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ルーツ・ファンタジー/類似する神話 1

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古事記の中に現れる秘数と神々

古事記にも良く出てくる数字100については、沢山と言う意味だと思われます。
旧約聖書にも沢山という意味で100が出てきます。

「穢れなく疵のない十匹の子羊をここに連れて来なさい。
主なる神に捧げます。
それから、十二匹のやわらかい子牛をつれて来なさい。
司祭と長老の分です。
それから百匹の雄羊は民すべての分になります」
(ヤコブの原福音書 第1章)

神に捧げる十匹の子羊は、ヘブライ語のユッドは数字の10であって、神の力の表現や永遠を意味し、多様性と統一性の象徴で、神を表す神聖な数です。
10や7は、天上界においても聖なる数です。

古事記の中に様々な数字が出てきます。例えば十拳剣、日本のことを大八島国と呼び、八俣の大蛇、ヤタ烏、ヤタの鏡、八幡神社などの八が多く出てきます。
八の意味は、生命の木(7枝樹2神の図柄)の意味で、7枝に幹を加えると8となります。

インドでは生命の木を8匹の蛇(ナーガ)として表わし、まさに八俣の大蛇そのものではないでしょうか。
古事記にも多くの聖なる数が記述されており、シュメル古文書、旧約聖書と同じ神々の文明を引き継いでいるのです。

■古事記に出てくる秘数(数値)

イザナギがイザナミを追いかけて黄泉の国を探検する神話には、八種の雷神、千五百人の黄泉の軍勢、十拳剣、千引の岩、千五百の産屋など、8,15,10という数値が多用されています。
8は生命の木ですからヤハウエ、死者の千(10)は黄泉の国のドムジとその妻・冥界の女王、産屋による生命の創造は人類の創造者=人類の母=地母神=ニンフルサグの15を暗示しており、古代シュメルの神々が古事記に再現されています。

イザナギ・イザナミ夫妻は、聖書ではテラ夫妻に相当しますが、黄泉に下る物語は存在しません。
つまり、古代シュメル・エジプト・聖書でもエンキとニンフルサグが、人類の生と死を支配しているという物語に対して、この物語は、人の生と死を明確に分けることで、以後の大和民族が冥界や地獄や原罪にとらわれることなく、充実した人生を生きていくことが出来るように挿入されたのだと思われます。

◆イザナギの冥界下り
黄泉の国で、イザナギ命が見たイザナミ命の身体には蛆がたかり、八種の雷神が成り出ていた。
これを見たイザナギ命は驚き恐れて逃げ帰るとき、イザナミ命は八種の雷神に、千五百人もの黄泉国の軍勢を従わせて追跡させた。
十拳剣を抜いて追い払われた。

尚、ギリシャ神話では琴の名手オルペウスが妻を救いに冥界に下る。
しかし、地上に着くまで後ろを振り返ってはいけないという命令を破ってしまい、妻を連れ戻すのに失敗する。
鶴の恩返しも同じで、女性の望む約束を男性が破ることの結末を教訓として教えている。

◆八種の雷神について
イザナミから生まれた雷神は、大雷、火雷、黒雷、折雷、若雷、土雷、鳴雷、伏雷の八神。
それぞれ雷の力と再生を示している。
ヤハウエと七大天使だと思われる。

それにしても、
何故冥界から、何故天照の別神として…

◆高天原の不死鳥伝説
最後にイザナミ命が追いかけてきて巨大な千引の岩を挟んで、夫婦離別の言葉を交わす。
イザナミ命が
「私はあなたの国の人々を、一日千人絞め殺しましょう」
と申した。
するとイザナギ命が
「私は一日に千五百の産屋を建てるだろう」
と仰せられた。

(関連して、高天原でスサノオに殺されたオオゲツヒメから、蚕、稲、粟、小豆、麦、大豆が生まれた。
そして、神産巣日(カムムスヒ)の母は、これを取らせて、五穀の種となさったとあります。

イザナミは死して蛆がたかり新たな生命を与え、オオゲツヒメは死して食料と衣服の基本である五穀と蚕が取れる。
両者に共通しているのは、不死鳥伝説と同じで、死して後、新しい生命に生まれ変わっている点です。
アヌンナキの神々が穀物や家畜を地上にもたらしたように、神々は高天原から生活に必要な食物などを日本にもたらしたということを述べています)

◆母マリヤ様とイエスの秘数
下記のパウロの黙示録から、千は再臨のイエスを表している。
サタン・ダビデ夫妻が、イエス母子を殺害し、再臨のキリストに化身していた事が推論されるのです。
神々のランクでは、妻は夫神の半分の数値を与えられるので、五百は聖母マリヤに化身したサタン・ダビデの妻だと推測されます。

「君が宣べ伝えているキリストが来て支配をするようになると、神の力強い言葉によって今ある第一の地は解消し、この約束の地が現れる。
それはちょうど雲のように現れるだろう。
それから、永遠の王であるイエス・キリストが啓示される。
彼は自分の聖者すべてを従えて来て、そこに住み、千年の間そこを支配する。」
(パウロの黙示録 地獄 31)

「一人の乙女が遠くから来るのが見えた。
二百人の天使が彼女の前を賛美歌を歌いながら歩いていた。
わたしが、『こんなに見事な姿で歩いてくるあの女のは誰ですか』とたずねると、天使は、
『それは主のマリヤだ』と答えた」
(パウロの黙示録 パラダイス・第二 46)


■古代日本の二人の農耕神
農業の指揮官について

不思議なことに、天照大神の天の岩戸神話に出てくる六神の中には、農耕神が不在です。
また、景行天皇の時に、屯家(朝廷の直轄領で、農地と耕作農民を含む)と田部(屯家の耕作に従った農民)を定めますが、やはり農耕の指揮官が見あたりません。
この農耕神、即ち豊饒をもたらす神は、常世国から訪れると考えられていた。
常世国は、海の彼方にある異郷で、生命の根元世界とされている。
つまり、海路で日本に渡来した農耕神、即ちはスクナビコナ神は、海路(海のシルクロード)でオホナモチ神の元へやってきたのです。

◆スクナビコナ神は、神武天皇と同じ海路、エジプト→インド経由で日本に渡来した!?
スクナビコナ神
(カムムスヒ神の手の指の間から洩れた神)

この神様は小人の神で、常世国から訪れる農耕神です。
オホナモチ神とともに、国造りを行った。

垂仁天皇は、常世国から香りの良い橘を求めさせられた。
そして、縵橘八本、矛橘八本を、タジマモリは持ち帰った。
橘は生命力が強く、生命の木ともいうべき橘が、常世国からもたらされた。

※この常世国はエジプトのことだろうと推測する。

つまり、生命の木を描いた7枝樹2神の図版から、7本枝に1本の幹の8は、生命の木を意味していおり、八本の橘は生命の木の意味だろう。

(つまり、生命の木を現す八は常世国のシンボルだということが明らかになりました。
常世国のスクナビコナ神が、枕詞が八雲である出雲、大物主の神に協力したのは、スサノオもスクナビコナ神も出雲系の同族だったと推測されるのです。

関連して・・・)

アヌンナキにより与えられた穀類他は、例えば古都ニプルの農業試験場のような所に保管されていた。
農業神ニヌルタが管理していたのだろう。
そして、テラがティルムンに向かう時、穀物の種や稲を携帯して旅立ったのだろう。



テラの跡を継いだアブラハムは一族と共にこれらを携えて移動した、定住後に農耕神を招いたのだと思います。
この推測が、イザナミ、オオゲツヒメから稲を含む様々な食物が誕生する神話へと形を変えていったのではないかと推測されないでしょうか。

つまり、出雲系のスクナビコ神以外にもう一人の農耕神が、稲作他を日本に伝えている。
それは、陸のシルクロードを通じて、稲族の風俗を取り入れ、イザヤの時代に日本に渡来したユダヤ人グループ(姉は太陽神の巫女、弟二人)、
つまり大和民族だということでしょう。

■大国主命の神器

大国主命には合わせて五つの名(注)があり、「八千矛神」はその一つです。
矛には霊媒の意味があります。
大国主命は、スサノオの神殿で三種の神器を手に入れ、帰国後に国造りを行っています。
スサノオ=アブラハムであれば、その五代目=ベリア=神武天皇、六代目=大国主命と言うわけです。
つまり、ベリアの時にヨブ一族を引き連れカナンの地を旅立ち、六代目で到着して国造りを行ったという物語が、隠されているはずなのです。



オオムナジの神がスサノオ命の所(根の国)に入り、スサノオが寝ている隙に、スサノオ命を垂木に結びつけ、スサノオの娘で妻のスセリビ姫を背負い、スサノオ命の宝物である「生太刀・生弓矢・天の詔琴」をたずさえて逃げた。

天の詔琴に関連して、旧約聖書のなかで楽器について

「その弟ユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての祖先となった」
(創世記4章)

「太鼓や琴で喜び歌って、送り出してやったものを」
(創世記31章)

とある。
さらに、出エジプトの時に、主は、ユダ族のフルの孫を名指しで、すべての工芸についての智恵・英知・知識を与えています。
このように、工芸や音楽についても、イスラエル部族が引き継ぎ、日本神道の秘法として守られてきたのです。



そこでスサノオ命は、黄泉比良坂まで追いかけて来て、
「お前が持っている生太刀・生弓矢で、お前の腹違いの兄弟を追い払って、貴様が大国主神となり、また現じ国魂の神となって、私のスセリビを正妻として、宇迦の山のふもとに、底つ岩根に太い宮柱を深く掘り立て、空高く千木をそびやかした宮殿に住め」
と仰せになった。



この神器で兄の八十神を追い払って、スサノオ命の言うとおり、大国主命神となり国造りを始めた。

『記紀』には国造りの具体的な物語についての記載はないが、
733年成立の『出雲風土記』には
「かつて島根半島は、海に浮かぶ島だった。
それが長い年月を経るうちに、斐伊川から流れてくる土砂が堆積し、西側が陸続きになって、肥沃な出雲平野を作り出した。
出雲の国引き神話は、こうした自然の地形変化を、神話として語り継がれた…」
(古代七大王国の謎P141-142)

とあり、同書には国引き神話による4回の土木工事の様子が記載されています。

おそらく、ノアの大洪水後、南極と北極の氷山が形成されても、島根半島は、海に浮かぶ島だった。
ニギハヤヒ命の天孫降臨に伴い、大土木工事が行われ、肥沃な出雲平野を作り出したのだと思います。
また、「天橋立」は古くは「天椅立」と書き、梯子の意味だった。
つまり、ヤコブが見た神の梯子と同じ由来ではではないでしょうか。

ヤコブが見たのは梯子をつたって上り下りする様でしたから、この島根半島に港があったのでしょう。

この大国主とスサノオ神話には、アヌンナキにも似た物語が存在しています。

イナンナは、『メ』(アヌンナキ文明の記録装置)を持つエンキの宝石を散りばめた煌びやかな宮殿を訪問する。

イナンナがエンキを酔わせて、エンキが管理する『メ』(命盤)を奪って逃げ出す。

その結果として、「メ」に記録されている都市国家建国の為の科学技術・法学・農学・他の知識と技術を活用し、イナンナ女神の支配するインダス文明が勃興した物語と、オオムナジの神がスサノオ命から神器を奪う物語が、酷似しているのです。

おそらく、大国主命の物語は、このエンキとイナンナの物語をベースにしたのだと推測されます。

その証拠として、天鳥船=航空船で出雲に飛来したこと、
そして神殿=出雲大社に、ロケット(千木)の格納庫兼発射場を作ったことが、古事記に記録されています。



天照大神は、天鳥船神をタケミカヅチの神に副えて、葦原中国に使わした。
そして、出雲の国に着いた。



大国主命は国譲りの条件として、地底の盤石に宮柱を太く立て、大空に千木を高々とそびえさせた神殿をお造り下さるならば、私は百足らず八十クマ手に隠居しましょう。

◆根の国はエジプト
大国主命が五つの名を持つことに関連して、
・・・
エジプトのファラオには5つの名がありました。
(出エジプト記の秘密P21)
このファラオの5つの名は、おそらく神々のランク50を真似たもので、エジプトでは中央を意味している。
つまり、エジプトの創造紳=プターであるエンキは、新たに自分が創造神(人類に息を吹き込んだ神)となる神々のランクとして5を考えだし、エンキの支配するエジプトが地球の中心であり司令室だという意味を持たせたのだと思われます。

また、イスラエル人はアヌンアキ宮殿の神官・テラや王族であるアブラハムの知るアヌンナキの知識を引き継ぎながら、ヨセフの時から出エジプトまで約430年もの間、エジプトに居留している。

つまり、大国主命の名が5つの名を持つのは、神々のランクが5なのではなく、おそらくファラオと同じ習慣を共有していたからだと推測されます。

更に5が世界の中心だという発想は、東洋占星術、「旧事本記」にも引き継がれています。

このように、イスラエルのみではなく、エジプトの習慣の多くが日本に取り込まれている。
他にも

「主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた赤い色を御覧になって、その入口を過ぎ越される。」
(出エジプト記12章)

と、ヘブライ語とアラム語の旧約聖書を元にした『出エジプトの秘密P46』に記述されています。

つまり、日本の神社に在る赤い鳥居は、「過ぎ越し」を意味しているのです。
このように、日本神道にも、イスラエルの秘法にも、エンキが多く関与していることがわかります。
そして、エンキのエジプトを「根の国=黄泉の国」と記録させることで、サタン・ナブーは人類を創造したエンキを悪役に仕立て上げようとした。


◆箸墓はトート神が設計した
最古の前方後円墳の一つの箸墓古墳について、宮内庁では『日本書紀』に記述されている「倭トト日百襲姫」の墓としている。
『日本書紀』によれば、崇神天皇が災害が続くので神々を祀って占ったところ、三輪山の大物主神が、孝霊天皇の皇女で、崇神天皇の叔母の日百襲姫に「われを祀れ」と託宣した。
その神社が日本最古といわれる大神神社である。
その後、日百襲姫はこの神に仕え、妻(神妻=神の巫女)となったが、夫神の姿を見たいと願った。
ところが小さな蛇の神の姿を見て、驚いてしまった。
神は辱めを受けたとして、姫を箸に刺して殺してしまう。
その為に、日百襲姫の墓は、箸墓と名付けられているが、不思議なことに、昼は人が造り、夜は神が造ったと言われています。

この伝承はソロモン神殿の建立時にも同じような伝承が残されており、偶然とは思えません。
ノアの箱舟の建造も似たような事情にありました。


◆八重垣について
スサノオ命は大蛇を退治し、その尾から草薙の剣があらわれ、天照大神に献上された。
その後、新居の宮の土地を出雲に探した。
須賀の地に来て「我が御心すがすがし」と歌を作られた。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」

と歌われ、この宮の首長に名を与えて、稲田宮主須賀之八耳神と名づけられたとあります。

このように八重の垣を、しかも三回も繰り返している。
何重にも厳重に防備する必要があったのでしょう。

◆大国主命は太陽神だった
三ノ輪山の大宮神社は、三ノ輪山を神として祀つっている。
古代には三ノ輪山山頂の高宮神社が太陽神の祭祀行う場所で会った。
のちに麓の神坐日向神社で、太陽神の祭祀が行われるようになった。

大物主神と大国主命は同一視されるが、日本神話では大物主神は大国主命を守る神で、大国主命より格の高い神であるとしている。
つまり、太陽神である天照大とその巫女・大日巫尊の関係と同じだろう。
     

■八咫烏の紋章について

神武天皇は大和に入り永く過ごされた。
ある時、尾のある人(樵夫は腰に動物の毛皮を付ける風俗があった)に道で遇い、八咫烏の導きで吉野に入られた。
忍坂では歌舞を合図に八十建を討ち、賊を従わしめられた。
また、尾の生えた人が井から出てきた。
その井の中は光っていたとあります。
尾のある人が樵(きこり)であれば、サンカでしょう。
サンカは金採掘に使役されていたとも云われ、「井の中は光っていた」という記述は、金採掘のトンネルもしくは、井戸のような縦穴のことだったのだと思います。

また、烏は古代中国では太陽の象徴。
八咫烏の三本足は三位一体。
つまりヤタガラスは、太陽神・天照大の象徴だと思います。
20世紀末に現れた八咫烏が蛇を踏んでいる紋章は、フランスに在る聖ミカエルがサタンを踏みつけている銅像とも重なり、聖ミカエルがダニエルの預言通り、最期の審判を執り行われていることを象徴しているのだと思います。

◆ノアが放った八咫烏
ノアの大洪水が徐々に治まり、太陽が顔を出したときにノアが箱船から放ったのは、「鳩・燕・大烏」の三種類だった。
鳩も燕も神聖な鳥とされている。
この「大烏」は、日本では神武天皇を救った太陽神の使い「八咫烏」と云うのだが、英国でも神聖な鳥とされている。
「八咫烏」の三本足は古事記の基点である三柱のみ柱をイメージしており、その中心の「天の御中主」は「ノア」その人である。
だから、「八咫烏=大烏」は神聖な使いとされたのでしょう。

日本神話には、このように旧約聖書と大和民族の歴史とが重層的に重ね合わされており、表層的には歴史的事実ではなく、架空の神話と解釈されてしまいます。
しかし、記紀を残した当時の実情を知れば、大和民族の出自を隠蔽し、暗号化して封じ込める必要があったのです。
あたかも、聖書の暗号のように。


■葛城王朝9代(神武天皇から開化天皇)の謎

下記に、葛城王朝9代(神武天皇から開化天皇)までを『古事記』に従い書き出しました。

3代天皇以後総てに、「日子」の文字があり、太陽神の日継を表していると思われます。
また、ヨシュアは神武天皇から7代目ですから、孝元天皇に当たります。
孝元天皇は孝霊天皇の時に、吉備国を平定しており符合します。

しかも、この孝元天皇と孝霊天皇には、「根子日子」の文字が入っており、根の国=エジプトの御子であり、エジプトの太陽神ラーから太陽神の御子でもあることを象徴していると思われます。
血統の絶えない万世一系の皇室であれば、モーセを孝霊天皇として、婉曲に天皇記の中に記述したのではないでしょうか。
つまり、出エジプト時に、エジプトと関係のあるヤハウエの皇統については、天皇名の「根子日子」はエジプトから日子(約束の地カナン)への移動という意味なのだと思います。
しかも、モーセはアロンの弟で、孝霊天皇は次男であり、兄弟関係に対応があります。

従って、孝霊天皇,孝元天皇,開化天皇は、それぞれモーセ、ヨシュア、ユダに、吉備国はカナンの地に相当することを暗に述べているのだと思います。

さらに、崇神天皇と崇神天皇の子である垂仁天皇には、根子の代わりに、イリビコ(入日子)が入っており、カナンの地に入ったことを意味していると推測されます。

不思議なことに、神武天皇と崇神天皇が、両者共に建国者として記録されております。
おそらく、ヨシュア後、元々エサウ一族の領地内ではあるが、この地でイスラエル人の集団により神権的な王国が形成され、その初代が神武天皇だったのでしょう。

北イスラエル滅亡後、エジプト・インド・海経由で、日本に向け移住し、崇神天皇の時に日本国が形成されたのだと思います。

一方、ダビデ王は2代目の王ですが、イスラエル王国を実質的に建国したので、「御肇国天皇」に相当し、崇神天皇とダブって見えます。
さらに、ダビデの子ソロモンは、神の神殿を建築したので、伊勢神宮を建造した崇神天皇の子垂仁天皇とダブって見えます。

ところが、初代イスラエル王国のサウル王に当たる開化天皇については、『記紀』共に殆ど記述がありません。
サウル王は
「彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」
(サムエル記9章2)
とあり、
かつダビデを憎み神の意志に反してダビデを殺そうとした。

仲哀天皇に関しては、
『古事記』では神託を無視したために神に殺されたとあり、
『日本書紀』には「天皇は容姿端正で、身丈は十尺(約3M)あった」と記述されており、サウル王と非常に似ています。
このように天照大の皇統には、モーセから始まるヤハウエの皇統に関連した史実が、暗黙の内に反映されていると思われるのです。

1.神武天皇(カムイワレビコ:神倭伊波礼毘古命)
137才(4子の末子)

2.綏靖天皇(カムヌナカハミミ:神沼河耳命)
45才(3子の末子)

3.安寧天皇(シキツヒコタマデミ:師木津日子玉手見命)
49才(1子のみ)

4.懿徳天皇(オホヤマトヒコスキトモ:大倭日子スキ友命)
45才(4子の次男。末子が双子。)

5.孝昭天皇(ミマツヒコカエシネ:御真津日子訶恵志泥命)
93才(2子、長男)

6.孝安天皇(オホヤマトタラシヒコクニオシヒト:大倭帯日子国押人命)
123才(2子、長男)

7.孝霊天皇(オホヤマトネコヒコフトニ:大倭根子日子賦斗ニ命)
106才(2子、次男)孝霊天皇のカ所に、孝元天皇が、吉備国を平定。
⇒モーセを暗喩で表している。

8.孝元天皇(オホヤマトネコヒコクニクル:大倭根子日子国玖琉命)
52才(8子、長男)
⇒ヨシュアを暗喩で表している。

9.開化天皇(ワカヤマトネコヒコオホビビ:若倭根子日子大毘々命)
63才(5子、三男)

10.崇神天皇(ミマキイリビコ:御真木入日子命)
古事記に「初国知らしし御真木天皇」、書記の崇神紀十二年の条にも「御肇国天皇」よと称えられた。
古事記に「神武天皇」は「神倭伊波礼毘古命」と記され、
書記には「初馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と記述されている。
⇒ダビデ王を暗喩で表している。

11.垂仁天皇(イクメイリビコイサチ:伊久米伊理毘古伊佐知命)
垂仁紀には、倭姫命は天照大神の神霊を奉じて、鎮め祭るところを求めて大和の宇陀・近江・美濃をへて伊勢国に至ったと記している。
これは伊勢神宮の紀元として記されたものである。
伊勢神宮が皇室と関係の深い神として祭られるようになったのは六世紀頃からであり、伊勢神宮が皇室の氏の神を祭る神社となったのは、壬申の乱以後であろうと推定されている。
垂仁天皇は、皇后に「すべての子の名は、かならず母親が名づけるものであるが、何とこの子の名前をつけたらよいであろうか」と仰せになっています。
この風習と同じことを、旧約聖書の風習としてシッチン氏が述べております。
⇒ソロモン王を暗喩で表している。

日本人はブル人(ユダ族)の子孫だということ、
仲哀天皇はナブー=ダビデに殺されたとありました。
つまり、仲哀天皇をサウルト仮定すれば、ぴったり符合してしまいます。

◆吉備国について
上述では、吉備国は、モーセとヨシュアが支配したカナンの地に相当するとしました。
ここでは、日本の吉備国の様子を『古代七大王国の謎』から抜粋して紹介します。

紀元4から6世紀、岡山県と広島東部を含めた一帯に、高度な製鉄技術で繁栄し、日本で四番目に大きな前方後円墳と巨石墳を造った吉備国がありました。
当時の鉄は、農業や開墾の土木器具、武器として使われ、支配層の富と権力の象徴でした。
また、土器づくりや製塩、ガラス生産が盛んでした。

隣の島根県にある出雲王国では、日本最大の銅剣が出土しています。
この大量の銅は中国からの輸入だったことが分かっています。

「真金吹く吉備の山中帯にせる細川谷のおとのさやけさ」
(古今和歌集)
とあり、
吉備の枕詞の「真金」は鉄、
「吹く」は精錬のことで、吉備が製鉄の産地として知られていたことが分かります。

『日本書紀』によれば、崇神天皇は、孝霊天皇の子の五十狭芹彦を派遣し、吉備の温羅(ウラ)を討ち取り、武力征服したと述べている。
そして、日本武尊の名の由来と同じパターンですが、ウラを討ち取ると、ウラの恭順の印として、吉備の名を五十狭芹彦に与え、以後吉備津彦と名乗る。
吉備臣の祖となった。

余談ですが、この吉備の子孫と阿倍仲麻呂が、日本最大の陰陽師 安倍清明と深く関わっている。
さらに、記紀によれば、景行天皇、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇、雄略天皇、舒明天皇がそれぞれ吉備出身の女を妃としたとある。

つまり、二つの王朝が平和裏に一つの統一王朝に融合したことを意味している。

以上のことから、出雲から王妃を神武朝から王を出し、統一王国として大和朝廷が成立したケースと同じだと考えられます。

更に、神社の伝承から、ニギハヤヒ命の子孫の物部氏は、神武天皇を即位させており、協力関係にあった。
また、先土器時代の遺跡があり、石器が出土している事から、吉備国はノアの大洪水以前からの鉱山地帯で、ニギハヤヒ命の飛来以前から金属精錬の技術者とその民(カナン、カイン、ハム一族)が定住していたと推測されます。
だとすれば、ニギハヤヒ命の出雲国が吉備国を従えていたように、皇室もまた、吉備国を武力ではなく統一王朝の形式で平和裏に融合した。

結局、出雲神話に封印された内容は、
兄エサウの弟ヤコブへの王位禅譲、
大国主命の神武天皇への王権禅譲、
出雲王国と神武系氏族との統一王朝の三重構造になっていたのと同様に、
吉備神話もまた、
ノアの大洪水以前に在った鉱山、
ヨシュアのカナン入り、
日本の岡山にある吉備王国と神武系氏族との統一王朝の三重構造になっています。
同じ天皇記なのに、『古事記』と『日本書紀』で異なった記述があたとしても不思議ではない。

従って、出雲国も吉備国も、神武王朝に恭順した形で大和国の建国を補佐したとすれば、大国主命が呪う必要はない。
つまり、大物主神の代わりに、大国主命を新たに設けた。
それは、ニギハヤヒ系一族と神武系一族を反目させ、大国主命=呪う神としたかったのだと思います。

また、大国主命の国譲りでは、
「私は遠い遠い幽界に引退しておりましょう」とあり、
出雲国に「死者の行く世界(根の国)」の偽イメージを加筆させてもいます。

他にも、『古事記』には、日本武尊は自分の刀を木刀に代え、出雲建と刀を交換し、出雲建を討ち取る物語があります。
『日本書紀』では、出雲フルネは自分の刀を木刀に代え、兄弟で刀を交換し、兄が弟を討ち取る話とそっくりです。

ちなみに、出雲フルネの弟は、崇神天皇の命令に従い、兄が留守であったが、出雲神宮に奉納されている神宝を渡している。
この事に怒った兄は、弟を殺してしまう。
日本武尊の物語は、この兄弟の物語を取り込み、故意に出雲と神武氏族の反目を伝えたのかもしれません。

伝説によると
「ウラは鬼だった。崇神天皇の頃、異国から鬼神が空を飛び続け、吉備にやってきた。この鬼神はウラといい、『吉備冠者』とも呼ばれた。
ウラの身長は、約4.2メートル。
両眼は虎や狼のように光り輝き、ぼうぼうと茂る顎髭、頭髪は赤い」
とある。
そしてウラは鬼の城を築いたという。
つまり、ウラはUFOで吉備に飛来し、製鉄技術を伝えた巨人=赤鬼だったのだろう。

「ウラ」に関連して、「浦島太郎」の本名は「浦(ウラ)の嶋子」で、
「ウラ」を鬼に変えると、「ウラの島子」は「鬼ヶ島の子」に成る。
おそらく、製鉄や精銅を行っていた「鬼ヶ島」の男子が、竜宮城へ行き、その技術を習得する物語なのかも知れません。

もしかしたら、浦島太郎はヤペテの子孫で、製錬技術の習得と外国暮らしもあり、髪の毛が赤く焼け、目の色が薄くなったのではないでしょうか。

◆古代日本とUFOの深い関係
浦島太郎伝説なのですが、亀に似たアダムスキー型UFOに浦島太郎が搭乗し、竜宮城に行った。
そして、契約の箱などアヌンナキ文明によく出てきますが、浦島太郎は玉手箱を持って、生まれ故郷に戻った。
ところが、300年後で知り合いが誰も居なかった。

一方、『記紀』によれば、物部一族の竹内スクネは、神功皇后(仲哀天皇の皇后)と常に行動を共にし、約360才の長寿だったと記述されています。

この二人、浦島太郎と武内スクネは、長寿という点だけではなく、海神という共通点もあります。

更に、浦島伝説の発祥は、近江にある丹後一の籠神社=元伊勢籠神社で、その栞によると、
「元浦嶋、元竜宮、常世信仰発祥の故郷」、
祭神は彦火明彦(ニギハヤヒ命)との事。

元々、籠神社は豊受大神を祭っており、後に伊勢神宮が建立され、豊受大神は天照大神の命令で伊勢神宮に移動したと云われている。
元伊勢とは、天照大神が伊勢へ鎮座するまでの仮宮だった。
同時に、籠神社は伊勢神宮と同じく、天照大神と豊受大神を祀るようになったとのこと。
(『「お伽草子」謎解き紀行』 P114-115より抜粋)

また、ニギハヤヒ命は天磐船で降臨していること、
ニギハヤヒ命の子に天香語山命が居り、
籠神社の「籠」はUFOの事で、更に「羽衣伝説」との深い関わりが、推測される。

「天の羽衣伝説」が残されている丹後で、天女の名前は「豊受大神」で、豊=エジプト=海神との関係が明白で、持統天皇は万葉集に

「春過ぎて、夏きたるらし白栲への、衣乾したり、天の香具山」

と、歌っている。

おそらく、この初夏にエジプトからの使者が、日本に飛来して宿泊していることを述べたのではないか。
更に、エジプトの神「豊受大神」は、伊勢神宮の御神体(ヤタの鏡)を祀る内宮に付き添うように、外宮に祀られています。
しかも、内宮から外宮への石灯籠には、十六菊花紋とダビデのマークが刻まれているのは、御存知のことだと思います。

日本書記は藤原氏の時代に完成し、天照大神が明示されました。
藤原氏はエジプトや金との関連が深く、藤原氏の始祖はエジプトの太陽神の神官だったとも伝えられていることから、イスラエルのエフライム族の始祖ヨセフと、その妻(ジプトの太陽神の巫女)に関連があるのだと思います。

青森県にある戸来村(現在は三戸郡新郷村)には、生まれた子の額に十字を書き、手編みの籠に入れて育てるヘブライの習慣が、今は廃れていますが、以前には残っており、イエス様の墓やイエス様の弟の墓が残っていると伝わっています。


■呪う神の支配

崇神天皇の六年、「天照大神・倭大国魂の二神を、天皇の御殿の中にお祭りした。
ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。
そこで天照大神を豊鍬入姫命に託し、大和の笠縫邑に祀った。
堅固な石の神の降臨される場所を造った。

また日本大国魂神(大物主神)は、渟名城入姫命に預けて祀られた。
ところが渟名城入姫命は、髪が落ち体が痩せてお祭りすることができなかった。」とある。
(日本書紀 上P122)

その後、三輪の神(大物主神)と結婚した百襲姫に、大物主神が
「もし、私を敬い祭るなら平穏になる」
と神託を下した。

垂仁天皇の25年、
「天照大神を豊鍬入姫命からはなして、倭姫命に託された。
倭姫命は大神を鎮座申し上げるところを探して、宇陀の篠幡に行った。
さらに引き返して近江国に入り、美濃をめぐって伊勢国に至った。
その時、天照大神は、倭姫命に教えていわれるのに、
『伊勢国はしきりに波の打ち寄せる、中心ではないが美しい国である。
この国に居りたいと思う』と。

そこで大神の言葉のままに、その祠を伊勢国に立てられた。
そして齋宮(齋王のこもる宮)を五十鈴川のほとりに立てた。
これを磯宮という。

天照大神が始めて天より降りられたところである。」
(日本書紀 上P143)

「倭大国魂神がのりうつっていわれるのに、
『最初に約束して、天照大神はすべての天原を治めよ。
代々の天皇は葦原中国の緒神を治め、私には自ら地主の神を治めるように』
ということであった。
…渟名城入姫命は、すでに体がやせ弱っておりお祭りすることができなかった。
それで長尾市スクネに命じて祀らせたという。」
とある。

齋王は天照大神を祀る巫女の事とされています。

また、倭大国魂神について
『私には自ら地主の神を治めるように』
とあります。

つまり、天照大=ヤハウエと倭大国魂神=大物主神が、古代日本に一緒に渡来し、崇神天皇の時までは一緒に祀られていた。
ところが、ここに地上の覇権に対し、善と悪の闘いがあり、勝敗の決着が付かず、分かれて祀ることになったのだと推測されるのです。


■善と悪の最終戦争と、神の秘宝

 『記紀』には、神の系譜と皇子の系統について述べられていますが、神とは何か、神道とは何か、日本人とは何かについては、明確に述べられていません。

例えば、モーセの幕屋の構造、ソロモン神殿の建造であれば、神からの御指示が事細かに記述され、神の主旨も教義も明確でした。
ところが、『記紀』には、皇室から伊勢神宮への神器の移動についても、神道の教義についても、本当の理由については、直接に触れられていません。
つまり推測せよと言うことなのです。

他にも、皇極天皇の時、蘇我氏の没落を伊勢の大神の使いの者が知らせています。

「蘇我大臣蝦夷と子の入鹿は、家をウマカシノ岡に並べて建てた。
・・・
池を掘ってとりでとし、武器庫をたてて矢を貯えた。
常に五十人の兵士を率いて護衛させ家を出入りした。
・・・
四年春一月、岡の峰続き、あるいは河辺、あるいは宮寺の間に、遙かに見えるものがあり、猿のうめくような音を聞いた。
ある時、十ばかり、ある時は二十ばかり、行って見ると、物は見えなくて、
なお鳴きうそぶく声が聞こえた。
しかしその姿を見ることは出来なかった。

古い本に、この年、京を難波に移し、
板蓋宮が廃墟となる兆しであるとした。

人々は、“これは伊勢の大神のお使いである” といった。」

もし、これが聖書であれば、天使が預言者に現れ、ヤハウエの御言葉を伝えるので、天使の性格を知ることができます。しかし、『記紀』にはそのような場面は描かれていません。

一つには、唐による日本の属国化に関連して、あくまでも漢字で書かれた『記紀』は、外国から日本を守るための外向けのものだったことが、反映しているのだと思います。
そして最大の理由は、天照大が大和民族に天使を通じてあからさまに介入してしまえば、敵対する倭大国魂=呪う神が、新旧約聖書にあるような大混乱を再び、大和の地で繰り返すことを予想されたからでしょう。

であれば、本当の神道の姿を残した古文書、もしくはイスラエルの正当な末裔であることを明かす神器がどこかに、隠されているはずです。
『旧事本記』もその一つでしょうが、秦氏が握っています。
また天皇家と六家の秘法は、古史古伝として世に出ているものもありますが、
『記紀』同様、核心が失われてしまっているように思われます。
 
 
 

■ユダヤ人と日本人

『列王紀下 17章』に記されているように、主に従ったユダヤ人は国を追われ、イエス様を殺害したと濡れ衣を着せられ、キリスト教会から迫害された流浪の民です。

一方、日本に渡来したイスラエル人は、安全と水はタダで、世界にも希な天皇制を基盤とした立憲君主国となり、西洋諸国(ヤペテ)の植民地支配を受けなかったのみならず、大東亜戦争に敗北はしましたが、植民地支配の帝国主義を終焉に導きました。

しかし、残念な事に、中国、ベトナム、カンボジアは共産主義国となり、今でも苦しみが続いています。

元は同じイスラエルの民であるにもかかわらず、歴史の変遷から神との関わり方が異なるグループが誕生し、いかに異なった民族性を持つに至ったのかを、
『日本人とユダヤ人』を概説することで説明します。
同時に日本人の神に対する民族的な欠点も浮き彫りになってしまいます。

一方で本著者は、日本人はキリスト教徒、ユダヤ教徒、仏教徒である前に、日本教徒であり、
正確に記すと日本教徒・キリスト派、日本教徒・ユダヤ教派、日本教徒・仏教派になると述べており、
日本人としてのアイデンティティを失うことは無いとのこと。

同じく、中国で誕生した孔子の儒教ですが、日本式儒教として武士が取り入れました。

この日本教こそが、
旧約聖書の預言、神道や武士道、日本独特の風土などを元に、神々の御方針から生まれた日本人の共通認識、
君臣一体の統治形態=天皇制なのです。


◆ユダヤ人と日本人の差異
ユダヤ人は、
自分の生命の安全を第一に考え、他の支出を削るだけ削ったとしても当然。
19世紀、ロンドンからドーバー迄行くのは命がけで、女一人で行くのは気違い沙汰。

日本では、水と安全はタダ。
東海道五十三次を女一人で旅が出来た。

ユダヤ人は、
居住区(ゲット)があればそこで暮らすが、
なければ、ユダヤ人と分からないように、最も敬虔なカトリック教徒として振る舞う。

日本でそれは、
わずかに、隠れキリシタンに見られるくらい。

ユダヤでは、
戦争、ジェノサイド、差別、迫害から、安全を確保するため、城壁を作る。
また、地下道で水を確保し、伝染病対策に下水が絶対に必要。
ユダヤ人の人災は、何千年もじりじりと続いて、いつ果てるとも知れない。
この為、安全を確保し、子々孫々までなんとか粘り強く生き抜く必要がある。

日本では、
城壁都市がない。
周囲は海という浄化槽があり、流れの速い短い川が天然の清掃装置だった。
日本人の危険なものは、
「地震・雷・火事・おやじ」で、
人災は「天災への配慮不足」の意味程度。

ユダヤでは、
将来の不安対策と安全確保に軍隊は必須。
保険のために、金貨を床下に埋めたり、暴漢に襲われたときの対策として、貴金属を購入する。

日本の生命保険は、
安全が確保される事が前提の貯蓄の一形態で、保険の意味合いが希薄。
この為、自衛隊は通常疎まれている。

ユダヤでは、
話したために相手に非常な迷惑をかけることがある。
従って、相手を信用しているが、故意に秘密にしておくことは少しも不思議でない。

日本では、
気を許せば、腹を割って何でも話す。
口が軽く、秘密を守れない。

ユダヤ人は明日がどうなるか絶対に分からないので、明日の生き方はその都度発明しなければならない。
「古今未曾有」の事態に接した場合、
例えばアウシュビッツでいくら思い詰めても助からない。
誰も助けてくれない。
自らの手で高いコストを掛ける必要がある。

日本人は、
あまりに恵まれた民族なので、
「古今未曾有」の事態に接した場合、思い詰めて、思考が停止し「一億総玉砕」や、一家心中になりやすい。
また、日本人は同胞に親切だから、思い詰めていると、誰かが助けてくれることが多い。

ユダヤ人から日本人を見ると、
お坊ちゃんで、
どんなに優秀でバイタリティーに富んでいても、気の弱い甘えん坊で、依頼心の強い一面がある。

遊牧民にとって、羊の肉と乳とその加工品は欠かせぬ食料で、他にも衣料、装身具、家具、楽器、骨は書写板、皮は紙であった。
まさに「命の糧」であり、日本人にとっての米以上であった。
それゆえ、日本人が米を神聖視する以上に、羊を神聖視しても不思議ではない。だから、祭壇に仔羊を供えた。

家畜を大切にする習慣が、動物愛護につながった。
一方、奴隷(=言葉を喋る家畜)は、大切にされたが、家畜同様、利殖の対象であった。
また、伝染病が発生すると、家畜同様、全員屠殺されるのは当たり前だった。
アウシュビッツで屠殺されたユダヤ人は、家畜なのでその死体は、肥料などに利用された。
その上、家族には屠殺料が請求された。

農耕民族の日本人にとって、米は、神聖なもので、大切に扱い、神棚にも捧げる。

日本は遊牧民族ではないので、西洋的な動物保護の考えも、奴隷の概念もない。死が汚れたものとしてみられ、屠殺に関わる人々を、職業的に差別はしたが、穢多非人はあくまで人間であった。
同様に、宦官制度もなかった。

イエスは馬小屋(家畜小屋)で生まれた。
当時のユダヤ人のみならず他の民族では、一般人が家畜小屋で生まれることは普通のことであった。
家は大きな一間で、半分が一段高くなっていて、人はそこに寝て、低い方に家畜がいた。
人と家畜の同居は当然だった。

日本では家畜小屋と、人の家屋は離されていた。
「のみしらみ、馬が尿する枕もと」は、普通ではありえなかった。

この為、イエス・キリストの生誕に対して、特別の感情を持つ。

遊牧民は、家畜の意志に従って歩き回った。
こういった民に向かって統一行動をとらせようとすれば、コーランと剣、すなわち宗規と強権が絶対に必要であり、打ち勝たねばならない強大な敵か競争相手が必要であった。
すなわち最も穏和なスローガンが「追いつけ追いこせ」であり、それでもバラバラになりそうになれば、どうしても「宿敵 (イスラエル) 」が必要となる。

日本では、稲作が一度しかできないので、正確にスケジュールを決めて農業を行う必要があった。
また、隣の農家のやることを見て、同じ事をやり、一生懸命働けばそれだけ、実りがあった。
この為、日本人は全員一致して同一行動かとれる。
明治の大変革・大躍進の時代にも、ナポレオンも、毛沢東も、レーニンも必要なかった。

イスラエルでは、ユダヤ人はラビ法典に従い、イスラム教徒はシャリア法典に従い、ドルーズ教徒はドルーズ法典に、キリスト教徒はキリスト法典に従うので、民事的な争いに対しては、これらの宗教法典に従って裁定を下す宗教裁判所が必要。

日本での結婚式は、宗派を問わない。
日本には、ユダヤ教徒,キリスト教徒、イスラム教徒、神道、仏教徒がいるが、民事裁判所があるだけで、宗教裁判所は存在しない。

ユダヤ人であれ、初代キリスト教徒であれ、終末に生きていた。
すなわち生命は永遠だが、宇宙には終末がある(それも間近い)と信じたがゆえに、平然と殉教できた。

西郷隆盛は、ユダヤ人と逆で、
天すなわち宇宙は永遠であり、生命は、この永遠なる宇宙より出て宇宙に帰ると信じたが故に、平然と殉教できた。

ユダヤ人の神との関係は、血縁無き養子縁組みの関係だ。
つまり、神との契約により、神の養子となることを望んだ。
このため、戒律を正確に守った。
守らなければ契約違反となり、神に対する権利はなくなる。
例えば、家族が飢えていても、十分の一税を払う。
人間味よりも律法を重んじる。

日本では、養子ではなく、みな神の子で、神と人間的な関係にある。
この為、家族が飢えていても、十分の一税を払らわなければならないことに対して、
『ユダヤ人の神様って水くさいのね。
血がかよってないみたいだわ』
というように、日本人は感じる。
律法よりも人間味を重んじる。


ユダヤ人は、全員一致を間違いだと思っている。
それゆえ、議会での全員一致は無効とする。
人の考えることに完全は無い。
だから、比較するものが無い場合、それは全員が感情的になっているか、脅迫されているからだとみて、後日、議会を開催する。

日本人は、独裁政権での全員一致を驚異の目で見る。
議会では、あくまで全員一致を建前とする。

★ 池田信夫/

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転載元 池田信夫のブログ


NYタイムズの敗北宣言
2014年12月03日


マーティン、
久しぶりに、君の記事を熟読したよ。
君は私のところに2度やって来て日本経済について話し、われわれの意見はほぼ一致した。
君の日本語は見事なので、この手紙も日本語で書く。
英語の手紙は前に書いたけど、読んでくれたかな。
もちろん読んだだろう。
君は私のブログの熱心な読者だし、田淵広子記者も私と何度も議論した。
事実にもとづいて論理的に議論する訓練ができている点は、朝日新聞よりずっと上だと思う。
今回の記事も、朝日の敗北宣言から4ヶ月たって、10月の曖昧な記事に比べると、事実関係を率直に認めている。

君が私のブログから学んだもっとも大事なポイントは、君と田淵記者の敬愛する大西元支局長の記事は擁護できないということだと思う。
君はこう書いている。

There is little evidence that the Japanese military abducted or was directly involved in entrapping women in Korea, which had been a Japanese colony for decades when the war began, although the women and activists who support them say the women were often deceived and forced to work against their will.

《日本の軍隊が誘拐したか、韓国で女性に罠にかけてそれに直接、積極的に関与していたか、それについてはほとんど証拠がありません。
そして、女性がしばしばだまされて、彼女らの意志に反することを強制されたと、彼女らを支える女性、活動家らは言うが、戦争が始まったとき、韓国はすでに何十年も日本の植民地でした。》


朝日が「軍などが連行した資料は見つかっていません」と認めたのに比べると、
little evidenceというのは往生際が悪いが、大西のようにインドネシアの強姦事件を持ち出さなくなったのは一歩前進だ。

これがすべてだ。
私的な売春を軍が管理しただけで、日本政府が「性奴隷」を使ったわけではない。
人身売買があったことは明らかだが、田淵記者のいうenslavementで罰せられるのは業者であって、政府ではない。

あとは植村隆のインタビューがスクープだが、日本のメディアから逃げている彼が(自分に好意的だと知っている)NYTの取材だけを受けるのは、ジャーナリストとして卑怯だとは思わなかったのだろうか。
一つだけマイナーバグを指摘しておくと、

"It has also emboldened revisionists calling for a reconsideration of the government’s 1993 apology"
《 (今回の朝日新聞の敗北宣言は、)
政府の1993年の謝罪の再考を要求している修正主義者たちを励ました》

というのは間違いだ。

安倍首相は(NYTが思っているほど)バカじゃないので、河野談話を修正するつもりはない。
朝日が強制連行の嘘を認めれば、もう事実関係に争いはないからだ。

いずれにしても、この記事からは君の迷いや悩みが伝わってくる。
本社からは「日本の右翼に反撃しろ」という指示が来たと思うが、調べれば調べるほど、朝日の記事もNYTの記事も擁護できないことがわかったのだろう。
それを無理やり「右翼の安倍首相が朝日をいじめている」という話に仕立てたわけだ。
だから内容的には、これはNYTの敗北宣言だ。
私(を含めて多くの人)が嘘つきと断定した大西の記事をまったく擁護せず、「人身売買はあった」などという弁解もしていない。
これはNYTとしてはぎりぎりの妥協点かもしれないが、彼の嘘は永遠に残る。
それでいいのだろうか。

君もわかったように、大西の記事は嘘だが、「日本軍の性奴隷」というデマが米議会をはじめ世界中に広がった最大の責任は、NYTにある。
その印象操作を反省して、朝日のように「大西の記事を撤回します」という訂正記事を出すのが世界の一流紙の矜持だと思うのだが、どうだろうか。


「強制連行」をでっち上げたのは植村隆ではない
2014年12月11日

きのう発売の『文藝春秋』に、
「慰安婦問題『捏造記者』と呼ばれて」
という朝日新聞の植村隆元記者の手記が掲載されている。
28ページにわたる記事のほとんどが「他社もやっていた」という言い訳と、彼が迫害されて職を失った話で、反省も謝罪もない。

特に大きな問題は「女子挺身隊」という日本政府による徴用を意味する言葉を、私的な慰安婦に使ったことだ。
問題の1991年8月11日の記事はこうなっている。

《日中戦争や第2次大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、1人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)が聞き取り作業を始めた。》

これについて植村は「意図的な捏造ではない」と主張し、「他社も挺身隊と書いていた」とか「朝日の記事でも過去にそうなっていた」などという。

この情報は当時のソウル支局長(小田川興)から教えてもらったと主張し、義母がその「挺身隊」を指弾する遺族会の幹部だったことは偶然だという。
慰安婦問題を取材しているうちに、同じ問題を調べている妻と出会って結婚し、あとから義母が遺族会の幹部であることを知ったという。
都合のいい偶然だ。

最大の疑惑は、金学順が「戦場に連行された」と言ったのかという点だ。
これについて1991年12月6日に提出された慰安婦訴訟の訴状では

「14歳からキーセン学校に3年間通ったが、1939年、17歳の春、『そこへ行けば金儲けができる』と説得され、養父に連れられて中国へ渡った」

と書いている。
ところが12月25日の植村の記事では、こうなっている。

《その後は子守をしたりして暮らしていました。
「そこへ行けば金もうけができる」。
こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。
仕事の中身はいいませんでした。
近くの友人と2人、誘いに乗りました。
17歳(数え)の春(1939年)でした。》

訴状には「14歳からキーセン学校に通った」と書かれているのに、17歳でいきなり「連行」されたように書いている。
しかも訴状ではキーセンに仲介したのは養父(おそらく朝鮮人の女衒)だが、植村の記事では「地区の仕事をしている人」に連れて行かれたことになっている。

訴訟が起こされたのは記事が出る前であり、彼は訴状を読んだことを認めている。
それなのに14歳から17歳の部分を落としたのはなぜか。
彼は「弁護団の聞き取り要旨にはキーセンのくだりがなかった」などと言い訳をしているが、そのすぐ後で「キーセンだから慰安婦にされても仕方がないというわけではない」と書いている。

つまり植村は、キーセンに売られた経歴を知りながら落として「連行」の話にしたのだ。
これは単なる誤報ではなく、芸者になる訓練をしてから慰安所に売られたという金学順の話を「女子挺身隊の名で連行」されたという(本人が言っていない)話に仕立てた捏造である。

植村は「だまされて慰安婦にされた」と書いているが、だました主語は誰なのか。
「挺身隊の名で連行」したなら朝鮮総督府か日本軍だが、人身売買なら女衒である。
これはまったく違う話だが、肝心の点をぼかしている。
しかし彼は一つ重要な告白をしている。

《私は[8月11日の記事の]本文では、この女性が「だまされて慰安婦にされた」と書いた。
暴力的に拉致する類の強制連行ではないと認識していた。
[…]
私自身は<女子挺身隊の名で>は、
決して<女子挺身勤労令によっての連行>ということを意味したものではなかった。

植村は記事では<だまされて慰安婦にされた>とはっきり書いており、強制連行とは書いていない。》

なぜか最後の文だけ主語が「植村は」となっており、第三者が介入した形跡があるが、それはともかく、彼が金学順について書いた署名記事は2本だけで

「旧日本軍の慰安所設置などを示す資料が発見されたという92年1月の有名な記事は私が書いたものではない」
という。

つまり強制連行をでっち上げて政治問題にしたのは、植村ではないのだ。
それが誰であるのかを彼は書いていないが、当時の彼の上司で慰安婦問題に熱心だった北畠清泰(故人)ではないか。

つまり慰安婦デマは植村の個人的な犯罪ではなく、大阪社会部の組織ぐるみの犯罪なのだ。
★その部長だった渡辺雅隆社長が、問題を解明できるとは思えない。

植村は自分を言論弾圧や脅迫の被害者として描きたいようだが、その問題を解決するのは簡単だ。
逃げ回らないで記者会見を開いて、以上の疑問に答えることである。
それをしないで一方的に手記を載せても、誰も説得できない。

追記:1992年1月の「軍関与示す資料」の記事を書いたのは、辰濃哲郎記者(東京社会部)だと思われる。
本人がそう証言している。
ただし「挺身隊として強制連行」という囲み記事を書いたのは別人だろう。

橋下氏が記者団にキレた5分間/戦後最低の投票率だった今回の衆院選について

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■「なーんで?」「総括しなさいよ」
橋下氏が記者団にキレた5分間
産経新聞 2014.12.16

「断言しろよ、そしたら」と声を荒らげ、約5分で取材を打ち切った。
16日朝の登庁時に記者団の取材に応じた維新の党共同代表の橋下徹大阪市長は過去最低の投票率23・59%を記録した自身の出直し市長選が批判的に報道されたにもかかわらず、戦後最低の投票率52・66%だった今回の衆院選が批判されていないという主張を展開。
記者団とのやりとりでヒートアップしていった。
主なやり取りは次の通り。

◆「TVキャスターごときが」
「朝日も社説で書いてたでしょ」
「メディアは奢りすぎ。何様なんですか!」

--議席が確定した。
マイナス1ということで健闘かと思うが、会見では惨敗といっていた。
その気持ちは変わりないか

橋下氏
「候補者は80名ぐらい擁立したんですからね。
80人のうち、40人は落選したんですから。負けです。
ただ何か、新聞もテレビも戦後最低の投票率のところの報道が弱いですね。
あれだけ、大阪市長選挙、出直し市長選では散々批判していたんですから、もっと批判してもいいんじゃないですか。
新聞社は一面使って、翌日、大阪市長選は『信任なし』ということを報道したんですから。
非常にメディアはまたバカさ加減を露呈していると思いますけどね」

--終盤巻き返した要因は何だったと?

橋下氏
「低投票率はどうですか。戦後最低の低投票率は?」

--もちろん指摘しています

橋下氏
「全然指摘が足りないんじゃないですか。
今回、意味のない選挙なんでしょ」

--大義がないことは散々、われわれは批判した

橋下氏
「ですから、今回の選挙結果も意味がないんですよね?
信任がないんですよね?」

--選挙結果に意味がないとは思いません

橋下氏
「いや、それは大阪市長選挙の出直し市長選挙でそう言ってたんですから。
出直し市長選挙結果、意味がないとABC(=朝日放送)も言っているじゃないですか。
(ABCの)『キャスト』も」

--私は出直し市長選挙は、かえって都構想を難しくしたと思います

橋下氏
「難しくしたかどうかは僕の判断なんですから」

--ここでその論争をしても…

橋下氏
「いやいや、そこをやっぱり、きちんと言ってもらわないと、選挙結果については答える必要ないと思いますよ。
あの、今回の選挙結果について意味がないということをはっきりメディアが言わないと」

--意味がないとは思いません

橋下氏
「じゃあ、僕も選挙については答えません」

--意味がない選挙と思わないと答えないと?

橋下氏
「そうです、そうです。
そこの総括しないと。
出直し市長選が意味があったということを、しっかり言うのかね。
また(MBS=毎日放送の)『ちちんぷいぷい』がバカみたいなコメントを出していましたね。
(アナウンサーが)『法定協議会の入れ替えを争点とする選挙が意味がない』と言っていましたが、そんなの争点の設定は政治家がやることなんですから。
それは別に違法なことでもなんでもなくて、僕はそれを問いたいということで、出直し市長選をやった。

安倍首相はアベノミクスの是非を問うて、解散をやった。
それは政治家で民意を問う、その設定はそれは問う側の政治家のほうがそれは設定できるわけですから。
そんなところで、おかしいと言ったら、選挙なんかできないですよ。
何で西さんが勝手にその争点をこれが正しい争点で、これが正しくない争点、これは選挙で問う意味がある、これは選挙で問う意味がないなんて、いちキャスターごときが言えるんですか」

--それは個人の意見を述べたまでで、意味ないということは言っていない。
番組として意味がないとは言っていない

橋下氏
「出直し市長選は大阪、在阪ではみんな『意味がない』と言ったんですから。
だから今回の衆院選も『意味がない』ということを前提にしてもらわないと、僕は選挙についてはもう言いません」

--やらなくても良かったんじゃないのかという指摘をするのと、選挙に意味がないというのはだいぶ違うので。

橋下氏
「だから出直し市長選は意味なかったんでしょ?」

--意味がなかったんじゃなくて、やらなくてもいいという意見があるという指摘をしたまでで。

橋下氏
「でも出直し市長選について最低の投票率ということを、あれだけ騒ぎ立てたわけですから。
もっとそこははっきり総括してもらわないとね」

--今回の衆院選の投票率の低さというのはかなり指摘されていると思いますよ

橋下氏
「いやだから、選挙結果が意味がないということも同じように言ってもらわないと」

--意味がないとは…?

橋下氏
「いや、社説も書いてましたよね?
出直し市長選でね。朝日新聞もね。
意味がない選挙だってね」

--選挙そのものが有効か無効かでいえば、当然有効でありますけど

橋下氏
「そんなの当たり前じゃないですか。でも意味がないってことを」

--意味をどのように感じるかはそれぞれですし、各社それぞれでやると 

橋下氏
「意味がないと社説で論じていたのだから、今回も衆院選挙も意味がないんですよね?」


--それはそれぞれの判断で委ねればいいと

橋下氏
「いやいや、社説で書いたぐらいなんですから。
社説で書いたんですから。
だから意味がないんでしょ?
朝日新聞としては今回の選挙も」

--選挙によってそれはまた考えるべきことの話でありまして

橋下氏
「それは勝手…」

--出直し市長選と衆院選をまったく一緒に捉える必要はない

橋下氏
「それはね、メディアがおごりすぎ。
勝手に。何様なんですか、それは。
選挙をやっている当事者になってから言うべきことであってね、メディアがそうやってバカみたいなことばっかりやっているから、民主主義が機能しないんですよ。
おごりすぎですよ、何様なんですか。
民主主義に対して、有権者をバカにしているじゃないですか」

--いやそれは違うでしょ

橋下氏
「なーんで?」

--やったことない人間は選挙について意見を言ってはいけないんですか?

