃掃射が浴びせられ、なんとか隅田川に逃げ延びた人たちも、川面(かわも)をなめるように駆け抜けた焼夷弾の炎で焼き殺された。
我が国が無条件降伏をした後に進駐してきた米兵の蛮行ぶりも凄まじい。
米軍が最初に進駐した神奈川県では、一ヶ月に何と2千件もの「大きい男」による婦女暴行事件が起きた。「大きい男」とは米兵のことである。連合国軍総司令部(GHQ)が、新聞検閲で米兵をそう表記するように命令したのだ。
米兵による婦女暴行事件の続発に驚愕したGHQは、既に日本政府から申し入れのあった、米兵のための「慰安所」を急ぎ用意させる。
GHQの意を受けた政府は、1945年8月26日、特殊慰安施設協会(RAA=Recreation and Amusement Assoiation)を設立。
大義名分は「良家の子女の防波堤」づくりであった。
翌27日、施設第1号として大森小町園が開設され、初日から米兵の乗ったジープが群がって行列を作った。
政府は、この日以降、東京に3カ月間で25カ所の施設を設置し、慰安婦は1600人に及んだ。
この慰安婦たちの大半は、焼けたり潰れたりした工場で働いていた、農村出身のうら若き女工たちだった。
本土空襲の指揮を取っていたカーティス・E・ルメイ少将は、明かに非戦闘員を狙ったとする批判に対して、戦後の回想録のなかで次の様に述べている。
「私は日本の民間人を殺したのではない。
日本の軍需工場を破壊していたのだ。
日本の都市の民家は全て軍需工場だった。
ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。
木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を
攻撃する武器の工場になっていたのだ。
これをやっつけて何が悪いのか」
これを、「こじつけ」、あるいは「強弁」、もしくは「責任転嫁」という。
まったく反省していないどころか、罪の意識のカケラも感じられない。
我々日本人(有色人種)を見下した態度は、傲岸不遜そのものである。
我が国と米国は今、政治、経済、軍事において密接な関係にある。米国は、かけがえのない同盟国である。
しかし、米国が我が国に対して犯した過去の戦争犯罪を忘れてはならない。
いまさら米国を声高に非難するつもりはないし、反米感情を煽る気もない。
仮に、そんなことをしても何のプラスもない。が、歴史の事実や相手を知った上で、初めて真の友好・同盟関係が生まれるのである。
エノラ・ゲイの機長は、90歳を越えた今も相変わらず、
「連合軍が本土上陸作戦を決行していたら、日本人や連合軍兵士の多くが犠牲になっていた」
として原爆投下を正当化している。
しかし、ジョン・F・ケネディ政権で国防長官だったロバート・マクナマラ氏は、
「勝ったから許されるのか?
私もルメイも戦争犯罪を行ったんだ」
と告白している。
マクナマラ氏は経営管理の理論を戦争に応用した。
攻撃効率を高めるために統計を
取り分析した。
彼の報告書を基にして日本に無差別絨毯爆撃が行われた。
つまり、マクナマラ氏は本音の部分では、自らの所業を「戦争犯罪」として後悔しているのだ。
ちなみに、彼の報告書を採用した上司は、後に東京大空襲を指揮し、広島・長崎に原爆を落とさせたカーティス・E・ルメイ少将だった。
エノラ・ゲイの機長もカーティス・E・ルメイ少将も、建前はともかく、本音の部分では反省しているのかもしれない。
が、自らの行為を公に否定することは彼らにはできない。
なぜなら、それは「米国の正義」を否定することになるからだ。
国際政治は冷酷非情である。
勝者は「善」で敗者は「悪」。
勝者は裁く側にあり、敗者は裁かれる側にある。
しかし、冷静に考えれば、戦争に「善」も「悪」もない。
近代史において、戦争はすべて「自衛のための戦争」であり、「侵略のための戦争」なんかない、当事者にとっては。
実際上、「自衛戦争」と「侵略戦争」を区別することなどできない。
列強は、我が国も含めて「国家政策の手段としての戦争」、
つまり侵略戦争を1928年の不戦条約によって放棄した。
が、その後も戦争が絶えることはなかった。
イラク戦争も、フセイン政権やイスラム原理主義の側から見れば、「米国による侵略戦争」であり、米国の側から見れば「フセイン政権の持つ大量破壊兵器(?)やテロリストから我が身を守るための自衛戦争」である。
そして、勝った側が「善」で、負けた側が「悪」になる。
戦争には、過ちもあれば、やむを得ないこともあれば、正当なこともある。
一方的に、どちらかが被害者で、どちらかが加害者というものではない。
加害者の面もあれば被害者の面もある。
その時々の時代背景によって避けられなかった戦争もあるし、戦場の狂気が生み出した悲劇もある。
そもそも戦争自体が残酷なものなのだ。
しかし、その本質的に残酷なものである戦争が、この世からなくなることはない。
政治・経済が国家を基本に成り立っている限り、利害が対立し摩擦が起こる。
この摩擦を話合いで解決できなければ、実力で決着をつけるしかない。
それは我が国にとっても例外ではない。
したがって、我が国にも、そのための準備と用意が必要なのである。
なお、ナチスのホロコーストは、戦争と直接的に結びつくものではない。
これは「戦争がもたらした悲劇」ではなく、ナチズムから導き出された「人類の惨禍」である。
■人体実験だった広島・長崎の原爆
2006/08/13
「後悔に1分たりとも時間を費やすな」
は米大統領だったトルーマンの言葉だ。
実際、戦後何百回もたずねられた「原爆投下」について少しも後悔の念を見せなかった。
難しい決断だったかと聞かれ
「とんでもない、こんな調子で決めた」
と指をパチンと
鳴らした。
▲
これは、毎日新聞の8月6日付【余録】で紹介されている第33代米国大統領、ハリー・S.トルーマンの逸話である。
つまり、「指パッチン」で日本に対する原爆投下を決めた。
後悔する必要なんて、これっぽっちもない、というわけだ。
が、「後悔に1分たりとも時間を費やすな」という言葉を吐かざるをえなかったというところに、この人物の深層が表れているような気がする。
実際、非公式な場所では、良心の呵責に苦しめられていることを周囲の人や身内の人たちに洩らしていたと言われる。
【余録】氏も次のように書いている。
「妻や妹への手紙、内輪の会話、日記では、女性や子供の被害へのおののきや後悔を示している。
(原爆の開発にかかわった)科学者らが自責の念を示すと、ひどく感情的に反発した」
やはり、大統領、そして国家に「過ち」はあってはならない、その思いが「後悔に1分たりとも時間を費やすな」という言葉と、「指パッチン」という態度につながったのだろう。
誤解してほしくないのは、当時の米国が戦争犯罪を犯したと断罪し、反米感情を煽ることが私の目的ではない。
なぜ広島や長崎に原爆が投下され、20万人以上もの命が一瞬にして奪われることになったのかの真実を知ってもらいたいのである。
したがって、私の立場は、先月の中旬に広島で開かれた「国際民衆法廷」とは明らかに違う。
「国際民衆法廷」は先月16日、原爆開発や投下に関与した米国のルーズベルト、トルーマン両元大統領や元軍人、科学者ら15人の「被告」を、国際法違反で「有罪」とする判決要旨を発表した。
また、米国政府に対し、被爆者や遺族への謝罪と賠償を求める「勧告」も盛り込んだ。
が、この法廷の「設立趣意書」を読むと、この「法廷」が、特定の思想的立場に立ったものであることが解る。
「設立趣意書」では
「私たちは、憲法第9条の精神を単に形式上だけ維持するのではなく、積極的に世界に向けて拡大・活用させていく義務と責任があります」
「原爆投下という大惨事を招いた当時の日本政府と昭和天皇にも被爆者の方々に対する責任の
一端があると私たちは考えます」
と書かれている。
これは、
「私は米国を、日本のかけがえのない同盟国だと思っている」
「広島に原爆が投下されたことに対して、我が国及び我が国民に非は一切ない」
という私の立場とは、対極にいる人たちの考え方だ。
ただ、この「国際民衆法廷」で明らかにされた「原爆投下に至る事実関係」には、米国政府が公開した「保存記録」に基づく記述が多く、参考にはなる。
米国の主張は、
「原爆の投下がなかったら戦争は続き、原爆の犠牲者以上の死者が
出たであろう」
というものだ。
原爆は、逆に多くの人命を救ったのだ、
だから原爆の投下は正しかったんだ・・・
これが、米国の論理である。
が、これは真っ赤なウソである。
米国の狙いは、実際に原爆を使用することによって、核実験だけでは得られない、その効果を検証することであった。
つまり、広島の原爆も長崎の原爆も「人体実験」だったわけである。
1945年7月26日、米・英・中の3国は、我が国に対して降伏を勧告する、13条から成るポツダム宣言を発した。
宣言の骨子は以下のとおりである。
《日本軍の無条件降伏 、及び日本国政府によるその保障(13条)
カイロ宣言 の履行(8条)
領土を本州、北海道、九州、四国及び諸小島に限定(8条)
戦争犯罪人 の処罰(10条)
日本を世界征服へと導いた勢力の除去(6条)》
特に13条の最後は、
「右以外の日本国の選択は迅速且(かつ)完全なる壊滅あるのみとす」
という「殲滅宣言」とも受け取れる言葉で結ばれている。
実は、このポツダム宣言と、それが成立する過程に、米国の日本に対する原爆投下の真実が隠されているのだ。
ポツダム宣言は、天皇制維持についてまったく言及していなかった。
そのために、我が国政府の内部では、この宣言をめぐって激論が交わされた。
が、出された結論は「宣言の黙殺」と「断固戦争完遂に邁進する」というものだった。
ところが、宣言の起草段階では、天皇制の維持が含まれていたのである(12条)。
にもかかわらずトルーマンが12条を書き換えさせたため、明確な天皇制の保証は姿を消した。残ったのは
「日本国国民の自由に表明せる意思に従い」
「政府が樹立せらるる」
という文句である。
我が国政府が後日、ポツダム宣言受諾を決定したとき、付けた条件が「天皇制の維持(国体の護持)」であったことを考えれば、12条を書き換えていなければ、我が国政府の最初の結論が違ったものになった可能性は高い。
もちろん、12条に「天皇制の維持」が含まれていたとしても、我が国が早い段階で宣言を受諾したか否かは分らない。
が、トルーマンが、日本政府の宣言受諾を遅らせようと企図したことだけは間違いないのである。
以下に、原爆投下までの経緯を時系列的に整理してみる。
1942年8月13日、
レスリー・グローブズ陸軍少将を最高指揮官に、オッペンハイマー博士を原爆の設計・製造の総責任者として「マンハッタン計画」がスタートする。
1944年9月19日、
ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相との間で交わされたハイド・パーク協定によって、原爆の投下対象をドイツから日本へ変更することが決定される。
1945年4月に、
ルーズベルトから大統領職を引き継いだトルーマンの下、目標検討委員会では、初めから軍事目標にたいする精密爆撃ではなく人口の密集した都市地域が爆撃目標とされる。
