転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』
■昭和天皇の苦悩
『昭和動乱の真相 阿部 著』の後に
『昭和の動乱 重光 著』を読みました。
阿部氏は警察内から見た当時の国内状況を語っておられる。
ゾルゲ事件への言及が無く、若干物足りないところもあるが、重光氏は国際感覚を持ち広い視野から昭和の動乱を見据えており、感銘を受けました。
また、両書ともに国内状況の分析に付いては一致している。
しかし阿部 著だけでは、常に平和を希求され続けられた昭和天皇のご意思と命令が、何故終戦間際まで実現されず、かえって英米との戦争に突入したのかが不思議でなりませんでした。
統帥権については帝国憲法に下記のごとく、天皇の大権として定めてある。
これについては、国内において軍部も含め何人も議論の余地は無い。
第十一条:天皇は陸海軍を統帥する。
第十二条:天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定める。
日独伊三国同盟に対し、陛下からは何時もの①~③に加え、下記のお言葉があった。
終戦まで陛下のお気持ちは終始諸国との親善、英米との協調であった。
つまり、天の声は陛下を通じて、何度も伝えられていた。
そして、重光外務大臣のように日本国の幸福を第一として、勇気を持って実情を正しく陛下に伝える者が多く居れば、かつ陛下の思し召しを軍部が優先していれば、中国の共産化ならびに我が国の敗戦はありえなかった。
①.憲法条項に従うこと。
②.国際親善を基調とし外交には無理をしないこと。
③.財政及び内政には急激な変化を起こさないこと。
④.英米両国とは協調しなければならぬ。
⑤.陸軍大臣には梅津か畑を選ぶこと。
⑥.内務、司法両大臣には治安に関係があるから選任には特に注意せよ。
重光氏によれば、日本は幕府体制から脱し、明治憲法と藩幕府体制を両輪として、日清日露の大戦に勝利した。
その後、第一次世界大戦での好景気、関東大震災と大不況により、世界経済がブロック化するなか、資源のない日本は苦悩する。
その中で、ロンドン条約にて日米英の海軍の軍縮比率に調印。
本条約の調印に対し、大権を犯したとして中堅の将校を中心とした軍部は不満を募らせた。
彼ら不満分子は、北一輝、大川周明などの皇室絶対論、そのためには手段を選ばずの左翼と右翼混交の極端な思想にかぶれていた。
その後、彼らにより5.15事件、2.26事件が勃発、浜口首相が狙撃され死亡、原首相、犬養首相が暗殺され、日本の政党政治は終焉した。
もし、この時に主犯に対し厳しい刑で望んでいれば、軍の暴走は止められていたのかもしれない。
近衛内閣をして、日中戦争へ、日米戦争へと駆り立てたゾルゲ配下の尾崎秀美の謀略も成功しなかったかもしれない。
最初に日本は資源を求め、満州に活路を求めた。
その時、政府と統帥権は別とし、軍が独走して満州事変から、中共軍の反日工作と謀略が重なり、満州国の建国へと追いやられてしまった。
しかし、当時の政府と軍高官達には関東軍を統制する事が出来なかった。
彼ら主犯の考えは、天皇と国体を堅持し、そのためには手段を選ばす、軍が統率する国家を夢見ていた。
あえていえば、理想化された美名のためには手段を選ばずの共産主義及びナチと同質のもので、陛下は置物でしかない。
勿論、陛下のご意思は、天皇は政府の一機関でもよいのではないかのお言葉に集約されている。
その後も、陛下のお気持ちとご意思が、日本国民一人一人に直接伝えられることは無かった。
それ故に、国民は政府の詔を信頼し、第二次世界大戦へと突っ走ってしまったのです。
内閣が短期に入れ替わるも、戦前戦中戦後を通じて、皇室は日本国民の心のよりどころであった。
◆戦争は終わっていない
親日家の助力の下、日米交渉の足がかりをつかみ、ハル長官と交渉に入り、順調に推移していた。
最初のハルノートには、満州国の権益については触れておらず、日本の南下について譲れないとされていた。
そして、近衛首相とルーズベルト大統領の会談が成立する見通しがあった。
