Quantcast
Channel: SALUMERA
Viewing all 2520 articles
Browse latest View live

大阪都抗争/平松ルサンチマン

$
0
0

平松邦夫の思いつくまま

都構想 統一選に望みって…
今朝の毎日新聞に大阪の維新の会の集票結果についての分析事。
http://mainichi.jp/select/news/20141220k0000m010150000c.html

またまた、いわゆる「大阪都構想」に引っかけての分析らしい。
マスメディアはどうして議会制民主主義の根本を無視するような動きを大きく伝えるのか。
結局は議会を無視してきたツケなのに。

維新の会の顧問、だったか府市の特別顧問だったか、どっちでもあるのか分からない、上山信一氏がJRの雑誌「ウエッジ」4月号に「都構想の本質は大阪市議会の解体」だというコメントを寄せたことは以前にもふれた記憶がある。

市議会の体質が既得権益にしがみついており、都になると全員失職する…という理由から何でも反対する。
だから都構想が進まない…てなことをのたまわっています。

あのね、本来の都構想というのは大阪市だけを解体するものではなくて、大阪市、堺市の政令市を中心として周辺市の再編も含めたそれこそ、大大阪構想だったはず。
それに関しては広げた風呂敷が大きすぎて、実現なんて何十年というスパン以上のチャレンジが必要なのに、そんなに悠長に構えてられない。
なぜなら、維新の会の方たちは、その実は別として形として目に見える成果のようなものが出る「スピード感」を第一に考えているから。

市民、府民、国民の暮らしよりも「スピード感」が大事であって、行政に求められる地道な努力や意見対立の調整役を買って出る気なんてさらさらない。
自分たちこそが正しくて議会で反対する人たちは「抵抗勢力」である。
だから議会を無視しても当然である。
そんな理屈が通りますか?

もう一度民主主義、日本の議会制民主主義を一から勉強しなおして来い。
そう言いたくなりますね。
例え時間がかかっても、まどろっこしくても多くの意見の違いを乗り越えて、自治体には自治体の方向性が、国には国の方向性があることを時間をかけて探りだすのが本来の民主主義だと信じています。

維新の会のツートップが誕生してもう3年以上経ちますが、この間、府民、市民にとって「維新ツートップ」で何が変わりましたか。
多様な府民、市民のための丁寧な説明がされた記憶がありますか。
折角、過半数をとっていた府議会、今でも第一党の市議会で、本来の民主主義を信じている人たちならば、もっと懇切丁寧な説明があって当然ではないですか。
従わないものは「敵」だと切り捨てる方向の軋轢しか生まない姿勢に終始していたのではないですか。

まだまだ書きたいことは山ほどありますが、今朝の朝刊から触発されて書きました。
具体的な点についてはまた書きたいと思います。


■維新の党:
「無視できないでしょ」
大阪都構想、統一地方選

毎日新聞 12月20日

14日投開票された衆院選で、大阪府の比例代表の得票は維新の党が114万票で最多だった。
小選挙区の勝利は5議席で、前回2012年の12議席から後退したが、前回衆院選、昨年参院選同様、比例得票第1党の座を維持した。

維新は「土俵際で残り、来春の統一地方選でもう一勝負できる」と、19日で大阪市長4年目に入った橋下徹共同代表を先頭に大阪都構想実現へ執念を見せている。

「もはや『ふわっとした民意』でなく、明確な『維新支持層』になっている」。

橋下氏に近い関係者は、今回の比例の得票について、こう話した。

「自信を深めた面もあるし、自公連携にまだ及ばない感じもある」
とも付け加えた。

選挙戦序盤、維新は劣勢が伝えられた。
維新の大阪市議は「大敗したら、怖くて大阪都構想の住民投票などできない」と漏らした。
しかし、結果は異なった。

府内の小選挙区では、擁立した14人のうち9人が敗れたが、7人が比例復活当選。

比例では、
維新がトップで得票率は32・3%。

他党は
▽自民約87万票(同24.7%)
▽公明約59万票(同16.8%)
▽共産約44万票(同12.7%)
▽民主約29万票(同8.3%)
だった。

維新は、国政に初挑戦した前回は
約146万票(同35.9%)、
昨年、
参院選も約105万票(同28.7%)
を集めた。

共産の山中智子市議団幹事長は
「これほど取るとは思わなかった」。

民主系市議は
「統一選は厳しい戦いになる。楽観するな」
と後援会を引き締めた。

橋下氏は14日夜、大阪市内での記者会見で
「比例で第1党を取れば、無視できないでしょ」
と自信をのぞかせた。

ただ、都構想の実現には、府市両議会での議決が必要だ。
現状では他党の協力は得られず、両議会で維新が単独で過半数を占めることが欠かせない。
府議、市議の両選挙を抱える来春の統一地方選が山場となるが、都構想に反対する自民、公明、共産、民主を合計すると今回衆院選の比例の得票率は約62%となり、維新に厳しい状況に変わりない。維新の比例の得票数と率は、昨年参院選より増えたが、解党したみんなの党や、維新から分裂した次世代の党と合わせた「都構想賛成派」でみると、横ばいだ。

自民府議団の花谷充愉幹事長は
「府議選で自公過半数は実現可能な目標になった」。

公明府本部幹部は
「統一選ではさらに自民との協力を強化する」
と語る。

維新の松井一郎幹事長(大阪府知事)は
「与党支持者はアベノミクス継続を望んでいるが、決して都構想反対ではない」
と、国政と地方では選択の基準が異なると強調している。
【林由紀子、熊谷豪】


橋下氏が、大阪都構想実現への切り札と考えるのが「プレ住民投票」を目指す署名活動だ。

市民団体「住民が決める大阪の未来委員会」が地方自治法に基づく直接請求で署名を集め、住民投票条例の制定を市長に請求する。
21日に本格的に始まる活動は実際には維新が主導しており、集まった署名を「民意」として、都構想に反対する市議会野党を動かす戦略だ。

都構想議案は10月27日、府市両議会で、維新以外の党の反対多数で否決された。
橋下氏が署名活動に初めて言及したのは、その2日前の街頭演説だった。
「誰もしたことのない住民投票運動をして決めたい」

条例制定の請求には、大阪市内の有権者の50分の1の署名が必要で、約4万3000人分。
維新関係者によると、内部では約10倍の40万人分を目標としている。
これだけ集めれば、野党も民意を無視できないという理屈だ。
36万人の署名を集めて住民投票で議会を解散した河村たかし・名古屋市長からノウハウも伝授されている。

未来委員会の代表で「経済人・大阪維新の会」の設立に関わった西尾伸介代表(41)は
「都構想の対立が市政に悪影響を及ぼし、市民不在だ。
けりを付けるには住民投票しかない」
と話し、署名数の目標について
「まず4万3000人。あとは賛同者の思いを積んでいく」
と語る。

署名集めは法律上、選挙の60日前までしかできず、大阪市議選(来年4月12日)を控えた今回は2月10日まで。
年末年始をはさむうえ、署名が集まっても市議会が同意しなければ条例は成立せず、ハードルは高い。
18日に開かれた維新の会議では、署名を集める受任者らを介して議員1人1日150人というノルマが課せられた。
野党は「署名活動に名を借りた統一選の事前運動」などと反発を強め、19日には市議会自民、公明、民主系、共産の幹事長が記者会見で「協定書は既に無効」と訴えた。

大阪府と大阪市の二重行政解消を掲げて知事から転身し、19日に任期最後の1年に入った橋下氏は、野党との対立などから目立った実績を残せていない。
一定数の署名が集まれば、議会の同意を経ずに首長が議案を通す専決処分も視野に入れると他党はみている。
都構想を巡る対立は、あらためて緊迫度を高めている。
【重石岳史、松井聡】
 
 
平松邦夫
@hiramatsu_osaka

11月3日の宗清さんのブログです。基本の基本を確認しましょう。シェアさせていただきます。
s.ameblo.jp/km101010/entry…
2014年11月26日 - 9:41am


宗清 皇一のブログ

■住民投票を主張する前に、法律を順守せよ

松井知事は「都構想の賛否を住民投票で問うべき」と主張されているが、その通りです。
法律上住民投票を否定できません。

我々は法律を遵守し議会で「特別区設置協定書」について真摯に議論をしてきましたし、住民投票について一度も反対をしたことはありません。
法律では議会の承認を得て住民投票にかけると書いてあるからです。

おさらいですが、都構想には3段階の手続き(法定協議会の承認、議会の承認、住民投票での賛成)が必要なのです。

知事は法定協議会では維新以外の全ての委員を排除し強行採決されました。
次に議会で否決されると専決処分も辞さない姿勢でありますが、明らかに法律違反です。

知事・市長はスコットランドの住民投票や憲法改正の手続きを引合いに出し住民投票の必要性を訴えていますが、我が国の憲法改正も国会の承認を得てから国民投票が行なわれますし、スコットランドも議会の承認を得た後に住民投票を実施しています。

私見ですが、知事と市長が住民投票にこだわる理由は、統一地方選挙と都構想の住民投票を一緒にすれば、選挙を有利に戦えると思っているからではないかと考えています。
住民投票を選挙の道具にしか考えていなのではないでしょうか。

 



 
平松邦夫
@hiramatsu_osaka
大阪市議柳本顕さんのブログ。3月の出直し選に続き、大阪市長職を放り投げようとする現職に対して、二元代表制の下、議会制民主主義の在り方すら無視してきた人気者と対峙せざるを得ない苦悩が読み取れる。
blog.livedoor.jp/yanagimotoakir…
 
 

■大阪市会議員(自民党)活動外伝
11月下旬一般質問の意義

2014/11/20

出るか?出ないのか?
辞めるのか?辞めないのか?

今週発表される予定だった橋下市長の衆議院選挙への出馬のアルナシの結果は、来週以降に持ち越されることとなった。

大阪市会でも、この状況を受けて対応に頭を抱えている。
11月27日・28日に予定されている市長に対する一般質問。
議会改革検討会議の中で、自民党が積極的に問題提起し、予算案が確定した時点の代表質問の前に、決算を踏まえて予算に向けてチェックからプランへの政策反映を導く市長への質疑の必要性を訴え、実現したこの時期の一般質問。
まさに、PDCAサイクルにおける、議会側からのアクションである。

今年のこの時期の一般質問は、当然来年に来年度予算を編成する市長に対する質問である。
ところが、突然の「衆議院選挙に出馬するかも」発言は、来年度予算を当該市長が編成しない可能性を示唆している。
となれば、この時期の一般質問の意味がなくなるのだ。

自民党市議団としては、もし今週にも市長が出馬表明をされる様であれば、一般質問を取り止めるべきではないかという主張をするつもりでいた。
逆に、出馬されないということであれば、粛々と一般質問をし、市長に対して来年度の予算編成に向けての働きかけをするつもりであった。

しかし、今日の橋下市長の会見では、いつどの様な判断が下されるかは分からないという事だ。

正直、対応に苦慮している。
ただ、想像するに、当の市長は議会側が(自民党が)一般質問を実施すべきかどうかについて苦慮しているということに対して、何も感じられていないと思われる。
敢えて市長自身の思いを聞いたとしても「そんな事はどうでもいい。
選挙の前で、市長が市長としているのであれば、議会が止めたければ止めれば良いし、やりたければやればいい。」
ということになるのでしょう。

この一般質問のことのみならず、この度の橋下市長の「衆議院選挙に出馬するかも」発言は、その理由も含めて大きな物議を醸し出している。
最終的な結論が出ることになろうとも、出ないことになろうとも、この発言からも明らかなことは、橋下市長は大阪市政のことなど関心すら本当のところはないのではないかという事である。

改めて振り返るとコノ失われた3年。
大阪市政が失ったものは、あまりにも大きいと痛切に感じる。



サルメラ:
『改めて振り返るとコノ失われた3年。
大阪市政が失ったものは、あまりにも大きいと痛切に感じる。』

はてさて、それは橋下だけが悪いのか。
反対のための『遅延行為』、『先送り』、
さらには、自らの身を一向に切ろうとしない議員を、飽きるほど見せられ続けてきた側から言わせてもらうなら、どっちが信用できないか・・・
これは、都構想が、いいとか悪いとか、論じる以前の不信感だ。

家族ゲーム/アイデンティティ難民を生んだ戦後教育

$
0
0
吉本荒野:
「学校の教師じゃできないからねー。
生徒の教育のために家庭環境を変えるなんてサ」
 
沼田慎一
「…正気の沙汰じゃない」
 
吉本荒野:
「この国自体が歪んでるんだからしょうがない。
今の時代に、まっとうな教育なんか通じるわけないんだよ」
 
沼田慎一
「勝手なこと、言うなよ。
俺たちはこの国も今の教育も間違ってるなんて思っちゃいない」
 
吉本荒野:
「hahahaha…ホントにそう思ってるのか?
考えることを放棄して、周りの意見に流されてるだけじゃないのか」
 
沼田慎一 
「ふっ、だったら、歴史の事業を例に取ってみよう。
人類の誕生から初めて俺たちに身近な近代史はなぜか三学期に駆け足で終わらせる。
100年も経っていない首相の暗殺事件でさえ、教科書ではたったの数行でしか語られない。
どんな背景があって、どんな思いがあって殺されたのか、
本来ならそういうことを学ぶべきなんじゃないのか?
だけど誰もそれをおかしいとは思わない。
何故なら、そんな詰め込み式の教育でも社会がそれなりに機能していたからだ。
だがその歪みはアイデンティティの喪失として表れた。
自分のルーツを曖昧にしか理解していない俺たちは、自分に自信が持てなくなり、戦うことを恐れて他人と同調するようになった。
メディアに踊らされて一方的な意見で物事を括りたくなるのがその最たる例だ。
俺たちはいつの間にか個性を奪われて、誰かに依存しなければ生きていけない骨抜きにされているんだよ。」
 
沼田慎一
「……な、何言ってるんだよ。
そんな話、俺たちにカンケーないから」
 
吉本荒野:
「あるんだよ。カンケーあるんだよ!
そんな教育を受けて平和ボケに浸かってる人間が、無意識のうちに、悪意だと感じない悪意で、穢れなき弱者を、追い詰めているんだ」

家族ゲーム/サイコパスは遺伝子でなく、教育や躾で生まれるのか?

$
0
0
この家族という存在、実に煩わしい。
何故なら、
親の教育やしつけが人格形成に大きな影響を及ぼすにも関わらず、
その親を自分で選ぶことができないからだ。
つまり、
人は生まれながらにして平等じゃないとも言える。
 
例えば、家庭を顧みない父親だった場合、
普段、子供と接していないせいで、表面的な解決しか見いだせない。
だから、それがどうして正しいのか、悪いのかという根源を教えられない。
ただ、褒めて、ただ叱る。
 
また、愛情の注ぎ方を誤った母親の場合はどうか、
肉体的にも、精神的にも、
子どもが傷つくような事は一切やらせない、触れさせない。
すべて事前に回避して、子どもの時に経験させておくべきことをさせずに育てていく。
本当の痛みも、悲しみも、苦しみも、
恥をかくことさえ知らずに育った子どもは、どうなってしまうのか。
他人の感情を推し量ることができない、想像力の乏しい大人になっていく。
 
その結果、責任を放棄しても構わない、
現実から逃れても構わない、
他人を傷つけても構わない、
そんな、自分本位に生きる、モンスターになる。

家族ゲーム/政治家が口にして後、薄っぺらに感じるようになった言葉

$
0
0
沼田家はこれまで受け持った中で最低の家族だった。
その印象は今でも変わらない。
自分を悲劇の主人公だと勘違いしている登校拒否児の次男。
優等生を演じながら、裏で他人を傷つけている 長男。
家庭を顧みず、メンツが全ての父親。
反抗期の息子を恐れて育児放棄した世間知らずの母親。
この家にいるのは家族じゃない。
ルームシェアしてるただの同居人だよ。
「絆」って言葉が気軽に手軽に使われている世の中だ。
家族の絆だって自然に存在するもんだと思ってたんだよなあ?
そんなわけねえだろ!
互いに膝を突き合わせて、自分の思いを口で、手で、目で、心で伝えてこそ、
初めて存在するもんなんだよ。
それを何度も繰り返して築き上げていかなきゃ強くならない、めんどくさいもんなんだよ!
いじめられてることも、自分を偽ってることも、家に居場所がないことも、息子が何を考えているのか分からないことも、
相手に伝える努力もしないで「家族だから言わなくても分かる」なんて、
お前らエスパーかよ!
ハハ!
そんなもんは単なる幻想なんだよ。
残念ながら沼田家は最後まで自分たちを超能力集団だと勘違いしていたらしい。
お互いに責任を なすり付け合う姿は、怒りを通り越して、笑えたよ。
家を壊すときでさえみんな背を向け合ってたもんな~。
破壊の後に、再生があると信じてるなら教えてやるよ。
絆のない家族に再生なんて あるわけがない。
お前らは俺が仕掛けたゲームに負けたんだよ。
こんな家族……
消えてなくなればいい。

ルーツ・ファンタジー/日本神話に刻まれた神々の叡智 2

$
0
0
転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

日本神話に刻まれた神々の叡智

■神話継承の法治国家(道義国家)

◆大化の改新、日本は太陽神を祀る国体
~日本式律令制=神話継承の律令制~
卑弥呼は日巫女で太陽神の巫女の意味だ。
女性アマテラスの本名は、オオヒルメムチで、太陽の妻の意味であり、つまり神妻の意味となるので、日巫女もアマテラスもほぼ同じ意味となります。
つまり、古代日本の時から、大和民族は太陽神を主神として祀ってきたのです。この祭儀の長が天皇=大司祭です。
モーセの民が彷徨を終え、イスラエル王国を建国したように、大和民族もまた国家としての体裁を整える必要があった。
そこで、王国ではなく、神を祀るに相応しい律令制を導入したのです。
(⇒『大化の改新』)。


( シナは随唐以来、というか孔子の儒教により、神にではなく、政治体制に救いを求めてきました。
全権を持つ皇帝が、官僚を通じて天下を支配するという思想です。
この政治形態を維持するために、律令制が成立しました。
ですから、シナの場合、神を祀る神祇官が政治家の下部組織の一つでしかありません )

大化の改新で、氏族制度から中央集権的な国家へと移行しました。
この時、律令制を取り入れます。

天皇の元に、太政大臣と天皇直轄の神祇官が並立しています。
神祇官が政治家の太政大臣より上位なのです。
この太政大臣が、藤原氏、武家、それから幕府に相当し、天皇は直接、太政大臣を統治することはありませんでした。

大和朝廷も同じで、氏族制度から、立憲君主国へと移行するために、律令制を参考にしたに過ぎませんでした。
これが、日本の国体です。

つまり、神を祀り、神に救いを求める国家システムが、日本の国体です。
そして、神道の神を祀る国家として樹立した。
さらに、神祇官は神道を、太政官は日本式儒教・日本式仏教・日本式景教・道教を取り入れ、護国を祈願した。
その結果、
神道と日本式仏教が互いに影響し合い、
律令よりも武家諸法度に価値を置き、政治の世界には民主主義の基本ができあがったのである。

( ちなみに、シナの律令制では民主主義は永久に生まれない )

現在は、天皇が即位するときに一度だけ行われる大嘗祭ですが、神と寝床を同じにして神霊を受ける儀式があります。
以前は毎年行われていたとのこと。

また、古代バビロニアでは、新年を迎える前に王は退位し、新たに新年に即位する。
この時、王は太陽神・マルドウクとして、天地創造の神話を祭儀劇として演じていたという。

大嘗祭は古代バビロニアの即位形式を受け継いでいる。

◆北条時代のサムライ教訓集
神話継承の法治国家をみる
たとえば、
葬式の近くで笑うな、
道は相手がだれであれ自分からゆずれ、
出家を誹諾するな、
親の教訓を守れ、
酒の肴や菓子は人に多くとらせろ、
料理は人より多くとるな、
服装はほどよく、大きな太刀や目立つ具足を持つな、
かげぐちをするな、
いやしい人でも道で会ったら挨拶せよ、
自分を抑えて人の言い分をきけ、
なるべく他人に用をいいつけるな、
知っていることでも一応きけ、
「知りて問ふを礼とす」(論語)、
その年齢らしく振舞え、
仏前・神前また沙門とゆきかうときは下馬せよ、
旅のとき人夫や馬に重い物を持たすな、
手紙は字のうまい人に代筆させ、悪筆の自筆を送るな、
親や祖父の仏事に人をわずらわすな、
理由もないのによくしてくれる人は何かあると思え、
借りたものは急いで返せ、
物を盗まれても、訴えてその者の一生を台なしにするようなことはするな、
百姓が垣内に植えた木の果物などを所望するな、
他人と議論するな、
境界争いの訴訟をするな…‥等々。

他にも、
独身の方が良いが一夫一婦にせよ(妾を禁じてはいない)、
妻子の言うことをきちんと聞きなさい、
酒や遊女などに溺れてはならない、
と現代にも通じる常識的なものだった。

更に、武士の法律である御成敗式目には、
裁判においては、親族とか好き嫌いや権威に左右されず、道理に従い言葉を出すべき。
また、
決断は一同の誓願した神に対する連帯責任である。
例え多数決で決められた法律でも、
適当でない場合には破棄すべしとある。

しかも皇室を尊んでおり、それが幕府そして五箇条の御誓文にまで受け継がれていく。
(『日本人とは何か』より抜粋 )

ここに、日本独自の神話継承の法治国家、即ち神武天皇の精神と民主的な法治国家が融合したのです。

明治に入り、日本型民主制を基本とし、明治天皇により西洋型の民主制が取り入れられ、「五箇条の御誓文」「教育勅語」が日本の基盤となりました。

敗戦後、昭和天皇の「新日本建設に関する詔書」、
俗称「天皇の人間宣言」に「五箇条の御誓文」を掲げ、日本の再出発の原点とされたのです。

◆御成敗式目の精神、皇室の役割
武家諸法度=貞永式目は、公家に適用される法律ではありませんでした。
庶民から立ち上がってきた武家と庶民に対する法律でした。
( 公家には公家の諸法度がありました )

武家諸法度ができる前は、裁判が起こると、律令制により漢字で規定された決まりがあり、誰も読むことができないもので、都度、専門家がやってきて裁定していました。
その裁定は、専門家以外は理解できないので、その時々により裁定が変わり、またそんな法律を誰も知らないので不満が募っていました。

そこで、ひらがなしか読めない庶民にも分かるように、しかも律令制の決まりではなく、当時の社会慣習通念を規範として、ぶれない裁判を行うことが式目の精神(前文)でした。

しかも、13名の裁判官は、私利私欲や権力に左右されない裁定を下すことを、神に誓いました。
道教式に多数決により神意を問うたのです。

◆神話継承の国民の憲法を!
鎌倉時代に制定された御成敗式目は、
武士や農民にも分かること、
各裁判で基準が同じになること、
つまり「道理」に従うことを目ざしました。
声の大小に関わらず、権力者にこびず、
を実現しました。

日本独自の国民憲法だ。
天道をバックボーンとした「道理」というのは “因果応報” 、
つまり “目には目を” と同質で、
遠くは、古代バビロンのハムラビ法典、
モーセの律法、に立ち戻った大化改新の精神でもあります。

ハムラビ法典、モーセの律法では、神により与えられた掟が国家の絶対の法律で有り、これを実行することが正義とされました。
一方、御成敗式目では、
「天道」=日本神話(全知全能の神、創造神は無い)をバックボーンとし、
人間が社会通念としての「道理」の有り様を模索し、立法化した。
だから道理は相対的なもので、
その場その場に応じて柔軟に運用され、
筋を通しました。
(これが日本の社会正義)

それゆえ、道理を越えた「天道」=お天道様=天照大を崇敬していたのです。
(日本の正義)