橋下氏
「意見を言ってもいいけど、じゃあ、総括しなさいよ。
出直し市長選挙について意味がないと言ったんだったら、言えよ」

--意味がないとは言っていない

橋下氏
「いや、出直し市長選挙について、じゃあ意味があると断言しろよ、そしたら」

--しません

橋下氏
「うん、じゃ僕もしない」

--代表は選挙結果に…

橋下氏
「終わり」

橋下氏は取材を打ち切り、執務へと向かう。
「ほかのことをうかがってもいいか」という質問が飛んだが、振り返ることはなかった。

ルーツ・ファンタジー/類似する神話 2

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『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

★古事記の中に現れる秘数と神々


■「十来塚」と牛若丸の謎

「十来塚」をご存じでしょうか。
イエスの墓と伝えられていて、盛り土の上に大きな十字架が立てられています。

「十来塚」の後ろにはイエスの弟の「十代墓」まであるんです。
ちなみに、「十」は救世主を意味します。
イエスの弟がイエスの身代わりに磔になったとの伝承があり、「十代」は間違いなく、イエスの身代わりの意味だと思われるのです。

伝承では、イエスがこの地に来られ、天狗になって106才で亡くなられたとのこと。
イエス当時のユダヤの服装や方言が、この地に残っていたと云うのです。
また、この土地の盆踊りの歌が、ヘブライ語で翻訳されています。

毎年六月の第1日曜日、恒例のキリスト祭では、キリストの墓前でナニャドヤラの唄と踊りが奉納されています。
その歌詞は、
「ナニャードヤレー ナニャドナサレデア ナニャドヤラヨー」
という私たちには意味不明のものですが、これをヘブライ語として訳すと、

「聖前に主を讃えよ、
聖前に主は逆賊を掃討したまえり、
聖前に主を讃えよ」。

つまり、
「神のもとに、自分の軍は敵をやっつけたのだ。
自分たちの大将を誉め称えよう」
という意味になるのだという。


おそらく、このキリスト祭は、神嘗祭に相当するものでしょう。

青目で色白、鼻の高い澤口家が、このイエスの墓を守っている。
この地域に、日本では取れないアカシアの材木が大量に貯蔵されていると聞きます。
ほとんど伝承が廃れているとのことで、これらの事実が何を意味しているのか、不明なのが残念でした。

そこで更に、戸来村近くの神社を調べていただいたところ、
龍興神社(神社の左右の柱に龍の彫り物があったので、エンキとニンフルサグのDNAの二重螺旋を意味します)、虚空蔵神社、香取神社、戸来鎮座三獄神社、駒形神社、カイクラ神社などが有ります。

さらに、5キロメートル位離れた山に、非常に大きな岩があり、ピラミッドとして信仰されていたというのです。
このような大きな岩は近くにはなく、どこからどうやってここまで持ってきたのか不思議でならないとのこと。

おそらく、イエスを知るヘブライ人の一族が、この地に渡来し、イエスやモーセを偲んで信仰を残そうとして、墓を建てたのではないかと思います。
義経が日本で亡くならず、チンギスハンに成ったという伝説と同様に、後の世に、イエスがこの地に渡来したと伝えるようになったのでしょう。
だとすれば、秦氏一族よりも早く日本に渡来した原始キリスト教徒の集団が居た証拠なのです。

戸来村の部族は、秦氏と異なるルート、まずは金沢に着き、八戸経由で、戸来村に着いたと伝えられています。

八は「生命の木」(7枝に幹をたして8)、
ヘブライ語のヘーは「生命を吹き込んだ神の息」の意味なので、聖書に良く出てくる「人類を創造した神」の事だと思います。
ただし、この神は龍興神社の二匹の龍と、「生命を吹き込んだ神」を考慮すると、エンキとニンフルサグでしょう。

更に、「戸来」から「過ぎ越の祭り」がイメージされます。
つまり、エンキを偽称するサタン・ダビデを崇拝する民の可能性もあります。
何故なら、この地に天照再臨の予言があるらしく、これに備えているとの伝承もあるからなのです・・・。

ただ、「戸来」が「ヘー」が「来る or 来た」の意味であれば、人類を創造した神がこの地に来たという記念の意味になります。

的外れかも知れないのですが、天狗や山伏の衣装は、ユダヤの特徴が多々見受けられます。
特に額に付ける小箱は両者共に共通しています。
また、天狗の「狗」は、狛犬の「狛」と同じ「イヌ」です。
神社を守る二匹の狛犬は、片方がユダ族のシンボルのライオン,もう一方はエフライムのシンボルの一角牛です。
つまり、ユダ族とエフライム族の合体した民族が天皇家を拝する大和民族なのです。

さて、伝承では、イエスは天狗になったのですから、狗をユダ族のライオンだとすれば、天狗は「天のユダ族」の意味になります。

日本でも、天に居られる神を「天神様」、地上に居られる神を「地神様」のように区別します。
即ち、イエスは、天に居られるユダ族の神という意味だと思います。
「天狗になって106才で亡くなられた」との伝承から、つまりイエスが昇天されて、106才で霊体としても暗殺されたというようにも受け取れます。
もしくは、106という数は、10と6で皇室を暗示していれば、イエスの死は皇室に関連することを意味しており、興味は付きません。

関連して、牛若丸と烏天狗をこの要領で解釈してみましょう。
「牛」はエフライム族、「若」は末裔で、「丸」は後継者なので、牛若丸は、「エフライム族の後継者」という意味になります。
また、烏天狗は、「烏」は太陽、「天狗」は「天のユダ族」なので、「天のユダ族の太陽神」となり、天照大神=ヤハウェのことだと思います。
つまり、牛若丸は神に導かれた義人だった。


■山伏と錬金術と神道
『古代ユダヤと日本建国の秘密』には、
剣山は特別な聖地で、剣山中腹には大劔神社があり、かつてその上へは一般人は、登ることは許されなかった。
行者(山伏)たちは剣山へ登る前に、40日間必ず心身を清めて登った。
また、剣山について『阿波志』には、
「剣山の嶺に石があり、高さ三丈あまりで、これを土人は神と見なしている。
その形は剣に似ていると云われている」
と記述されています。

更に、四国の山々には、山を焼き草地とするたくさんの集落があった。
また数百の池が残っています。
おそらく、ノアの大洪水前は平地だったが、大洪水後に地盤が盛り上がり、盆地に水が溜まった地域だったのでしょうか。

おそらく、この地域にはかつては鉱床が広がり、これを山の民(おそらくサンカ、伝承では土人)を使ってノアの洪水後に復活させた。
モーセがモリヤ山で神から石板を受けとられた時のように、剣山にも空港があり、40日間身を清めた山伏達がこの知恵を護衛していたのではないでしょうか。

また、山を焼き草地としたのは、上空から見てこの場所が分かり易いように、だったのでしょう。

◆ 山伏について
「修験道と鉱山と鬼は関連している。
修験道はもともと物質面からはいる宗教で、水銀から得た水を飲み、身体を金に化し、永遠の生命を得ようとする錬金術を重視した山岳密教だ。
その為、金属のある山中に住居し、鉱山の知識にたけていた。
一説には、特異な術を使う彼らこそ “鬼” とか、“天狗” とか呼ばれる存在だった。鬼は “隠” がなまったもので、金(鉱物)も地中に隠れたもの、修験道も隠れたものだった。」
(お伽草子 謎解き紀行)
とある。

ちなみに古代日本の伊勢は日本有数の水銀の産地で、もしかしたら錬金術と伊勢神宮との間に何らかの関連があるのかも知れません。
しかし、一般的には、お伊勢参りが盛んになるに伴い、最初は化粧品の材料として水銀が重宝がられたが、舶来化粧品が安価に輸入されるようになり凋落した。
その後、薬として重宝がられたと云えられており、山岳信仰との関連が気になるところです。

また、物部氏の「物」は、本来「霊」と「物質」の両方の意味を持っていた。
この「霊」の方が、「鬼」と呼ばれるようになり、本来「鬼」は「神」と同じ意味だった。
ニギハヤヒ一族は鉱山や精錬に関わっており、天皇家の「神」と区別して、ニギハヤヒの神々を「鬼」と呼んでいたのだとのこと。
つまり、桃太郎に出てくる「鬼」は金属精錬などの錬金術師=山岳信仰だった。
後に、密教と習合したのでしょう。


◆スサノオ復活と再臨のイエス
『神道行法の本』から神道について抜粋しながら、神道の「禊ぎ」と「祓い」について説明します。

伊勢神宮で最も重要とされている6月の神嘗祭、12月の月次祭では、
今も「生ける神」(旧約聖書に多々言及)に仕えるようにして、心御柱に食事を献る秘儀が行われている。
また、実際に衣服を神に献じる神衣祭は、神に新しい衣を捧げ神意のあらわれを祈る。
さまざまな神社で行われているが、もっとも有名なのは、旧暦4月と9月に行われる伊勢神宮の神衣祭です。

禊ぎは、自らの意思で海や瀬に入り身を清め、穢れを除くこと。
近代の禊ぎは、大分県の宇佐に1862年に生まれた川面が、宇佐八万の奥の院で出会ったという697歳の蓮池貞澄仙人から、仏教伝来以前の日本最古の神道の禊ぎを直授されたという。
この禊ぎによると、

「禊ぎとは霊注ぎなり、水を注ぐが如く神の霊を我の霊に注ぎ入れるのである。
『そぎ』とは祓い残りのある咎と罪を、神の霊にてそぎ去り、削り去ることを意味する」とのこと。

水でパブステマを与えたヨハネと、使徒に神の霊を注いだイエスのパブステマに酷似していると云うよりも、そのものだと思います。
ただし、この神道の禊ぎについては、霊的境地に達するために行う呼吸法と作法が、重要視されています。

罪を除くための祓え。
罪や穢れを祓う行事としては、
「茅の環くぐり」がある。
これは、人形に息を吹きかけて、自分の体内の罪と穢れを人形に移し、身代わりとすることである。
ユダヤ人が子羊を祭壇に捧げるのと同じ意味があると思います。

皇室では、延喜5年(905年)から延長5年(927年)にかけて当時の法令集『延喜式』が編纂され、その中に、大嘗祭や、大解除(おおはらえ)などの重要な祝詞が収録されている。

大解除の祭儀は、天皇や社会に穢れによる問題が起きたときのみ、不定期に行われていた。
明治に入って再興され、今では年二回、千数百年前の原形をとどめている祝詞が唱えられている。
この祝詞は、神話を物語にして唱えるものであるが、天津神が授けたきわめて効力の高い祓いの祝詞については、軽々に口に出してはならないので秘密にされている。

この祝詞の本書の説明の中で、スサノオ命がイエスそっくりの救世主として登場しているので、そのまま紹介します。

「スサノオ尊は天津神の大罪を犯して高天原を追われ、その後世界各地を彷徨って浄化の道程をたどる。
そして最後は大海原と根の国、底の国の支配者となった。
いわば神の身のまま地獄に堕ちたということになるのだが、それは、人々の罪と穢れを一身に引き受けるという必然的な使命があったためだ。」

「『日本書紀』によれば、祓柱となって人々の罪と穢れを一身に背負ったスサノオ尊は、その罪により髪を抜かれ、手足の爪を剥がされて贖ったとある。
苦難の末に贖罪を果たす須佐良比羊の姿が重なる。」

と述べられています。
スサノオ尊は、アブラハムなので、罪を犯して彷徨ったり、黄泉の支配者になったことはありません。
このスサノオ尊の贖罪を読んで連想するのは、人々の罪と穢れを一身に引き受けたと、後に加筆されたイエスです。
おそらく、スサノオ=救世主を望むサタン・ダビデが、太陽神の復活としてのアメン・ラー=天照大と、人類の贖罪としてのイエスの復活=再臨のイエスのイメージを、救世主としてのスサノオに定着させてしまったのだと思われます。

◆人類に呪詛を教えた呪う神
具体的な呪詛が、『記紀』に下記のように記述されています。
また、インドでも密教でも多く呪詛が出てきます。
これは、孔雀王伝説では、魔王の兄弟で、弟が光の化身となり姉の魔王を滅ぼす物語で、拝火教の物語をねじ曲げて密教に取り入れたものだと思います。
つまり、スサノオ命が姉の天照大神が支配する高天原で乱暴する物語にも似ており、光の化身がサタン・ダビデだとという意味だと思います。

「応神天皇の時、イヅツラシトメ神(女神)に求婚した兄は失敗した。
兄は弟が女神への求婚に成功すれば、産物を与えると賭をした。
弟は賭に勝ったが、兄は約束を守らなかった。
兄弟の母親は、神の世界と人間の世界を比較して、人の世となって約束を履行しなくなったと、兄を呪詛した。」

また、
「ヒッタイトの楔形文字の一つに『ヒッタイト法典』がありますが、そのなかでは、『蛇を使って呪術を行ったものは死刑にする』と書かれています」
(古代出雲と大和朝廷の謎 P220)

とあり、中近東文化センターでの話しの記述があります。
他にはモーセの銅の蛇、龍信仰など、このような蛇信仰が世界各地に残されています。

三輪山の神もまた、蛇です。
『日本書紀』の「崇神記」には、三輪山の神と結婚した百襲姫が神の姿を見たいと望んだところ、櫛の箱の中には美しい小さな蛇が入っていた。
これを見て姫は驚いた。
蛇は恥をかかされたと思い、姫を殺してしまう。
「雄略記」には、神の姿を見たいと望んだ天皇は、三輪山から大蛇を捕まえてよこさせた。
ところが、蛇の眼光があまりにも強いので、天皇は恐れ、蛇を戻したという。
大物主神の正体は蛇で、出雲大社もまた古くから蛇信仰で知られているとのこと。
(古代出雲と大和朝廷の謎 P119)

大物主神は出雲神社の神であり、出雲王国を建国したニギハヤヒ命は、同じ青銅器文明を持つ殷帝国を建国したと推測されます。
殷帝国の時代、甲骨文字で亡き先王が王に祟りをしたかどうか占ったことが残っています。

このような呪詛は、日本では、密教・道教の伝来と共に影響が大きくなります。

本筋からは逸れますが、呪詛や呪術について少し説明します。
神道の日本に、個人の利益を願う、利己的な現世利益と、密教の呪詛、道教の呪詛、陰陽道の呪詛などが混合されてしまいました。
この結果、霊を自分に憑依させ、この霊の力により個人の利益を成就させようとする呪詛や呪術、祝詞などの言霊による呪術が生まれました。
その中で、四国の物部村には陰陽道の流れをくむ血統があり、呪術で悪霊を集めるという…
(『呪術の本』より)




■真実の古事記について

◆『新選姓氏録』と『宮下文書』に残された神武東征
神武東征はインド・デカン高原経由の海路シルクロードを経て、日向に到着した。
その民族移動が、新選姓氏録と宮下文書に記録されているというのだ。
そのことを証明しているのが、高橋良典の『謎の新撰姓氏録』である。

これまでの考察から、天之御中主はノアで、伊弉諾伊弉冉はロトに当たる。
その間の皇統の意味が、専門科ですらお手上げで、全く理解できないというのだ。

高橋氏はアナグラムでこれを解読し、実は印度に移住した地域と命の名前を記述していることを発見した。
実に興味深い。

ルーツ・ファンタジー/類似する神話 3

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『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

★古事記の中に現れる秘数と神々

■真実の古事記について

大和民族は、旧約聖書の正当な末裔である。
サタンの迫害を受けた旧約の民が、神の律法を実現するために新天地・日本を目指して二度渡来した。
そして、原始キリスト教徒が天照大神に導かれて日本に二度渡来して、大和国を建国したのだ。
この視点から古事記を読めば、これまで喧々諤々と論争されてきて神話だが、それが架空の物語ではないことが明らかになる。
そして、この日本の地こそが、人類創生始まって以来の善と悪の闘いの決戦場でもあるのだ。
このことを、古事記の記述から紹介してみたいと思う。


◆1.真実の古代日本史を隠蔽した経緯
太安万侶の古事記序文を読むと、私たちが知る日本神話のほとんどに言及がありません。
では、稗田阿礼は日本神話を暗記していなかったのでしょうか。
そうではないと思います。

天智天皇のとき、白村江の戦に敗れた結果、日本は唐の支配を受け入れ、急速に漢字化とメシア・仏教化が進み、大和国の建国の歴史と伝統が失われつつあった。
それにつれて、国内の治安や風俗が悪化し、それを危惧した天武天皇は、大和建国の歴史と伝統が消失してしまう前に、唐に見せるための国書を作るという名目で、稗田阿礼に古文書を読み聞かせ大和建国の真実を記憶させたのだ。
唐末期において、原始キリスト教他の宗教が徹底的に弾圧を受け、迫害を受けた一団(除福と同族で、原始キリスト教・秦氏一族)が日本へ亡命してきたのだ。

だから、最初の古事記では、唐の軍事力から大和国を守るために、大和が旧約の正当な末裔だと知られないように、ヘブライ語を隠蔽しながら、これを元にしてひらがなを発明し、最高神・天照大神を日本固有の神とし、日本神話の核心部分を記述しなかった。
そして後に、徐々に日本神話の核心部分を加筆・編集していったのだが、海外の地名や人名については、あたかも日本での物語であるように改竄し、しかも大和国の基盤を強固にするため建国に貢献のある氏族の正当性を示すために登場させる必要があったのだ。

◇大和国の由来シナでは、高句麗から北九州一帯に倭人が住んでいたと云う。
シナは「わ」という発音に侮辱的な「倭」を当てのだ。
これら倭国の国々を統一すれば、大王と大倭国の誕生だが、それが大倭国=大和国の大王である。
読み方は大和人の読みで「ヤマト」=「神の民」とした。

◇漢と魏は九州王朝を最重要の同等な同盟国とした
九州王朝は、二個の金印を漢と魏から貰っている。
漢の時代前57年の「漢倭奴国王」、
魏の時代239年の「親魏倭王」である。
当時の金印は、漢・魏にとって、九州王朝は彼らと同等の同盟国という意味であった。
ちなみに、新羅の地位は銅印で、九州王朝の植民地もしくは支配地と見なされていた。

西方から来た秦氏一族(ユダヤ人)が、秦王朝を建国し、秦氏一族の技術者集団・除福が日本に渡来した。
秦が滅んで、中原に土着した秦氏一族の残党から漢王朝が建国される。
そして、魏は漢王朝の正統な後継者と自認する。
つまり、漢・魏は九州王朝を同盟国とした秦の末裔だと考えれば、何故彼らが日本に金印をもたらしたのか、その理由が明らかになる。
そして、天照大(ヤハウエ)と七福神(七大天使)の日本渡来により、大和国=日本が正統なユダヤの末裔となる。

◇除福とローマ帝国
秦の始皇帝は、除福を日本に派遣し、近畿地方に秦王国をつくり、秦河勝の秦氏一族は、藤原氏となって皇室を補佐していくのである。

◆2.造化三神の真実
造化三神について日本人は誰も真実を知らない。
というのは、記紀には造化三神について、きちんとした説明を伏せ、あらかじめ予備知識のある人物にしか理解できないような書き方をしているからなのだ。

造化三神は人類創生から始まるのだから、本来はアダムとイブの創造が最初のはずなのだ。
そこで、ややっこしい説明は止めて、以下に結論だけを述べてみたい。

◇一番古い旧約聖書:J資料(ヤハウエスト資料)
本資料は、紀元前900年頃、あるいはそれ以前に南王国ユダで成立した。
だから、紀元前700年頃に、日本に向かった神武天皇一族は「天地創造神話」を知らなかった。
だから、古事記には天地創造神話が存在しない。

◇初代・造化三神
アダムとイブは彼らの守護神の元で、地球という新天地の開拓を始める。

アダムとイブの守護神は、アヌである。
ここが、大切なところだが、天王アヌは、旧約聖書では初代ヤハウエである。  

◇二代目・造化三神
古事記ではここから始まる。
すなわち、天地の生まれた後に、高天原に
“天の中心にいて天を治める神”
“片寄りの無い正義の心を持つ神”
という意味の「天御中主神」が出現する。
次に
“あらゆる生命を生み出し、すべての生命の繁栄を願い見守る神”
という意味の一対の神(高御産巣日神、神産巣日神)が出現した。

天御中主神は天を治める正義の神であり、二代目天王=二代目ヤハウエは、アヌの王位を継承したエンリルである。
エンリルは、ノアの箱舟から地上に降りたノア一族を
“うめや増やせや地に満てよ”
と祝福し、虹の契約を約束した。

どうだろう、ノア夫妻であれば、あらゆる生命を救い、繁栄を願った神(高御産巣日神、神産巣日神)にピッタリである。

だから、アダムとイブの原罪も天地創造の神も全知全能の神という嘘っぱちは、日本神話には存在しない。
日本人にとっては、聖書の天地創造の神と原罪はありもしない嘘っぱちだから、架空の物語としてしか受け取らない。


◇三代目・造化三神
イザナギとイザナミは、「天の御柱」を立て、これの周囲を回りながら結婚した。
その後、夫婦が協力して、新天地で国と天孫族を生む。
だから、日本神話に聖書の原罪のような男尊女卑は存在せず、男女の和合が国と家庭の安定の基盤だと教えているのだ。

そして、アザナギ夫妻が油のような水蛭子を生むと、夫妻は正常な国を生む方法について、祖先神に相談した。
祖先神はいろいろ相談し合い、占いを行って返答する。
だから、日本神話には全知全能の神は存在しないのだ。
決定できない事柄については、占いに頼っていた。
その伝統を日本神話は正統に引き継いでいるのだ。

(そして、当時の占い(ウラナヒ)は、シュメル語「巫女術で神に祈願する」の意味でした)

イザナギ・イザナミ夫妻以前に出現する神々の多くが、男女の心を持ちながらも、夫婦神ではなく「独神」とされている。
それは、皇室のY遺伝子から見ると、大和民族と直接の血統ではないからだ。
聖書の血統は、アダムとイブから記述されているが、例えばモーセやイエスの時などに途切れており、その度に新たに神と契約を行っている。
だから、日本の皇統は、シュメルから始まる男子男系を引き継ぎ、テラ・アブラハムから始まる正当な皇統だということだ。

尚、書記では、伊弉諾伊弉冉が蛭子を生み、皇祖に問いあわせる。
皇祖は太占をして、夫が妻にプロポーズすべきだと、夫婦神に伝えている。
この「太占」がじつは、トーラであり、天祖命=ヤハウエだとの説がある。

国産み神話について イザナミとイザナギにより日本の国が想像されるが、その様子は、もともと大陸の浅瀬だった日本が、ノアの大洪水のような天変地異により隆起し、複数の島々が集まり、日本を形成した事実を述べているのではないかと思われる。


•天の沼矛:
七枝樹二神の神名「キ・ハル・キ・ハル」から創作された。

•塩コヲロ:
七枝樹二神の神名「キ・ハル・キ・ハル」から創作された。

•オノゴ・ロ:
メソポタミアのウヌグ・キ(バビロニア語ではウルク市、現在ではワルカ)の倭人訛りである。

水蛭子について イザナギとイザナミは、最初に水蛭子と淡路島を生むが、不完全なため子の中に入れなかった。
ところが、水蛭子については“葦の茎を編んで作った葦舟に乗せて、海に流した”とあり、これは英雄モーセの物語とそっくりなのだ。
王宮の門の所に捨てられていた子を拾って王となした物語が、その原型である。

◇四代目・造化三神
第四代目の造化三神は、イザナギとイザナミの子である「天照大神・月読命・スサノオウ命」の三神であることは、聖書と記紀の最重要事項であるから、少し複雑だが説明しよう。

天磐神話では、天照大神が天磐に隠れ、以前よりもより輝きを増した新しい天照大神が出現する。
つまり、天照大神の代替わりを物語っている。

初代の天照大神は、長子・月神に王権を引き継がせる。

ここで、皆さんは、天照大神が女神ではなかったのか、とおっしゃることでしょう。

もし日本神話の天照大神が、ヤハウエだと唐に分かってしまえば、大和国は滅ぼされたことだろう。
そこで、この神話にもう一つの史実を重ね合わせた。

それは、ユダヤ人が新バビロニアに捕囚される直前、イザヤの三兄弟が迫害を察知し、ヤハウエに導かれて脱出した。
つまり、姉と二人の弟が新天地日本を目指して、インド経由の海路のシルクロードを通じて日本に渡来した。
しかも、姉のヘフジバは、太陽神ヤハウエの神託を告げる巫女であった。
つまり、女神天照が大日●尊(オオヒルメノミコト)と呼ばれているのは、姉のヘブジバが太陽神・天照大神の巫女のことであることを教えているのだ。
だから、姉の女神天照と弟の月神はユダの地に残り、スサノオの子孫が日本に渡来したのだ。

八百神について 古代シュメルでは、アヌの長子と長女などが地球を統治し、大神として君臨した。
しばらくすると、地球生まれの神々が誕生し、子神として彼らの統治する領域が細分化されていった。
そして、さまざまな役職ごとに細かく神々が統治した。
そして、神々が亡くなると、彼らを精霊として祭ったのだ。
例えば、衛生局長官であれば「便所の神」、
農林の神であれば「樹木の紙」という具合である。
この伝統を引き継いだのが、北欧の妖精伝説と、日本の八百神の神だと推断する。

◆3.善神ヤハウエと大サタンの闘い

(略)

◆4.イザナギの冥界下り
造化三神の代替わりと共に、新天地へ移動して行く。
不思議なことに、死者の向かう死後の国の名前がつど違っているのだ。
イザナギ夫妻の時には、泉の国と呼び、イザナミが黄泉の女王に化身する。
次に、天照大神・月読・スサノオの時には、常世国と呼ぶ。
さらに、スサノウの出雲時代には根国と呼んで、新天地ごとに区別し、死後の世界もまた別々に統治されていた。

さて、イザナギ夫妻の物語に戻ろう。
イザナミは迦具土神を産んで、火傷をしてなくなった。
悲しむイザナギは、十拳の剣で、火の神の首を切り落とすと、六柱の雷神と二中の水神が、次に山の神々が出現する。

この物語は、人が死んで様々な神々や、草木などが出現する日本神話の特徴の一つであり、ここで説明しておきたいと思う。

十拳の剣は、十個の拳(握り)があるのだが、このような剣は人を切るための剣ではない。人に見せるための飾りか、神事で使う神器なのだ。
迦具土神から、火→雷→水→山の順番で創造されたのだから、迦具土神=噴火とみなせば納得がいくのだ。
つまり、大噴火では、雷が発生し、雨が降り、隆起して山ができるからだ。

次に、イザナギは黄泉に下り、イザナミに戻ってほしいと嘆願する。
しかし、黄泉の国の食べ物を食べたので、現世に戻れないというのだ。
この部分はギリシャ神話(オルフォイスとユーリダイスの物語、ハーデスとペルセポネ物語)と同じだ。
そして、イザナギがイザナミの腐敗した死体を見て、恐ろしくなり逃げ帰ろうとする。
それに怒ったイザナミは雷神や黄泉女鬼を使って、イザナギを追う。
イザナギは、黄泉の出口に立ち、入り口を大岩で塞いでしまう。
追いかけてきたイザナミは、イザナギに一日千人を殺すと怒りの言葉を掛ける。
対してイザナギは一日千五百人を産むようにすると返答する。
他にも、スサノウが天照の支配する高天原に向かうとき、姉の天照はスサノオが攻めて来たと勘違いし、千本の矢を背中に、五百本の矢を脇に背負ったとあり、合計千五という数値が出現しており、天照が心正しいことを意味している。

この物語は、生者の国と黄泉の国は、切断されており、一度黄泉の国に行けば戻って来られないことを教えているのです。
そして、『パウロの黙示録』を読むと、千は再臨のイエスを、五百は聖母マリアを表していることが分かる。

つまり千は死者を、男女を合わせた千五百は生命の誕生を意味しているのだ。

◆5.イザナギの禊と三貴神
イザナギは神武東征の出発地点「日向」に出かけ、黄泉の国の穢れを落とそうと禊を行った。
イザナギが黄泉の国への往復を守る神々、病気や災いから守る神々、それから水軍の神々(住吉大社に祀られている)が、出現する。
つまり、イザナギの黄泉の国下りは、軍隊を引き連れての戦だったことを述べている。
おそらく、テラはロトとアブラハム及び軍隊を含む一族を引き連れて、神の指示するところへ旅に出たが、途中で噴火に会ったり、賊に出会ったりした苦難の旅立ったということだ。

穢れを落とした後、イザナギ一人から、三貴神が誕生するのだが、当然イザナミの子である。
それは、スサノオが母イザナミを恋しがり、母の居る黄泉の国へ行きたいと嘆いていることからも、三貴神の母はイザナミなのだ。

(略)


◆6.スサノオと姉天照の誓約
スサノオは姉に別れを告げるために、高天原に向かう。
そこで、二人は誓約を行い夫婦として、子を産む。
男子五柱の神は、稲穂神や原野神や出雲の国造の祖先である。
女神三柱は、宗像大社の三神で航海の神である。
これは、イザナギが妻の居る冥界に出向き、禊を行うと自分を守る豪族たちと、後継者としての三貴神が誕生するのだが、まったく同じ構造である。
違うのは、スサノオ夫妻からは新たに造化三神は誕生せず、代わりに、天照はニニギ命が中つ国へ天下るときに、三種の神器を与える。

鏡は神の正義で天御中主神、
剣は命を守る男神、
勾玉は思いやりで女神に相当し、
造化三神そのものである。
そして、三種の神器の象徴するるところが、大和魂である。

尚、旧約聖書には、人知の介入を許さぬ神との契約・律法が明確に記されており、それ故に契約=正義として宗教集団や国家が成立してきた。
一方、日本神話には、聖書に見るような男尊女卑、全知全能の神、神との契約・律法といった教義は、存在しない。
しかし、相手との信頼を前提とする誓約(うけい)、男女が補完しあう協力関係が、日本神話の原点にある。
それゆえ、日本神話を生活に取り入れることで、日本人の美徳が培われてきた。
だからこそ、大和民族とユダヤに共通の言語や習慣が実在するにもかかわらず、別民族と見なされてきた由縁でも在る。

しかし、この違いこそが、神々が人類に与える契約もまた、人類の精神の発達と共に、変わるのだということを証明しているのです。

◇日本神話は、神と皇室は血縁で結ばれている
出雲族も大和族も、スサノウから始める血統の子孫である。
皇室を遡れば、スサノウや天照に行き着く。
ところが、聖書の民を遡れば、アダムとイブに行き着くが、彼らは神に創造された者で有り、神との血縁関係は無い。
人類と神とは隔絶の違いがあるのだ。
だから、日本人と聖書の民では、神についての観念が大きく違っており、これが社会通念でも理解し合えない原因でもある。
一方、ギリシャ神話やゲルマン神話は、日本神話同様に人類は神の血縁である。

(しかし、キリスト教がこれらの宗教を無残にも滅ぼしてしまったのです。)

◆7.スサノウの高天原での乱暴の真実
スサノオは死んだ斑馬(ロバ)の皮を剥ぎ、袋を作ろうとします。
そして、死体を天照の神聖な機織の職場に投げ込み、そのため機織娘が死んでしまう。
これが原因で、天照は天磐にお隠れになるのだ。

さて、古代日本に斑馬は居ないし、馬の皮を剥いで袋にする習慣も無い。
だから、この物語が海外であり、バビロニアや中東やアフリカなのだ。
つまり、スサの王(キュロス2世の時代で、BC550年頃)の時に、兄弟間で王位争奪の争いが起こったということだ。
機織娘は天照大神・マルドウクの巫女を意味し、これをスサノオ(マルドウクの長子)が殺してしまった。
この為、マルドウクは月神に王位を譲ったのだ。
月神がマルドウクの養子に迎えられる時期とぴったり重なる。

尚、機織は秦氏一族がシルクロードで富を築き、天照大神と共に、日本に渡来している。
この物語は、秦氏一族の正当性をも証言している。

次に、機織娘を殺したスサノオは、高天原から追放されるが、その前に食料を確保しようと、オオゲツヒメ神の所に連れて行かれる。
オオゲツヒメは体の汚い所からも様々な食べ物を取り出し、スサノオに差し出した。
スサノオはその様子を見て、オオゲツヒメを切り殺したところ、死体から蚕や稲・粟・小豆・大豆麦が生じた。
神産巣日神は人類にこれら五穀の種を与え、人類は穀物を育て収穫し、蚕を育てて生糸を作った。

この物語は、オオゲツヒメの一族は五穀を育て調理していたのだが、不潔な環境で食料を調理していたので、こんな非衛生的な調理は資材に値するほど、罪深いのだということを教えている。

日本は早くから衛生観念が発達していた。
例えば、人糞他を大切にして畑の肥料として使い、人と動物の居住空間をはっきり分け、体を衛生的にしていた。
汚い便所のことを、お便所といい、汚いところだが便所の神が見ているとして、できるだけ大切に扱っていた。
だから、欧米やシナのように人糞が町のあちこちに垂れ流しで、ペストなどの大発生をもたらす非衛生的な生活環境ではなかった。
日本人が衛生的なのは、日本神話の教えのおかげである。

◆8.スサノオの出雲支配と神武東征の真実
スサノオは五つの名前を持つ大神で、ヤマタノオロチを退治し、草薙剣を手に入れ、出雲の地で櫛名田姫と結婚し、神殿を建てる。
その時、結婚の喜びを和歌で歌った始めての皇統である。

さて、ヤマタノオロチを退治したのは十拳剣で、赤い腹のヤマタノオロチから出てきた草薙剣は鉄剣である。
つまり、鉄山に住む製鉄の民を、銅剣の出雲が武力で支配したことを伝えた物語だろう。
日本で言えば、銅の出雲国と鉄の吉備国との関係である。

さて、スサノオの七代後の大国主命は、兄弟に二度殺された後、スサノウの宮殿を訪ね、スサノウの宝物とスゼリ姫を連れ去り、出雲王国を建国した。
つまり、スサノウの王国と出雲王国は別の土地にあるのだ。

さて、イザナギは妻を追いかけて冥界に下り、その後三貴神が誕生する物語と、スサノウの根の国に下り、スゼリ姫と王国を建国する物語は、同じ構造だ。
つまり、新天地出雲の造化三神は、大国主命夫妻とその守護神スサノウである。

さらにここからが重要なところだ。
大国主命はスサノウの七世の孫とあるが、じつは二度死んでいるので、初代の大国主命は、アブラハムから5世の孫は、神武天皇に当たるのだ。
これは一体どういうことなのだろうか!それをこれから説明しよう。

ニニギ(ヤコブ)→山幸彦(ヨセフ)→ウガヤフキアエズ(エフライム)→神武天皇(ベリア)に相当する。
この旧約と皇室の皇統についての対比は、日本神話と旧約の個人についての物語がそっくりなことからも、正しいことが頷けるのだ。

そうなると、エフライム族のベリア=神武天皇であれば、神武天皇の時代は紀元前15~16世紀あたりとなり、神武天皇の即位を紀元前660年と年代が合致しない。
だとすれば、エフラム族のベリアの子孫がシルクロードを経由して、銅文明の殷王国を建国したと考えれば時代もぴったり合致する。
さらに、殷王国は製鉄の王国を従えていたのだ。

つまり、エフライム族のスサノウ(ベリア)がシルクロードを通じて殷王国を建国し、その子孫大国主命が、日本の出雲に王国を建国したのが、スサノウから大国主命の日本神話の真実だと思う。
だから、エフラム族は聖書の正統な皇統であり、出雲王国はその子孫だった。

その後、聖書の皇統はエフライム族から、ダビデ王のユダ族に移る。
そして、神武天皇の即位の頃、北イスラエルが滅亡し、新バビロニアによる迫害を逃れて、インド経由で新天地日本の日向に渡来したユダ族が居た。
それが、イザヤの三兄弟(姉と二人の弟)だった。
だからこそ、出雲は正統な皇統であるユダ族に、政権を禅譲したのだ。

このエフライムの皇統にユダの皇統を束ねて大和国が建国されるのは、じつは旧約聖書・エゼキエル書の預言
「エフライムの手にあるヨセフの杖(王権)と、それにつくイスラエル諸部族とを取り、それらをユダの杖(王権)に合わせて、一本の杖とし、わたしの手の中で一つとする。」
に明記されている。

その印として、神社の入り口にある一対の狛犬をよく見ると、片方は一角獣で、もう一方はライオン(古代日本ではライオンを犬としていた)である。
ご存知だろうか、一角獣はエフライム族、ライオンはユダ族のシンボルだということを。
つまり、神社はイスラエル十二支族のうちのユダとエフライムの正統な皇統だということだ。
だから、日本人=大和民族は神の民なのである。
尚、ユダ族と一緒に、ヤハウエの司祭であるレビ族も一緒に日本に渡来しており、天磐神話に出てくる中臣氏や忌部氏である。

そして、神武東征の物語は、イザヤの子孫がユダの地からインド経由で日向に渡来するまでの物語である。
神武の建国した土地はおそらく、インドだろう。
そして、崇神天皇が日本に大和国を建国した天皇である。
おそらく、天照を最高神に位置づけたユダ族である原始キリスト教の一族は、エフライム族の日本への渡来をスサノウと大国主命の物語として、天孫族と明確に別皇統として区分けしてしまったのだと思う。

◇『古事記』因幡の白ウサギ伝説
(日本ユダヤ王朝の謎 p16~p24)

《 むかしむかし、大物主命の兄弟たちが、イナバのヤガミ姫を妻にしようと出かけていった。
兄弟たちは荷物を入れた重い袋を大物主命にかつがせた。
一行がケタの岬に着いたところ、ワニをだましたために丸はだかにされた兎が泣き叫んでいた。
兄神たちが兎をいじめようとして「海水を浴びて風に当たれ」と教えた。
兎がそのとおりにするとますます痛くなってしまった。

後からやって来た大物主命がそれを見て、「どうして泣いているのか」と聞く。
兎は、
「オキの島からここへ渡ろうとしたのです。
それでワニに、一族の数がどちらが多いか比べてみよう。
この島からケタの岬まで並んでみたまえ。
その上を踏んで数えてみるから、と言ったのです。
ワニはまんまとだせされて並んだので、数えるふりをして首尾よく岬に着いたのです。
それで、もう大丈夫と思い、
『おまえたちはオレにだまされたんだ』
と言ったら、ワニは追いかけてきてかみついたのです。
そこで、先に行った神様たちのいうとおりに傷を手当したら、ますます痛くなったのです」
と言う。

これを聞いた大物主命は、
「すぐ河口へ行って淡水で体を洗い、蒲の花粉の上で浸ころべ」と教えた。
そのとおりにすると兎はもとのとおりに治り、喜んで、
「あなたはきっとヤガミ姫を得るでしょう」と言った……。 》


ところで、日本にもワニがいたのだろうか?
従来、ワニというのは王仁氏という人物だとか、ワニ鮫のことだ、とか説明していたが、この説明は戦時中、いわゆる皇国史家によってあみ出されたものである。
オオクニヌシ(大物主命)は古来民衆に人気のある神様で、戦前はたいてい商人の家にエビスサマと一緒に祭られていたが、実際二人の神様はワニの国からセットになってやって釆たのである。

『日本書紀』にワニだまし説話がないことから、『古事記』を作った目的はオオクニヌシ一族の祖先顕彰にあったという説すらある。

因幡の白ウサギ神話は中国と朝鮮がルーツではない。
マレー半島にはワニだまし神話の原型があるから、逆に、日本から中国朝鮮へ伝承されたのもだろう。

西村真次は、次のように述べる。
(『南方民族誌』より)

ジャワの伝説によると、ネズミジカはかねがね河を渡ろうと思っていたが、洪水で水嵩が増してとても泳ぎきれそうにない。
そこで、岸に立ってワニを呼んで「私は今度王様の命令で、お前さん達の頭数を調べにきました」といった。
ワニは一列に並んで、こちらの岸からむこうの岸まで続いた。
ネズミジカは「一つ、二つ、三つ」とかぞえながら、ワニの背中を踏んで対岸に渡り終わると、ワニののろまさを嘲った。
この話はイナバの白兎がワニをだました話と少しも異っていない。
スマトラやジャワやボルネオやマレー半島では兎がネズミジカになっているが、安南やカンボジアでは猿になっている。
こういうふうに神話伝説が似ていることは、遠い昔に一つの元から出た神話伝説を携えて、インドネシア人やメラネシア人が、海上に出たということを証明するものである。

イナバの国にワニが生存せぬものとすれば、この伝説は他より渡来したものに相違ない。
これと全く同一な伝説がマレイ地方にある。
それは、有名なる『鹿の物語』に出てくるワニに関する一説である。

それは次の如くである。

《 鹿は、かくて或る川の岸に達した。
その向かいの岸に一本の木があって、たくさんの果物があかあかと熟して、いかにもおいしそうに見えた。
・・・
そこで鹿はその果物を食べたいと思い、どういうふうにして川の向こう側に行くかということを考案した。

・・・
「お前達、ワニどもよ。川面に浮かんでこい。
そしてここから向こう側まで一列に並んでくれ。
自分はソロモン王から命令を受けて、お前達皆を数えに来たのだ」

・・・
鹿はワニの頭上に乗り、一ツニツ三ツ…ボンボンと椰子の実で打った。
これは大きい、これは小さい、といってまた打った。男だ、女だ、といってまた打った。

こうして鹿は向こう岸に達すると、すぐ岸に飛び上がってワニたちに、
「お前達はおれにだまされたのだ。
なぜならば、自分はこちら側に移り、このマタタロン(果物)を食べたいためにソロモン王がお前達を数えろと命じたといってあざむいたのだ。
お前達は頭をなぐられた。
自分は非常に満足した。
これから自分は、おいしい果物を充分に食べられる。
チェッ、お前達は馬鹿だ」 》

マレー半島におけるこのワニだまし説話は、明らかに『竹書紀年』や『親書』よりも『古事記』に近い。
というより全く同じである。
なるほど、マレー地方ならば、海を埋めるほどのワニもいる。

ワニだましとその周辺の説話の分布は、マレー海域から中国大陸、朝鮮半島、日本列島への広範で大規模な人間の移動を示すものである。

また、天照の弟であり、大物主命の養親でもあるスサノオが大蛇を殺したとき、彼の剣が刃こぼれしたという『古事記』の説話にしても、石の剣ならば刃こぼれでなく、欠けてしまうから、刃こぼれした剣は青銅または鉄製の剣であったはずだ。
だからスサノオは金属時代の神であるが、それもまた年代が合わない。
スサノオの時代を前一千年より以前として、日本列島は土器文化だったが、オリエントではすでに青銅と鉄の文化がさかえていた。
だからスサノオの国家はオリエント以外にはないではないか。

二つの神話を比較すると、マレー神話の「ソロモンの命令を受けた鹿」は『古事記』の「大物主命に助けられた兎」に対応するから、ソロモン・イコール・大物主命という図式が成立するのである。
なるほど、大物→オーモン→ソロモンと考えれば、謎はとけてしまうのだ。
ちなみに、
『古事記』が「スサノオの子 大物主命」というのは、
『旧約聖書』が「ダビデの子イエス・キリスト」というのと同じように象徴的な意味である。
 
 
 
◆9.天照大神の日本渡来
イエスの真実を知る原始キリスト教は、イエスは人類の救世主では無く、母マリアと大司祭ガブリエルの子とし、洗礼者ヨハネの弟子として、その教えを伝えた人間の一人としていた。
一つのユダヤ教の一分派だった。
しかし、イエスを人類の救世主に、葉はマリアを処女受胎した聖母と祭り上げるメシア・キリスト教は、キリスト教以外の宗教を弾圧した。
特に、イエスの真実を知る原始キリスト教を徹底的に弾圧し、滅ぼしてしまったのだが、その一派がシルクロードを通じて紀元200年頃、日本に渡来する。

その後、原始キリスト教の秦氏が迫害を逃れキリスト教の神々と共に船に乗り海を渡って日本に渡来し、天照大神を最高神に位置づけたのである。
つまり、七福神が渡来したのだ。

(略)

◆10.葛城王朝9代の謎

(略)

◆11.大化の改新はヤマト(ヤハウエの民)の復活だった
大化の改新は、シナの官僚制を導入したとされているが、これは明らかに誤りである。
古代シュメルにの生活は、現代の日本とほとんど変わりなし。
就職を心配する若者、教育ママと受験に苦しむ子供、離婚訴訟、恋の歌などがあり、王国を統治する神殿には官僚制度が整っていたのだ。

シュメルやバビロンの高度な知識を持つ一族が、政変のたびに、シルクロードを通じて、シナ大陸に王国を形成していった。
そして、シルクロードの大陸での終着点である中原の富と財を求めて、周囲の王国が次々に王朝を建国して支配した。
その蓄積が儒教(儒=ユダのことで、ユダヤ教)、漢字、他の文明、科挙や官僚制をもたらしたのだ。
だから漢民族独自の文明や発明ほとんど存在しない。

だから中東から新天地を求めてきた民族は、日本に取らしたときに試験制度と官僚制度を知っていたのだが、日本ではモーセの民のような部族制度を保っていた。
しかし、大和国では、ユダ王国とも異なり、祭祀と政治を分離し、天皇の下に、祭祀と政治を置く、日本式の官僚制度が整えられた。
画期的な政教分離の体制が整えられ、政治の部分が、藤原氏や武家や明治政府や日本国憲法に置き換わったが、天皇制は変わらず現代でも生きているのだ。

そして、大化の改新の中身を見ると、それはモーセの立法の復活でしかない。

◇聖徳太子関連
・大和朝廷と九州王朝聖徳太子の出自には、九州王朝が深く関与している。
仲哀天皇が亡くなり、神功皇后は住吉大伸の子を生む。
この海神こそは九州王朝そのものと言ってもよい。
だから、応神天皇の血統から、強引に男大迹王の血統に王朝を切り替えたのだ。
尚、神功皇后が行った神降ろしの弾琴巫女術はシュメルが起源です。

・太子の出自と謎解き太子は河勝と共に、天皇(当時は大王)の元で中央集権的な政治改革を断行し、軍事的にも強力な独立国家を目指した。
太子の母親は蘇我氏だというのに、蘇我氏はなぜ即位させなかったのか?
そこには太子の出自にまつわる隠蔽された謎があったのだ。

・聖徳太子の偶像と古代日本の隠蔽イエス、モーセと同様に聖徳太子が偶像化・神格化されてしまった。
その背景には、白村江での敗北により、唐GHQ軍が九州に駐留したからだ。
強大な唐軍の弾圧を避けるために、古代日本史の真実と母国語と出自を隠蔽した。

・太子革命と跳梁太子を弥勒菩薩の化身、さらにはイエスの化身と偶像化・聖人化した。
そこに、聖書に出現する呪う神・復讐する神が、革命を起こし、ヤハウエに導かれた皇室を滅ぼそうとする謀略があった。
ローマのキリスト教革命と同じやり口だった。

・驚くことに、神話の中に太子一族の死因までもが暗示されている。
十七条憲法と日本の国体太子当時の有力氏族は渡来人で、目には目、十戒、皇帝思想しか知らない。
だから、互いを思いやる和の精神を以て国造りを行うことは、何と厳しく困難なことだったことでしょう。
それゆえ、守屋一族と太子一族は亡ぼされ、河勝は迫害を受け、稗田阿礼は咎無くして殺されたのです。

◆12.物言わぬホムチワケ命

(略)

◆13.名前を交換した応神天皇
応神天皇はホムタワケ命と云うのだが、不思議なことにこの名は「タ」と「チ」の違いはあるが、物言わぬホムチワケ命と同じ名前だ。

さて、応神天皇は九州で生まれ、計略を用いて大和にて王位につくのだが、不思議なことに、武内宿禰に福井(越前)にある気比大社に禊に連れてゆかれる。
そこで、気比大社のイザサワケ大神が、ホムタワケ命と名を交換したいと申し出て、そのお礼に大量の鼻に傷のあるイルカを応神天皇にプレゼントする。
以後、応神天皇はイザサワケ命と名乗るようになる。

応神天皇が名を交換したことにより、海神である気比大伸を従えたことになる。
つまり、ホムチワケ命は出雲の魂を受け入れることで口がきけるようになったのだが、名を交換することで、越国を支配する神の守護を受けるようになったのだ。

福岡には秦王国があり、越の国もまた秦王国であった。
つまり、応神天皇は天照大神を最高神とした秦氏の全面的なバックアップを受けていたのだ。
そして、越の国出身の継体天皇は応神天皇の血統である。
だから、現在の皇室もまた応神天皇・秦氏一族の血統である。

(秦帝国から除福が日本に渡来しますが、当時では大秦とはローマのことで、そこから来たので「秦」と云うのです。
除福一族の技術集団は、北陸の越国を建国した旧約の民・秦氏一族だったと思います。
そして、薩摩の秦王国は原始キリスト教の秦氏一族で、応神天皇により、北と南の秦一族が結合し、男子男系はユダの血統だということです)

尚、応神天皇父である仲哀天皇は福岡で政治を行ったが、神宮皇后に乗り移った神の言葉を信じずに、この神に殺されてしまう。

◇応神天皇は九州王朝と畿内王朝との統一をもたらした
応神天皇の母 神功皇后は、九州王朝を従え、三韓征伐を行う。
仁徳天皇の父である応神天皇は、食事をもたらす神を意味する気比神宮の主神と名を交換した。
この時、倭=和の諸国は、応神天皇により統一され、大和朝廷に至った。
この血統が越前の大王・継体天皇として復活し、現在の皇室にまで繋がる。

◇仲哀天皇とサタン・ダビデの謀略
『記紀』では目立たない仲哀天皇だが、本当は神の人で有り、大和を救った。 
神は肥沃で資源豊かな新羅を与えようと、仲哀天皇に告げる。
だが、天皇は新羅は貧しく、資源も無いと正直に返答する。
神託は間違っており、新羅は、沃地でもなければ、貴重な鉱産物が出る国でもない。
だから、仲哀天皇の利に惑わされない神の申し出を断ったのは、正しかった。
ところが、この神功皇后に憑依した自称神は、仲哀天皇を無慈悲にも殺し、新羅を攻めさせた。
正直者を理由も無く殺してしまうのは、常識的にも慈愛溢れる神では無い。
この嘘つきで残忍な神を偽証する悪魔は、大陸の内乱に大和を巻き込もうとしたが、仲哀天皇と皇后により阻止された。
即ち三韓征伐は行ったが、植民地支配はせず、軍隊を直ぐに引き上げた。

天智天皇は朝鮮半島の内乱に巻き込まれて、白村江の戦いに敗れ、漢字化・仏教化を受け入れざる得なかったが、神道は残った。

そして、天武天皇により、国号を日本と定め、『記紀』の編纂により日本文化の存続に努め、唐滅亡の内乱には巻き込まれなかった。

このように古代から、日本をシナの内乱に巻き込み、神道の国・日本を腐敗した皇帝思想の国へ移行しようとしたのは、旧約新約聖書に出現するサタンだ。
だから、歴代天皇は大和民族を滅ぼそうとするサタンとの闘いにおいて、神に守護された日本を救ってこられたのだ。

秦帝国が出現する以前は、長江河口から九州に掛けて倭国(九州王朝)だった。
秦帝国により、シルクロードが封鎖され、イスラエル人・秦氏・月氏諸々が、日本に亡命してくる端緒となる。
そこで、畿内王朝は故郷の情報を得ようと、朝鮮半島に基盤を持とうとした。

一方、それまで朝鮮半島を支配していた和国は、秦帝国に圧迫され、九州を本拠地とするようになり、朝鮮半島は資源も無く、ただの通路として放置された。
ただ、鉄鉱石採集のために任那を本格的な植民地としたのでしょう。

そして、三韓は倭国から徐々に離反するようになった。
そこで、神功皇后が新羅を含む三韓を征伐したが、賢明にもこの地を併合したり植民地化しなかった。
このため、大和朝廷は高句麗と秦帝国と直接対峙せず、秦帝国滅亡の内乱に巻き込まれることは無かった。

倭国=和国で、その統一王朝が大和朝廷なのだ。
そして、九州王朝と畿内王朝の本当の統一王朝が、応神天皇により実現した。
ただ、新羅は高句麗の属国となり、倭国から完全に離反するようになる。
そして、白村江の戦いで、天智天皇軍は敗北するのです。

だから、サタン・ダビデの神託に従い、三韓征伐を行い、大和が本格的に軍を駐留させれば、大東亜戦争の二の舞になっただろう。
軍を引き上げたのだが、新羅は大陸側に寝返ってしまい、それが白村江の敗北につながり、大和は漢字化や仏教化を強制されてしまった。
そして大和民族=ヤハウエの民がシナ文明に飲み込まれようとした。
その時、日本を救ったのは唐の滅亡と、天武天皇だった。

◇斉明天皇と白村江の戦い
斉明天皇は、すぐに博多で亡くなる。
『日本書紀』の「斉明天皇紀」には、朝倉社の木を切り払って宮殿を作ったので、神が怒って宮殿の建物を壊したり、宮中に鬼火が現われ、天皇の側近に病死する者が多かったりしたこと、
また天皇の死後、朝倉山の上に大笠を着た鬼がいて、喪列を見物していたことを記していて、当時の異常な精神的状況がうかがえる。

斉明天皇が百済の復興を果たさずに亡くなった後、皇太子だった天智天皇が遺志を継いで、百済の救援を指揮するが、二年後の六六三年、白村江(現在の錦江)の河口で、倭人の艦隊は唐の艦隊に大打撃を受けて全滅する。
それを境にして、倭人は韓半島から追い出されて、日本列島だけに閉じこめられてしまった。

◆13.日本の武士道について

(略)

◆14.太安万侶の古事記序文
『歴史書 古事記全訳』から抜粋しました。
これを読んで驚いたのは、古事記が数代にわたり加筆改編されたことを物語っていたからです。
暗喩ながらも大和民族の出自を伝える古代日本神話ですら、初版古事記には掲載されていなかったのだと思うほど、当時の日本は混乱していたのかも知れます。


◇『古事記』序文
臣太安万侶が申し上げます。

そもそも宇宙の初めのころのことは、明らかにしようがありません。
すべてが混じり合った中に世界の根元がすでに固まっていても、まだ生成力も形も現れていなかったからです。

しかし天と地とが初めて分かれると、天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神という男性と女性の力を共に持つ三神がお生まれになりました。

また陰と陽の二気に分かれて、男性と女性の違いが出来ると、伊邪那岐命・伊邪那美命の二神が万物を生み出す祖神となられました。

そして伊邪那岐命が、黄泉国を訪れた後、現世に帰って、楔ぎをされて目を洗われました。
この時に日と月の神がお生まれになりました。
さらに伊邪那岐命が海水に浮き沈みして身を洗われた時にも、多くの神々が出現されました。

神代からの古伝承によって、神様が国土を生まれ島々を生まれた時のことが明らかになるのです。

天地の分かれる前の元始のころのことは、はるかに遠い太古のことで、明らかに出来ません。
しかし、古代の賢人のおかげで、神々がお生まれになり、神様が人間を生み出したころのことを知ることができるのです。

神々が天の岩屋の神事で、賢人(さかき)の枝に鏡を懸けられました。
天の真名井の誓約で、須佐之男命が玉を噛んで吐かれました。
こういったことのおかげで代々の天皇が相続くことになりました。

天照大御神が剣を噛まれ、須佐之男命が大蛇を退治された後に、多くの神々が繁栄されました。

このあと天の安河の河原で神々が相談されて、建御雷神が伊那佐(いざさ)の小浜に降らせ、大国主神と交渉して葦原中国を平定することが出来ました。

かくして適適芸命(ににぎのみこと)が、初めて高千穂峯に天降られ、神武天皇が大和に入り永く続く皇統を開かれました。

ある時は、熊の荒らぶる神に悩まされ、天つ神の降された霊剣を高倉下から献られて助けられました。
ある時は、尾を付けた毛皮の服の人に道で遭い、八爬烏の導きで吉野に入りました。
忍坂では歌舞を合図に八十建を討ち、賊を従えました。

崇神天皇は夢に神のさとしを受けて、天神地祀を崇敬したので、賢君と称えられています。
仁徳天皇は民家の煙を見て民を慈しんだので、今に聖帝と伝えられています。

成務天皇は近江の高穴穂宮で国郡の境を定め地方を開発し、允恭天皇は飛鳥宮で氏・姓を正しく制定しました。
このように歴代天皇の政治には、それぞれ緩急の差があり、派手なものと地味なものとの違いはあります。
けれども、道徳(※神に仕える掟)のすでに衰えているのを正すためには、古代のことを明らかにして、過去の天皇のことを知るのがよいのです。
それによって現今の姿を考えて、道徳の絶えようとするのを防ぐのです。
 
(2)
飛鳥の浄御原宮で大八島国を御統治した天武天皇の御代のことです。
先帝である天智天皇の治世に、大海人皇子は皇太子ながら、すでに天皇としての徳を具えていました。
そのために天武天皇は、即位の時機が到来してその徳を発揮して朝廷を大きく発展させることになりました。

天皇は夢の中で聞いた童謡を皇位を継ぐ意味と判断し、夜半に横河で黒雲の広がるのを見て、やがて皇位を継承されることを予知しました。

しかしながら天運がまだ到来するに至らず、大海人皇子が皇太子の地位を去って出家のため吉野山にこもったことがありました。このあと大海人皇子は兵を集める手筈を整えて、東国に勇ましく進出しました。

さらに皇子は輿(こし)を進めて山を越え川を渡り、雷電のような凄まじい勢いで進撃しました。矛が威力を示し、勇士が煙のように四方から起こり、赤い旗が兵器を輝かしました。

近江の軍勢は、瓦の崩れるように敗れ去りました。
こうしてまだ十二日もたたないうちに、邪気はおのずから清められました。

そこで大海人皇子は戦に用いた牛や馬を放って休息させて、心安らかに大和に帰りました。
旗を巻き矛を収めて、戦勝を喜んで歌い踊り、飛鳥の都に凱旋されたのです。

かくして酉の年(六七三年)の二月に、大海人皇子は浄御原宮で即位しました。
新たな天皇の政治は、古代中国の黄帝(中国の聖帝)に勝り、御聖徳は周の文王(中国の賢人)より優れていました。

天武天皇は三種の神器を承け継いで天下を統治し、皇統を承けて天の下を隈なく統合して良い政治を行ないました。
そのために、陰と陽の二気が正しく作用し、また木火土金水の五行が順序正しく循環しました。

天皇は神祀を崇敬して良俗を奨励し、すぐれた徳政を国内に広めました。

それのみならず、天皇の知識は海のように広く、はるか昔の事まで探究されました。
天皇の心は鏡のように明るく、先代の事をはっきり見きわめました。

このような天武天皇がこう仰せられました。

「諸家に伝わっている『帝紀』および『本辞』には、真実と違う虚偽を加えたものがはなはだ多いということです。
そうだとすると、その誤りを改めておかねばなりません。
そうしなければ今後幾年もたたないうちに、正しい歴史が失われてしまうにちがいありません。

そもそも『帝紀』と『本辞』は、国家の原理を示し、天皇政治の基本となるものです。
それ故、正しい『帝紀』を選び、『旧辞』をよく検討して、偽りを削除したうえで正しいものを定めて、後世に伝えようと思います」

そのころ氏は稗田、名は阿礼という、二十八歳になる舎人が天皇のお側に仕えていました。
この人は生まれつき聡明でした。
かれは文章を一目見ただけで口に出して音読することが出来、一度耳にしたことは記憶して忘れなかったといわれました。

そこで天皇は阿礼に命じて、『帝皇の日継』と『先代の旧辞』とを繰り返し涌み習わせました。
しかしながら天皇が亡くなり、時世が移り変わったので、その御計画が実行されるに至りませんでした。

(3)
今上天皇(元明天皇)が即位した後、天皇の聖徳が天下に満ちわたり、万民は安心して生活しています。
天皇が皇居にあっても、その御徳は馬の蹄の止まる遠い地の果て、また船の舳先の止まる海原の果てまでも及んでいます。

朝廷の書記官は太陽が空にあって光を重ねる瑞祥(めでたい出来事を予言するもの)、雲でもない煙でもないものが空に現れる珍しい瑞祥、連理の枝(一本の木の枝が他の木の幹や枝とつながったもの)や一本の茎に多くの穂の出る瑞祥などを絶えず記録しています。
また次々に蜂火をあげて知らせるような遠い国や、幾度も通訳を重ねるような遠い国から送られる献上品が、いつも宮廷の倉に満ちています。

このような聖徳の高いいまの天皇は、夏の萬王や、殷の湯王といった中国の優れた君主にもまさっています。

天皇は、『旧辞』に誤りや間違いのあるのを惜しまれて、『帝紀』の誤り乱れているのを正そうとしました。
そのため和銅四年九月十八日に臣安万侶に詔を下しました。

「稗田阿礼が天武天皇の勅命によって涌み習った『旧辞』を書き記し、書物として献上しなさい」

と仰せられたのです。
そこで私は、謹んで命令に従って事こまやかに採録しました。

(略)

この本に書き記したところは、天地の開聞から推古天皇の御代までの歴史です。

天之御中主神から鵜茸草茸不合命(うがやふきあえずのみこと)までを上巻とし、神武天皇から応神天皇の御代までを中巻とし、仁徳天皇から推古天皇までを下巻としました。

合わせて三巻に記して、謹んで献上いたします。
臣安万侶、畏れ謹んで申し上げます。

和銅五年(七一二)正月二十八日
                  正五位上勲五等太朝臣安万侶

ルーツ・ファンタジー/類似する神話 4

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転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

古事記の中に現れる秘数と神々


■世界最古の文字と日本の神々

古代日本には、まずシュメル・バビロニアからの移民が渡来し、旧約の民と原始キリスト教の民により、部族制の元に統一されて大和国が樹立されました。

その後、『記紀』の編纂により、日本は「天照大」を日本の主神とし、皇室がこれを祀る神権国家として誕生しました。

また、イスラエルの父であるテラはシュメル・ウルの神官で有り、シュメルの神、エンリルを祀っていた。
知的階級の神官を中心に、楔形文字、官僚制国家、諸々の文明と一緒にエンリルの守護の元、旅立ったのです。
ですから、旧約の民と云ってもヤハウエが出現するのは、紀元前一千年頃なので、それ以前に日本に渡来した旧約の民はヤハウエという神を知らず、文字は楔形文字を使用し、シュメルの神々を主神としていました。

つまり、

「日本の地名の大半は、BC三千年紀のシュメル語、バビロニア語に由来するといっても過言ではない。
中国においてもしかりである。」

さらに、日本の神々をシュメル語で解読することにより、天皇の和風号とは、天皇=大和の大王を支える複数部族の主神名を並べたものだったということが、明らかになります。

また、イスラエル人はウルの言葉を話し、楔形文字を使っており、これが発展して、独自のヘブライ語とヘブライ文字が誕生しました。
しかし、出エジプト時代後には、エジプト文明化されており、ヘブライ語とヘブライ文字もかなり忘れ去られていたようです。

その後、二度の捕囚期間に旧約聖書の多くが完成し、ヤハウエを主神とするユダヤ教、即ち旧約の民が誕生することになります。

ですから、3世紀以前の古代日本に渡来したシュメルの神々を主神とする部族の言葉は、旧約の民の言葉と酷似していたことが推測されるのです。

今回、『世界最古の文字と日本の神々』を基本資料として、上記の内容を確信致しました。

例えば、「神風」の由来について説明しましょう。

通常は、二度の元寇を打ち破った台風を称して「神風」と云うのだと思っていました。
しかし本書によれば、

《 紀元前2千年頃、越の国に文明が起こりました。
ウルの神官をトップにした移民がこの地に移住し、シュメルの絵文字と青銅器文明と官僚制と稲作を持ち込みました。

古代の越では、二本の柱を立て、しめ縄を張り、その内側を聖域としていました。 》

まさに日本の神社の原型です。
そして、日本ではこれが「鳥居」となりました。
私は「鳥」=「天使」だろうと思っていたんですが、間違いで、実は風神のシンボルです。
つまり、神社は風神=神風を祀る聖域でした。

さて、シュメル語で「エン」=「神」、「リル」=「風」です。
日本語では「神風」で、風神です。
この風神部族は、佐賀の吉野ヶ里遺跡他にも渡来しており、風を吹き出すように口をとがらせている「ひょっとこ」がその印でした。
同時に、越人(エンリルの略)は、夏人として北上し、夏・殷帝国を建国し、シュメルの絵文字から、甲骨文字が発達します。

そして、越でジャポニカ米ができる頃になると、シュメルの神官テラの子アブラハムの正当な末裔がこの地に渡来し、弥生人として日本に移住します。

テラはシュメル語の読み書きができるので、ここからヘブライ語も派生したと考えると、エンリルを祀る縄文人とヘブライ語は、非常に近かったと考えられます。

さて、古代シュメルの地はウルクです。
ギルガメッシュ王の活躍した王国でした。
神社拝殿の入り口に建てられている二頭の狛犬は、二頭のライオンのことで、ギルガメッシュ王のシンボルです。
それが、日本にエフライム族、後にユダ族が渡来し、大和を建国する頃になると、狛犬の一方が一角獣に変わった。
つまり、ライオンを家紋とするユダ族、一角獣を家紋とするエフライム族の正当な末裔が皇室である。

以上のように、日本はノアの大洪水後から、役職名「エンリル=神風」に守護された地域でした。

BC1000年以上前には、ヤハウエという言葉は存在せず、イスラエル人の間でも、アン、エンリル、エンキ、等のシュメルの神々が実名で使われていました。

ちなみに、シュメルの神々の呼び名は役職名で、本名ではありません。

天照=アマ・テル・アスと分解でき、アマ=神、テル=輝く、アス=50の意味です。

天王=アヌは、天と地の王ですから、日本語で当てるには「天照地照大神」でしょう。

◇まとめ
アブラハムの父テラはウルの神官でした。
エンキの記憶を書き取ったのも神官です。

王テラはエンリルを主神とし、農民・工人・牧人・官僚を引き連れて、出立しました。
これがヘブル人ですから、彼等の言葉はシュメル語=ウル語です。
アブラハムに代替わりした頃には、ウル語から少し変形したヘブライ語に変わったかも知れませんが、ほぼ同じでしょう。

そして、ヤコブの時代になると、エジプトに長期逗留してしまい、エジプトの風俗と言葉を使うようになり、ヘブライ語を忘れてしまいます。
この時代より前に日本に向けて出発した一族はウル語を覚えており、シルクロードの「海の道」を経由して、日本に到着することには変形して倭語に成っていたことでしょう。

出エジプト当時、ヤハウエは存在しません。
ヤハウエが旧約聖書に出現するのは、捕囚時代だと思われます。
ですから、捕囚を逃れて日本に出発したユダヤ人(イザヤの民)の主神は、太陽神・マルドウクでした。
彼等はシルクロードの「オアシスの道」を経由して日本に渡来します(前660年頃)。

ローマの支配下にあったユダヤでは、ヘブライ語は失われ、アラム語とギリシャ語が使われています。
ローマの迫害を逃れた原始キリスト教徒は秦一族として、日本に渡来し、南伝のエフライム族、北伝のユダ族の王権を統一し大和朝廷をうち立てます。
原始キリスト教の主神はヤハウエです。

次に、秦一族の除福が日本に渡来し、北極星である天王を先頭に、北極星を周回する北斗七星(七大天使=七福神)と共に、日本に渡来し、天照大=ヤハウエを日本の主神とするのです。

