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『従軍慰安婦』論争/ 吉見義明 VS 秦郁彦 1R

転載元
荻上チキ・セッション22 TBSラジオ
2013年6月13日

(大阪市庁舎内 記者会見)
橋下市長
軍自体、日本政府自体が暴行脅迫をして拉致をしたという、女性を拉致をしたという、そういう事実は今のところ証拠として裏付けられていないので、
そこはしっかり言っていかないといけないと思いますよ。

当時、慰安婦制度は各国の軍は持ってたんです。
当時はそういうもんだったんです。
ところが、なぜ欧米の方でね、日本のいわゆる従軍慰安婦問題だけ取り上げられたかと言ったら、
強制的に意に反して、慰安婦を拉致してですね、そういう職業に就かせたと。
レイプ国家だっていうことで、世界は非難してるんだっていうところをね、もっと日本人はね、
世界からどういう目で見られているかっていうところをもっと認識しなきゃいけないです。
------


荻上チキ
最初の論点ですが、橋下市長の発言がありましたが、その件で質問メールが来ています。

『橋下市長の一連の発言について、政治学的、歴史学的な面からどう評価されているか、お聞きしたいです』

秦郁彦
そうですね、まず、その政治的ということはね、歴史観側からはあれこれ言うべきことではないと思いますが、
まぁとにかく舌足らずであったと、そういう部分があちこちに見られたと、その辺が大きくクローズアップされたと思うんですね。
で、これは全然予定してなかったのがちょっと逸れて、この問題に入ったということで、まぁそういうことも考えてあげなきゃいかんだろうと思うんですけども。
事実関係に対してはですね、私は大体その通りだったと、ほぼ正確だったというふうに感じています。

荻上
例えば舌足らずだったというところはどういうところですかね。


例えばですね、新聞報道なんかでは、当時のというのが、最初は抜けてたんですね。
ですから、まさに現在の時点でですね、慰安所は必要であったと、いうふうに彼が考えていると、とられたようですね。
後で言い直しましたよね。
だからこれはですね、聞いてる方もね、彼はずーっと戦後も後の生まれですし、
当時の日本軍の指導者たちが、慰安婦を、慰安所は必要であったと、考えて設立したと。
つまりそういう意味なんですね、本当は。
で、それが意図としてはちょっと舌足らずになっちゃったということでね。
他にもそういうのが何か所かあったと思います。

荻上
そのあとメディアに対して誤報だといったり、論争になったりしたということですけども、
橋下市長の会見について吉見さんはいかが思われたでしょうか。

吉見義明
うーん、まぁ、ちょっとビックリするような、とんでもない発言だったというふうに思いましたね。
というのはですね、舌足らずだったと仰いましたけれども、
慰安婦制度が必要なのは誰だってわかるわけです、というふうに仰っているわけで、これ素直に読めばですね、当時も現在も必要だったという発言になるわけですね。
それとセットになって、事実上、沖縄の米軍に風俗業の活用を勧めると、事実上買春を勧めるという考え方がピタリと平仄が合うわけですよ。
失言だとか舌足らずだとかじゃなくて、本音でそういうふうに言って、未だに撤回していないという点が非常に大きな問題だと思いますね。

荻上
今は許されませんよ、といった発言もそのあとにあったと思いますが、
それは別ということですか。

吉見
在沖米軍に風俗業の活用を勧めるということは撤回されましたけれども、
当時は彼はそれでいいんだというふうに思ってたんでしょうね。
ただし、前の方の発言はマスメディアの誤解だというふうに逃げてるわけですね。
未だに撤回はしてないわけですが、それは非常に不誠実な態度だと思いますね。

(サルメラ 誤解ではない。誤報、あるいは意図的な曲解、慰安婦問題を口にする政治家を問答無用にエジキにしてきたマスコミのいつものやり口だ。
ただ、橋下は他の根性なしの政治家と違い、最後まで謝らなかった、退かなかった、ということだ)

荻上
先ほど秦さんの方が、歴史的な事実に対しては大筋では正しいと言われてましたが、吉見さんは彼の思想とは別に、歴史の認識という面ではどうお考えですか。

吉見
歴史的な事実としても彼はよく知らないということではないかと思いますね。

荻上
どういう点で感じましたか。

吉見
一つは慰安所で女性たちに対する強制があったということ自体を否定しているわけですね。
それから慰安婦制度が性奴隷制度であるということも否定している。
しかし実際に、女性たちは慰安所に閉じ込められてですね、数多くの軍人の性の相手をさせられた。
で、それが非常にひどい状態であるというわけですね。
しかも、慰安所の制度というのは軍がつくった制度ですけれども、例えば居住の自由、もないわけですよ。
それから外出の自由もない。
廃業の自由もない、拒否する自由もない、というような状況のなかで、軍人の性の相手をさせられているわけですので。
そういう事実を彼は見落としてないということでしょう。

荻上
事実をめぐるご意見はお二人それぞれあるので、リスナーの質問を受ける形で、様々議論していただきたいと思います。

南部
次の質問です。
『慰安婦という言葉はいつできて、誰が作った言葉なのか、
そして世界的には慰安婦と同じような意味の言葉はあるのでしょうか。
教えてください』


はっきりしないんですよ。
つまりね、慰安婦というのは少なくとも日中戦争期の軍の公文書のなかにも出てくるんですよね、慰安婦という言葉は。
それに従軍という言葉をつけたのは戦後、千田夏光 氏だといわれてるんですけど。
これもね確実とは言えませんね。
で、慰安婦とですね、どういう存在なのかというと、当時、日本は公娼制、つまり売春をですね、政府が認めてたわけです。
現在でも認めている国がありますけどね。
で、その業に従事している女性たちですね、これを娼妓と呼んでいたわけです。
ですから戦地における娼妓が慰安婦だと、実態はそういうことで、基本的には同じ公娼制のですね、延長線上であったと、考えていいと思います。

荻上
延長線上ということは全く同じものではないということですかね。


まぁ、それはあの、当然のことながら一応戦地ですからね。
だから一番大きな違いはですね、内地の売春婦は、警察が監督してたわけですね。
で、戦地に行った場合には、慰安所の慰安婦たちは憲兵と軍医が監督してたわけです。
その違いですけどね。
憲兵はセキュリティ、つまり秘密漏洩とか、そういうことを防ぐためにですね、やはり関与してたということで、それ以外は大体、形態としてはそのまま延長線上、ということでね、
同じ女性が内地の遊郭で働いていて、今度はその高い給与をね、取れそうだということと、動員が大規模になりますとですね、内地から男はどんどん減っていくんですよ。
戦地に移っちゃうわけですね。
ですから、そこへ移動して同じことをやると、そういう意味です。

荻上
元々、公娼だった方も参加され、その延長線上だったということ、制度としては違う部分はあるけれども、意味合いとしては同じということになるわけですかね。


制度上の違いじゃないですかね。
私に言わせればほぼ同じと考えていい。

荻上
ほぼ同じ。


ええ。

荻上
吉見さんいかがでしょうか。

吉見
両者に関連があるということは言えると思いますけれども、明らかに別のものだと思うんですね。

荻上
公娼と慰安婦制度というものは。

吉見
ええ。
何故かっていうと、内地にある公娼というのは民間の業者が全部運営してるわけです。
軍の慰安所というのはそうではなくて、軍がつくりですね、軍が例えば建物を接収して、業者に使わせる場合もありますけれども、女性を集めるのも、軍が直接やる場合、それから軍が選定した業者に集めさせる場合もありますけれど、軍がやってるわけですよね。
それから慰安所の、規則も料金も軍が決めてるわけですよね、それから実際にそこを利用するのは、軍人、軍属に限られてるわけで、民間人はそこを使えないわけですから、明らかに違う、ということだと思うんですね。
それからもう一つは、内地の公娼制度も、僕は性奴隷制度だと思いますけれども、それはなぜかっていうと、要するに人身売買を基礎にして成り立っているわけですよね。
確かに、人身売買は公認されていて犯罪ではなかったわけですけれども、
慰安婦制度の場合はですね、その公娼制度よりももっと、なんていうんですかね、性奴隷制度の性格が強い。
それは例えば、内地の公娼制度の下ではですね、自由廃業という規定があったわけですね。
これ自由廃業っていうのは娼妓をやめようと思えば、すぐに辞められる権利なんです。
ただこれは実際は、紙の上の権利でしかないわけですけれども、まぁ、一応そういうものがあったわけですが。

荻上
公娼で携わっていた女性の告発とか日記とか見ても、やめさせられないという文章も当時もありましたですし。

吉見
そうですね。

荻上
今もね、風俗などもやめさせてくれない店などあったりしますけれどもね。

吉見
まぁ、建前としては辞められる、自由廃業の規定があったわけですけども、軍の慰安所では自由廃業の規定すらないわけですよ。
それは明らかに違うと思うんです。

荻上
なるほど。
元々の公娼制度も今から考えたら性奴隷的だと取れるし、ましてや軍の関わった慰安所に関しては、公娼よりもさらに進んで酷いという評価は妥当だろうということですかね。

吉見
それからもう一つはですね、国内で人身売買は犯罪ではなかったわけです、当時の刑法で。
国外に連れて行く場合は、国外移送目的人身売買罪というのがきちんとあるわけですよね。
女性たちが人身売買で、海外に連れてかれてですね、慰安所に入れられたとすれば、これは犯罪なわけですよ。

荻上
これは日本政府が犯罪だとしていたと。

吉見
そうですね。
当時の刑法でそれは3年以上の懲役、という非常に重い刑罰を科すことになっていたわけです。
で、仮に、人身売買をされて、慰安所に入れられたとすればですね、慰安所っていうのは軍の施設ですから、
そうすると、そこで女性たちを、いわば使役し続けるわけですから、軍の責任が生じてくる。
犯罪に加担してると言われてもしょうがないということになるわけですね。
それは明らかに違うと思いますね。

荻上
秦さん吉見さんの今の意見どうですかね。


ちょっと私それはね、同意しかねますね。
内地の公娼制をね、これ奴隷だということになってくると、
そうすると、今現在オランダの飾り窓のね、女性たち、ドイツも公認してますしね、それからアメリカでもね、連邦はだめだけれども、ネバダ州は公認してるんですよ。
これみな奴隷、性奴隷てことになりますよね。

吉見
それは人身売買によって女性たちがそこに入れられてるわけですか?


人身売買がなければ、奴隷じゃないわけですか。
志願した人もいるわけでしょ?
高い給料に惹かれてねぇ。

吉見
それは、まぁセックスワークをどういうふうに認めるかということについてはいろいろ議論があってですね。
それはむつかしいわけですけれども、少なくとも、人身売買を基にしてこういうシステムが成り立ってる場合は、
それは性奴隷制というほかないんじゃないですか。


自由志願制の場合どうなるんですか?

吉見
それは性奴隷制とは必ずしも言えないんじゃないでしょうか。


言えない?公娼であっても。

吉見
まぁ、それは本人が自由意思でですね、仮にそういうことを性労働をしているのであれば、それは強制とは言えないし、性奴隷制とも言えないでしょうね。


だからね、日本の身売りっていうのはありましたね。
身売りっていうのはこれは人身売買だから、これいかん、てことになってるんですよ。
日本の法律でね。ですから・・・

吉見
いつ、いかん、てことになってるんですか?


人身売買自体をほら、マリールイズ号事件の時からあるでしょう。ね?
だから、人・・・

吉見
それはだけど、たしかにあるけれども、それは建前なわけですよね。


建前にしろですよ。
それでね、建前にしろですね、人身売買っていうのは、だいたい親が娘を売るわけですけれどもね。
売ったという形にしないわけですよ。
要するに金を借り入れたと。
で、それを返済するまでね、娘が・・・これを年季奉公と言ったりなんかするんですけどね、その間、その性サービスをやらされるってことなんでね。
それでね、娘には必ずしも実情が伝えられてないわけですね。
だからね、しかし、いわゆる身売りなんですね。
あれ昭和・・・

荻上
行ってみたら、こんなはずじゃなかった、というような手記が残っていた場合もあるわけですよね。


騙しと思う場合もあるでしょう。
だから1936年のね、調査っていうのはあるんですが、
こういう売春婦達のですね、調査をやったところ、なぜなったかということについてですね、
家庭の事情というのがね、96%なんですよ。
つまり、娘達は親が自分を売ったということは思いたくないし、
で、そうであってもですね、これは言うに忍びない。
これは朝鮮の場合も同じだと思います。
だからそうするとね、娘たちは、騙されたと感じるのもあるでしょう、親も言いそびれますよね。
だからね、これはね、自由意思か、自由意思でないか、っていうのは非常に難しいんですね。
やはり家族のためにということですと、これ誰が判定するんですか?

吉見
いや、そこに明らかに金を払ってですね、女性の人身を、拘束してるわけですから。
それはもう人身売買というほかないんじゃないですか?

荻上
ちょっと時期は違いますけれども
吉原花魁日記とか、春駒日記とかの大正期の資料なんかには、
親に働いて来いと言われたけど、実際に来てみたら、このことだとは知らなかったと。
このようなケースもあったりするわけですよね。
それは親もあえて騙していたかもしれないし、
周りの人もお金が稼げていいね、と誉のように言うんだけれど、内実の話は周りも知らなかったっていう話は、いろいろあったりしますよね。

吉見
まぁ、実際にはあれでしょ。
売春によって借金を返すっていう、そういうシステムになってるわけでしょ。


今だってそれはあるわけですよ。

吉見
それは、それこそまさに人身売買であって、それが問題になるんじゃないですか?


じゃ、あなた、ネバダ州に行って、あなた、大きな声でそれを弾劾するだけの勇気がありますか?

吉見
いやいや、もし、それがですね、人身売買であればそれはやっぱり弾劾される・・・


いやだから志願してる場合ですよ、自発的に。
自発か、売買か、
どこで区別するんですか。

吉見
いやいや、何を言ってるんですかあなたは!
売春で借金を返済するという、契約の下で・・・


契約じゃないんですよそれは。
回歴後、返済するってことですからね。
大審院はね、逃げても構わないと。
しかし、最後は残ると、いうことですから。
結局やめられないんですよ。親が・・・

吉見
いや、それは、それは当時のですね、判決自体に問題があるわけですよ。


大審院の判決?

吉見
そうです。


だけど、みんな継がなきゃいかんですよ。
当時の人間は・・・

吉見
うん、あの結局ですね、一つの契約を二つに分けてね、売春で借金を返すのは違法だけれども、
借りた借金は返さないといけないっていう、判決がでるから、結局、女性たちは、遊郭から逃れられなかったわけですよ。

荻上
ここでいったん整理させていただきます。
公娼制度の中で、人身売買などの、性奴隷というふうに いわれるケースもあっただろうし、同意のものもあっただろう、
それは個々人によって見てはわからないけれど、
全否定することもできないだろうけれども、
全員がそうだったとも言えないわけですよね。
その実態というのはわからないと。
けれども慰安婦というもののなかで、公娼制度と同じような評価をするのであれば、そうしたものと同程度のものも、それこそ本人の意図に合わないものもあったんじゃないか。
吉見さんの言いたいことっていうのはそういったことなんでしょうかね?

吉見
僕は、日本軍慰安婦制度はですね、一つは人身売買を基礎にして成り立っている。
それからもう一つは、朝鮮から連れてかれた女性たちの中に非常に多いわけですけれども、
騙して連れてかれるケースが多いわけですね。
騙して連れて行くっていうのは当時の刑法でいうと、誘拐罪に該当するわけですよね。
だからその誘拐罪を基礎にして成り立っている。
それからある場合は、法律上でいうと略取と言いますけれども、
暴行脅迫を用いて、連れて行くケースも、あるわけですよね。
それからもう一つ、付け加えて言いますと、例えば占領地なんかでは、軍がですね、地元の有力者に女性を出せというふうに、要求をしますよね。
でこれは、現地の軍がオールマイティなので断れないと。
そうすると誰か犠牲者を差し出せということになるんですが、これは権力濫用による半強制。
中国なんかではこういう例が非常に多かったと思うんですが、
そういうものを基礎にして成り立っているシステムだと思うんですね。

荻上
今の話は意に反して、慰安婦になる人がいたとした場合、その意に反してさせたのはだれか、とつながってくると思うんですけど、秦さんの考えだとどうですかね?


それはねぇ、朝鮮人たちの身の上話であるんですよ。
これがね身の上話AとかBとかね、
酷いのになると一式5通りぐらいあるんですよ。

荻上
証言がですか?


そうそうそう、
それでね、どれが本当かわからないけどね、だからある段階から、朝鮮人の慰安婦のね、慰安婦になった同期としてはですね、主語を全部外しちゃったんですよ。
つまりね、騙されてとか、連行されてと、いうのをね、これ取っちゃったんですね。

荻上
証言の中から?


証言の上からね、で、これはあの、向こうの支援団体の挺対協というのがね、当然、協議してやってると思うんですよ。

荻上
向こうというのは韓国のことですよね。


ええ韓国ですね、ですから、なぜ主語が無いかと言うと、これは私に言わせてもらえば、これ皆、朝鮮人なんですよ。
朝鮮人の親が、朝鮮人のブローカーに売って、そのブローカーが、朝鮮人の抱え主にまた売ると、ね?
いうことで、ここまではほぼ一本ですよ。
この中でね、だから、その中の内情というのはわかりません。
だから一切、それは韓国側からは出てこないわけです。
だから私は初期のころね、ブローカーを見つければね、全貌がすぐわかるよっていうんですけどね、日本はね、そんなことはね、到底、韓国政府には頼めないっちゅうんですよ。
だから一切ブローカーが出てきたことない。
それから親が売ったという話も出てこないわけですね。
だけど大体、私は大多数は今のルートで、それでその抱え主ね、になると、これ日本人もいます。
で、それが戦地に行って、軍と渡りをつけるわけです。
そうすっと、これ需要と供給ですからね、一種の商談なんですよ。
だからどっちが頼んでとか、どっちが主導してとかいう、そういう問題じゃないんですね。

荻上
そうすると、そういう市場があって、それに商品を提供していた側というのはそれこそ韓国の側、ブローカーの側とか、家族の側から提供していたのであって、
そこに騙されたというのがあったとしても、そこに軍の責任などを問われるような類のものではないんじゃないかと、いうことですかね。


それはなぜかって言いますとね、
このブローカーまでの段階というのは、契約というのがあるわけですよね。
それから抱え主との間までも、契約書はある。
それから軍と抱え主との間でね。
連れてきた慰安婦も、それから抱え主も、軍のメンバーじゃないんですよ。
嘱託でもなければ・・・
だから、御用商人なんですよ。
御用商人が女性たちを連れてきていかがですか、と・・・っていうことで商談、一種の商談が行われると。
で、その結果、両方の、需要と供給が合致してですね、それでそこに慰安所ができると。
ま、こういうことですよね。
簡単に言えば。

荻上
一つだけ確認なんですけど、その御用商人というのは、誰でもなれたというわけではないんですか。
ある種の許可制と言いますか、軍の許可証を持ってないと、というのもあるわけですか。


いやいやいや、そうじゃないです。
それはいろいろなコネやなんかでね、ルートをつけて、御用商人って、みんなそうでしょ?
この人は宮中御用達、なんて看板出してるのもありますけれどもね。
あれは一体、本当に認めてるのかどうかわかりませんよね?
納入したこと一回でもあると、そういうふうに言ってるのかもしれません。
だから、私は御用商人だと、考えればいいわけで、
だから民法上の関係はそこで切れちゃうわけです。
だから、軍の方では女性たちがね、どうやって連れてこられたかということはわからない。

荻上
その段階で軍の責任は切れている、という話だと思いますけれど、
吉見さんは今の責任論についてはどうですかね?

吉見
ええとですね、
まず、業者ですけれども、これは軍が選定した業者ですね。
あるいは、軍が頼まれて総督府が選定した業者が集めているわけですよね。
身分は、軍属の待遇を与えられている、と思います。


違います。

吉見
いや違わないですよ。


軍属名簿というのはありますよ、ちゃんと。
それにありません。
だから、軍属待遇っていわれるでしょ?

吉見
ええ。


いかにも軍属と同じだと、ね。
しかし軍属だと給料が払われるはずですよ。

吉見
いや、あの国会のですね、厚生省の答弁なんかでは無給軍属だと、いうような言い方をしてますね。

荻上
無給軍属というのは給料を払われない?

吉見
給料は払われないけれども、純粋の民間人だと軍用船に乗せるわけにもいかないし、軍の施設を使わせるわけにもいかないので、そういう身分を与えているということですね、そういう言い方をすると・・・


女にも与えたということですか?

吉見
そうですね。


女にも軍属の?

吉見
無給軍属。


そんなのはありえませんよ。

吉見
というふうに、厚生省の答弁はしてますよ、ちゃんと・・・


それは一般論の話でしょ?

吉見
一般論じゃなくて、国会答弁でちゃんとそういうふうに・・・


ちゃんと慰安婦もと、言ってるんですか?

吉見
言ってますよ、ちゃんと。


それはありえないですね。

吉見
いや、あの・・・

荻上
それはいつごろの答弁ですか?

吉見
ええっと、ですね。
ちょっと待ってください。

荻上
当時のっていうことですか。

吉見
いや戦後ですね、戦後・・・


南方へ行く場合はね、あらゆる人がね、全部、船に乗っていかにゃいかんわけですよね。
それで船は全部、陸軍がコントロールしてるわけです、配船はね。
だから便宜供与なんですよ、それに乗るいろんな人はね。

吉見
だから民間人は乗れないわけですよね。


いや、乗れますよ、便宜供与で。

吉見
いや、それはだから軍属待遇・・・


たくさん進出してるんですよ、向こうにね。

吉見
軍属待遇にして、いるわけでしょ?


正式な軍属待遇じゃないんですよ。

荻上
特別にこの人たちは船に乗っていいというような形で・・・


ええ。許可するわけですよ。

荻上
その場その場で許可出してるというわけですね。そうなると・・・

吉見
昭和43年の社会労働委員会の会議録、昭和43年4月26日ですね。
『一応、戦地によって、施設宿舎等の便宜を与えるためには何か身分がなればなりませんので、無給の軍属というふうな身分を与えて、宿舎等、便宜を供与していた。
こういう実態でございます。』
という答弁がありますね。


誰ですか、答弁したのは。

吉見
これはですね、サネモト政府委員。
厚生省のお役人だと思うんですが・・・


厚生省がね、それは認識が間違ってますよ。

吉見
いや、実態に合ってるんじゃないですかね。


それはね、軍属待遇にするというね、事例なんか出てないはずですよ。
だからそれはね、乗船許可を出すということはね、「と見なす」というね、
そういうことであってですね、
なんら身分関係はないんですよ。

吉見
それからですね、外務省の公文書によりますと、慰安婦や慰安業者については軍従属者という身分を与えているわけですね。
この軍従属者っていうのは、純粋な民間人ではないということでしょうね。
それからもう一つはですね、その軍によって選定された業者は、例えば人身売買とか、誘拐という犯罪を犯して、女性を海外に連れて行ってですね、軍の慰安所に入れるわけですよね。
で、そのときに、軍の慰安所は女性たちをチェックしないかっていうとチェックしてるわけですよ、くわしく。


どうやってチェックするんですか。

吉見
それは契約関係を調べたりですね、いろんな書類を見てチェックしてるということは・・・


いやー、そいじゃわからんでしょ。
そんなことを書く人はいませんよ。

吉見
いや、それはね・・・


女たちもね、自分はね、無理やりね、連れてこられたなんて言いませんよ。
そしたらね、結局ね、仕事を失うんですよ。
いくらでも補給源はあるわけですからね。
そんなことは言いませんよ。

吉見
いや、そういう例があるんですよ。
言っている・・・


それはインフォーマルにでしょ。

吉見
いやいや、一つの例を示しますとですね、あの有名な、「漢口慰安所」という元軍医さんが書いたあの本の中にですね・・・


あぁ、あの本ですね。

吉見
日本から連れてこられた若い女性がですね、前歴もないと書かれているので、売春の経験のない女性ですね。
その女性が、性病検査の時にですね、
こういう風に言ってるわけですね、私は慰安所というところで、兵隊さんを慰めてあげると聞いてきたのに、こんなところでこんなことをさせられるとは知らなかった。
帰りたい、帰らせてくれ、というふうに泣いて、性病検査を拒んでいる。
その日はできなかった。
翌日、泣き腫らしてですね、体ブルブル震わせながら性病検査に応じるんですが、たぶん業者に殴られてそうされたんだろうというふうに長沢健一さんという軍医さんは言っているわけです。
つまり、慰安所の・・・

荻上
軍の関係者の側が言っているわけですか?

吉見
そうです。
この女性は慰安所で働くということは聞いてるんだけれども、その慰安所というのは何か、軍人の性の相手をさせられるっていうことを知らないできたわけですね。
ですから、これは騙して連れてこられてるわけですから、誘拐罪に該当するはずですね。


だってそれをどうやって立証するんですか。騙したということを。

吉見
いや、この女性がそういうふうに言って・・・


信じるわけですか、その人のいうことを。

吉見
勿論そうですよ。


だってどの程度のね、インテリジェンスのある人かわからないですがね、
慰安所行くといってですね、しかも戦地のですよ、誰かに聞きゃあいいじゃないですか、その辺の大人に。
ね?そうすりゃね・・・

吉見
そりゃあれですよ、秦さんみたいに教養のある人はそうだけれどもですね・・・


だって、そりゃレベルの高い人でしょ?わりと。それ違うんですか。

吉見
いや違いますよ、田舎から連れてこられた女性だというふうに・・・


それを言い出したらね・・・

吉見
いや違いますよ、田舎から連れてこられた女性だというふうに・・・


それを言い出したらね・・・

吉見
それからもう一つ言いますとですね、この女性は重い借金を負っている、というふうに長沢軍医は言っているわけです。


だからそれもおかしいですよね?

吉見
それでつまり、誘拐罪でもありですね、人身売買罪にもなるわけですよ。
ところが、結局この女性は解放されないでそのまま軍の慰安所に入れられてしまうわけですね。
これが犯罪だっていう認識が軍の側にないっていうのは、非常におかしいですよね。

荻上
認識としてということですかね。

吉見
こういう事態が起こったらですね、女性は解放して送り返さなきゃいけないはずですよね。


じゃあその前に業者の方の責任もありますわね。

吉見
業者は逮捕しなきゃいけないということになるわけですね。
そりゃもちろん、送り出した警察もちゃんとチェックしてないという問題もありますよね。

荻上
前提としてそうしたふうに嫌だ嫌だと言った場合は、帰るっていう自由はあったんですか?


借金を返せばね、借金を返せば何の問題もないわけですよ。

吉見
つまり、借金を返すまでに何年間かそこに拘束されるわけですよね。


そうすると親が最後は返さにゃいかんのですよ、親が。

吉見
それが性奴隷制度だっていうことですよ。


親が売ったのが悪いでしょ。

吉見
いやいや、秦さんがわかってないのはそこですよ。


どうして。

吉見
借金を返せば解放される、っていうんであれば、それはあれですよね、人身売買をそのまま認めてることになるじゃないですか。

荻上
ちょっとここで一通、質問メールが来ています。

南部
『従軍慰安婦だった女性たちは戦争が終わった後、無事故郷に帰れたんでしょうか?
多くの人が亡くなったという本を読みましたが、事実はどうだったかを教えてください』

荻上
その本のタイトルも気になりますが、これは秦さん、どうでしょう。


えー、私は自分の本の中でね、それを計算したんです。
生還率は控えめにみて、9割以上と。

荻上
9割以上。


ええ、実際はね、日赤の看護婦さんなんかがね、96%以上なんですよ、生還がね。
大体ね、慰安婦とそれから看護士さんによる野戦病院はね、前線から離れた、比較的安全な場所にいたわけですね。
しかし戦争末期になりますとね、そうもいかなくて、戦闘に巻き込まれたこともあるし逃げ遅れてね、それから玉砕地っていうのがあるでしょ?島でね。
だからそういうのも考慮にしましてね、私は日赤の看護婦さんの、生還率より低かったことはないだろうと。

荻上
そうなると大体9割以上はあるだろうと。


ええ、そうです。

荻上
吉見さん、どれぐらいの方が還られたんでしょうね。

吉見
何%というのを計算したことはないんでわからないんですけれども、たぶん日赤の看護婦さんよりももっと生還率は悪かったんじゃないかと思いますね。
というのは、慰安所の生活というのは非常に厳しくてですね、毎日数人から数十人の男性、軍人の相手をさせられるということが続くわけですよね。
その中で性病を移されたり、体を悪くしたり、そこで病気で亡くなるっていうケースも非常に多いと思いますので、戦地で命を落とした、女性は決して少なくなかったんではないかということは言えると思うんですね。

荻上
まぁ、これももちろん推計ということで、実際にそういった名簿がもちろんあるわけではないので、カウントすることは難しいと思うんですが。

この後も橋下市長の会見などでもしばしば話題になる、強制連行ということもありますし、また軍の関与とか、その後の論争以降の責任の取り方論などの議論のポイントを、続けていきたいと思います。

(サルメラ やや、質問の意図とその回答がズレてるというのが個人的印象。
とくに、吉見教授から聞きたかったのは、
人身売買云々の、誰の責任、誰の罪なのかが まぎらわしい話でなく、もっと直接的な、
『道端歩く女性を突然脅しつけトラックに乗せるという誘拐の例は頻繁にあったのか』
『過労とか病死とかでなく、いわゆる拷問などによるリンチ殺人が特殊でなく、何例もあがっているのか』
というところ、
吉見教授もこうした物語を信じているのか、ということだ)



荻上
強制連行や河野談話の評価についての話をしようと思っているんですが、秦さんから先ほどの議論の補足があるということで、いかがでしょうか。


最近あの、吉見さんがですね、しばしば繰り返して仰ってることなんですけれども、強制連行があったかどうかっていうのは、大した話じゃないと、今はね。
現在は4つの自由がなかった、慰安所における性奴隷というね、こちらの方がずっと重要なんだと、いうことを何度も言っておられるんで。
で、私は強制連行はなかったと思いますけれども、また議論するとね、橋下さんのような議論になっちゃいますんでね。 
今の慰安所の状況がそんなに酷いものであったのかどうかと、いうことをちょっと申し上げたいと思うんですけれども・・・

荻上
劣悪な環境で働かされた、だから性奴隷だっていうけれど、そもそも劣悪だったのか疑問があると。


そういうことです。
4つの自由というのはね、これは吉見さんが居住の自由、外出の自由、廃業の自由、接客拒否の自由、がないというね。それをない、
それは慰安所の女性が文字通りの性奴隷だ、というふうに述べておられるわけですよ。
それがところが、吉見さんが編纂された従軍慰安婦資料集というのがあるんですね。
これにですね、1944年、北ビルマに捕えられた韓国人の慰安婦20人に対する米軍の尋問書というのがね、入ってるわけですよ、訳されたものがね。
で、その中でどういう生活だったんだということを聞かれてですね、こういうくだりがあるんです。
『兵隊さんと一緒に、運動会、ピクニック、演芸会、夕食会などに出席して楽しく過ごした。
それから次にですね、お金はたっぷり貰っていたので、暮らし向きは良かった。』

荻上
それは慰安婦当事者の発言ですか?


そうですね、20人の証言です。
それから蓄音機も持ち、都会では買い物に出かけることが許されたと、接客を断る権利も認められたと、それから一部の慰安婦は、朝鮮に帰ることを許されたと。
兵隊さんから結婚申し込みの例はたくさんありましたと、いうのがありましてね。
何よりも月の収入がですね、750円、彼女たちのね、その頃日本の兵隊さんはね、命を的に戦ってるんですけれど、月給は10円ぐらいなんですよ。
つまり、75倍という高収入を得ていたわけですね。

荻上
高収入でなおかつ楽しかったという発言があると。


それもありますね、それから日赤の看護婦さんの10倍です、この金額は。
さらにですね、軍司令官や総理大臣より高いんです、この通りなら。
まぁ、大体似たり寄ったりだったと思うんで。
で、私はこういう状況下にある女性たちがね、性奴隷であったと思えませんね。
雇い主よりも遥かに高い収入を得ている奴隷なんてこの世の中にいます?

荻上
っていうのは、今の吉見さんへの質問ということですね。いかがでしょう。

吉見
ええとですね、まずこれは女性たちがこういうふうに言ったと 仰いましたけれども、
この尋問調書はですね、2名の業者と、それから20人の朝鮮人女性のヒアリングを、アレックス・ヨリチという人が聞いて、まとめてるわけ・・・どの部分が、被害者の女性の証言であり、どの部分が加害者側の証言かよくわからないという点があります。
それからもう一つはですね、将兵と一緒にスポーツ行事に参加したというふうなことがありますが、これは多分ですね、戦地で女性がいないので、慰安婦をそういうところに連れ出すとか、宴会に連れ出すと、いうようなことであったと思います。
夕食会に出席したということも、あると思うんですね。
もう一つは高収入だということですけれども、当時のですね、ビルマのものすごいインフレということをですね、考慮に入れておられないというのは非常におかしなことだと思いますね。
ビルマはですね、軍票を大量に増発して、1943年ごろからものすごいインフレになるわけですね、

荻上
インフレというのはお金の価値が下がるということですよね。

吉見
そうです、1945年になるともう軍票はもうほとんど無価値。
それで女性たちがなぜそれだけのお金を持っているかというと、慰安所に通う軍人がですね、持ってても何も買えないので、チップとして女性たちに渡すわけですよね。

南部
すいません、軍票ってなんでしょう?

吉見
軍隊が占領地で発行する、軍用手票っていう紙幣に代わるものですね。
で、この時期は南洋開発銀行というのがそういうものを出してたわけですよね。

荻上
後ほどお金に引き換えるっていう。

吉見
そうですね、まあ一応。
現地のまあ、例えば1ルピーは日本円で1円ということになっていたんですけれども、内地と比べてですね、ものすごいインフレになるので、外資金庫というのをつくって、そのインフレが内地に及ばないようにしていた訳ですね。
で、現地ではその軍票を持っていても、ほとんど何も買えないので。

荻上
名目上の金額だけだったと。

吉見
ええ、ほとんどそういう状態になってるわけ。 
それからもうひとつはですね、秦さんが引用されなかったところがあるんですけれでも、えーと、女性達はですね、それだけのお金を持っているけれども、すぐに生活困難に陥ったと、いうふうなことが書いてあるんですね。

荻上
同じ証言ですか?

吉見
ええ、同じ証言です。
もしそれが高額であればですね、どうして生活困難に陥ることが起こるんでしょうかね?
これはインフレということを考えないとわからないんではないかと思います。
それからもう一つは、同じ引用されたこの「捕虜尋問報告」の一番初めでですね、女性達はどういう形でビルマに連れて来られたのかということを書いてる部分があるんですけれども、その部分を見ますとですね、
こういうふうに言っています。
1942年5月に日本の周旋業者達が朝鮮にやってきて、女性達を集めた訳ですけれども、その役務の、まあ仕事の性格は明示されなかったけれども、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせる事に関わる仕事であると考えられていた。
これはまあ誘拐ですよね、騙して連れてくるわけですから。

荻上
う~ん。

吉見
それから、これらの周旋業者の用いる誘いの言葉は、多額の金銭と家族の負債を返済する好機、それに楽な仕事と新天地における新生活という将来性である。
これは甘言にあたるので、これも誘拐罪を構成します。
で、このような偽りの説明を信じて多くの女性が海外勤務に応募し、200~300円の前渡し金を受け取った、というふうにありますので、人身売買でもあるわけです。

荻上
う~ん。

吉見
で、こうして、現地で慰安所の生活に拘束されたというふうに書いているんですよね。

荻上
じゃあ、ちょっと今の質問に変えますと、当時インフレだったということを考慮しないのか、というのが一点と、それから、その、今読みあげていただいた方々のそもそも来た理由というものが、甘言、騙されて来ている方々なので、それはどうなんだ、っていう話で・・・


あれは騙したんですよ。

萩上
誰が騙したんでしょうか?


まずほとんど朝鮮人でしょうね。

吉見
これ日本の周旋業者って書いてありますよ。


え?

吉見
日本の周旋業者が朝鮮にやってきて・・・


日本人のですか?

吉見
いやいや、日本のだから日本人でしょう。
                           

いや、当時、日本人なんですよ朝鮮人はね。いや、だいたいね・・・

吉見
それはですね・・・


当時ね、朝鮮に住んでた日本人でね、朝鮮語でね、朝鮮人を騙せるほどね、朝鮮語の上手い人、ほとんどひとりもいなかったと思います。
だから、騙せませんよ。

吉見
元締めが、日本の業者で、手足としてですね、地元の業者を使うということはよくあることですよね。
それから、この周旋業者というのは軍に選定された人物であって、軍から色々、便宜を計ってもらって、まあ誘拐とか人身売買やってるわけですよね。
しかしこれは犯罪なわけでしょ。
それで、連れてった元はどこに入れるかっていうと、軍の施設である慰安所に入れるわけですよね。
そうするとそこで軍の責任は発生しないんですか?
どういうふうにお考えですか?


そこは関係がないわけですよ。
朝鮮総督府の管内で、ですよ。

吉見
いやいや・・・


朝鮮人が、騙したということね。
で、それをね、ちゃんとその旅行許可を出してるわけでしょ。
そうするとね、朝鮮人の巡査もいたわけですな。
それでどうしてそういう騙しを摘発しなかったんですか?

萩上
う~ん。
あのちょっと先ほどの話に戻ってですね、気になったのが、先ほど、そういった証言もあって楽しかったという話もあったということなんですけれども、それは他の慰安所でも同様に楽しかったということになるんでしょうか?


例えばね、こういうのがあります。
文玉珠(ムン・オクチュ)というね、慰安婦なんですがね。
彼女の一代記が本になってるんですよ。
これがね、山川菊枝賞をもらったと・・・

荻上
当事者の発言が、ということですか?


いや、ですから回想記で、一代記です。元慰安婦のね。
で、彼女は色んなところを転々としたんですけれども、最後ビルマに行ってるんわけ。
で、ラングーンにいたんです、これ首都のね。
利口で陽気で面倒見の良い慰安婦として、将軍から兵隊までね、人気を集め、チップが降るように集まったと。

萩上
はい。


それで、5万円貯金が出来たと、2年余りでね。
そのうち5000円を軍用郵便で、下関郵便局へ送ったわけです。

萩上
それは何年頃の話ですか?


昭和18年。戦争中ですね。
ですからね。これなんかもね、非常に楽しかったと、いうのが基調なんですよ。
だからね、中には悲惨な人もいたかもしれない。
しかしね、兵隊たちに良いサービスをしてもらうために、軍もそれなりに気を使うわけです。
それで、業者との間では大体、慰安婦側に立って有利になるようにしてやっている。
だからね、さっきの米軍の尋問調書でね、あれでもやっぱり性奴隷だと仰るんですか?

吉見
そうですね。


ほう。だって四つの自由のうち、三つの自由は完全にあったわけですよ?

吉見
いやいや・・・


居住の自由っていうのはね、これはね、看護婦さんもないですよ、居住の自由は。
だってね、まさか戦地でね、バスで通勤なんていうね、アパートも借りてなんて、そんなことはあり得ないでしょう。

吉見
それはあの看護婦さんと、それから慰安婦の女性達がさせられている事柄は全く違うじゃないですか。
看護をするというのはですね、本人にとってはそれは名誉なことですけれども、軍人たちの性の相手を毎日させられるということと、全く性格が違うんじゃないですか。


それを論じたってしょうがないでしょう。
職業のひとつとして割り切ってるんだから。その代わりね・・・

吉見
いや、職業だと仰いますけれども・・・


嫌な仕事かもしれないけどね。

吉見
誘拐で連れていかれた・・・


軍司令官よりも高い給料もらってんだからね、みんななりたがるんですよ。

吉見
いや、それは幻想なわけでしょ。


…… to be continues.


(サルメラ こういう議論が不毛だと思う。
スーパーインフレで貨幣価値が下がって可哀相なのは慰安婦だけじゃないだろう。
劣悪な慰安所もあったろうし、そうでないところもあったろう。
いい思いした慰安婦もいたろうし、そうでなかったのもいるだろう。
騙したのは日本人もいたろうし、韓国人もいたろう。
そんなのは色々だ。
何でゼロか、100の議論になるんだ。
慰安婦制度は性奴隷制度だ。
それが当時、許されてた〝暗黙の了解〟制度だった。
ここまでは誰も異論はないだろう。
ここで議論してほしい核心は日本軍が率先して『強制連行』したか、どうか。
そして、それがあると言うなら、その証明責任は吉見教授にある。
ないことを証明するのでは悪魔の証明になってしまうのだから。
で、この部分、ここまで吉見はボカして議論し続けてるようにワタシには見える。

そして、
いよいよ、その核心に入る)

『従軍慰安婦』論争/ 吉見義明 VS 秦郁彦2R

荻上
こういった豊かなケースもあったというお話があったんですが、
あの、論点として強制連行というようなところがちょっと残っているので、吉見さんから、ちょっと伺っていきたいと思うんですけど。
強制連行に、軍があるいは政府が関与したという証拠は見つけられなかったということがね、あの、河野談話などでこう言われたり、今でもそういったこと言われたりする訳ですけれども、
では、その強制連行、つまり吉見さんが
例えば甘言とか誘拐とか、色んな話ありましたけど、強制連行っていうのは、そもそも何で、そうした事例はあったのか、なかったのか、
その観点について、もう一度、吉見さん、いかがでしょうか?

吉見
強制の問題はですね、やっぱりあの、慰安所での強制があったのか、どうかがすべてだと思うのですが・・・

荻上
労働実態が。

吉見
そうですね、労働と言うか、労働ではないですね、使役されているわけですから。

荻上
労働というか、その場所の、ということですね。

吉見
それからもうひとつは、連れて行かれる過程で色々な問題が起こっているわけですが、それは、軍官憲が直接やるかどうかは、一応、はずしますと、先ほど言いましたように略取とか、誘拐とか、人身売買で連れていくのがほとんどだったわけですよね。
そうして、朝鮮半島で誘拐や人身売買があったということは、秦さんも認めておられるわけですよね。
そこは異論はないわけですよね。


当然ですよ。それが大部分ですよ。

吉見
それで、例え業者がそういうことをやったとしても、その業者は軍に選定された業者であると。
で、実際に被害が生じるのは慰安所ですけれども、その慰安所というのは軍の施設であると。
軍がつくった軍の施設であるわけですね。
で、そこで女性達が誘拐とか人身売買で拘束をされているわけですね。
当然、軍に責任があるということになると思うんです。

荻上
なるほど。

吉見
それからもうひとつは、軍官憲が暴行、脅迫を用いてですね、連行したケースがなかったかどうかということですけれども、これは現在ではもう色々出てきていると思うんです。
まあ一番典型的なのは、オランダ政府が1994年に、白人女性の被害についての報告書を出しましたけれども、それを見ますと、軍官憲が関わった暴行、脅迫による連行のケースは未遂を含めて8件か9件くらいあると思います。
スマラン事件とか・・・

荻上
インドネシアの。

吉見
マリアン事件とかフローレス事件とかですね。
で、それは多分否定出来ないんじゃないかと思いますね。


もちろん

荻上
秦さんも本の中でそれは書かれていますね。

吉見
それから中国ではですね、4件、元慰安婦の方が提訴されて裁判になっておりますけれども、まあ、裁判では敗訴しますけれども、裁判所は事実認定をしてるわけですね。
その事実認定の中で、いずれも日本軍が暴行脅迫を用いて連行したということを認定しているわけです。
それは、官憲や軍人が、行ったもので・・・

荻上
それは、官憲や軍人が、行ったもので・・・

吉見
ええ、そうです。
でも、その秦さんからすると、例えば、それは軍が命令したわけじゃないだろうというふうには・・・


これはね、非常に大きな錯覚があるんですよ。

荻上
錯覚?


裁判所が認定したと、ね、言われますけどね、10数件そういう訴訟を起しているんですね。
全部敗訴なんですよ。
というよりね、最初から訴訟を起こしてもね、勝つ見込みはゼロなんですよ。
ではなぜ起こすのかというと、そういうことで運動を盛り上げて、たくさんのお仲間を集めて、募金もしてと、いう一種の政治活動、経済活動なんですね。

荻上
う~ん。


で、裁判所ではですね、これ何故かって言うと、戦前は国家無答責、国家は責任を負わない、過失についてね。
それから一番大事なのはね、時効なんですよ。

荻上
時効。


ええ、一番長い時効でも20年なんですよ。

吉見
いや、今問題になっているのはそういう事実があったかどうかという事実認定の話・・・


いや、だから。
だから争わないんですよ裁判所は。
バカバカしいでしょ。
もう最初で時効でだめだとわかっているのにですね・・・

吉見
裁判所は争わないんじゃないんじゃないですか?


事実認定は争わないんですよ。

吉見
裁判所は事実認定をしてるわけですから・・・


してないんですよ。

吉見
裁判所の判決に書いてあるから・・・


だって調査に行ってないから。
こういうふうにね、陳述をしましたというだけで、それに対してですね、これは間違っているとかそういうことを言ってないんですよ。

吉見
いや、そういうことがあったという事実認定をしているわけですよね。


これ非常にね、だから法学界で論争になってるんですよね。
どうしてね、そういう時に、検事側がですね、それに対して論戦を挑まないのかと、いうことなんだけれども、実際問題として、今の中国の話のようにですね、じゃあ中国から証人を呼んで来てくれ、ったってですね、
中国が応じるはずないでしょう。
だからね、それはすり替えなんですよ。

吉見
なんか、筋をはずしていると思いますよ、それは詭弁ですよ。

荻上
あのですね、議論が非常に盛り上がっているんですけれども、残り時間が短くなって、というか、もう残り一分になってしまったので、本当はですね、今後、例えば、どういった議論をしていくべきなのかとか、あるいはアジア女性基金など色々な経緯をふまえて、どういったルートがあり得るのか、など伺いたかったんですけど、まあ色々激論がかさむ二人なので、最後一言ずつですね、この慰安婦問題について、若い世代含めてどういったところに注目してほしいか、一言お願いします。
秦さん、いかがでしょう。


元々ね、この慰安婦問題というのは、まあ、後に支援勢力ということになりますけれども、日本と韓国の支援勢力がですね、やったことなんです、始めたことなんですね。
ですから韓国大統領が来てですね、2、3年後に、それで言ったことはね、この問題は、お宅の国の運動家とマスコミが一緒になってね、我々を怒らせたと、ね。
そういった経緯を知れということが、まあメッセージですね。

荻上
はい、すいません、時間が、一言だったので、はい。
残り30秒、吉見さんお願いします。

吉見
え~と、慰安婦問題についてはもう色んな事実が発掘されてきていますので、そういう事実をですね、ぜひ知っていただきたい、ということだと思いますね。
それから、まあ国際的には、これは性奴隷制度であるという認識は定着をしています。
それは根拠がきちんとあるものだと思います。
日本政府としてはですね、この問題を解決するためには、戦時性的賠償法案というものが出来ていますので、補償法案というものが出来ていますので、それを通せばこの問題は解決すると思います。

荻上
そういった議論の経緯をもう一回、今だから学び直そうということですね。

〈了〉



(サルメラ 吉見教授はこの議論の中で最後まで『強制連行』が、あった話なのか、歪曲・捏造が生んだ産物だったのか、はっきり言及しなかった。
つまり、吉見教授は、日本軍による強制連行は、これまで自身が研究してきた資料内には、どう見つけようとひっくり返しても、その記録はなかったと、認めてるワケだ。

軍の関与はあったにせよ、世界で日本だけが、軍という組織あげての、軍官憲が率先しての、女性たちを次々にトラックに積み込んでいった、いわゆる〝慰安婦狩り〟は、なかったと、
クワラスワミ報告にある『強制連行』の記述は証明されたものでないということを、認めるワケだ?

何でそこが重要なのかは、
以下の転載記事にゆずるとして、

吉見教授は最後に、

『日本政府としてはですね、この問題を解決するためには、戦時性的賠償法案というものが出来ていますので、補償法案というものが出来ていますので、それを通せばこの問題は解決すると思います』

このように言って締めくくったが、
有り得ない。
かの国のタカリ体質というか、反日勢力のイチャモンつけにはキリも果てもないということを、いい加減、日本政府も学んだはずだ。

一歩譲る、というやり方はかの国には通用しない。
とことん議論し、どこまでもやり合って、その中で互いの言いたいことを相手に聞かせ続ければいい。
その結果としてわかり会える日がくるなら歓迎する。
だが、今日ここまで、これほどまで引っ張ってきた話だ。
今さら中途半端な妥協はすべきではない。
もはや、落としどころを探る時期など、とうに過ぎた)


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◆クマラスワミ報告書の記述撤回要請…
日本政府、ク氏に面会し直接要請
2014.10.16

菅義偉 官房長官は16日の記者会見で、慰安婦を強制連行された「性奴隷」と認定した1996(平成8)年の国連人権委員会(当時、現在は国連人権理事会)の「クマラスワミ報告書」を作成したスリランカの女性法律家、クマラスワミ元特別報告者に直接、日本政府として報告書の一部を撤回するよう求めたことを明らかにした。
クマラスワミ氏は拒否した。

朝日新聞が8月、韓国の済州島で慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏の証言が虚偽だったとして、関連記事を取り消したことに伴う対応で、政府は慰安婦に関する国際社会の事実誤認を是正するため、さらに広報活動を強化する。

外務省によると、同省の佐藤地(くに)・女性人権人道担当大使が14日、米ニューヨークでクマラスワミ氏に面会し、「吉田証言」が引用された報告書の一部撤回を申し入れた。
佐藤氏は元慰安婦へ「償い金」を支給したアジア女性基金など日本のこれまでの取り組みも合わせて伝えた。

菅氏は記者会見で
「朝日新聞が慰安婦問題に関する報道が誤報だったと取り消したのでクマラスワミ氏に説明し、報告書に示された見解を修正するよう求めた。先方は『修正に応じられない』ということだった」
と述べた。

さらに
「政府としては今後、国連人権理事会をはじめ国際社会で適切な機会をとらえて、わが国の考え方を粘り強く説明し理解を得たい」
と強調した。

クマラスワミ報告書をめぐっては、菅氏が9月5日の記者会見で
「報告書の一部が朝日新聞が取り消した記事内容に影響を受けているのは間違いない」
と指摘していた。

政府は、慰安婦を含む歴史認識に関する対外広報戦略の強化を進めており、今年度の政府国際広報予算を昨年度の2倍に引き上げた。
来年度はさらに2倍以上にする方針だ。

このほか、クマラスワミ報告書が提出された直後に当時の日本政府が作成した「反論文書」の公開も検討している。
反論文書は現在、非公開となっている。


◆クマラスワミ報告書

国連人権委員会の「女性に対する暴力」特別報告官に任命されたスリランカ出身の女性法律家、ラディカ・クマラスワミ氏が日本や韓国で聞き取り調査などを行い、まとめた報告書。
朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田清治氏の虚偽の証言を引用しながら慰安婦を「性奴隷」と定義し、日本政府に法的責任の受け入れや元慰安婦への補償などを勧告している。




■クマラスワミ報告書
転載元 脱・洗脳史講座

◆「性奴隷」と定義づけた報告書
慰安婦を指して、欧米のメディアや米政治家はしばしばsex slave と表現します。

国連の人権委員会は1994年、ラディカ・クマラスワミ(スリランカ人)を「特別報告官」に任命、
彼女は1995年7月18日から10日間、実地調査のため韓国、日本を訪れました。
米下院における決議案採択の12年も前 のことでした。

調査結果は「実行関与者を処罰せよ」などとした「戦時の軍事的性的奴隷制問題に関する北朝鮮、韓国、および日本への訪問調査報告書」(=クマラスワミ報告書)としてまとめられ、翌年4月、同委員会で採択されました。

この報告書こそが国連・人権委員会の慰安婦問題に関する事実認識となったものであり、米下院の対日非難決議案の土台になったものです。

お気づきのように、タイトルに「軍事的性的奴隷制」(military sexsual slavery) なる用語が使われており、また報告書の第1章(定義)で「慰安婦=性奴隷」とした認識を示していますから、欧米政治家やメディアが慰安婦を「性奴隷」と書くのは事実関係を別にすれば一応もっともといえるでしょう。
それにメディア好みのセンセイショナルな表現でもありますし。

さらに、国連人権委員会の下部組織である差別小委員会の「マクドゥーガル報告書 」 があります。
1998年8月、同人権委員会で採択されたこの報告書はクマラスワミ報告書を下敷きにしたものでしたから、日本政府に「責任者の処罰と元慰安婦への損害賠償」を求めている点で軌を一にして当然でしょう。
「マクドガル報告書」については後述します。

クマラスワミ報告は元慰安婦の証言、文献、それに大学教授などこの問題に関する“有識者”からの聞き取りによって成立していますので、順に見ていきましょう。

◆これが元慰安婦の “証 言”
調査団が面接した元慰安婦は平壌で4人、ソウルで11人、東京で1人(在日朝鮮人)の合計14人でした。
このうち、報告書に引用されているのは4人ですが、いずれも信じ難いというか馬鹿馬鹿しい話ばかりです。
一例をあげます。

「日本軍兵士による性的暴行と強姦に加えて、これらの女性が耐えなければならなかった残酷で苛酷な取り扱いを、とくに反映している」例として、聞き取り時、74歳であった元慰安婦、チョン・オクスンの証言を以下のごとく取り上げています。

(要約)
《私は1920年、朝鮮半島北部咸鏡南道に生れました。
13歳のときの6月、井戸に水汲みに行った帰り、一人の日本兵に襲われ連れて行かれました。
トラックで警察署につれこまれ、数人の警官に強姦されました。
私が叫ぶと彼らは私の口に靴下を押し込み、強姦しつづけました。
私が泣いたので署長に左眼をなぐられ失明してしまいました。
10日後にヘイサン市の日本軍兵舎につれて行かれました。そこには400人の若い朝鮮女性がいて、
性奴隷として毎日5000人以上の日本兵の相手をさせられました。1日に40人もです。
私は抗議すると殴られ、抵抗を止めるまで秘所にマッチ棒を押し込まれ血だらけになりました。
また、仲間の一人が1日40人もなぜサービスするのかと苦情を言うと、
ヤマモト中隊長の命令で兵は女の衣服をはぎとって手足を縛り、
釘のついた板の上を釘が血と肉で覆われるまで転がし、最後に首を斬り落しました。
別の日本人は食べ物がないからと泣いている少女に「この人肉を食わせてやれ」といいました。
あるとき私たち40人はトラックで遠くの水たまりに連れて行かれました。
水たまりは水と蛇でいっぱいでした。
兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、生き埋めにしました。
兵舎にいた少女の半数以上が殺されました。
2度逃亡しましたが捕まり、いっそうひどい拷問を受けました。
胸、腹などに入れ墨をされ、気絶しました。気がつくと死体として捨てられ、山の陰にいました。
山に住む50歳くらいの男が見つけ、衣服と食べものをくれました。
私は性奴隷として5年間働かされ、18歳のとき子供を産めない体で帰国しました。》
(第54項)


こういった元慰安婦の「体験談」が、慰安婦制度の実態は「集団レイプ、強制堕胎、性的恥辱、性暴力」 だったとしたホンダ議員らの見解に大きな影響を与えたことは容易に読み取れるでしょう。
また、こうした「体験談」を朝鮮人、中国人はもとより、日本人でも信じる人が結構いますから、多くの欧米人が信じても不思議はありません。

《日本軍が残虐非道な軍隊であり、その過去が糾弾されることは、
人道に背く植民地運営、奴隷制度、原爆投下など、さまざまな過去を持つ欧米人にとって、
決してマイナスではなく、むしろ好ましいことなのですから》

この体験談が作り話である理由を秦 郁彦教授が次のように指摘しています。

1920年生まれの元慰安婦、チョン・オクスンが日本軍兵舎に連行されたのは1933(昭和8)年のことになります。
ですがこの当時、朝鮮半島は平時でしたから、遊郭はあったものの軍専用の慰安所はなかったのです。
また、朝鮮半島の日本軍は1万人余程度で、咸鏡南道には1個連隊(約2千人)しかいなかったし、5000人も入る兵舎はありませんでした。
にもかかわらず、
無理やり連行された「400人の若い朝鮮人女性が性奴隷として、毎日5000人以上の日本兵の相手をさせられた」といった体験談が国連・人権委員会の公式報告書に載り、慰安婦制度に関する認識に決定的といえるほどの影響を及ぼした一方、
これらに対して日本政府がこれといった抗議をせずに沈黙(静観)したことについて、毎度のこととはいえ、一日本人として実に腹立たしいかぎりです。

◆報告書は「落第点」
秦 郁彦教授
次に報告書に反映された資料について、実態を紹介します。

クマラスワミ報告書に2人の日本人学者が登場します。
彼女の聴取を受けたのは秦 郁彦・千葉大学教授(当時)と吉見 明・中央大学教授(同)です。

1995(平成7)年7月23日、クマラスワミ女史と白人の男女補佐官各1人と約1時間、説明と質疑に当たった秦教授は、
「歪められた私の論旨」とした一文を文藝春秋(1996年5月号)に掲載、
クマラスワミ報告書がいかに杜撰(ずさん)なものかを明らかにしています。

まず秦教授は、クマラスマミ報告書を、
「 結論から言えば、この報告書は欧米における一流大学の学生レポートなら落第点をつけざるをえないレベルのお粗末な作品である 」
と酷評します。

レポートを採点するときは、ます脚注を点検し、引用文献の数、参照した文献の質、必須文献で洩れたものがないか等の手順を踏むのが慣例とした上で、秦教授は、

「 この報告書では事実関係に関わる部分はすべてオーストラリア人ジャーナリストのG・ヒックス が1995年に刊行した『慰安婦』(The Comfort Women) という通俗書からの引用である。
利用した参考文献がたった1冊だけとなれば、丸写しと判定されても仕方がないところだが、そのヒックス書にも問題が多い」
と指摘。
落第点をつけた理由の一つと説明しています。

クワラスマミ特別報告官が事実関係を調べる上で、参考にした文献がたったの1冊となれば、報告書の信頼性に疑義がでて当然のことでしょう。
しかもヒックスの著作『慰安婦』について、秦教授は「非学術文献」 と断じ、この文献に「全面依存した不注意責任は、問わねばならない」としてクマラスワミ報告官を批判しています。

なお、ヒックスの本について、吉見 明教授も誤りが多いとしています。
秦教授が「非学術文献」とした理由を簡単に記しますと、同書は36の参考文献をあげているものの(秦論文ナシ)、
脚注がついていないため、どの文献に基づいて記述したのかが分からない仕組みになっていること、
また、ヒックスは日本語が読めないため、東京大学の高橋教授を通して在日韓国人のユミ・リー(女性)を紹介してもらい、彼女が日本の運動家たちから資料を集め(おそらく英訳もして)、ヒックスに送ったものだといい、
ヒックス自身が「資料の80%は彼女に依存した」と書いていることなどをあげています。

そしてこの書のについて、「初歩的な間違いと歪曲だらけで、救いようがないと感じた」 とし、初歩的な間違いを具体的に指摘しています。

◆正反対に書かれた報告書
クマラスワミ調査官に面談した秦教授は、「その9ヶ月前に彼女がまとめた『予備報告書』を読んで、大体の傾向は承知していたので、慎重に」次の諸点を聴取に際して強調したといいます。

① 慰安婦の「強制連行」について、日本側で唯一の証人とされる吉田 清治 は「職業的詐話師 」(professional liar)である。

② 暴力で連行されたと申し立てた慰安婦の証言で、客観的裏付けがとれたものは一例もない。

③ 慰安婦の雇用契約関係は日本軍との間にではなく、業者(慰安所の経営者)との間で 結ばれていた。

ところが、報告書は③について、
「歴史家で千葉大学の秦郁彦博士は・・・大多数の慰安婦は 日本陸軍と契約を交わしており、平均的な兵士の月給(15~20円)の110倍もの収入(1000~2000円)を得ていたと信じている、と述べた 」
と書いてありました。
これは③の説明と正反対の記述です。

また、吉田 清治についても、彼は「職業的詐話師」と説明したにもかかわらず、同報告書は吉田の著書『私の戦争 朝鮮人強制連行』(三一書房、1983年)をベースにして次のように記しました。

《元軍隊性的奴隷の証言は、募集の過程において広範に暴力及び強制手段が使われたことを語っている。
さらに、吉田清治は戦時中の経験を記録した彼の手記の中で、国家総動員法の労務報国会の下で、
1000人に及ぶ女性を慰安婦とするために行われた人狩り、
とりわけ朝鮮人に対するものに参加したことを認めた。》
(第29項。藤岡 信勝・元東大教授訳 )

みずから1000人強制連行(慰安婦狩り)に参加したとする吉田清治の証言が作り話で話であったことは、秦教授の現地調査(韓国・済州島)で証明され、後に吉田自身も認めていることです。
なお、吉田はクマラスマミ報告官の聴取を断っています。

この吉田清治を「良心的な証言者」とばかりに持ち上げた朝日新聞、無批判に追随したテレビ、また彼を英雄視した運動家などによって、慰安婦=強制連行説が日本、韓国はもちろん欧米においても大手を振るって歩きだしたのでした。
ですから、吉田の偽証が慰安婦強制連行説の原点とも言えるものなのです。

さらにつけ加えれば、偽証が判明したにもかかわらず、この事実を朝日新聞 はもちろん、慰安婦報道に入れ込んだNHK など、産経新聞を除くどの報道機関もニュースとして取り上げることはなかったのです。

◆マクドゥーガル報告書
慰安婦14万2千人が殺害された

クマラスワミ報告書が国連人権委員会で採択されたのが1996(平成8)年4月、そしてアフリカ系アメリカ人(女性)であるゲイ・マクドゥーガルの手になる報告書(マクドゥーガル報告書)が同委員会で採択されたのは1998年8月ですから、慰安婦問題に関する人権委員会の2番目の採択にあたります。

報告書の本文は旧ユーゴスラビアのコソボ問題、アフリカのルワンダ虐殺などで、慰安婦問題は付属文書(約50ページ)に記されました。
当然、クマラスワミ報告の影響を受けたでしょうから、日本政府に「責任者の処罰と元慰安婦への損害賠償」を求めたのは当然のことというべきでしょう。

報告書の冒頭、

《1932年から第2次世界大戦の終わりまでの間、
日本国政府および日本帝国軍隊は20万人を超える女性 を
アジア全体で存在した強姦所において性的奴隷とした》

と記してあり、慰安所を「レイプセンター」(rape center) と表現、
この言葉は15ヵ所もでてきます。
そして、「20万人以上の慰安婦のうち25%が生き延びた」 とも記されています。

となれば75%程度が死亡したことになりますから、実に15万人が殺害された計算になります。
1999(平成11)年6月2日、来日したマクドゥーガル女史の講演会が日弁連主催 で行われましたが、彼女は「14万2000人の慰安婦が殺害された」 と発言しています。

ですが、慰安婦20万人以上、殺害された慰安婦14万2000人とする根拠は実に怪しげなものなのです。

まず慰安婦数ですが、平凡社大百科事典が「8万~20万人」と記すなど、この数が定説なのかと思ってしまいます。
ところがこの数の出所となると、1969(昭和44)年のソウル新聞に載ったものなのだそうです。

千田 夏光 (元毎日新聞記者)がこのソウル新聞記事を読み、これが20万人説の広まるもとになったと思われます。
千田は日本人で誰よりもはやく慰安婦問題に焦点をあて、「従軍慰安婦」という造語を書名にした『従軍慰安婦』(双葉社⇒ 三一書房、1973年)を著しました。

千田 夏光は対談相手の秦 郁彦に「20万人以上」としたことを問われ、

「 ええ、出所は不明です。
ただ、私も新聞記者あがりなもんですから、ちゃんとした新聞が書いた数字ですから、ほぼ信用したわけです 」
(朝日新聞社発行の月刊誌「論 座」、1999年9月号 )

と発言しています。
つまり、平凡社の百科事典の記述もこの程度の根拠しかないのです。

(注)一流出版社の百科事典がそんな薄弱な根拠で書くはずがないと思う方も多いに違いありません。
ですが、この種の例ならたくさんあります。
一例をあげれば、本多勝一の「中国の旅」を引き合いにして、南京大虐殺30万人をはじめ、万人坑、三光作戦などを取り上げた百科事典(複数)を指摘することができます。

ですが、この百科事典を根拠にし、慰安婦数を「8万とも20万人ともいわれる」 と朝日新聞が報じると、この数が広く浸透するようになったのでした。

(注)なお、秦 郁彦教授の研究によれば、1942(昭和17)年9月頃の慰安所数は400ヵ所
(中国280、南方100、南海10、樺太10ヵ所。
金原 節三・陸軍省医事課長の日記)で、
1ヵ所当たりの慰安婦数が10~20人だったことなどから、総数を約6000人と推定、
この後、倍増したとしても1万人を超える程度だとしています。

次に14万2000人殺害についてですが、衆議院議員(自民党、運輸大臣歴任)であった荒船 清十郎 が、日韓条約交渉時の1965(昭和40)年1月、後援会で酒を飲みながら発言したことが元になっているようです。

発言の要点は、「韓国側では14万2000人の慰安婦が日本兵にやり殺されたとして、15億ドルよこせといっているけれども、だんだん要求を下げてきて、今は3億ドルぐりの話になっている」というものでした。

荒船議員といえば、よく言えば親分肌とでもいうのでしょうか、知性の点で疑問のある典型的自民党議員、しばしば雑な放言が批判の対象になったものです。
地元(埼玉県)の駅に特急列車を停車させようと国鉄に圧力をかけ、批判されるにおよんで、私の記憶ですが「一駅ぐらい停めたっていいじゃないか」と堂々と言って退けたものです。

荒船放言は単に韓国がこう言っているという話なのに、いつのまにか「日本の大臣の調査結果」となってしまいました。
そして、日本人のどこかの運動組織をとおして、国連筋に流されたという見方が、おそらく的を射ているのでしょう。

クマラスワミ報告書を好意的に取り上げたのは、例によって朝日、毎日であり、マクドゥーガル報告にいたっては日弁連もまた後押しをしたのでした。

山縣大弐を知る

転載元 推考歴史の導火線

■『山縣大弐と龍馬の接点を探る』

私は現在、甲斐市に住んで34年になります。
地元では学問の神様として知られる山県神社があることは知っていましたが、どんな いわれが在るのかはずっと知らないままに過ごして来ました。

祀られているのは、明和4年(1767年)に江戸幕府によって明和事件で斬首された「山県大弐」という人で、この人が、遠く幕末に巻き起こる勤皇倒幕のうねりの基を提起していたなんて、考えもしませんでした。

明和事件とは、孟子の放伐論によって徳川幕府を否定し、日本の古代王朝政治に王道を見ようとして、民衆の教化に乗り出し、これを弟子が密告した為に捕らえられ斬首された事件で、
時に明和4年(1767年)8月22日、山県大弐43歳でした。

勤皇倒幕思想の人です。
ルソーの社会契約論に遡る事12年、
8代将軍吉宗から9代将軍家重、治世の時代に、思想を掲げて、書をなした人物であります。
この思想は「大弐」の著書『柳子新論』十三編に凝縮されているのです。

この時代、幕府の膝元にあって堂々、幕府攻撃の論陣を展開するものは、
深く国体を研究する漢学者、国学者多しといえども、大弐のみでした。

山県大弐の名は昌貞(まささだ)。
号を柳荘(りゅうそう)と唱え、
享保10年(1725年)某月日、
甲斐の国巨摩郡篠原村(現在の中巨摩郡竜王町篠原)に生まれ、
幼名は「三之助」。

父は領蔵(山三郎ともいう)といい、郷士、
野沢氏(新羅三郎義光の末裔)の後裔になると言われています。

この年は、新井白石が69歳で没した年にあたります。
これより3年あとには元禄の赤穂事件で浪士の切腹を上奏した荻生徂徠も63歳で没しています。

信玄公、勝頼公に仕えた飯富(おぶ)三郎兵衛 正景(信玄の長子、太郎義信のもり役飯富兵部少輔虎昌の弟、長篠の戦いで戦死)が絶えていた山県姓(清和源氏の末裔になる)を信玄公から許されて継いでから、その十一世(八世とも言われる)の孫に当たるといわれています。

大弐は、甲斐の国、山梨郡の山王権現の神官「加賀美桜塢」(かがみ・おうう)に5年学び、その学問は、すこぶる深博で皇学、儒仏、天文、地理、音楽、数学、医学まで通じないものはなかったと言われ、とりわけ兵法は突出していたそうです。

この他、同郷の大儒士「五味釜川」(ごみ・ふせん)に就いて深く交流を求め、13歳から藤田(南アルプス市藤田)の塾に通い学んでいます。
この後、現在史跡として昭和町西条に残されている山本家碑の、山本忠吉らとも深く親交があったことが、昭和町の同家所蔵の文書にあります。

18歳には京都に遊学、高倉、花山院、日野、綾小路等の諸家にて有識典故の学を修め、陰陽道を土御門泰邦に学び、27歳江戸に出て医を業とします。

30歳のとき岩槻藩主・大岡忠光(9代将軍家重の側用人、大岡越前守忠相の同族)に仕えて安房勝浦代官、典医、儒者、祐筆を努め、
35歳で『柳子新論』を書き上げます。
上梓されたのは構想より10年後1759年、1745年に吉宗政治が終って14年後、9代家重の時代です。

国学者、兵法学者で、京にあって皇道を説いた竹内式部、藤井右門などとも深く交流がありました。
「竹内式部」「藤井右門」は、宝暦の変(權大納言徳大寺公城など多くの公家に幕府非難の論を説いた)で追放になっています。

その後、忠光の死を得て、大岡家を去り、江戸八丁堀永沢町に私塾を開き儒学、医学、兵学、天文、経済、地理などを広く教えるのですが、
その中で、上野(こうづけ)小幡藩(織田信邦2万石)の家老・吉田玄蕃と最も親しく交流を持ったようです。
この小幡藩の改革を断行した家老の玄蕃に反対する藩士(今で言うところの抵抗勢力)が、大弐の門弟に小幡藩士が多くいるのを妬み、改革の根源は「大弐」にありと、反家老派が「玄蕃と大弐が結託し謀反を計る」と幕府に訴えたことによって事件に発展します。
幕府はこれを朝廷にひた隠しにしました。
この処分によって、明和事件は幕を閉じます。

この皇室崇拝の勤皇思想は、吉田松陰にも計り知れない影響を与えています。
『柳子新論』は秘密の写本として残り約100年後、浄土真宗の僧侶・黙霖(ぼくりん)によって松陰にも写本で伝えられ、問答をしています。

黙霖は松陰の考え方は水戸学に影響された幕府を諌める域をでないと見て質問します。
「幕府の政治は覇道にほかならず、わが国を古えの朝廷政治に戻さねばならない。
孔孟の道に従い今の幕府は放伐すべきである。
水戸学は口では尊王を説くが、未だかつて将軍に諌言して、天室を重んじたためしがない。
われらがなすべきことは一生でかなわねば、二世、三世かけても、王政復古を計ることである」
と説き、柳子新論の写本を渡すのです。

これによって松陰が、倒幕に転じ、革命家としての意識を身に付けたといわれています。
「松下村塾」の門下生にも多大な影響を与えたと推測できます。

司馬遼太郎は言います。
「歴史は非情だ、山形大弐・吉田松陰・久坂玄瑞・高杉晋作・武市半平太・坂本龍馬らを必要なときに遣わし、もう要らないと時がくると、人の及ばぬ時間(とき)にささっと、召し上げてしまう」
と。

明治13年、明治天皇が山梨に行幸の折、大弐の非命に死するのを悼み、尊王の志を痛み祭祀金を持って、志を尊んだことにより、やっと、日の目を見ることになったのです。

明治24年12月(没後125年)には朝廷がその誠忠を嘉(よし)とし、特別な旨を持って正四位を追贈しました。

およそ、革命家には、三種あるといわれます。
まず予言者、その後に、いわゆる主役つまり革命家、そして、最後は建設的革命家であろうと、かの徳富蘇峰は変節して改稿する前の著『吉田松陰』で述べています。

私は、維新の予言者が「大弐」であったと考えています。
本幕の革命家、思想家が「吉田松陰」、建設的革命家は、「高杉晋作」、「久坂玄瑞」、「桂小五郎」、「坂本竜馬」、「西郷隆盛」、「大久保利通」等です。彼らと佐幕派の血と汗によって完遂した幕末から維新の歴史は、縁もゆかりも無かったと思っていた甲斐(山梨県)出身の学者によって、すでにその100年も前から導火線が敷かれていた。
そう思うと、戊辰戦争終結から、136年、西南戦争から126年後の今、身近な話の歴史のめぐり合わせに驚くばかりです。

松蔭神社の入口の石碑に刻まれた「日本の夜明け胎動の地」の銘の原点は山梨にありました。



山県大弐の周りにはどんな人物が居たのか?
100年という時代の導火線はどんなかたちで連鎖したのか?
山縣大弐はどんな形で「柳子新論」を誰に残したのか?