だから、西洋式の正義と日本の正義には微妙な違いがあります。

◆礼は、変わらぬ武士の道理
藤原泰衡を捕虜とした。
誰の功労なのか分からず、審問者は泰衡に問うた。
が、無礼だというので彼は一切口を開かなかった。
困り果て、頼朝に伺いを立てた。
頼朝は、勝者であろうと敗者であろうと、武士の間には礼があるとし、審問者を交替させ、非礼を詫び、礼をもって問うたという。

◆北条泰時
ある武士が亡くなるとき遺言を残し、弟に所領を相続させるとあった。
父に尽くした孝行者の兄は不審に思い、訴えたが、当時は遺言が絶対であった。
兄はすぐに生活に困窮した。
泰時は不憫に思い、彼を自分の屋敷に置き、貧しくはあったが妻を娶らせた。
所領に空きができ、彼に与えたという。

◆ザビエルの日本人観
彼がポルトガル人から受け取った手紙。

日本人は非常に賢く、思慮分別があって、道理に従い、知識欲が旺盛であるので、私たちの信仰を広めるには大変良い状態である。
・・・
だが新井白石は、キリスト教宣教師について、科学知識はすばらしいが、形而上は子供だと述べている。

◆ザビエルの苦悩
ゼウスが全能の主だというのなら、なぜその教えが日本に伝わるのがこんなに遅くなったのか。
そしてデウスの教えを聞く以前に死んだ先祖達はすべて地獄に落ちることになるが、そのような不手際を犯すデウスが何故に全能で且つ十全の慈悲の主であるのか?との質問に答えられない・・・

◆ザビエルと真言宗
彼がデウスの属性について僧侶に話した。
僧侶には、ゼウスの属性が大日に非常に似ているように思われた。
そして、言語と習慣において異なっているが、デウスの教義と真言宗の教義とは一つで、同じだと語った。
・・・
つまり、ヤハウエと七大天使は、日本式仏教的には、大日如来と七福神として日本に渡来していた・・・

◆日本精神は卑弥呼以前から
明治時代末期で識字率は98%でしたが、江戸時代にも寺子屋での就学率は70%にも達していました。

ところが、信長の時代でも、外国人宣教師の記録には、日本人の多くが読み書きができ、治安がよく、温和で、思いやりのある日本精神を賞賛している記録が残っています。

また、三世紀頃の「魏志東夷倭人伝」の卑弥呼の所に、
「婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、訴訟少なし」
(婦人は淫らでなく、窃盗や争いごとが少ない)
と述べています。

更に、太子の時代の「隋書東夷伝」にも、
日本人は文明度が高く、物静かで争わず盗人も少ない、
性格は率直で上品なところがある、
と書かれています。

中華以外を「夷狄」として野蛮視する史書の記述としては、十分な褒め言葉だと『日本人は何故世界から尊敬され続けるのか』の中で、黄氏は指摘しています。

つまり、日本精神は太子以前の三世紀前にはほぼ確立していたことがうかがえるのです。

だから、君臣一体となり一つの家族として仲良くする国家観(道義国家)、
奴隷と独裁者を嫌い日本的な意味での自由を愛する精神は、
神武天皇自らが多くの和歌を詠み育まれてきた日本的な思いやりと感受性に根源をさかのぼるのだと思います。
これがユダヤの正当な末裔が神の御心を受け継いできた大和魂の原石( 核心 )ではないでしょうか。

◆個人の責任について
外国人なみに個々の責任というものが正しく究明され、それに応える人生を生きて来たなら、もっと理性でもってすべての事柄、事象を整理し、全体的総合的に整理して、それらを理解しようと努め、責任ある解明をなしたことでしょう。  

自由と放蕩の違いは、自由の前提である規律に他ならない。
自由は規律を伴い、そして自由を保障するものが勇気である。

◆独立国の条件
東京裁判でインド代表判事であった、ラダ・ビノード・パール博士は講和条約に対して次のように言われました。
下記の四条件は、当時もこれからも、一つでも欠けさせることはできません。

《 独立国には四つの条件が具備されなければならぬ。

① 国家の基本法である憲法は自分達の手で書く。
② 自分の国土(領土)は自分達が守る。
③ 国家の祭祀・信仰は何びとからも干渉を受けない。
④ 師弟に対する教育も同様に、他国からの干渉を排除して、自分達の意思に基づく。》


◆国民に対する陛下の御期待
元侍従次長・木下道雄著
昭和44年『皇室と国民』より

最後に私は、陛下が国民に何を御期待になっておいでになるか、について、私の感得していることを申し述べたいと思う。

陛下の御記憶力は極めて強靱で、且つ一点の「私」をもお持ちにならないお方であるから、その御判断は、捉われるところもなく、また、傾くところもなく、極めて正確である、と私は信ずるが、めったに他を批判するようなお言葉はお口におだしにならないから、以下、申し述べるところは、私が、私なりに感得したものとして、おききを願いたい。

陛下は多年の御経験から、陛下の最も重視されるものは、国民の良識である、と私は思う。
この良識さえ、しっかりしていたならば、このたびの悲惨な戦争も起らなかったのではなかろうか、
現に開戦前に、戦うことの不利を主張した多くの憂国の非戦論があったではないか。
然るに、残念ながら、これらの非戦論は国民与論のために圧倒され、葬られてしまった。
というのが、陛下の御回顧である。
この非戦論を葬り去った国民与論なるものは、果たして国民の良識であったであろうか。
ここに陛下の御心配あるのである。

陛下の御胸中を拝察すれば、日本国民のただ一つの欠点は、一部煽動者の言説に、すぐ附和雷同する性僻であって、熟慮判断して所信を堅持する力が弱い、
この弱点を補強するには、国民の教養を高め、( 正しい )宗教心を深めるより他に途はない。
(陛下が宗教心と仰せになるのは、何も一宗一派に限って仰せになるのではない。)

教養が高くなれば、物ごとを熟慮判断する力が強くなって、流言蜚語に迷わされる虞れもなく、
また、宗教心が深くなれば、自分の信ずるところを守り抜く力が強くなって、脅迫や誘惑に打ち克つようになるであろう。

故に、将来は、どうしても国民の教養と宗教心とを向上させなければならない。日本がこれに成功して、日本人が世界のうちで優れたものとなり得た暁には、かつては戦争諸原因の根底をなした、かの人種問題にしても、嘗っての如く、嫌われたり疑われたりする代りに、各国民の尊敬と信頼とをかち得て、人種問題も、おのずから、その重大性を失うであろうし、
また、自由主義、民主主義も、正しい意味に於て、国民生活のうちに確立され、各人は自由の基礎に正義があり、権利の傍らに義務を存することを、よく知るようになる。

かくして、個人の人格と自由とは、国民相互の間に尊敬され、各自がその信念によって行動するところの自由闊達な国民が出現するに至るであろう。

かかる国民こそ世界平和の中核であり、
旦つまた、これが、古来、わが皇祖皇宗の期待し給うたところの大和民族の真の姿ではなかろうか。
というのが、陛下の真のお気持ちではないか、と私は考えている。


◆国民実践要領:前文
わが国は今や講和の締結によって、ふたたび独立国家たる資格を得、自主的な再建の道を歩み始むべき時期に際会した。
しかるに国家独立の根源は国民における自主独立の精神にあり、その自主独立の精神は、国民のよって立つべき道義の確立をまって初めて発現する。
道義が確立しない限り、いかなる国の国民も独立独行の気はくを欠き、その国家は必ずや内部から壊敗し衰滅する運命をもつ。

われわれは新たに国家再建に向って出発せんとするにあたって、建設へのたゆまざる意欲を奮い起すとともに、敗戦による精神の虚脱と道義のたい廃とを克服し、心を合わせて道義の確立に努めねばならないのである。
道義を確立する根本は、まずわれわれのひとりびとりが自己の自主独立である人格の尊厳にめざめ、利己心を越えて公明正大なる大道を歩み、かくして内に自らの立つところをもつ人間となることに存する。

また他の人格の尊厳をたっとび、私心を脱して互に敬愛し、かくして深い和の精神に貫かれた家庭、社会、国家を形成することに存する。
自主独立の精神と和の精神とは、道義の精神の両面である。

われわれの国家も、自国だけの利害にとらわれることなく、公明正大なる精神に生きなければならない。
それによって国家は、他の何ものにも依存しない独立の精神と気はくをもって、新しい建設の道を進み、世界の文化に寄与しうる価値をもった独自の文化の形成に向うことができる。
また同時に、他の諸国家との和協への道を開き、世界の平和に貢献することができる。

われわれのひとりびとりもわれわれの国家もともにかかる無私公明の精神に生きるとき、われわれが国家のためにつくすことは、世界人類のためにつくすこととなり、また国家が国民ひとりびとりの人格を尊重し、自由にして健全な生育を遂げしめることは、世界人類のために奉仕することとなるのである。

無私公明の精神のみが、個人と国家と世界人類とを一筋に貫通し、それらをともに生かすものである。
その精神に生きることによって、われわれは世界の平和と文化に心を向けつつ、しかも祖国を忘れることなく、われわれの国家も、犯すべからざる自主独立を保ちつつ、しかも独善に陥ることなく、天地にはじない生活にいそしむことができる。
ここに道義の根本があり、われわれは心を一つにしてかかる道義の確立に力を尽さんことを念願する。
この実践要領を提示する主旨も、ここに存するのである。



天照大神から授かった三種の神器(鏡・剣・勾玉)は、
「正義と真実・武・真心」とされ、
一言で言えば大和魂である。
その教義は古事記に語られている。

この精神は、神武天皇の建国の詔と和歌に引き継がれ、大東亜戦争では道義国家の建国と人種平等を目ざした。

GHQの占領政策により、第九条により「武」は封じられ、東京裁判により「正義と真実」が隠蔽され、神道禁止令と教育改革により「真心」まで歪められてしまった。

日本を取り戻すためには、大きな変革が必要だ。
国内では、憲法を改正して「武」を取り戻し、反日を嫌悪し親日を尊ぶ、東京裁判を再審して正義と真実を取り戻す。
すべての国家に対し道義国家(法治、人種平等)を主旨とした外交努力を行う。
それが、平成の大和魂=三種の神器=大和民族の復活である。

すべての国家の法治と人種平等を旨とすることは、尖閣・竹島についてはこの視点から、民主主義国家と連帯して毅然と対応する。
チベット・ウイグル・内モンゴルの弾圧についても同じである。


■皇室と日本の歴史概観

皇室と日本の歴史に関連して、興味深い部分について『日本人の歴史』より抜粋しました。

◆楠木正成の「聖戦思想」
正成の戦いぶりが独特であったことは注目すべきであろう。
その戦術はゲリラのようでもあったが、まことに近代的であった。
それは「一所懸命」ではなかったということである。

後醍醐天皇の幕府討伐に参加した武士のほとんどは、主義というよりは所領を得たり増したりするために戦ったのである。
彼らは「建武の中興」が成功したあと、
自分たちがその恩恵に与ることが少ないことを知ると、今度は足利方について後醍醐天皇に敵対するのである。
武士に理想などなく、目に映るのは所領のみであり、その一つ所に命を懸ける。つまり「一所懸命」なのである。

ところが、楠木正成は自分の領土拡張のために戦ったのではない。
勝ち目があるから戦ったのでもない。
負けたら逃げればいいと思っている。
彼は所領よりは自らの信じた大義に目を向け、いわば理想のために戦った。
そのために損をすることも、生命を失うこともいとわなかった。
一種の「聖戦思想」と言ってもいい。
この点において後醍醐天皇と楠木正成は同じであった。
鎌倉幕府も、楠木正成がなぜここまで頑張るのかわからなかった。
だから、この当時もそれ以後も、正成は武士としては非常に理解されにくい、異質な存在であった。

楠木正成が再発見されたことこそ、日本が近代国家としての意識に目覚めたことの証なのである。
維新の志士は彼を偶像化し、明治以後の日本人も生き方の手本とした。
彼こそ近代国家の軍人のあり方の先駆であり、それが神風特別攻撃隊 菊水隊(菊水は楠木家の紋である)まで続いたのである。

戦後の子供たちが楠木正成の名前を知らなくなったのは、「国のため」という思想が稀薄になった証拠であろう。
 
◆応仁の乱(1467年~)から戦国時代へ
室町幕府時代に、金閣寺、銀閣寺、巨大な足利図書館(足利学校)などが建造されましたが、三代将軍・義満の時に彼は自分の子を天皇としようとした。
その直後から幕府の後継者争いから、応仁の乱へと発展し、戦国時代へ突入する。

応仁の乱から戦国時代にかけ、京は乱世となり、公家の収入が閉ざされ、天皇即位でさえ何十年も行うことが出来ない状況だった。
このような事情から、公家や文化人が地方へと流出した。

地方への文化の伝播ということで特別に興味をひくのは、伊勢神宮である。
伊勢神宮は神社の中の神社、皇祖を祀る至高の神社であって、元来は一般の人は参拝を許されていなかった。
しかし応仁の乱が起こると、神社を維持するための貢物を朝廷から出すことができなくなったのである。
そこで伊勢の御師たちは、維持策として伊勢神宮参拝の講中をつくったのであった。

これはお寺詣での「講」からヒントを得たものと思われる。
伊勢神宮の下級の神職たちは、日本中を回って講をつくり、年末に暦や御祓を配り、参詣者のための案内や宿泊の世話をするようになった。
各御師は何国の何村は自分の持ち分というように考え、その講中の売買までされるようになった。

このようにして、庶民は参拝できなかった伊勢神宮が庶民に支えられる全国的崇敬の対象となったのである。
応仁の乱は民主化の力も持っていたと言えよう。
(仏教の庶民化は東大寺建設時、聖武天皇、747年にも例がある。
だが庶民からの基金を募った時点で一般化したが、その時には神道は庶民に開放されていなかった)

生活に窮した公家が地方に散ったこと、
禅宗の僧侶たちが各地を回り、新しい宗教が広まったことにより、
戦国武将を中心に庶民の意識も変わってきた。

中央政府、つまり足利幕府は、九代将軍義尚以降はもう名ばかりのようなものだったから、地方の豪族たちには自分たちだけでやっていかなければならないという意識が高まったであろう。
加えて、逃げてきた公家などをかくまったり養ったりしていたこともあり、だんだん日本というものの中心は何かということを考えるようになったと思われる。

たしかにいままでは将軍という存在が漠然とあったけれども、その将軍がもはや全くあてにならず、崩壊寸前になってしまうと、さらにその奥に不変なものが存在するのではないかということに気づいた。
つまり、天皇に対する意識がだんだん高まってきたのである。

したがって、戦国も末期になると、上杉謙信、織田信長の父信秀、毛利元就など、天皇家に寄附したり献金したりする大名が出てくる。
そのうち、日本を再統一するためには京都へ出て天皇をバックにして命令しなければならない、それがいちばんだという明確な意識を持つ武将も生まれてきた。

それを最初に実行しようとした最も有力な大名の一人が今川義元、百万石の大大名である。
その今川義元が、自分こそ血筋から言っても実力から言っても、上洛してこの乱れた世の中を建て直す人間であると考えた。
義元は流れてくる公家たちを優遇していたから、その意識は初めから十分あったように思われる。

ところが、京へ上るといっても、その途中がある。
今川家の場合、すぐ隣は戦闘状態の尾張であった。
初めのうちは今川義元もまだ本気で尾張に攻め込むつもりはなく、要するに地域限定戦で十分力をつけてから一気に上洛しようと考えた。
そこに立ちはだかったのが信長であった。

隣国の信長には、もちろん義元が何をやろうとしているかわかっていた。
そして、やはり義元と同じ理念を抱いた。

※簡単に言えば、これまでは公家や上級武士のみの神道で有り、皇室であった。
しかし、戦国時代を通じて、日本人全体が神道と皇室を国の基本に据えようとする意識が芽生えたのです。

◆信長・秀吉は皇室を大切にした
戦国時代に入り、皇室・公家は衰亡の一途だった。
ところが、信長は祖先同様に皇室を大切にし、これを擁して天下に号令しようとした。
その威信を示すために、京都で馬揃えをしてみせた。
秀吉は北野に大茶会を催し、衆楽第に行幸していただき、醍醐に花見し、おまけに金銀を気前よく分与している。

信長は比叡山を焼き、高野山を攻め、本願寺と戦った。
秀吉は比叡山延暦寺も高野山金剛峯寺も再興し、本願寺を便通し、奈良の寺院にも好意的だった。
大仏を建てたことも昇平の気分を世の中につくり出した。
刀狩りを行って農民の武器を取り上げ、その金属を大仏殿に使ったのは象徴的でさえある。

平清盛の義母池禅尼が源頼朝の命を助けたために平家は滅んだ。
このことを武将は忘れず、頼朝夫人の北条政子を例外として、戦いのことに女は口を出さないことになっていた。

秀吉は、天下統一の原理は皇室にあると洞察して、天皇・皇族・公家らをすべて感激させるほど皇室関係者を優遇した。
そして最盛期の藤原氏のような高い位を天皇からいただいた。
諸将にも位を与えて天皇に忠誠を誓わせたが、その天皇の下で断然最高位にある秀吉は、こういう形で自分に忠誠を誓わせたのである。

そのため大坂城は武将の城であるとともに、公家的な要素が入っていた。
つまり、トップに公家化が進行した。
それとともに、女が公のこと、つまり軍事にロを出し、外交を司ることになって、大坂城は夏の陣で終わりを告げ、豊臣家は滅んだのである。


◆文禄の役
秀吉は、朝鮮を通過し、明を滅ぼそうとした。

(略)

秀吉は講和の条件、七力条を考える。
とくに重要なのは、下記の三つだった。

・明の皇女を日本の天皇に差し出すこと

・足利時代の勘合貿易のような通商を行うこと

・京城附近の南部四道を日本に譲ること

ところが講和に介入する人物が秀吉の条件を明に伝えない。
明の考えていることも秀吉に伝わらない。
日本側の小西如安(内藤忠俊という大名、キリシタン)は文禄三年に使者として北京に赴いて、王侯のようなもてなしを受けた。
この男が明に対して伝えたのは、大まかに言えば次の三つである。

一、明から封(位)をもらったら、釜山、対馬から引き揚げる。

二、秀吉は貿易を求めていない。

三、朝鮮とともに明の属国になる。

秀吉が知ったら怒り狂いそうな、じつにとんでもないことを言っている。

明の朝廷は如安に十六ほどの質問をしていて、その十二番目に、
「秀吉は六十六州を平定して自力で王になっているのに、なぜ明から王に封じられたいのか」という、実にもっともな疑問があった。
すると如安は、
「朝鮮は明から朝鮮王という位をもらって人心が安定している。
日本でもそうしたい」
と答えた。

質問の十三。
天皇という存在があるのに、なぜ秀吉は国王の地位を求めるのか。
天皇と国王は同じなのか。
これに対しては、
「天皇と国王は同じです。
信長が天皇を殺してしまったので、新しく秀吉を立てて国王にするのが国民の望みです」
と、これまた無茶苦茶なことを言っている。

こんなでたらめな外交交渉が秀吉の知らないところで進んでいたのである。

行長や如安は、明から属国扱いされてもまあ当然と考えている。
禅宗の坊さんなどは足利時代から、日本が明の属国であるかのような書き方をつねにしている。
秀吉に独立国家の意識があるのがむしろ異常にさえ思えてくるほどだ。

明は「それならよかろう」、
要するに
「秀吉を日本の王に封ずればいいのだろう」
くらいにしか考えておらず、
正式な講和の使者を送ることにした。

明の使者が日本に来て、封冊(天子の下す任命書)と金印、冤服(位の高い人の礼装用の冠と衣服)を秀吉に献上した。
秀吉は冤服を身につけて使者を引見し、承免に封冊を読ませた。

承免は
「ここにとくに爾を封じて日本国王と為す」
と読み上げた。
この言葉を開いて、秀吉は烈火のごとく怒り、明が献上した冠と衣服を脱ぎ捨てると、
「国王になど明の小せがれに任じてもらわなくともいつでもなれる。
そもそも日本には天皇がおわします。
わしが国王になったら天皇をどうするのだ」
と一喝した。

明の使いを追い返し、秀吉は再び朝鮮征伐「慶長の役」を命じた。
つまり、聖徳太子同様に、秀吉には、日本が独立国家だという強烈な意識があったのです。

◆慶長の役
シナではヌルハチ(後の清王朝)が勃興して明を脅かし、相次ぐ戦争に明の財政は窮乏していた。
このときから十八年後には後金の建国があり、二十八年後には北京が占領されて明は滅んでいるのだから、秀吉が家康くらいボケずに長生きしていれば、そのまま明を倒し、朝鮮を占領した可能性は高かった。
ところが、秀吉が亡くなり、日本軍は留まること無く引き上げてしまった。
それほど、日本にとって朝鮮に魅力は無かった。

明の文献によれば、明の属邦である朝鮮では宗主国・明の兵隊のことを天の兵隊、「天兵」と呼ぶ。
その天兵は威張り散らして朝鮮政府を侮辱したり、朝鮮兵を虐待したりしていた。
これは日本が言ったことではなくて、みんな向こうの記録に残っていることである。
日本兵一人の首を切ると武官に抜擢するというので、明の兵隊は朝鮮人の首を切って日本人だと言って出世した。
朝鮮人も同胞の首を取って手柄にしたという。

朝鮮の役が終わった後も明兵はしばらく駐留して掠奪をほしいままにし、慶長五年(一六〇〇)になってようやく引き揚げている。
そのときも めぼしいものや女をごっそり持ち去った。

朝鮮人同士でも兵隊や盗賊がお互いに殺し合い、牛、馬、鶏、犬も見渡す限りみな食われていなくなった。
女子供は長いあいだ家から出ることもできなかった。

さらに言えば、この後わずか二十数年後には満洲族が明を滅ぼして満洲族の王朝・清を建国するのだが、朝鮮は明に建国の恩義があるので、清の言うことを聞かなかった。
それで清軍が攻め込んできた。
朝鮮の記録を見ると、
「清軍の荒らし方は日本軍よりひどかった」
そうである。

明治の世になって日本人は朝鮮が底抜けの貧乏なのに驚いた。
民間にはうまい料理などない。
通貨制度もない。
町の汚いこと不潔なこと言語を絶すると言った人もいるくらいだ。

私の家に一年ばかり北朝鮮の脱走兵をおいたことがある。
彼は知識階級の出で、旧制平壌中学の卒業生で私と同じ年であった。
彼が言うには、
「朝鮮ではおいしいものがあると必ずぜんぶシナに取られてしまった。
だからオコゲなんかをありがたがる。
シナの役人が入ってこないように町はできるだけ汚くした。
海があるのに魚料理があまりないのは、
和寇が怖いので海に出られなかったからだ」そうだ。

朝鮮は日本との併合時代に建国以来最大の繁栄を享受したが、それも朝鮮戦争で元の木阿弥となった。
それが復興したのは、朴正殿大統領が昭和四十年(一九六五)に日韓基本条約を結んで日本の経済的・技術的援助を惜しみなく受け、「維新革命」と称し、日本のやりかたにならって財閥まで作ったからである。
こうして「漢江の奇跡」が起こった。

◆博学のカソリックと天才・新井白石
五代将軍綱吉の(一七〇八)、屋久島の唐の浦(浦崎)に和服を着て刀を持った西洋人が上陸した。
この人物はイタリアの貴族出身のイエズス会士、シドッチである。
彼はフランシスコ・ザビエルの志を継ぎ、宣教師として日本にやって来たのである。

イエズス会は宗教改革の波を押しとどめる働きをし、フランス、南ドイツからポーランドに至る地域の宗教の争いにおいてことごとくカソリック側を勝利せしめるのに絶大な貢献をした修道会である。

この修道会の特徴は、命令さえあれば、殉教を怖れずに、ただちに死地とも思える危険な土地にも赴くという軍隊的組織であるとともに、プロテスタントとの論争にも負けぬよう、会員には徹底的に学問を修めさせるということであった。