ですから、全ての地上の文字と文明と宗教は、シュメル文明とシュメル絵文字と古代シュメルの神々が始まりである。

◆漢字の使い方はアルファベット代わり
現代日本語では解読できない古事記の不可思議な当て字漢字の呼び名は、シュメル語や甲骨文字で読解できると云うことを意味しています。
日本の神話時代は、トーテミズム制度社会だったので、神名は、即、部族名になりえたし、事実そうだった。
日本の神名は、当時、アルファベットも、カタカナもなかったので、すべて漢字をアルファベット代わりにして表記していた。
その資料として、下記本書から重要と思われる箇所の抜粋です。
尚、神代文字はシュメルの絵文字が日本に渡来する間に、各部族で独自に派生した文字(ヘブライ語の成立過程に似た)だったのではないかと推測されます。
そしてキーとなるのがウルクで祀られていた「七枝樹二神」なのですが、この「七枝樹」を生命の木とも呼ばれ、人類を創造した女神になぞらえ遺伝子という説もありますが、個人的にはそれは間違いだと思います。

「七枝樹二神」の夫妻神は、北極星として祀られている天王=ヤハウエ夫妻を表し、七枝樹は天王に従う七大天使だと思われます。

◇赤い麦が米の語源
現在は赤米と呼ばれる陸稲。
ジャポニカ米とは異なり、玄米の河の部分にアントシアニンが含まれています。
縄文時代の米は、陸稲を中心として、水田の両方だったようです。

やがて中国の越でジャポニカ米に改良されると、これが日本に渡来し弥生文化となる。
部族が移動すると地名・文化も移動する。
赤米稲作耕法は、エンリル、トーテム部族と共に、沖縄から種子島、そして日本に船で運ばれた。

赤米信仰は種子島と対馬に残されており、南方経由のエンリル部族と、北方経由のエンリル部族によりもたらされている。

◇神武系は海のシルクロードを経由して日本に渡来
神武系=エフライム族(当時はイスラエルの正当な末裔)はエンリルを主神とし、エジプトの宰相であるヨセフの死の直後頃に、エジプトからインド経由で、海のシルクロードを伝って日本に渡来している。
そして、出雲王国を建国した。

◇豊満神社の主神・玉より姫
豊満神社は種子島に多く、九州にもある。
主神・玉より姫は神武天皇の妃でもある。
更に「豊満」はエンリルの暗喩であり、つまり、神武天皇は海路で、日本に渡来した。

◇シュメル語の草原(エディン)
バビロニアに入るとエディヌ、ヘブライ語に入るとエデン、即ち「エデンの園」となった。
古代印度や中国では、エディンが縮まりディンになり、これが「デン=田」である。

◇中国の越人(南方からのエンリル信仰)
越人は鳥をトーテムとし、鳥霊信仰が盛んだった。
鳥は風神エンリルのシンボルで、鳥トーテム民族はエンリル信仰族で、卵生神話を伝承している。

越には、エンリル(バビロニアではエンリラ)の名を持つ「エンリラ城跡」がある。
BC500年頃、越はクハルルと読み、その意味は「風」であった。
現代中国では、越を「ベト」と読み、「越南」をベトナムと云うようになった。
この系統のエンリル信仰を南方からのエンリル信仰と呼ぶ。

尚、日本の越国を建国したのは、除福一族の技術集団で、旧約の民・秦氏一族(ローマ方面から移動してきた部族で、風神・エンリルを主神とする)です。
ということで、日本と中国の類似は、韓国よりも濃い。

尚、欧米列強は朝鮮半島を植民地にすることを嫌がり、逃げ出した。
それは、朝鮮半島に資源はなく、朝鮮人は土人同様だったからです。
大日本帝国が朝鮮半島に文明をもたらしました。
加えて、古代日本から古代朝鮮半島へ文明は移動しています。

◇アイヌは倭人を「シャモ」と呼ぶ
「シャモ」は「アッシャム」→「シャム」から転じた「倭人」の呼称である。
要するに倭人は「天神族」だと云うことだ。

◇弾琴巫女術 仲哀天皇記で神功皇后も行っているが、古代日本の独創ではなく、古代中国から渡来した「神降ろしの巫女術」であった。
そしてその源流は。BC四千年紀のシュメルにあった。

◇司祭記(エンシドゥブザル)
BC3千年頃から用いられたシュメル文字の祈願は、アッカド、バビロン、アッシリアを経て、紀元前6百年頃までの粘土板に書かれている。
中国へは、司祭記がトーテム族を束ねて移動してきて陶器や亀甲や牛骨や石や青銅器に文字を書き込んでいる。

殷では司祭記をエンシドゥブシンと読み、後には簡略化されて「司徒」となった。
文部大臣の高官である三司「司馬、司徒、司空」の内の「司徒」である。
尚、「エンキの失われた記憶」も司祭記が記録している。

◇世界最古の文字から各民族独特の文字が派生した
シュメルの絵文字(象形文字)が最初に誕生した。
シュメルの神を中心とする部族が、司祭を頭として各地に移動していった。
そしてその土地に定住する種族は、シュメルの絵文字から独特の象形文字を派生させていった。
例えば、シュメルではシュメル絵文字から楔形文字を作りウルやウルクから日本へ渡来した。

エジプトではシュメル絵文字からエジプト象形文字を作り、後にアルファベットへと変形していった。

中国では越に移住した風神種族が、シュメル絵文字から甲骨文字を作り、甲骨文字と青銅器文明を黄河地域に持ち込み夏王朝を建国した。

イスラエル人はシュメル絵文字からヘブライ文字を派生させた。

インドではシュメル絵文字からドラビタ文字や梵字が派生した。
ドラビタ文字に最も影響を与えたのは、シュメル語であり、次にアッカド・バビロニア語であり、次にエジプト語であった。
ドラビタ語に近い日本語にも当てはまると思われる。

◇伊弉諾・伊弉冉の語源
「三と四の男」がイザナキ、
「三と四の女」がイザナミの祖語である。
(1) 三と四の男
エシユ・ア・ラム・ギシュ

(2) 七枝樹の男
エシユ・ア・ナン・ギ
→ イシャ・・・ナ・・ギ
→ イザ・・・・ナ・・キ

「男」というシュメル語のギシュは、
「木」のギシュと同一文字である。
したがって、そのギシュは、日本において、ギ、キ、コと転じる。

伊邪那岐の岐は、その「木」
「男」のキ(岐)なのだ。

一方、「女」(女陰)のシュメル語「ミ」は、日本において、ミのままの場合と、メに転靴した場合の双方があり、
前者のミは「美」、
後者のメは「賣or売」に宛てるのが一般だった。

で、「三と四の女」は、イシヤナミからイザナミへ転じ、伊邪那美と漢字表記されたのである。

このように、ウヌグ・キ(ウルク市)の創生神であり守護神でもあった七枝樹二神は、
紀元前二〇〇〇年の中国の丁公村陶片文字群の中にあっても「祈る」文字のすぐ近くにあり、
『楚辞』天問篇では蛇女神の女岐が〝子生み〟の創生神の位置にあり、
殷では「夫婦子」の画像銘文が青銅器に鋳込まれており、
そして当時の日本列島内に「祈る・七枝樹二神」の石碑が祭壇に立っていた。

このような歴史的事実を踏まえて、
『記・紀』神話の〝国生み・神生み、のイザナキ・イザナミ男女二神の出自が七枝樹二神を祀るウルク、もしくはウルだと断定したのである。

中国には中国なりの中国化があり、
日本には日本なりの日本化があった。
しかし、だからといって、表現法の基本であるウヌグ・キ(ウルグ市)の円筒印章印影図とシュメル語の規範から、大きく逸脱してはいない。
伝続の守るべきものは、日中ともにきちっと守っていたのである。

※「七枝樹」については、石上神社の宝剣として納められている「七支(枝)刀」が有名です。
この宝剣に刻まれた「泰」の文字は漢字ではなく「七個の文字から成る」とし、
意味は
「霊験あらたかな七枝樹に向かい合い牡牛神ハルと蛇女神キ」
と解読しています。

※尚、日本の皇統を旧約聖書の皇統と比較すると、「天の御中主」が「ノア」に、「伊弉諾と伊弉冉」が「テラ夫妻」に相当する。


◇八咫烏
古代のシュメル人やバビロニア人は、太陽の中にある黒点を観察し、その黒点を「黒い鳥・鴉(カラス)」と解釈していた。
更に、七枝樹二神の男神側に三枝があるのは、男性性器の表現で有り、太陽神の使い八咫烏の三本足は天照大が男神であることを表現している。

◇一対の狛犬とギルガメッシュ王
シュメル語の「獅子と戦う王 メ(戦う)・ウル(獅子)・マフ・ギシュ(王)・ク」が、mがgに、gがmに転じる当時の音韻変化により、ギルガメッシュになった。
両腕に獅子を抱えるギルガメッシュ王の暗喩として「獅子神」「獅子と獅子」とされ、古代中国にも古代日本の線文字にも残されている。
(尚、シュメル語で、ウル=犬、ウル・ク=家犬、ウル・マフ=獅子)

ユダ族のシンボル「獅子」はギルガメッシュ王の皇統だと云うことでしょう。
そして、ギルガメッシュ王を主神とする種族が古代日本に渡来し、二頭のスフィンクスを真似て、神社の入り口に二頭の狛犬(高麗犬=獅子、双獅子)を置いた。
(これが南伝に対し、北伝のエンリル族である)

そして、一角獣をシンボルとするエフライム族とユダ族が日本に渡来し、旧約聖書の預言通り、ユダ族とエフライム族の皇統が合体し、大和が建国された。
その結果、片方の狛犬の頭に一本角が付加された。
     
◇銅鐸(どうたく)
銅鐸は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。
紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。
銅矛は主に北九州から出雲周辺、
銅鐸は近畿から東海地方にかけての地域で、主神はエンリルで同じだが、南伝エンリルと北伝エンリルの違いがあった。やがて出雲(エフライム族)は大和(ユダ族)に王権を禅譲したのです。

◇大天使ウリエルは、ギルガメッシュ王か!
インドの梵語、ヒンディ語、バーリ語においても、ギルガメッシュ王の暗喩は「獅子と獅子」であった。
この「獅子と獅子」が転じて、ヤマからエンマとなった。
この閻魔王はインド最古の神で、死者・死に神の統治者とされている。

一方で、閻魔大王は冥府の王であり、罪ある者を裁く。
嘘をつくと閻魔大王に舌を抜かれるといった説話は、大天使ウリエルの仏教版です。
また、大天使ウリエルは七福神では、布袋(弥勒の化身)に対応している。

◇中国の風神「インインアウ」が、ひょっとこ面の祖型だった
BC千年紀の中国の風神を「因因呼(インインアウorイインクァウ)」と云う。
インインはシュメル語の「イムイム(風・風)」の中国訛りである。
クァウは「越」のことで、越から来た風神を意味する。

風神の面は「秦僮(シンドウ)」と云われ、秦一族も「越の風神」を主神とし、日本に渡来したときにこの面を持ち込んだのでしょう。

古代中国の文献等に登場する風神の種々相を示しておこう。
日本語「風」のかぜ「加是」「志那(しな)」も同じである。

風神・因因乎 … 『山海経』

風神・飛廉(ヒレン)… 『楚辞』
※蛮廉とも書く。

風神・淹里羅(エンリラ)… 殷のの金石文。城名。

風神・風乍天子 … 周の甲骨文。
風神は天神の子という意味。

風神・五十 … 周の金文。
風神の神々のランクは50という意味。

尚、淹里羅城は、佐賀県吉野ヶ里の祖型とも言われている都城なのだが、淹城遺跡に入る門に『里羅城』と書いてあった。
そもそも、淹国は越の一国で、越は風神を主神としていた。
つまり、吉野ヶ里遺跡は風神を主神としていた。

◇南伝と北伝の皇統
伊弉諾・伊弉冉の神統系は、ウルク系の「七枝樹二神」・「女十五神・父日神」に属する、即ち崇神天皇系(ユダ族)である。
アキツ男神と女神は、ウル系(海路の海系)の「天父アンと地母神キ」・「越の淹里羅」系に属している、即ち神武天皇系(エフライム族)である。
つまり、大和は南朝と北朝が合体して建国された。

シルクロードは、「オアシスの道」「草原の道」「海の道」の三通りがあり、これを経由して古代日本にシュメルの神々が渡来した。
つまり、シュメル文化やアッカド文化を持った「農民」「工人」「牧民」「官僚」などが、王・司祭者の統一の元に、主神の守護を信じて、西から東へ移動していったという民族移動の歴史があった。

主神としては「双子獅子」「七枝樹二神」「女十五・父日神」「天地風」諸々をトーテムとする民族が居たのである。

ちなみに、風神アネモスは、ウル市から中央アジア、アルタイ、モンゴル、扶余(満州)を経て、日本へ伝わったものである(つまり、草原の道=北伝)。

◇「越族」の信仰
越族のトーテム(主神)の一つは「蛇」で、並んで「鳥」が崇拝されていた。
「鳥」「白い鳥(ハト、鷲…など)」が風神の使者、あるいは風神の権化とされていた。
シュメルでは“神鳥”、それも“旋風の神鳥”という文字があり、それは風神エンリルの侍大将・長子ニヌルタである。
剣神である“旋風の神鳥”の眷属は、しばしば「梟」で表現されていた。
また、「黒い鳥」の鴉が日神の権化とされていた。

◇カッパの由来
九州・八代市に『オレ・オレ・デーラータまつり』があり、球磨川川口の堤上に、祭りの由来を書いた碑が建っている。碑文には「河童三千匹上陸」とあり、河童たちが口々に「オレ、オレ、デーラータ」と叫びながら上陸したとある。
まさか、想像上の生物である河童が人間に近いことばを発するとは思えないが、多分、この河童は、お河童頭をした異国の水人(海人)だったのではないか。
とすれば、「オレ・オレ・デーラータ」は、「ワレ・ワレ・ディラ・イダン」に近いことばであったろう。
意味は、「我、我、風の共同体」、
つまり「我々は風神族だ」である。

※「かつ」はシュメル語の「風」なので、カッパの「カツ」=風神です。
更に、風神の面は「秦僮(シンドウ)」と云われているので、「河童」は「風神」の一族と考えられる。

◇風神・天の子・アネモス(ギリシア)崇神天皇名、垂仁天皇名に入っている「五十」を根本的かつ綜合的に説明する時が来た。
 
 
●垂神天皇(紀)…
御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)
 
●垂仁天皇(紀)…
活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)
 
●垂仁天皇の皇子(紀)…
五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)
 
●垂仁天皇の皇子(記)…
五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)

問題の「五十」は、風神アネモスの暗喩でもある。
シュメル、バビロン、バクトリア、西域北道、西域南道、中国、蒙古、満洲、韓国、日本の全てで通用した風神アネモスの暗喩。
そして、パクトリア以東は、風神像がギリシア・スタイルになって、日本列島にまで及んだ。

紀元前三〇〇〇年紀のウル入社会に一つのコンセンサスがあった。
人間界の王の王権は風神エン・リルから授かる。
神名のエン・リルは、神・風というウル語であり、そのエン・リルの父を天神アン、母を地神キ(またはク)といった。
当時のウル語では、
この天地風の三神を『バ・アン・ク・リル』(神・天・地・風)のようにいうこともできた。

紀元前十世紀後半、中央アジアのアラル海付近では、バ・アン・ク・リルからパクトリアという国名が生まれた。
首都の名はパクトラ。
しかし、パクトリアは、ギリシアのアレクサンダー大王軍によって征服され以後、固有の文化がギリシア化された。

ついで、グレコ・パクトリア朝の文化を継承したクシャン朝のカニシュカ一世の時代になると、風神アネモスの神像と、ギリシャ文字でアネモスと銘打たれた金貨が発行された。
いわゆる風神アネモス金貨であり、BC二世紀半ばとされる。

では、ウル語でエン・リル、パクトリア語でバ・リル(またはバ・エン・リル)と呼ばれていた風神の名が、何故、ギリシア語でアネモスと変わったのか。
その答えはいたって簡単で、風神エン・リルが天神アンの子、息子だったからである。

古代ギリシアにはウル語、シュメル語、アッカド語、バビロニア語、フェニキア語等が洪水の如くに流入していた。
ギリシアの自由都市テーパイの建国王はフェニキアの王子でカド・モスといったが、そのカド・モスというフェニキア語はウル語のメス・バッダ(神の申し子)の逆順語、すなわちバッダ・メスから、「p→t→k」の法則通りに転靴したところのカド・モスだった。

同じように、ウル語の風神エン・リルの暗喩としてのアン(天神)ネ(の)メス(子)も、ギリシアへ入って、アネモスと変化した。
グレコ・パクトリア語で「風神」の名が、バ・エン・リルからアネモスへと変化した背景には、上述のような言語史があった。

クシャン王カニシュカ一世の金貨に天駆ける風神アネモスの像、その足下にギリシア文字で「Anemos」とあったことは、ウル文化東漸のあかし、まさに歴史が浮き彫りになった金貨といえよう。

ここで尾形光琳描くところの江戸期の風神図を見ていただきたい。
ギリシア人が紀元前十世紀後半に措いた風神アネモスの像が、中央アジアからシルクロードを東漸してはるかなる日本にまで到達していたことが如実にわかるであろう。

風神は白鳥を権化とし、口から風を吐いていたが、風神アネモスの場合、風のシンボルとして両手に布を持っているのが特徴。
尾形光琳の風神もまさに、両手に風神のシンボルである布を持っている。
つまり、尾形光琳の風神がシュメルのエンリルである。


■記紀を理解するのに重要な語彙集

『記・紀』を読むのに重要と思われる語彙を集めてみました。


◇ウラ(浦)
シュメル語の「父・60」

◇オソフ(襲)
シュメル語の「50・吹く風」で、熊襲もエンリルが主神である

◇ネコ(根子、泥古)
シュメル語からの派生で、水田、稲の意味

◇タカンラ(宝、高良、財) シュメル語の「父60・父・天神アン」…エンリルのこと。

◇ム・イツ(美津、満) シュメル語の「吹く・風」…エンリルのこと

◇いかが
シュメル語の「イル・ガ・ガ」=シュメル語で祈る

◇うらなふ(宇良奈布)
シュメル語で「神に祈願・ウル・巫術」

◇おがむ(拝む)
シュメル語の腰シをかがめて礼拝する「ガム」が、日本語の「おがむ」の語源

◇きがん(祈願)
シュメル語の「祈・礼拝」

◇ほ(火、菩)
ウルクの七樹二神の牡牛神ホルのこと。
スサノウの命の子孫名に「ほ」がある

◇なめ(新嘗祭、神嘗祭のなめ)
七樹二神の四枝側に座る地母神キの倭人語

◇天の沼矛
七枝樹二神の神名「キ・ハル・キ・ハル」から創作された

◇塩コヲロ
七枝樹二神の神名「キ・ハル・キ・ハル」から創作された

◇女神イナンナの和語
古代日本ではイナンナを略して「イナ」と読んだ。
イナ(伊那)、伊那目、稲田、稲城、稲葉、因幡の白ウサギ、稲水命(神武天皇の兄)

◇たける(武、建、タキル)
シュメル語の「強い獅子を退治する」が転じ、タキル、タケル(建)、タケ(武)になった。
つまり将軍という意味で、例えば「建速須佐之男命」は「牡牛神の海軍大将」である。
他にも、竹内、竹田、武田、建部、武部などの苗字は、将軍号か、ギルガメッシュ系の部族名のどちらかだろう

◇インドラ
インダス文明における風神エン・リラから派生したイン・ディラが、雷神イン・ドラである。
このイン・ドラからインドの国名となった。
尚、バクトリア南方の遊牧民のアーリアンは、印度に侵入してインド・アーリアンとなった。
彼等は、イン・ドラ神(雷神)とアグニ神(火神)を崇拝していた

◇あきつ(安芸津、秋津、秋)
風神・エンリルを「天地の子」「天子」という意味で「秋津根別」という風神名も記紀にある。
秋津は「天父神・地母神」である。

◇はや(速、早)
「海員」の意味。
建速スサノウ命、ニギ速日命などの「ハヤ」は「海員」なのである

◇ひこ(比古、彦、日子、毘)
男王の意味

◇ひめ(比売、姫、媛)
女性の王の意味

◇やつしろ(八代)
八代では “やっちろ” と発音し、バビロンの風神エン・リラの訛りである

◇ちの(茅野、千野、千乃)
風神エン・リラが、「や・っしろ」となり、「やっ」が抜けて「しろ」が「ちの」と簡略化された

◇モンゴル
モンゴルとは、ブリヤートや匈奴(自称フンヌ)と同じ意味で、「吹く・天空・風」が訛ったものだ。
つまり、モンゴル人はエンリルを主神とする。

◇北九州の伊都国
筑紫の伊都県主の祖を五十迹手(いとて)と言う。
国名の「イト」「イツ」は、すべて風神の暗喩「50」、イ・シュからの転訛語だった。
つまり、魏志倭人伝にある倭国は30の国々から成るとしているが、各国は主神を持つトーテム族であった。

◇あすか(明日香、飛鳥)
明日香は
「50(イ・シュア)・風(カバラン)」
→「(アス)・(カ)」に転じた。
蘇我馬子の石舞台には、巨大な石に2m大の剣を持つ風神アネモス像が刻まれている。
つまり、蘇我氏は北伝風神系である。
風神アネモス(=風神エンリル)はクトリアからの伝来で有り、巨大な石を使うのはペルシャ人の技術でなので、拝火教の影響もあると思われる。
尚、拝火教はヤハウエと七大天使が出現している

◇エンヤラヤ
「エイクーリ」は、ロシア語だと「エイコーラ」、
日本語だと「エンヤコーラ」となる。
「エイクーリ」は、「風神エンリル・天神アン・地母神キ・ウル」から転じたもの

◇ウマシ(宇摩志)
シュメル語「ウムン」が転じたもので、意味は「主」

◇芦辺(あしべ)、芦原(あしはら)、芦川(あしかわ)
アシベは「50・吹く・天空」から転じた「風神」である。
「葦原」「芦川」「芦川原」と同祖語である。
「芦原」はエンリルの都である「ウル」のこと

◇原初 「げんしょ」と読めば始まりのことだが、「ウルク」のことである

◇卑弥呼、卑弥弓
ヒミコは「王(ビリグ)・王(ギシュク)・天神アン(アン)」が「ヒ・ミ・ク・ア」となり転じた女王名である、という見方がある。
しかし、女性であれば伊弉冉や姫の様に女性を示す単語がついているはずだと思う。
だから、卑弥呼=日巫女の方が正しいのだろう。
ちなみに、卑弥弓は男王のことである

◇天の香具山
「天の60(アッシャム)・山」が転じたもの

◇かぐや姫
香具が「天の60」で、ヤが家だから、カグヤは「天の60・神殿」である。
天王の基地の管理者という意味だろう

◇邪馬(やま)
ヤマは「獅子(ウル)・獅子(マフ)」から転じたもの

◇三ノ輪山
「獅子と闘う」山の意味。
御諸山も同じ意味

◇まほろば(麻本呂婆)
強大な共同体国家という意味。
聖徳太子の時代、部族長制の国だった

◇みかど(帝)、みこと(命、尊)
ミカドもミコトも、シュメル語のメス・バッタから転じたもの。
メス・バッタは神の申し子という意味で、ウル王族の尊称である。
ミカドは天皇のこと、ミコトは神の申し子の意味で、王族(皇室)の尊称である

◇農神のニン・ギジツダ
農神のニン・ギジツダとギジツダは蛇の雌雄であらわされ、時にはからみ合った姿、時には柱にまきついた姿で表わされていた。

日本の尻久米縄(シリ・クメ縄、略してシメ縄)は、雌雄の大蛇のからみ合いだが、雌雄のニンギジツダとは別神である。

神社や仏閣によく見かける、左右の柱、あるいは鳥居の柱にまきついた二頭の竜は、いうまでもなく、天宮の門衛神であり、農神でもあったギジツダ両神の日本的表現である。

◇おししろ(忍代)
景行天皇の名にある「忍代」は、オソ・シロと読むが、「50・風」という意味である。

◇崇神天皇の和風号ミマキ(御間城、御真木)
ミマキは「天神・地母神の子」という意味。

◇崇神王朝の天皇名や皇子名のたらし(足、帯、多羅斯)
タラシは、隋書では多利思(タラシ)、三国史記では太良洲(タラシュ)となっている。
「父(アズ)・60(アッシャム)・50(イシュ)」が転じたもの。

つまり隋書で有名な
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」の
「タリシヒコ」は、天神・風神を主神とする男王だった。
従って、崇神天皇の和風号ミマキ・イリ・ヒコと、
隋書の倭王の字タリシヒコと、記紀に出てくるタリシヒコは、全て同一の内容だった。

◇景行天皇の和風号
大足彦忍代別天皇(オホタラシ・ヒコ・オシロ・ワケ)と表記されている。
以上から、「父60・50」「男王」「風50」「父60」である。

つまり、景行天皇の和風号の意味する所は、部族の大王という意味である。
天皇の和風号とは、天皇=大和の大王を支える複数部族の主神名を並べたものだった。

◇油(あぶら)
「父・日(ラー)」=アブ・ラーのこと。
ラーはエジプトの太陽神で、シュメルではマルドウク。
また、ラーは冤罪のためにエジプトから追放され、彷徨していた時代があり、アメン・ラー(隠れた太陽神)とも呼ばれている。
このアメンが聖書の民が神に祈るときの言葉 “アーメン” 。

◇素戔嗚尊(スサノオ命)
司馬貞は『史記』の冒頭「三皇本紀。炎帝神農。」にこう書き加えている。

《炎帝神農は人身牛首である(中略)。
木を切って鋤をつくり、木をたわめて鋤の柄をつくり、鋤の使用法を万人にしめして、初めて耕作を教えた。
それゆえに号を神農氏という(後略)。

この牛首の炎帝神農を高句麗語ではスサといった。
今も北朝鮮語でスサという。
が、よく考えるとこのスサは、シュメール語の牡牛神シュウシュハルから転じたスサ、そして日本の牛頭天王といわれるスサノヲ命のスサ(須佐)、スサン(素箋)とも同系語であった。》

◇乙姫(おとひめ)
シュメール語の「日」のウツは、古代中国でイツに転じ、甲骨文字で「ミ」(漢字で乙)と書いた。
古代日本では、オツ、あるいはオトへと転じた。乙姫(オトヒメ)のオトは「日・太陽」である。
なお、宇都宮の宇都も、当然「日」であり、宇都宮は「日神宮」である。
 

◆しめ縄に見るシュメル語・倭語から日本語へ
『数の文化史を歩く』によれば、
「しめなわ」の語源とその意味を過去に遡ることで、現代語の「しめなわ」が、古事記の天の岩戸神話「シリクメ縄」に由来していること。
更に時代を遡ると、シュメル語の蛇(シル)と蛇(ムシュグビ)を重層させたのが、日本語の「シリクメ」のシリ・タメだということが明らかになる。
つまり、このようにして、シュメル語彙から倭語へと移行し、そして日本語が誕生したのです。

下記資料はすべて『数の文化史を歩く』より抜粋しました。

「しめなわ」は江戸時代からのもので、漢字で「標縄」「注連縄」「七五三縄」と書く。
その意味は下記の通りですが、天皇の和風号と同じで「しめなわ」の意味を、それぞれ三種類の漢字に当て字して説明しているとしか思われないのです。

◇「標縄」
“標の内” “標の外” という言葉があり、
神社の境内の内また境内の外を指す。
つまり、神域の内と外ということである。
こうした用法から「標縄」の語釈は「神前または神事の場に不浄なものの侵入を禁ずる印として張る縄」(広辞苑)ということになる。

◇「注連縄」
“注”は水を注ぐことで、「注連」とは、漢和辞典によれば
「水をそそいで清め、連ねて張る縄。
出棺後、死者の魂が家に帰ってこないように家の出入口に張る」
とあり、
これは中国の用語の類似的な意味を借りたものであろう。

◇「七五三縄」
「七五三縄」と書くのは縄の形状からきている。
「しめなわ」というのは、わらを左縒りにな綯ってゆき、その途中、わらの茎を三筋・五筋・七筋と順次に細い放して垂らし、さらに、その間々に紙弊(もとは木綿を用いた)を垂らすわけで、このように三筋・五筋・七筋と垂らす形状から「七五三縄」という表記が当てられたものと思われる。

さて「しめなわ」はいつ頃から日本に登場したのだろうか。

古事記の「天の岩屋戸」の場面に「しりくめなは」という言葉が出てくる。
表記は「尻久米縄」である。
「しめなは」は「しりくめなは」と同じであり、また「しめなは」は「しりくめなは」の略であると解されている。

アマテラスがスサノヲの乱暴な振舞を見て恐れ、岩屋戸に身を隠してこもってしまったため、「八百万の神」が集まって、いろいろ工夫をし、ふたたびアマテラスが岩屋戸から姿を現わしたさいに、アマテラスの後ろに「尻久米縄」を引き渡して、
「これより内にな還り入りそ」
(ここから内にはお戻りなさいますな)
と申し上げた、というあの神話である。

古事記の「しりくめなは」には、その形状の記述が見られないが、日本書紀を読むと、同じ「天石窟」の場面に「しりくめなは」が出てきて、その表記は「端出之縄」となっており、それには注記が付いていて、その縄の形状と語の訓みが記されている。

「端出之縄」という表記が縄の形状からきていることが分かる。
縄の形状として分かるのは、「左縄」であるというのと、「端出す」という作りだという二点だけである。

「左縄」というのは、ふつうは右搓りに綯うのを、それとは逆に左搓りに細った縄ということで特記されているわけだろう。
その意味は、神域への立ち入りを禁止する神聖な縄だからということだろう。

「端出す」というのは、縄の端を切らずに細い放しにするということで、その意味も「左縄」の場合と同じようなことであろう。

では、「しりくめなは」の語源をシュメル語から見てみよう。

「巳」の中国語音シはシュメル語の蛇「シル」に由来していた。
一方、日本語の蛇(巳)の語源はシュメル語のもう一つの蛇のムシュグビである。

・シル:蛇(シュメル語)
バビロニア語でシール。中国語ではシ。

・ムシュグビ:蛇(シュメル語)
バビロニア語ではクップー。
日本古語ではクビ。

このムシュグビが、日本ではムシ(虫)とクビ(蛇)に二分された。

ムシュ:虫。這う虫(シュメル語)
ムシ :虫。這う虫。飛ぶ虫(日本語)

このように、シュメル語の「虫」は、ほとんどもとの音のままで、日本語になっていた。
グビ(蛇)も日本でクビ(蛇)になり、ついで音転で、
クミ(宛て字は酌)、クメ(宛て字は“久米”)になり、
最後には後尾の「ミ」だけでも「蛇」「巳」として通用するようになった。

なお、シュメル語の蛇(シル)と蛇(ムシュグビ)を重層させたのが、倭語の尻久米縄のシリ・タメ→シリ・クメである。

注連縄、尻久米縄は、蛇と蛇のからみ合った形態である。
つまり、DNAの二重螺旋構造を意味している。
だから左搓りであり、生命にとって神聖な叡智だ。
だが、そのシリ・クメは言語の面からいえばシュメル語の蛇(シル)と蛇(グビ)を重ね合わせたものだった。

(註)
注連縄(シメナワ)は尻久米縄の省略語

それでは、誰が「シリクメ縄」の作り方を教えたのだろうか。
それは、シュメルの神であった。
だから、「七五三縄(=しめ縄)」の「七五三」については、七は七枝樹二神を、五は「50:風神エンリル」、「30:エンリルの長子・正義を照らす・月神」を意味しているから、357ではなく、貴い順から「七五三」と云うのだと思われるのです。

また、日本でこの「七五三」を尊ぶのは、北極星を天皇天帝とする道教から伝来したと云われている。

つまり、天の岩戸神話を伝えた種族の主神(天照大)は、雌雄の蛇が絡み合う姿で、人類を創造した神々への崇敬を込めて、DNAの二重螺旋構造を神聖な知識を、人類の未来への希望として伝授していたのでしょう。

大和民族は神々から「しめ縄」を伝授され、心と精神の浄化された場所を聖域とし、そこに「しめ縄」を張り、穢れを嫌ったのです。
その聖域では、貧富の差や社会的地位の違いとは無関係に、良心の前に平等が存在していた。
この皇室の伝統を武士道が受け継ぎ、庶民は暖簾の内側を聖域と見なし、損得を抜きにした「もてなし」を行ってきた。

だから、日本人は職場では威儀を正し、何も買わない客に対しても礼を言うのです。

従って、神聖な神宮の入り口である「鳥居」は「風神・エンリル」を意味し、
本殿入り口の「対の狛犬」は「ギルガメッシュ王」「ユダ族とエフライム族」を意味し、
本殿の「しめ縄」は「七枝樹二神=初代もしくは二代目の天神夫妻」を意味している。

つまり、本殿の奥に四代目の天神=天照大が祀られていると云うわけです。

◆古事記と日本書紀の著者は南朝と北朝
古事記と日本書紀の「神代七世」の独身神と夫婦神の数を比較して貰いたい。

古事記の場合には、7=2+5で、「七枝樹二神」の数え方からウルク系である。
日本書紀の場合、7=3+4で、「七枝樹二神」の数え方から非ウルク系である。

だから、倭語の使い方も異なっていると思われる。
ちなみに、第四代ヤハウエ=シュメルの月神=天照大の神殿はウルにある。

また、ウルクの都市神は月神の娘イナンナ女神である。
だから、同じ天照大を主神とする種族であっても、
古事記を編纂した太安万侶と稗田阿礼は海路で渡来したウル・ウルク系(南伝)で、
日本書紀は中国大陸経由の除福や秦氏一族(オアシス経由)だと区別できるのです。

だから、日本書紀には陰陽説や五行説が神代編にふんだんに取り入れられて、古事記は当て字の漢文だったのに対し、堂々とした漢文で書かれていたのでしょう。

それは、白村江の戦いに敗れた日本は当時唐軍の植民地政策を受け入れ、文字を漢字化、歴史の唐化を強制されていた事にも関連しています。

ですから、皇室が一度、南北朝に別れる以前から、天皇には南北朝が交互に即位していたし、顔つきも異なっていたのだと思います。
逆に、南北朝が統一された現在の皇室は、正当なウル・ウルク系だと思われます。

(注)
日本書紀・巻第一の冒頭が「古に天地未だ剖れず、陰陽分れざりしとき」で始まるこが、この文が『准南子』「真訓」の中の
「天地未だ剖れず、陰陽未だ判れず」
と同文であることは研究者の指摘するところであり、また易に関しても例を挙げて
「日本書紀の編者は易学に深い人であったことがうかがわれる」
と指摘する研究者もいる。


◆道教について
天皇という言葉を使う以前は、“院” と呼ばれていた。
死後は尊称として諡に天皇を付されていた(後醍醐天皇だけは例外)。
つまり、死後に天上の一員になるという意味です。
日本では、天上の政府を地上に反映させた形で、地上に諡として天皇の称号を持つ支配者が居る。
つまり、天上界の形態を、地上に反映させたものとも捉えられていたようです。
この天上の神々は、天照大をはじめとする皇祖皇宗ということになります。

天皇という言葉は最初に道教に出てきます。
宇宙の最高神は天皇大帝で、
高級官僚が “真人”、
低級官僚が “仙人” でした。
天皇大帝がヤハウエ=天照大、真人が大天使、仙人が天使に当たるのでしょうか。

天皇大帝は官僚達に命じて地上を善導しているとされていた。
この天皇という意味は、天の支配する者の意味で、生きている人間に対する言葉ではなかったのですが、後々尊称として拝借したようです。

古来シナでは天皇大帝は元々北極星を指していた。それが東方世界の最高支配者を指すようになる。
そして、天皇は、太陽が昇る「日の下」「扶桑」「方丈」を治めていると云われていた。
つまり、新羅系の天武天皇(和号に真人を含む)が始めて天皇を名乗り、
道教に詳しかった天武天皇は、
「日の下」→「日本」としたのだ。
つまり、日本国初代天皇です。
そして、毎年五ヶ月間肉食を禁じただけではなく、古代日本独特のヘアースタイルから、髷に改めさせたことからも、明らかにこれまでと王朝が異なる。

◇神道は呉越の巫術を受け継いでいる 
福永説によれば「伊勢神宮を筆頭とする日本の神社・神宮、はその殆どが中国土着の呪術信仰、宗教思想を集大成する道教と密接な関連を持つ」ということである。
古来、中国の江南(呉)の道教が日本文化にいろいろ影響を与えていることが考証されているが、七・五・三の数に関連して次のようなことにも言及されている。

江南の道教のいちばんの基盤をなすものは、西暦前一世紀に善かれた司馬遷の『史記』などに記述されています。
呉巫ないし呉越の巫術です。

呉越の巫術というのは、神に仕えて祭事・神事を掌り、降神、祝祷、禁呪、治病などの道術を行いますが、
巫女は朱色の袴をはき、
「帯に十余の小鈴をかけ」、
もしくは「鈴を手に握り」、
「鈴を振る」などと記述されています。
このような呉越の巫女の流れを汲むと見られるものは現在の日本にもたくさんあります。

たとえば、奈良の大神神社や京都大阪の古くて由緒ある神社にお参りすると、巫女さんは朱の袴をはいて、金属製の鈴を持っていますが、その鈴は上中下の三段になっていて、いちばん下は七個、真ん中は五個、いちばん上は三個といったように七・五・三の構成です。

◆天皇は道教用語
日本の古代文化と道教との関連性について福永光司『道教と古代日本』においては、

《日本の古代文化が中国の土着思想である道教の思想信仰と明確な関連性を持ち始めるのは、それまで「きみ」とか「おほきみ」とか呼ばれていたこの国の元首を新しく道教の神学用語である「天皇」概念を用いて、おごそかに、またすがすがしく呼び改めた時期からである》

と述べられており、
その時期については、
「道教との文献実証的に確実な関係ということになると」七世紀後半の「天武・持続の頃」としている。
そして文献実証的な例証を挙げて次のように記している。

《持統天皇を生母として天武の皇太子であった草壁皇子の西暦689年4月の若き死を悼んで、当時の宮廷歌人・柿本人麻呂の作った挽歌(『万葉集一巻二)に、
「清御原の宮に神ながら太敷(ふとしき)まして天皇の敷きます国」
とあるのがそれであり、
この挽歌に用いられている「天皇」の語はその五年前、天武十三年(六八四)に制定された「八色(やくさ)の姓」が、中国の道教の神学で神仙世界の高級官僚を意味し、最高神の「天皇」とセットにされている「真人」の称号を、日本の天皇家の一族にのみ賜わる「姓」として採用していることと緊密に対応する。》

「八色の姓」というのは
「真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなき)」
の人種の姓のことである。

「八色」の「八」は実数であるが、同時に聖数的性格も帯び、道教と関連づけられていると思われる。
天武天皇は道教と深い関係をもっていたようで、その諡として用いられた「おきの真人」という称号も道教に由来するもので、「えい州」と呼ばれる海中の神山に住む世界の高級者という意味である。

ちなみに、「えい州」に関しては『史記』にも
「海中に三神山あり、名づけて蓬来・方丈・えい州といふ。仙人これに居る」
とあり、中国の伝説的三神山の一つで仙人が住んでいると伝えられている。

『記紀』に見られるこうした「八角形」宇宙観・世界観とでも呼ぶべき表現が何を意味するのかといえば、
「道教の神学における宇宙の最高神・天皇(天皇大帝)の、
八紘(八荒と同義で、世界の全体を意味する)、
すなわち無限大の八角形の中心に高御座を置いて全宇宙(世界)を一宇(一家)として統治する神聖な政治理想を意味するものにほかならない」
と捉えられている。
 
 
 

ルーツ・ファンタジー/類似する神話 5

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転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

★古事記の中に現れる秘数と神々

■世界最古の文字と日本の神々

◆謎の神 アラバハキ
『謎の神アラバハキ 川崎真治著』を読んで多くを納得しました。
その中で、非常に興味を引かれたのは、シュメルの日神ウツとエジプトの太陽神・ラーを古代日本人がきちんと分けて理解していたこと、
そして神代文字の一つとされる「アヒルクサ文字」がインドのアショカ王文字の一種であること、
さらにはアイヌ民族がインドのドラビタ族だと云うことを、日本に残る線刻文字を通じて主張しているところです。


◆アラハバキは天神・地母神の子の意味
アラハバキという神の名をまだ知らなかった昭和五十年の夏、私ほ遮光器土偶の謎にひかれて津軽を旅したことがある。
拙著『土偶の謎』(昭和五十年十二月、二見書房刊)の中で、その考察の結果を述べたが、要するに、縄文後期の作といわれる津軽の遮光器土偶は、その文化的系譜が紀元前三千年紀の古代オリエント、紀元前二千年紀の中国文化につながっていたのである。

アラバハキ神の本質は父が天神(もしくは獅子神)、母が地母神、その両親のあいだに生まれたのがアラハバキ神(アラ・ハバ・キ=アラ・ハハ・キ=天神・母・地母神)。
この神統譜こそ『東日流外三郡誌』の真髄だったのである。

問題は、上古の日本に父が天神(もしくは獅子神)、母が地母神、その子神がアラハバキ神という〝神〟が存在したか否かである。
存在証明が言語学的に、神話学的に、文化人類学的に、民俗学的に、はたまた考古学的に なされれば、
『東日流外三郡誌』の記事のかなりの部分が〝真の歴史〟といえるのである。

また、『古事記』『日本書紀』に登場する長髄彦と『記紀』には登場しない安日(あび)彦とが、東北地方に荒吐王国を樹立したと『東日流外三郡誌』にはあるが、では、その荒吐王国を『記紀』のほうでは、どういう国名で表現していたのか。
それが判明すれば、アラハバキの実存性が、古代文献の上でも、証明されたことになる。

さて、荒吐王国の中心地、ツガル、津軽、ツカリ、津刈、トカルだった。
七、八世紀の大和朝廷では、そのツガルの荒吐王国の国人を蝦夷(ゑみし)と呼んでいた。
七、八世紀のころ、荒蝦夷(アラ・ヱミシ)と和蝦夷(ニギ・ヱミシ)が東北にいた。

前者は大和朝廷に服しない蝦夷であり、後者は大和朝廷に服し、平和的に田夷(たゑみし・水田耕作民)となったものである。

ところが、舒明天皇、皇極女帝時代、天皇家をしのぐ勢いとなった蘇我の大臣の当主の名が蝦夷(ゑみし)であった。
本来なら、蝦夷は忌むべき名であったと思うのだが、それがそうではなくて蘇我蝦夷である。
これは、いったい、どういうわけなのか。

理由は、蝦夷の字音の「クハイ」と訓音の「ゑみし」、それに蘇我(ショガ、そが)という名にあった。
まず「クハイ」が日本で「ゑ」に転託する例を示そう。

絵画(クハイ・ガ)、絵(ゑ)、回(クハイ)、回向(ゑこう)。

この転訛ぐせによって、
「獅子と獅子(ウプ・ア・リー)」
「母・地(アマ・キ)」の
ウグ・ア・リー・アマ・キが、
ウガリー・エメ・キ
→ クハイ・メ・シ
→ 「ゑみし」と転じたのである。

そして、クハイに漢字の蝦夷が宛てられた。
つまり、「ゑみし」は、アラハバキと同義の日本古語だったのだ。

一方、蘇我蝦夷の蘇我の「蘇」は、阿蘇辺族の蘇とか、阿蘇山の蘇と同じで「獅子神アラ」からだった。

次に蘇我の「我」は、
ウガリー(獅子と獅子)のガ、
ツガル(男・獅子と獅子)のガ、
賀茂の賀と同じであった。
要するに氏名の蘇我は、中国の姓でいえば「?」と同じであり、「公孫」氏と同じであり、黄帝系の氏名であったのだ。

したがって、舒明天皇、皇極女帝時代の大臣であった蘇我氏の当主の名に蝦夷があっても当然なのである。
いうなれば蘇我氏の「通し名」としての「獅子と獅子」の一表現が蝦夷、そういうことだったのだ。

◆アヒルクサ文字はインド文字の一種
神奈川県座間市大山の阿夫利
(あふり=「父(アブ)・日(リーorラー)」)神社の線刻石は、
文字の書体の系統としては
(1)中国甲骨文字系、
(2)印度・阿育(アシヨカ)王文字系のアヒル草文字、
(3)エジプト象形文字系と三つの系統が混在していた。

が、この三系統混在はたいして気にかける必要ほない。
なぜかといえば、われわれ日本人が、今日でも中国の漢字と、平仮名、片仮名とローマ文字を平気で一つの文章の中で使っているからだ。

大山の阿夫利神社の神璽に印度阿育王文字系のアヒル草文字が印刷されていることは、昭和七年、宮崎小八郎氏の発見で、私も承知している。
そのアヒル草文字の「た」と「な」の二字が、大山の阿夫利神社へ登る女坂の石段の一つの石に彫られていた。

  
◆アイヌとドラビタ族
シュメル人とバビロニア人(バビロニアはマルドウクの都)の融合、混血民族が紀元前二千年以降のインドのドラヴィダ民族であり、
アイヌ人は、そのドラヴィタ民族のうち、バビロニア系の血の濃い人々の子孫だった。
なぜそういえるのかというと、バビロニア語の「男」「人」のアピール、アピール、アヰール、アイールの語尾ル(lu)がヌ(nu)に転じたのが「アイーヌ」「アイヌ」だったからである。
つまり、アイヌとは「人」、バビロニア語系の「人」。
だからこそ、バビロニア語の「新」「新鮮」のエッシュが、ほんの少しなまっただけのアッシン・・・それでもってアイヌ語の「新しい」になりえたのだ。

それにひきかえ、日本語の場合には、シューメル語とパピロア語の双方の「新」「新鮮」が、今でも使われている。

ニヒ(新)……語源はシュメル語のギ・ビル。英語のニュウと同源。

アラ(新)……語源はバビロニア語のエッシュの重畳語。

英語のフレッシュのエッシュと同源。
荒吐神、アラ・ハバキ・カムイのアラとのかかわりにおいて、日本語アラの語源の種々相を紹介してきたが、「新」のアラはシュメル語でなくパピロア語のエッシュが語源であった。

※ちなみに、アイヌ人には蒙古斑が無く、白人系です。
おまけに、よく見ると青い瞳をしています。
だから、出自がどこなのか分からずにいましたが、本書の説明で納得できるのではないでしょうか。

◆殯(もがり)の荒城(アラキ)
国語辞典をひくと、あら・き、荒城が、こう説明されている。

《上代、貴人を葬る前に、遺体を棺におさめて、仮に安置すること。》

一方、もがり、殯は、次のように説明されている。

《天皇崩御の直後、枢(ひつぎ)を安置しておくこと。荒城(あらき)。》

語源を先に示すと、「葬儀」「人の死」のシュメル語アドゥと、同じくバビロニア語のバグルである。

楔形文字から説明すると、先の文字が「男」「人」「羊」「四」「多数の」であり、後の文字が「死」である。
また、「死」の字音は、シュメル語が「バドゥ」「バ」「ビ」「べ」などであり、
「人」の字音は、シュメル語が「ル」、バビアニア語が「アメール」「アピール」等である。

そして、以上の「人」と「死」を合成した「葬儀」を、シュメル語ではアドゥといい、パピロニア語でほバグルといったのだが、そのバビロニア語のバグルは、バ(死)アメール(人)からm→g転託したバァグール、パゲル、バグルであった。

次に、日本語の場合には、語頭音bが鼻音代償でmにかわってマァゲール、モガール、モガル、モガリとなった。
シュメル語のアドゥの後に「人」を付したアドゥ・アメールから、d→l転により生まれた日本語が、アラケ→アラキであった。

◆族長・司祭について
古代中国の殷に、シュメルの司祭書記が住んでいたことを(夫)婦好墓から出土した青銅器や石牛の銘文によって証明した。

一方、古代の日本列島にも、じつは司祭者エン・シが沖縄から東北にいたるまでの各地に住んでいた。
そのことが、言語、地名から知れたのである。

まず、沖縄からいうと、エン・シがアン・シへ転靴し、漢字の『按司』が宛てられていた。
近年では按司をアジとよんでいるが、正しくはアン・シである。
もちろん、沖縄の按司は古代から近年にいたるまで、司祭者、為政者、首長、王という意味で使われていた。

では、日本本土では、司祭者のエン・シがどのように転靴し、どのような漢字に宛てられていたのか。
司祭長ということばがシュメル語にあった。
ウ・ムソアといったのだが、この「司祭長」が日本本土へ入ると、ウ・マ・シとちぢまり、漢字で宇摩志(『古事記』)と書かれていた。
また子音m→g→khの転でウマシがウカシになった。

『古事記』では宇迦斯、『日本書紀』では猾(ウカシ)と表記している。
またアイヌ語にもウカシがあり、首長とか酋長と訳されている。

一方、三世紀の韓の臣智(王にあたる)の別号とされていた優呼臣(ウカシソ)も、同様に「司祭長」という意味である。

このように紀元前三千年紀のシュメル語の司祭長ウ・ムソ・エソシは紀元前後に宇摩志、宇迦斯、優呼臣、ウカシとなって、倭・韓・アイヌの国々を統治する為政者、王をさす語になっていた。

さらにまた、神意を占なう司祭者というシュメール語を祖語とする中国語、韓語、日本語があった。
パドゥ(神意を占う)
エン・シ(司祭者)。

このシュメル語は、シュメル語内でパ・テ・シと変化し、そのパ・テ・シを単にエン・シと呼ぶ習慣があった。
四世紀末の百済では、元の語のパドゥ・エン・シからパテンシ、テンシと変化させ、漢字では腆支これが百済七支刀を持って倭王旨(神功皇后)のもとへ質子として来た、あの腆支太子(テンシ太子はのちの王)の腆支である。

◆神武天皇と日向(ひゅうが)
日向・ヒムカとヒナタ。
そもそも、九州でヒムカ、もしくはヒューガといっている日向を、なぜ、関東ではヒナタといっているのか。
それを説明しよう。

◇アヅマ(東)
紀元前三千年紀のシュメール人は、背を北に向け顔を南に向けて、すなわち南面して、左腕の方向を「東」と名づけた。
その左方、東というシュメール語はア・グプ・バといったが、楔形文字を見ると、アが「腕」、グブが「左」であった。
つまり南面して「腕・左」が「東」というわけなのだが、そのシュメール人の制定した「東」の定義が四千年も前の楔形文字から今のわれわれにも判るのである。

日本語のア・ヅマ、吾嬬、吾妻、東は、このア・グブ・バが祖語。
子音のgがdzにかわり、bが鼻音代償でmになった、それだけの転靴のアヅマ(東)だったのである。

一方、シュメール語の「右方」「西」は、ア・ジッダ(腕・右の)といったが、日本へ入ると西に転じた。

中国でも西という文字が死の意味を内包していた。
古代エジプトでもナイル川の西方が死の世界と認識されていた。
理由は何か。日没の方向が西だったからである。

◇ヒガシ(東)、ニシ(西)
紀元前二千年紀初頭のバビロニア人たちは、方向(イム)日の出(アスー)で東(イム・アスー)とし、方向(イム)反対(ヌ)日の出(アスー)で西(イム・ヌ・アスー)としていた。
日の出の方向が東、日没の方向が西という考え方である。
古代の日本人も、これとまったく同じ考え方で、しかもバビロニア人と同じ東西を使っていた。
ただし、それらの言葉は三千年、四千年という長い間に次のように変化した。

イム・アスー
→ ヒム・アスー
→ ヒソグ・アスー
→ ヒソガスー
→ ヒソガシ → ヒガシ、東

バビロニア語の東のイム・アスーは、このようにして日本語の「ヒンガシ」「ヒガシ」になったのである。そしてまた、東(ヒガシ)の反対の西(ニシ)もバビロニア語からだった。

◇ヒナタ(日向)
また、シュメール語の「日」のウツは、古代中国でイツに転じ、甲骨文字で「ミ」(漢字で乙)と書いた。
古代日本では、オツ、あるいはオトへと転じた。
乙姫(オトヒメ)のオトは「日・太陽」である。
なお、宇都宮の宇都も、当然「日」であり、宇都宮は「日神宮」である。
日光二荒山。
さらにまた、ウツの語頭に子音hをつけたフツもまた「日」で、そのフツを神名の場合、経津と書く。
香取神宮の祭神、経津主命(ふつぬしのみこと)の経津(ふつ)である。
また、千葉県の富津、静岡県伊豆の富戸(ふと)も、同様に「日」であり、意味するところは、日神トーテム族の住む土地、港であった。

なお、東京の下町に、朝日新聞をアサヒ・シンブンと読まずにアサシ・シンブンと読む人がかなりいる。
いわゆる江戸方言、東京下町方言の「シ」であって、日比谷公園もシビヤコーエンである。
もちろん、日本標準語の「日」はヒなのだが、そのヒ、hiに転じる直前の日本語の「日」が、先に述べたようにシであった。
そのシが、つまり日より古い音の日が、今でも東京の下町に残っている、そういうわけなのである。

九州のヒューガ(日向)、関東のヒナタ(日向)のヒ(日)も、一見、ラー、リー、シー、シ、のヒと受けとられそうだ。
が、同一文字の日向でありながら、その読みにヒムカ、ヒューガ、ヒナタと三通りもあるのは、なぜなのか。
じつは日向(ひむかい)の日は、文字通りに「日」であった。

それは「父・日神(ラー)・の・母・地」、アブ・リー・ヌ・アマ・キの中の日神だったのである。

(※つまり、神武天皇一族は太陽神ラーを守護神としている。
尚、『記紀』による歴史の改竄があり、正しくは、神武天皇に相当するベリアが、ヨブ一族を従えて日本に向け出立した前1500年頃に相当する。
神武天皇は当時イスラエルの正当な末裔であるエフライム族である。
当時のイスラエル族は、第三代ヤハウエ・マルドウク・ラーに導かれていたので、この記述は正しい)

日向族といえば神武天皇四兄弟が、その代表だと思うが、長兄の五瀬(イツセ)命は、中国語の乙日と同じで、語源のウツ・リーから転じたイツ・シェー、イッセである。
つまり、「日神・日神」がイツ・セ、五瀬なのである。
また、五瀬命の弟の稲氷命のイナ・ヒは「母・地」である。
イナは、フィリピン、台湾、日本を通じての「母」であり、わが国ではそのイナに「伊那」、「稲」を宛てている。
また「地母神」の「地」は、キ、チ、シ、ヒと転じ、そのヒに「肥」「比」「氷」などが宛てられていた。
したがって、五瀬と稲氷は、「父・日神・の・母・地」を語源としたヒナカ、ヒムカ、日向と内容の面で一致する。

トビに油揚げ、反日ロッテには恩恵を

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免税市場に韓国ロッテの脅威
狙いは中国人観光客…戦略問われる日本勢

SankeiBiz 12月22日(月)
韓国のロッテグループが急増する訪日外国人観光客マーケットの獲得に乗り出した。
傘下のロッテ免税店(本社・ソウル)が関西空港に韓国企業初の大型免税店を今秋オープンさせたのに続き、2015年度下期には東京・銀座に都内最大の「空港型免税店」を開業する。
外国人が日本で買い物に使うお金は年々増え、14年は前年比約1.5倍の7000億円規模になる見通し。
10月からほぼ全商品が消費税の免税対象となったこともあり、日本の免税市場が今後拡大するのは間違いない。
業界でアジア最大のロッテ免税店に膨らむパイをみすみす奪われてしまうのか。
国内小売り各社の戦略と実力が問われている。
 
◆中国人観光客狙う
「日本に最初に進出する関西国際空港店の広報大使、チェ・ジウと申します。
関西をはじめ、日本の皆さまにロッテ免税店が愛されるように私も全力を尽くして頑張ります」
 
ロッテ免税店の関西空港店がオープンした9月4日、韓国の女優、チェ・ジウさんが空港に近い大阪府泉佐野市のホテルに黒ずくめのシックな姿で現れ、記者会見で笑顔を振りまいた。
02年のドラマ「冬のソナタ」で人気を博し、日本に韓流ブームをもたらしたチェ・ジウさんは今もアジア各地で人気を誇り、新たなマーケットを開拓する「顔」として抜擢された。
会見では、ロッテ免税店のイ・ホンギュン代表理事が「関西空港でノウハウを蓄積し、日本の他の空港にも出店したい」と述べ、成田や中部など主要空港への進出も視野に入れていることを明らかにし、成長が見込まれる日本の免税マーケットの取り込みに強い意欲をみせた。
 
ロッテ免税店は韓国の国内店を中心に国外店舗やインターネット店も展開する。
13年の売上高は3兆5000億ウォン(約3800億円)に上り、アジアの免税店会社では最大手だ。
世界でも仏LVMHモエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン傘下のDFS、スイスのデュフリー、ドイツのハイネマンに次ぐ4位につける。
14年は売上高を前年比20%増の4兆2000億ウォンに伸ばし、世界3位を狙う構えだ。売り上げの大半は韓国内で稼いできたが、12年にはインドネシアとシンガポール、今年7月には米グアムの各空港で開業するなど世界展開を加速している。
 
関西空港店の面積は約330平方メートルと広く、同空港第1ターミナルの全売り場面積の7分の1を占める。
初年度の売り上げ目標は15億円。
韓国でトップシェアを持つ化粧品メーカーのブランド品やファッション雑貨、高麗人参などを店頭に並べ、好調な売れ行きという。
 
海外旅行で出国する日本人も関西空港店で買い物はできるが、ロッテ免税店の真のターゲットは日本を訪れる中国人観光客だ。
同社全体の14年の売上高見通しを国別でみると、化粧品などを購入するため大挙して韓国を訪れる中国人が約6割を占め、韓国人は約3割、日本人は1割に満たない。
日本に出店すれば、買い物目的で訪日する中国人を取り込めるという思惑が透けてみえる。
 
◆強いマーケット戦略
ロッテ免税店の強みは、韓流スターを大量に動員する韓国企業ならではのマーケット戦略にある。
韓国の大手紙、中央日報の日本語版サイトには「ロッテ免税店、韓流マーケティングで世界攻略へ」という見出しが躍る記事が掲載され、ロッテ免税店側が「韓流ブームをうまく活用して市場攻略に出る」と話したと伝えている。
中国では今が韓流ブームのまっただ中。
ロッテ免税店は30人を超える韓流スターをモデルとして抱えており、韓流スターが広告撮影の際に身につけた衣装を、景品として外国人の買い物客にプレゼントする販促策もたびたび行っている。
韓流だけではなく、グループ力もフルに活用している。
10月初めには中国人観光客向けに破格の景品を用意し、中国・瀋陽にあるロッテグループのマンションをプレゼントしたという。
 
日本で中国人観光客を取り込む最大の拠点となる東京・銀座の店舗は、東急不動産が銀座5丁目で再開発する11階建て商業ビルの8、9階に入居する。
その広さは半端ではない。
計画では関西空港店の13倍余りとなる4400平方メートルもあり、国立代々木競技場第1体育館アリーナの4000平方メートルを上回る。
広さもさることながら、銀座店の特色は空港型免税店となることだ。
通常の免税店では購入額が5001円以上、50万円以下の商品にかかる消費税だけが免除されるが、空港型免税店の商品は輸入関税と酒税、たばこ税も免除される。
ただ、購入客は出国手続き後にしか商品を受け取れないため、空港運営会社や空港内で免税店を運営する企業と連携しないと空港型免税店を市街地に出すことは難しい。
 
■日本勢はプラスアルファの魅力提供を
通常の免税店は地域を所轄する税務署長の認可を得れば運営できるので、参入へのハードルは高くはない。
外国人観光客の増加を受け、国内では百貨店や総合スーパー、ドラッグストア、土産店などに広がり、10月1日現在の免税店は9361店と4月時点より6割も増えた。
コンビニエンスストア最大手のセブン-イレブン・ジャパンも12月から都内の一部店舗で免税対応を始め、全国の店舗に広げていく構えだ。
他の小売業も続々参入している。
もっとも通常の免税店は、たばこや酒類、輸入ブランド品などでは価格面で空港型に対抗できない。
 
もちろん、日本勢も黙って指をくわえているわけではない。
三越伊勢丹ホールディングスが日本空港ビルデング、成田国際空港と共同で15年秋に三越銀座店に売り場面積が約3300平方メートルの空港型免税店を開く計画を進めており、那覇市以外では市街地で初となる空港型の開業をロッテと競う。
さらに大丸松坂屋百貨店も「空港型の取り組みを加速させる」(吉川辰司執行役員)と意欲をみせ、関西空港と大阪(伊丹)空港を管理する新関西国際空港会社も市街地での空港型の展開を検討している。
ただ、免税店が乱立する状態になれば競争が激しくなり、淘汰されるケースも出てくるのは避けられない。
韓流マーケティング戦略が相当の効果を生み出しているロッテ免税店に、日本勢はどうやって対抗するのか。
例えばアジアでの人気が高いJポップのアーティストや日本発のコンテンツ「クールジャパン」などと連動した誘客戦術を繰り広げるなど、訪日客を意識したプラスアルファの魅力を提供しなければ、世界の免税マーケットで存在感を増すロッテにしてやられかねない。
 
米ボストン・コンサルティング・グループによると、世界の免税品市場の規模は15年に約600億ドル(約7兆1660億円)と、13年の実績推計よりも1割の拡大が見込まれている。
観光庁の推計によると、日本で外国人観光客が免税対象品以外も含めて使った買い物代は13年が推定約4600億円。
14年1~9月の累計は約5000億円と既に前年を上回った。
1~9月でみると全体の4割強を中国人が占め、「爆買い」とも称される爆発的な消費行動はまさに突出している。
日本の免税マーケットは数年前の時点で千数百億円との推定もあり、大きくはない。
ただ、東京五輪が開催される20年に2000万人の外国人観光客の誘致を目指す日本政府の取り組みは着実に成果を挙げ、訪日外国人観光客は前年比3割程度のペースで伸びており、日本も世界で有数の免税マーケットに育つ可能性がある。
 
その過程では12年時点で世界7位の新羅免税店を含めた韓国勢にとどまらず、他の海外勢もこぞって日本戦略を強化するだろう。
日本の小売り企業で世界のトップ10に入る免税業者はなく、世界の免税マーケットでは出遅れており、誘客のノウハウも見劣りする。
免税ビジネスのプロを迎え撃つための体制を早急に整えなければ「鳶(とび)に油揚げをさらわれる」事態に慌てふためくことになりかねない。
 
 
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日本政府機関 ロッテホテルの使用自粛 皆さんはどうする?