この日米交渉については、逐次、旧ソ連に連絡されており、横槍が入り、日米の首脳会談は延期された。
しかも米国は日本の暗号を解読しており、常に先手を打っていた。
同時に、独ソ戦において独敗退に伴い更に厳しい前提が突きつけられたが、日本は協調を求めた。
米国の参戦準備が整い、ハルノートには、満州国の権益をも破棄する通告となった。
ABCD包囲網ゆえ、日本に先制攻撃=真珠湾攻撃を誘導、日本の外交努力は水泡と化した。
暗号解読していた米国上層部は、日本実情を正確に知っており、世界征服の野望が無いこともまた知っていたはず。
しかし、マッカーサーほか軍部には、日本についての事実は知らされていなかった。
加えて、当時の米国は旧ソ連に対して、独と戦う同盟国だと思い込み、無警戒だった。
旧ソ連は中国で蒋介石と日本軍を戦わせ中共をして大陸を共産化させた。
日ソ条約を破り北海道を占領しようと南下した。
更に、朝鮮を分断した。
この時点で、米国は日本が共産主義と戦っていた事に気付いたのです。
残念なのは、満州国樹立後、陛下の望まれる日米の協調を実現する機会が、何度もあったにもかかわらず、実現しなかったことです。
・蒋介石軍が中共軍を徹底的に叩いているとき、これを支援していれば。
・独の戦闘時、中立と東亜の安定を宣言していれば。
・独ソ会戦時、中立と東亜の安定を宣言していれば。
概観すると、当時、共産主義に無防備だった各国に対し、共産主義理念に共感する日米中独の共産主義者が、旧ソ連の謀略を忠実に実行した。
( 各国とも、よもや愛国心よりも共産主義を優先するとは思いもよらなかった )
ただし、日本においては、国体を否定するがゆえに、共産主義者を危険分子と見なし逮捕していた。
◆先の戦争は日本人自身が選択した宿命だ!
結局、大政奉還により、幕府体制の受け皿として立憲君主制・藩幕体制を樹立し、日本民族の自主独立に向けて、明治維新を断行。
日清・日露に辛うじて勝利した。
そして、第一次大戦を経て、日本国民の意識の変化を受けて、明治憲法の枠を一歩推し進め、更に民主化する必要があった。
つまり、天皇の大権である軍に関しては内閣の下に置かれ、藩幕制の自然消滅から政党制へ完全移行するべきだった。
更に、陛下と重光外務大臣と東條首相の考えのごとく、資源問題に対しては終戦間際のように、わが国が明治維新で歩んできたその通りに、アジア諸国の民族的自決を促し、親善を基調とする外交により解決すべきだった。
そうすれば、蒋介石軍は中共軍を全滅させていたことでしょう。
残念な事に史実は、ゾルゲの工作と中堅軍部の独走を止めることはできなかった。
しかし、陛下と側近の英断により終戦、
GHQとの交渉を通じ、尾崎の希求し実現を確実視していた日本の赤化革命は防止された。
ところが敗戦後のGHQによる占領政策にて、保守系公務員の一斉解雇、ついで逮捕されていた左翼・共産主義者の解放がなされ、彼らが最高学府他の高位の地位を占めるにいたる。
それゆえ、GHQに不法にも押し付けられた憲法第九条の放棄、もしくは改正が、今日まで出来ずじまいになっている。
◆平成の動乱
自民党が大敗し、民主党亡国政権が居座った。
原因はバブル崩壊、リーマンショクがもたらした日本経済の崩落による閉塞感と、自民党への不満だった。
そしていつの間にか、終戦直後の左翼かぶれの連中が日本中枢の幹部となり、左翼マスコミに洗脳され、道義を忘れ利益最優先の世相に拍車をかけた。
戦後、昭和天皇は国民の心の支えであり、貧しさからの脱出という国民の共通目標があった。
やがて高度成長を経て、物質的な豊かさに慣れ、国防を忘れてしまった。
半左翼化された平成動乱に至るも、大政奉還に相当する受け皿はどこにも無かった。
それは、国家・国民としての目標を見つけ出せずにいる、思想の貧困と道義心の低下が齎した結果だと思う。
日本人の勤勉と物作りへの情熱は、
ただ貧困であったからなのか、
それとも貧困からの脱出のみならず、
国家・国民の繁栄を願ってのことだったのだろうか。
平成動乱は、全人類に対してどのような意識改革を齎すのでしょうか。