シドッチは上陸するとすぐに捕えられて長崎に送られ、そこからさらに江戸の切支丹屋敷に送られた。
ここで白石によって、四回にわたる尋問を受ける。
十八世紀の初頭、西ヨーロッパでの最高の教育を受けた宗教家と、「鬼」とも言われた日本を代表する天才的学者・白石との対話という実に貴重な東西の交渉が起こった。

シドッチは後に獄中で死ぬので、白石からどのような影響を受けたかよくわからないが、白石の受けた影響は日本の精神史の上から見逃すことのできない大きなものであった。

まず白石は、シドッチが、上は天文、下は地理、知らざることのないのに驚嘆した。
当時の地球一周の航海術まで発見・実践している西洋人の知識から見れば、鎖国の日本で主として文字の学問を修めていた白石の知識はその足もとにも及ばない。
白石はただただ驚くぼかりだった。

ところが話が形而下のことから形而上のこと、つまり宗教の話に及ぶと、十分啓蒙された白石から見るとシドッチのバイブルの話などは子供の戯言にすぎなかった。

たとえば神の戒めを破った者(アダムとイヴ)の罪はあまりに大きくて自分では償うことができないので、デウスが自らに誓って三千年後にイエスとして生まれ、その代わりになって罪を償ってやるため礫刑になったなどというのは赤ん坊に聞かせる話だと思われた。

ノアの方舟の話でも、デウスはノア以外の人類を溺死などしないで、みんなを善人にしてやったらよかったのではないか。
そんなこともできないで全能の天地創造主などというのはおこがましい。
・・・
これは仏教の言うことと同じで、しかも浅薄なこと甚だしく、仏教とは比べものにならないくらいひどい。
幕府がキリシタンを厳禁したことは「過防」ではないと白石は結論している。

白石のキリシタン批判は、啓蒙時代以後のヨーロッパでも今日の日本でも珍しいものではない。
カソリックで原義と言われるものはそもそも理屈を超越していることであり、
アウグステイヌスの如く、
「荒唐無稽なるが故に私は信ずる」
という「信仰」が入らないと話にならないのである。
白石は儒者であり、儒学は仏教をも迷信と見るほど啓蒙カのある学問であった。
ましてバイブルの話など問題にならぬほど幼稚に思われたのは当然である。

しかし、白石がシドッチとの対話をもとにして書いた『西洋紀聞』は、最初は新井家に秘蔵されていたが、一七九三に十一代将軍家斉に献上され、さらに一八〇七以降、写本が作られ、その後の思想に大きな影響を与えたのである。

この「上巻」はシドッチの取り調べの話であり、「中巻」は当時の世界の地理・風俗・歴史である。
そして「下巻」がキリシタンの話である。

白石はオランダ人から聞いた話をも参考にしているので、「中巻」は客観性も高く、白石が後に将軍家継に海外事情を説明するために書いた世界地理の本である『采覧異言』とともに、当時は地理・外国事情を知るための最高の本とされ、
福沢諭吉の『西洋事情』の先駆となった。
とくにシドッチとの話し合いの結果としての「西洋は形而下の学では日本よりはるかにすぐれているが、形而上の学においては幼稚」という認識は、菅原道真の言葉と言われていた「和魂漢才」の系譜を受け継ぐ「和魂洋才」の思想の元となった。

◆鎖国の時代における江戸の科学
大坂夏の陣(元和元年=一六一五)の頃、日本が持っていた鉄砲の数はヨーロッパのどの国よりも多かったであろう。
性能も劣ってはいなかった。
その軍事大国が全く自発的に軍備の発達を抑えることにした、というような例は、われわれの知っている世界史の中にはない。
『信長の発明した連続射撃法は、西洋に先駆けた戦術だった』

家康の死んだ一六一六年はイギリスでシェイクスピアの死んだ年であり、その頃の日本人の科学的知力はイギリス人に匹敵していたと言ってよい。
しかし、その後の鎖国政策はキリシタン・バテレンに対する厳しい取り締まりとともに、西欧で急速に発達していた自然科学や工学への接触や導入を厳禁することとなった。
(オランダ医学が例外的に認められるのも後のことである)

『江戸時代は鎖国により、外敵の心配が無く、実力主義や下克上を嫌い、お家の安定のために長子相続を基本とする官僚的な支配体制に移行してしまった。
安定した支配体制ではあっても、硬直し、現体制を揺るがす恐れがあるものに対しては拒否することで対応した。
これが戦国時代・実力主義であれば、鉄砲を導入し利用したように、柔軟に取り入れていたことでしょう。』

江戸時代の日本人の科学的知力を示すものとして、よく数学の例が出される。
イギリスのニュートンやドイツのライプニッツに先んじて、関孝和(一六四二?~一七〇八)とその弟子たちは行列式に相当するものを発見し、その後、微分や積分、さらに二重積分に相当するものも全く独創的に発見していた。
しかし、数学を応用する工学大型船の建造などは禁じられていたのである。
数学そのものは当時のイギリスやドイツに劣らないところまで進歩したのに、応用の道がふさがれてしまっていたため、近代的な学問というよりは恐ろしく知的な「芸」のようなになったのである。

工学のほうは、幕府に対して無難な「からくり人形」を作るなどにとどまった。

江戸小紋のような、遠目には無地に見える高度な染色技術を用いた織物を作るのと一脈相通ずるものがある。

しかし科学に対する知力は眠っていなかったから、幕末にべリーがやってきて幕府が造船や武器保有に関する禁制をゆるめると、すぐに船も造るし、大砲も造り出した。
ただ、幕末は、ヨーロッパにあってはかのナポレオン戦争から半世紀も経っており、その間の艦船、銃砲の進歩はめざましく、それに比べれば日本のものは当然、幼稚であった。
それでも、「黒船は蒸気で動かす船だそうだ」という情報だけで、ともかくすぐに蒸気船を造った藩が複数あったことは感嘆すべきことである。


◆閑院宮家を創設した新井白石の功績
五代将軍綱吉は学問をよくし、尊王の心が厚かった。
養子家宣の奥方が近衛家から嫁いでいたので、彼女から「朝廷はお金に困っている」ということを聞いたらしく、朝廷の石高を一万石加増した。
家康が与えた一万石に、秀忠が和子を嫁がせる時に化粧料として一万石を上乗せし、綱吉がさらに一万石を足したので、これで朝廷の石高は三万石となった。
(和子により徳川家は、藤原氏と同じ立場に立ち、朝廷の石高が上積みされたおかげで、朝廷文化が再び華やかになる)

また、先帝には三千石、後にさらに二千石足している。
綱吉の頃から歴代天皇の山陵が荒れ、庶民が勝手に木を伐ったりしているので、それを止めさせ、大がかりな修繕も行っている。

綱吉の跡を継いだ六代家宣は歴代将軍の中では地味な存在だが、新井白石を登用するなど、なかなか優れた将軍であった。
白石は、
「朝廷では後を継ぐ天皇はいいが、ほかの皇子・皇女はみな寺に入る。
これは人間として実にかわいそうではないか」
と家宣に説き、新たな宮家を立ててはどうかと進言した。
こうして、東山天皇の皇子の秀宮(直仁親王)という方を初代として閑院宮家が創設された。

この閑院宮家創設は非常に重要な出来事であった。
現在の皇室はその直系にあたり、この時の閑院宮家から出ているからである。

白石が危倶したのは、
「現在の将軍家は綱吉、家宣と養子が続いた。
つまり二代にわたって世継ぎが生まれなかったことになる。
皇室でもそういうことが起こるだろう」
ということであった。
だから皇統断絶を防ぐため、徳川御三家のように、跡継ぎの資格を持つ宮家を作っておいたほうがいいと考えたのである。

これは現在の問題でもある。
国民が心配しているのは、悠仁親王がお生まれになって一安心したものの、男子がお一人しかいらっしやらないから、これから先、どういうことがあるかわからない。
何か事故があるかもしれない。
徳川家もわずか十五代のあいだに七人も養子を迎えなければならなかった。
その血を受け継いでいくには、やはり藩屏になるものを作る必要があるというのが白石の意見だった。
その意見は今日にも生きているのではないだろうか。

※文化、形而上、経済、科学のどれをとっても、日本文明は先行していた。
それは、万世一系の立憲君主制が、紆余曲折はあるが、これまでのどの文明に比べても劣ることが無いことを示している。
 

◆伊東博文がプロイセン憲法を手本にしたわけ
当時、議会制民主主義の最先進国はイギリスである。
しかし、イギリスの憲法は長年の慣習を積み上げた不文憲法であり、まとまった「憲法」とはなっていないから、一朝一夕に真似できるものではない。
また、アメリカやフランスは成文法の憲法であるが、共和制ということで、天皇を戴く日本には合わない。

日本と欧米列強との治外法権条項を撤廃するためにできるだけ早く欧米なみの憲法を作ろうと考えた伊藤は、こうした事情を知って、相当がっくりきたようである。

そこで伊藤はオーストリアとドイツに向かう。
オーストリアはハブスブルグ家の皇帝を戴く国である。
ドイツ帝国は一八七一年にドイツ統一を果たしたばかりの新興国家であった。

国王のことを英語ではKingと言うが、この言葉は本来「一族の長」という意味である。
「酋長」と言ったほうが分かりやすいかもしれない。
日本史の例で言うと、八幡太郎義家などは源氏という一族の統領、すなわちゲルマン語(英語やドイツ語)のキングに相当する者だった。

こうしたことから、元来ヨーロッパでは、実力だけで下から成り上がった人間は、まずキングになれない。
ナポレオンは実力で皇帝になったが、フランス国王になることはできなかった。
国王には “血統” が必要なのである。
そのくらい、キングとエンペラーは違うのである。

ドイツ帝国の初代皇帝ヴィルヘルム一世は、もともとプロイセンの国王であった。
プロイセンは、彼の先祖たちが異教徒たちと戦い、血と汗を流して作った国である。
彼の先祖フリードリヒ大王がオーストリアと死闘を繰り広げた話(シュレージュン戦争と七年戦争)は、ヨーロッパ史上あまりにも有名である。
このようなプロイセンの歴史を、ヴィルヘルム一世がたいへん誇りに思っていたのは当然のことである。

だから、彼がとうとうドイツを統一し、その初代皇帝の座に就くことになったとき、その心境は複雑であったという。
なぜなら、皇帝になるということは、プロイセン国王という呼び名と別れなければならないということになるからである。
皇帝戴冠式の前日、ヴィルヘルム一世はさめざめと泣いたと伝えられている。
また、戴冠式でも、自分を皇帝の座につけた張本人のビスマルク首相をまったく無視し、握手すら拒んだという。

彼にとって「国王」の座というのは、何ものにも代えがたいものであった。
それはそうであろう、“成り上がり” のナポレオンだって「皇帝」になったのだから。

ヨーロッパ的な意味では、日本の天皇は国王であって、皇帝ではない。
天皇は日本民族の長であり、一朝一夕に成り上がった権力者ではない。
だから、グナイストが旧プロイセン憲法を手本にすべきであると助言したのは、まことに正しかったのだ。


◆日本製品が冷戦終結を促した
戦艦大和も零戦も、ヨーロッパやアメリカで成長した技術の延長線上にある。
零戦の二十ミリ機関砲などはスイスの企業から買ってきたものだ。
しかし、省エネ技術だけは日本発のもので成功したと言える。

日本のガソリンを食わない自動車技術がアメリカで使われるようになった。
アメリカも省エネを無視できなかった。
ハーレー・ダビッドソンという伝統的なバイクメーカーがあるが、あの会社が潰れかかった時に救ったのはホンダだった。

気がついてみると、軍事機密関係や宇宙開発関係は別として、民生品であれば日本製品、もしくは日本のパテントを使用するか提携するかした製品でなければ世界で通用しなくなったのである。

まだベルリンの壁があった頃、古書学会でハンガリーのブダペストに行ったことがある。
そこには私の娘の同級生が留学していたので、一緒に食事でもしようということになった。
その時、その女の子が「ハンガリーでは日本は夢の国です」と言う。
「ハンガリー人が欲しがっている物はみんな日本製です」と言うのだ。
たとえばラジカセや小さな計算機がほしいのだが、そんな物はハンガリーにはないと言う。
鉄のカーテンの向こうでは、日本を天国のように思っていたのだ。

アメリカの経営学者、ドラッカーが後に、戦後、一番大きな働きをしたのは日本であるという主旨のことを言っている。
一つは、政治的に独立しなければならないということを世界中の旧植民地に教えた。
もう一つは、高い技術はどこからでも習ったほうがいいということを教えた。
これは明治維新から続く日本の伝統であると言うのだ。
そして、日本が経済成長したことによって、マレーシアでもインドネシアでも東欧圏では作れないものが作れるようになった。
技術の元は日本であったとしても、メイド・イン・マレーシアであれ何であれ、何でもそこで作れてしまう。

鉄のカーテンの向こうは典型的な白人世界だ。
彼らの人類観は簡単に言えば、戦前の通俗なダーウィニズムで、一番進化したのが白人で、その次が黄色人種、その次が褐色人種、その下が黒人で、最後がオランウータン。

にもかかわらず、オランウータンの住む森に近い国が作っている物を自分たちが作れない。
庶民の驚きは察するにあまりある。
どうして自分たちがオランウータンに近いとされた人種の国よりも遅れてしまったのか、と考えた時、体制が悪いのだと気づいた。
それがベルリンの壁の崩壊につながったのである。
東ドイツ人などはものすごくプライドが高い。
それが、メイド・イン・マレーシアに負けているのだから我慢ならない。

このように、冷戦の終結に、一番貢献したのは日本であると、ドラッカーは評価しているのだ。

明治維新の頃に日本が存在しなかったら、白人のアパルトヘイト(人種隔離政策)は世界中で半永久的に行われたかもしれない。
また戦後においても、日本がなかったら、まだ冷戦が続いていた可能性がある。
共産圏の庶民が体制を信用できなくなったのは、日本の経済成長、および省エネ技術革新とそれにともなうアジア諸国の経済と工業の成長にあるのだから。

共産主義体制は民主主義運動だけで潰れるようなヤワなものではない。
小平も台湾を見て改革開放政策を行った。
同じ民族であるはずの台湾が高度経済成長して先進国に入っているのに、シナ大陸は昔のまま。
それどころか文化大革命によって文明的に退化していることを見たのだ。

つまり庶民が商品を見たことで、共産主義イデオロギーは崩壊した。
そしてその省エネ型ハイテク商品を作ったのは日本だということなのである。

ルーツ・ファンタジー/日本神話に刻まれた神々の叡智 3

$
0
0
転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

★日本神話に刻まれた神々の叡智

■ 皇室と日本古代史と統一王朝


◆山幸彦の兄・海幸彦の子孫は、九州南端に住む隼人として皇室に仕えた。

◆天皇の王冠
天皇家がエフライム族とユダ族だという証拠が、天皇の王冠の文様に明示されています。

神社に建っている二匹の狛犬。
片方のライオンに一本の角があり、ユニコーンです。
ユニコーンはエフライム族の紋章で、
ライオンはユダ族の紋章です。

天皇の王冠には、ユニコーンとライオンの間に、十六菊花紋が描かれ、その下に十二匹の獣、その下に桐の御紋が描かれています。
そして、十六菊花紋の上には、三連の山の中にユニコーンと十六菊花紋が描かれ、これを覆うように背後には六芒星が描かれています。

この王冠は十六菊花紋を中心に、南北イスラエルが集合し、統一イスラエルとしての象徴ではないかと思われる。

ちなみに、天皇の王冠と同じような文様を、イギリス王室も日本よりも後に用いるようになったとのこと。
これは、イギリス王室が皇室と何らかの関係があるのかも知れません。

◆皇室の「菊の御紋」とエルサレム「ヘロデ門の紋」は同じ

以前イラン・イラク戦争の時、ヨーロッパの記者が、イラクのフセイン大統領の腕輪のデザインが十六菊花紋であるのを見て、大統領に「日本の皇室の物とよく似ておりますが、何か日本と関係があるのですか?」と聞いた。

するとフセイン大統領は、「この紋章は、我が国の祖先が世界最古の文明を築いたシュメール王朝時代に用いていた、王家の紋章だ」と答えたという。

十六菊花紋は、エジプトや、イスラエル、バビロンにも見られ、中近東からイスラエルにかけて用いられた王家の紋章なのです。

◆卑弥呼と天照大神
日本には北イスラエルの正当な王家と、南ユダ王国のユダ族とレビ族が渡来し、イスラエルの十二部族が集結した。

もし、この当時に救世主が誕生すれば、聖書の預言では世界の富をイスラエル人が牛耳ることになっていました。

イエス様は馬小屋で生まれられ、大工であった。
聖徳太子も馬小屋で生まれ、日本の大工の祖といわれており、
その弟子 秦河勝は原始キリスト教徒です。

イエス様に十二弟子が仕えたように、聖徳太子に原始キリスト教徒の秦氏を含むイスラエルの十二部族が仕えて、秦氏が中心となり平城京(ちなみに、エルサレムは平安京という意味です)を建立したのではないでしょうか。

聖徳太子の時代、これまで皇室の祭礼と守りをしてきた物部氏と日本に仏教を導入した蘇我氏との争乱があり、秦氏が日本に渡来する前までは、物部氏が、南ユダ王国のレビ族とユダ族の代わりを務めていたと推測されますが、物部氏は偶像崇拝の仏教に反対し、蘇我氏に滅ぼされてしまいます。

( ニギハヤヒ命がトミビコの妹のトミヤビヒメと結婚して産んだ子が物部氏の祖となった )
 
天津神命を受け、「十種神宝」を授けられたニギハヤヒ命は、天磐舟に乗って葦原中国に降りる。
その時ニギハヤヒ命を守る32人の防衛、副官、職業団、船長、船員を引き連れていた。

神武東征時に、イワレビコ命は義兄弟のナガスネヒコを殺し、大和朝廷に貢献しました。
この時、最後まで大和朝廷に反抗した物部氏を外物部、
大和朝廷に与した物部氏を内物部といい、歴史から消えてしまいました。

「十種神宝」は物部氏によって大和朝廷に伝えられ、物部氏は軍事と祭祀の面で大和朝廷に貢献していました。
また、物部氏の軍事力の元となったのは金属製錬技術で、「鉄器」を作ることに長けていました。
当時、製鉄技術が未熟なため、隕鉄製の鉄器を制作していました。

つまり、
既に鉄器が日本で製作されていた。
(吉備王国)

聖徳太子と推古天皇の時代には、物部氏と秦氏が、蘇我氏に滅ぼされてしまい、偶像崇拝の仏教が日本に導入され、聖徳太子の血筋は絶えてしまいます。

その後、持統天皇の時代になり、持統天皇を擁護する藤原氏により、蘇我氏は滅ぼされてしまいます。

持統天皇の時代、天照大神を祀る伊勢神宮よりも、藤原氏を崇める神々の方が序列が上になっていたと言われています。

天照大神が伊勢神宮に祀られ、皇祖神となったのは、日本神話が形成された7世紀頃のことであるという。
その証拠に、宮廷や伊勢神宮に伝わる祭祀の様式を調べると、天照大神が皇祖神として登場するのは奈良時代以降とのことで、藤原不比等により、天照大神が皇祖神に据えられたとのこと。

つまり、大化改新とは、神道を国家的宗教に回復させることだった。

神武天皇以外に、初代天皇・ハツクニシラス天皇である第十代崇神天皇(ほぼ三~四世紀)の活躍の中に、考古学上のヤマト建国と符合する点がみられ、一般的には日本を統一した初代天皇だと考えられています。

当時、北九州,吉備と出雲,畿内に大きな勢力があった。
「国譲りの神話」の中で、国造りをしたのは、物部氏である。

出雲からは、銅剣,銅鐸,巨大の柱(高さ48メートルもの巨大建築物)が発見されている。
吉備の国は製鉄が非常に盛んでした。

シナ王朝においては、シナにあった “倭人” の国の民族が、九州に移住したと見なしていた。
その後、大陸の倭人国が九州を本拠地とし、『魏志』倭人伝の ”邪馬壱国” 、邪馬台国として、独立した存在となった。
後に、邪馬台国は畿内のヤマト朝廷と統一王朝をつくり、王権は続いた。

後漢書:
「その大倭王は、邪馬台(壱)国に居る」

随書 :
「即ち『魏志』のいわゆる邪馬台(壱)国なる者なり」

整理すると、もしも、邪馬台国が畿内に遷ってヤマトになったのであれば、
なぜ『日本書紀』では、
卑弥呼から続く王権を挙げなかったのかが謎になります。

朝鮮半島から九州へのルートは、
博多から有明海を通り肥沃で人口の多い筑紫平野へ向かう九州北部西側と、
出雲へ向かう東側のルートがあり、
魏志倭人伝には九州北部西側は詳しく、
東側の記載はありません。
この九州北部東側からは出雲式銅剣が多く出土しており、ここまでが出雲王国(物部氏)の勢力範囲だったと考えられています。

一方、海上交通に便利で、肥沃な土地である筑紫平野の中で、戦略上の要所としては福岡県久留米の高良山があり防壁が築かれています。
景行天皇が高良山で国見をしました。
また、豊臣秀吉も九州征伐の時に高良山支峰に陣を敷きました。
そして、近くの八女市に山門(ヤマト)があり、戦略上の視点からこの地が非常に重要だった。

邪馬台国の女王卑弥呼の死が、247年頃。
こののち男王を立てたが国中が承服せず、しかたなく卑弥呼の宗女、壱与(台与)が立てられたとされています。
関連して、崇神天皇が国のうまく治まらないことを憂え、占いをしたところ、出雲神大物主の神が自らを祀れと神託を下し、天皇は祀ったとある。
このことが、卑弥呼と崇神天皇の関係だと推測されます。
これ以降、皇室は出雲を丁重に祭った。

神武東征以前、物部氏の始祖ニギハヤヒ命は、土着の首長・ナガスネヒコの妹を娶り、ヤマトの王として建国していた。
そして、神武天皇を平和理に迎え入れています。

一方、神武天皇以下三代もしくは六代天皇までが出雲神の娘を正妃に迎え入れています。
つまり畿内と出雲の統一王朝として、王が畿内から、王妃が出雲から選出されたのだと思います。

ところが、大嘗祭では、天皇の祭りのクライマックスに、中央の寝台に横たわる神に食事を供し、自らも食事をとるという儀式を行うが、
この神の正体が明らかにされていません。
しかも日本の最高神である女神・天照大神は別の場所に祀られたままであるから、女神・天照大神よりも大事な神がそこにいることになる。
すなわち、その正体こそが男神・天照大と推察されるのです。

天照大神には、男性の太陽神としての性格と、太陽神の巫女としての大日巫貴の二重の性格があり、後にこの巫女が太陽神自身として祀られてしまいました。
このことについては、中臣氏=藤原氏の改竄だといわれています。
おそらく、外国勢力から天皇家を守るためだったのでしょう。


◆統一王朝
天磐舟に乗り日本に渡来したニギハヤヒ命の出雲系の天孫族と、
その後渡来した神武天皇の天孫族が、
両王国を統一するヤマト王朝を畿内に建国した。

統一王家は、出雲王国から王妃を、畿内王国から王を選出し、統一王とした。
当時は現在とは異なり、母系家族なので、畿内選出の王は出雲王国に婿入りをしていたと考えられます。
従って、正当な王家の流れは出雲王国だったと考えられます。
また、出雲王朝は物部氏が軍事、技術面で、太陽神とその巫女を守護していた。

一方、魏志倭人伝の邪馬壱国の女王 卑弥呼は、太陽神の巫女ですから、常識で考えると、御神体のある神殿に仕えており、この御神体と巫女を守護するのが軍隊の仕事で、神殿と御神体と巫女子と守護軍は、同じ神殿で御神体に仕えていたと考えられます。

◆モーセの出エジプト当時の奇跡の中で、暗黒の三日間や、海が割れエジプト兵からイスラエル人を守ったとあります。
このモーセの奇跡とそっくりの神話が日本に残っています。