JC-ネット 2014年9月6日 
 
自衛隊創設60周年の記念行事の会場となっていたソウルのロッテホテル(ソウル市小公洞)が7月10日、開催前日になって急遽使用を拒否したことを受け、在韓日本大使館が同ホテルの使用を見合わせている。
 
日本大使館は、突然の使用拒否に打ち手なし、11日の自衛隊創設60周年のレセプションは、急遽、大使公邸において開催された。
ロッテホテルは当時、「国民感情を考慮した」として、会場の提供を取りやめたと説明した。
日本大使館側は、同ホテルに抗議し、菅義偉官房長官は記者会見で「極めて遺憾だ」と不快感を示していた。
 
こうした経過を受け、大使館関係者は「当面の間、日本大使館の行事等でのロッテホテルの使用を見合わせることとした」と明らかにした。
ソウルを訪れる日本政府機関の関係者も同ホテルの使用を自粛している。
 
<ロッテ>
 「お口の恋人ロッテ」のキャッチフレーズで、ガムやチョコレートが大当たりしたロッテは、
1948年(昭和23年)に韓国出身の在日韓国人一世である辛格浩(在日名:重光武雄)が創業し、東京都新宿区に本社を置く日本国内大手の菓子メーカー。
日本で創業して以来、ガムとチョコレートをメイン販売して大成功を納め、多くの財をなし、その財を基に韓国でロッテ百貨店やテーマパークのロッテワールドなど、数多くのホテルや商業施設を開設、今や、中国・東南アジアの各地にグループ展開し、韓国でロッテ財閥を形成している。
 
<竹島では・・・>
ロッテ百貨店は「独島の写真入りタオル」を先着20人に無料配布した
ロッテマートは「独島を愛するTシャツ」を販売した
ロッテドットコムは鬱陵島と独島を周回する愛国ツアーを販売した、
 
といった「独島」韓国キャンペーンをはっている。
 
オーナーは在日で大成功した人物であり、日韓の架け橋となるべく人物であって欲しいものだが、反日の動きに徹している。
重光武雄氏はよほど日本が憎いのだろうか。
今も日本でロッテ製品の販売により大儲けしているのだが・・・。
 
ロッテホテルに日本大使館として正式に予約していたレセプション会場、こともあろうに、何の手立てもできない前日に断るとは、非常識極まりないホテルである。
 
特に自衛隊創設60周年の記念行事のレセプションには、韓国に駐在する多くの大使官員などの外交官を招待しており、日本に大恥をかかせるものにした。
こうした行為は、完全に意図的に前日に断ったととられても仕方あるまい。
ロッテの行為は外交儀礼上、無礼千万である。
韓国の大手新聞社も挙って、使用拒否を当然だとし、韓国要人へも招待状が送付されているが、誰も行かないだろうと書き立てていた。
 
韓国の大手新聞社全社が反日強硬派であり、韓国民を扇動して先導している。
また、国家により反日教育が徹底して行われ続ける限り、心の中まで仲良くできるには1000年かかろう。
どうしたら、両国は仲良くできるのだろうか。
 
 
 
 

ソウルからヨボセヨ 歴史忘れたロッテ

産経新聞 7月12日
【外信コラム】
 
 
ソウルの中心街にあるロッテ・ホテルは韓国最大のホテルといっていいが、同じ場所には日本統治時代の戦前、唯一の本格的な洋式ホテルだった「半島ホテル」があった。
戦後、韓国の国営ホテルになり筆者も1971年の初訪韓の際、泊まっている。
 
後に在日韓国人系のロッテ・グループが買い入れ79年、新築のロッテ・ホテルを建てた。
実質的には日本系みたいなもので、日本人客に人気のホテルとして知られる。
オーナーの辛格浩会長(91)=日本名・重光武雄=は日本でチューインガムから始め財をなした立志伝の人で日本の政財界とも関係が深い。
 
そんな日本との深い縁もあって歴代首相をはじめ日本の政財界要人はほとんどロッテ・ホテルに泊まり、日本関係の行事開催も多かった。
ところが今週、日本政府恒例の外交行事である自衛隊創設記念パーティー開催を直前に断ってきた。
韓国マスコミの反日報道におじけづいたためだ。
 
外国公館の公式外交行事にまでイチャモンをつける韓国マスコミの非常識は相変わらずだが、それに乗っかったロッテの態度もひどい。
これはロッテ自らの歴史を忘れた「日本への裏切り」といっていいだろう。
日本で高まる反韓感情の原因はこういうところにある。
重光会長はご存じなのだろうか。
(黒田勝弘)
 
 
 
 

半島のホントの歴史 1

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転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』
 
『日韓がタブーにする半島の歴史』
より抜粋

古代の朝鮮半島に文明を与えたのは、大和人だった。
通常は、大陸から半島、そして日本へという流れですが、これが誤りだったことを、半島の古文書『三国史記』『三国遣事』から述べている。

朝鮮に残る唯一の文献を朝鮮人は無視してしまって、妄想的な自国論を展開している。

もっとも、長江から半島から九州北部に掛けて、古代シナではここに倭人が住んでいるとしています。
この地域にポリネシア系が混交し、稲を改良しジャポニカ米が誕生します。
彼ら稲族は、半島を経由せず、直接日本に稲作をもたらしました。
といっても、縄文時代から日本には都市が有り、狩猟、栗栽培、稲作が行われていました。
水田と渡来と共に、栄養事情が良くなった形跡はありません。

その後、秦の始皇帝の出現により、徐々に押され、半島南部と日本列島が大和人の活動拠点となり、シルクロードが閉鎖されると、イスラエルとの直接の交流が絶えてしまう。
その間に除福などのユダヤ人や、シルクロードの交易で利益を得ていた技術集団・秦氏が、半島を経由せずに船で日本に渡来する。

当時の大和朝廷は、半島を経由せず直接に、イスラエルの情報を得ようと、シナ大陸との交易を開始した。
このような状況でも、半島にはシナ経由の文明はもたらされず、大和人の植民地から、文明がもたらされたのです。


■序文

倭人は半島の民族から様々なことを教えられたどころか、半島に初めて統一国家を築く新羅の基礎づくりを指導したのは、実は倭人・倭種であり、新羅も百済も倭国のことを〝文化大国″として敬仰していたのだ……と。

「そんなバカな」と、日本人も韓国人も言うだろう。
しかし、日本でも韓国でも今や殆んど読まれることがなくなった半島や中国の古史書を〝素直に〟読んでいくと、
浮かび上がってくるのは、日本人や韓国人が抱く〝常識中の常織〟とは、およそ懸け離れた列島と半島の古代関係史の姿なのだ。

例えば、半島に伝わる最古の正史(官撰の歴史書)である『三国史記』には、列島から流れてきた脱解という名の賢者が長い間、新羅の国を実質的に取り仕切り、彼が四代目の王位に即くと、倭人を大輔(総理大臣に該当)に任命したとある。
その後、脱解の子孫からは七人が新羅の王位に即き、一方で倭国と戦いながらも新羅の基礎をつくつていったことが記載されているのだ。
半島で、半島の史官が、半島の王の命令を受け、半島の王朝と人民のために編纂した半島の正史に、そうした内容が書いてあるのだ。

あるいは、七世紀半ばに完成した中国の正史『隋書』にはこんな一節がある。

「新羅も百済も倭国を大国と見ている。
優れた品々が多いためで、新羅も百済も倭国を敬仰し、常に使節が往来している」

『三国史記』が出来上がったのは十二世紀、高麗王朝の時代だ。
高麗王朝は「伝統ある新羅から禅譲を受けた王朝」という形式を整えつつあった。
『三国史記』そのものが、
〝高麗とは山賊が打ち立てた国家〟
ではなく、
「伝統ある新羅から禅譲を受けた国・王朝」であると明示するとともに、
「新羅王朝の血脈が高麗の王朝にも流れ込んでいる」
と主張することを目的にした正史といえる。
そうした高麗王朝にとって、「新羅の基礎は倭人・倭種がつくつた」という〝危うい話〟を正史に記載することに、どんなメリットがあったのか。

当時、日本と高麗の間に通交はあった。
しかし、高麗が求めた医師派遣を日本は断るなど、どちらかと言えば冷たい関係だった。
そうした中で、高麗の史官は
「新羅の基礎づくりは倭人に指導された」
という話をわざわざ控造してまで、
〝正しい史実〟を国民に知らせ、かつ後世にも伝えるために編纂する「一国の正史」の中に書き込んだとでも言うのだろうか。

『三国史記』の成立過程、その記載内容を慎重に検討していくと、上記の話が けして捏造ではないこと (年代には疑問があるにしても)、事実の確実な反映であることが見えてくる。
考古学の新しい成果や、DNA分析を駆使した植物伝播学の研究も、それを後押ししてくれる。

■新羅の基礎は倭種が造った

高麗で最高の功臣かつ実力者であり、儒家としても名高かった金富軾(1075~1151年)が現役を退いた後に、
十七代王である仁宗(在位1123~46年)の命令を受けて1143年頃に編纂を開始し、1145年に完成した。
仁宗の命令は、「三国史記を上進する書」の中に復命する形で引用されている。

次のような仁宗の指摘がある。
「三国の古記は、文が粗雑で事跡の漏れがある。このため君后の善悪、臣子の忠邪、国家の安危、人民の理乱など、全てを曝け出しておらず、後世に勧戒を示していない」
そうではない史書 (恥部も曝け出して)「後世の勧戒」となるような「名文の正史」を編纂しろというのが王命だったのだ。
当時の貴族・廷臣にとって王命とは、今日の日本で高級官僚が総理大臣から直々に受けた命令よりも遥かに重みがあっただろう。

仁宗の命令内容からも解るように、『三国史記』とは書き下しの史書ではない。
当時あった多数の古史書(いわゆる『旧三国史記』を含む)を点検し、かつ中国史書を参考にして、
〝半島史に関する高麗王国の統一見解〟
としてまとめられた正史だ。
そうした経緯からして、『三国史記』とは日本でいえば『日本書紀』に相当する。

『三国遺事』についても説明しておこう。
これは高麗の名僧、一然(1206~89年)が編んだ野史(官撰ではない史書)だ。
完成したのは 『三国史記』より百数十年後の1280年代中盤とされている。
半島に残る史書としては二番目に古い。

『三国史記』は古伝の重要部分をカットしたり、歪曲したりしている、との批判が一然の執筆動機とされる。
仏教説話を除く部分(紀異論=三国史記の「本紀」とは異なるとの意味)は『三国史記』に対する〝異説集〟といえる。
ただし『三国遺事』は、全編を通じて引用が頗る杜撰だ。

一然は、仏教を事実上の国教としていた高麗で、僧侶の最高位に当たる「国尊」に上り詰めたほどの人物だ。
その杜撰さは引用文献を点検することなく、うろ覚えのまま書いたりしたためだろう。
そもそも一然は史官ではなかったし、史書の作成を支えるようなスタッフに欠けていたのも明らかだ。

正体不明の怪しげな史料からの引用もある。
これも、『三国史記』に対する異説なら何でも拾い上げようとした一然の編集姿勢の現れといえる。

儒学者により編纂された由緒ある正史と、
それを批判する立場から百数十年後に仏僧により書かれた異説集のような野史、
この組み合わせが、半島と列島の古代関係史を探る上で、『日本書紀』と『古事記』の関係とは比べ物にならないほど強力な補完性を発揮してくれる。

■日本海側の地から来た賢者

『三国史記』の第一巻(新羅本紀)に、列島から流れてきた賢者が、二代王の長女を娶り、義理の兄弟に当たる三代目の王の死後、四代目の王に即く話が載っている。
その賢者の姓は「昔」、名は「脱解」だ。

「新羅本紀」は脱解王初年(57年)の条で述べている。
「脱解はそもそも多婆那国の生まれだ。その国は倭国の東北一千里にある」

その生誕説話も載せている。
そこには、新羅の初代王である朴赫居世の生誕説話の倍以上の文字数が費やされている。
木版の時代、一つの事柄の記述に充てられる文字数は、その事柄に対する編者、著者の重要性認識度に直結していると思う。

「新羅本紀」を要約すると、こういうことだ。

女国(『三国遺事』では積女国)から嫁いできた多婆那国の王妃は、妊娠して七年目に、大きな卵を産んだ。
王は「人が卵を産むとは不祥である」として、捨てるよう命じた。
そのため、王妃は卵を宝物とともに檀に入れて海に流した。

檀は最初、金官国(金海市)に漂着したが、誰も怪しんで取り上げようとせず、次に辰韓(慶尚道)の海岸に流れ着いた。

老婆が櫃を開けてみると少年がいた。
その時、櫃に従うように鵲(かささぎ)が飛んでいた。
(鶴は、朝鮮半島では古来、吉鳥とされる)

そこで、「鵲」の字の一部を採って、「昔」を姓とした。
櫃を開けて取り出したので名を「脱解」とした。

この説話により、脱解とは卵生と称されていて、その生国である多婆那国とは倭国から東北一千里の海岸に面した地にあったことが解る。

『三国史記』で用いられている「里」は、隋里(一里=約450M)か、朝鮮里(一里=約400M)か、あるいは両者を混同して使っているとも考えられる。
概ね、一里=400M強と見てよい。

◆韓の出自
「秦」と「清」の音が同じなので両王朝は同族を意味する。
同じく、「漢」と「韓」は音が同じで、同族を意味している。
秦の始皇帝の時代、黄河流域にあった「河南省の禹県」が「韓」だった。
神話の英雄禹は卵の意味で、檀君神話に卵が出てくるのだろう。
とにかく、「河南」=「カナン」で魔族の出自である。

◆倭種とは
『三国史記』は、脱解王の下で大輔に就く人物について、「倭人」だったと明記している。
倭人が新羅の支配体制の重要なポストに就いたことを、何らタブー視していないのだ。

それなのに、脱解に関しては「倭人」とせず、その生国を「倭国の東北一千里」と紹介している。
これは、多婆那国が倭国の支配圏外にあったからだろう。

『魂志倭人伝』は述べている。
「女王国から東に海を渡って行くこと千余里、まだまだ国々がある。
それらの国々の 人民は(韓族やツングース系ではなく)みな倭種だ」

これは、倭国の圏域外について述べている箇所だ。
前後の文脈からして、ここは「倭国の首都から千余里」ではなく、「倭国の東端から千余里」の意味だ。
(ただし、ここで使われている「里」は隋里ではなく、一里=約75Mの短里だろう)

この一節だけ見ても、私は『三国志』が記述対象としている倭国とは、九州北部を主領域とする連合国家だったことが解ると思う。
(※畿内王朝とは別の九州王朝のこと。『三国史記』の記述も、倭国が九州を中心とする王朝だったことを窺わせる)

『三国志』は、倭国の支配圏外の倭人を「倭種」と表現している。
それに従えば、脱解は倭人ではなく、倭種だったのだ。
(※九州王朝を倭、畿内王朝も含め、それ以外を倭種としたのでしょう)

■白馬と高貴な紫色

『三国史記・新羅本紀』(以下、「新羅本紀」とする)の場合は簡潔に述べている。

「秦や漠の圧政から逃れてきた人々(原文は「朝鮮過民」)は、慶州の山間部で六つの村(「辰韓の六部」と呼び、初期新羅の中核人民に位置付けられる)に別れて暮らしていた。

ある日、一人の村長が林の中で馬が脆いて斯くのを見た。
そこへ行ってみると 〝瓢(ひさご)のような形〟の大きな卵があった。
卵を割ると男児が出てきた。」

卵から出てきた男児こそ、十三歳にして新羅の初代王に擁立される朴赫居世だ。

これに対して『三国遺事』には、次のような記述がある。

「辰韓の六部の村長は、いずれも(地元の山峰に)天から降りてきた」

「六部の人々が子弟を連れて集まり、『君主を立て、都を定めよう』と話し合っていたところ、山の麓に不思議な気配がした。
雷のような光が地面に差したかと思うと、そこに一頭の白馬が脆いていて、礼拝するような姿勢をしていた。
そこに行ってみると紫色の卵があり、白馬は長く噺いてから天に駆け上がっていった」

『三国遺事』では、檀の中にいた子供自身が以下のように述べる。

《私は龍城国の者だ。
……父王の含達婆が積女国の王女を妃に迎え……王妃が卵を産むと、父王は「不吉の兆」とし、七宝と奴姫を船いっぱいに積んで「勝手に縁のある地へ行って家を起こし、国を立てろ」と呪った。
すると、にわかに赤い龍が現れて船を護衛し、ここにやってきた。》

龍城国については、一然自身がこういう分註を付けている。
「正明国またはワナ国ともいう。
龍城は倭の東北二千里のところにある」

つまり、異説を収集して載せた『三国遺草』でも、新羅の四代王は脱解であり、その生国は異なる国号が四種類出てくるが、やはり「倭の東北一千里」だったのだ。

■秦氏の初代王・朴は脱解を呼び寄せた!?

シンの圧政を逃れて、半島経由で九州に渡来した秦氏一族。
つまり、初代王・朴は秦や漠の圧政から逃れてきた人々の出身で、これは日本に高度な技術をもたらした秦氏一族の血統とみても良いのではないでしょうか。
だから畿内王朝に貢献した秦氏一族は、新羅を建国するために脱解を呼び寄せたと考えられる。
思い出されるのは、大国主命の求めに応じて、少名毘古那が海から大国主命の元へ渡来したことです。

◆新羅最初の外交団の首席代表は倭人だった
三代目の王には息子が二人いた。
しかし、脱解を四代王に即けるよう過言して没する。
脱解は王位に即くと、翌年にはホゴンを大輔に任命する。

(大輔、これは総理大臣に相当する。
「新羅本紀」からは、軍事は脱解が掌握していたと読み取れる)

このホゴンは倭人だ。
「新羅本紀」の朴赫居世38年(前二〇年)の条に、こうある。

「弧公とは、その族姓は詳らかではないが、そもそも倭人だ。
弧を腰に提げて、海を渡ってきた。
それで弧公と称された」

「弧を腰に提げて、海を……」

私は浦島太郎の姿を思い浮かべてしまうのだが、脱解による弧公の大輔起用の結果、出来上がった体制は、王は倭種、ナンバー2は倭人となった。
これは「倭種・倭人が統治する国」に他ならない。新羅に『倭・倭体制』が出来上がったのだ。

『三国志・韓伝』の中に、
新羅は「辰韓と弁韓を合わせて二十四カ国」の一つとして、「斯慮」の名前で出てくる。
(中国史書の中で、国号「新羅」の初出は『太平御覧』に引用された『秦書』377年の記事とされる)

馬韓五十数カ国を列挙する中に、百済も「伯済」として出てくる。

卑弥呼が君臨したのと、ほぼ同じ時代に新羅も百済も存在したことが中国史書により確認できるわけだ。
しかし、どちらの国も『倭人伝』のような詳細な説明はない。

※つまり、畿内王朝(倭種)・九州王朝(倭人)の統一王朝が、新羅を支配した。

◆慶州でハイテク産業を営んでいた倭種
倭種が四代目の王に即き、その下で倭人の弧公が大輔になった。
そうした体制を成り立たせたマクロな状況は、その時代の新羅には、少ない比率ではあれ倭人・倭種が韓族、ツングース系の漬族、中国系流民と共に住んでいて、民族間に先鋭な対立がなかったことだろう。

『日本書紀』だけ見ていると、新羅と倭国は敵対的な関係にあり、新羅に倭人・倭種が住んでいたとは、とても思えないかもしれない。
しかし、考古学はいま、半島南部(弁韓)に限らず、新羅地域(辰韓)にも倭式の墳墓があり、古代から倭人が住んでいたとする。
(朴天秀『加耶と倭-韓半島と日本列島の考古学』講談社選書メチエ、2007七年=参照)

掘り出せば「倭式の墳墓」と解るほどの遺跡なのだから、被葬者が高い地位にいたことは明らかだ。
『三国遺事』には、こんな話が載っている。

《脱解は、弧公が住む邸宅を風水地理の吉地と見た。
そこで、炭や砥石を密かに埋めておき、役人に「よその村に行っている間に、他人が家を建ててしまったが、ここは私の土地だ」と訴え出る。
そして切り札として言う。
「私の祖先は鍛冶屋だったから、掘ってみれば砥石や炭がある筈だ」と。
果たして…… 》

漂着して間もない時期だから、韓族や中国系の民を装うことはできなかったろう。
それなのに、「私の祖先は……」という話が成り立ったのは、今日でいえば慶州市中心部に当たる地域には、脱解が申し出る時より遥か前から、倭種が営む鍛冶屋だけでも何軒もあったからではないのか。

鍛冶屋とは、当時のハイテク産業だ。
慶州中心部に倭人が営むハイテク工場が何カ所もあり、韓族や中国系流民を相手に商売をしていた・・・

こんな古代風景は、誤った常識からは想像もできまい。

しかし、三世紀になっても半島の刀剣は鋳鉄だったが、列島では一歩も二歩も進んだ鍛造品が造られていたというのが考古学の常識だ。
慶州で倭種がハイテク産業を営んでいた古代風景は、決して不思議ではないのだ。

「新羅本紀」には、詐取この土地は後に月城=王宮になったとある。
風水地理は古代中国に始まるが、今日の韓国人は何かというと風水地理を持ち出す。
なんと大統領府でも、事務方が大統領府の建物の配置について、風水師にお伺いを立てていたことが明らかになった。
韓国人は、脱解を「半島における風水地理の祖」として崇めなければなるまい。

つまり、古代の韓族が倭人を明らかな劣等民族として位置づけていたのなら、如何に個人的に才能が優れた倭種であっても、総理大臣に登用したり、王に推されることはあり得なかった。

■倭国と新羅は地続きだった

「五九年に倭と国交」は不思議でない。
「新羅本紀」には、朴赫居世人年(前50年)に、倭勢力の最初の対新羅出兵記事がある。
ここで「倭勢力」というのは、その主体が倭国の指揮系統にあったのかどうか、疑問があるからだ。
その二回目の出兵が南解十一年(14年)だ。
そして、次の倭国関連記事が、脱解三年(59年)五月、新羅は「倭国と国交を結び、使者を交換した」となる。

古代史ファンの多くは
「そんなことは『古事記』にも『日本書紀』にも載っていないぞ。
まさか、一世紀の半ばに倭国と新羅が国交を結んだなんて」
と嘲笑するだろう。

倭の使節が57年に漢漢本土、あるいは平壌に郡治(郡庁所在地)があった楽浪郡(漢の直轄地)を訪問して、光武帝から印綬(印と、そのセットになっている組み紐)を授かったというのだ。
その印とは、福岡市の志賀島から出土した「漠委奴国王印(金印)」のことだ。

『後漢書』の「倭奴国」をどう読むのか。
金印の「倭奴国」とはどういう関係なのかは、さておく。
ここでは、倭人の国は既に一世紀半ばに、中国と正式な外交(金印授受)関係を持ったという事実が重要だ。
中国の正史を見れば、この時代、韓族の邑長には「銅印」が授けられた。
金と銅の違い、これは絶対格差だ。

漢本土にせよ楽浪郡にせよ、列島から見れば、そこは新羅より遥かに遠い。
より近い新羅との間で、59年に国交が結ばれたとしても、何ら不思議ではない。
『古事記』も『日本書紀』も、基本的には近畿王朝の史書だ。
倭国と新羅との国交の記事が載っていなくても、これまた不思議ではない。

さらに『後漢書』の編者が「九州北部=倭国の極南界=倭奴国=金印を賜る本国」と認識していることも解る。
つまり、
「半島の南部=倭国の北部=分国」なのだ。
これは『魂志倭人伝』が狗邪韓国(今日の韓国金海市を中心とする地域)を〝倭国の北岸〟としているのと基本的に同じ地理観だ。
当初の倭国とは
「倭奴国+半島にある分国」
を指していたのだ。

日本では、「委奴国」を、『魂志倭人伝』に国名が出てくる伊都国に比定する研究者が少なくないようだ。
しかし、卑弥呼が 238年に魏から金印(親魂倭王)を授かったのは、「邪馬壹国の女王」としてではない。
「連合国家・倭国の王」としてだ。

『後漢書』中の「倭奴国=委奴国」に該当するのは、単位国家である伊都国ではない。
「連合国家の本体である倭奴国=刻印では委奴国」と見るべきだ。
もし伊都国が貰ったとしたら銅印だ。

◆金王朝があったのも、脱解がいたから
73年には倭勢力による小規模な新羅侵攻があり、倭国との局面は変わった。
それでも、脱解王の倭・倭コンビは新羅の末代、いや「新羅本紀」の記述上は高麗王室にまで通じる大功績を挙げている。
金王室の始祖となる赤ん坊を、王族として育てたことだ。

脱解9年(65年)、脱解は夜、林の中で鶏が鳴く声を聞いた。
朝になり、林の中を調べさせると、金の小さな檀が木の枝に引っ掛かっていて、その中に小さな男の子がいた。
脱解は「天が世継ぎを下さった」と大喜びする。
見付けられた男の子は、金の檀に入っていたので、姓を「金」とする。
名は(理由は出ていないが)関智とする。
金関智は王にはなれなかったが、後年、大輔に就く。
そして、金関智の七世孫が初めて金姓で王位に即き(十三代王)、十七代から五十二代まで、この一族が新羅の王位を独占する。

馬韓から辰韓に逃げてきて、初期新羅の領域内で、辰韓の六部とは別に(おそらく現在の慶州市付近で)暮らしている集団があった。
後代になって王を出し、「金」姓を名乗る集団だ。
その一族の娘と脱解が私通して生まれたのが、金閣智だったと理解した方が納得がいくと思う。

◆つい最近まで黒い飯だった半島
私には、多くの日本人が未だに「稲作は半島からの渡来人に教えられた」と漠然と信じていることが、たいへんに不可解だ。
なぜなら、稲の日本への伝播が、中国・雲南省から東シナ海を経由して九州に達するルートだったことは、とっくの昔に結論が出ている。
佐藤洋一郎(静岡大学助教授)を中心とする DNA解析を駆使した研究の成果だ。
「半島経由だ」と主張しているような植物伝播の研究者は、日本はもとより世界にいないだろう。

韓国の『高等学校国定国史』(第七次教育課程、日本の学習指導要領に該当)ですら、稲作の伝播経路を示す地図の中で、列島への伝播は中国南部から東シナ海経由としている。

韓国への稲作の伝播は山東半島や遼東半島経由と、韓国の『高等学校国定国史』は記している。
そうであったとして、実際に稲作を指導したのは倭種だったのではあるまいか。

「農業に力を入れよ」と指導した王は、「新羅本紀」にも「百済本紀」にもみられる。
しかし、
「風雲を占い、水草や穀物の豊凶を予知することができ……人々は聖人といった」、まさに農業に特定したような紹介記事は、『三国史記』全編を通じて伐休王にしかない。
個々人の業績を措いた「列伝」の中にも、農業専門家は出てこない。

ただ、伐休王のような存在がいて稲作を指導していたとしても、その後も新羅の主食は粟だった。

新羅の滅亡から、およそ九百年後に〝日帝〟が凄まじい財力を投入して農業基盤整備事業を推進するまで、半島の庶民は銀シャリ(白米一〇〇%の飯)など口にできなかったのだ。

戦後の韓国で、大手マスコミに勤務する人間は、他から羨まれる高給取りになった。
それでも一九八〇年代初頭の韓国で、大手新聞である中央日報社の社員食堂の飯は、依然として大麦や豆の他に様々な雑穀が混じった〝黒い飯〟だった。
その当時はまだ、米を炊く際には、一定比率の雑穀を混ぜなければならない「国民の混食義務」があった。
「韓流ドラマ」に出てくる食事や料理作りの場面に、ゆめゆめ騙されてはいけない。
「韓流ドラマ」については、韓国の新聞も「時代考証ゼロ」と批判している。

「始作稲田」とは、陸稲のための畑を初めて作らせたという意味だ。
中国、半島とも、漢字の「田」は日本の「畑」を意味する。
半島では水田を「水田」字で示す。
もとより、陸稲の前に水稲があった筈はない。

では、北部の高句麗は……

『三国史記・高句麗本紀』に見るべき記述はないが、中国史書には面白い記述がある。
いくつもの史書に同じような記述があるが、典型とすべきは
『三国志・高句麗伝』だ。
意訳すれば、こうなる。

「その地は痩せていて、その民はよく働くが、腹を満たすことは到底できない。
それで民は常日頃、食事も満足に摂れないが、王室はそんなことにはお構いなく、宮殿を飾り立てることに熱心だ」

「その支配層は短気で凶暴で、しばしば山賊行為を働く」

高句麗とは、今日の北朝鮮から中国吉林省にかけてあった古代国家だ。
言うならば、北朝鮮の前身だ。
山賊行為が人身拉致を含むのは当然。
となると、良田が無く……
という山賊行為までの一文は、もしや今日の北朝鮮のことを述べているのではないのかとさえ思えてくる。

まさに「故事は今を知る所以」だ。
ともかく、半島北部は、満足な食事も摂れないような状況が続いていた。
この地域は寒冷な気候であり、その主食は満州と同様、稗だったのだろう。

一方、列島では三千五百年前(縄文後期)には、確実に稲作をしていた。
稲の単位面積たりの収穫量は、他の穀物、大麦、小麦、稗、粟などより、大人口を支えやすいわけで、文化力の礎になる。

佐藤洋一郎によれば、日本の稲作の始まりは、さらに古く、五千年前の縄文中期の遺跡からも米粒が出土している。
その中には、朝鮮半島に存在しない品種がある。
やはり五千年前の青森県・三内丸山では、既に栗や瓢箪が人工栽培されていたことが DNA解析により確認されている。
〝文明の入り口〟とされる北九州から遠く離れた本州の北端にいた倭種も農林業の高度ノウハウを持っていたのだ。
そして、縄文時代に関する古いイメージ(漂泊・採取時代)とは懸け離れた「豊かな食生活」を享受していた事実が判明しつつある。
(佐藤洋一郎『純文農耕の世界-DNA分析で何がわかったか』より)

DNA分析が示す科学的事実。
そして『三国史記』に僅かながらも示されている半島内部の農業史、
さらには中国史書を併せ読めば、新羅人や百済人、あるいは高句麗人は、とても倭人に稲作・米作りを伝授したり、農業を指導したりするような立場ではなかったと判断するのが妥当なのではないのか。

韓族が倭人に稲作をはじめとする農業を教えたのなら、日本の農業関係用語には韓語に似た語彙がたくさんあって然るべきだが、私が知る限り全く存在しない。

『三国志・韓伝』の「辰韓・弁辰の項」には、
「その国は鉄鉱石があり、韓族、滅族、倭人がほしいままに鉄鉱石を採っている」
とある。
『三国志・韓伝』の書き出しは、こうだ。

「韓は帯方郡(ソウルを中心とする地域)の南にあり、東西は海を以って限りとなし、南は倭と接し、四方は各四千里ばかりだ)」
(里は古代中国の短里)

それに続く『魂志倭人伝』は、女王国に至る行程を、次のように書き進めている。

「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国(馬韓)をへて、あるいは南し、あるいは東し、その北岸狗邪韓国に到着するまで、七千余里。
初めて海を渡ること千余里、対馬国に至る」

これは『倭人伝』なのだから、素直に読めば「其の北岸の狗邪韓国」の「其の」とは「倭」のことだ。
韓族が主体の国家のことなら、「南岸」でなければならない。
つまり、明らかなことは、「狗邪韓国」と号する国家を、三世紀後半の中国人は「辰韓・弁韓24カ国の中の一国」に数えると同時に、「倭国に属する国」と認識していた事実だ。
だから、倭国は半島南部から鉄を輸入していたのではなく、植民地から鉄を移入していたのだ。

■半島西南端の前方後円墳は何を語るか

新羅より南の地域は「倭」であり、その本拠は海を越えた九州(九州王朝)にある、この古代地勢図を認めないと、倭国勢力による新羅攻撃が、いかにも不可解なことになる。

即ち、
「半島では狗邪韓国だけが倭国の一国」
と認めたとしても、狗邪韓国と新羅の間には倭に従わない韓族の国家がいくつもあるのに、倭兵はそうした国家をすり抜けて、山をいくつも越えた向こうにある新羅だけを攻撃していたことになる。

しかも、その新羅とは、沃地でもなければ、貴重な鉱産物が出る国でもない。
新羅は国域を北、南、西の三方に拡大した。

半島の西南端に当たる栄山江地域に、十数基の前方後円墳があることに着目すべきだ。
これらが前方後円墳と確認された瞬間、
韓国のマスコミは、日本独特の墓制とされてき前方後円墳も、韓国が起源だったと報じた。
しかし、その後の調査で、栄山江地域の前方後円墳は五~六世紀の築造と明らかになった。
日本の前方後円墳は三世紀には出現している。
つまり、五~六世紀の半島最西南部には、端から端まで百M近い墓を造る倭人・倭種の強力な勢力があった。
『後漢書・韓伝』は、馬韓の領域について
「その北は楽浪郡と、南は倭と接する」
と書いている。
半島最西南部は、後漠の時代には既に倭人・倭種が支配する領域だったと言っているのだ。

『宋音』にある倭王・武が478年、宋の順帝に宛てた上表文で述べている
「わが祖先は甲宵を身にまとい、山川を駆け巡り……海を渡っては海北の地を平らげること95カ国」
とは、そうした状況の回顧だ。

(※倭の五王や卑弥呼の記述が記紀に存在しないのは、九州王朝の人物だったからだろう)

倭国も新羅も、三世紀後半までには盆地国家を次々と勢力圏に収め、遂には両者の勢力圏が接した。
そうでなければ、倭国勢力と新羅の本格的対峙は起こりようもない。

いずれの年代でも、この倭王は、卑弥呼と壹輿の間にいた男王のことだ。

「卑弥呼の死後、改めて男王を立てたが国中に反発が起こり、殺し合いになった……そこで卑弥呼の同族にいた壹輿を、まだ十三歳だったにもかかわらず王にしたところ、国は平穏に戻った」

と、『魂志倭人伝』が末尾に伝えている男王だ。

その男王には、なぜ国中が反発し、殺し合いが再発したのか。
『魂志倭人伝』には何の説明もないが、
『三国史記』が補ってくれる。
《たいへんに誇り高く、かつ短気……》
で、国が治まらなかったのだろう。

新羅の領土内で戦い、それが小休止状態になると、倭国の使節が王都を訪れ、新羅側が宴を張ってもてなす。
まさに敗戦国の姿ではないか。
そして、倭兵が再び主都近くまで侵攻してきて、最高位の王族であり、かつ兵に慕われていた名将が火象りにされても戦争にはならない。
新羅は黙っていたのだ。

これは、倭国が新羅に対して圧倒的優位にあったという以外に、どんな解釈が成り立つのだろうか。

「新羅本紀」が描く三世紀後半からの倭の圧倒的攻勢も、文明力の違いによったと見るのが素直な解釈ではないのか。
一世紀半ばには、倭国は漠(楽浪郡)と直接の繋がりがあった。
楽浪郡の遺跡からは賛を尽くした品々が出土するが、それが韓族の領域に広く流れ出ることはなかった。
特に新羅の場合は、楽浪郡との間に滅族・ペク族の居住地域があったから、楽浪郡と新羅はほとんど交渉がなかった。

となると、倭人・倭種は韓族から何を習ったのだろうか。

中華文明は半島を通じて列島に入ってきたと言われる。
〝日本の常識〟だ。

しかし、半島南部に倭人・倭種が確固たる地歩を築いていて、韓族を尻目に早々と漠と直に繋がっていた。
であれば、中華文明を列島本国へ伝えたのは、韓族ではなく、半島にいた倭種・倭人だったと見る方が自然だ。
では漢字や、寺院の建設技術は?

『記紀』が伝えているのは、大和朝廷に対する公式伝達のことだろう。
つまり、それだけ九州王朝は文化水準が高かった。

一世紀に漠と外交交渉をした倭人が文字を見なかった筈はない。
卑弥呼が漢字を読めなかったなら、張政が魏皇帝の詔を持参することも意味をなさない。

『隋書・倭国伝』の「倭国に文字なし」とは固有の文字のことではないのか。
そもそも、『隋書』が伝える倭王とは、阿蘇山の近くにいた。
卑弥呼と同じ王朝なのだろうか。
(※この文字は「漢字」のことで、神代文字を文字と認識していなかったのかも知れない)

では、寺院建設の技術はどうなのか。
旧百済地域でもいい、旧新羅地域でもいい。
半島の古刹を初めて見た日本人は、その柱の歪みの酷さに仰天する。
地震がある国では、とても保たない。
日本の大工分野の技術用語にも、韓語の面影は発見できまい。

■安羅は倭人の国だったから

「新羅本紀」は漠たる筆致で書いているが、『三国遺草』は、新羅にいた高句麗軍兵がその王を殺し、新たな王(十九代王)を立てたと明確に記している。
つまり、この一時期、新羅は高句麗の属国になっていたのだ。
その間も、南方からは倭国の侵攻が続いて、遂には高句麗と倭国の勢力圏が新羅の王都で接した。

そうした状況を生々しく伝えてくれるのが、広開土王(高句麗十九代王=在位391~412年)の碑文だ。

「(四〇〇年)新羅の王城内まで倭兵が満ち、王城を壊し始めた。
高句麗は、新羅王が自らを「奴客」とまで謙って記した救援要請を受け、百済を襲撃しようとしていた五万の大軍を、新羅の救援に振り向ける。
高旬麓の大軍に追われた倭兵は、半島南部の本拠地である「任那加羅」に向けて敗走する。
が、深追いした高句麗軍の脇腹を、安羅の軍兵が突いてきた。
そして、安羅軍が慶州を占領してしまった。」

安羅もまた、明らかな「倭人の国」だった。
この戦乱の後、新羅は高句麗だけではなく、倭の本国にも前王の子を人質として送った。
つまり、新羅を主戦場とした倭と高句麗の対決は、少なくとも新羅の立場から見れば、広開土王碑が示すような〝高句麗の圧勝〟ではなかったのだ。

■仲哀天皇とサタン・ダビデの謀略

神託は間違っており、新羅は、沃地でもなければ、貴重な鉱産物が出る国でもない。
だから、仲哀天皇が利に惑わされず神の申し出を断ったのは、正しかったのだ。
その点、大東亜戦争直前、朝鮮併合に反対派の伊藤博文が朝鮮人暗殺され、朝鮮人からの申し出により併合したが、朝鮮には鉱物も農産物も文明も無く、日本が莫大な投資を行うことになる。
その後、シナ大陸の内乱へと誘導されてしまうのです。
では、この神功皇后に憑依した自称神は何故、仲哀天皇を無慈悲にも殺し、新羅を攻めさせたのだろうか。
おそらく、この自称神は、サタン・ダビデであったろうと推察されます。

秦帝国が出現する以前は、長江河口から九州に掛けて倭国(九州王朝)だった。
秦帝国により、シルクロードが封鎖され、イスラエル人・秦氏・月氏諸々が、日本に亡命してくる端緒となる。
そこで、畿内王朝は故郷の情報を得ようと、朝鮮半島に基盤を持とうとした。
一方、それまで朝鮮半島を支配していた和国は、秦帝国に圧迫され、九州を本拠地とするようになり、朝鮮半島は資源も無く、ただの通路として放置された。
ただ、鉄鉱石採集のために任那を本格的な植民地としたのでしょう。

そして、三韓は倭国から徐々に離反するようになった。
そこで、神功皇后が新羅を含む三韓を征伐したが、賢明にもこの地を併合したり植民地化しなかった。
このため、大和朝廷は高句麗と秦帝国と直接対峙せず、秦帝国滅亡の内乱に巻き込まれることは無かった。
倭国=和国で、その統一王朝が大和朝廷なのだ。
そして、九州王朝と畿内王朝の本当の統一王朝が、応神天皇により実現した。
ただ、新羅は高句麗の属国となり、倭国から完全に離反するようになる。
そして、白村江の戦いで、天智天皇軍は敗北するのです。

だから、サタン・ダビデの神託に従い、三韓征伐を行い、大和が本格的に軍を駐留させれば、大東亜戦争の泥沼になっただろう。
軍を引き上げたのだが、新羅は大陸側に寝返ってしまい、それが白村江の敗北につながり、大和は漢字化や仏教化を強制されてしまった。

そして大和民族=ヤハウエの民がシナ文明に飲み込まれようとした。
その時、日本を救ったのは唐の滅亡と、天武天皇だった。

◆仲哀天皇(148年)~道鏡事件まで
・第14代天皇として、192年に即位。
(199年)熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りした神功皇后から神のお告げを受けた。
それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。
しかし、仲哀天皇は宝は何処にも無いと、神の申し出を断った。
そのため神の怒りに触れ、仲哀天皇は翌年2月、急に崩じてしまった。

・『気比宮社記』によれば、神代よりの鎮座で、当宮に行幸した仲哀天皇が自ら神前に三韓征伐を祈願し、征伐にあたっても皇后に玉妃命・武内宿禰を伴って当宮に戦勝を祈願させ、その時、気比大神が玉妃命に神懸かりして勝利を予言したという。
応神天皇が気比神宮の祭神、去来紗別神(いざさわけのかみ)と名前を交換した。

・新羅の王子・アメノヒボコの子孫である神功皇后は、九州から、新羅に出兵し、新羅・百済・高句麗の三韓征伐を行った。
畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定した。

・応神天皇の時、記録にあるように、大陸から亡命してきた秦氏一族(前秦滅亡(394年)~後秦滅亡(417年)。
数千人から1万人規模が、 天皇に協力し、大和朝廷の設立に初めから関わったことになる。
また、このときから急に古墳が巨大化し、秦氏の土木技術が用いられた。
だから、八幡神は応神天皇とされ、宇佐八幡は応神天皇を祭っている。

・593年、推古天皇が即位し、甥の厩戸皇子=聖徳太子を皇太子に立て、摂政 に任じ、国政を委ねた。
645年に、大化改新が始まる。

・新羅は倭と倭種の支配する国だった。
ところが、任那他の倭の植民地と仲違いをしていた。
天智天皇は、新羅派を押さえて、任那の救援に向かい、唐・新羅連合軍に663年の「白村江の戦い」で敗れた。
天武天皇は新羅と友好を保とうとした。

・769年5月、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった。
清麻呂は天皇の勅使として8月に宇佐神宮に参宮。
与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9Mの僧形の大神が出現。大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。

半島のホントの歴史 2

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転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』
 
『日韓がタブーにする半島の歴史』
より抜粋
 

■新羅の王族とは近親婚集団

新羅の王族とは近親婚集団であり、近親婚集団であることを根拠にして、排他的身分階層としての「王族」(王家ではない)を構成していたのだ。
こうしたことは「新羅本紀」を読めば、誰にでも分かる。
何よりも解りやすいのは、金富拭が「論日」(史書の中で編者の個人的意見を述べる欄)で、
〝新羅の王族が近親婚を続けていたことの、どこが悪いのか〟
と開き直っている部分だ。

そうした歴史があったのに、韓国人はいま、日本人に向かって「お前たちは淫猥だ」と罵り、その証拠として、

①兄が死ぬと、弟と捜が結婚する(捜婚制)

②近親婚(いとこ婚)が許されている

ことを挙げる。
①②とも、日本では法的問題は何もない。
ただ、①は、最近は殆んど聞いたことがないし、
②も滅多にあるケースではない。
ところが韓国人の多くは、
①は「そうしなければならないことになっている」、
②は「よくあること」
と信じているようだ。

①も②も、
「現代韓国的儒教精神」(本来の儒教とは、様々な点で異なる)からすると「絶対にあってはならないこと」であり、現に韓国では民法が改正されようが、「同姓不婚」の教えは、ほとんど揺るがないようだ。
そうした状況を
〝儒教精神上での対日優位〟
と捉えているから、
「日本人=近親婚集団=淫猥」の悪罵になる。

■物作り劣等の歴史は長い

新羅は唐に通じるや、国中から美女を選び、唐の皇帝に貢ぎ物として贈ったのだ。
「新羅本紀」に最初に出てくるのは、631年だ。
「大唐に使いを出し、唐の太宗に美女二人を差し上げた」とある。
ところが、太宗の側近に賢臣がいた。
その言に従い、太宗は
「村から献ぜられてきたオウムですら、寒さに苦しみ、泣きながら国に帰りたがっている。
二人の女は遠くから親族と別れてきたのでは、なおさらだろう」
と言い、二人を送り返してきた。

高句麗も646年、唐に使者を出して謝罪するとともに、美女二人を太宗に献じた。
この時も太宗は、新羅に対するのと同様の理由を付けて、美女二人を送り返した。
南も北も、《献女外交》をしていたのだ。

倭国も魂に「生口」、即ち奴隷を貢いでいた。
『魂志倭人伝』が伝えている。
しかし、三世紀の「貢物としての生口」(倭国の「生口」については、「何らかの技術者だったのだろう」との説もある)と、八世紀末になっても続いていた献女とは、同質とは思いがたい。
新羅には、依然として「美女」の他に目玉となる輸出品がなかった事情もあったのだろう。

そうした状況だったのであればこそ、新羅、百済が、倭国を「多珍物」として「敬仰」していたことも理解できるのではないか。

列島から半島には、古くは鉄に用いる黒曜石や、玉が大量に流れた。
とりわけ珍重されたのはヒスイの勾玉だった。
しかし、『隋書』が描く時代ともなれば、ヒスイも枯渇状態に近かったのだろう。
奈良時代には産出が完全に止まったとされる。

もとよりヒスイの勾玉だけでは「多珍物」にはならない。
しかし当時の列島に、半島の人民を喜ばせるような自然資源が豊富にあったとは思えない。
それなのに、半島の人民から見ると「多珍物」だったのは、手工業製品の質的レベルが全く違っていたからだろう。

日本は当時から〝モノづくり列島〟だったのだ。
いや、五千年前の三内丸山遺跡から出土した精巧きわまる漆器を見れば、その遥かに以前から。

『日本書紀』には、任那の使節に赤吊(あかぎぬ)を贈ったところ、新羅がそれを途中で奪ったことが、新羅、任那の長い対立の発端になったとある。

「養蚕の先進地から来た使節に、絹織物を贈ったとは……」
ということで、この話は『日本書紀』の記述内容がデタラメであることの証拠の一つとして扱われてきた。
しかし、そうではないのだろう。
鉄鉱石の原産地は半島なのに、列島では早々と鍛造品が出回っていたのと同じように、半島の方が養蚕の先進地だったとしても、製品となると雲泥の差があったのだろう。
新羅が思わず奪い取りたくなるほどの……。

昔からの〝モノづくり列島〟と、
額に拝して働くことを蔑む儒教文化に染まりきった半島、
その差をいま最も分りやすく示してくれるのは、自動車の質だろう。……

今日の韓国の状況を、韓国人自身が《経歴詐称大国》と自嘲して語るのは、こうした歴史事実と無縁であるまい。
およそ韓国人は今日でも「私は両班(貴族)の家系に育った」と言う。
大学卒業の偽証明善が簡単に入手できる国情だ。

『記紀』や『新撰姓氏録』に出てくる
〝新羅の王子〟〝百済の王族〟
にしても怪しいと見るべきだ。
『隋書・百済伝』はじめ様々な史料があるのに、韓国の『高等学校国定国史』は
「わが民族は五千年以上の悠久の歴史を持ち、世界史上まれな単一民族国家としての伝統が続いている」
と、冒頭から凄じい虚偽を書き連ねて、民族精神を煽っている。

こうした教科書を持つ国の為政者としては、『三国史記』も中国の正史も国民には読ませたくないだろう。
韓国の歴代政権が、国民を漢字から遠ざける政策を採ってきているのは、そのためではあるまいか。

■卑怯者を祀るOINK(Only IN Corea)

◆国際社会よ、決して油断することなかれ
薩水の戦いの翌622年も、隋は高句麗に出兵する。

そして、614年にも出兵の準備を始める。
この時は高句麗も疲弊が著しく、高句麗の嬰陽王は隋に使臣を遣わし謝罪し、降伏を申し入れる。
「高句麗本紀」には、煬帝が大いに喜び兵を退かせたとある。
しかし『三国遺事』の「興法篇」には驚博すべき話が載っている。

「王は国書を送って降伏を願い出た。
その際、
〝ある者〟は小さな石弓を隠していき、
船中で煬帝が国書を読んでいる時に、石弓で煬帝の胸を撃った」

その後の話は載っていないから、煬帝に大きなケガはなかったのだろう。
しかし、ここに出てくる〝ある者〟とは正使ではなくとも、正式の外交団の随員だ。
たとえるならば、降伏文書への署名のため米国大統領に謁見した某国外交団の随員の一人が小型ピストルを隠し持っていて……ということなのだ。
ともかく、隋の楊帝は国書を受け取り、出兵を取りやめた。

すると高句麗は、もう隋の命令(王自身が隋に出向き朝見すること)には従わない。
広い国で改めて兵を集め、戦争の準備を整えるまでには、長い時間がかかる。
その間に高句麗も態勢を立て直せる。
(結果としては、そうするうちに、隋は内乱が広がり滅んでしまった)

乙支文徳の「降伏」は、いわば出先司令官による口頭の申し入れだった。
しかし、614年のそれは、国家として国書をもってする正式な降伏申し入れだ。
それすらも、時間稼ぎのための方便に過ぎなかったのだ。

核問題に関する北朝鮮の対応を見よう。
国家として発した声明も、公式の場で署名した国際協定も守らない。
「守らない」というよりは、初めから「時間稼ぎ」や「揺さぶり」のための戦術であり、挙げ句の果ては屈理屈を並べて平気で居直る。
「故事は今を知る所以」とは、やはり名言だ。
北朝鮮の前身、ここにありだ。
核問題に関する北朝鮮の受諾声明や、六者会談での〝合意〟の度に、日本のマスコミは「問題解決」とばかり大騒ぎしたが、ようやく解ってきたようだ。

北朝鮮がある日、「全面降伏する。国を全面開放する」と申し出てきても、国際社会は決して油断してはならないのだ。

※北朝鮮は高句麗の時代から瀬戸際外交で、国際社会を騙してきた。
高句麗王は隋に謝罪し、降伏を申し入れる。
煬帝が公式の場で国書を読んでいる時に、高句麗は暗殺を謀るが失敗する。
韓国人が併合反対派の伊藤博文を暗殺し、韓国ではテロリストを英雄としている。
常識が通じないのだ。

■歴史を捏造する民族…
約束破りと約束捏造の国

戦後の「反日」は、マスコミの扇動によるところが大きい。
記録映画の中に、何の字幕告示もないまま、フィクションのフィルムを挿入する手法は、かつてテレビの反日キャンペーン番組でよく使われた。

最近でも二〇〇五年八月十五日に韓国MBCテレビは、夜九時からのニュース番組で「七三一部隊の生体実験の記録画像だ」として、香港映画を放映した。

MBCは映画関係者からの指摘を受けると、「手違いだった」といったコメントを発した。
しかし、わざわざカラーを白黒に焼き直して当時のフイルムであったように装い放映したのだ。
〝国民を騙してでも反日を扇動する〟意図だったことは明白だ。

乙支文徳に関する今日の様々な英雄渾も、マスコミ(映画、テレビ、大衆小説)が伝えるフィクションだ。
つまり、乙支文徳に関しては、「高句麗本紀」をはみ出した話は全て史料なき創作なのだ。

国際金融専門家の間では二〇〇七年頃からか、「0INK(オインク)」という隠語が使われ始めた。
「only IN Corea」の略で「韓国でしか、あり得ないこと」という嘲笑的な意味を持つ。
これを馬鹿にしてはいけない。
なぜなら、韓国の国定歴史教科書は今、明らかにこの史観の強い影響を受けている。
中高教師も捏造された歴史しか知らず、それを絶対に正しい史実と思い込んで、確信を持って子供に教える。
さらに、韓国軍の新兵向け歴史教育は、この史観に基づき実施されている。
徴兵制だから、男子は原則として全員が、この史観を学ぶわけで、軍事政権の時代には、偽降伏戦術を「知っている人」も押し黙るほどの状況になっていったのだろう。

バングラデシュ、インド、モンゴル、韓国の四カ国の中高校生を対象にアンケート調査をして腐敗認識水準を比較したところ、韓国が最低だったというのだ。
社説は書いている。
「子どもは大人を映す鏡にすぎない」と。

•「正直に生きるよりも、金持ちになることが重要か」との質問に、韓国の中高校生の2.6%が「そうだ」と答え、バングラデシュより7倍も高かった。

・韓国の中高校生の6人に1人が「監獄で十年過ごすとしても十億ウォン稼げるなら腐敗に手を染められる」、
5人に1人が「問題を解決できるなら、快く賄賂を使う」と答えた、

というのが、この社説が紹介している調査内容だ。

関連して思い出したのは、韓国系米国人と思われる全恵星博士(エール大学比較文化研究所の名誉研究部長)へのインタビュー記事だ。
(『中央日報』二〇〇七年九月九日)

韓国は留学熱が異様に高い国であり、米国の有名大学を卒業することが「エリートにとって、人生の最初の勝利」であるかのように位置付けられている。
博士は米国留学中の韓国人高校生について、こう語っている。

・進学を希望する大学がハーバード、エールなどいくつかの名門大学に集中する。

・生徒に進学推薦書を書いてあげたら、気に入らないとして破ってしまった。ビックリした。

・カンニングなど不正行為が目立つ。

・「韓国人の生徒は不正行為をしても、誤った行動であることに気付けないモラル・ハザードに陥っている」
…生を懸けた戦争に勝つためなのに、カンニングぐらいどこが悪いのかということなのだろう。

・かつて、暑い国から来たボクシングの世界チャンピオンが、真冬のソウルでリングに立った時、主催者は暖房を止め、観衆はドア、窓を開け放ったという。
例えば、日本側の技術提供により生産した製品は「韓国内の販売に限る」という「契約」なのに、生産が軌道に乗るや東南アジアに輸出を始め、しかも日本製品と酷似した商標まで付けている。
輸出を取りやめるよう申し入れると、
「提供された技術による製品は国内販売に限っている。
東南アジア向けは、我々が独自に改良した技術による製品だから、問題はない筈だ」。

他にも「韓国の金融・経済の本質的危うさ」が改めて語られる昨今だから、
「通貨安定債」と称する「約束違反」にも触れておこう。

一九九七年のアジア通貨危機に伴う韓国経済破綻の際、国際通貨基金(IMF)は多額の救済融資を実施するとともに、国債の発行枠を定めた。

ところが、韓国は「国債とは政府が発行する債券であるから、これは違うものだ」という方便で、中央銀行が「通貨安定債」と称する事実上の国債発行に踏み切り、IMFの目を白黒させた。

通貨安定債の発行残高は二〇〇八年九月末、「政府発行の国債残高」の七割ほどに達していた。
その利払いのため、韓国銀行は世界で唯一の「赤字決算の中央銀行」になっている。
まさに0INKだ。

安重根は一九〇九年、中国ハルビン駅で、日本の枢密院議長だった伊藤博文(初代の韓国統監府統監)を狙撃し、暗殺した。
(その後、絞首刑)

安重根は、伊藤博文が日韓併合に反対していたことを知っていたのか、どうか。
伊藤の死により、併合論が勢い付いて、ついに併合がなった。
が、韓国の世論構造は「安重根=愛国者」という絶対不可侵の概念を上位に据えている。
だから日本人から「伊藤は併合反対派だった」と聞かされても、聞く耳を持たない。

韓国では潜水艦を「海の刺客」と言う。韓国海軍は二〇〇八年六月に進水させた潜水艦を「安重根」と命名した。
「テロリスト=悪」の価値観は、ここに存在しないのだ。

尹奉書は一九三二年、中国・上海の日本人居住地域にあった虹口公園で開催されていた天長節(天皇誕生日)の祝賀行事に爆弾を投げ込み、官民、軍人多数を殺傷した。
(その後、銃殺刑)

宗主国の正規軍と戟ったゲリラの指導者が独立後、「民族の英雄」として顕彰されることは多々ある。
独立後の大統領になった例も世界には少なくない。
しかし、安重根と尹奉書はテロリストに他ならない。
特に尹奉書の場合は、民間人も巻き添えにした無差別爆弾テロ犯だ。
ところが韓国では、尹奉書もまた「殉国の義士」として、顕彰事業が続けられてきている。
そんな国は、非イスラム世界では韓国を除いてあるまい。
(いや、日本や韓国で「拉致」を実行した人間を、「民族の英雄」として待遇している国家はあるが……)

二〇〇七年十二月十九日、ソウルで尹奉書没後七十五周年の追悼式が行われた。
これを主催した「尹奉書義士記念事業会」の会長は、何と李明博ソウル市長(〇八年から大統領)だった。

この追悼式で光復会(反日・愛国団体)の会長は
「韓国男児の気概を見せ付けた快挙だった。
尹義士の高貴な心は、百年経とうと千年経とうと、われわれの心の中に残り続けるだろう」
と述べている。
(『朝鮮日報』二〇〇七年十二月十九日)

卑怯な無差別テロを「韓国男児の気概を見せ付けた快挙」「高貴な心」だと言うのだから、呆れるほかない。
「これも0INK」と、片付けるべきではない。

李明博大統領の記者会見に臨む機会のある日本人記者は何故、「あなたがテロとの戦いを述べていることと、あなたが尹奉書義士記念事業会の会長であることとの関係」を質さないのだろうか。

■「類似神話」論が秘める大虚構

「天神の孫が三種の神器を持って降臨してくる朝鮮の神話」とは、
「檀君神話」のことを指しているとしか思えない。
その「そっくり論議」をよく耳にするのだが、不思議なことに、私は未だに「檀君神話の全文を読んだ」という日本人に会ったことがない。

この際、檀君神話の全文(金思燥訳の『完訳・三国遺事』)を示そう。
全文といっても、それは分註を含めても漢字で四百字弱しかない。
「たった、これだけ。嘘だろ」
と言われかねないほど短い。
私なりの訳文を示そう。
(金思偉の訳とは、細部で異なる)

《『親書』によると、今から二千年前に檀君王倹が現れて、阿斯達 (『経』によると無葉山、または自岳といい、白州の地にある。あるいは開城の東という。今の自岳宮のことだ) を都とし、国を開いて朝鮮と呼んだという。

(※李朝が明王朝に名付けて貰ったのが事実)

高(中国の古代伝説に出てくる五帝の一人である「尭」のこと。東洋の近世までの文筆習慣で、自国の王の諒=没後の誼号=にある字を避けて別の字で表記した)と同じ時代だ。

「古記」によると、むかし桓因 (帝釈=天帝ともいう) の庶子である桓雄はしばしば天下に思いをめぐらしては、人間社会を非常に欲しがっていた。

(※ニニギ命は庶子では無い。
人間社会を欲しがってもいない)

父は子の心を知り、三つの高い山の一つである太伯を見下ろし、人間に益を広めるべしと結論した。
そこで桓雄に天符印三個を授け、人間社会を治めに行かせた。

(※三種の神器と、印鑑三つの天符印三個は明らかに異なっている)

桓雄は歩兵三千を率いて、山頂 (即ち太伯山、今の妙香山) の神檀樹の下に降りた。
ここを神市と言い、これが桓雄天王だ。
風の神、雨の神、雲の神を将いて、穀、命、病、刑、善、悪など、およそ人間の三百六十余事を司り、人間を教化した。

時に、一頭の熊と、一頭の虎が同じ穴に住んでいて、人になることを願い、桓雄に向かって常に祈った。

ある時、桓雄は霊験あらたかな艾一束と蒜(ニンニク)二十個を与え、
「お前たちがこれを食べ、日光を百日見なければ、人の形になれるだろう」
と言った。
熊と虎はこれを食べ、忌むこと二十一日(訳註=三×七の意)で、熊は女身になった。
虎は忌むことができず、人身に変われなかった。

しかし、熊女と結婚する者はなく、熊女は檀樹の下に来ては季むことを願った。
そこで桓雄が人に化けて熊女と結婚し、子を産んだ。
それが檀君王倹だ。

檀君は唐高(尭)の即位から五十年の庚寅 (唐高の即位元年は戊辰であり、五十年なら丁巳であり、庚寅ではない。本当のところは解らない) 、平壌城を都とし、初めて朝鮮と称した。

やがて都を自岳山の阿斯連、弓 (方) 忽山、今禰達へと移した。
その国は一千五百年続いたという。

周の虎王(武王のこと)が即位した己卯、箕子(殷王の親族に当たる賢者)を朝鮮の支配者に任ずると、檀君は蔵唐京に移り、後には阿斯連に隠れ戻り山神になった。
没した時は千九百八歳だった。》

◆「新羅」と「倭」を入れ替えると……
雀南善が言う倭に関する部分を要約すれば、まさに《対日OINK 史観》だ。

《倭王あるいは天皇の出自に直結するわけではないが、今日の韓国には、列島に対する独特の偏見に満ちた史観がある。

それらを体系化したのは、韓国の歴史家、雀南善(1890~1957年)だと思う。

彼が終戦直後の1945年12月に上梓した『物語朝鮮の歴史』(山田昌治訳、三一書房、1988年。原題は『国民朝鮮歴史』)には、”倭” について次のようにある。

「新羅の海を越えて向こう側に大小のいろんな島があり、昔から海にさまよう種族が棲みついた。
また一方、半島と大陸に大きな変動があるときはいつも、避難民が渡っていって住んだ。
ここを倭といって、その人を倭奴と呼んだ」

「倭はおそくまで文化が開けず、四方の流萬民が群れをなすように住んだので、我が国から渡った人が、農耕・灌漑・紡績・織組・蚕桑・土器製造・醸造・造餅・碾磑・建築・造瓦・架橋・鑿池・裁縫・画家・彩色・彫刻・製皮・連金・器具製造・鷹猟等のあらゆる技術を伝授し、だんだん開明していった」

この一節だけ読んだら、文化・芸術の領域には、もう何も残ってないように思えてしまう。
しかし、改めて見れば、造船、漁業、林業、木地加工などは入っていない。

「倭はこのように、あらゆるものをわが国からとりいれていった。
とくに、鉄・銅・金・銀等をわが国から得ていったので、彼らはふつうわが国のことを『金銀宝国』といったし、また欲を張って盗んでいく話が、日本の神話の頭にすでに出てくる」

はて、『記紀』の頭の部分に「盗んでいく話」などあっただろうか。

「倭の民は、自分たちの種族が朝鮮から渡ってきたと考えて、われわれをまた妣国(ハハノクニ)と呼ぶことがあった。
また、太古からわが国の人が多く流入して住み、とくに東海(日本海)の向こう側の、いわゆる山陰地方には新羅の植民地が多く生まれ、その時の遺跡や古物をいたるところで探すことができる」

北朝鮮の ”戦略的歴史学者” である金?亨が1963年に発表した論文「三韓三国の日本列島内の分国について」(以下、「分国論」とする)は、
戦後の《左翼反動》の動きに苛まれていた日本の古代史学界に、大きな影響を与えたとされている。

「分国論」とは、簡単に言えば、
半島の古代三国(新羅、百済、高句麗)は列島内にたくさんの分国や植民地を持っていた。
神功皇后の新羅遠征も、倭の五王が宋の皇帝に対して軍事支配圏の認定を要求した百済、新羅なども、実は列島内部にあった分国や植民地のことだった、
とするものだ。

これが当時の日本の史学会から「目から鱗が何枚も落ちる学説として評価されたらしいが、金?亨より18年も前に、崔南善は「分国論」の骨格とも言える説を提起していたのだ。》

①半島や大陸からの逃亡民が倭国を造った。

②倭奴は蒙昧で、半島から行った民があらゆる文化文明を教えてやった。

③新羅は列島に多数の植民地を持っていた。

今日の韓国人の多くは、この〝対日OINK 史観〟に染まっている。
しかし、この①~③をよく見れば、すべて『三国史記』や中国の正史が記していることを、逆さまにした内容であることが解る。

「新羅本紀」は冒頭で、
初期新羅の中核国民が「朝鮮遺民」(『三国史記』が編纂された時代の「朝鮮」は、楽浪郡や中国東部を指す)だったこと、
つまり、中国や楽浪郡からの逃亡者だったことを述べている。
その後、新羅の国づくりを指導したのは脱解や弧公だ。
脱解は明らかに多婆那国から追放された人間(卵)として描かれている。


■韓国の偽造史プロパガンダ

正論 2013年5月号
 
当時の朝鮮では迷信・流言の類が非常に多く、医療分野でも劣悪な治療がなされていた。
例えば朝鮮王室では、子供の小便を万病の妙薬と考え、子供を宮中で「便童」と称して養い、国王が危篤になると、その小便を飲ませていた。

スウェーデン人ジャーナリストのアーソン・グレブストがこの頃の半島をルポした『悲劇の朝鮮』(白帝社)によれば、他にも婦人病の治療として牛の糞を塗るとか、腹痛の薬として生きたカエルを三匹丸呑みする、焼いた犬の足を四本食べる、湯に通した海藻を腹の周りに巻きつける、などもあったという。

一九二二年に仏教朝鮮教会が編纂した『朝鮮文化の研究』によれば、病気の治療と称して
「人肉を食うもの、獣をすするもの、男児の陰部を切って食べるもの、生きた子を酒に浸して飲む、女の陰部、男の畢丸などは得難いからといって珍重する。
子供が生まれるときは重病人は外に出す。
すなわち死魔が子供を殺すというのである。
女が死ぬと不作だからと外へ捨てる」
との惨状を伝えている。

日本では韓流ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」がブームになったが、元来の朝鮮医学とはこのようなものであったことを考えれば、“本物のチャングム” が朝鮮国王中宗にどのような治療をしたかは、たいへん興味深いところではある。

◆対馬仏像窃盗の裏側
二〇一二年二月二十六日、韓国の大田地裁は、韓国人が対馬の観音寺から盗んだ観世音菩薩坐像の返還を差し止める仮処分決定を出した。
この仏像が、日本が十四世紀に韓国から略奪したものではないという「批拠」を示せという内容であった。

観世音菩薩坐像は結縁文から一三三〇年に造られ、韓国の浮石寺に安置されたものだと考えられるが、浮石寺は李氏朝鮮における仏教弾圧(一四〇七年)下で存続を許された八十八寺院の中にはない。
浮石寺は遅くとも十五世紀初頭には廃寺となつていたのである。

対馬は朝鮮と長く交易を結んでいることから、この仏像は交易か、朝鮮が廃棄したものを得たかということが推察されるが、日本側にそれを証明せよなどというのは、まさに盗人猛々しいというより他はない。

三月には仏像は自分たちのものだと主張する浮石寺の僧侶が来日し、所有権を主張したが、日本が略奪した根拠を求められると「根拠を示す鑑定書は、仏像を失ったときに、思い出すのが悲しいので捨てた」などとのたまう始末である。

挙げ句には、仏像を返せない代わりにと、境内で売られている八百七十円のマスコットを持参してきたのだから、笑いを取りにきたのかと疑ってしまうほどだ。

仏教には窃盗を禁じる「不倫盗」という教えがあるが、この僧侶らは修行によって煩悩を極めたようだ。……

靖国神社に放火した中国人を日本へ引き渡すことを拒否したように、韓国の司法は政治の顔色をうかがっている。
三権分立という近代国家に当然あるべき精神はなく、司法権は独立されていないと考えるべきだ。

『韓国窃盗ビジネスを追え 狙われる日本の「国宝」』(新潮社)の著者である菅野朋子女史によれば、日本からの窃盗品であれば文化財を捜査すべき警察や鑑定する古美術商もわざと問題としないうえ、韓国によって盗まれた日本の重要文化財は五百八十点にも及ぶという。

麻生太郎副総理は、朴大統領と会談した際に「日本と韓国は共通の価値観を有する大変重要な隣国同士」だと発言しているが、このような価値観を擁する国とどこが共有しているのか教えていただきたいものだ。

◆秀吉軍による略奪行為のウソ
韓国側がことあるごとに言い立てる「文化略奪」の代表的な話が、豊臣秀吉の文禄・慶長の役(明国征伐)である。
だが実際には多くの朝鮮人が秀吉軍の支援をしたほか、ソウルでの略奪行為を率先して行ったのは、朝鮮王朝に不満を抱く朝鮮の民衆であった。

奴隷であった子音同らは、日本軍の先導役となり「本府に引き入れ、軍器・倉穀などの物を略奪し、利を分つ」と積極的に協力したほか、
朝鮮側の史料である『国朝宝鑑』には、「賊初めて入場するや、宮殿焼尽きて、宗廟独り存す」と、秀吉軍が入場する前に朝鮮民衆によって放火・略奪が行われていたことが書き残されている。

南山の北麓、旧朝鮮総督府があった丘を、朝鮮人は倭場基と呼んでいた。
一見、形勝の地であることから、日本軍が城柵を築いたところだと言われているが、実際は市場のあった場所である。
秀吉軍の兵站を担当する武将、増田長盛が駐屯していたため人々が集まって市場を開き、秀吉軍と交易をしたのである。

秀吉軍が朝鮮に来たことで、彼らにキムチなどには欠かせない唐辛子が伝来したほか、キリスト教や田植えの技術が伝来した。
じつは当時の朝鮮では籾種を直接、水田に落としただけで、秋まで収穫をただ待つという田植えが一般的であり、正しく稲宙を植え替えるという方法は、秀吉軍から伝来した方法である。
朝鮮における稲作で日本が果たした功績は大きいと言わざるを得ない。

さらに文禄・慶長の役での略奪行為は、日本軍よりも朝鮮を助けにきたはずの明軍による被害のほうが大きかった。
その最たるものが

「天兵(明軍)、各々我が国(朝鮮)女人を繁る
(中略)
是の如き者、幾んど数万に至る」
(『乱中雑録』)

との記載である。
朝鮮の人々は明軍の略奪を避けて山へ逃げ込み、城中は無人となつてしまった。

また明軍は日本軍のクビを持っていけば出世できるが、日本軍が強いため、日本軍が残した朝鮮人の首をかき集めただけでなく、捕虜までも殺し、日本軍が送り返した朝鮮人の人質さえも首をはねて手柄に組み入れている。

当時と今の日本人の倫理観を同様であるとは言わないが、すべての罪過を秀吉軍に押し付け「日本に破壊された」「日本に略奪された」と根拠もなく主張する言い分には、私たちの先人の名誉にかけて、毅然とノーを突きつけなければならないことは言うまでもない。

◆「朝鮮通信使が文化を伝えた」という控造
二〇一一年四月、韓国釜山に「朝鮮通信使歴史館」なるものが開館した。
「朝鮮通信使が日本に文化を伝えた」と宣伝するためにつくられた施設であるが、朝鮮通信使たちの目に日本はどう映ったのであろうか?