1945年4月の時点で、
トルーマンは原爆の完成予定を知っていた。
1945年6月01日、
ジェームズ・バーンズ国務長官の報告を聞き、トルーマンは原爆投下を決断した。
1945年7月16日、
米国はニューメキシコ州で初の原爆実験に成功する。
1945年7月17日、
ドイツのベルリン郊外・ポツダムで米・英・ソ3国首脳による会談(ポツダム会談)が始まる。
ポツダム会談の期中に、トルーマンに原子爆弾の製造完了が伝えられた。
1945年7月24日、
トルーマンは、8月10日までに日本に対して原爆投下を繰り返し行うよう指示。
1945年7月25日、
トルーマンは日本への原爆投下命令を出す。
1945年7月26日、
ポツダム宣言が発せられる。
1945年8月06日、
広島に原爆が投下される。
1945年8月08日、
ソ連が深夜に日ソ中立条約の一方的な破棄を宣言。
9日午前零時にソ連軍が対日参戦。
1945年8月09日、
長崎に原爆が投下される。
1945年8月09日、
我が国政府は、御前会議で「国体の護持」を条件にポツダム宣言の受諾を決定し、10日に連合国に伝達した。
1945年8月15日、
天皇自身によってポツダム宣言受諾の決定を日本国民に知らせる玉音放送(ラジオ)が行われる。
以上を振り返って見ると、我が国のポツダム宣言受諾が、米国による原爆の投下やソ連の参戦に促されたことは間違いない。
が、米国による原爆投下は、我が国のポツダム宣言への対応とは関係なしに実行されたことが解る。
つまり、原爆を投下するまで我が国を降伏させない、そしてソ連が参戦する前に原爆を投下する。
これがトルーマン政権の基本的姿勢であった。
「ポツダム宣言」は、別名「米、英、華三国宣言」とも呼ばれる。
これは、会談に加わっていたソビエト連邦(ソ連)が、我が国に対して(条約上)中立の立場をとっていたため、宣言に加わらなかったからである。
また英国代表は、直前の総選挙の結果、ウィンストン・チャーチルからクレメント・アトリーに変わっており、アトリーは選挙後の後始末のために不在だった。
中華民国代表の蒋介石もポツダムにはいなかった。
つまり、米、英、華(中)、3カ国代表のサインは、トルーマン一人によって書き上げられたのであった。
米国は、日本の文化財に敬意を表して京都を爆撃しなかったというが、これも真っ赤な嘘である。
原爆の投下候補地は、
①直径3マイルを超える都市
②爆風により効果的に破壊できる地形を持つ都市
③8月までに通常爆弾による爆撃を実施していない都市
だった。
つまり、正確に原子爆弾の威力を測定するため、通常爆弾との被害の違いを区別できることが必要条件であったのだ。
これに適うのが京都、小倉(北九州市)、新潟、広島、長崎で、中でも盆地状の京都市街は申し分なかった。
そこで、原爆投下の照準点は京都駅に近い梅小路機関車庫に定められ、京都に対する通常爆撃の禁止命令が出された。
おかげで、古都の街並は原爆投下用に保存されたのである。
ところが、米陸軍長官ヘンリー・スチムソンが京都案に強硬に反対したため、最終段階で京都は第一候補からはずされたが、
「日本の文化財に敬意を表したから京都を爆撃しなかった」
というのは嘘なのである。
広島も爆撃されなかったし、小倉、新潟、長崎も、他の大都市に比べればほとんど無傷だった。
ちなみに、長崎は第二候補だった。
が、広島とともに第一候補にされた小倉上空が曇りであったために、長崎が標的になったのである。
以上からすれば、広島の平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に刻まれた「過ちは繰り返しませぬから」の主語は米国のはずである。
いや、米国でなければならない。
にもかかわらず、「国際民衆法廷」の主催者のような
「原爆投下という大惨事を招いた当時の日本政府と昭和天皇にも被爆者の方々に対する責任の一端があると私たちは考えます」
という輩が、未だに我が国には存在する。
私は米国を、日本のかけがえのない同盟国だと思っているから、いまさら米国を責める気持ちはない。
「国際民衆法廷」のように、当時の米国指導者を糾弾するなんて、特定の政治的意図が込められているとしか思えない。
が、こと原爆投下に関して言えば、我が国及び我が国民に非は一切ない。
史上最大級の戦争犯罪を犯したのは米国である、と思っている。
こんな記事を思い出した
《イラク攻撃開始前の2003年1月6日、NYタイムズ紙は、
『THREATS AND RESPONSES: THE WHITE HOUSE; U.S. IS COMPLETING PLAN TO PROMOTE A DEMOCRATIC IRAQ』
と題された記事に
「ブッシュ政権国家保安チームは予定されているフセイン追放後のイラクの管理および民主化に関する最終プランをまとめているところだ」
と報じ、いわゆる「日本モデル」、つまり、日本をアメリカが目だった障害なく「民主化(自由化)」に成功した例を、イラク占領と重ねて論じた。》
何百万人の民間人を虐殺されたこのクニが、大人しく鬼畜米兵に身を任せたのは、天皇陛下に類が及ばぬようにしたからで、別に米軍の政策が良かったワケではない。
そして、その後も引き続き、大人しく飼い馴らされ続けてたこのクニを、
『セックス奴隷』の国として石碑を遺し、おとしめる「大きい男」の国。
いくらロビー活動で、かの国からワイロ・コントロールされたとて、やっていいことかどうかの限度があるだろう。
己の身を省みないのにも程がある。
アメリカにある慰安婦石碑にキノコ雲をラクガキでもして、
思考停止な偽善市民らに、ささやかな意趣返しを・・・
■「お前らの国では日本への原爆投下についてどう考えられてるの?」海外の反応
2012年09月27日
How do you and your nation (in general) think of the subject of the atomic bombs dropped on Japan?
●posted by Anonymous(アメリカ)
お前ら自身やお前らの国(一般論で)は日本に対する原爆投下についてどう考えてるの?
「アメリカでは、驚くことじゃないけど人々の受け入れ方はさまざま。
パールハーバーの報いだという愛国者様がいれば、原爆投下は人類史上他に類を見ない戦争犯罪だと大げさに同情してみせるやつらもいる。
俺としてはその両方とも無知なものの見方だなと思う。
他にほとんど選択肢がなかったんだから、原爆投下自体はまぁいい選択肢だろう。
英国とアメリカがドイツの市民街を爆撃していたように、アメリカは日本の市民街も容赦なく爆撃していたが、こういう爆撃のほうがもっと多くの人間を殺した。
その事実が俺が、原爆投下だけにスポットライトを当てる連中の意見を馬鹿らしくて見当違いだと思うメインの理由だ。
それに原爆が投下された後でさえも日本の最高司令部自体は降伏したがらなかった。
彼らは原爆を単なる大きな爆弾だとみなして、アメリカはすぐに爆弾を使い果たしてしまうだろうと見込んでいた。
彼らは戦争に勝てないとはわかってたけど、占領されずに降伏することは可能だと信じていたんだ。
もし原爆が天皇に将軍たちの権限を取り下げさせられなかったら、戦争はもっと長く続いていただろう。
ちなみに現代の日本は最高だと思うけどね 。
●posted by Anonymous(アメリカ)
戦争犯罪ではないし、申し訳ないとも思わない。
たぶん原爆で失われた命よりも、原爆で救われた命のほうが多いだろう。
さらに言うなら二発目の原爆に関しては俺たちは警告していた。
向こうの政府は助けられる命を助けることを拒否したんだよ
●
posted by Anonymous(ボスニア)
あれは糞ったれな行為だった。
●posted by Anonymous(カナダ)
70年代からの歴史家の一般的な意見は、原爆は必要なかったというものだね。
日本はソヴィエトが満州に全面侵攻するころには降伏していただろう。
アメリカは無条件降伏をさせたくて、日本は君主制を維持させる条件付き降伏にしてほしかった。
アメリカは無条件降伏をさせるために原爆を使ったんだ。
あとたぶん、ソヴィエトに脅威を与えるためにね。
必要だったか? いいや。
戦争犯罪か? そうかもね。
●posted by Anonymous(ブラジル)
日本人が先に攻撃して、アメリカは反撃した。
別に何かが悪いとか間違っているとか言いたいわけじゃない、単にそれが起こるべくして起こったことだと思ってるだけ。
戦勝国側にいたブラジルとしては、いいことだと思ってるよ。
あのいかれた奴らがリオデジャネイロを爆撃していたかもしれないことを考えるとね。
●posted by Anonymous(アルゼンチン)
アメリカ人によると彼らは今まで何にも悪いことをしてこなかったようだな…まったく何もね。
ナショナリズムってのは本当に客観性を失わせるね。
広島と長崎への原爆投下は世界的に大虐殺だと見られているよ。
アメリカの歴史で長いこと行われてきた多くの虐殺と同じようにね。
●posted by Anonymous(フィンランド)
大抵の人は原爆投下はひどいことだったと思うと思うけど、それが多くの人の命を救ったということには同意すると思う。
もっとひどいことになりえたとね。
●posted by Anonymous(メキシコ)
アメリカは日本を支配するために無条件降伏がほしかった。そして日本を他の国に分けずに自国だけのものにしたかった。
アメリカにとっては正しいことだったんだろう。
(帝国主義的な考えで言うと。)
●posted by Anonymous(ポーランド)
もし日本が原爆を持っていたら、アメリカと同じ事を何の躊躇もせずにやっていただろう。
彼らはナチ野郎だったし、たぶん二発だけで止めなかっただろう。
●posted by Anonymous(アメリカ)
どうでもいいだろ。
やらなかったらアジア人がもっと死んでただけ。
●posted by Anonymous(アメリカ)
必要不可欠かどうだったか俺にはわからん。
でもやらないよりはましだったと思うし、おかげで原爆の本当の危険性がわかるようになった。
もしあの時に原爆を使っていなかったら、幾年ヵ後にロシアに向けて使っていたかもしれないし、その時ロシアが原爆を撃ち返せる状態にあったらもっと最悪な状況になっていただろう。
●posted by Anonymous(スウェーデン)
>原爆を投下することで他国を救える。
さすがアメ公の論理…。
でも、日本がアジアや太平洋でやったことに対してあれが当然の報いだったいうことには同意する。
●posted by Anonymous(アメリカ)
戦争を終わらせる最高の手段だったね。
●posted by Anonymous(ペルー)
アメリカは原爆を投下するべきじゃなかった。
ソヴィエトが大日本帝国を無茶苦茶にしていたほうが面白かったはず。
●posted by Anonymous(アメリカ)
お前ら、原爆投下の決定はアメリカだけじゃなくて連合国全体で決められたものだったということはもちろん知っているよな?