三日間の暗黒は、日食が起こり天磐戸神話と非常に似た話です。
さらに壱与の朝鮮征伐時に朝鮮兵が追ってくる時に海が割れ、朝鮮兵が滅ぼされたとのくだりも、モーセの奇跡にそっくりです。

また、ノアの箱船の時には40日40夜、出エジプト時には40年間のようにエンキを示す40が記述されていますが、神功皇后にも40が出てきます。
つまり、中国や朝鮮の政治情勢が急変し、神功皇后はモーセのように、朝鮮にいたイスラエル人達を無事にヤマトに導いたのだと思います。

この当時の出雲王国では、巫女が預言者で男子が政治を行った。
統一王家の王と王妃として、畿内王家から第十四代仲哀天皇が、出雲王国から女王壱与が選ばれたのだと思います。
神功皇后(壱与)に降りた神託を武内スクネが聞き取ったり、常に付き添い守護していました。
神功皇后は朝鮮出兵時に身ごもっており、帰国後に九州で後の応神天皇を出産します。
ところが、『日本書紀』の中で、応神天皇は正式に仲哀天皇の子だはと記述されていません。
おそらく、壱与は出雲王国の後継者相続に従った。
そしてその子を応神天皇として即位させた。

関連して、参考文献には、武内スクネの末裔は蘇我馬子だといわれています。
物部氏の伝承『先代旧事本紀』には、『日本書紀』に記述されている蘇我氏と物部氏の争いが、まったく記録されておらず、つまり物部氏と蘇我氏は敵対関係に無かった。
また、蘇我系葛城氏の山に出雲神が祀られていること。
出雲大社のスサノオ尊を祀る神社の名が「素鷲(ソガ)社」であったこと。
聖徳太子の墓陵を守り続けている西方院の住職は代々 蘇我を名乗る尼僧が住職を務めている。

この寺に残された伝承によれば、小野妹子の娘、蘇我馬子の娘、物部守屋の娘が、聖徳太子の御廟を守るために出家したという。
『古事記』には蘇我氏の祖が、物部氏の女系から生まれたとしていることなどから、蘇我氏は物部氏の一族であったと考えられます。
更に、蘇我入鹿は鞍作大臣と呼ばれており、鞍作りは渡来人の職種なので、これを取り仕切っていた秦氏の一部だった。
また、新撰姓氏録には、蘇我氏は、竹内スクネの子孫と記している。
結局、物部、蘇我、秦一族は、同族である。

神道を信じる聖徳太子も蘇我氏も、日本へ仏教を導入するはずはなく、蘇我氏が聖徳太子の一族を抹殺しようとして自殺に追い込んだり、天皇家の図書館に放火したりするはずがありません。
おそらく、『日本書紀』で日本史を改竄した藤原氏(中臣氏=藤原氏は、天児屋命の子孫)が、女王卑弥呼、壱与、出雲王国、物部氏、蘇我氏や聖徳太子の真実を歪めてしまったのでしょう。

◆古代日本の政権交代
古代日本の複雑な政権交代の裏には、日本の歴史の真実を率直に伝えることができない事情があった。
例えば、「白村江の会戦」で敗れた日本は、中国の属国としての支配を受け入れざる得なかったのだと思います。
しかし、日本書紀の編纂者と著者は、旧約聖書から連綿と繋がる人類史を、天の使命として後世に伝えたかったのだと思います。

1.出雲王国
『日本書紀』を編纂した藤原氏は、神代文字で記述されていた『九鬼文書』を漢字に書き改めたと言われています。
つまり、藤原氏は自らが隠蔽した『日本書紀』の真実を伝えるため、『九鬼文書』を残したのではないかと思われます。

『九鬼文書』にはイザナギが単身で産んだ(男子の血統を意味する)三貴神として、天照大神の記述はなく、天皇家の血統はスサノオ尊の血統として記述されており、女神としての天照大神の存在は記述されていません。
また、スサノオはイザナギの鼻から生まれており、末っ子という記述とは裏腹に長男であったことを意味していると思います。
更に、スサノオは海を支配し、かつ出雲王国を兄弟に禅譲しています。

もし、古代日本の神話を正しく記述すれば、旧約の民であることが明らかになるので、これを避けるために、あくまでも日本国内の物語で、旧約の神話に似ているが、それと分からないように記述する必要があったのだと思います。



出雲地方の方言は東北弁と同じで、アイヌ(蒙古斑が出ず、青目の白人)と同じ風習が残っている。
つまり、出雲は白人系であることから推測して、ニギハヤヒ命は、神武天皇よりも速く出雲の地に足を踏み入れたのではないかと思われるのです。

2.神武東征は日本国内ではない
日本には存在しない駱駝や羊と一緒に描かれている神武天皇の絵が神社に残っていることから、神武天皇は日本を目指して中東から移動を開始されたのだと思います。
それゆえ、神武天皇が日本に向かって東に移動した様子や、神武天皇から第十代崇神天皇までの八代の天皇の歴史について、記述することができなかったのだと思います。

神武天皇の移動コースは、エジプト、インドを経由し、海を伝ってのコースだったと推測されます。
そして、やがて崇神天皇が九州に到着し、東征を行ったのだと思います。

補足:
秦の時代に日本に渡来した徐福の八三隻の大船団には技術者を含んだ数千人が乗船していた。
これは、秦氏のことだと思います。

大阪都抗争/リンクする『憲法改正』への道

$
0
0
■敗戦国日本のプライドを取り戻す
安倍首相の憲法改正への意欲、海外注目
NewSphere 2014年12月25日

24日水曜に第3次安倍内閣が発足した。それを受けて、安倍氏は夜に記者会見を行い、今後の安倍政権が経済対策を優先課題として実行していく構えを見せたが、それとともに憲法改正への強い意欲を見せたことが海外メディアの注目を集めている。

◆敗戦国のプライドを立て直すために
ニューヨーク・タイムズ紙は、「安倍晋三氏が憲法改正を見据える」と題して、安倍首相が新内閣発足の会見で憲法改正への強い意欲を示したことを伝えた。

同紙は、憲法を自国で書かれたものに変え、敗戦国として傷ついたプライドを回復しようというのが、安倍氏を含む多くの右派の政治家が長い間求めてきたことだと述べ、アメリカの手による憲法ではなく、自分たちの手による憲法が、第二次世界大戦の敗戦を払拭したい政治家の悲願だったことを示した。

また、中国の台頭およびアメリカの地位の相対的な低下による試練に際して、日本の自衛隊が憲法で規制されているのは筋が通らないと考えている人が増えてきている、と同紙は指摘している。

しかし、実際に、日本の交戦権を否認している憲法9条を改正するには、戦時中の軍国主義を感じさせるものに拒否感を示す国民からの激しい抵抗にあうだろうと述べている。

憲法改正が「歴史的なチャレンジ」であると安倍首相はした上で、まずは防衛大臣に、元防衛庁長官で、自衛隊の役割の拡大を支持する中谷元氏を任命したことを伝えた。

◆構造改革と憲法改正に向けて
英フィナンシャル・タイムス紙も、安倍氏の首相再就任を伝える中で、安倍氏が押し進める経済政策「アベノミクス」を伝えるとともに、中谷元氏の防衛大臣就任を取り上げ、安倍氏の憲法改正への意欲を示した。

記事の前半で経済政策の三本目の矢である構造改革が道半ばであることを伝えつつ、後半には新防衛大臣の中谷氏に記事は集中。
中谷氏の任命は、年明けの国会で「集団的自衛権」に関する法案を提出する安倍氏の考えからだとしている。

同紙は、中谷氏が自身のホームページで憲法9条が現実に即していないと述べたことを引用、また安倍氏の会見での言葉を引用して、安倍首相の改憲への強い姿勢を報じた。

「21世紀にふさわしい、どのような憲法を作っていくか、国民みんなで考えていく事こそ、新しい日本を切り開いていくことにつながっていくと、こう信じるからでもある」。

◆憲法改正が自民党の大きな目標
中国国営新華社通信も、安倍氏が日本に景気回復をもたらすことを最優先としつつも、憲法改正が自民党の大きな目標だと強調したことを伝えた。

安倍氏の会見の言葉として、
「(自民党が)しっかりとした経済的な基盤を作って、国民生活を豊かにすると同時に、憲法改正をしていくと、この2つが大きな目標だった」
と引用。

それが容易な仕事ではないと認めつつ、
「これこそが正念場で、これこそが憲法改正の一番大切なポイント、舞台と言ってもいいと思う」
と述べた安倍氏の言葉を引用した。

ただ、安倍氏が中国や韓国、ロシアとの関係改善へ向けた動きを見せていることも伝え、安倍政権の近隣諸国との外交を尊重する構えも示している。



■1分でわかる維新の党の政策:身を切る改革と、競争政策の徹底
NewSphere2014年12月12日

12月14日に投開票される衆院選に向け、NewSphereでは各党の政策を深く知るため、1)経済成長、2)財政戦略、3)外交・安全保障の観点から、7点質問を行った。
維新の党の回答は下記の通り。

◆維新の党の回答
1)人口減少が進む中、無理に経済成長を追うべきでないとの思想も出てきています。
成長と平等、どちらに重点をおきますか。


どちらも重要だが、成長がなければ平等のための再分配も出来ないと考える。


2)経済成長のための政治の役割について、規制緩和/内需拡大など方針を伺えますか。4年以内に実現したい政策を挙げてください(3点まで)


・道州制への移行(国から地方への権限・財源の移譲)
・規制改革(参入規制緩和により、企業優先から消費者優先の政策へ)
・歳出削減を財源に、保育・教育等の将来世代向け予算の大幅増(人への投資)

3)社会保障制度の維持が危機と指摘されて久しいです。
国際的にみると日本の制度は「低負担、中福祉」と言えますが、今後は「低負担・低福祉」、「高負担・高福祉」、どちらを目指すべきだと考えますか


(強いて言えば)低負担・低福祉。
給付の中身を変え、高齢者給付は適正化し、子育て等、現役・将来世代への給付は増やす。

4)上記の経済、財政政策に関し、財源をどのように捻出しますか。特に消費税に対しては、いつまでに何%まで増税すべきと考えますか


財源は歳出削減を先行させ、額のうえでも歳出削減を主とする。
手法としては、

・国会議員が定数・歳費を3割削減して歳出削減への国民の信頼を得て、
・公務員人件費を2割、5兆円カットし、
・ムダな公共事業や既得権益への財政支出を削減する。

以上の徹底した歳出削減の後に、経済状況を見ながら、必要ならば消費税引き上げを行う。
「いつまでに何%」は、歳出削減の進捗と景気次第で変わる。


5)2017年に消費税増税を行う場合、どうやって悪影響をおさえますか。
(軽減税率、給付など)


低所得者に直接給付(給付付税額控除等)。軽減税率には反対。

6)現時点で、日本の外交における最大のリスクは何だと考えていますか。
そのための対策はどうあるべきと考えていますか


「最大のリスク」を特定はしない。
喫緊の課題の一つとして、尖閣諸島、小笠原周辺で起こりうる事態への対応がある。
領域警備法で自衛隊・海上保安庁の連携を強化し、日中当局間の海上連絡メカニズムの構築・充実が必要。


7)4年以内の憲法改正は必要でしょうか。必要な場合、どのように国民に必要性を説こうと考えていますか。


必要。
これまでの中央集権的な統治の仕組みが、厳しいグローバル競争を勝ち抜くべき今の時代にはそぐわない実態を説明して、道州制を憲法上の制度とすべきことを一つの柱にして、憲法改正の必要性を説いていく。


◆編集部の補足
明瞭な回答をいただいた。

維新の党の経済成長戦略は、
競争政策の徹底。
混合診療解禁、保育バウチャー、農協改革、周波数オークション、IR推進、自然エネ立国など、自民党よりも “過激” な案が並んでいる。

財政については、議員歳費などコストカットが具体的に示されている。
社会保障については、負担は増やさないが、給付を適正化、つまり富裕層の給付削減などを構想している。
上記合わせ、最も「小さな政府」志向が強いといえるだろう。

さらに、憲法改正を道州制導入の観点から主張している点も特徴的だ。


■公明党 「加憲」で憲法の発展を
出典元 公明党マニフェスト

憲法については、2012年12月の自民党との連立政権の発足に当たって、
「(衆参各院の)憲法審査会の審議を促進し、憲法改正に向けた国民的な議論を深める」
ことで合意されています。

また、2014年、憲法改正の手続きを定めた国民投票法が施行されましたが、今後さらに国会で着実に審議を重ねるとともに、国民的な議論を深めていくことが最も重要であると考えます。

基本的人権の尊重、国民主権、恒久平和主義。
この3原則は、日本国憲法の骨格をなす優れた人類普遍の原理です。
公明党は、日本国憲法がわが国の今日の発展を築く上で大きな役割を果たしてきたと認識しています。
時代に合わせて憲法を発展させるに当たっては、この3原則を堅持しつつ、新たに必要とされる理念・条文を現行憲法に加える「加憲」が最も現実的で妥当な方式と考えます。

「加憲」論議の対象としては、例えば、環境権など新しい人権、地方自治の拡充などが挙げられます。
憲法第9条については、戦争の放棄を定めた第1項、戦力の不保持等を定めた第2項を堅持した上で、自衛のための必要最小限度の実力組織としての自衛隊の存在の明記や、「平和主義の理念」を体現した国際貢献の在り方について、「加憲」の論議の対象として慎重に検討していきます。


サルメラ:
公明党は風見鶏。
良く言えば、民意に敏感。
悪く言えば、もとより信念なく、政権内にいることだけが目的化している。

自民党は今、
公明党以外( 例えば維新 )と組んでも、楽々四年以内に、憲法改正関連の法案を通過させることができる。
もちろん、安倍が強行突破を決断するくらいの諸条件が整えば、の話だが。

これだけは言える。
今の勢力図では、公明党サイドから自民党に駆け引きはできない。
一方で今後、安倍の自民党は、維新の党と ますます距離を縮めることになるだろうと推測する。
( 渡辺喜美には、気の毒だが )

公明党や、渡辺喜美と違ってこれまで媚びてなかった分、
ある意味、する話によっては対等だ。

「憲法改正」と「大阪都構想」は同根である、と感覚する。
そして、
反対する連中は おそらく、
両方に反対するだろう。

権力に噛み付きながら、実は権力に可愛がられもする。
これが政治家・橋下の真骨頂だ。
( それで石原とくっついてしまうまでいったのは失敗だったが、その代わり、なかなか得れぬ、いい教訓も得たと思う )

住民投票が実現すれば、
大阪都抗争、
奇跡の大逆転もある。



【関連記事】↓


■検証・憲法施行65年
2012/05/03産経新聞より抜粋

◆「憲法9条、日本の対外関与を束縛」

◇検証・憲法施行65年、「米国製」、謎多い制定過程
日本国憲法が施行されてから65年を迎えた。
その間、一度も改正されず、世界でもまれな “不磨の大典” となりつつある。
9条の「戦争放棄」は誰が発案したのか。
天皇の章の「象徴」という言葉はどのようにして生まれたのか。
「米国製」といわれる現行憲法の制定過程を改めて検証した。

◆GHQの起草
毎日のスクープきっかけ

終戦から半年近くたった昭和21年2月1日、毎日新聞は1面トップで、日本側の松本烝治国務相を委員長とする憲法問題調査委員会(通称・松本委員会)で検討されていた憲法改正案をスクープし、その中身を詳しく報じた。

2月3日、最高司令官のマッカーサー元帥は民政局のホイットニー局長に憲法草案の作成を指示し、次の三原則「マッカーサー・ノート」を記した黄色い紙を渡した。

(1)天皇は、国家元首の地位にある…

(2)国の主権的権利としての戦争は、廃止する…

(3)日本の封建制度は、廃止される…

民政局の職員の分担が決められ、翌4日から、大急ぎで草案づくりが始められた。
産経新聞の米極秘文書特別取材班が昭和50年、米ミシガン大学図書館で発掘した民政局のハッシー海軍中佐の資料(ハッシー文書)は、その模様を生々しく伝えている。

2月4日「ホイットニー将軍は民政局の新憲法草案を2月12日までに完成し、マッカーサー将軍の承認を得たいと述べた。
その日にホイットニー将軍は吉田茂外相らと彼らの憲法草案について非公式の会談を持つことになっている。

ホイットニー将軍はこの会談で、
「天皇を護持し、彼ら自身の地位を維持するために残された唯一の可能な道は、はっきりと左寄りの道(DECISIVE SWING TO THE LEFT)をとる憲法を受け入れ、承認する以外にないことを分からせるつもりであると述べた」

2月6日
「この作業中、民政局内には日本人は何人(なんぴと)も立ち入らせてはならないことをスタッフに再確認させた。
この作業に関するすべての書類は、夜間は保管金庫にカギをかけてしまっておくよう注意があった。
ナラシ(楢橋渡・内閣書記官長)のディナー・パーティーに出席する職員には、いかなる政治的な議論もしないよう注意があった」

「ルースト中佐から、われわれ民政局で考え出した憲法を、厳密に日本側で作った文書として発布することは、心理的な信用性の面で問題を引き起こすのではないかとの発言があった。
…これに対し、ケーディス大佐(次長)がそうした不一致を認めながらも、アメリカの政治イデオロギーと、日本の憲法上で最良もしくは最もリベラルな思想との間には、ギャップはないと指摘した」

2月10日
「民政局より最高司令官宛
『私はここに日本国民のための憲法改正草案を提出するものであります。
…この文書は、他日、元帥閣下の示された高邁(こうまい)な原則(マッカーサー三原則)、あるいは閣下が時に応じて指示された他の諸点と合致するものであります…』」
(昭和50年6月24日付産経より)

民政局で作成されたいわゆる「マッカーサー草案」は2月13日、吉田外相官邸で日本側に示された。

実は、毎日がスクープしたのは、松本委員会で煮詰まりつつあった甲案や乙案ではなく、委員の宮沢俊義東大教授が独自に作成した私案だったが、大きな違いはなかった。
毎日のスクープがGHQによる憲法草案づくりのきっかけになったことは確かだ。

◆「戦争放棄」発案者は誰か
昭和21年2月3日、マッカーサー元帥がホイットニー民政局長に示した三原則(マッカーサー・ノート)の第二原則は2つの段落に分けてこう書かれていた。

「国の主権的権利としての戦争は、廃止する。
日本は、紛争解決の手段としての戦争、
および自己の安全を保持するための手段としてさえ、戦争を放棄する。
日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる」

「いかなる日本陸・海・空軍も決して認められず、いかなる交戦者の権利も、日本軍隊に決して与えられない」

この戦争放棄の原則について、マッカーサーは後に回想記で、昭和21年1月24日に幣原(しではら)喜重郎首相の訪問を受けたときの模様をこう書いている。

「首相はそこで、新憲法を起草する際、
戦争と戦力の維持を、永久に放棄する条項を含めてはどうか、
と提案した。
日本はそうすることによって、軍国主義と警察による恐怖政治の再発を防ぎ、同時に日本は、将来平和の道を進むつもりだ、ということを自由世界の最も懐疑的な連中にも納得させるだけの、確かな証拠を示すことができる、
というのが首相の説明だった」

「私は腰が抜けるほどおどろいた」
(昭和39年2月5日付朝日新聞の「マッカーサー回想記」第31回より)

これによると、戦争放棄条項はマッカーサー自身でなく、幣原首相の発案だったことになる。

しかし、当時、幣原内閣の厚相だった芦田均氏は21年2月22日付の日記で、幣原首相が前日のマッカーサーとの会談の模様を閣議で次のように説明したと記している。

「MacArthurは先ず例の如く演説を初めた」

「『…吾等(われら)がBasic forms(基本原理)といふのは草案第一条(主権在民と象徴天皇制)と戦争を抛棄(ほうき)すると規定するところに在る。
…日本の為(た)めに図るに寧(むし)ろ第二章(草案)の如く国策遂行の為めにする戦争を抛棄すると声明して日本がMoral Leadershipを握るべきだと思ふ』」

「幣原は此時(このとき)語を挿(はさ)んでleadershipと言はれるが、恐らく誰もfollower(追随者)とならないだらうと言つた」

芦田日記によれば、戦争放棄はマッカーサーの発案で、幣原首相はこれに異を唱えたとされる。
このほか、幣原首相とマッカーサー元帥が意気投合したなどの説もあり、真相は今も謎だ。

◆「赤い条項」と家族条項
2月13日、日本側に示されたマッカーサー草案は2月19日の閣議で、松本国務相から報告された後、佐藤達夫・法制局第一部長らを交えて日本側による修正作業が始まった。

マ草案の中には、松本氏が「共産主義の条文じゃないか」と指摘した部分があった。

28条の
「土地及一切の天然資源の究極的所有権は人民の集団的代表者としての国家に帰属す…」
(外務省仮訳)
という規定だ。

3月4日から5日にかけて行われた日本側とGHQの折衝で、日本側が
「あまりに概念的で一般の人には分からないから削りたい」
と申し出たところ、
GHQは簡単に同意したと、佐藤氏は自著「日本国憲法誕生記」(中公文庫)に書いている。

他方、日本側の修正で改悪されたケースもある。

マ草案の家族に関する規定は、こんな文言だった。

23条 家族は人類社会の基底にして其(そ)の伝統は善かれ悪しかれ国民に滲透(しんとう)す。
婚姻は男女両性の法律上及社会上の争ふ可からさる平等の上に存し…

これが日本側の修正を得て3月6日に発表された憲法改正草案要綱では、こう変わっていた。

22条 婚姻は両性双方の合意に基きてのみ成立し且(かつ)夫婦が同等の権利を有することを基本とし…

なぜか、冒頭の「家族は人類社会の基底にして…」のくだりが消えていた。
その理由を佐藤氏は「日本国憲法誕生記」でこう書いている。

「『家族は…』のところは、わざわざ憲法に書くまでのこともなかろう、ということで黙殺してしまった」

「昨今、憲法改正論議の一つの題目に家族の尊重ということがあげられているのに関連して、いささかのこそばゆさをもって思い出される条文である」

その後、7月から開かれた衆院憲法改正小委員会で、社会党の鈴木義男氏や森戸辰男氏らが
「国民の家庭生活は保護される」
との文言の追加を求めたが、認められなかった。

10月6日の貴族院本会議でも、法律学者の牧野英一氏らが「家族生活は、これを尊重する」との文言を加える修正案を出したが、賛成165票、反対135票で、改正に必要な3分の2に達せず、否決された。

この結果、現行憲法に「家族尊重」の文言は入らなかった。

◆「元首」はなぜ「象徴」となったのか
昭和32年10月16日の憲法調査会総会に、幣原内閣の法制局第一、第二部長として憲法制定にかかわった佐藤達夫氏が呼ばれ、後の首相、中曽根康弘氏は
「マッカーサーがホイットニー民政局長に与えた指令では、天皇は “元首” となっているのにマ草案で “象徴” になった事情はどうか」
と質問した。

佐藤氏は
「元首が象徴になった事情はナゾである」
と答えた。

中曽根氏の質問にある「指令」は「天皇は国家元首の地位にある」というマッカーサー・ノート(三原則)の第一原則を指す。

英文で
「Emperor is at the head of the state」
とある。

民政局で「天皇」の章を担当したリチャード・プール氏(海軍少尉)は後に、憲法学者の西修氏のインタビューに

「(マッカーサー・ノートには)
『天皇は国家元首である(Emperor is the head of the state)』
とは書かれていなかった。
天皇の品位を汚そうなどということは全く念頭になかった」
と語っている。

では、「象徴(symbol)」という言葉は、どうして生まれたのか。

プール氏とともに「天皇」の章を担当したジョージ・ネルソン氏(陸軍中尉)は西氏に対し、英国の憲法学者、ウォルター・バジェットの『英国憲法』(1867年)の一節から取ったと説明した。