記録によれば、根小屋出身の門下生薗部文之進は,小塚原の刑場から、師の首を奪って帰郷し,茨城県新治郡八郷町の根小屋の自宅墓地に埋葬し立ち去ったといわれています。
それでは、門下生の薗部文之進からどうやって「柳子新論」は宇都宮默霖まで伝わったのか?
宇都宮默霖の師は誰か?
また、
思想的な根源は何処にあったのか?
というところに突き当たり、なかなか史実としての実証が残っていない中で悪戦苦闘いたしましたが、取り周いていた人物像を浮かび上がらせる事によって、思想の原点が解明できるのでは、
そんな想いで、推考してみました。

江戸中期の「明和事件」は、
日本で鎌倉幕府成立以降の、武家政治を否定し、朝廷をもって国体の維持を図るという、当時としてはとてつもない考えでした。
朝廷から見れば、幕府が朝廷に対して弾圧した様な意識に受け取られかねない事件で、勤皇思想を弾圧した弱みをすねに持ち、ひたかくしに隠した勝者の歴史の中で勝者の影に埋もれています。

◆山縣大弐の学問の師
加賀美光章(加賀美桜塢)かがみおうう

正徳元年(1708年)2月15日江戸生まれ、17歳で京都に遊学し、和歌を姉小路実紀に、国学を鳥谷長庸、儒学を東條兼連、天文暦を曾我部元寛、朱子学を三宅尚斎に、神学を玉木正英について学びます。

元文3年28歳、家名を継ぎ小河原村山王神社の祠官となります。
1734年加賀美光章が小河原村山王神社に私塾「環松亭」をつくります。
現在の甲府市下小河原の日吉神社です。

1782年に72歳でなくなるまで、千数百人の門弟の指導に当たります。
今でいう一大大学です。
朱子学的道徳を強調する一方、強烈な尊皇思想を吹き込みました。
門弟からは、討幕論を主張し処罰された山県大弐などを輩出します。
明和事件では、謀反の門で連座投獄されるが、赦免になり。帰郷の後、再び塾生をおしえ、天明2年5月25日病没。
山県神社史では、帰郷途中 病死とある。

◆山縣大弐の二番目の学問の師
五味国県(五味釜川)ごみふせん(荻生徂徠の孫弟子)

五味釜川は(荻生徂徠の孫弟子)中巨摩郡藤田村(現南アルプス市藤田)の人で享保3年(1718年)に生まれ、父は貞蔵。
代々、医を持って業とした。
生まれながらにしてぬきんでて、7~8歳にして、すで俊傑の資質をそなえ11歳のときに江戸に出て、太宰春台(儒学の荻生徂徠の愛弟子)の門に学び、苦学、辛酸耐えること10年、学も徳も高く春台はとくにその才芸を愛で、護国学派の俊才と称された。
その後、帰郷し、先祖伝来の医を継ぎ、傍ら塾を開いて里の子供たちを教授し、大いにその考え方を啓蒙した。
しかも、治療・教授の合間にあって遅々として怠らず、古今の書を読み文理を極め、特に詩文に長じ、加賀美光章と東西相応し一斉を風びし、峡中の天地自然として文教の隆盛を極めた。
大弐は、加賀美光章に学んだ後、この五味釜川についてさらに勉学に励んだ。

◆宝暦事件で追放
藤井右門

江戸中期の享保時代に尊王論を唱え、明和事件で獄門に処せられた。
出会ったのは、兄 山縣昌樹が京にあって右門と知り合い、後に帰郷するに当り甲斐に来た右門を昌樹の紹介で知り合い、大弐と意気投合したのではないかと推考する。
寛延3年(1750年)には加賀美光章及び2~3の弟子と酒宴を催し、8月15日には旧友を集め快談し、帰りには山本忠告と一緒に、亡き友飯田正紀の墓参りをしている。
藤井右門の父は、赤穂浅野家の家老 藤井又左衛門宗茂で,浅野家が取りつぶされた後、越中射水郡小杉村で生まれたという。
16歳で京都に出て,地下の諸大夫藤井大和守忠義の養嗣子となり,皇学所の教授となって尊王論を説いた。
後に、京都を追放され(宝暦事件)、
江戸の山縣大弐宅に寄宿、講師となる。明和事件で、山縣大弐らと処刑される。

◆竹内式部 宝暦事件で追放 
切磋の朋 琢磨の友

竹内式部は正徳2年(1712年)に越後本町通9番町の医師の家に生まれました。
式部が上洛して、垂加神道を学んで徳大寺家の家臣となり、桃園天皇の近習徳大寺公城をはじめ、少壮公家の有志に神道と儒学を講じた。
そのうち教えを受けた公家が神書(日本書紀)を天皇に進講するまでになった。
竹内式部の説いた垂加神道は、徳川四代将軍 家綱の後見人 会津藩主 保科正之の賓師まで務めた山崎闇斎によって提唱されたものであったが、崎門三傑といわれる三派に分かれ、なかでも純儒派の浅見絅斎が提起した大儀名分論と勤王思想であった。
浅見絅斎の主著『靖献遺言』は尊王斥覇の大儀名分を説いた。
幕末水戸藩の志士たちに必読書とされたほどである。
式部はさらに、朝廷衰微の原因は関白以下の非器無才にあるとして、少壮・下級公家の奮起こそ朝威回復の道であると説き、有志を集めて軍学と武術の実地訓練を行ったと伝える。
式部の尊王思想は徳川将軍家のみならず、公家社会の序列を無視したもので、幕府転覆の企図が具体化する以前に、関白近衛内前は徳大寺公城らの官職を解いて永蟄居を命じ、式部を追放すへく所司代に告訴した(宝暦事件)。
その後,知人であった山縣大弐らが明和事件で処刑されると,式部も捕らえられ流罪となり,その途上,三宅島にて病死。 

「三宅島流人罪名帳」は明和4年(1767)に式部が病死したという記事と、式部の署名・花押が記された断簡です

◆大岡忠光 9代将軍側用人
上総勝浦より2万石譜代 雁間 城主

将軍家重の側用人から出頭した大岡忠光が上総勝浦より2万石で入って、以降、忠光の大岡家が代を継いで幕末に至る。大岡家は吉宗が忠相を抜擢して初めて、諸侯に列した。
忠光もその一族であったが、微禄の旗本の子に過ぎなかった。
西丸小姓として言語が不明瞭な将軍 家重が幼いときから付き従い、忠光だけが将軍 家重の言語を理解できた。
自然、大岡忠光を通さずしては上意を伺うことができず、権勢はいやが上にも増した。
ついに上総勝浦で1万石を得て大名となる。
この時代、山県大弐は勝浦代官、祐筆、典医、儒者などを勤め、
その後、「柳子新論」を書きあげる。
忠光の死後、暇を得、この後、岩槻に加増転封してきたものである。
とはいえ、柳沢吉保や間部詮房、田沼意次らの加増ぶりに比すと、2万石というのは病弱だった家重を補佐した功績を考えると過分なものとは言えないだろう。

◆小幡藩主 織田信邦 (後に天童藩へ移封)
2万石外様 大広間 国主格

織田信長の子孫は嫡孫の三法師 織田秀信が関ヶ原西軍について絶えたあとは、信長二男の信雄の子たちが結果的に嫡流となる。
大名家として残った織田家は、信雄の流れが、この小幡と、丹波柏原に。
信長の弟、織田有楽斎 長益の流れが大和芝村、大和柳本。
都合4家が大名家として存続する。
なかでもこの小幡藩の織田家は嫡流として、小藩ながら国主格を与えられていたが、のち、「山県大弐事件」の関わりを咎められ、大弐が 捕縛されると幕府から家格の特別待遇を剥奪され、出羽高畠(のち天童へ移転)へ転封となる。
山県大弐は過激な尊皇論を著わし、これと小幡織田家の家老・吉田玄蕃との間に親交があったことを咎められたものである。
上州小幡は、城下町の雰囲気を残した町である。

◆宇都宮默霖 うつのみや・もくりん
吉田松陰に「柳子新論」を伝えた僧
幼名は真名介、僧名は覚了・鶴染。
字は絢夫、雅は黙霖。
僧、宇都宮峻嶺の子。母は琴。
文政7(1824)年9月、安芸国賀茂郡広村長浜(現・広島県竹原市)に生まれる。幼少より学問を好み典籍に通暁していたという。
天保11(1840)年出家。
翌年、聴力を失い、筆談を以って諸国を歴遊。
弘化2(1845)年、本派本願寺僧籍に入った。
同3年黙霖と称して勤王を唱え、諸国を歴遊する。
真宗興正寺派摂信に帰依した。
嘉永年間、諸国の志士と交わりを結び、安政年間には幕府の追捕を免れつつ各地の志士と王政復古につき画策した。
特に吉田松陰・頼三樹三郎・梅田雲浜・僧 月性らとも親交があった。
安政の大獄にあたり藩牢に繋がれたが僧籍ゆえに死罪を免れた。
しかしその後も討幕に動いた為、第一次長州討伐の際、再度投獄された。
明治元(1868)年、大洲鉄然を訪れ、中国渡海の志を打明けた。
同2年に許され、のち湊川神社などの神官を歴任し、晩年は呉に隠棲した。
明治30(1897)年9月15日、74歳で没。
維新後、従五位を贈られる。
墓は広島県東広島市八本松町(西福寺)にある。



安政二年(1855)夏のこと、
長州萩の城下に、一人の僧が飄然とあらわれた。
手には錫仗を突き、汚れた衣に頭陀袋をかけ、傘の下に鋭い眼が光る30代半ばの行脚僧である。
名は默霖といい、一向宗本願寺派の僧である。
彼は私生児で幼いときに寺にやられ、オシでツンボという二重苦を負いながら、当時諸国を行脚して勤皇を説く勤皇僧であった。

默霖は1年前にも萩に来たことがある。
土屋松知という藩の学者の家に逗留。
その時、先に下田の渡海事件で世間を騒がした吉田松陰という若い学者が、野山獄で書いた『幽囚録』一巻を読んだ。
これは松蔭が国禁を犯してまで、海外渡航を企てた理由を明らかにしたもので、その中で松蔭は
「鎖国の陋法(ロウホウ)は徳川の世に限ってのことであり、外国を知ることは国の三千年の運命にも関する重大問題であるから、あえて自分はほうを犯した」
と書いている。
「自分は皇国に民である。黙然と座視して、国の運命に目をつぶっていることはできない」。

默霖がこの萩の城下町に二度目にやってきたのは、『幽囚録』の筆者と論争をするのが目的であった。
松蔭は出獄して場外の松本村の父の家に謹慎をさせられていた。
「蟄居」という罪だから、人との面会は許されない。
松蔭と黙霖との間には、手紙で論争が続けられた。

山獄の一年間では、読書と思索にふけり、百六冊の本を読み十一人の囚人に孟子の講義をしたりした松蔭だが、彼はまだ少年時代から教育を受けた水戸学の影響から抜けてはいなかった。

兄の梅太郎に出した手紙にも
「幕府への忠節は、すなはち天朝への忠節にこれなく候」
と書いたように、
「君は君道もて臣を感格し、
臣は臣道もて君を感格すべし」
という臣としての厳格な立場を守っていたのである。

このころ、ハリスは下田に着任して、大統領の国書を将軍に奉呈しようとさかんに運動中であった。
開国か攘夷かの論争が、京都でも江戸でもようやく活発になった頃で、志士の活躍も目立ってきた。
松蔭は僧 月性とも親しく、月性に送った手紙にはこう書いている。
「天子に請うて幕府を討つことは、不可である。
大敵が外にあるいま、国内相せめぐ時ではない。
諸侯と心を合わせて幕府を諌め、強国たらんとするはかりごともなすべきである」

つまり、この頃の吉田松陰の思想は、
どこまでも「諌幕」であった。
その手段としては、
「藩主を通じて幕府をいさめる。
幕府が聞き入れないときには、はじめて藩主をおし立てて討幕にのり出す」
ということだ。

こうして萩に来た默霖と、三畳間に蟄居する松蔭との間の手紙のやり取りによる論争も、その内容が急所に近づき、また、対立も深刻になった
默霖が一度ひそかに会って話したいと申し入れたのに対して、松蔭は藩への遠慮もあり「わが容貎にみるべきものなし」とこたえて、面会を断った。

しかし默霖の手紙は、松蔭を根底からたたきのめしたのであった。
「茫然自失し、ああ、これまた妄動なりしとて 絶倒いたし候」
と正直に黙霖に書き送った。

「僕、ついに降参するなり」。
松蔭を「絶倒」させた黙霖の論というのは次のようなものである。

「幕府の政治は、支那でいう覇道にほかならなず、この国を古の朝廷政治の王道に戻さねばならない」

「孔孟の道にしたがい、今の幕府は放伐すべきである」

「水戸学は口では尊王を説くが、いまだかって将軍に諫言をし、天室を重んじたためしが無いではないか」

つまり、松蔭のいう「諌幕論」は、
じっさいは行われない空理空論の過ぎない。
われわれのなすべきことは、
「一生でかなわなければ、二世、三世かけても、王政復古をはかる」
ことである。

そしてこのことを知るためには、黙霖は松蔭に山県大弐の『柳子新論』を読むことをすすめ、その秘密の写本を贈った。
九月になってから、松蔭はこの本を読んだ。
彼は大弐については、幕府の断罪文を読んだだけで、その思想に触れたことは無かったが、今初めて黙霖におしえられ、百年前に断罪になった革命家の理論を知ることができた。

大弐は孟子の放伐論によって徳川幕府を否定し、日本の古代王朝政治に王道をみようとした。
そして、彼はこの思想のじっさい行動として、民衆の教化にのり出すのだが、幕府転覆の嫌疑を弟子の密告によってかけられ、捕縛斬首された。
いわゆる「明和事件」である。
幕府は、この事件を朝廷にひたかくしに隠した。
朝廷に対して弾圧をかけたように受け止められるのを非常に恐れたためである。

今、百年前の思想によって、松蔭の目は開き、革命家としての松蔭の第一歩は踏み出された。
時に二十六歳、
百年の導火線に火がつきくすぶり始めたのである。



松蔭は言う。
「僕は毛利家の臣なり。
ゆえに日夜、毛利に奉公することを練磨するなり。
毛利家は天子の臣なり。
ゆえに日夜、天子に奉公するなり。
われら国主に忠勤するは、すなわち天子に忠勤するなり」

この理論では、幕府はあってないに等しい。
しかし、よくみると、その主君は六百年来、天子へ忠勤を励んだ しるし がない。
これは大罪である。
松蔭は、いまこそ、わが主君をして六百年の過ちを正させなければならないことを知った。
松蔭のこれからの道は決まった。
自分の行く手じっと見つめる黙霖に次のように書き送った。

「もしもこのことが成らずして、半途に首を刎ねられたればそれまでなり、
もし僕、幽囚の身にて死なば、われ必ず一人のわが志を継ぐ士をば、後世にのこしおくなり」

そしてこうも付け加えた。

「口先でとやかく言うのは、生来大嫌いで、以上のことも平ぜいは口に出しませんが、上人のことゆえ申すのです。
僕がこのことによって死ぬるのを、あなたは黙って見てくれよ」

この手紙を読んで、黙霖は毛髪が逆立ち、声を上げて泣いたと感想をしるした。
ひと月ほどあと、流僧黙霖は萩を後にした。

◆『柳子新論』概略
柳子新論は大弐がはげしい気魄で徳川幕府打倒の論をのべたものである。
当時は幕府盛世のときに痛烈な幕府排撃論を展開し、幕末に起こった尊王倒幕運動の一大先声をなしたのであるから、本書は日本思想史上高く評価されてしかるべきものである。

本書は13編からできている。
兵学者である大弐が、兵書 孫子13編を模したものである。
貫く精神は「正名」の2字につきる。
正名は孔子が政治について「必ずや名を正さんか」といったのに基づく。

名の乱れの最大は徳川氏が
「“名”は征夷大将軍太政大臣であるが、その“実”なく、
“実”は天子の位を僭窃している」
(正名)
ところにある。

どうしても
「名を正して君臣二なく、
権勢一に帰せしめなくてはならない」
(得一)
と大義名分論を真っ向から幕府につきつけた。
具体的には次の13編である。

1編・正名 2編・得一 3編・人文 4編・大体 5編・文武 6編・天民
7編・編民 8編・勧士 9編・安民 10編・守業 11編・通貨 12編・利害 13編・富強

「柳子新論」の内容は、古来の皇室尊重の考え方で、つまり孔孟の昔の思想であり、主権在民の戦後の体制には馴染まないが、江戸中期の幕藩体制が根付いていた当時の社会体制を考えると、
進歩的な、斬新な考え方であった。

幕府官僚の認識は朝廷を表向き、奉りながら現状維持が立場であるから、どうしてもその芽をつんでおく必要があった。

その後の経緯を見れば、ひた隠しに朝廷に対し秘している、皇室に対しての弾圧と受け取られたくない想いが透けて見える。

しかし、歴史の中では、時間という導火線がいつも、くすぶり続けている。
どんな体制も、現在もそうだが、地下に沁みこむ水の様な庶民の思いは如何ともしがたい。

以後、約100余年を経て、秘密の写本が黙霖によって長州萩の吉田松陰にもたされ、それまでの幕府を規諫(きかん=いさめ 戒め)してゆくという考えを一変させ、倒幕またやむなしという決心を抱かせるにいたった。

松蔭の教えた考え方は、激しく、弟子たちに伝わるが、やはり実現までには二世弱ほどの時間がかかったのであり、黙霖の説いたとおりに展開する。

「柳子新論」は、沁みこんだ大弐の思想が時節を得て、建設的革命家や佐幕派の血と汗によって開花した。
大弐はどんな思いで、この現実をあの世で受け止めたのだろうか?
わずか、100年後に幕藩体制が崩壊するとは夢々、思わなかったであろうが・・・



情報の連鎖を見ると、われらが敬愛する「坂本龍馬」は、武市半平太の使いで長州へ出かけ、久坂玄瑞と会った時に、話の中で、きっと師・松陰から学んだ『柳子新論』の骨格と趣旨を、玄瑞から聞いているものと、(勝手ですが)推測することができるのです。

そして、時の流れを敏感に感じ、土佐に帰国後の脱藩に結び付き、龍馬をして胎動し始めた勤皇倒幕思想のうねりの中に身を投じさせる一因になるのです。
河田小龍から「ジョン万次郎の西洋体験や、機械、文明、政治体制などの知識」を得、攘夷よりも産業経済の発展に人生の方向を嗅ぎ取り、
江戸では、仕組んで千葉重太郎を誘い込み、会いに行った勝海舟の思想の先見性を取り入れた龍馬はやはり、時代の寵児なのか、いや潮流に乗った大きな龍なのでしょう。

長州には長井雅楽(うた)という家老がいる。
この長井雅楽というのは土佐の吉田東洋と同じく佐幕派であり、藩では実力者である。
主義は
「幕府を助けて大いに貿易を行い、西洋の文物を取り入れ、船を造って五大州を横行し、国を富ませたのちに日本の武威を張る」
というものである。

龍馬は「幕府を助けて」というくだりを除けば賛成で、
この主義の「幕府を助けて」に変えて
「朝廷のもと日本が一致して」と置き換えれば龍馬の考えそのものになるのである。

そして、ここで久坂玄瑞がいった言葉が妙に龍馬をとらえて離れなかったのである。
それは
『諸侯も頼むことはできぬ。
公卿も頼むことができぬ。
頼めるのはおのれのみ。
志あるものは一斉に脱藩して浪士となり、大いにそれらを糾合して義軍をあげるほか策はない』。 

土佐に戻った龍馬は武市に長州の現状を語っている。
龍馬の把握した現状は鋭かった。
龍馬の発想の基本は自由、柔軟で、
藩と言う概念は無く、日本という概念から物を考える事によって、対外的にもひとつになれるという、当時としては飛躍的な考えであった。
その考えの元は、山縣大弐が説いた、皇室崇拝による統一国家日本だ。

しかし、佐幕派の優秀な人物までが犠牲になった藩閥政治は、その影響の大きさを推測すると、日本の発展を50年遅らせたような気がする。
維新のすばらしき志士たちは消え、残った優秀とはいえないまでも現代よりはしっかりした政治家が明治を動かしたのであるが、それなりに頑張り、思想も受け継がれた。
武家政治開闢の清盛以来、初めて四民平等を唱えた「山縣大弐」の起案が底辺となり、遅れる事100年、やっと明治維新はなったのである。

山縣大弐は、茨城県八郷町・東京本郷・そして山梨県甲斐市の山縣神社に眠り、今を見守っている。
毎年9月23日、「柳壮学問祭り」が開かれ学問の神様として地元に溶け込んでいる。


◆山縣大弐の年表

享保10年(1725)生まれる。

延享2年 (1745)
兄 昌樹(爲清)病気のため、家督を継ぎ、村瀬軍治と改名、甲府城へ出仕する(21歳)

寛延3年 (1750)
弟 武門が飯田新町の名主倅新三郎を殺害、失踪(26歳)

宝暦元年 (1751)
弟 武門の殺害事件の罪に連座させられ村瀬家の家禄・泰樹を没収される。
浪人になり母方の姓である山形に復姓し、山県惟貞と改名、後に昌貞と改める。
江戸へ出て、医者を業とした。
このとき五味釜川に送った「留別の詩」がある。(27歳)

宝暦4年 (1754)
秋ごろ、幕府若年寄りの大岡忠光に仕え、勝浦代官(千葉県)を勤める。
在任中、香取神社(佐倉市)を訪れ和歌を詠む。(30歳)

宝暦6年 (1756)
勝浦から戻り、藩医となり、江戸藩邸に残る。
大岡忠光、9代将軍家重の側用人となり、岩槻藩主となる。(32歳)

宝暦8年 (1758)
宝暦事件が起き、多くの者が処罰される。
竹内式部は重追放となり、江戸、近畿、越後の出入りを禁じられる。
この事件は、尊王論者の竹内式部が権大納言徳大寺公城など大物公卿のほか多くの公家に幕府非難の論説を講じたため、多くの式部 支持者(公家)が処罰された。(34歳)

宝暦9年 (1759)
『柳子新論』を著す。(35歳)

宝暦10年(1760)
大岡忠光が没する。
後嗣の忠善の命により、忠光の墓碑、および行状書を撰する。
その後、大岡家を去り、江戸北八丁堀永沢町に私塾を開き、儒学・武術・医学・天文学・兵学・経済。地理などを教える。(36歳)

明和2年 (1765)
肥後 細川藩に藩政の改革について投書する。(41歳)

明和3年 (1766)
門下生と共に、吾嬬森(墨田区吾妻神社境内)に碑を建立する。
小幡藩家老の吉田玄蕃を失脚させるため、数人の藩士が捏造した謀によって、大弐と玄蕃が謀反を起こすと幕府に訴えられる。
このとき藤井右門は大弐のもとに身を寄せていた。
右門は酒の席で口論の末、桃井久馬というものに逆恨みされ、大弐と玄蕃が謀反を起こすと幕府に訴えられた。

明和4年(1767)
2月18日、大弐は捕縛される。
幕府は大弐と右門を捕らえて糾問、謀反の事実はないとわかったが、兵学の講義に甲府や江戸の要害地を例えに用いたり、天皇は行幸もできず囚人同然であるなどと語ったことが、不敬、不届きであるとして、大弐は獄門、右門は牢死した。
同時に、宝暦事件で京都を追放された竹内式部を、禁を犯して京都に立ち入ったとして八丈島に遠島、護送途中の三宅島で病死した。

8月21日判決が言い渡され、同日伝馬町(東京都中央区)の獄内処刑場にて斬首される。
一説には小塚原の処刑場(東京都荒川区)で処刑されたといわれる。(43歳)

●時世の句
曇るとも 何か恨みむ月こよひ
はれを待つべき 身にしあらねば
(瓣疑録)  
曇るとも 何か恨みむ月今宵
はれて眺むる 身にしあらねば
(好古類纂)

曇るとも 何か恨みむ月今宵
とてもよにある 身にしあらねば
(資治雑笈)


勤皇思想のパイオニアは図らずも、山梨県出身の江戸中期の学者「山県大弐」だった。
山崎閑斎 門下から繋がる思想の基はやはり儒学であり、徳川家康が選んだ思想家の考え方が源流になり、やはり家康の意思が働いていたと見るのは考え過ぎかもしれない。
当初、家康は、幕府は三代持てば、次の時代を担う武士(もののふ)が、神の意思によって使わされると踏んでいた。

しかし、老中 土井利勝は、家康の隠し子であり、秀忠の母違いの兄であったが、本家には呼ばれず、土井家のまま幕府そのものを牛耳ることになり、基礎固めに奔走する。
この基礎が生きて、270年にも及ぶ安泰の幕府が続くのであり、明和事件は、その老中・土井利勝の夢を揺さぶる、初めの撃砲だったのかもしれない。 

牛丼の値上げと近江商人の言葉

「ぎええええ・・・380円かよ」吉牛ファンが悲鳴
いきなり大幅値上げ発表の吉野家に明日はあるのか?

J-CASTニュース 2014/12/ 9
 
牛丼チェーン大手「吉野家」が牛丼の値上げを発表した。
並盛の300円が380円(26.6%値上げ)になることが分かるとネットでは
「ぎええええいきなり380円かよ」
「さすがにこれはやりすぎ」
などといった悲鳴が上がり、「もう食べに行けない」といった発言も出た。
 
値上げしなければならなくなったのは米国産の輸入牛肉の仕入れ値が昨年に比べ倍になったことが原因のようだが、吉野家ファンからはこうした急激な値上げで客数が減るのは必至であり、経営は大丈夫か?などといった心配の声まで挙がることになった。
 
「企業努力ではもう牛丼の水準を維持できない状態」
吉野家ホールディングスは2014年12月9日に並盛牛丼を現状の税込300円から380円に、大盛りを460円から550円に、特盛を560円から680円と80円~120円値上げすると発表した。
値上げするのは12月17日午後3時からで、この年末に、しかも値上げ発表から8日後の実施というスピードの速さから「相当切羽詰った状態なのか?」といった感想も漏れた。
 
吉野家ホールディングス広報に話を聞いてみると、値上げしたそもそもの原因は米国産輸入牛肉の高騰で、13年9月と現在では仕入れ価格が倍になっているのだという。
11年から12年にアメリカで干ばつがあり、牛に食べさせる飼料が高騰したほか、アジア市場で牛肉の需要が高まるなどしたことが価格を押し上げた。
なぜこの年の瀬に値上げしたかについては、検討に検討を重ねた結果であり、
「我々の企業努力ではもう吉野家の牛丼の水準を維持できない状態になってしまった。
価格改定に関しても牛丼の水準を最適なものに維持するためには、これだけの値上げが必要になっていました」
と同社広報は説明した。
 
 
 
 

買い手良し、世間良し、売り手良し/近江商人の言葉

転載元: ICT Business Online
 
取引が社会全体の幸福につながる
近江商人は、鎌倉時代から江戸、明治、大正、昭和の戦前にかけて活動した近江(滋賀県)出身の商人のこと。
大阪商人、伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つで、今日の大企業の中にも近江商人の系譜を引く方たちが数多く活躍している。
 
近江商人の特長は、外に出向いて商いを行った点。
江戸時代の商人は皆、幕府や藩の領民であったが、近江商人のみはこうした体制からはずれた、いわば自由商人としての立場を持っていたという。
 
この「買い手良し、世間良し、売り手良し」、「三方良し」の言葉は、他国行商を商いの中心とした近江商人だからこそのものといえる。
地縁、血縁などもちろんない他国へ出かけ、初めて会った人々の間に、例え自分たちが不在の間でも店を構えているのと変わらない信用を築くための、無くてはならない大切な経営哲学だったのだ。
 
企業は公のもの
この言葉の原典となったのは、江戸時代の中期に活躍した麻布商の中村治兵衛宗岸(なかむら じへえ そうがん)が書いた次の一節である。
これが明治時代、さらに簡潔にまとめられ、冒頭の三方良しの言葉として世間に広められることなった。
 
「たとへ他国へ商内に参り候ても、この商内物、この国の人一切の人々、心よく着申され候ようにと、自分の事に思わず、皆人よき様にと思い、高利望み申さずとかく天道のめぐみ次第と、ただその行く先の人を大切におもふべく候、それにては心安堵にて、身も息災、仏神の事、常々信心に致され候て、その国々へ入る時に、右の通りに心ざしをおこし申さるべく候事、第一に候」
 
これは次のように読み解くことができる。
 
他国に商いに出かけた場合には、その国のすべての人々に気持よく使ってもらうことをなにより心がけること。
さらに取引そのものが相手の利益になることを考えるべきだ。
自分の利益はあくまで、こうした商いができたあとの結果である。
自分の利益だけを考えて、一度に大きな利益を上げるようなことはせず、なによりも行商先の人々の立場を尊重することを第一に考えるべきだ。
 
 
思わず、毎日のようにニュースを騒がせている人々の顔を思い浮かべてしまうような言葉である。
目先の利益を求める余り、産地偽装、内容偽装、品質偽装など次々に起こる事件。
ほんの一時的に「自分良し」だけが達成され、その結果、お客様に被害を出し、世間の評判を落とすこととなっている。
しかもその「自分良し」には、ほんの一部の経営者しか入っておらず、自社の社員までも被害者にし、ただただ真面目に働いてきた多くの人々の働き口までも失わせることとなっている。
 
 「三方良し」の言葉を見るにつけ、この近江の偉大な先輩たちは、昨今の数々の出来事を見越していたのでは、とさえ思える。
そもそも物を売ることと、数あるものの中から商品やサービスを選び、買う人の意識の関係は、時代などには左右されない普遍的なものであるからかもしれない。
 
お客様のことを第一に。「三方良し」の言葉を借りなくとも、これは企業のポリシーとしてよく取り上げられる表現である。
しかし、これをただの理想として捉えている場合もまた多い。
だが結局のところ、この理想こそが商売を長続きさせることのできる知恵だということを改めて感じる。
 
この三方良しは、自分と顧客と社会の関係を説いたものだが、買い手の「良し」、
とともに「世間良し」を、自らの「良し」の前に位置づけたのには理由がある。
それは企業は公のものである、という考え方だ。
企業が相手のことを真剣に考えれば、相手から利益が戻ってくる以上に世間(社会)が良くなり、最後に自社(自分)が利益を得ることができる。
つまり社会に尽くすことを考えることのできる企業が、社会から評価され長く利益を上げられるということだ。
これからさらに重要なテーマになるであろう環境問題にさえ通じてくる名言である。

 
「三方良し」の三原則
「常に相手の利益を最初に考えること」
「企業は公のものであり、社会の利益も常に考えるべきである」
「自分の利益を最後に考えてこそ、商いは信用され、長続きする」
 
 

「買い手良し、世間良し、売り手良し」、「三方良し」の基本は、上記のポイント3点に集約される。
ネット販売など顧客の顔が直接見えない商行為が当たり前になっている現在こそ、他国で信用を得るために培われた、この近江商人の哲学から学ぶべきことは多い。
 
 
ライター 夏井誠(ナツイマコト)
 
 
今までずっと、価格競争で誰かが泣いてた。
(ダイエーの中内商法以降からだったと思うが…)
 
牛丼値上げで客が悲鳴を上げるのはわかるが、
この際、「三方良し」というよりは、「三方痛み分け」にしたほうが、
一時的にはキツいけど、長い目で見れば…

朴大統領の密会相手が事情聴取される

朴大統領の元側近
「“火遊び”をした者たちが明らかになる」
疑惑を否定

zakzak 2014.12.10
韓国の朴槿恵大統領の元側近で、政府高官と密会して人事に介入したと大統領府の内部文書で指摘されたチョン・ユンフェ氏が10日、ソウル中央地検で事情聴取を受けた。
 
チョン氏は検察庁舎前で記者団に「今回、大変な“火遊び”をした者たち(がだれか)が明らかになるだろう」と述べ、文書流出に関わった者を非難、人事介入は「事実ではない」と主張した。
 
チョン氏は、4月の旅客船セウォル号沈没の当日に朴氏と会っていたとうわさされ、これを報じた産経新聞の前ソウル支局長は朴氏とチョン氏の名誉を傷つけたとして在宅起訴された。
 
チョン氏は大統領府の文書の内容を報じた韓国紙、世界日報の記者らを名誉毀損容疑で告訴。
10日の聴取では、検察が告訴人としてチョン氏を呼び、密会の有無をただす方針だ。チョン氏は密会も人事介入の事実も否定し、記者らの処罰を求めるとみられる。
 
 

朴大統領、支持率40%割る 就任後初
元側近の人事介入疑惑が影響か

zakzak2014.12.10
韓国の世論調査機関リアルメーターは10日、韓国JTBCテレビの依頼で7~8日に実施した世論調査で、朴槿恵大統領の支持率が39・7%となったと明らかにした。
同社による朴大統領の支持率調査が30%台に落ち込んだのは、2013年2月の就任後初めて。今月5日実施の調査では42・2%だった。
 
朴氏は7日、元側近の政府高官人事への介入が報じられた問題で「チラシ(証券業界の情報誌)にでも出てくるような(疑わしい)話」と発言。
人事介入疑惑を認定しない方向へ検察捜査を誘導しかねないと指摘されており、こうした批判が支持率低下につながったとみられる。
 
 
チャン氏は、「旅客船沈没の時、パク大統領が密会していたウワサがある」と、産経新聞ソウル市局長がが報じた(厳密にはそう報じた韓国紙があると紹介した)人物。今後の裁判への影響が考えられる。
 
 
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韓国野党重鎮「国際的に恥ずかしい」
産経前支局長起訴

zakzak 2014.11.25
2012年に韓国大統領選に出馬し朴槿恵候補(現大統領)に惜敗した最大野党、新政治民主連合の重鎮、文在寅国会議員は25日、韓国検察が朴氏の名誉を毀損したとして産経新聞の加藤達也前ソウル支局長を起訴したことについて「非常に大きな過ちだ。国際的に少し恥ずかしい」と述べ、批判した。
ソウルでの外国メディアとの会合で述べた。
 
文氏は、朴政権が「表現の自由を抑圧しようという動き」を取っているとも指摘した。
文氏は、旅客船セウォル号が沈没した日に朴氏が男性に会っていたとのうわさを引用した問題の産経の記事は「真実ではないと思う」と述べた。
その上で、記事が誤っていても名誉毀損として捜査、起訴することは「表現の自由に対する法理や判例、世界的な基準にも合わない」と主張した。
 
 

車に生卵投げつけ座り込み走行妨害も…
産経前ソウル支局長初公判

zakzak 2014.11.27
 
初公判を終え、ソウル中央地裁をあとににする際、加藤達也前ソウル支局長を乗せた車が抗議デモ団に囲まれ生卵が投げられるなど妨害行為が行われた。
 
加藤前ソウル支局長が、朴大統領の名誉を毀損したとして在宅起訴された裁判の事実上の初公判。
ソウル中央地裁には午前10時の開廷の約2時間前から、韓国メディアに加え、公判の傍聴を希望する日本などの報道関係者70人以上や一般市民が集まり、韓国内外での関心の高さをうかがわせた。
 
スーツ姿の加藤氏が地裁に入った際、カメラのフラッシュが一斉にたかれ、韓国メディアの記者がマイクを差し出して質問を浴びせた。加藤氏は答えず、無言で法廷に向かった。
 
地裁には産経新聞を批判する市民団体のメンバーも押し寄せた。
メンバーらは公判の冒頭、法廷内で「加藤達也、韓国国民に謝れ」「加藤を拘束せよ」などと叫んだほか、加藤氏を非難するプラカードを掲げ、数人が退廷を命じられた。
この日の法廷は、傍聴席に座れない30人程度が立ったまま裁判を見守った。
 
閉廷後には同地裁の駐車場で、保守系団体メンバーらが加藤氏が乗った車に生卵を投げつけたり、車のボンネットに寝転がったりして通行を妨害する騒ぎがあった。
加藤氏にけがはなかった。
 
関係者によると、退廷した加藤氏と弁護人らが裁判所敷地内の駐車場に停めてあった車に乗った直後、10~20人の男らが車を取り囲んだ。
男らは生卵約10個を窓ガラスなどに次々と投げつけ、「加藤達也は謝罪しろ」と書かれた紙を車体にベタベタと貼り付け、メンバーの何人かは車の進行方向に座り込むなどして走行を妨げた。
裁判所の職員らが駆けつけて男らを取り押さえたが、周囲は一時、騒然となった。
 
 

韓国で広がる憂慮の声 自国メディアも危ぶむ暴走…
産経前支局長裁判

zakzak 2014.11.28

産経新聞の加藤達也前ソウル支局長が韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領の名誉を毀損したとして罪に問われた27日の初公判。
外国人記者の加藤氏を法廷に立たせるという異例の裁判に海外から言論弾圧などと批判、憂慮する声が高まっている。
韓国のメディアや野党からも懸念が目立ち、言論の自由の希薄さに危機感が漂う。
今回の裁判は保守系団体のメンバーが加藤氏を法廷でののしったり、乗車する車に卵を投げつけたりするなど、韓国は世界に醜態をさらすことにもなった。
 
ソウル中央地裁で開かれた初公判では、法廷内外で騒然とするシーンが展開された。
保守系団体のメンバーが傍聴席に入り、開廷直後に「加藤達也、韓国国民に謝れ」などと加藤氏をののしったり、許可されていないプラカードを持ち込んだりして退廷を命じられた。
 
閉廷後には、加藤氏が乗る車にメンバーが複数の卵を投げつけ、車を取り囲んだ。
同氏にけがはなかったが、車の所有者である弁護士らは監禁、器物損壊、脅迫などの容疑で地元警察に被害届を出した。加藤氏も監禁などで近く被害届を出す。
 
海外メディアはこの裁判に敏感に反応し、米国ではワシントン・ポスト(電子版)がAP通信の記事を転載して速報。
APは裁判が「韓国の報道の自由の問題を提起している」とし、「朴槿恵政権が彼女(大統領)のイメージを統制しようと、ジャーナリストを弾圧していることへの批判がある」などと指摘した。
 
加藤氏が在宅起訴されて以降、韓国国内でも懸念が広がっている。

最大野党、新政治民主連合の朴智元(パク・チウォン)議員(元文化観光相)は起訴を受けて10月、「韓国に言論の自由がないことを世界に広めてしまった。不要な行為だ」と起訴処分を強く批判した。
 
今月25日には同党重鎮で前回大統領選候補の文在寅(ムン・ジェイン)議員が、海外メディアとの会合の場で「非常に大きな過ちだ。
世界の基準に合わず、国際的に少し恥ずかしい」と語り、文氏は「(朴政権が)表現の自由を抑圧しようという動き」を見せているとも非難した。
 
野党やメディアは「大統領の名誉を守るために韓国のイメージ、国益を損ねてしまっていいのか」(韓国紙)と主張。こうした「やり過ぎ論」は政府周辺のみならず、一般国民の間にも広がっている。
 
元公安調査庁調査第2部長の菅沼光弘氏は「卵を投げつけたりする集団の目的は、国民がこれだけ怒っているという印象を裁判(官)に抱かせるねらいがある。
国民の総意ではなく一部の極端な意見でも、表だってのこういう行動に韓国の司法は影響を受けやすい。
時の政権にも迎合してきたが、同国には司法の独立はないようなものだ。
ただ、起訴を含めた今回の司法の対応に世界は異様さを感じている。
裁判が長引けば長引くほど、それがそのまま韓国の評価として返っていくことになる」と話している。
 
 

朴政権また告訴
韓国紙「噂の元側近が人事介入」報道めぐり

zakzak 2014.11.29
韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領の名誉を毀損したとして産経新聞の加藤達也前ソウル支局長が罪に問われた裁判で世界中から反発を受ける朴政権が、見境のない強硬姿勢に出た。
大統領との密会が噂される元側近の男性が、政府の人事に介入していたと報じた韓国紙記者らを名誉毀損容疑で告訴したのだ。
言論の自由などあってなきがごとしの政権に韓国メディアは戦々恐々だ。
 
加藤前支局長がコラムで、旅客船セウォル号沈没事故当日、朴大統領と会っていたとの噂を報じた鄭(チョン)ユンフェ氏は朴大統領の国会議員時代の秘書室長。
朴大統領の弟らと「マンマンフェ」という組織を作り、大統領府に影響力を保持し、人事に介入している-と野党勢力が批判している。
 
韓国紙の世界日報は、大統領府が作成した文書を入手。
政府高官が定期的に鄭氏と会って人事に関する意見を聞いていたことや、鄭氏が政権ナンバー2を辞任に追い込む“策略”を練ったことが記されていると報じた。
 
大統領府の総務秘書官らは、報道は事実無根として同紙社長と編集局長、社会部長、記者ら6人を名誉毀損容疑で告訴した。
 
加藤前支局長の裁判については「報道の自由の問題を提起している」(米メディア)などと世界中から批判されているが、多くの韓国紙の報道は及び腰だ。
大手紙の朝鮮日報や中央日報、京郷新聞、ハンギョレは裁判翌日の28日の紙面で、加藤前支局長が名誉毀損の嫌疑を否認した事実関係を淡々と報じた。
 
韓国内で関心が集まっているのは、言論の自由よりも鄭氏をめぐる政治スキャンダルだ。
裁判では、検察側が、鄭氏と、鄭氏が沈没事故当時に会っていたと主張する占い師を証人申請し認められた。
起訴前の今年8月に社説で《産経新聞の韓国冒涜(ぼうとく)は度を超えた》と痛烈な産経批判を展開した東亜日報は28日、「鄭ユンフェ-占い師 法廷に立つ」との見出しの記事を掲載し、鄭氏らの証人尋問について「コラムが虚偽であると立証するのが目的だ」と報じた。
 
27日の裁判閉廷後、加藤前支局長の車に保守団体のメンバーが卵を投げつけた問題では、韓国警察が監禁や脅迫などの容疑で捜査を始めた。
 
国際政治学者の藤井厳喜氏は、「韓国の民主政治体制は脆弱(ぜいじゃく)であると、世界にさらしてしまった。
外国人のジャーナリストを起訴したことは、『言論の自由はない』と宣伝しているようなもの。
長期にわたって出国禁止措置をとることは新しい拉致問題であり、北朝鮮との差も分かりにくくなった。
反日といえば何でも許される社会になっており、加藤氏の裁判は、もはや韓国政府による日本人へのヘイトクライムだ」と批判する。
迷走はどこまで続くのか。 
 

朴大統領、怒り心頭「あり得ない行為」
大統領府文書流出報道

zakzak 2014.12.01
韓国の朴槿恵大統領は1日、自身の元側近のチョン・ユンフェ氏が政府高官人事に介入したとの大統領府の内部文書が報道されたことについて、文書流出は国の根本を揺さぶる「あり得ない行為」と非難し、報道にも怒りを示した。大統領府の会議で述べた。
 
朴氏はチョン氏の人事介入疑惑は「根拠のないこと」と発言。情報流出自体が問題と強調することで、疑惑から目をそらせたい思惑とみられる。
 
大統領府側は文書を報道した韓国紙、世界日報の記者や経営陣を名誉毀損で告発している。
大統領が報道内容を「虚偽」と断じたことで、検察が同紙の刑事責任追及を前提にした捜査を展開する可能性が強まった。
 
朴氏は、文書が大統領府内のものであることを認めながら「基礎的な事実確認もせずに外部に出れば国家が大混乱に陥る」と指摘。
流出に関わった者を厳罰に処すと宣言した。
 
 

朴大統領の元側近、鄭ユンフェ氏疑惑で捜査
韓国検察 野党は攻撃姿勢

zakzak 2014.12.02
韓国の朴槿恵大統領の元側近、鄭ユンフェ氏をめぐる疑惑を報じた韓国紙、世界日報の社長らが名誉毀損で告訴された問題で、検察当局は1日、特捜部を投入するなど本格的な捜査に着手した。
朴大統領も、事実確認を行わなかったとして同紙の報道を批判した。
朴大統領と鄭氏をめぐる噂を取り上げて在宅起訴された、産経新聞の加藤達也前ソウル支局長の公判にも影響を及ぼす可能性がある。
 
世界日報は11月28日付で、大統領府の内部文書をもとに、鄭氏が大統領府の李在万総務担当秘書官ら、朴大統領の側近と定期的に会って国政に介入しようとしていたと報道。政権ナンバー2とされる金淇春秘書室長を辞任に追い込むための話も行われたと報じた。
 
野党勢力はこれまで、鄭氏について、朴大統領の実弟の朴志晩氏、李在万氏とともに「マンマンフェ」という組織を作り、人事などに介入していると批判してきたが、具体的関与が報じられたのは初めてだった。
 
これに対し、李在万氏ら大統領府側は事実無根として、即日、世界日報側を名誉毀損で告訴。
朴大統領も1日、「少しでも確認すれば事実の有無が分かることを、関係者に確認もせずに陰の実力者がいるように報じ、疑惑があるように追い込むこと自体が問題だ」と批判し、「マンマンフェ」の存在を否定した。
 
朴大統領はまた、内部文書が大統領府から流出したことを問題視。
「国家の規律を乱す行為」であり、「一罰百戒」を目指し、徹底的に捜査する必要性を強調した。
 
ソウル中央地検は、今回の事案を「名誉毀損」と「内部文書の流出」の2つに分離。
名誉毀損については、加藤前支局長を在宅起訴した刑事1部が、文書流出は特捜部がそれぞれ担当することを決めた。
 
こうした中で、野党勢力は鄭氏をめぐる疑惑を「鄭ユンフェ・ゲート」と命名し、朴政権攻撃の姿勢を強めている。
一方、鄭氏は中央日報のインタビューに対し、高官らとは「何の連絡も取っていない」と報道を完全否定している。
 
 

朴氏元側近の人事介入疑惑 内部文書の信憑性は「6割以上」
元秘書官が韓国紙に証言

zakzak 2014.12.02

韓国の朴槿恵大統領の元側近チョン・ユンフェ氏が朴氏の最側近グループと会合を重ね、政府人事に介入していたと報じられた問題で、大統領府の元秘書官は2日付の韓国紙、朝鮮日報とのインタビューで、朴氏の最側近の一人とされる大統領府総務秘書官がチョン氏と連絡を取り合っていたと証言した。
 
証言したのは、人事介入疑惑を記した内部文書の作成に携わった大統領府の部局の元秘書官。
インタビューで内部文書の信ぴょう性について「6割以上だ」と語った。
元側近による政府人事介入疑惑は、世界日報が11月末に報道。
元側近の仲間として名前を挙げられた大統領府の複数の高官は、世界日報の記者や経営陣を名誉毀損の疑いで告訴した。
 
大統領府側の弁護士は今月2日、聯合ニュースに「文書の信ぴょう性は全くない」と表明。疑惑の真偽をめぐる攻防は激しさを増してきた。
 
 

朴大統領元側近の人事介入疑惑に新証言
前ソウル支局長の公判に影響も

zakzak 2014.12.03
 
韓国政界が騒然としている。
朴槿恵(パク・クネ)大統領の元側近、鄭(チョン)ユンフェ氏が大統領府高官と定期的に会い、国政に介入していたと現地で報じられた問題で、大統領府の元秘書官が、疑惑を否定する鄭氏の発言を覆す新たな証言を行った。
韓国紙「朝鮮日報」が2日付で掲載したインタビュー記事で明らかになった。
 
韓国紙「世界日報」は11月下旬、大統領府の内部文書を基に、鄭氏が大統領府の李在万(イ・ジェマン)総務秘書官ら朴大統領の側近と定期的に会い、人事に介入しようとしたと報道。
鄭氏は「(李氏ら)秘書官とは何の連絡もない」と全面否定していた。
 
しかし、内部文書の作成に携わったとされる大統領府・公職紀綱秘書官室の趙応天(チョ・ウンチョン)元秘書官は2日付の朝鮮日報紙上で、「4月に李氏から『(鄭氏の)電話に出るように』といわれた」と証言し、李氏と鄭氏の親密な関係ぶりを示唆。内部文書の信憑(しんぴょう)性は「6割以上ある」と語った。
 
これを受けて大統領府は同日、4月に李氏と鄭氏が連絡を取っていた事実を公表。鄭氏の発言が覆される事態となった。
「朴大統領と鄭氏が会っていた」との噂を取り上げ、名誉毀損(きそん)で在宅起訴された産経新聞の加藤達也前ソウル支局長の公判では、検察側が鄭氏の「大統領とは会っていない」という証言を、有罪立証のための重要な柱と位置づけている。
 
今回の疑惑で鄭氏の発言への信頼性が揺らぐ事態となった場合、加藤前支局長の公判にも微妙な影響を与える可能性がある。
 

韓国大統領府文書、朴氏弟にも大量流出の報道
権力闘争との臆測も

zakzak 2014.12.03
韓国の朴槿恵大統領の元側近チョン・ユンフェ氏が政府人事に介入していたとの大統領府作成文書の存在を報じた韓国紙、世界日報は3日、同紙が入手したこの文書以外に、大量の大統領府の内部文書が流出し、ことし5月に朴氏の弟の朴志晩氏の手に渡っていたと報じた。
 
複数の情報機関関係者の話としている。
志晩氏が入手した文書には、同氏の周辺者の不正疑惑を記したものが含まれていたという。志晩氏の文書入手が事実なら、内部文書が複数ルートで出回っている可能性があり、政権の情報管理が問われそうだ。
 
志晩氏はチョン氏と同様に、朴大統領に影響力を持つとみられている人物だが、政界では志晩氏とチョン氏が対立しているとの見方もある。
両氏周辺の疑惑に関する内部文書が作成され流出したことも権力闘争の一環ではないかとの臆測も飛んでいる。
 

韓国紙社屋に「自由のため戦う」横断幕…
元側近疑惑報道めぐり家宅捜索の噂

zakzak 2014.12.07
韓国紙、世界日報が朴槿恵大統領の元側近、鄭ユンフェ氏の国政介入疑惑を報道し名誉毀損(きそん)で告訴された問題で、検察当局がソウル市内の同紙本社を家宅捜索するという情報が流れ、同紙側は本社ビルに「世界日報は言論の自由のために戦う」との横断幕を掲げ“徹底抗戦”の姿勢を示している。
 
韓国メディアによると、情報が流れたのは5日で、検察側は「家宅捜索の令状を請求していない」と否定。しかし今後については含みを残しているという。
 
世界日報への家宅捜索が行われれば、言論機関では1989年の当時のハンギョレ新聞以来とされる。
 
韓国記者協会は、世界日報への家宅捜索の情報が流れたことを受けて、「言論の自由に対する重大な挑発だ」などと検察側を牽制(けんせい)する声明を出した。
 
 

混乱する韓国政界 
朴大統領元側近の人事介入疑惑で国税庁元幹部が情報操作か

zakzak 2014.12.09
 
韓国の朴槿恵大統領の元側近、チョン・ユンフェ氏が政府人事に介入し複数の高官と密会しているとの大統領府の内部文書が報道された問題で、聯合ニュースは9日、国税庁の元幹部が「密会情報」を同席者から聞いたかのように偽って文書作成者の警察官に伝えたと、検察に供述したと報じた。
 
韓国メディアは、チョン氏や高官らが人事などで朴大統領に影響力を持っていると主張する敵対勢力の存在を報じており、聯合ニュースの報道が事実なら、元幹部はこうした勢力の意向を受けチョン氏らに打撃を与えようとした可能性がある。
 
検察は、文書内容は虚偽だとの大統領府の主張に沿った結論を出し、文書を報じた韓国紙、世界日報の記者らが政府高官らの名誉を毀損したとの容疑の捜査を本格化させるとみられる。
 
一方、大統領の意向に逆らえない検察の捜査は信用できないとの批判もある。
メディアを巻き込んだ暴露合戦に野党の政権批判も加わり、韓国政界の混乱が続いている。
 
 
 
 
 
 

韓国で広がる国益毀損の懸念「まずい」「やってしまった」
前支局長起訴

zakzak 2014.10.29
韓国の朴槿恵大統領への名誉毀損(きそん)で、産経新聞の加藤達也前ソウル支局長が在宅起訴された問題で、「国益を損ねる」との懸念が韓国内で広がっている。言論の自由や人権の問題で、自国の国際的イメージが著しく失われることを心配したものだ。“大統領の名誉”を守るために下した外国記者への処分が、皮肉にも、外から見た韓国の印象を失墜させている。
 
■まずいことに…
ソウル中央地検が加藤前支局長を出頭させ、事情聴取を始めた8月の時点で、すでに韓国では「当局はやり過ぎだ」のと意見が一部の新聞メディアに出ていた。
市民団体の告発を受けたものとはいえ、外国人記者への“異例の措置”だったからだ。
 
知人の韓国外務省OBは、当初から「(韓国にとって)まずいことにならなければいいが…」と問題の外部(海外)への拡散、さらには外交問題化をしきりに気にしていた。
 
10月2日に行われた3回目の事情聴取まで、日本のほか、欧米など各国メディアが韓国当局の措置に批判や懸念を示す報道を展開。
日本新聞協会編集委員会が「強い懸念」を、日本ペンクラブは「深く憂う」とする声明を発表した。さらには、国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」が韓国当局に対し、起訴しないよう求める声明を出した。
 
韓国内部での“静かな懸念”は現実となった。
こうした中、検察は8日、加藤前支局長の在宅起訴に踏み切ったわけだ。
 
起訴処分について韓国メディアでは否定的な見解が目立った。
 
「大統領の名誉を守ろうとし、国家の名誉を失墜させてしまう」(京郷新聞)。
「(韓国に)実益はない。韓国は言論弾圧国となった。起訴は(韓国にとっての)負けだ」(東亜日報)。
「(起訴処分は)外交的損失で国の恥。
朴大統領が自ら収拾すべきだ」(ハンギョレ紙)などとの見方だ。
 
国会でも、
「韓国が言論の自由のない国であることを世界に広めてしまった。不必要な行為だ」
「韓国の国益を損ねてしまった」
と非難の声が起きた。
 
「韓国政府の中でも憂慮の声が出ている」(京郷新聞)のは事実で、多くを語らなくとも、「やってしまった」「まずい」と本音を漏らす政府関係者もいる。
 
■日本、産経を狙った?
韓国人は愛国心が強い。自他ともに認めるところで、特に日本がからむと民族的な自尊心がさらに高まる。
日本から自尊心や名誉を傷つけられることに極めて敏感なのだ。
 
今回の問題は当初、「わが国(韓国)の大統領が日本のメディアから名誉を傷つけられた」という告発から始まり、韓国側では注目された。
しかも相手は、慰安婦問題など“歴史認識”で韓国側と相反した主張を展開する産経新聞だ。
 
「国家元首の名誉を毀損(きそん)する悪意ある報道で、極めて重大」(韓国外務省報道官)、「度を超した報道」(東亜日報)などとの“産経バッシング”が続いた。
同僚(加藤前支局長)の告発直後に、「これは懲らしめであり、見せしめだ」と感じた。
同時に、大統領の名誉を守ろうとする人々の「忠誠心」がもろにうかがえた。
 