●posted by Anonymous(アメリカ)
人道的見地から見るともちろん、爆撃はひどいことだった。
しかし現実的に見ると、当時としては良い選択肢だったろう。
トルーマンは原爆がアメリカ人の死傷者を最小限に食い止めるであろう戦争終結方法だと知っていたし、彼の仕事はアメリカ人を守ることだった。
太平洋戦争を起こした国の人間を守ることではなかった。
そしてそれだけじゃなく、アメリカはロシアが日本を侵略する前に、早急に日本を占領して戦争を終わらせなければならなかった。
そして日本を占領できたおかげで、アメリカは同盟国を作ることができ、ロシアとアメリカの間に戦争の緩衝地帯を作ることができた。
人命が危機にあるときは時間がもっとも大切だ。
アメリカは彼らに出来る最高のことをやったと思うよ。
●posted by Anonymous(フィンランド)
いやでも正直、俺は原爆投下は結局みんなにとって良かったことだと思うな。
戦争を続けるのは全ての側にとってストレスが強すぎただろう。
日本がアメリカに対価を支払うはめになったとはいえさ。
世界も原爆の「効果てきめんっぷり」を見せられてから、もっと平和で注意深くなったし。
もちろん原爆は戦争で起こった酷い悲劇のひとつだけどね。
■原爆投下は正しい選択だったのか
タカジンの『そこまで言って委員会』(8月8日)
加藤清隆:
実は私、20年ほど前に、新聞特派員やってた時に、エノラゲイの機長がまだ生きてて、記者会見に私も出たんですよ。
その時、彼が言うのは自分は原爆を落とさなければ、さらにもっと多くの人が死んでいた。
私は原爆を落としたことを誇りに思う、って言うんだけど、その中で彼が言う『多くの人』っていうのは、アメリカの軍人のことなんですよ。
100万人救ったって言うんですよ、エノラゲイに乗ってた彼らは。
日本人が何百人死のうが、彼らにとっては虫けらだから…
僕は被爆者2世だから、とくに怒って言うけども、長崎にせよ広島にせよ、その他、小倉、新潟、京都…その効果を調べるために通常爆撃をさせなかったんですよ。
原爆の効果を見たいから。
しかも、ウラン型とプルトニウム型という二つの違う原爆を落として、効果を調べて、という実験をして…
で、戦後はABCCという病院もどきのようなものをつくって、被爆者の研究調査をして、その効果を調べてる。
人道上、こんなの許されないですよ。
竹田恒泰:
アメリカの兵隊の命を守るため、というのは、これ、大統領自らの言葉ですからね。
トルーマン大統領が公式に、原爆投下直後にラジオ放送で言ってるんですけども、
投下の理由として、まず日本の戦争犯罪を糾弾してそういう相手に使ったのだ、ということと、これによってアメリカの若者の命が救われると。
「日本人の命」なんて一言も言ってない。
「早く戦争を終わらすことで日本人の命を救った」、という方をする人もいますけども、アメリカの公式見解は、日本人の命は虫けら同然で、「アメリカ人の命を救ったのだ」と。
ここがポイントなんです。
宮崎哲弥:
少し違うニュアンスで言ったのが、オバマ大統領。
この人は国際的演説で、「唯一の核兵器使用国としての責任」と。
この原爆投下の責任を公式に初めて言及した大統領ですよ。
その限りにおいては、一定の評価はしていいと思う。
口先だけでノーベル賞もらったとか、言うけど(笑)、言わないよりいったほうがマシですよ。
これ、アメリカの教育のなかでどういうふうに語られてるかというと、「100万人の米兵を救った」と…
それとこの原爆投下というのは、都市空爆というものの集大成なんです。
ドイツに対しても、日本に対しても、途中までは空爆の必要性ってあったし、実際、それは軍事基地に対してのものだった。
それがある時期から、『虐殺』に転じるんです。
大空襲という、明らかな虐殺。
これに対する道徳的責任、人道的責任を、戦勝国…連合国は取っていない。
そのやましさがあるから最後の最後まで、あの原爆は正しかったなんて、最後の最後まで言い募らなきゃいけないんだよ。
竹田:
もし、東京裁判が平等なものであったら、一番大きな罪に問われるのはトルーマン大統領ですよ。
だって200万人の日本の民間人を焼き殺したんですから。
これはヒトラーがやってることと、まったく一緒なんですよ。
宮崎:
そもそも非戦闘員を一方的に殺害してはいけないというのは戦時国際法の常識ですよ!
竹田:
これ、終戦の直前だったんですけども、ルーズベルト大統領が死んで、トルーマンが大統領になったんですよ。
選挙で選ばれた人じゃない副大統領が、急に大統領に格上げされた。
当時、原爆開発計画…マンハッタン計画というんですが、これに莫大な国家予算がつぎ込まれてた。
極秘中の極秘事項で、トルーマンも大統領に就任するまで計画の存在すら知らされてなかった。
それをポッと出てきた新しい大統領が途中で止めれるわけがない。
だから、あそこでルーズベルトが急に亡くなったっていうのも悲劇的だった。
マンハッタンで原爆を開発してたのはユダヤ人だったんですよ。
彼らは、にっくきドイツに落とす為につくってたんです。
で、出来た時に、ドイツは降伏しちゃったんですよ。
加藤
歴史的のホントにもったいなかったって思うのは、原爆を3発、インデアナポリスっていう巡洋艦に載せて、テニアン島まで運ぶ、そこからB29に乗せて日本に爆撃に出るんですが、なんとインデアナはその帰りに日本の潜水艦に撃沈されるんです。
その前に撃沈してれば、日本に原爆は落とされなかった。
広島にも長崎にも同じような碑があるんですが、そこには「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませんから」と書いてある。
これって、我われ日本人がそう言ってるみたいに書かれてるんだけど、原爆を落としたのはどこの国なのか…
戦後教育で、原爆落とされてもしょうがないんだって教育されてますから、みんなその碑を見て「そうなんだ」って思ってるけど、そんなことないでしょ!
こっちは原爆の被害者で、加害者はアメリカなんだから。
戦時中であっても、明らかに国際法で違反してることやられたんですから。
竹田:
実は、日本政府は広島に原爆が落とされた2日後に、アメリカ政府に公式に抗議してるんです。
どういう内容かというと、
「生物兵器とか、そういう非人道的な兵器というのを使うなと、高らかに言っていたのはアメリカじゃないか」と。
そのアメリカ自身がかの生物兵器をはるかに凌ぐ、悲惨で残虐な大量殺戮兵器を日本の投下した。
これは人類に対する罪であると。
人類の名においてアメリカ政府の罪を糾弾する、という立派な抗議文書を送ってるんですよ。
このことはあまり語られてない。
戦後の日本政府は、日本が悪いから落とされた、になった。
転載元 依存症の独り言
■残忍な人たち
2005/08/06
60年前の今日、広島に原爆が投下された。
死者は約14万~15万人とされる。
私は米国を、日本のかけがえのない同盟国だと思っている。
しかし、毎年8月がくると怒りがこみ上げてくる。
これは、もう理性を超越した、日本人としての血がなせる業だと思う。
やはり、今日は、原爆と米軍の話を書かずにはいられない。
私は、広島の平和記念公園を二度訪れたことがある。
もちろん、原爆死没者慰霊碑に首(こうべ)を垂れ、祈りを捧げた。
そのときは、「過ちは繰り返しませぬから」という碑文の文言には、何の抵抗もなかった。
しかし、今日、その碑文を読み直して強い違和感を覚えた。
原爆投下という過ちを犯したのは米国である。なのに「過ちは繰り返しませぬから」とは・・・
おそらく、この慰霊碑が建立された頃は、日本の誤った戦争が原爆の悲劇をもたらしたという認識が、我が国民に強かったということであろう。
当時の私も、何の抵抗も感じなかったのだから・・・
広島に原爆が投下されたことに対して、我が国及び我が国民に非は一切ない。
史上最大級の戦争犯罪を犯したのは米国である。
したがって、原爆被害に遭われた方々に対して、「過ちは繰り返しませぬから」などと言うのはもう止めにしたい。
「原爆の悲惨さは永遠に忘れません。
皆様の筆舌に尽くしがたい苦痛と無念を心の奥底に深く刻み込みます」
と誓いたい。
読者の皆さんの中には、米軍は紳士的だったと思われている方もおられるかもしれないが、とんでもない。
以下の記事は、週刊新潮8月11・18日夏季特大号に掲載された帝京大学教授・高山正之氏の連載コラム「変見自在」に、私の持つ知識を加味したものである。
映画「パールハーバー」の中の、日本の艦載機が病院を銃爆撃し、患者や看護婦がばたばた殺されていく場面を見て、石原東京都知事は「嘘が多すぎる」と言って怒った
そうである。
これは、明らかに米国の捏造である。
元JAL機長で、真珠湾攻撃にも参加した藤田怡与蔵氏は、
「米軍のパイロットならいざ知らず、日本軍はそんなことを思いつきもしない」
と言っている。
「米軍のパイロットならいざ知らず」とは、つまり米軍機は、非戦闘員や非軍事施設を狙うのが常だったということだ。
石原知事自身が「麦畑を走っていると米軍のP51がきて機銃掃射された」という。
また、知事は、二子玉川(東京)の床屋で、
「橋を渡って東京側に逃げる若い女性を米軍機が低空飛行で追跡し撃ち殺した。
パイロットの顔が地上からも見えた」
という話を聞いたとも語っている。
1942年東京に飛来したB25は、超低空で飛行し、必死で校舎に逃げ込もうとする国民学校高等科の14歳の少年を撃ち殺している。
高山正之氏によれば、米軍機が女子供を狙い撃ちした事例は数え切れないほどあるという。
要するに、彼らは狩猟感覚で日本の市民を撃ち殺していたということである。
米国は、日本の文化財に敬意を表して京都を爆撃しなかったというが、これも真っ赤な嘘である。
原爆の投下候補地は、
①直径3マイルを超える都市
②有効な損害を与えられる地形を持つ都市
③通常爆弾による爆撃を実施していない都市
であった。
これに適うのが京都、小倉、新潟、広島、長崎で、中でも盆地状の京都市街は申し分なかった。
したがって、本土爆撃が始まってからも京都爆撃は一切行われなかった。
最終段階で、京都は第一候補からはずされたが、「日本の文化財に敬意を表したから京都を爆撃しなかった」というのは嘘なのである。
広島も爆撃されなかったし、小倉、新潟、長崎も、他の大都市に比べればほとんど無傷だった。
ちなみに、長崎は第二候補だった。
広島とともに第一候補にされた小倉上空が曇りであったために、長崎が標的になったのである。
一方において、東京や大阪は、一面焼け野原となるほどの爆撃を受けた。
特に、1945年(昭和20年)3月の東京大空襲は、1日で死者10万人以上を出す地獄を生み出した。
1機平均6トン以上の焼夷弾を搭載した344機のB29が、低空飛行で東京の下町を襲ったのである。
約100万発(2000トン)もの焼夷弾が無差別に投下されたのだ!
しかも、先発部隊が江東区・墨田区・台東区にまたがる40k㎡の周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁を作っていた。
火の壁で市民の逃げ道を断ち、猛火の中に閉じ込めた状態での凶行だった。
(怒りで頭痛がしてきた・・・)
要は、ジェノサイドだったのだ!!!!!!
逃げ惑う市民には超低空飛行のB29から機銃掃射が浴びせられ、なんとか隅田川に逃げ延びた人たちも、川面をなめるように駆け抜けた焼夷弾の炎で焼き殺された。
幼子を背負ったまま焼かれた母親の背は白い、そして子供は・・・
/浅草・花川戸
涙が止まらない・・・私だけだろうか?