その本には、
「イギリスに女王がいなければ、現在のイギリス政府は崩壊し、消滅してしまうであろう。
…国王は不偏不党である。
国王が一見して実際の業務から距離を保っていることが、自らを憎悪と汚辱から遠ざけ、その神秘性を保持し、
…象徴を必要とする人々にとって目に見える統合の象徴であることを可能にするゆえんなのである」
と書かれている。

憲法草案を審議する21年6月の衆院本会議で、
「象徴」は明治憲法の「元首」に戻すべきではないかとの質問も出された。

これに対し、金森徳次郎国務相は
「従来の理念を抹消し、新たな言葉を創造するという観点から、『象徴』という言葉が理想的であると考えた。
『元首』は旧世紀的なもののように思える」
と答弁した。

今でこそ、「象徴」という言葉は定着したように見えるが、当時の国民は相当な違和感を持った。

◆「芦田修正」めぐる曲折
マッカーサー草案で8条にあった戦争放棄条項は、日本側とGHQの折衝を経て3月6日に発表された「帝国憲法改正草案要綱」では9条に移された。
その後も、口語体に変えた「帝国憲法改正草案」などが発表されたが、戦争放棄は9条が定位置になる。

その9条に関する日本側での本格的な議論が行われたのは、芦田均氏を委員長とする衆院憲法改正小委員会(通称・芦田小委員会)の場である。

正式名称は
「衆議院帝国憲法改正案委員小委員会」
で、7月25日から8月20日まで計13回、非公開で行われた。

芦田小委員会が始まった段階で、9条はこうなっていた。

• 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
(第1項)

• 陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。
国の交戦権は、これを認めない。
(第2項)

• 7月29日、芦田氏は9条の2項の冒頭に
「前項の目的を達するため」
との文言を追加することを提案した。
「芦田修正」といわれる。
その後、この修正案はケーディス次長の承認を得られ、現行憲法の規定になった。

芦田氏は後に昭和32年12月の憲法調査会総会で

「私は一つの含蓄をもってこの修正を提案したのであります」

「原案では無条件に戦力を保有しないとあったものが、一定の条件の下に武力を持たないということになります。
日本は無条件に武力を捨てるのではないということは明白であります」

と発言し、自衛のための「戦力」を持てるとする自衛隊合憲論の有力な根拠になった。

昭和54年3月、東京新聞が “スクープ” した「芦田日記」の21年7月のところにも、

「自衛権の行使は別であると解釈する余地を残したい、との配慮からでたものである」

と書かれていたと報道された。
しかし、7年後の昭和61年、岩波書店から刊行された芦田日記には、そのような記述がなく、自衛権保持の余地を残したとする核心部分の記述は記者の加筆と判明した。

芦田修正を根拠にした自衛隊合憲論は支えを失ったかに見えたが、西修氏はこの加筆報道騒動に先立ち、米マッカーサー記念館で、芦田修正をめぐる重要な極東委員会関係文書を見つけた。

極東委員会は米ワシントンに設置された旧ソ連など連合国11カ国の代表から成る日本占領政策に関する最高意思決定機関である。

西氏が発見した文書には、極東委員会が

「芦田修正により、自衛のための戦力保持が可能になった」

と判断し、その歯止めとして、大臣が軍人でないことを求める「文民条項」の挿入を日本側に迫った経緯が記されていた。

このことは平成8年1月に解禁された旧貴族院帝国憲法改正案特別委員小委員会の秘密議事録でも裏付けられた。

これが現行憲法66条2項の
「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」
との規定だ。

しかし、日本政府は芦田修正説による自衛隊合憲論でなく、
自衛隊は「戦力」に至らない必要最小限度の「実力組織」であるとする苦しい解釈をしている。

◆検閲で封印された「出生の秘密」
西修氏は米メリーランド大図書館で、憲法の記述に関するGHQの検閲の実態を調べた。
そこで明らかになったのは、憲法が「米国製」であるという言論をGHQが徹底的に封じ込めた事実だ。

西氏の研究によると、例えば、松本委員会のメンバーで九州大学教授の河村又介氏が昭和21年11月に刊行しようとした「新憲法の制定に就(つい)て」は発禁処分(SUPPRESS)にされ、特に問題とされた次の部分に削除を意味する線が引かれていた。

「敗戦国日本の現状と致(いた)しまして何一つとして占領軍の即ち連合諸国の諒解なくして出来ないこと、皆さんの御承知の通りであります。
国家の根本法たる憲法と雖(いえど)もその例外であり得る訳ではありません」

「私は実際には改正はなかなかむづかしいであらうと思ひます。
何故かと言ふと仮令(たとい)占領軍が撤退した後と雖も連合諸国が鵜の目鷹の目で日本の政治経済文化其の他凡(あら)ゆる方面を見張りをしてそれが連合国の思想や利害に反しないやうに監視を続けるだらうと思ひます」

また、東大教授で後に最高裁長官になる横田喜三郎氏が「日本管理法令研究」誌の第1巻9号(21年12月1日)に書いた「新憲法と平和立国」と題する論文は次のような記述が削除を命じられた。

「かならずしも連合国によつてその管理の基本原則をおしつけられたと見るべきではない。
この基本原則は新しい日本として本来の行き方を示すのであつて、連合国の管理がなくても、日本は自発的にかような基本原則を自己の政策として採用すべきはずのものであつた」

検閲は共産党系の著書にも及んだ。
プロレタリア文学作家、中野重治氏が「展望」昭和22年1月号に書いた論文の次の部分に線が引かれていた。

「あれ(憲法案)が議会に出た朝、それとも前の日だつたか、
あの下書きは日本人が書いたものだと連合軍総司令部が発表して新聞に出た。
日本の憲法を日本人がつくるその下書きは日本人が書いたのだと外国人からわざわざことわつて発表してもらはねばならぬほど何と恥さらしの自国政府を日本国民が黙認してることだらう」

GHQに好意的な横田喜三郎氏の論文まで検閲を受けたことは、GHQが憲法の “出生の秘密” を知られまいと神経質になっていた事実を物語っている。

共産党は現在、「護憲」を唱えているが、当時は新憲法に強く反対した。

21年6月の衆院本会議で、共産党の野坂参三氏は

「戦争には、不正な戦争と正しい戦争がある。
不正な戦争とは日本の支配者が行ったような戦争で、この侵略戦争に対して戦う戦争は自衛戦争である。
憲法には、侵略戦争の放棄と明記すべきではないか」

と質問した。

これに対し、吉田茂首相は

「多くの戦争は正当防衛を名目にして行われてきた。
いかなる名目でも戦争を行わない方がよい」

と答えた。

当時は、共産党が自衛戦争を容認し、吉田内閣は自衛戦争を含めたすべての戦争を否定していた。

◆【GHQ民政局での憲法起草作業分担表】
(ハッシー文書より)

≪運営委員会≫
チャールズ・ケーディス陸軍大佐、
アルフレッド・ハッシー海軍中佐、
マイロ・ラウレル陸軍中佐、
ルース・エラマン

≪立法に関する委員会≫
フランク・ヘイズ陸軍中佐、
ガイ・スウォーブ海軍中佐、
オズボン・ホージ陸軍中佐、
ガートルド・ノーマン

≪行政に関する委員会≫
サイラス・ピーク、
ジェイコブ・ミラー

≪司法に関する委員会≫
マイロ・ラウレル陸軍中佐、
アルフレッド・ハッシー海軍中佐、
マーガレット・ストーン

≪市民権に関する委員会≫
ピーター・ルースト陸軍中佐、
ハリー・ワイルズ

≪地方行政に関する委員会≫
セシル・ティルトン陸軍少佐、
ロイ・マルコム海軍少佐

≪財政に関する委員会≫
フランク・リゾー陸軍大尉

≪天皇・条約及び授権に関する委員会≫
リチャード・プール海軍少尉、
ジョージ・ネルソン陸軍中尉

◆政財界・有識者や報道機関など相次ぎ提言
日本国憲法をめぐっては、これまでにいくつもの改正案や新憲法制定の提言がなされている。
サンフランシスコ講和条約発効2年後の昭和29年には、早くも旧自由党や改進党の憲法調査会が改正要綱などを発表。
旧自由党の要綱では、天皇を元首と定め、「最小限度の軍隊」の設置を規定した。

昭和47年には、自民党の憲法調査会が稲葉修会長私案として天皇の地位の明確化や国による家庭の保護などの改正方針を提言した。

冷戦終結後、政党では、自民党が結党50周年の平成17年に条文化した「新憲法草案」を発表。
象徴天皇制の維持や「自衛軍」の保持、
政教分離要件の緩和などを世に問うた。

民主党は憲法調査会が同年の「憲法提言」で、
「首相主導の政府運営の実現」
「新しい人権の確立」
などの方針を訴えた。
旧民社党の議員と有識者で作る創憲会議も同年、国旗国歌や領土規定、外国人の権利保護などを新設した「新憲法草案」をまとめた。
このほか、鳩山由紀夫元首相ら議員個人の試案もある。

民間では、中曽根康弘元首相が会長を務める世界平和研究所が同年、「憲法改正試案」を公表。
前文で「独自の文化と固有の民族生活」を強調したほか、
「防衛軍」の保持や憲法裁判所の創設などを訴えた。

有識者でつくる「『21世紀の日本と憲法』有識者懇談会」(民間憲法臨調)は憲法施行60周年の19年、歴史や伝統を踏まえた緩やかな政教分離規定などを盛り込んだ「新憲法大綱案」を発表した。

経済界では、経済同友会(15年)、日本商工会議所(16年)、経団連(17年)、日本青年会議所(18年)から意見書などが出されている。

報道機関では、読売新聞社が6年、12年、16年の3回、「憲法改正試案」を公表している。

◆自衛隊・天皇・PKO・9条改正で主張展開
産経新聞は昭和56年元日付年頭の主張で、新聞社として初めて憲法改正を主張した。
当時の日本の公法学者の9割が自衛隊違憲論を唱えていた状況を踏まえ、自衛隊を認めるための9条改正を訴える内容だった。
その後も憲法記念日の5月3日付主張などで、憲法改正に関するいくつかの提言を行った。
例えば、56年5月3日付主張で、天皇が元首であるという法的地位を明確にしてもよいのではないかと呼びかけた。

昭和天皇の崩御に伴うご大喪が行われた平成元年の5月3日付主張では、当時の竹下登内閣が現行憲法の政教分離規定を厳格(杓子定規)に解釈し、皇室行事の「葬場殿の儀」と国の儀式としての「大喪の礼」に分けたことを批判し、柔軟な解釈を求めた。

湾岸戦争が始まった年の3年5月3日付主張は、それまでの一国平和主義を批判し、集団的自衛権の行使や国連の平和維持活動(PKO)への自衛隊派遣などの問題に言及した。

阪神大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件が重なった平成7年には、5月3日付から3日連続で憲法問題を論じ、緊急時に首相に非常大権を与えることや自衛隊の地位を憲法で明確に規定することなどの必要性を訴えた。

9年から10年にかけ、神戸市の中学生による連続児童殺傷事件や栃木県黒磯市での中学生による女性教諭刺殺事件など少年の凶悪事件が相次いだ。
これを受けた10年5月3日付主張は、家庭教育を憲法でどう位置づけるかを論じ、両親に教育義務を課したドイツ基本法のような明確な家庭教育条項を憲法に盛り込むことを提案した。

その後、軍拡を続ける中国と核開発を公言する北朝鮮の脅威が深刻化し、
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することをうたった憲法の前文や9条の改正を重ねて訴えた。

昨年3月の東日本大震災から2カ月後の5月3日付主張は、憲法の国家緊急事態に対する規定が不十分であることを改めて指摘し、
非常時に頼りになる自衛隊を「国民の軍隊」として明記する必要性を強調した。

大阪都抗争/住民投票5月17日 公明と合意

$
0
0
■「大阪都」住民投票5月17日
…維新と公明合意
読売新聞 2014年12月28日

大阪都構想の是非を問う大阪市民対象の住民投票が、来年5月17日に実施される見通しとなった。

大阪維新の会と公明党が27日に合意した。
住民投票で過半数の賛成が得られれば、同市を複数の特別区に分割して大阪府と統合再編する都構想が実現することになる。

この日、大阪維新の橋下徹代表(大阪市長)、松井一郎幹事長(大阪府知事)らと、公明党府議団・大阪市議団の幹部らが同市役所内で会談。
維新側は今月30日に開く都構想の制度設計を行う府議、市議らの法定協議会で制度案の修正に着手し、来年1月中旬にまとめ、2月開会の府・市定例議会で採決するよう求め、公明側も了承した。

維新、公明を合わせれば、府・市両議会とも過半数に達するため、制度案の可決は確実だ。


【関連記事】↓

■橋下氏 公明幹部と会談
大阪都構想で協力要請か 

毎日新聞12月26日

大阪維新の会の橋下徹代表(大阪市長)と松井一郎幹事長(大阪府知事)は25日夜、公明党大阪府本部の佐藤茂樹代表(衆院議員)ら幹部と大阪市内のホテルで非公式に会談した。
会談では、維新側が大阪都構想実現に向け、公明に協力を求めたとみられる。
維新、公明両党は都構想の区割り案絞り込みを巡り1月に決裂。
対立が一時深刻化したが、維新が大阪で比例第1党を維持した衆院選の結果を受け、両者が関係修復を模索する動きとみられる。

都構想の協定書(設計図)議案は10月、公明など野党の反対で大阪府市両議会が否決した。
橋下氏は「公明にやられたまま人生を終わらせることはできない」と言い、松井氏とともに今月の衆院選で、佐藤氏ら公明幹部のいる選挙区から立候補を検討。
最終的には見送ったが、公明は反発した。

出馬騒動後に維新幹部と公明幹部の会談が明らかになるのは初めて。
両党の関係が修復すれば来年4月の統一地方選や都構想の行方に影響を与えることから注目される。

維新は府市両議会で過半数に届かず、都構想は実現が見通せないが、公明の協力が得られれば大きく前進する。
ただ府・市議会内で維新への反発は根強く協力を得られるかは不透明だ。

公明は衆院選では維新と対立し、府内ほとんどの選挙区で自民党候補を支援した。
統一地方選でも公明と自民は選挙協力で合意している。維新は衆院選では府内の小選挙区で負け越したが、比例で一定の影響力を見せつけた。
【林由紀子、熊谷豪、重石岳史】
 
 
サルメラ:
《 (出馬を) 最終的には見送ったが、公明は反発した》

毎日新聞はそう思いたいから、そう書くんだろうが、ホントにそうか?

大阪府議、市議は「そんなの聞いてない」んだろうが、国会での議席確保が絶対命題の中央・公明党は、橋下出馬のブラフにしっかり反応したということだ。

そして、きっと今度はしっかりと、
〝一筆〟も、もらったんだろう(笑)。
 

■橋下氏、公明幹部と会談
都構想歩み寄り

スポニチ 2014年12月26日
 
大阪維新の会代表の橋下徹大阪市長と幹事長の松井一郎大阪府知事が、公明党大阪府本部代表の佐藤茂樹衆院議員と25日に大阪市内で会談していたことが26日、関係者への取材で分かった。
大阪都構想をめぐり激しく対立しているが、停滞する都構想の実現に向け、双方が一定の歩み寄りを見せたとみられる。

関係者によると、会談は公明側の要請で急きょ実現。
公明側は、府市両議会で否決された都構想の協定書(制度案)を認める考えはないとあらためて主張。
一方で都構想に反対する自民党など他会派のメンバーも含めた法定協議会の再開を条件に、一定の協力を検討すると伝えたという。
橋下氏側は、法定協の再開に前向きな姿勢を示したという。

大阪市を特別区に分割、行政機能を再編し大阪府から「大阪都」に移行する都構想の実現には、府市両議会の協定書可決を経て、市民対象の住民投票で賛成多数を得る必要があるが、大阪維新は両議会で過半数がない。
協定書は10月に両議会で否決され、手続きは止まっている。
(共同)
 
 
サルメラ:
議席確保が最優先課題の公明党。
あとは密室で、大阪都の新しい『区割り』で、便宜をはかってやればいい。

良くも悪くも、
大阪都構想は、公明党が鍵を握ってる。
そこを的確に知る橋下が、
八方塞がりでむかえた総選挙。
〝中央より大阪都構想〟に重心を置いた、一か八かの勝負勘が冴え、
アリの一穴をこじ開けた。

それにしても、一般紙よりスポーツ紙の方が核心を突いてる・・・っていうか、
わざとボケてるんだろうな、
橋下が有利に はたらきそうな情報に関しては・・・(笑)。
 
 

■橋下氏、
一転して公明への “恨み” 否定の真意は…

デイリースポーツ 11月26日

恩讐の彼方に…何があった?

維新の党 共同代表の橋下徹大阪市長(45)は26日、
12月衆院選での公明党との全面戦争を示唆しながら、突然、撤収モードに転じたことについて

「僕の心の中の基準に照らし合わせた」

と説明した。
かねて看板政策・大阪都構想を巡る公明党との遺恨から
「人生最大の裏切りを受けた」
「絶対に許さない」
などと発言していたが、
現在は恨みはないのかと問われると

「いや、なにもないです」

と語った。
大阪市役所で記者団の質問に答えた。

橋下市長は、12年衆院選時の選挙協力の交換条件として都構想推進への協力を約束した公明党が、今年に入って反対派に回り、都構想が暗礁に乗り上げたとして憤慨。
一時は12月衆院選で、自身も公明前職がいる大阪・兵庫の6選挙区に対抗馬として乗り込む政治闘争を示唆したが、23日に不出馬を表明。

さらに維新が今回、当該6選挙区に対抗馬を擁立しないことを決めたことで、ナゾが深まっている。

記者団から撤退理由を聞かれると、橋下氏は

「それが大阪のためになる、市民のためになるからです」

と語った。
かつて
「死ぬまで公明の選挙区で立候補してやる」
とまで発言したこととの温度差を問われると
「僕の心の中の基準に照らし合わせたということです」
と述べた。

12年衆院選時の公明との “約束” は、
すでに反故にされたとの認識を示し、
今回の対抗馬擁立見送りとの関連性は
「(リンク)してません」
とした。

橋下氏は、これまで公明党に対してほかにも

「(公明との)修復がなければ一生懸けて一緒に沈んでいく」
「死ぬまで忘れない」

と猛烈な公明批判を展開していた。
しかし、この日、現在も恨みは続いているのかと聞かれると
「なにもないです。ありません」
と返した。

なお、今回の対抗馬擁立見送りに関して、公明党との交渉前進、譲歩案の有無が取りざたされているが、
これまでに橋下氏や、松井一郎・維新幹事長も「ありません」としている。

『沖縄体質』の あいも変わらずに、堪忍袋の緒もキレる

$
0
0
転載元 草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN

[沖縄]政府、一括交付金の減額検討
鉄軌道の白紙撤回も

2014/12/27

辺野古への移転がなされなければ普天間基地は固定化へ
鉄軌道白紙撤回は辺野古移転が前提

普天間飛行場の辺野古移設に反対している沖縄県の翁長知事は26日、上京して安倍首相への会談を申し込みましたが、官邸側からは日程の調整がつかないとの返答があり、山口沖縄担当大臣との会談を終えて沖縄に戻りました。

安倍首相と、仲井眞前知事との間の信頼関係に基づき、これまで沖縄振興予算は増額を続けてきましたが、政府は500億円程度の減額を視野に入れており、予算規模が3000億円に圧縮される見通しと報道されています。

また普天間飛行場の返還後、沖縄県は那覇市から宜野湾市を結ぶ鉄道の敷設を国に強く働きかけていましたが、政府側には仲井眞氏が知事選に敗れたことで、白紙撤回すべきとの声が上がっていると言います。

◆政府、鉄軌道の白紙検討
振興予算も減額
政府が沖縄への鉄軌道導入を白紙に戻す方向で調整に入った。
2015年度の沖縄振興予算も概算要求の3794億円から大幅に減額する方針を固めた。
就任あいさつで上京した翁長雄志知事は2泊3日かけても山口俊一沖縄担当相と会談したのみ。

首相や官房長官のほか、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設を担当する防衛、外務の両閣僚は日程調整を理由に会わなかった。
辺野古沿岸の埋め立てを承認した仲井真弘多前知事との蜜月関係から一転、移設に反対する翁長氏に対し、政府の冷遇が際立っている。 

◆鉄軌道白紙 調査費計上も見送るシナリオ検討
沖縄県内に鉄軌道を導入する計画について、政府が白紙に戻す方向で検討を始めたことが26日分かった。
政府関係者が明らかにした。

1兆円近い膨大な予算や事業の採算性などを理由に白紙に戻す考えだが、政府は、仲井真弘多前知事の在任中、導入に前向きな姿勢を示してきた。

辺野古新基地建設反対を訴える翁長雄志知事の就任直後の方針転換に、
「基地と振興策はリンクしない」
とする政府の姿勢が問われそうだ。

複数の政府関係者によると、鉄軌道計画の白紙化は翁長氏の当選を受けて、政府や財務省内で意見が上がり、検討を始めたという。
2015年度の調査費は計上するが、採算性の厳しさなどで導入を見送るシナリオを描いている。

財務省内では以前から莫大な予算に難色を示し、導入に消極的な意見が多かったというが
「仲井真氏が敗れたことで重い予算を担ぐ必要はなくなった」
(財務官僚)
との声が出ている。

◆振興予算
3500億円基準→3000億に
政府は2015年度の沖縄振興予算を概算要求の3794億円から大幅に減額する方針を固めた。
政府関係者が26日、明らかにした。

米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設を容認した仲井真弘多前知事時代の14年度予算では、概算要求を約52億円上回る予算を決定しており、政府の方針に反し、翁長雄志知事が辺野古移設に反対していることから減額に踏み切る考えだ。

自民党関係者によると、政府は15年度予算について、安倍晋三首相が沖縄振興予算として21年度までの確保を約束した「3千億円台」をベースに編成する見込みで、本年度の3460億円を下回る可能性がある。

26日、内閣府で翁長氏と会談した山口俊一沖縄相は「所要額を確保するよう頑張る」と述べたが、具体的な金額には言及しなかった。

菅義偉官房長官も同日の会見で、21年度まで3千億円台を維持する考えは示したが「これまでの予算の使い方をチェックした上で、ほかの予算と同様に査定していく」と減額に含みを持たせた。
(「沖縄タイムス」12月27日)

◆翁長知事、首相に会えず帰任
年明けにも再上京
就任あいさつのため上京中の翁長雄志知事は26日、山口俊一沖縄担当相と会談した。
だが要望していた安倍晋三首相や菅義偉官房長官ら他の関係閣僚との会談は設定されず、同日夜に帰任した。

菅義偉官房長官は記者会見で
「(翁長知事に)年内に会うつもりはない」
と説明。
翁長知事が反対している米軍普天間飛行場の辺野古移設について
「他の事業と同じように進めていくのが基本方針だ」
と述べ、あらためて作業を進める考え
を強調した。

翁長知事は年明けにも再び上京し、菅氏らとの会談を求める意向を示した。

菅氏は、知事の会談要求について25日までは「聞いていない」などと述べていた。
会談に応じなかった理由は明らかにしなかった。

翁長知事は26日、山口氏のほか外務省の冨田浩司北米局長、防衛省の西正典事務次官を訪問。
両省の大臣とは会えなかった。

翁長知事は関係閣僚と会えなかったことについて、内閣発足直後で閣僚らが多忙だったとして理解を示しつつ
「残念ではある。
次回上京したときにぜひ会いたい。
意見交換ができればありがたい」
と述べた。

その上で安倍政権との関係構築について
「一部誤解もあるようだが、会って話せば、国益、県益はそう矛盾しない(と分かってもらえる)」
と述べた。

山口沖縄担当相は会談で失業率や雇用問題の改善を挙げ
「上り調子になっているので、ぜひともそれを引き継いで沖縄の経済発展のために頑張っていただきたい」
などと述べた。

日程を終え沖縄に戻った翁長氏は26日夜、那覇空港で記者団に対し
「組閣などでタイミングが合わず会えなかった人もいるが、しかるべき方々に思いは伝えた」
と語った。
(「琉球新報」12月27日)
 
 
【関連】↓
 

沖縄タカリ体質

 
 
『そこまで言って委員会』12月7日
 
 
辛坊治郎:
新しく沖縄県知事になった翁長さんが、「沖縄をバカにするな、いい加減にしろ」と、言ってるんですが、どうですかね。
やっぱり沖縄の人はそういうふうに思ってるんですかね?
 