ソウルでの日常生活では、こちらを気遣い同情してくれる人がいる一方、“留飲”を下げたのだろうか、意味深長な“笑み”を浮かべたり、不要に話しかけてきたりする者も実際にはいる。
 
「もし、これが日本以外の他の国メディア、あるいは産経新聞でなかったら、同じようなことが起こっただろうか」。
ソウル駐在の日本人記者に最近、そんな質問を投げかけてみた。
彼の見方は「日本の、しかも主張が相いれない産経新聞だったからかもしれない。
万が一、中国やロシア、欧米のメディアが報じたとしても、あれほどのおとがめ(在宅起訴)は絶対にないだろう」というものだ。
 
日本メディア、特に産経新聞であるから、韓国の反日世論を背景に、反発しやすいのか。
見せしめも可能なのか。
 
■見せしめがアダに
産経新聞ソウル支局がある建物の前では、起訴処分の前日(10月7日)から、にわかに「反産経デモ」が始まり、毎日のように続けられた。
“行け!行け!ドン!ドン!”で、実のところ騒がしい。
 
警備に当たってくれている警官隊の人々に、こちらは「ご苦労さまです」と労をねぎらっているのだが、デモ参加者の人々は産経新聞への懲らしめや見せしめに躍起だ。
だが、その“見せしめ”が、今やアダとなって返ってきていることに、韓国社会は気付いている。
 
当初「(産経新聞は)度を超した」と非難していた東亜日報が相変わらず産経バッシングを続けつつも、先述のように「(起訴に)実益はなく、韓国は言論弾圧国となった」と当局の処分には否定的だ。
 
また、今回の問題で終始、産経批判の姿勢をとってきた朝鮮日報でさえ、起訴直前の10月3日付で「どんなに腹立たしくとも、起訴には無理がある。国民感情を満足させることができるかもしれないが、失うものの方が大きい」と懸念を示した。
 
産経新聞が憎かろうが、
「国益の観点で損害が大きい」
「起訴になれば日本国内の反韓がさらに強まる」
「国際世論も韓国に有利とはいえない」
「国際社会で、韓国は言論弾圧国だとのイメージが生まれかねない」
(朝鮮日報)
という“国益”を憂慮した上での提言だった。
しかし、残念ながら、こうした心配は現時点で、ほぼすべてが当たってしまった。
 
■外面を気にして
愛国心や自尊心の強さに関連し、韓国の人々を見ていて感じるのは、外面を気にするということがある。
海外の各国から韓国を「よく見られたい」、
または、「韓国がどのように見られているのか」に敏感なことだ。
 
筆者の体験では、その一例として、2002年に日韓共催で行われたサッカー・ワールドカップ(W杯)がある。
韓国での開催が世界から評価を受けるよう、国を挙げて大会成功に努めていた。
一方で「わが国(韓国)での大会準備はどうか」「開催状況はどうか」と当時、韓国W杯組織委員会など関係者から何度も聞かれた。
「世界が注目する舞台で、韓国を立派に見せたい」という熱意に、素直に感心した記憶がある。
 
韓国の外からの見た目や、評価を強く気にする例だが、韓国としては、自国が「よく、立派に見られ」なければならず、
「醜態をさらしてはいけない」ということだろう。
だが、今回の産経新聞前ソウル支局長への起訴で、“よく見せてきた韓国”の外面は、一角から崩れ始めている。
 
その可能性に朴槿恵大統領自身が、間接的に触れたと思われる発言がある。
 
朴大統領は9月16日、野党議員が国会で大統領に関する噂に言及したことを、名指しを避けつつも「国民を代表する大統領に対する冒涜(ぼうとく)的な発言は度を超えている」と非難。
さらに「国家の品位墜落と外交関係にも悪影響を及ぼすことだ」と強調した。
 
韓国国内(この場合は政界)での大統領に関する噂の拡散を戒めたものだが、
「国家の品位墜落」と「外交関係への悪影響」という朴大統領の懸念は、
加藤前支局長の起訴によって現実の問題となってしまった。
 
■正面から向き合わず
加藤前支局長の起訴直後、米国務省のサキ報道官は、韓国における言論の自由、表現の自由に「懸念」を表明。
サキ氏は「(韓国)検察当局の捜査に当初から関心を持ってきた」と強調した。
 
最近では、谷内正太郎国家安全保障局長が21日、青瓦台(大統領府)を訪問し、金(キム)寛(グァン)鎮(ジン)国家安保室長との会談で「報道の自由と日韓関係の観点から極めて遺憾である」と日本政府の立場を伝えた。
 
だが、韓国政府は、これら日米両政府からの懸念に対して、明確なコメントは避けている。
 
米国務省報道官の懸念表明については「発言内容をよく見ると、産経新聞起訴(発言のまま)の件への直接的な評価はない。
年例(2013年版)の人権報告書の中で『出版物などに関する名誉毀損』に言及したものだと、われわれは理解している」(韓国外務省報道官)と説明した。
 
また、日本政府からの懸念や遺憾表明にも、「韓日政府間の外交的事案ではない。
日本政府の方々が不必要なことに言及するのは適当ではない」(同)とし、
あくまでも韓国国内での法的問題として位置づけ、正面からの回答はない。
 
ソウルの外交筋は「韓国外務省は当然、外交問題として内心では懸念しているようだ」という。
しかし、本心はともかく、韓国当局が問題を“法”に委ねる一方で、韓国の対外イメージ、国益も損なわれ続けている。
 
 
 
 
 

「国」より「姫」が大事な朴槿恵大統領の側近たち

zakzak 『新・悪韓論』 2014.10.16
 
韓国がまた暴挙に出た。朴槿恵(パク・クネ)大統領への名誉毀損(きそん)で在宅起訴した、産経新聞の加藤達也前ソウル支局長に対し、ソウル中央地検は14日、出国禁止措置を3カ月延長するよう法相に要請したのだ。
国際社会の「言論弾圧」「報道の自由の破壊」といった批判を受け、同国国会では与野党が激突した。法治国家とは思えない判断を下す背景に、側近らが「姫(=朴氏)を守ること」を第一とする韓国の特異性があるという。
ジャーナリストの室谷克実氏が迫った。
 
「姫は絶対に守らなければならない」-。
青瓦台(大統領府)の秘書官たちは、こういう信念で固まっているようだ。
 
青瓦台の首席秘書官は大統領の最側近だ。
韓国官界の格付けでは閣僚もしくは次官クラスであり、実態としての権力は閣僚以上だ。
 
秘書室長は国務総理と同等の格付けになっているが、それは建前。国務総理のはるかに上にいる政権ナンバー2だ。
 
彼らにとって最高の責務は、いつの間にか「国家・国民のため」よりも「姫を守ること」に変質していた。
 
姫の権威とは、どんなものか。
 
8月5日午前、夏休み明けの閣議に出てきた姫はどうやら機嫌が悪かった。
軍内部で「いじめ暴行死」「いじめを受けての自殺」が相次いだうえ、旅客船「セウォル号」オーナーの変死体が40日間も「ホームレスの死体」扱いされていたことなど、権力維持の基盤である「軍検警(軍と検察、警察)ブロック」の不祥事が際立っていた。
 
姫が絶対の対日カードとしてきた「慰安婦の強制連行」についても、朝日新聞が同日朝刊で、さかのぼって記事を取り消してしまった。
これも機嫌の悪さの原因の1つだったのだろう。
 
この閣議で姫は「一罰百戒」「責任を負うべき者は責任を取らなければならない」などと述べたと報じられている。
 
その7時間後、陸軍参謀総長と警察庁長が辞表を提出した。
参謀総長は同日、前線視察に行っていた。警察庁長は通常通り出勤して、普段通りの業務に当たっていたというから、所管閣僚から「姫10+ 件のお怒り」を知らされるまでは辞める気などサラサラなかったようだ。
 
「軍検警ブロック」の検察も何かしなくてはならない。
そこで青瓦台の意向をくんで、産経新聞前支局長に対する右翼団体からの告発状を受理したのだ。
わが“お仲間”の朝日新聞をいじめている産経新聞ならちょうどいい、とばかりに。
 
検察当局は、前支局長が「遺憾の意」ぐらいは述べると踏んでいたようだ。
そうしたら、「誤報の責任を認めた」ことにして、国外退去処分で一件落着と。
 
ところが、前支局長は“罪科”を認めない。
それで困ってしまい起訴まで2カ月もかかってしまった。
 
外国人記者を元首に対する名誉毀損で起訴したら、国際的にどんなリアクションがあるか、検察当局も考えただろう。
 
「外国メディアの韓国批判なんて、すぐに忘れ去られるさ」と見たのかもしれない。
ともかく、ここまで来て起訴しなかったら、国民は「噂はやはり正しかった」と思い、野党が勢いづく。
「事ここに至っては起訴するしかない」-。
私は、こういう流れだと思っている。
 
前支局長問題に限らず、「国家・国民のため」より、
「姫を守ること」「姫1のご機嫌を損なわないこと」を中軸にしてさまざまな政策が動く…。
この国の未来は真っ暗だ。
 

厄介な隣国の『刹那主義』に惑わされるな

仏像窃盗団を逮捕 対馬の警察は大手柄
その他はいただけん

zakzak『不肖・宮嶋 コラコラ記』
宮嶋茂樹 報道カメラマン2014.12.11
 
長崎県対馬で韓国人の仏像窃盗団が帰国直前のところを逮捕された。
 
2年前には同じ対馬の寺から盗まれ、半島まで高飛びされたものの、韓国で犯人も捕まり、仏像も発見された。
 
というのに
「この仏像はもともと韓国のもの。それが日本人に略奪された。
略奪したものではない証拠を示さない限り、日本に返還する必要はない」
と韓国の裁判所の判決が下り、いまだ対馬に返還されていないのである。
 
ムチャクチャや。
あの仏像が日本に渡ってきたのは大昔の話や。
自分らは竹島でも何でも、歴史的書物の捏造(ねつぞう)は得意やろうけど、いくら手先の器用な日本人でもそんな捏造はできるハズがないやろ。
 
つまりハナから返すつもりがないのである。
まさに居直り強盗国家の面目躍如や。
 
揚げ句、国宝の財産を取り戻した犯人の韓国人窃盗団をヒーローとして祭り上げという構図は、わが国の初代首相を暗殺した安重根や寸又峡(すまたきょう)温泉に立てこもった殺人鬼、金嬉老を反日のヒーローとして軍艦の名にまでつけたのと同じである。
 
日本人をイライラさせることに関しては国を挙げてやりよる。
 
必然、今回もし釜山に帰る連絡船に一歩でも乗り込まれてたら、あのありがたい仏像は永久に対馬へは戻らなかったであろう。
そういう意味では対馬の警察は大手柄であった。
 
しかし他はいただけんで。
 
今年の夏、幸いにも台風で中止となったが、朝鮮通信使祭でパレードする予定やった、というのである。
対馬の目抜き通りで、民族衣装着た通信使にふんした団体が練り歩くという悪趣味極まる演出で。仏像パクったままの韓国人の歓心引くためにである。
 
自治体が自治体なら国も国である。
 
わが国の文化遺産はパクられ放題というのに、靖国神社境内にあった豊臣秀吉撃退記念碑という怪しげな石碑は、何や半島から持って帰ったもんやから、無条件で半島にくれてやったというのである。
 
歴史的価値もない、そんな石碑なんか別にいらんわ、という理由も分からんでもないが、せめて政治的に利用すべきやったやろ。
 
もし返してほしければ、対馬の仏像もわが国に(時期は遅うなったが)返せとか、産経新聞の加藤達也前ソウル支局長の帰国を認めろとか、いろいろ条件つけるべきやったやろ。
 
少なくとも、これが朝鮮半島ウリジナルと証明できる歴史的証拠を出せ、というぐらいは言うべきやったな…。
 
あっあかん…歴史の捏造、証拠の密造は、韓国人の十八番(おはこ)やったわ…。
 

 

韓国アジア大会のカメラ盗難事件 なぜ犯行映像を公開しない?

zakzak『不肖・宮嶋 コラコラ記』
宮嶋茂樹 報道カメラマン2014.11.27
けったいである。
あの韓国・仁川アジア大会で韓国通信社のカメラをパクったという日本人水泳選手の事件である。
 
あの反日しか取りえのない国家が、捏造(ねつぞう)が得意な民族が…
何で犯行が写っとる映像を公開せん?
何で韓国メディアが大騒ぎせん?
何で日本大使館へのデモや焼き討ちあおらん?
おかしいと、思うとったら、日本人選手が「カメラは盗んでいない」として韓国での正式裁判を申請したというニュースが飛び込んできたのである。
12月1日に初公判が開かれるという。
 
やっぱり、こりゃ完璧にハメられたんちゃうか。
国際スポーツ大会なんか開催する資格のない国やで。
無理してアジア大会引き当てたんはエエが、一片のスポーツマンシップも持ち合わせてない民族に仕切れるわけがないやないか。
 
振り返ってみたら、韓国選手に有利な条件ばっかり現われたり、もろ不公平な判定連発したり、揚げ句、停電に、国旗間違え、国歌演奏吹っ飛ばし…。
バドミントンで「神風」吹かせたときは外国人選手は怒りを通り越してあきれ果てたほど。
さすがに見えっ張りの韓国人からも怒りがわき起こりつつあったときに起きた事件や。
 
そのガス抜きのスケープゴートに日本人選手の事件がされた…と考えると、つじつま合うてくるやろ。
 
水泳という日本のお家芸、フジヤマのトビウオ以来、メダリスト量産の日本選手団に対し、韓国選手なんか、アジアレベルにも達してない競技というのも偶然か。
これで2年後のリオ五輪の日本のメダリスト候補の将来も、日本人のプライドまでもズタズタや。
一石二鳥、三鳥の効果があったのである。
 
そして最大のナゾは、あの悪名高い韓国の警察が、そして執念深い女性大統領が選手の「身柄」を放し、帰国までさせた、ということや。
 
産経新聞の加藤達也前ソウル支局長は「報道の自由を求め、徹底的に韓国司法の、韓国政府の不正義と闘う」と国際社会に宣言し、いまだ半島から帰国することも許されない、とらわれの身である。
 
この事件は、そもそも加藤前支局長への政治的メッセージを含めた陰謀やったんとちゃうか。
つまり「(日本人選手みたいに)謝ったら帰国させたるで」とな。
 
強制連行された慰安婦がまったくのウソと判明した今、韓国が新たに日本をおとしめ、辱めるネタを、ウの目タカの目で探しとったんや。
なかったら捏造してもエエと。
 
今回は「監視カメラに犯行の様子が写っている。そのビデオがある」とハッタリかまし、いったんは日本人選手も認めて、略式起訴となり、罰金とって一件落着やと思うとったんやろ。
 
まさか正式裁判請求してくるとまでは考えてへんかったんやろ。
 
見ものやで。
今度はどんな汚い手、使うて隠蔽するか、な。
 
 
 

大韓航空女性副社長、手腕や評判に? 
「ラーメン常務事件」がブーメラン

zakzak 2014.12.10
 
米ニューヨークの空港で、大韓航空機に搭乗していた同航空の趙顕娥(チョ・ヒョナ)副社長(40)が、ピーナツの提供の仕方が悪いと激怒し、客室乗務員の責任者を機内から降ろしたドタバタ問題。この女副社長に対する韓国内の視線は厳しく、「ピーナツ副社長」などと揶揄し、非難が噴出している。
事態を受けて、趙氏は職を退く意志を表明したが、グループの要職にとどまるとの見方もあり、騒動は広がり続けている。
 
社会的地位を背景にした高圧的な振る舞いに韓国民があきれかえっている。
趙氏は、大韓航空を中核企業の1つとする財閥・韓進(ハンジン)グループの2世会長、趙亮鎬(チョ・ヤンホ)氏の長女にあたる。
 
現地関係者によると、米コーネル大学でホテル経営学を修め、1999年に大韓航空に入社。2006年、常務に昇進した。
昨年、機内サービス・ホテル事業部門総括副社長に就任し、現在、KAL(大韓航空)ホテルネットワーク代表取締役なども兼任している。
 
手腕や評判はかんばしいものとは言えず、
「鳴り物入りで始めた機内での免税品販売は、販売ノルマを課された乗務員の自腹買いが関税法違反ではとの疑惑まで報じられた」
とは現地の日本人メディア関係者。
 
「大韓航空は会長の長女の趙氏だけでなく、その弟と妹も副社長、専務を務める。
韓国企業では珍しくはないが、財閥2世、3世の早過ぎる昇進がモラルハザードを招く懸念が指摘されており、9日付の『ソウル新聞』は同社の(彼ら)3世役員について、『書類の束などで殴られたと証言する従業員は数えきれない』『市民団体や取材記者に暴言を浴びせた』などとも伝えた」
(先のメディア関係者)という。
 
大韓航空では2013年4月、鉄鋼大手のグループ会社常務が「(機内食の)ラーメンが生煮えだ」などと言って乗務員に暴力をふるう事件が起きた。
当時は「ラーメン常務」がインターネットの流行語になったが、その事件を痛烈に批判した趙氏を、いまは複数のメディアが「ピーナツ副社長」と揶揄。
騒動が英BBCをはじめ世界中で広く報じられたことから、「『江南(カンナム)スタイル』のPSYに次ぐ世界的有名人」とも嘲笑されている。
 
趙氏は9日、職務を退く意思を表明。
だが、9日付「ハンギョレ新聞」は、
「大韓航空副社長および韓進グループ系列会社代表の地位も全て維持している」
「表向きだけの辞任」と報道した。
趙氏の行為は航空関連法規に違反しているため、刑事処罰の見通しも強まっている。
 

ビル傾く手抜き工事、韓国建設現場
“あり得ない実態”…
他国も「発注したくない」が超安値で排除も困難

zakzak 2014.12.09
アラブ首長国連邦ドバイにある世界一の高層ビルや、人気アイドルグループSMAPが出演したCMで知られるシンガポールのリゾートホテル、マリーナ・ベイ・サンズの建設を請け負い、海外で存在感を示している韓国の建設企業。
ただ、こうした難度の高い工事をこなす一方、赤字覚悟の安値入札で受注実績を伸ばしてきたことも事実で、ここに来て工期の遅れや手抜き工事などが表面化。
日本の建設業界では、“ありえない”工事現場の実態が浮き彫りになっている。
 
安値受注が裏目
シンガポール最大の新聞「ザ・ストレーツ・タイムズ(8月18日付)は、現地の病院建設の完成が6カ月も遅れた原因として、請負業者の韓国・GS建設が熟練工を手当てできなかったことなどを指摘した。
あるゼネコン関係者は「日系企業ではまず考えられないミス」とあきれる。
 
韓国国内でも聯合ニュースが5月12日、同国中部の牙山で、建設中の7階建てビルが突然傾いたと報じた。
中央日報日本語版によると、傾斜した理由は、設計に従わなかった基礎・基盤の手抜き工事が原因であるという。
ちょうど、旅客船セウォル号の沈没事故で安全対策が問われている中で、ずさんな管理が発覚したとして、韓国メディアも競って報道した。
 
過去にも、1994年10月に首都ソウルの漢江にかかる聖水大橋の中央部分が長さ48メートルにわたって崩壊して32人が死亡する事故があったほか、1995年6月には韓国・三豊百貨店が営業中に突然崩壊して500人余りの死者が出るなど、手抜き工事が原因とされる惨事が相次いだ。
韓国建設業界に対する国民の不満が再燃しつつある。
 
聯合ニュースは11月12日、大型プロジェクトの受注が相次いでいた中東の産油国で、韓国の建設企業が逆に欧州企業に積極的な低価格入札を仕掛けられ苦戦している現状を報告し、「何らかの対策が必要だ」と指摘した。
 
韓国製は『使うな』
「公共工事で韓国の製品を使うことが一番のリスクだ」
 
2年ほど前まで日本の大手ゼネコンの東南アジア拠点で働いていた中堅幹部は、ベトナム政府関係者からこうささやかれたのを思い出す。
中堅幹部は「ではなぜ工事の質が悪いと分かっていながら、韓国企業を選ぶのか」と詰め寄った。
すると、この関係者は「入札価格が一番低い業者を選ばなければ、上司に説明がつかない」と顔をしかめたという。冗談かと思ったが本当の話だ。
 
日系建設企業にとって、韓国企業の安値攻勢は脅威だ。
例えば、シンガポールの競争入札では、「コリアンライン」という隠語がある。
日系企業が無理をして入札価格を下げて(業界用語で「突っ込んで」)も落札できないような安値で、韓国企業は請け負っているのだ。
 
その点、日系企業の多くは工期を守ることを前提に資材やマンパワーを確保するため、どうしてもコストがかさむ。
技術力では韓国に負けないが、競争入札という制度上、相手より安い価格でなければ工事を受注できない。
 
負けられない戦い
韓国企業の海外進出の歴史をひもとくと、2005年ごろまでの建設工事における海外受注実績は年間150億ドル(1兆7250億円)程度だった。
だが07年以降、中東や東南アジア各国で急速に力をつけた。
10~13年に4年連続600億~700億ドルの水準を維持している。
13年度の日本の大手約50社による海外建設受注実績(約1兆6029億円)と比べて4倍以上で、その勢いが理解できる。
 
土木・建築工事を総合的に請け負う日本のゼネコンに対し、韓国の大手建設会社の現代建設、サムスン物産、GS建設などはいずれも財閥系だ。
グループの中核事業となっている化学、石油精製などの強みを活用し、中東における化学プラントの大型工事を相次いで受注している。
 
さらに、近年は難しい建築工事を受注する事例も目立ってきた。
10年6月に韓国の双竜建設が完成させたシンガポールのリゾートホテル、マリーナ・ベイ・サンズは、「入」の字の形をした建物で、ピサの斜塔より10倍近く傾かせる難工事を克服したとして、話題となった。
マレーシア・クアラルンプールの超高層ビル「ペトロナスツインタワー」は、日本のハザマと韓国のサムスン物産が1棟ずつ請け負った。
 
韓国政府も海外進出を後押ししようと、首相が相手国政府に乗り込むトップセールスだけでなく、国内の業界団体「海外建設協会」が中小、中堅企業向けの市場調査や発注情報などを提供するなどの支援態勢を充実させている。
韓国政府は、年度別の海外建設推進計画を策定するなど、民間会社を鼓舞するような取り組みを行っており、韓国企業にとっては「負けられない戦い」となっている。
 
人口約4800万人の韓国国内では製造業同様に、建設需要のパイが限られており、「海外に出なければ生きていけない」がゆえのハングリー精神や、日系企業にはない経営の意思決定の速さも強みとなっているようだ。
 
ちなみに、日本の建設企業のサラリーマンは単身赴任が多く、プロジェクトが終われば日本に戻る。
しかし、韓国の建設企業のサラリーマンは、「海外に家族で赴任し、プロジェクトが終わってもそのまま現地に残って政府関係者との関係をつないでいる」(日本のゼネコン関係者)。
現地当局との“癒着ぶり”は、建設現場で人身事故が起きても当局から処分を受けないケースもあり、“特別待遇”の温床になっているという。
 
ずさんな現場管理に、欧州企業との競争激化と、相次ぐ逆風に見舞われている韓国建設企業。
世界に存在感を示したと思ったのもつかの間、世界から見放される試練にさらされている。
 

 

五輪分散開催で韓国にクギ
舛添都知事「モノには限度がある」

zakzak 2014.12.10
親韓的な言動で知られるこの人もさすがにカチンときたようだ。
東京都の舛添要一知事は9日の記者会見で、2020年東京五輪の一部競技を韓国などの周辺国で開催する可能性について「東京五輪と言ったら、東京を中心にやるべきだ。モノには限度がある」「(分散開催で)東京五輪って言えますか?」と否定的な見解を示した。
 
一部の韓国メディアは「(18年冬季五輪会場の)平昌(ピョンチャン)と東京が一部種目を互いに分散開催し、費用削減の現実的な方策がないか検討する価値はある」との国外開催論を提起している。
 
国際オリンピック委員会(IOC)も、経費削減のために国外開催を一部容認する中長期改革「五輪アジェンダ2020」を承認したが、舛添氏は「選手村の整備などで、むしろ負担が重くなる可能性がある。
長野で平昌五輪のボブスレーをやったとして、誰がカネを払うのか」と反論。
「日本と韓国は海を隔てている。条件が整わない限り、海外の都市と共催するのは難しい」と指摘した。
 
 
 
 
 
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転載元 韓国は『なぜ』反日か?

韓国と日本の「仕事」に関する認識の違い

朝鮮には、身分社会(貴族と奴隷の社会)が長く続いた歴史があるため、
肉体労働をする者を身分の低い卑しい者とみなす風潮が今でも残っている。
(彼らは学者やタレント、大学教授などを“高貴な者の職業”だと思っている)
 
朝鮮の貴族社会においては「何の労働もしないこと」が地位の高い人間の証明だったので、
例えば「手に持っていた物を床に落とした時、それを拾うために腰を屈める動作」すら
貴族たちは卑しい下品な行為として嫌った。

そんな社会だったので、特に『職人』にはことさら酷い蔑視をしていた。
これは職人を尊敬する文化を持つ日本とは正反対である。
そしてこれも日本と韓国を意識レベルで友好関係から遠ざける一因である。


それゆえ現代でも韓国人の仕事の「酷い手抜き」は
日本人には冗談のように思えるレベルのものがある。

特に建築物や乗り物などは職人の仕事・作品の中でも
直接“人命に関わるもの”であるにも関わらず、
「桁外れの手抜き工事」が世界中で次々と悲惨な結果を招いている。


たとえば、韓国国内でも、
三豊(サムプン)デパートという5階建てのビルが地震も何もない状況にも関わらず、
ある日突然、“地下売り場まで”丸ごと崩壊し、千人あまりの死傷者を出した例もある。

また、その前年には、ソウルにある聖水(ソンス)大橋なども、なぜか突然崩壊して、
通行中の乗用車やスクールバスを巻き込んで死傷者を続出させた。

三豊百貨店
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韓国で崩落した三豊百貨店

聖水大橋
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韓国で崩落した聖水大橋


ちなみにこの橋の事件では、一番安い見積りを出した韓国国内の業者に作らせたところ
唐突に崩落し、事故の後に手抜き工事が発覚した、という経緯なのだが、
これがもし日本なら、たとえ“一番安い業者”を選んだとしても
たかだか十数年で全壊し32人も命を落とすほどの危険なものはさすがに作らせないだろう。

韓国では他にも、オリンピック大橋も崩落しているし、
新幸州(シンヘンジュ)大橋など建設中に大崩壊している。
八堂(パルダン)大橋にいたっては、なんと2度にわたって崩壊して死傷者も出している。

ちなみに日韓併合期(60年以上前)に“日本が作った橋”は今でも彼らの国で現役である。

他にもガスの大爆発や飛行機の墜落など、
世界的に有名な“韓国の大惨事”はいくらでもあるが、
「韓国の大統領が嘲笑した日本の阪神大震災(天災)」と違って、
韓国の大惨事はほとんど全て『人災』なのである。


これらの手抜き工事を韓国国内だけで行う分には
世界的にみればたいした問題ではないだろう。

だが、韓国の手抜き工事による事故は韓国国内にとどまらない。


例えば有名なところでパラオでの事故がある。

パラオ本島と首都のあるコロール島の間には、KBブリッジという橋がある。
(「KB」とはKororコロール島とBabeldaobバベルダオブ島の頭文字)

実はこの橋は、一度崩落している。

この橋を建設するにあたり日本の鹿島建設も入札したが、
韓国の業者が日本の半額を提示して落札したため、韓国が工事を行った。

だが、それが悪夢の始まりだった。

この業者、コンクリートの固め方さえデタラメで、
建設の様子を見ていた現地住民などは開通当初から不安を抱いていたため、
車で橋を渡るときは、何かあった時のために
必ず「窓を開けて」警戒しながら通らざるを得なかった。

橋の中央部が次第に変形して沈んでいくため、
まず通過制限重量が変更され、
徐々に体感できるほどの危険な揺れが始まり、
事故の起きる頃には徐行運転で恐々と渡るような状態になっていた。


そしてある日、悪夢は現実となった。

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韓国の業者がパラオにかけた橋

このような橋が…




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韓国の業者がパラオにかけた橋、真っ二つ

真っ二つに。


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韓国の業者がパラオにかけた橋、崩壊


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韓国の業者がパラオにかけた橋、ライフラインごと断絶



韓国製のKBブリッジは見事に崩壊した。

通行車両の少ない時間帯だったが死者も出た。
その上、橋の内部には電線・水道・電話線が通されていたため、
パラオのライフラインは分断され、あっという間に『首都機能』が麻痺。
ナカムラ大統領が国家非常事態宣言を出すほどの大惨事となった。


完全に韓国人による「人災」である。

(ちなみにこの時、パラオと姉妹都市である日本の三重県から救援物資が空輸された)

パラオ政府は韓国の業者に崩落の賠償を請求したが、
その業者が過去にも聖水大橋を崩落させていたことを理由に韓国側は賠償を拒否。
しかもその会社は既に解散していたため手掛かりもなく、一銭も支払われなかった。

(※韓国の建設業界では、中小の会社が金を貰った途端に会社を解散させて音信不通になる=責任回避することは珍しいことではなく、よくあることだという)


『安物買いの銭失い』とはこのことである。

完全にぼったくられ損のパラオ政府を見かねて、
日本はまず「仮設橋の建設」を援助し、島の交通を確保。
そして日本政府の援助により約30億円の新たな橋を無償で架ける事にしたのである。

施工は例の鹿島建設。工事中、現地の人達は「カシマ」という言葉を覚え、
日本人を見ると「ありがとうカシマ」と声をかける子供もいたという。


5年後、橋は完成した。
そして開通式典が開かれ、橋の新しい正式名称が発表された。

その名も「Japan-Palau Friendship Bridge」(日帛友好橋)。

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新しいパラオの橋・日帛友好橋


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「新KBブリッジ計画」の看板



コロール島とバベルダオブ島を結び、パラオの人々の生活を支えるこの新しい橋は
文字通り遥か南国のパラオと日本を結ぶ友好の「橋」となった。

パラオとの友好関係については次頁で詳しく紹介することにするが、
この新しい橋のたもとの碑文には、
日本とパラオ親善の橋(Japan-Palau Friendship Bridge)と刻まれ、
日本とパラオ両国の国旗も描かれている。

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パラオの「日帛友好橋」のたもと

(拡大)


それとは対照的に、手抜き工事で崩落した旧KBブリッジはというと、
たもとに韓国が作ったことを示す「碑文のみ」が残されている。……が、

なぜかその石碑の「KOREA」の文字が何者かに削られていたりする。

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「KOREA」の文字が削られた碑文


ちなみに「韓国を併合していた時代に日本人が架けた橋」は、
朝鮮半島では数十年経った今も問題なく使用されている。

そのことを考えても、「建築」というひとつのジャンルを例にあげただけでも
国民性としての『仕事への誠実さ』に日韓で大きな違いが浮き彫りになるのである。


韓国の手抜き工事のもっと有名な事例がマレーシアにある。

“マレーシアの象徴”ともいわれる、マレーシアの石油会社が所有する
当時世界一の高さを誇るツインビル「ペトロナスタワー」でも
韓国業者の手抜き工事があった。これも日本に少し関わりがある。


そもそもペトロナスタワーは、日本のハザマ建設が受注していた物件だった。
だがそこに、ライバル心を燃やした韓国の業者が、強引なやり方で割り込んできた。

その結果、『2つの塔が連なる1つのビルを日韓の業者が1塔ずつ受け持つ』
という珍妙な形で受注することになった。

それだけでも充分迷惑な話なのだが、韓国の業者は建築過程でも、
日本側が作り上げた設計図を「共同工事だからいいだろう」といって勝手に持ち出して
コピーして盗用したり、日本側が作業する様子を逐一双眼鏡で覗き続けたりと、
韓国人特有の反日主義とライバル意識を剥き出しに、“日本を出し抜こうと”作業を続けた。


そして外見はほぼ同じデザインの、2塔が連なる巨大建築物が完成する。

ペトロナスタワーは世界でも目を引く高層タワーであるため、
すぐに日本側のタワーには各階・各室ともテナントが入り、満室に近い状態になった。

だが、なぜか、韓国側のタワーにだけはあまり借り手がつかず
テナントがほとんど埋まらない寂しい状況が続くことになったのである。

それはなぜか。


残念なことに、「韓国側のビルは傾いていた」のだ。

詳しく述べると、「国立マレーシア大学建築研究チーム」の調査により、
『韓国側のタワーに倒壊の危険性』が指摘されたのである。
土台工事の手抜きなどが原因で、韓国側のタワーが徐々に傾いているというのだ。

当然だが、そんな危険なビルに好き好んで入る会社はいない。
見た目のデザインはほぼ同じ2つのタワーなのだが、
入居状況は、夜になって外から2つのタワーを見れば一目瞭然。

灯りが少なく、人の気配がない暗いタワーが韓国製である。

ペトロナスタワー。右側の灯りの数が少ないほうが韓国製
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マレーシアのペトロナスタワー



ビルが傾いていることを知らされた韓国人がどう反応したか。
ここまでこのサイトの話を読んでくれていた人には想像がつくかもしれない。

そう、やはり、いつものように、
「日本の設計図や計算ソフトのせいにした」のである。


片方のタワー建設を韓国に任せてしまったペトロナスタワーのオーナーは
韓国人というものをもっとよく知ってから判断すべきだったのかもしれない。

韓国と組んだことが残念な結果を招いたビジネス失敗の一例である。


このように日本と韓国では仕事に対する考え方も品質も大きく異なる。
職人気質の日本人が高いレベルの仕事をすることは世界的にも有名なのだが
それでも韓国は悔しさのあまり素直に日本の技術力を認められない。


かなり前の話だが、韓国は、韓国国内の京釜高速鉄道の国際入札でも
韓国人特有の強烈な僻み根性を発揮している。

当時韓国は高速鉄道の導入計画を日本に持ちかけ、散々気をもたせて
引っ張りに引っ張った挙句にあっさり日本を捨て、
フランスのTGV型鉄道システムを買うことを選んだ。
その日本への不遜な態度は、
韓国人の「日本に対する劣等感と優越感の入り雑じった感情」を大いに満足させた。


だが、韓国人はやはり勉強不足だった。
フランスと日本では、日本のほうが本来は韓国の土地柄に近いはずなのだ。

フランスの鉄道は「平野を走るだけ」だが、韓国には日本と同じように
トンネルや鉄橋があり、台風も吹く。
しかもTGVはそもそも「トンネル」というものを
想定して作られていなかったため、トンネルに入った空気圧のショックで
車輛に大きな亀裂が入ることが判明したのだ。

それに加え、韓国の技術にも問題があったため、試験走行中に半導体素子が炎上、
営業運転前の事故でまさかの死者を出す事態に至ったのである。

そのせいでTGVは技術再検討のため計画を一時頓挫させることになってしまったのである。

そして計画から6年間遅れで、国家予算の2割に相当する22兆ウォン(約2兆円)の事業費と
12年の歳月を費やした京釜高速鉄道はKTXという名で2004年に暫定開通した。

ちなみに開業前の韓国では「世界で5番目の高速新線」と宣伝していたが、
実際は日本・フランス・ドイツ・イタリア・スペイン・スウェーデン・ベルギー・
英国・米国・中国・フィンランド・ノルウェー・スイス・ポルトガルに次いで「15番目」であった。


こうして開業したKTXだが、なんと初日からいきなり
電気・車輪系の故障による急減速で乗客を途中下車させたり、
60代の女性を撥ねる人身事故を起こすという前途多難なスタートを切ることになる。

また、KTXは「高速鉄道にも関わらず、鈍行列車や貨物列車と同じ線路を走る」
という信じられない運用状況であり、頻発するKTXの事故のたびに他の車両の
運行が妨げられている。しかも日本の新幹線と違って座席の向きが回らないため、
逆方向に進む路線では“乗り物酔い”で気分が悪くなり、乗客から苦情が続出した。

結局在来線の「特急セマウル号」のほうが安くて乗り心地がよいということで
需要を開拓できず、期待した売上の半分しか収益があがらず赤字を出してしまう。
そして結局は経営改善のために日本のJRグループから経営手法を教わる運びになったのだ。

これらは全て韓国が“自国の風土に最適だったはずの日本の技術”を
「ライバル心からわざと選ばなかったこと」による失敗なのである。

しかし、逆に日本からみれば、事故のたびにいつもの不当な言いがかりで
“恒例の謝罪や賠償”を要求されずに済んだ上に、貴重な新幹線の技術を
不用意に流出させずに済んだという点で「幸運」だったといえるのかもしれない。


ちなみに韓国の拙い鉄道技術は海外でも迷惑を撒き散らしている。
2005年7月の台湾政府の発表など日本人として同情を禁じえない。

台湾が韓国から購入した列車があまりに頻繁に故障するうえに、
購入時に約束していたはずのアフターサービスもせず、
韓国は要望に対する返答すら満足にしないので、
台湾は今後「全ての韓国企業」を「鉄道関連の全事業の入札」から締め出すことを
政府として決定したというのだ。

台湾も日本と同様に仕事への姿勢を大切にする国なので
韓国の態度に我慢ならないのも無理もないことだろう。


ちなみに日本の新幹線は、その安全性が“神話”とまで言われている。
1964年の開通から41年間死亡事故は一件もなく、日本以外の国々でも
Bullet Train(弾丸列車)、またはShinkansen(シンカンセン)の名で広く知られている。

この日本の新幹線は海外にも輸出されている。
たとえば台湾に建設されることになった高速鉄道では
独仏連合との受注競争の末、日本の技術が採用された。

この計画、当初は2005年10月開業予定だったが、実はまだ完成していない。
というのも、コンサルタント業務を先に受注していた欧州連合との調整難航に加え、
建設工事の一部区間を担当した韓国企業による手抜き工事が発覚したためだ。

結果、開業時期は2006年10月以降に延期されることになってしまったのである。


余談だが、韓国はここにきて「非公式の日韓政府間協議」を打診してきている。
JR東海や日本の車輛メーカーにも韓国から接触があったという。
最近では中国も韓国と同様に日本の新幹線技術を欲しがっている。
だが、日本は元々天然資源の乏しい『技術立国』の国家なので、
安易に他国に技術を供与すれば必ず後悔することが歴史的にも証明されている。

日本が貴重な技術を提供する場合は、信用できる国を選ばねばならないのである。
 
 
【クロージングセンテンス↓】
 
 

釈迦の教え 刹那主義 (せつなしゅぎ) とは

 お釈迦様が弟子に、こう聞かれました
 
「お釈迦さまは神通力にすぐれ、人の前世や来世が見えるとの事ですが、私の前世は何でしょうか?」
 
お釈迦様はこう答えたそうです。
「そんなことは考えなくてよいから、今日(こんにち)ただ今、この刹那(せつな) を大事にして生きなさい」
 
 お釈迦様が使ったこの刹那(せつな) というのは、今の一瞬一瞬のこと。
現代では「刹那主義」といえば
 
「今さえよければ後はどうなってもいいと思うこと」
 
との意味ですが、本来の「刹那主義」とは
 
「一瞬一瞬を 大事にして生きる」
 
 ことです。
 
そして、
今、目の前の人を抱きしめること、
その人に最大限、自分の笑顔を向けること、
「私の」持っている言葉として温かいもの、
人をやさしい気持ちにするもの、
思いやりに満ちたもの、
励ますもの、勇気付けるもの、
 
どんなにひどいことをされても、心を安らげる言葉遣いを実践することです。
 
 人間が本当に心の底から幸せを感じられるのは、喜ばれた時です。
 
喜ばれると嬉しい。
 
喜ばれる存在になることが価値ある人間です。
 
 
一時的に負けたと思っても、
10年経てば日本製品の素晴らしさを再確認することになる。
かの国の刹那主義に惑うことなかれ。

ルーツ・ファンタジー/支那のユダ

転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』


1章.神々の暦


1-32.支那に渡来したユダ

圧政に苦しむユダヤ人は陸と海のシルクロードを通じ、古代中国に渡来した。
彼らは漢字を駆使し、その中に聖書を織り込み、孔子はユダヤ教を儒教としてまとめた。
一方、漢民族は、その語源からカインの種族だということが明らかになった。



遠くは、シュメル、マケドニア、エジプト、ユダヤ、ローマ他の一部の部族は、その圧制を逃れ、新天地を目指し、シルクロードを通じてユーラシア大陸を東に移動し、中国全土に散らばった。
古代中国には、漢民族は存在せず、モザイク状の多民族国家だった。

明代に「重建清真寺記碑(1489年)」の石碑が出土。
漢王朝(前202年~)に、ユダヤ人がインド経由でやって来たと記述されている。
石碑には、阿無羅漢(アブラハム)の時代から、モーセ、バビロン捕囚時代の預言者エズラまで、旧約聖書の伝承が刻み込まれている。
しかも、宋(439年~)の皇帝にユダヤ人が謁見し、漢姓を賜ったことが、70名の氏名と共に書かれている。
ユダヤ人十七の漢姓が書かれており、
金、石、高、文、李、張、趙の八家を含んでいる。
他にも、イスラエルの民が南宋軍の兵士として共に戦ったことが書かれており、圧制を逃れ、理想の国を求めて逃亡したイスラエル人を保護したのが、宗家である。
この事は、ヴァル様の養子先がソー家である事と、無関係ではないと思われます。

捕囚のイスラエル人は新天地を求め、中国へ渡来。
旧約聖書にあるユーフラテス川、チグリス川の四個の川になぞらえ、エデンの園に見立て、四川と名付けて定着。
単純な構造の漢字に、旧約聖書を折り込みながら新しい漢字単語を創造した。
当時の中国は、多民族国家でした。
これを欧州になぞらえれれば、出欧州したフロンティア精神の米国と、新天地を求めたイスラエル人達が渡来した日本もまた多民族国家であり、フロンティア精神に満ちていた。
新興国米国と気脈が通じるはずです。

ソロモン時代から、中国にユダヤ教の寺院があった。
仏教よりも先に、ユダヤ教徒が漢字用語を発明しており、ユダヤ教やキリスト教の用語が出来上がっていた。
つまり、僧侶、寺などは、ユダヤ教の中国語訳だった。その後、中国に仏教が入り、仏教にもユダヤ教の用語を使った、拝借した。
その為、日本ではユダヤ教・キリスト教・仏教の区別がつかなくなってしまい、日本式仏教として日本に定着してしまった。
しかも、大虐殺の文化大革命を経て、中国の古代文明が破壊されてしまったことの影響もあり、元々の中国の国教が、ユダヤ教、そして景教だったことが歴史から抹殺されてしまった。
西方浄土と言えば、インドの事と思うのだが、そうでは無い。
中国から西に向かえばシナイ半島であり、神の約束の地であるカナンの事なのです。
仏教という漢字は、唐の時代に出現した新しい作り文字です。
仏のムは、△を意味し、神という意味だと云う、神も仏も同じ意味です。

前五千年頃、日本では聖人とされている儒教の孔子は、2m30cmもの長身だったという。
一般に仏教の寺門は南を向いている。
しかし孔子寺は、ソロモン宮殿、エジプトのピラミッド同様、太陽の登る東向きなのです。
正当なシナゴーグはすべて東向きです。
1663年清真寺の再建記念石碑では、ユダヤ教と孔子の儒教が、同一だと主張しています。

儒教のジュはユダヤを指す。
つまり、孔子は当時中国内にあったユダヤ教を、儒教としてまとめて編纂した。
しかし、孔子の儒教は、血族最優先です。
父が亡くなれば、公務の最中でも帰郷する。
身内が罪を犯せば、かくまう為に嘘をつくことを勧めている。
これは、カナンの教えにあり、カイン一族と交わり悪魔教へと繋がります。

まさに十戒に対し、反十戒です。
日本の儒教は、孔子の儒教とは異なり、日本の国体理念を儒教を使って現したもので、まったく別物です。
しかも、古の皇帝を夏、殷、ウとし、ウ=ノアに見せかけ、夏、殷をあたかも旧約聖書の正当な王朝だと虚言している。
夏、殷は、一つの言葉で、夏殷=カインでしょう。
つまり、古代中国はエンキの支配する商業・工業都市だった。

尚、ソロモンの当時、商業はカナン人の仕事として軽蔑されていた。
尚、堕天使が交わったカインは、カナン人と交わり悪魔教を広めている。
また、イスラエルがカナン地方を征服するまで、カナンの都市国家は「通商の王」とされており、中原と全く同じです。
だから、漢=カンの語源は、カナンもしくはカインだと思われます。

◆ノアの呪い
(中略)

バビロニアのタルムードにある「カインの遺言」には、天上界から与えられた十戒と正反対の遺言の記述がある。
つまり、血族のみを愛し、他からは搾取せよと述べているのです。
この思想が、孔子の思想であり、共産主義の布石でもある。

「カナンの息子たちに五つのことを課した。
互いを愛すること(カインの子孫のみを愛する)。
盗みを愛すること。
姦淫を愛すること。
主人を憎むこと
(ノアの呪いにより、セムとヤペテのしもべの運命。
セムとヤペテを憎む)。
真実を語らないこと。」

呪いにより人類を呪縛する(申命記 第27章)ことは、サタン・ナブーに独裁国家をもたらします。
そして人類の精神的な進歩を阻害し、現代文明と自由民主主義国家を築くことは永遠に不可能になってしまう。

(中略)

この様な悪魔教は、長男を生贄にし、キリスト教の儀式同様、人肉を食っていた。

孔子は、人肉を毎日好んで食いながら、血族最優先を儒教=ユダヤ教として広めたのです。
日本仏教が原始仏教と別物な様に、日中の儒教は同じ用語ですが、似て非なるものです。


1.「大秦景教流行中国碑」
この碑には、原始キリスト教の用語が記されている。
一般に、私達が、仏教用語とみなしており、誤解してしまっています。

景教 ・・・原始キリスト教
大秦寺・・・教会 (八幡神社も同じ)
真宗、達娑 ・・・原始キリスト教信者
童女  ・・・マリア
初人  ・・・アダム
浴水  ・・・洗礼
風   ・・・精霊
羅含  ・・・アブラハム
業利  ・・・ガブリエル
沙門  ・・・仏教の出家僧ではなく、原始キリスト教徒

更に、ローマ(大秦)との間に数千人規模のキリスト教徒の交換を行っていたことも記述されている。

秦の始皇帝(前221年~)亡き後、宦官は皇帝の死を長い間伏せ、始皇帝の遺書を焼き捨て、始皇帝が世継ぎに指定した長男を抹殺し、弟を玉座に座らせた。
しかも、この皇帝を処刑し、宦官が皇帝のように振る舞いだし、皇帝など理想で自分達こそが権力だと述べており、ローマ傀儡政権である秦が如何に圧政を行ったのかが理解できる。

特に、マリアを童女としている。
聖徳太子は童子の姿で描かれており、これは呪いだとの説もあるが、やはりマリアに対しイエスを意味するものでしょう。

日本書紀、692年の持統6年に次の記述があります。

「筑紫太宰府率河内王等に曰く“沙門を大隅と阿多とに遣して、仏教を伝ふべし。
復、大唐の大使が、御近江大津宮皇の為に造れる阿弥陀像上送れ”とのたまふ。」


2.大和民族と韓国
3世紀頃、秦氏の民が秦の強制労働に耐えかねて馬韓に亡命した。
その後、彼等は、辰韓、弁辰(弁韓)を建国する。
馬韓人は裸族に近く、辰韓人は清潔で服を着用し、礼節をわきまえていたと『三国志魏書』に書かれている。

“シン”という音は何れも、ローマを意味しており、日本語へのヘブライ語隠蔽と同じ手法が、既に使われている。

大秦(ローマ)→秦→辰→新羅→清は、どれも秦を意味する。
しかも、四代目新羅王、脱解(57年~)の生まれは倭国だと、『三国志』に書かれており、大和朝廷とは親族に当たる。

徐福は、秦から辰韓に到達し、日本に向かった秦氏一族(景教徒)であり、日本に高度な技術をもたらした。

大雑把に、秦国系一族は日本海側に潜入し、百済系は九州に入り込んだ。
スサノオは新羅を経由して、日本に渡来。
出雲に出現したスサノオの勢力は秦氏一族であり、越の国もまた秦氏の王国である。

一方、九州の倭国、邪馬台国は、百済系に属しています。
だから、神宮皇后は、九州の大和族を滅ぼし、新羅を救ったのです。
応神天皇は、宋に朝鮮半島の支配権を認めさせ、秦氏一族と手を携えたのでした。

神武天皇系が、大和朝廷となる。
カム・ヤマト・イワレ・ビコは、ヘブライ語で、集める・神の民・ユダヤ・長男と訳せて、神の民を集めた、ユダヤ民族の長男という意味です。
また、ミズホラ=日の昇る国=瑞穂の国となり、大国主命が建国した国でもあります。
更に、カヌ・ナー=葦の原=葦原の国=カナンの事で、つまり、スサノオはカナンから追放され、新羅に至り、日本に渡来しています。
この箇所については、非常に重要で、
『古代日本と七大天使』の修正が必要となるので、別途説明します。



3.聖徳太子と天武天皇
秦氏は聖徳太子のスポンサーで、平安京を建立している。
天智天皇=百済系は、白村江の戦い(663年)で、唐・新羅軍に敗北し、百済は滅亡した。
ところが、壬申の乱(672年)で、大海人皇子が復権し天武天皇として即位する。

新羅系の天武天皇(和号に真人を含む)が始めて天皇を名乗り、国名を日本とした。
つまり、日本国初代天皇です。
そして、毎年五ヶ月間肉食を禁じただけではなく、古代日本独特のヘアースタイルから、髷に改めさせたことからも、明らかに王朝が異なる。

概略、日本国は、邪馬台国→倭→大倭→大和朝廷(崇神天皇)→日本へと王朝が変わった。
一般に、神の付く天皇名が王朝とも言える。
尚、新羅系=秦氏系の物部氏を滅ぼした蘇我氏が、百済系に相当する。


天皇という言葉を使う以前は、“院”と呼ばれていた。

死後は尊称として諡に天皇を付されていた(後醍醐天皇だけは例外)。
つまり、死後に天上の一員になるという意味です。
日本では、天上の政府を地上に反映させた形で、地上に諡として天皇の称号を持つ支配者が居る。
つまり、天上界の形態を、地上に反映させたものとも捉えられていたようです。
この天上の神々は、天照大神をはじめとする皇祖皇宗ということになります。

天皇という言葉は最初に道教に出てきます。
宇宙の最高神は天皇大帝で、高級官僚が“真人”、低級官僚が“仙人”でした。
天皇帝がヤハウエ=天照大神、真人が大天使、仙人が天使に当たるのでしょうか。
天皇大帝は官僚達に命じて地上を善導しているとされていた。
この天皇という意味は、天の支配する物の意味で、生きている人間に対する言葉ではなかったのですが、後々尊称として拝借したようです。

古来シナでは天皇大帝は元々北極星を指していた。
それが東方世界の最高支配者を指すようになる。
そして、天皇は、太陽が昇る「日の下」「扶桑」「方丈」を治めていると云われていた。
つまり、道教に詳しかった天武天皇は、
「日の下」→「日本」としたのだ。

また、終戦の詔は昭和20年8月15日です。
昭和12年の文部省通達に
『・・・皇祖皇宗がその神裔にあらせられる天皇に現れまし、天皇と皇祖皇宗は一体・・・』
という文章があるそうです。

数代にわたって唐(618年~)の皇帝は、景教の寺を奨励した。
アッシリアの宣教師アブラハム、漢名・阿羅本に「鎮国大法王」の称号を与えている。

空海は唐からの帰国直後、九州に鎮国寺を建立。
空海の中国での師匠は、西明寺の般若三蔵で「大秦景教流行中国碑」の聖書部分を書いた本人の一人だった。
大秦寺のみならず、光明寺、大慈恩寺、西明寺、鎮国寺すらキリスト教教会だった。

最澄は、遣唐使として、旧約聖書を日本に復活させた。
空海の高野山には「大秦景教流行中国碑」があり、新約聖書を日本にもたらした。

高野山は浄土真宗で、親鸞・法然へとつながる。
ここで注意が必要なのは、秦氏一族には三種類あることだ。
出雲王国を建国したスサノオ・大国主系の秦氏=物部氏、平安京を建立した越の国の秦氏一族、技術者集団として秦から亡命した徐福の秦氏一族である。

聖徳太子の時代、ユダヤ教・原始キリスト教の日本に、ユダヤ教の発展系として新約聖書がもたらされた場合、神道は崩壊し、日本はキリスト教国に変貌していたことでしょう。
当時、ローマ帝国はキリスト教に改宗、中国では景教が国教化していた。
つまり、日本で聖徳太子=イエスが再来すれば、世界中がキリスト教により、支配されてしまっていたのです。
ところが、キリスト教ではなく、一見キリスト教と無関係な密教という形式で新約聖書=空海=親鸞に引き継がれた為、神道は滅ばされず残った。
しかも、聖徳太子がイエスの再臨として出現することも阻止され、ヨハネの黙示録の計略はここで一旦失敗した。

(中略)


4.漢民族の出自
漢民族は、古代中国史の何処にも出てこない。
黄河周辺、現在の河南省の一体に屯していた有形無形の未開人で、種族をなすほどの勢力ではなかったからです。
彼らを最初に支配したのは、殷、次に周だった。

清王朝(1644年~)の時代に漢族という名前が表舞台に出てくる。
当時の清では、王朝の柵の外に追い出した人々を、漠然と漢族と呼んだ。
漢民族は、北京原人の末裔と云われ、異常に活発で、生殖が大きいのが特徴。
人類の中では新しい種族です。

また、KAIN→訛ってKAN→漢(もしくは、KANAN→訛ってKAN→漢)で、漢民族の正体は明らかで、漢字を自在に操るイスラエル人の知恵がその出自を呼び名として残したのです。

中国の伝説に、女蟐(ジョカ)が居る。
彼女は、泥をこねて人を作った。
更に、洪水からも人を救います。
彼女には伏義という兄、または夫が居て、二人の下半身は絡み合う蛇の姿で描かれています。
しかも、女はコンパスを、伏義は直角定規を手にしている。
フリーメーソンのシンボルである。
伏義は月と蛙、伏義は太陽と烏がシンボルである。
人類を創造したエンキとニンフルサグであり、他の神々をも己として、その偉大さを誇示したものでしょう。

太陽,月,カラスは天皇家のシンボルでも在り、神々が日本に渡来されている事が分かります。


5.天皇制を利用する中国共産党
仏教も儒教も聖徳太子も神が無い。
仏教は、柔軟な心のみを説いており、個人の生活規範の一つであり、国防をないがしろにしており、国家制度に適用するようなものではない。
おかげで、武士階級が崩壊し、釈迦国は滅びてしまった。
まさに、憲法第九条の古代版です。
つまり、仏教を宗教まで発展させ国を滅ぼしたのは、ダビデでしょう。

現在、中国は自国の利益の為に、政治的に天皇制を最大限に利用しており、天皇制を最も擁護している。
天皇制を信じる日本国民を、非理性的な国民感情と見なし、天皇の最大利用者は、中国である。

天皇には何時までも無条件の平和を唱えてもらう。
非核非戦を誓った平和憲法を守ってもらう。
天皇が平和を望むと述べるだけで、中国は強国日本に気を遣うことも、金を使うことも無い。
天安門事件後の欧米経済封鎖の一穴として、困窮した中国は、宮沢首相,渡辺外相に日中友好を働きかけ、天皇訪中を政治的に利用し、大成功を収めた。

しかし、利用価値がなくなれば、つまり中国が軍事大国になれば、真っ先に日本民族を併合し、皇室を完全に滅ぼし、日本民族はチベット・ウイグルのホロコーストを味わうことになるのです。


6.『漢字に秘められた聖書物語』を読んで
本書を読めば、著者が控えめに述べている通り、漢字や甲骨文字は旧約聖書の物語を具象化しているのだと確信させられる。
儒教や仏教の前、唯一神を祀っていたことが明確に理解できる。
元々、チャイナは旧約の国家であり、イスラエル人やユダヤ人が、国を造り、バベルの塔の破壊後に漢字を造った。
ここで、少し例を紹介します。

巨大な舟は「船」と書きますが、右側は八人の口で、ノアの箱舟に乗り込んだ八名を意味している。
即ち「船」はノアの箱舟をイメージしたものです。

「鬼」とは神に敵対する神のことで、サタンを意味します。
「魔」は誘惑する者の意味で、サタンの上に二本の木があり、これは生命の木と智恵の木です。
蛇サタンが、アダムとイブを誘惑した事をイメージしています。

幸せには、「幸」「仕合わせ」「祉」の三通りが有ります。
「辛」は、十字の上に立つの意味で、十字架を背負った姿です。
「幸」は「辛」に横線が増えており、これが神の栄光を意味しており、神とのかかわりにおいて、個人の内面的な喜びを表している。

「仕合わせ」の「仕」は、人と「土」アダムの事で、アダムと他の人との関わり上の喜びを表している。

「祉」は、神が止まる事を意味し、神の臨在による喜びを表している。
更に、「止(とどまる)」は神の右足の跡の事。
更に、「止」に神の光を加えると「正」と成る。

関連して、「禁止」は、神の二本の木を、神はアダムとイブに禁じられた事を意味している。

まつるには、「政」「祠」の区別が有ります。
「政」は、左辺「正」で神が居られる様を、右辺は「手に打つ棒を持つ形」を表し、神の元で武力を有する権力を意味している。

「祠」は、左辺は神ご自身を、右辺は人と口を表し、神に使え神の言葉を伝える事を意味している。
納得できる説明です。

「天」は人の形をした神の事です。
「皇」は、「旦」と「土」から構成されている。
「旦」は朝日が昇る様で、神の輝きを表している。
「土」は神から祝福された人アダムの事で、神からの祝福された人の事。
「天皇」は、神から祝福を受けた人の事を意味しています。

上記のように、甲骨文字の時代から、旧約聖書の物語の内容が漢字を組み立てており、常に神と人との関係を意識し、同じ発音でも神との関連で異なった形の漢字を想像している事は明らかです。

ダビデの星、ピラミッドアイを、漢字で読み解くことが出来ました。
このことからも、漢字や甲骨文字のような古代文字が、イスラエル人が創造したことを傍証している。

ダビデの星は、△▽で構成されている。
△は神が地上に語りかけている様を、
▽は人が天に話し掛けている様を表している。
この三角形を合わせたダビデの星は、天と地の融合を意味している。

ピラミッドアイは、△と目で構成されている。
△は神を表している。
目の古代文字は、□の中に神の栄光=唯一神◎が入った形で表されている。
つまり、△と目の組み合わせで、神々の中の最高神であるヤハウエを表している。
つまり、サタン・ダビデはヤハウエを偽装している。

蛇足ですが、イエスの墓の紋章は、
「へ」の下に「○」です。
神代文字で神ラー=太陽と訳しましたが、漢字では「へ」は人です。
問題は「○」です。
「◎」「●」には神の輝き、生命と言った意味があります。
「○」だと、鬼を構成する「ム」や「口」の意味になります。
「ヘ」「ム」だと、神に反抗する人。
「へ」「口」だと、神の言葉ではなく、人の言葉を表しています。
どちらにしても、メシアではない。

一方、「合」は、「ヘ」の下に「一」で神の語りかけを、「□」は人なので、神が人に語りかける、もしくは神の語る言葉を人が話すという意味合いです。
「一」の有無で、本当に大きく意味が異なってしまいます。

ルーツ・ファンタジー/古代日本とイスラエル 1

転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

2章.古代日本とイスラエル


古代天皇とイスラエルのリーダとの関係を明らかにし、日本の出自がユダ族とエフライム族だということを検討する。
その中で、旧約聖書と古事記の関係を調査し、日本神話の改竄箇所の指摘を行おうと試みた。


2-1.歴代天皇と旧約聖書

イザナギ・イザナミから始まる歴代天皇と、旧約聖書との関係を調べてみました。
ノアを天御中主と想定すると、皇室の皇統と旧約の皇統がぴったり符合するのです。



ノア=天御中主だと仮定すれば、天御中主からイザナギ尊まで10代。
かたやノアからテラまで10代なのだから、テラ夫妻=イザナギ夫妻に相当します。
テラには3人の子(アブラハム、ナホル、ハラン)があり、イザナギにも3人の子(アマテラス、ツクヨミ、スサノオ)がある。
加えて、スサノオとアマテラスは兄弟で結婚、アブラハムとサラも兄弟で結婚しています。
このように、ノア=天御中主とした場合、古事記と旧約聖書の記述がピッタリ符合してしまうのです。

ただし、正確に一致しないのは、藤原氏による改竄があるゆえです(男神である天照大神を女神とするなど)。

以上の推論を元に、アブラハムの家系から、神武天皇までを推定しています。
更に、孝霊天皇,孝元天皇,開化天皇は、それぞれモーセ,ヨシュア,ユダに、対応することが推測されます。



テラ(イザナギ)

⇒ アブラハム(スサノオ)

⇒ イサク(オシホミミ)

⇒ ヤコブ(ニニギ,イギギの命=黒い頭の王、イスラエル)

⇒ ヨセフ(山幸彦、ホホデミ、エジプトの統治者)

⇒ エフライム(ウガヤフキアエズ)

⇒ ベリア(神武天皇、エフライムの4男)



⇒ ヨシュア(ベリアの7代後。モーセと一緒に出エジプト後、モーセの後継者としてカナンを征服。)



ヘブライ(戸来)の由来について、アブラハムの父テラは、シュメル・ウルの神官でした。
神託司祭の一族はイブリ(ヘブライ)と呼ばれていた。
『12番惑星ニビルからやってきた宇宙人』によれば、
この家系のルーツはエンリルの礼拝センター・ニップールをシュメル語では、ニ・イブルであり、美しい住居地を意味しているという。



2-2.桃太郎はモーセ

桃太郎は、鬼を退治し民を救う英雄です。
竹取物語には月よりの使者が現れますが、いったいその原型はどこにあるのでしょうか。
今回、桃太郎伝説を解読することで、日本とイスラエルの関係、異星人との関係に焦点を当てました。



桃太郎の物語についてですが、最初は大きな桃がUFOで、竹取物語のかぐや姫と同じ要領で解釈が可能ではないかと思いました。
しかし、行き詰まってしまうので、桃太郎が、百太郎であればとふと思い、これを漢字で解釈してみました。
例えば、大きな船は、舟に八つの口、即ち舟に八人が乗ったと解釈できます。
つまり、ノアの箱船です。

このようなことから、漢字はイスラエル人が考案したと述べている本もあります。

同じ要領で、天皇は、天の下に白装束の王、もしくは「白」=「輝き」と考えれば、
太陽神の下の王、即ち天に擁護された心の清い王という意味でしょう。
百太郎の百は、一画目の「一」は天を現します。
ですから、百は天皇と同じ意味です。
また、「太」は聖徳太子と同じで神が宿る事を意味します。
即ち、百太郎の物語は、天皇の中でも救世主として活躍された方の物語ではないかと、推測できるわけです。

「桃」=「籠」が川上から流れてきて、妻に拾われ、その中に男の子が居るのですから、まさにモーセ様です。

桃太郎の猿は、猿田ヒコと同じくヨセフで、エフライム族。
イヌは、ライオンでユダ族。
吉備団子は、カナンの地に向かうまでに与えられたマナで、
吉備団子の串はアロンの杖。
金棒を振り回す赤鬼と青鬼は、鉄と青銅の民の事で、カナンの地に住んで悪魔教を崇拝していたカナンやカインの子孫のことでしょう。

このように推測すると、キジはアロンに対応するはずです。
ここでキジについて逆推理すると、日本武尊が亡くなられたとき、その魂は白鳥となって飛び立ったとあるので、キジは神と人の仲介のような役割と考えれば、レビ族の比喩として考えられると思います。

つまり、桃太郎はモーセ様を表しており、猿・犬・鳥については、各部族に対応する、すなわち、エフライム族・ユダ族・レビ族に対応し、
且つ、シリウス・太陽神(プレアデス)・オリオンの支援を得ていることを意味しています。
まさにエジプトに神の民を失うのを惜しみ、救い出された天上界と同盟星の方々を表しています。