第二次世界大戦では大不況に対し、自国の権益を確保する排他的な経済ブロックにて、謀略と軍事衝突を繰り返した。
その過ちを繰り返さないように、民族の自決・自立を認めることは当然ですが、現在は閉鎖的なブロック経済よりも、自由経済最優先=世界的な実力主義に傾注している。
しかし、韓国がIMFから借金をし、実力第一主義を強制・徹底した結果、民族の伝統を失ってしまった。
実力第一主義で経済は復興するが、中堅幹部の暴走を止めることは出来ず、却って煽る事になる。
それでは、欲望を抑制する前頭葉の働きが停止してしまう。
それゆえ、長老制や元老院といった道理をわきまえた国家体制が必要とされるのです。
◆昭和天皇の悲劇
『日本の歴史 戦後編』より抜粋
「人間宣言」の詔書をよく読むと
「単ナル神話卜伝説ニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」
とあるから、神話と伝説を否定したわけでもなく、
「それだけが根拠でない」と言っているとも解釈できる。
天皇が現御神であることを否定しているわけでもない。
ただマッカーサーに渡った英訳文(これを私は見たことがない)では、マッカーサーを満足させるようになっていたのであろう。
いずれにせよ天皇陛下は西洋で言うところの「ゴッド」ではないが、依然として日本の神道の中心であられることは紛れもない事実である。
昭和天皇が不幸であられたのは、ご成長なされるのと前後してロシア革命が起こつたことである。
ロシア革命は昭和天皇だけに関係があったことではないが、ロシア革命が起こった後、スターリン政府が日本に向けて「皇室をなくせ」という指令を出した。
これがコミンテルンによるいわゆる
「二二年テーゼ」「二七年テーゼ」
「三二年テーゼ」
などというものである。
コミンテルンが創設されたのはロシア革命から二年後の大正八年(一九一九)で、日本共産党は大正十一年(一九二二)に「コミンテルン日本支部」として発足した。
その「コミンテルン日本支部」である日本共産党に出された「二二年テーゼ」(大正十一年)を例に挙げると、以下のような項目になる。
・天皇制の廃止
・貴族院の廃止
・現在の軍隊、警察、憲兵、秘密警察の廃止
・労働者の武装
・朝鮮、中国、台湾、樺太からの軍隊の撤退
・天皇および大地主の土地の没収とその国有化
コミンテルンの「天皇制の廃止」命令を受けて、日本は治安維持法を作らなければならなくなった。
スターリンの指令はこういう いろいろな悲劇を生んでいる。
ロシア革命というものがなく、コミンテルンが暗躍しなければ、二十世紀は平穏な時代であったのではないだろうか。
まず、ロシア革命がなければヒトラーは生まれなかった。
ヒトラーはロシア革命、つまり共産党に対するドイツでの反対運動の中から出てきた人物である。
しかし、ナチスというのはドイツ国家社会主義的労働者党だから、ヒトラーも社会主義者にほかならない。
従ってヒトラーとスターリンの戦争は左翼同士の喧嘩ということになる。
また、イタリアでも共産党とムッソリーニ首相が対立した。
ムッソリーニはもちろん左翼である。
これを大学紛争にたとえると、共産党の代々木派と、反代々木系の中核や革マルの争いだと言える。
大学紛争の頃、左翼同士がお互いをファシストと罵り合っていた。
つまり、スターリンは民青、ヒトラーはドイツの中核派、ムッソリーニはイタリアの草マル派だと言ってもいい。
コミンテルンの魔の手はアメリカにも伸びて民主党の中心部に食い入り、これがアメリカを日本との戦争に駆り立てていく。
東條英機首相はアメリカとの交渉にあたって、昭和天皇のご意思に忠実に全力を尽くして和平への道を探っていた。
アメリカが一歩も譲らないのを受けて、最終的に日本はこれで話がつくであろうという乙案を出した。
これがハル・ノートという事実上、アメリカの最後通告によって突如ひっくり返り、日本は開戦へと踏み切らざるを得ない状況に追い込まれてしまった。
このハル・ノートはハル国務長官が書いたものではなく、実際はハリー・ホワイトという財務省の役人が書いたものだが、彼はソ連のエージェントだった。