恵隆之介:
まあ、多少はそう思ってるんでしょうね。
というのはですね、沖縄県の1000万円以上の高額所得者は全国で10位になりました。
県民所得は最下位。
これ、どういうことかというと、一部の人間が発展途上国みたいに、利権を山分けしてる。
それに対して大衆は基地問題に視点を転嫁されるんですから…
こういう微妙なバランスのもとで沖縄県は成り立ってるんです。
 
辛坊:
沖縄県の高額所得者って一体どんな人なんですか。
 
恵:
公務員とか、米軍に土地を貸してる軍用地主とか、政治家とかですね。
 

加藤清隆:
(こないだスコットランドでやったような)沖縄県の独立運動、その影に中国はいるんですよ。
そこから政治資金だって、出てるフシがあるんですよ。 
 

ケビン・メア:
独立運動の裏には、日米同盟の破壊の思惑がある。
 
恵:
今回の選挙でも、毎回、沖縄戦の惨劇を強調して、また、オスプレイがいつ落ちてくるかわからん、って危機感を煽ってね、沖縄にそういう空気をつくってましたね。
 
竹田恒泰:
選挙翌日の新聞には、「翁長氏圧勝、これでオール沖縄、再び」って書いてるんだけど、確かに10万票差をつけての圧勝かも知れないけども、翁長さん36万票、仲井真市26万票。
割合から言って6対4、つまり、4割の人は反対票を入れてるわけですからね。
オール沖縄じゃないだろう、って言うんですよ。
 
恵:
翁長さんは福州市の名誉市民でもあるんですよ。
これ、親中勢力の台頭でね、かつて琉球王国を牛耳ってたチャイナタウンの復活とか、公費を使ってやってます。
 
今回、翁長氏が当選確実となったとき、中国の中央テレビで大きく、字幕スーパーが出ましたからね。
日本国内より、いま、北京の方が沖縄に関心持ってますよ。
 
 

メア:
問題は、私は沖縄は「タカリの名人」って言ったと言われてますけど、タカってるのは一般の沖縄県民じゃないんです。
政治家なんですよ。
お金もらっても協力しない。
与那国は台湾に一番近い島なんですけども、中国からくる戦闘機を監視できるレーダーを駐屯地につくろうとした時に、村長が「迷惑料を貰いたい」と発表しました。
どっちが迷惑なのか、中国の戦闘機が来るのと自衛隊と。
これが典型的なんですよ。
これからの沖縄の政治家は、ちゃんと日本人であることの認識の上で日本政府と話し合ったら、いろんな基地問題とかも解決できるはずなんです。
 
恵:
沖縄はしたたかにやってますよ。
世界一危険な基地・普天間と言いながらですね、1950年から2014年までの間に宜野湾市の人口、5.8倍に増えてるんですわ。
もちろん沖縄県の人口も増えてますよ、2倍に。
でも、普天間は突出して人口が増えてる。
なぜかといえば、2500名の地主に対して毎年約90億円の地代が入るわけですわ。
一人当たり350万円、キャッシュで入ってくる。
だから一家に2人地主がいたらね、一生、遊んで食えますわ。
 
辛坊:
これ普天間の基地が移転したら、その時代はどうなるんですか?
 
 
恵:
ゼロになる。
今ね、辺野古に反対してる人たちにカンパしてる連中がいますよ、地主の中に。
 

 
辛坊:
今回、辺野古基地への移設反対知事が誕生して、どうなりますか?
 
メア:
移設するか、しないか、それはどっちもあると思いますが、基地閉鎖は絶対ありません。
抑止力のために絶対、必要ですから。
 
 
恵:
反対派から妨害、嫌がらせを受けてね、工事はかなり遅れていくと思います。

 
長谷川幸洋:
今後、翁長さんが、方針転換する可能性はありませんか?
 
恵:
十分あると思います。
沖縄県連幹事長としてね、普天間基地の移設を一番推進した人ですよ。
 
加藤:
じゃあ、選挙は偽装だったってこと?
 
長谷川:
違う違う。
選挙は選挙で戦う。
しかし、これからの政治プロセスの中で色んなおカネが動くということ。
 
メア:
私もその可能性はあると思います。
でも、18年も続いてる問題ですから。
アメリカから見ててもウンザリなんですよ。
だからもういい。
移設するのかしないのか、ハッキリしてほしい、ということです。
アメリカからしたら、移設しないならそのほうが運営上いいんだけども、沖縄県民の負担軽減するために、ということで始まった話ではないのかと。
 
辛坊:
すると仲井真さんもそうでしたけども、翁長さんも最後はおカネで動くっていうことですか。
 
恵:
私はそう思います。
彼が選挙に出た時の秘密文書が出たんですわ。
その中に基地な反対すれば、いくらでも○○●だと…
明確に書いてますよ。
 
 
長谷川:
やっぱり。
 
辛坊:
やっぱりメアさんが言ったとおり(沖縄はタカリだと)…
 
 
メア:
いやいや、そういう侮辱的発言はともかくとして、まあ、そういうこと(笑)。
確かに沖縄の歴史見ると、基地反対して、補助金を交渉する、そういう歴史があるんです。
最後に翁長新知事にお願いしたいのは、鳩山さんでさえ、沖縄基地の必要性を理解してくれたんだから、ぜひ翁長さんにも一刻も早く理解してほしい。
 



 
 
 
 
 
 

宮崎の鶏 殺処分4万羽

$
0
0

宮崎の鳥インフル、4万羽の殺処分終了
消毒作業続く

朝日新聞デジタル 12月29日(月)
宮崎市高岡町の養鶏場で高病原性鳥インフルエンザ(H5亜型)が確認された問題で、県は29日朝までにこの養鶏場の約4万2千羽を殺処分した。
引き続き約120人態勢で、鶏の埋却や鶏舎の消毒などの防疫措置を行っている。
 
県によると、養鶏場で鶏が相次いで死んだことから28日午前、系列会社が簡易検査を実施。陽性と確認し、県に通報した。
県は遺伝子検査の結果を踏まえて国と協議し、29日午前0時から殺処分を始め、午前6時50分に終了した。
 
県は午前10時から養鶏業者らを集めて緊急の防疫会議を開催。今月中旬に延岡市で発生したことにも触れ、県畜産新生推進局の中田哲朗局長は「対策をやっても無駄じゃないかと思ってほしくない」と防疫対策の徹底を呼びかけた。
 
また、県はこの養鶏場から3キロ以内の移動制限区域内にある養鶏場5戸への立ち入り調査を始め、10キロ以内の搬出制限区域の54戸にも電話で異常の有無を確認している。
農林水産省の疫学調査チームも宮崎入りし、環境省の野鳥緊急調査チームが30日~来年1月1日まで派遣される。
 
 
心は痛むが、
かの国との決定的な違いがここにある。
 
 

繰り返される「土下座」ニュース

$
0
0

女性店員に「態度悪い」と土下座させた男女逮捕

読売新聞 12月29日(月)22時36分配信 

北海道警釧路署は29日、コンビニエンスストアで店員を土下座させたとして、釧路市若竹町、飲食店経営松永弘樹容疑者(38)ら男女4人を強要の疑いで逮捕したと発表した。
逮捕は28日付。
 
ほかに逮捕されたのは、釧路市鶴野東4、無職中新井田恵(21)、同市南大通2、会社役員壁屋朋和(38)、同市芦野5、無職菅原仁志(38)の3容疑者。
 
発表によると、4人は28日午前5時5分頃、釧路市武佐1のコンビニ店で、10歳代の女性店員に「接客態度が悪い」などと言いがかりをつけ、「若いやつ何十人も連れてくるわ」などと脅し、土下座させた疑い。
4人は遊び仲間で、調べに対して松永容疑者ら3人は容疑を認め、壁屋容疑者は「当時、酔っていて覚えていない」と供述しているという。
 
 
土下座が流行ったのは、半沢直樹からだったが、
あれは、虐げられてきたものが逆襲する痛快さゆえ。
 
弱い者イジメがさせる土下座は、ホント、
そういうニュースを目にするだけで胸くそ悪い。
 
こういうことできる奴の精神構造っていうのは、
己を知らぬ恥知らずっていう意味で、どこの国でも同じなんだろう。
 
 
 

広島県世羅高校女子生徒が韓国で・・・・

自虐史観教育反対!!! 2008/11/4(火)
 
 イメージ 1
 
 
タイトルは「修学旅行・韓国」とでもしておきましょう。
この写真や内容は10年前のものですが、今でも似たような修学旅行をしている学校は全国にあるそうです。
中学・高校の多感な時期に問題の3国に修学旅行に行かせるのと、その他の国に行かせるのとでは取り返しがつかないくらいの差が生じると私は思っています。
これらのひどい修学旅行はネット上でも簡単に検索できますので、ぜひご自分で調べて見ることをお勧めします。
 
 
【以下、女子高生の体験記】
こんばんは。初めて書き込みします。
私は高校2年で今日修学旅行から帰ってきました。
旅行は韓国に行って来ました。
初めての海外旅行で行く前はすごく楽しみだったのですが、
なんだかとてもいやな思いをしました。
誤解がないようにしておきますが、韓国の人に別に嫌な感情とか持っていません。
というより、あまり韓国に興味がなかったのです。
だけど韓国行きが決まってからいろいろ韓国の勉強をしました。
だからこそ今回の旅行は残念なことばかりでした。
 
旅行中、大きな体育館みたいなところで元従軍慰安婦のおばあさんのお話を 聞く機会があったんです。
私は昔日本の軍隊が酷いことをしたからこれは素直に申し訳ないと思います。
だからお話も真剣に聞いていました。
お話が終わって、信じられないことを私たちは要求されました。
 
司会をしていた男性が「このおばあさんに手をついて謝りましょう」と言ったのです。
???
確かに私たちは日本人だけど、どうして手をついてまで謝らなくちゃいけないんだろう、と 疑問に思っていたら先生方が
 
「それでは、みんな正座して頭を下げて申し訳ありませんと言いましょう」
 
と言いだし、先生が「申し訳ありません」と最初に頭を下げました。
突然のことにみんな少し唖然としていると、「おい、早くしないか!」と先生の怒鳴り声!
私のクラスのちょっと態度の悪い男の子達が「どうして私が土下座しなくてはならないのか!」と答えると、
体格のいい教師が強引にその生徒を座らせました。
その生徒は普段みんなに怖がられている悪い生徒でしたが、
このときばかりはみんなその生徒に同調していました。
一番頭のいい男子生徒が普段は先生に口答えとかしたとこ見たことないのですが、猛烈に先生に 抗議しました。
それに同調するかのように「私はしない」「やらない」の声があがり始めもう
周りは騒然としました。
そうしたら韓国の関係者の方々がなにやら怒りだして先生に怒鳴りつけていました。
元慰安婦のおばあさん激しい怒った口調で言っています。
それからしばらく先生の謝れというのと一部生徒の拒否で口論した後、
先生方が
「土下座ではなく座っていてもいいから頭を下げなさい。
おまえ達は 日本の恥を外国で晒す気か!」
と言って、結局、私たちは頭を下げさせられ「申し訳ありません」と謝りました。
私は納得がいかない思いでいっぱいでした。
確かに私たち日本人の祖先が過去に韓国の人に苦痛を与えたのかもしれませんがその理由で私たちが土下座をする必要があるのでしょうか?
これは修学旅行の第一日目におこったことでその後は、もうめちゃくちゃでした。
まだまだいっぱい嫌なことがありました。
友達の中には先生に切れてさらに韓国が大嫌いになった人もたくさんいます。
こういうこと(謝ること)は普通なのですか?
修学旅行から帰ってこのことを父に話したら絶対におかしいと怒っていました。
学校に抗議するといって いましたが、私はあまり騒ぎを大きくしてもらいたくないのでやめてもらいましたが。
私はあまり勉強もできなくて学校自体もそれほど偏差値のいい学校ではありませんが、初めて 真剣に日本のこと、日本人であること、韓国のこと等考えました。
私は間違っているのでしょうか?
当たり前のことなのでしょうか?
 
 
 
 
 
 

どうして「韓国」という選択肢があるのか?

転載元 韓国への修学旅行について考える 2013-07-09
 
どうして、修学旅行先に韓国という選択肢があるのか。
 
東アジアだけで見ると、やはり韓国へ行っている学校が圧倒的に多いです。
全体的に修学旅行を海外へという流れがあるのかもしれません。
たとえ公立校であっても、自校が人気校であることや、他校との差別化が目的なのかもしれません。
他国との交流、グローバル世代への対応、見聞を広めるなども理由でしょう。
 
しかしながら、全国で問題になっている事例を見ていくと、それ以外の理由がある事は明らかです。
空港利用利権や旅行業者の利権が絡んでいるもの、生徒たちを政治的に利用するもの、校長や理事長の思想信条、
 修学旅行担当者などの所謂ハニートラップ(脅迫)が原因のもの、などの悪しき動機も沢山確認されています。
それらが複雑に絡み合って、「なぜ韓国なのか?」という問を難しくしているのです。
 
生徒や保護者の心配や反対を押し切って「どうしてそこまで強硬な姿勢で?」と理解に苦しむ学校が少なくありません。
自分の学校がどういう理由で修学旅行先を決めたのか、気になるのは当然です。
そして、その理由は簡単には分かりません。
生徒や保護者の不安は募るばかりです。
 
前にも書きましたが、今は個人情報保護の壁が有り保護者同士の意思の疎通や連携が非常に取りにくいと思います。
「韓国へ行くのは反対です」なんて言ったら、どういうふうに思われるのだろう?、
「あの親は差別主義者だ」「偏狭な思想の持ち主だ」「モンスターペアレンツだ」「クレーマーだ」そんなふうに思われるのだろうか?
その事で子供が学校で不利益を受けることはないだろうか?
ほとんどの保護者はそこで黙ってしまうのだろうと思います。
それを責めるつもりは毛頭ありません。
私もすごく悩みましたし、たとえば校門前で反対のビラを配ったり、拡声器で反対を声高に叫ぶなんてことになったら、私も「無理」と言うことでしょう。^^;
 
「韓国への修学旅行」を考え直して欲しいと申し入れした以外、
実際先生とこの事について腹を割ってお話したことはないので、あくまで想像で書きますが、上に書いた悪意のある動機があるなしにかかわらず、学校側は反対意見について「あぁ、またか」「嫌韓の人はどこにでもいるな」といった感じなのでしょうか?
是非現場の先生の意見を聞きたいものです。 
 
頻繁に反対の電話、メールが来るようになると、学校側の対応も心無いものになり、頑なな態度になることもあるかもしれません。
しかし、生徒や保護者の切実な声に聞く耳を持たない学校や教師こそ、生徒や保護者にレッテルを貼り、差別していると言えるのではいでしょうか?
もしくは現実や国際情勢を客観的に見ることのできない「お花畑の住人」なのかもしれません。
 
 
 
 

大阪都抗争/記者・ヨシトミのつぶやき

$
0
0
吉富有治 ‏@yujiyoshitomi 
12月22日

「『大阪都構想は住民投票で』
維新系市民団体署名活動スタート」
と産経新聞。

――――
◆「大阪都構想は住民投票で」
維新系市民団体署名活動スタート
産経新聞2014.12.21

大阪都構想に関する住民投票を求める大阪維新の会系の市民団体「住民が決める大阪の未来委員会」が21日、大阪市内で一斉に署名活動を開始した。
同市中央区の高島屋大阪店前では、メンバーがそろいの赤い上着姿で声を張り上げ、市民に協力を呼びかけた。

午前11時ごろに同委員会代表の西尾伸介さん(41)が“第1号”として署名し、活動がスタート。
メンバーは「都構想は住民投票で決めよう」と書かれたピンク色のノボリを立て、
「実現するのも否定するのも、市民のみなさんであるべき」
などと書かれたチラシを買い物客らに配りながら、
「よろしくお願いします」と訴えた。

署名した西区の自営業の男性(54)は都構想に賛成の立場で、
「最後はわれわれで決めないと。
(議会で)数にものを言わせて否決されることがあってはいけない」
と話していた。

都構想の協定書議案は10月に大阪府、市の両議会で野党の反対で否決され、維新は都構想の是非を問う住民投票に持ち込めなかった。
同委員会が来年2月10日までに大阪市の有権者のうち約4万3千人の署名を集めれば、委員会の請求を受ける形で維新代表の橋下徹市長が住民投票を実施すべきかどうかを問う新たな住民投票の条例案を市議会に提出する。

これに対し、市議会の野党4会派は
「協定書は議会で否決され存在せず、
署名を集めても住民投票は実施できない」
などとして、署名活動を批判する見解を表明している。
(引用終わり)
――――

大都市法の規定に従うなら住民投票するには議会承認を得るしかないのだから、プレ住民投票を求める署名より大阪市会の解散を求めるリコール署名の方がはるかに現実的。

もしくは大都市法の改正しかない。
これは国政の問題。
むしろ維新の党の国会議員のお仕事。
確かに中選挙区制の市会で過半数獲得は非常に困難。
けれど府議会、市会で維新が過半数なければ協定書の議会承認は無理。
プレ住民投票条例案など可決されない状況にあって、また仮に可決されても議会が承認する道理もない中で、比較の問題として解散のほうがまだ現実的です。

大都市地域特別区設置法が求める法の手続きと、同じく法が求める議会のチェック機能を「道理」とするならば、プレ住民投票条例案が議会で可決されることはないだろうということです。
日本は人治国家ではなく法治国家。これが日本の政治です。

繰り返しますが法定住民投票へ至るには議会承認が必要です。
民意が求めているからといって議会が協定書の中身に目をつむって無条件で可決することはありません。
住民投票で都構想の是非を決めたいなら維新が府市の両議会で過半数をとる以外にありません。



MATSUOKA, Yoshiyuki @j_pinehill
ですね。
維新の総選挙の比例区の市内得票では及ばないけど、橋下市長の2期目得票だとぎりぎり解散請求の所定数36万人は満たしますものね。
RT プレ住民投票を求める署名より大阪市会の解散を求めるリコール署名の方がはるかに現実的。@yujiyoshitomi:


吉富有治 ‏@yujiyoshitomi 
12月25日
来春は統一地方選挙の年。
大阪の場合、いわゆる大阪都構想の実現の成否がかかっている選挙だろう。
維新の会にとって"関ヶ原"か、"大阪春の陣"かは知らないが、負けたら都構想は頓挫する可能性は大。
スターウォーズでいうとep6あたりか。
もっとも、どっちが帝国軍でどっちが反乱軍かは知らないが。



辻よしたか @ytsuji2001
12月25日
その通りだと思います。
RT @appleneko2: facebookの「大阪都構想勉強会」の管理運営者であり自称ジャーナリストの吉富は、大阪都構想の設計図(協定書)」は、総務省が認めたわけではないと主張している。

(以下、引用)↓
――――
https://www.facebook.com/oneosaka/posts/896200853724148

◆大阪都構想勉強会
12月24日
いわゆる大阪都構想の支持派の方々が「都構想はスバラシイ」と主張する根拠の一つが、総務省の"対応"です。

都構想の根拠法である大都市地域特別区設置法、いわゆる大都市法の手続きに従い、法定協議会で作成した協定書案は総務省に送られ、総務大臣の意見が付いて法定協に戻されました。
この総務大臣の意見について、
「総務省は承認している」
「総務省が認可している」、
あるいは
「総務省は問題ないと言っている」
といった解釈をする人が絶えず、
「だから都構想は問題ないのにナゼ反対するのか」といった主張に結びついています。

しかし、この解釈は誤りです。
総務省は協定書の中身にまで踏み込んではいないのです。
地方自治法や戸籍法、住民基本台帳法といった地方自治関連の法律と照らして実務上の支障はないか、齟齬はないかのチェックをしたにすぎません。

以下のURLにある新藤前大臣の会見をみればよく理解できます。
読売新聞の記者は協定書ついて、わざわざ「内容に問題はないのか」と確認したのですが、
新藤前大臣は「行政事務の遂行上の特段の意見はない」とかわしています。

「特別区の設置協定書案というのは、こういった区を設置することに対する、行政事務的な内容を定めたものであります」とあるように、
大阪都が実現すれば大阪が発展する、
二重行政が解消する、
あるいは住民に近い基礎自治体が出来上がるといったことにお墨付きを与えたわけではありません。
(文責Y)


【参考】
■新藤総務大臣閣議後記者会見の概要
(平成26年9月2日)
http://www.soumu.go.jp/menu_news/kaiken/01koho01_02000312.html

問:読売新聞の西山と申します。
大阪の関係です。
まずちょっと確認なのですけれども、協定書については特段の意見はありませんということなのですけれども、この中身については問題ないという御認識でいらっしゃるのでしょうか。

答:特別区の設置協定書案というのは、こういった区を設置することに対する、行政事務的な内容を定めたものであります。
この内容につきましては、これまで事前の協議があって、必要な修正は各府省の方からも出させていただいています。
で、それらを踏まえた、修正がなされてですね、行政事務の遂行上の特段の意見はないと、こういうことで、意見を出したということでございます。
ただ、それを進めるに当たっての環境と言いましょうか、この状況がですね、正常な状態を前提としています。
法律そのものが、議会が開かれないとか、それから、法定協のメンバーが通常とは違う状態になっているとか、そういったものを想定していないわけでありますから、私はそこを、別途ですね、技術的助言として、私の方から意見は述べさせていただいた、こういうことでございます。
(終わり)

――――
吉富有治 ‏@yujiyoshitomi 
12月25日
今朝の読売新聞朝刊。
一面トップに
「大阪都構想 公明 住民投票賛成へ」
「法定協再開条件に 党本部意向で転換」
という特大の記事が。
さて、これは先の衆院選でのやはり"密約"があったということか、
それとも公明の策略なのか。

もっとも記事を読むと、否決された協定書を承認し、そのまま住民投票へ持ち込むという話でもない。
法定協を再開し、そこで一から協定書を作り直した上で住民投票だから、法の筋とすれば矛盾はない。
要は、デタラメな協定書ではなく誰もが納得できるものであれば住民投票も是ということなのだろう。

ただ問題は、これまでの公明党の動きと矛盾すると見られることだ。
やはり維新と密約があったのではと疑われ、維新以外の他党からさえ"コウモリ政党"と呆れられることだろう。
公明党の府議団、市議団はどう説明するのかが今後は注目される。

一方、読売の記事によると、公明党が「方針転換」したことで、いま大阪市内でおこなわれているプレ住民投票が中止される可能性も出てきたと指摘している。

法定協で協定書を作り直すにせよ、否決された協定書の一部修正程度では済まない。
大阪府の財政問題や当初より少なすぎる再編の効果、また特別区の設置に必要な莫大なコストや一部事務組合など構造的な問題が山積している。
さらに成長戦略など都構想の思想的なテーマもあり根本的な改造が必要だろう。

否決された特別区協定書について公明党はこれまで「問題あり」と主張してきた関係上、先に上げた問題に目をつむったまま協定書を再構築することはできない。
やればこれまでの主張と矛盾する。
矛盾しないものを作ろうとすれば、協定書に記された都構想のイメージは随分と変わるものになると予想する。