旧約聖書にある、神を賛美する詩編『ベン・シラ』のように偉人を讃えたり、
史実を伝えたマカベア書、天使との交流を描いたトビト書は、誰にでも理解できる物語です。
ところが、桃太郎、金太郎、浦島太郎、竹取物語、記紀神話は、何度読んでもアヌンナキの知識とイスラエルの歴史を知らなければ、まったくちんぷんかんぷん。
つまり、これまで説明したような史実を隠蔽しなければならない事情が、古代日本にあったのです。

漢字で記載された「記紀」を正式な日本史として読まされた唐の役人は、古代日本史を忘れてしまった現代の日本人同様、古代日本が正当なイスラエルの末裔だと分からなかったのではないでしょうか。
つまり、唐人も現在のシナ人も漢民族であり、周の民族とはまったく別民族なのです。
もし、古代日本がイスラエル族と分かっていたら、唐は日本を破壊していたことでしょう。

◆八百万の神とは天使の事!?
百太郎の「百」は、天の元の輝きを意味しています。
「八」は「ヤ」で、ヤハウエのことですから、「八百の神」とは「ヤハウエの輝き」を意味しているとすれば、それは天の天使達の事です。
大和民族と大和は、ヤハウ(天照大)の天使達(八百の神)に守護されていると言う事です。
尚、「万」は「たくさん」という意味でしょう。

◆エフライムはプレアデス、ユダはオリオン!?
エジプトでは、オリオン座の少し左上に大犬座があります。
猟師オリオンに従う犬に見たてられています。
シリウスは英語でDogStarで、アヌビス=犬。
次にオリオンと向かい合っている星座、牡牛座です。
黄道星座の一つです。
V字形のヒヤデス星団が牛の顔で、数個の星の集りに見えるプレアデス星団(M45)が牛の肩になります。
ギリシア神話では美男子の狩人オリオンで、神の放った大サソリにさされて死んだ。
ビラミッドの前にあるスフィンクスは、オリオンのシンボルだとすれば、ライオンと鳥の合体したものだと思います。

ユダ族のシンボルであるライオンは、オリオン。
エフライムのシンボルである牛は、プレアデスを意味しているのでしょう。

2-3.葬られた古代日本

中臣鎌足と藤原不比等による、大和民族の史実の隠蔽に関して、『葬られた古代日本』を参考にして、イスラエル族との関係を検討する。
加えて、白村江の戦いに敗れた大和朝廷は唐の支配を受けることになる。
唐とGHQの占領政策を比較してみた。



梅原猛著『葬られた王朝 新潮社』を頂き、出雲王国(スサノオ命、大国主命)が裏日本を統一し建国したこと、
しかも中臣鎌足と藤原不比等により、藤原氏が日本支配を独占する仕組みを大宝律令と記紀に組み込んだことが語られている。
これまで、不比等がどのように古代日本の歴史を改竄したのかが判らずにいました。
今回本書を読む中で、素人ではありますが、私なりに理解したことの概略を述べさせて頂きます。

1.日本古代史とGHQ
アブラハムの十二支族のうちユダヤ族とエフライム族が主流となり、古代日本に渡来する。
卑弥呼の時代、日本は百以上の国に分かれていた。
裏日本を統一したのがスサノオ命、その六代後の大国主命だった。
エフライムである神武天皇系が日本に渡来、記紀には欠落しているが続いてユダヤ系が渡来し、ユダヤ族から王を出雲王国から王妃を出すことで、大和朝廷が成立する。

おそらく不比等により聖徳太子として隠蔽された人物により、十七条憲法、冠位十二階が施行され、日本を大和朝廷の元に統一した。
それまでの日本は小国の族長制だったのだが、族長に領土を放棄させ、代わりに同じ領土の支配権として大和朝廷が官位を授けた。
族長の支配権の正当性については、大和の神々にどれだけ貢献したのかが重要となった。

ところが、日本は白江村の戦いに敗れ、唐の植民地支配を受け入れる。
唯一の独裁者を是とする中華思想からすれば、聖徳太子的なヤハウエを戴く天皇制は滅ぼされてしかるべきだった。
そこで、聖徳太子的な人物とユダヤ人の歴史が隠蔽された。
同時に、ヘブライ語から漢字へと強要され、仏教・景教(キリスト教)・儒教・道教が混合し、密教として日本に渡来した。
このような状況の下で、唐に献上する日本の歴史書として、古事記が編纂されようとした。おそらく、ヤハウエ=天照大神を日本限定の神としながらも、旧約聖書の内容をそのまま暗号化して残そうとしたのだと思います。
しかし、唐は没落の一途を辿り、日本支配まで手が回らなくなった。
このタイミングで、ヤハウエ信仰に戻っていれば、何の問題も無かった。
ところが、ヤハウエ信仰に戻らず、女神天照のまま、暗号化された古事記を更に、藤原氏の日本支配に都合の良いように改竄されてしまった。

これは丁度、米国統治から独立した直後に、GHQから強制された日本国憲法を廃止して、明治憲法の精神に戻っていれば、左翼思想の浸透と自虐史観などの禍根を残さなかった、
左翼は日本国憲法を盾に、日本を呪縛し続けている、
ということと似ている。

しかし、この改竄された古事記編纂を実質的に引き継ぎ、律令制度を完成したのが中臣鎌足と藤原不比等である(中臣鎌足が大化の改新の功労により天智天皇から賜った「藤原」の姓が、子の藤原不比等の代に認められた)。

その結果、古代日本の歴史を改竄し、皇室の祭儀進行を行っていた物部氏と忌部氏を廃止、中臣氏が実権を握るように仕組んだ。
加えて、律令制の完成により、実際の政治は藤原氏が行い、天皇が承認をするという国体が出来上がる。
政教分離の法治国家ではあるが、天照大神に最も貢献した唯一の子孫として、中臣氏が皇室を、藤原氏が政治を支配する仕組みを作り上げた。
正当な神の民の歴史が改竄されながらも、「記紀」が日本の正当な史書として残されており、これを日本人は改める事ができずにいる。

そこで大東亜戦争と比較すると、非常にわかり易いのです。

明治維新・・・ 聖徳太子の改革

明治憲法・・・ 冠位十二階、十七条憲法

大東亜戦争・・・ 白江村の戦い

GHQ・・・ 唐

日本国憲法・・・ 大宝律令による藤原氏の政権奪取

国体の解体・・・ 古事記日本書紀改竄

左翼支配と自虐史観・・・ 藤原氏の支配

また、稗田阿礼、柿本人麻呂が、古事記編纂に貢献したが、本書では稗田阿礼が藤原一族であり、古代日本の歴史を藤原氏に都合の良いように改竄し、柿本の人麻呂が立派な文章にしたとする。

関連して、高校時代の古典の授業の雑談で、竹取物語は藤原氏独裁への批判だと先生が話していましたが、本書でも同じ事を述べています。
竹取物語では、不比等が天智天皇の子であると言う噂を元に「くらもちの皇子」として登場し、かぐや姫との結婚の条件として、宝物を持ってくるように依頼される。
不比等は匠に依頼し偽物を作らせ、本物を取って来たのだと物語り、嘘を本当のように見せかけ信じさせてしまう。
ところが、この匠がかぐや姫の元に現れ、事実を暴露してしまう。
恥をかいた不比等は、匠を伏せ、血の出るまで打ち据えてしまう。
この匠は人麻呂だろうと思います。
柿本人麻呂は、いろは歌に“咎なくして死す”と残し、歴史改竄の事実を暴露しようとして殺された無念さを伝えたかったのかもしれません。

大和民族は十二支族の正当な末裔であることを基本に、以上のような視点を加味して記紀を再読することで、女神天照大神、国譲り、イザナギイザナミの国生み、ユダヤ民族渡来の欠如など、不可解な部分が解読できるのかもしれません。
また、天皇の長い長い名前を正しく解釈できれば、日本人=大和民族だということを示す事ができると思います。

2.二人の初代日本天皇
神社の二頭の狛犬は、
一角獣:エフライムと牛:ユダ族のシンボルであり、
日本人はイスラエルの正当な末裔である。
旧約聖書との関連で、
イザナギ=シュメルの神官で王:テラ、
スサノオはその子アブラハムである。
そして、アッシリアにより、北イスラエル王国が滅亡後、神武天皇はエフライムの正当な末裔として、
ヤコブ→エフライム→ヨセフ→ベリアの系統のベリアに相当する。
このエフライム一族が、インド経由で日本に渡来した。

不思議なことに、記紀には二人の初代日本の天皇がいらっしゃる。
一人はエフライム系の神武天皇、
一人はユダヤ系と推測される崇神天皇です。

『古代日本と七大天使』によれば、預言者イザヤの時代、ユダ族の王妃ヘフジバと子の月読・スサノオは、苦難を乗り越え日本に渡来した。
その結果、崇神天皇=「御肇国天皇」として、日本を開かれたのではないでしょうか。

ここでは、記紀に欠落しているユダヤ系の日本渡来の隠蔽の後を辿ってみましょう。

記紀によれば、スサノオと天照の「うけひ」により、スサノオに5名の皇子が誕生した。
この男子皇子を天照が養子とし、皇統を与えた。
つまり、皇統は「イザナギ→スサノオ→オシホミミ→ニニギ」という流れになり、男系である。
(別冊正論14 新田均より抜粋)

この養子縁組により、
スサノオ命→大国主命の出雲王朝系譜と、
ニニギから始まる大和王朝へと枝分かれしてしまう。
この枝分かれこそが、皇統を男系とする旧約とこれを引き継ぐ神道にとって明らかに間違いであり、不比等による隠蔽の第一歩です。

スサノオ=アブラハムであれば、神武天皇も大国主命も正当な皇統に属して当然です。
どちらもアブラハムの子孫であり、エフライムの末裔か、ユダの末裔かの違いだけで、遡ればアブラハムに至ります。

つまり、スサノオ、月読、ヘフジバが、ユダヤ系として日本に渡来したのだが、
ヘフジバを女神ヤハウエ=女神天照大神に、日本に先に渡来し出雲王国を建国していたエフライム族=神武天皇系=スサノオとして、史実を改竄した。

スサノオ・大国主命を悪役に仕立て、中臣の祖神を出雲の国譲りの立役者、
つまり天照擁護の最大の功労者に仕立ててしまった。

史実は出雲系から王妃を大和系から男子王を選出することで、平和裏に日本に大和朝廷として統一国家が出現したのであり、エフライムの杖にユダを束ねると言う、旧約の預言は日本にて成就している。

「神である主はこう仰せられる。
見よ。わたしは、エフライムの杖(王権)と、それにつくイスラエルの諸部族とを取り、
それらをユダの杖に合わせて、一本の杖とし、私の手の中で一つとする」
(エゼキエル書 39章)

まとめると、ヤハウエを女神天照大神に暗号化することで、唐の迫害を免れようとした。
更に、不比等により、日本の祖神であるユダ族渡来の歴史が改竄され、神武天皇系のみが日本の祖神とされ、ユダ族が消滅させられた。
しかも、架空の天照大神の最大功労者として不比等の祖神が朝廷に君臨するように仕組んだのです。

従って本当の歴史の流れは、
イザナギ・イザナミ→アブラハム→エフライム→ヨセフ→ベリア・神武天皇・・・
→スサノオ/月読/ヘフジバ・崇神天皇
と一本に繋がっている。

記紀にあるスサノオと天照大神の物語は、イザナギ・イザナミの直後ではなく、崇神天皇の時代のものであり、不比等に都合の良いような架空であったり、脚色されている物語でしかない。

(注)「白村江の会戦」で日本は唐の植民地化政策を受け入れた。
「白村江の会戦」で、日本・百済軍が、唐・新羅軍に敗北した。
唐からの侵略を恐れ多くを築城した後、都を近江に移し、そこで天智天皇は即位された。
その間に、唐から全部で二百五四人が日本に到着し、約三ヶ月滞在したが、目的及び何を行ったか全く不明です。

例えば、神よりも仏教を信仰した慈悲のある天皇として紹介されている孝徳天皇の時、
『明神として天下の治める日本天皇は…』
(日本書記 下P169)とあり、
この記述の後段には古代中国の皇帝の功績の紹介とともに、彼らの徳政に習ったとの記述があります。
この「明神」という神は、日本古来の由緒正しき崇敬の神々という意味です。
また、「日本天皇」という響きには、天地を創造した皇祖神ではなく、日本固有の天皇であり、この天皇をまとめる大天皇が、別途存在しているように受けとれます。

おそらく、「白村江の会戦」で敗北した日本は、唐の植民地化政策を受け入れさせられた。
例えれば米軍のGHQに相当する者達が、天武天皇の時代に来日したのだと推測されます。
このため、
『明神として天下の治める日本天皇は…』
の下りは、日本の独立と、中国の植民地としてのバランスを勘案した記述のように思われます。

この唐の植民地化政策により、日本における、神代文字が廃れ漢字化へ、神道が廃れ仏教国化へと向かわざるを得なかった。

また、
『太古、日本の王は世界を治めた』によれば、古代神代文字のアヒルクサ文字やイヅモ文字で
「天照大神 藤原不比等」、
「日継尊 源頼朝」、
「天宇受売命 藤原忠文」、
「天津児屋根命」
が、伊勢神宮の神宮文庫に奉納されています。
神代文字の存在と、不比等が天照大神を詐称したことの証拠なのかもしれません。

(資料)
少し頭の整理が必要だと思います。
ここで、イスラエルの家系と皇室の家系を、まとめましたので参照下さい。

『創世記35章』イスラエルの十二支族は下記の通り。

ヤコブの姉レアの子は、
長子ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブル。

ヤコブの正妻ラケルの子は、
ヨセフベニアミン。

ヤコブの妻ビルハの子は、
ダン、ナフタリ。

ヤコブの妻ジルバの子は、
ガド、アセル。

皇室の系図は下記の通り。

ヤコブ=ニニギ尊

正妻ラケルの子ヨセフ=山幸彦、その妻は豊玉姫。

ヨセフの子エフライム=ウガヤフキアエズ。

エフライムの四兄弟は、
シュテラフ、エゼル(早死)、エルアデ(早死)、ベリア。

ベリア=神武天皇から、
レバ - レセフ - テラ - エリシュマ - ヌン と続き、
ヨシュア(カナン征服。モーセ様の後継者)につながる。

イスラエルの十部族はアッシリアにより、3回に分けて連れ去られた。

前771年、
ルベン、ガド、マナセの三部族が最初に捕らえられた。

前740年
次いでナフタリの部族が捕らえられた。

前730年
残る六部族が捕らえられた。

前660年(70年後)
神武天皇が即位。
(イスラエル十部族の捕囚期間は70年)

3.皇室は男系男子が正統な皇統
人類を創造したニビル星人から旧約聖書に引き継がれた伝統です。
男系男子の正当性について、
『皇位継承をめぐる危機:別冊正論14』より抜粋致します。

H13年皇太子妃ご懐妊と共に、女系天皇論が持ち上がった。
曰く、男尊女卑を廃止し、日本国憲法では男女同権、男女共同参画だからだと述べる識者が多い。
しかし、皇統は人権の問題ではない。

明治憲法でも、女系天皇を認める認めないで、二転三転している。
結局、皇統は伝統を重んじ男系男子とある。
記紀に登場する女帝はあくまでも男系の女帝であり、女系の女帝ではない。
また、幼い皇嗣が即位までの中継役であり、男系以外の夫からの意見に左右されないよう独身を通している。
男子が途絶えた場合、女系を優先するよりも、傍系を優先するとした。

明治の当時で、皇位継承を男子に限るのはプロシア、ベルギー、スウェーデンなどの王位継承にも合致し、一部ヨーロッパの女帝・女系論は模倣であり我国の伝統を優先させるべきとした。

また、男系の女系天皇を認めなかったのは、女性蔑視に基づくものではない。
なぜなら、天皇を除いては、国民全員が等しく臣民であるからだ。
結論として、新皇室典範が明治の皇室典範を引継ぎ、女性天皇を排している理由は、男子継承と言う「万世一系」の原理・原則を貫こうとする事にある。
それ以外に無い。

明治憲法「皇位は皇室典範の定める所に依り皇男子孫の継承とす」

明治皇室典範「大日本国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子これを継承す」


2-4.葛城王朝9代(神武天皇から開化天皇)の謎


記紀と聖書を対比し、神武天皇~開化天皇までの皇統と、ヤハウエの皇統とを比較した。
その結果、モーセ、ヨシュア、ダビデ、ソロモン、サウルが、古事記の中に暗喩として綴られていた。
加えてアヌンナキの神々との関連についても述べる。



下記に、葛城王朝9代(神武天皇から開化天皇)までを『古事記』に従い書き出しました。

3代天皇以後総てに、「日子」の文字があり、太陽神(エル・ランティ様)の日継を表していると思われます。
また、ヨシュアは神武天皇から7代目ですから、孝元天皇に当たります。
孝元天皇は孝霊天皇の時に、吉備国を平定しており符合します。

しかも、この孝元天皇と孝霊天皇には、「根子日子」の文字が入っており、根の国=エジプトの御子であり、エジプトの太陽神ラーから太陽神の御子でもあることを象徴していると思われます。
血統の絶えない万世一系の皇室であれば、モーセを孝霊天皇として、婉曲に天皇記の中に記述したのではないでしょうか。
つまり、出エジプト時に、エジプトと関係のあるヤハウエの皇統については、天皇名の「根子日子」はエジプトから日子(約束の地カナン)への移動という意味なのだと思います。
しかも、モーセはアロンの弟で、孝霊天皇は次男であり、兄弟関係に対応があります。

従って、孝霊天皇,孝元天皇,開化天皇は、それぞれモーセ,ヨシュア,ユダに、吉備国はカナンの地に相当することを暗に述べているのだと思います。

さらに、崇神天皇と崇神天皇の子である垂仁天皇には、根子の代わりに、イリビコ(入日子)が入っており、カナンの地に入ったことを意味していると推測されます。

不思議なことに、神武天皇と崇神天皇が、両者共に建国者として記録されております。
おそらく、ヨシュア後、元々エサウ一族の領地内ではあるが、この地でイスラエル人の集団により神権的な王国が形成され、その初代が神武天皇だったのでしょう。
北イスラエル滅亡後、エジプト・インド・海経由で、日本に向け移住し、崇神天皇の時に日本国が形成されたのだと思います。

一方、ダビデ王は2代目の王ですが、イスラエル王国を実質的に建国したので、「御肇国天皇」に相当し、崇神天皇とダブって見えます。
さらに、ダビデの子ソロモンは、神の神殿を建築したので、伊勢神宮を建造した崇神天皇の子垂仁天皇とダブって見えます。

ところが、初代イスラエル王国のサウル王に当たる開化天皇については、『記紀』共に殆ど記述がありません。
サウル王は
「彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。
民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」
(サムエル記9章2)
とあり、かつダビデを憎み神の意志に反してダビデを殺そうとした。

仲哀天皇に関しては、『古事記』では神託を無視したために神に殺されたとあり、『日本書紀』には
「天皇は容姿端正で、身丈は十尺(約3M)あった」
と記述されており、サウル王と非常に似ています。

このように天照大の皇統には、モーセから始まるヤハウエの皇統に関連した史実が、暗黙の内に反映されていると思われるのです。

1.神武天皇(カムイワレビコ:神倭伊波礼毘古命)
137才(4子の末子)

2.綏靖天皇(カムヌナカハミミ:神沼河耳命)
45才(3子の末子)

3.安寧天皇(シキツヒコタマデミ:師木津日子玉手見命)
49才(1子のみ)

4.懿徳天皇(オホヤマトヒコスキトモ:大倭日子スキ友命)
45才(4子の次男。末子が双子。)

5.孝昭天皇(ミマツヒコカエシネ:御真津日子訶恵志泥命)
93才(2子、長男)

6.孝安天皇(オホヤマトタラシヒコクニオシヒト:大倭帯日子国押人命)
123才(2子、長男)

7.孝霊天皇(オホヤマトネコヒコフトニ:大倭根子日子賦斗ニ命)
106才(2子、次男)孝霊天皇のカ所に、孝元天皇が、吉備国を平定。
⇒モーセを暗喩で表している。

8.孝元天皇(オホヤマトネコヒコクニクル:大倭根子日子国玖琉命)
52才(8子、長男)
⇒ヨシュアを暗喩で表している。

9.開化天皇(ワカヤマトネコヒコオホビビ:若倭根子日子大毘々命)
63才(5子、三男)

10.崇神天皇(ミマキイリビコ:御真木入日子命)
古事記に「初国知らしし御真木天皇」
書記の崇神紀十二年の条にも「御肇国天皇」と称えられた。
古事記に「神武天皇」は「神倭伊波礼毘古命」と記され、書記には「初馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と記述されている。
⇒ダビデ王を暗喩で表している。

11.垂仁天皇(イクメイリビコイサチ:伊久米伊理毘古伊佐知命)
垂仁紀には、倭姫命は天照大神の神霊を奉じて、鎮め祭るところを求めて大和の宇陀、近江、美濃をへて伊勢国に至ったと記している。
これは伊勢神宮の紀元として記されたものである。
伊勢神宮が皇室と関係の深い神として祭られるようになったのは六世紀頃からであり、伊勢神宮が皇室の氏の神を祭る神社となったのは、壬申の乱以後であろうと推定されている。
垂仁天皇は、皇后に
「すべての子の名は、かならず母親が名づけるものであるが、何とこの子の名前をつけたらよいであろうか」
と仰せになっています。
(この風習と同じことを、旧約聖書の風習としてシッチン氏が述べております)
⇒ソロモン王を暗喩で表している。

(注) 日本人はブル人(ユダ族)の子孫だということ、
仲哀天皇はナブー=ダビデに殺されたとありました。
つまり、仲哀天皇をサウルと仮定すれば、ぴったり符合します。


◆吉備国について
上述では、吉備国は、モーセとヨシュアが支配したカナンの地に相当するとしました。
ここでは、日本の吉備国の様子を『古代七大王国の謎』から抜粋して紹介します。

紀元4から6世紀、岡山県と広島東部を含めた一帯に、高度な製鉄技術で繁栄し、日本で四番目に大きな前方後円墳と巨石墳を造った吉備国がありました。
当時の鉄は、農業や開墾の土木器具、武器として使われ、支配層の富と権力の象徴でした。
また、土器づくりや製塩、ガラス生産が盛んでした。
隣の島根県にある出雲王国では、日本最大の銅剣が出土しています。
この大量の銅は中国からの輸入だったことが分かっています。

「真金吹く吉備の山中帯にせる細川谷のおとのさやけさ」
(古今和歌集)
とあり、
吉備の枕詞の「真金」は鉄、「吹く」は精錬のことで、吉備が製鉄の産地として知られていたことが分かります。

『日本書紀』によれば、崇神天皇は、孝霊天皇の子の五十狭芹彦を派遣し、吉備の温羅(ウラ)を討ち取り、武力征服したと述べている。
そして、日本武尊の名の由来と同じパターンですが、ウラを討ち取ると、ウラの恭順の印として、吉備の名を五十狭芹彦に与え、以後、吉備津彦と名乗る。
吉備臣の祖となった。

余談ですが、この吉備の子孫と阿倍仲麻呂が、日本最大の陰陽師安倍清明と深く関わっている。
さらに、記紀によれば、景行天皇、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇、雄略天皇、舒明天皇がそれぞれ吉備出身の女を妃としたとある。
つまり、二つの王朝が平和裏に一つの統一王朝に融合したことを意味している。

以上のことから、出雲から王妃を神武朝から王を出し、統一王国として大和朝廷が成立したケースと同じだと考えられます。
更に、神社の伝承から、ニギハヤヒ命の子孫の物部氏は、神武天皇を即位させており、協力関係にあった。
また、先土器時代の遺跡があり、石器が出土している事から、吉備国はノアの大洪水以前からの鉱山地帯で、ニギハヤヒ命の飛来以前から金属精錬の技術者とその民(カナン、カイン、ハム一族)が定住していたと推測されます。
だとすれば、ニギハヤヒ命の出雲国が吉備国を従えていたように、皇室もまた、吉備国を武力ではなく、統一王朝の形式で平和裏に融合した。

つまり、
主系(地球の主=エンキ、ベル・マルドウク=主・マルドウク、アン・バル=天の金属=技術者集団)と、
天神系(アン、ヤハウエ=天照)との合体を意味する。

結局、出雲神話に封印された内容は、
兄エサウの弟ヤコブへの王位禅譲、
大国主命の神武天皇への王権禅譲、
出雲王国と神武系氏族との統一王朝の三重構造になっていたのと同様に、吉備神話もまた、ノアの大洪水以前に在った鉱山、ヨシュアのカナン入り、日本の岡山にある吉備王国と神武系氏族との統一王朝の三重構造になっています。
同じ天皇記なのに、『古事記』と『日本書紀』で異なった記述があたとしても不思議ではない。

従って、出雲国も吉備国も、神武王朝に恭順した形で大和国の建国を補佐したとすれば、大国主命が呪う必要はない。
つまり、大物主神の代わりに、大国主命を新たに設けた。
それは、ニギハヤヒ系一族と神武系一族を反目させ、大国主命をサタン・ダビデの化身=呪う神としたかったのだと思います。

他にも、『古事記』には、日本武尊は自分の刀を木刀に代え、出雲建と刀を交換し、出雲建を討ち取る物語があります。『日本書紀』では、出雲フルネは自分の刀を木刀に代え、兄弟で刀を交換し、兄が弟を討ち取る話とそっくりです。
ちなみに、出雲フルネの弟は、崇神天皇の命令に従い、兄が留守であったが、出雲神宮に奉納されている神宝を渡している。
この事に怒った兄は、弟を殺してしまう。
日本武尊の物語は、この兄弟の物語を取り込み、故意に出雲と神武氏族の反目を伝えたのかもしれません。
(中略)
伝説によると
「ウラは鬼だった。
崇神天皇の頃、異国から鬼神が空を飛び続け、吉備にやってきた。
この鬼神はウラといい、『吉備冠者』とも呼ばれた。
ウラの身長は、約4.2メートル。
両眼は虎や狼のように光り輝き、ぼうぼうと茂る顎髭、頭髪は赤い。」とある。
そしてウラは鬼の城を築いたという。
つまり、ウラはUFOで吉備に飛来し、製鉄技術を伝えた巨人=赤鬼だったのだろう。

「ウラ」に関連して、「浦島太郎」の本名は「浦(ウラ)の嶋子」で、
「ウラ」を鬼に変えると、「ウラの島子」は「鬼ヶ島の子」に成る。
おそらく、製鉄や精銅を行っていた「鬼ヶ島」の男子が、UFOで竜宮城へ行き、その技術を習得する物語なのかも知れません。
もしかしたら、浦島太郎はヤペテの子孫で、製錬技術の習得と外国暮らしもあり、髪の毛が赤く焼け、目の色が薄くなったのではないでしょうか。


2-5.“666”の正体はナブーだった!!

666の正体は、イルミナティの神であり、アヌンナキの神々の一人だった。
真実の神はゲマトリアでは999であるから、神の逆の悪魔は666なのだ。
6について更に検討した。
太陽系外から飛来した神々から見れば6は明らかだった。



少し蛇足になりますが、元七大天使様のカタカナ表記(ミカエル、ラファエル、ウリエル、サリエル、ラグエル、ガブリエル、パヌエル)において、一筆書きの部分を1画とし、濁点を画数としてカウントしなければ、すべての名前が10画になります。
つまり、10画は7画同様に「天の聖」なる数なのです。
更に「ヤハウエ」もまた、カタカナで10画であり、七大天使の方々同様に「天の聖」なる方であることを示しています。

同じ要領で、エル・ランティ様の3つのお名前なのですが、ヤハウエ(9)、エホバ(9)、ランティ(9)のいずれもが、すべて不思議なことに9画になります。
9画は数秘術(ゲマトリア)によれば、神に相当します。
つまり、天王であるヤハウエの暗喩は、
“999”なのだと推断します。
そして、9の反転文字6は双子の意味にも受け取れます。
従って、ヨハネの黙示録の“666”は、神(=999)の双子の悪魔のことを意味しているのです。
神を詐称する悪魔が、己の力を誇示するために聖書に666と記述させたのです。
同時に、1999年に降臨する悪魔の大王と関連づけさせ、悪魔が予告したヨハネの目次録の終末を実現させようとしたのでした。

関連して、イルミナティーの神は、
プター・マルドウク・エホバだと言う。
つまり、悪魔は自らのことを、
「プター=人類を創造したエンキ=ナブーの叔父」、
「マルドウク=第三代天王=ナブーの父」、
「エホバ=エル・ランティ様=第四代天王=義理の兄」だと述べ、
自らを偉大な全知全能の神と詐称し、一方で地獄の支配者としての悪魔の二役を演じていたのです。

二ビル星から見て、地球は第7番惑星、火星は第6番惑星でした。
火星の初代司令官はエンキで、6はエンキの暗喩です。
エンキの後を継いでイギギを支配したマルドウクが、暗喩6も引き継いだ。
そして、マルドウク様が地球司令官に昇格した時、その長男ナブーが火星司令官に就任しているので、
666は人類創造者のエンキ(エジプトの最高神プター)=地球司令官のマルドウク=ナブー(神命記ではヤハゥエと偽称した)を意味している。
つまり、双子の悪魔は、ナブーその人である。


2-6.怨霊信仰とサタンの陰謀

堕天神が人類に魔術を与えた。
シュメル当時、黒魔術、白魔術が盛んで、魔術を禁じる法律がありました。
また、不吉な言霊を無効にするなど言霊信仰も盛んでした。
これを引き継ぐモーセの時代には、死穢や罪を清めるのに犠牲を捧げました。
ところが、日本には犠牲の習慣が無く、死穢や言霊を封じるすべが無く、これが紆余曲折を経て怨霊信仰へと発展しました。



『逆説の日本史』の3巻目まで読んで、非常に面白く、
古事記・日本書紀に関しては事実を正直に反映していると同時に、特に藤原氏の権力基板を固定化するように改竄されていることが明らかになっていると思います。

最初はフムフムと思って読んでいましたが、何がなんでも怨霊の祟りとする説明に物足りなさを感じます。
というのは、本著者は怨霊信仰の原点として、中国では祖先を祀らないと祟りをなすという信仰を挙げていますが、原点とはいえないとふと思いました。
というのは、仇討や仕返しのために、一族郎党を全て滅ぼし、しかも墓を暴き、罰するというのは中国では当たり前。
しかも、村人全員を塩漬けにして食料とするのも多くあります。
孔子もそれを好んで食っていました。
ですから、秦王朝が周王朝の祖先を祀ることを命じたのは、祟りを恐れてのことではなく、徳を失った周王朝を丁重に扱うことで、周王家派の反乱を抑えることと、秦王朝の正当性と威厳を示しているのだと考えた方が妥当だと思います。
もし、周王家派が反乱すれば、墓は暴かれ民族は抹殺されたことでしょう。

そもそも、怨霊がそれほどの力を持つのでしょうか?
地縛霊などは場所に執着し、死んだ時の状況を際限なく繰り返す。
通常であれば、似たような地縛霊が集団になって、その場、もしくは対象人物に憑依する程度。
それは、サイコパスと同じで、瞬時も復讐を忘れない。

ところで、すでにシュメル時代に、白魔術と黒魔術が横行しており、法律で取り締まるほどだった。
人形に魔術をかけ、対象者を呪い殺すなど・・・
言霊信仰も当時からあり、インドでも顕著でした。
当然ですが、恨み骨津井で怨霊化した霊体は、西洋でも恐ろしいほどたくさんいます。
しかし、キリスト教の悪魔祓い、悪魔信仰などがあり、日本独特の怨霊への対応とは違っています。
それは、奉じる神の性質、伝統の違いもあるでしょう。

古代日本において、死者の祟りを防ぐ手法は何もなかった。祟りを封印するために、仏教(当時の仏教は儒教、道教、他がミックスジュース状態)を八百神の一つとして導入したとする説には、説得力があります。

しかし、ユダヤ教、原始キリスト教の古代日本において、宗教的には祟りは存在しない。
逆に敵に対しては、サタンに対しては、聖書にあるように、無慈悲に徹底して滅ぼすというのが信仰です。
この点では、中国の皇帝思想と同じで、無残に滅ぼされた者達に怨霊は存在しない。

怨霊だとしても、過大な復習の情念ゆえ地縛霊・憑依霊に化身したとしても、サタン・ナブーのような強力な悪霊がこれを利用して立ち回らない限り、強大な力は持ち得ない。
なぜなら、強大な力は科学的な知識無しには利用できないからです。

天上界からのメッセージに、仲哀天皇の死はナブーによるもので、服従か死を強要するものとあります。
日本においても旧約の民同様、呪う神・嫉妬する神・復讐する神であるナブーに脅され、命令に従わなければ無慈悲に殺されていた。

「怨霊信仰」に特有の呪いと祟りは、ナブーの性格そのものというか、聖書に現れている呪う神・嫉妬する神・復讐する神そのものです。
これを排除するために、
「偶像崇拝の仏教導入」=「ユダヤ教排除」という図式が見えてくるようにも思われます。

つまり、天照大神をいくら祭っても、
ブッダにいくらすがっても、
怨霊の祟りを防ぐことはできないと思い知らせることにより、
ユダヤ教が排除され、その後、神道の教義を廃れさせようとしたとも推測できます。
つまり、旧約の呪う神・復讐する神の日本版が、怨霊信仰だと推断します。
やはり大国主大神が逆手をして怨霊化するという、記紀の記述は怨霊信仰を日本に定着させるめに改竄され、ここを基点として聖徳太子を怨霊として封じ、仲哀天皇の暗殺の真相が、日本を怨霊の国へと加速させたように思います。

強力な怨霊どもに対して、天照大御神、仏教は役に立たず、それゆえ悪霊を恐れ宥なだめてきた日本に、全知全能の神・キリスト教を持ち込み、一挙に改宗させることで、日本をナブーの王国と化す謀略が読み取れます。
しかし、その謀略は皇室を大切にした信長・秀吉により打ち砕かれてしまいます。

もし、怨霊信仰からキリスト教=サタン教へと日本が移行していたら、西洋的な過剰な抑圧から身を守るための人権思想がないのですから、悪魔の王国と化していたのかもしれません。

◆穢れから怨霊思想へ発展!?
穢れを嫌うこと、それが怨霊思想へと発展する理由として、これを古代シュメルから眺めてみます。
古代シュメルには、黒魔術や白魔術が既にあり、古代インドのヒンズー文明には言霊信仰が見られます。
ですから、魔術や言霊信仰については、これらをヘブライ人やモーセの民もまた継承していました。

日本独特の穢れを異常に嫌う習性はどのようにして、発展してきたかというと、モーセは大司祭に対しては非常に厳しい戒律を設けました。
例えば、純粋な処女でないと結婚出来ない。
親が死んだ時にも葬儀に出られない程に、死を嫌いました。
又、日本で葬式から帰ったら塩をまいたりする風習は、清めの儀式としてイスラエル当時からありました。
大司祭及び司祭は、死を穢れたものとする戒律が、モーセ当時から既にあったのです。
しかし、全イスラエル人に対してではありませんでした。

一般人は司祭に10分の1税を収めます。
その時、自分の罪を贖あがなう子羊、貧しければハトなどを神殿に捧げます。
(イエス夫妻は鳩を捧げている)

そして、司祭がこれらを屠ほふり、仔羊血(死)を持って罪を贖い、清めたのです。

ところが、イユダ族・司祭部族・エフライム族が日本に渡来した時、羊や山羊を日本に持ち込みませんでした。
それは、旧約聖書のサタン・ナブーの霊言にあります。
概略「羊や山羊を持たせない。偶像崇拝を行うようになる」というものです。
怨霊や死穢対策として、羊や山羊を犠牲にすることができないので、偶像崇拝の日本式仏教を拝むことになり、この霊言は成就しています。

「あなたの牛が目の前でほふられても、
あなたはそれを食べることができず、
あなたのろばが目の前で奪われても、
返されないであろう。
あなたの羊が敵のものになっても、
それを救ってあなたに返す者はいないであろう。」

「主はあなたとあなたが立てた王を携えて、
あなたもあなたの祖先も知らない国に移されるであろう。
あなたはそこで木や石で造ったほかの神々に仕えるであろう。」

つまり、一般人には自己の罪を清めるために神に捧げる燔祭用の子羊が、日本にはいないのです。
呪う神・復讐する神であるサタン・ナブーは燔祭の習慣を日本に持ち込ませなかったがゆえに、死穢を清めることを禁じ、怨霊を操り、ユダヤ教を忘れさせ日本を他力信仰の偶像崇拝の仏教国へと先導しました。
この結果、桓武天皇以後、国軍を放棄。
穢れを言葉にせず、想定外として無視し、存在しないとする習慣が形成された。
その延長線上に、GHQ教育と相まって、自衛隊を蔑視し、第九条を宗教化してしまったのです。

つまりサタン・ナブーは、天国と地獄、極楽浄土と地獄の両者を支配し、人類を完全奴隷化しようとしたのだと思われます。

血を流す供物や燔祭の儀式は、人の理性を狂わせてしまい、非情な人格を作り出します。
しかし、これを完全に廃止し、特に死穢をぬぐい去る方法を明示しなかった為に、日本では国を上げての怨霊信仰が盛んになってしまったのではないでしょうか。

一方、神道の儀式のように、初穂とお酒と魚で清めるしきたりは、気持ちの安定した温和な民族を作り出してきたのだと思います。

ルーツ・ファンタジー/古代日本とイスラエル 2

転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』より抜粋

2章.古代日本とイスラエル

2-7.秦氏と日本神道
秦氏が守ろうとした神道は旧事本紀として、古事記より先に完成した。
日本が密教化・漢字化される中で、本当の神道(イスラエルの神の教え)をサタン・ダビデから守るために、本書を「五十宮」「三輪宮」「四天王寺」に隠した。
50は大天使・ミカエルを、7(3+4)は七大天使を表しており、神の智恵だったことが分かる。



崇神天皇のとき、それまで皇居の中に祀られていた天照大神の御神体を、その神威を恐れて移すことにした。
だが次の垂仁天皇の代には、皇女・倭姫命を大神につけ、鎮座にふさわしい土地を求めさせた。
倭姫は、近江、美濃などを巡歴した後、最終的に現在の場所、伊勢国の五十鈴川の川上に至り、そこに宮を建てた。
これが内宮のおこりだという。

『謎の根元聖典 先代旧事本紀大成経』によれば、聖徳太子は、神代文字で書かれた貴重なものが、日本の密教化・漢字化に伴い忘れ去られるのを恐れ、推古天皇に『旧事本紀』の作成を申し出た。
そして、蘇我馬子,秦河勝と共に、皇室と六家、すなわち吾道、物部、忌部、ト部、出雲、三輪 各家に伝わる秘伝書
(各部族ごとに異なった神代文字で記述され、他の部族には知られないように工夫されている)を集め、
聖徳太子の死後1年後に、秦河勝により『旧事本紀』が完成した。

「天皇陛下、今しかありません。
先の世の正しい叡智をそのまま記録して後代の永遠の指針としましょう。
そうしないと神の道(これは今で言う神道とは字は同じだが、意味は違う。日本神道というのは本来宗教や信仰ではなく、正しく生きるための実践的な道である)は紛れて、
大切な部分が廃れてしまうでしょう。
それは陛下にとっても嘆かわしいことであるはずです」

六家の秘伝を収集する途中で、秘伝の入った箱に、50個の土簡(文字を刻んだ粘土板のような物)が見つかっている。

秦氏は『旧事本紀』を完成させて、イスラエルの十部族の秘法を手に入れ、宮中で今日も雅楽を担当している。
各部族に伝わる秘法は、それぞれ異なり、暦法、医術、天文、祭祀法、兵法、気象、物理、金属精錬など様々であった。
これらの秘法は、
人体はミクロコスモス=
「宇宙と人体は相似であり、すべての物事は生成と死を繰り返している」
という考え方を踏襲している。
この考え方を、多方面の一側面から見たものが各部族に秘法として伝わった。

例えば、人体だと医術、星空だと天文や暦というように。

『民数記 第36章』に、
「イスラエルの人々の嗣業は、部族から部族に移るようなことはないであろう。
イスラエルの人々は、おのおのその父祖の部族の嗣業をかたく保つべきだからである」
と、各部族が各部族内で、秘法を正しく伝授することが求められているのだ。

『旧事本紀』の完成について、その序文によれば、
『古事記』よりも90年も前に成立しています。
また、『旧事本紀』のミクロコスモスの考え方は、トートのヘルメス文書、インディアンの思想、アーユルベーダ、東洋占星術などと出所は同じでしょう。

この科学的な視点からすれば、サタン・ダビデの化身である全知全能の神は存在し得ず、それが謀略の邪魔であることが明るみになってしまう。
だから、『旧事本紀』の真実が、サタン・ダビデに葬り去られる可能性があったのです。

おそらくサタン・ダビデの恐ろしさを知っている推古天皇は、この書を失わないためにどうすれば良いかの神託を仰いだのだと思います。
神託に従い、「五十宮」「三輪宮」「四天王寺」に隠した、おそらく、50はヤハウェを、3+4=7は7大天使を現しているように推測します。

「三輪宮(大神神社)」には、三輪山を御神体とするため本殿が無く、三ツ鳥居ある。

「四天王寺(宮中図書館)」には、未来に向けて「旧事本紀」を隠し安置した。

このように『旧事本紀』については、50という数が目に付きます。


関連して、ユダヤ人の最後の王ヘロデ・アグリッパの後に、ユダヤはローマに併合された。
そして紀元66年に、ローマ第一次ユダヤ反乱が起こった。
(ユダヤ人にとってあくまでも独立戦争であった)

抗戦4年、エルサレムは陥落し、一部のユダヤ人はマサダの砦に立てこもり、三年に渡って抗戦したが全員が玉砕した。

ついで60年後に、第二次ユダヤ反乱が起こった。
ユダヤ自身の貨幣を発行していることから、独立を回復し得たといわれている。

このユダヤの独立戦争には、
「抗戦4年」「マサダの抗戦3年」「六十年後の独立」のように、
「四天王寺」「三輪宮」「五十宮」と数字の並びが同じです。

◆日本の言霊について
日本の言霊信仰は、マハーバーラタ(ちくま学芸文庫)を読むと、
呪いの言葉、祝福の言葉、マントラが、そのまま現実の現象となる。
そして、この呪いを打ち消す方法を探し出すことに奔走しています。
また、旧約聖書でも「ノアの呪い」や「主の呪い」、新約聖書においてイエスは奇跡を起こす前に様々な言葉を語ります。
シュメルに由来するこれらの慣習が日本に引き継がれたのだと思います。
また、
「当時、詩人の呪言は矢よりも恐ろしい武器とされていた」
(コーラン 中 P226)
とあり、アラブ人にも言霊の影響があったことが伺われます。

ニンフルサグは人類創造の時に祈祷しながら作業しています。
また、『申命記』には動物の死体に少しでも触れただけで、午後まで穢れるという表現が幾度も記述されています。
さらに「のろう神」「ねたむ神」の記述が、幾度も何度も繰り返され、日本式表現すれば怨霊そのものです。

『記紀』を読むと、憤死した怨霊の祟り、死に対する穢れなどを、異常なほどに恐れ、嫌っている。
この怨霊の祟りを鎮めるために、原始仏教にはない葬儀と呪術を取り込んだ密教が日本に定着した。
元々原始仏教は死者のためではなく、生きた人間の悟りのための教えであった。
神道もまた、日本神話や聖書を読めば分かるように、死者の為の書ではない。

おそらく、怨霊の祟りや、怨霊の呪いは、日本に形骸化した仏教を定着させ、黄泉を広げることで、日本を支配するためのサタン・ナブーの計略だったのでしょう。
例えば、加持祈祷、陰陽道、呪術などで、如何に強力な怨霊になるかを教える。

次に、疫病や悲惨な状況を引き起こし、もしくは自然現象を利用して、祟りだと思わせる。
混乱した政権に、お告げの形で命令を出し国政と天皇を操ってきた。
このような事例は、大国主命、菅原道真、崇徳上皇 他、「記紀」の中にたくさん事例があります。
つまり、サタン・ナブーの悪行がそのまま描かれているのです。

また、神道で死を嫌うのは、モーセの律法(ユダヤ古代誌 司祭に関する特別の立法 P318)の中に、大司祭だけは死体に近づくことが許されない。
ただし、一般の司祭の場合には、兄弟や両親や子どもが死亡したときだけ、それに近づくことが認められていた。

また、モーセは司祭に常人に倍する純潔を要求した。
奴隷の女、戦争で捕虜になった女、水商売や客商売で生計を立てている女、理由の如何に問わず夫に離縁された女と、司祭が結婚することを禁じた。
また大司祭の場合は、寡婦との結婚も許されず、結婚相手は同じ部族の処女だけに限られた。
このようなモーセの律法を日本の大司祭も引き継いだのだと思われます。

◆倭姫についての補足(『天照の謎と正体』より抜粋)
『伊勢風土記』によれば、
「倭姫は飯野の高丘にお入りになり、
機屋を作って大神の御衣服を織らせた」
とあり、天照大神の食事、衣服、神殿を整えた。

「皇太神宮儀式帳」「倭姫命世記」によれば、倭姫の巡幸は伊勢の地を目指して、34年間も彷徨した。
この天照大神とその巫女である倭姫に、阿部臣、ワニ臣、中臣連、物部連、大伴連の遠祖達が随行した。
そして、巡幸した地域を恭順させながら進んだが、伊勢国は特に豪族の勢力が強く、「伊勢風土記」によれば激しい戦いがあった。
つまり、倭姫は自ら天照大神を祀り従いながら、戦いの最高司令官として戦闘をも指揮した。

この事実は、モーセの出エジプト時、ヤハウェに従い、荒野を40年間彷徨い、カナンの地を目指された当時と同じだと思います。

◆モーセ伝承に酷似する秦河勝
秦河勝の出自は不明で、モーセのように川に流されたが負けなかったというので、河勝という名前で呼ばれた。
モーセの時、神の真実を語るまに聖書の暗号化(聖書の暗号のこと)がなされたのですから、『旧事本紀』を完成させた秦河勝は、モーセと何らかの関係があったのでしょう。
おそらく、モーセが秦河勝を導いて『旧事本紀』を完成させたと考えられます。

◆神道家・長野采女と潮音が、『旧事本紀』を江戸時代に出版
『旧事本紀』の中に、伊勢の皇大神宮の別宮とされている伊雑宮の方が古いとする記述があったことを理由に、皇大神宮の神官たちが激昂し、
『旧事本紀』の詮議を幕府に申し立てた。
1681年、幕府は『旧事本紀』を偽書と断じ、発禁処分とした。
長野采女と潮音、伊雑宮神官は流罪と決まった。
しかし、潮音だけは時の将軍綱吉の生母・桂昌院の取りなしにより、謹慎五十日の後、黒竜山不動寺に身柄を移された。

この事例にもある50については、五十鈴川、50個の土簡なども含め、ヤハウエの関与があったと、解釈しています。

◆『旧事本紀』の六家に関連して
『古事記 全訳注 上』の天照大神の天の岩戸神話に出てくる六神は、それぞれに役割が決まっています。
おそらく、これら六神の子孫が、吾道、物部、忌部、ト部、出雲、三輪に相当するのではないでしょうか。

高御産巣日神(タカミムスヒ)の子で、ニニギ命の母の兄の思金神は、天照大神が岩戸に隠れたときの天の岩戸開きの作戦を考え、豊葦原統治の段取りについて天照大神と一緒に実現を指揮した。
思慮を兼ね備えた智力の神と言う意味で、天照大神は「私の祭りに関することを取り扱って政事を行いさない」と仰せられたとあります。
また、五十鈴宮に、天照大神と思金神が祀ってあります。

政治関連を行う思金神とは、神社伝承では建築と知恵の神(思兼の「カネ」はカネジャクの「カネ」に通じ、これは曲尺、短尺のこと。
この曲尺は直角に曲がった物差しで、大工金とも呼ばれる大工道具の中では一番大切な物)とされ、
どうも神殿建設や生物学などに秀でていた科学者、トート(古代エジプトの知恵を司る神)関連の方のように思われます。

尚、天岩戸神話については日食であろうと考えます。
つまり、天の岩戸に隠れた天照大神=第三代ヤハウエは、天の岩戸から出現した第四代天照大神に王位を譲ったことを意味しているのです。

◆五瀬の命について
神武天皇の兄弟の、「五瀬(いつせ)の命」の呼び名が、「伊勢の命」と同じように感じられます。
また、イスラエルを、イス・ラー・エルに分解し、イスをイセに変えると、イセ・ラー・エルになります。
『出エジプト記の秘密 P118』によれば、イスラエルのエジプト語の意味は、「ラーと神の息子」です。
ラーは太陽、エルは正義なので、イセは神の息子に当たり、つまり正義の太陽神・天照大からの天孫降臨族=大和民族という意味だと解釈できる。
つまり伊勢神宮は、天孫族が太陽神を祀ると同義になると考えられます。
くわえて、数値5に同音の午には、くまのごおうほういん(熊野牛王宝印の神札)のように牛の意味もあり、エフライム族のシンボルです。
従って、五瀬の命は、エフライム族の御子という意味かもしれません。

◆スメラミコトの由来について
スメラは3千年前のサマリア(北イスラエル)に由来するものではなく、更に古いシュメル、バビロニア時代に使われた言葉に由来するという。
古代バビロニアのセム語で”神”を意味するスメルと”天降るもの”を意味するミグトが結びついて訛ったもので、本来は”天降れる神”の意であった。
エジプトの第18王朝アメンホテプ四世(アクエンアテン)の時代から発見された文書にはサマリアがスムル(Sumur)と記されていることに基づけば、2千8百年前から、3千年前のことだったかもしれない。
(『日本固有の文明の謎はユダヤで解ける』)

以上から、日本人は古来、自分達を「天孫降臨族」と呼んでおり、古代バビロニアのセム語での解釈”天降れるもの”と似た意味だと思います。

ただ、アヌンナキもまた“天降れるもの“であり、
アヌンナキとエフライムを同じ”天降れるもの”として表現することは、少し違和感があります。
やはり、ユダ族やエフライム族は“天降れるもの“の”子孫”という意味が正しいと思います。

関連して、『日本書紀と日本語のユダヤ起源』の中で、著者ヨセフ・アイデルバーグは、古代日本の伝統、宗教的儀式、俳句、民謡までもが、ヘブル語起源であり、「古代サマリヤ」との強いつながりを示していることを、記述しています。

一例ですが、他にも多くの事例が掲載されています。

『天孫民族』
「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである」
(申命記 14章1)

『神道』
「わたしの掟と戒めを守って、
わたしの道を歩むのなら」
(列王記上3章14)

「わたしの道」=「神の道」、
すなわち「神道」であり、
「神道」という言葉は、道教用語からの借用ではないと思われる。

つまり、祖先の行ってきた道を着実に執り行うことが神道の本質である。
その事によって、神の守護を得ることができる。

「神道の供え物」
神棚に供える餅(種なしパン)、酒、初物などは、イスラエル人の供え物と同じ。

イスラエル人が正月に種なしパンを食べるように、日本人も餅を食べ、休日を過ごす。

「正月の十四日の夕は主の過越の祭りである。
…あなたがたは七日の間は種入れぬパンを食べなければならない。
その初めの日に聖会を開かねばならない。
どんな労働もしてはならない。
…第七日には、また聖会を開き、どのような労働もしてはならない。」
(レビ記 23章5-8)

「彼らは正月の十五日にラメセスを出立した。」
(民数記 33章3)

また、イスラエルの供え物には、必ず塩が付されたように、神道にも付される。

「あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。
すべての、あなたの供物には、塩を添えてささげなければならない。」
(レビ記 2章13)

◆遺伝子で判明!!
日本人とユダヤ人は兄弟だった

下記、『月刊ムー 2010年11月号』久保有政 著より抜粋しました。

《科学的な面でも、今日ではDNAの研究から日本人とユダヤ人の遺伝子の近縁性が明らかになってきている。

日本人の持つY染色体D系統の遺伝子は、世界でも「日本人とチベット人にしか」高い頻度で見られない珍しいものだが、この遺伝子はユダヤ人ときわめて近縁な関係にある。

Y染色体は男性のみが持つが、大きく分けてA系統、B系統、C系統、DE系統、FT系統という5つの種類がある。
日本人とユダヤ人は同じ「DE系統」に属している。
日本人はD系統、ユダヤ人はE系統だが、DとEは同じ先祖から出て、古い時代にふたつに分かれたとされている。

DとEの系統はYAPという遺伝子マーカを持つ。
それで両者は「YAP型」とも呼ばれる。
これはDとEの系統だけで、日本人もユダヤ人もYAP型である。
日本人におけるD系統は、本土で約40パーセントもある。沖縄やアイヌの人々になるとさらに高率となり、計算上は日本人のほぼ半数近くにD系統がある、という結論になるわけだ。

ちなみに日本人はほかに、中国人や韓国人に多いO系統が50パーセント程度で、つまり日本人は、おおまかにD系統とO系統が半分ずつということになる。
興味深いことに、中国人(漢族)や韓国人はほとんどD系統を持っていない。

単純にいえば、DE系統のうち、シルクロードを乗へ進んだのがD系統であり、シルクロードの西側に残ったのがE系統であるという考えが浮かぶ。
両者はもともと同じグループだったが、古代に中近東あたりで分かれたのだ。

いずれにせよ、日本人と神道、そして秦氏は、シルクロードを通じて中央アジア、チベット、そして古代イスラエルへとつながっている。
それが明らかになる日も、さほど遠くはないと思われるのだ。



2-8.神武天皇を即位させた物部一族
記紀では、神武天皇がニギハヤヒ命を武力制圧したとあるが、石上神社の由緒や「物部神社」の社伝によれば、彼ら一族は天皇に恭順し、十種の神宝を奉り、即位に貢献した。
後に物部氏として皇室を護衛するようになった。

石上神社の由緒は、ニギハヤヒ命の長男ウマシマジ命が、神武天皇に王位を譲り、神武天皇即位時に、ニギハヤヒ命から授けられた王のしるしである十種神宝を渡したことを述べています。
つまり、記紀では、神武天皇が武力でニギハヤヒ一族を滅ぼしたことになっているが、事実は王位を譲ったことが分かります。

「ウマシマジ命は、父ニギハヤヒ命の薨去のあと、瑞宝を受けてその遺業を継ぎ、中州の開拓につとめられたが、神武天皇の大和入りにあたり、天皇を迎えて忠誠を尽くし給い、天皇の即位の元年にその瑞宝を奉り、鎮魂の神業を以て祈り奉った。
これが鎮魂祭の始めである。
天皇はミコトの忠誠を喜ばれ、武臣の首座として即位の威儀に立たしめ給いた。
その建国に功績を称えて祭祀される」

更に、ウマシマジ命が生涯を終えた地の島根県太田市に建てられた「物部神社」の社伝にも
「天皇(神武)をウネビノカシハラ宮にて天位につかせ給うとき、祭神(ウマシマジ命)は十種神宝を安置し、神楯を竪て斉い奉る」、
「ウマシマジ尊は物部氏の始祖なり。
神武天皇大倭国に御遷都のとき大功あり。
天皇その功を賞して、フツのミタマの神剣を賜う。
祭神もまた天祖(スサノオ尊)より拝承せる十種の神宝を奉りたまう。
かくて、天皇即位したまう…」
とあります。

従って、皇室は恩義を感じ、ニギハヤヒ命ゆかりの大和の三大神社を行幸し、祀ったのだと考えられます。
また、『出雲国造神賀詩』には
「国造りをした大国主命が子孫の神々を天皇家の守り神として奉って、自分は出雲大社に身を隠した」
(古代七大王国の謎 P146-147)
とあり、ニギハヤヒ一族もまた、天皇家を守護していました。

更に、天照神社、天照御魂神社、天照国照神社関連を調査したが、祭神は天照大神ではなく、ニギハヤヒ命だと突き止められている。
そして、三輪にある太陽神信仰の神がニギハヤヒ命であり、ニギハヤヒ命は太陽神だったことを述べています

◆日本の由来
『日本書紀 神武紀』に、
「ニギハヤヒ命、天磐船に乗り、太虚(おおぞら)をめぐりゆきて、この郷をおせりて天降りたまうとき、
名づけて『虚空見日本国(そらみつやまとのくに)』という」
とある。

◆十種の神宝について
ニギハヤヒ命が大和の地に遠征したとき、父スサノオはわが子に祖先から伝わる十種神宝をもたせ、蘇生の術を教えた。
この呪文は物部氏の石切剣箭命神社に伝わっており、この神社は傷が治る神社として知られている。
また、『鎮魂の祝詞』には皇祖神が鋳造された十種の神宝をニギハヤヒ命に授けて、皇祖神がいわれるには、
「ニギハヤヒよ、この十種の宝をもち、か弱き国民が病になったときは、
この十種の宝を用いて
『ひと ふた み よ いつ む なな は ここの たり』
と唱えよ。
これを唱えるなら、死人も生き返るだろう」
(神道行法の本 P78)
とある。

また、ウマシマジ尊は神宝だけではなく、鎮魂法も伝えたとされ、これが天武天皇に伝承されて鎮魂祭につながったと云われている。


2-9.大化改新は
ヤマト(ヤハウエの民)の復活だった
大化改新では、モーセの律法が復活した。
そのことは、[日本書紀と日本語のユダヤ起源]が雄弁に物語っている。
また日本式律令制は、宦官と科挙を否定し、神祇官と太政官が、天皇の下にある。
この太政官が後に武士に代わり、幕府体制となる。
シナの律令制とは別物である。



大化改新の主要な目的は、天照大神のもとで、神道を、日本の国家的な宗教の座に回復させる事にあった。
『日本書記』の大化改新については、
『日本書紀と日本語のユダヤ起源』の中に、旧約聖書との関連が証明されております。
日本書紀と旧約聖書を読んでいても、意識して関連づけなければ、全く無縁のものとしか思わないことでしょう。

例えば、武烈天皇(在位498年~506年)に関して、
「長じて裁きごとや処罰を好まれ、法令にも詳しかった」
とあるが、
「法令」は書かれたもののことであり、漢字渡来以前に日本固有の文字が有ったことの証拠の一つ。

また、日本で18は長寿を示している。
なぜなら「生きている」を意味するヘブル単語「ハイ」の数値は18だからである。
俳句の17字、十七条憲法のように、
17は「良い兆し」を示すとされているが、「良い」を意味するヘブル語「トープ」の数値は17である。
さらにヘブル文字に酷似したカナ文字を使う日本人は、ヘブル文字を知っていたと述べています。
本書は非常に簡明で説得力があるので、これを抜粋して紹介いたします。

◆大化時代の開始
皇極天皇の治世第四年の七月一日に始まった。

七月一日は、ユダヤでは新年にあたる。
聖書ではこの日を「聖なる集会」の日としている。

「第七の一日の安息の日として守り、角笛を吹き鳴らして記念し、聖なる集会の日としなさい」
(レビ記 23章24)

◆捧げ物
七月十四日に使節を遣わし、神道の神々に捧げるための捧げ物を集めた。
聖書では、ユダヤ歴七月十四日の夕方から「仮庵の祭」が始まる。
その時、神殿に捧げ物がされるので、十四日にはその捧げ物が用意された。

◆奴隷の子
大化の政府は、男女に関する法の中で、
「もし二つの家の間で男奴隷と女奴隷が子を生んだなら、その子は母につけよ」
としている。
『出エジプト記 21章4』では、もし主人が男奴隷に女奴隷を妻として与え、彼らが子を生んだ場合、子は母につけよとしている。

◆土地再分配
大化の政府は「班田収授法」を作った。
これは六年ごとに、農業用地を人々に再分配するものだった。
『レビ記 25章3-4』では、六年の間収穫し、七年目には土地に安息を与えるとある。

◆人数に応じた土地
大化の土地配分は、戸籍に基づき、家族の人数に応じてなされた。
『民数記 26章54』では、
「人数の多い部族には多くの、少ない部族には少しの嗣業の土地を与えなさい。
嗣業の土地はそれぞれ、登録された者に応じて与えられねばならない」
としている。

◆親族の死
大化改新では、
「死者のために生きている者が断髪したり、股を刺したりて、しのびことを述べたりする旧俗は、ことごとくみなやめよ」
としている。
親族が死んだとき、
「自分の頭髪の一部を剃り上げたり、髭の両端をそり落としたり、身を傷つけたりしてはならない」
(レビ記 21章5)としている。

◆嘘言
大化改新では、
「見ていながら見ないと言ったり、見ないのに見たと言ったり、聞いていながら聞かなかったと言ったり、聞いてないのに聞いたなどと言う者がある。
正しく語り正しく見ることなくして、巧みに偽る者も多い」
と述べ、嘘を禁じている。

『レビ記19章11』に、
「盗んではならない。
うそをついてはならない。
互いに欺いてはならない」
と述べている。

◆証人
大化改新では、妻を疑って、三人の証言があっても皆で相談した後、官に訴えるべきであると述べている。
『申命記17章6』に、
「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。
一人の証言で死刑に処せられてはならない」
と述べている。

◆宴会
大化改新では、
「農耕の月には田作りに専念させ、美物(魚)や酒を食することを禁ずる」
と述べている。

聖書にはないが、古代イスラエルの伝統によれば、例えば収穫をしてから七週間は、いかなる宴会も慎まなければならなかった。

◆地域の監視
大化改新では、
「京師を創設し…区画ごとに長を一人置き、四つの区画に令一人を置き、戸口を管理し、正しくないことをする者を監視せよ」
と述べている。

『申命記16章18』に、
「主が部族ごとに与えられるすべての町に、裁判人と役人を置き、正しい裁判をもって民を裁かせなさい」
と述べている。

◆二倍の償い
大化改新では、「不当に自分の身に入れたものは、倍にして徴収せよ」と述べている。

『出エジプト記 22章8』に、紛失物での言い争いについて、
「神が有罪とした者が、二倍の償いをせねばならない」
と述べられている。

◆カタカナとひらがな
カタカナはヘブル文字に酷似している。
「カタカナ」は、「カナンの文字」を意味するヘブル語「クタ・カナン」が若干訛ったものではないだろうか。

また、「ひらがな」は、ヘブル・アラム語の「絡み合った」を意味する「エーラ・クタ・カナン」(絡み合ったカタカナ)が、後に「エーラ・カナ」となり、
これが短く訛ったものではないかいだろうか。

◆『ユダヤ製国家日本』より
本書によれば、日清戦争では、神戸に寄留してシェル石油会社を開いたユダヤ人・マーカス・サミュエルの支援があった。
そして、日露戦争では膨大な戦費の半分以上が、ロシアに虐げられていたユダヤ人達、及びユダヤ人・ヤコブ・シフにより調達された。
そして、シフへの感謝を明治天皇も、昭和天皇も忘れることはなかった。
更に、明治憲法は、ユダヤ人・アルベルト・モッセの忠告を受け入れ、立憲君主制度を柱として、きわめて民主的な憲法となった。
モッセは明治憲法の父と呼ばれている。
このように、明治初期に、多くのユダヤ人が、西洋の学問や技術や芸術を日本へ伝えるのに貢献している。
そして、敗戦後の日本国憲法・農地改革他に、ユダヤ人の多くが、差別の激しかったアメリカでは実現することができなかった社会改革の夢を、持ち込んだ。

明治の日本は、後に新生ユダヤ人国家であるイスラエルが建国されるのに当たって、大きな精神的影響を及ぼして、貢献した。
その仲介役が日露戦争時に、日本の捕虜となった「片腕の英雄」「イスラエル軍の父」と呼ばれているヨセフ・トランペドールだ。
日本でいえば、坂本龍馬か、吉田松陰のような存在であろう。
トランペールは、日本語を喋り、サムライの精神をイスラエル建国の柱とした。
今日、イスラエルではどのような小さな村でも、かならず日本の武道が行われている。
東と西に遠く離れて、同じ魂が脈打っているのだ。

更に興味深いことに、秦氏は多くの氏族を持ち、
伊賀の服部、宇佐の辛島、田川の赤染、長光、松尾、赤松、物集、島津、長宗我部、呉、等々。

しかも、各氏族が、
養蚕・畜産・鍛金・治水・土木・修験・芸能など産業の専門である。
能の世阿弥、松尾芭蕉、服部半蔵、薩摩の島津家も、秦氏=ユダ族・レビ族である。

◆神の前の平等はシュメールから
神の前の平等については、その萌芽は既に古代シュメール時代の律法にありました。
日本では無礼講に相当します。
ニヌルタとエンリルの神殿=エニンヌ神殿の建立を祝賀して一時的に奴隷解放を行った。
この善政が、ウル王朝にて、奴隷解放を行うきっかけとなった。

「彼の主人(ニヌルタ神)が神殿に入った日から七日間、
女奴隷は女主人と同等であり、男奴隷はその主人と並んで立った」

発展して、モーセの律法では、
「ヨベルの年」50年に一度、全耕地が休墾され、負債が免除され、奴隷は解放される。
この影響を受けているキリスト教国では、後進国の債務を免除する習慣がある。

◆日本の律令制は唐の律令制と根本的に違う

『日本式律令制=神話継承の律令制』

大宝律令は、中国と違って、神祇官と太政官が、天皇の下にあり、しかも天皇直轄の神祇官が太政官の上位の形で並存していた。
この太政官が後に武士に代わり、幕府体制となる。
つまり、画期的な政教分離なのである。

隋唐以降のシナは、神にではなく政治に救済を求めた。
だから、日本の神祇官が政治の下位に来ている。

卑弥呼(日巫女)、天照の本名はオオヒルメムチ=太陽の妻(神妻)であり、ほぼ同じ意味となる。
つまり、古代日本の時から、太陽神を主神として祀ってきた。

しかし随・唐の覇権から独立を守るために、モーセの民がイスラエル国家を建国したように、国家としての体裁を整える必要があった。
そこで、神を祀るに相応しい律令制を導入したのです。
ここがシナの専制皇帝制と全く違う所で、イスラエルの神の叡智に従ったのでした。

『サムエル記』にすでに、ヤハウエは政教分離のあり方を示している。
サムエルが年を取り、息子達が父親より劣っているのを見ると、
イスラエルの民は周囲の強国のように自分たちの上に「他の全ての国のように」王を求めた。
そこで、サムエルは民が神の支配を退けたと感じ、神に祈った。
神は民の声に従うようにサムエルに答え、王政を導入する前に「王の権能」を民に知らせておくように告げた。
「王の権能」には、軍事活動やその他の活動への民の徴用、民の土地の没収、税の徴収などが含まれていることを、サムエルは民に告げ、次の言葉で締めくくった。

「こうして、あなたたちは王の奴隷となる。
その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。
しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない」

これに対し、民は次のように答えた。

「いいえ。我々はどうしても王が必要なのです。
我々もまた、他の全ての他国の国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いを戦うのです」

そして神の目にかなったベニアミン族の長身のサウルは、サムエルに油を注がれ、イスラエルの初代王となった。

「油を注ぐ」ことは、神がその人を王に任命したことを意味する。
油を注がれた者はヘブライ語で「マシアハ」と言い、この言葉が「メシア」の語源となった。

サウルは軍事的才能を発揮し、縦横無尽に活躍する。
ところがサウルは、神への感謝の犠牲を自ら捧げてしまう。
神への犠牲を捧げる儀式は司祭にのみ許された行為であり、王がこれを行うことは許されていなかった。
その結果、神はサウルを王位から退けたのだ。
神はサウルに代わり、ダビデという少年に油を注ぐようにサムエルに命じたのだ。

どうだろう、これが神を頂く政教分離の原型そのものだと思うのです。
どうだろう、イスラエルの神を天照大とし、天皇を大司祭とみなせば、大和朝廷がイスラエル王国と同等だと言うことは明らかでしょう。
そして、イスラエル人がヤハウエの民=神の民だから、
大和民族=神の民は、天孫族なのです。


2-10.愛と律法について
愛は律法と罪の概念を空しくするものではなく、律法を完成するものであり、慈悲は戒律と魂の研磨を離れては存在しない。愛は律法を完成するものとは、何という素晴らしい言葉でしょうか! 神武天皇は「道義国家」をめざされましたが、愛と律法無くしてそれは達成できないのです。



愛は律法と罪の概念を空しくするものではなく、律法を完成するものであり、慈悲は戒律と魂の研磨を離れては存在しない。
愛は律法を完成するものとは、何という素晴らしい御言葉でしょうか!!