スターリンからアメリカと日本を戦争させろ、という命令が下っていたのである。
もちろん、満洲およびシナでも共産党がなければ、あのような反日運動は起こらなかっただろう。
ソ連のコミンテルンの魔の手に日本は踊らされたのだ。
昭和天皇の御代の大部分がソ連共産主義と同時代であったということは、悲劇だった。
多少の救いと言えば、昭和天皇がソ連の解体に連なるペレストロイカ(ソ連建て直し政策)をご覧になってからお亡くなりになったことである。
◆五十年の反日教育の証拠
天皇陛下は戦後、日本中をまわられた。
これはすごいことだ。
どこの国でも、敗戦国の皇帝は命が危ないので、殺されるか逃げ出すかどちらかである。
しかし天皇陛下はSPもつけず、農村にも工場にも炭鉱にも、どこにでもいらっしやった。
今のようにどこにもホテルがある時代ではないから、県庁の会議室だとか汽車の中などに泊まられて日本中を巡幸された。
私はそれを実際に体験している。
昭和二十二年(一九四七)だったか、夏休みに川に泳ぎに行ったら、向こう岸の土手の上に見たこともない自動車が三~四台現れた。
最初は不思議に思ったが、「今日は天皇陛下がいらっしゃる」と新聞に書いてあったことを思い出した。
そこで土手をのろのろ走る車に追いつこうと、我々少年たちは、さすがにランニング・シャツを被ったものの、下はふんどし姿で下流の橋まで走っていった。
橋のたもとでそっとお待ちし、天皇陛下に触ることもできたのだが、畏れ多いので、私は陛下の単に触った。
そんなことをしても、天皇陛下ご一行からは何のおとがめもなかった。
終戦直後はこのような状況だったのだ。
空爆され、原爆を落とされ、また戦地でもあれだけの人が亡くなったにもかかわらず、天皇陛下に対して恨みを持った人は誰一人としていなかったことがわかる。
当時の人は、偉い人たちが打つ手を間違ったかもしれないが、天皇陛下が戦争をなさりたかったわけではないということを皆、わかっていたのである。
しかし、天皇陛下が亡くなられた時の大喪の礼に、どれだけの警備が必要だったか。
何万人もの警官が並んで警備したにもかかわらず、途中で操め事が起こったりした。
戦後、左翼が五十年間にわたる教育で、天皇陛下が悪かったと子供たちに刷り込んだため、亡くなられた時はソ連がゴルバチョフ体制になっているにもかかわらず、重警備なしではお葬式も執り行えない事態になってしまった。
これは恐ろしいことである。
半世紀にわたって、いかに左翼が反日教育を徹底したかがわかる。
敗戦を受けて、天皇陛下は退位すべきだったという議論がある。
しかし私は、退位されなかったことがよかったと思う。
よく事情を知らない外国人に、大東亜戦争は日本の侵略戦争だ、日本が悪かったと言われた時に、でも天皇陛下は裁かれていない、と言えるからだ。
会話の時に、いろいろ説明もできないので、簡単に一口で言えることがあると便利である。
ドイツで「ナチスは裁かれなかった」とは言えないであろう。
天皇は日本の元首であったのに裁かれなかったと言えることは、実に尊いことなのである。
私が西ドイツにいた頃、ドイツ人に「日本には天皇という人がいたがどうなったか」と聞かれた。
ドイツ人にしてみれば、どこかに逃げたか殺されたと思っているわけだ。
そこで私が「まだ戦争の時の方と同じ方が天皇ですよ」と言ったら、驚嘆していた。
天皇陛下がマッカーサーにお会いになる時、マッカーサーは命乞いに来たのではないかと思ったがそうではなかった、というのは有名な話だ。
◆天皇を中国に売った宮澤喜一
江沢民や温家宝は、日本に対して非常に倣慢だ。
なぜ倣慢かというところが大事である。
天安門事件で中国は、世界中のマスコミが見ている前で一般市民を大量に殺害し、当然ながら、国際的に孤立した。
その時、中国は、日本の天皇を招き、そこを外交の突破口にしようと考えた。
そして、日本政府は天皇陛下に訪中して頂くことを決めてしまったのである。
東アジアにおいては、周辺の国がシナを訪ねるということは朝貢だと見なされる。
シナの都に日本の天皇が行けば、それは日本がシナの家来になったということになってしまうのだ。