第十一次朝鮮通信使(一七六四年)として来日した金仁謙が書いた『日東壮遊歌』の記録を見てみよう。

《一月二十二日 大阪
(前略)
富貴な宰相らでも、百聞をもつ邸を建てることはご法度、屋根をすべて瓦葺きにしていることに、感心しているのに大したものよ倭人らは。
千間もある邸を建て中でも富豪の輩は 銅をもって屋根を葺き、黄金をもって家を飾りたてている。
その奢侈は異常なほどだ。
(中略)
天下広しといえ、このような眺め、また いずこの地で見られようか。
北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中国の壮麗さも この地には及ばないという。

二月十六日 品川と江戸
(前略)
楼閣屋敷の賛沢な造り、人の賑わい、男女の華やかさ。
城壁の整然たる棟、橋や舟にいたるまで、
大阪城、京都より三倍は勝って見える。
左右にひしめく見物人の数の多さにも日を見張る。
拙い我が筆先では とても書き表せない。》

通信使たちが日本文化の発展ぶりに驚く様子が鮮明に記載されている。
この有様で、一体、日本に何の文化を教えたというのだろうか。

その他にも通信使であった曹蘭谷の『奉使日本時間見録』には、
名古屋人が通信使のために、布団や蚊帳などを揃えようとしたところ、対馬の通訳が
「朝鮮人はよく盗んで行くので知り置くように」
と止めたことが記載されている。
(一七四八年六月二十四日)

彼らが先進文化を日本に伝えたというのであれば、日本文化に嫉妬し、窃盗までしている様をどのように解釈しろというのだろうか。

逆に彼らは日本からサツマイモなどを輸入し、飢饉での飢えをしのぐことができた。
日本との交流で文化の恩恵を受けたのは朝鮮の方である。

◆「韓国が日本の古代国家を成立させた」という捏造
朝鮮半島からの文化流入という捏造は、朝鮮通信使に始まったことではない。
古代史の時代から日本は朝鮮の文化を一方的に受容してきたかのような “演出” がなされている。

一九八一年の韓国高校歴史教科書『韓国2』(邦訳版・ほるぷ出版)には面白いことが書かれている。

「我が国の人々は早くから日本へ渡っていき、各地で彼らを教化するばかりでなく、高句麗系・百済系・新羅系の人々が持っていった新しい文化がその地の土着社会を刺激して、日本の古代国家を成立させた」

あたかも古代日本をつくったのは韓国であるかのような書きぶりに失笑してしまうが、このような認識を抱いている韓国人(日本人も)は少なくはない。

だが百済の武寧王の王墓からは、棺材が日本にしか自生しないコウヤマキでつくられていることが判明したほか、日本の青銅器や銅鏡などが朝鮮半島から大量に見つかっている。

青銅器はこれまで、朝鮮半島から青銅器が伝来したのは弥生時代前期末から中期初頭にかけてであり、明らかに半島のものと異なる青銅器についても、朝鮮半島から渡来した工人がつくつたものと理解されてきた。

だが、慶尚南道金海で一九一七年、日本製の青銅器である中広銅矛が発見されたほか、現在、釜山市の東亜大学校博物館が所蔵する多くの銅矛が、日本でつくられたものであることが明らかになっている。

また韓国から伝来した小銅鏡が北九州などで出土しているが、朝鮮半島でも日本の銅鏡が出土し、釜山大学校や韓国国立慶州博物館などで所有されている。

挙句には一九八三年以降、韓国において前方後円墳が十三基発見されている。
前方後円墳とは言うまでもなく日本古墳の特色である。

前方後円墳は、古墳時代前期には南九州から東北南部へと迅速に拡大した。
辻秀人東北学院大学教授は、その理由として地方首長にとって大和政権と組むことは、自らの支配の後ろ盾として大和王権の力を使えることを意味し、大陸との交流においても有効に利用できるものであったからに他ならない。
その代償として大和政権は前方後円墳とそれに関する葬祭儀礼を受け入れさせたと述べているが、韓国の前方後円墳も同様の意味だと解釈できる。

韓国では日本が古代韓国を統治していた決定的証拠となることを恐れ、掘削機で古墳を破壊するなどの暴挙に出た。
(『朝鮮日報』二〇〇八年五月一日)

埋葬者については韓国の豪族や日本人など諸説があり定かではない部分もあるが、日本の影響が韓国にまで及んでいた重要な証拠であることは間違いない。

全羅南道では、日本の勾玉や直弧文をつけた鹿角製刀装具、珠文鏡などが出土している。
発見場所はいずれも韓国南部で、日本にしかない原石からつくられている。

日本の石を原石とした硬玉製勾玉は新羅国王だけが戴冠できる金冠にもつけられており、それ以外の人物がつける金銅冠には硬玉製勾玉が付けられていない。
これは新羅王が当時、日本の後ろ盾を得て権威を示威したいという思いから得たものであり、日本自体が権威の象徴であったことを示している。

鉄器にしても韓国から日本に伝来したというが、日本では紀元前三世紀~四世紀には福岡県糸島市の石崎・曲り田遺跡から鉄斧が見つかっている。
韓国での鉄器の始まりも紀元前三世紀頃とされており、時期はほぼ同じであり、決して日本が韓国より大幅に遅れていたわけではない。

韓国が鉄を伝えたという説は、四世紀後半、応神天皇の御世に百済から韓鍛冶 卓素が来朝し、敏達天皇十二(五八三)年に新羅から優れた鍛冶工を招いて技術を受けたという記録が根拠となっているのだが、これは日本において技術革新が行われたことを指していると私は解釈している。

実際に大量の鉄器が日本から見つかるのは六世紀以降であり、おそらくそれまでは製鉄が行われていても、小規模な仕組みであったと考えられる。
そこで渡来人の技術を用いて技術革新をしたのだと考えれば、『古事記』や出土史料などと照らし合わせても納得がいく結果になる。

韓国は日本に文化を伝えたと一方的にほくそ笑むのは勝手だが、最低限、自国の歴史くらいは理解しておかないと恥をかくだけだ。
 
 
◇国内に出土例ない銅剣の「鋳型」
1組がほぼ完全な形で出土
産経新聞 2013/08/09
弥生中期-古墳時代初め(紀元前4世紀~紀元3世紀)の短剣の鋳型が、滋賀県高島市安曇川町の上御殿遺跡で見つかった。

柄の先に円形の装飾が並ぶ「双環柄頭短剣」の鋳型で、中国・華北や内モンゴルに分布するオルドス式短剣に酷似し、この形式では国内初の出土という。
銅剣は、朝鮮半島から九州北部に伝わったとされるが、オルドス式は朝鮮半島に出土例がなく、中国大陸から日本海を経て直接もたらされた新たなルートが浮上。
青銅器文化のルーツを探る貴重な資料になりそうだ。

鋳型は泥岩製で、2枚1組がほぼ完全な状態で出土。
いずれも長さ30センチ、幅9センチで、柄頭から剣先まで全長28センチの銅剣を一体的に鋳造する構造だった。

ただし、鋳造に伴って高温の熱を受けた痕跡がなく、河川跡の斜面に置かれた状態で見つかったことなどから、実際に銅剣を製造せず、祭祀に使われた可能性もあるという。

弥生時代の銅剣は、九州北部のほか、国内最多の358本が見つかった荒神谷遺跡(島根県出雲市)など中四国地方で多い一方、近畿は出土例が少ない。

上御殿遺跡は、福井・若狭湾まで約30キロと比較的近いことから、日本海を通して中国と交流した可能性が浮かび上がった。

琵琶湖北西に位置する上御殿遺跡は、奈良や大阪と北陸を結ぶ古代の幹線道路沿いで、琵琶湖の港も近く、陸と海の交通の要衝だったとみられる。

◆竹島は韓国領土という捏造
先日、訪日した朴模恵韓国大統領と近い人物と酒を酌み交わす機会があった。
彼は「日本は、独島(竹島)は日本の領土だと主張するが、我々は対馬を譲ってあげているのだから、そんなに独島が欲しいなら、対馬は私たちが貰って当然だ」などと主張しため、
「対馬が韓国の領土など片腹いたい。
仮に韓国の領土であるならば、元寇のとき、韓国は対馬で虐殺行為を行い、女子供の手に穴を開け数珠つなぎにし、船の盾にして攻めてきた。
日本を攻めるのに、自国民を虐殺したうえに数珠つなぎにするとは、韓国は随分と奇天烈なことをなされる民族なのですな」
と言ったところ、閉口してしまった。
 

■韓国の犯罪者の扱いと拷問の写真

『真面目に韓国考察Net』より
 
 
 
これは、日本統治前まで行われていた。
 
上の写真を見た後に韓国が作成した「日本軍による韓国人拷問」を見ると、明らかに朝鮮半島伝来の拷問方法であったことが解る。
つまり、日本は韓国人に拷問をしていないし、やったとしたらそれは朝鮮人自身である。
日本にはこのような習慣は無いからだ。


サルメラ:
日本軍が悪逆非道な行為をしなかった、と言いたいから、コピペしているのではない。
戦争は人を悪鬼にさせる。
日本軍もまたしかり だろう。

考証としたいのは、
かの国の、かの国自身のスタンダードまでをも日本人の所業にすり替えるという、
これまでもたびたび見聞きしている かの国の〝捏造癖〟のありようについて。

宮藤官九郎/ごめんね青春!

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『ごめんね青春!』
 
 
青春、
それは神様からレンタルしている貴重な時間。
コメディでも、シリアスでも、ホラーでも、
いずれ返却しなくちゃいけません。
いい歳してしがみついてると、高い延滞料金を払わされます…
 
 
 
有名なイギリスの詩人の言葉だそうです。
 
『愛するに値する相手かどうか、考える前に愛せよ』…
 
先生ならこう訳します。
 
『好きにならなきゃ、好きな理由はわからない』
 
まず、好きっていう気持ちが芽生えて、相手のことをよく見るから、好きなところに気づくワケです。
 
やさしい人が好きっていう女ほど、人のやさしさに気づかないんです。
それは、やさしい人っていう条件で男を探してるからでしょ?
好きな相手なら、何をされても、やさしい、って感じると思うの。
 
好きにならなきゃ、好きな理由はわからない…
だったら、直感を信じてみませんか?
理想と違うからとか、条件が合わないからとか、
そんなの時間のムダ。
人生一度きりなんです。
ガッツいていこう!
 
 
腑に落ちないくらい我慢しなさい!
腑に落ちないのが青春なんだから。
つまり、
腑に落ちたら、忘れちゃうってことだ。
大人になって思い出すのは、腑に落ちない思い出ばっかりだ。
それが青春!
 
 
「寒い」…
 
冬は寒いから転じて、
つまらないギャグで場の空気が凍ることを言います。
元は芸人さん同士の隠語でしたが、今では辞書にも書いてあります。
「スべる」も、そうだな。
 
先生な、これ、やさしさから生まれた言葉だと思うんだ。
「つまらない」とり、「寒い」の方が、なんか、こう、救われる感じ、しない?
 
「寒い」の反対語は、「熱い」だろ。
 
あえて言いますが、『文化祭』なんて、基本的に「寒い」です。
しょうがないよ。
プロじゃないし、高校生なんだから。
 
でも、「つまらなく」はない。
 
寒いけど、つまらなくはない。
 
だから、みんな、見てあげてください。
「寒いところ」を。
 
やる方も、寒さを恐れず、しっかりやれ。
寒いことやってる奴の方が、寒いってバカにしてるより、「熱い」!
 
何故だかわかるか?
寒いって笑ってる連中は、所詮、外側にいるからだ。
先生も学生の頃、冷めてたから、楽しんでる連中を外側から眺めてた。
熱くなってるの見て、「バッカじゃねえの」って、笑ってた。
…そんな、寒い奴だった。
 
参加しても寒い、
参加しない奴はもっと寒い。
だったら、参加したほうがいいでしょ。
しっかり厚着して、寒さを乗り切りましょう。

ルーツ・ファンタジー/すべての宗教は一つだった

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転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

★すべての宗教は一つだった
日本にユダヤ教が伝来していないように見えてしまうのは、ユダヤ教の用語と仏教用語が同一だからです。
このことについて話を始めましょう。

古代中国では、ユダヤ教の用語を漢字に取り込み、後に伝播した仏教がこの用語を拝借した。
更に、孔子は旧約の教えを儒教とした。しかも、唐の時代に景教(ユダヤ教の一派で、イエスを人間とする原始キリスト教)が大流行し、ユダヤ教、仏教、密教、景教に同じ用語を当てたので、支那から輸入された文献からでは、神道は別として、日本では区別がつかなくなってしまった。

そして、秀吉の世に渡来したキリスト教徒による布教は、大成功した。
見かけや用語の違いからキリスト教と密教が元が同じものだとは誰も思わなかった。
キリスト教の元祖がユダヤ教や儒教だとは誰も思わなかったし、旧約の教えが漢字に込められている事も忘れ去られていた。

当時の日本は、政治体制を脅かさない限り、どのような宗教も黙認していた。
個人の信仰の自由が保護され、宗教の坩堝で有った。

元は同じ神の教えが、漢字(旧約)や、密教(景教)や、儒教(ユダヤ教)や、神道(ユダヤ教)というように表面的に形を変え、日本に定着し、別のものとして区別して考えられた。

この為、旧約の物語を漢字として創作したように、キリスト教の用語を新たに日本語として創作した。
その結果、これだけの、密教、キリスト教、旧約、神道などなど多数の宗教が乱立してしまった。



一方で、国家体制としての神道は温存され、密教は葬式宗教・役所(国分寺)に落ち着いた。

一方、僧侶は密教を、神官は神道を、武士は武士道をここばらばらに教えるのではなく、日本式儒教(大和魂、真を最重要視する)を、日本人としての心と躾を、寺子屋を聖域と見なし庶民にも教えた。
ここに、日本人がユダヤ教徒としての魂を温存できた政治体制があった。

「寺」は仏教の寺院という意味ではない。
十字の上に土が在る。
十は人の意味で、十字に点は神の人の意味、土は神から造られたアダムを意味し、土から人を造る事を意味している。
子もまた同じで、十字の上に人で、教養ある人間を意味している。
だから、「寺子屋」なのです。

すべての宗教の元は一つであり、神の心が一つである事を実感しました。
というのは、日本国体では「まこと」を最重要とする。
「まこと」とは、即ち私心を離れた純粋の心、純粋な行いの事です。
「まこと」は芸術に現われては美と成り、徳としては善と成り、知識においては真と成る。
真善美を生み出す根源だと解釈されている。

また、「まこと」は理性と感情の根源で在るが故に、智仁勇として現われ、相手を滅ぼす為の戦争ではなく、戦争の目的を和とするに至るのです。


■古代エジプトの風俗・宗教概要
日本神話の源流がここにあった

エジプトの天創造神話は、シュメルのエヌマエリッシュと同質で、ラーによる天地創造の直後、四組の神々が出現する。

このエジプトの神話体系は日本の天御中主を中心とする神話体系、及び伊弉諾の右目から天照大神が誕生する神話とそっくりで、“天”を“アメ”と読むのはアメンが訛ったものだと思われます。

さらに、伊弉冉が死者の国の食べ物を食べたので、現世に帰れないとする神話もまた、死者の国で死者の食べ物を食べて永遠の命を得るとするエジプト神話が元になっていると思われます。

他にも、埋葬時に一緒に埋める定型の人形は、私にはコケシに見えてしまいます。
エジプトには、今日の吉凶を占う神籤に相当するものまで存在していました。

またエジプトには、創造主が創造活動で物質を生み出す力が「神の言葉」であるとする神話があります。
加えて、プタハは名前をつけることで天と地を分け、光と闇を分けたとあり、これらの神話が旧約聖書の天地創造の物語のタネになっているのは明らかだと思います。

エジプトでは手工業が盛んで、特に金属加工はプタハ神が力の源を象徴している。
様々な金属は彫刻や建築に利用され、プタハは独創力や工芸・建築の守護神とみなされた。

フリーメイソンはコンパスと定規をシンボルとしていますし、
そして、2000年前のイエスは大工であり、聖徳太子は大工の祖とされていた。


■古代エジプトの生活
画一化された彫刻に見るエジプトは、ピラミッドと共に卓越した文明を、現代の私たちに見せつけています。
しかし、死者の書による怨霊支配とは無関係に、庶民の生活は神との親愛感と共に華やぎ、豊かだった。
その一端をご紹介します。

彼らの生活には、転生輪廻の発想は無い。
日本神話と同じです。
伊弉諾伊弉冉はヒルコの誕生に困惑し、高天原の親神に訪ねる。
古事記では親神は深慮の末に返答する。
日本書紀では占って返答する。
アヌンナキの神々は決められないときに籤を引いた。

つまり、日本神話には全知全能の神も絶対神も存在しない。
さらに神々の誕生は植物のような生命が根源であり、進化論を受け入れる基盤が整っていた。
シュメルの人々も、古代エジプトの人々も、神々は生きた人物で有り、神々との関係において、日本神話と同じ基盤を有していたのです。


■ヤハウエとゾロアスター教

ゾロアスター教はイラン人ゾロアスターが説いた宗教である。
現代のイランはイスラム教であるが、それ以前はほとんどがゾロアスター教であった。
その教えを紹介する。

宇宙には元々対立する二つの霊が存在していた。
この二霊は全く無関係であったのだが、はじめて邂逅(かいこう)した時、一方の叡智の霊(アフラ・マズダー)は善と生を、対立霊は邪悪と死を選択した。
その後、この邪悪な対立霊を滅ぼすための戦いの場として、叡智の霊はこの宇宙を創造した。
この両霊の対立抗争が、自然現象や人間同士の軋轢の原因であるとされた。
叡智の霊を中心に、他の六神を加え、大いなる七神が存在している。

メシア・キリスト教同様に善悪二元のゾロアスター教ではあるが、古代宗教や他の宗教には寛容で、その広まりと共にミスラとアナーヒタの両神との共存を続けていた。

そして、司祭は訴訟やもめ事を神判する判事であり、各地方に祭司が点在し、集団の中心となった。
また、祭司の教育、神事や神判の書記を育てる学校が必要になり、そこでは聖なる教えの伝承が行われていた。
また、王の行政や立法への祭司の助言が求められた。
宗教を中心に、司法・律法・行政を有する王国へと発展していった。
このように宗教は古代国家の中心であった。
だから、非妥協的な教義を持つメシア・キリスト教と他の宗派間において、個人同士は憎しみあい殺し合う。
国家間でも同じだった。
しかし、ゾロアスター教は他の宗教に対して寛容だった。

古代日本は神道を中心とする宗教国家だった。
にもかかわらず、その教義と司祭の神判についてほとんど記録が無く、
唯一 “和をもって貴しとする” の精神だけが明記されている状況である。
もし、神道の教義と神判の実例が、江戸時代の武家諸法度,式目のように残っていれば、大和国の本当の姿が現代にまで伝えられたことだろう。
そして、私達日本人が大和国の成り立ちを見つけ出した時、現在も世界で続いている宗教国家間の対立抗争を正しく捉え、自国の歴史についても左翼史観から抜け出して多面的に見ることができるようになるのだと思う。



新バビロニアの神々、エジプトの太陽神、イランのゾロアスター教は、どれも教義が異なり、寛容な姿勢がないかぎり、融和しない。
これは宗教による天下三分の計だと思う。
これが国家であれば、二国が共謀し残りを滅ぼすことがあり得るが、宗教の場合その心配は無い。

ローマ・エジプトのメシア・キリスト教、イランのゾロアスター教、アラブのイスラム教は、やはり、どれも教義が異なり、寛容な姿勢がないかぎり、融和しない。
これもまた宗教による天下三分の計だと思う。

蛇足ですが、イランのイスラム教・シーア派は、イラン固有の古代宗教とゾロアスター教の風習を多く取り入れたイスラム教のことです。


■ヤペテ帝国、モンゴルと日本

中東ではイエスの時代から現在までも宗教戦争が続いており、いつ終わるのかは誰にも分かりません。
ところが、キリスト教、景教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、ヒンズー教が共存し、しかも多言語多人種の国家が、13~14世紀にかけて人類史上最大の帝国として存在していました。
また、古代日本においても、宗教の共存、多人種が共存しておりました。
この人類史上最大の帝国と古代日本には、共通して懐の深いところがあったのです。

かつてロシア中東を包含した人類史上最大で最初の世界連邦・モンゴル帝国が、遊牧民族により建国されていました。
彼らこそがヤペテの子孫だったのです。
そのモンゴル帝国は、約二世紀の間世界を支配し、その後、ロシア帝国、大清帝国、オスマン帝国、ティムール・ムガル帝国へと分かれてしまいました。
神聖ローマ帝国を除いて、これら帝国群はモンゴル帝国の末裔だったのです。

そしてモンゴル帝国が形成されていく過程と、その統治方式が、武士が台頭して江戸体制が完成する過程に似ています。
更に、世界に対する役割もまた似ているのです。
これから紹介するモンゴル帝国については、主に『モンゴル帝国と長いその後』を参照にしています。

◇ 

『太古日本の王は世界を治めた!』
から抜粋

福井県鳥浜遺跡から、エジプトテーベ朝(第十八王朝)の女王が身につけていた櫛とそっくりな櫛が出土している。

他にも、西アフリカのナイジェリアやガーナでしか自生しない ”ひょうたん” の種子が大量に出土している。

また、インド原産の ”緑豆” の種子もたくさん見つかっている。

中尊寺に祀られている奥州藤原家三代のミイラは、アイヌの秘法に従って作られたが、六重の棺に遺体を納めたその葬法は、かの黄金のマスクで有名なエジプトの葬法とまったく同じ。

インドのタミル語については、日本語と文法や言葉が一つ一つ法則的に対応することが、すでに学習院大学の大野名誉教授(国語学・言語学)によってほぼ完全なかたちで証明されている。
つまり、大和民族の一部、おそらく神武天皇はインド経由で渡来した。


◆遊牧民族の風習と風俗
アブラハムを始祖とするイスラエル人は遊牧民族とされています。
つまり、乾燥した大地の草原にヒツジなどの家畜を放牧しながら、季節と共に移動する民のことです。
固定した国境を持たず、草を求めて国から国へと移動する民族は、オアシスなどの周囲で農業を営む部族や国を渡り歩き、家畜と食料を交換したり、ある時には村々を襲って食料を略奪していました。

そのような小集団がばらばらに、ユーラシア大陸にも散らばっていたのです。

騎馬遊牧民の元祖は、黒海からカスピ海の北の草原に勢力を誇ったスキタイ・サカ族です。
かれらは、一部族では無く、多くの部族を束ねた連合体でした。
彼らは、カッシート王国を築き、前千年頃にはバビロニアを征服しており、しかもシルクロード・草原の道を通じての交易で繁栄していました。
その後、月氏国を建国しています。

スキタイ・サカ族は、シルクロードを通じてユーラシア大陸の遊牧民に影響を与えます。
例えば、明王朝を恐れさせた騎馬遊牧民の大連合・匈奴です。

スキタイについてはヘロドトス、匈奴については司馬遷に記述があります。
そして両者の記述から、モンゴル高原の匈奴と黒海北方のスキタイが、シルクロードを通じて、均質な文化を保持していたということが分かります。
モンゴル帝国時代、情報ハイウェイが完備され、モンゴル帝国が一から建設した北京~フランスまで約四ヶ月で情報が伝達されていました。
ですから、イスラエル人,ユダヤ人が日本に渡来することも、シルクロードの遊牧民族を道案内にすれば案外たやすいことだったのです。
そして、スキタイ・サカ・匈奴は、イスラエル人同様に、バビロニアのマルドウクと月神を祀る民族なのです。


◆モンゴル帝国の影響
騎馬遊牧民族は、家畜を放牧しながらの移動で、山賊や他部族からの襲撃に備えなければならなりませんでした。
そのため、部族内の結束と規律は固く、男は兵士として育てられました。
つまり、民族の移動とは、軍・食料・家族・財産などの全ての移動であり、常に臨戦態勢の国家が移動しているのだと思えばただしく理解されると思います。

この遊牧軍事体制において、スキタイを引き継ぐ匈奴は、君主を中央にして、左翼と右翼に軍を分け、整然と遊牧を進めていた。
この君主・左翼・右翼の三極体制、そして十進法による軍事・社会組織を二大特徴とする国家システムが、ユーラシア遊牧系国家の基本システムとなりました。

バビロニアや中東の戦乱を逃れ、ユーラシア大陸に移動してきた民族は、イスラエル族も含め、騎馬遊牧民族と融合しながら、シルクロードのオアシスなどに国家を建国してゆきます。
騎馬遊牧民族からの防衛のために、国家では騎馬遊牧民族を傭兵として雇い、国防を任せていました。
そしてこの国家間を、騎馬遊牧民族が情報や物を交換しながら移動していたのです。

この様子は丁度日本で武士の勃興に似ています。
室町幕府が国軍を廃止し、各国ごとに防衛のために武士(騎馬遊牧民族)を雇います。
この武士が互いに連絡し合い、国を超えて、源頼朝(チンギス・カーン)を総大将とし幕府(モンゴル帝国)を開きます。
織田信長は日本を、女性の一人旅でも安全な国に作り替え、楽市楽座で商業を発展させました。
おそらく、騎馬遊牧民族を従えたイスラエル10部族やユダヤ人は、家畜と馬を捨て日本に渡来しました。
その時、ユダヤ人に同化した騎馬遊牧民族は、家畜と馬を捨て日本に渡来し、その末裔が忍者や武士階級、松尾芭蕉のような転々と移動する人々だったのでしょう。

騎馬遊牧民族は軍事力を全面に、多人種、多言語、多宗教を容認する柔軟な政治システムにて、ユーラシア大陸の各国々を取り込んだ形になったのです。
ですから、国から国への移動に関しては、道や馬や海路が整備され、しかも安全が確保されました。
そのため、モンゴル帝国時代には、西洋を含め洋の東西で人物金と文化の交流が一挙に進みました。

当時のフランク王国は聖地イスラエルの奪還のために、十字軍を送り出していましたが、結局は決着がつかない状況で、十字軍は打ち切られました。
例えば、当時のモンゴル帝国の地図にはユーラシアと西洋、及びインドを経由した海図までが書き込まれていました。

やがて、モンゴル帝国が衰微していく中で、その末裔であるロシア帝国、ムガル帝国、大清帝国、オスマン帝国の時代へと移行してゆきます。
そして、キリスト教圏では、暗黒のキリスト教時代を抜け出し、ルネッサンスを経て大航海時代へと大きく移行して行くのです。

結局、日本が大東亜戦争にて、東亜の国々を西洋の軛くびきから解放したように、モンゴル帝国はメシア・キリスト教の軛から解放したのでした。


◆モンゴル帝国の基盤と大和民族
さて、モンゴル帝国の正史 (集史) 他から、彼らの宗教と風俗について列挙してみました。
これを読まれれば、どこか古代日本=大和時代にそっくりではないかと思われることでしょう。

モンゴル帝国の宗教は、日月星を中心とする、マルドウク・月神信仰が根底にあり、中心と六名の合計七名の支配体制は天界の七大天使の構成そのものです。
しかも、各大天使には四名の天使が付き添っており、この四方向を天とする思想は古バビロニアに由来しています。
加えて、男子男系の皇統も同じです。
遊牧の厳しい生活では、軍規・規律が常に求められ、その組織は天界を体現し、何事も合議制で決めています。
このような生活自体が無意識のうちに、天界への信仰を表しているのです。
固定した土地を持たないが故に、一緒に行動する人を「仲間」とみなし、宗教・言語・文化にこだわらないのが、特徴です。
それが故に、人類史上最大の大帝国を築き上げ、メシア・キリスト教の暗黒時代に終止符を打ったのです。

一方、日本に渡来した大和時代の有力氏族と遊牧民族との間に、多言語・多宗教・多文化をまとめる聖徳太子の “和の精神” と “冠位十二階” と “合議の精神” が共通していることに驚かされました。

また、この序列をつけない合議は、中世武士団でもしばしば見られました。
そして、江戸時代には、政教分離・幕藩体制を中心として、各宗教・宗派が共存していました。

皇室と同じように、モンゴル王家は血統と血筋を非常に大切にしており、後継者は男子男系です。
ですから、ロシア帝国と大清帝国は、モンゴル王家から嫁をもらい婿として血縁関係を深め、統治の正当性としたのです。
しかし、男子男系では無いために、ウルスを名乗ることはできませんでした。


◆「チュルク」
 ユーラシアの内陸部に大きく広がる人々を、一括して「チュルク」だと述べている。

つまり、ロシアから中国まで、モンゴル帝国内に点在する遊牧民族は全て同じ民族だ、ということ。

◆「モンゴル」とは一つの種族では無く、多言語・多人種・多文化の人々のこと。

◆「仲間」
敵方の人間・部族・国などを吸収する時、「仲間」になるかを選択させた。

「仲間」なにれば、言語・人種・文化に関係なく、彼らの一員として認められた。
遊牧民は固定した土地を持たず、一緒に集団で行動する人達を「仲間」とし、その「仲間」の総体を国と見なしていた。

モンゴル帝国には人種差別はほとんど無く、能力、実力、知恵、技術、才能など、人に勝る能力があれば、どんどん用いられていた。

だから、信じられないことに、モンゴル帝国には、キリスト教集団、景教集団、イスラム教集団、仏教集団、ユダヤ教集団、ヒンズー教集団が、共存していた。
このようにして、各地域の遊牧民を取り込みながら、国々を帰属させていった。

◆モンゴルの支配は、信教の自由をはじめ、基本的にどの地域でもゆるやかで、徴税も他の時代よりも低率だった(十分の一税)。

◆モンゴル帝国では、遊牧軍事体制を国権の中心に据え、
財務・行政にユダヤ・イラン人などの多人種の官僚組織、
各宗教・宗派ごとの聖職者組織を、
国家・社会の柱とした。

◆円座による合議制
強烈な一族の結束に基づき、部族単位の社会をとりまとめる長老達の会議は、
円座しながら合議制で決定・判断される。
円座する理由は、会議に集う者には上下の関係は無く、皆対等だということを意味している。
そして、部族を超えた大会議では、色服により区別された。
また、円座に飲食が加われば、宴会の意味にもなる。

キリスト教暗黒時代の神聖ローマ帝国時代、十字軍を繰り返し、イスラム共に消耗していた。
そこに、ヨーロッパと北京を4ヶ月で結ぶ情報ハイウエイと交通網が整備され、
宗教の共存、多人種、多言語国家で、活気あふれるモンゴル帝国が圧倒的な強さで出現した。

暗黒時代のヨーロッパは、モンゴルと比較にならないほど非科学的だった。
日本で言えば黒船到来と同じで、この暗黒時代の転換期をもたらし、キリスト教の軛を断ち切り、ルネッサンスへと向かわせたのが、モンゴル帝国でした。

大和国の有力氏族は渡来人達で、彼らはシルクロードを通じて、ユーラシア大陸を横断するのに騎馬民族の軍事力と道案内を借りなければなりませんでした。
ですから、イスラエル、ユダヤ、バビロニア、等々と騎馬民族文化とはシルクロードで融合していたのです。


■孔子誕生と諸子百家
「儒家」は葬儀業者として出発した。
春秋時代の六世紀半ば、魯国に生まれた孔丘(孔子)は儒家の祖とされるが、そもそも「儒」とは祈祷や葬送儀礼を職業とする「巫祝(ふくしゅく)」(シャマン)をさすことばであった。

「儒」はもともと「雨がやむのを待つ」「非活動的」という意味で、祭祀や儀礼をつかさどる人を、その態度や服装から「儒」といった。
のち孔子学派を批判する者が、その説を迂遠かつ非実用的であるとしてあなどり、「儒」と呼んだのである。

それから百年ほどのちに孟子が自己の学説を「儒」といいはじめ、孔子学派も儒を自称するようになった。

原始儒教の巫祝は、葬儀業者として遺族がおこなう葬礼にかかわっていた。
宗教としての儒教では、精神の主宰者「魂(こん)」と肉体の主宰者「塊(ぱく)」が一致しているのが生きている状態で、
「魂」が天上に、「塊」が地下へと分離するのが死である。
命日には頭蓋骨を生者の頭にかぶせて死者になぞらえ、魂塊を憑りつかせた。
やがて頭蓋骨が仮面となり、身代わりの人間が木の板にかわって位牌になった。

孔子のいう「孝」とは父母への敬愛、子孫を生むということを意味するだけでなく、祖先にたいする祭祀(招魂儀礼)を第一義とするものであった。
また、孔子は音楽を重要視したが、これも儀礼には音楽がつきものであったからである。

孔子は礼楽(礼節と音楽・文化)の専門家となり、「詩」と「書」を文献学的に整理統合し、行政官僚の教養を授ける塾をひらいた。

その後、性善説をとなえる孟子や、性悪説を主張する筍子によっで政治思想が深められ、また、徳をもって治めるのを理想とする儒家の徳治政治にたいして、筍子の弟子であった韓非子が法家の立場から法治政治を対置するようになった。

儀礼・葬儀を重んじる儒家にたいし、墨子(墨家)は「礼」の簡素化を主張し、
音楽は「非生産的」であると批判した。

また、儒家の「孝」のように親子や家族の関係を重視するのではなく、すべての人をわけへだてなく愛する、いわゆる「兼愛」を説いた。

いつの時代の人か、その実在さえたしかではないが、老子がひらいたとされる道家は、孟子と同時代の荘子に受けつがれた。
これはむしろ世俗を去って隠遁生活をすすめるものであった。

大小あわせて二百ともいわれる多くの国が五百年以上にわたって争いをくりかえした変転きわまりない時代が、儒家、墨家、法家、道家、孫子の兵家などの「諸子(子は先生の意)百家」を生む背景であった。

孔子の祭祀・儀礼・雅楽は、秦氏の役割とほぼ同じですが、秦氏は孝を最優先はしていません。

孔子の行き過ぎた「孝」は、孔子の心理的な要因がそのようにさせたのでしょう。
おそらく、親族との離別への苦悩を経験したからだと思います。
だから理念的なのです。
ですから、「孝」を優先する故に、親族が犯罪を犯しても、これを庇うのが当然とされ、公よりも私が優先されてしまった。
十戒には「汝盗むなかれ」「汝姦淫するなかれ」「汝殺すなかれ」といった「私」よりも「律法(公)」に従う掟があったのだが、これが抜け落ちてしまっている。
この歪みを正すべく、墨家、法家、道家、兵家などが現れたとも考えられるでしょう。

◆雅言
漢字で綴られた雅言の特徴は、名詞や動詞や性や数詞や時制の区別、接頭語も接尾語もなく、「てにをは」もない。
しかも、読みは「諸子百家」でばらばらで、互いの学派でどのように読んで良いのか分からなかった。
日本では漢文に返り点や「てにおは」を入れ独自の読みをしたが、
現在の中国人は論語は読めないのです。


■秦国(Chin)と秦氏
前770頃に周の時代が崩壊し、春秋戦国時代から、前221年に秦の始皇帝が中国を統一します。

前606年頃、長江の中流に勃興した「楚」は、周などの中原からすれば文化と民族を別にする夷狄(いてき)に当たります。

楚は高床式家屋に住み、稲作を行う民族で、祖先は周と同じとされています。

そして、前721年に北イスラエルが滅亡しており、個人的には、イスラエルの十氏族の末裔である楚が秦により征服される時、日本に亡命し稲作文化を伝えたのだと推測しています。

同時に、前700年頃、ユダヤ人であるイザヤの民が日本に直接移住しています。

秦はメディア人による王国で、儒教を弾圧しています。
そして、弾圧に耐えかねて “秦一族” が日本に渡来しています。
ちなみに、この秦(Chin)がインドに伝わりChinaになり、ドイツ語のChinaの語源となった。
支那についてもChinaを漢字音で移したものです。

天下を統一した秦は、楚を漢の地に封じます。
そして、秦が崩壊すると、周の後ろ盾により楚が挙兵し、秦を滅ぼして漢を建国します。
従って、漢はイスラエル十氏族の王朝です。

また、随文帝、唐の高祖は、軍人であり騎馬民族の血統です。

同じく、宋の朱全忠もまた反乱軍で、賤民でした。
それゆえ、彼は宦官と漢民族の貴族を皆殺しにしました。

その後の、元はモンゴル帝国、大清はモンゴル帝国の末裔です。

そして、元の後の明は、貧農の子・朱元璋により、モンゴル帝国の経営を継承し、皇帝の権限を強化しました。

まとめると、ほとんどの王朝が漢民族ではなく、中原中心史観からすれば蛮族とされた北方の遊牧騎馬民族モンゴル・満州族、南方の楚・越・呉の方が、歴史的にはかえって活躍していることが分かります。
しかも、楚が漢に封じられてはいますが、漢民族というその実態は不明のままで、事実はほんの少数に過ぎなかったのです。

◆秦の始皇帝の焚書令
漢字には文法が無く、各学派で、読み方も漢字の意味も形も違っており、教団が異なれば読み書きができないような状況だった。
そこで、漢字の用法、字体、発音を統一するために、医薬・占い・農業技術などの実用書を除き、民間の書物を没収して焼却し、私有を禁じた。
そして宮廷学者のテキストはそのままとし、今後文字を学ぼうとする者は、公共の機関で文字を学ぶことができるようにした。


■中華王朝の盛衰は必然
中原では、易姓革命により、大量虐殺の末に文明が滅び、賤民が勃興して新しい文明が起こり、しばらくの繁栄を謳歌し、再び大量虐殺の易姓革命が繰り返されました。

新しい王朝が始まると、封建制度の下で有力豪族や外戚と宦官、そして官僚が私腹を肥やし、皇帝一族は遊興にふけり、皇帝の権限が弱まる一方で、民は重税に苦しむようになります。
何故でしょうか。

それは、孔子式儒教は原始儒教(ユダヤ教)を模範としたが、神への愛と忠誠よりも親族への孝を最優先とし、しかも享楽については規制が全くないのです。
だから、家族最優先、しかも私利私欲を最優先とし、遊興に身を委ねるのは当然なのです。

孔子式儒教は易姓革命を完全否定します。
それどころか、いかなる皇帝でも尽くせと教えており、残忍な皇帝支配の暗黒政治から抜け出すには、易姓革命しか手段がないのです。
しかも、この易姓革命は、賤民や貧農によるもので、プロレタリア革命そのものです。
しかし、儒教と中華思想には、プロレタリア革命から抜け出す方法は、与えられていません。
それは、共産主義王朝においても同じで、このままであれば、易姓革命=プロレタリア革命を繰り返すだけでしかないのです。

流浪のユダヤ人は、王国を弱体化し、ユダヤ人に住みやすいような環境を創成する手法として、マルクスを通じて共産主義が人類に与えられました。
マルクス主義は、人民からの搾取については教えますが、分配の方法を教えていないのです。
だから、皇帝・孔子式儒教と全く同じ構図で、人民から奪うだけなのです。
ただ違うのは、共産主義下では、共産主義体制内でのプロレタリア革命を阻止するために、軍事を独裁し、敵を徹底的に虐殺することです。

中華思想では文人が最良とされ、科学・数学・軍事は卑しいものとされたゆえ、科挙の試験から理性を養う科学が削除されてしまいました。
だから支那版ルネサンスは起こりえず、神無き中華思想の決定的な欠点でもあります。

一方、ヨーロッパの皇帝は、皇帝権限を強化するために、メシア・キリスト教を国教と定めました。
それゆえ、人々は天国への切符を手にするために、地獄の苦しみから逃れるために、暗黒のキリスト教時代を堪え忍ばなければなりませんでした。

同じく、中国皇帝は皇帝権力を強化するため、神を捨てた孔子式儒教を取り入れました。
それゆえ、易姓革命を繰り返す暗黒時代が、現在でも支那人民並びに少数民族と呼ばれる人々を弾圧し続けているのです。
だからこそ、支那も韓国も北朝鮮も、君民共治の日本にあこがれているのです。


■三星堆積跡の巨人像
長江の上流にある三星堆積跡には、地元で取れる黄金、玉器、象牙などの高貴な遺物と、雲南省から取り寄せ加工した青銅器が大量に出土しています。
この雲南省の銅は、三星堆積跡を通過して、殷へ運ばれていたらしいのです。

三星堆積跡は滅ぼされ、殷は周に滅ぼされてしまいました。
ところが、セム族系の周は金属精錬を得意とせず、その技術はとうてい殷には及びませんでした。

似たような事例が、古代日本にもあります。
青銅器文明の出雲王国、鉄器文明の吉備王国、これを支配したユダヤの大和朝廷です。
違うのは、大和朝廷では、出雲王国を併合した時に三代にわたって女王を迎えています。

同じく、吉備王国を併合した時にも複数代に渡り女王を迎えており、統合王朝の形式を取っていることです。
中国のように、滅ぼしてしまったのではありません。
また、蘇我氏や藤原氏が皇后を出し、外戚として権勢を握りましたが、皇室を滅ぼそうとはしませんでした。

■カイン・カナン以外、もう一つの魔族(悪の種族)
ノアの大洪水を生き残ったのは、ノアの家族だけではありませんでした。
聖典には、カイン族、心正しい巨人族の預言者も生き残ったとあります。
他には、ノアの大洪水後、スンダランド大陸の山々の頂上のみが顔を出して、ポリネシア諸島になり、島々に生き残った人々がいました。
それは小柄で色黒のポリネシア人です。
彼らの神話にも大洪水のこと、生き残ったことが伝えられています。

ノアの大洪水後に生き残ったポリネシア人は、船でマレーシアに渡り、北上を続け、長江の東まで広がりました。
というのは、この地域から、頭を南に向けて埋葬された人々がいるからも納得できると思います。
つまり、長江の東側では、遊牧民族とポリネシア人が融合しました。
ある部族は遊牧の生活様式の家を作り、もう一つは稲作に適応した高床式の生活を取り入れました。

この中国大陸の長江中流から下流、南に住む高床式・稲作民族のことが、史記では “倭” と呼ばれています。
『古代中国と倭族』によれば、野生米からジャポニカ米への変化は、殷の時代に長江中流で起こったと述べています。
野生米は小粒で、実ると自然落下してしまい、手で拾うしかなく、脱穀が出来ずにとても不便なのです。
それが突然に、粒が大きく、自然落下しないように品種改良してしまったのです。
これは、小麦やブドウなどと同じで、アヌンナキによる品種改良の賜だと思います。

中原では小麦の畑作が中心ですが、小麦を捨て稲作の民として、湿潤なこの地域に適した生活様式を取り入れて、木造の高床式住居に住むように変わったのだと推測されます。

ポリネシア系稲族は、万古神話を持ち、蛇を崇拝し、体に入れ墨をします。
魏志倭人伝の中に、倭人は入れ墨をしていると書かれていることからも、彼らの一部は日本に渡来したのです。
同時に楚人も渡来している。

さらに、彼らの部落の入り口には二本の棒が立ち、しめ縄がはられており、日本の鳥居と同じ様式です。
更に彼らの高床式建築には千木があり、千木や鳥居には二羽の鳥が置かれています。
この鳥は、神様が降臨するための乗り物とされ、鳥居以外にも巨石や巨木をしめ縄でかこう習慣もあります。
これらの習慣は、イスラエルの十部族である楚人と混交した故に広まったのだと思います。
そしてこの生活様式に切り替えた稲族として東南アジアへ再度広がっていったのでしょう。

ポリネシア系稲作部族の一部には、食人の信仰がありました。
農耕民族はタンパク質の摂取量が不足しがちなので、狩猟民族に比べ、残酷な食習慣があったのですが、この信仰が日本に渡来して影響を与えなかったことに感謝したいと思います。

一方、中国人は人間を食料・家畜として見ており、死体の塩漬けを孔子は好んで食していたそうです。
他にも、子供や妻を殺して、客人に振る舞うことを当然とし、政治的に有利な官職を手に入れる手段としています。
かの劉備玄徳も人肉でもてなされ、おいしかったと感謝し、後に官職を与えて報いています。
信じられない、残忍で冷酷な習慣です。

この残忍な習慣は楚人と混交した食人信仰の稲作族が、秦の時代に漢族(カイン、カナン)と更に混交した結果なのではないかと思います。
    
(余談1)
参考文献によれば、「倭」を“わ”と呼んでいたその前は、“を”と呼んでいた。
中国では「越」=“を”と呼んでおり、物部一族の豪族「越智」の「越」は高床式・稲作民族のことだとすれば、彼らはしめ縄を左にするので、出雲大社のしめ縄が伊勢神宮と逆で左なのは、大社を封印するという意味ではなく、古代の習慣をそのまま残したためではないでしょうか。


(余談2)
大洪水用の箱船は複数個あった 
一つは有名なノアの箱船だ。
ノアの家族以外にも、シッチン氏の本では金属技術を持つカインの末裔が生き残っていた。
更に、インカ神話では箱船に乗った夫婦がクスコ近くで生き残っている。
欧米人はノアの箱船だと位置づけるが、それは余りに傲慢だと思う。
ポリネシアにも箱船神話がるように、世界中に大洪水と生き残る人類の神話が残されている。
それに、ノアの家族とその妻だけから、白人・黒人・黄人種のすべてが生まれるはずはない。
だから、箱船は複数個あったのだと思う。


■悪魔の儀式 人身供養の元は同じ
人身供養を伴う農耕神儀式(雲南省)、
この中央の柱には一匹の蛇が刻まれ、殺された女性がこの蛇に化身するとされています。
この恐ろしい儀式が、日本の建築様式、
しかも、伊勢神宮にそっくりな社で執り行われているではありませんか。
一歩間違えば、古代日本はニンギジッダ夫妻の悪魔教に支配されていたのかもしれません。
表面的には、ほとんど変わりのない生活様式と風習を持っていても、悪魔教と天照大神の支配する日本では地獄と天国です。

尚、一匹の蛇=“独龍”と見なせば、
ポリネシア系稲作民族と同じ信仰です。


■何故、漢民族はロシア人より残虐なのか
白人が何故、有色人種に対して残忍で、しかも平気で殺せるのか。

◆色素不足は感情を抑えきれないことの理由
腸からカルシウムが摂取されるためには、ビタミンDが必要です。
いくらカルシウムを食べても、ビタミンDが足りなければ、吸収効率が悪いためカルシウムはあまり吸収されません。

人体の骨や歯の形成に必要なビタミンDは、太陽光を浴びることで紫外線がコレステロールを変化させる事でおよそ必要な分のビタミンDの半分の量をまかなっている。
(残り半分は食べ物から得られている)

ビタミンDが不足すると骨や歯が弱くなったり疲れやすくなったり、情緒不安定になる。
だから、メラニン色素を持たない、白人はメラニン色素を持つ有色人種よりも、紫外線を多く浴びるので、腸からのカルシウム吸収が多くなり、自然に骨太の体型となり易い。

さて、メラトニンは体内時計の調節を担う物質として知られ、夜間に多く分泌され、睡眠を促し体を休ませる。
メラトニンは脳のほぼ真ん中にある『松果体』と呼ばれる、松かさに似た、トウモロコシ1粒くらいの大きさの器官から放出されるホルモンです。
この物質がメラニン色素の量を変えることから「メラ」、
そしてセロトニンから作られるから「トニン」の2つをくっつけたものです。

メラニンを作る能力を持たない、もしくは非常に低い白人は、日光の影響を体内に取り入れる事が不得手なので、体内時計の調節を行うことも不得手だと推測される。
つまり、世界旅行をする場合、
白人は体内時計の調節が不得手なので、
有色人種に比べ睡眠薬を多用する事になる。
そして、ストレスや様々な環境変化に対し、睡眠調整が有色人種に比べ不得手なので、イライラが募り感情的な爆発が起こり易いのも当然頷ける。
だから、感情的な不安定は、体内のカルシウム蓄積量のより少ない、つまり骨太では無い白人の方がより大きいと思われる。

それゆえ、天上界は、白人には感情爆発に備え、知性を、理屈っぽい文明を与え、ネクタイを常用させたのでしょう。

◆天上界は、色素不足の白人を導かれた
さて、シュメル文明末期頃、地球環境の中で北欧は比較的ニビル星の生活環境に近いので、ニビル星人の血統の濃い金髪碧眼の種族が、人類から離れてこの地域に集まった。
ところが、白人が混血しながらもヨーロッパ大陸に広がると、生活環境が激変し、色素不足から、情緒不安が著しくなり、暴力や虐殺が多くなった。
そこで、天上界は白人に十戒や科学的な知性を与えることで、感情をコントロールすることを学ばせた。
その一方で、情緒不安定を数学的な音楽や絵画で調律することを教えたのです。つまり、色素不足という欠点を、知性で補うように導かれたのです。

産業革命後、白人がインドやアメリカ大陸に乗りだし、インド人やインディオを発見した時、アヌンナキが黒い頭の人類を使役した記憶が蘇り、彼らを奴隷として使役するのを当然とした。
アヌンナキは人類を使役したが、使えないからといって無慈悲に殺すことはなかった。
ところが、白人同士で働く知性がキリスト教の影響も有り、有色人種に対しては働かず、奴隷やインディオやシナ人を惨殺してしまったのではないかと推測されるのです。


◆漢人は人食いを美徳とした
それにしても、漢人は白人以上に残忍なのは何故なのか、
日本人と漢人は、同じモンゴロイドに区分されていますが、血統としては全く異なります。
これまでの議論から、漢人の出自は間違いなくカイン・カナンの子孫です。
ところが日本人はユダ族とプレアデスの子孫なのです。

シナ大陸の中原の歴史は、堕天使と交わり悪魔教を広めたカナン人の歴史と似ています。
どちらも交易の要衝で莫大な富と財宝をめがけて、周囲の異民族が武力支配しようとした。
そして、正しくは漢人という遺伝的な民族は存在せず、商売をするために、皇帝に税を納めれば、漢人として認られていた。
しかも、一番の交易の利権を独占していたのが皇帝でした。
シナ歴代王朝が創造したとされる、皇帝制、科挙、漢詩、偉大な発明はすべて異民族がもたらしたものです。

夏・殷はカインを意味し、交易に長けたカナン人も中原に渡来していたのでしょう。
そして、アトランティスが没した後、生き残ったポリネシアンが中原に移動する時に、女神を頂点とする悪魔教がもたらされています。

以上のような、古代中原の歴史の中で、地球史上最も残虐な歴史が繰り返されてきました。
例えば、自分より高位の貴族・官僚・武人などをもてなそうとして、自分の妻子を殺し料理として提供する。
また彼ら特権階級は “ご馳走になった” として、官位を与えることを、美徳とした。
また、食料が不足すると、村を襲いすべての村人を塩漬けにして保存食として保管し、常食していた。
さらに、生きたままのサルや人を食う、罪人の内臓を取り出し、当人が見ている前で焼く、
など白人でさえ恐れをなしてしまいます。
この人格破綻の残忍性は、どこから来るのだろうか。

◆家畜として創造された!?
白人は有色人種を奴隷にし、使役できなくなると殺していました。
当たり前ですが、食べることはしていません。
人間が人間を食うのは、自然の法則に反しおり、極端な飢餓状態でなければ起こりえません。
欧米社会でさえ、身内を殺したり、食べたりすることは、悪魔の傀儡とされ忌み嫌われています。
しかし、中原では、妻子を料理してもてなすことは美徳とされ、人間の塩漬は高価な食材の一つとして常食されていたのです。
まったく吐き気のする事実です。

一方、日本人は違いますが、欧米人は、家畜を殺すことに罪悪感はありません。
家畜は大切に取り扱い、太らせはしますが、使役はしません。
そして殺して冷凍保管します。
また、家畜の繁殖率は高い方が喜ばれるのですが、漢人の繁殖率も異常に高いのです。

ここまで検討すると、欧米人の牛に対する取り扱いは、シナ人の食人習慣とまったく同じだと、気がつきました。
つまり、黒い頭の人々は神々に奴隷として創造され、後に人権を与えられて、地球文明を再建築する神々のパートナーとなった。
だが、一方、中原では漢人は、奴隷ではなく、家畜として創造された。
だから、家畜人間は労働せずに、食事を与えられ、神・真理・正義・契約などには全く無関心で、より美味しく沢山食べることが生きる目的だった。
その最高の食材が人肉だったのだ。
だから、西洋で牛の部位の味と料理法と酒のレシピが発達したように、おぞましいことですが、シナでは人間の全身の料理方法が発達したのです。

この視点からすれば、歴代皇帝や毛沢東が人民を家畜のように殺していたこと、現在のシナでさえも、死刑囚の内臓を売り買いし、人肉饅頭が売られても平然としているのは、当然のことなのです。
そこで、シナ人は世界一利己的で、彼らの唯一の信仰は腹一杯食べることなのだとの石平氏の指摘は、まさに事実そのものだったと云うことが理解されます。

魚人島・オトヒメ王妃/怒りを、憎しみを、子ども達に植え付けないで!