「律法と愛」は「法治国家の憲法と愛」と同等で、正しい国体を守ろうとする愛国心が、正しい形の愛であれば、他者への思いやりと慈悲を伴うということ。
ひいては、平和をもたらすこと、即ち一国民として国法を守り、愛を実践することは、正法そのものだということが明らかになります

大東亜戦争においても、敵味方共に人類愛の発露がありました。
特に東京裁判は、カインの弟殺しから始まる心正しい方への報復そのものです。
日本の敗戦により、多くの国々が共産主義国となり、無実の人々が虐殺され、そして飢えで亡くなられている方々が多くいらっしゃったのが現実です。
戦後の日本国体は不完全のままではあっても、幸い経済的には復興しました。
現代において、左翼思想が日本を暗夜のように覆い尽くせば、シナの軍事介入から、ついには日本という国体が、今度こそ抹殺されてしまう可能性もあります。

出エジプトから荒野へ彷徨した時、神々は、奴隷としての集合体を国家を形成するまでに鍛え上げられました。
その制度はモーセの律法であり、文字と部族での役割分担の伝承でした。
失われた十氏族は、祖先の法を従順に実践する為、多くの苦難を背負いながらも日本に渡来されました。
小国に分かれていた古代日本では、卑弥呼=日巫(女性霊能者の職名)、日覡(男性霊能者の職名)により神に信託を仰ぎ、これを大司祭が部族制の元で、施政していました。

その後、皇室により国が統一され、随唐の脅威に対抗し、聖徳太子は国を立て直すため、統一大司祭を天皇と名乗らせたのです。
中国の古代史では、司馬遷により神の歴史は失われ、皇帝の歴史のみが残されました。
司馬遷もまた稗田阿礼同様に、神の歴史・真実を残そうとした悲劇の人でした。

日本では漢字化、密教化した仏教の導入により、日本の国体が失われかけました。
科挙の制度を排除した律令制、十七条憲法、イスラエルの各部族の秘宝=大化の改新、源氏物語、和歌他の日本文化の勃興により、異なった形でモーセの律法を存続させ続けたのでした。

苦難の歴史の中、仏教革命とキリスト教革命を断固として阻止しようとした戦国武将から、ついに明治の「神仏判然令」「明治憲法」「五箇条の御誓文」「教育勅語」へ、そして大東亜戦争の英霊へと大和魂は引き継がれてきました。
律法と愛の関係=神と人類の歴史が、旧約聖書を通じて日本につながることが再認識できました。

◆古代日本の危機と天皇制の勃興
神との契約はアブラハムに始まる。
アブラハムから皇室に至るまで、基本的に後継者は男系である。
それは旧約聖書に連綿とつづられている。

日本に定着した天孫族は、稲作を始めることで、イスラエル人特有の遊牧的な狩猟生活から、農耕民族へと移行していった。
その中で、社会変革が必要となり、モーセの律法を基盤とし、律令制を取り入れる必要があった。

ところが、天智天皇は「白村江の会戦」で敗戦し、日本は唐の植民地化政策を受け入れた。
漢字化を余儀なくされ、仏教をも受け入れざるを得なかった。
天武天皇により大宝律令が制定され、律令制の基盤が整った。
唐の律令制の基本は、最高の人徳者が皇帝として君臨し、誰もが受験できる科挙の試験により優秀な人材を選抜し、官僚がこれを支えるという社会システムである。
神儀官はあくまでも、政務官の支配下の一部局に置かれていた。
もしくは、存在しなかった。
皇帝はすべての政治事案を処理し、一族郎党が独裁者として君臨していたが、毎日が多忙だった。

つまり、唐の律令制をそのままの形式で日本が受け入れることは、小沢氏が陛下を政治に利用して当然とする野望同様、君主としての天皇制を破棄することだった。
そこで、統治者としての天皇を正当化する為、中国にも分かるよう漢文にて古事記、日本書紀が記録された。
そして、唐の律令制の基盤である科挙の制度を排除し、天皇の下に、神儀官と政務官を並列しておき、神儀官を上位とした律令制を完成させた。
名目上は律令制であるが、内情は古代イスラエル王国とそっくりの社会制度であり、モーセ当時からの社会システムを継承し続けたに過ぎなかった。
同時に、古代文字を隠蔽し、かな文字による日本文学が勃興した。
漢字はあくまでも日本語の表記に便利な道具として取り入れられたに過ぎなかった。
律令制をも取り入れた日本は、仏教の影響はあったが、源氏物語から始まる日本固有の文化を大きく発展させることに成った。

一方、韓国では全面的に唐の律令制と漢字化を受け入れ、自国の文化を捨てた。
この為、唐を基準とした視点でのみ日本を見続けていたので、自国よりも数段下等な国家と見なしていたのだ。

この当時の天皇の役割は、政治的なことについては政務官に任せ、承認を行っていた。
通常は、神儀を執り行っていた。
時代が進むにつれて、この政務部門が、藤原、平家、源氏、幕府に変わったが、国体は変わらなかった。

黒舟の襲来と共に、今度は日本国体に、西洋文明を受け入れ、近代国家としての明治憲法を立憲君主制として制定した。つまり、政務部門を国会とし、日本人固有の文化を育てたのです。

このように古代イスラエル王国のシステムに、時代に応じて律令制、西洋文明を柔軟に取り入れながら、日本の国体は発展してきました。
その原点は神武天皇の道義国家をめざす理念と、男女和合の日本神話、日本に平等と高等な感性をもたらした和歌である。

ここに古代からの天皇の役割について、非常に興味深い記録がありますのでご紹介します。

天皇が実際に統治権を行使した例はほとんどありません。
これは律令制以前からの状態が続いていると見なされています。
もし、天皇がキリスト教的な意味でのGODであれば、現在も未だ「神代」であるのですが、天皇は「人代」に出現しています。
しかも、天皇は神を祀る大司祭であり、祀られる対象ではないのです。
病気を治すとか、不幸や災いから救ってくれるとか、幸福を約束するとか、新興宗教の教祖ではありません。
逆に、困難が来た時に、神に祈るのが天皇なのです。

ではなぜ「アラヒトガミ」といわれるのか。
「ヒト」つまり「人」であり、「神代」の神々は「アラヒト」ではありません。
なぜ「カミ」が附くのかといえば、統治者への尊称です。
上代において、この尊称が出てくるのは「万葉集」に二例だけで、他にはありません。
マッカーサーは、天皇制=軍国主義を危惧しましたが、天皇制にはまったく軍国主義的なところはありません。

イスラエルの正当な末裔である日本人は、国体の危機に直面する毎に、神の民としての自覚が如何なる危機をも克服して来たといえるでしょう。
愛は律法と罪の概念を空しくするものではなく、律法を完成するものだとメッセージにあります。
愛国心が、正しい形の愛であれば、他者への思いやりと慈悲を伴う。
ひいては、平和をもたらします。
即ち一国民として国法=律法を守り、愛を実践することは、いつの時代を通じても、正法そのものだということです。

ルーツ・ファンタジー/古代日本とイスラエル 3

転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』より抜粋

2章.古代日本とイスラエル

2-20.日本人の出自について

伊勢神宮の外宮の渡会氏の祖先は、ウルノフル命だという。
シュメル語で牛の都の意味だ。
天御中主=ノアだとすれば、テラ=イザナギに対応する。

テラの子・イスラエルの結婚式では、花嫁が立っている花婿のまわりを回る。
イザナギ夫婦とそっくりなのです。
また、伊勢神宮の「心の御柱」は、
「忌柱=穢れを清める聖霊」
「天御柱=天照」
「天の御量の柱=正義の裁き」
と呼ばれる。

だが、天照は再臨のイエスではない。
神道はユダヤ教・義人ヤコブの原始キリスト教の流れをくみ、イエスをメシアとは見なしていないからだ。



伊勢神宮の外宮の渡会(わたらい)氏の祖先は、ウルノフル命だという。
この「ウルのフル」は、シュメル人の言葉で「牛の都」となる。
シッチン氏によれば、アブラハムに率いられて、ユダヤ人の祖先達は、シュメルの首都ウルを出発している。

また、『神皇正統記』の北畠親房は、
外宮の主神「豊受大神」を「天御中主」としているが、
他にも「籠神社」の『海部氏勘注系図』によれば、
「豊受大神のまたの名は、天御中主、クニトコタチで、その顕現の神をウカノミタマ(稲荷大神)という」
とある。

つまり、「豊受大神」=「天御中主」は、ウルクの王であるノアだと推測される。
「豊受大神」は天照大神のお食事を準備する係でもあるのだが、大洪水後の地上に降り立ったノアは、神々に供物を捧げている。

ノア=天御中主とした場合、天御中主からイザナギ尊まで10代、
かたやノアからテラまで10代なのだから、テラ夫妻=イザナギ夫妻に相当する。

テラには3人の子(アブラハム、ナホル、ハラン)があり、
イザナギにも3人の子(アマテラス、ツキヨミ、スサノオ)がある。

加えて、スサノオとアマテラスは兄弟で結婚しているが、
アブラハムとサラは
「彼女はほんとうに私の妹なのです。
わたしの父の娘ですが、母の娘ではありません。
そして、わたしの妻になったのです」
(創世記 20章12)

とあり、やはり兄弟(異母妹)で結婚している。
このように、ノア=天御中主とした場合、古事記と旧約聖書の記述がピッタリ符合してしまうのです。

ただし、正確に一致しないのは、藤原氏による改竄があり、男神である天照大神を女神とするなどをはじめとして別項で説明している。

テラはニプルの神官(つまりアヌンナキから統治権を与えられている)だったこと、
さらにアブラハムが王家の仕来りである異母妹と結婚していることから、
王家の家系だったのだったと推断される。
関連して、古事記では亡くなったイザナミを追ってイザナギが黄泉の国に旅立つ場面で

「その妹イザナミ命を相見むと欲して、黄泉の国に追ひ往きましき」
(古事記 上 全訳注 P60)

および
「本来はイザナギ・イザナミの二神は兄弟であって・・・」
(古事記 上 全訳注 P44)

との記述があり、
イザナギ夫妻もまた兄妹でした。

従って、聖書に記述はないのですが、テラもまた異母妹を妻としているはずだと推断され、間違いなく王家の家系なのです。

ここでテラの系図を見ると、聖書にはあたかも男のテラが、子を生んだかのように記述されています。

「テラはアブラム、ナホルおよびハランを生み、ハランはロトを生んだ」
(創世記 11章)。

このことは、イザナギが単独で3貴神を生んだことに対応しており、スサノオはアブラハムに対応していることが分かります。
加えて、アヌンナキの王家は異母娘との婚姻により男子が王家を継いでいる。
同じく、天と神の民の仲介者である大司祭は、古代シュメルのテラの時代から男子の直系なのです。
女系天皇を認めることは、神々から日本に引き継がれた伝統を乱すことになり、人類自らの手で神を捨てるにも等しい暴挙なのです。

一方、古代イスラエル人は、当時アヌンナキの神々が個別の都市国家を統治しており、契約により都市神の民となる事を知っていた。
従って、契約を破れば、契約主である神との関係は消えてしまう。
当然、神から与えられる庇護も、律法・軍事・医療他の文明も消えてしまい、
神との契約は民族の存亡に関わる一大事だったのです。

しかし、神と血縁関係にあるとする日本では、神との契約を律法学者のように意識する必要はなかった。
このため、教義・戒律よりも、神との人間関係を重視する傾向が大きくなったと云われています。
それは、神との血縁関係にあるギリシャ神話、ゲルマン神話の特徴でもあります。

以上の推論を元に、アブラハムの家系から、神武天皇を推定しています。

テラ(イザナギ)

→ アブラハム(スサノオ、妹と結婚)

→ イサク(オシホミミ)

→ ヤコブ(ニニギ、イギギの命=黒い頭の王、イスラエル)

→ ヨセフ(山幸彦、ホホデミ、スサダミコ、エジプトの統治者)

→ エフライム(ウガヤフキアエズ)

→ ベリア(神武天皇、エフライムの4男)

(中略)

→ ヨシュア(ベリアの7代後。モーセ様と一緒に出エジプト後、モーセ様の後継者としてカナンを征服)

関連して、「ヤオ族の神話」を読むと、ノアの洪水と遺伝子操作による人類創造の実話が、混在したものだということが分かります。

神話に出てくる人面蛇体は、人類の起源が遺伝子であることを意味しており、大木のまわりを回りながら結婚する二匹の蛇は、まさに二重螺旋構造です。
最初の遺伝子操作により誕生した生命体は失敗し、何度か遺伝子操作を繰り返すうちに人類が創造されたことを意味しているのだと思います。
このヤオ族の神話は、イザナギとイザナミが、「天御柱」(注)をまわりながら契りを結び、国生みを行う神話の原型であり、しかもこの人面蛇体がエンキとニンフルサグを表現しており、彼らが人類の創造主だということを伝えているのです。

◆『失われた王国』より「ヤオ族の神話」
中国ヤオ族の神話では、最高神を怒らせてしまったため、大洪水が起こり、フッキとジョカの二人だけが生き残った。
彼らは人面蛇体の体で、「大木」のまわりを回りながら結婚した。
最初の子はノッペラボウの肉塊だったので、不快に思ったフッキはバラバラにしてしまった。
するとそのかけらからの肉片から人間が化生したという。

◆『日本書紀と日本語のユダヤ起源』より抜粋
古代イスラエル、および現代イスラエルでもそうだが、結婚式では花嫁が、立っている花婿のまわりを回る習慣になっている。
花婿は「天的な柱」に見立てられているからである。
「天の柱」という言葉は聖書にも出てくる。
(「天の柱はゆらぎ…」『ヨブ記 26章11』)

イザナギとミザナミは、天の柱のまわりを回って[古事記]では「アナニヤシ」と言って夫婦となった。
この「アナニヤシ」は、ヘブル・アラム語の「アナ・ニーサ」が若干訛ったものであるとすれば、「私は結婚する」の意味なのである。

(注)「生命の木」と「心の御柱」について

《伊勢神宮の内宮でも外宮でも、正殿の中央の床の下にある「心の御柱」が神器と共にもっとも大切かつ神聖なものだとされています。
「心の御柱」は
「忌柱」「天御柱」「天の御量(みはかり)の柱」などとも呼ばれる5尺(約1.5メートル)ばかりの高さの檜の柱だ。》
(伊勢神宮の謎 P90)

とあり、「天御柱」は三位一体のように三種の意味を柱=神として表現しています。

「忌」は穢れを嫌うという意味なので「聖霊」。
「量」は測るという意味で「裁く」であれば、再臨のキリストにも思われます。

しかし、神道はイエスを救世主と認めていないユダヤ教・義人ヤコブの原始キリスト教の流れをくんでおり、
「天御柱」が中央の柱であれば、天照大だと推測されます。

一方、古代シュメルでの生命の木は、一本の「木の幹」に巻き付く二匹の蛇として、DNAの二重螺旋構造がシンボライズされています。
ところが、生まれたばかりのアダムを抱き上げるニンフルサグの後ろに、生命の木があります。
(人類を創成した宇宙人 P434 Fig151)

この生命の木には、DNAの塩基4種類と、3種類の塩基の一組で一種類の蛋白質を現すことから、左に4枝、右に3枝の7枝樹が表現されています。
そして、2神がこの7枝樹を挟んで対面しています。
この2神は、エンキとニンフルサグであり、人類創造の秘儀として遺伝子情報を後世に伝えたのだと思います。

この生命の木の「木の幹」と「二匹の蛇」の3本が、キリスト教の三位一体や、「心の御柱」の観念へと発展したのでしょう。
更に、カバラを3本の柱と見れば、DNA構造をカバラの中に伝承したと考えても間違いないと思います。
何も魔術的なことではなく、科学そのものだったのです。







2-21.ノアの呪いとセム族
大洪水の後、ノアは初めてのぶどう酒を飲み過ぎて裸のまま寝てしまい、ハムは父の裸を見てしまう。
ノアはハムの子・カナンの子孫に対して、兄弟の奴隷になるように呪うのだった。

(中略)



日本においては、ヤコブの兄(エサウ)=ニギハヤヒ命の子孫の一族(後述しますが、ヨブ一族)は、アイヌ民族(白人種族)と共に飛来し、出雲王国(空港都市)を建国したのでしょう。

『天皇家とイスラエル十支族の真実』によれば、
織田信長の織田(otaはアイヌ語で砂金)一族は、その呼び名から金と関連があります。
さらに、家康の母、於大の方はアイヌ語で『黄金の所有者(ota-i)』を意味すると解され、
家康の側近 酒井雅楽頭も『金山の所有者の長』と解することができるので、この一族がアイヌと関係があったと考えられます。
家康が今の静岡市のあたりで砂金収集に従事していたサンカの女性の私生児で、酒井雅楽頭の一族に買い取られて三河の産金地帯で育ったと伝えられていることは、彼の出自を間接的に示しているように思われます。
この家康の物語は、エジプトを統治したヨセフの物語に酷似しており、ヨセフを意識しての伝承かもしれません。

サンカという言葉が、アイヌ語のサンケ=『砂金のある所』に由来すると見られることは、のちに世界最大の金貨を造らせた家康の幼名が『竹千代』(アイヌ語でアサケ、オタケは金山)であったこともアイヌとの関係を暗示しています。

日本の場合、セム族=皇室を土台にして、武家の政治が行われてきました。
つまり、徳川の祖先と都市の住民(=文明化したアイヌ民族)は、後の時代にセム族の皇室がもたらした幕屋型の家に住むようになりました。
このように政教分離による政治形態は、三権分立の前段階とみられ、当時の世界では非常に進歩した政治形態でした。
進歩した政治形態を創設し維持できたのは、当時の日本人が世界レベルでも理知的な民族だった証拠だと思います。

また、日本の縄文遺跡の周囲には必ずと言ってよいほど巨人伝説が残されています。
しかし、日本の巨人とみなされたアイヌの勇士たち(ダイダラボッチ,デイラボー,大トウボウシ,太郎坊)は、聖書の中の巨人同様、死に絶えてしまいました。
つまり、白人である彼らはアヌンナキとのハイブリッドだったのです。

宗教はといえば、聖徳太子の時代以降、神道と仏教には激しい対立があり、次に神仏習合し、江戸時代まで神道の神々にも仏教の救いが必要だと見なされていました。
明治に入って、神仏分離が実現しました。
つまり、唐の時代の皇帝により、景教が広められ、これが偶像崇拝の仏教として日本に入ってきました。
神仏習合では、偶像崇拝の仏教が、神社=幕屋に住んでいました。
ノアの呪いは成就しています。

日本人はノアの子セムですから、セムがプレアデス星人の子孫であれば、プレアデス星人は私達日本人に似ているはずです。
『プリズム・オブ・リラ』の著者リサ・ロイヤルにコンタクトした宇宙人は、日本人の少したれた目と、世界中、何処にも見られない和を大切にする性質は、
プレアデス星人の遺伝子であると述べているそうです。



2-22.カナンの呪い

ノアに呪われたカナン人は、カインとまじわり悪魔教を広める。
彼らは「黒い貴族」として金融を支配し、「カインの遺言」に忠実に、イルミナティー、300人委員会、共産主義を生みだしてきた。
それは人類とノアと神々への復讐だった。



(中略)

エジプトで宰相の地位にあったヨセフだが、エジプト人からは「牡牛座」を代表する者と思われていました。
なぜエフライム族の長は、出エジプトの時に「金の子牛を作ろう」と言ったのでしょうか。
それは、エフライム族の祖ヨセフのシンボルが野牛だったからです。

日本各地の天神社には牛の像があります。
また、四国、紀伊半島、北陸、東北地方に牛人、牛鬼、牛女伝説、あるいは赤牛信仰が残っています。
これは、古代日本でも “天の牛” が崇拝されていたことを意味しています。


2-23.念仏革命とエフライム族への預言

エフライムへの預言を通じて、古代日本で、エフライムとユダが一つになり、偶像崇拝・密教・キリスト教がもたらされた事実に注目した。
そこには聖書だけでは読み取れないが、キリスト教革命と同質の念仏革命が、神道を滅ぼし、日本を悪の王国へと導こうとしていた事実が浮かび上がる。



『申命記 28章』には、日本に特徴的な習慣の預言があります。

「あなたの牛が目の前でほふられても、あなたはそれを食べることができず、
あなたの ろばが目の前で奪われても、
返されないであろう。
あなたの羊が敵のものになっても、
それを救ってあなたに返す者はいないであろう」

徳川時代まで、日本人は牛を食べなかった。
牛を食べたのはもっぱら外国人だけだった。
また、徳川時代が終わるまで、誰もろばを持っていなかった。
日本の歴史で羊を飼っていた人たちがいたことはまったく知られていない。
ところが、中国には昔も今も羊はたくさんいる。
しかもその羊は、現在パレスチナにいる羊と同じ種類なのである。
日本人がこれまで、羊とロバを家畜として飼わなかったことはきわめて特徴的なことである。
(日本人とユダヤ人)

サタン・ナブーは、日本人を農民としたかったのだと思います。
なぜなら、カインは農民だった。
(ノアの呪いを受けたカナンは、カインの部族と混血し、悪魔教を引き継いでいる)

『申命記 28章』に、偶像崇拝について預言されており、日本において成就しています。

「主はあなたとあなたが立てた王を携えて、あなたもあなたの祖先も知らない国に移されるであろう。
あなたはそこで木や石で造ったほかの神々に仕えるであろう。」

日本のみではなく、ユダヤ人やイスラエルの十部族もまた偶像を崇拝していました。

ユダヤの多くの町で「天の女王」を崇拝した。
(エレミア書 7章18, 25章)

迫害を受けたイスラエルの十部族、ユダヤ人、原始キリスト教徒は、東に逃げ延びた。
その時、インド仏教やヘレニズム文化の影響を受けながらも、他の宗教に影響を与えた。
インド付近の仏教徒はキリスト教の神々と混交し、阿弥陀如来(ヤハウエ)、大日如来(大天使ミカエル)、薬師如来、観音菩薩、弥勒菩薩等の仏教を取り込み、偶像化したことで密教化の道をたどることになる。

その一方で、原始キリスト教は景教の秦氏一団として、秦帝国の迫害を避けてシルクロードを通じて、日本に渡来した。

日本仏教について、『仏教の中のユダヤ文化』から抜粋します。

《空海は、秦氏一族の僧侶から、仏教を学んでいた。
開祖釈迦は死者の葬儀をしなかった。
しかし、儒教の中国では祖先を大切にしない仏教に対して、批判的で人気が無かった。
そこで、仏教に無関係なソグド人の風習を取り込み、中国で不空金剛がお盆を始めた。
その孫弟子が空海である。

仏教の葬儀には、位牌や戒名(洗礼名)を伴うが、これは景教の形式を取り入れたものだった。
ただ、洗礼は無料だが、改名にはお金が掛かる。》

密教は、仏陀の説かれた仏教とは全く異なってしまい形骸化し、人気取りのために見境もなくキリスト教の形式を取り込んでいきます。

盆の起源についてですが、
「仮庵の祭」だったことが分かります。
仏教に取り入れられたときから、
「仮庵の祭」が隠蔽されてしまいました。
日本人が、正当なイスラエルの末裔であることが時間の流れの中で忘れ去られてしまったのです。

「七月の十五日は仮庵の祭である。
七日の間、主の前にそれを守らなければならない。
初めの日に聖会を開かねばならない。
どのような労働もしてはならない」
(レビ記 23章34-35)

その後、秦氏の母を持つ法然、その弟子親鸞は、他力信仰を打ち立てました。
即ち”南無阿弥陀仏”を唱えるだけで救われるというもので、これは仏陀の仏教とは全く無関係の代物です。

この他力信仰は
「主の名を呼び求めるものは、誰でも救われる」
(ローマ人への手紙)
が元になり、密教徒が景教をまねて仏教に取り入れたものです。


◆念仏踊り革命は失敗した
ローマでは下からのキリスト教革命が成功し、キリスト教以外の神々は徹底的に排除され、これを祀る祭祀は惨殺された。
古代日本で仏教が導入され、仏教が庶民に広まると、下からの念仏踊り革命が勃発した。
しかし、貞永式目による民主化により、念仏踊り革命、すなわちイエス革命は失敗したのです。

もし、日本で念仏踊り革命が成功していれば、そしてその開祖が厩戸皇子だと、西洋キリスト教徒に知らさせた場合、
西洋でのそのショックは甚大だったことでしょう。
つまり、イエスの再臨がここ日本だったのだと。

つまり、歴史を比べると、原始キリスト教が出現したローマ帝国下のイエスとヤハウエの関係が、日本密教では、唐帝国(第2代と第3代皇帝が、景経を中国に流布し広めた)下の聖徳太子(薬師如来)と阿弥陀如来(ヤハウエ)に対応してしまうのです。

つまり、密教というサタン・ダビデが打ち立てた、まったくとんちんかんなヴァーチャルの世界を、神仏混交した日本人は毎日拝んでいるのです。

インドや中国の仏教僧は、キリスト教の伝来により人気を奪われてしまいつつあったが故に、イエス・キリストの伝記(福音書)の表現を借りて、釈迦の伝記を創作してしまった。
同じように、日本で偶像化した密教を広め国教化するために、聖徳太子は利用された。
この為、密教は一時、日本の国教のような地位にまで登りつめてしまいました。

この影響を受け続けてきた現在の日本は、左翼教育の浸透もあり、現天上界の神々による正法流布に対して、正法が理解できない民族に変貌させられてしまいました。
なぜなら、イスラエルから始まる天皇制は、密教とは相いれないからです。

一方、織田信長をはじめ戦国武将たちは、日本仏教に対する根強い反発を持っていた。
彼らにとって、日本仏教は迷信的な邪説で民衆を惑わせ、国家統一を妨げる前時代的な宗教であった。
徳川家康が押し進めた政策は、日本仏教に代わって日本式儒教を国教とすることだった。
日本仏教は支配者の宗教としては相応しくない。
支配者は理性の教え、日本式儒教で心を武装しなければならないと、考えたのでした。

徳川時代に、儒学者・林羅山が、聖徳太子を厳しく批判しています。
聖徳太子は、天皇を殺害した蘇我馬子と連帯して政治を行い、彼とともに密教を日本に広めた。
この日本仏教は迷信であり、民を惑わせる邪教である。
それによって、日本の理性は曇ってしまった、と林羅山は批判しました。
聖徳太子批判はいわれのない濡れ衣だとしても、それ以外はまったくその通りだと思います。

(注)聖徳太子は
「篤く三法を敬え。三法とは儒・仏・神である」
と説いたのですが、
日本書紀の中で
「篤く三法を敬え。三法とは仏・法・僧である」
にすり替えられたと云われています。

藤原不比等が仏僧の道慈を登用し、道慈がすり替えたとのこと。
(仏教の中のユダヤ文化)

話を元に戻しましょう。

『申命記 32章』の
「彼らを遠く散らし、彼らのことを人々が記憶しないようにしよう」
及び、
『ホセア書 2章』の
「わたしは彼女のすべての楽しみ、すなわち祝、新月、安息日、すべての祭をやめさせる」
の預言は成就され、イスラエルの十部族は日本へ追いやられ、日本各地に散らされ、表面的にはイスラエルの習慣・言葉を失った。
そして、日本人は、2千5百年以上も世界から忘れ去られていた。

『列王紀下 17章』に、イスラエルの十部族が主を怒らせた理由が記述されています。

「これは主が、周囲の異邦人のようにおこなってはならないと、彼らに命じられたものである。
彼らはその神、主の全ての戒めを捨て、自分のために二つの子牛の像を鋳て造り、またアシラ像を造り、天の万象を拝み、かつバアルに仕え、またそのむすこ、娘を火に焼いてささげ物とし、占いおよびまじないをなし、主の目の前に悪をおこなうことに身をゆだねて、主を怒らせた。
それゆえ、主は大いにイスラエルを怒り、彼らをみ前から除かれたので、ユダの部族のほか残った者はなかった」
(エズラ書 12章)

によれば、イスラエルの十部族のうち、神に従う者達が、日本に向けて旅立つ決意について記述されています。

「そしてあなたも見たとおり、
”彼”は平和を好むもうひとつの民を集められました。
それはオセア王(イスラエル最後の王ホセア)の時代に自らの地よりとらわれ人として連れ去られた十部族です。

アッシリア王シャルマネサルはオセア王を捕らえ、王の民を海の向こうへ連れ去りました。
そこで彼らは別の地に来たのです。
しかし彼らは相談し合って次のように決めました。

『我らは異教の民から離れて、さらに遠い所へ行こう、これまで誰も住んだことがない彼方の国へ』と。

そこでなら、父祖の地で我らが守り通すことのできなかった掟を守ることができるかもしれれない」

この旅立ちは、時のエジプトのラーに奴隷として使役されていたイスラエル人達を連れ、カナンの地に向けて旅立ったモーセの出エジプトに似ています。

つまり、エジプト・イスラエル人・モーセ・カナン人の対比として、イスラエル十部族を捕囚したアッシリア・イスラエル十部族・エフライムのリーダ・大和国のように対応してしているように思われます。
歴史は繰り返されるとよく言われますが、不思議なことに聖書の中では、同じようなことが時代を変えて何度も繰り返されています。


◆失われた10部族の移動先
移動先については、東の海との記述が『イザヤ書』にありますが、海を越えた東の地に移住したことが分かります。
関連する記述を抜粋しました。

「それゆえ、東で主をあがめ、海沿いの国々でイスラエルの神、主の名をあがめよ。
われわれは地の果から、さんびの歌を聞いた」
(第二四章)

「だれが東から人を起こしたのか。
かれはその行く所で勝利をもって迎えられ、…その足のまだ踏んだことのない道を、安らかに過ぎゆく。…
海沿いの国々は見て恐れ、地の果ては、おののき、近づいて来た」
(第四一章)

「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。
わたしはわが霊を彼に与えた。
…かれは真実をもって道をしめす。
彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。
海沿いの国々はその教えを待ち望む」
(第四二章)

「律法はわたしから出、わが道はもろもろの民の光となる。
わが義はすみやかに近づき、わが救は出ていった。
わが腕はもろもろの民を治める。
海沿いの国々はわたしを待ち望み、わが腕により頼む」
(第五〇章)

「神である主はこう仰せられる。
見よ。わたしは、エフライムの杖(王権)と、それにつくイスラエルの諸部族とを取り、
それらをユダの杖に合わせて一本の杖とし、
私の手の中で一つとする」

『秦氏が祀る神の国・その謎 P22-23』には、秦河勝を筆頭とする秦氏一族は、太秦公一族で、太秦公、酒公と呼ばれていた。
大秦はローマのことなので、秦氏一族は、ローマから来た、原始キリスト教徒、即ちユダヤ人とレビ人だった。
大が太になっているのは、秦一族に神が宿っていることを意味している。
つまり、秦氏一族は神と共に、日本に渡来した。
この神こそ天照大神と原始キリスト教の神々だったのだと思います。
天照大神とスサノオ命の高天原での神話の中に、機織りと馬が出てきます。
どちらも、秦氏の仕事であり、天照大神と秦氏との関連を残したのでしょう。

大和朝廷に、原始キリスト教徒の秦氏が渡来した。
秦氏は裏で科学技術・事業他を含め、皇室の祭祀をも牛耳った。
そして、偶像崇拝の密教が日本にて盛んになり、神道が廃れるのだが、戦国武将により一時的に阻止されました。

よく考えると、イスラエル十部族が出発し、エジプト・インド経由で日本に渡来した後、日本において、ヨセフと徳川家康、モーセと秦河勝,イエスと聖徳太子の物語が、それぞれよく似ており、聖書の内容が日本で繰り返されているように感じられます。

ルーツ・ファンタジー/古代日本とイスラエル 3

転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』より抜粋

2章.古代日本とイスラエル

2-24.古代日本とユダ族とエフライム族

伊勢神宮の外宮の神官の渡会(わたらい)氏の祖先は、ウルノフル命だという。

この「ウルのフル」は、シュメール人の言葉で「牛の都」となる。
また、ノアはウルクの王だった。
更に、ユダヤ人の祖先達はアブラハムに率いられて、シュメールの都ウルを出発している。




伊勢神宮の外宮の神官の渡会(わたらい)氏の祖先は、ウルノフル命だという。この「ウルのフル」は、シュメール人の言葉で「牛の都」となる。
また、ノアはウルクの王だった。
更に、ユダヤ人の祖先達はアブラハムに率いられて、シュメールの都ウルを出発している。
また、『神皇正統記』の北畠親房は、
「豊受大神」を「天御中主」としているが、他にも「籠神社」の『海部氏勘注系図』によれば、
「豊受大神のまたの名は、天御中主、クニトコタチで、その顕現の神をウカノミタマ(稲荷大神)という」とある。
つまり、「豊受大神」=「天御中主」は、ノアと推測される。

ノア=天御中主とした場合、天御中主からイザナギまで10代、ノアからテラまで10代なので、テラ夫妻=イザナギ夫妻となる。
また、テラには3人の子(アブラハム、ナホル、ハラン)があり、
イザナギにも3人の子(アマテラス、ツキヨミ、スサノオ)があるので対応する。

さらに、スサノオとアマテラスは、兄弟で結婚していますが、アブラハムとサラは
「彼女はほんとうに私の妹なのです。
わたしの父の娘ですが、母の娘ではありません。
そして、わたしの妻になったのです」
(創世記 20章12)
とあり、結婚相手は異母妹です。

テラはニプルの神官で、アブラハムが異母妹との結婚なので、王家の家系だったのではないでしょうか。
聖書に記述はないのですが、テラもまた異母妹を妻としているはずです。
このことについて、古事記では亡くなったイザナミを追ってイザナギが黄泉の国に旅立つ場面で
「その妹イザナミ命を相見むと欲して、黄泉の国に追ひ往きましき」
(古事記 上 全訳注 P60)

および
「本来はイザナギ・イザナミ二神は兄弟であって・・・」
(古事記 上 全訳注 P24-24-)

との記述があり、イザナギ夫妻も兄妹でした。

また、テラの系図の記述に関して、聖書にはあたかも男のテラが子を生んだかのように記述されています。

「テラはアブラム,ナホルおよびハランを生み、ハランはロトを生んだ」
(創世記 11章)

このことは、イザナギが単独で3貴神を生んだことに対応し、スサノオはアブラハムに対応します。

一方、古代イスラエル人は、当時アヌンナキの神々が多くあり、契約により神の民となる事を知っていた。
従って、契約を破れば、神との関係は消えてしまう。
当然、神から与えられる庇護も、律法・軍事・医療他の文明も消えてしまう。
しかし、神と血縁関係にある日本では、律法を律法学者のように意識する必要はなかった。
このため、教義・戒律よりも、神との人間関係を重視する傾向が大きくなった。

テラ → 

アブラハム(妹と結婚)→

イサク(オシホミミ)→

ヤコブ(ニニギ,イギギの命=黒い頭の王、イスラエル)→

ヨセフ(山幸彦、ホホデミ、スサダミコ、エジプトの統治者)→

エフライム(ウガヤフキアエズ)→

ベリア(神武天皇)→

ヨシュア(ベリアの7代後。モーセと一緒に出エジプト後、モーセの後継者としてカナンを征服)

関連して、「ヤオ族の神話」は、明らかに、ノアの洪水と遺伝子操作による人類創造の実話が、混在したものだと思います。
人面蛇体は、人類の起源が遺伝子であることを意味しており、大木のまわりを回りながら結婚する二匹の蛇は、まさに二重螺旋構造です。
最初の遺伝子操作により誕生した生命体は失敗し、何度か遺伝子操作を繰り返すうちに人類が創造されたことを意味していると思います。
このヤオ族の神話は、イザナギとイザナミが、「天御柱」(注)をまわりながら契りを結び、国生みを行う神話の原型だと思います。
この人面蛇体はエンキとニンフルサグを表現しており、彼らが人類の創造主だということを伝えているのです。

◆『失われた王国』より「ヤオ族の神話」
中国ヤオ族の神話では、最高神を怒らせてしまったため、大洪水が起こり、フッキとジョカの二人だけが生き残った。
彼らは人面蛇体の体で、「大木」のまわりを回りながら結婚した。
最初の子はノッペラボウの肉塊だったので、不快に思ったフッキはバラバラにしてしまった。
するとそのかけらからの肉片から人間が化生したという。

◆『日本書紀と日本語のユダヤ起源』より抜粋
古代イスラエル、および現代イスラエルでもそうだが、結婚式では花嫁が、立っている花婿のまわりを回る習慣になっている。
花婿は「天的な柱」に見立てられているからである。
「天の柱」という言葉は聖書にも出てくる。
(「天の柱はゆらぎ…」ヨブ記 26章11)

イザナギとミザナミは、天の柱のまわりを回って『古事記』では「アナニヤシ」と言って夫婦となった。
この「アナニヤシ」は、ヘブル・アラム語の「アナ・ニーサ」が若干訛ったものであるとすれば、「私は結婚する」の意味なのである。

(注)「生命の木」と「心の御柱」について
伊勢神宮の「内宮でも外宮でも、正殿の中央の床の下にある「心の御柱」が神器と共にもっとも大切かつ神聖なものだとされています。

《心の御柱」は「忌柱」「天御柱」「天の御量(みはかり)の柱」などとも呼ばれる5尺(約1.5メートル)ばかりの高さの檜の柱だ》
(伊勢神宮の謎 P90)

とあり、「天御柱」は三位一体のように三種類の意味を柱=神として表現しています。

「忌」は汚れを嫌うという意味なので「聖霊」。
「量」は測るという意味で「裁く」であれば再臨のキリストです。
「天御柱」が中央の柱であれば「天御中主」と推測されます。

一方、古代シュメールでの生命の木は、一本の「木の幹」に巻き付く二匹の蛇として、DNAの二重螺旋構造がシンボライズされています。

ところが、生まれたばかりのアダムを抱き上げるニンフルサグの後ろに、生命の木があります。
(人類を創成した宇宙人 P24-324- Fig151)

この生命の木には、DNAの塩基24-種類と、3種類の塩基の一組で一種類の蛋白質を現すことから、左に4枝、右に3枝の7枝樹が表現されています。
そして、2神がこの7枝樹を挟んで対面しています。
この2神は、エンキとニンフルサグで、遺伝子情報を伝えたものだと思います。
この生命の木の「木の幹」と「二匹の蛇」の3本が、キリスト教の三位一体や、「心の御柱」の観念へと発展したのではないでしょうか。

他には、カバラを3本の柱と見れば、DNA構造をカバラの中に伝承した可能性もあります。



1 ノアの呪いとセム族
日本人の始祖であるエフライム族に関する預言を追うことで、エンキを偽称するサタン・ダビデの野望の一端が露わになります。
尚、聖書からの引用なので、サタン・ダビデについても預言を使いました。



大洪水の後、ノアは初めてのぶどう酒を飲み過ぎて裸のまま寝てしまい、ハムは父の裸を見てしまいます。
ノアはハムの子・カナンの子孫に対して、兄弟の奴隷になるように呪います。

「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟達に仕える。
・・・
セムの神、主はほむべきかな、
カナンはそのしもべとなれ。

神はヤペテを大いならしめ、
セムの天幕に彼を住まわせられるように。
カナンはそのしもべとなれ」
(創世記 9章)

また、『創世記 10章』以降から、
ノアの子(セム、ハム、ヤペテ)は、各部族を形成してゆきます。

ハムからは、カナン、ソドム、ゴモラ、ニムロデなどの子孫がうまれ、シュメールからシナイ半島(ティルムン=ニンフルサグの支配地)に居たと推測されます。
ハムの四人の息子、クシュはエチオピアの地を、ミツライムはエジプトを、プトはリビアを、カナン(黒人、褐色人)はカナンの地を開いた。
つまり、ノアの大洪水後、ハムの子孫は、主要都市に配属され、世界中での金採掘も含め使役されたのだと推測されます。

また、最初の殺人を犯したカインは神に呪われ、南北アメリカでエンキに従っています。
このように、呪われた民族をエンキは使役しています。
この呪われた民族を利用して地球支配の謀略を実行しようとしたのが、エンキ職を引き継いだサタン・ダビデではないでしょうか。

ヤペテは白人系で、海沿いの地の国民に別れた。
注目すべきは、漢人(漢民族)もアーリア人で、ヤペテです。
(仏教の中のユダヤ文化 P31)

ノアの後継者セムの子孫は、シュメールの地で、エンリルの都市の神官や王族として居留しており、アヌンナキの官僚として、主要都市に配属されたと推測されます。
特に、エンキの都市(エジプトやティルムンや金鉱都市)には、シュメール人+カナンの子孫+カインの子孫が混在していたと思われます。

残された壁画のシュメール人は、頭とひげを剃り、腰巻きのみ。
これは、エジプトや東南アジアの古代の王族と同じ姿です。
また、鷲の文様や髭を生やした姿の人種は、現在の白人と混血したユダヤ人に似てますが、ヤペテの子孫で、セムの直系の子孫ではありません。

『天皇家とイスラエル十支族の真実』の中で、イスラエルの失われた十部族について、ユダヤの伝統的な解釈に基づけば、
①~④のような伝統的な特徴が見られるはずだとも言われてきた。
しかし、各伝統的な特徴への反論にあるように、シュメール人(セム族)のうちでユダヤ人以外のイスラエル人は、日本人に近いのです。

①.割礼の習慣をもっているはずである。
モーセの法によれば、割礼を受けない者は追放者とされる。
イザヤが”追いやった者”と呼んだのは、明らかに十部族が割礼を行わなかったからであった。
イスラエルの十部族は主なる神を見捨て、異邦人の習慣に従ったので、割礼の習慣を持たないと考えた方が聖書に即している。
「これは主が、周囲の異邦人のようにおこなってはならないと彼らに命じられたものである。
彼らはその神、主の全ての戒めを捨て、自分のために二つの子牛の像を鋳て造り、
またアシラ像を造り、天の万象を拝み、
かつバアルに仕え、
またそのむすこ、娘を火に焼いてささげ物とし、
占いおよびまじないをなし、
主の目の前に悪をおこなうことに身をゆだねて、主を怒らせた。
それゆえ、主は大いにイスラエルを怒り、彼らをみ前から除かれたので、
ユダの部族のほか残った者はなかった」((列王紀下 17章)

②.彫りの深い顔立ちと高い鼻を持っており、一見してユダヤ人と分かるはずである。
ユダ族とベニアミン族がバビロン捕囚から、聖地に戻ったとき、イスラエルの十部族の1万2千人の子供たちが彼らとともにエルサレムに向かった。
この子供たちの子孫はアシュケナージと呼ばれ、同胞のユダヤ人(ユダ族とベニアミン族)の子孫とは区別されている。

イギリスのユダヤ人は色白で背が高く、アシュケナージよりはるかに頑丈な体つきをしており、彫りの深い顔立ちをしている。
そして日本へ来てわかったことは、このアシュケナージが神武天皇とその兵士たちの子孫に著しく似た特徴をもっている。

ユダヤ人は一目でユダヤ人と分かるため、ののしられ軽蔑された。
しかし日本のイスラエル人は、ユダヤ人に似ていないため、同じ神を祭る兄弟民族とはみなされなかった。

③.ヘブライ語を話し、ユダヤの名前を持っている。
ユダとベニアミンの二部族、今日のユダヤ人の祖は、前六世紀の終わり頃バビロン捕囚から戻ったとき、70年の捕囚の結果として母国語を完全に失っていた。
そのためエズラは、ヘブライ語で書かれた律法の書をカルディア語に翻訳した。

また、ダニエル書を見れば、ユダヤ人がカルディア語の名前を名付けられているのが分かる。
イスラエルの十部族もまた捕囚の間に、他国語を話すようになったり、ユダヤの名前を持っていることは期待できない。

また、イエス様の時代には、ユダヤ人はへブル語ができなかった。
これは事実で、彼らはアラム語とギリシャ語を使っていた。
(日本人とユダヤ人 P176)

④.十部族は、世界中に散らばっている。
十部族は追いやられたのであり、散らされたのはユダ族だった。

「主は国々のために旗をあげて、イスラエルの追いやられた者を集め、ユダの散らされた者を地の四方から集められる」
(イザヤ書 第11章)

アヌンナキの文明を引き継いだセム族
(セムの子孫からアブラハムが誕生する)
で、神々の核戦争に生き残った者達は、
バビロン、エジプト、インド等の安全地帯に移住したことでしょう。
その後の文明はセム族の基礎の上に、今の白人(ヤペテ)文明が築かれており、『創世記 9章』のノアの呪いは成就しています。

日本においては、ヤコブの兄=ニギハヤヒ命の子孫の一族は、アイヌ民族(ヤペテの子孫である白人)と共に飛来し、出雲王国(空港都市)を建国した。

『天皇家とイスラエル十支族の真実』によれば、織田信長の織田(otaはアイヌ語で砂金)一族は、その呼び名から金と関連がありました。
さらに、家康の母 ”於大の方” はアイヌ語で ”黄金の所有者(ota-i)” を意味すると解され、
家康の側近 ”酒井雅楽頭” も ”金山の所有者の長” と解することができるので、この一族がアイヌと関係があったと考えられる。
家康が今の静岡市のあたりで砂金収集に従事していたサンカの女性の私生児で、酒井雅楽頭の一族に買い取られて三河の産金地帯で育ったと伝えられていることは、彼の出自を間接的に示しているように思われる。
この家康の物語は、ヨセフの物語に酷似しています。

サンカという言葉が、アイヌ語のサンケ= ”砂金のある所” に由来すると見られることは、のちに世界最大の金貨を造らせた家康の幼名が ”竹千代”(アイヌ語でアサケ、オタケは金山)であったこともアイヌと関係がありそうです。

日本の場合、セム族=天皇家を土台にして、武家の政治が行われていました。
つまり、徳川の祖先と都市の住民(=文明化したアイヌ民族)は、後の時代にセム族の天皇がもたらした幕屋形の家に住むようになった。
このように政教分離による政治形態は、三権分立の前段階とみられ、当時の世界では非常に進歩した政治形態でした。
進歩した政治形態を創設し維持できたのは、当時の日本人が世界レベルでも知的な国民だった証拠だと思います。

また、巨人として描かれているギルガメッシュですが、日本の縄文遺跡の周囲には必ずと言ってよいほど巨人伝説が残されています。
しかし、日本の巨人とみなされたアイヌの勇士たち(ダイダラボッチ、デイラボー、大トウボウシ、太郎坊)は、聖書の中の巨人同様、死に絶えてしまいました。
白人である彼らはアヌンナキとのハイブリッドだったのです。

宗教はといえば、聖徳太子の時代以降、神道と仏教には激しい対立があり、次に神仏習合し、江戸時代まで神道の神々にも仏教の救いが必要だと見なされていました。
明治に入って、神仏分離が実現しました。

唐の時代(漢人=ヤペテ)の皇帝により、景教が広められ、偶像崇拝の仏教が日本に入ってきました。
神仏習合では、偶像崇拝の仏教(ヤペテ)が、神社=幕屋に住んでいました。
ノアの呪いは成就しています。

日本人はノアの子セムですから、セムがプレアデス星人の子孫であれば、プレアデス星人は私達日本人に似ている。
『プリズム・オブ・リラ』の著者リサ・ロイヤルにコンタクトした宇宙人が、日本人の少したれた目と、世界中何処にも見られない和を大切にする性質は、プレアデス星人の遺伝子があると述べていたと記憶しています。

更に『創世記』を元に検討すれば、ノアには妻は一人しかいないので、ノアはニビル星人と地球人との子孫で、ノアの三兄弟の各妻が、プレアデス、シリウス、オリオンの血統を引き継いでいたのだと思います。
つまり、猿人とニビル星人のハイブリッド技術の完成から、同盟星の方々が各々アダムとイブを創造したのではないでしょうか。
そして、各種族の代表として、ノアの家族と、ノアの三兄弟とその妻が選ばれたのではないでしょうか。
つまり、
「地球、火星、同盟星の総合指揮下にあった地球」ということが実現されたのでしょう。

2 「カナンの呪い」
ノアの大洪水後、ティルムン(シナイ半島)には、医者、科学者、技師、シュメール人と共に、カナン人が労働者層として居住していたと考えられます。

『カナンの呪い』によれば、カナンの子孫(カナン人)は、カナンの地で悪魔崇拝、オカルト的儀式、幼児の人身供養、他を始めた。
エジプトに悪魔教を持ち込んだばかりか、フェニキア人(カナン人の名は歴史から消え、前1200年以降はフェニキア人と名乗った)として、文化の悪魔化をはかった。

また、ベネチア人(中世史においてのカナン人)として、ビザンチン帝国のキリスト教文明を破壊したばかりか、のちには「黒い貴族」としてヨーロッパ諸国に侵入し、策略や革命、金融的策謀を通じて、次第に実権を掌握していった。

さらに、バビロニアのタルムードにある「カインの遺言」は、天上界が与えられた十戒と正反対の遺言が記述してある。

「カナンの息子たちに五つのことを課した。
互いを愛すること(カインの子孫のみを愛する)。
盗みを愛すること。
姦淫を愛すること。
主人を憎むこと(ノアの呪いにより、セムとヤペテのしもべの運命。セムとヤペテを憎む)。
真実を語らないこと」

このようにノアに呪われたカナン人は、悪魔教、イルミナティー(注1参照)、300人委員会、共産主義・社会主義を生んで、セムとヤペテを抹殺しようとしている。
ティルムンのエル神を、貶めるために、カナン人に与えた悪魔教と、エル神を混合させて、バアルを悪魔に仕立てたのだと思います。

少し頭の整理が必要だと思います。
ここで、イスラエルの家系と天皇家の家系を、まとめましたので参照下さい。

『創世記35章』から、
ヤコブの子は、下記の通り。

レア(姉)の子は、長子ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブル。
ラケル(妻)の子は、ヨセフ、ベニアミン。
ビルハの子は、ダン、ナフタリ。
ジルバの子は、ガド、アセル。

天皇家の系図は下記の通り。

ヤコブ(ニニギ)

ヨセフ(山幸彦、妻豊玉姫 注2参照)

エフライム(ウガヤフキアエズ 注3参照)

エフライムの四兄弟は、シュテラフ、エゼル(早死)、エルアデ(早死)、ベリア。
ベリア(神武天皇)
- レバ - レセフ - テラ - エリシュマ - ヌン と続き、
ヨシュア(カナン征服。出エジプトのモーセの後継者 前1450年頃)
につながる。

イスラエルの十部族はアッシリヤによって3回に分けて連れ去られた。

前771年 ルベン、ガド、マナセの三部族が最初に捕らえられた。

前740年 次いでナフタリの部族が捕らえられた。

前730年 残る六部族が捕らえられた。

前660年 神武天皇が即位。
(イスラエル十部族の捕囚期間は70年)

『天の奇跡 中』によれば、モーセ以前のヘブライ民族は、神を「エル」と呼んでいた。
古代イスラエル人が信じた「バアル宗教」では、最高神エルに妻アシュラ、
彼らから生まれた子バアル、
その妻がアシュタロテです。

バアルは嵐の神であり、牛の角のついたかぶとをかぶり、鎚鉾と電光を放って武装し、雷鳴と電光の中に現れ、秋と冬の雨をもたらす。

-バアルは人身牛頭の神であり、嵐の神である-

このイメージはスサノオのイメージに似ています。

エジプトで宰相の地位にあったヨセフだが、エジプト人からは「牡牛座」を代表する者と思われていた。
なぜエフライム族の長は、出エジプトの時に「金の子牛を作ろう」と言ったのでしょうか。
エフライム族の祖ヨセフのシンボルは野牛だったからでしょう。

これは、エフライム族の象徴であるユニコーン(一角獣)が、「一角牛」に由来するからだと考えられます。
つまり、エフライム族は、バアル神に導かれた民族だという意味だと思います。

日本各地の天神社に牛の像があること。
また、四国、紀伊半島、北陸、東北地方に牛人、牛鬼、牛女伝説、あるいは赤牛信仰が残っているのは、
昔の日本でも ”天の牛” が崇拝されたことを意味している。

豊岡盆踊歌「べーろ・やー、べろ・べーろ・やー」という囃子詞がヘブライ語で「バアルはヤハウェなり、バアルはバアルヤハウェなり」という意味とのこと。

しかし、素人目から見ても、
「バアルはヤハウェなり、ベルはバアルなり、バアルはヤハウェなり」
と解釈する方が正しいのではないかと推測します。
だとすれば、
バアル=ベル(マルドゥク)=ヤハウェ
を意味しているのではないでしょうか。。

結論として、アブラハムの妻であり妹を、天照大神として隠蔽したため、本当の男神である天照大神が失われてしまった。
そして、サタン・ダビデのイメージを持つスサノウが、イスラエルと天皇家の正当な神祖であり、その子の大物主神が正当な天孫降臨族だと偽装することに成功した。

一方、イルミナティはルシファー信仰だと言われているが、本当の神は、バアル=プタハ(エンキ)=ヤハウェであり、
いずれの神をもサタン・ダビデは偽称しています。
そして、サタン・ダビデがすり替わったバアルはみずからを、天と地の創造者として、ヤハウェに向けられるべき祈りを自分に向けさせ、偶像をつくらせて、これを崇拝させたのでしょう。

(注1)
ヨセフの妻豊玉姫
(日本では海神の娘。エジプトでは、太陽神の祭司の娘アセナテ=ヨセフの妻は、太陽神の巫女)
は、竜の姿になって子を産み、生まれた子がウガヤフキアエズ(エフライム)で、天皇家が竜の子孫として描かれています。
(『日本固有の文明の謎はユダヤで解ける』より)

ここでも、出雲と邪馬台国の婚姻同様、ヨセフ(エンリル系の男子)は、エジプトの神官の娘(エンキ系)に養子になりました。

つまり、ヨセフの子孫のエフライム族とマナセ族には、エジプト人の血が混じっています。
また、妻豊玉姫について、古事記では巫女だと述べており、
(「玉」は神霊の依り代を表わす。天の神の神霊の依りつく姫。『古事記 全訳注 上 P199』)
アセナテと同じ巫女です。


(注2)
イスラエル王国は、南王国(ユダが祖)と、北王国(ルベンが祖)に分裂した。
ヨセフの子エフライムとマナセが、後の北イスラエル王国の主要構成部族となり、エフライム族が北イスラエル10部族の王家の部族となった。


3 聖書の中のエフライム族への預言『創世記 24-9章』では、ヤコブはその子らを呼んで、後の日に起こることを告げました。
その中で、ヨセフ(エフライム族の始祖)は、兄弟に奴隷としてエジプトに売られましたが、最後には兄弟の頭になり、預言は成就しています。

「ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木。
その枝は、かきねを越えるだろう。
射る者は彼を激しく攻め、彼を射、彼をいたく悩ました。
しかし彼の弓はなお強く、彼の腕は素早い。
これはヤコブの全能者の手により、
イスラエルの岩なる牧者の名により、
また上なる天の祝福、
下に横たわる淵の祝福、
乳ぶさと胎の祝福をもって、
あなたを恵まれる全能者による。

あなたの父の祝福は永遠の山の祝福にまさり、
永久の丘の賜物にまさる。
これらの祝福はヨセフのかしらに帰し、
その兄弟たちの君たる者の頭の頂きに帰する」

『申命記 28章』には、日本に特徴的な習慣の預言があります。

「あなたの牛が目の前でほふられても、
あなたはそれを食べることができず、
あなたのろばが目の前で奪われても、
返されないであろう。
あなたの羊が敵のものになっても、
それを救ってあなたに返す者はいないであろう」

徳川時代まで、日本人は牛を食べなかった。
牛を食べたのはもっぱら外国人だけだった。
また、徳川時代が終わるまで、
誰も ろば を持っていなかった。
日本の歴史で羊を飼っていた人たちがいたことはまったく知られていない。
ところが、中国には昔も今も、羊はたくさんいる。
しかもその羊は現在、パレスチナにいる羊と同じ種類なのである。
日本人がこれまで、羊と ろば を家畜として飼わなかったことはきわめて特徴的なことである。
(『日本人とユダヤ人』)

サタン・ダビデは、日本人を農民としたかったのだと思います。
カインは農民だった。
ノアの呪いを受けたカナンは、召使いの立場なので、労働に従事していた。

『申命記 28章』には、偶像崇拝の日本仏教について預言されており、日本において成就しています。

「主はあなたとあなたが立てた王とを携えて、あなたもあなたの祖先も知らない国に移されるであろう。
あなたはそこで木や石で造ったほかの神々に仕えるであろう」

日本のみではなく、ユダヤ人やイスラエルの十部族もまた偶像を崇拝していました。
ユダヤの多くの町で「天の女王」を崇拝した。
(エレミア書 7章18, 25章)

女神シャパシ(列王記 23章11,5)
ダゴン(サムエル記 1章5)
アシラ(列王記上 18章19)
アシュタルト(サムエル 12章10)
アユタル(列王記上 11章7)
アナト(ヨシュア記 21章18)

などの、カナン神話の神々を崇拝していた。

キリスト教においては、イスラエルの十部族、ユダヤ人、原始キリスト教徒が、東に逃げ延びた時、インド仏教やヘレニズム文化の影響を受け、偶像化してしまった。

インド付近のユダヤ人やイスラエル十部族の人々は、
阿弥陀如来、大日如来、薬師如来、観音菩薩、弥勒菩薩 等として、仏教を取り入れ、
ヘレニズム文化の影響により、偶像化した密教となった。

また、原始キリスト教は景教として、秦氏一団としてシルクロードを通じて、日本に渡来した。

日本仏教について、
『仏教の中のユダヤ文化』
から説明します。

空海は、秦氏一族の僧侶から、仏教を学んでいた。
開祖 釈迦は死者の葬儀をしなかった。
しかし、儒教の中国では祖先を大切にしない仏教に対して批判的だった。
そこで、仏教に無関係なソグド人の風習を取り込み、中国で不空金剛がお盆を始めた。
その孫弟子が空海である。
仏教の葬儀には、位牌や戒名(洗礼名)を伴うが、これは景教の形式を取り入れたものだった。
ただ、洗礼は無料だが、戒名にはお金が掛かる。
密教は、仏陀の説かれた仏教とは全く異なり形骸化し、人気取りのために見境もなくキリスト教の形式を取り込んでゆきます。

ただし、盆については、元々は「仮庵の祭」の日だったことが、レビ記から分かります。
仏教に取り入れられたときから、日本では「仮庵の祭」が隠蔽されてしまった。

「七月の十五日は仮庵の祭である。
七日の間、主の前にそれを守らなければならない。
初めの日に聖会を開かねばならない。
どのような労働もしてはならない」
(レビ記 23章34-35)

その後、秦氏の母を持つ法然、その弟子親鸞は、他力信仰を打ち立てました。
即ち ”南無阿弥陀仏” を唱えるだけで救われるというもので、これは仏陀の仏教と全く無関係の代物です。
この他力信仰は

「主の名を呼び求めるものは、誰でも救われる」
(ローマ人への手紙)

が元になり、密教徒が景教をまねて仏教に取り入れたものです。

また「悪人なおもて往生す」は、

「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」
(マタイによる福音書 9章)

「悪人に手向かうな」
(マタイによる福音書 5章)
に由来していると云われており、他力信仰と重なります。

つまり、原始キリスト教が出現したローマ帝国下のイエスとヤハウェの関係が、日本密教では、唐帝国(第2代と第3代皇帝が、景経を中国に流布し広めた)下の聖徳太子(弥勒菩薩、薬師如来)と大日如来(ヤハウェ)に対応します。
つまり、密教というサタン・ダビデが打ち立てたまったくとんちんかんなヴァーチャルの世界を、不幸なことに日本人は毎日拝んでいるのです。