天皇陛下の訪中に中国は感激して、今後、歴史問題には言及しないなどと言ったが、家来になった国との約束を守るはずがない。
この天皇訪中という国賊的行為を決めたのは、宮澤喜一首相である。
官房長官は加藤紘一氏だった。
聖徳太子以来、日本の天皇はシナの皇帝と対等の立場を崩したことはなかった。
その積み上げてきた歴史を彼らは一切、葬り去ってしまったのだ。
諸外国の大統領が来日した時、代わりに各国を訪問するのは日本では首相である。
それが対等の立場だ。
そして、天皇陛下はその上にいらっしやる。
だから、各国の大統領が来日した時、天皇陛下の晩餐会に出席すると皆、緊張する。
田中角栄内閣の時に訪日したフォード米大統領も震えるほど緊張したと言われている。
それくらい畏敬の念を持っている。
しかし、宮澤首相が中国をつけ上がらせてしまった。
そもそも、温家宝は中国のナンバー3だから、天皇陛下の晩餐会に呼ぶ必要などない。
外務省のチャイナスクールが動いて画策したのだろう。
日本の歴史教科書の検閲権を北京とソウルに売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのである。
今上天皇にはぜひ長生きして頂き、中国共産党政権の崩壊をご覧になられれば、朝貢する形にさせられてしまったことに対するお慰めになるのではないかと思う。
◆和製原爆と昭和天皇
昭和天皇はある信頼する側近の方(真崎秀樹)に「私は二つの間違いをした」と言われたことを回顧されている文章がありました。
昭和天皇自らそのことを語られたのは異例のことです。
その二つの間違いについて、側近であられた真崎秀樹という方の証言とある方のコメントを以下に引用致します。
《真崎秀樹氏は昭和天皇の通訳を80歳を超えてからも、陛下のたってのご希望でお勤めになられていました。
ある日、部屋に陛下と真崎氏のみがいたとき、陛下は窓の方を見ながら、
「私がおまえをその歳になっても使っているのは、真崎大将の長男だからだ。
私(陛下)は今までに二つ間違ったことをした」
とおっしゃられました。
その方は、
「二つの間違いの内の一つは、二・二六事件での処置である事は、陛下のお言葉から明らかである。
もう一つは確かにはわからない。私(陛下)はポツダム宣言を受け入れたことであると思う」
といわれました。
私(真崎)は、
「大東亜戦争を開戦したことではありませんか?」
と言ったところ、
あの時は政府が既に開戦することを決めていた。
政府が決めて了解を求めてきたら陛下は承認するしかなかった、とのお考えでした。
しかし、もう一つの本当の間違いとは、陛下が日本陸軍が研究していた原子爆弾の開発を禁止したことであることが分かりました。
結局、原子爆弾の惨禍にあったのは日本人だけだ。
相互抑止が働いて、日本が爆撃されただけでそれ以降は使われなかった。
それなら、日本が先に開発して実験だけすれば、誰も傷付かずに、あれほどの惨禍を日本人にもたらさずに終戦に持ち込めたはずだ。
その想いが陛下をさいなみ続けていたのでしょう。
・・・
私は、あの時点で日本の原爆開発は完成間近まで行っていたと確信いたしております。
一つには、当時陸軍の参謀で陸軍大学優等卒業の方から以前、
「昭和19年の夏に参謀長から新型爆弾が完成したので、これで戦争に勝てると聴いたが、12月にあれは陛下が使うなとおっしゃられたので使えなくなってしまった」
と聴いたからです。
・・・
(引用終わり)
陛下は、昭和19年に開発を禁じたことを間違いであったとおもわれたのでしょうが、戦後に、あるいは現時点で再度開発することを望まれていたとは私は言いません。
しかし、この「昭和の遺言」を知った以上なすべきことがあります。
それは昭和19年の時点でそれを使えば戦争に勝てる可能性が高いにもかかわらず、それを使えばどのような惨禍が待ち受けていたかを知った上で敢えて核兵器開発を禁じたお方がおられたということです。
そしてそのお言葉を慫慂(しょうよう)として受け入れた軍人がいたということです。