■東京大空襲の悲惨を忘れてはならない
2006/03/10
1945年(昭和20年)3月10日の米軍による東京大空襲は、1日で死者10万人以上を出す地獄を生み出した。
1機平均6トン以上の焼夷弾を搭載した344機のB29が、低空飛行で東京の下町を襲ったのである。
約100万発(2000トン)もの焼夷弾が無差別に投下された。
米軍はまず、先発部隊が江東区・墨田区・台東区にまたがる40k㎡の周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁を作った。
これは、火の壁を作ることで市民の逃げ道を断ち、猛火の中に閉じ込めることが目的だった。
そして、火の壁の中に閉じ込められた状態の何十万人もの人々の頭上に焼夷弾を雨あられと投下した。
つまり、東京大空襲は、あらかじめ予定された区域内にいる人間を全て焼き殺すように綿密に計画された無差別集団殺戮(さつりく)だったのである。
普通であれば、電力、水道、通信施設などのインフラや工場などの生産設備を破壊して、相手国の継戦能力を殺ぐ。
したがって、通常は高性能爆弾を使う。
これなら、市民=非戦闘員の被害は少なくてすむ。
しかし、米軍は爆弾ではなく高性能焼夷弾を使った。
しかも、工場が密集した地域ではなく、一般市民が密集して暮らす住宅街を狙った。
焼夷弾で一般市民を焼き殺すために。
これは、世界史に残る残虐行為であり、彼らが極東国際軍事裁判で裁いた「人道に反する罪」以外の何ものでもない。
炎から逃げ惑う市民には超低空飛行のB29から機銃掃射が浴びせられ、なんとか隅田川に逃げ延びた人たちも、川面(かわも)をなめるように駆け抜けた焼夷弾の炎で焼き殺された。
我が国が無条件降伏をした後に進駐してきた米兵の蛮行ぶりも凄まじい。
米軍が最初に進駐した神奈川県では、一ヶ月に何と2千件もの「大きい男」による婦女暴行事件が起きた。「大きい男」とは米兵のことである。連合国軍総司令部(GHQ)が、新聞検閲で米兵をそう表記するように命令したのだ。
米兵による婦女暴行事件の続発に驚愕したGHQは、既に日本政府から申し入れのあった、米兵のための「慰安所」を急ぎ用意させる。
GHQの意を受けた政府は、1945年8月26日、特殊慰安施設協会(RAA=Recreation and Amusement Assoiation)を設立。
大義名分は「良家の子女の防波堤」づくりであった。
翌27日、施設第1号として大森小町園が開設され、初日から米兵の乗ったジープが群がって行列を作った。
政府は、この日以降、東京に3カ月間で25カ所の施設を設置し、慰安婦は1600人に及んだ。
この慰安婦たちの大半は、焼けたり潰れたりした工場で働いていた、農村出身のうら若き女工たちだった。
本土空襲の指揮を取っていたカーティス・E・ルメイ少将は、明かに非戦闘員を狙ったとする批判に対して、戦後の回想録のなかで次の様に述べている。
「私は日本の民間人を殺したのではない。
日本の軍需工場を破壊していたのだ。
日本の都市の民家は全て軍需工場だった。
ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。
木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を
攻撃する武器の工場になっていたのだ。
これをやっつけて何が悪いのか」
これを、「こじつけ」、あるいは「強弁」、もしくは「責任転嫁」という。
まったく反省していないどころか、罪の意識のカケラも感じられない。
我々日本人(有色人種)を見下した態度は、傲岸不遜そのものである。
我が国と米国は今、政治、経済、軍事において密接な関係にある。米国は、かけがえのない同盟国である。
しかし、米国が我が国に対して犯した過去の戦争犯罪を忘れてはならない。
いまさら米国を声高に非難するつもりはないし、反米感情を煽る気もない。
仮に、そんなことをしても何のプラスもない。が、歴史の事実や相手を知った上で、初めて真の友好・同盟関係が生まれるのである。
エノラ・ゲイの機長は、90歳を越えた今も相変わらず、
「連合軍が本土上陸作戦を決行していたら、日本人や連合軍兵士の多くが犠牲になっていた」
として原爆投下を正当化している。
しかし、ジョン・F・ケネディ政権で国防長官だったロバート・マクナマラ氏は、
「勝ったから許されるのか?
私もルメイも戦争犯罪を行ったんだ」
と告白している。
マクナマラ氏は経営管理の理論を戦争に応用した。
攻撃効率を高めるために統計を
取り分析した。
彼の報告書を基にして日本に無差別絨毯爆撃が行われた。
つまり、マクナマラ氏は本音の部分では、自らの所業を「戦争犯罪」として後悔しているのだ。
ちなみに、彼の報告書を採用した上司は、後に東京大空襲を指揮し、広島・長崎に原爆を落とさせたカーティス・E・ルメイ少将だった。
エノラ・ゲイの機長もカーティス・E・ルメイ少将も、建前はともかく、本音の部分では反省しているのかもしれない。
が、自らの行為を公に否定することは彼らにはできない。
なぜなら、それは「米国の正義」を否定することになるからだ。
国際政治は冷酷非情である。
勝者は「善」で敗者は「悪」。
勝者は裁く側にあり、敗者は裁かれる側にある。
しかし、冷静に考えれば、戦争に「善」も「悪」もない。
近代史において、戦争はすべて「自衛のための戦争」であり、「侵略のための戦争」なんかない、当事者にとっては。
実際上、「自衛戦争」と「侵略戦争」を区別することなどできない。
列強は、我が国も含めて「国家政策の手段としての戦争」、
つまり侵略戦争を1928年の不戦条約によって放棄した。
が、その後も戦争が絶えることはなかった。
イラク戦争も、フセイン政権やイスラム原理主義の側から見れば、「米国による侵略戦争」であり、米国の側から見れば「フセイン政権の持つ大量破壊兵器(?)やテロリストから我が身を守るための自衛戦争」である。
そして、勝った側が「善」で、負けた側が「悪」になる。
戦争には、過ちもあれば、やむを得ないこともあれば、正当なこともある。
一方的に、どちらかが被害者で、どちらかが加害者というものではない。
加害者の面もあれば被害者の面もある。
その時々の時代背景によって避けられなかった戦争もあるし、戦場の狂気が生み出した悲劇もある。
そもそも戦争自体が残酷なものなのだ。
しかし、その本質的に残酷なものである戦争が、この世からなくなることはない。
政治・経済が国家を基本に成り立っている限り、利害が対立し摩擦が起こる。
この摩擦を話合いで解決できなければ、実力で決着をつけるしかない。
それは我が国にとっても例外ではない。
したがって、我が国にも、そのための準備と用意が必要なのである。
なお、ナチスのホロコーストは、戦争と直接的に結びつくものではない。
これは「戦争がもたらした悲劇」ではなく、ナチズムから導き出された「人類の惨禍」である。
■人体実験だった広島・長崎の原爆
2006/08/13
「後悔に1分たりとも時間を費やすな」
は米大統領だったトルーマンの言葉だ。
実際、戦後何百回もたずねられた「原爆投下」について少しも後悔の念を見せなかった。
難しい決断だったかと聞かれ
「とんでもない、こんな調子で決めた」
と指をパチンと
鳴らした。
▲
これは、毎日新聞の8月6日付【余録】で紹介されている第33代米国大統領、ハリー・S.トルーマンの逸話である。
つまり、「指パッチン」で日本に対する原爆投下を決めた。
後悔する必要なんて、これっぽっちもない、というわけだ。
が、「後悔に1分たりとも時間を費やすな」という言葉を吐かざるをえなかったというところに、この人物の深層が表れているような気がする。
実際、非公式な場所では、良心の呵責に苦しめられていることを周囲の人や身内の人たちに洩らしていたと言われる。
【余録】氏も次のように書いている。
「妻や妹への手紙、内輪の会話、日記では、女性や子供の被害へのおののきや後悔を示している。
(原爆の開発にかかわった)科学者らが自責の念を示すと、ひどく感情的に反発した」
やはり、大統領、そして国家に「過ち」はあってはならない、その思いが「後悔に1分たりとも時間を費やすな」という言葉と、「指パッチン」という態度につながったのだろう。
誤解してほしくないのは、当時の米国が戦争犯罪を犯したと断罪し、反米感情を煽ることが私の目的ではない。
なぜ広島や長崎に原爆が投下され、20万人以上もの命が一瞬にして奪われることになったのかの真実を知ってもらいたいのである。
したがって、私の立場は、先月の中旬に広島で開かれた「国際民衆法廷」とは明らかに違う。
「国際民衆法廷」は先月16日、原爆開発や投下に関与した米国のルーズベルト、トルーマン両元大統領や元軍人、科学者ら15人の「被告」を、国際法違反で「有罪」とする判決要旨を発表した。
また、米国政府に対し、被爆者や遺族への謝罪と賠償を求める「勧告」も盛り込んだ。
が、この法廷の「設立趣意書」を読むと、この「法廷」が、特定の思想的立場に立ったものであることが解る。
「設立趣意書」では
「私たちは、憲法第9条の精神を単に形式上だけ維持するのではなく、積極的に世界に向けて拡大・活用させていく義務と責任があります」
「原爆投下という大惨事を招いた当時の日本政府と昭和天皇にも被爆者の方々に対する責任の
一端があると私たちは考えます」
と書かれている。
これは、
「私は米国を、日本のかけがえのない同盟国だと思っている」
「広島に原爆が投下されたことに対して、我が国及び我が国民に非は一切ない」
という私の立場とは、対極にいる人たちの考え方だ。
ただ、この「国際民衆法廷」で明らかにされた「原爆投下に至る事実関係」には、米国政府が公開した「保存記録」に基づく記述が多く、参考にはなる。
米国の主張は、
「原爆の投下がなかったら戦争は続き、原爆の犠牲者以上の死者が
出たであろう」
というものだ。
原爆は、逆に多くの人命を救ったのだ、
だから原爆の投下は正しかったんだ・・・
これが、米国の論理である。
が、これは真っ赤なウソである。
米国の狙いは、実際に原爆を使用することによって、核実験だけでは得られない、その効果を検証することであった。
つまり、広島の原爆も長崎の原爆も「人体実験」だったわけである。
1945年7月26日、米・英・中の3国は、我が国に対して降伏を勧告する、13条から成るポツダム宣言を発した。
宣言の骨子は以下のとおりである。
《日本軍の無条件降伏 、及び日本国政府によるその保障(13条)
カイロ宣言 の履行(8条)
領土を本州、北海道、九州、四国及び諸小島に限定(8条)
戦争犯罪人 の処罰(10条)
日本を世界征服へと導いた勢力の除去(6条)》
特に13条の最後は、
「右以外の日本国の選択は迅速且(かつ)完全なる壊滅あるのみとす」
という「殲滅宣言」とも受け取れる言葉で結ばれている。
実は、このポツダム宣言と、それが成立する過程に、米国の日本に対する原爆投下の真実が隠されているのだ。
ポツダム宣言は、天皇制維持についてまったく言及していなかった。
そのために、我が国政府の内部では、この宣言をめぐって激論が交わされた。
が、出された結論は「宣言の黙殺」と「断固戦争完遂に邁進する」というものだった。
ところが、宣言の起草段階では、天皇制の維持が含まれていたのである(12条)。
にもかかわらずトルーマンが12条を書き換えさせたため、明確な天皇制の保証は姿を消した。残ったのは
「日本国国民の自由に表明せる意思に従い」
「政府が樹立せらるる」
という文句である。
我が国政府が後日、ポツダム宣言受諾を決定したとき、付けた条件が「天皇制の維持(国体の護持)」であったことを考えれば、12条を書き換えていなければ、我が国政府の最初の結論が違ったものになった可能性は高い。
もちろん、12条に「天皇制の維持」が含まれていたとしても、我が国が早い段階で宣言を受諾したか否かは分らない。