インドや中国の仏教僧は、キリスト教に人気を奪われてしまいつつあったが故に、イエス・キリストの伝記(福音書)の表現を借りて、釈迦の伝記を創作してしまった。
同じように、日本で偶像化した密教を広め国教化するために、聖徳太子は利用された。
この為、密教は一時日本の国教のような地位にまで登りつめてしまいました。
この影響を受け続けてきた現在の日本は、左翼教育の浸透もあり、現天上界の神々による正法流布に対して、正法が理解できない民族に変貌させられてしまったのかも知れません。

一方、織田信長をはじめ戦国武将たちは、日本仏教に対する根強い反発を持っていた。
彼らにとって、日本仏教は迷信的な邪説で民衆を惑わせ、国家統一を妨げる前時代的な宗教であった。
徳川家康が押し進めた政策は、日本仏教に代わって儒教を国教とすることだった。
日本仏教は支配者の宗教としては相応しくない。
支配者は理性の教え、儒教で心を武装しなければならないと、考えたのでした。

徳川時代に、儒学者・林羅山が、聖徳太子を厳しく批判しています。
聖徳太子は、天皇を殺害した蘇我馬子と連帯して政治を行い、彼とともに密教を日本に広めた。
この日本仏教は迷信であり、民を惑わせる邪教である。
それによって、日本の理性は曇ってしまった、と林羅山は批判しました。
聖徳太子批判はいわれのない濡れ衣だとしても、それ以外はまったくその通りだと思います。

◆篤く三法を敬え
聖徳太子は
「篤く三法を敬え。三法とは儒・仏・神である」
と説いたのであるが、

日本書紀の中で
「篤く三法を敬え。三法とは仏・法・僧である」
にすり替えられたと云われています。

藤原不比等が仏僧の道慈を登用し、道慈がすり替えたとのこと。
(『仏教の中のユダヤ文化』)

『申命記 32章』の
「彼らを遠く散らし、彼らのことを人々が記憶しないようにしよう」
及び、
『ホセア書 2章』の
「わたしは彼女のすべての楽しみ、すなわち祝、新月、安息日、すべての祭をやめさせる」
の預言は成就され、
イスラエルの十部族は日本へ追いやられ、日本各地に散らされ、イスラエルの習慣・言葉を失った日本人は、2千5百年以上も世界から忘れ去られていました。

『列王紀下 17章』に、イスラエルの十部族が主を怒らせた理由が記述されています。

「これは主が、周囲の異邦人のようにおこなってはならないと彼らに命じられたものである。
彼らはその神、主の全ての戒めを捨て、自分のために二つの子牛の像を鋳て造り、またアシラ像を造り、天の万象を拝み、かつバアルに仕え、
またそのむすこ、娘を火に焼いてささげ物とし、占いおよびまじないをなし、
主の目の前に悪をおこなうことに身をゆだねて、主を怒らせた。
それゆえ、主は大いにイスラエルを怒り、彼らをみ前から除かれたので、ユダの部族のほか残った者はなかった」

『エズラ書 12章』によれば、イスラエルの十部族のうち、神に従う者達が、日本に向けて旅立つ決意について記述されています。

「そしてあなたも見たとおり、”彼” は平和を好むもうひとつの民を集められました。
それはオセア王(イスラエル最後の王ホセア)の時代に自らの地よりとらわ人として連れ去られた十部族です。
アッシリア王シャルマネサルは、オセア王を捕らえ、王の民を海の向こうへ連れ去りました。
そこで彼らは別の地に来たのです。
しかし彼らは相談し合って次のように決めました。
『我らは異教の民から離れて、さらに遠い所へ行こう、
これまで誰も住んだことがない彼方の国へ』と。
そこでなら、父祖の地で我らが守り通すことのできなかった掟を守ることができるかもしれれない」

この旅立ちは、時のエジプトのラーに使役されていたイスラエル人達を連れ、カナン人の住むカナンの地に向けて旅立ったモーセの出エジプトに似ています。

つまり、エジプト・イスラエル人・モーセ・カナン人の対比として、
イスラエル十部族を捕囚したアッシリア・イスラエル十部族・エフライムのリーダ・大和国のように対応してしているように思われます。

歴史は繰り返されるとよく言われますが、不思議なことに聖書の中では、同じようなことが時代を変えて何度も繰り返されています。

移動先については、
東の海との記述が『イザヤ書』にありますが、海を越えた東の地に移住したことが分かります。
関連する記述を抜粋しました。

「それゆえ、東で主をあがめ、海沿いの国々でイスラエルの神、主の名をあがめよ。
われわれは地の果から、さんびの歌を聞いた」
(第二四章)

「だれが東から人を起こしたのか。
かれはその行く所で勝利をもって迎えられ、
…その足のまだ踏んだことのない道を、
安らかに過ぎゆく。
…海沿いの国々は見て恐れ、地の果ては、
おののき、近づいて来た」
(第四一章)

「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。
わたしはわが霊を彼に与えた。
…かれは真実をもって道をしめす。
彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。
海沿いの国々はその教えを待ち望む」
(第四二章)

「律法はわたしから出、わが道はもろもろの民の光となる。
わが義はすみやかに近づき、わが救は出ていった。
わが腕はもろもろの民を治める。
海沿いの国々はわたしを待ち望み、わが腕により頼む」
(第五〇章)

『エゼキエル書 39章』にエフライム族とユダ族による王権の実現が述べられ、日本で成就しています。

「神である主はこう仰せられる。
見よ。わたしは、エフライムの杖(王権)と、
それにつくイスラエルの諸部族とを取り、
それらをユダの杖に合わせて一本の杖とし、
私の手の中で一つとする」

大和朝廷のエフライムとニギハヤヒ命の部族に、原始キリスト教徒の秦氏(レビ族とユダ族)が渡来して、秦氏は裏で科学技術・事業他を含め、ニギハヤヒ系の部族を退け、天皇家の祭祀をも牛耳った。
そして、秦氏が日本に、偶像崇拝の密教を導入した。
おそらく、サタン・ダビデはエフライム族が、エジプト・インドを経て、海路でアジア諸国から日本に渡来する現天上界の計画を知り、これを利用して日本で自分の王国を築こうとしたのだと思います。
この謀略は、日本への密教の導入と浸透で成功し、
戦国武将により阻止されました。



『秦氏が祭る神の国・その謎 P22-23』には、秦河勝を筆頭とする秦氏一族は、太秦公一族で、太秦公、酒公と言われていた。
大秦はローマのことなので、秦氏一族は、ローマから来た、原始キリスト教徒、即ちユダヤ人とレビ人だったと推測されます。
大が太になっているのは、秦一族に神が宿っていることを意味している。
つまり、秦氏一族は神と共に、日本に渡来した。
この神こそ天照大神と原始キリスト教の神々だと思います。
天照大神とスサノウの命の高天原での神話の中に、機織りと馬が出てきます。
どちらも、秦氏の仕事であり、天照大神と秦氏との関連を残したのでしょう。

よく考えると、イスラエル十部族が出発し、エジプト・インド経由で日本に渡来した後、日本において、ヨセフと徳川家康、モーセと秦河勝、イエスと聖徳太子の物語りが、よく似ており、聖書の内容が日本で繰り返えされているように感じられます。


4 古史古伝について簡単に紹介いたします
『天皇家とイスラエル十支族の真実』によれば、日本の古代文字は、古代オリエント文字と似ている。
古代エジプトの象形文字や古代イスラエルのアルファベット(ヘブライ文字)と多くの共通点を持っている事実を確かめることができた。

アヒルクサ文字は、ニギハヤヒ(ニニギの兄)を神祖とする物部一族の文字と考えられ、フィリピンやマレー、アラビアの古字と同系だと北里闌博士によって論証されている。

上記の記録用文字として知られるトヨクニ文字は、象形神字をカタカナと呼んでいる。
この文字の古体はエジプトの象形文字、新体はヘブライ文字とよく似ている。
トヨクニ文字がテーベの象形文字と一致する。

奈良時代に吉備真備がつくったといわれる片仮名は、1868年に死海の東岸から見つかったモアブ石の文字と多くの点で似通っている。

北海道異体文字は、インダス文字やイースター島文字と似通っている(東京人類学会誌18号。坪井博士)とのこと。

つまり、本著者は結論として、神代文字が漢字以前の日本で使われていたことを述べています。

また、神代文字で記述されていた古史古伝が正しく伝承され、正しく翻訳されたかについては疑問ですが、『超新論古史古伝』によれば、主な古史古伝の概略は下記の通りです。

竹内文書(物部氏):
竹内すくね(物部氏)の子孫が、神代文字で書いた。

秀真伝 (物部氏):
大物主神系が、神代文字(秀真文字)で書いた。

九鬼文書(エジプト):
天児屋根が、神代文字で書いた。
これを、藤原不比等が漢字へ翻訳した。

上記
(エジプト):
源頼朝の庶子(大友能直)が神代文字(豊国文字)で、書いた。

宮下文書(ヘブライ):
除福文献。徐福は、秦氏一族(原始キリスト教徒)。

『日本固有の文明の謎はユダヤで解ける』によれば、藤原氏の始祖アメノコヤネが、エジプトのアモン神殿の祭司長であったことは、彼がつくったといわれる春日象形文字がエジプトの神官文字と基本的に一致すること、
藤原氏三代は中尊寺にエジプトと同じ手法でミイラとして保管されており、エジプト文明との関連が強いことは明らかです。

更に、
「ヤコブの十二人の息子は、防腐処理をほどこした父親の遺体を運んでいく」
(創世記 50章)
とあり、ファラオの棺を担ぐ神官達と同じ姿です。
聖書によれば、イスラエル人はエジプトに200年以上も逗留しており、エジプトと同じ風習があったと考えられます。


(注1)
天照大神の部族 天児屋命(アメノコヤネ、神道の司祭一族である中臣連の祖神)と、布刀玉命(フトダマ、忌部,海部の祖神)は、宮廷祭儀を分掌した。
天皇の即位式(大嘗祭)では、中臣大嶋が太祝詩を唱え、忌部色夫知が剣と鏡を天皇に奉ったという、持統天皇の即位儀礼と密接に関連している。

◆ヘブル語との対応
『日本書紀と日本語のユダヤ起源』によれば、司祭を意味する「コヘン」は、
日本人でもカタカナで読めて、「コハノ」と読むだろう。
真ん中の「ハ」は漢数字の「八」に近く「ヤ」とも読めて、「コヤノ」の発音が、訛って「コヤネ」になった可能性がある。

・社務所
「シャマッシュ」からであれば、「仕える」という意味。
今日でもユダヤ教会には、シャマッシュがあり、そこで事務的な仕事が行われている。

・ヤマト
「ヤー・ウマト」の二語は、続けて「ヤー・マト」と発音する。
これは「ヤハウェの民」。

・勾玉
ヘブル文字の「ヨッド」に似ており、それは「ヤー」とも発音される。
伝統的に神の御名を表す文字。
例えば、「ハレル・ヤ」は「ヤハウェをほめよ」。

・絵馬
神道では太陽神天照大神に、馬を捧げてきた。
同じく、
「彼はユダの王たちが太陽にささげて、主の神殿の入口…の傍らに置いた馬を除き去った」
(列王記下 23章11)
とある。

また、天照大神が籠もった岩戸の前で、天児屋命が「ひい、ふう、みい…」と祝詞を述べた。
ヘブル語では
「誰がその美しいかたを出すのでしょう。
彼女に出ていただくために、いかなる言葉をかけたらいいのでしょう」
の意味である。

天宇受売命(アメノウズメ)は、巫女神であって、鎮魂祭に奉仕した猿女君の祖神。
五十鈴川の左岸に猿田彦神社があり、境内に天宇受売命を祀っている。
天宇受売命の子孫が猿女君とされている。

また、伊勢の氏族で、朝廷祭祀の舞などに奉仕する女を猿女という。
その一族の一部は倭国稗田(現在の奈良県大和郡)に移り、稗田と名乗った。
この一族から天武天皇の舎人、稗田阿礼が出た。
「帝記」「旧辞」を暗唱しており、
これを太安万侶がまとめて「古事記」を編纂した。

天手力男神(タジカラ神)は、伊勢の佐那県に鎮座している。

(筆者注)
タジカラ神は天の岩戸を開きました。
おそらく、土木関連の役職だと思います。
イシコリドメ命は、作鏡連の祖神。

(筆者注)
「作鏡」、すなわち鏡造りの役職だと思います。
鏡が通信機器であれば、通信技術者です。
タマノオヤ命は、玉祖連の祖神。

(筆者注)
「玉祖」、すなわち玉を作る役職だと思います。
玉は電池のようなエネルギー源だとすれば、物性技術者です。

韓国の警察官自殺/朴大統領「側近事件」の証人

韓国国政介入疑惑 内部文書流出疑いの警官が自殺か、
膝の上に「遺書」

産経新聞 12月13日(土)
【ソウル=藤本欣也】
韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領の元側近、鄭(チョン)ユンフェ氏の国政介入疑惑にからみ、大統領府の内部文書を外部に流出させた疑いで検察当局の調べを受けていた警察官(45)が13日、ソウル近郊の自宅近くに駐車していた自動車の中で死亡しているのが見つかった。
車内に炭を燃やした跡と、膝の上に遺書とみられる文書を記した紙があったことから、警察は自殺とみて調べている。
 
一連の疑惑で犠牲者が出たことで、韓国社会に衝撃が広がっている。
最大野党の新政治民主連合は同日、徹底的かつ公正な捜査で真相を究明するよう当局に要求した。
 
検察当局は9日、ソウル地方警察庁情報分室に所属する警察官2人の身柄を拘束し、同分室に保管されていた内部文書を外部に流出したとして逮捕状を請求。ソウル中央地裁は12日、証拠不十分として請求を棄却したが、検察側は証拠を固めるなどして改めて逮捕状を請求する方針と報じられていた。
死亡した警察官は家族に対し、こうした検察の強硬な態度に不満を示していたとの情報もある。
 

大統領府文書流出容疑の警察官、
自殺前に「誰かにつけられてる」と実兄に電話

WoW!Korea 12月13日(土)
韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領「VIPの側近」事件で韓国検察の捜査を受けていた警察官崔(チェ)キョンラク氏(45)が13日、遺体で発見された。

韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領「VIPの側近」事件で韓国検察の捜査を受けていた警察官崔(チェ)キョンラク氏(45)が13日、遺体で発見された。
 
京畿道(キョンギド)の利川(イチョン)警察署によると、チェ氏は13日午後2時30分ごろに利川市の実家付近の道路に止めてあった車で息をひきとっていた。
 
休暇中で実家に来ていたチェ氏は、前日の朝9時ごろに家を出て弁護士に会った後、その日の午後、実の兄と電話をしたと伝えられている。
 
チェ氏は最後の電話で実の兄に「誰かにつけられている。不安だ」と話したという。
 
ソウル地方警察庁・情報1分室に所属するチェ氏は、ハン警察官とともに大統領府の公職綱紀秘書官室の文書を複写して流出させた容疑で検察に捜査されてきた。
 
ソウル中央地検は、彼らに対する拘束令状を請求したが、12日未明に裁判所は棄却していた。

 

韓国の警察官が自殺、韓国検察の捜査直後
朴大統領の「VIPの側近」事件、
側近は産経新聞加藤氏の名誉毀損裁判の証人

WoW!Korea 12月13日(土)
韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領の「VIPの側近」事件で韓国検察の捜査を受けていた韓国の警察官が自殺した。
 
韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領の「VIPの側近」事件で韓国検察の捜査を受けていた韓国の警察官が自殺した。
 
13日の午後2時30分、ソウル警察の崔(チェ・キョンラク)氏(45)がソウル近郊の車の中で死亡した状態で発見。
練炭のガスや手首の刺し傷によって、自殺とみられる。
 
崔氏は、上司が韓国大統領府、青瓦台で出向勤務中に作成した「VIPの側近」文書をマスコミに流出にた疑いで9日に身柄を拘束された。
その後、裁判所が韓国検察の逮捕状請求を棄却したため、12日に釈放された。
 
崔氏は、周りの人に対して、自分は関係ないと鬱憤を表し、誰かが張り付いているようだと言っていた。
死亡場所は、崔氏の故郷と近い。
精神的な拷問を含め、韓国検察の無理な拘束捜査や捜査方法に対する疑問の声も出ている。
 
一方、「VIPの側近」鄭(チョン・ユンヘ)氏は、産経新聞の前ソウル支局長、加藤達也氏のコラムに登場する人物。
加藤氏は、韓国紙「朝鮮日報」を引用し、韓国旅客船セウォル号が沈没した4月16日、朴大統領が約7時間の間、チョン氏に会っていたとの疑惑を紹介した。
その結果、韓国検察から出国禁止されたまま、名誉毀損の裁判になっている。
 
チョン氏は、加藤氏裁判の証人でもあるため、「VIPの側近」事件は、日本国内でも注目されてきた。
 

韓国の「陰の実力者」暴露した内部文書流出
朴大統領の実弟が関与か―中国紙

Record China 12月13日(土)
 
13日、韓国の朴槿恵大統領の元側近チョン・ユンフェ氏による政府人事への不当介入疑惑で、朴大統領の実弟、朴志晩氏も内部文書流出に関与している可能性があることが分かった。
 
2014年12月13日、韓国検察関係者によると、朴槿恵(パク・クネ)大統領の元側近チョン・ユンフェ氏による政府人事への不当介入疑惑で、朴大統領の実弟、朴志晩(パク・チマン)氏も内部文書流出に関与している可能性があることが分かった。新快報が伝えた。
 
韓国紙・世界日報は11月28日、大統領府から流出した内部文書を基に、朴政権の「陰の実力者」と称される元側近のチョン・ユンフェ氏が大統領秘書らと定期的に会い、政府人事や国政に不当に介入していたと報じた。
報道によると、チョン・ユンフェ氏は現在は政府の役職を務めていないにもかかわらず、政府人事などに対して大きな影響力を持っているという。
 
検察関係者によると、ソウル地方検察庁は間もなく朴志晩氏に対し、内部文書流出問題について出頭して事情聴取を受けるよう要請するとみられる。
朴志晩氏は朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の実子、朴槿恵現大統領の実弟で、現在は無機顔料メーカーの会長を務めている。
同氏にはチョン・ユンフェ氏の人事介入に関する内部文書を含め、100件以上の内部文書を持ち出したとのうわさもある。
 
検察側はこうした報道について、朴志晩氏がチョン・ユンフェ氏に関する文書を読んだことがあるのか、情報部門や大統領府に対して自身に関連する文書を要求したことがあるのかなどを明らかにする目的があるという。
 
 
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大統領府は大統領側近の管理を正しくせよ

東亜日報 社説 NOVEMBER 03, 2014
朴槿恵(パク・クンヘ)大統領の議員時代に秘書室長を務めたチョン・ユンフェ氏が、セウォル号沈没事故の当日(4月16日)に会ったという占い師イ氏は、大統領の周囲の人々の振る舞いについて憂慮をもたらしている。
チョン氏と10年以上交流があるというイ氏は、2006年、共犯のチョン氏から事業家ユ氏を紹介され、ある人物を法廷拘束させる見返りに4億ウォン余りを受け取った容疑で起訴され、実刑を宣告されたことがある。
 
イ氏は、金大中(キム・デジュン)政府時代、李姫鎬(イ・ヒホ)夫人との親交を前面に出して大統領府に出入りし、事業利権を約束したことで、大統領府の特命を受けた社稷洞(サジクトン)チーム(警察庁調査課)に拘束されたこともある。
イ氏は最近も、知人に「朴槿恵大統領とよく電話で話す。
チョン・ユンフェは私が言えば死ぬふりまでする」と言い、利権に関する話をしたという証言もある。
 
イ氏は、東亜(トンア)日報の記者に、「チョン氏とは生命学と君子学を話す間柄にすぎず、請託をやりとりすることはない」と否定した。
しかし、チョン氏が、過去に権力を売って斡旋収賄をしたり、利権に介入した占い師と会うこと自体、大統領府と朴大統領に迷惑をかけていることになる。
イ氏は最近、「実力者3人」と言われる大統領府の秘書官3人を朴大統領に推薦した側近中の側近だ。
 
日本の産経新聞の報道で触発された「セウォル号沈没事故の当日に朴大統領がチョン氏と会っていた」という説は、検察捜査の結果、事実無根であることが確認された。
検察がセウォル号沈没事故の当日、チョン氏の通信記録を追跡した結果、チョン氏はイ氏の事務所に4時間ほどいたということだ。
しかし、イ氏とチョン氏が会ったことは、朴大統領に関するデマの解消には役に立つかも知れないが、後に問題を起こすかも知れない。
 
チョン氏は、「マンマンフェ」(パク・ジマン、イ・ジェミン、チョン・ユンフェ)など、人事の度に起こる秘線ライン介入説に対して「根拠がない」と否定した。
それでも疑惑とうわさが絶えないため、1次被害者はチョン氏自身かも知れないが、より大きな被害者は朴大統領と大統領府だ。
チョン氏は7月に、自分に対するうわさについて、「特別監察官であれ大統領府民情首席秘書官室であれ、政府が公式に調査してほしい」と言った。
大統領の親戚と側近の管理、公職規律の点検などを担う大統領府民情首席室が本来の役割をしたなら、このようなうわさは生じなかっただろう。
 
金淇春(キム・ギチュン)大統領秘書室長は先月28日、国会国政監査で、マンマンフェなど、秘線が人選に介入するという疑惑に対して、
「全くそのような事実はない。 そのようなことがあれば国民は通報してほしい」
と言った。
 
通報を待つまでもない。
過去の政府のゲートを教訓にして、大統領の周辺人物から出てくる疑惑をまず把握し、断固として対処しなければならない。
 
朴槿恵(パク・クンヘ)大統領の議員時代に秘書室長を務めたチョン・ユンフェ氏が、セウォル号沈没事故の当日(4月16日)に会ったという占い師イ氏は、大統領の周囲の人々の振る舞いについて憂慮をもたらしている。
チョン氏と10年以上交流があるというイ氏は、2006年、共犯のチョン氏から事業家ユ氏を紹介され、ある人物を法廷拘束させる見返りに4億ウォン余りを受け取った容疑で起訴され、実刑を宣告されたことがある。
 
イ氏は、金大中(キム・デジュン)政府時代、李姫鎬(イ・ヒホ)夫人との親交を前面に出して大統領府に出入りし、事業利権を約束したことで、大統領府の特命を受けた社稷洞(サジクトン)チーム(警察庁調査課)に拘束されたこともある。
イ氏は最近も、知人に「朴槿恵大統領とよく電話で話す。
チョン・ユンフェは私が言えば死ぬふりまでする」と言い、利権に関する話をしたという証言もある。
 
イ氏は、東亜(トンア)日報の記者に、「チョン氏とは生命学と君子学を話す間柄にすぎず、請託をやりとりすることはない」と否定した。
しかし、チョン氏が、過去に権力を売って斡旋収賄をしたり、利権に介入した占い師と会うこと自体、大統領府と朴大統領に迷惑をかけていることになる。
イ氏は最近、「実力者3人」と言われる大統領府の秘書官3人を朴大統領に推薦した側近中の側近だ。
 
日本の産経新聞の報道で触発された「セウォル号沈没事故の当日に朴大統領がチョン氏と会っていた」という説は、検察捜査の結果、事実無根であることが確認された。
検察がセウォル号沈没事故の当日、チョン氏の通信記録を追跡した結果、チョン氏はイ氏の事務所に4時間ほどいたということだ。
しかし、イ氏とチョン氏が会ったことは、朴大統領に関するデマの解消には役に立つかも知れないが、後に問題を起こすかも知れない。
 
チョン氏は、「マンマンフェ」(パク・ジマン、イ・ジェミン、チョン・ユンフェ)など、人事の度に起こる秘線ライン介入説に対して「根拠がない」と否定した。
それでも疑惑とうわさが絶えないため、1次被害者はチョン氏自身かも知れないが、より大きな被害者は朴大統領と大統領府だ。
チョン氏は7月に、自分に対するうわさについて、「特別監察官であれ大統領府民情首席秘書官室であれ、政府が公式に調査してほしい」と言った。
大統領の親戚と側近の管理、公職規律の点検などを担う大統領府民情首席室が本来の役割をしたなら、このようなうわさは生じなかっただろう。
 
金淇春(キム・ギチュン)大統領秘書室長は先月28日、国会国政監査で、マンマンフェなど、秘線が人選に介入するという疑惑に対して、
「全くそのような事実はない。そのようなことがあれば国民は通報してほしい」
と言った。
通報を待つまでもない。過去の政府のゲートを教訓にして、大統領の周辺人物から出てくる疑惑をまず把握し、断固として対処しなければならない。
 
 
 
 
 
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ルーツ・ファンタジー/古代日本とイスラエル 4

転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』より抜粋

★古代日本とイスラエル

■古代日本とユダ族とエフライム族

聖徳太子は、夢殿に籠もり、日本の将来と最後の時のために、イスラエルの秘法を一文字もたがわずに写させ、漢字化させて『旧事本紀』を残した。
そして、秦一族がこれを踏襲し、皇室行事を取り仕切った。

一方で、皇室行事と国民を切り離し、原始キリスト教徒の秦一族は中国から偶像崇拝の密教を導入した。
そして、大陸との交流を通じて技術を習得し、当時の日本の産業,土木建築などを一手に引き受け莫大な財と権力を手中にし、目立たないように日本を裏から牛耳ったのではないか。

(秦氏は八幡神社を全国に建設した)

◆大物主神の正体
『神代文字の真実と二度の出エジプト』参照

邪馬台国(三世紀中葉)より以前の弥生中期(紀元前一世紀~紀元一世紀)頃、
既に青銅器を生産する小国家が、大和地方に誕生していた。
これが「唐古・鍵遺跡」で、三世紀末まで存続したと推測されている。

また、銅剣・銅鐸・青銅の矢じりの鋳型が発見されており、巨大な青銅器工房があったとされている。

その後、三世紀中葉から「まき向遺跡」へ移住し、わが国最大の大型前方後円墳である箸墓古墳をつくって全盛期を迎えた。
この「まき向遺跡」は、三輪山周辺にあるので、ここを支配した崇神天皇を中心とする “三輪山王朝” と呼ぶ者もいる。

魏志倭人伝には、卑弥呼が女王だと記載されている。
これは、中国では、神が預言者を通じて民を導く、もしくは国王を導く国家形態を理解できていなからだと思われます。

史記本記にあるように中国では、王位は民を思う徳により決まり、前王を滅ぼして王位に就きます。
だから、日神子(ヒミコ)の預言者としての卑弥呼=日巫女を、女王と勘違いしてしまったのだと推測されます。

大国主命は神武天皇に大和国を譲った。神武天皇は大国主命の娘(姫タタライ五十鈴命)を妻としています。
この出雲の大神は、日本最古の神社と言われる大神神社に祀られています。
ちなみに、天武天皇の妻の持統女帝は、『日本書紀』の編纂を引き継いだが、
691年、大神神社と石上神宮の古文書と、十六家の系図を没収し、抹殺しています。

大物主神の摂・末社には、大物主神や姫タタライ五十鈴命、日向の御子神などが祀られています。
この日向の御子神が、神武天皇のことなので、ご養子になられたのだと思います。

福井県小浜市加茂にある「弥和神社」の祭神は、大歳彦大明神(大明神とは、年代が古く由緒の正しい神々のこと)で、由来は
「大和の大三輪神をここに祀れるなるべし」
とあり、大物主は別名として大歳彦をもっていた。

『古事記』によれば、大歳彦は、スサノウが大山津の娘(神大市比売)をめとって生ませた子である。
祇園祭で有名な八坂神社に、スサノウの五番目の子として祭られている。

また島根県飯石郡三刀屋町の大歳神社の『神国島根』によれば、
「須佐之男、出雲において大歳生み給い」
と記されている。

島根県八束郡八雲村にあるスサノウの御陵に建てられた「熊野神社」には、スサノウ命は「神祖熊野大神櫛御食野尊」とある。
大神神社には大物主神は「大物櫛ミカ玉命」とある。

生駒山山麓の東大阪市東石切町にある石切剣ヤ命神社の祭神は、ニギヤハヒ命と、ニギハヤヒ命の子のウマシマジ命です。
ニギヤハヒ命は「天照国照彦天火明櫛ミカ玉ニギハヤヒ命」とあり、
大物主神と「櫛ミカ玉」が同じことから、本著者は、ニギヤハヒ命=大物主神と同定している。

ニギハヤヒ命は、弟のヤコブに、イスラエルの王位を譲っています。
その後、ニギハヤヒ一族はシナイ半島に居住し繁栄していたのでしょう。
そして、ヨセフを忘れたエジプト王が、エジプト居留のイスラエル人達を酷使し始めた。
そこで、イスラエル人の一部が、ニギハヤヒ命一族の居留地に移住した。
そして、石切剣ヤノ命神社の社伝によれば、

「神武天皇二年、天神から十種の瑞宝を賜り、天磐船に乗って河内の哮峰に降臨したニギハヤヒ命とウマシマジを祀った」

とあり、ニギハヤヒ一族は日本へ移住し、王位を神武天皇に譲ったことを意味していると思います。
一つの証拠として、大神神社の鳥居は、二本の杉にしめ縄が張ってあるだけで、決して出エジプト時の「過ぎ越」を象徴する赤い柱ではないので、ニギハヤヒ命の一族は出エジプト前に日本に飛来したのではないでしょうか。

結局、神話に封印された内容は、ヤコブ兄弟の王位の禅譲、大国主命の神武天皇への王権の禅譲、日本の島根にある出雲王国と神武系氏族との統一王朝の三重構造になっており、非常に複雑です。

このように、聖書に記述のない、事柄が、記紀や神社の伝承として残されており、日本は聖書の正当な民であることの一つの証だと思います。

また、
「わたしがイスラエルの父であり、エフライムはわたしの長子だからである」
(エレミヤ書 31章9)
とあり、エフライムがヤコブの正当な後継者なのです。

『旧事本紀』を隠した「三輪宮」は大物主を祀っています。
また、大物主=ニギハヤヒ命の子孫であれば、即ち、出雲系の神々、「主」関連の神々は、ヤハウェの命に従ったのだと思います。


◆ニギハヤヒ一族の降臨

丹後国一の宮とされ、国宝や重要文化財も多くある籠神社の祭神は、
「彦火明命」。

相神に天照大神と豊受大神、他二神とあり、「彦火明命」の方が、天照大神と豊受大神よりも上位に位置している。
籠神社の宮司の海部氏によれば、「彦火明命」は「当社のいいつたえによれば、彦火火出見尊の別名」とのこと。

しかし、彦火火出見尊=ニニギ尊(ヤコブ)は、天照大神の孫に当たり、上位ではない。
かつ尊は天皇家を表し、命は非天皇家を表していることが多く、別人だと思われます。

更に宮司は
「当社では彦火明命を彦火火出見尊の別名とみなし、養老元年(717年)以前までは彦火火出見尊を主神としてきましたが、その後は系図から祖先をとって彦火明命が主神にかわっています」。

また海部氏系図によれば、先祖の「彦火明命」は天孫降臨したニニギ命の弟となっている。
(日本書紀ではニニギの命の兄となっており、こちらが正しいと思います)

このように、籠神社は、祭神がニギハヤヒ命であることを隠し、ニニギ尊を祀っているかのように見せかけている。

愛知県一宮市大宮町に、尾張の国一の宮である真澄田神社がある。
草薙の剣が奉納されているという名古屋市の熱田神社は三宮で、古代においては真澄田神社の方が上位の神社だった。
その真澄田神社の祭神は「天火明命」(彦は天皇の御子のことを表します)で、
その社伝は

「天火明命は尾張開拓の祖神で、総産土神である。
祭神の子・天香山命は、大和葛城国より当地に来て建国の基をさだめ、この地を尾張の国と名づけ、御父君天火明命の神霊を祀られた。
時に神武天皇三三年」

とある。

神武天皇二年にニギハヤヒ一族(32神と25部の物部集団)が河内の哮峰に飛来し、三三年にはその子が尾張の国を建国しており、非常に興味深い。

また、河内に祭神をニギハヤヒ命とする天磐船神社がある。
ここは生駒山脈の北部で、天野川の上流にある巨石に囲まれている。
この地は交野台地があり、かつては物部氏の本拠地で、大和へ入る要地とされた。
巨石に囲まれた台地であれば、天磐船の着陸地には適当な場所だったのではないでしょうか。
他にはこの近くに、祭神を登美ニギハヤヒ命とする登美神社があり、記紀に「登美の長髄彦」の記述があり、この地方はかつて長髄彦の領地だったのだと思われます。


◆大和の三大神社の社伝

古代に置いて天皇の行幸か一番多かったのは、大和の三大神社で
「大神神社」「石上神宮」「大和神社」であった。
大和神社の祭神は、右にヤチホコ大神、中央に大和大国魂大神、左に御年大神とある。

ヤチホコ大神は、諏訪の八剱神社などでスサノウ(ニギハヤヒ命の父)の別称としている。
また、古事記の御年神は、大歳神(ニギハヤヒ命)の生んだ子とあり、この親子関係から、中央の大和大国魂大神はニギハヤヒ命だと分かる。
社伝には
「上古、大和大国魂大神は天照大神と共に宮中の天皇の大殿に並斉されていたが、崇神天皇の五年、国内に疫病多く、死亡者が続出し、翌六年、天皇はこの二神が同床にあられるのはおそれ多いと、それぞれの場所に移した」
とある。

また、石神神宮の祭神はフツノミタマ大神、創祀は神武天皇即位元年(宮中に奉祀)、鎮座は崇神天皇七年とある。

天香山命は記紀によれば、神武東征のおり神武が熊野で倒れたとき、それを霊剣のフツツノミタマ剣で救出した神として記述されている。
また社伝には

「神武天皇の東征のみぎり、紀の国熊野において遭難のおり、天つ神のみことのりにより、ふたたび天降り給い、邪神賊徒をたいらげ建国の基礎を定めた。
神武天皇は即位のあと、その功績を称えて、長らく宮中に奉祀されていたが、第十代崇神天皇七年に物部氏の祖、イカガシコオ命が勅により現地石上布留の高庭に鎮め祀り、石上大神と称えまつったのが当宮の創である」

とあり、明らかにニギハヤヒ命の子天香山命を祭神としている。


◆神武天皇を即位させた物部一族

石上神社の由緒は、ニギハヤヒ命の長男ウマシマジ命が、神武天皇に王位を譲り、神武天皇即位時に、ニギハヤヒ命から授けられた王のしるしである十種神宝を渡したことを述べている。

つまり、記紀では、神武天皇が武力でニギハヤヒ一族を滅ぼしたことになっているが、事実は王位を譲ったのである。

「ウマシマジ命は、父ニギハヤヒ命の薨去のあと、瑞宝を受けてその遺業を継ぎ、中州の開拓につとめられたが、神武天皇の大和入りにあたり、天皇を迎えて忠誠を尽くし給い、天皇の即位の元年にその瑞宝を奉り、鎮魂の神業を以て祈り奉った。
これが鎮魂祭の始めである。
天皇はミコトの忠誠を喜ばれ、武臣の首座として即位の威儀に立たしめ給いた。
その建国に功績を称えて祭祀される」

更に、ウマシマジ命が生涯を終えた地の島根県太田市に建てられた「物部神社」の社伝にも

「天皇(神武)をウネビノカシハラ宮にて天位につかせ給うとき、祭神(ウマシマジ命)は十種神宝を安置し、神楯を竪て斉い奉る」

「ウマシマジ尊は物部氏の始祖なり。
神武天皇大倭国に御遷都のとき大功あり。
天皇その功を賞して、フツのミタマの神剣を賜う。
祭神もまた天祖(スサノオ尊)より拝承せる十種の神宝を奉りたまう。
かくて、天皇即位したまう…」

とある。

従って、天皇家は、すべてニギハヤヒ命ゆかりの大和の三大神社を行幸し、祀ったのだと考えられます。

また、『出雲国造神賀詩』には

「国造りをした大国主命が子孫の神々を天皇家の守り神として奉って、自分は出雲大社に身を隠した」
(古代七大王国の謎 P124-6-124-7)

とあり、ニギハヤヒ一族もまた、天皇家を守護していた。

更に、本著書では天照神社、天照御魂神社、天照国照神社関連を調査したが、祭神は天照大神ではなく、ニギハヤヒ命だと突き止められている。
そして、三輪にある太陽神信仰の神がニギハヤヒ命であり、ニギハヤヒ命は太陽神だったことを述べています

◆日本の由来
『日本書紀 神武紀』に、

「ニギハヤヒ命、天磐船に乗り、太虚(おおぞら)をめぐりゆきて、この郷をおせりて天降りたまうとき、名づけて「虚空見日本国(そらみつやまとのくに)という」

とある。

◆十種の神宝について
ニギハヤヒ命が大和の地に遠征したとき、父スサノウはわが子に祖先から伝わる十種神宝をもたせ、蘇生の術を教えた。
この呪文は物部氏の石切剣ヤ命神社に伝わっており、この神社は傷が治る神社として知られている。

また、『鎮魂の祝詞』には皇祖神が鋳造された十種の神宝をニギハヤヒ命に授けて、皇祖神がいわれるには、

「ニギハヤヒよ、この十種の宝をもち、か弱き国民が病になったときは、この十種の宝を用いて
『ひと ふた み よ いつ む なな は ここの たり』
と唱えよ。
これを唱えるなら、死人も生き返るだろう」
(神道行法の本 P78)

とある。
また、ウマシマジ尊は神宝だけではなく、鎮魂法も伝えたとされ、これが天武天皇に伝承されて鎮魂祭につながったと云われています。


◆天照大神は男神

スサノオ尊=アブラハム、
その妻を天照大神と偽証したことにより、混乱が生まれた。
本来であれば、
イザナギ=テラの子としてアブラハム、
アブラハムの子孫として
ニギハヤヒ と ニニギ というように史実通りに伝承する、
と伝えれば、何の問題もなかった。

ところが、アブラハムの妻を天照大神と偽り、天照大御神を歴史から抹殺しようとした。
かつ、ニギハヤヒ命とその子、ウマシマジ命、天香山命は、神武天皇を救い協力し、王権を禅譲して即位させたのに、その事実を歪めた。

ニギハヤヒ命とその子、ウマシマジ命と天香山命を、大国主神とその子、コトシロヌシ神とタケミナカタ神と名前を変えて、ニギハヤヒ命一族の国譲りを、大国主神の国譲りの物語のように、神武朝の力による支配、タケミナカタ神が敗走し諏訪神社へ逃げ込んだように改竄した。

しかも、天皇家を守護しているニギハヤヒ命一族を、大国主神が蛇神で、しかも呪う神、黄泉の神として描いた。
さらに、物部守屋と蘇我馬子を戦わせ、形骸化した葬式仏教(解脱を求める原始仏教には葬式はない)=「密教」を日本に導入して、神道の教義を隠蔽してしまった。

ここで『聖徳太子の秘密』から、物部守屋と蘇我馬子の宗教戦争はなかったことを説明します。

『日本書紀』には、聖徳太子は、仏教推進派の蘇我馬子につき従い、廃仏派の物部守屋を倒したとある。
ところが、蘇我入鹿神社では、蘇我入鹿と素戔嗚尊を祀っており、蘇我氏が物部氏と祖先は同じであることが分かる。

また、この神社の正面には「聖徳太子御自作大日如来仏起山普賢寺」とあり、蘇我入鹿は聖徳太子の末裔を滅ぼした人物であるにもかかわらず、聖徳太子を大切にしている。
ちなみに、大日如来信仰は、平安時代以降に密教と共に持ち込まれたもので、太子の作品ではない。

蘇我氏に近い立場で書かれたと思われる『元興寺縁起』によれば、物部氏の仏教推進派に対する迫害は確かにあったが、決定的な対決ではなく、和解したと書かれている。
さらに、物部氏系の文書『先代旧事本記』には、蘇我氏との仏教戦争に触れていないばかりか、物部守屋と蘇我馬子が対立したかどうかも明らかではない。

『先代旧事本記』では守屋は物部氏の傍流であり、本流は長く存続したと記述されている。
そして、蘇我馬子・入鹿を物部氏の系譜に載せている。
つまり、唐の植民地化政策である葬式仏教と漢字化に対して、日本を守るために真実が隠蔽されたのだが、同時に日本人はエフライム族の正当な末裔であることを忘却してしまった。

結局、バアル=スサノウ=頭天王=マルドゥクを偽装し、更にヤハウェを偽装したサタン・ダビデが、呪う神・祟る神・蛇神として天皇家を影で操ろうと画策した。
最終的には救世主スサノウを装い、天照大神の子孫を滅ぼし、スサノウ・大国主神の支配する日本として乗っ取る謀略だったことが、理解される。

この謀略に関して、現在天皇家には男子の世継ぎが絶えつつあります。
もし、応神天皇や継体天皇の時のように、スサノウや大国主神の系統の男子が養子として迎えられた場合、スサノウ・大国主神の王権が確立します。
更に、女系を認めれば、天皇家の崩壊に繋がります。

「昭和上皇ももちろん女系天皇制反対です。
そして次のように申されました。

万世一系の代々の天皇方による皇室の成り立ちが女系に切り替わると、どういった者が現れるか、分かりません。
…神から与えられる皇位の継承者は、男系男子から変わっては成りません。
…それを破るのは日本が共産国になる時のみ。
と昭和上皇様が仰っています」
(エルアール瓦版 第一号より抜粋)



(注)「白村江の会戦」で日本は唐の植民地化政策を受け入れた

天智天皇の時、「白村江の会戦」で、日本・百済軍が、唐・新羅軍に敗北した後、おそらく唐からの侵略を恐れ、都を近江に移し、そこで即位された。
その間に、唐から全部で二百五四人が日本に到着し、約三ヶ月滞在したが、目的及び何を行ったか全く不明です。

例えば、神よりも仏教を信仰した慈悲のある天皇として紹介されている孝徳天皇の時、
『明神として天下の治める日本天皇は…』(日本書記 下P169)
とあり、この記述の後段には古代中国の皇帝の功績の紹介とともに、彼らの徳政に習ったとの記述があります。
この「明神」という神は、日本古来の由緒正しき崇敬の神々という意味です。
また、「日本天皇」という響きには、天地を創造した皇祖神ではなく、日本に閉じられた天皇であり、この天皇をまとめる大天皇が、別途存在しているように受けとられます。

おそらく、「白村江の会戦」で敗北した日本は、唐の植民地化政策を受け入れさせられた。
この米軍のGHQに相当する者達が、天武天皇の時代に来日したのだと推測されます。
このため、『明神として天下の治める日本天皇は…』の下りは、日本の独立と、中国の植民地としてのバランスを勘案した記述のように思われます。

この唐の植民地化政策により、日本における、神代文字が廃れ漢字化へ、神道が廃れ仏教国化へと向かわざる得なかった。


◆大化改新はヤマト(ヤハウェの民)の復活だった

大化改新の主要な目的は、天照大神のもと、神道を日本の国家的な宗教の座に回復させる事にあった。

『日本書記』の大化改新について、
『日本書紀と日本語のユダヤ起源』の中に、旧約聖書との関連が証明されております。
日本書紀と旧約聖書を読んでいても、意識して関連づけなければ、思いもよらない結末です。

例えば、武烈天皇(在位24-98年~506年)に関して、
「長じて裁きごとや処罰を好まれ、法令にも詳しかった」とあるが、
「法令」は書かれたもののことで、漢字渡来以前に日本固有の文字が有ったことの証拠の一つ。

また、日本で18は長寿を示しているが、なぜなら「生きている」を意味するヘブル単語「ハイ」の数値は18だからである。
俳句の17字、十七条憲法のように、17は「良い兆し」を示すとされているが、
「良い」を意味するヘブル語「トープ」の数値は17である。
さらにヘブル文字に酷似したカナ文字を使う日本人は、ヘブル文字を知っていたと述べています。

本書は非常に簡明で説得力があるので、これを抜粋して紹介いたします。

◆大化時代の開始
皇極天皇の治世第四年の七月一日に始まった。
七月一日は、ユダヤでは新年にあたる。
聖書ではこの日を「聖なる集会」の日としている。
「第七の一日の安息の日として守り、角笛を吹き鳴らして記念し、聖なる集会の日としさい」
(レビ記 23章224-)

◆捧げ物
七月十四日に使節を遣わし、神道の神々に捧げるための捧げ物を集めた。
聖書では、ユダヤ歴七月十四日の夕方から「仮庵の祭」が始まる。
その時、神殿に捧げ物がされるので、十四日にはその捧げ物が用意された。

◆奴隷の子
大化の政府は、男女に関する法の中で、「もし二つの家の間で男奴隷と女奴隷が子を生んだなら、その子は母につけよ」
としている。

『出エジプト記 21章24-』では、
もし主人が男奴隷に女奴隷を妻として与え、彼らが子を生んだ場合、子は母につけよとしている。

◆土地再分配
大化の政府は「班田収授法」を作った。これは六年ごとに、農業用地を人々に再分配するものだった。

『レビ記 25章3-24-』では、六年の間収穫し、七年目には土地に安息を与えるとある。

◆人数に応じた土地
大化の土地配分は、戸籍に基づき、家族の人数に応じてなされた。

『民数記 26章524-』では、
「人数の多い部族には多くの、少ない部族には少しの嗣業の土地を与えなさい。
嗣業の土地はそれぞれ、登録された者に応じて与えられねばならない」。

◆親族の死
大化改新では、
「死者のために生きている者が断髪したり、股を刺したりて、しのびことを述べたりする旧俗は、ことごとくみなやめよ」としている。

親族が死んだとき、
「自分の頭髪の一部を剃り上げたり、髭の両端をそり落としたり、身を傷つけたりしてはならない」
(レビ記 21章5)としている。

◆嘘言
大化改新では、
「見ていながら見ないと言ったり、
見ないのに見たと言ったり、
聞いていながら聞かなかったと言ったり、
聞いてないのに聞いたなどと言う者がある。
正しく語り正しく見ることなくして、
巧みに偽る者も多い」
と述べ、嘘を禁じている。

『レビ記19章11』では、
「盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない」
と述べている。

◆証人
大化改新では、妻を疑って、三人の証言があっても皆で相談した後、官に訴えるべきであると述べている。

『申命記17章6』に、
「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。
一人の証言で死刑に処せられてはならない」
と述べている。

◆宴会
大化改新では
「農耕の月には田作りに専念させ、美物(魚)や酒を食することを禁ずる」
と述べている。

聖書にはないが、古代イスラエルの伝統によれば、例えば収穫をしてから七週間は、いかなる宴会も慎まなければならなかった。

◆地域の監視
大化改新では、
「京師を創設し…区画ごとに長を一人置き、四つの区画に令一人を置き、戸口を管理し、正しくないことをする者を監視せよ」
と述べている。

『申命記16章18』に、
「主が部族ごとに与えられるすべての町に、裁判人と役人を置き、正しい裁判をもって民を裁かせなさい」
と述べている。

◆二倍の償い
大化改新では、
「不当に自分の身に入れたものは、倍にして徴収せよ」
と述べている。

『出エジプト記 22章8』に、紛失物での言い争いについて、
「神が有罪とした者が、二倍の償いをせねばならない」
と述べられている。

◆カタカナとひらがな
カタカナはヘブル文字に酷似している。
「カタカナ」は、「カナンの文字」を意味する

ヘブル語「クタ・カナン」が若干訛ったものではないだろうか。

また、「ひらがな」は、ヘブル・アラム語の「絡み合った」を意味する

「エーラ・クタ・カナン」(絡み合ったカタカナ)が、
後に「エーラ・カナ」となり、
これが短く訛ったものではないかいだろうか。


◆大化改新の正体はイスラエルの秘宝(モーセの律法に立ち返る)!?

蘇我入鹿は、皇極天皇(後の斉明天皇)の前で殺された。
この時、女帝に対して、息子の中大兄皇子は入鹿を非難し、
「皇室が乗っ取られようとしているのです」
と訴えた。

日本史では、律令制(土地の再配分、租税、戸籍)に反対する蘇我氏を、中臣鎌足と藤原不比等が成敗すると記述されています。

ところが、律令制度の導入の直前、蘇我氏は天皇家の直轄領(屯倉)の設置に奔走していたことがハッキリしており、当時、蘇我氏の専横という『日本書紀』の記述はおかしい。

この後、
「白村江の会戦」「壬申の乱」へと移っていくが、
大化改新による改革は成功した。

おそらく、「白村江の会戦」で敗北し、唐の植民地政策である漢字化と仏教化を受け入れざる得なくなった。
そこで、日本の独自性を保つため、聖徳太子という仮名を作り出し、蘇我馬子・蘇我入鹿を悪者にして、仏教を導入し漢字化を進めたように歴史を改竄した。
そして、壬申の乱にて、独立を獲得したのではないでしょうか。
(『聖徳太子の出自と謎解き』)

聖徳太子の死後1年後に、秦河勝により完成したと言われる『旧事本紀』こそが、つまりイスラエルの各部族の秘宝こそが、大化改新の核心だったのではないでしょうか。

神武天皇の強権により押し進められた律令制が、藤原不比等一族により、私物化されてしまいます。
参考文献によれば、『日本書紀』には中臣鎌足の両親の名は無く、天児屋命からの系譜も無い、まるで降って湧いたように、中臣氏が登場している。
中大兄皇子の懐刀であった中臣鎌足であったが、「白村江の会戦」の時、日本書紀の記述にその名が無く、会戦終了後戻ってくる。
ちょうど「白村江の会戦」の直前、日本に人質として滞在していた百済王子(豊璋)が、百済に帰った。
そして、会戦終了後、日本に戻っている。
このことから、豊璋=中臣鎌足だと思われる。
つまり、この中臣鎌足、その子、藤原不比等一族は、百済王家であり、天児屋命を始祖とするその一族ではな無かったのだと思います。


◆『ユダヤ製国家日本』より

本書によれば、日清戦争では、神戸に寄留してシェル石油会社を開いたユダヤ人・マーカス・サミュエルの支援があった。
そして、日露戦争では膨大な戦費の半分以上が、ロシアに虐げられていたユダヤ人達、及びユダヤ人、ヤコブ・シフにより調達された。

そして、シフへの感謝を明治天皇も、昭和天皇も忘れることはなかった。
更に、明治憲法は、ユダヤ人・アルベルト・モッセの忠告を受け入れ、立憲君主制度を柱として、きわめて民主的な憲法となった。
モッセは明治憲法の父と呼ばれている。
このように、明治初期に、多くのユダヤ人が、西洋の学問や技術や芸術を日本へ伝えるのに貢献している。
そして、敗戦後の日本国憲法・農地改革他に、ユダヤ人の多くが、差別の激しかったアメリカでは実現することができなかった社会改革の夢を、持ち込んだ。

明治の日本は、後に新生ユダヤ人国家であるイスラエルが建国されるのに当たって、大きな精神的影響を及ぼして、貢献した。
その仲介役が日露戦争時に、日本の捕虜となった「片腕の英雄」「イスラエル軍の父」と呼ばれているヨセフ・トランペドールだ。
日本でいえば、坂本龍馬か、吉田松陰のような存在であろう。
トランペールは、日本語を喋り、サムライの精神をイスラエル建国の柱とした。

今日、イスラエルではどのような小さな村でも、かならず日本の武道が行われている。
東と西に遠く離れて、同じ魂が脈打っているのだ。

更に興味深いことに、秦氏は多くの氏族を持ち、
伊賀の服部、宇佐の辛島、田川の赤染、長光、松尾、赤松、物集、島津、長宗我部、呉、等々。

しかも、各氏族が、養蚕・畜産・鍛金・治水・土木・修験・芸能など産業の専門である。
能の世阿弥、松尾芭蕉、服部半蔵、薩摩の島津家も、秦氏=ユダ族・レビ族である


◆大和民族の元をたどればシュメール人だった

シュメール時代には、王権は天から与えられたと考えられていた。
王はティアマトとの戦いにおいて、
そしてイナンナとの聖婚(王はドゥムジを体現する)において、
神を具現する儀式があった。

また、新年には、ティアマトとの戦いを朗読する。
神道では神話を物語にして唱える。

王は神と人間との間の仲介者であった。王は神の前で民を代表していた。
臣下の罪をあがなうのも王であった。

また、神像に毎日捧げられる料理を食べるのは、王とその廷臣であった。
(『世界宗教史 』より抜粋)

このシュメール時代に続けられていた神からの王権の授与が、大嘗祭の儀式と似ていると思います。
この儀式は古代バビロニアが滅ぶまで続けられていた。
しかし、この儀式は聖書には見られない。

また、シュメールの楔形文字は、表意文字と音節文字を併用していた。
それは、漢字とカナまじりの日本語と同じ要領で書かれていた。

また、シュメール文字には簡単な文字から複雑な形状の三種類があり、簡単な第一種文字については、カナ文字の個数に近い。
しかも、楔形文字の表意文字は、漢字と同じ要領で構成され、合成語も作られる。
また、この第三種の楔形文字は、セム語族の文字であるヘブライ語,アラム語,アラビア語に属することが分かっている。
更に、古代の楔形文字は、日本と同じく、縦書きで右から左に書かれていた。
しかし早い段階の粘土板から左横書きとなった。

ウルはシュメール名をナンナル、
アッカド名をシンと呼ぶ「月神」を主神とする古代都市であり、
アブラハムの故郷として知られている。
このウルからも多くの楔形文字の粘土板が出土しており、ウルの神官であるアブラハムの父テラは、楔形文字を習得していたと思われます。
おそらく、楔形文字から、ヘブライ語や表音文字が作られたのだと思われます。

そして、ヘブライ文字からカナ文字が作られた。
この表音文字は、後に漢字として人類に与えられたのだと思います。

シュメール人と日本人は共に黒い頭であり、髭を剃る習慣があった。
それだけではなく、シュメールの人々は粘土をこねた日干し煉瓦を、文字を記録する粘土板や家屋の建材として使っていた。
古代エジプトの「石の文化」に対して、「土の文化」といわれるゆえんである。

日本家屋も竹や材木に泥壁(粘土と藁)で家屋を作っており、これもまた共通している。

日本人が漢字を採用したのは、楔形文字をまったく言語の違うバビロニア人やアッシリア人が採用したことによく似ている。
バビロニアやアッシリアの文字は、シュメール読みと、彼ら独自の読みの二通りがあります。
これは、日本語に音読みと訓読みがあるのと同じです。

つまり、アブラハムからの正統なシュメールの血統は、失われた十部族に流れ、大和民族となったのだと思います。
ヤマト人が、シュメール語やヘブライ語を熟知していたからこそ、漢字とカナ文字混じりの記述方法、即ち新シュメール語として日本語を定着させることができた。

大和民族は、三種の神器だけではなく、アブラハムから引き継がれたシュメールの知識・秘宝をも、守ってきたのだと思います。

ヘブル人は楔形文字の表音文字であるヘブライ語のみを使っていた。
表意文字は秘密にされたか、使われなくなってしまったのだろう。
また、ヘブライ語と日本語には似た言葉が多くあるにもかかわらず、楔形文字のシュメール語発音は、日本語と全く似ていない。

では、何故シュメール語を、ヘブライ語のように、大きく変化させる必要があったのでしょうか。
旧約聖書には、
「そこで彼らの言葉を乱し、互いに通じないようにしよう。
こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。
これによってその町の名はバベルと呼ばれた」
(創世記 11章9)
とあり、その証拠なのかも知れません。

結局、楔形文字を使うシュメール語から、
表音文字、表意文字、
単音文字(エジプト文字のことで、後にアルファベットとなる)
が派生し、
現在使われている言語に進化した。

シュメール語や日本語のように、表音文字と表意文字混じりの言葉は、非常に高度な言語体系だと思います。

高橋良典氏は、世界中の未解読の古代文字の中には、日本の神代文字で解読でき、その読みもまた日本語で読めると、
及びインドのタルミ語については、日本語と文法や言葉が一つ一つ法則的に対応すると述べています。

古代日本語の使用されていた地域は、シナイ半島だけではないので、黒い頭のシュメール人が点在していた地域で、使われていたのだと推測されます。
おそらく、シュメール語には二種類あって、シュメール発音と楔形文字と同等の言語として、古代日本語が使い分けられていたのではないでしょうか。

衆院選開票/維新、まだ死んでない

維新41議席。
まだ死んじゃいなかった。
公明党の35を上回ったことの意味は大きい。
 
 
衆院選スペシャル 朝刊早読みニュース
 
『す・またん』(12月15日)
 
辛坊治郎:
自民が290、公明が35で、両方合わすと325ですから、改選前は324でしたから、ほぼ同じ。
ただ、全体で5議席削減してますから、その中でちょい増やしたな、という感じ。
自民はちょっと下がりましたけども、公明が増えました。
維新が42から1つ減って41ですから、ほぼ変わらず。
ですから、直前の世論調査では相当負けそうで、20台とか言われてましたけど、最後、同情票が集まったのか、大阪の比例でよく票が集められてる。
大阪の票だけだと維新と自民の票はほとんど変わらない。
民主の倍くらい取れてますから、負けとまでは言えないんじゃなですか。
完全に負けたのが「生活」「次世代」。
ほとんど、なくなりましたから。
共産は大躍進です。
明らかにこれはアンチ自民の受け皿。
比例で、まだ関西では維新がありますから、受け皿があるんですが、全国的に言うと、アンチ自民・公明だと、入れるとこ、共産しかないよね、と。
民主は開戦前が62だったんですが、それが73。
だいぶ増えたんですが、海江田さん、党首が落選ということになりまして…
まあ、エライ事になってます。
ああ、渡辺喜美さんも落っこっちゃってますね。
渡辺さんは無所属ですから、そうなると比例復活できませんから。
まあ、民主の場合は、比例復活で、だいたい主だった議員は復活してるんですが、復活しなかったのが海江田さん…これ民主党、海江田さん代表辞めることになるでしょうから、早急に次を決めないといけないでしょうね。
 
 
ナレーション:
今回、近畿2府4件の小選挙区、比例選挙区合わせた77の議席中、
自民が38、公明10と、与党がおよそ、3分の2を占めました。
維新は、前回躍進した大阪府内の小選挙区で候補者が相次いで落選し、前回の22議席から、大きく議席を減らしました。
一方、民主党は伸び悩む結果になりました。
2年ぶりの師走の選挙となった大阪では、前回よりも投票率が7.7%減って、
50.67%。
有権者の関心が鈍い結果となりました)
 
 
辛坊治郎:
だって大阪の選挙区で、公明と共産しか立ってないっていうとこ…
公明も共産も嫌だっていう人はどうしたらいいんだって話でね。
 
維新は大阪で小選挙区ではかなり負けたんですが、比例で取ってて、1つ議席を減らしただけなんですが、
維新全国で比例30取ってるんですけど、これ、すごいですよ。
民主党が35ですから。
ほとんど変わらない。
アンチ自民の受け皿として、維新がいないところでは、共産に入れると。
だから、共産の大躍進と、維新が踏みとどまったのは構造としてはよく似てる。
「次世代」はほぼ消滅危機ですから。 
2つ、通ってるのもですね、平沼さんと園田さんですから。
元々が、自民党の大物議員ですから。
(当選したのは)「次世代」という党とはカンケーないですから。
それから「生活」が小沢さんと、あと沖縄で当選しました。それで2人・
社民は2つ、プラマイ・セロ。まあ、こんなもんかなと。
で、共産が沖縄で小選挙区、唯一取りました。これ重要ですね。
全国の小選挙区に候補者を立てるんですが、これが功を奏して、比例で20。
合計で21。13増ですね、大躍進です。
 
ああ、そういえば私の知り合いで言うと、中田さん、落ちちゃいましたね、横浜の。
維新の会から、「次世代」に行ったんですけどもね…
石原慎太郎さんは「次世代」、東京の比例、最下位に名簿入ってたんですが、そもそも「次世代」は一人も比例当選してませんから、石原さんはこれで引退ということになりますね。
 
これ、増減だけで見たら、自民-2、公明+4、民主+11、維新-1、次世代-17、共産+13、生活-3、社民増減なし、無所属-9…
民主が勝ってるようなんですが、やはり党首が落選という印象がね、比例ででも復活できませんでしたから。
お通夜みたいな記者会見、なってましたけども。
維新は、負けた負けたと書いてる新聞もありますけども、1つ減らしただけですからね。
そんな負けたということでもないと思うんですが。
これだけ第三極、退潮の中で…だって「次世代」なんか、マイナス17ですからね。
 
関西の比例獲得票数、見てみますとね、
自民が244万票、議席数9。
公明党123万票、議席数4。
民主党104万票、議席数4。
共産党108万票、議席数4。
 
で、維新の党220万票、議席数8。
 
受け皿としては関西では機能してるかなと…小選挙区で候補を立てれないとこもありましたけども、比例ではね。
どこまで積極的に支持されてるか、ということもありますけども。
全国の比例獲得票数見てみると…
 
自民党1765万票
公明党 731万票
民主党 977万票
共産党 606万票
維新の党 838万票
 
維新と民主、単純に一緒になれば、自民を抜く。
小選挙区では1票で勝ち負けがひっくり返りますから。
まあ、そんな簡単にはいかないんでしょうが…
 
 
結局のところ改選前と各党、ほとんど変わってないんですね。
「次世代」が大きく減らしましたけども。

ルーツ・ファンタジー/聖徳太子のファンタジー 1

転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

聖徳太子の謎

古代日本と流浪のユダヤ人

古代日本には、陸と海のシルクロードを通じて、中東、アッシリア、インドなどから多くの民が迫害を逃れ渡来している。
多くの民族を束ねるために、個別の宗教の神よりも “和を持って貴しとする” 精神により、天皇制を通じて一つにまとまった。
神社を守る二頭の狛犬ですが、一頭は一角獣でエフライムを、もう一頭はライオンでユダ族を表しており、日本はイスラエルの正統な末裔であること、神ヤハウエの民=大和民族であることを表している。

ユダヤ人の渡来の様子は下記のとおり。
(『聖書の国日本』参照)

第一波:アヌンナキの神々の民が移住してきた。

第二波:前721年アッシリアにより北イスラエル滅亡に伴い、
十支族の正当な末裔あるエフライムが渡来。

第三波:前660年神武天皇即位。
南ユダ王国滅亡を予見し、ユダヤ人・イザヤの民が日本に渡来。

第四波:前612年新バビロン建国。

前587年南ユダ王国滅亡。
ユダヤ人のバビロン捕囚。

前515年、ユダヤ人捕囚を解かれる。

第五波:後199年、トマスの原始キリスト教徒・弓月国「巧満王」が渡来。

第六波:後283年、弓月国から巧満王の子等、秦氏一族が渡来。

後538年、仏教伝来、メシア密教徒が日本に渡来。

後651年頃、秦により亡ぼされる。



(イエスの死後二年目、使徒トマスがアッシリアで伝道を行って以来、
原始キリスト教はこの地に広まり、アッシリアの人の殆どが景教徒となる)

トマスの原始キリスト教徒であるアッシリアのクン・ユエ一族が、199年に弓月国から日本に渡来します。
弓月国の王「功満」が、仲哀天皇の6年に日本の朝廷を公式訪問したと『新撰姓氏録』に記してあります。
この「弓月」は日本語では「ゆづき」とよみますが、中国では「クン・ユエ」と発音されます。

更に、第十五代応神天皇の第十四年、283年に、功満の子が大集団を率いて日本に渡来。
そして、5世紀後半の雄略天皇の時代に、18670人の人口があったと『新撰姓氏録』に記してあります。

弓月の子孫は苗字を「秦」とし、彼らの大半は養蚕と絹織物に従事し、シルクロードにおける絹の交易はユダヤ人とキリスト教徒が独占していました。
おそらく、秦氏の中にも流浪のユダヤ人が混ざっており、高度な医療技術、土木技術、他を備えた技術集団でした。

唐の時代、景教の教会は「大秦寺」と呼ばれていた。
この大秦は、ローマ帝国のアッシリア地方のことで、景教徒は異端視されて以降、キリスト教からの迫害を逃れて、流浪のユダヤ人と共にシルクロード経由で日本に渡来していると考えられる。