――――
◆大阪都構想:
公明、住民投票賛成へ
衆院選受け方針転換
毎日新聞 12月26日

大阪維新の会(代表・橋下徹大阪市長)が掲げる大阪都構想について、対立する公明党が、都構想の是非を問う住民投票の実施に賛成する方針であることが26日、分かった。
住民投票には大阪府・市両議会で、都構想の根拠となる議案の議決が必要だが、公明などの反対により10月に両議会で否決されている。
今月の衆院選で維新が比例で府内第1党を維持し、一定の影響力をみせたことから、方針転換したとみられる。

公明は住民投票実施の条件として、都構想の制度設計をする法定協議会を再開し、協定書(設計図)を作り直すことを求めている。
公明府本部幹部は26日、毎日新聞の取材に「議論をやり直して納得できるものができれば、住民投票をしようという話だ」と話した。
一方、維新の松井一郎幹事長(大阪府知事)は26日、府庁で記者団に「30日に法定協を再開し、2月議会に議案を再提出したい」との考えを示した。

府市両議会では現在、維新は過半数に満たないが、公明が賛成すれば、過半数に届く。

関係者によると、府市両議会の公明議員団幹部が24日、公明党本部の幹部らと会談。
幹部らから、維新が求める住民投票まで協力するように指示されたという。
25日夜には大阪市内で、公明府本部代表の佐藤茂樹衆院議員、府市議員団幹部が、橋下代表、松井幹事長と会談し、こうした方針を伝えたとみられる。

公明と維新は2012年衆院選で選挙区調整し、公明が都構想へ協力することと引き換えに、維新は公明候補のいる大阪、兵庫計6選挙区に対立候補を立てなかった。
しかし、今年1月、大阪市を五つの特別区に分割する区割り案を巡り、公明など野党と維新が決裂。
橋下市長は事態打開を図り、3月の出直し市長選で再選した。
維新は法定協の委員を維新だけに改めて7月に協定書を完成させたが、都構想の根拠となる協定書議案は10月の府市両議会で、公明などの反対で否決された。

こうした状況の中で今回の衆院解散・総選挙となり、橋下市長は「公明にやられたまま人生を終わらせることはできない」と言い、松井氏とともに佐藤氏ら公明幹部のいる選挙区からの立候補を検討。
最終的には両氏の立候補だけでなく、兵庫、大阪の6選挙区でも対抗馬擁立を見送り、いずれも公明候補が当選している。

都構想の実現には府市両議会での議案の議決に加え、住民投票で有効投票の過半数の賛成が必要。
【林由紀子、山下貴史】



◆「大阪都構想」
公明が住民投票実施に賛成へ
最速ニュース(NHKニュース)12月26日

大阪府と大阪市を統合して再編する「大阪都構想」を巡り、大阪市の橋下市長らと対立してきた公明党大阪府本部は、都構想実現の是非を問う住民投票の実施に賛成する方針を確認しました。

大阪府議会と大阪市議会は、大阪維新の会と公明党を合わせると過半数に届くことから、住民投票の実施に向けて前進することになりました。

大阪市の橋下市長らと公明党大阪府本部は大阪都構想を巡って対立し、さきの衆議院選挙では、橋下市長らが公明党が候補者を擁立した大阪の選挙区からの立候補を検討した経緯があります。

公明党大阪府本部は26日に会合を開き、衆議院選挙の比例代表で、橋下氏が共同代表を務めた「維新の党」が、大阪府でもっとも多い114万票余りを獲得したことなどを受けて、党本部から都構想への対応を検討するよう指示があったことが報告されました。

その結果、公明党大阪府本部としては、都構想実現の是非について住民の意見を聞くことを拒む必要はないとして、住民投票の実施に賛成する方針を確認しました。

大阪府議会と大阪市議会は、大阪維新の会と公明党を合わせると過半数に届くことから、それぞれの議会で、都構想の設計図にあたる「協定書」が承認される可能性が高くなり、住民投票の実施に向けて前進することになりました。
(引用終わり)
――――

吉富有治 ‏@yujiyoshitomi 
12月26日
公明党本部の変節劇。
どうやら影の仕掛け人が微かに見えてきた。伏線となる話は下記の産経の記事に隠されている!?

――――

◆行使容認で避けたい決裂
最後は「やむを得ない」?
産経新聞


「情報戦」仕掛け

今年3月、永田町にある情報がまことしやかに駆けめぐった。
官房長官の菅義偉が1月、創価学会の副会長、佐藤浩とひそかに接触したというものだった。
集団的自衛権の行使容認を可能にする憲法解釈見直しに慎重な公明党を介さず、支持母体の創価学会に探りを入れたとされ「菅氏が行使容認は急がないと手形を切った」といった話が飛び交った。

公明党側が菅-佐藤というパイプを利用して「情報戦を仕掛けてきた」(官邸筋)とされる。
だが、首相、安倍晋三の姿勢は今も変わっていない。

安倍は、行使容認を可能にする憲法解釈見直しに関する与党協議を5月下旬ごろから始め、秋の臨時国会で自衛隊法など関連5法の先行改正を視野に入れる。
そうした「年内決着」のシナリオは、行使容認の論議を来春の統一地方選以降に先送りしたい党代表の山口那津男にとって「最悪のタイミング」(党幹部)となる。

「なぜ変えるか。どう変えるか。
変えた影響が同盟国の米国、近隣諸国にどういう影響をもたらすのか。
慎重に広く議論し、国民の理解を得る必要がある」

政権の“ブレーキ役”として定番のフレーズを繰り返すのはそのためだ。
4月23日夜の民放BS番組でもこう強調した。

「経済再生や震災復興といった優先度の高い政策を政府はやるべきだ。
それを差し置いて違うテーマで隙間風が吹き、連立が分裂するのは国民が許さない」

トップは水と油

もともと、安倍と山口は「水と油」(公明党幹部)。
新人議員時代に自費で中東諸国やカンボジアを視察し、防衛政務次官も務めた山口には、安倍の行使容認への積極姿勢は理念先行で、リアリティーがないように映る。
「現場に派遣される自衛官の立場になって考えないといけない」
と周囲に漏らす。

両トップが直接、本音をぶつけ合うことが難しい中、自民党は安倍の意向を受け、あの手この手で公明党を揺さぶっている。

4月3日午後。
国会にほど近いホテルに、山口と自民党副総裁の高村正彦ら与党幹部6人がひそかに集まり、行使容認をめぐり激論を交わした。
ところが「極秘会談」は、その日のうちに漏れてしまった。

「自民党が意図的に漏らし、行使容認の流れをつくろうとしている」

公明サイドの疑心暗鬼は頂点に達した。
自民党幹部に同じメンバーでの協議の打ち切りを通告した。
しかし、高村は集団的自衛権とは別のテーマで公明党にジャブを繰り出した。

自公両党の税制に関するベテラン議員が顔をそろえた4月22日の与党税制協議会。
食料品など生活必需品の消費税率を抑える軽減税率の議論だったが、高村は集団的自衛権の行使容認の範囲を必要最小限に抑える「限定容認論」にひっかけて、こう指摘した。

「対象品目を『必要最低限』に絞る軽減税率って集団的自衛権の限定容認(と同じ)ですね」

組織強化の1年

公明党は今年11月に結党50年、自民党と連立を組んでから15年の節目を迎える。来春の統一地方選での「完勝」に向けて本格的な準備に入ったところだ。
同時に、名誉会長の池田大作が率いる支持母体の創価学会も来年11月に創立85年を控え、組織強化に余念がない。
党の大事な節目の年に政府・自民党と政策課題で決裂し、“協議離婚”するような展開は何としても避けたいのが本音だ。

そうした中で行使容認をめぐる攻防が本格化する。
「官邸サイドは公明党が妥協するとみているが、それは甘い」。
公明党の幹部はそう強がるが、党関係者は冷ややかな見方を示す。

「連立を離脱したら本当に孤立する。最後はいつもの決まり文句、
『やむを得ない』
で終わるだろう」

この企画は岡田浩明、水内茂幸、佐々木美恵が担当しました。
(引用終わり)
――――

吉富有治 ‏@yujiyoshitomi 
12月26日
再開した法定協で協定書を作成し、住民投票に至る法的スケジュールについて。修正案であっても"総務大臣の意見"が必要と朝日は認識しているようだ。
まあ、その通りなんだけどね。
――――

◆大阪都構想の住民投票、公明が賛成
維新と協力へ
朝日新聞 2014年12月27日

大阪都構想の是非を問う住民投票の実施に、公明党が賛成する方針に転じた。
30日から再開される法定協議会で、都構想案の修正協議を行う予定。
大阪府・市両議会で否決され、行き詰まっていた都構想が実現に向けて動き始めた。

公明党大阪府本部の佐藤茂樹代表と小笹正博幹事長らは25日夜、大阪市内で大阪維新の会の橋下徹代表(大阪市長)と松井一郎幹事長(大阪府知事)と会談。
橋下氏らが住民投票の実施への協力を求めたのに対し、佐藤氏は「住民投票を実施することには賛成する」という考えを伝えた。

公明党と維新は都構想の議論の進め方をめぐって決裂。
維新が単独で開いた法定協で都構想案を決めたこともあり、対立が深まっていた。
10月には公明党が主導して都構想案を府・市両議会で否決していた。
(引用終わり)
――――


吉富有治 ‏@yujiyoshitomi 
12月26日
党本部と地方議員との温度差はサハラ砂漠と南極くらいの差がありそうだ。こりゃあ法定協で公明党から反乱分子が出る予感が。

――――
 
◆【都構想 公明方針転換】
府市議「撤回しろ」と怒号、紛糾  臨時会合で反発
「納得できない」 「理由が説明されていない」
産経2014.12.26

公明党大阪府本部は26日、大阪維新の会が掲げる大阪都構想の是非を問う住民投票に協力する姿勢に方針転換した経過について、大阪府市両議会の所属議員らに説明するため、大阪市内で臨時の会合を開いた。

ほとんどの議員は事前に方針転換を知らされていなかったため、一様に困惑した表情。
約1時間にわたって経過説明が行われたが、意思決定に関わった北側一雄副代表と佐藤茂樹府本部代表が欠席したため
「2人に説明させるべきだ」
「撤回しろ」
と怒号が飛び交うなど紛糾した。

会議後、市議はぶぜんとして
「納得できません」。
府議は
「理由が説明されていない。本当にこのまま進めるつもりか」
と憤りを隠せない様子だった。
――――


吉富有治 ‏@yujiyoshitomi 
12月26日
今朝の読売新聞31面。
「党本部『住民が最終判断を』」
「公明『鶴の一声』歩み寄り」
という記事を掲載。
なるほど、"鶴"の一声ねぇ。読売もうまいことを言う。

――――

◆大阪都構想 是非を問う住民投票
大阪府市議選と同日に
毎日新聞 12月27日

大阪維新の会の橋下徹代表(大阪市長)らと公明党大阪府本部の幹部らが25日夜に会談した際のやりとりが26日、判明した。
維新側は大阪都構想の根拠となる議案を2月の府・市両議会で早期に議決することを強く求めたうえで、都構想の是非を問う住民投票を、来年4月12日投開票の大阪府議選・大阪市議選と同日に実施したいと伝えた。
住民投票で有権者の関心を高めて投票率を上げ、統一地方選を有利に進める狙いがあるとみられる。
ただ、公明側は住民投票の実施までは賛成しているが、統一選との同日実施には「都構想が単一争点になってしまう」として慎重な姿勢を示している。

関係者によると、会談では、都構想の制度設計をする法定協議会を今月30日に再開させることが決まった。
都構想の協定書(設計図)も同日、提案される方針で、1月上旬に完成させるとの日程が議論された。
協定書案を早期に完成させる場合、10月に府市両議会で否決された内容から大幅な修正はしない見通し。

さらに、維新側は協定書議案について「2月中に議決を得たい」と公明に協力を求めたほか、橋下氏が「府・市議選と住民投票を同日に実施したい」との意向を示した。理由について橋下氏は「住民投票との同日実施は、選挙戦術としては当然」と説明したという。

公明府本部の小笹正博幹事長(大阪市議)は26日、報道陣に、
「大阪では維新が比例代表の第1党を取り、一定の民意がある事実を踏まえ、住民投票まで行こうと了承した」
と住民投票実施まで協力するとの党の方針を認めた。

一方で
「今の協定書に基づいた都構想は反対だ」
とも主張した。

橋下氏は26日の市長記者会見で、公明との会談について
「先方に聞いてくださいとしかいいようがない。
法定協議会でしっかり議論する」
などと語った。

都構想の実現には府・市両議会での協定書議案の議決に加え、住民投票で有効投票の過半数の賛成が必要と法律で定められている。
維新は現在、府・市議会とも過半数に満たないが、公明が賛成すれば議案は可決され、大阪市民を対象にした住民投票が可能になる。

法定協は橋下氏と松井一郎府知事(維新幹事長)、府議、市議の計20人で構成。
維新は両氏を含めて9人、公明は4人で、合わせると過半数となり、議事運営を有利に進められる。
【山下貴史、林由紀子】

(引用終わり)

――――
 
吉富有治 ‏@yujiyoshitomi  
12月27日
「ただ、公明側は住民投票の実施までは賛成しているが、統一選との同日実施には『都構想が単一争点になってしまう』として慎重な姿勢を示している」と記事。

一方、仕事納めで一息つけると思っていた府市大都市局は大慌て。
時間的な問題から否決された協定書をわずかに修正したものを新・協定書案として法定協議会に出す。
で、一部修正でどうにかなるシロモノでもないと訴えていた公明党がこれを認めたら完全な矛盾。
今になって同党関係者は頭を抱えている。



竹山おさみ(堺市長)@osamit_sakai
12月26日
今朝の新聞を読んでも公明党は協定書の中味以前に住民投票をすることを認めたようですね。
民主主義はプロセスが最も重要です。
現行協定書案を白紙撤回し、一から熟議し新案を協議することが必要です。
維新案を微修正し、両議会で多数派形成し住民投票へというシナリオが出来ているのはおかしな事です。

Toshiya Kitayama @JackKiyuna
12月27日
「党の方針が出た以上、納得がいく協定書の修正ができなかったとしても(議会で)通さざるを得ない」

――――
◆【都構想 公明方針転換】
協定書 来年2月議会で可決へ
公明、大阪府市両議会で賛成合意
産経新聞 2014.12.27

橋下徹大阪市長率いる大阪維新の会が掲げる「大阪都構想」の設計図(協定書)議案について、来年2月の大阪府市両議会で維新が、公明党の賛同を得て可決させることで公明側と合意していたことが26日、関係者への取材で分かった。

大阪都構想法では両議会の承認後60日以内に大阪市民を対象とした住民投票を実施すると規定しており、来年4月の統一地方選で行われる大阪府市議選との同日実施も可能になるが、公明側は慎重な姿勢を示しており、今後協議する。

関係者によると、橋下氏と維新幹事長の松井一郎府知事は25日夜、大阪市内で公明の佐藤茂樹府本部代表や両議会幹部と会談。
佐藤氏らは住民投票へ向けて条件付きで協力する方針を伝え、来年2月の両議会で都構想の協定書議案に賛成することで合意したという。

維新は両議会で過半数割れしており、協定書議案は10月の両議会で公明などの反対により否決された。
橋下、松井両氏は、今月30日に再開される法定協議会で公明の意向に沿って協定書の修正に応じ、来年2月の両議会に同議案を再提出。
両議会で公明と合わせて過半数の賛成を確保し住民投票実施につなげる考えだ。

2月議会最終日は市議会が3月13日、
府議会が同17日。
両議会での承認後60日以内に住民投票を行い、過半数の賛成で平成29年4月に「大阪都」への移行を目指す。

産経新聞の取材に対し、公明関係者は
「党の方針が出た以上、納得がいく協定書の修正ができなかったとしても(議会で)通さざるを得ない」
と話した。
(引用終わり)
――――


Toshiya Kitayama @JackKiyuna
12月27日
やはり人の道に反するのでしょうか。



吉富有治 ‏@yujiyoshitomi 
12月27日
ある意味、都構想は学会に救われたと言えます。
維新の支持者も感謝の題目を唱えないとね。
南無…。
@j_pinehill @tohohodan 真の意思決定をした人物はさらに影に隠れている。
――――

◆公明方針転換 内部からも反発 
自民「維新と裏取引か」
毎日新聞 2014年12月27日

大阪都構想の是非を問う住民投票について一転、歩み寄りを見せた公明党。
大阪維新の会と対立しながら、急な方針転換に公明内部からも疑問の声が上がった。
「反維新」で連携してきた自民など他党も慌ただしく対応に追われた。

大阪市西区の公明党府本部で26日、大阪府・市の議員団が集まった会議は荒れ模様だった。
「都構想は反対だが、住民投票まで持っていく。
民意をくむべきで、党本部の判断だ」。

前日に維新の橋下徹代表(大阪市長)、松井一郎幹事長(大阪府知事)と会談した幹部が説明した。
出席者からは
「納得できない」
「党幹部の国会議員が説明すべきだ」
との反発が相次いだ。
ある市議は「事前に知らされていなかった」と不満をあらわにした。

清水義人・府議団幹事長は記者団に
「協定書の中身は無理があり、
反対の見解は変わっていない。
住民投票という住民の権利を尊重することだけ、今回は決めた」
と説明した。

自民市議団も同日、対応を協議。
公明側に問い合わせると「今のままの協定書は認められない」と回答されたという。
柳本顕幹事長は
「公明のスタンスが急変したとすれば、許されないことだ。橋下氏の衆院選の出馬騒動に絡み、裏取引があったと言われてもしかたない」
と語った。

26日夜には、公明府本部幹部と自民・公明の地方議員が集まる会合があり、自民だけでなく公明の議員も、橋下代表に方針転換を伝えた公明幹部を責め立てたという。
出席した自民議員は
「最終的に支持者にそっぽを向かれるのは公明だ」
と突き放した。

維新の府議団総会では、今井豊府議団幹事長が
「衆院選の民意を受けて公明は判断したのではないか。
一つの方向性の光が見え始めた」
とほっとした様子。
ただ、住民投票で過半数の賛成を得なければいけないため、
「説明責任が問われ、大阪の将来像を説明しないといけない。気を引き締めて活動にまい進したい」
と付け加えた。

橋下代表は同日午後の市長記者会見で、何度も水を口にしながら質問に答えた。
公明との協議の経緯について
「何で秘密話を言わないといけないのか」
と明言を避け、
「オープンの場(法定協議会)で議論の経過を見てもらったらいい」
と繰り返した。
【熊谷豪、松井聡、寺岡俊、大久保昂】
(引用終わり)
――――

小川裕夫 @ogawahiro
12月27日
公明党が裏切るなんて日常茶飯事だよね。
指示母体の創価学会だって裏切りまくりなんだし

―――――

◆大阪都構想、5月に住民投票
公明了承「内容は反対」
朝日新聞 2014年12月28日

大阪都構想の是非を問う住民投票が来年5月中旬に実施されることが固まった。
大阪維新の会の橋下徹代表(大阪市長)らが27日、公明党側に提案し、了承された。
維新は都構想案を来年2月に開会する大阪府・市両議会に再提出する方針。
公明党は住民投票の実施には賛成の意向で、可決される見通しだ。

橋下氏ら維新幹部は27日午後、大阪市役所で公明党大阪府本部の小笹正博幹事長(大阪市議)らと会談。
来年の2月議会で都構想案を可決する方針で一致した。
維新と公明の会派を合わせれば府市両議会とも過半数に達している。

維新側は住民投票と4月の統一地方選の同日実施をめざしたが、統一選で都構想に注目が集まることを懸念した公明党側が反対。
実施時期を5月中旬とすることを確認した。
維新幹事長の松井一郎知事は会談後、記者団に「市民への丁寧な説明が必要だ」と述べ、統一選後に先送りすることを認めた。

来年の2月議会の会期末は大阪市が3月13日、大阪府が同17日。
都構想の根拠となる大都市地域特別区設置法では、都構想案が議会で可決した後に首長が法定協議会に通知をしてから60日以内に住民投票を実施することを規定している。


◆大阪都構想:住民投票「5月に」
…維新、統一選同時は断念
毎日新聞 2014年12月28日

大阪維新の会の橋下徹代表(大阪市長)らは27日、公明党と大阪市内で協議し、大阪都構想の是非を問う住民投票の実施時期について、当初検討していた来年4月12日投開票の大阪府議選・市議選との同日実施を見送り、先に延ばす方針を伝えた。
関係者によると、5月に実施したい意向で、17日を軸に検討しているという。

協議は大阪市議会の会派控室で非公開で行われ、維新側は松井一郎幹事長(大阪府知事)らが同席、公明側は大阪府議団と市議団の幹部2人が出席した。
松井幹事長は協議終了後、報道陣に住民投票を5月に実施したいとの意向を示したうえで、
「大阪市民への丁寧な説明が必要だ」
と話した。

関係者によると、住民投票の実施時期は、
「都構想の是非が単一争点になってしまう」
として統一地方選と重ねないよう求めた公明に配慮したという。
また、2月開会の府議会は3月17日、市議会は3月13日がそれぞれ閉会予定で、都構想の根拠となる協定書(設計図)議案の議決が会期後半になれば、周知期間が短くなるため、統一選との同時実施を避けることを決めた。

27日の協議では、協定書議案について、維新は「大幅修正は困難」との認識を示した。
2月の府・市両議会で議決することについて、公明は
「採決では賛成するが、協定書の内容を納得したわけではない」
と伝えたという。
公明党府議団の清水義人幹事長は協議後、報道陣に
「最後は住民に決めていただくという判断しかない」
と話した。

大阪市内有権者を対象とした住民投票は、協定書議案が府・市両議会で可決後、法定協議会への通知を経て60日以内に実施される。
維新と公明を合わせれば両議会で過半数に達するため、可決は確実視される。

公明は協定書議案について、府・市両議会で反対してきたが、維新との関係悪化を避けたい公明党本部の指示や、支持母体の創価学会の意向を受け、方針転換した。
【熊谷豪、林由紀子、山下貴史】
(引用終わり)


――――
吉富有治 ‏@yujiyoshitomi 
「大阪都構想、5月に住民投票 公明了承『内容は反対』」と朝日新聞。

協定書の内容には反対だが住民投票は賛成?
例えれば
「戦争反対だが某国への武力介入は賛成」
と同種のものかな。
武力介入が戦争リスクに直結することを無視した矛盾発言ですね。

一方、先の朝日の記事によると維新の会はプレ住民投票の署名活動は継続する方針なのだという。
いつ公明党が再び裏切るかという不信が根底にはあるのだが、この維新の危惧のほうがまだ筋が通っている。

その公明党はプレ住民投票条例案が議会に提案されたら賛成するのだろうか。
形式論理的には住民投票に賛成の立場ならプレ住民投票条例案にも賛成しなければならない。
だがそうなると1回あたり5億円以上もかけた似たような趣旨の住民投票を2回もすることになる。

「大阪都構想の住民投票「5月実施が有力」 府知事」と日本経済新聞。
「公明は住民投票に賛成する方針に転じたが、府議や市議の一部が反発し、調整が難航する可能性もある」と記事。

一枚岩だった同党の歴史上、今回の問題ではかつてないほど揉めている。
"反乱分子"の芽が目に見えて出てきている。
さて、今日の公明党大阪本部の会合はどうなるのか。
当方も深く静かに潜行取材中。

国家が特定の宗教に対して活動や援助、また特定宗教が政治上の権力行使をおこなうといった憲法に禁止された政教一致は、かつて内閣法制局も答弁したように、公明党と創価学会の関係において私はこれまで「ない」と思ってきた。

だが、両団体間の狭い範囲で見た場合、祭政一致は明らかだろう。
一致というより、むしろ祭(学会)の方が政(公明党)より上位の関係だ。
その宗教的権威を利用して公明党に住民投票を認めさせた維新(≒官邸)の作戦は皮肉ではなく見事というほかはない。

一方、創価学会が公明党に上意下達で、きわめて政治的な指令を与えたとなれば、これは政教一致の批判が再燃することになる。
今回の一件で学会と公明党は世間からの批判を浴び、ますます苦境に追いやられるだろう。