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対日協力した韓国人の名簿「親日人名辞典」
そこに朴正煕氏の名前が載っている理由
J-CASTニュース 12月22日

◆朴正煕氏は「親日」とされるが
韓国の民間団体が編纂した「親日人名辞典」がある。
日本の統治時代に対日協力した韓国人の名簿で、2009年に出版された。
この場合「親日」は、反民族の否定的な意味合いで使われ、批判の対象となるのは間違いない。

名簿の中には元大統領の朴正煕氏も含まれる。
朴槿恵大統領の実父だ。
「親日認定」されたはずが、韓国における評価は今も決して悪くないようだ。

◆ソウル市内のすべての中・高校に配布

在日本大韓民国民団の「民団新聞」2009年11月25日付記事によると、韓国の大学が調査会社に依頼して実施した「韓国の発展に最も貢献した大統領」のランキングで、1500人の回答者のうち朴正煕氏を選んだ人が75.8%に上り、2位の金大中氏(12.9%)以下を大きく引き離したという。
ややデータが古いが、人気の高さは歴代大統領で群を抜いていると言えよう。

その一方で、「親日人名辞典」にその名が記されている。
旧満州の軍官学校に入学した後、陸軍士官学校に編入、卒業。
「満州国軍」に属して日本側に立って戦争に参加した経歴を持つ。
軍官学校入学に際しては「血書」まで書いたとされる。

2014年12月19日付の韓国・ハンギョレ新聞日本語電子版によると、ソウル市議会は人名辞典を市内すべての中・高校に配布するための予算案を通過させた。
市会議員のひとりは、
「教師が歴史授業をする際に親日派について正しく知ったうえで教え、民族正当性を正す趣旨」
とコメントしている。

韓国の「対日協力者」に対する風当たりは強い。
盧武鉉政権下の2004~05年にかけて、
「過去の清算」として
「日帝強占下親日反民族行為真相究明に関する特別法」
「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」
が制定された。
戦時中に日本に協力した人物を調査し、本人やその子孫の財産を没収することを認めたのだ。
実際に「親日」と断定された人物の子孫が、この法律が違憲ではないかと訴訟を提起したが、韓国の裁判所は2011年に訴えを退け合憲判決を下した。

こうした風潮を考えれば、朴氏が現代社会で糾弾されていても不思議はない。
だが実際は、その評価は単純ではなさそうだ。
例えば2009年11月18日の中央日報日本語電子版のコラムは、当時発刊されたばかりの「親日人名辞典」、
特に朴氏の記載について取り上げている。
だが、対日協力に対する批判一辺倒ではない。

◆「とにかく日本人は韓国人に対してひどいことをした」という学校教育

コラムでは朴氏が、戦時中日本に協力した事実は消せないとしてその名を人名辞典に載せなければならないと主張。
半面、
「歴史的評価は人生全体でされるものだ。一部分で親日行為があると言って人生全体が親日ではない」
として、韓国独立後に朴氏が建国や近代化に貢献したのだから「彼は愛国者だ」と評した。

2014年9月7日付の朝鮮日報日本語電子版も、朴氏が韓国経済の発展をけん引した指導者である点を、政治学が専門の大学教授の言葉を引用して挙げた。
独裁や人権弾圧、不正や腐敗の責任者という「負」の面もあるが、産業化や近代化を引っ張った功績は認めるべきだと強調している。

確かに朴氏は陸軍士官学校を卒業しており、また1965年の日韓基本条約締結を果たした。
だが、拓殖大学教授の呉善花氏は、月刊誌「Voice」電子版2013年4月18日付の寄稿文の中でこう説明した。

「朴正煕大統領は16年ものあいだ政権を握り、いわば独裁主義を採ってきたのである。
じつは韓国では、この時代にもっとも強烈な反日教育が行なわれていた」

続けて、
「『とにかく日本人は韓国人に対してひどいことをした』ということを学校教育で徹底的に教えただけでなく、マスメディアも一貫してそのような報道を行なった」
と解説。
現在60歳前後の人はこうした教育を受けており、そこに娘の朴槿恵氏も含まれる。

事実であれば、戦前は「親日」だった朴氏だが大統領となってからは一気に「反日教育」を推し進めたわけだ。
こうした点から、対日協力の過去は薄められているのかもしれない。
そのうえ国家の経済発展に寄与しただけに、韓国内で今も高い評価が維持されているとも考えられそうだ。






韓国の反日教育
韓国の反日教育に関する考察です。
反日教育の弊害 > 韓国の反日教育
韓国の反日教育

julietwilson.net/edinburgh/

韓国は第2次世界大戦当時日本と併合していました。戦争が終わってアメリカに独立国家をつくってもらい、その時の韓国政権の正統性を根づかす意味での反日教育です。
韓国の国定教科書は1種類しかないので韓国国民全体が反日教育を受けています。民主主義とは思えないほどの徹底した反日教育ですので、世界一の反日は今では韓国です。しかしその教科書は韓国に都合のいいように改竄、捏造しており、日本人は悪いやつ獣のような人種などと信じています。
 
更に韓国国内だけではとどまらず日本国内の民族学校でも反日教育を実施しているため、日本に住んでいる在日韓国人も反日に育っており犯罪率が高い事でも問題となっています。
軍事政権の李承晩の時代に侵略した竹島が反日のシンボルとなっており、韓国民は非常に感心が高くもう政府にも止められないほどの反日になっています。
もし、日本に対して親しい発言などをすれば内ゲバが起こり危害を加えられかねない状況です。
 
儒教の国
実際の韓国では、一番キリスト教を信仰している国民が多いのですが、生活に儒教の教えが根付いています。
しかし、この儒教は階級を重んずるので男尊女卑の考えや住んでいる地域、社会的身分などでの差別もひどくなっています。特に韓国人は黒人を差別することでも有名で、アメリカではロス暴動の引き金にもなりました。ラターシャ・ハーリンズ射殺事件で15歳の黒人少女を韓国系の店主が撃ち殺し、罪が軽かったという事件です。白人には恐れ入るが黒人には下とみている感があります。
しかし、現在はアメリカの大統領は黒人系のオバマ大統領ですし、要職にも黒人はついていますね。
レイプ犯罪が異様に多いのも女性軽視の思想が根強くあるからなのかもしれません。
 
親日法
韓国の法律で親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法というものがあります。。大韓民国大統領直属の国家機関として親日反民族行為者財産調査委員会を設置し親日であった反民族行為者の財産を選定して国家に帰属することとなっています。
これは事後法というもので、過去に日本と親しくしていた先祖などがあった場合その財産を取り上げて国の物にするというものです。
このような法律が実際にありますので、日本のことを良いようにいう韓国人はごくまれということになります。
現在はこの法律で裁かれる人はほとんどないですが、目立つことをすれば適用される可能性は否めません。反日教育プラス法律で完全なる反日国家のできあがりですね。
 

反日教育にどう対処するか
日本に住んでいる在日韓国人も本国の韓国人と同じく反日ですので、改善は難しいと思います。この在日韓国人は日本の真実を知っているので両国の橋渡しのような役目を期待されるのですが、そのような立派な人物は聞いたことが無いです。ソフトバンクの孫社長のような人でも隠れて在日割引などの差別行為をしていたり、しています。
他には朝鮮語も喋れず日本語しか喋れない人も反日ですので難しいと思います。日本人の現状を理解した上でも反日ということです。
やはり距離を置き反日熱が冷めるまで無視していくしかないと思われます。 現在は経済、政治が近づきすぎです。



竹島教育
竹島教育
韓国の反日教育の1つ竹島教育です
反日教育の弊害 > 韓国の反日教育 > 竹島教育
竹島教育

独島の歌を子供の頃から歌わせて竹島を韓国領土と摺りこみの教育ですね。 対馬は日本の領土という歌詞だったそうですが、今は対馬は分からないに替わっているそうです。
これは最近は対馬も韓国領だったと韓国の議員たちが言い始めているからです。対馬は日本というのが都合悪くなってきたからまた嘘をつくのですね。
この嘘をつくというのがキーポイントで、朝鮮人の民族性ということです。
 
こんな小さい頃から教師や親から反日を徹底させれば大人になっても反日は当たり前ですね。

反日教育弊害
反日教育の弊害
東アジア3国が行っている反日教育。この弊害について考察しています
反日教育の弊害
反日教育とは日本に対して良好な感情をもたせなくして更に憎しみをもたせ、国内の問題を外に向かせるための教育です。世界中で反日教育を施している国は中華人民共和国、大韓民国、北朝鮮の3国です。(国をあげての反日教育)
 
しかし、この反日教育は幼い頃から行われるため人格形成にも悪影響を与えてしまうと思われます。
例えば日本人は悪い奴らなのでなにをしてもよいなどという認識は嘘をついてもよい、危害を加えてもよいなどの容認であり、その対象の日本人が身近にいない場合は、クラスメイトのいじめになったり人種差別に発展したりとなる場合もあるということです。
 
人を恨んだり攻撃したりすることがデフォルトとなってしまうのです。
そのような思想は大人になってからも継続します。韓国の司法や政治家、大学教授なども反日の発言のみしています。
これは言論統制と親日罪があるからというのもあります。
 
愛国教育
中国などは、反日教育では無く愛国教育だと言っています。国を愛するように仕向けるために他の国(ここでは日本)を貶めるということです。
韓国では誇れるような歴史が無いため(ずっと中国の属国)歴史を捏造して国民に教えています。
韓国は歴史の教科書が一種類しかないため全国民共通の認識で何も疑う事も無く反日しています。
2013年の統計で日本を嫌いな韓国人は70%を超えていました。これは反日教育を受けているからというのも大きな理由だと思います。日本はこの中国と韓国には資金援助や技術提供など様々な分野で貢献しているのですが、反日教育のたまもので感謝されるどころか恨まれ、竹島を武力で盗られ尖閣諸島を狙われるという結果になっています。
 
モラルの低下
この反日教育を行っている国々はモラルが低いことで有名です。北朝鮮はあまり国外に人は行き来、出来ないので問題化はしていませんが、中国、韓国は反日教育+愛国主義でひどいことになっています。この愛国主義のため、移民となり他国の国民になっていても元居た国、韓国人、中国人という認識から離れられず移民先の国の国益に反することをします。
偽装や詐欺などの犯罪も多いです。
 
日本での犯罪
反日教育で日本人にはなにをしてもよいと子供のことから刷り込まれていますので凶悪犯罪も起こします。
靖国神社に放火した中国人が韓国に逃げ、日本との犯罪人引き渡し条約を無視して中国に返還されたのは反日教育のたまものとも言えるでしょう。
 
早期教育
幼いころの教育では、道徳をきちんとしつけておくべきです。公共の場は自分勝手な振る舞いはいけないなどは誰でも当たり前ですよね。しかし、反日教育をしている国では色々躾しようとしても例外(日本に対して)があるのできちんとした教育をするのは無理です。根っこの部分では善良でないとその人の人生もつまらないものになるでしょう。反日は現状、愚民を生み続けていますので、真似をしないで立派な人間に教育していくべきだと考えます。




韓国人「反日教育は果たして必要なのでしょうか?」
2014/02/13 00:00 コメント1308

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韓国版Yahoo知恵袋の「NAVER知識in」から、「反日教育…必要ですか…?」という質問に対する回答を翻訳してみました。


質問者
歴史に関心が深い高校1年生です。
以下の文章を読んでお返事ください。

幼い頃から韓国で教育を受ければ、愛国心+反日教育が強く教え込まれます。私もこのような教育を受けたため、物心ついた頃から日本が嫌いでした。しかし、年齢を重ねるにつれ、ある疑問が湧いてきました。それは、なぜ我々は被害者なのに謝罪を受けることができないのかということです。そして、日本の立場ではどう考えているのかが知りたくなりました。図書館で歴史についての本をたくさん読み、単純に韓日関係だけで理解できないのであれば、日本と同様、帝国主義で侵略し、植民地を持ったヨーロッパ諸国の歴史についても調べました。
以下に示したのは、それらのことから学んだ自分なりの考えです。

1. わずか50年前までは、弱い国は強い国に侵略され、植民地となることが当たり前の時代だった。

2. 現在の先進国、日本、オーストリア、フランス、ドイツ、オランダ、スペイン、イタリアなど、すべての国で帝国主義の時代があった。他国よりも早く産業化に成功した国は、その力を持って他国を支配し、利益を得た。それが当然の時代だった。

3. 米国でさえも、黒人を人間扱いどころか、奴隷として労働力を搾取し、コストをかけないことで驚異的な成長力を生み出した。

4. 植民地時代に対する歪曲が激しい。植民地として利を得たことの方が遥かに多いのに、韓国の教科書では、それを除外し、むしろ、ごく少数の独立運動家が被害を受け迫害を受けたという負の部分を重点的に教えている。特に、日帝時代にハングルを使えないようにしたと信じている人が多い。むしろ、現在の韓国語の文法などは日帝時代に日本の学者たちによって再構成され、教育させたものである。現在、我々が使うハングルも、そのとき、再構成されたハングルに最も近い形と言える。

5. 韓国で学ぶ「韓日強制併合」は、外国の学会では「強制併合」として認められていない。

6. 自らの国を守ることのできなかった先祖は責めず、なぜ、当時では当たり前のことであった日本の帝国主義を責めるのか?

7. むしろ日本は、ロシア、中国などと異なり、韓国とは戦争をせずに合併した。いくら日本が脅迫により合併したとしても、国を売った祖先が間違っていたのではないだろうか。もし、戦争をして植民地化されたのであれば、現在の反日教育が激しいことも理解する。しかし、実際は当時の朝鮮の上層部が、国を売って合併したものであるにも関わらず、「強制合併」というとんでもない論理で反日教育を行っている。これはなぜだろうか?

8. 日本は韓国に対し、米国の次に援助金を支払っている。朴正煕政権時代には、その植民地に対するお金を受け取り精算している。謝罪についても、現在までに天皇を含め、6人の日本の首相が公式に韓国との過去の歴史について謝罪している。にも関わらず、マスコミでは謝罪が足りないと報じている。日本から補償を受けれていないと思っているのは、当時の韓国政府がその金を使い込んだからではないのか?もしそうなら、要求すべきは韓国政府であり、日本ではないと考える

9. 中国の反日感情は理解する。
彼らは日本と戦争をして、膨大な犠牲を払ったから。 
米国の反日感情も理解する。
第二次世界大戦に参戦し、数万人の若者を失ったから。  
ロシアの反日感情も理解する。
日本と戦争したから。
韓国はなぜ、米国やロシアよりも反日感情がひどいか?
日本と戦争をしたわけでもないのに。 
むしろ多大な恩恵を受けたという証拠が腐るほどあるのに、なぜそれを隠そうとするのか?
まるで、日帝時代の全ての人々が、独立運動家であり、解放を望んでいたかのように教育している。実際には、独立運動家はごく少数であり、むしろ高い医療技術、教育水準の恩恵を受け、植民地化の前は10%だった文盲率が大きく改善された。これはなぜだろうか?

反日感情は必要なことなのでしょう。
しかし、なぜこのように歪曲し、誇張するのでしょうか?
洗脳したいのですか?
その理由は何でしょう?

翻訳元:http://kin.naver.com/qna/detail.nhn?d1id=11&dirId=111001&docId=177971344


質問者に対するコメント1
愛国教育は、反日教育、反米教育が極端ですよね
それでいて、敵である北朝鮮は、同一民族という美名の下に包み隠しています

質問者に対するコメント2
質問者様は社会から見捨てられるでしょう

質問者に対するコメント3
関東大虐殺で、理由もなしに竹槍で刺されて死んだ韓国人たちが、自分のおじいさんやおばあさんだったらと考えてみてください
反日感情が湧いてきませんか?

質問者に対するコメント4
高校1でこれだけ客観的に思考判断できるというのは、韓国ではごく稀なケース

質問者に対するコメント5
無条件に日本を悪く見る必要はない
今をどう作るかが重要であり、過去にこだわったところで死んだ人が蘇るわけでもない
最も大きな問題は韓民族同士で血を流して殺し合った事件や事故があるということであり、日本を嫌う前にまずは自分たちの二重人格について再び見つめ直す必要があると思う

質問者に対するコメント6
他のものは分からないが、4番はマジで韓国でも見なおした方がいいと思う(笑)



回答者1
歴史教育とは愛国心を鼓吹させるものであり、反日感情を育む目的ではありません。そのことをあなたは取り違えています。過去の歴史の中で、日本が韓国に良くも悪くもどんな影響を与えたのか、また、韓国が日本にどんな影響を与えたのかを勉強するのが歴史というものです。

質問1. 50年前まで植民地は当たり前だった
50~60年前に超大国だった国は、全ての過去を反省し、過ちを認めています。日本だけがあんなことをしています。

質問2. 日本以外の先進国にも帝国主義があった
質問1と同じ回答です。

質問3. 米国でさえも黒人を奴隷として労働力を搾取した
どこの国でも弱い国を恐喝した時代はあります。しかし今はそれを反省しています。あなたは"米国でさえ"という表現を使っているところを見ると、米国に対して良い印象を持っているようですね。米国も自分たちが損になるような行動は絶対にしない国です。

質問4. 植民地時代恩恵を受けた、ハングルも教えていた


得たものは若干あります。それが植民地近代化論です。ところが、その小さな利益と比べ、受けた被害はあまりにも大きいです。現在あなたが考える日帝強占期の認識は間違っているようです。
カイカイ関連記事:韓国人「植民地近代化論について調べてみよう」

質問5. 外国の学会では「強制併合」として認められていない
強制合併として外国でも認められています。その間違った情報はどこで入手したのでしょうか?

質問6. 先祖は責めず、なぜ日本の帝国主義を責めるのか?
質問7. 国を売って合併したのになぜ強制併合?
だから歴史を勉強しているのです。強制合併を支持した祖先に対しては徹底的に清算(親日清算)し、再びそのようなことが繰り返されないようにするために歴史を勉強しているのです。現在、韓国は親日清算がまだしっかりと行われていません。
歴史教育は反日感情を教えるものではありません。あなたは歴史教育について誤解しているようです。そして、日本は韓国を併合するために、日清戦争、日露戦争を起こしました。これに勝利したことで韓国とは戦争をする必要がなくなったのです。その過程で、一部の我々の祖先たちも協力しています。これはつまり、当時の韓国人が、それだけ国際情勢に疎く脆弱であったことを意味しています。

質問8. 朴正煕政権時代に謝罪を受けている
これは朴正煕の間違いだったと思います。朴正煕元大統領が叱咤される理由の一つがまさにあなたが仰っていることです。

質問9. 戦争をしてない韓国が、なぜ戦争をした米国やロシアよりも反日感情がひどいか?
戦わなかったのに反日感情が激しいのはおかしいと言いますが、例えば、あなたのクラスメイトに強い学生がいたとします。あなたは毎日抵抗できず殴られていたと考えてみてください。それでもあなたはその学生に対して反感を持たないでしょうか?戦わないから反感を持たないと言えますか?

回答者1に対する質問者のコメント
日本だけがあんなことをしていると?ドイツも、現在、過去の歴史のために追求されているのを知らないのですか?日本が過去、韓国と交渉し、補償金を与え、天皇及び首相が謝罪したにも関わらず、なぜそれが広まらないのでしょうか?とんでもないことですよね。典型的な韓国の洗脳教育ですよね?
カイカイ関連記事:韓国人「ヨーロッパ版の韓国と日本」

質問者に対するコメント1
質問者に回答します。ドイツは日本に比べて多くが精算された状態であり、現在はその残りの一部を処理している状態です。
人間とは正しいものを信じるのではなく、自分が信じたいものを信じる傾向にあります。あなたはそう信じて生きていってください。あなたが最も間違っていることは、歴史教育を反日感情教育だと思い込んでいることです。とにかく、ずっとそう信じてればいいです。もう何も言うことはありません。

質問者に対するコメント2
口先だけの謝罪ですよね。頻繁に戦犯旗をはためかせ、首相や高官が靖国参拝することにどんな誠意があるというのでしょうか?そして、補償金についてですが、あれは独立祝い金です。



回答者2
質問1. 50年前まで植民地は当たり前だった
当時の加害者の立場だけを考えて、なぜ我々の立場は考えないのでしょうか?矛盾しています。もちろん、被害を受けた方たちも、当時の韓国で生きていた人たちでしょうが、それにしても、どうして我々が当時の日本の植民地政策によって被害を受けた韓国人の立場を考えず、日本の立場を理解してあげなければならないのですか?

質問2. 日本以外の先進国にも帝国主義があった
日本以外のほとんどすべての植民地支配国は謝罪したと思いますが?もちろん、日本も後になって、それなりのことはしたでしょうが、被害国である我々国民が十分に満足していないではないですか。どんなに時間が経とうとも、我々が満足するまで、あるいは満足しても自らが「我々は覇権主義に背を向けて生きていくこと、過去に犯した過ちを繰り返さないこと」というジェスチャーを世界に発信していかねばなりません。それなのに日本は、むしろ戦犯が合祀された神社に年長の政治家が参拝しているのが現状です。それが反省する国の行動と言えますか?

質問3. 米国でさえも黒人を奴隷として労働力を搾取した
米国では過去、人種差別が大きな問題でした。それでも米国内に住む大半の黒人には何ら支障はありませんでした。なぜなら、それらを排斥しようとする勢力は少数だったからです。それでも大きな問題となったのは、その少数が黒人を殺害するまでに至ったことです。ただこれは、米国内に住む黒人の地位に対する問題であり、米国の白人至上主義者たちが黒人が住む国に乗り込み殺害したという話ではありません。全ては米国内で起こったことです。日韓の問題は国内の問題ですか?

質問4. 植民地時代恩恵を受けた、ハングルも教えていた
ハングルの使用が禁止されたのは事実です。日帝強占期全般に渡って禁止されたわけではありません。日本が韓国人の韓国語教育を可能にしたとすれば、それは日本人が韓国人に比べて優れているということを強調し、韓国人と日本人を区別するためにそうしたのだと思います。なぜなら、当時の日本が、当時の世界の多くの国々と比べて、特段に民主主義と平和のために努力したと見るのが困難だからです。植民地時代に我々が得たものは多いと言いますが、それは何ですか?もちろん、農業生産力が向上しました。しかし、なぜ朝鮮人は満州に移住をしたのでしょうか?結局、農作業をしても得るのがないから移住したのです。そうでないなら、満州に移住してまで農作業をするために畑を耕すなどのことはしなかったでしょう。
カイカイ補足:朝鮮人移住者|満州国 - Wikipedia
建国当時日本領であった朝鮮半島から多くの朝鮮籍日本人が満洲国へ移住した。水商売や小規模商店などの事業を行うものも多かった。しかし現地の住民たちの反感を買う事例もあったという。1934年10月30日、岡田内閣は朝鮮人の移入によって失業率や治安の悪化が進んでいる日本本土を守ろうと、朝鮮人が満洲に向かうよう満洲国の経済開発を推し進めることを閣議決定している。

質問5. 外国の学会では「強制併合」として認められていない
我々が被害を受けたことを他国が認めないといけないのですか?仮に認められていたとしても、それは同情以外の何ものでもありません。

質問6. 先祖は責めず、なぜ日本の帝国主義を責めるのか?
当然?質問者が何を考えを持っているのか分かりませんが、当時植民地支配国家だった国々は、大抵80年代~90年代に謝罪を終えています。

質問7. 国を売って合併したのになぜ強制併合?


日本が適切に謝罪をし、韓国国民の日本に対する悪感情がなくなっていれば、その矛先は当然、朝鮮王室に向かっていたでしょう。しかし、日本はそのように謝罪をしていないため、今のような状態になったのではないですか?

質問8. 朴正煕政権時代に謝罪を受けている
日本は1960年代に日韓協約で補償金を支払いました。しかし、それが正しく分配されませんでした。これは責任を持った国が、韓国政府の補償金分配に関してブレーキをかけなければなりませんよね。

質問9. 戦争をしてない韓国が、なぜ戦争をした米国やロシアよりも反日感情がひどいか?
韓国は現在、独立国家であり主権国家です。我が国の歴史に被害を与えた国である日本に対しては、死んでも適切な謝罪を受けなければならないからこうしてるのです。そして、謝罪したとしても、行動が伴っていなければなりません。後になって、戦犯が合祀された神社に参拝したり、自分たちが植民地支配したのは当然であったとするのは、過去の謝罪に対する責任逃れと言えるのではないでしょうか?そんな反省に何の意味があるというのでしょうか?



回答者3
質問1. 50年前まで植民地は当たり前だった
質問2. 日本以外の先進国にも帝国主義があった
弱国が強国に侵略され植民地として収奪されることが、その時代に蔓延していたとしても、それなりに歴史と文化がある国であり、その国の意志に反して自主権を奪ってもいいのか?当時であっても、それは適切ではないということは、幼い子供でも分かる事実だと思うが…?

質問3. 米国でさえも黒人を奴隷として労働力を搾取した
もちろん、米国にもそんな時代があった。今も、人種差別が完全になくなったわけではないということは知っている。そうだとしても、この間違った歴史的真実は正当化されるものではない。それは米国の白人や白人など全てが認めるところだ。そして、米国人が有色人種から搾取して驚異的な成長を成し遂げたということを誇らしく思うという話は聞いたことがない。米国がそうで、ヨーロッパがそうだからと言って、日本の行為に免罪符が与えられるものではないと思うが?

質問4. 植民地時代恩恵を受けた、ハングルも教えていた
それどこで学んだのか?植民地時代の日本の極右主義者の論理をそのまま読み上げて恥ずかしくならない?全羅北道群山に行ってみろ。日本植民地時代に作られた港湾と鉄道のどこが我々のためになったのか。それは日本が我々の土地からコメを日本に持ち出そうと、我が国の人たちを騙して格安で買い叩き作ったものだ。そのせいで、コメの価格は上がり、日本の商人たちの悪巧みに、我々の祖先はより厳しい生活を強いられた。そんな証拠が群山には散らばっている。
一部の独立運動家云々する話は、日本の極右主義者の話であり、反論する価値もないが、奪われた自国を取り戻そうとすることに何か問題があるのか?当然のことだろ。むしろ、身を挺して勇敢な行動を取ったことは賞賛に値するではないか。

質問5. 外国の学会では「強制併合」として認められていない
これも日本の主張だろ?日帝の侵略が正当でないということは、既に国際学会でも認められていると聞いている。そして日本が主張する併合条約も捏造されたという証拠が出ていることをなぜ知らないのか。

質問6. 先祖は責めず、なぜ日本の帝国主義を責めるのか?
一見、正しい言葉であるように見えるが、これも日本の主張ではないか?
もちろん、当時の朝鮮朝廷が無能で、亡国の道を歩んだと言えるが、国権を取り戻すために命を捧げた義兵や独立闘士たちがいる。我々が自ら国を捧げたものではなく、力はないまでも懸命に抵抗したのだ。そんな我々の祖先を無能だ卑怯だと卑下することは、日本の意図にまんまと引っ掛かっていると言えるだろう。

質問7. 国を売って合併したのになぜ強制併合?
戦争をしなかったと?歴史を学ばなかったのか?大韓帝国軍は、解散に反発して日本軍と全国的に戦闘をしている。その後その兵隊は、義兵に合流し、義兵戦争の核心要員として活躍した。新興武官学校で、韓国独立軍兵士を養成した申八均や李章寧将軍のような方たちは、元大韓帝国軍の将校であり、義兵長の閔肯鎬将軍は、大韓帝国軍の下士官出身だった。
そして、15万人余りが義兵戦争に参加し、その死傷者は5万人を越えた。
義兵を仕切ったのは、あなたが言う、朝鮮の上層部出身者が多かった。
誰が、そのまま国を渡したと?
日本が武力で奪ったんだろうが。
カイカイ補足:後期|義兵 - Wikipedia
1907年末に儒学者の李寅栄が各地で戦っていた義兵を糾合し、京畿道楊州に兵1万(そのうち旧韓国軍兵士は3000名にのぼったという。)を集めて彼を倡義総大将とする、韓国13道すべてを結集した義兵軍という意味の「十三道倡義軍」が成立し、同年12月に許?(号:旺山)を司令官としてソウル奪還を目指して首都ソウルへ進撃した。日本軍は東大門においてこれを破ったものの、この善戦が各地の義兵勢力を勢いづけて1908年の第2次ソウル奪還作戦など1909年にかけて各地で日本軍と交戦した。(掉尾の一振となる事件が、1909年10月26日、哈爾浜駅構内での、安重根による韓国統監府初代統監であった伊藤博文暗殺である。)だが、韓国駐剳軍司令官長谷川好道は「南韓討伐大作戦」を断行し、徹底的な焦土作戦や包囲作戦などによって鎮圧した。これによって義兵側に1万7千人の死者が出たとされているが、実際にはもっと多かったとも言われている。一部は日韓併合後も抵抗を続けたが1914年頃には鎮圧され、生き残りは満州(間島地区など)や沿海州などに逃れて朝鮮独立運動を継続するようになる。

質問8. 朴正煕政権時代に謝罪を受けている
日本が韓国に無償援助したことはない。朴正熙時代に、日本がくれた金で、日本統治時代の蛮行が全て許されると思ってるのか?金さえくれれば、過去の過ちが全て消え去ると思っているのか?それは一体どんな論理だ。そして、日本がどんな謝罪をしたのか?謝罪なのか何なのかよく分からないことをしておきながら、その後で不意打ち食らわしてきたことは数知れない。それでも、それを謝罪と言うのか?

質問9-1. 戦争をしてない韓国が、なぜ戦争をした米国やロシアよりも反日感情がひどいか?
上にも記載したが、我が国も国権を守ろうと乗り出した15万人を越える義兵の血が流れている。その後も数多くの独立軍と光復軍が満州と中国の地で大量の血をばら撒いた。その事実をなぜ除外するのか?我々も厳然と日本と戦争をした。むしろ、中国や米国よりも、日本と激しく、より長い期間戦争をした。だから当然、良い感情を持つはずがないよね。

質問9-2. 多大な恩恵を受けた証拠があるのになぜそれを隠すのか?
一体、どれほど大きな恩を受けたというのか?それは全て日本が韓国から搾取しようと作ったものだろ。なぜそれを我々がありがたく思わなければならないのか、理解できない。

質問9-3. 文盲率が向上した
日本が行った教育というのは民族抹殺教育であり、韓国人をこき使いやすくするためのものだ。それに対して、反論する価値もない。

質問9-4. 韓国は洗脳してるのか?
洗脳というなら、それは日本へ行って日本の歴史教育界に言ってくれ。質問者はおそらく、韓国人を詐称した日本人か、日本の論理に洗脳された者であろう。そうでなければ、日本人の主張に対して、反論したいができなくて、それでここに質問をあげたのではないだろうか。こんなことがあるから、歴史教育をきちんとしなければならないということだね。

回答者3に対するコメント1
はい、次の無条件愛国主義者

回答者3に対するコメント2
推薦文

回答者3に対するコメント3
質問者は精神疾患の高校生であり、勉強をしっかりしていない学生です。



回答者4
質問4. 植民地時代恩恵を受けた、ハングルも教えていた
日帝強占期の初期には、韓国語教育もありましたが、1930年代からすべての韓国語の使用が禁止され、日本語が使用されました。当時設立された学校も多かったし、鉄道、交通、通信、工場などは多く発達しました。しかし、朝鮮人がこの恩恵をきちんと享受することができたのでしょうか?学校はありましたが、それは日本人教育とは大きくかけ離れ、日本語と工場の機械を回すことが中心でした。植民地で、植民地の人たちがたくさん生産すれば、日本に入る資材は増えますよね。朝鮮はあくまで、戦争の補給と、徴兵の対象だったのです。 
カイカイ関連記事:韓国人「日帝時代の小学校の教科書(参考書)をアップする」→「なぜハングルを教えてるのか?」

▲1939年、日本統治時代の教科書


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韓国人「デジタル復元した韓国の古代建築物をご覧ください」
ソーシャルギフトcotoco(コトコ)
コメント1308

1308.名無し

この先もずっと金を要求してくるな 
歯止めに安倍晋三がガツンと言えたらいいけど、無理っぽいな 
次の総理はハッキリ きっぱりと断言できる人で願いたい
放って相手が国交断絶って言ってきたら儲けもん
でも向こうに住む日本人を出国禁止にされそうでなんだかもう。
2014年12月18日 21:46
1307.名無し

日本から見れば、反日は政治的利用されてるの見え見えなのに。
2014年09月25日 10:31
1306.名無し

世界一民度が高い日本人が、なぜ韓国のみにヘイトスピーチを行うのか?
韓国の捏造、反日洗脳教育。恩を仇で返す民族だからだろうな。
史実を知れば嘆き自殺するだろうな。韓国は自殺率世界一だしな。
2014年09月06日 19:47
1305.名無し

みんな政府に洗脳されてるだけだね
洗脳されなかったごく稀な人スレ主も含めてそういう人が韓国を担っていったほうがいい
2014年09月01日 22:12
1304.名無し

韓国も日本も本当の敵を認識しよう利用されてるだけだ せかいきぎょうに





2014年08月28日 20:14
1303.名無し

今を生きる同じ人間としてとても悲しいです。
韓国の若い人たちにも、おかしいと感じるひとがいるのは良いことですね。たとえこの子だけだとしても、そのうち真実は勝ちます。
2014年08月23日 16:28
1302.名無し

多分これを見ている在日もいるだろうから
言っとくけど、これで解るだろ
何でお前らが嫌われてるか。
存在が産廃以下なんだって
2014年08月20日 07:21
1301.名無し

メディア業界や国会を含む政治の世界でも
中韓に牛耳られてる日本で、何言ってんだ
東京何か、すでに中国人なんてゴロゴロいるぞ
2014年08月20日 07:18
1300.名無し

回答内容より質問者に対して納得できるように回答できている人がいないことが気になるな。
質問者は自分なりにきっちり調べて疑問をもって質問しているんだから、せめて回答者の主張の根拠となるディファレンスくらいめんどくさがらず提示してあげるべきだ。高校生が社会にいる他者の意見を聞くべくして質問しているんだからさ。感情的な回答じゃ失礼じゃないか。
2014年08月17日 13:55
1299.名無し

もう、関わりたくないけど、KBブリッジの前の橋の、運河に落ちた残害と橋ゲタ土台の撤去料を日本に返してね。
新しい橋は、日本が造って、建設費は、韓国が貰ったようで、腹が立つけど、片付け費用だけで諦める。
ああ、亡くなったパラオの人に、見舞金
忘れるなよ。
2014年07月12日 21:49
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魚人島・オトヒメ王妃:
あなた達の心の叫びは痛いほど伝わってきます

辛いでしょうけど、
その人たちへの怒りを・・・!!
憎しみを・・・!!

子ども達に植え付けないで・・・!!  彼らはこれから出会い・・・!!    考えるのですから!!!

石平太郎/天皇誕生日

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石平太郎:
今日は天皇誕生日。
一国民として心からのお祝いを申し上げたい。
日本民族が数千年、一切なる権力から超越した尊い皇室を頂いているからこそ、中国が経験した易姓革命と暴君独裁の大きな災いを免れた。
皇室の存在こそ日本民族の幸せの元であり、守らなければならない最後の砦である。

 
 
 
 
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■歴史的継続性のない中共

遠藤健太郎
皇紀2669年(平成21年)5月5日

祝・こどもの日「端午の節句」

東アジアでは、5月5日の「牛の月・牛の日」に「端(初め)」を冠して「端午の節句」を祝います。
無論、この起源はシナ(チャイナ)大陸にあり、決して朝鮮半島にはありません。

シナに古くから伝わる『荊楚歳時記(けいそさいじき)』に魔除け・厄払いに関する記述があり、特に菖蒲を口にすることから、同音の「尚武」をとって日本では奈良時代以降、男子の行事と化したようです。

一方で、田植えを前に身を清める意味から、女性のための行事であったことも、いかにも日本らしく、今日総じて命の成長を祝う「こどもの日」とした所以でありましょう。

このように、シナ大陸には素晴らしき伝承が数多く、わが国は古来より様々に学び、取り入れてきました。
その日本には2669年の歴史があり、なぜ「中華人民共和国」にはたった59年の歴史しかないのでしょうか。

彼らはよく「4000年の歴史がある」と口にしますが、共産党独裁体制には現に59年の歴史しかなく、それ以前にあった同地域の核となる体制とは継続性がありません。
近代で申しますと、清と中華民国、中華民国と中華人民共和国はそれぞれ断絶しているわけです。

日本人は、やはり大陸から律令制を取り入れても決して天皇陛下を権力とはしませんでした。
あくまで権力は民衆の中に誕生し、地方の豪族たちが荘園などの私有地を治めていたのです。
つまり、国家そのものであるご皇室をわざわざ倒す必要のない国の在り方を自然に形成していったと言えましょう。

この点に於いてシナは失敗したのです。
欧州でも同様の失敗が各国でありました。
ですから、UNESCO指定の「世界遺産」には(自然遺産を除いて)遺産というより「遺物」と呼ぶべき歴史的建造物が殆どであり、シナ大陸に確かに古くから文明が存在していたことを示す過去の遺物は、中共にとってまるで無関係な代物でしかありません。

多くの先人たちが築いてきたものを時の理性で破壊していく行為がどれほど虚しいことか、それは隣国を見て明らかであり、朝鮮半島に至っては、高句麗・百済を倒して唐の属国に墜ち、新羅を倒して明に属し、李王朝は大日本帝国との併合なくして民を救えないほど半島を荒廃させてしまいました。
やはりここにも歴史的継続性などないのです。

私たち日本人がこうした自国の素晴らしさと真摯に向き合い、世界に説いていくことが即ち「世界平和の希求」なのであって、そこに高慢も偏見もありません。

史上、西南戦争に終わる幾多の内戦を経ても皇統を絶やさぬようにした民族の本能とは何であったかをこそ知るべきではないでしょうか。
そこに「平和」のヒントが隠されているのです。


■日本は世界最古の国

転載元 聴いて観て話しメモする!
2011/11/04

『日本は世界最古の国、百代以上続く王朝』
日本人は明治維新を経て国を守った。
その一方、大国への道を選んだ代償に『日本文明』を失った。
今の日本にいちばん足りないのが「日本」である。
日本文明は、天皇を語らずに済ませられない。
天皇を知ることで、日本文明の構造が見えてくる。
大和言葉では「天皇」を、
「すめらみこと」や「すめらぎ」と読む。
「すめらぎ」は、「連綿と続く天皇」を意味し、世界最古の国家である日本を象徴する言葉に相応しい。

◆ 二千年以上も国を守った奇蹟
日本が二千年以上一つの国家を営んできたことは奇蹟である。
日本に次いで歴史の長いデンマークは建国から千数十年、それでも日本の半分。
第三位は英国で千年に満たない。
アメリカとフランスは歴史が浅く、中国はまだ建国から六十年程。
ロシアはソ連邦崩壊でできた新しい国。

『中国四千年の歴史』というが、四千年前の中国と、現在の中華人民共和国は、国としての連続性がまったくない。

四千年にこだわるなら、その昔、日本を攻めた元と、今の中国が同一国家になる。
もし神風が吹いていなければ、今ごろ日本列島は中国の一部になっていた。

幕末から維新にかけて、欧米列強が次々と艦隊を派遣し日本を植民地化しようと狙っていた。
対処を間違えていたらアジアの多くの国々と同じように、ロシアやオランダの植民地になっていた。

最大の危機は、大東亜戦争の敗北である。連合国は当初、皇室を廃止する計画だった。
この対処を間違えていたら、日本の国家の姿は破壊されていただろう。

大和王朝が成立する前から世界には国家があったが、すでに滅び、今は存在しない。
世界の歴史は王朝交代の歴史で、これまで多くの王朝が興っては滅びてきた。
王朝にとって、十八世紀以降は受難の時代だった。
世界各地でフランス革命や辛亥革命などの共和革命が頻発し、王制に替わる共和国が樹立し、皇帝や王制が崩壊した。
現在、王朝を維持するのは世界で30ヶ国以下、そのほとんどの王に政治的実権がない。
世界史では、200年以内に滅びる国が殆ど、500年以上続いた国は数えるほどしかない。
歴史 のなかで国家は脆弱なものである。
 
◆ 日本は世界最古の国
世界には、190カ国以上の国家がある。
現存する国家のなかで、日本は最も古い歴史を持つ。
国家が編纂した歴史書:正史『日本書紀』に、初代神武天皇の即位が紀元前660年と示される。
以来2600年以上に亘り、神武天皇の子孫が脈々と皇位を継承(万世一系)する。
現在の天皇は、125代目で、百代以上続く皇室は世界で他に例がない。

神武天皇が即位しヤマト王権が成立し、後に列島の大部分を統治する大和朝廷へと発展する。
そして、王朝は一度も途絶えることなく、現在の皇室につながっている。
しかも、国家としても継続し一度も断絶がない。
政治の仕組みは時代と共に変化したが、国家の連続性は途切れてない。

大和朝廷は各地の豪族が天皇の下に束ねられ、天皇は政治権力を行使する立場になく、豪族が政権を担っていた。

平安時代になると摂関政治が始まり、公家が政治を担った。

平安時代後期には武家政権が成立し、朝廷から政治権力が切り離され、幕末の大政奉還まで続いた。

明治維新を経て大日本帝国憲法が発布され、立憲君主国となった。
現在は日本国憲法の体制にある。
 
歴史の節目で国の体制『政体』は変化してきたが、
国の在り方の指す『国体』は同じである。
国体の定義は様々あるが、
「天皇が存在することで自然と国が統合される状態」
である。
それは「天皇が君臨する状態」と表現することもできる。
 
天皇が君臨する状態の継続は、歴代の政治最高権力者が全て天皇に任命されてきた事実からも確認できる。
拝政・関白・太政大臣・将軍などは天皇に任命されて就任する。
現在の内閣総理大臣も例外ではない。
日本の歴史で天皇の任命なく最高権力者の座に就いた者は一人もいない。
 
我が国は朝廷の歴史が連続しているのみならず、国家の歴史も連続している。
大和朝廷と現在の日本国は連続性のある同一国家で、日本の建国は初代神武天皇の御即位まで遡ることになる。

◆ 日本の建国はいつか
日本の建国記念は、正史『日本書紀』の記述を根拠に2月10日とする。
日本の建国は、神武天皇即位を除いて他に相応しい日が存在しない。
ただし、建国の年は意見が分かれ、神話の記述から年代を特定することは難しい。
年代が弥生時代で、文字史料は存在しない。
『日本書紀』によると日本は平成23年(2011)2月で建国から2671年を迎えるが、「事実ではない」との強い批判もある。
 
大戦直後は、皇室の権威を少しでも落とそうと、多くの王朝交代説が主張された。
しかし、いずれも根拠が貧弱で学会ですべて否定されている。
ヤマト王権から現在の皇室までの間には断絶が認められず、一つの王朝が継続していることは明白である。
 
ヤマト王権成立を科学的に確認できるのは、三世紀初頭の奈良県:三輪山周辺に前方後円墳が造られたときである。
前方後円墳は諸外国に例のない特殊な形で、やがて日本列島の広い範囲にこの古墳が造られたことから、ヤマト王権の成立が確認される。 
 
 
日本の天皇制を肯定も否定もしない立場だが、海外の評価は国内とは異なっている。
 
◆ 外国人のみた天皇制
アメリカの研究者が天皇制について興味ある報告をしている。
天皇は、日本人が生み出したひとつの「フィクション」であり、日本人が作りだした「知恵」に近い。
日本人は「天皇」という存在を作り、自己責任・自分の考えを放棄している。
日本の立憲君主制は、欧米の学問的領域のものと異なる。
天皇個人の立憲君主制で、「虚構」の論も成り立つ。
 
日本人は「天皇」という「制度」を作り、本来なら国が行うことの責任を「天皇」という形に押しつけ、誰もが逃げている。
国民自体の自己統治能力、自己処理能力がないことでもある。
 
一方、立憲君主制の側にいる天皇も、責任逃れを用いている。
『君臨すれど統治せず』:臣下の申し出をすべて裁可するが責任は持たない。
西欧の理解と異なり「日本の排他主義的天皇制の伝統が、西欧で通用している一般概念を使って正当化している」というのが彼の考えである。
 
この、近代日本の政治システムの中に作られた大きな矛盾・虚構が、太平洋戦争で爆発した、というのが彼の説である。
日本は近代化の出発点ですでに矛盾を抱えており、その媒介に神道の存在がある。
神道は、本来はプラスの意味があるのに、マイナス側に作用した例だと説明する。
日本の天皇にかかわる問題は結局理解できない。
論理でなく、情念の枠内で考えるしかない。
 
日本語に精通している海外の研究者が、日本の記述を『~と思われる』、『~が想像できる』といった表現を使い大衆性を持たせると受容れられ易いと言う。
そういう記述を日本人は好きなのだ。
 
天皇論に関しては、
「部分的に正しい情報をおりまぜ、読者をあざむくという手法」
を用いる場合もある。
しかし、具体的に理解が深まるかは別である。 

日本語に宿る『和の心』

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日本は世界最古の国 Index スマートグリッドを考える
『日本語には原始時代から継承する“和の心”が宿る』

 
転載元
日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか 竹田恒泰
 
日本語には、仏語、中国語、ロシア語にもない、
『もったいない』や『いただきます』という言葉がある。 
外国語にない希な言葉をいつ、どこで獲得したのか?
日本語の歴史を遡る。
 
◆高天原に通じる「神の言葉」
旧石器時代の言葉は、人類がまだ文字を持たない時代で分からない。
後期旧石器時代から縄文時代早期の日本列島は最先端技術を持った地域で、言語は人類最先端の集団が話す言語だった。
「縄文語」が存在していて、縄文時代後期に揚子江下流域からオーストロネシア語系言語の影響を受け「弥生語」が形成された。 
 
弥生時代から古墳時代にかけ、朝鮮半島西部の言語の影響を受けて「古代日本語」が形成された。
そして飛鳥時代に漢語、江戸時代末期以降に欧米語が入り「現代日本語」に至る。
 
日本列島は海に囲まれるため、大陸と違い戦争で民族が言語と共に滅ぼされる経験がないため、日本語の成立過程は単純である。神道の考えでは神武天皇より前は神世の時代、要するに日本語は、高天原に通じる『神の言葉』になる。
 
最初の統一王朝である大和王朝が成立して以来、日本列島の隅々まで和語が広まり、一つの言語を共有してきた。
日本では『万葉集』、『古今和歌集』などに収録された古代の和歌を原文で読むことができる。
英米人が古代の文献を原文で読むには、古代ギリシャ語やヘブライ語などの習得が必要になる。
普通の人が古代原文で読むのは不可能である。
話者は存在しても、600年前まで英語はなかったに等しい。
「英語」は5世紀頃に形成され、14世紀にはじめて一国の公用語になった。
 
◆日本語は、『和の文化』を伝える
万物に神霊が宿ると考える神道の源流は、縄文時代に遡る。
縄文人は大自然を正しく畏れ・敬い・利用してきた。
日本の『和の文化』は、大自然と人類の和を基本に、『国と国の和』、『人と人の和』が醸し出された。
「もったいない」や「いただきます」の発想は、縄文人やその先祖の旧石器時代人の発想であろう。
日本語は原始日本人の価値観を詰め込んだタイムカプセルである。
日本語は、大自然との調和を重んじた縄文人の発想を伝える道具として機能している。
 
世界史を眺めると、言語は民族と共に生き残り・共に滅びてきた。
英語が世界標準になった裏で、多くの言語が姿を消してきた。
日本語も例外でなく、元寇で神風が吹かなければ、日本列島は中国:元の一部になり、我々は中国語を話していた。
また幕末期の舵取りを間違えていたら、列強の植民地にされていた。
ポツダム宣言受諾が数日遅れたら、日本は東西に分断され、東日本ではロシア語が公用語になっていた。
戦後の占領期に、公用語を英語に替える議論もあった。
 
縄文時代に他の地域に存在したアメリカ先住民、ケルト、アポリジニーなどの民族は現存するが、国土・国家を持たず、言語も失われつつある。
原始民族で国土・国家・言語を持ち、一億人以上の人口を擁しているのは世界で日本だけ。
日本は現存する唯一の古代国家である。
有史以前の古い言語が存続するのは稀有なことである。
 
◆ 最も語彙の多い言語
日本語は、曖昧・非論理な言語である。しかし、日本語は底力があり、長年に渡り洗練されてきた。
7世紀:天武天皇が編纂した最古の歴史書『古事記』は、古代日本語を用いた。当時は文字がなく、太安万呂が中国の漢字を文字変換し、古代日本語を文字化して漢式和文が成立した。
 
漢字は外国語文字で、和語と漢語は語順や語彙が違い、文化的背景も全く異なるため、漢字で和語を表記するのは難しかった。
公用語を漢語にしてしまえば簡単だが、日本人はそれをせずに、漢字を消化して日本文明の道具として使いこなすことに成功した。
漢字が導入されてから幕末まで約1200年間、公文書は全て漢字で表記し、日本語を表現する工夫は近代まで続いている。
漢字は表意文字なので、個々の字に『和語と古代中国語』の二通り(又それ以上)の『音・訓読み』を考案して漢字を活用した。
漢字を表音文字にした万葉仮名を発明して、アルファベットのように日本語の音を表記できるようした。
その結果が『古事記』である。
 
さらに、一音ごとに画数の多い漢字を使うのは煩雑なため、漢字を簡略化した片仮名・平仮名を発明した。
延喜5年:『古今和歌集』は平仮名を用いた。
仮名の導入で漢字カナ混在文が成立し、表音・表意文字を使い分ける形式が整い、日本語は豊かな表現を手に入れた。
明治33年:「小学校令」で、話し言葉・書き言葉を統一して、現代日本語が形成された。
 
英語は語彙の多さで優れているが、日本語も語彙の多い言語である。
『日本国語大辞典』は、50万の語彙を収録し、『オックスフォード英語辞典』に相当する。
他言語からの借用が英語と比べ格段に少ない日本語は、最も豊かな自前の語彙を持っていると考えられる。
 
◆ 漢字文化への偉大な貢献
日本語の語彙の多くは中国語の借用でもある。
文字がなかった日本人は、和語を表記する方法として漢字を導入した。
先祖たちは複数の読みを与え、多くの和製漢字と和製漢語を作り、逆に中国に輸出している。
漢字で表記する日本語の語彙が、全て大陸からの借用とはならない。
 
中国の和製漢語研究者:王彬彬は「現代漢語中的日語“外来語”問題」で記述している。
 
現代中国語のなかで日本語から借用した外来語の数は驚くほど多い。
統計的に、我々が今日使用する社会科学、人文科学分野の用語の7割は、日本から輸入したものである。
これらは、日本人が西洋の語彙を翻訳したものを中国が導入して中国語として深く根を下ろした。
我々の使う西洋の概念は、日本人が我々に替わり翻訳したものである。
中国と西洋の間には、永遠に日本が横たわっている。
 
日本は幕末から明治期に、西洋文化の輸入に、西洋書物を翻訳して多くの和製漢語を作った。
それらを中国の留学生が中国に持ち帰り、そのまま中国語として使うようになった。
 
「中華人民共和国」は、「中華」を除き全て和製である。
中国人が違和感なく和製漢語を使っているのは、中国古来の正しい造語方法や構成方法に従った漢語であるためである。
中国の大学四年生の学位論文「和製漢字と和製漢語」(魯東大学、2009年) 例示。
 
 
【和製漢語の例】
解放 科学 化学 環境 関係 議会 企業 基準 基地
義務 強制 業務 組合 景気 憲法 公民
債務 雑誌 自由宗教 人権 人民 定義 哲学 独裁
任命 法律 保険 輸出 輸入 領空 領土
芸術 権成 講演 工業 時間 市場 主義 出版 政策
政党 電車 電流 美術 批評 本質 要素
予算 冷戦 幹部 協会 金融 原則 原理 国際 指導
商業 証券 代表 単位 電話 動産 物質
民法 目的 理想 理念 議員 協定 銀行
現実 債権 情報 単元 投資 文化 目標 領海
共産主義 社会主義 共和国労働者 労働組合 最恵国
資本家 物理学
 
 
論文では、
「和製漢字文化の生き残りと活性化という点で、漢字文化に偉大な貢献をした」
と評する。
一方で、
『現代日本人の漢字・漢語の知識は、幕末明治期に比べ幼児並みに退化して、他国が受け入れる和製漢語を発明する能力は失った。カタカナ語が氾濫している』
と手厳しい。
 
◆日本語(和語)を世界に広めるために
日本語を世界に広めるには、現代日本人が美しく適切な日本語を使い、原始日本から継承される「和の心」を実践する必要がある。
人類の歴史は、自然を征服することだった。
これからは『自然と調和する歴史』を歩む必要がある。
日本語が持つ「和の心」を世界で共有できることを願う。
英語の話者は、100年で10倍以上に拡大した。
日本語の語彙の輸出に加え、海外の日本語学習者を増やす方策を考えるべきだ。
また、我々自身が日本語の意義を知ることが肝要である。

日本語とヘブライ語の類似を見る

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転載元 日本古代歌謡研究所 

■万葉集をヘブライ語に解読します

(略)

4.発音とヘブライ語子音



『は行等の発音の変遷』
Schluessel&松本かおる

『萬葉集』の編纂は、紀元後7~8世紀頃に行われたとされている。
『萬葉集』を初めとする日本古代歌謡が、実はヘブライ語の子音表記である万葉仮名により作成されているものとすれば、これら万葉仮名をどのように当時発音していたかを研究することは『萬葉集』をヘブライ語で解読するにあたってのもっとも基礎的であり、且、重要なことでもある。

特に「は行」は「ぱ行」「ば行」「ふぁ行」「わ行」と読める可能性もあり、
対応するヘブライ語の子音も
「ヘイ」「ヘット」「フェー」「ぺー」「ベイト」「ヴェイト」「ヴァヴ(w)」と7文字になる。

なお、「わ行」についてはヴァヴとして、英語の[w]音が母音の前についている可能性が強い。


◆万葉仮名における「は行」の読みについて
(『日本語学研究事典』
飛田良文・遠藤好英・加藤正信・佐藤武義・蜂谷清人・前田富祺 編)

奈良時代の日本語の音を表示しているのが『萬葉集』に代表される万葉仮名である。

「(前略)これら(万葉仮名)は、「伊勢・能登・難波」などの地名に残存しているが、奈良時代では地名・人名の表記のほか、和歌や歌謡、天皇の言葉を記した宣命などに用いられた。
奈良時代語の音韻体系を復元することができる」のは、
「万葉仮名が唐代の中国音を反映しており、漢語音韻学の成果によって唐代の中国音声がかなりの精度で復元出来ることによる。
例えば『可波(川)比等(人)布祢(船)伊辺(家)等保(遠)』などに用いられるハヒフヘホの仮名は、漢字原音ではp音系の両唇音を子音に持つ字群であり、
『香・興・会・海』などのh音を子音に持つ字はハ行仮名に使用されない。
このことは、奈良時代の〝はひふへほ〟が p音に近い音であったことを推測させる。(以下略)」

なお、「香・興・会・海」はヘブライ語の「はふ」音に相当するのではないだろうか。
「はふ」と「かふ」はダゲッシュが付くか、付かないかの違いであるので、容易に読みが入れ変り
「はふ」はハ行というよりは、ヘブライ語のヘットの読みに対応するものと考えられる。

◆現在の「は行 はひふへほ」

現在の「はひふへほ」は平安時代には
「ぱぴぷぺぽ」と発音されていたが、
発音方法が簡略化されるにつれて、
室町あたりでは「ふぁふぃふゅふぇふぉ」となり、
現在では「はひふへほ」になっている。

なお、ヘブライ語では p音(「ぺェー」)と f音(「フェー」)とは、
ダゲッシュの有無の相違によるもので、
例えば大天使の一人であるパヌエルがファヌエルと発音されることからも覗える。


◆日本(ニッポン)の由来について

ニッポンの由来の一つとされているものは、中国の日中交通の要地としても知られた「寧波(ネイハ)」と言う地名であるというものである。
寧波の日本語読みが
ネイハ→ニホンであり、
中国読みニンポー→ニッポンとなったという説もある。

ただし、万葉集巻第一之九の最後をヘブライ語で解読すると、「隠す」「蓄える」というヘブライ語である「ツポン」の一人称複数未来形として日本(ニッポン)という語が語源とも考えられる。

nippon⇒nifon⇒nihon

ヘブライ語の意味は「私たちは隠すだろう」である。
つまり、天上界の方針として、日本民族が古代イスラエルの子孫であることを隠蔽している証拠を直接に示すヘブライ語でもある。

ハ行の子音は、遠い上古の時代には [*p] 音であった可能性が高いと言われている。
この音は語頭・語中を問わず頻繁に出現するものだったが、その出現位置(環境)によってそれぞれに異なる変化をたどることとなったため、これを分別して考えるとわかりやすい。

◇語頭では
定説として、奈良時代には [?] 音(ファフィフフェフォのような音)になっていたとされる。
この音はその後長く続いた。

17世紀初めにポルトガル人らによって編纂された『日葡辞書』を見ると、
「母」は faua または fafa、
「人」は fito、
「花」は fana というように、
ハ行の音写に f を用いていて、
[?] 音であったことを示す確実な証拠のひとつとされている。

その後、江戸時代前期にもう一段の唇音退化を生じ、「フ」以外は唇音性を完全に失った。

◇「ン」や「ッ」の後では
平安時代になると漢字音を描写する必要から、撥音「ン」や促音「ッ」といった音が新たに日本語に取り込まれた。

これ以降、撥音や促音の後にハ行音が来るケース(たとえば「憲法」「説法」など)では、自然とハ行音を [p] 音で発音するようになったと考えられる。

これらの [p] 音は当初は /f/ の異音であった可能性が高いが、やがて独立の音素 /p/、すなわち「半濁音」としての地位を獲得していった。

同時に、とくに「促音+ハ行音」の形は和語にも広まり、やがて、
「葉っぱ」「しょっぱい」「ひっぱる」「すっぽり」「~っぽい」など
のちの日常語にはばひろく使われていくこととなった。

こうした変遷の一例を挙げるなら、
たとえば「あはれ」(あわれ) /afare/
という語は、当初は [a?are] のように発音されたと考えられるが、
促音が一般化すると、感極まったような時に現れる音の“溜め”が促音 /p/ として固定され、
「あっぱれ」 /aqpare/
という新しい語形が定着するに至っている。

◇その他の場所では
語頭と同様に奈良時代頃に [?] 音に転じたが、
平安時代から鎌倉時代にかけてハ(は)行転呼と呼ばれる大規模な弱化現象を生じ、ワ行へ合流するに至った。

その後はワ行に起きた変化を被り、
「は」 /wa/ および、
「ふ」/wu/ > /u/
は形を保ったものの、
「ひ」 /wi/、「へ」 /we/、「ほ」 /wo/
はさらに唇音を失い、
「イ、エ、オ」に合流して今に至っている。

なお、ハ行転呼が起きて以降も、綴りの上では長い間ハ行音が遺されていた。
これはいわゆる歴史的仮名遣いというものであるが、
たとえば
「障り」「思う」「前」「遠し」を
「さはり」「おもふ」「まへ」「とほし」
などと書いたのは、遠く遡ればハ行音を用いていたことの名残であった。
今でも、助詞の「は」「へ」にだけはハ行の字が遺されている。

室町時代に次のようななぞなぞがあった。

ははには二たびあいたれども
ちちには一度もあわず

答えは「くちびる」である。
現在「はは」と発音しても、「ちち」と発音しても、くちびるは1度もあわない。

これは国語学上貴重な資料といわれ、
この時代の「は」行音の子音が「h」でなかったことの証拠の一つとされている。

「はは」はくちびるの二度あう音
「ファファ」φaφaだったのである。

「は」行音の子音は奈良時代以前はpだった。
それが奈良時代には φ になっていた。

さらには江戸時代初期にhに転化した。

例をあげるなら
「葉」は古くは「パ」paで、
「ファ」φa、「ハ」ha
と変わっていったのである。

「川」は新仮名では「かわ」だが、
旧仮名では「かは」である。
「かは」も古くは「カパ」kapaで、それが「カファ」kaφaに変わったのだが、
「カハ」kahaには変わらなかった。
それは平安時代末期に「は」行転呼音と呼ばれる現象がおこったためである。

それは語頭以外の「は」行音の子音が
φ からwに転化した現象である。
このことによって
「カファ」kaφaが
「カワ」kawa
になった。

日本語の歴史をつらぬく基本法則に唇音退化の法則がある。
つまりくちびるを使って発音する音が退化していったということなのだが、
「は」行音はそのよい見本なのである。

◇奈良時代
母音数8個とみられる表記が行われる。
あ行とは別にや行の「え」の発音(イェ)がある。
は行はファ行様の発音。
清濁合計約88音を多くの漢字(万葉仮名)で表す。

◇平安
平仮名、片仮名が発生する。
母音数5個の表記になる。
は行の発音は上と同様。

「あめつちの詞」では、
あ行と、や行の「え」の区別があり、
48音の仮名。

「いろは歌」ではその区別がなくなり、47音の仮名。
以後これが規範と考えられるようになる。

濁音を入れて67の音節が存在し、濁音は表記されないが概ね発音に忠実な表記が行われる。

イ音便(例:急ぎて→急いで)、
ウ音便(例:問ひて→問うて)が現れ、
「い、う」と表記される。

撥音(ん)、促音(っ)が行われる。
はじめは表記されなかったり、様々に表記される。

拗音(キャ、シャ、チャ、・・・、クヮなど)
が行われるが表記法が定まらなかった。

語頭に濁音が立つようになるが、濁音表記はされない。

語頭以外のは行の発音がわ行と同じになる。
(は行転呼・兆しは奈良時代から)

わ行(「わ」以外)とあ行の発音の混同始まる。
なお、「を」という音は残されたままである。

わ行をヘブライ語との対応で考えると、
母音の前に「w」音がついた形であり、
この「w」音に対応するヘブライ語が
「ヴァヴ」(「う」)と発音する。

例えば、
イスラエルの神の名である「ヤハウェ」の「ウェ」というのは、
「ヴァヴ」+「ヘイ」である。
つまり「w」音に準母音が添えられている形である。
したがって、日本語のわ行というのは
「ヴァヴ」を頭につけて
「w」音として発音させたものと考えられる。

なお、「を」については、
「ヴァヴ」を二つ重ね合わせて「ウォ」と発音させたものである。



■日本語 と ヘブライ語
秦氏・日本とユダヤ文化
転載元 ;renaissancejapn@aol.com
 
 
日本語 と ヘブライ語  
秦氏・日本とユダヤ文化
 
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「大和民族はユダヤ人だった 」の著者であるユダヤ人言語学者ヨセフ・アイデルバーグは、 カタカナとヘブライ語の驚くほどの類似性を指摘していた。
また、日本語の中にヘブライ語の単語が混在していることも指摘していた。
彼は以下のような発言をしていた。

「私は14年の歳月をかけて世界各地の言語を調べあげた。
世界には中南米のマヤ人をはじめ、いくつも “失われたイスラエル10支族” の候補となる民族がいるのだが、日本語のようにヘブライ語起源の言葉を多数持つところはなかった。
一般に日本語はどの言語にも関連がないため “孤語言語” とされているが、ヘブライ語と類似した単語が優に3000語を超えて存在している。」

日本語とヘブライ語の共通性は、このヨセフ・アイデルバーグ氏だけではなく、多くの研究者たちが指摘しています。
ここで、その全てを紹介するには、あまりに量が多いので、この共通性をまとめたBlogサイトを紹介します。 

言葉の社
http://www.sun-inet.or.jp/usr/hiro7733/public_html/word/word.html

私の持っている本にある、日本語とヘブライ語の類似表にある単語の一部を紹介したいと思いますが、天皇や祭司に関した言葉、日常生活の言葉にも多く類似点が見られます。

日本語(大和言葉)とヘブライ語の単語の発音と意味を下記に紹介します。

ミカド(帝) - ミガドル(高貴なお方)

ミコト(尊) - マクト(王、王国)

ネギ(神職) - ナギット(長、司)

ミササギ(陵、墳墓) - ムトウサガ(死者を閉ざす) 

アスカ(飛鳥) - ハスカ(ご住所)

ミソギ(禊ぎ) - ミソグ(分別・性別) 

ヌシ(主) - ヌシ(長)

サムライ(サムライ) - シャムライ(守る者)

ヤリ(槍) - ヤリ(射る)

ホロブ(滅ぶ) - ホレブ(滅ぶ) 

イム(忌む) - イム(ひどい)

ダメ(駄目) - タメ(ダメ・汚れている) 

ハズカシメル(辱める) - ハデカシェム(名を踏みにじる)

ニクム(憎む) - ニクム(憎む) 

カバウ(庇う) - カバア(隠す)

ユルス(許す) - ユルス(取らせる)

コマル(困る) - コマル(困る)

スム(住む) - スム(住む)

ツモル(積もる) - ツモル(積もる)

コオル(凍る) - コ-ル(寒さ、冷たさ) 

スワル(座る) - スワル(座る) 

アルク(歩く) - ハラク(歩く)

ハカル(測る) - ハカル(測る)

トル(取る) - トル(取る)

カク(書く) - カク(書く)

ナマル(訛る) - ナマル(訛る)

アキナウ(商う) - アキナフ(買う) 

アリガトウ(有難う) - アリ・ガド(私にとって幸福です) 

ヤケド(火傷) - ヤケド(火傷) 

ニオイ(匂い) - ニホヒ(匂い)

カタ(肩) - カタフ(肩)    

ワラベ(子供) - ワラッベン(子供)

アタリ(辺り) - アタリ(辺り)

オワリ(終わり) - アハリ(終わり)
etc.