が、トルーマンが、日本政府の宣言受諾を遅らせようと企図したことだけは間違いないのである。
以下に、原爆投下までの経緯を時系列的に整理してみる。
1942年8月13日、
レスリー・グローブズ陸軍少将を最高指揮官に、オッペンハイマー博士を原爆の設計・製造の総責任者として「マンハッタン計画」がスタートする。
1944年9月19日、
ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相との間で交わされたハイド・パーク協定によって、原爆の投下対象をドイツから日本へ変更することが決定される。
1945年4月に、
ルーズベルトから大統領職を引き継いだトルーマンの下、目標検討委員会では、初めから軍事目標にたいする精密爆撃ではなく人口の密集した都市地域が爆撃目標とされる。
1945年4月の時点で、
トルーマンは原爆の完成予定を知っていた。
1945年6月01日、
ジェームズ・バーンズ国務長官の報告を聞き、トルーマンは原爆投下を決断した。
1945年7月16日、
米国はニューメキシコ州で初の原爆実験に成功する。
1945年7月17日、
ドイツのベルリン郊外・ポツダムで米・英・ソ3国首脳による会談(ポツダム会談)が始まる。
ポツダム会談の期中に、トルーマンに原子爆弾の製造完了が伝えられた。
1945年7月24日、
トルーマンは、8月10日までに日本に対して原爆投下を繰り返し行うよう指示。
1945年7月25日、
トルーマンは日本への原爆投下命令を出す。
1945年7月26日、
ポツダム宣言が発せられる。
1945年8月06日、
広島に原爆が投下される。
1945年8月08日、
ソ連が深夜に日ソ中立条約の一方的な破棄を宣言。
9日午前零時にソ連軍が対日参戦。
1945年8月09日、
長崎に原爆が投下される。
1945年8月09日、
我が国政府は、御前会議で「国体の護持」を条件にポツダム宣言の受諾を決定し、10日に連合国に伝達した。
1945年8月15日、
天皇自身によってポツダム宣言受諾の決定を日本国民に知らせる玉音放送(ラジオ)が行われる。
以上を振り返って見ると、我が国のポツダム宣言受諾が、米国による原爆の投下やソ連の参戦に促されたことは間違いない。
が、米国による原爆投下は、我が国のポツダム宣言への対応とは関係なしに実行されたことが解る。
つまり、原爆を投下するまで我が国を降伏させない、そしてソ連が参戦する前に原爆を投下する。
これがトルーマン政権の基本的姿勢であった。
「ポツダム宣言」は、別名「米、英、華三国宣言」とも呼ばれる。
これは、会談に加わっていたソビエト連邦(ソ連)が、我が国に対して(条約上)中立の立場をとっていたため、宣言に加わらなかったからである。
また英国代表は、直前の総選挙の結果、ウィンストン・チャーチルからクレメント・アトリーに変わっており、アトリーは選挙後の後始末のために不在だった。
中華民国代表の蒋介石もポツダムにはいなかった。
つまり、米、英、華(中)、3カ国代表のサインは、トルーマン一人によって書き上げられたのであった。
米国は、日本の文化財に敬意を表して京都を爆撃しなかったというが、これも真っ赤な嘘である。
原爆の投下候補地は、
①直径3マイルを超える都市
②爆風により効果的に破壊できる地形を持つ都市
③8月までに通常爆弾による爆撃を実施していない都市
だった。
つまり、正確に原子爆弾の威力を測定するため、通常爆弾との被害の違いを区別できることが必要条件であったのだ。
これに適うのが京都、小倉(北九州市)、新潟、広島、長崎で、中でも盆地状の京都市街は申し分なかった。
そこで、原爆投下の照準点は京都駅に近い梅小路機関車庫に定められ、京都に対する通常爆撃の禁止命令が出された。
おかげで、古都の街並は原爆投下用に保存されたのである。
ところが、米陸軍長官ヘンリー・スチムソンが京都案に強硬に反対したため、最終段階で京都は第一候補からはずされたが、
「日本の文化財に敬意を表したから京都を爆撃しなかった」
というのは嘘なのである。
広島も爆撃されなかったし、小倉、新潟、長崎も、他の大都市に比べればほとんど無傷だった。
ちなみに、長崎は第二候補だった。
が、広島とともに第一候補にされた小倉上空が曇りであったために、長崎が標的になったのである。
以上からすれば、広島の平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に刻まれた「過ちは繰り返しませぬから」の主語は米国のはずである。
いや、米国でなければならない。
にもかかわらず、「国際民衆法廷」の主催者のような
「原爆投下という大惨事を招いた当時の日本政府と昭和天皇にも被爆者の方々に対する責任の一端があると私たちは考えます」
という輩が、未だに我が国には存在する。
私は米国を、日本のかけがえのない同盟国だと思っているから、いまさら米国を責める気持ちはない。
「国際民衆法廷」のように、当時の米国指導者を糾弾するなんて、特定の政治的意図が込められているとしか思えない。
が、こと原爆投下に関して言えば、我が国及び我が国民に非は一切ない。
史上最大級の戦争犯罪を犯したのは米国である、と思っている。
こんな記事を思い出した
《イラク攻撃開始前の2003年1月6日、NYタイムズ紙は、
『THREATS AND RESPONSES: THE WHITE HOUSE; U.S. IS COMPLETING PLAN TO PROMOTE A DEMOCRATIC IRAQ』
と題された記事に
「ブッシュ政権国家保安チームは予定されているフセイン追放後のイラクの管理および民主化に関する最終プランをまとめているところだ」
と報じ、いわゆる「日本モデル」、つまり、日本をアメリカが目だった障害なく「民主化(自由化)」に成功した例を、イラク占領と重ねて論じた。》
何百万人の民間人を虐殺されたこのクニが、大人しく鬼畜米兵に身を任せたのは、天皇陛下に類が及ばぬようにしたからで、別に米軍の政策が良かったワケではない。
そして、その後も引き続き、大人しく飼い馴らされ続けてたこのクニを、
『セックス奴隷』の国として石碑を遺し、おとしめる「大きい男」の国。
いくらロビー活動で、かの国からワイロ・コントロールされたとて、やっていいことかどうかの限度があるだろう。
己の身を省みないのにも程がある。
アメリカにある慰安婦石碑にキノコ雲をラクガキでもして、
思考停止な偽善市民らに、ささやかな意趣返しを・・・
↧
風営法を緩くして
つんく Twitterで言及
「真夜中のダンス規制」緩和へ?『ワイドナショー』(5月13日)松本人志:僕はもっと、普通に昔に戻したほうがええと思ってるですよ。風俗も。誰…?誰かが止めようと言うたんやね。僕は自分が行きたいとか、そういうのは置いといて。別に戻していいと思うんですよ。戻して、そんなに困る?経済は絶対潤うぞ。岩城滉一:俺もそう思う。松本:ねえ。東野幸治:まあ、風俗の是か非か…たしかに、かなり厳しくなって、お店ができなくなってる、ということもあるんですけども…松本:当時、僕ら、大阪で遊びまくっとったとき、急にそれができて、ほんとに12時以降、街に誰もいなくなって、こんなことで日本、大丈夫かって…思ってたもんね。それがやっぱり、半分当たってたよ。あれから経済おかしくなってきたし。でも、一回、こうしてしまうと、政治家も元に戻そうと言うと…「お前、なんちゅうエロ政治家や」ってことになるから、言いづらいんやろうなと思うんですよ。東野:もう少し規制を緩和して…松本:だって、悪いことする奴は何時でもするでしょ。ルールもね、曖昧なんですよ。東野:でも、ようよう考えたら、夜中の3時4時に踊ったらアカンというのも、おかしな話で…(笑)。松本:それは絶対、おかしいやろ。東野:めっちゃ踊りたい人からするとね。でも、そういうふうに法律はなってきてるんですか?国会では。乾弁護士:あの・・・松本さんおっしゃる通り、緩くする人がいない、って言うんですかね。緩くするための大義名分がなかなか、見つけられないっていうか…松本:エロエロ政治家になるから…乾:ええ…(笑)。東野:なるほど。松本:歴史に残っちゃうから。あいつ、また、戻したと。東野:あの、石原前都知事が風営法を厳しくしたんでしょ?乾:ええ、まあ、東京都を国際年にするために03年に厳しくしようと、考えたみたいで…それは言いやすいですもんね。松本:そこは違うと思うな…だから、そのまんま東さんは、もっと石原さんと戦うべきだったんですよ。東野:東さんが…(笑)松本:東さんがやるしかないんですよ!風俗を元に戻すって。東野:なるほど(笑)。いろんなことを背負って…松本:そう!あの人がやるんですよ。第一人者なんですから。…いや、ホントですよ(笑)。
東国原は出直し都知事選には出なかったけど、
「経済のために夜の街に活気を」の声、
どうやら届いたのか…どうかは知らないが(笑)
風営法改正、未明のクラブ解禁へ 秋国会にも規制緩和
2014/08/12
政府と自民党は、音楽とダンスを若者が楽しむクラブや、国際試合の観戦イベントなどを開催するスポーツバーについて、現行風営法で禁じられる午前0時以降の営業を原則認める法改正の検討に入った。文化振興を目的とした規制緩和の一環。泥酔者や客引きの対策を義務化し、都道府県公安委員会による許可制で解禁する。早ければ秋の臨時国会で改正を目指す。自民党関係者が12日、明らかにした。ダンス関連施設に関し、音楽家や文化人らが「健全なダンス文化の育成に支障を来す」と未明の営業規制に反発。政府の規制改革会議も5月に営業時間延長の検討を求める提言を示していた。【関連記事↓】無許可の店ではダンスできない日本―風営法改正の動きも
転載元 ウォールストリートジャーナルBy ALEXANDER MARTIN 2014年6月25日【東京】日本政府はこの法律を変えようとしている。政府は今月、秋の臨時国会に風営法改正案を提出する意向であることを明らかにした。風営法はもともと、ダンスホールでの売春を取り締まるために制定されたが、年月を経るに連れてホコリをかぶるようになっていた。しかし、騒音や暴力に対する苦情や、2010年に起きたクラブでの乱闘騒ぎで学生が死亡する事件などを受け、数年前からこの法律を根拠に警察が組織的にクラブの摘発に乗り出した。警察による摘発は、当局が日本のクラブシーンを潰そうとしていると懸念する人たちの反発を招いている。(中略)風営法はダンスホールと麻雀店、アダルトグッズ店、ストリップ店などをひとくくりに扱っている。この論争は、1926年のキャバレー法をめぐって米ニューヨークで起きたことと似ている。キャバレー法も営業許可のない場所でのダンスを禁じている。ルディー・ジュリアーニ氏がニューヨーク市長だった1990年代に適用が強化されたが、その後は適用されるケースが減った。だが、法律を撤廃しようとする動きはこれまでのところ失敗に終わっている。日本で風営法による営業許可を得るためには、少なくとも66平方メートルの広さがなければならず――建物が密集する東京や大阪では高いハードルだ――場所によって午前0時か1時には閉店しなければならない。無許可で営業した場合、2年以下の懲役もしくは200万円以下の罰金、または懲役と罰金の両方が科せられる。日本のダンスクラブのほとんどは煩雑な役所での手続きを避け、許可なしに夜中過ぎまで営業している。
弁護士で、風営法改正を求める団体を率いる齋藤貴弘さんは「風営法に触れていても、うまくやれば警察のおめこぼしで摘発がこなかった。近隣の苦情などがあれば無許可でダンスをおどらせているということで風営法にやられるが。法的にグレーゾーンの中でやっている。何十年もうまくそれでやってきた」と話す。
踊ってはいけない街、東京?
クラブと風営法の問題から考える東京都知事選挙2014年2月8日転載元 磯部涼音楽ライタークラブと風営法の問題は都知事選の争点なのか?