日本がこれから軍備をどのようにしていくにしても、このことを核兵器を既に持っている国の国民と指導者、現在、開発中の国の国民と指導者、そして誰よりも日本国民自体が知り、心に刻み込まねばなりません。
それができない人間に平和を語る資格はありません。
●『考察の杜』より抜粋
http://www.sun-inet.or.jp/usr/hiro7733/public_html/general/general_WAGYOU_LABEL.html
(引用)
↓
◆『昭和天皇の極秘指令』
1.最高の軍事機密「二号研究」
戦時中の日本には、現在も知られていない秘密があった。
「二号研究」である。
それは、日本独自の原爆開発計画だった。
米国の原爆研究・開発は、昭和14年に開始。
アインシュタインはじめ、多くの科学者がルーズベルトに「ドイツでは相当開発が進んでいます!」と進言した。
この警告の手紙がきっかけとなり、研究が始まったのだ。
一方日本では、昭和15年4月 「二号研究」開始。
(「昭和天皇」読売新聞社編)
鈴木中佐は、陸軍航空技術研究所に着任するや、所長の安田中将から指示された。
「原子爆弾の可能性について調査してみろ」
彼は調査後、軍に報告書を提出した。
「原子爆弾は、出現する可能性がある。
原爆の材料になるウラニウム鉱石は、わが国にも埋蔵されている可能性がある」
当時は、まだまだ軍事利用など考えられない段階だった。
学術論文も国際的にやっと公開された段階だったのである。
昭和16年(1941年)4月
所長の安田中将は、理化学研究所の大河内所長に正式要請を出した。
「原爆製造に関する研究を願う・・・」
大河内は、仁科研究室の仁科芳雄博士に一任した。
昭和18年(1943年)
仁科博士は「原爆は可能である」との報告書を作成。
安田中将は、航空本部総務課長・川島大佐に、こう命じた。
「この研究を『強力に』推進せよ」
昭和18年(1943年)
陸軍省の大臣室に呼ばれた川島は、東條英機からこんな指示を受けた。
「アメリカとドイツで原爆製造計画が進んでいる。
もし我々が遅れたら戦争に負ける。
一つお前が中心になって製造を進めろ」
このようにして陸軍の原爆製造計画は、「最高機密」として開始された。
2.もう一つの計画
ところがここに、もう一つの原爆開発計画があった。海軍である。
こちらは「F計画」と呼ばれた。
昭和18年5月
陸軍に2年遅れで、それは始まった。
計画を委託されたのは、京都大学の荒勝教授である。京大の原子物理学は、世界の十指に入る実力を持っていた。
スタッフの中には、湯川博士も参加していたらしい。
昭和19年
ウラニウム235から「6フッ化ウラン」結晶を抽出成功。
(米粒大)
7月から分離テスト。
(失敗)
昭和20年
空襲により作業中断、研究室の機器壊滅。
陸軍の「二号研究」とも中止となる。
3.天皇の猛反対
天皇の「原爆に対する態度」を著した資料がある。
・『昭和天皇』 出雲井晶 著
・『日本・原爆開発の真実 究極の終戦秘史』 五島勉 著
・『天皇の真実』 河内正臣 著
これらの情報源は、昭和20年当時、海軍航空本部の嘱託、ウラン情報担当だった岩田幸雄氏である。
彼は、陸軍大臣・杉山元宅で聞いた極秘の話を故あって公表した。
(引用終わり)
資料『昭和天皇』の中に、こんなエピソードがある。
《昭和20年2月
杉山元帥が、私邸に来ていた岩田氏にこう言った。
「岩田君、君は軍籍のない一民間人であるにもかかわらず、この戦争では日本軍のため挺身して偉大な貢献をしてくれ心から感謝している。
その労苦に報いるためにも、一日も早く新兵器を開発し、劣勢を挽回すべく懸命の努力をしていたが、事情があって残念ながら『新兵器』製造は中止した。
実は『御上』から強いおしかりを受けたのだ。」
・・・》
ここで、『新兵器』とはもちろん『原爆』である。
そして『御上』とは、『昭和天皇』であった。
岩田氏は、「記録映画」を使って、杉山元帥に各国の原爆開発事情を伝えていた。
(この映像は秘密の記録だった)
それを見た元帥は、こう語ったという。
「自分としては猶予は赦されず、製造を急がせていた。