確かに、これだけ似ていると、ユダヤ人が日本語はヘブライ語に近いと思っても不思議はないと思います。

しかしながら、我々日本人は漢字が導入されるまでは、文字を持っていなかったと学校で習っており、最初に示したカタカナとヘブライ語の類似性は理解不可能となってしまいます。

これについては、また別途投稿しようと思っていますが、それは家庭教師の秦河勝から影響を受けた聖徳太子は神道派でありましたが、仏教が日本に伝来してきたとき、神道(物部氏)vs仏教(蘇我氏)の宗教戦争がありました。 

この時、物部氏は破れ645年に蘇我氏が朝廷図書館に火をつけ、日本の過去の記録が全て焼かれてしまい、仏教に都合よいように歴史が全て改ざんされているからです。

聖徳太子は、神道を捨て仏教をのみを採用すると、中国の易姓思想(革命思想)により、日本は常に下克上(内戦)の危機にさらされ、隋や唐に対抗する為の天皇を中心とした中央集権体制、また国内の安定化が図れないとみて、神仏儒習合思想を打ち出したのだと私は見ています。 

しかしながら、蘇我氏により全て仏教に都合よいように日本の歴史は捏造されたが故、異端とされた先代旧事本紀大成教では、
「篤く三法を敬え。
三法とは、儒・仏・神である。
・・・」
と聖徳太子が述べているにも関わらず、

日本書紀では「篤く三法を敬え。
三法とは仏・法・僧である。
・・・」
と書き換えられた物が正紀となっているのです。 

聖徳太子が良く分からない存在であるのは、彼の神道・ヘブライイズムがほとんど削除され、後に熱心な仏教徒であったが如く書きかえられているからだと思います。 

私の推測では、まず日本にはシュメール、ヘブライ、ギリシャなどの文化がシルクロードを渡って伝えられ、彼らの言葉や文字をもっていた。 

物部vs蘇我の戦いで、蘇我仏教派が勝利し、過去の文明は闇に葬られた。
しかしながら、古事記への伝承には一部それらが残されており、中国と対等な外交をするために、仏教を念頭に置き、かつ漢字だけで書かれた日本書記が創られ、古事記と内容が一致していない部分がある。 
そして聖徳太子を仏教の偉大な教主として捏造したのが、唐留学から帰国したエリート僧の道慈であったと考えれば、全て説明が出来るのではないでしょうか。

■日本とユダヤ の良く似た風習

日本とユダヤの共通した風習が多くありますので、紹介したいと思います。
外国人に、日本人の宗教は何かと聞かれると、まず間違いなく仏教であると答える人がほとんどではないでしょうか。 

一方で、仏教の金ピカの巨大な仏像に対して、神聖さは感じず、森の中の神社に神聖を感じる日本人の方が多いのではないかと思います。

宗教的には、ユダヤ教と日本の神道は徹底して偶像を嫌います。
神道はさらに、人々におしつけがましい経典や戒律もなく、よくこれだけの長い歴史の間、信仰を集めていることの方が不思議な気もします。
裏をかえせば、それは我々日本人の思想や行動に深く浸透しているものであるからともいえます。

私は日本文化の本質は、中国のようにゴテゴテ飾る物には品性を感じず、
自然体の 「生成りの文化」 であると思います。
それは、温暖で山海の幸に恵まれ、平和で自然と調和してきた長い縄文時代にはぐくまれてきたものであると思います。

また、水と清めへのこだわりが強く、
そういう意味では我々はアジアの一員ではありながら、アジア独特のコテコテに着飾った怪しげな風貌の偶像を崇拝したり、原色を用いたコテコテなデザインよりも、むしろ欧米のユダヤ教、キリスト教的なスッキリとして神聖さを保っている文化やデザインの方に、心の落ち着きを感じる人の方が多いのではないでしょうか。

特に、清潔好きという意味では、ユダヤと日本の神道は、世界の中でも際立っていると思われます。
中世ヨーロッパで疫病が流行りましたが、ユダヤ教徒はあまりかからず、キリスト教徒に多く災いがふりかかった為、ユダヤ人が異教徒を殺害する為に、毒を井戸にいれたという噂が広まり、迫害された歴史があるようですが、これは旧約聖書に書かれているあるべき生活に神経質なまでの、清めや水による手洗い習慣が規定されているからです。
簡単な事ではありますが、ついこの間までの話ですが、手術の際に手を洗うというのを病院で導入する事により、患者の死亡率が急減したように、案外世界では水で手や体をよく洗うというのが出来ないところが多い事に日本人は驚かされます。

ヨーロッパでも、ベッドの横にあるテーブルは、もともと夜中に小便をいれる容器を置いていた物で、朝になると窓から、路地に向かって捨てていたのです。 だから疫病が流行り、香水で匂いをごまかす習慣ができました。 

清潔好きというユダヤ人と日本人の大きな特徴がありますが、風習にも多く共通点が見られます。

子供が生まれたとき、生後30日目の赤ん坊を神社に初詣させる習慣は、世界でも日本とユダヤにしか見られないそうです。

また、ユダヤ人の習慣として、今でも13歳の男子に、成人を迎える儀式「バル・ミツバ」を行なうことで有名ですが、日本人も昔、13歳の男子に成人を迎える儀式「元服式」を行なっていました。

結婚式での共通点は、どちらも花嫁はベールをかぶり顔の上半分を隠しますし、同じ盃やグラスで酒を酌み交わします。

ヤコブが花嫁がラケルではなくレア(姉)であったのを見破れなかったのも、結婚式で花嫁が被り物をしていたせいであります。
また、兄弟の嫁さんが未亡人になったら、その兄弟が未亡人をめとり、亡き夫の兄弟としての義務を果たさねばならないという習慣があり、日本でもつい最近まであったそうです。
ユダヤ教では、レビレート(Lenirate)結婚と呼ばれ、旧約聖書(申命記第25章)に書かれています。

また神道の結婚式では、新郎新婦がそれぞれ逆向きに回り、再び会いますが、
古事記のイザナギ、イザナミが天の柱をそれぞれ右回り、左回りに回り、出会って結婚した事に由来しています。
ユダヤ人の結婚式でも花婿が柱となり、花嫁がそこを回って結婚するのだそうです。

また喪に関しては、死後2日間は、喪に服している人は自分の食べ物を食べず、親戚や近所の人が食事を運んできます。そして、喪に服する人は7日間働かず、
49日間は肉、酒、祝い事は禁じられています。
これも共通しています。

日本人の習慣として、ハイライトはやはりお正月であると思いますが、ユダヤ人にとってのハイライトである過ぎ越しの祭りと、非常に興味深い多くの共通点があります。
過ぎ越しの祭りとは、モーゼ率いるイスラエルの民が、エジプトを脱出した事を祝った祭りです。

日本では、正月前に大掃除をし、大晦日は家族で集まって食事を取り、何故か携帯食のようなおせち料理をつくり、餅を飾り、正月になると神社に初詣に行きます。 

まず、イスラエルの過ぎ越しの祭りの1月14日は、日本の旧暦の大晦日と同じ日なのだそうです。
ユダヤ人も、過ぎ越しの祭りの際には、家にあるパンの種を除く為、徹底して家中を大掃除し、日本では種入れぬモチを食べるように、種入れぬパン 「マッツア-」 を食べます。
そしてユダヤ人は、円く平べったい 「マッツアー」 を祭壇の両脇に重ねて供えますが、
日本の「鏡もち」を連想させます。

そして、エジプトでの苦労を忘れないように、ユダヤ人は1週間苦菜を食べますが、日本では七草粥を食べます。

ユダヤ人は、出エジプトの旅支度を記憶した携帯食を食べるように、日本でも携帯食のように持ち運べて、日持ちのする 「おせち料理」 を食べます。 

そして、ユダヤ人は過ぎ越し祭りの朝になりと、一家で神殿シナゴークにいってお祈りをしますが、日本でも元旦の朝には家族揃って神社に初詣にいきます。 

日ごろ信心のない日本人ですが、何も強制されないのに、この日ばかりは日本人の約8割の9000万人が、何かの霊力に操られたかの如く、神社に押しかけるそうです。

そうして、日本の正月もイスラエル(ユダヤ)の過ぎ越しの祭りも、同じ七日間祝います。

ルーツ・ファンタジー/すべての宗教は一つだった 2

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転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

■聖母と邪馬台国・卑弥呼

日本には天照大を最高神とする女神信仰が、今も息づいています。
ところが、女神信仰は案外、世界の神話でも珍しい信仰形態です。



『魏志倭人伝』によれば、当時、魏は帯方郡を通じて韓・倭を支配していたのだが、帯方郡⇔対馬⇔壱岐⇔松浦(佐賀県の唐津)⇔伊都国⇔奴国(福岡県の博多)⇔投馬国(福岡県・三潴郡)⇔不弥国(福岡県の宇美町、胎中天皇・誉田別命の生誕地と言われる)のルートが確立していた。

ちなみに、磐井の乱の筑紫野君は福岡県の八女付近大豪族だった。
この北九州地域一帯を統治していた女王を奉ずる女王国と、女王国の大豪族・奴国、男王を封じる狗奴国が争うような状況だった。

※ 狗奴国(肥後、熊襲の祖といわれる 肥=日、火の国=日の国)

これを仲裁しようと魏から郡司・張政が使わされた。

張政は女王卑弥呼ではなく、奴国を支持し、結果、卑弥呼は自決している。

つまり、女神信仰として、霊能力を失った女王は死ぬことで、龍の女神と一体化し、新たに霊能者を誕生させるという祭政一致の儀式が執り行われたと推測される。

さて、女王国の卑弥呼(日巫女 or 火巫女)に対して、狗奴国の男王を「卑弥弓呼」という。
つまり日巫女に対し、男性霊能者のことを意味している。

この争いは、張政により、次の日巫女・台与(トヨ)により収拾が図られ、北九州地方が統一され邪馬台国として確立された。
これが九州王朝の始まりと考えられる。

つまり、ポリネシア系では無く、マルドウク・月神系氏族が政権を奪取し、国名を倭から邪馬台国に変更した。
だから、倭・邪馬台国はユダヤ人純粋の民族では無く、神武系・崇神天皇系の大和朝廷が純粋のユダヤ人の王朝だったと云うことでしょう。

だからこそ、出雲・吉備王国が大和朝廷と統合したように、九州王朝も統合したのだと思います。
そして、九州王朝の聖徳太子、天武天皇は、大和朝廷に養子の様な立場で政権に参加したのでしょう。

・金印「漢倭奴国王」
漢の時代に、南西や南東の異民族の王に与えた金印。

・景初三年(239年)、
倭王卑弥呼が隋へ大使を派遣する。
倭の内乱を契機に、
帯方郡使・張政が17年間滞在し、
女王・台与が実権を握る。
台与は大使団を編成して、張政を送還した。

・当時の奴国は、韓国から鉱物を輸入し、
青銅器や鉄器などを生産する大工業国だった。
その後、鉱物資源の流れは出雲・吉備へと移動し、
政権の中心もまた移動していくことになる。

◆結論として
近畿の大和と邪馬台国とは、同じ日神を祀るのですが、渡来ルートも人種も異なっていたと結論できる。

そして、日本が、蛇女神=ニンフルサグを最高神とする国へ移行しなかったのは、神の恵みだと思います。

その後、サタンは、男神・天照大神を女神だと改竄、聖母マリア=天照大神として形骸化させ、メシア・キリスト教を日本に定着させたあと、天上界と皇室を殲滅する計略を画策した。
しかし、日本には太陽神信仰・君臣共治の天皇制が定着しており、大東亜戦争前までは、メシア・キリスト教も共産主義をも排除していた。
メシア・キリスト教においては、敗戦後においても日本に根付かなかった。
しかし、GHQによる占領政策により、ついには左翼・民主党政権の樹立に至り、シナを中心とした共産主義思想革命の脅威が目前に迫っている。
この脅威については、サタンの親玉・ニンフルサグが、中国を陰で支配している可能性があるのではないかと思います。結局、人類創成以来の「善と悪の闘い」の決着の時なのかもしれません。


■冥界の支配者、君臨する女王
シュメルの時代、魔術に関するもめ事、男女間のもめ事などについては、通常の裁判では決着が付かないので、訴えられた者を河に投げ込み生還すれば無罪とする「黄泉の神による神名神判」が、法の下で行われていた。
この「河の神」に神判を求める風習は、日本を含め世界中に存在していました。

シュメル時代の冥界のイメージは、亡くなった者達が行くところで、活動の無い面白みの無い世界とされていました。
黄泉とか冥界という響きは、現代の私達にとって、天国とか地獄のイメージと重なってしまい、古代の人々の描いていたイメージとは大きく異なってしまっています。

例えば、古代日本において、永遠の生命を持つ “根の国” 、海の底にある “竜宮城” などは、当時の人々にとってあこがれの世界でした。
ケルト神話においても、地下世界や海の底にある世界は、長命と健康を保証するあこがれの世界だったのです。
ところが、メシア・キリスト教が広まるに従い、異教の神々をサタンや悪魔とし、異教の神々の住む地下世界や海の世界を地獄と見なすようになった。
そして、神々の住まう世界・天上界を、非科学的ですが大気中にあるとしたのです。
このメシア・キリスト教的な天国と地獄の発想は、仏教に取り込まれ独自に発達を遂げて、密教として日本に伝えられ、メシア・キリスト教や密教の黄泉・地獄のイメージが定着してしまいました。
この天国と地獄のイメージは、サタンが人類を精神的に支配するため人類に与えられたバーチャルなプロパガンダだったのです。


■魔族:支那人と韓国人

支那人は興奮すると失神してしまう。
韓国人は興奮すると自傷したり、自分の家に火を付けてしまう。
以下、これを支那病と火病と呼ぶ。

失神と自傷癖で思い出すのは、障害児に多いと云うことだ。
言葉や身体が不便だったりして、相手に自分の気持ちを伝えられない精神的ストレスが嵩じて、起こる病気だ。
自傷と癇癪、
私にはこれが支那病と火病の原因だと思えて仕方が無いのです。
つまり、支那・韓国人はその抑圧された歴史から、自分の気持ちを表現できない、自分の内面を見つめられない、他人と妥協できない、という特徴が形成されてしまった。
だから、彼らは、暴力的・自傷的になり、他人に責任を全て転嫁し、もっとくれ、もっとくれと要求するばかりで、自らの科学的な発展と人格的な深みは期待できないのだ。

例えば、対馬の寺から韓国人が盗んだ仏像を、韓国の僧侶は歴史的事実を無視し、倭寇により盗まれたものだと主張して返還しない。
彼ら韓国僧侶には八正道は通じないのだ。
ほかにも、慰安婦事件、南京事件、尖閣問題、陛下侮辱事件、官製ヤラセデモ事件、などの現実の被害を忘れてはならない。
日本人は支那式漢字文化と支那式儒教を素晴らしいと思い込んでいますが、それは大間違いです。
ここでは何故、このような気質(遺伝形質)を持つに至ったのかを、検討してみました。

◆古代漢字では、自分の気持ちを伝えることはできない。

前2072年頃、バベルの塔を神が破壊した。
その時、民族ごとに言葉と文字が別々になった。
それは、風土や民族の特徴に応じた言語体系をもたらすことにより、人類の精神的な発達を促すための神々の知恵だった。
日本語は動詞が後に来るので、自分のことを表現し、相手の気持ちを察するのに都合が良かった。
英語は動詞が前に来るので、他人の動きを観察するのに都合が良く、自分のことに対しは一呼吸置くことで、白人の色素不足を補うように強力に知性の発達を促した。
ところが、神の意志に反して、民族共通の漢字という絵文字が登場する。

前2000年頃だろうか、夏の時代に漢字が発明され、それが殷の甲骨文字へとつながり、現代の漢字へと徐々に進化した。
黄河流域は、陸と海のシルクロードの交差点(中原)で、巨大な商業地帯だった。
中原には周囲からたくさんの民族が集まり、種族ごとの言葉を話していた。
そこで、商売に便利なように、言葉の代わりに、並べ方に決まりは無いが、漢字という絵文字をいくつか並べて、交易を行うようになった。
だから、漢字には文法は無く、
“てにおは” も無く、
抽象的な概念や気持ちを表す絵文字も無く、
民族ごとに発音はバラバラだった。
民族ごとに発音と絵文字が異なり、
絵文字の並べ方も異なるので、
本を書いたとしても、文字を書いた人物やその学派にしか意味が通じないのが実情だった。
師匠が述べたことを思い出すための絵文字が並んでいるに過ぎなかった。

書物があっても、それを書いた人で無ければ意味が分からない。
もしくは、個々人が独断で読んでしまい、文法が無いので、誰が本当に正しい解釈なのか判断できない。
だから、周囲の人に自分はこう思うと大声で述べ伝え、人気の在る人が正統と見なされてしまう。
支那人は夫婦喧嘩が始まると、どちらの言い分が正しいのかについて、お互いに話し合い悪い点を相互に改めると云うことはしない。
つまり、漢字に文法が無いので、自己批判ができないのだ。
そこで、大声で周囲の人に自分の正しさを吹聴し、周囲の人からの人気でどちらが悪いのかを決めてしまうので、自己批判したり妥協して納得することは無い。
それは、人間関係だけでは無く、政治でも、交易でも同じなのです。
例えば、現在の皇帝の威信を民に示す最高の方法としては、皇帝と民の信頼関係を確認するのでは無く、外国の大国が支那を訪問し、皇帝に朝貢する。
国内の皇帝の威信を高める親しい国に対して、最高のサービスを施し、国内外に大々的に宣伝し、最高の名誉である金印(「倭奴国王」「親魏倭王」)を授与するのです。
現在の支那のド派手な外交と贈り物は、人民に対し威信を保とうとする卑屈な姿勢なのです。

前200年頃、秦の始皇帝が支那を統一した。
ちなみに、支那流の皇帝とは、王をまとめたナポレオンのような皇帝という意味合いだけではない。
「皇」はキラキラ輝く、
「帝」は「大地母神」の伴侶という意味で、天から雨が降り大地を潤して、そこから生命が発生するという意味を持つ。

やっかいなことに、司馬遷により、皇帝は唯一絶対の専制者に仕立て上げられてしまった。
そして、権力の継承は男子男系ではなく、皇帝から移譲されるという形式を取りながらも、実質は力のある者が奪い取る覇道が主流となった。

始皇帝は漢字を統一しようとした。
有名な焚書だ。
医学や農学を除外して、彼の定めた学派の書物以外を燃やしてしまおうとしたが、失敗した。
というのも、漢字には文法が無いので、漢字を文書化するのは、庶民では不可能で、学派ごとに文字の意味も発音も異なるから、一子相伝の伝承に頼るしかない。
だから、漢字の意味を解釈する手がかりは、書いた当人か、古典を継承している学派の中にしか無い。
同じ漢字がどう使われているのか、古典の中から探し出し、文脈を探るしかないのだ。
つまり、個人の自由な発想や抽象的な概念や気持ちを伝えるようなものではなかった。

◆皇帝と儒教による暗黒時代
漢の時代になると、それまでの宮廷にあった法学・兵学等々に加え、儒教が認知される。
当時の儒教は、一種の科学として、将来を見通すものとされていた。
そして、中間管理職を育成するための道具として、つまり皇帝にのみ仕え奉仕する官僚を作り出すことで、皇帝の権威を高めたのです。
そして、儒教を国教として実践したところ、漢の時代に人口は三分の一に激減し、三国時代から随の直前までに、人口は十分の一までに激減したのです。
これは共産主義者・毛沢東による支那人民の大虐殺に相当している。
専制皇帝・儒教時代と、共産主義・毛沢東時代は、両者共に支那の大暗黒時代なのです。

西洋では皇帝の権威を護るためにキリスト教が利用され、暗黒のキリスト教時代を迎える。
教会の腐敗と残忍な魔女狩りが横行した。
その後、人間性の復興を歌うルネサンス(古代ローマに戻ろう)を迎え、国王とキリスト教のバランスする時代に至ります。
このようにして、神の前の平等を唱える民主主義が芽生えました。

しかし、支那においては、複数の皇帝が名乗りを上げても、唯一無二の皇帝思想と、自分の仕える皇帝のみを支える儒教精神により、互いに妥協することなく、滅ぼすか、滅ぼされるまで戦いあったのだと思います。
絶対専制と儒教により、官僚は自由な心を失い、暴力的になり、村全体を保存食としたり、妻子を食事として差し出すなど、民と下級兵士がその犠牲になったのでしょう。

キリスト教は神イエスの直下に、罪深き人間が、直接つながり、神を守天する使い達が人類を裁くのです。
そして、このキリスト教の黙示録から、共産主義が生まれました。
ところが、キリスト教や共産主義は、それよりも古い「皇帝と官僚と人民という唯一無二の専制政治」と生き写しなのです。
しかも、支那人は十分の一に減少するまで殺されているのですから、ヨハネの黙示録そのままです。

◆原始仏教と儒教について
仏陀の活躍した当時のインドでは、カースト制度でガンジガラメに縛られていた。
だから仏陀は、人の生まれでは無く、人の行いにより、その人の価値が決まると説いたのです。
原始仏教は、人々に、精神の自由を与えるために、八正道という形を伴い神々により与えられた教えでした。
仏教はあくまでも個人の道徳の問題で有り、政治システムを支える教えではありませんでした。

一方、儒教は唯一無二の皇帝制に縛られていた当時、忠よりも孝を優先することで、皇帝制に風穴を開けようとしたのです。
しかし、儒教が皇帝制を維持する道具として定着し、官僚の自由な精神を縛るものと化してしまった。

■唐の時代~宋の時代
十分の一に人口が減少し、元は異民族だったのだが、数代住み着いた者達=漢人の盗賊団が、隋朝と唐朝廷を建国する。
少なくなった人口については、周囲の異民族が流入してきた。
そして、唐の時代に、科挙の試験が実施されるようになり、官僚のみ成らず、一般市民にまで不自由な漢字化が進んでいく。

ところが、不自由な漢字に縛られない異民族の中から、李白と杜甫が登場し、私情豊かに自然を歌い、これを表現できるように漢字が改善された。
それでも、抽象的な語彙や心の内面を表現する語彙はほとんど無かったが、科挙の試験に詩が追加された。
戦乱に明け暮れる支那の歴史においてはこの時期、僅かに平安の時代であった。

漢字には文法が無く、自己反省が不得手なので、科挙の試験に科学は無かった。かつ、過去の文献を記憶することが中心なので、オリジナリティーや個性に乏しくなるから、人のアイデアや特許を盗むことが得意になったのだろう。

唐の時代が終わり、再び戦乱の時代となった。
不安定な宋の時代に移行した。
宋の時代に、道教を中心に、道教・儒教・仏教の三教が再編された。
やがて、この三教が、儒教の用語を用い、古い儒教の教典に置き換えられ、「新儒教」=朱子学が誕生するのだが、周囲のより高度な文明と強力な軍事力を持つ異民族の圧迫を受け、宋は滅ぼされてしまう。

中原は、世界帝国であるチンギスハンの支配する一地方にまで、落ちぶれ、唯一無二の皇帝がチンギスハンの元に複数並立する時代に移行する。
その屈辱の時が、如何に相手の軍事力が強くとも、中華の正統性はこちらにあるとして自尊心を慰め、周囲の異民族を野蛮人とした弱者の論理を振りかざす「中華思想」の始まりとなる。

この朱子学は、李氏朝鮮では唯一無二の学問となり、大陸の思想・文化に大きく縛り付けられることになる。

日本では武家が朱子学を学んでいるが、
同じ学問でも、支那・韓国式と、日本式では大きな違いが出てくる。
ひとえに、
日本神話・和歌などに育まれた人格と伝統の違いからでしょう。

■日清戦争と漢文の日本語化
元・明・清は、異民族の王朝であり、唐までの文化を引き継ぐことなく、異民族の文化と軍事力で中原を支配した。
清の時代、漢民族は二等市民とされ、政治と国家経済に関与できず、便蒙を強制され、チャイナ服を禁止されていた。
科挙の試験に合格すれば、国政には関与できたものの、国家経営には関与できなかった。
つまり、漢民族は、自由な表現を漢文により奪われ、新儒教により精神を束縛され、国政と国家経営に関与できない二等市民として、生き続けていたのである。

ところが、日清戦争に負け、近代化の気運が高まると、科挙の制度は廃止され、清国から日本への留学生が支那国政に関与するようになる。
そして、西洋文化に関しては、日本語を通じて漢文に翻訳しようとしたが、これまでの漢文では日本語をそのまま翻訳することはできなかった。
また、清から西欧に留学した者達も西洋文化を漢文に翻訳することは不可能だった。
そこで、漢字の日本語化が行われた。

1918年、魯迅が日本語で考えた文章を、漢文に移す方式を生み出した。
これにより、日本文学のテーマなら何でも漢語で表現できるように漢文が日本語化された。
つまり、支那文明が日本文明の一部に組み込まれたのだ。

やっと、支那人が心を縛る科挙の制度と、硬直した漢文から解放され、支那人が支那病から脱出する精神革命が起ころうとしていた。

■支那系魔族:中華人民共和国の暗黒時代
大東亜戦争で日本が敗戦すると、蒋介石や共産党により、支那人伝統の虐殺が始まった。
毛沢東が政権を握り文化大革命が終わるまでに、五人に一人が殺されたと云われている。
毛沢東思想を楯にした一般人が、医者・学者・教育者・社会的地位のある人々ばかりを惨殺した。
支那病の形質を持つ者達であれば、毛沢東思想を利用して、抑圧された精神からヒステリックに、人々を殺すことでしょう。
この精神構造こそが、欧米系サイコパスと異なる支那系サイコパスとも云うべき、支那系魔族の特徴なのだと思います。

このように毛沢東革命により、支那病の形質を持つ者ばかりが生き残り、支那人は原始時代にまで逆行し、日本語化された漢文をも失ってしまった。

一方、資源が無く、食料も乏しい朝鮮は、高句麗の時代から、北朝鮮に似た状況にあり、しかも随~清の圧政により、美女を献上し、奪われないように食物を糞尿に隠した、それ自体が、抵抗できない圧制者に対する自傷行為と同じで、しかも、朝鮮戦争により、国民の四割が亡くなったのである。

■支那人・朝鮮人の悲劇
シュメルやバビロニアの時代、オリエントから亡命したイスラエル人、ユダヤ人、原始キリスト教、シュメル人などなどは、シルクロードを通じて東へ移動し、月氏国などの様々な高度な律令国家を建国し、たくさんの発明を残した。
そうした中には、数度のバビロン捕囚時に、神武東征、イザヤの末裔などが、次々に陸と海のシルクロードを通じて日本に渡来する。
(⇒『古代ユダヤ人と流浪の民』参照)

夏人は最初、長江に居た。
三星堆遺跡近辺だろう。
おそらく、夏人は迫害を受け、技術者集団は朝鮮半島を経由せず、直接に海を越えて、九州や関東や島根や北陸に移動したとした場合、
彼らは縄文人だったかも知れない。

縄文人は高度な土器と狩猟採取と稲作と栗などの果樹園を設け、都市国家を営んでいた。
その後、長江でジャポニカ米が創造され、彼ら稲人が海を越えて日本に定住型稲作を伝えた。
一方、青銅技術者は殷に連れ去られたのでしょう。

夏・殷・周・秦・漢・魏までは、金印(「親魏倭王」「漢倭奴王」)が示すように倭国とは同盟国で同族だったが、
隋・唐・清は高度な文明と軍事力を持つ騎馬民族(チベット、モンゴル、契丹)の王国となって後、日本との交易はがらりと変わってしまう。
白村江の戦いで日本に勝利した支那は、日本文明を漢字化・偶像仏教化し、大陸に飲み込もうとしたが、唐の滅亡もあり中断。

騎馬民族は、それまでの支那の暗黒の時代から、中原に新風をもたらした。
専制皇帝を廃し、不自由な漢文や儒教から脱出し、多民族と多宗教と文芸にも優れた世界国家へと飛躍し、暗黒の支那から脱出したのだ。

しかし、秦は秦一族を、唐はユダヤ教や原始キリスト教を弾圧迫害し、天照大は七福神を伴い、彼らと共に日本に渡来する。
日本は旧約の正当な末裔であり、神の民として日本を発展させていく。
つまり、ダビデは、大陸から神の民を日本へと追放したのだ。


◆漢と魏は九州王朝を最重要の同等な同盟国とした
九州王朝は、二個の金印を漢と魏から貰っている。
漢の時代前57年の「漢倭奴国王」、
魏の時代239年の「親魏倭王」である。
当時の金印は、漢・魏にとって、九州王朝は彼らと同等の同盟国という意味であった。
ちなみに、新羅の地位は銅印で、九州王朝の植民地もしくは支配地と見なされていた。

西方から来た秦氏一族(ユダヤ人)が、秦王朝を建国し、秦氏一族の技術者集団・除福が日本に渡来した。
秦が滅んで、中原に土着した秦氏一族の残党から漢王朝が建国される。
そして、魏は漢王朝の正統な後継者と自認する。
つまり、漢・魏が九州王朝を同盟国とした秦の末裔だと考えれば、何故彼らが日本に金印をもたらしたのか、その理由が明らかになる。
そして、天照大(ヤハウエ)と七福神(七大天使)の日本渡来により、大和国=日本が正統なユダヤの末裔となる。



新教皇・聖フランシスコはザビエルを崇敬している。
サビエルは日本を植民地化しようとするスペインを思いとどまらせた。
彼の意志を継ぐシドッチは、和服を着て刀を持ち、単身日本に上陸する。
白石とシドッチの討論から『西洋紀聞』が生まれ、その精神は福沢諭吉につながる。
非常に日本に関係深い教皇の誕生なのだ。


■神代文字の真実と二度の出エジプト

卑弥呼の時代、北九州はシルクロードの終着点だった。

当時から、日本は貿易の決済を砂金で行っていた。

日本には銅や鉄が産出しないので、縄文人は海を越え、稲作と青銅器技術を携え、越を建国した。

越人は、大陸のシルクロードの終点である黄河流域へ移住し、夏人として夏帝国を建国し、稲作と青銅と甲骨文字を殷帝国にもたらしたと思われる。

この甲骨文字は、縄文人が使用していた神代文字を元にしたものだった。

◆シルクロードの終点
卑弥呼の時代から、日本の貿易決済は砂金だった。
というのは、江戸時代には大量の金が有り、金と銀の価格差が貿易として成り立っていた。
また、マルコポーロの時代は銀で、その後は銅の国だった。
(⇒『古代日本の有力氏族は渡来人だった』)

縄文時代には、豊富な砂金が有り、都市生活を営む縄文人が、砂金を収拾していたと思われる。
中南米のマヤなどの巨大宮殿は、水の力を利用して、鉱石を分離して、貴金属他を採集していたことが分かっている。
しかし、ノアの大洪水後の日本の場合、山々が持ち上がり、豊富な流水が有り、自然に砂金として採集できるのだから、沖縄の海底神殿や琵琶湖の湖底にある巨大神殿は必要なかった。

◆縄文人は日本語(神代文字)を話していた
さて、問題は、何故日本に日本語が定着したかです。
縄文人は日本語をしゃべっていたとしても、勝者である大和朝廷(エフライムとユダの正当な末裔)は、ヘブライ語を話していたと想定すると、どうしても納得できないのです。

ノアの大洪水以前、沖縄の海底神殿、大鏡にある琵琶湖の湖底の大神殿などから、日本にはアヌンナキの大神殿があった。
おそらく金採掘のためでしょう。

人類の時代に移行するにつけ、戦争や農業のために、青銅器や鉄器が権力の象徴として重宝されたので、縄文人が海路で越に移動し、越人が黄河流域に移動して夏殷を建国し、青銅器と稲作と漢字をもたらした。
つまり、彼ら縄文人は大洪水後も、日本語を話していた。

彼らの文字が神代文字で、海経由でシナ大陸に移動し、神代文字を基盤にして甲骨文字を発明した。
だから、文明は大陸からと云うのは間違いです。

英語は24文字で、日本語は母音を含む15文字で、会話を全て表現できる。
両者共に、とても知的な人工言語だと思います。
だから、日本語はアルファベット同様に、自然発生的な言語だとは到底思えないのです。

◆白村江の戦い
日本書紀によれば、敗戦後、唐の使節団が当初は254人だったが、次の年には二千人にふくれあがる。
同時に、唐が常駐した九州の太宰府が「筑都督府」に呼び名が変わった。
これは唐が占領した都を「××都督府」と称したことからも、唐軍はGHQと同じ占領軍だった。
唐の支配により、漢字化が強制され、日本語の書物が焚書された。
だから、『記紀』は漢字で記述したのだ。

聖徳太子が唐の支配前に完成させた、「帝紀」「旧辞」は、神代文字で書かれたと思われ、この内容を神代文字を知る稗田が読み上げ、漢字を知る太安万侶が漢字化した。
尚、「帝紀」「旧辞」は焼失したとされ、稗田阿礼も殺されたのは、有名である。

天智天皇の時、「白村江の会戦」で、日本・百済軍が、唐・新羅軍に敗北した後、おそらく唐からの侵略を恐れ築城した後、都を近江に移し、そこで即位された。
その間に、唐から全部で二百五四人が日本に到着し、約三ヶ月滞在したが、目的及び何を行ったか全く不明です。

例えば、神よりも仏教を信仰した慈悲のある天皇として紹介されている孝徳天皇の時、
「明神として天下の治める日本天皇は…」
(日本書記 下P169)
とあり、この記述の後段には古代中国の皇帝の功績の紹介とともに、彼らの徳政にならったとの記述があります。

この「明神」という神は、日本古来の由緒正しき崇敬の神々という意味です。
また、「日本天皇」という響きには、天地を創造した皇祖神ではなく、日本に閉じられた天皇であり、この天皇をまとめる大天皇が、別途存在しているように受けとられます。

おそらく、「白村江の会戦」で敗北した日本は、唐の植民地化政策を受け入れさせられた。
この米軍のGHQに相当する者達が、天武天皇の時代に来日したのだと推測されます。
このため、『明神として天下の治める日本天皇は…』の下りは、日本の独立と、中国の植民地としてのバランスを勘案した記述のように思われます。

この唐の植民地化政策により、日本における、神代文字が廃れ漢字化へ、神道が廃れ仏教国化へと向かわざる得なかった。
その後、日本語に漢字を取り込むのだが、非常に不便なので、神代文字から平仮名が発生し、ヘブライ文字からカタカナが発生して、神代の歴史やヘブライの歴史やヤハウエの預言を日本歌謡などに暗号化して隠蔽したと推測されます。
(⇒[日本歌謡と七大天使])


◆抜粋:
『中国・戦国時代の斉は出雲の国のことだった!?』

私は不思議に思って、改めて日本神話と斉の国の神話を読み直してみることにした。
すると、日本神話と斉の国の記録のなかにみられる「国譲り」の話が驚くほどよく似ていることがわかる。
かいつまんで話すと、こうなる。

斉の最後の王である王建は、秦の始皇帝に国譲りをしている。
一方、出雲神話の中にもオオクニヌシがニニギノミコトに国譲りをしたという話がある。
そこに登場するオオクニヌシの祖父はサシクニヲホといい、母はサシクニワカヒメという。
この二人の名前を北海道異体文字で表わしてみると、
「きょう」「君王后」という字になる。

もうお気づきだろう。
斉の最後の王、王建の祖父と母は、オオクニヌシの祖父および母と、ピッタリー致してしまうのだ。
日本神話のイナサノヲバマが斉の「荊」に、
タギシノヲバマが「松柏」という字になるのである。

このことは何を意味しているのだろうか。
これは、中国大陸を舞台とした出雲のかつての真実の歴史が、のちに漢字に書き改められ、中国の歴史にすり替えられてしまった、ということを意味していないか。

さらに、この頃(戦国時代)の貨幣を調べてみると、戦国諸国が現在の中国大陸にあったなら、当然、それぞれ独自の貨幣をもっていたはずなのに、どれも斉貨幣と同じものを使用していたことが判明している。
しかも奇妙なことに、その貨幣にはすべて、たとえば「アマフユキヌ」のように、当時の出雲の王の名が神代文字で刻まれているのだ。

この事実からも、戦国時代の斉の正体は、日本神話でいままでその実在性が疑問視されてきた出雲の国だったことがよくわかるのである。
が、決定的なのは次の事実だ。
     
出雲を神代文字で表わし、それを組み合わせてみると、なんと〝斉〟という字になる。
これをみれば、中国の歴史がすり替えられたことは一目瞭然である。
どうやら中国においても、『史記』以前の記録のすり替えが行なわれたことは間違いないようだ。

いってしまえば、漢の武帝が紀元前108年頃、司馬遷に書かせた『史記』とは、とんでもないクワセモノということになる。

司馬遷は『史記』の執筆中、獄につながれていた。
完成後には解放される約束であったにもかかわらず、まもなく殺されてしまった。

これはちょうど、『古事記』の編纂に携わった稗田阿礼が、やはり『古事記』完成後に殺されたという事情とよく似ている。
両者は偶然の一致とは思えない。
日本の太古史と中国の古い歴史を抹殺しようとした勢力が、それぞれの背後にあったことは間違いない。


◆抜粋
『仮名文字の発生は紀元前七世紀ではない』
日本の古代文字は、今から二千年以上も前にすでに日本以外の土地では使われなくなった古代オリエント文字とよく似ていることを知った。

さらに、それらの古代文字の中には、
のちの時代に仮名を生み出すもとになったと考えられる表音文字がすでにあり、
しかもそれらが古代エジプトの象形文字や古代イスラエルのアルファベット(ヘブライ文字)と多くの共通点を持っている。

これまで日本人の多くは、漢字の伝来以前に日本に文字はなく、日本固有の文字である平仮名や片仮名は、中国が生み出した漢字を借りて八~九世紀につくりあげられたと考えてきた。
しかし、実際に調べてみると、日本には、遙か以前から仮名によく似た文字を、仮名と同じように音をあらわす符号として使う伝統があった。
下記は、
『大和民族はユダヤ人だった』より。
 
日本古来の〝ひふみ歌〟をヘブライ語で解いたヨセフ・アイデルバーグは、この数え歌が太陽神アマテラスの復活を願う美しいヘブライ語の祈祷文に由来することを明らかにしている。

日本の仮名は、吉備真備が漢字の一部をとって片仮名をつくり、
弘法大師が漢字の草書体をさらに崩して平仮名をつくつたと考えられているが、
これでは仮名が成立する十二世紀前、
あるいは王仁による漢字の将来より九世紀以上も前に、すでに仮名に近い文字が日本にあったことをうまく説明できない。

縄文時代の日本に文字があったと著者・アイデルバーグ は主張している。
日本に伝わる象形神文字がエジプトの象形文字やモアブ石のヘブライ文字ときわめて近い関係にあることは、この文字を日本へもたらしたのが神武天皇に率いられたイスラエルであることを物語ってはいないだろうか。
◇註:仮名の成立を八〇〇年前後、
漢字の伝来を四〇〇年前後とみれば、
日本の古代文字がすでに紀元前四〇〇年か五〇〇年ころにはあったと考えられる。

◇註:記録用文字として知られるヨクニ文字は、象形文字をカタカナと呼んでいる。
この文字には古体と新体はエジプトの象形文字、新体はヘブライ文字とよく似ている。
奈良時代の片促名の半数近くがトヨクニ新体文字と一致することは、日本の片仮名成立の背景に、漢字だけではなくトヨクニ文字やヘブライ文字の影響があったことを示している。

日本の縄文遺跡から、甲骨文字とみられる異物が次々に発見されている。
だから、アヒルクサ文字も少なくとも、殷の時代まで遡るのは、当然だ。
  
江戸時代の国文学者・平田篤胤の『神字日文伝』にあるトヨクニ文字が、一番古いと考えている。
また、イズモ文字とインドのブラーフミー文字は兄弟である。


◆日本語に似たタルク語を話す
〝使主の都〟からの渡来人

インドの学者は、ダウリのアショーカ王碑文に記されたトーサリーが、シシュパールの地にあったと考えているが、
もしもそうだとすれば、トーサリーは『新撰姓氏録』の「大和国諸蕃」の項に日置造の同族として記されている高麗国人、鳥井宿禰の〝鳥井〟と対応している。

◇『謎の新選姓氏録』から抜粋。

トーサリーTosaliがトリイ(鳥井)だといえば乱暴な話だと思われるかもしれないが、インドのアショーカ王Asokaが中国や日本でアイク、阿育王と記されていることに比べれば、別にオカシイことではない。
インドの人名や地名が漢字で表わされるときには、r だけでなく、S の音が省略される傾向がある。

しかも、この鳥井宿禰と同じ日置造の同族、栄井宿禰は、
「伊利須の使主の男、麻て位の後」
だと書かれている。
麻て位とは何か。
そのマテヰ(麻テ位)のヰを
Ya、Yi、Yu、Ye、YoのYiとみなせば、マテヰは何と、オリッサ州の西どなりにあるデカン高原の大州、マディヤ・プラデシユのマディヤMadhyaを意味する。彼はどうやらマディヤの地を支配する長だったらしい。

『新撰姓氏録』の記事でわれわれが無視できないのは、右にみた八坂造や日置造、大狛連、鳥井宿禰、螢井宿禰のいずれもが〝オリッサのシシュ〟(伊利須使主)の子孫とされていることである。
使主はふつう、なぜかオミと読まれているが、これを文字どおり読めば、シンュである。
シシュといえば、シシュパールのシシュになるのではないか。
パールは、古代のインドや朝鮮、日本でプル、プラ、弗流、布留、原などとよばれた〝邑〟や〝町〟〝都〟を表わす言葉だから、シシュバールは 〝使主の都〟だったといえる。

しかも、伊利須使主がいたオリッサのシシュパールはインド史上のカリンガの都として知られている。
そのカリンガKalingaが訛ったコリングKolingのアナグラム、
コルグニKolgniに高(kO)、麗(l)、国(guni)の漢字をあてはめたものが高麗国になるのは、明らかに日本や朝鮮、中国にいた高麗人のふるさとがインドのカリンガにあったことを示している。
現に、オリッサで今も使われているタルク語(ドラヴィダ語のひとつ)は日本語とそっくりである。

タルク語をふくむドラヴィダ語がどれほど日本語によく似ているかは、名詞や動詞のサンプルを見ていただけば、一目瞭然だと思う。
ドラヴィダ語と日本語はひとつひとつの言葉がよく似ているだけでなく、語順も同じだ。
クルク語には日本語の疑問助詞〝か〟と同じkaを疑問文の最後につける用法もあれば、受身の助動詞〝る〟〝らる〟に対応する語尾もある。
発音のしかたも、日本語と同じ子音+母音の組み合わせが基本になっている。

オリッサの北東にあるアッサム州のkuクルク族は、つい最近まで、日本の〝サク〟とよばれた入れ墨と同じ習慣を〝サック〟という言葉とともに保存していたし、オリッサの祭りは日本の祭りと同じだ。
ブバネシュワルに行かれた方なら、この地方の祭りで〝ラタ〟とよばれている神輿(神の乗り物)が、日本各地の祇園祭りでみられる〝山車〟とそっくりだということをごぞんじのはずだ。
タイにもオリッサや日本の祭りと同じ神輿祭りがある。

このようなことを考えてみると、インドのクル族がオリッサからアッサムを経てタイのチェンマイに、
中国の呉に(江西省清江県県城のあたりに)、
朝鮮の弗流に(朝鮮と中国の国境地帯を流れる鴨緑江の流域に)、
そして日本の淀川や木津川、大和川の流域にやってきたことはまちがいないのである。

◇世界中の氏族が日本を目指した!
例えば秦一族(ユダとレビ、エフライム)がローマ付近を出発し、陸のシルクロード経由で日本へ、同時にインドから海のシルクロードで日本へ移住した証拠だ。
おそらく、流浪のユダヤ人だけではなく、世界中に散在しているイスラエルの十二氏族が迫害を受け始めたので、神々の導きを受け、至る所から日本に向けて移住してきたことの証明だ。

◆神代文字は本物
神宮皇学館の元学長・山田孝雄博士(故人)は、様々な研究者がこの問題に立ち入るとを封じるために、1953年の『芸林』誌上で「いわゆる神代文字の論」を発表した。
彼はまず、これらの奉納文を調査した結果、
「その紙質、墨色を見るに明治の初年頃を下るものであろうが、それを上ることのないのは明らかである」
として、それらは書写年代が新しいから偽作物だと断定している。
(※大東亜戦争敗戦後、ロスチャイルドからモーセの三種の神器を返せとの依頼があった。
他にも日本をイスラエルの末裔だと信じる欧米諸国の要求から、皇室と日本の歴史を守るために、神代文字は存在せずと主張したのです)

彼の論法に従えば、江戸時代の初めに名古屋の其福寺で見つかった『言事記』の写本も、奈良時代の原本そのものではないからニセモノだということになる。
奉納文の紙質や墨色がたとえ明治初年のものだとしても、そこに書かれた内容が原本と同じであれば、千古不易の価値をもつ。
だから、日本の古代文字は「見つかっていない」のではなく、「見つけようとしない」から、これまで存在しないことになっていたのだ。

本著者は世界各地の遺跡や異物の未解読文字を、神代文字で解読できることを発見している。

◆神代文字は古代オリエントと似ている

対馬の阿比留家(アヒル家)に伝わるアヒルクサ文字をさす。
同文字は出雲大社や三輪神社、鹿島神社、伊夜比古神社などの由緒ある神社の神璽に用いられているほか、長野県美女森神社の神宝や筑波のヤタ鏡、紀州熊野神社の宝剣などに刻まれている。
アヒルクサ文字はニギハヤヒを祖神とする物部一族の文字と考えられ、フィリピンやマレー、アラビアの古宇と同系であることが北里博士によって論証されている。
中国の岐山文字とも関係が深い。

古代アッシリヤの都ニネヴュやバビロンで使われた楔形文字と同じものである。
私はこの楔形文字のいくつかが長州(山口)や薩摩(鹿児島)の古い神社の石に刻まれているのを発見した。
同書にはその読み方が片仮名で記されている。

(註:この楔形文字は、竹内古文書に六種ほど載せられている。
その中でキネクサビ文字と称されたものは、前七世紀ころまで今のトルコのヴアン湖周辺に住んでいたフルリ・ミタンニ系のウラルトウ人の文字や、アッシュルバニパルのエジプト遠征を記すアッシリヤ語碑文の文字とよく似ている。
本書にしばしば登場する十七世紀の日本研究者E・ケンペルは、日本の漢字カナまじり文と同じ構造をもつシュメール語の碑文にいち早く注目し、初めて楔形文字という言葉を使った。
このケンペルの影響で、著者もまた日本の古代文字に大きな関心をもつたとみられる)。

日本とオリエントの古代文字が、予想以上に大きな共通点を発見した。

◆サーンチ文字が神代文字で読めた

印度美術を代表するサーンチーの仏塔の一部に、インダス文字とかなりよく似た文字が刻まれているのを発見した。
しかもその文字は、日本の片仮名にもいくらか似ていた。
片仮名は平安初期に漢字の一部から派生したものといわれているが、日本に古くから伝わるトヨタニ文字にもその原型がみられる。

さて、サーンチーの仏塔で発見したこの文字は、どうやらその下に彫られている動物の名を表わしているらしい。
この動物は額に角をはやした馬のような動物で、どことなくギリシア神話に登場するユニコーンという一角獣に似ている。
いや、もしかしたらユニコーンそのものではないかと思われた。

◆『姓氏録』
そして、『姓氏録』は神別(神から分かれた家系)・皇別(天皇家から分かれた家系)・諸事(渡来人の家系)に類別した千百八十二氏を扱っているが、追い進めていくとどうやら、すべてがインドのデカン高原に関連してくる。

◆古代日本の三代民族
日本人に最も近い血液分布を示すのは、A型40%、O型30%、B型20%の比率を持ったパレスチナの人々であるという。

◆アイヌはヤペテの子孫である
もともとは、縄文人が越を経由して、黄河流域に青銅文明の殷をもたらした。
その頃、セム族のエフライム一族が殷帝国を経由し、殷帝国に居たヤペテを引き連れて、出雲に渡来した。
このヤペテがアイヌである。

アイヌの酋長はイスラエルの神官が身につけるエフォドに似た服を着ている。
それ以外にも、アイヌが白人と同じ習慣を持つ代表例としては、ハンモックを挙げることができる。
(アイヌ語のハンモックは、「木の葉の下」という意味で、ヨーロッパのハンモックhammockの語源をなしている)

彼らは四角い丈夫な布の両端に棒をとりつけて長い綱で天井から下げ、この中に赤ん坊を寝かせる。
ハンモックが必要に応じて上げ下げできるようになっているのは、昔のヨーロッパと同じである。
彼らは白人と同じように木で皿やお椀をつくり、食事に使う。

またアイヌの死者の埋葬法もヨーロッパと同じである。
遺体は黒と自の布に包まれて棺の中に横たえられ、土の中に埋められる。
墓には、ヨーロッパの通常の墓地と同じように、木片が立てられる。
そして親族は三十日間の喪に服し、髪の毛は一部しか切らない。
しかも男は二年、女は三年間やもめでいなければならない。

私の見るところ、アイヌ社会に犯罪といえるものはほとんどなく、彼らは正直で屈託のない民族という印象を受けた。
北海道にいる人々は、どちらかと言えば本州に住む文明化したアイヌより毛深い。

アイヌの言い伝えによれば、アイヌはかつて義経に征服されたとき、多くのものを奪われたという。
その中には金・銀でできた道具類や古い時代の記録がふくまれていたといわれる。
私には昔のアイヌが文字をもっていたとは信じられないが、いずれにせよ現在のアイヌにその文字は伝わっていない。

(註:坪井正五郎博士が東京人類学会ま二八号に寄せた論文によれば、北海道異体文字と名づけられた古い文字が北海道の各地で見つかっている。
これをただちにアイヌ文字とみなすわけにはいかないが、中には今から二千年以前のものと考えられる六角柱の石片に刻み込まれた文字も有り、今後の研究が期待されている。
北海道遺体文字がインダス文字やイースター島文字と共通の要素をもっていることは注目される。

◆龍神
ワニは龍神の使いで有り、移動手段のこと。
温暖だった縄文時代には、日本にワニが多数いたことが遺物から分かっている。

日本語とヘブライ語の類似を見る (続)

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■日本語の研究

転載元 言葉の杜

日本語と古代ヘブライ語との関連を探って行きます。
以下は日本の中のユダヤから抜粋



世界の言語学者は、言語を大別して「印欧語」、「セム語」、「ウラル・アルタイ語」に区分する。
そして系統の異なる言語の間に、どんな類似語があっても、それは偶然であると断定する。

古代大和言葉よりひいて現代日本語は、文法上ウラル・アルタイ系統に属することは、もはや論議の余地が無い。
しかるにそのアジア語を語る日本人は、ユダヤ人が忘れている幾千年来のイスラエルの国歌を歌い、かつ日本語ならざる古代ヘブル語を今なお口走っている事実に照らして建国の秘密を探った。

(注:上記のイスラエル国歌とは、
「君が代」の事ではなく東北民謡の「ナギアド・ヤラ」(またはナギアド・アラ)を示しており、3400年の昔を語る出エジプト時代のイスラエル軍歌である。
なお、日本で習慣のように使われている聖書の神の名前「エホバ」は、聖書の写本を制作する過程で、写字生の誤りが入りこみ、後代の人々がそのまま習慣的に使い続けた結果定着したものである。
ここでは信憑性の高い「ヤー」、「ヤーエ」の方を使っている。
古代のヘブライ人は、けっして神を「エホバ」とは呼ばなかった)

◆『川守田英二氏の考察』
ここで、この本(日本の中のユダヤ)の筆者である川守田氏の考察を解説してみよう。
日ユ同祖論にも様々な説があり、いまだに固まっていないが、氏は言語学の観点からこのような推理を残している。
(資料p131)

日本民族は、先住民族と征服者の融合した民だが、言語学上は様々な言葉が混在している。
根幹に据えられるのは、上記にあるごとく古代朝鮮民族の延長としてのツングース族の言葉、
つまりウラルアルタイ系の文法骨子だ。
(複数形が無い:p124)

それに南方民族からの言葉や、アイヌ語、インドネシアなどの南洋語、漢語、梵語、西洋語などが混入したが、支配階級であった天孫族(ヘブライ民族)の言葉が相当強力に影響している。

天孫民族は、預言者イザヤ 一味の国粋党で、南北朝に分裂した王国が外部からの侵略によって絶滅する前に、国を脱出して東へと逃れ日本にたどり着いた。

考察の杜の考察:
(それなら、北のイスラエル王国崩壊以前にそこを脱出した彼らは、他民族に打ちのめされる事もなく、南朝ユダ王国の罪であるキリストの処刑にも関係していない事になる)

しかし氏は、日本は北朝イスラエル(失われた十支族)よりも、南朝ユダに関連していると資料p224で述べている。
日本への流れは、一つか?二つか?
あるいはそれ以上か
・・・
現在では不明である。
以上、かいつまんで要約した。


◆重要な問題
日本の天孫族は、南北朝どちらの流れか?
(両方という選択肢もある)
これは、分析としては重要な部分である。
というのは、日本民族の宿命がこれで決まるからだ。

西暦前607年、
「北のイスラエル王国」が壊滅した。
(資料では:BC722)

それから640年ほど経過して、キリストが出現し処刑された。
(「キリスト出現年」とは、キリスト生誕の年ではなく、30歳になったイエスが「メシアとして活動を始めた年」を意味する)

イエスの昇天から、さらに30年以上経過した西暦70年、
ローマによる「ユダ王国」の絶滅が起きた。
この時点で歴史から「イスラエル民族の国」は事実上消滅する。

(「ユダヤ人」とは、「ユダ王国の民」だけを指し、「イスラエル人」とは、南北朝時代に分裂していた北のイスラエル王国をも含めた呼び名である)

このユダ王国の壊滅直前に脱出したヘブライ人達は、キリスト処刑に関係した親達の子孫であるため、「罪の呪い」を受けている。(世代として)

一方、キリスト出現のはるか前(BC607年以前)に国を出た集団は、キリストの血を流した罪からは逃れている。
この違いは大きい。
それは、キリストの血の呪いが、処刑を嘆願あるいは黙認したユダヤ人達の「子孫にも」降りかかるはずだからである。

いったい日本人はどちらなのか?
もし日本人が、ユダヤ人でありながら「ホロコースト」を免れているとすれば、
それは「キリスト以前に国を出ているから」と結論せざるを得ない。
もしそうでないなら、日本人もまたその呪いからは逃げられない。
ローマに対してキリストの処刑を願い出たユダヤ人達は、このように叫んだからだ。

「この血の罪は、私達と私達の子孫に臨んでもよい!」

◆日本=南朝ユダ王国の根拠
非常に気になるところだが、川守田氏は、
「日本の民は南朝ユダ王国出身ではあるがキリスト出現よりはるか以前に国を出た」と考えているようだ。
それなら
「日本の天孫族は、南朝ユダ出身だがキリスト処刑には関係しなかった」
という事になる。

つまり、日本に来たヘブライ人の父祖達は、
「この血の罪は、『私達の子孫』に臨んでもよい」
と叫んだ父祖達とは別のグループ(彼らのはるかな先祖)であり、
その子孫である日本の天孫族も、
ここでの『呪われた子孫』には含まれないわけだ。

あくまでも、
「キリストの処刑に立ち会った人々の子孫」に呪いは付きまとう。

川守田氏の研究によれば、日本に流れているヘブライ文化の年代は、何と紀元前850年(少なくとも紀元前700年より前)に溯るようだ。
キリストのはるか以前の時代である。
(詳しくは、『ヤハウェ東漸史』を参照)

◆消えた本家
一方、祖先の地イスラエルでのヘブライ語は消滅してしまった。
紀元前586年のイスラエルは隣国バビロニア帝国に滅ぼされ、バビロン流刑を経験した頃から徐々に言葉の変化を生じた。

商用語のアラマイク語(アラム語)に移行して行き、紀元前2~3世紀頃には語り言葉としての寿命を終えていた。

時代が下って、キリスト出現の頃の公用語は、コイネーギリシャ語となっていた。

キリスト以後、西暦70年の滅亡でイスラエル国家そのものが消滅し、ユダヤ民族の歴史はヘブライ語と共に終わったかに見えた。

しかし大和の国では、出雲族あたりに話されていた純粋ヘブライ語は、今も東北に残っている。
日本全体の場合、きつい「大陸訛り」が入っているが、それでも一般に使われ続けている。

「東北のズーズー弁」はかなりの原形をとどめ、「民謡のお囃子」には「意味不明」とされながらも、そのままの形で唄い込まれている。
神事の「祝詞」(のりと)も意味不明だが、機能を果たしている。

日本のヘブライ語には、
「古(いにしえ)の香り」が漂っているのである。

(現代イスラエルに流布しているヘブライ語は、近代になって焼き直された新生ヘブライ語である。
彼らアシュケナジーユダヤの場合、
言語体系を遡って過去を辿ることができない。
彼らの歴史が、突如として始まっているからである)

◆消えた「R」と「L」
日本語がヘブライ語と気付かれない背景には、語頭の「L」と「R」の韻が抜け落ちているという事実がある。
(古代ヘブライ語には、それが豊富に含まれていた)

そうなった理由は、古代ヘブライ語が日本に定着する時に、古代朝鮮民族(ウラルアルタイ語)の持つ文法がフィルターになったからかもしれない。

ヘブライ語の「L」は弱い発音なので容易に消滅し、「R」は訛って「エ」に変っていたり、まったく脱落している事が多い。

日本語では「ラ」は、先頭に来る事はほとんど無い。(楽が例外)

これほど、言葉が訛った理由は、それが「借り物」の言葉だからかもしれない。
多数派がその言葉を保存していたなら、ここまで変化するのは変だ。
その言葉を話す集団は、一部の地域に住む少数派でありながら影響の強い支配者であり、しかも共通した言語流布を意図していなかったようである。

同じ支配者でも、自分達の言葉を広めようとする者もいる。
全国共通の言葉にするつもりなら、教育制度により被支配者の言葉を変える事は簡単だろう。
英語が共通語となったフィリピンやハワイはその例だ。

日本の場合は、むしろ多数派の民衆が支配者に迎合してその言葉を耳学問で取り入れていったのかもしれない。
支配者に伝達の意志が無かったので、聞き取れない部分は消えてしまった。
それが、語句の先頭にある「R」や「L」だったのではないだろうか?