(中略)例えば、風営法で言うところのいわゆる“クラブ”は、客にダンスをさせ、飲食を提供する「3号営業」にあたる。接待行為のない3号営業も、1号・2号営業と同様、深夜0時ないしは1時〜日の出までの営業が禁じられているため、一般的にオールナイトが基本とされる同文化の足枷になってしまっている。ただし、同法第13条に基づいて、各都道府県の条例の改正により営業時間の延長は可能で、そこには都知事の介入する余地があるものの、あくまで「習俗的行事その他の特別な事情のある日」と限定されている。(中略)第二に、2012年に関西のクラブが一斉摘発を受けたことから始まったクラブ文化発の風営法改正運動は、当初この問題に関心のある一般大衆を巻き込んだオープンなものを目指していたが、ある段階から、あえてクローズなものに方向転換したということがある。クラブが現行の風営法を遵守するためには、前述したようにオールナイト営業ができないだけではなく、そもそもキャパシティの小さな箱では、客室の床面積が1室につき66平方メートル以上なくてはならないという面積要件を満たせず、営業の許可すら得られないという問題がある。そのため、ほとんどの店舗が脱法的に営業せざるを得ず、事業者の中には摘発を恐れて公の場に出ることを嫌がるひとも多い。初期の運動の中心を担った<Let’s Dance>もクラブ・ファンや弁護士からなる第三者団体だったが、彼らがイベントや街頭で請願署名を集めるという形で広く問題提起をしたのに対して、「余計なことをして問題を煽るな」と反発する事業者もいた。一昨年辺りから東京でも風営法違反による摘発が増加しているのが運動のせいなのかは定かではないが、じっと息を潜めているだけではクラブ文化の成長は見込めないばかりか、法改正をしない限り、根本的に問題が解決することはないだろう。かと言って「どんな悪法でも、法は法。改正を訴える前にまずは遵法せよ」という正論を掲げて、小箱に対して、「改正を進めるためにひとまず店を畳んで下さい」とは頼めない。(中略)脱原発を都知事選の争点にすることについて、「原発政策に対して都知事にできることは限られているから意味がない」といった声や、「いや、全国的に注目される都知事選だからこそメッセージを発することに意味がある」といった声があるわけだが、「クラブと風営法の問題」に関して言うと、そもそもメッセージを発すること自体がリスキーなのだ。ここに大きな違いがある。風営法の歴史と今
転載元 Let's DANCE ダンスカルチャーを守るためにⅠ.風俗営業等取締法のこれまでの改正経過
(中略)戦前には広範囲な営業に対して行使されていた警察の権限を主に「風俗犯罪の予防」という見地から売春、賭博等に着目し、当初は、次の三種類の業種についての規制が行われました。1. 待合、料理店、カフェ―その他客席で客の接待をして客に遊興又は飲食をさせる営業
2. キャバレー、ダンスホールその他設備を設けて客にダンスをさせる営業
3. 玉突場、まあじゃん屋その他設備を設けて客に射幸心をそそるおそれのある遊技をさせる営業・・・・・(中略)その際、「ダンスホールが買売春の取り引きに使われている」との認識から、「ダンスホール=風俗営業」とされ、「ダンスをさせること」が規制の対象となってきました。(中略)Ⅱ.ダンスを規制する風営法とは?
(中略)深夜酒類飲食店(スナック等)で「不特定の客が自分から踊ることを要望した場合に、ターンテーブル装置を作動させる行為等」は、どうなるか。現行では、「風営法違反」となります。「歌う」と「踊る」その規制の違いは極めてわかりにくいもので、他にも「遊興」「接待」の定義もその基準はあるものの曖昧で整合性のない面があります。
こうした曖昧さが、運用面での弾力性をもたせながら、一方で警察の恣意的な解釈によって、規制や取締りが可能になる危険性をはらんでいます。Ⅲ.風営法をどう変えたいのか
「許可条件の緩和」ではなく、規制対象から「ダンス」の削除を、私たちは、「風営法の規制対象から『ダンス』を削除してください。」という極めてシンプルで重要な事項を請願の第一項に掲げています。(中略)私たちの運動は、最終的には立法府である国会での議論に行き着きます。(中略)利用者もアーティストも経営者も、多くの国民もが一致できる「なぜダンスさせることが規制されるのか」という一点での世論を広げてこそ、国政を動かす大きな力になると考えます。過去には、ビリヤードや社交ダンスが、風営法の規制対象からはずされてきました。今度は、「ダンス」をはずすため、みなさんの大きなご支援をお願いします。
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タイガースが中島を獲得する可能性、あるとするなら…
阪神が中島獲り調査!
今オフ補強、またメジャーから!!サンケイスポーツ中島がターゲット!!阪神が今オフの補強として米大リーグ、アスレチックス傘下でプレーする元西武・中島裕之内野手(32)の獲得調査を進めていることが16日、明らかになった。メジャー帰り組の獲得についてはファンから否定的な声が多いが、球団は打線強化のためには必要な戦力と判断し、電鉄本社も了承した。阪神が今オフ、またメジャー組の獲得に動く。すでに球団内で中島獲りについての調査が本格化していることが明らかになった。打線にさらに厚みを持たせるために強打の内野手がターゲットに浮上した。球団関係者は中島について「リストに名前はある。こっち(関西)の出身の選手(兵庫県伊丹市)だし、あのバッティングは魅力がある」と話した。すでにフロントは動き出していた。中村GMが7月下旬に渡米した。およそ10日間滞在期間中にシーツ、ウィリアムス両駐米スカウトらとミーティングを重ねた。その中に中島についての最新の情報が含まれていた模様だ。阪神はここ数年、城島、西岡、福留、建山とメジャー帰りの選手を獲得してきた。国内フリーエージェント選手のような補償金や人的補償が要らないメリットもあり、資金をかけて獲得し、チーム力の向上を図ってきた。だが、けががちで結果を出せなかったり、生え抜きの若手のチャンスを奪っている側面もあり、親会社の阪急阪神ホールディングスの株主総会などでファンから批判されてきた。球団としてはファンの声も熟考した上で検討を重ねたが、来季以降も優勝争いを続ける上では打線のさらなる強化が不可欠と判断した。渡米後、けがが多かった中島はア軍では出番がなく、現在傘下2Aミッドランドでプレーしているが、日本球界に戻れば、3割を6度マークした西武時代のような勝負強い打撃を取り戻す可能性が高いと判断した。球団首脳によるとすでに球団サイドは意見を固め電鉄本社に具申。中島の出身地が地元の兵庫・伊丹出身ということもあり、本社もゴーサインを出した。中島はア軍と2年総額650万ドル(約6億6300万円)の契約を結んだが、ア軍は3年目はオプション(選択権)を更新しないと見られ、国内復帰には支障がないと見られる。首位・巨人と2・5ゲーム差につける阪神は三塁手を固定できずにいる。スタメンでは105試合中、今成が最多の56試合。他は新井良、新井、西岡、関本の順に起用されている。本来捕手の今成は適応能力の高さを証明しているが、右翼にコンバートすれば、中島を受け入れることが可能だ。ゴメスの加入で得点源はできたが、6番は打撃不振の福留らが務めており、中島にはポイントゲッターという役割を想定している。12年オフに福留、西岡と獲得。福留は今季、サヨナラ本塁打など勝負強さをみせているが、打率は・208と本来の数字とは遠い。西岡も故障で離脱中。今季途中に獲得した建山は、1軍8試合のみで、この日2軍に降格した。メジャー帰り組に対する厳しい視線を受け止めた上で、あえて動く。それは常勝チーム作りへの執念にほかならない。中島の他にも、今オフの阪神の補強への動きは活発になりそう。投手では元阪神のカブス・藤川球児投手(34)の調査も進めており、球団内では先発転向プランも出ている。また、今秋のドラフト会議でも、上位で投手を重点的に指名する方針を固めている。1位候補には早大・有原航平投手(4年)や、済美高の157キロ右腕、安楽智大投手(3年)が候補に挙がっている。中島 裕之(なかじま・ひろゆき)内野手。1982(昭和57年)年7月31日生まれの32歳。兵庫県出身。伊丹北高から2001年D5位で西武入団。02年10月6日の日本ハム戦(東京D)で初出場。04年から遊撃手としてスタメンに定着し自身初の2桁本塁打。08年に自己最高の打率・331を残しチームの日本一に貢献。09年に最多安打のタイトルを獲得。06年から5年連続打率3割超え。ベストナインを4回、ゴールデングラブ賞を3回遊撃手として受賞。08年北京五輪と09年WBCの日本代表。12年のオフに海外FA権を行使し、アスレチックスへ移籍。故障の影響でマイナー暮らしが続いている。1メートル81、90キロ。右投げ右打ち。独身。
オリックスの金子、FA獲得に全力を尽くせ。
いま欲しいのは打者じゃなく投手だろう。
先発も足りないし、中継ぎも足りない。
梅野が出てきたんで捕手の補強は完了。
来年は今年の経験と、藤井のリードを継承して万全。
清水も小豆畑も2番手なら問題ない。
上本はケガが怖いものの一定の役割を果たし、信用するしかない。
もちろんそのサブは必要だが、そこは補強より育成の話。西岡もいる。
今成も来季はもう一皮むけるはず。
だが…
もし、守備に不安のあるマートンの首を切る覚悟があるなら、
中島は必要になってくる。
そしたら外国人枠で投手も補強できる。
まあ、有り得ない話だけど…
監督が代わるなら、
それくらいの入れ替えを敢行できる人になってほしいもんだ。
↧
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朝日新聞の『捏造方程式』
転載元 ぼやきくっくり朝日新聞の逃亡を許すな!慰安婦検証報道その後…
朝日の「吉田調書」虚報を産経が指摘!