というのは、キリスト教は聖書の中においても自己以外の神々を認めず、イスラエル人には他の神々を偶像として破棄させていたからである。

(イエスを人類の救世主とするカソリック以外は、すべて滅ぼしてしまおうとしたのです。
キリスト教徒は、おうおうにして独善的で狭量、神には従順だが、キリスト教徒以外に対して横柄であります)

秦氏が建てた日本の大酒神社には、「太秦明神」を祀っている。
「太秦」は秦一族のメシアのことですから、(カソリックにおいては)イエスのこと。
ところが、明神とは日本古来の神々ではなく、人間として民に尽くし崇められたがゆえに神として祀られた者達を意味しており、当時の秦氏にはイエスは人間の子として認識されていたことを物語っており、原始キリスト教徒だったと結論できる。

京都・太秦の「元糺の森」には、
「蚕の社」または「木島坐天照御霊神社」があり、元糺の池には三柱鳥居が立ち、昔は年に一度、秦氏をはじめ山背の人々は、ここに来て禊を行ったという。

秦氏一族の活動の中心は京都の山城(旧名・山背、平安移行は山城)だった。
賀茂氏は秦氏一族で、皇室の祭儀に雅楽を担当し、秦氏一族から代々巫女を出している。

原始仏教には、葬儀、病気平癒などの加持祈祷は存在しない。

(これは、インドや唐において仏教が景教やキリスト教を取り込んでしまったからなのです。
内容は、薬師如来をイエスとし、観音菩薩を母マリアとするメシア化されてしまった景教・仏教で、これを密教といいます。
日本式仏教の元祖です。

秦河勝は聖徳太子の有能なブレーンで、秦一族全体が太子を支えていたと伝えられています。
聖徳太子は、仏教派として、神道派の物部氏と戦ったとされています。
その時の戦勝祈願はアロンの杖に生じた芽の物語にそっくりなのです。

更に、太子と山背王の一族は残らず、同じ仏教派の蘇我氏により殺されている。
そして、怨霊である聖徳太子を封印するために、イエスの生誕にそっくりな出生に加え、「日本仏教の教主」「仏教の聖人」として祀られている。
どうしても、聖徳太子が当時の仏教=メシア景教・密教徒だとは納得できないのです)

旧約の民・ユダヤ教国だった大和朝廷に、イエスを人間と見るトマスの原始キリスト教が秦氏一族により日本にもたらされた。

(その後、日本国内で大きな勢力を持つようになった技術者集団・秦氏の血統として聖徳太子が誕生したのではないでしょうか)

その結果、物部氏に代わり秦氏一族が皇室の祭儀を取り仕切るようになった。

その後、景教と密教が伝来し、イエスを救世主と祭り上げ、蘇我氏が、原始キリスト教一族、つまり太子と山背王一族を永遠に権力から追い出した。
これはメシア仏教が原始キリスト教を異端視したことによる争いだと推測される。
だから聖徳太子一族を根絶やしにしたのだ。

また蘇我氏の「大化の改新」以降に、
「秦」が姓を次々に変えていることが、政治的な状況を物語っている。

※アラム語、ヘブライ語の意味
「奈良」→「川」
「飛鳥」→「御住居」
「丸」→「閣下、殿様」

その後、怨霊信仰を封じる目的で、メシア仏教が日本国内で盛んになる。

ところが、善である聖徳太子を滅ぼした蘇我氏を悪とし、中臣氏(後の藤原氏)が実質的に政権を簒奪する。
新羅からの渡来人と云われている中臣氏は、日本における自己の正当性を説明するために、古事記と日本書紀を改竄し、藤原一族の政治基盤を強固にした。
イザヤの民の日本渡来を隠蔽、天照を女神とし、大国主命と神武天皇を敵対関係にし、聖徳太子を仏教の英雄に祀り上げた。
それ故、神道=ユダヤ教・原始キリスト教という認識が時代を経るに従い廃れていった。

それでは、我が世の春を謳歌した藤原氏は、何故に天皇に取ってかわろうとしなかったのだろうか。

皇室に娘を嫁がせ、荘園で私服を肥やし、まるで皇室に寄生する寄生虫のような存在だった彼らは、おそらく居留地である日本に居心地よく居留出来ればよかったのだ。
天皇に取って変われば、自らの存在が公になり、もしかしたら迫害され新羅まで逃げたように、日本でも迫害される可能性がある。

(彼らのこのやり方は、ワイマール憲法下のドイツに巣食っていた流浪のユダヤ人にそっくりなのです。
おそらく、中臣氏は流浪のユダヤ人だったのだと推測されます。
そして任那の日本府は、原始キリスト教もしくは景教徒の国だったのでしょう)

その後、藤原氏の栄華のもとで神道が廃れ、これを復活させたのが、聖武天皇と光明皇后だった。
ところが国分寺は戸籍と檀家の事務所と化してしまい形骸化してしまう。
その後、空海は「景教」を持ち帰り、最澄は「旧約聖書」を持ち帰ったといわれている。

『続日本書紀』によれば、736年景教の牧師と医師が日本に渡来。
聖武天皇より位を授けられている。
聖武天皇による「国分寺建立の詔」(741年)の一節に
「あまねく景福を求め・・・」
と有り、
さらに国分寺を「法華滅罪」の寺と呼んでいる。
つまり、景教の景福により、滅罪を行うという意味であり、光明皇后のマザーテレサ的な活躍からも景教の影響が大きかったことが伺われる。

(つまり、古代日本は、
怨霊信仰と密教、景教、ユダヤ教・原始キリスト教の三つ巴として理解されると思います)

ザビエルにより日本にキリスト教が伝えられたが、当時の日本国内では各宗派が争うことなく共存しており、政治的治安を乱すことは殆ど無かった。
ところが、唯一絶対神を崇めるキリスト教は、他の宗教を認めずその頑迷さ故に政治的な不安を生じ、個人的な宗教を禁じたのでは無く、国益を守るためにキリスト教禁止令が出された。
その後、隠れキリシタンとなった人々により、景教の礼拝や儀式と悟られないように仏教のように見せかけてしまった。
それ故、メシア密教から、景教的な要素が削除され、現在の日本式仏教=葬式仏教として生き残った。

(このように日本式仏教は、国内では単に仏教と呼ばれていますが、実は甚だ大きな変遷を受けているのです)
       


古代日本において、ローマをキリスト教国化し暗黒の中世に至ったように、日本にメシア・キリスト教を持ち込み、聖徳太子信仰から日本を一挙にキリスト教国にしようと画策したのでしょうが、皇室を崇敬する信長・秀吉により阻止されました。

次に、共産主義革命を日本に持ち込もうとしたが、日清日露戦争により阻止された。
しかし、大東亜戦争後、GHQによりキリスト教も共産主義思想までもが日本に広まり、日本国憲法を強要されてしまったのです。

◆皇室とフセイン大統領
十六菊花紋の由来
皇室の「菊の御紋」とエルサレム「ヘロデ門の紋」は同じです。
以前、イラン・イラク戦争の時、ヨーロッパの記者が、イラクのフセイン大統領の腕輪のデザインが十六菊花紋であるのを見て、大統領に
「日本の皇室の物とよく似ておりますが、何か日本と関係があるのですか?」
と聞いた。

するとフセイン大統領は、
「この紋章は、我が国の祖先が世界最古の文明を築いたシュメル王朝時代に用いていた、王家の紋章だ」
と答えたという。

十六菊花紋は、エジプトや、イスラエル、バビロンにも見られ、中近東からイスラエルにかけて用いられた王家の紋章なのです。

また、アブラハムの父のテラはシュメールの神官であり、イスラエルは正当なシュメールを引き継いでいると考えられます。
そのシュメール王族の中で、十六菊花紋を王家の文様とする王族こそ、現天上界の王家の方々だったことでしょう。

十六菊花紋を受け継いだイスラエルの正当な末裔が日本に渡来し、この紋章を天照大=ヤハウエの民の証としたのだと思います。
       

◆八咫烏
古代のシュメル人やバビロニア人は、太陽の中にある黒点を観察し、その黒点を「黒い鳥・鴉(カラス)」と解釈していた。
更に、七枝樹二神の男神側に三枝があるのは、男性性器の表現で有り、太陽神の使い八咫烏の三本足は天照大が男神であることを表現している。
加えて、三本足は古事記の基点である三柱のみ柱や、三種の神器を意味しており、八咫烏が太陽神・天照大の使いであることを意味している。
(⇒[世界最古の文字と日本の神々])。

◆金色の鳶
日本では、金色の鳶ですが、人に飼われた鳶や鷲を「鷹」と呼んでいます。

当時から、人類に王権を授けるのは月神によるとされ、二枚の羽を持つ有翼円盤をそのシンボルとしていました。
金色の鳶は、天照大(=太陽神を禅譲された月神)の使いで、王権を神武天皇に授けることを意味しています。
 
◆「稲光のような鋭い光」は護身用の目くらましだった
『古事記』には
「一羽の金色の鳶が飛んできて、神倭彦の弓矢の先に止まり、稲光のような鋭い光を発しました。
その部族の軍は、眼がくらみ戦う気力を失ってしまいました」
とある。
「金色の鳶」については、王権の授与を意味することを説明しました。
王権の印は古代シュメルの時から、
「有翼円盤」で、王権を授けるのは月神でした。
次に、
「稲光のような鋭い光」で「目がくらんだ」という箇所については、旧約聖書にも同じ事例があります。

それは、天使がソドムの地に住むロトを訪ねたときに使った武器と同じで、一時的に視力を失わせる護身用のものです。
ですから、殺傷したり怪我させたりする武器ではありません。
この物語は、神武天皇が正当な王位継承者だと云うことを伝えたものです。

ただし、当時は白村江の戦いに敗れ、唐の植民地支配を一部受け入れ、日本古来の文字や風俗を禁止され、漢字化と仏教化を強制されていました。
髪型も髭も禁止されたので、髪型も服装も替わりました。
そして、国名を「日本」に改め、唐が滅亡した後、古来の風俗が許可になったのですが、戻ることはありませんでした。

また、当時の唐は外来宗教(ユダヤ教、イスラム教、シュメルの神々…)を徹底的に弾圧していたため、王権の印を直接書くことができなかったので、このような表現になったのでしょう。

旧約聖書にあるモーセの奇跡についても、ほとんどが後世に追加されたおとぎ話です。
新約聖書の多くがおとぎ話であるのと同じです。

◆下鴨神社に注連縄で祀られている
「さざれ石」
日本神道は原始キリスト教で、イエスを人類の救世主としては認めていません。

原始キリスト教は、イエスの弟の義人ヤコブに引き継がれ、イエス・キリストを人間とし、預言者の一人と見ており、人類の救世主とはしていない。
このため、『古代日本と七大天使』のヘブライ語訳に、おかしなところが出てきています。

日本国歌
「君が代は、千代に八千代にさざれ石の巌となりて、苔のむすまで」
のヘブライ語訳を
[http://www.naritacity.com/bbs/bbs/BBSDispMessage.asp?ThreadNo=34]
から参照しました。

私たち大和民族は、ヤハウエにより、将来人類を救うと預言されているのです。
すばらしい、歌謡ではないでしょうか。
だから、このヘブライ語訳の意味を忘却しても、いずれはその使命を思い出すことができるように、神が計画されたのだと思います。

他にも、ユダヤ人は何千年も渡って、彼らの聖書を一字一句違えること無く守り続けてきました。
それは必要なときに聖書に隠された預言を公表するためでした。
同じように神ヤハウエの預言が、日本歌謡のヘブライ語訳にも隠されていたのです。

「立ち上がれ ! 神を讃えよ !
神の選民であるシオンの民は、選民として喜べ !
人類に救いが訪れ、神の予言が成就した。
全地あまねく宣べ伝えよ ! 」

君が代は、
「立ち上がって神を誉めよ!」

千代に 「シオンの民」

八千代に 「神の選民」

さざれ石の
「人類を救う残された民として喜べ!」

巌となりて、「神の証」「成就した!」

苔のむすまで 「全地に語られる」

下鴨神社HPより


■古代日本の有力氏族は渡来人だった

聖徳太子の出自と謎の人生について紹介する前に、有力氏族の出自についてまずは紹介したいと思います。

当時の日本は、海と陸のシルクロードを通じて、優れた技術を持つ多くの人種と雑多な宗教が押し寄せる人種の坩堝だった。
そして大和朝廷を構成する有力氏族のほとんどが渡来人であったのです。
まずは、有力氏族の出自から始めましょう。

◆三貴神の出自
伊邪那岐命が、左の眼を洗われると天照大神、右の眼を洗われると月読尊、鼻を洗われると須佐能尊が現れた。
そして
「天照大神は高天原を治めなさい。
月読尊は青海原を治めなさい。
須佐能尊は天下を治めなさい」
と任命されました。

この神話は、神道(原始キリスト教)での三位一体を表している。
この三貴神はそれぞれ任期制の役職をあらわし、任期ごとに神と王朝が交代する。
従って、同じ役職名・天照であっても、時代により『記紀』に記述された彼の個性が変わるのは当然なのです。

この神話の意味するところは、伊邪那岐命に代わって初代太陽神・天照が天上界を統治し、皇太子・月神は海神として人類を守護し、須佐能尊(アブラハム)に地上を任されたという意味だと思います。

関連して、天照大御神は実質的に天と地の神であるので、天照地照大御神というのが正式ではないのだろうかと、思っていました。
しかし、この神話の示すところは、天照は天上界を統治し、天上界の方針を以て神が地上に神託と王権を与えている。
だから王は神への忠誠心と共に誠実に神託を実行することを約束している。
つまり、王権神授を言い表したものにほかならないのです。

従って、天照は天と地の両方を直接統治するのではないので、人類日常の統治を任されたゆえに、天照大の呼称が正しいのだと思いました。

◆蘇我氏は月氏族
月氏族は、紀元前1475年頃、古バビロン第3王朝を築いたカッシート族(ガルズ族)とされている。
クリガルズ一世の時に最盛期を向かえ、彼らは自らを「世界の王」と称した。

紀元前1225年、カッシート王がアッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ4世に敗れアッシリアに連れ去られる。
やがてアダト・シュマ・ウツ(アダト、月神、日神)の下でバビロニアは再び自立したが、彼の死後もアッシリアと国境紛争が続いた。

紀元前1160年頃、エラム王の攻撃を受けてバビロンが陥落し、バビロンに祀られていたマルドウクの神像をはじめ、ハンムラビ法典等多くの財宝がスサに持ち去られた。

古バビロニアの民は月神とマルドウクを信仰しており、彼らはバビロニア滅亡とともに、中央アジアに逃れ月神の王国という意味で「月氏国」を建国した。
加えて、新バビロニアの滅亡時、月神信仰が再び盛んになり、同じ月神を信じる「月氏国」へ逃れたことでしょう。
つまり「月氏国」には、タルムード・ユダヤ人、バビロン人が混在し、加えて遊牧騎馬民族と合体した。
彼らの宗教は、タルムード・ユダヤ教、月神信仰に加え、後に原始キリスト教/景教/仏教/ゾロアスター教/ミトラ教/弥勒信仰までもが混交してしまった。

結局、彼らの多くはメシア仏教徒であり、シルクロードを経由して日本に渡来している。

尚、八岐大蛇物語で須佐能尊が、出雲と吉備を平定し、須賀(蘇我)の地を定めた。
この須賀の地に、蘇我氏は入植して蘇我と名乗った。

彼ら渡来人はバビロニアの神と都市神を中心とする中央集権的な社会システム、「都市神と元号・王侯・貴族・神官・工人・農民・奴隷」
「ハムラビ法典」
などを熟知していたとしても不思議ではない。
この部民制度が飛鳥時代=蘇我王朝の基盤、
即ち大和朝廷は有力豪族の連合政権として確立されたのです。

◆倭人は鉄器で武装していた
倭人とは東夷の一派であるが、「夷」は「鉄」のことで、八岐大蛇伝説以外にも、倭人は鉄の民族だったことが分かる。

日本列島には遅くとも七世紀に北九州に製鉄所があった。
坂田武彦 九州大学教授は、国東半島での製鉄遺跡から前695年プラスマイナス40年の木炭を発掘し、縄文時代における製鉄文化の立証した。
国東半島に2~3万トンの鉄滓があり、古代としては世界一の規模で製鉄が行われていたと推定している。
だから、製鉄の民ヒッタイト人を乗せたソロモンのタルシン船が、この地まで往来していたと推測される。
(『日本ユダヤ王朝の謎』 P53)

ソロモン王朝が栄えたのは、彼の母は鉄の民・ヒッタイトで、ヒッタイトの製鉄技術を最大限に利用したからだ。
ヒッタイト人をタルシン船で現地に送り、そこで鉄を生成し、貴金属や特産物と交換し、ソロモン宮殿に持ち帰ってきていたのだ。

◆あすか(明日香、飛鳥)
明日香は、シュメル語、バビロニア語
「50(イ・シュア)・風(カバラン)」
→「(アス)・(カ)」に転じた。
蘇我馬子の石舞台には、巨大な石に2m大の剣を持つ風神アネモス像が刻まれている。
つまり、蘇我氏は北伝風神系である。
風神アネモスはクトリアからの伝来で有り、巨大な石を使うのはペルシャ人の技術でなので、拝火教の影響もあると思われる。
尚、拝火教はヤハウエと七大天使が出現している。

◆巨大な「階段ピラミッド」の方墳…
蘇我稲目か「都塚古墳」
産経新聞 2014/08/13

奈良県明日香村にある飛鳥時代初期(6世紀後半)の都塚(みやこづか)古墳が、全体が階段ピラミッド状の東西約41メートル、南北約42メートルの国内に例がない階段ピラミッド状と判明。
現場は蘇我氏の拠点地域で、古代朝廷の実力者・蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳に近いことなどから、専門家は「馬子の父で、蘇我氏の権勢の基礎を築いた蘇我稲目の墓の可能性が極めて高い」としている。

都塚古墳は全長12メートル以上の横穴式石室を持ち、内部に凝灰岩のくり抜き式家形石棺(長さ約 2.2メートル)が収められている。
これまで墳形は不明で、一辺約28メートルの方墳などと推定されていた。

1段目は幅約6メートルのテラス状。
その上に幅約1メートル、高さ約30~60ンチの石積みの階段が4段以上続き、8段以上あったとみられる。
石は拳から人頭大の川原石で、古墳の高さは7メートル以上と推定される。
北側には周濠跡も見つかった。

国内では岡山県真庭市の大谷1号墳(飛鳥時代)が5段築成の方墳として知られるが、都塚古墳とはやや異なる。
高句麗の王陵「将軍塚古墳」(4~5世紀、高さ約13メートル)は階段ピラミッド状で、百済の古墳にも似た形があることから、古代朝鮮がルーツとの見方もある。

都塚古墳は、馬子の墓との説が強い石舞台古墳(一辺約50メートルの方墳…これもピラミッドだった可能性もある)の南東約400メートルに位置。
石舞台古墳そばの島庄遺跡からは蘇我氏の邸宅跡とされる大型建物跡も見つかっており、周辺は蘇我氏の拠点とされる。

日本書紀によれば、6世紀に活躍した蘇我氏の実力者は馬子の父、稲目。
欽明天皇の時代に政権ナンバー2の大臣をつとめ、百済から伝えられた仏教を崇拝。
自分の娘3人を天皇に嫁がせ、その後馬子、蝦夷、入鹿と3代続く蘇我氏の権勢の基礎を築いた。

日本書紀によると、稲目は宣化元(536)年、天皇を補佐する大臣に就任。
欽明天皇に再任され、吉備(現在の岡山県)に天皇の直轄領の屯倉を選定するなど31年にわたって支えた。

その中で、稲目は堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねきみ)の2人の娘を欽明の妃に送り込む。
2人が生んだ子供(皇子と皇女)は計18人で、その中から用明、崇峻、推古の3天皇が誕生。
天皇家との姻戚関係はその後、馬子--入鹿と、計4代続き、古代朝廷での蘇我氏の権力を揺るぎないものにした。

※蘇我氏一族は、天皇に代わり日本を支配しようとし、天帝(ヤハウエ)を祀る祭事を行ったとされています。
推測として、かつてはピラミッドの最上段にある神を迎えるための社で、遠い遠い古バビロニア風のしきたりで祭事を執り行ったのでしょう。
   
   
◆出雲王国、吉備王国:
北イスラエル人第二波:
前721年アッシリアにより北イスラエル滅亡、これに伴い、十支族の正当な末裔あるエフライムが渡来。

◆物部氏:イザヤの民:ユダヤ人
第三波:前660年神武天皇即位。
南ユダ王国滅亡を予見し、ユダヤ人・イザヤの民が日本に渡来。

◆秦氏は弓月君の民
弓月は三日月のことで、ペルシャ地方のことを指している。
このアッシリアの原始キリスト教徒が、キリスト教から迫害を受け、「弓月君」を建国。

シルクロードを通じて、秦氏として日本に渡来した。
また秦氏は海人であり、宗像大社の祖神でもある。
後には、キリスト教の迫害を受け、ユダヤ教徒や景教徒と合流する。
更に、唐末期には景教が迫害を受け、日本に帰化する。



第五波:後199年、トマスの原始キリスト教徒・弓月国「巧満王」が渡来。

第六波:後283年、応神天皇の時、弓月国から巧満王の子等、秦氏一族が渡来。

後538年、仏教伝来、メシア密教徒が日本に渡来。

後651年頃、弓月国が秦により亡ぼされ、景教徒が渡来する。

◇藤原氏:流浪のユダヤ人
キリスト教に迫害を受け、ユダヤ教徒,タルムード・ユダヤ人は、原始キリスト教徒、景教徒と共に日本に渡来する。

天皇にとってかわろうとする蘇我氏に対し、敵の敵は味方とし、物部氏・秦氏は藤原氏を支援し、蘇我入鹿一族を滅ぼした。
そして、天皇制を原始キリスト教・ユダヤ教に戻そうとして、大化の改新を断行した。
(『太古日本の王は世界を治めた!』より)

◆ 福井県鳥浜遺跡から、エジプトテーベ朝(第十八王朝)の女王が身につけていた
櫛とそっくりな櫛が出土している。
他にも、西アフリカのナイジェリアやガーナにしか自生しない ”ひょうたん” の種子が大量に出土している。
また、インド原産の”緑豆”の種子もたくさん見つかっている。

◆中尊寺のミイラ
中尊寺に祀られている奥州藤原家三代のミイラは、アイヌの秘法に従って作られたが、六重の棺に遺体を納めたその葬法は、かの黄金のマスクで有名なエジプトの葬法とまったく同じだ。

◆天皇制と皇帝制
日本に渡来した有力氏族は、中国を経由している。
ですから、彼らはバビロニアの都市神による統治と同じ「有力豪族による連合」「部民制」をもって、中国内で様々な国を建国し、日本でも建国した。
しかし最初は同じ政治基盤だったのが、日本では天皇制に移行し、中国では皇帝制に移行した。
何が違ったのだろうか。

「部民制」から天皇制への移行は、
“和の精神”/“アヌンナキ・ユダヤ式の万世一系” を取り入れ、大化の改新を断行した。
一方、シナの場合、皇帝を地上の唯一の統治者とし、民の声に耳を傾けず、官僚と儒教は皇帝のみに仕えるための政治システムとして、皇帝とその一族が利用した。
また、皇帝の交代については、易姓革命を正統とし、基本的に武力革命という骨肉相食む暴力によるものだ。
つまり、彼らは神の叡智に救いを求めず、自らが作り出しす政治に救いを見いだそうとしたのだ。
それは、軍事大国の脅威に怯えるモーセの民が、神に自分たちを保護してくれる王を求めた、その姿に似ている。
その時神は、
あなたたちは神よりも王を信じ従うようになるだろう、
と警告し、民族が神から離れ瓦解することをも伝えられていた。

日本と共産中国の決定的な違いは、日本の場合、バビロニアの制度に加え、原始キリスト教を基盤としたところにある。

結局、古代シュメルからのアヌンナキの統治/古バビロニアの統治/原始キリスト教の思想が、
つまり神々の導きにより渾然一体となり「君臣一体の統治」=「天皇制」=「大和魂」へと発展したのだと思います。
つまり、ユダヤ人モルデカイ・モーゼが彼らの理想とした王国が日本に建国されたのです。

中国は皇帝制から、共産主義に移行したのは残念だった。
しかし、皇帝制と共産主義は、共に神が存在しないというだけではなく、非常に似ているのです。
共産主義理論は奪うことだけを強制し、与え分配することを教えなかった。
同じように、皇帝制には原始キリスト教が欠けていたのです。

西洋ではメシア・キリスト教から暗黒時代を迎え、キリスト教者以外を家畜のように奴隷として平然としていた。
そして君主のあまりの圧政ゆえに、ジョン・ロックが否定した民主主義が誕生したが、キリスト教の悪魔性から抜けだせず、神の子を殺した罪悪感から悪魔教を崇拝し、共産主義を人類にもたらした。

何が足りなかったのか、
それは“和の精神”である。

だから古代日本から戦前までの日本は天皇制ゆえに、「メシア・キリスト教」と「共産主義」を排除していたのです。

つまりは、善と悪の闘いの最終局面『最後の審判』もまた、必然的に日本へと移動して来たのだと思います。

◆太子時代の氏族制度は、モーセの民の職業氏族だった
《氏族制度は、土地・人民の所有組織と、職業集団である「部曲」で構成されていた。
天皇直轄地には屯倉があり、耕作を担当するのが田部、屯倉の管理者が屯倉首、税を司るのが田部連、鍬丁という農業労働者を管理し、その戸籍を司るのが白猪史であった。

部曲や品部は職業集団で血縁集団では無いが、職業を世襲とする血縁集団化する。
職業や職務を有する団体、
中臣部、忌部、物部・弓削部・玉造部。

特別の種族や人民で構成された部、
蝦夷の佐伯部、帰化人の史部と服部、海部。

特定の人のための団体、
御子代部、御名代部。

合計十二氏族だ。

日本人は元来姓が無かったと思われる。
やがてこの職業そのものが姓になっていく。
たとえば地方長官の国造・県主は和気・君・稲置・村主等の姓となり、また職業・技術・地名等も姓となった。

次にこれを略記すれば、職業・技術=中臣(部と君との間をとりもって祭祀を行う)、忌部(清めを行う)、久米(兵士)、物部(兵器)、などでさらに水取・服部・衣縫・掃部・土師・車持・弓削・石作・玉作等々がある。

土地の名によるもの=蒲生・葛城・高位等、
また帰化人はその出身地を名とする、秦・呉・狛等。

中央の朝廷にはこの種の部が数多くあり、その長が姓を有し、その仕事は世襲であった。
日本人の姓が何によって生じたかといえば大体、以上がその起源だが、その姓が今まで継承されているわけでは無い。
日本では養子が自由だからだ。
元来は、苗字と姓は同じでは無く、分家に対する称号で、たとえば藤原家が近衛・一条・二条・九条・鷹司等の苗字を持つようなもの、
この場合、正確に言えば「姓は藤原、苗字は近衛」となるが、しだいに苗字が姓の代わりになってしまう。
そして武家時代になると各人勝手に姓を名乗るようになった。

まったく、彷徨中のモーセの民(十二氏族と司祭)と全く同じ構成なのです。
ただ、彼ら十二支族は十分の一税を司祭氏族に納めていたのだが、これもまた皇室直轄の屯倉だと思えば納得できるのです。

しかも、ユダヤ人も皇室同様に姓が無かった。》
(『日本人とは何か』より抜粋)

そして、モーセの民はイスラエル王国を建国し、彷徨の氏族製を脱却し国家を持つまでに社会制度が充実しました。
これに対応するのが、大化の改新の律令制度です。
さらに、イスラエル王国に対するローマ帝国が、大和国に対する元・唐に対応するように思えて仕方がありません。
しかし、イスラエル王国は神よりも王を求めた結果でしたが、大和朝廷・日本国は天皇を君主とする立憲国家でした。
この点が大きく異なっているのです。

◆『日本式律令制=神話継承の律令制』
~ 日本の律令制は唐の律令制と根本的に違う ~
大宝律令は、中国と違って、神祇官と太政官が、天皇の下にあり、しかも天皇直轄の神祇官が太政官の上位の形で並存していた。
この太政官が後に武士に代わり、幕府体制となる。

隋唐以降のシナは、神にではなく政治に救済を求めた。
だから、日本の神祇官が政治の下位に来ている。

卑弥呼(日巫女)、天照の本名はオオヒルメムチ=太陽の妻(神妻)であり、ほぼ同じ意味となる。
つまり、古代日本の時から、太陽神を主神として祀ってきた。
そこに救いを求めていたのだが、モーセの民がイスラエル国家を建国したように、国家としての体裁を整える必要があった。
そこで、神を祀るに相応しい律令制を導入したのです。
そして、神道の神を祀る国家として樹立した。

さらに、神祇官は神道を、太政官は日本式儒教・日本式仏教・日本式景教・道教を取り入れ、護国を祈願した。
その結果、神道と日本式仏教が互いに影響し合い、律令よりも貞永式目に価値を置き、政治の世界には民主主義の基本ができあがったのである。
ちなみ、シナの律令制では民主主義は永久に生まれない。

◆付録.神道についての補足説明
『神道行法の本』から神道について抜粋しながら、神道の「禊ぎ」と「祓い」について説明します。

伊勢神宮で最も重要とされている6月の神嘗祭、12月の月次祭では、今も「生ける神」(旧約聖書に多々言及されています)に仕えるようにして、心御柱に食事を献る秘儀が行われている。
また、実際に衣服を神に献じる神衣祭は、神に新しい衣を捧げ神意のあらわれを祈る。
さまざまな神社で行われているが、もっとも有名なのは、旧暦4月と9月に行われる伊勢神宮の神衣祭です。
この伊勢神宮の神事は、伊勢神宮をアルカディアとみなせば、先生が神々に食事と衣服を献じて居られるそのお姿と重なってしまいます。

禊ぎは、自らの意思で海や瀬に入り身を清め、穢れを除くこと。
近代の禊ぎは、大分県の宇佐に1862年に生まれた川面が、宇佐八万の奥の院で出会ったという697歳の蓮池貞澄仙人から、仏教伝来以前の日本最古の神道の禊ぎを直授されたという。

この禊ぎによると、
「禊ぎとは霊注ぎなり、水を注ぐが如く神の霊を我の霊に注ぎ入れるのである。
『そぎ』とは祓い残りのある咎と罪を、神の霊にてそぎ去り、削り去ることを意味する」
とのこと。

水でパブステマを与えたヨハネと、使徒に神の霊を注いだイエス様のパブステマに酷似していると云うよりも、そのものだと思います。
ただし、この神道の禊ぎについては、霊的境地に達するために行う呼吸法と作法が、重要視されています。

罪を除くための祓え。
罪や穢れを祓う行事としては、
「茅の環くぐり」がある。
これは、人形に息を吹きかけて、自分の体内の罪と穢れを人形に移し、身代わりとすることである。
ユダヤ人が子羊を祭壇に捧げるのと同じ意味があると思います。

皇室では、延喜5年(905年)から延長5年(927年)にかけて当時の法令集延喜式』が編纂され、その中に、大嘗祭や、大解除(おおはらえ)などの重要な祝詞が収録されている。

大解除の祭儀は、天皇や社会に穢れによる問題が起きたときのみ、不定期に行われていた。
明治に入って再興され、今では年二回、千数百年前の原形をとどめている祝詞が唱えられている。
この祝詞は、神話を物語にして唱えるものであるが、天津神が授けたきわめて効力の高い祓いの祝詞については、軽々に口に出してはならないので秘密にされている。

この祝詞の本書の説明の中で、スサノオ命がイエスそっくりの救世主として登場しているので、そのまま紹介します。

「スサノオ尊は天津神の大罪を犯して高天原を追われ、その後世界各地を彷徨って浄化の道程をたどる。
そして最後は大海原と根の国、底の国の支配者となった。
いわば神の身のまま地獄に堕ちたということになるのだが、それは、人々の罪と穢れを一身に引き受けるという必然的な使命があったためだ。」

「『日本書紀』によれば、祓柱となって人々の罪と穢れを一身に背負ったスサノオ尊は、その罪により髪を抜かれ、手足の爪を剥がされて贖ったとある。
苦難の末に贖罪を果たす須佐良比羊の姿が重なる。」

と述べられています。
スサノオ尊は、アブラハムなので、罪を犯して彷徨ったり、黄泉の支配者になったことはありません。
このスサノオ尊の贖罪を読んで連想するのは、マルドゥクが無実の罪で彷徨い、アメン・ラーとなりエンキの支配領地「大海原と根の国、底の国」を引き継いだこと。
そして、人々の罪と穢れを一身に引き受けられたイエスです。

おそらく、スサノオ=救世主を望むサタン・ダビデが、太陽神の復活としてのアメン・ラーと、人類の贖罪としてのイエス様の復活のイメージを、救世主としてのスサノオに定着させてしまったのだと思われます。
これもサタン・ダビデの謀略の一つでしょう。

◆付録.呪詛
具体的な呪詛が、『記紀』に下記のように記述されています。
また、インドでも密教でも多く呪詛が出てきます。
これは、孔雀王伝説では、魔王の兄弟で、弟が光の化身となり姉の魔王を滅ぼす物語で、拝火教の物語をねじ曲げて密教に取り入れたものだと思います。
つまり、スサノオ命が姉の天照大神が支配する高天原で乱暴する物語にも似ており、光の化身がサタン・ダビデだとという意味だと思います。

「応神天皇の時、イヅツラシトメ神(女神)に求婚した兄は失敗した。
兄は弟が女神への求婚に成功すれば、産物を与えると賭をした。
弟は賭に勝ったが、兄は約束を守らなかった。
兄弟の母親は、神の世界と人間の世界を比較して、人の世となって約束を履行しなくなったと、兄を呪詛した。」

また、
「ヒッタイトの楔形文字の一つに『ヒッタイト法典』がありますが、そのなかでは、
『蛇を使って呪術を行ったものは死刑にする』と書かれています」
(古代出雲と大和朝廷の謎 P220)
とあり、中近東文化センターでの話しの記述があります。
他にはモーセ様の銅の蛇、龍信仰など、このような蛇信仰が世界各地に残されています。

三輪山の神もまた、蛇です。
『日本書紀』の「崇神記」には、三輪山の神と結婚した百襲姫が神の姿を見たいと望んだところ、櫛の箱の中には美しい小さな蛇が入っていた。
これを見て姫は驚いた。
蛇は恥をかかされたと思い、姫を殺してしまう。
「雄略記」には、神の姿を見たいと望んだ天皇は、三輪山から大蛇を捕まえてよこさせた。
ところが、蛇の眼光があまりにも強いので、天皇は恐れ、蛇を戻したという。
大物主神の正体は蛇で、出雲大社もまた古くから蛇信仰で知られているとのこと。
(古代出雲と大和朝廷の謎 P119)

大物主神は出雲神社の神であり、出雲王国を建国したニギハヤヒ命は、同じ青銅器文明を持つ殷帝国を建国したと推測されます。
殷帝国の時代、甲骨文字で亡き先王が王に祟りをしたかどうか占ったことが残っています。
つまり、ニギハヤヒ尊=ヤコブの兄の時代から呪いが恐れられていた。
やはり、旧約聖書のノアの呪いが根本にあるのかも知れません。

このような呪詛はサタン・ダビデが人類に与えたものだと思われますが、日本では、密教・道教の伝来と共に影響が大きくなります。

本筋からは逸れますが、呪詛や呪術について少し説明します。
神道の日本に、個人の利益を願う、利己的な現世利益と、密教の呪詛、道教の呪詛、陰陽道の呪詛などが混合されてしまいました。
この結果、霊を自分に憑依させ、この霊の力により個人の利益を成就させようとする呪詛や呪術、祝詞などの言霊による呪術が生まれました。
その中で、四国の物部村には陰陽道の流れをくむ血統があり、呪術で悪霊を集めるという。
(『呪術の本』より)

また、キリスト教の教会側が冨と権力を求め、悪魔とその配下を創造し、免罪符や魔女狩りを行った時代がありました。

例えば、
「教会は、ギリシャ神話の牧神パンを悪魔像のモデルに選んだ。
上半身が人間で、ヤギの角・蹄・脚をもつパンは豊饒多産の神で、神霊といった神話の創造物が地上で仲良く暮らせるよう導く神でもあった。
パンが笛を吹くと、森や牧場に魔法の音楽があふれると信じられていた。
…特に紀元1000年頃から、つまり、教会が恐ろしい悪魔の肖像を公認した時期から、パンはサタン像のモデルにされ、パニックを引き起こした。」
(『キリスト教暗黒の裏面史 P181-182』より抜粋)

これらは、サタン・ダビデが私利私欲を願う人間の心を誘導し、利用して、死後に魔界を作り、地上に悪魔の王国を建国しようとしたのだと思います。


■大和朝廷と九州王朝

三世紀あたりからすでにユダヤ教国であった日本に、シルクロードを経由して、中国、朝鮮、海路を通じて、多くの種族が渡来した。
各種族ごとに王国を建国(例えば、九州・近畿などに「秦王国」「丹波王国」「飛鳥王国」。他にも秦氏の越王国)し、
これの連合国として「合議制、氏族制」を持ち越して、大和朝廷が成立します。

しかし、九州には秦王国の他に日本書紀では熊襲王国、北にはアイヌ、他にもまだ大和朝廷に参加しない王国も多くあった。

九州王朝・倭国(熊襲王国)については、1世紀には後漢洪武帝から倭国に「漢委奴国王」、三世紀の邪馬台国は魏から「親魏倭王」の称号を得ており、宋書には5世紀頃の倭の五王についての記述がみられる。

九州王朝の存在についての前置きはこのくらいにして、仲哀天皇は神託を信用せずに神の呪いにより亡くなる。

(神託を信用しないくらいで殺してしまうのは、善神ではない。
これは神を装ったサタンの仕業である)

神功皇后は、仲哀天皇の子ではなく、住吉大神、即ち武内宿禰の子を九州で出産し、応神天皇として即位させた。
住吉大伸は海神であり、武内宿禰は九州の秦王国の王であったと推測される。
この時、近畿の大和に対し、九州王朝が出兵して対峙したと推測されます。

この九州王朝軍が「水沼一族」=「秦王国」だったのだと思います。

その後、日本書紀には、武烈天皇を暴君に仕立て、後継者が居なかったゆえに、大連・大伴金村らは越前に赴いて、武烈天皇とは血縁の薄い男大迹王(おおどのおおきみ)をヤマト王権の大王に推挙したと、強引な理由をつけている。

これを承諾した王は、翌年58歳にして即位し、元々の妻以外に、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后としたとある。

しかし、順風満帆ではなかった。
継体天皇は即位19年後の526年にようやっと、大倭(後の大和国のことで、倭国王をまとめる大王の統治する国)に都を定めることができた。

その直後に百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったが、新羅と結んだ磐井によって九州北部で磐井の乱が勃発し、平定に数年を要している。

何故、武烈天皇を暴君に仕立て、大和王権と疎遠の “男大迹王” を、強引に引きずり出したのだろうか。
磐井の乱に見るように、渡来してきた大和朝廷を形成する豪族内で不協和音があり、これを抑えられなくなったのではないだろうか。
それ故、越の秦王国(越前,越中,越後)を統率する大王である “男大迹王” により、この混乱を収集しようとしたのだと推測される。

九州の倭国を平定するために、『筑後国風土記』によれば筑紫君磐井王を突然襲い殺そうとしたが、筑後の方に逃げ延びたとある。
つまり、九州の秦王国に逃げ延びたのだから、以後の倭国は秦王国の影響が強くなる。

◆九州の秦王国について
磐井の乱よりも80年ほど後、『隋書』に六〇七年、国王多利思北孤が使者を遣わしたとある。
更に、九州王朝は、筑紫国から東に「秦王国」に行き十余国を経て海岸に到着するとある。
九州王朝・倭は磐井の乱後急速に衰えていったが、秦王国と共に命脈を保っていたと考えられ、筑紫国の都は現在では筑前の太宰府一帯のことだ。

178年(14代):仲哀天皇即位
270年(15代):応神天皇即位
506年(25代):武烈天皇崩御
507年(26代):継体天皇即位

男大迹王は越前地方を統治していた。

527年:磐井の乱
531年:皇子の安閑天皇に譲位、同日崩御。
592年:馬子、崇峻天皇暗殺。

推古天皇即位、太子摂政へ。

603年:冠位十二階を制定。
604年:十七条憲法を制定。
620年:太子と馬子は『天皇記』『国記』を献上。
622年:太子が49歳で死去。

次の年に法皇死去。

643年:蘇我入鹿により、山背大兄王一族が滅亡。
645年:乙巳の変、蘇我入鹿を暗殺。

大化の改新:孝徳天皇即位し、中央集権的な改革を断行。

663年:白村江の戦い
668年:天智天皇即位
672年:壬申の乱
673年:天武天皇即位
682年:日本の歴史の編纂を命じる。
712年:古事記完成
720年:日本書紀完成

ルーツ・ファンタジー/聖徳太子のファンタジー 2

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『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

聖徳太子の謎

■聖徳太子の出自と謎解き

太子は蘇我馬子と共に物部守谷を滅ぼす。
その後、太子は秦河勝と共に、天皇(この当時は天皇の称号はなく、大王と呼ばれていた)の元での中央集権的な政治改革を断行して、外国からの迫害を跳ね返すだけの強力な独立国家を目指した。
それには、各部族の出自と宗教を超えて、話し合いによる合議を大切にする和の精神が大切だった。
それ故、冠位十二階、十七条憲法を制定した。

一方、馬子は吉備王国、出雲王国を制圧し、大和朝廷の支配を拡大した。
大和朝廷への貢献大成る聖徳太子、母親は蘇我氏だというのに、蘇我氏はなぜ即位させなかったのか?
もし太子が即位すれば蘇我氏の権勢はさらに大きくなったはず。
さらに不可解なことに、一族までをも皆殺しにしてしまったのか?

この謎を解くきっかけとなったのは、天智・天武の両名は同母兄弟であると『記紀』に記載があるにもかかわらず、兄 天智よりも弟 天武の方が年上だという事実、
加えて天武が九州の倭国天皇の次男だったという事が『天武天皇と九州王朝』に明かされていたからです。

孝徳天皇元年の改革に、私有財産の廃止の他に、
“倭国の六県では戸籍を作成し” とあり、この表現は、倭国が大和朝廷の連合国であることを表している。
おそらく、磐井の乱以後から、有力豪族である倭国の長男、もしくは次男を大和朝廷に召し出していた。
だから、倭国王の御子・天武天皇は大和朝廷に仕えていたのだと推測できるのです。

聖徳太子の場合、日本書紀に “上宮太子” と記載され、法隆寺釈迦三尊像には “上宮法皇” と記載されている。
ちなみに、法隆寺釈迦三尊像には「元嘉暦」が使われているが、当時「元嘉暦」を使用していたのは倭国である。
大和朝廷では使用していない。
このことから、“上宮太子” =聖徳太子は、“上宮法皇” =倭国大王の皇太子だと言うことが分かる。

『聖徳太子の謎と出自』に関し、
概略のお話がありましたので、紹介致します。

《私達『弓月族』は、秦国とローマの迫害から逃れ、小国ではありますが希望の国へと、古代日本に大挙して渡来してきました。
この国の基盤を強固なものにすることを望み、それは亡国の憂き目を二度と見ないようにする為、大和国に中央集権的な国政を導入しようとしたのです。

私達一族は、もてる技術、財産、人材の全てで支援しました。
その課程で、要職を占めるようにもなりました。
(皇室の儀式の音楽や政権への参画他)

しかし、他の有力氏族たちは、大陸の事情も知らずに、この改革(天皇を中心とする理想の王国、当時の近代国家へと変貌を遂げる試み)を、妨害しようとしたのです。
メシア仏教の蘇我一族の力を借りて!

多くの血が流され、一時、聖徳太子の改革は廃れました。
聖徳太子とは、これら一連の改革のことを言うのです。

そのように改竄されてしまいました。

つまり、私達秦一族(原始キリスト教徒)の行った改革を、なきものとしようとしたのです。
聖徳太子とは、ユダヤ教と原始キリスト教の手による一連の政治改革のことを指しているのです。
その改革は、大友皇子=蘇我、大海人皇子=秦へと繋がってゆきます。
その過程で、皇室にとってかわろうとした蘇我氏を滅ぼそうと、藤原氏を私達は支援し、また一部はその一族の中に入り込み、改革を断行しようとしました。
その気持ちは、聖徳太子の随への “日出ずる国の天子云々” の気概そのままだったのです。

聖徳太子一族、山背王の一族の虐殺は、原始キリスト教徒として、理想の王国への改革、ローマ,随,唐などの諸外国の圧力を跳ね返すだけの国造りのための改革が、阻止されたことを意味しているのです。》


◆ “日出ずる国の天子云々”
『隋書倭国伝』には、第一回遣隋使派遣(日本書紀に記述がない。九州王朝の記録だからだ)に関して、次のような記述がある。

《開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩鶏彌(おおきみ)と号す、使を遣して闕(みや)に詣る。
上、所司に其の風俗を訪わしむ。

使者言う
「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。
天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺(あぐら)して座し、日出ずれば便ち理務(つとめ)を停め、云う、我弟に委ねん」と。

高祖曰く
「これ太いに義理無し」と。

是に於て訓して之を改めしむ。
王の妻、彌(きみ)と号す。

後宮に女六、七百人有り。

太子は名を和歌彌多弗利(わかみたほり)と為す。

倭王が「天足彦大皇」であれば、
九州の数カ国を統治する大王である。

日本書紀の孝昭天皇の子に天足彦国押人命(ワニの臣らの祖先)、
日本足彦国押人尊(孝安天皇)とある。

九州王朝は海神であり、ワニ臣も海神であり合致する。
もしかして、九州王朝では「天足彦」の称号を代々踏襲していたのかもしれない。

◆太子の本名!?
太子のことを厩戸の王子というのは、メシア景教徒が迫害を逃れ日本に渡来し、太子を偶像化してしまった結果の名前だと思います。
似たような話ですが、イエス・キリストも本名を知られていません。
神武天皇の場合、事実は九州王朝の次男です。
が、『記紀』には、近畿王朝において、天智天皇が長男、天武天皇は次男とされました。
次男という点に関しては、『記紀』は正確に記述しています。

だとすれば、「太子は名を(わかみたほり)」とあります。
これが本名ではないでしょうか。
皇統につながる御子という意味との説もあります。
ちなみに、次男の牛若丸を分解すると、牛=エフライム族、丸=王の意味ですから、若は長男と比べ次男という意味でしょう。
ですから、
「わかみたほり」は、次男の日継御子という意味ではないでしょうか。

◆聖徳太子の字の由来
「聖徳太子」とは、死後に送られた諡おくりなですから、本名ではありません。
「聖」「徳」が付くのは、無実の罪で殺された人物の怨霊封じの為です。

また、「厩戸皇子」の物語は、キリストの意味を込めて付けられた。
メシア・キリスト教はローマ帝国を支配したが、聖徳太子信仰は日本の国教とはなり得ず、皇室の伝統は守られました。

◆スサノオは代々渡来した
余談ですが、スサノオがスサ国の王であれば、代替わりする。
つまり、時代時代に応じて個性も人物伝も異なる。
おそらく、スサノオは数代にわたり日本に渡来してきたのだと思います。

◆倭国人の近畿への移動
天智天皇(葛城皇子)は蘇我氏系、天武天皇(大海人皇子)は秦氏系です。

白村江の戦いに敗れ、唐に乗り込まれた九州の倭国を離れ、天武天皇を含む多くの倭国人が近畿に移動した。
その時、倭国の宝物や仏像他をも移動させた。
太子象とされている弥勒菩薩像も持ち出されたのでしょう。

◆原始キリスト教の説明
原始キリスト教は、ユダヤ教の一種でイエスを人類の救世主とはみなしていません。
洗礼者ヨハネに洗礼を受けた弟子として、師匠の教えの多くを述べ伝えた者とみなしている。
ですから、現在の偶像化されたキリスト教について、何処偶像で、何処が誤りなのかを指摘し説明できるのです。

同じく、本当の太子を知り、どこが偶像なのか、どこが誤りなのかを指摘できる一族がいます。
そして彼らは、迫害され “とかなくしす” を残したのでしょう。
 
 

■聖徳太子の偶像と古代日本の隠蔽工作

イエス同様、聖徳太子もまた、史実とは全く異なるように偶像化されてしまいました。
聖徳太子とその父 大王は、原始キリスト教徒の理想を掲げ政治改革の断行を進めた。
これを原始キリスト教徒である秦一族が全面的にバックアップしました。

ところが現在の聖徳太子はメシア仏教の教皇で、政治改革を行った天才として伝えられています。
このように太子がイエスやモーセと同じように偶像化されてしまったのは、白村江の戦いで大和朝廷が唐・新羅連合軍に敗れ、唐の植民地支配を受け入れたことによるものです。

その時、占領軍は大宰府に駐屯し、漢字化と中国化を強要され、国史『記紀』を漢字で書いて唐に提出した。
しかも、唐末期に至ると、これまで景教を擁護していたにもかかわらず、景教への厳しい弾圧と迫害が行われ、原始キリスト教徒、ユダヤ教徒、景教徒が日本に大挙して帰化した。
一度はメシア仏教派の蘇我氏を滅ぼしたものの、彼ら及びシナ留学組(遣隋使・遣唐使)により、再びメシア仏教が日本に持ち込まれ、強制的に入り込んできたのです。

皇室並びに秦氏が原始キリスト教でありヤハウエを祀っている事、ユダヤ教徒である事などが、唐側に明らかになれば、唐の属国としての大和朝廷は景教弾圧の余波を受け、亡ぼされてしまていたことでしょう。
そこで、今後のことも含め、外国からの干渉や迫害を極力避けるために、歴史の隠蔽を止むを得ず行ったのでしょう。

①.ヤハウエである天照大神を、日本土着の女神(大明神)とした。

②.皇室を万世一系とした。
歴史は改竄されたが、易姓革命、王朝並立による国内荒廃を避けることができた。
ただし、皇統が男子男系として引き継がれるのは、アヌンナキからの正式な仕切りであり、元に戻そうとしたとも言えるのです。

③.おそらく各氏族間の共用語としてアラム語が使われていたと思われますが、これを止めアラム語を漢字化して隠蔽した。

④.藤原氏が摂政として皇室に寄生する形に改竄した。

a.聖徳太子を唐が認めるメシア仏教の偉大な導入者として英雄視する。
シュメル王朝はアヌンナキの慣習を引き継ぎ、各王朝ごとに年号を定め、異母妹との長子を皇太子とした。
更に、シュメルの神々は、彼らの中心地としての都市があり、王・神官・部人・工人・農人・奴隷等の身分制度があった。
この中央集権制度を導入し、元号を定め、屯倉、田部、名籍などの制度を飛鳥時代に確立した最初の中心人物は、蘇我の馬子だった。

そして、「国記」「天皇記」を正史とすることで、王朝の基盤を確立したのです。
また、天皇が変わるごとに、首都が変わるのも、この都神の制度によるものでしょう。

尚、モーセの十二氏族に分かれた統治方式も根本は都市神の制度と同じです。

b.太子一族を滅ぼした蘇我氏を大悪党に仕立てる。

c.蘇我氏を滅ぼし天誅を下す藤原氏を、太子とメシア仏教保護者として、藤原政権を正当化する。

d.更に、聖徳太子を怨霊とみなし、偶像化して神に祭りあげる。

⑤.原始キリスト教、景教、ユダヤ教は迫害を受けていた。
ゆえに、隠れキリシタンのように、表面を仏教に見せかけて出自を隠蔽してしまった。

⑥.スサノオとオオクニヌシを敵対関係にし、正当な皇統の流れを隠蔽した。

日本固有の神と皇統に見せかけた。
それがゆえに、長い年月の経過と共に、
皇室の皇統は、エフライムの正統な末裔とアブラハムから始まる正統なユダの末裔の合体であることが、分からなくなってしまった。

イエスの十二使徒がサタンの霊言に従いイエスを偶像化したように、
①~⑥により英雄視された太子は、偶像化されてしまった。
太子メシア化の結果、様々な宗派が乱立し、ご利益宗教が巷で流行り、国情を不安定にしてしまった。


◆補足:白村江後、占領軍は筑紫に居た!?
占領軍は筑紫に陣取り、そのGHQ司令官が郭務宗だったのだろう。

「四人が唐からやってきて、唐の使人郭務宗ら六百人、送使沙宅孫登ら千四百人、総計二千人が、船四十七隻に乗って比地島に着きました。」

「朝廷は連を筑紫に遣わして、天王のお隠れになったことを郭務宗らに告げさせた。
・・・
郭務宗らは帰途についた。」


■聖徳太子革命の凋落とサタンの跳梁

最初に、太子信仰の盛り上がりの大まかな経緯を紹介します。

鎌倉幕府の頼朝は、太子信仰のメッカ・法隆寺に寄進している。
鎌倉時代から、太子信仰が盛り上がり、法隆寺が再興され、様々な催し物が行われるようになった。

室町時代には、太子を大工の祖とする信仰が広まった。
(キリストが大工だったことと関係がありそうだ)

更に、尊氏は法隆寺に釈迦三尊像を修理し、他の仏像を寄進した。

織田信長は聖徳太子を物部一族に勝利したとして崇拝していた。
秀吉は法隆寺に千石の領地を保証し、四天王寺を再興した。
家康は信長同様、法隆寺に戦勝を祈願し、多額の寄付を行っている。
このようにして、太子信仰が華やかさをましていきました、

おそらく、戦国時代にキリスト教が日本国内で広まった。
同時に、聖徳太子を仏教の立役者、弥勒菩薩の化身とし、仏教徒に受け入れられるように偶像化した。
さらに、太子に馬宿王子・大工の祖とし、イエス・キリストの生まれ変わりとして聖人化した。
これにより、仏教徒とキリスト教の両教徒によるメシア・キリスト教革命(メシア仏教革命)を起こそうとしていた。

そのやり口は、原始キリスト教をローマ人に受け入れられるようにメシア・キリスト教を創作し、イエスを神として偶像化した手法と同じで、目的はローマにキリスト教革命を起こし、国教化することだった。
ついには、ギリシャ・ローマの神々はうち捨てられ、神官と教徒は迫害され弾圧されてしまった。
だから、メシア・キリスト教革命により、日本を乗っ取り、皇室を滅ぼしてしまう計略だったのだと推断するのです。

もし、日本が太子をイエスの再臨とし、メシア・キリスト教化されていた場合、キリスト教を楯に非道な植民地支配を行っていた西欧列強は日本をどのように見たことでしょう。
もしかしたら、日欧米がメシア・キリスト教化し、世界中が暗黒のキリスト教時代を迎えていたかも知れません。

しかし、日本の国情として狂信的なキリスト教は一般市民からも嫌われており、他の宗教を認めないキリスト教の独占性と排他性は、国内治安を不安にするとして、個人の宗教を禁じたのでは無く、政治的な理由から戦国武将・信長・秀吉・家康により国内から追放されました。

その後、信仰すれば悪人でも成仏するとした親鸞・法然の「念仏踊り革命」は、キリスト教革命の日本語版ともいうべきものでしたが、仏教は幕府の出先機関と化し、これも皇室を滅ぼすには至りませんでした。

一方、武士は朱子学を基本としたゆえ、水戸光圀による国学と神道を重んじる風潮が高まり、太子は馬子と共謀して崇峻天皇を暗殺したなどと非難されました。
幕府と法隆寺の関係は徐々に疎遠になり、太子信仰は薄れていったのです。

◆太子から天武天皇までをまとめると
大和朝廷を部民制による有力氏族の連合として樹立させたのは蘇我氏の功績です。
これを、近代的な律令国家へと改革を断行したのは秦氏でした。
この部民制度は、シュメルの都市国家をモデルにしたものだったことを、これから説明します。

例えば、古代バビロニアは大神の一人である主神マルドウクの都でした。
各都市は各々の都市神が統治し、大神は各都市神を統治していました。
シュメル全体都市は、大神と都市神連合による国家群だったのです。
大和朝廷と形式は同じです。

バビロニアでは、マルドウクが王権を与え、王と貴族、神官を定める。
都を増築する工人、食料の農民、捉えた奴隷の階級制だった。
都市神の住民は、神の民で、神に衣食住を提供していた。
これは部民制度と同じです。
そして、アヌンナキの王権が都市神から都市神へ移るたびに都市が造営されたり、都市が改築され、年号が制定された。
そして、石碑には各王朝の行った実績が刻まれたのです。
その都市郡が、メソポタミアの雄大な川の側に点在する遺跡群です。

古バビロニア~新バビロニアにいた「月氏国」の民が、騎馬民族と融合して、曽我の地に上陸。
以後、蘇我氏と名乗った。

彼らは飛鳥時代に実権を握ると、部民制を完成させ、大和朝廷を有力豪族の連合体として樹立させた。
(この蘇我氏の功績もまた、太子だと偽装されている)

天皇個別王朝が樹立すると、元号を定め、都を造営します。
これは明らかに、シュメル王朝の伝統です。
しかも、天皇ごとに屯倉、公田を設けているのは、都市神制度と同じです。

つまり、シュメルの都市神制度が、部民制度そのものだったのです。
従って、シュメル時代と同じで、各天皇(王朝)ごとに都市神が任じられていた。
制度は同じでも、国が変わり、文字と呼び名が変わるだけで、まったく別のものとみなされてしまう。
だから、古代日本史の迷路から抜け出せなくなってしまうのです。

そして、太子・孝徳天皇・天武天皇が断行した大化の改新は、ユダヤ教・原始キリスト教への回帰であった。
それは都市神を統べる大神としての天照を祭ること、十七条憲法・モーセの律法の実施である。

◆日本史に跳梁するサタン・ナブー
サタンは神道においても神を詐称し、ユダヤの民を支配した手法を皇室にも行った。
つまり、呪う神・嫉妬する神・復讐する神は、自己に服従すれば福を、反抗すれば死を与え、二者択一を迫り皇室に憑依していたのです。
その一部を下記に紹介します。

◆垂仁天皇・伊勢の祭祀
先皇の崇神天皇は神祀をお祭りになったが、詳しくその根源を探らないで、律法・祭儀を一字一句間違えないよう忠実に行わせ、支配しようとした。
人の善意や思いやり、正義の心よりも、律法・祭儀をとり行うことを再優先とする人々により、日本を支配しようとした。

◆ 仁徳天皇・池堤の構築
天皇が夢を見られ、神が現れて教えていわれるのに、
「武蔵の人 強頚と、河内の人 茨田連杉子の二人を、河伯(かわのかみ)に奉ればきっと防ぐことができるだろう」
と言われた。
そこで河伯に人身御供し、堤は完成した。
強頚は恨みながら死んでいくが、杉子は頓智を使って死なずにすんだ。
河の神信仰はシュメルの時からのものですが、誤った信仰=悪魔教を信じさせるものです。

■ 顕宗天皇・任麗との通行
「月の神が人に憑いて、」
「わが祖高皇産霊(たかみむすひのみこ)は、天地をお造りになった功がある。
田地をわが月の神に奉れ。
求めのままに献上すれば、慶福が得られるだろう」
といわれた。
・・・
日の神が人に憑かれて「倭の磐余の田を、わが祖高皇産霊に奉れ」と。

この月の神は「弓月国」ではなく、メシア仏教を信仰する「月氏国」の主神でしょう。
つまり、サタン・ナブーです。
これも、
神の言葉を忠実に実行すれば福、
だが、そうでなければ不幸、
の二者択一を迫まっている。

日の神については条件が示されていない。

しかも、月神、日神、共に同じ人物に霊言しているのですから、日神のメッセージは月神のメッセージを是正しようとするものでしょう。


■隠蔽された天照大御神の謎を解く

以前に古代日本に関連して先生に質問したところ、
「キリスト教の神々と共に男神・天照大御神が日本に来られました」と。
つまり、原始キリスト教であるユダ族を率いて、日本に来られたことを意味しています。

更に「皇室は万世一系ではない。赤ちゃんの時に取り替えられたり、暗殺されたりして」と。
つまり『記紀』では皇室の血統に見えても、赤ちゃんのすり替えで他の有力氏族の子が天皇として即位していることをも暗示されました。

そこで、秦氏の出自を辿ってみましょう。

秦氏が最初に到着したのは赤穂浪士で有名な赤穂市。
赤穂市の「瀬戸内海の三大奇祭」である坂越の船祭りは、祇園祭と酷似している。
祭りは秦氏の氏神である八坂神社大避神社が主催で行われる。
神幸祭では、本社から秦河勝の神霊が神輿に移される。
船祭りでは、猿田彦を先頭に、獅子、頭人、神輿の行列が繰り出される。

猿田彦は、「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とされている。
猿田彦は「天と地を照らす神」と紹介され、加えて “猿” は太陽神を意味し、
獅子はユダ族の事で、
天と地を照らす太陽神=猿田彦は天照大御神その人で、弓月君の出自である。
つまり、この船祭りは、
猿田彦=原始キリスト教の神=ヤハウエ=天照大御神がユダ族を引き連れ、
弓月君からシルクロードを超え日本に船で到着するまでの様子を再現したものだと思うのです。

猿田彦と天照大御神の関係を隠蔽し、しかも天照を女神としてしまったが故に、私達日本人はそのルーツを辿ることができなくなってしまった。

余談ですが、筑紫の水沼君は、応神天皇を即位させ、太子や天武天皇の出身地の豪族でした。
『日本書紀 熊襲討伐』に水沼県主猿大海という人物が登場します。
猿田彦の末裔なのでしょう。

神話では天照とスサノオが契約をします。
その結果、九州の宗像三神は天照の系統(秦氏系の原始キリスト教)だということ、スサノオは天孫族の祖先だということを、うまく伝えています。
       
神話は次のように続く。

《スサノオは、天照の居る高天原で、次々と乱暴をはたらきました。
天照が作っていた田の畔を踏みつぶし、溝を埋め、大嘗祭を行う神殿に「糞」を撒き散らした。
しかし、天照は「糞のような汚いものは、きっと酒に酔って戻してしまったのでしょう。
田圃の畔をこわし、溝を埋めたのは、その土地を再生させようとしたのでしょう」
と、むしろ弟をかばった。
しかし、スサノオの乱暴は止まりませんでした。

ある日、天照は、神聖な機織場で神様のお着物を織らせている時に、スサノオは、斑馬の皮をはいで、その死体を機織場の天井から投げ込んだ。
それに驚いた機織り娘は、機織り道具で女陰をついて死んでしまった。
これには、さすがの天照も恐ろしくなり、天の岩屋戸に隠れてしまわれました。》

さて、この神話はどのような事実を伝えようとしているのでしょうか。

猿田彦の猿は太陽神、田は稲作の神を意味している。
また秦氏一族はシルクロードで養蚕と絹織物(秦織物、西陣織、他)により莫大な利益と情報網を得ていました。
この神話にでてくる「田」「機織り」は、秦氏一族が「土木」「酒」等々と共に日本に持ち込んできたものです。
これをスサノオがめちゃくちゃに破壊し、織姫までも殺してしまいます。

秦氏一族の聖徳太子は「斑鳩」、
ここに出てくるスサノオは「斑馬」です。
縞のある鳩も馬も日本にはいません。
「斑馬」を投げ込んだスサノオは、渡来人・蘇我馬子のことでしょう。
そして女陰をついて死んだことから、一族子孫が絶えてしまったことを意味している。
だとすれば、聖徳太子父子、及び山背王一族を滅ぼしたこと、
即ち原始キリスト教の民を滅ぼしたのだと推測できます。

しかも、天照がお隠れ(死)になり、以前よりも光り輝く天照が出現するのは、猿田彦が死んでしまい女神天照へ、
かつ天皇が殺され代替わりすることを暗示している。

しかも、新しい天照が女性の裸踊りを好むといことは、女神天照は実は男神だということをも暗示している。
そして、ノアが裸を見られてカナンを呪ったように、裸を見られても良いのは、猿女君の夫だということです。
(仮に、天細女のウズが太秦のウズと同じであれば、天帝の妻という意味だろう)