◆「違和感」について
現行ヘブライ語学者の見解では、言葉の杜にある解明は「ずいぶん違う」と感じるかもしれない。
というのも、現在のヘブライ語研究の基礎は、7世紀頃に定着した「マソレテ学母音法」であり、日本に流入した太古のヘブライ語に合致しないからだ。

日本のヘブライ語は紀元前8世紀頃、
イザヤの時代以前に日本に移植されているはずなので、かなりの食い違いを生じるのだ。
従って、ここでは母韻法によらず、
「子韻法(父韻法)」という特殊な分析法を駆使している。
それが日本ヘブライ語解明の「唯一の道」だと思えるからだ。

根拠は、出土した土器にある古代ヘブライ語の記録である。
そこには、

「ナニアト」(前方)という語(前置詞)と、
「ナギイド」(指導者)という語(名詞)の区別が無い。

このような、「綴り字の無差別」は旧約聖書の中に痕跡がある。
ただ一カ所、「ナニアト」と書いて「ナギイド」の意味に使用しているのだ。

言葉の杜は、こうした古代の事情に遡って構築されているため、現行の学説とは解析に食い違いを生じ、違和感があるかもしれない。

「サト」=「さと(里)」
「エドム」=「あずま(東)」
などは、以上述べた独特の解析法に沿ったものである。

◆ 『未確定シリーズ』とは
『言葉の流れ』(抜粋記事)

聖書の例えで、
「英語」は『海の言葉』であり、
そこには「『陸の言語』が流れ込む」ということになっています。

「陸の言葉」とは『ヘブライ語』であり、
「河川の『水』」が『言語』や『文化』に相当します。

山の上から下る「ヘブライ語」(神の言葉)は、尾ひれが付きながら川を下って最終的には海に到達します。

この論理から、
「英語に、日本語と似た言葉がある」
ということは、

「日本語の『源流』に同じ意味を持つヘブライ語があった」
という推理を立てたわけです。

『未確定シリーズ』とは、
正規の手順をまったく無視していますが、
意外な真実が含まれているかもしれません。
間違いも修正も多いと考えますが、
そこはご容赦ください。

歴史の末端に位置する我々は、
「川の流れ下る」過程を知りませんが、
日本語は『陸の言葉』のはずですから、
『海の言葉(英語)』から掬(すく)えば、
古代の解明ができるはずだと考えています。

それにしても、「元祖ヘブライ語」であるはずの日本語が、これほど変形している背景には、何があったのでしょうか?

それは、『古代の悲劇』だったかも知れません。

「著しい言葉の変形」が語るのは、
この国にあった
「文化の衝突、戦禍による『激動』」
でしょう。
(それは、「縄文」と「弥生」の切り替わり時期?)

しかしこの国には、ひたすら「原型ヘブライ語」を守る民が残されています。
それこそが、「出雲族の末裔」
つまり「東北人」でしょう。

これからは、東北文化にじりじりと『光』が射して、彼らの重要度が増すのではないかと思っています。

彼らに権威を取り戻してくれるのは、
古代から彼らを見つめてきた守護神、
『ヤオヨロズ』と『イシェ(伊勢)』であり、
その「夜明け」は、もう始まっているはずです。

◆『漢字圏』の事情
日本語+「漢字」の難解さ

言葉の研究は、誰かが勝手にルールを作っているのと似ている。
ルール説明を受けないと、何一つ進まない。
それでも最近、周囲が少し明るくなってきた。

中国伝来の漢字は、なぜあれほど多くが必要なのだろうか?
彼らは、膨大な量の漢字を使いこなしている。
実はそこに、「神事」が絡んでいた。

漢字は元々、「占い」から発しており、
「『状況』を神に説明」する
『表意文字』だった。

【表意文字】ひょうい_もじ
ことばを意味の面からとらえて、一字一字を一定の意味にそれぞれ対応させた文字。
絵文字・象形文字・漢字など。
意字。



「高い」を例に考えよう。
(いずれも「ひー」と発音)

1.平地から「高く」飛び上がる場合 
・・・(飛)

2.当初から「高い」位置にある場合 
・・・(日)

3.「高所」から降りる場合
・・・(卑)

4.高さの違いを比べる時
・・・(比)

5.高く掲げるもの
・・・(燈)

6.金額の高さ
・・・(費)

7.「高い名声」の表象
・・・(碑)

※ 「卑弥呼」の『卑』は、
「高いところから下るもの」(啓示)を
意味しているのではないか?

英語の「high」で説明しよう。

漢字の「拝」が、英語の「high」に繋がると理解できる。

その原型は?
「ヒー」だ。

※ 英語の「high」に該当するのは、
「冲(ひい)」という古語だが、
これにも「高い」の意味がある。

【冲る・沖る】ひい・る (ヒヒル)
(1)ひらひらと舞い上がる。高く飛び上がる。
「竜のごとに『ひひ』りて:日本書紀(欽明訓)」
(2)高くそびえる。
「すべてこの峰は天漢の中に『ひひ』りて:海道記」

「同じ根」を持つ漢字が、
『状況説明』の場合は「別物」に見える。

「十部族」は紀元前の早い時期(アッシリアの時代)に、地中海を離れている。
このため、より純粋なヘブライ語であるという考えもある。
しかし、地続きの大陸で永かっただけに、「他民族との干渉」も多かっただろう。

同じヘブライ文化を持つはずの中国(その他)と日本が、まるで違う言葉に思えるのは、そんな理由からではないだろうか。

◆主な類似点
日本語とヘブライ語の照合

二つの言語に、いかに類似点が多いかを抜書きしてみよう。
資料は、
『日本書紀と日本語のユダヤ起源』
ヨセフ・アイデルバーグ著
から拝借した。
(少々の独自解釈もあり)

※【 】はヘブライ語など

グループ1

1.【アンタ】anta(ヘブライ語で「貴方」の意)
→ あんた(日本語の方言)

2.【アッセイ】asei(アラム語で「抑圧する」)
→ 圧制

3.【アワル】avar(ヘブライ語で「過去、終了、終わり」)
→ 水の「泡」
(アワル)→ 終わる(訛り?)

4.【アーゼン】azen(横にする)
→ あぜ道
→ 唖然(気持ちが「横に」遠ざかる)

5.【バレル】barer(明らかにする、確かめる、見つける)
→ ばれる
→ 選「ばれ」し者
→ 心が晴れバレ

6.【ダベル】daber(話す)
→ だべる(「駄弁」から)

7.【ダハ】daha(押しやる)
→ 打破

8.【ドウン】dun(論議する、談話する)
→ 談
→ どんだけゆーても解らん奴(関西弁)

9.【グンダ】gunda(軍団、団)
→ 軍団
→ 蟻の大群だ

10.【ハエル】haeru(映える、照り輝く、色鮮やかに見える)
→ 映える

11.【ハカル】hakar(探る、調査する)
→ 量る、測る、計る
→ 「博士」は調査する人

12.【ハラ】hara(怒る)
→ 腹立ち
→ 払い除ける

13.【ハラヴ】harav(滅ぶ、破滅する)
→ 滅ぶ (訛り)
→ 波乱含み

14.【ハツァア】hatsa'a(発案、提案)
→ 発案

15.【ハーヤー】haya(アラム:早く)
→ 早く
→ ハヤる心

16.【ヘドゥ】hedu(喜び)
→ 「反吐が出る」(逆さ言葉)
※英語でhedonismは快楽主義
(神の民はこれを嫌った)

17.【ヘケル】heker(測り、測定器)
→ はかり
→ 当たるも八卦(訛り)
→ 発見

18.【ヘン】hen(恵み、美、品)
→ 片鱗
→ 品(ヒン の訛り?)
→ 妙齢になって変化

19.【ヘビァ】hevia(まむし)
→ 蛇

20.【ホウク】hok(法律、規則、習慣、規制)
→ 法規(法)
→ 保健衛生

21.【ホウカン】hokan(法律に携わる人)
→ 法官

22.【インカー】inka(アラム:のど、首)
→ 咽喉
(ちなみに、インカ帝国の地形がこれ?)

23.【カアラ】ka'ara(器、椀)
→ (器が)空だよ

24.【カメーン】kamein(アラム:隠れる、隠す、覆う)
→ 仮面
→ ガメ・る(訛り)

25.【カラ】kara(切り開く、裂く、分割する、引き裂く)
→ ここ(カラ)ここまで(分離)

26.【カサ】kasa(守る、おおう)
→傘

27.【カーシャー】kasha(質問する)
(略)

28.【カシャル】kashar(準備する)
→ 拵(こしら)える(作る、整える)

29.【ケン】ken(兼ねる)
→ 兼務

30.【キユム】kiyum(存在、実態)
→ 「究明」「糾明」

31.【コウ】ko(こう、このように)
→ 「こう・こうする」

32.【コカラ】kokara(アラム:罠)
(略)

33.【コオル】kor(寒い、冷たい)
→ 凍る

34.【コシ】koshi(困難、障害、故障)
→ 「腰折れ」
→ 「限界を超している」
→ 「故障」
→ 古志族 (天孫族の手強い相手)

35.【クーリァ】kria(読むこと)
→ 頭をクリアに

36.【マヴァル】ma'var(通路、方向転換、回り道)
→ 曲がる

37.【マゴル】magor(住居、アパート)
(略)

38.【マタ】mata(~の下、~の元)
(略)

39.【メガマ】megama(方向、目的、意図、態度)
→ 「目掛けて」

40.【メツァル】metsar(トラブル、苦しみ、困難)
→ 「滅茶苦茶」

41.【ミシュゲー】mishge(間違い、エラー)
→ (英語のミスが近い ←ユダ族「後期」の特徴)

42.【ミツ】mits(果汁)
→ 蜜

43.【モノ】mono(アラム:物、衣服)
→ 物、着物

44.【モツァ】motsa(出口)
→ まつ(訛り)終末、期末
→ もたもた(モツァ・モツァ)

45.【ナガヴ】nagav(拭う、拭く)
→ 拭(ぬぐ)う

46.【ナカム】nakam(復讐する、仇を討つ)
(略)

47.【ナカル】nakar(貫通する、取り除ける、他へ移す)
→ 中にいく
→ お流れになる

48.【ナサ】nasa(生む、妊娠する)
→ 生(な)す(産むの意)、成す


49.【ナセ】nase(試みる、試す)
→ 為せ

50.【ニガル】nigar(流れ)
→ 逃げる(訛り)

51.【ラアム】ra'am(雷)
→ 雷雨(らいう→らいむ)

52.【ラーネン】ranen(歌う)
→ 「らららー♪」

53.【レアヤ】reaya(「見る」の派出、「証拠・証明・理由」など)
→ 肖(あやか)る

54.【レイ】rei(理由を見る、実例で示す)
→ 例

55.【レーシャ】resha(悪事、悪)
→ 霊者 (宗教的な視点で、「鬼」などの見えない(悪の)存在?)
→ 劣者

56.【サーガル】sagar(閉じる、遮る、塞ぐ、妨げる)
→ ふさがる
→ 「志気が下がる」
→ 八方塞がり

57.【シャセ】shase(そそのかす、けしかける)
→ ヤツに、させろ!

58.【シェム】shem(名、肩書き)
→ 姓名

【シェナ】shena(眠り)
→ 「しなびる(シェナ・びる)」

60.【シェツェイ】shetsei(アラム:外出する)
→ 出(しゅつ)

61.【シト】shit(底、基礎)
→ 下、「褥(しとね)=敷物」

62.【ショーテ】shote(ばかげた、きちがい)
→ 正体が見えた
→ 「なんばしょっと!」 (訛り説)

63.【シューカー】shuka(アラム:市場)
→ 「集荷(シューカ)場」「集会」
→ 「商会」

64.【シュマ】shuma(アラム:見積もり)
→ 「揣摩」(推量・推測の意味)

65.【シュラ】shura(アラム:要塞、砦)
→ 城、「修羅場?」

66.【シュート】shut(船で航行する)
→ 「しゅうこう」就航
→ 「しゅうてい」舟艇

67.【シカ】sika(鋤の刃)
→ 「シカと」 (確かに)
→ 「シッカ・り」

68.【シユム】siyum(結論、終わり、終了)
→ 済む
→ 終・了
→ 「しゆう(雌雄)を決す」(結論を出す)

69.【ソートー】soto(アラム:一掃、拒絶)
→ 掃討作戦
→ 「相当なヤツだ」(頑固者)

70.【テウラー】teura(明かり)
→ 灯篭(とうろう)
→ 照らす

71.【ツァラー】tsara(辛いこと、トラブル、苦痛、困窮)
→ 辛い、恨(つら)み

72.【ツーカ】tsuka(困窮、トラブル、苦痛)
→ 痛感する
→ 通過点

73.【ウマト】umat(前に)
→ 「ヤ・ウマト」で「神ヤーエが前に(立つ)」という意味になる。(大和)

74.【ヤアン】ya'an(なぜならば、理由は)
(略)

75.【ヤドゥル】yadur(住む、宿る)
→ 宿る

76.【ヤエ】yae(良い、すてきな、きれいな)
→ 神の名前、桜の名前、人の名前にある深意か? 八重
→ 「ヤオヨロズ」神の軍?

77.【ヤラ】yara(射る)
→ やれ!

78.【イーラ】yir'a(恐れ、憂慮)
→ 「いらいら感」「いらつく」
→ 「要らぬ心配をするな」

79.【ユルシェ】yurshe(許されるであろう)
→ 「許せ」


グループ2

1.【アーツ】alats(喜ぶ)
→ 「熱い心」

1-2【アカー】akal(回す、ひねる)
(略)

1-3【アー】al(上、上に)
→ 「上ぐ、揚ぐ、挙ぐ」

1-4【アラル】alal(収穫を集め持ってくる)
→ 「『あらゆる』もの」

2.【アリ】alil(アラム:入り口)
→ 「『アリ』の一穴」(蟻が空けた穴)

3.【ブリヤ】bliya(疲れ、飽き)
→ 「無聊(ぶりょう)」(退屈の意)
→ 「久しぶり」

4.【ハラー】halal(清める)
→ 「祓い清める」

5.【ハレー】halel(乱用する、汚す)
→ 破廉恥

6.【ハーカー】haluka(分割、分配、お金や食べ物を配給)
→ 量り、配・る

7.【ヘイ】heil(低い塀)
→ 塀

8.【ヒートゥ】hitul(束縛)
→ 悲痛

9.【ホー】hol(伝説の鳥・不死鳥)
→ 鳳凰(ほうおう)中国伝説の鳥。
雄は「鳳(ほう)」

10.【フー】hul(包囲する)
→ 封印、封筒

11.【イーア】ila(陰謀・弁解)
→ 「嫌気」

12.【イーイ】ili(優れた、最高の、高められた)
→ 「いいね!」

13.【イルィ】ilui(高いランク、重んじられた)※「イリ」と同根

14.【カベル】kabel(受ける、自身の義務として負う)
→ 被る

15.【カハー】kahal(群集、共同体、群れ)
→ 会・界、会派

16.【カー】kal(下位の、低い)
→ 下(か)

17.【カラ】kala(終わり、期間の終了)
→ 「空っ尻(ケツ)」終わり

【カリー】kalil(軽い)
→ 軽い
→ 「仮り」

19.【カーカア】kalkala(食料や物の供給)
→ 「家(うち)のカカア」
→ 「価格」

【カシャー】kashal(躓く、罪に導かれる)
→ 「瑕疵がある」(法的に欠陥・欠点がある)
→ 「良心の呵責」

21.【キ】kli(乗り物、入れ物、道具、器具、衣服、衣装)
→ 飛行機、容器、器具、着物(kli mono)

22.【クリア】kli'a(拘留、監禁)
→ 問題解決
→ 「御厨(みくりや)」(?)

23.【コー】kol(声、音)
→ 声

24.【コー】kol(全て、全体)
(略)

25.【クル】kulu(シリア:妨げ、障害、妨害)
→ 「苦しめる」
→ 苦労
→ 狂おしい

26.【コシェー】koshel(悪くなってしまったもの、躓いたもの)
→ 故障

27.【クー】kul(測る)
→ 「区画・区別」「比べる」

28.【マアガル】ma'agal(円)
→ 勾玉(まがたま)
→ 「そこを曲がると・・・」

29.【マーラー】malal(話す、宣言する)
(略)

30.【マレ】male(全部、完全な)
→ 丸太、丸焼け、丸儲け


これらは、ごく一部。

※ 言葉は古びるものだから、長い歴史で変化するのが当然。
その観点から、日本語の変形は「ちょうどいい位置」にある。

大阪都抗争/橋下 公明幹部と総選挙後 初会談

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橋下氏 公明幹部と会談
大阪都構想で協力要請か 
毎日新聞12月26日

大阪維新の会の橋下徹代表(大阪市長)と松井一郎幹事長(大阪府知事)は25日夜、公明党大阪府本部の佐藤茂樹代表(衆院議員)ら幹部と大阪市内のホテルで非公式に会談した。
会談では、維新側が大阪都構想実現に向け、公明に協力を求めたとみられる。
維新、公明両党は都構想の区割り案絞り込みを巡り1月に決裂。
対立が一時深刻化したが、維新が大阪で比例第1党を維持した衆院選の結果を受け、両者が関係修復を模索する動きとみられる。

都構想の協定書(設計図)議案は10月、公明など野党の反対で大阪府市両議会が否決した。
橋下氏は「公明にやられたまま人生を終わらせることはできない」と言い、松井氏とともに今月の衆院選で、佐藤氏ら公明幹部のいる選挙区から立候補を検討。
最終的には見送ったが、公明は反発した。

出馬騒動後に維新幹部と公明幹部の会談が明らかになるのは初めて。
両党の関係が修復すれば来年4月の統一地方選や都構想の行方に影響を与えることから注目される。

維新は府市両議会で過半数に届かず、都構想は実現が見通せないが、公明の協力が得られれば大きく前進する。
ただ府・市議会内で維新への反発は根強く協力を得られるかは不透明だ。

公明は衆院選では維新と対立し、府内ほとんどの選挙区で自民党候補を支援した。
統一地方選でも公明と自民は選挙協力で合意している。維新は衆院選では府内の小選挙区で負け越したが、比例で一定の影響力を見せつけた。
【林由紀子、熊谷豪、重石岳史】



最終的には見送ったが、公明は反発した
毎日新聞はそう思いたいから、そう書くんだろうが、ホントにそうか?

大阪府議、市議は「そんなの聞いてない」んだろうが、国会での議席確保が絶対命題の中央・公明党は、橋下出馬のブラフにしっかり反応したということだ。

そして、きっと今度はしっかりと、
〝一筆〟も、もらったんだろう(笑)。

ルーツ・ファンタジー/日本神話に刻まれた神々の叡智 1

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転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

★日本神話に刻まれた神々の叡智

■はじめに
人類の知的水準に合わせて神々は人類に法を与えてこられました。
古代バビロニアではハムラビ法典、
アブラハムと神との契約、ヤコブと神との契約、
そしてモーセと神との契約(十戒)などなどです。
しかし、そのどれもが神の命令を絶対とするもので、特に聖書にある原罪は女性蔑視、男性優位社会の前提となってしまいました。
その延長として、二千年前にイエスを殺してしまうのです。
イエス殺しの罪悪感から、ユダヤ人に濡れ衣を着せ、悪魔教が跋扈ばっこします。
ついには、キリスト教の暗黒時代に至り、余りの抑圧から、共産主義が人類を虐殺へと煽あおり立てました。

日本に渡来した天神は、この旧約聖書・新約聖書の残虐性を改めようと、大和民族に神話を与えられたのだと思います。
つまり、日本神話は、旧約聖書の延長線上に接木された神の叡智だと思うのです。

今後、日本神話、旧約聖書、古代シュメル神話を、テーマごとに比較し、日本神話の特徴を調査することで、天神は日本に何を与えようとされたのかが明確に分かると思います。
例えば、最初の死について、最初の男女の愛について、最初の国作りについて、冥界の女王について、武人について、高天原での天照大の後継者、数え上げればきりがありません。

一例として、男女についてですが、アダムが寂しそうなのでイブはアダムの一部から生成された。
つまり、イブはアダムを喜ばすための一部に過ぎず、イブの原罪からも男尊女卑から、過激なウーマンリブへと発展する。
また、新約聖書では母マリアは、処女受胎という無理無題にもかかわらず、神の命令に従順に従う。
それは夫への従順では無く、神への信仰を尊いとされた。
つまり、妻というよりは、修道女の始まりである。
日本神話では、伊弉諾は伊弉冉に国うみを提案し、伊弉冉が了承する。
そして、互いの男女の性差を認め尊重し合うのです。


■日本神話のはじまり

例えばブータンが憲法を新しくするとき、新憲法を制定する段階で参考にしたのが明治憲法、日本国憲法、そして聖徳太子の十七条憲法だというのです。
国王は皇太子の時代から、憲法公布にあたって国内各地をくまなく巡って、憲法についての説明を行い、同時に、国民たちの意見を細かく問うて議会に反映したのだそうです。
マッカーサ憲法=米国の日本占領施策を破棄し、日本国民の手による憲法の素案は、ブータン国の要領で良いのだと思うのです。
難しい言葉を使わず、世界の目を気にせず、見栄を張らず、大和民族としての建国の理念を踏襲し、日本人の日本人による日本人と祖霊と自然のための誇り高き憲法であれば、それで良いのだ。

◆日本国憲法について
ブータンが憲法を新しくするときの話です。

ブータンが新憲法を制定する段階で参考にしたのが明治憲法、日本国憲法、そして聖徳太子の十七条憲法『官僚や貴族に対する道徳的な規範を示したもので、道徳の遵守と社会平和の精神があったから』だというのです。

国王は皇太子の時代から、憲法公布にあたって国内各地をくまなく巡って、憲法についての説明を行い、同時に、国民たちの意見を細かく問いて議会に報告しました。

明治憲法は、伊藤博文がドイツの一王国の憲法をまねて作った物で、当時西洋列強との間で取り交わされていた治外法権・関税率等の不平等条約の早期是正をめざし、富国強兵のために急いで作成したものでした。
このため、英国の責任内閣制を知りながらも、残念なことに明治憲法には反映されませんでした。

太子の十七条憲法は、国家の理念を打ち出しました。
「和の精神」、「民に二君無し」です。

また、大化の改新後は日本式律令制に移行しましたが、実質は『十七条憲法』と『大化の改新』が法でした。

鎌倉時代に入り、律令制の下で、国民にも分かる言葉で書かれ、法廷ごとに同じ基準をもたらす式目が制定されました。これが国民憲法第一号でした。

信長は、戦の度に農民を駆り立てることを止め、職業軍人による軍隊を創設しました。
当然、農民が安心して農業に従事できる農民保護も兼ね、兵農分離を断行したのです。
後には身分制度へと発展して行きます。

江戸時代には、律令制が残り、立憲君主制に近く、士農工商の身分制度がありましたが、実質的な憲法は式目でした。

また明治の実質的な憲法は、五箇条の御誓文と教育勅語でした。
何を言いたいかというと、
憲法の前文は、国民の共通認識とすべきもので、国家の理念をうたえばよい。
細かいことは、法令集にまかせればよいのだと思います。

明治の時代では、明治憲法を学校で習うことはほとんど無く、教育勅語と五箇条の御誓文が学校で繰り返し教えられていたと聞いています。
つまり、米国で毎朝国旗に向かい忠誠を誓うのですが、日本はそれに相当するのが教育勅語だった。
ですから、明治憲法を知らなくても、教育勅語を知っていれば生活に困ることは無かった。
現在は、日本国憲法も、教育勅語も、日本神話も知らず、ただ古来の伝統が生活に生き残っている状態だと思います。

もし日本国憲法を一度破棄し、書き換えるのなら、日本神話を縦糸として、神武天皇の建国の詔、憲法十七条、五箇条の御誓文、教育勅語、昭和天皇の「新日本建設に関する詔書」を骨子とし、明治憲法の良いところを生かすのが良いのではないかと思います。

昭和21年の元旦に「新日本建設に関する詔書」の初めに「五箇条の御誓文」が全文そのまま掲げてあります。
それに続いて次のごとく仰せられています。

「すべからくこの御趣旨に則り、旧来の因習を去り、
・・・
官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、以って民生の向上を図り、新日本を建設すべし」

詔書に「五箇条の御誓文」を掲げられた意味合いを、昭和52年、昭和天皇ご自身が次のように語っておられます。

「それ(五箇条の御誓文を入れること)が実はあの詔書の一番の目的であって、
神格とかそういうことは二の次の問題でした。
当時はアメリカその他諸外国の勢力が強く、圧倒される心配があったので、民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義が決して輸入のものではない、ということを示す必要があった。
日本国民が誇りを忘れると具合が悪いと思いまして、誇りを忘れさせないために、あの宣言(詔書)を考えたのです」
(『読売新聞』)

まさに戦後の日本は、昭和天皇のもと、「五箇条のご誓文」(神武天皇の建国の理念)を原点として再出発することになったのでした。

◆神々は大和民族に知性と科学を与えられた

西洋では、暗黒のメシア・キリスト教時代を通じ、人々が抑圧され苦しみました。
そのため、ルネサンスが訪れ、神とはなんぞやと真実の神に帰ることで、人間性の復興と共に飛躍的に科学が発達しました。
つまり、間違った形の宗教の束縛から、科学が解放してくれたのです。
しかし、日本にはこのような暗黒の宗教史は全く存在していません。
しかし、科学は発達していました。

例えば、面積では世界一の仁徳天皇陵、四〇メートルを超す出雲大社社殿があります。
聖武天皇は東大寺を国民と一緒に建立しましたが、木造建築では高さ広さ共に、まさに三国一(インド、中国、ペルシャ)の大建造物でした。
つまり、それだけの科学知識と技術があったのです。
種子島に流れ着いた火縄銃を改造し、世界一の品質に高めるだけの科学的な分析力と技術がありました。
江戸時代には、ニュートンやライプニッツの少し前に、微分積分と同等な発見をしていました。
だから、明治時代すぐに科学技術を習得してしまいました。
では何故、日本に科学的な素養が培われ、高度な科学知識がもたらされたのでしょうか?

キリスト教では、イブが神に背き原罰を背負う。
この原罰が彼らの子にも影響し、兄カインは弟アベルを殺してしまう。
原罪故に、全知全能の神、永遠に生きる神に理性を委ね服従することを、信仰としたのです。
永遠の生命はあり得ない、何よりも宇宙を創造するような人格神は存在しない、非常に非科学的な教義を信じ込むように追い詰められた。

比較すると日本の場合、伊弉諾・伊弉冉の〝国産み神話〟では、二人は男女の生物学的な特性を尊重し合い、合意を求め協力しながら天つ神の助言を信じて、〝国産み〟を行いました。
更に、伊弉諾の冥界下りでは、伊弉冉は黄泉の国の住人となり、神には限られた寿命があることが当たり前とされたのです。
つまり、非常に科学的な生活態度と姿勢を日本神話から与えられていたということに、『古事記と日本人 渡部昇一』を読んで教えられました。
科学の発展に宗教の暗黒時代は必要なかった。
日本人でありながら、改めて教えられました。



国うみ神話による和合国の根本は男女の和合にあると教えているのです。
だから、神武天皇は様々な地神と婚姻し、国の安定としました。

同じく、明治維新で破れた会津藩から皇室に嫁ぐことで日本の分裂という傷は癒やされました。
これが、伊弉冉と伊弉諾から始まる和の精神で、神武天皇はこれを踏襲され、太子は十七条憲法に〝和をもって貴し〟に反映されたのだと思います。



ヘブライ語で 祇園祭は、古代イスラエルのシオン祭りがルーツであるとも。
7月1日から1ケ月間祭りは続き、
ノアの箱舟がアララト山に漂着した7月17日にクライマックスを迎えます。

技術者集団である秦氏が、古代イスラエル文化を日本に伝えたと云われています。
平安京をつくったのは桓武天皇を支えた秦氏が、技術・資金のほとんどを提供し、祇園祭を主催する八坂神社(「ヤサカ」は「神への信仰」)をつくり、故郷のエルサレ(平安という意味)神殿と都を再建したのだと思います。

また、イザナギは「あなにやし えをとめを」について、
「あなにやし」はヘブライ語で「私は結婚します」という意味だそうです。

◆かまどの煙の国柄
第16代仁徳天皇は難波の高津宮に住まわれました。
まもなく、高殿から回りを見渡され、民家から立ち上る炊飯の煙が少ない。
これは民の生活が苦しいのだと、お心にとめられた。
そこで、全国民の税や奉仕を3年間免除されたのです。
このため宮殿は荒れ宮廷の倉の蓄えも乏しくなりましたが、3年後に民のかまどから煙が多く立ち上るのを見て喜ばれたそうです。
この物語は大阪市の市歌として受け継がれています。

高津の宮の昔より
よよの栄を重ねきて
民のかまどに立つ煙
にぎわいまさる 大阪市 
にぎわいまさる 大阪市

例えば、大国主命は、素戔嗚尊と天照大の正当な血統を認めたが故に、政権を禅譲しました。
出雲国から大量の青銅器が発掘されていることから、当時において、大和政権よりも巨大な軍事力を誇っていたと推測されます。

更に、徳川慶喜は天皇に恭順の意を示し、明治政府に政権を禅譲しました。
当時において、幕府のほうが薩長よりも軍事力では勝っていたのです。

西南戦争においても、もし国家的英雄の西郷隆盛が徹底抗戦するつもりであれば、佐賀の乱と共闘しないはずはない。
また、軍事的にも軍隊の体をなさない明治政府と比べて互角以上だった。
日本の国柄として、軍事力では無く、血統を重んじ、大義につくことを正義としてきました。
それは、ひとえに「かまどの煙」に象徴されているのだと思います。

大東亜戦争に敗戦し、世界中が日本の皇帝は命乞いをし、亡命するだろうとたかをくくっていた。
しかし、昭和天皇は大戦中もですが、戦後においてのマッカーサーとの会見でもお命を賭してでも国民を救おうとされました。
ここに日本人の君臣共治の精神=大和魂の原点があるのだと思います。

だからこそ、戦前戦中戦後において、同じ天皇が日本の君主だった事実を知ると、まずは世界中は驚嘆し、その後に敬意を表するのです。

◆『論語』顔淵篇
中国は古代、孔子の弟子であった有若と君主の哀公との問で行われた、税をめぐる有名な話がある。
かまどの煙との違いは明らかです。

哀公が
「近ごろ不作であり (税収が少なく) 費用が不足してきておる。
どうすれば良いのじゃ」
と有若にたずねた。
すると有若は、減税して税率を一割にしてはいかがと答えた。
すると哀公は
「今の税率二割でも不足となっておるのに、どうして一割に減税することなどできようぞ」
と笑った。
有若はこう申し上げた。
「もし人々が (減税によって生活が) 足りているとなりますならば、為政者はだれと不足だとぼやくことになるのですか。
逆に、もし人々が (重税のために生活が) 不足ということになりますならば、為政者は (歳入増によってほくほく顔で) 誰といっしょに足りていると喜ぶことになるのですか」
と。



■「十七条憲法」は神に仕える「掟」
 
◆和歌と悟り
率直な気持ちを歌にするのは、神武天皇以来の日本の伝統である。
自分の心をその時その場に応じて、思いつくまま率直に歌にする。
悩み事や社会の規範などの束縛を忘れ、貧富の差や身分などを超越したところに、歌の感動があるのだ。
つまり、歌の前では日本人は誰も彼も平等だった。
逆に、身分や貧富や男女の差を云々していては名歌は生まれないのです。

この神武天皇により もたらされた、すばらしい伝統は、世界に誇れる内面の豊かさを私たちにもたらしました。
豊かな内面に、シルクロードを経由した外国からの官僚制度や漢詩やインド・中東の知識などが教養として昇華され、つまり自分のこととして受け入れられ、源氏物語などのすばらしい文化が花開いたのです。
情緒豊かな内面が大きく育っているが故に、客観性を育てる教養を消化できたのでした。

仏教では第三者の立場に立って物事を見・考えることが、悟りをもたらすというのです。
これは私情を大切にしながら、客観的に物事を見る習慣を身につけることで、個人のみ成らず社会の悩み事をも解決する手段としたのでした。
だから、日本人が和歌を愛し、教養を身につけ、これまでの視点に加え新しい視点を発見し、日本文化を豊かに育ててきたことは、まさに釈迦の教えを大和風に実践していたということになります。

内面と客観性の融合は、仏教では慈悲と戒律、キリスト教系では愛と律法として、その宗教の中心に存在する永遠の課題です。
この問題の解決として、表現は異なりますが本質は同じで、日本では歌を実践し、仏教では悟りを求め、キリスト教では神の愛を求めたのです。
ですから、悟りを得るには、なにも出家して僧侶になる必要も、神父を目指す必要もありません。
悟り=新しい視点=真実の前には、老若男女・貧富・身分の差はなく、全人類が平等で、毎日の生活の中で知恵を働かせて少しずつ日々得られるもの(自他一如)で、その先に既存の宗教を越えた共存共栄の社会も達成されるのではないでしょうか。

結局、宗教は手段で有り、目的では無いのだから、このことを理解すれば将来、宗教戦争も無くなることでしょう。

強調したいのは、内面の豊かさを育てる情操教育、人の心を思い測る思いやりの心は、乳幼児教育が非常に大切だということです。
日本の乳幼児への医療や教育の伝統は、世界のどこよりも早く発達してきました。
その一つが幼稚園教育ですがこれを破壊すること、自由でとらわれの無い歌の心が左翼人の提唱する『人権擁護法』により阻害されてしまえば、日本人の内面の崩壊はこれまで以上に加速されてしまいます。
それは、神武天皇から始まる日本民族の終焉でもあると思います。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・仏教は、戒律が厳しく、個人の内面の豊かさを軽視する傾向があります。
だから、互いに折り合うことが無いのです。
ところが、内面の豊かさをもたらす神道は、これらの宗教にはない柔和さがあり、全く別の宗教なのだと思われてしまいます。

フランス人アンドレイ・マルロー(1901~1976)は、伊勢神宮で
「伊勢とアインシュタインは収斂する」
との啓示を受けたとあり、
〝内面の宗教と客観性の科学は一致する〟
その通りだと思います。


◆ 仏壇と祖先崇拝
仏壇仏教は、仏陀の説いた仏教とは何の関係もありません。
全く無関係です。

日本の場合、天照大から始まる皇室の祖霊を祀り、皇室を大切にしています。
ところが、仏壇が登場するまでは、各集落や各家庭の祖先を祀る場所が何も無かったのです。
そこで、自分たち集落の祖霊を氏神とし社を建て、天照大を頂点においたのです。
家庭では仏壇に自分たちの祖霊を祀りました。
少なくとも仏壇仏教は、この素朴な祖先を祀る・大切にするという原点に返るべきだと思います。

尚、霊体には仏壇やお墓は本当は必要ではありません。
そんなジメジメした暗いところに、だれも長時間居たいとは思わないですよね。

◆「十七条憲法」は神に仕える「掟」
渡部著の『日本の歴史 古代編』を読んで、ハッとしました。
太子の「十七条憲法」は神に仕える十七の掟だというのだ。
米国では大統領が聖書に手を置いて神に宣誓する。
これの日本版なのだと納得した。

本書によれば、憲法は〝いつくしきのり〟と読み、
「いつく」は「斎く」、
つまり「心身を清めて神に仕える」という意味だから、
憲法とは、おごそかな気持ちで取り扱うべき捉、ということになるのだ。

太子はこの憲法を推古天皇の十二年(六〇四)の夏四月に制定した。
太子当時の有力士族はバビロン方面からの渡来人だという前提だが、この「十二」は古代シュメル・古代バビロン当時から聖なる数で、神々の最高神十二名のことだ。
また古代バビロンでは、「四」は四方世界を支配する四大天使を意味し、これを仏教が吸収して四天王とした。
だから、十二年の四月というめでたい日に制定したのだ。
また、冠位十二階が何故十二なのかも、すぐに理解されることでしょう。

さて、何故十七なのだろう。

皇室の紋章である「十六菊花紋」は、湾岸戦争当時の記者会見でイラクのフセイン大統領も腕にしていた。
つまり、この十六菊花紋は古代バビロニアの太陽神・マルドウクに由来する。

簡単に云えば、
「六」はマルドウクのシンボル、
「十」はマルドウクから王位を引き継ぐ月神(四代目ヤハウエ)のシンボルであり、
つまり「十六」は連合政権のシンボルなのだ。

さて古代バビロニア当時から、
神の聖なる数は「十二」「十」「七」だった。
ちなみに七は七大天使、裁きに臨席する神という意味だ。
だから、「十七」は神ヤハウエと七大天使を表す。
まさに「十七条憲法」は神に仕える「掟」にふさわしい。

そこで「心身を清めて神に仕える」という心構えだが、
日常の固定概念や貧富の差や身分に縛られていては達成できない。
なぜなら、己の良心と神との一対一の対峙だからだ。
この何者にもとらわれず、虚飾を廃止して、自分の素直な姿をあらわす。
それがまさに俳句や和歌の精神なのだ。

つまり、俳句の五七五は合わせて「十七」で、内面を豊かにし、しかも神に通じるように日本人に与えられた神の宝だったのです。

結論として、神武天皇即位時の国作りの理念
「正しい心を広めて、皆が一つの家族同様の国を造ろう」
と、神武天皇から始まる歌の伝統は、神々により日本人に与えられたものだった。

仁徳天皇は民の窮状をご自身の家族のこととされ、民を救おうとされた。
太子は戦乱の大和国を救わんと神武天皇の精神まで戻り、十七条憲法を制定した。
同じく日本の危機を救わんと明治天皇は、神武天皇の精神まで戻り、五箇条御誓文、教育勅語を制定されたのだ。
そして、大東亜戦争敗戦時の昭和上皇もまた、敗戦に自信喪失していた日本人を立ち直らせようと神武天皇の精神に戻られたのです。

独立外交を毅然として貫いた太子の「和をもって貴しとす」の精神は、英霊と共に、マッカーサ憲法の平和憲法(平和を愛する諸国民の公正と信義を信じて国軍を放棄する)に縛られた私たちに、
何時になれば神武天皇の精神に戻るのか、と訴えられているように思うのです。
 
◆日本人の「和の精神」の起源はどこから
妥協することのない三大宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム)に加え、左翼原理主義が油を注ぎながら、中東の宗教戦争は何時終焉を迎えるのでしょうか。

神の教えとその律法を生活規範とする三大宗教は、同じ宗教を信じる者同士が大規模な共同体を形成し、互いに他を排除してきました。
だから、生活規範の異なる宗教国家間では、妥協は許されないのでしょう。

ところが、同じ中東に生まれたゾロアスター教は、他の宗教に寛容でした。
ペルシャのキュロス王は、忠実なゾロアスター教の礼拝者で、宇宙の摂理に従って広大な新帝国を公正に善く治めようと努めました。
当時多種多様な宗教を寛容にも認め、イラン人の宗教を異民族に強制するようなことはしなかった。

キュロス王の寛容さの恩恵を受け、バビロン捕囚から解かれたユダヤ人はエルサレムに帰り、神殿の再建を許されました。
(前598年で、神武天皇即位もこの頃です)

ゾロアスター教では、「水」と「火」が重要視されます。
誓約の場合には「水」、
契約の場合には「火」による神判に従うべきものとされたからです。

「水」は他の宗教でも重要で、水で洗礼を授けた洗礼者ヨハネ、魔を払う聖水、沐浴による清め。
ソロモン神殿の入り口には水桶があり、人々は手を洗い清めました。
日本の神社と同じです。
水により罪を洗い流し、罪を清めるのです。
一方、「火」とは、神の裁きと律法のことで、最大の火はすべての罪を焼き尽くす太陽(日)です。
当然、男神です。

日本民族の起源は、天照大と素戔嗚尊との誓約から始まります。
だから、神道では「水」を大切にするのでしょう。
「水」にふさわしく、最高神は女神・天照大です。

太子の時代、宗教を異にする有力氏族がひしめき合う国内で、神の「火」は永遠の戦乱をもたらしたことでしょう。
太子は「和をもって貴しとする」の合議制を基本に据え、大和を一つにまとめ上げました。

その神の叡智と原動力は、日本神話の底流を流れ続ける「水」、
すなわち「誓約」の物語だったのだと思います。
これは、伊弉諾と伊弉冉尊の“国うみ神話”に源流があることは明らかです。
 
◆神道の本当の姿
神道(イエスをメシアと認めないユダヤ教)はユダヤ教の正当な末裔であるにもかかわらず、旧約・新約のように教義が明確ではない。
だから、神道が、メシアキリスト教や共産主義からの攻撃に強い一面もあるが、このままでは自然崩壊してしまう危機も有ると思っていました。

しかし、ホメロスやケルト神話、エジプト神話などを読むと、その民族の特徴が分かります。
同じく、『古事記と日本人 渡部昇一』を読むと日本人の特質が明確に現れています。
白村江の戦いに敗れ、唐の植民地支配を受け入れ、それゆえ『記紀』は一部改竄されていますが、日本人の特質を明らかにするものです。
つまり、他の宗教を認めないユダヤ一神教に、日本神話を接ぎ木したものが、神道でした。
なぜそう言えるのか、それは、ユダヤ教でも原始キリスト教でも実現できなかった、君臣一体の共治(大和魂)の実現が神道にはあるからです。
そしてそれは、聖徳太子の時代から受け継がれ、江戸時代にほぼ確立し、明治維新を成功させた原動力でした。
それこそが、ユダヤ民族が求めて止まない、ユダヤ国家のあるべき姿だった。
さらには、天上界が一人の大王により統べられる王国であること。
その真の姿の映し鏡が、君臣一体の共治(大和魂)なのです。

◆日の丸は神の民の象徴
日の丸は、丸い赤い太陽と潔白の白で、日本民族の精神を表していると言われています。
ここでは、日本人が神の民に相応しい国旗だと言うことを説明します。

神との契約は、〝火と水〟です。
〝火〟は聖霊による魂の浄化を意味しています。
霊魂の極刑である消滅も火です。
また、〝水〟は信頼に基づく約束である誓約(うけい)を意味しています。

つまり戒律と誓約が、神との契約です。モーセの十戒とキリスト教には、戒律しかありません。
太陽神・天照大は、互いを信頼する誓約を聖書に接木され、新しい正法として神道を与えられました。

結局、〝火〟で一番偉大なのは太陽・天照大です。
そして、白は浄化された水をあらわしています。
つまり、日の丸は神の民という意味で、ヤマトと同じ意味だったのです。

◆日本神話に秘められた神道には
これといった教義がない

例えば、聖書であれば、
“汝殺すなかれ”
“汝の隣人を愛せよ”
など有名な神の命令・教義があります。

それゆえ、契約社会で有り、同じ教義を信じる者しか信頼できないのが通常です。
教義が明確であることは、後世に伝える点では良いのですが、かえって教義があるが故に排他的となり、他の有益な知識や習慣を取り入れることが難しくなってしまいます。
つまり、科学の進歩を拒否すれば、教義を信じる集団の知的進歩が後れてしまい、一層、他の教義を受け入れることができなくなってしまう。

大和民族に対しては、教義の代わりに、神の啓示による神話が与えられました。神話の中に生活一般に対する模範が示されており、これを読み続け伝承することで民族全体が神話の精神を共有するので、男女間のあり方、冠婚葬祭の方法、政治や祭儀など生活一般の指針が自然と身についてしまいます。
加えて、日本武尊は武士道からすれば卑怯な方法、つまり策略を用いて大和国を統一に導きます。
つまり、外敵から国を守る軍事的なことさえも教えられているのです。

私たち日本人は、この神話を元にした生活を知らず知らずのうちに身につけて生きてきました。
そして、時代に応じて、建国の詔、十七条憲法、日本式儒教、日本式仏教、日本式官僚制、諸法度、明治憲法、五箇条の御誓文、教育勅語、昭和日本の建国の詔など、神話の精神を継承してきました。
つまり、神の命令・教義に縛られないが故に、これを表現する方法として、時代に応じて必要な表現を柔軟に取り入れて使ってきたのでした。

例えば、
大和言葉で日本人の心情を表現する和歌が発達し、
論理的な表現として漢詩を使いこなし、
儒教、仏教、律令、科学などどを日本式に取捨選択して取り込みつつ、
日本文化は豊に育ってきました。
その原点は一つ、
ユダヤ教に “和を以て貴しとする” の精神を接ぎ木した日本神話こそが、神から与えられた当時の新しい法(神道)だったのです。
それが故に、日本は天皇制・君臣一体の共治の国体として進化しつつ、神々に守られ続けてきました。
近頃、西洋文明がやっと日本神話に近づいてきたと言えるでしょう。

◆民族のルーツ
何年か前に「ルーツ」という映画が評判になりました。
奴隷としてアフリカから強制的に米国に連れてこられた黒人の子孫の物語です。
彼は、自分のルーツを探し求め、故郷のアフリカにたどり着きました。
それは、自分の血の中に、生活の中にアフリカの大地が生きているからです。

欧州において、オリンポス神殿、ストーンヘンジのような偉大な建造物が目の前に存在していても、その思想や生活様式は、メシア・キリスト教により断絶し、欧州人の生活や習慣には無関係になってしまっています。ただの観光名所でしかないのです(“Out Of History”)。

王朝が前王朝を滅ぼしてしまうシナでは、現王朝以外は、総て破壊してもかまわない。
つまり、継続性のある生きた歴史ではありません。

十七条憲法、日本神道、正倉院、東大寺は、
また、靖国神社、伊勢神宮、明治神宮などは、
単なる観光名所ではない。
数千年前の建築物とその思想が現在の日本人の生活様式の中に浸透し、未だに影響を与え続けているからです。
それは一つの王朝が存続してきたこと、王朝の精神が、他国の文化を柔軟に消化してきたこと。

例えば、大和言葉に、漢字を取り込み、欧米文化をカタカナ表記するなど、オーケストラ的な取り込み方です。
他にも、教義のない神道を中心に、仏教、キリスト教を日本式に取り込んでいます。
オーケストラとでも、多様性とでもいうような共存の状態です。
つまり、和を以て貴しとする(互いの悪いところが最小限になる)。

◆思いやりという高等感情
今、英文学者の渡部昇一の「日本の歴史」を読み始めました。英文学者なので、その視点で「記紀」「和歌」を解釈していて、自分の知らないことばかり、というか如何に日本人としての素養に欠けているのかが思い知らされてしまいます。

下記は、日本の恋歌。

くらべこし 振り分け髪も 肩すぎぬ
君ならずして 誰かあぐべき

忍れど 色に出にけり わが恋は
ものや思ふと 人の問ふまで

ながからむ 心も知らず 黒髪の
乱れて今朝は 物をこそ思へ

朝寝髪 われはけづらじ うるはしき
君が手枕 触れてしものを


日本の恋歌は感受性と感応性が美しく消化され、子供の情操教育にも使える(例えば「百人一首」)と述べています。
このような日本独特の洗練された感性が、世界一の女流文学や科学や絵画などを創造したのでしょう。

◆天皇制はやはり素晴らしい
シナでは王朝が入れ替わり、その度に前王朝を完全否定しているので、重要な知識も書物も失われてしまっている。
ところが、日本では易姓革命が無く、万世一系なので、中国の各王朝の書物が保管され、それを編纂して辞典とされていた。
それゆえ、シナではとっくに失われてしまった文献が、日本経由で逆輸入されている。
また、元禄時代になると、米の先物取引も行われ経済が発展した。

『源氏物語』の時代から、女性が才能を発揮できていたし、
辞典や先物取引などは、世界で最初に行われていたし、
小児科も日本が世界初。

また、正倉院に世界中の宝物が蓄えられているが、当時の天皇が開封まかり成らぬとの詔を出している。
それゆえ、開封されずに貴重な宝物が現代まで残っている。
それは、万世一系だからです。
これがシナであれば王朝が変われば、当然ですが、暴かれ、破壊されていたことでしょう。
同じく、欧州の革命でも破壊されていたことは間違いない。
また、米軍が強制的に開封しなかったことも、幸運でした。

欧州諸国の大美術館には世界中の宝物が展示されていますが、それは総て奪った物です。
日本とはまったく違う。

米国も大統領が交代すると大きく変わる。
日本の伝統と文明は本当に貴重だと思います。
だからこそ、万世一系の立憲君主制を良しとされるのでしょう。

◆「天照大神」だった奈良の大仏
東大寺大仏・昆慮遮那仏(びるしゃな)というのは太陽神が仏教に入ったとされる。
つまり大日如来とされ、これが天照大神の「本地」(仏・菩薩の本来の姿)だというのである。

仏は元来、無始無終で絶対的なものである。
これを「本地」という。
この本地は人間を救うため、あちこちに具体的な形をとって現れる。
これを「垂遽」(すいじゃく)という。日本的な発想では、この本地が日本に垂逃した場合、それが日本の「神」になる。

そして仏のなかでもいちばん尊い本地は大日如来、つまり毘慮遮那仏であり、それが垂遽したのが天照大神というのである。

これはサンスクリット語の「大日」が「偉大な遍く照らすもの」と漢訳仏典にあるため、「天照」と結びつけられたのであろう。
だから、毘慮遮那仏を日本で祀るのは天照大神を祀るのと同じことになる。
そこで、大仏造営にあたって聖武天皇は橘諸兄(橘三千代の子。光明皇后の腹違いの兄)を、天照大神を祀る伊勢神宮に、わざわざ遣わして寺を建てる神許を乞うている。
さらに東大寺建立の僧侶行基も伊勢に行って神慮をうかがい、
「毘慮遮那仏を祀ることはけっしてこちらをゆるがせにすることではない」
と誓っているのである。
これは、伊勢神宮とは教義的にまったく矛盾しないという意思を示したものと考えられる。

つまり、聖武天皇の大仏造営は、仏教に対する革命ではないかとさえ思う。
衆生一致してやろう、というのはほとんど神道的な、
「みんなの神様」という考えに近い、
実に画期的な発想であった。


◆大和魂の根源について
古来から日本には神道がありました。
白村江の戦いに敗れ、一時ですが唐の支配を受ける以前の神道が本来の姿です。

聖徳太子は神道の心構えを政に活かし、十七条憲法として記しています。
当時の憲法とは、
「神に仕えるための掟(心構え)」
の事だったからです。
政は神事の次に神聖なものだったんです。

鎌倉時代には、神に仕える神道の心構えを真似て、武家諸法度が制定されます。
つまり、武人もまた神に仕えていたのです。
そこで、商人は自分たちも神に仕えたいとして、商いの領域を暖簾で囲い、この中を聖域(結界)とし、精進したのです。
お客様は神様ですとは雲泥の差があります。
簡単に言えば、神の前に一人立ち、自分の醜い所も含め全てを丸裸にされ、それでも
“心を尽くし、精神を尽くして、己の主である神を愛す”
という気持ちです。
それが、神前に立つ者の心境なんです。
現代の仕事に対する気持ちの中で、
「神に仕える心構えの精神」
が失われてしまったのだと思います。
勿論、神を棄てた共和国、共産・社会主義国からは、すでに失われてしまった人間の美徳です。

◆家庭における神事と夫婦関係
神主には神道、公家には公家諸法度、武家には武家諸法度、商人には暖簾があり、聖域とされていました。
では、各家庭ではいかにと問う質問があるかと思います。

古代シュメルでは、神前で結婚式を挙げ夫婦になると云うことは、夫婦が家を持つと云うことと同じ意味でした。
つまり、夫婦が一つの部屋を独占し、それが聖域だったんです。
エジプトでもほぼ同じでした。

卑弥呼の時代から日本では、家庭には神主から頂いた天照大を祀る神棚があり、家庭での政については妻が巫女の役割をし、夫がそれを実行していました。
つまり、皇室とほぼ同じ形態を習慣としていたのです。
間違いなく、古代シュメルの伝統をそのまま引き継いだのでしょう。

つまり、家庭では、神棚の及ぼす範囲をその家族の聖域としたのです。
だから、家を継ぐ時には跡取りが、暖簾や神棚を引き継ぎます。
日本では、夫婦関係・家族関係もまた、神事の一つででした。
そして、神棚に祈る時、陛下を見る時、その背後に存在する天照大(ヤハウエ)をも同時に感じていたんです。
そうやって、日本人一人ひとりが天照大を祀る大和民族だという意識を持ち続けていました。
そこが古代シュメル~イスラエルの正当な末裔である日本と諸外国との、
文化と伝統が大きく違う由縁だと思います。

■神話継承の法治国家(道義国家)

◆ 建国の歴史を考えてみる
“明治憲法” は、伊藤博文がドイツの一王国の憲法をまねて作ったもので、
当時、欧米との不平等条約(治外法権・関税率等)を是正するため、それには欧米と同じ文明国だということを示すことが必要でした。

例えば、日本の自主独立のために、鹿鳴館などを欧米諸国との外交の場としたのです。
そして、彼ら明治の元勲は良家の令嬢ではなく、芸者上がりの度胸と愛嬌があり、外交のできる女性を妻として迎えました。
また、彼らは元老としての身分と権威を子供に引き継がせることはしませんでした。

一方、明治憲法だけでは、日本という国柄が国民に不明確なので、教育勅語が発令されました。
つまり、明治の実質的な憲法は、五箇条の御誓文と教育勅語でした。

富国強兵は、明治維新直後だけではなく、大陸からの圧力に屈しないよう、古代から何度も繰り返されてきた日本の伝統でもあります。
そのお手本が日本武尊、神功皇后です。

“日の出ずるの天子” で有名な聖徳太子は、天皇を中心とした国家の建国をめざしました。
太子の十七条憲法では、国家の理念を公に打ち出しました。
即ち、“和の精神”、“民に二君無し”に要約されます。
この時代、強大な随の圧力もあり、多くの豪族が競い合う国内の統一が何よりも急がれていたらかです。
また、大化の改新後は、日本式律令制に移行しましたが、それには十七条憲法とモーセの律法の大和版 (大化の改新) が根底にあったのです。
その後、武士の台頭と共に、世界に先駆けて、実権は武士が、権威は皇室がというような政教分離がなされました。

戦国時代、スペインとポルトガルは、アジア諸国を植民地化し奴隷としていました。
そして日本をキリスト教国化し、明を滅ぼそうとしていた。
ところが、織田信長はあっという間に日本を統一し、豊臣秀吉がスペインとポルトガルからの脅威を跳ね返したのです。

江戸時代は、政教分離と律令制がバックボーンにあり、立憲君主制に近く、士農工商の身分制度はありましたが、実質的な憲法は生活の中での共通認識である式目としたのは、家康の智恵でした。
武士は金銭よりも名誉を重んじ、税率が世界で一番低率で自由な国柄となり、江戸では学問が競い合い、科学技術が進歩し、庶民文化が花を咲かせ、当時世界最大の都市に成長しました。

世界最古の女流文学を生み出した平安時代は貴族の文化でしたが、江戸時代の庶民の文化は世界に類を見ません。

何を言いたいかというと、憲法の前文は、国民の共通認識とすべきもので、
「伊弉諾伊弉冉の国うみ神話(男女の特性を生かして協力し合う)」
「神武天皇の建国の詔(皆が一つの家族のように信頼し合う)」
「十七条憲法(独断をいさめ、話し合いをする。最後には最終決定者の意思に従う)」
「五箇条の御誓文」「教育勅語」のように、これからの時代に相応しい国家理念をうたえばよい。
そして、後の細かなことは、法令集にまかせればよいのだと思います。

日本的な立憲君主制・和の精神は、神話の時代から、外圧を跳ね返し、血みどろの内戦を通じた二千数百年もの年月をかけて引き継がれてきた日本人の魂そのものです。
そこのところを、骨子とすれば良いのではないかと思います。

現実的には、現在のマッカーサ憲法を、一度破棄し、国防と教育部分を修正して、その後で、国民投票か何かで、憲法を改定する手順が穏当かもしれません。

ちなみに、太子の “和の精神” は伊弉諾伊弉冉の「国うみ神話」からの精神を引き継いだもので、神武天皇はこれを「八紘一宇」として踏襲されたました。

◆ 庶民的だった明治時代から
戦後日本の建国へ

私が爺さん連中から戦前の生活を聞いた話では、明治憲法を学校で習うことはほとんど無く、教育勅語と五箇条の御誓文が学校で教えられていたと聞いています。
つまり、米国で毎朝国旗に向かい忠誠を誓うのですが、日本はそれが教育勅語だったのです。

ですから、明治憲法を知らなくても、教育勅語を知っていれば生活には困らなかったし、不便もなかったようです。
現在の私たちは、日本国憲法も、教育勅語も、日本神話も知らず、ただ伝統が生活に残っている状態なのだと思います。

その日本の誇るべき伝統については、
311当時の東北の被災地の方々が日本のみならず世界に示されました。

また、明治憲法には内閣制の規定がなく、首相は軍部を統制できない欠点がありました。
ですから、大臣を罷免にするには総辞職しなければなりませんでした。
そのような欠点や時代に合わない部分もあるのではないでしょうか。
ただ、単純にそのまま明治憲法に戻ればそれでよしとするのでもありません。

昭和21年元旦に「新日本建設に関する詔書」の初めに「五箇条の御誓文」が全文そのまま掲げてあります。
それに続いて次のごとく仰せられています。

「すべからくこの御趣旨に則り、旧来の因習を去り、
・・・
官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、以って民生の向上を図り、新日本を建設すべし。」

詔書に「五箇条の御誓文」を掲げられた意味合いを、昭和52年、天皇ご自身が次のように語っておられます。

「それ(五箇条の御誓文を入れること)が実はあの詔書の一番の目的であって、
神格とかそういうことは二の次の問題でした。
当時はアメリカその他諸外国の勢力が強く、圧倒される心配があったので、民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義が決して輸入のものではない、ということを示す必要があった。
日本国民が誇りを忘れると具合が悪いと思いまして、誇りを忘れさせないために、あの宣言(詔書)を考えたのです」
(『読売新聞』)

まさに戦後の日本は、昭和天皇の平和の祈りと共に、「五箇条のご誓文」を原点として再出発することになったのでした。
だから、憲法の第一に、天皇の重要な行為として「祭祀」を明記し、政教分離という意味での元首だとはっきりさせることが肝要だと思います。
それはモーセの律法では大司祭に相当します。
つまり、国家の安泰、自然の豊穣を神の末裔として神に祈り、時には神のお言葉を国民に伝える役職で、神と人に使えることが天皇の職務です。
勿論、皇統は人類の創造主からの伝統である男子男系に限る。

◆庶民の思う、日本人による日本人のための憲法素案
~目標は、神話継承の法治国家(道義国家)~

日本には神話の時代から神聖な神域・聖域という観念があった。
そこに入るには、禊ぎを行い心身を清めたのちに、入ることが許されていた。
これは古代シュメルの時からの伝統で、ユダヤ民族、その正当な末裔の大和民族により観念は引き継がれたが、その形態は多少変わりました。
それは、日本神話が皇祖の言葉に従順に従い、男女の違いを認め合い助け合うことで、緑豊かな国作りが始まったからです。

江戸時代には、武家は公家諸法度を参考にして、武家諸法度を倫理・行動規範に据えます。
農村部では天照大に連なる氏神を祭ることで、山野田畑を聖域と見なしていました。
この時代に発展する商人達は、彼らの行動規範を暖簾という形で聖域化を図りました。
暖簾の中は彼らにとって聖域であり、商売よりも神に仕えるという意味合い、まごころを伝えるということを大切にしたのです。
だから、世界一治安のよい国へ発展したのだと思います。
その一つの例として、日本人の経営する店に入れば “いらっしゃいませ” 、何も買わなくても “ありがとうございました” と気持ちよい声が聞かれます。
ところが、シナでは何も買わないのなら邪魔だという発想しかないのです。

日本人には
“お天道様はいつでも見ている。隠すことはできない”
という良識がありました。
つまり、皇室の伝統である神事、聖域では心を込めて神に仕えるという伝統を、士農工商の各階級が独自に生活規範として取り入れたのが、日本の世界に誇る一大文化だと思います。

神に仕える精神は、神話から現代まで脈々と日本人のDNAの中に、魂の奥底に流れているのだと思います。

◆神に仕える国うみ神話
皇祖の言葉に従順に従い、男女相和して国家の基礎を作る。
(⇒『日本神話』)

◆神に仕える 神武天皇建国の詔
大和建国の最初に、妻とのむつまじさを歌われ、国家の基礎を固めることを国うみ神話に従い宣言されます。

そして、民が一つの家族のように仲良く暮らすこと、
つまり今風で言えば「道義国家」の実現をめざして建国の理念とされました。
つまり、家庭、国家の基礎を固めることは神に仕えることなのです。
(⇒『八紘一宇』)

◆神に仕える掟 憲法
国では大統領が聖書に手を置いて神に宣誓しますが、これの日本版なのです。

憲法は “いつくしきのり” と読み、
「いつく」は「斎く」、
つまり「心身を清めて神に仕える」
という意味だから、憲法とは、おごそかな気持ちで取り扱うべき捉ということになるのです。
(⇒『十七条憲法』)


これらの神に仕える精神を、簡単明快にまとめたものが、『五箇条の御誓文』『教育勅語』だったのだと確信いたします。

私たちの祖先は繰り返す混迷を打破するために、その度に「神に仕える」という大和魂の原点に戻りました。
その誇り高き歴史が、『記紀』に明記され、この魂を引き継いできたのが、
『五箇条の御誓文』『教育勅語』、
「新日本建設に関する詔書」だったのです。

現状を打破し、新しい日本の道しるべとして、どのような憲法前文が相応しいのか、文才も哲学もない私には未だに不明ですが、日本人一人ひとりが日本文明の担い手としての自覚と責任を持てるように、建国の精神に立ちり、天皇を祭儀を執り行う元首(男子男系)とし、国旗国歌を制定すると共に、公務員の心構えを明記し、ひいては自由と民主主義を守り、世界の平和に貢献するという文言が相応しいのではないかと思うのです。

また、男子男系を皇統とした日継の絶えることのない皇室典範に戻すべきだと思います。
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