そして完成すれば、最初『ハワイ』に落とし、その威力を示し、戦況を日本軍有利に導く計画であった」
ところが、「横やり」が入ったというのだ。
日本の原爆開発が本格化した頃、当時の首相・東條英機が
《その旨を昭和天皇に上奏した。
彼は、「起死回生の決定打として、天皇に喜んでいただける」
・・・
と思っていたようだ。
しかし、昭和天皇は
〝意外に強い口調〟で反対されたという。
「数カ国が新兵器開発を競っているとのことだが、日本が最初に完成し使用すれば、他国も全力を傾注して完成させ使用するだろうから、全人類を滅亡させることになる。
それでは、人類滅亡の悪の宗家に日本がなるではないか。
またハワイに投下する計画とのことだが、ハワイには日本の同胞が多数移住し、現地アメリカ人民と共に苦労し、今日を築きあげたところだ。
そのような場所に新兵器を使用することには賛成できない。」
・・・
叱責を受けた東條は、杉山にこう言った。
「天皇陛下のご意志に反することはできない」
しかし、杉山元帥はこう主張した。
「敗戦となれば日本が滅びてしまい、
全てを無くしてしまう」
その論理はこうである。
「参謀総長の立場にある者として、日本を敗戦に導くことはできない。
戦争とは結果において勝利を得ることが肝要であり、今の日本は手段を云々できるときではない。
勝てば天皇にお喜び頂けるに違いない。
そして天皇が希求される世界平和を実現できるではないか」
しかし、東條とは平行線だった。
杉山は、参謀総長を東條に譲って退いた。
ところが、彼がカムバックする機会が訪れる。
同年7月
東條内閣総辞職後、『小磯国昭』内閣が誕生する。
杉山元帥は再び入閣し、陸軍大臣となった。
彼は秘密裏に、再度原爆開発を急がせた。
ところが新兵器を積むロケットの燃料製造過程で誤爆事故が突発。
天皇陛下の耳に入った。
杉山元帥は、こう述懐する。
「天皇陛下から呼ばれた私は、
『まだやっていたのか!』
と強く叱責され、まことに面目なく、これ以上開発を進めることはできなくなった。
私は、日本が勝っても負けてもこの責任は取る覚悟だ。
例え勝てたとしても天皇陛下の大御心を煩わせた罪は万死に価いする。
さらに多くの部下を死に至らしめた責任から逃れることはできない。
ここで話したことは誰にも話さないでくれ給え。
この事を知っている者は、天皇陛下と東條と自分だ」
・・・
杉山元帥は、敗戦直後自決した。》
当時、原子爆弾の開発を禁止した陛下のお怒りは、日本国の天皇としてというより人として、承諾することができなかったのでありましょう。
陛下がそのことで後悔されておられるかどうか、その本当のお気持ちは誰も分からないことです。
唯、後に世界で初めて原爆を投下された広島と長崎の惨状をご覧になって、ご自身の判断が正しかったのかどうか悩まれたであろうことも推測されます。
原子爆弾の制作担当者である杉山元帥が原爆をハワイで使うというようなことを勇んで陛下に進言して喜んでもらえる思い込んでいたということは、抑止力としての核兵器であるという認識がなかったということです。
陛下が御怒りになるのも尤もなことであります。
陛下に側近から核抑止力についての正しい情報と知識をお伝えする事が出来ていたのかどうかは甚だ疑問とするところです。
原爆を禁止したころが日本の敗戦に繋がったとは言い切れませんが、少なくとも原爆は落とされなかったであろうし、またポツダム宣言やサンフランシスコ講和条約でも日本の立場を今よりもより有利なものにしていたことは間違いありません。
しかし、軍部の核の専制攻撃を聞いた陛下のお気持ちは、国家の汚辱と日本国民、及び人類の未来の為にならないとの判断は正しい判断と言わざるを得ません。
結果だけを見て誰が陛下を責めることができようか。
ただ、私達の教訓として考えれば、
正しい知識と情報を知り伝えなければ、正しい判断はできないということです。
国際情勢を新聞とテレビの報道を見て行動している日本の政治家は、情報というものの価値を知らない。
世界では日々、情報戦が繰り返されているということすら知らないお粗末さ。