門田隆将氏「慰安婦報道と全く同じ図式」朝日新聞がまたやらかした。いわゆる「吉田調書」について、朝日が誤った報道をしていた可能性がさらに高まりました。140818-00sankei.JPG産経新聞は8月18日付朝刊で、「吉田調書」を入手したことを明らかにしました。先に「吉田調書」を入手していた朝日新聞は、5月20日付朝刊で「所長命令に違反 原発撤退」「福島第1 所員の9割」と書いていました。事故発生から4日後の2011年3月15日朝に第1原発にいた所員の9割が、吉田所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第2原発へ撤退していたという指摘でした。ところが実際の調書では、吉田所長は「伝言ゲーム」による指示の混乱について語ってはいるが、所員らが自身の命令に反して撤退したとの認識は示していなかったのです。ご存知の方も多いでしょうが、朝日の「吉田調書」スクープ記事の怪しさは、早い段階で門田隆将さんや、一部のメディアからも指摘がされていました。そして門田さんは今年7月の時点で、こういう記事を書いていました。↓◆共同通信が決着させた朝日新聞「吉田調書」誤報事件
「 『死の淵を見た男』の取材で100名近い関係者の実名証言を得ている私は、NHKの「NHKスペシャル班」も相当、現場への取材を展開し、深く食い込んでいることを知っている。
そして、共同通信の現場への食い込み方は、やはり活字媒体ならでは、の思いが強い。しかし、朝日新聞だけは、現場取材の痕跡がない。「ひょっとして朝日は現場に取材もしないまま、あの記事を書いたのではないか」と、どうしても疑ってしまうのである。現場を取材する他紙の記者たちの中にも、今は、あの時の“現場の真実”を知っている記者たちが多くなってきた。彼らは、今回の朝日の「吉田調書」キャンペーンには、実に冷ややかだった。そこには、裏取りが不完全なまま「9割の人間が逃げた」と書いてしまう同業者に対する諦めと怒りがあるように私には思えた」「従軍慰安婦報道をはじめ、日本と日本人を貶める報道をつづける朝日新聞にとっては、それはそれで『目的は達せられた』のかもしれない。しかし、自らのイデオロギーに固執し、そのためには世論を誘導することも、また真実とは真逆の記事を書いても良しとする姿勢には、同じジャーナリズムにいる人間にとって、どうしても納得ができない」でも、この時点で門田さんはまだ「吉田調書」の中身は見ていなかった。なので……「私は、朝日新聞には一刻も早く『吉田調書」』の全文を公表して欲しい、と思う。そして、吉田所長と彼ら現場の人間を貶めるために、作為的な編集作業をおこなったのか否か――ジャーナリズムの検証を是非、受けて欲しい。私はそのことをまず、朝日新聞にお願いしたいのである」(引用終わり)と、朝日に訴えかけていたのでした。今回、産経が入手した「吉田調書」を見た門田さんは、産経への寄稿でこう述べています。(下に全文転載)↓「朝日新聞が、この吉田調書をもとに「所員の9割が所長命令に違反して撤退した」と書いたことが信じられない。自分の命令に背いて職員が撤退した、などという発言はこの中のどこを探しても出てこない」「職員の9割は吉田所長の命令に“従って”2Fに退避しており、朝日の言う“命令に違反”した部分など、まったく出てこない」「朝日の報道によって、世界中のメディアが、『日本人も現場から逃げていた』『第二のセウォル号事件』と報じたのは事実だ。最後まで1Fに残った人を『フクシマ・フィフティーズ』と称して評価していた外国メディアも、今では、所長命令に違反して所員が逃げてしまった結果にすぎない、という評価に変わってしまった。事実と異なる報道によって日本人をおとしめるという点において、先に撤回された慰安婦報道と図式がまったく同じではないか、と思う。なぜ朝日新聞は事実を曲げてまで、日本人をおとしめたいのか、私には理解できない」日本国と日本国民を貶めるためなら、歪曲、捏造、何でもあり。
世の中を自分の思う方向へ進めるためなら、平気で読者を騙す。それが朝日新聞。歴史問題だけでなく、現在進行形の問題でもそれをする。
3・11以降、命懸けで福島第1原発の暴走を食い止めようと頑張ってきた、そして今も頑張っている人たちを、貶めることも厭わない。朝日の今回の「虚報」の動機には、いつもの反日だけでなく、反原発も当然あるでしょう。そして、門田さんも指摘しているように、「吉田調書」にまつわる朝日の「虚報」は、国内だけでなく世界にもマイナスの影響を与えました。朝日は慰安婦問題に続き、この問題でも日本国民と国際社会に説明責任を果たす義務が生じました。
報道機関を名乗るなら、その義務をちゃんと果たしてほしい。あと、門田隆将さんは、「朝日新聞『吉田調書』スクープは従軍慰安婦虚報と同じだ」と週刊ポスト6月20日号に書いていました。これに対して、朝日は抗議し、訂正と謝罪の記事の掲載を求めています(2014年6月10日05時54分)。写真週刊誌のFLASHも、6月24日号で「『東電フクシマ所員9割逃亡』朝日新聞1面スクープのウソ」という記事を掲載し、これも朝日が訂正と謝罪記事の掲載を求めています(2014年6月11日05時00分)。これら週刊誌の今後の展開にも注目ですね。そして今回、初めて知ったんですが、朝日はホームページに「吉田調書」の要約版を日本語だけでなく英語でも公開してるそうですね。慰安婦検証記事の英語版もとっとと公開しなさいよ!(-.-#)◆【吉田調書】
ジャーナリスト、門田隆将氏(2014.8.18)
「朝日新聞は事実を曲げてまで日本人をおとしめたいのか」東京電力福島第1原発事故で現場指揮を執った吉田昌郎所長に対する「吉田調書」について、吉田氏らを取材したジャーナリスト、門田隆将氏が寄稿した。◇産経新聞が入手した「吉田調書(聴取結果書)」を読んで、吉田昌郎所長と現場の職員たちの命をかけた闘いのすさまじさに改めて心を動かされた。「本当に感動したのは、みんな現場に行こうとするわけです」と、危機的な状況で現場に向かう職員たちを吉田氏は褒めたたえている。いかに現場が事態を収束させようと、そして故郷、ひいては日本を救おうと頑張ったのかがよくわかる内容だ。私は拙著『死の淵(ふち)を見た男』の取材で、吉田氏や現場の職員たちに数多くインタビューしている。どんな闘いが繰り広げられたかは取材を通じて知っていたが、その時のことを思い出した。また、菅直人首相や細野豪志首相補佐官らとの電話によって、事故対策を講じる吉田氏の貴重な時間がいかに奪われていたかもよくわかる。くり返される官邸からの電話に「ずっとおかしいと思っていました」と吉田氏は述べている。特に細野氏が毎日のように電話をかけてきたことで、吉田氏が相当困惑していた様子が伝わってくる。全員撤退問題については、「誰が撤退と言ったのか」「使わないです。“撤退”みたいな言葉は」と、激しい口調で吉田氏が反発しているのも印象的だ。吉田氏がいかにこの問題に大きな怒りを持ち、また当時の民主党政権、あるいは東電本店と闘いながら、踏ん張ったかが伝わってくる。それにしても朝日新聞が、この吉田調書をもとに「所員の9割が所長命令に違反して撤退した」と書いたことが信じられない。自分の命令に背いて職員が撤退した、などという発言はこの中のどこを探しても出てこない。逆に吉田氏は、「関係ない人間(筆者注=その時、1F〈福島第1原発〉に残っていた現場以外の多くの職員たち)は退避させますからということを言っただけです」「2F(福島第2原発)まで退避させようとバスを手配したんです」「バスで退避させました。2Fの方に」と、くり返し述べている。つまり、職員の9割は吉田所長の命令に“従って”2Fに退避しており、朝日の言う“命令に違反”した部分など、まったく出てこない。だが、朝日の報道によって、世界中のメディアが「日本人も現場から逃げていた」「第二のセウォル号事件」と報じたのは事実だ。最後まで1Fに残った人を「フクシマ・フィフティーズ」と称して評価していた外国メディアも、今では、所長命令に違反して所員が逃げてしまった結果にすぎない、という評価に変わってしまった。事実と異なる報道によって日本人をおとしめるという点において、先に撤回された慰安婦報道と図式がまったく同じではないか、と思う。なぜ朝日新聞は事実を曲げてまで、日本人をおとしめたいのか、私には理解できない。■吉田調書 世界の原発安全性の糧に
産経新聞2014.8
極限状況下の事故対応を学べ産経新聞は「吉田調書」を入手した。調書の作成者は、政府の事故調査・検証委員会である。マグニチュード9・0の巨大地震に伴う大津波で被災し、複数の炉心溶融へと発展した東京電力福島第1原子力発電所の事故現場での対応活動などの詳細が、調査・検証委の質問に対する吉田昌郎所長(当時)の回答として記録されている。東大名誉教授の畑村洋太郎氏を委員長とする調査・検証委は、吉田氏をはじめ、約800人の関係者からの聴取内容を基に、原発過酷事故再発防止の教訓を抽出することを主眼とした「最終報告」を平成24年7月にまとめている。≪規制委は教訓を生かせ≫
最終報告に占める吉田調書の比重は、質と量において大である。なおかつ一問一答の形でつづられた大部の調書は、事故当時の自身の感情までを赤裸々に語る吉田氏の肉声で満ちている。日本国内に限らず、世界の原発の過酷事故を未然に防ぐための教訓の原典として、吉田調書を位置づけたい。調書から浮かび上がる問題点は、発電所の現場と東京の東電本社との間で、事故に対する認識の差が極めて大きいことだ。電源を喪失し、爆発が重なった発電所では、計器類をはじめとして、多くの装置が機能を失っている。そうした個々の異常事態が相互に絡み合った現場での活動の難しさは、本社首脳陣の想像力を絶する域に達していた。発電所構内にいても、混乱を極める過酷事故の現場では状況がつかめないし、本社の首脳が考えるようには動けない。発電所内の通信設備の徹底強化の必要性が改めて痛感される。現場と首相官邸との意思の疎通はさらに難しかったことも読み取れる。東京から繰り返された高圧的な指示は、現場介入以外の何ものでもなかった。為政者が肝に銘じるべき教訓である。こうした事故時の課題や問題点は、調査・検証委の最終報告においても既に指摘されているが、吉田氏の証言には、未曽有の修羅場をくぐった現場責任者ならではの迫力と重みがある。吉田氏は病で25年7月に他界したが、健在なら「原子力ムラ」の出身などという排除の論理を超えて、原子力規制委員の職に就いてもらいたかった人である。吉田調書などを踏まえた調査・検証委による最終報告には、規制当局に対する次のような注文も含まれている。「技術的に枝葉末節のチェックに追われ、安全のための大局を見る余裕のない業務の在り方になっていないか」吉田調書は朝日新聞も入手しており、5月20日付の朝刊に「所長命令に違反 原発撤退」という記事が掲載された。≪命かけた人への冒涜だ≫
福島第1原発で2号機の格納容器破損が疑われる異変が起きた23年3月15日の午前中に、多くの所員が吉田氏の「待機命令」に背いて福島第2原発に撤退していたことが、吉田調書で明らかになったとする内容だ。だが、調書を精読すると、吉田氏が出しているのは終始、事故対応に必要な人員以外に対する「退避」の指示だ。福島第2が有力な避難先になっていたことも疑いようがない。「退避」と「待機」では、意味が逆だ。無用な被曝を避けるための退避をどうして「現場離脱」と断じたのか。「暴れている」原発の冷温停止に命をかけた人々に対する冒涜であろう。4基の原発が大破して放射線量が上昇し、余震が繰り返される極限状況下で、原発技術者は被害拡大を防ぐために死を覚悟して過酷事故に立ち向かった。吉田調書からは、人の動きを含めた福島事故の実像が見えてくる。史上最大級の原子力事故の体験を負の遺産としてはならない。失敗を乗り越え、未来に進んできたことで人類の今日がある。福島事故を踏まえて原発の安全性強化が進む中、原子力規制委員会による九州電力川内原子力発電所1、2号機への一般からの意見公募も15日に終了した。千年に一度の大津波に福島第1原発は屈した。しかし、発電所で働く人々の事故拡大防止にかける心は健在だった。これから始まる原発再稼働に対する信頼のよりどころの基礎としたい。
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厄介な隣人の虫のいい話/日韓関係修復、って…