以上から、この神話は、メシア仏教・蘇我氏と原始キリスト教・秦氏の日本国内での壮絶な宗教戦争・生き方の戦いの様子を伝えたものだということが明らかになったのだと思います。

ちなみに、日本書紀の一書(第一)から月読尊=月弓尊であり、明らかに弓月国の出自を表している。
また、日神はユダ族を現している。
従って、伊弉諾の三貴神は、日神の国(ユダ国)⇒弓月国⇒月氏国からの渡来ルートで古代日本に渡来した。

後ほど説明しますが、
預言者イザヤの子(姉と弟二人、姉がアマテラスの巫女=神妻)=三貴神が日本に渡来したという意味です。

アマテラスが女神とされた根拠はあいまいで、日本書紀には、日神が女神だと明確に示してはいない。
一書に曰くとして、日神のことを間接的に姉と表現しており、この偽書が正史として取り扱われるようになってしまった。
この姉は天照大神の巫女という意味だったのが、女神アマテラスとされてしまった。

◆中臣鎌足と不比等について
中大兄皇子と中臣鎌足による政変で、孝徳天皇が即位。
同時に、孝徳天皇は、大化の改新を断行する。
これに従って、大兄大皇子は私有財産を朝廷に召しだした。
ところが、急激な改革だったのか、大和朝廷の有力氏族からの反発も多かった。
大兄大皇子は、孝徳天皇を残し、皇后を含む親族・貴族他を引き連れ都を移してしまった。
遺棄された孝徳天皇は失意のうちに、皇位を退く。
ところが、中臣鎌足は最後まで孝謙天皇に従い忠誠を尽くしている。

大化の改新をよく見ると、モーセの律法の復活である。
つまり、孝徳天皇と中臣鎌足は、原始キリスト教徒、もしくはユダヤ教を信じる者達だったと推測できるのです。

一方、天智天皇は蘇我氏系であり、改革には反対で、皇位を乗っ取ることは当然だった。

しかも、孝徳天皇と中臣鎌足は不運の中でも怨霊と化していない。
仲哀天皇もまた怨霊と化していない。
怨念・恨みを持つ霊体がいくら強力でも個人で天変地異を起こすことは不可能。
更に、怨念を持つほど自縛してしまい生前ほどの身体的な活動も脳神経の自由もない。
つまり、怨霊は故意に創りだされたもので、日本をメシア仏教国とするためのサタンの謀略である。

話を戻すと、欽明天皇の時に仏教導入に反対し、寺を焼き仏像を流してしまったのは、物部大連尾興・中臣連鎌子だった。
鎌足の出自は熱烈なユダヤ人だとして、政治的策士の藤原不比等との血縁関係は疑わしい。
というのも、不比等は、皇后を藤原家から出すことで皇室の権力に寄生し、囲い込み荘園制度により私有財産にて肥え太ったのであり、鎌足の意志とは全く異なっているからです。
おそらく、タルムード・ユダヤ人グループだったのでしょう。

◆夫婦別姓は国の乱れの元
孝徳天皇・品部の廃止に、家族別姓が混乱を招き、国の乱れのもととなっていることが述べられている。
それ故、この乱れを正された。

民主党政権が行おうとしていた夫婦別姓法案は、国の乱れを招き、国民・家族をバラバラにし敵対させてしまう。
その隙に乗じて、左翼革命を虎視眈々と企んでいるのです。

すなわち、
「私有の民と品部とを同じ土地に雑居させている。
そのため父子、兄弟、夫婦でも姓が変わって、一家が四部五裂し、このための争いや訴えが充満している。
治まらず混乱すること甚だしい。
それ故、現在の天皇から臣・連に至るまで、持てる品部はすべてやめ、国家の民とする」

ルーツ・ファンタジー/聖徳太子のファンタジー 3

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聖徳太子の謎

十七条憲法と日本の国体(大和魂)

当時の大和朝廷は、有力豪族の連合政権であった。
各豪族ごとに、掟と律法があり、官位はもっぱら氏や姓により決められていた。現在のような官僚制は存在せず、現代の私達から見れば「十七条憲法」は公務員の心得だとみなされてしまいます。
が、当時の状況を勘案すれば単なる公務員の心得ではなく、国の国体と国民性を方向付ける画期的な憲法だったのです。

しかも、すべからずの禁止命令の連続である「モーセの十戒」及び、その律法とは性質が異なり、天皇の心得の第一は民の心を我が心とすることであり、この精神と十七条憲法を合わせて、君臣一体の国体へと移行していったのです。

モーセの民は律法を守ることが第一、律法に記されていないことは何をやっても良いので、日本人からすれば西洋の契約書は非常に事細かに記述されています。
契約に記述されて無ければ、就業時間中にトイレの窓から出て行っても罪にはならない。
しかもこの律法は隣人のみに適用され、それ以外に対しては何を行っても罪にならない。
だから、キリスト教徒の歴史には、魔女狩りなどの暗黒時代があり、黒人やインディアンやフィリピン人やハワイ人を奴隷として虐殺してきた事実があります。
彼らの隣人とは、同じ神を信仰する者達のみのことなのです。

ところが、契約書に書かれてない事柄でも、日本人の場合は周囲の人々のことを思い測って行動する美徳がある。
その美徳を知らない外国人には、何を考えているのか理解出来ないのです。

他にも、バビロニアからの渡来氏族であれば、目には目で有名な「ハムラビ法典」を知っているはずです。
ハムラビ法典は神への賛美から始まり、
裁判の事例を沢山記述し、この事例が正義であると主張する。
モーセの律法から発達した近代憲法もまた律法を実行することが正義だとしている。
だから私たち日本人の視点からすると、彼らの正義と道徳・良心が別物であることに戸惑い、日本人の思う正義とは質を異にするところがあるのだと悟るのです。
それは、日本の国体が互いを信頼し合うこと(君臣一体、まこと)を基盤とするからなのです。

加えてシナ大陸には皇帝思想があります。
地上のものは全て皇帝のものであり、官僚制度は民の幸せのためではなく、皇帝の権力維持のために存在しており、皇帝が法なのです。
このような専制独裁と、日本の国体は相入れるものではありません。

以上のように、有力氏族である渡来人は「モーセの十戒」「ハムラビ法典」「皇帝思想」しか知らない。
その状況の中で、互いを思いやる和の精神を基盤として国造りを行うことは、何と厳しく困難なことだったことでしょう。
だから、守屋一族は亡ぼされ、太子父子と一族は暗殺され、河勝は迫害を受け、稗田阿礼は咎無くして殺されたのです。
また改革を断行した人格者の孝徳天皇と鎌子は、ついには天智天皇及び親族・貴族から見捨てられ、都に遺棄されてしまったのでした。

冠位十二階と十七条憲法は、太子と馬子により制定されたとされています。
冠位十二階は、氏や姓によらず実力を持って官僚に採用する制度ですが、これは朝鮮や中国の制度を真似たものとされていますが、科挙の制度は導入しておらず、明らかに日本独特の形式です。
くわえて、十七条憲法も大和独自のものです。
これから、その一つ一つを一緒に読み返し、大和魂=「まこと」について思い出してみたいと思います。
尚、当時には天皇の称号はなく、本来であれば大王とすべきですが、天皇と記述しました。

下記のように十七条憲法を改めて読み直すと、「天皇の御心」と「十七条憲法」に従うことは、知らず知らずのうちに、日本の国体(国柄)と日本人の美徳・気質を育てていたのだということがよく分かります。
ところが、GHQに押し付けられた「日本国憲法」の中で生きることで、知らず知らずのうちに、武士の国である日本を商人国家へと、更には道徳を忘れた悪徳商人と左翼国家へと堕落させてしまったのです。
江戸時代には「士農工商」という身分制度がありました。
これは、社会制度上の階級というよりも、財や金銭よりも徳を大切にする精神的な美しさの序列だったのだと思います。
もし江戸時代に、悪徳商人と左翼人が存在していれば、勿論「士農工商」の枠外のはずです。
現在、残念なことに、この枠外の者達が政権を牛耳り、日本は亡国に突き進んでいる。
このように激動の古代日本を振り返ると、天皇家の系図がその苦難の道を雄弁に物語っているのです。

十七条憲法で云う「聖人・君子」とは血の通わぬ石のような心の人、霞を食べて切る仙人のような人物ではなく、自分の信仰や主張を控え、他人の意見を聞き、正しい方法と手段をみんなで話しあうことの出来る人のことです。
ですから、当然話し上手、時には笑い、怒り、泣き、皆で酒を酌み交わすような話のわかる人物像のことだと思います。

http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htmより

■十七条憲法


◆憲法は神に仕える掟
聖徳太子は「十七条憲法」を定めたが、これは「和をもって貴しとなす」という第一条にとどまらず、現代にまで大きな影響を与えている。

この憲法は推古天皇の十二年(六〇四)の夏四月に太子がつくったもので、
憲法いつくしき のりと読むらしい。

「いつく」は「斎く」、
つまり「心身を清めて神に仕える」という意味だから、憲法とは、おごそかな気持ちで取り扱うべき捉ということになる。

◆世界初の成文憲法は「十七条憲法」
世界最初といわれる成文憲法は、アメリカ合衆国憲法(一七八八)である。
その約一千二百年前に、わが国が単なる綻ではない「憲法」を持っていたことは驚くべきことだが、何よりも、太子がそこに込めた理念が、現代にまで受け入れられているということ、つまり日本の「国としての体質」を示すものであることを考えると感嘆せざるを得ない。

「聖徳太子は実在しなかった」などと言ってみても、生きた日本の歴史はわからない。
太子の理念は、まさに現代の日本人にまで影響をおよぼしているのであるから、それは「キリストは実在しなかった」と声高に主張するくらいに、ナンセンスな話なのである。
(『日本の歴史 古代編』より抜粋)

一にいう。

和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。
人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。
それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。
しかし上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就するものだ



戦後のマッカーサ憲法・日本国憲法の第九条その他において、世界平和を訴えているのが、その精神において「和をもって貴しとす」とは似て非なるものである。

太子は毅然と独立外交を行い、国内においては納得するまで議論しなさいと言っている。
しかし、現憲法は「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信じて、国軍を廃止し、日本人の「安全と生存」まで外国まかせ(他人まかせ)にして平和ぼけしている。



二にいう。

あつく三宝を信奉しなさい。
三つの宝とは神・儒・仏のことである。それは生命ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。人で はなはだしくわるい者は少ない。
よく教えるならば正道にしたがうものだ。



和を第一とするのなら、三宝は「神・儒・仏」のことです。
もし仏教ばかりを贔屓した時点で和の精神は自己崩壊してしまう。
「仏・法・僧」は後世の改竄だと思います。

◆太子は神道信者
仏教は、当時にあっては、まだすぐれた宗教哲学としてのみ存在し、大祈祷など、今日の仏教が行うようなことはしていなかった。
したがって、「法」とはすぐれた学説であり、「僧」は学者である。
つまりこれは「新しい学問、新しい文化を尊べ」ということであるから、明治以後でいえば、「西洋の学問およびその学者を尊べ」というのと似たような発想なのである。
したがって、太子が寺を建てたのは、今日で言えば大学とか病院を建てるようなものであった。

しかし、
「神道のことがまったく書かれていないではないか、
だから聖徳太子は日本の神を斥けているのだ」
という説を唱える学者も戦後には出てきた。
だが、そんなことはまったくあり得ない。
日本の神を崇めるというのは、自分の先祖を敬えということであって、あまりにあたりまえすぎてわざわざ憲法で規定するまでもないことだったのである。

たとえば、日本料理を紹介した本に「箸を片手に二本持って食べなさい」などと書いていないのと同じことである。
(『日本の歴史 古代編』より)



三にいう。

天皇の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。
君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。
天が地をおおい、地が天をのせている。かくして四季がただしくめぐりゆき、万物の気がかよう。
それが逆に地が天をおおうとすれば、
こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。
そういうわけで、君主がいうことに臣下はしたがえ。
上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。
ゆえに天皇の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。
謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう。



つまり、みんなで合議したことについては、不満があっても従いなさいという意味で、民主主義の精神そのものです。
日本には古代から、近代民主主義の精神が芽生えており、モルデカイ・モーセ氏が指摘するように、民主主義を超えた国体にまで進化していったのです。



四にいう。

政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。
人民をおさめる基本は、かならず礼にある。
上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、
下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。
それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ。



公務員が社会規範を遵守していれば、国民の気持ちも安定しているので、国は治まると述べています。



五にいう。

官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。
庶民の訴えは、1日に1000件もある。
1日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。
このごろの訴訟にたずさわる者たちは、賄賂をえることが常識となり、賄賂をみてからその申し立てを聞いている。
すなわち裕福な者の訴えは石を水中になげこむようにたやすくうけいれられるのに、貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので容易に聞きいれてもらえない。
このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。
そうしたことは官吏としての道にそむくことである。



身内を贔屓したり、財物への欲望は、法律に背いていると注意しているのですが、具体的な罰則や強い禁止事項については明記されていません。
現在であれば、絵に描いた餅にすぎないのです。



六にいう。

悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。
そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。
へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民をほろぼすするどい剣である。
また こびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗するものだ。
これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。
これは国家の大きな乱れのもととなる。

七にいう。

人にはそれぞれの任務がある。
それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。
賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。
よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。
世の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。
事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。
時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。
これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。
だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。


役人天国・天下りの現実に生きる我々には、耳の痛い法です。



八にいう。

官吏たちは、早くから出仕し、夕方おそくなってから退出しなさい。
公務はうかうかできないものだ。
一日じゅうかけてもすべて終えてしまうことがむずかしい。
したがって、おそく出仕したのでは緊急の用に間にあわないし、はやく退出したのではかならず仕事をしのこしてしまう。



勤勉で真面目な日本人の姿、そのものだと思います。
ユダヤ人もですけれど。



九にいう。

真心は人の道の根本である。
何事にも真心がなければいけない。
事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。
官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。
群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。



人間は律法を一字一句忠実に実践する機械ではなく、律法の前に思いやりの気持ちを持ってと述べています。



十にいう。

心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。
人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。
相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。
自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。
皆ともに凡人なのだ。
そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。
おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。
それは耳輪には端がないようなものだ。

こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。
自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。



左翼思想、中華思想では、決して理解出来ない美徳です。
この文意に心が呼応するのでしたら、あなたもまた大和魂(まこと)の持ち主だと思います。



十一にいう。

官吏たちの功績・過失をよくみて、それにみあう賞罰をかならずおこないなさい。

近頃の褒賞はかならずしも功績によらず、懲罰は罪によらない。
指導的な立場で政務にあたっている官吏たちは、賞罰を適正かつ明確におこなうべきである。



依怙贔屓はやめて、公正に賞罰を行えば、皆も納得し和が保たれる。



十二にいう。

国司・国造は勝手に人民から税をとってはならない。
国に二人の君主はなく、人民にとって2人の主人などいない。
国内のすべての人民にとって、天皇だけが主人である。
役所の官吏は任命されて政務にあたっているのであって、みな天皇の臣下である。
どうして公的な徴税といっしょに、人民から私的な徴税をしてよいものか。



いつの世にも、このような誠実な政治家、リーダの存在を希求します。
しかし、おうおうにしてマスコミからは叩かれるか、無視されてしまうのです。



太子は憲法で「国家の主権は一つである」を明確に打ち出した。

たとえば
「国に二君なく、民に両主なし」(第十二条)
とか
「詔を承けては必ず謹め」(第三粂)
の条項がそれにあたる。

現在では国家の主権が一つであることくらいは子供でも知っているが、当時は必ずしも明確ではなく、皇室の権威と大民族の権威の差があいまいになっている場合があったと思われる。

それはアメリカ独立当初の連邦政府と州政府の関係を考えてみるとわかりやすいであろう。
アメリカ諸州はそれぞれ違った歴史と法律を持っており、州権は強大であった。
(現在でも日本の地方自治体とは比較にならないくらい絶大な権限を持っている)

そして、州権にウエイトを置くか、連邦に置くかの考え方の遠いがのちに南北戦争(一八六一~六五)の其の原因ともなつたのである。

したがって独立当初に、合衆国の法律や条約はこの国の最高の法に帰属し、各州の憲法や法律に反対の規定がある場合でも、連邦の憲法に拘束されると明記したのである。

リンカーン大統領が南北戦争開戦にあたって南部諸州に要求したのは、まさに
「アメリカに二つの政府なく、アメリカ国民に二つの連邦なし。
連邦の命を承けては必ず謹め」
ということであった。
(『日本の歴史 古代編』より抜粋)



十三にいう。

いろいろな官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職掌を熟知するようにしなさい。
病気や出張などで職務にいない場合もあろう。
しかし政務をとれるときにはなじんで、前々より熟知していたかのようにしなさい。
前のことなどは自分は知らないといって、公務を停滞させてはならない。

十四にいう。

官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。
自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。
嫉妬の憂いははてしない。
それゆえに、自分より英知がすぐれている人がいるとよろこばず、才能がまさっていると思えば嫉妬する。

それでは五百年たっても賢者にあうことはできず、千年の間に一人の聖人の出現を期待することすら困難である。
聖人・賢者といわれるすぐれた人材がなくては国をおさめることはできない。



だから、すべての国で、文武両道のエリート教育が必要なのです。
しっかりした者達が国を治めるからこそ、人権と安全が保証されるのです。
これを基盤として、権利と義務を履行し、法の中での自由と平等を享受できます。
自由と平等はあくまでも、成果物でしか無く、自由と平等を国の根本に置くことは階級闘争を激化させ国を失うことにつながります。



十五にいう。

私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。
およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。
恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。
恨みの心がおこってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。

第一条で
「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」
といっているのは、こういう心情からである。



公正無私この徳を養う教育が、現在の教育に欠如している。
それはGHQが日本を弱体化させようと謀略を巡らせたからです。



十六にいう。

人民を使役するにはその時期をよく考えてする、とは昔の人のよい教えである。
だから冬(旧暦の10月~12月)に暇があるときに、人民を動員すればよい。
春から秋までは、農耕・養蚕などに力をつくすべきときである。
人民を使役してはいけない。
人民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。
養蚕がなされなければ、何を着たらよいというのか。



子供手当て、高速道路無料化、高校無料化などは、結局増税でしかない。
東電の責任を回避する救済法案など、国民に増税を強いている。



十七にいう。

ものごとはひとりで判断してはいけない。
かならずみんなで論議して判断しなさい。
ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。
ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。
そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。



政治の重大事は
「独断すべからず、必ず衆と論ずべし」

これは、それからおよそ一千二百五十年後に出された明治天皇の「五箇粂の御誓文」の第一条、
「広く会議を興し、万機公論に決すべし」
の条文に驚くほどよく似ている。

太子の「十七条憲法」は単なる捉ではなく、本来の意味で憲法の名にふさわしい。
どこの種族にも具体的な掟はある。
しかし、それだけでは憲法とはいえない。
「理念」を打ち出してこそ憲法と言えるのである。

法律というのはいろいろな事件・事態に対処してどんどん細かくなつていくものだが、その細かい規則をつくるもとになる理念、あるいは精神が、憲法である。

だから憲法というのは誰でもすぐ読めるような量のものでなければならないし、簡潔なものでなければならない。

そして、聖徳太子が打ち出した理念は、現代の日本人にも抵抗感がないどころか、自然うなずに肯ける内容であるから、まさに日本最初の憲法というにふさわしく、また近代的な意味でも憲法の名にふさわしい。
(『日本の歴史 古代編』より抜粋)


■呪う神の謀略

紀元4から6世紀、岡山県と広島東部を含めた一体に、高度な製鉄技術で繁栄し、日本で四番目に大きな前方後円墳と巨石墳を造った吉備国がありました。
当時の鉄は、農業や開墾の土木器具、武器として使われ、支配層の富と権力の象徴でした。
また、土器づくりや製塩、ガラス生産が盛んだった。
隣の島根県にある出雲王国では、日本最大の銅剣が出土している。
この大量の銅は中国からの輸入だったことが分かっています。

「真金吹く 吉備の山中帯にせる
細川谷の おとのさやけさ」
(古今和歌集)

とあり、吉備の枕詞の「真金」は鉄、
「吹く」は精錬のことで、
吉備が製鉄の産地として知られていたことがわかります。

『日本書紀』によれば、崇神天皇は、
孝霊天皇の子の五十狭芹彦を派遣し、吉備の温羅(ウラ)を討ち取り、武力征服したと述べている。
そして、日本武尊の名の由来と同じパターンですが、ウラを討ち取ると、ウラの恭順の印として、吉備の名を五十狭芹彦に与え、以後、吉備津彦と名乗る。
吉備臣の祖となった。

余談ですが、この吉備の子孫と阿倍仲麻呂が、日本最大の陰陽師 安倍清明と深く関わっている。
さらに、記紀によれば、景行天皇、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇、雄略天皇、舒明天皇がそれぞれ、吉備出身の女を妃としたとある。

以上のことから、出雲から王妃を神武朝から王を出し、統一王国として大和朝廷が成立したケースと同じ方式での吉備国王朝との統合だったのだと考えられます。

更に、神社の伝承から、ニギハヤヒ命の子孫の物部氏は、神武天皇を即位させており、協力関係にあった。
また、先土器時代の遺跡があり、石器が出土している事から、吉備国はノアの大洪水以前からの鉱山地帯で、ニギハヤヒ命の飛来以前から金属精錬の技術者とその民(カナン、カイン、ハム一族)が定住していたと推測されます。
だとすれば、ニギハヤヒ命の出雲国が吉備国を従えていたように、皇室もまた、吉備国を武力ではなく統一王朝の形式で統合していた。

結局、吉備神話も出雲神話同様に幾層もの史実が重なっていた。
出雲神話に封印された内容は、兄エサウの弟ヤコブへの王位禅譲、
大国主命の神武天皇への王権禅譲、
出雲王国と神武系氏族との統一王朝の三重構造になっていた。
吉備神話もまた、ノアの大洪水以前に在った鉱山、ヨシュアのカナン入り、日本の岡山にある吉備王国と神武系氏族との統一王朝の三重構造になっています。

同じ天皇記なのに、『古事記』と『日本書紀』で異なった記述があったとしても不思議ではないのです。
旧約の正当な歴史が、改竄され、削除され、日本建国の史実の中に暗号化して封じ込められたのです。
従って、出雲国も吉備国も、神武王朝に恭順した形で大和国の建国を補佐したとすれば、大国主命が呪うはずはないのです。
つまり、大物主神の代わりに、大国主命を新たに設けた。
それは、ニギハヤヒ系一族と神武系一族があたかも反目し、滅ぼされたように改竄してしまった。
そして、大国主命をサタン・ナブーの化身=呪う神=復讐する神として、古代日本を呪いという恐怖で支配しようとしたのです。


■古代日本歌謡:人類の救世主とは

余談ですが、救世主思想が日本と西洋の国柄を象徴しています。

西洋ではキリスト教と民主主義が浸透しており、個々の意見を調整する多数決の原理を信奉しながらも、救世主的な超人としてはスーパマンの人気は耐えることがありません。

日本では、“和を以て貴しとする” の精神があり、一人の超人は出てこない。
しかし、水戸黄門的な権威の方が多数決に優る所があります。

現在の日本と西洋では同じ三権分立を是としながらも、政治形態の質が異なるのはこの為なのです。
立憲君主国の日本では、分けるとすればですが、陛下・臣民・政府の三権による統治です。
即ち、陛下は臣民の心を自己の心とし、臣民は陛下を親とも思い忠誠を尽くす、政府は陛下の大権の一部を代行するという国体です。

また、大統領制の国では、大統領・国会・国民の三権により、ジャンケンのようにバランスを保っています。
つまり、各々の国体により、風俗習慣の違いにより、メシアの形式も異なるものなのです。


◆「日本を取り戻す」を社会常識へ!
パウロ二世は1999年12月24日、千年に一度開く “大聖年の扉” の前で
「これは神の扉、神に従う人はここから入る。正義の扉よ開きたまえ」
と祈った。
その時、大聖堂に日本の琴の音で「さくら」が流れた。

それに、ヨハネの黙示録の千年王国、
1999年に降臨する恐怖の大王は再臨のイエスだった。

「さくら」のヘブライ語は

「神が隠れてしまった。
唯一の神が迫害を受け、耐え忍び、死んで、犠牲となり、くじで引かれ、とりあげられてしまった。
素晴らしい神の計画である救い、
その救いの捧げものが成就した」

で、パウロ二世の祈りにぴったりではないか。

だから日本歌謡は預言書なのだ。
(それについては『古代日本歌謡と七代天使』参照)

はうす/イノチ

思い出すから悲しい。
 
思い出さなきゃ、いつかそのうち、自分も消えていく。
 
だけど、きっと、忘れない。
 
今日の寒さと、アマガミの感触と、残していったエサのあと…
 
 
 
 

池田信夫/なぜ必敗の日米戦争を始めたのか

自由とデモクラシーという武器

『幕僚たちの真珠湾  (読みなおす日本史)』 波多野 澄雄・著
 
なぜ必敗の日米戦争を始めたのかという問題については多くの研究があるが、本書は防衛庁戦史室で戦史を編纂した著者が、日本軍の機密書類をもとに作戦の立場からみたものだ。
これを読むと、最後まで責任の所在が不明なまま戦争に突っ込んだことがわかる。
 
1941年になると、陸軍の軍務局(武藤章局長)と参謀本部(田中新一作戦部長)の対立が先鋭化する。
普通の国の常識では、政府機関である軍が参謀本部の作戦を指揮するのであってその逆ではないが、日本では統帥権の独立によって参謀本部が天皇に独自に上奏できる制度になっていたため、両者は同格で争った。
 
これを統率する内閣も、近衛文麿首相では何もできなかった。
9月6日の御前会議で実質的に日米開戦の方針が決まったあとも近衛は抵抗したが、東條英機に押し切られた。
10月12日の「荻窪会談」のやりとりは有名である。
 
東條:
統帥は国務の圏外にある。
総理が決心しても統帥部[参謀本部]との意見が合わなければ不可なり。
総理が決心しても、陸軍大臣としては之に盲従はできない。
 
近衛:
今どちらかでやれと言はれれば、外交でやると言はざるを得ず。
戦争は私は自信ない。
自信ある人にやって貰わねばならぬ。
 
東條:
これは意外だ。
戦争に自信がないとは何ですか。
それは国策遂行要領を決定する[御前会議の]ときに論ずべき問題でしょう。
 
 
近衛はぎりぎりまで御前会議の決定を撤回して戦争を回避しようとしたのだが、東條は徹底した前例主義でこれを否定し、参謀本部と共同で天皇に上奏しない限り、軍は従わないと主張した。
天皇の下に多くの組織がバラバラに並び、指揮系統がない日本型組織の欠陥が露呈し、近衛は開戦を目前にして辞任する。
 
参謀本部は、どういう作戦を考えていたのか。
田中新一は「南方戦争を先行させ、自給自足体制を固め、アジアにおける対英米優位の地位を確保した上で北方戦争に乗り出し、この間に国際政局の変化に乗じて支那戦争を解決する」という戦略を描いていたという。
南部仏印進駐は、この南方戦争(対英戦争)の第一歩だった。
 
では日米戦争は、どう位置づけられていたのだろうか。
驚いたことに、参謀本部の戦略には日米戦争がなかった。
海軍が対米決戦を求めて中部太平洋に奥深く進攻する「攻勢」を主張したのに対して、陸軍は南方・太平洋で「守勢」をとり、その兵力を大陸に転用することを主張した。
 
アメリカが和平交渉の打ち切りを通告してきてからも、田中は本格的な対米戦争は考えず、これはヨーロッパに参戦するまでの「時間稼ぎ」とみていた。
彼の関心は、最後まで「北支及び満蒙の特殊地域化」にあり、アメリカは東南アジアの権益にさほど強い関心はもっていないとみていた。
 
当時の米政府内でも、東南アジアで対英戦争が起こった場合、アメリカが参戦するかどうかについて意見はわかれていたが、海軍が真珠湾を攻撃したため、世論は一挙に日米戦争に沸き立ったのである。
 
このとき日本軍も日米の物量の差はわかっていたが、よくいわれるようにそれを精神主義で克服できると考えていたわけではない。
戦争を遂行するには日独のような強い国家主義の指導力が必要で、個人主義のアメリカ人はすぐ逃げると考えたのだ。
陸軍省軍務課の石井秋穂は、こう回想している。
 
「あの自由主義の国、あのデモクラシーの国で、あの厖大なる国力をあの速さに、あの規模に戦力化し得るとは考えなかった。
我々は自由主義とデモクラシーを甘くみたのである」
(石井回想録)
 
自由主義もデモクラシーも、実はヨーロッパの長い戦争で生き残った制度である。
絶対君主と傭兵では、長期戦は戦えない。
全国民が「自分の国だ」と思って戦力でも補給でも協力しないと、総力戦には勝てないのだ。
日本軍が見誤ったのは、自由とデモクラシーこそ国家の最強の武器だということである。

日本の『リベラル』は死んだか

「戦後リベラル」はどこで間違えたのか


転載元 池田信夫のブログ2014年12月13日

朝日新聞の失敗の原因は、終戦直後から彼らが受け継いできた絶対平和主義であり、その教祖が丸山眞男である。
1950年に丸山が中心となって書かれた平和問題談話会声明の「全面講和」の平和主義は、いま読むとナンセンスだが、社会党の運動方針となり、いまだに朝日新聞や日教組などの「戦後リベラル」の亜流に受け継がれている。
 
しかし丸山自身は、60年安保のスターになったあと、マスコミから姿を消した。
それは政治活動の「夜店」を畳んで日本政治思想史の「本店」に専念するためだ、と彼はいっているが、その後は過去の政治活動についてまったく語らなくなる。
 
『政治の世界』 他十篇 (岩波文庫)
 
本書の原型は1952年に出版された小冊子だが、丸山はこれを絶版にし、論文集にも収録しなかった。
その理由を彼は「デモクラシーを支える自発的結社のモデルとして労働組合を考えていた」と語り、
「これは完全に間違いだった」と率直に認めている。
 
本書に収録された「権力と道徳」という論文で、丸山は民主主義というクラートス(支配)を支えるエートス(倫理)が日本にあるのかという問題を追究している。
西洋では個人を救済するキリスト教のエートスを基礎にして、近代国家のクラートスが築かれた。ローマ教会は俗権と妥協して御用宗教となったが、プロテスタントはパウロ的な普遍主義を掲げて国家=教会と戦った。
この矛盾が集約的にあらわれたのがドイツだった。
ヘーゲルは国家理性が宗教の矛盾を統一すると考えたが、ニーチェは国家を「組織された非道徳性」と嘲笑した。
ウェーバーはニーチェの影響を受け、国家は暴力装置であると規定したが、こうしたニヒリズムを突き詰めると「戦争において重要なのは正義ではなく勝利である」というヒトラーの論理に行き着く。
 
しかし日本には、よくも悪くもキリスト教のような普遍主義は一度も根づかなかった。
その代用品として戦前には天皇が使われたが、それは福田恆存も指摘したように、個人を救済するエートスをもたなかったため、敗戦とともに簡単に捨てられた。
 
戦後は新たな代用品として絶対平和主義が使われたが、これは天皇よりリアリティのない空想だった。社会主義も人々を内面的に救済するエートスをもたないため、一度も多数派になることのないまま消えてしまった。
 
しかし、亜流リベラルはまだそれに気づかず、民主主義のクラートスを「動機の純粋性」のエートスで語る。
 
集団的自衛権を認める安倍首相は「戦争を求める汚れた政治家」であり、
それを阻止する朝日新聞は「平和を求める純粋な心」をもっている――
 
これは丸山も後年に批判した「プリミティブな心情倫理」だが、それを捨てると戦後リベラルには何も残らないのだ。
 
 
 ◇
 

日本のリベラルは「個別の問題に反対する」ことしかできない

橘玲の日々刻々 2014年10月20日
『週刊プレイボーイ』2014年10月14日発売号に掲載
 
しばらく海外にいて久しぶりに日本に戻ってきたら、駅前で「朝日新聞を廃刊にせよ」というのぼりを持ったひとが演説していて驚きました。
その後、たまっていた新聞や雑誌を読んでようやく事情がわかりました。
海外では、朝日新聞の誤報をめぐる日本社会の大騒動はなんの関心も持たれていなかったのです。
この問題についてはすでに膨大な論評がありますが、ここでは「戦後民主主義」という日本型リベラリズムの蹉跌について考えてみます。
 
戦後民主主義は、300万人の死者と広島・長崎への原爆投下という悲惨な結末を招いた日中戦争・太平洋戦争への反省から生まれました。
その根本理念は「二度と戦争をしてはならない」で、これに反対するひとはいないでしょう。
問題は、そのためにどうすればいいかという政治戦略です。
戦後日本のリベラルな知識人は次のような議論を展開しました。

1.反権力 日本をふたたび軍国主義にしないためにはあらゆる権力に反対しなければならない
 
2.反米 アメリカは帝国主義国家で、日米安保条約は日本を戦争に巻き込むだけだ
 
3.憲法護持 軍隊がなければ戦争はできないのだから、非武装中立こそが平和への道だ
 
このようにして日本のリベラルは「天皇制」に反対し、毛沢東の中国やスターリンのソ連、金日成の北朝鮮に親近感を抱き、社会党や共産党を「革新政党」として支持しました。

しかし、すぐにわかるように、この戦略は最初から破綻しています。
反権力ではいつまでたっても権力を持てないのですから、自らの理想の実現を放棄しているのと同じです。
 
この矛盾は、すでに1960年代の安保闘争の頃から指摘されていました。
当時の政治的な学生たちは、戦後民主主義を空理空論として批判し、革命によって権力を奪取することを求めていたのです――
 
もっともこちらも、さらなる空理空論だったわけですが。
 
1990年に冷戦が終焉すると、共産主義という社会実験が壮大な失敗だったことが誰の目にも明らかになりました。
中国・ソ連・北朝鮮の共産党独裁を批判し、アメリカのリベラルデモクラシー(自由な社会と民主政)を擁護した保守派が正しかったのです。
 
こうして日本のリベラルな知識人は、思想的な根拠を失って大混乱に陥りました。
本来であればここで新しい政治思想を構築すべきだったのでしょうが、プライドの高い彼らは保守派への敗北を嫌って過去の主張に固執しました。
 
朝日新聞は、従軍慰安婦問題で天皇の戦争責任を追求しようとする左翼活動家のような記者たちを排除できず、誤報を認めることができませんでした。
福島第一原発事故の誤報の原因は、「反原発」という結論が先にあり、吉田調書入手というスクープを東京電力や安倍政権への批判に利用しようとしたからでしょう。
特定秘密保護法や集団的自衛権でも同じですが、保守派に対抗する政治思想を持てないために、個別の問題を過剰に言い立てるほかなくなっているのです。
 
「保守対革新」という政治対立はすでに過去のものになりました。
いまの日本に必要とされているのは、まっとうな(グローバルスタンダードの)リベラリズムです。
そのことに気づかず、骨董品のような「戦後民主主義」にしがみついているかぎり、日本のリベラルに未来はないでしょう。
 
 
 

リベラルの再生はなるか

転載元 
2013.07.20放送 ON THE WAY ジャーナル WEEKEND
月刊 寺島実郎の世界

寺島> まず、リベラルとは一体何だろうということをもう一度考えてみたいと思います。
リベラルは「全体」、例えば、「国家」、或いは、かつては「宗教」等、人間の個を大きく取り巻いて規制してきたことに対して、個人として自分は自分で筋道の通ったものを考えていくという主体的にものを考え抜く力のようなことをリベラルと言って、それが近代人の思考の柱であって、それがフランス革命、アメリカの独立戦争等を支える大きな力になったわけです。

日本は敢えて言うならば戦後民主主義という形で国家に奉公するという時代から戦争が終わって与えられた民主主義という形で民主主義が入ってきたために、どうしてもリベラルが根付かず、いざという時に腰砕けになってしまうのです。
・・・
どんな時代に関する議論も、その時代を変えていく主体は誰なのかをしっかりと認識しなければ、「時代を変革する」と叫んでみても、誰が変革者になるのかとなります。

かつて、我々は戦後民主主義の60年安保や70年安保だという冷戦時代にはマルクス主義や社会主義等を信仰している人たちがたくさんいて、マルクス主義で
「世の中を変えていく主体は労働者で、労働者革命の時代が来る」
ということが盛んに言われて、本気で議論された時代が現実にありました。
階級闘争によって歴史が変わっていくというものです。

やがて、労働者が決起して資本主義社会は社会主義社会に移行していくのだという世界観が一定の支持を得ていた時代がありました。
しかし、世の中は変わってしまいました。
冷戦が終わって社会主義体制の総本山だと言われていたソ連が崩壊して東側が崩れて20年経ったのです。
いまや、社会主義という言葉さえも、封印されました。
そのような意味での労働者革命ということを夢見るという議論は、まったくの空論だと捉えられていると思います。

私は学生時代に1970年の大学全共闘運動の時代を生きたのですが、あの頃は、学生は社会的存在としてどのようなものからも自由であるが故に、そのような主体が世の中を変えていく力になるという期待感を込めた議論がなされている時代、つまり、大学生が主体になり、若きインテリゲンツィア=Intelligentsiaが世の中を変えていく主体になっていましたが、現在は主体が見えない時代になってしまったのです。

そこで、先ほど申し上げた現代における「リベラル再生の主体は誰か」についてお話しします。
先ず、民主党政権の挫折には「階層」と「世代」という2つのキーワードがあります。
「階層」には労働組合運動の一つの挫折でもあったのです。
どういう意味かというと、民主党政権は連合という労働組合運動がバックアップする形で成立した部分もあって3年半の民主党政権には14名が労働組合出身者で、大臣、副大臣等の政務三役として政権に参画していました。
したがって、皮肉な言い方をすると、民主党政権は労働組合政権だったともいえるということです。
しかし、労働組合なるものが天下を取って大臣、副大臣等になるような時代が来たけれども、「では、どうだったか」というと、民主党の挫折が象徴しているようにどうもうまくいかなかったのです。

労働組合のベースである、連合が組織化している労働組合の組織率は、昨年、わずか17.9%になってしまいました。
つまり、額に汗して働いている人の既に8割以上が労働組合に入っていないという時代がきたということです。
労働組合がもの凄く空洞化してきていると言われる理由は、わずかな組織しかしていなくて、しかも、かつて労働組合が変革の主体であったと期待された時代があったけれども、「金持ちけんかせず」という言葉があるように、日本の労働組合は、いま、連合の主力主体は自治労といって、公務員の労働組合の組織か、大企業の組織になってしまっているのです。

更に、推定値なのですが、昨年の連合が組織化している組合員の平均年収は39歳をベースにして約560万円です。
いまの日本の労働人口の34%は年収200万円以下だと統計で発表になったというように、働いている人の3人に一人は年収200万円以下の国になっていて、かつての一億総中流と呼ばれるように、「自分は金持ちじゃないかもしれないけれども中流です」と多くの人たちが答えていた状況からすると、日本はこの約10年間の間に考えられないほど貧困化していると何度もお話をしてきました。

したがって、労働組合の運動が浮いてしまい、いまや労働組合は働いている人の中で最も恵まれた人たちの組織集団で、例えば、労働組合に入っていない未組織の労働者からみたら羨ましい限りの存在なのです。
ここで問題になるのは、分配の問題、或いは、貧困、格差の問題等を進行していく中で、誰がそのような問題に深く共鳴し、このような方向で世の中を変えていかなければならないという立場に立って発言するのかという時に、いまの労働組合では期待できないのです。

そのような中で、私は労働組合をダメだと言っているのではありません。
10年前に連合の見直し委員会のようなものがあった時に弁護士の中坊公平さんが委員長で私は委員として参加していました。
その時にも指摘していたのですが、労働組合運動は自分たちの分配の問題、例えば、春闘という賃上げの問題だけに血道を上げて頑張る組織ではなくて、社会の不条理といった、分配、格差の問題、或いは、世界が抱えている貧困の問題、戦争と平和の問題等に怒りをもって向き合うくらいの気迫をもたなければ労働組合は変革の主体にはなり得ないということです。

そのような面において、いま日本の労働組合は非常に重大な正念場にきています。
つまり、果たして、いま自分たちの賃上げと自分たちの雇用を守る事だけに焦点を当てた運動体として細々と先細りながら生きていくのか、それとも、新しい変革の主体として目覚めて、より多くの人たちを巻き込んで新しい市民運動をするのか。

労働組合は別の言い方をすればノンプロフィット=Non-Profit、つまり、非営利の団体、NPO、NGOの走りのようなものだったわけです。

木村>  共助、共に支え合うというのが本来の思想だったのですね。

寺島>  したがって、私はこの論稿の中で新しい労働組合運動の地平をどのように開いていくのか、労働組合にいる人たち自身が考え抜いて自分たちの立ち位置を定めていかなければならないということが先ず一つ挙げられます。

もう一つは、階層の問題とは別に、「世代」という問題をこの論稿の中で提起しています。
それは何かというと、私自身の世代でもあり、木村さんの世代でもある戦後生まれの日本人としての先頭世代、つまり、「団塊の世代」とよく言われてきました。
これらの人たちが除々に高齢化社会に足を突っ込み始めていて、議論を戻すならば、今回の民主党政権の挫折で14人の団塊の世代が民主党政権で大臣、副大臣、政務三役として参画したのです。
ということは、民主党政権の失敗とは、労働組合の挫折であり、団塊の世代の挫折だったとも言えるのです。

私自身も団塊の世代ですが、この世代の脇の甘さと愚かさが日本という国の民主党の実験をも挫折させ、更に、これからの高齢化社会にとって、この世代がどうするのかがもの凄く重大だということを何度か連載でも書いています。

それはどういう意味かというと、団塊の世代、つまり、昭和20年代の前半に生まれた世代で人口が塊のようになっていると言われているのです。
戦後民主主義なるものを土壌に日本の右肩上がりの時代に青春期を送って1970年前後の大阪万博の頃に社会人として社会参画した世代が、いまや高齢化社会を迎えようとしています。
戦後日本のある面をたっぷり吸収して育ってきています。

それは何かというと、戦後日本はとにかく「物量の敗戦」だと敗戦を総括して経済だけは復活したいということで、一種の経済主義者で、つまり、アメリカに追いつけ追い越せの時代でアメリカの物量に憧れて戦後なるものを生きてきたために、経済に対してもの凄く価値を感じているという特色を持っているということです。

もう一つ、先ほどのリベラルではありませんが、本当の意味でのリベラルを身につけたのかというとそうでもなくて、個人主義者という表現は甚だ外れています。

木村>  たしか寺島さんは「ミーイズム」と指摘していらっしゃいますね。

寺島>  個人主義というのは思想、哲学の問題であって国家がどんなに強制してきても自分は自分の哲学、宗教を変えないという深いものがあるわけです。
ミーイズムは「私生活主義」と訳したほうがよいわけで、他人には干渉もしたくないし、自分の生活に干渉されたくもないというライフスタイルのことをいいます。
せいぜいライフスタイルのようなものを身につけてしまった世代の特色を一言でいうならば、「美しい言葉に納得して酔いしれる」ということです。

例えば、民主党政権が使った言葉の中に、「コンクリートからヒトへ」という言葉があって、この言葉はとても美しくて、なるほど、コンクリートよりも人間のほうが大事だと誰もが思います。
更に、私がよく言うことなのですが、長野オリンピックのキャッチフレーズに「故郷(ふるさと)は地球村」という言い方があります。
要するに、地球全体を一つの自分の故郷のようにするのですが、そこから社会科学や政策科学の問題が登場してくるわけで、民族や宗教の対立、憎しみ等超えて、どうやって故郷は地球村にするのかが問題なのです。
そして、「コンクリートからヒトへ」と言うけれども、言葉で納得してしまわずに、本当に人を大事にする社会を制度設計していくことがどれほど大事か、コンクリートだって人の命を守るためには大事だという部分もあります。
そこから深めていくのが社会科学であり、政策科学なのですが、美しいキャッチフレーズを謳っている私は良い人でしょう、という感じで納得してしまって、そこから踏み込まないのです。
実は、その甘さと弱さが戦後なる日本の壁になっているとうことです。

そこで、私が言いたいのは、団塊の世代はこのまま行くと自分だけ年金をもらって安定的な老後を送れるような社会をつくればよいとでも思っているのかということです。
後代に負担を押し付けて自分たちだけなんとか安定、安心の世の中ができればよいというわけにはいかないのです。
いま我々が直面している状況を敢えて言うならば、私が労働組合と団塊の世代=戦後世代の問題を提起している理由は自分自身をも含めて日本の戦後リベラルなるものを振り返るためにはどうしてもここを踏み固めざるを得ないのです。

このような文脈において、いま時代に流れている流れを真剣に自分のことに引きつけて考え直す必要があるというところにきているのです。
ここからでないと次の展開は見えないということなのです。

戦後世代の今後の生き方を考える上でも、今月書いている論稿の中で、「一人一つのNPO」という言い方をしていますが、これは何かというと、戦後の日本人のものの考え方の中に、「官主導から民主導へ」とよく言うと思いますが、民主党政権も官主導を否定して政治主導だと言ってみたわけです。
しかし、「官対民」というコンセプトの中に、真ん中のところに「公」という言葉が実は存在しているのです。

つまり、官でもなく民でもないけれども、自分たちが踏み込んで支えなければならないコンセプトとして「公」という部分があります。
しかし、戦後の日本人、特に私たちの世代がそうなのですが、かつて「滅私奉公」と言って、自分を押し殺してでも公に奉仕すべきだという時代があったために、「公」という言葉が大嫌いで、「公」という言葉から逃げ回っていたというのが、おそらく戦後のある心象風景だと思います。
しかし、ごまかしなく地域社会にしても、或いは、どんな社会にしても、公という部分に一歩踏み込んで誰かが額に汗して支えなかったら、「それは官がやってくれればよい」というわけにはいかない部分が必ずあるわけです。
そのようなところに様々な問題が凝縮して現実の日本において出てきています。

その「公」という部分を誰が支えるのか、どのように支えるのかという方法論が議論されなければならないのです。
それが、今後の日本において凄く大事で、これからの高齢化社会において恐ろしい事は、都会でサラリーマンをやっていた人が高齢者になった時にどうするのかといったら、やるべきことを自ら見つけ出さなければならないのです。
やるべき事というのは、誰かが教えてくれるものではなくて、自分たちが強い問題意識をもってえぐり出していくものであって、そこの中から同じく問題意識を持った人との連携や共存していくベースが次第に見えてくるのです。
日本にとって無いのはそのようなコミュニティなのです。
意思疎通を図る場、それが時にはクラブだったりします。
自分たちで仲間をしっかり同じ問題意識をしている人たちを引き寄せて自分たちがつくっていく時代、コミュニティ、アソシエーションと言ってもよいと思います。
そのようなものを日本人が問題意識の中に入れ始めた時に、世の中が変わってきます。
アソシエーションを通じて何をしなければならないかの問題意識が深まります。
そのようなことが凄く大事なのです。

私は高齢者のところに照準を当てて話をしていますが、実は、今回の放送の中で話したかったことが一つあって、それは先月末に文藝春秋の新書から新しい本、『何のために働くのか―自分を創る生き方』を出しまして、これは若い人たちに向けてのもので、私は大学の学長もやっているために若い人と向き合う機会も多いのですが、就職に苦しむというだけではなくて働くことそのものに悩んでいます。
どういう意味かというと、就職が決まったとしても3年で3割転職して自分のやりたい仕事、やるべきだと思う仕事が見えないままに仕事に就いていくために迷いに迷って、また次の青い鳥を追うかのように転職していきます。そうこうしているうちに、若い時代はあっという間に終わってしまうのです。



リベラルの再生はなるか
真の変革への道筋

転載元 寺島実郎の発言
「脳力のレッスン」世界 2013年4月号

ここで「リベラルの再生」とは民主党の復権を意味しない。
なぜならば、民主党のリーダーの多くの自己認識は「保守」であり、政権に就いていた三年余において、この政党は「消費税の増税」と「対米萎縮外交」を政策軸とする「第二保守党」と化し、変革への意思を霧消させてしまったからである。
原点に還り真の変革の基軸について再考せねばならない。

忘れ難い光景がある。
〇九年政権交替の一年半後、既に民主党政権の迷走が顕著であった。
西日本の労働組合運動の大会に呼ばれ話をした翌朝特急に乗ると、前夜熱い議論をした若者たちがおにぎりを届けにきてくれた。
動き出した汽車の窓の向こうで叫ぶ声が聞こえた。
「先生、政権交代って何だったんですか。
本当の変革って何ですか」
リベラルの担い手たるべき労働組合・市民運動も、組織維持のための建前と小成に安んじ、下支えする者の真剣な問いに答えてはいない。

そしてリベラルは消失した

二〇一二年末総選挙の結果をどうとらえるのか。
突き詰めれば民主党への深い失望と第三極なるものへのためらいが、相対的に自民党を浮上させた構図といえる。

民主党への失望とは何か。
それは、政策基軸の迷走に尽きる。
「マニフェスト」に掲げたことを放棄して、「政治的現実主義」の名の下に妥協と変節を繰り返し、自民党が主張していた政策に引き寄せられていった。
それは世界観の欠落と政策基軸への使命感の喪失による。

世界史の潮流が冷戦後二〇年を経て、各民族・国家が自己主張する「全員参加型秩序」に向かう中で、冷戦期の外交の枠組みを見直し、米軍基地や日米同盟を二一世紀にふさわしく再設計すべきだったにもかかわらず、「今までのままでいい」という惰性と思考停止に後退してしまった。

「消費税の増税」も、それまで財政秩序を強い問題意識としてきたのならばともかく、突如「最優先の政治課題」として、党内の仲間を切り捨て野党と手を組んでまで実現を図ろうとする豹変ぶりであった。

3・11を経て、重要課題となった原子力についても、「脱原発」を掲げる一方でその実現には避けられないはずの「日米原子力協定」の見直しに向かうわけでもなく、日米で共同して外国に原子炉を売り込む政策を推進するという矛盾から出ようとしなかった。

あらゆる意味で、民主党は変革の筋道を喪失したわけで、存在意義を自ら否定したのである。

一方、民主党迷走の中で一時は、「維新の会に日本の未来を託せ」といわんばかりの追い風を受けていた第三極も、国民意識に「ためらいと疑念」が生じて失速した。
本来「大阪都構想」を掲げて地方分権を目指す改革勢力だったはずが、「国権の下方」(中央集権を否定するリベラリズム)を志向する軸を失い、国家としての自己主張をことさらに強調する国家主義勢力との連携・統合を図ったことで方向感が見えなくなり、限られた国民の支持しか得られなくなったのである。

自民党への相対的支持をもたらしたのは「景気回復願望」であった。
各種の出口調査での「投票を決めた理由」をみると、「景気回復・経済再生」が国民の願望であったのが分る。
わずか一年前、「脱原発」といって、「戦後経済成長路線への反省」を語っていた空気は一変した。
安倍政権がスタートして調整インフレ論ともいえる「金融緩和と財政出動」に動き、株が上がり、為替が円安に動くと、「現代のええじゃないか運動」ともいえるほど、思考停止の「景気回復ええじゃないか」ムードに酔いしれる有様となった。
あっけないまでの経済主義への回帰である。

二〇年デフレの中で進行した資産家の没落と勤労者の苛立ちの中でインフレ願望が高まることも理解できる。
しかし、かくも日本人は軽薄だったのであろうか。

もうひとつの時代の空気は、近隣諸国との摩擦の中で燻りはじめた「プチ・ナショナリズム症候群」である。
大きな国益を視界に入れたナショナリズムではなく、高々「中国・韓国にはなめられたくない」という次元での小さなナショナリズムにすぎない。
安易な景気回復願望とプチ・ナショナリズムの狭間を迷走する心理、ここに日本の現実がある。

さらに、国民の覚めた心理の背景には、この二〇年間追い求めた改革幻想への疲れが存在する。
まず、細川内閣の一九九三年から九四年にかけて、「政治改革」といって興奮した。
結果は、選挙制度の「小選挙区比例併用制」への変更で、議員定数の削減など代議制の本質的見直しには手を付けず、比例復活の「ゾンビ議員」の輩出など、むしろ政治不信の増幅しかもたらさなかった。

次に、橋本内閣の一九九六年から九八年、「行政改革」といって興奮した。
結果は、中央省庁の再編に帰結し、公務員制度に手を付けない組織の再編統合が、何の行政効率の改善にもならないことを確認した。

さらに、「小泉構造改革」といって興奮したが、本丸とされた「郵政民営化」は実現されたものの、必要不可欠の改革であったのかは今日に至っても疑問である。
一方で、9・11により逆上した米ブッシュ政権のイラク戦争に引きずられ「自衛隊のイラク派遣」へと踏み込んだのもこの政権であった。

そして民主党への「政権交代」と言って興奮した結果が、前述の惨めな結末であった。
改革幻想とともにリベラルへの意思は混濁していった。

◆改めてリベラルとは何か
戦後日本の民主主義を再考する中で
リベラルの語源はラテン語のLIBERで「何ものかに制約されない」という意味だという。
つまり、何かにとらわれたり、こだわることなく、相対的に自由であることから、英語での名詞のLIBERTY(自由)や形容詞のLIBERAL(自由な)、そしてLIBERALISM(自由主義)が派生したという。

歴史的にも変容し、リベラリズムに厳密な定義などない。
欧州における「リベラル」の源流は一七世紀のオランダに辿ることができ、その後のフランス革命や市民革命の底流を支える理念となった「自由・平等・博愛」という志向は、中世的権力・権威からの「個人の解放」を意図し、全体による抑圧や制約に対する個の理性への自覚に依って立つものであった。

ところがその理念が米国に渡ると、建国の理念そのものがリベラリズムであり、皮肉にも「保守勢力」が米国の原点回帰で持ち出す理念がリベラリズムという奇妙な交錯現象が起こる。

佐々木毅は『アメリカの保守とリベラル』(1993年、講談社学術文庫)において、
「ヨーロッパ大陸流にいえば、アメリカの保守主義は自由主義であり、リベラリズムはやや社会民主主義に近いといってよい」
と述べる。

米国の共和党保守派が「ティーパーティー」などを形成し、「大きな政府批判、福祉政策批判」を繰り返すのも、個の自立と自己責任を探究するリベラリズムに立つからに他ならない。

この文脈で考えると、日本の政治思想はより一層複雑骨折していると言わざるをえない。
戦後日本の民主主義を再考する中で、安易な国権主義への即時的回帰が起こる理由を確認しておきたい。

デモクラシーという言葉が、古代ギリシアのポリス政治におけるデモス(民衆)の支配(クラティア)に由来することはよく知られる。
ただし、政治の在り方として必ずしも積極的評価を受けてきたとはいえないこの言葉が、世界の政治的価値の中心に置かれたのは第一次大戦末期に米国のW・ウィルソン大統領が「デモクラシー擁護」を強調して連合国の共通理念としてからであり、まだ一〇〇年も経っていない。

とりわけ日本にとっては「ポツダム民主主義」として与えられたものであり、市民が主体的に勝ち得たものではない。
明治近代化以降も、プロイセン憲法を規範として造られた明治憲法の中で国家至上主義の歴史に生きた日本は、民主主義の危さを常に内在させているといわねばならない。
民主主義が機能しないとなると、すぐに「行き過ぎた民主主義」「悪平等の弊害」が語られ、全体による規律と縛りを主張する上から目線の独善・独裁に拍手を送る誘惑に取り憑かれるのである。

それでも、戦後日本の民主主義に誠実に向き合った人達もいた。

加藤周一は『戦争と知識人』(1959年)で事実を「知ろうとしなかった知識人」を「道義的裏切り」とし、「星菫派」を切り捨てる行動する思想家であった。
本誌に書いた私の論稿「『不必要な戦争』を拒否する勇気と構想」(03年4月号)を読んだ同氏に訪ねていただき対談したことがある。
「不条理に対する直観に結び付いた怒り」が知識人に求められることを、当時八四歳の加藤氏は殺気をはらんで発言していた。
存命ならば、3・11を受けて「反核・反原発」の先頭に立っていたはずで、原子力に関する私の議論とは一線を画すことになったと思うが、ニヤリと鋭い眼光で話を聞いてくれたと思う。

また、敗戦をかみしめ、「平和憲法」を抱えることの意味を思索していた。
国権主義・全体主義的な決めつけを拒否して相対的な見方を探究していた。
民主主義の成熟に向けて忘れてはならない示唆である。

◆新しいリベラルの五つの基軸
価値基軸再建への試論
戦後の冷戦期、まだ「進歩」の思想として「社会主義」が存立していた頃、多くのリベラルを自認する人達は「歴史には必然的発展過程があり、資本主義社会の階級矛盾が深化して社会主義革命が起こる」という必然論を信じた。
しかし、社会主義圏の崩壊によって、こうした認識も霧消した。

歴史に進歩も必然もないのか。
冷戦後の二〇年の迷走の中で、人類は価値座標を見失っているともいえる。
だが、歴史は脈絡のない偶然の繰り返しにすぎないのかというと、決してそうではない。
歴史家トインビーは『歴史の教訓』(1957年)と題する論考で、興味深い「教訓」を抽出している。
英国人らしい総括だが、英国人が歴史で学んだのは
「君主制と共和制の血なまぐさい闘いを通じた節度を重んじる穏健な態度の重要性」と
「米国の独立戦争などを通じた植民地主義の限界についての認識と自治容認の大切さ」の二つであり、
全人類が歴史の教訓として学んだのは
「人間が他人を支配したり所有する奴隷制度はよくない」
ということだというのである。

思い出すのは哲学者市井三郎の『歴史の進歩とはなにか』(岩波新書、1971年)である。
市井は「進歩なるものは、必然的でも連続的でもない」という認識に立って、歴史の進歩とは
「不条理な苦痛 (自分の責任を問われる必要のないことで負わされる苦痛) を減らすこと」だという。
自らの運命を自分で決めることのできない不条理を制度的・システム的に減らすことこそ進歩だという示唆は今日においても重要である。
近代以後を生きる人間として、世界市民としての自覚と人間社会のあるべき姿を探求する意思は、基軸として見失われてはならない。
こうした思索を踏まえ、
「反米・反安保・護憲・社会主義」
がリベラルの柱だった時代が終わり、
二一世紀のリベラルが向き合うべき五つの課題を提示したい。
歴史は条理の側に動くのである。

◆課題一、対米関係の再設計
日米同盟の進化を求めて
独立国に外国の軍隊が駐留し続けているのは不自然だという常識に還ることが基軸である。
普天間基地の辺野古移設、オスプレイ配備、米兵の不祥事、原発事故でのGEの製造者責任、日米原子力協定の今後などこの数年を振り返っても、「米国のトラの尾を踏んではならない」という怯えと固定観念のなかで、なすべき議論をしてこなかった。
米中間で行われている閣僚級の「戦略経済対話」の日米間での実現が「同盟進化」のまず一歩である。

◆課題二、
グローバリズムの中での公正な分配の実現
グローバル化が国境を超えたヒト・モノ・カネの効率的移動を意味するならば、冷戦後の二〇年において「格差と貧困」が助長され、金融資本主義に立つマネーゲームが肥大化したことは否定できない。
健全な実体経済を重視する姿勢がリベラルの基軸にならなければならない。
国際的には「国際連帯税」(地球環境税)のような新しい政策論が求められる。

マネーゲーム抑制も狙いとして「すべての通貨取引に低率の課税をして、国際機関による地球環境対策の財源とする構想」で、欧州などでは先行導入の事例もでてきた。
IMF・世銀も「金融取引税」の検討に入っており、世界のルールになる可能性は高い。
国内でも「競争主義・市場主義の徹底」の潮流の中、格差と貧困の問題は深刻さを増している。
労働人口の三四%が年収二〇〇万円以下という時代となり、一億総中流幻想は吹き飛んだ。
「公正な分配」の基軸を再構築せねばならない。
ただし、丸抱えの福祉や弱者救済を主張する議論には慎重でありたい。
リベラルに立つ者は自立自尊を尊ばなければならない。
「自分の責任のないことで苦しむ不条理」に国や社会が手を差し伸べるのは正当だが、自己規律こそリベラルの原点なのである。
「税と社会福祉の一体改革」が議論されたが、「誰が負担して誰が享受するのか」、公正な分配を探求する構想力が問われている。

◆課題三、平和国家精神の再起動
憲法九条の実体化
大切なのは「平和憲法」の基軸を守り、実体化することだ。
「武力をもって紛争解決の手段としない国」という一九二八年の不戦条約に淵源を持つ基軸は、世界史的にもこれから真価が評価される局面である。
誇り高くこの基軸を守らねばならない。

「戦争のできる国、戦争を支援する国」に日本を変えていこうとするあらゆる動きを拒否するのがリベラルの神髄である。

「アジア非核条約」の提唱など、憲法精神の実体化に動くべき時代だ。
「給料さえ上がれば、戦争や安保のことなど関心の対象外」というのであれば、労組運動は正当性を失うであろう。
自分の頭で考えて不条理に立ち向かう意思、
それが戦後民主主義の基本精神だったはずだ。

◆課題四、原子力再考
リベラル必ずしも反原発でない視座の可能性
リベラルを自認する人たちが「脱原発、反原発」に引き寄せられる心情は理解できる。
「安全神話が崩壊した今、福島の現実を見よ」
「原子力を推進してきた原子力ムラは信頼できない」
「原子力は等身大の技術ではなく、原子核の制御は人間の思い上がりである」
という論点は説得力をもつ。

しかし、本来、リベラルとは人間の理性を重んじ、科学技術と合理性を重視し、人間の理性による制御困難なものへ挑戦する姿勢である。
私は3・11後の原子力を巡る論議で、日本が原子力の技術基盤を放棄することは誤りであると論じた。
IAEAなどの国際機関を舞台にした「世界の非核化」を志向するにせよ、平和利用に徹した原子力の技術基盤と専門人材を維持・蓄積する冷静さが必要だと考えるからである。

これまでの原子力推進体制が正しかったとも、
原子力で電源供給の五割を賄うことを目指した民主党政権下のエネルギー基本計画(2010年)が妥当だとも思わない。
使用済み核燃料という途方もない問題も存在する。

それでも、近隣アジアの原子力開発を見つめるならば、この分野での技術基盤の喪失は、日本の発言力も貢献も失うことを意味する。
日本の反原発運動の弱さは、文化人が旗を振る市民運動という性格が強く、国際政治や産業の置かれた現実を直視した政策科学の議論になっていないことである。

「脱原発」に向かうにせよ、
東芝・日立などが深く関与した「日米原子力共同体」が世界の原子力産業の中核となっているという現実を踏まえ、
「日米原子力協定」をどうするのか。
米国との関係がここでも重要になる。
 
安全保障において「米国の核抑止力」に依存しながら、他方で「脱原発」を実現することは容易ではない。
原爆と原発がコインの裏表だからこそ、しかもそれが現実に存在するという重圧を直視し、理性的に制御する道をとるのも選択である。
 
 
◆課題五、代議制民主主義の鍛え直し
議員定数の削減
政治改革の究極の目標は「政治の極小化」、政治でメシを食う人を可能な限り圧縮することである。
改革幻想を投げ続ける「政治好き」の人たちを跋扈させてはならない。

日本は「平成の市町村合併」によって、一九九八年からの一〇年間で市町村議会議員の数を二・五万人削減したが、国会議員数は米国の連邦議会議員に比べて人口比三倍以上のままである。
民主党はマニフェストで衆議院議員定数を一二〇人削減としていたが、結局「一票の格差」の違憲状態を回避する「〇増五減」だけを決めて総選挙に入った。
自民党も「議員定数の削減」を政策目標に掲げており、いかなる形での成案を示すのか注視しなければならない。

今後四〇年で、人口が二五%減少するとの現実を踏まえ、IT革命による国民意思を直接確認する技術基盤の確立など、代議制民主主義を鍛え直し、少数政党に配慮しながら選挙制度を改正し、政治を弄ぶ人を排除して代議者の削減を実現すべきだ。
練磨の中から真のリーダーが育つのである。
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