捕まらないスパイ天国日本は、世界中のスパイのサロンになっている。
すべては憲法前文と九条の非常識にその端を発している。
日本がこのまま憲法を改正せずズルズルと無駄な時間を過ごせば、やがて遠くない将来、亡国の道をたどることになるでしょう。
■昭和天皇の「終戦の詔勅」口語訳
朕は、深く世界の大勢と、帝国の現状をかえりみて、非常措置をもって事態を収拾しようと考え、ここに忠実にして善良なる汝ら臣民に告げる。
朕は、帝国政府に、米英中ソの四国に対し、そのポツダム宣言を受諾する旨、通告させた。
そもそも、帝国臣民の安寧をはかり、万国が共存共栄して楽しみをともにすることは、天照大御神からはじまる歴代天皇・皇室が遺訓として代々伝えてきたもので、朕はそれをつねづね心がけてきた。
先に米英の二国に宣戦した理由も、実に帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって、海外に出て他国の主権を奪い、領土を侵略するがごときは、もとより朕の志すところではない。
しかるに、交戦状態はすでに4年を過ぎ、朕の陸海軍の将兵の勇敢なる戦い、朕のすべての官僚役人の精勤と励行、朕の一億国民大衆の自己を犠牲にした活動、それぞれが最善をつくしたのにもかかわらず、戦局はかならずしも好転せず、世界の大勢もまたわが国にとって有利とはいえない。
そればかりか、敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、いくども罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、まことにはかりしれない。
この上、なお交戦を続けるであろうか。
ついには、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、さらには人類文明そのものを破滅させるにちがいない。
そのようになったならば、朕は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか、皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいか。
以上が、朕が帝国政府に命じ、ポツダム宣言を受諾させるに至った理由である。
朕は、帝国とともに終始一貫して東アジアの解放に協力してくれた、諸々の同盟国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。
帝国の臣民の中で、戦陣で戦死した者、職場で殉職した者、悲惨な死に倒れた者、およびその遺族に思いを致すとき、朕の五臓六腑は、それがために引き裂かれんばかりである。
かつ、戦傷を負い、戦争の災禍をこうむり、家も土地も職場も失った者たちの健康と生活の保証にいたっては、朕の心より深く憂うるところである。
思うに、今後、帝国の受けるべき苦難は、もとより尋常なものではない。
汝ら臣民の真情も、朕はよく知っている。
しかし、ここは時勢のおもむくところに従い、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、それをもって万国の未来、子々孫々のために、太平の世への一歩を踏み出したいと思う。
朕はここに、国家国体を護り維持しえて、忠実にして善良なる汝ら臣民の真実とまごころを信頼し、常に汝ら臣民とともにある。
もし、事態にさからって激情のおもむくまま事件を頻発させ、あるいは同胞同志で排斥しあい、互いに情勢を悪化させ、そのために天下の大道を踏みあやまり、世界の信義を失うがごとき事態は、朕のもっとも戒めるところである。
そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、道義を重んじて、志操を堅固に保ち、誓って国体の精髄と美質を発揮し、世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。
汝ら臣民、以上のことを朕が意志として体せよ。
御名御璽 昭和20年8月14日