日韓関係改善へ!? 2年ぶり首脳会談か
ひるトク!(VTRナレーション)日本の植民地支配からの解放記念日にあたる今月15日の演説で、朴クネ大統領は慰安婦問題の解決という条件をつけたものの、来年の国交正常化50年を見据え、冷え込んだ日刊関係の改善に期待感を示した。この演説について韓国各紙も報道。『中央日報』では、「韓日関係改善の意思をはっきり見せた」「専門家らが、大統領の演説を評価」と報じている。これまで日韓の首脳会談は政権誕生後、1年以内に行われてきた。しかし、安倍政権、朴政権、それぞれ誕生、1年半以上経過した今も、二国間の正式な会談は行われていない。また、冷え込んだ日韓関係を象徴するような出来事も…今年3月、アメリカのオバマ大統領の仲介で、日米韓3カ国で会談が行われたとき、安部総理が記者会見の席で、笑顔で韓国語で語りかけても、朴大統領は硬い表情のままだった。それが何故、朴大統領は今回、日韓関係の改善に期待感を示したのか。専門家は…辺真一:韓国国内でも、今のままの状態は尋常じゃないと。日本ともう少し、仲良くやったらと。そういう論調が増えてきたっていうことでしょうね。果たして、日刊首脳会談は実現するか?(スタジオ)これまでで見ていきますと、小泉内閣で半年後に首脳会談が実現しています。その後、第一次安倍政権で13日後、福田内閣2ヶ月後、麻生内閣1ヶ月後、民主党になって、鳩山さんが7日後、菅さんが、18日後、野田さんが19日後。で、今の安倍第二次政権が1年8ヶ月後の今もまだ、首脳会談は行われす…辺:まあ、去年朴政権が誕生以来、朴大統領が、慰安婦問題もあった首脳会談に乗り気でない…ということが今日まで尾を引いてるんだということだと思いますが。杉尾秀哉(毎日新聞):何が大事かといって、中国のことを考えた時に、東アジアの安定を考えたらば、日韓がアメリカ含めて3カ国で、連携を強めるっていうのが一番大事なんだけど、肝心要の日韓の関係が亀裂が入った状態。これはアメリカにとっても好ましくない。日本と韓国にも…
…って、
元々、「朝日」もだが、それに追従してた「毎日」が煽ってこうなってるんだろうが…
笑うわ。
で、先週の金曜日、朴大統領は、
「未来志向の友好協力関係に進まなければならない」
と演説し、日韓改善へのシグナルを発信した。
去年の8月15日の式典の演説で、
「過去を直視しようとする勇気と相手方の痛みを配慮する姿勢がなければ、未来に向かって信頼を積み重ねるのは難しい」
「過去の歴史から始まった苦痛と傷を今でも抱いて生きている方に対して、痛みを治癒することができるように責任、誠意ある措置を期待します」
と言ってたのとは、えらい違いだ。
ちなみに今年は、
「友好関係に進まなければならない」
「来年が、両国が新しい未来に向かってともに出発する元年になる事を願って、
日本指導者の知恵と決断に期待したい」
となってる。
ホントわかりやすい(笑)。
ドラマにもよく出てくる信用できない感じのキャラだ。
相手と自分の力関係で、自分が上と判断すればイジメにに容赦なく、
(それもつい先ごろまでのことだ)
下と感じたら、恥外聞なく手のひらを返す(笑)。
辺:これまでの朴大統領の一連の歴史認識、日本に対する注文は、こうしろ、ああしろ、っていうね、命令調だった、要求するというか、具体的内容を見せてもらいたいというね、そういうニュアンスから、今回はある意味の願望の示唆。日本の自発的態度次第で、すぐにでも首脳会談に応じたい、みたいな…●この演説を韓国メディアが翌日、どう伝えているか…東亜日報「日本避難抑制、韓日修好50周年を前に強力に重点」中央日報「韓日の関係改善の意思をはっきり見せた」メディアも、しっかり、関係修復ヘの政府の方向性を伝えてる。では何故、韓国が関係修復に舵を切り直したのか。辺:一つ目は、アメリカにより圧力。安全保障の観点からも、日韓は何をやってるんだと、いうのが…とくに韓国に対しては、いつまで過去のことを言ってるんだと。アメリカは苛立ってますよ、いい加減。二つ目は経済面。日本からの投資を呼び戻したい。「韓日の貿易額が3年連続減少」さらに韓国は「利下げ(0.25%)、1年3ヶ月ぶり、消費低迷にテコ入れ」、「ウォン高円安」、など、景気浮揚への政策を総動員しなければならない状況にあるわけです。そんな中で日本とケンカしてる場合じないということでしょう。「韓流ブーム」も今は昔、韓国の商店街でも、前のように日本の観光客でごった返してる、って光景はないですね。●これまで韓国メデイアは、日本に対して、朝鮮日報 去年8月21日 日刊首脳会談で日本がすべきこと「韓日首脳会談を提案した安倍政権の無神経・無感覚ぶりに驚かざるを得ない。日本が本当に首脳会談をしたいなら、韓国政府が動ける最小限の空間や名分をつくるべきだろう」中央日報 3月31日 韓日次官級 手ぶらで首脳会談をねだった日本「韓国政府は、日本が正しい歴史認識をしっかりと持たない限り、どのような形の会談も行わないという立場を伝えた」「韓国政府関係者は『首脳会談をしないということではなく、日本が態度を変えない状況では難しいということだ』と強調した」これが最近、論調が変わり…東亜日報 先月26日社説「国益と未来のために安倍政権と主要懸案について話し合わなければならない」中央日報 今月13日「外交専門家30人の7割が『韓日関係悪化を朴政権最大の失策と見ており改善を求めている』」
国益のために、関係修復しなければならない…って、
「関係」ってこっちが勝手にいくらそう思ったからって修復できるもじゃないだろう。
そんなこともわからないのか。
許してやるから言うこと聞け…?
どこまでも、自分勝手な考え方だ。
お前らが困ってるだけだろうが。
知るか、先に石碑を撤去しろ。
八代英輝:私は日韓が仲良くしなきゃいけないっていうトーンからすると、ちょっと違うかも知れないんですけども。日本はこれまでずっと、「ウェルカム」で来てたわけですよ。それをこれほど、強い態度でずっと拒否されてたんですよね。今、韓国の事情で、国内的にどうとか、失敗だったとか、色々あるんでしょうけども、今、急にそう言われたからって、また…まあ、求められれば応じればいいとは思うんですけどもね、隣国だから。ただ、韓国国内で事情が変わったからといって、会いましょう、って条件をつけてくるのは、それは違うんじゃないかと…私は、日韓が会うタイミングっていうのは、もう日本の国益で考えたほうがいいと思いますよ。会いましょう、って、向こうの空気が変わったからといって、じゃあ会いましょう、って…先方としては、日本が中国の習近平さんに会う前に会いたいっていうのがあるかもしれないけども、じゃあ、日本にとってそれだけのメリットって何かあるのか、考えたほうがいいと思いますけどもね。
ここで手綱を緩めて、真実追求を「まあまあ」で終わらしたら、また繰り返し禍根を残す。
いま、まだ生きてる証人がいる間が、最後のチャンスだ。
だから、
尻尾振ってこようが、まだしばらくは、相手すんな…というのが個人的感想。
連中の猫なで声など、もう信用できんだろう。
また騙されたら、それは政治家が無能だからだ。
騙される側にも問題がある。
人がいいんじゃなくて、それはアホだ。
度を越した、同情、憐憫、惻隠は、
そら、相手によりけりだが、こと、かの国においては通用しないことが、もうハッキリしてるんだから。
もはや、相手がどういうタイプかは把握できてるはず。
騙されまい、もう騙されまい…
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朝日、消滅までのロング&ワインディングロード
朝日新聞が逆に入れた「システム1」のスイッチ
池田信夫
2014年08月19日 15:55朝日の慰安婦報道と原発報道がよく似ているのは偶然ではない。どちらも大きな失敗の経験――丸山眞男のいう悔恨――から出発しているからだ。戦争に負けたとき、朝日は自分の罪が追及されるのを恐れて絶対平和主義に転向し、3・11のあと原発推進派だった責任の追及を恐れて「原発ゼロ」に舵を切った。その論理は単純である。戦争が起ったのは軍隊があったからだ→軍隊をなくそう原発事故が起ったのは原発があったからだ→原発をなくそうこういう短絡的な話はわかりやすく、大きな悲劇のあとでは日本人の心情倫理にアピールした。これが「戦後リベラル」の原点だったが、丸山も反省したように、悔恨にもとづく心情倫理は、結果的には何も具体的な政策を生み出さなかった。彼は憲法の平和主義を次のように嘲笑している。《第九条の理想としての平和主義を堅持するという主張によって、なにが否定されているのか。「戦争主義」が否定されているのか。そうだとすれば、およそ戦争主義、あるいは軍国主義を理想として憲法に掲げる国家というのは、現実にもなかったし、今後は一層考えられません。》(「憲法第九条をめぐる若干の考察」)政治学の世界でpacifismというのは、「一方的な無抵抗主義」という蔑称である。それは吉田茂にとっては軍国主義のイメージをぬぐい去るための一時的な方便であり、丸山にとっては知識人の悔恨の表明にすぎなかった。しかしこの心情倫理が、日本人の心に根を張った。それはカーネマンの言葉でいえば、日本人に広く共有されるシステム1のスイッチを入れたのだ。宗教的に決まる倫理基準をもたず、「キヨキココロか、キタナキココロか」を基準にして行動を評価する日本人にとって、軍隊を捨てて「人を殺さない」という動機は無条件にいいことだった。それによって自分が殺されるという結果は考えない。私がテレビの討論で、福島みずほ氏に「1mSvまで除染しろといっている限り、被災者は帰宅できないが、あなたはそれでいいのか」と質問すると、彼女は目をそらして黙ってしまった。おそらく慰安婦についても同じだろう。彼女の心情倫理は、結果に対する責任倫理を拒否することによってしか成り立たないからだ。このような責任倫理の欠如を丸山は強く批判した。彼は国家とは暴力の独占であるというレーニンやウェーバーの規定を肯定し、政治に文化的価値を見出さなかった。国家のもちいる暴力や強制などの手段は、ほんらい倫理的ではありえない。すべての「強制」を否定する吉見義明氏は、泥棒も殺人も自由なアナーキズムの国に住むしかない。だから手段の倫理性を追求してキヨキココロを追求するリベラルは、汚れ役を引き受けて利害調整に徹する自民党に永遠に勝てない。「国民のいやがることをするのが自民党の仕事」という竹下登の名言は、日本的な責任倫理ともいえよう。こういう日本的な心情倫理と責任倫理の対立が、戦後の政治のほとんどすべてであり、そこには政策の対立軸は何もなかった。戦後70年もこういう不毛な論争が続いてきたことは、朝日新聞や福島氏だけの責任ではない。彼らがここまで生き延びたのは、日本人の中にそういう心情倫理に反応する「古層」が共有されているからだろう。今回の慰安婦騒動は、朝日が(誤って)システム1のスイッチを逆に入れた珍しいケースだ。嘘をいったん認めると、半分で幕を引くことはできない。「嘘つきはキタナキココロだ」というスイッチが入り、他の話もすべて信用されなくなる。嘘を書く新聞というのは、毒の入っている食品と同じだ。不二家も赤福も社長が辞任し、雪印とミートホープは会社が消滅した。朝日が慰安婦の記事をすべて取り消し、社長が辞任するまで、ネット上の批判も自民党の攻撃も止まらないだろう。今回の訂正記事のきっかけは販売会社からのクレームだったらしいが、中途半端に訂正して開き直っているとさらに部数が激減し、雪印や毎日新聞のような運命が待っている。
朝日が消滅するのは時間の問題ではあるけども、
消滅させたくない中国も韓国も…いや、特に中国からは、結構な裏投資が実はあるんだろうから、
斜陽な業界、むしろ、ほかの新聞社より長生きするだろう。
だったら、
購買数が減ることを待つよりも、もっと能動的に仕掛けたほうが…
消滅はせぬまでも、皆がタブロイド紙と変わらぬくらいに思うまで、
この国お得意の、ウンザリするほどの総バッシングは、、
この後、さらに国益を損ねぬためには、必要かも知れない。
いや必要だ。
溺れる犬を棒でつつくのは、『アンチ・マジョリティー』とは言わないけれど、
雪印とか、船場吉兆とか、耐震偽装とかの例とは次元が違う、
朝日がしたことは、かなり、歴史に燦然と輝くほどに罪深い。
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