……おやおや、"反乱分子"たちが盛り返してきたか?
二転三転の兆しあり。
まさに一寸先は闇ですねぇ。(*´∀`)

公明党大阪本部の執行部は28日、同党と大阪維新の会が協議の上、大阪都構想の是非を問う住民投票に賛成した経緯を説明し了承を求めたが、参加した府議、市議らは猛反発。
地方自治の原則から大阪の問題は大阪で決めるとして、府議団、市議団で明日、あらためてその是非を協議することになった。

また昨日、維新の橋下徹市長と松井一郎知事、公明の清水義人府議団幹事長、小笹正博大阪本部幹事長らが会合を開き、
5月中に住民投票を開くことで一旦は合意したが、公明党の議員からは「スケジュールありきで議会で否決された協定書を微修正する程度のものを認められない」と反論が相次いだ。

このため明日開かれる公明党の議員団総会の議論の流れによっては30日から開かれる法定協議会で協定書が2月議会に間に合うよう可決されるがどうかは不透明。

公明党大阪本部で昨日開かれた臨時会合の様子を今朝の各紙が掲載。
朝日、毎日、産経は住民投票が「5月17日に実施へ」などの見出しになっている。
ただ記事を読むと、27日におこなわれた維新との会合で執行部との"合意事項"を大阪本部の佐藤茂樹代表(衆議員)が述べたものであることがわかる。

つまり昨日の臨時会合で住民投票の日程が決定されたわけではなく、実際は本日と明日の府市の議員団総会で決めるということで落ち着いた。
その背景には、都構想は国政が決めるものではなく、ましてや党執行部が維新との独自の協議で決めるべきものではないという府議、市議らの猛反発があったためだ。

各紙の記事を読むと、最終的には府市の両議員団は執行部の方針に従うのではないかという記者の見立てがあるが、私の取材ではかなり流動的という印象だ。
このままでは支持者や他党に説明ができず、地方自治の根幹が揺らぐという危惧から府市議員団は執行部と異なる決定を出すことも予想される。

一方、読売は違う記事を載せている。
それによると、公明党が住民投票に賛成したのは維新側から党本部に要請があったためと佐藤代表のコメントを紹介。
同代表は、同党と維新との間で「密約は全くない」とも説明したという。
読売の記事は5月17日に住民投票を実施するというニュアンスではない。

読売は最初にこの問題をスクープした余裕からなのか、わりと抑えたトーンの記事を載せている。
いずれにせよ、公明党府議団、市議団が法定協議会にどのような方針で臨むかは本日以降に判明する。

なお昨日の公明党大阪本部の臨時会合で、同党が方針転換した理由、また協定書には反対だが住民投票には賛成という主張は論理矛盾ではないかという参加者からの質問に対して、佐藤茂樹代表や清水義人府議団幹事長、小笹正博大阪本部幹事長ら執行部らは押し黙ったまま明確に答えられなかったという。

参加した複数の公明党の府議、市議らは今回の問題について
「公明党全体の方針とはとても思えない。
一部の者の勇み足ではないのか」
との疑念を隠さなかった。
――――

◆「都構想には反対」確認
住民投票賛成で公明市議団
時事通信 12月29日(月)

大阪府と大阪市を再編する大阪都構想をめぐり、公明党大阪市議団は29日、大阪市役所で会合を開き、都構想の賛否を問う住民投票の来年5月17日実施を目指す一方で、構想自体には反対する方針を確認した。

公明市議団の待場康生幹事長は記者団に、住民投票実施に賛成する方針に転換した理由について、衆院選で維新の党が大阪府内の比例第1党になったことなどを挙げ、
「党本部から提案があった」
と説明した。

一方、反維新で公明と協力関係にある自民、民主系、共産の市議会各会派も29日に会合を開き、公明の決定を強く批判。

自民党市議団の柳本顕幹事長は記者団に「(都構想の)中身に反対しながら投票を認める立場を取るのは明らかに論理矛盾。到底理解できない」と憤った。
(引用終わり)

――――
 

吉富有治 ‏@yujiyoshitomi 
 「住民投票認める公明『都構想への反対変わらず』」と読売新聞。
 
「反対の賛成なのだー」というバカポンのパパになってしまった公明党は記事にもあるように、
市議団幹部は「徹底的に反対キャンペーンを張って」住民投票で反対票を獲得したい、と語っている。
 

◆住民投票認める公明「都構想への反対変わらず」
読売新聞 2014年12月29日
 
公明党大阪市議団は29日、大阪都構想の是非を問う住民投票を来年5月に実施するために、大阪維新の会が提案する制度案に賛成することを確認した。
 
その上で、「都構想自体には反対」するとして、住民投票では反対キャンペーンを展開する方針も決め、自民、民主系、共産の野党他会派に伝えた。
ただ、他会派からは「矛盾しており、理解できない」と批判の声が上がっており、混乱が続きそうだ。
 
公明党市議団はこの日、市役所内で議員団総会を開催。「党本部の意向を踏まえ、最終的には住民が決定するべきだ」との見解をまとめ、住民投票の前提となる制度案の市議会採決で、賛成に回ることを確認した。
採決では党議拘束をかける。
維新は少数与党で、公明党が賛成すれば可決される。
 
公明党市議団はその一方で、「制度案(都構想)への反対姿勢は変わらない」との見解も公表。
市議団幹部は総会後、記者団に
「5月の住民投票で橋下市長に退場していただこうと思う。
徹底的に反対キャンペーンを張って、他会派とも協力したい」
と述べた。
 
 

吉富有治 ‏@yujiyoshitomi
住民投票が実施となればマスコミも都構想を正面から取り上げざるをえない。ただし、マスコミは中立を装うだろう。反対キャンペーンと言っても所詮は声のデカい方が勝つ。

一方、今朝の朝日新聞3面は来春の統一地方選に触れている。衆院選比例票を基にした朝日のシミュレーションでは自民と公明が協力すれば大阪府議選の1人区では自公が圧勝、維新は2議席しか残らない。逆に維公となると自民は3分の1以下になる予測。こちらでも公明をめぐり自民と維新の綱引きが続く?

 
先ほど「反対キャンペーンと言っても所詮は声のデカい方が勝つ」と書いたところ、「正しいものが勝つ」といった批判的なご指摘を頂戴しました。
「正しいものが勝つ―」。
一見、その通りなのですが、政治の世界は仮面ライダーやテレビドラマと違って必ずしも正しいものが勝つわけではありません。
自公政権を破って誕生した民主党政権を考えてみれば理解できます。
むしろ「その時代に正しく思えたものが勝つ」が正確でしょう。かつて太平洋戦争に突入した日本でも英米との戦いは当時なりの"大義"があったわけですし、大半の日本人は戦争は正しいと考えていたわけです。
しかもこの時代、マスコミは政府の統制下にあり、国家の「声」のほうが戦争反対を訴える「声」など掻き消すくらいデカかったわけです。その意味で「声がデカい」というのは内容が「正しい」「正しくない」ではなく、伝搬力や宣伝力のある者が勝利するという政治ゲームの法則です。
後世になって太平洋戦争が間違いだったと気がついても、その瞬間に生きた人間が誤りに気がつくことは稀でしょうし、当時の世相を考えるならば反対の声を挙げることは生命の危機にも通じたわけです。
一般的に言って、その時代に正しいと思えたものの行き着く先を見抜くことはかなりの困難です。
特に政治の世界では、そのときは正しく思えても後になって誤りだったと気がつくことなど山のようにあります。
もちろん逆もありますし、正しいことは正しいままだったという普遍性を持つことも少なくありません。
いわゆる都構想の是非を問う住民投票がおこなわれるに際して賛成派、反対派は熾烈なキャンペーンを繰り広げることでしょう。
果たしてどちらが有権者の心をつかむのか、いまはわかりません。
必ずしも「正しいから勝つ」というものでもありませんし、「正しくないから負ける」といったものでもありません。要は"声のデカさ"こそが勝敗の決め手なのです。
 
「反対の賛成なのだ―」は、ご存知バカポンのパパの名(迷?)セリフ。
果たして公明党は"天才"なのか"バカ"なのか。
答えはこれから出る。

風邪は神様が与えてくれた最高の良薬

$
0
0

■風邪は神様が与えてくれた最高の良薬

 
転載元 EO健康

空気が乾燥する季節になると、風邪が流行しますね。
あるデータによれば風邪は1人当たり1年間に平均6回をひいているともいわれ、人間にとって最も身近な疾患であるといえます。

自分でも「風邪をひきやすい」と自覚し、この季節には念入りに手洗いをしたりマスクをしたりする人もいるでしょう。
しかし周囲を見回してみると、しょっちゅう風邪をひく人もいれば、全く風邪をひかない人もいる。
この2者の違い、
それは「免疫力」です。
今年の冬は免疫力をアップさせて、風邪をひきにくい体質を目指しましょう!



くしゃみ、鼻水、鼻づまり、のどの痛み、咳、発熱、頭痛、全身倦怠感など、いわゆる風邪の症状が現れるものは、医学的には「風邪症候群」と呼ばれています。
風邪症候群の80~90%の原因がウイルス。
ウイルスは空気中の水分が多いと、チリやほこりと一緒に地面に落ちてしまいますが、乾燥していると空気中に長時間漂っていられます。
空気が乾燥する季節に風邪が流行るのは、これが一因だと考えられています。

「風邪の特効薬を発明したらノーベル賞もの」と医師の間では まことしやかに言われています。
「風邪薬なんていっぱいあるじゃない?」と思うかもしれませんが、病院で処方されたり市販されている風邪薬は、症状をやわらげたりおさえたりするだけのもの。
インフルエンザウイルスなどウイルスの増殖をおさえる薬はありますが、ウイルスを死滅させる薬は現在のところないのです。

では、薬で殺すことのできないウイルスを、人間はどのようにして撃退しているのでしょうか。
それこそが、人間の体に備わっている「免疫力」。
風邪薬で鼻水・発熱などの症状を和らげることはできますが、最終的にウイルスを撃退しているのは、自分自身の体だということになります。



「免疫力」とは、
「外から入ってきた外敵を退治して、体の健康を維持する力」のこと。
人間の体は約60兆個もの細胞からできていて、その細胞一つ一つに、「これは自分の細胞である」ということが認識できるようなシステムが備わっています。
そこに自分の細胞ではない “異物” が入ってくると、これを排除しようとします。この機能が免疫です。

人間の体は常に免疫によって守られています。
周囲には数多くの病原菌や病原ウイルスが存在していますが、自分でも気づかないうちにそれらの侵入を監視し、排除しようと戦っているのです。
逆にいえば、この免疫システムが壊れてしまうと、外敵からの侵入・増殖を許してしまい、これまで病気を引き起こさなかったような病原菌・ウイルスなどによって、死に至ってしまいます。
人間には体を健康に保とうとする素晴らしい機能が備わっているのです。


風邪の症状となる、くしゃみ、鼻水、咳、発熱、下痢、嘔吐も、
すべて免疫による反応です。

たとえば、鼻粘膜についたウイルスを追い出そうとする反応が、くしゃみ、鼻水。
胃や腸からウイルスを追い出そうとする反応が下痢、嘔吐です。
さらに発熱も免疫反応の一つ。
ウイルスは体温が37度前後だと活発に活動しますが、体温がさらに上昇すると、ウイルスは熱に弱いためその増殖は抑えられていきます

「風邪のとき、薬などで無理に熱を下げるのはよくない」
と言われることがありますが、これは免疫機能に相反することをしてるため、ということになります。

免疫力が高い人は、ウイルスが入り込んだとしても、くしゃみや鼻水などによってウイルスを追い出すことができるため、比較的軽い症状ですんだり、症状すらでない場合もあります。
しかし、免疫力が弱まっている人は、ウイルスが入り込んでしまうとウイルスを追い出そう、増殖を抑えようという力がうまく働かず、さまざまな症状がでてしまいます。



最近の一般内科医へのアンケート調査によると、医師の5割以上が「最近、免疫力が弱まっている人が増えている」と感じている、という結果がでました。

その最大の要因は何か?
の質問に対しては、
「ストレス」がダントツの1位に。
ストレスによって自律神経のバランスを乱し、それが免疫力低下につながると考えられています。

また、加齢も免疫力低下の要因の一つ。
人間は20歳を過ぎると少しずつ免疫力が落ちていきます。
高齢者が病気にかかりやすいのは、免疫力の低下も一因にあると考えられます。

免疫力低下のサインとしては、
「疲れやすくなった」
「口内炎になりやすい」
「肌がカサカサしてきた」など。
これらのサインを感じたら、現在の生活を見直してみましょう。



免疫力と体温には深い関係があります。
自分の平熱より1度下がると免疫力は3割低下し、
1度上がると5~6倍アップすると言われています

よって、平熱が高い人ほど免疫力が高いといえるでしょう。
ちなみに免疫力が最もよく保たれるのは、わきの下での体温が36.2~36.3度、舌下なら36.5~36.7度くらいです

ここ10年で、平熱が35度台またはそれ以下の「低体温」の人が増えており、知らず知らずの内に体が冷えている場合もあります。
腹巻をする、靴下を履くなど冷えない工夫をするほか、アイスクリームや冷たいジュースなど冷えた食べ物・飲み物はできるだけ避けて、体を温める食べ物をとるようにしましょう。
さらに体を動かすことでも体は温まります。
適度な運動を心がけましょう。

◆新しいスタイルの温泉浴「プチ湯治」
週2回だけ、入浴法を少し変えるだけで、免疫力を高める効果が期待できます。

近年、体を温めることで増えるHSP(ヒートショックプロテイン)というたんぱく質が注目を集めています。
HSPはウイルスを攻撃する白血球に働きかけ、外敵を退治する能力を大幅にアップさせることが報告されています。

入浴前に500mlの水分(常温)を補給。
湯温42度で合計約10分入浴。
首までお湯につかり、舌下で体温を測り38度を目指す。

(熱さに弱い場合は40度からスタートし徐々に湯温をあげていく。
暑くなったら風呂から出てもOK。
無理をしないこと)

入浴後は素早く体をふき、毛布や布団などで10分間保温。
その後水分補給。

※注意:高温の入浴は心臓に負担がかかります。
また入浴後、のぼせたり、ふらついたりする場合があるため、くれぐれも無理をしないようにしましょう。

「湯治(とうじ)」とは、温泉の効能によって体調を整え、病気やケガの治療に役立てるような温泉療法を言い、医学的に認められた医療法のひとつです
最近では、病気やケガの本格的な治療を目的とした湯治ではなく、生活習慣病の改善やストレス解消・疲労回復を目的とした「プチ湯治」が注目されています。

免疫にとって、ストレスは大敵です。
昔から「病は気から」と言われますが、近年、ストレスと免疫力の関係が科学的に解明されています。

人は強いストレスを受けると、まず自律神経のバランスが崩れ、副交感神経が不活発になるため、食欲不振と血行不良を招きます。
そして、栄養バランスが悪くなり、免疫機能の中心となるリンパ球にも影響を与えます。

また、ストレスの刺激は、ストレスホルモンと呼ばれる「コルチゾール」などのステロイドホルモンを放出し、リンパ球を不活発にさせ、免疫力を低下させます。

何をストレスと感じるかは、性別や年代、立場などによって異なりますが、ストレスを蓄積させないためには、「休養」が大切です。
脳は眠っている間に、さまざまなストレスを解消しています。
ストレスが溜まってきたなと感じたら、積極的に良質な睡眠を摂るようにしましょう



1日の凝りをリセットするエクササイズ体の疲労とストレスによる心の疲労に。
心もほぐしてリラックスしよう。

サーキットダイエットプログラム2全身の筋肉に働きかけるエクササイズ。
汗と一緒に、ストレスを体の外へ追い出そう。



免疫力を高めるために、これだけを食べればいい、という食品は実はありません。

たとえば免疫細胞をつくる素となるのはたんぱく質。
たんぱく質が不足すると免疫力が低下してしまいます。

さらに外敵から最初に体を守ってくれる粘膜を作るのにかかわっているのがビタミン。
さまざまなビタミンを摂取することで、免疫細胞が守られています。

またファイトケミカルという成分もあります。
ファイトケミカルとは植物由来の化学成分のこと。
ポリフェノールやタンニンなどがそれにあたり、免疫力を高める効果があるといわれています。

このように、さまざまな栄養素をバランスよく摂取することが免疫力アップには大切だということになるのです。

免疫細胞の約7割は腸に集中しています。
つまり、腸内環境を整えることは、免疫力アップの近道といえるでしょう。
腸内環境を整えるには、腸内の善玉菌を増やし悪玉菌をおさえる必要があります。
そのために効果的なのは、ビフィズス菌を含むヨーグルトを食べること。
腸内環境はおよそ1週間でかわるといわれているため、同じ銘柄のヨーグルトを1週間食べ続け、お通じの具合などを確かめてみましょう

 
◆風邪は予防薬
風邪をひくと、ほとんどの人は市販の風邪薬を買うか病院に行って薬をもらって風邪の症状を抑えます。

「風邪の症状を抑えるとはもったいないことをするのですね。」
と言われましたら皆さんはどう思われますか。

「何を言っているのだろう。この人は…」
と思われると思います。

それもそのはずです風邪の症状をいいと思う人はいないでしょう。
でも、その症状が病気、特にガンや脳溢血を予防したり治してくれたりしてくれるとどうでしょう。
「もったいない」と思われるのではないでしょうか。

風邪の下痢や咳、食欲不振、熱などの症状、特に発熱が様々な病気を治してくれるのです。
風邪の症状は必要があって出るのですから、その症状を薬などで抑えない方がいいようです。

「ドイツの医科大学のイセルス教授というニンジンジュースを基本にガンの自然療法をしている先生の言葉で
『世界には二人の名医がいる。
それは食欲不振と発熱だ』
というものです。」
(『東洋の智恵は長寿の智恵』渡部昇一・石原結實共著・PHP研究所・P.161)

風邪をひいたら食欲がなくなり熱が出ます。
このような風邪の症状など病気を治そうと出てくるものをいやなものとして薬で抑えてばかりいると、 将来癌などの大きな病気を作ってしまいます。

「癌になる人とか脳溢血になる人とかいうのを丁寧に見ると皆、共通して風邪も引かないという人が多い。
長生きしているしている人を見ると、絶えず風邪を引いたり、 寒くなると急に鼻水が出るというような、いわゆる病み抜いたという人である。」
(『風邪の効用』野口晴哉著・全生社・P.21)

「そうは言っても私は風邪をひかないのですが」
という人がおられると思います。

「人間が風邪を引くという働きを持っていながら、 なぜ体が硬張って行くのかというと、風邪を治したり、風邪を予防したり、 風邪に鈍くなるようなことを講じているからです。
例えば冷水摩擦やいろいろな鍛錬をして風邪を引かなくなったとしても、 それは体中顔にしてしまったようなもので、まあ川越人足と同じようなものです。
脳溢血などをやる人を見るとそういう冷水摩擦組というのが非常に多い。
いや、冷水摩擦に限らず、体や心を硬張らせ鈍らせた為という人が多い。
肩が凝るとか首が凝るとかという事を感じている内は倒れないけれども、 そういうのを感じなくなるとパタッと行く。」
(『風邪の効用』野口晴哉著・全生社・P.22)

風邪をひかない人は身体が鈍くなっている人です。
身体が鈍くなると病気や異常なども感じなくなり自分は健康だと思っている。
そういう人は得てして大病で突然倒れるというようになるそうです。
脳溢血になった人の過去をよく観察すると、ある時期から突然風邪をひかなくなっているそうです。

このように鈍くなっている人も風邪をひいて、 その風邪を上手にやり過ごすと鈍かった身体が敏感になり、 血管の弾力がなくなり血圧が高い人は血管が弾力を回復して血圧が低くなったりするそうです

ガン細胞は39.3度以上の高熱になると死んでしまいます
だから風邪をひき高熱を出せばその結果、脳溢血の予防やガンの予防にもなります。

「だからいろいろな病気を治す方法よりは、風邪を上手に経過する生活法と云いますか、 それを会得しておけば、癌になるとか、脳溢血になるとか、そういう麻痺した体も正すことが出来る。
従ってそういうような病気にならないで済む。」
(『風邪の効用』野口晴哉著・全生社・P.26)

風邪をひくと治るまで時間がかかりますが、野口さんの言われる「風邪をうまく経過させる」 方法を会得しておけば風邪も早く治ります。
そして風邪が治った後は体が敏感になり体がすっきりするそうです。

◆病気の原因は食べ過ぎと冷え
「かぜにしてもガンでもリウマチでも、すべての病気にかかると動物や人間は発熱しますし、食欲もなくなります。
これは、体内の老廃物を燃やし、胃腸を休ませ、消化活動に使われるエネルギーを病気治癒の方向に向けようとする反応です。
と同時に、食を断つことで、病気のもとである老廃物、酸毒物を、 これ以上体内でつくらせまいとするのです。」
(『東洋の智恵は長寿の智恵』渡部昇一・石原結實共著・PHP研究所・P.162)

現代医療は発熱などの症状を悪として抑え、
現代栄養学は食べないと体力がなくなり弱り病気に負けてしまうと食べさせる。
これでは治る病気も治りません。
お医者さんは風邪をひいたときには「栄養のあるものを食べて寝ていなさい」と言われます
しかし、栄養のあるものは消化の悪いものが多いので風邪をかえって悪くすることがあります
病気の時にはむしろ何も食べないか、おかゆのような消化のいいものを少し食べるほうが早く治ります

「『まあ、もったいない。
無農薬の野菜は高いのよ』
と残り物も全部たいらげて、またまたウエストが太くなり、ついに膠原病という難病になりました。
断食や玄米がゆの食事を指導してくださった大阪の甲田光雄先生に、
『今まで、ずいぶん、たくさん食べてきましたな』と笑われました。
断食と玄米のがゆ、西式の体操などで病状も改善し、まったく役にたたなかった両手が、 ウソのように回復したいま、体重は10kg落ちました。」
(『おかゆ一杯の底力』境野米子著・創森社・P2)

食べ過ぎると消化と排泄がスムーズに行われなくなります。
そのため便秘などになり腸の中で腐敗がおこりガスが発生し放出されないガスは肺へ送られ血中に入り血液が汚れます。 これが万病の元となります。
昔から健康のためには腹八分の食事がいいとされているのはこのためです。

中国では風邪をひいた時には胃腸病にいいセンブリをよく処方するそうです。
これからも わかるように食べ過ぎからくる胃腸の乱れを治すことが最前の処置だということです。
 
「食物を摂ると、人間は体中の機能、とくに消化・吸収機能をフル回転させます。
そのために、排泄させる機能は低下します。
つまり、過剰な摂取は排泄を抑えてしまうのです。
ですから、反対に食物の摂取をやめると、 ふだん食べ過ぎて処理しきれずに体内にたまっている老廃物が排泄され、自然治癒力が高まります。」
(『東洋の智恵は長寿の智恵』渡部昇一・石原結實共著・PHP研究所・P.27)

人類は約200万年の間、飢餓との戦いでした。
そのため人の体は飢えに耐えるような体質になっていて過食には非常に弱い体質になっています。
過食には弱いのにここ数十年間は人類が今まで経験したことのない飽食の時代に入り、 飢えに強い体質はこの過食について行けなくなり様々なトラブルを起こすようになりました。
大食いの人はよく風邪をひきます。
これも食べ過ぎるために治癒力が低下するためです。

◆風邪は何故ひくのでしょうか
「頭を使い過ぎて頭が疲れても風邪を引く。
消化器に余分な負担をかけた後でも風邪を引く。
腎臓の働きを余分にした後でも風邪を引く。
とにかく体のどこかに偏り運動が行われ、働かせ過ぎた処ができると風邪を引く。」
(『風邪の効用』野口晴哉著・全生社・P.27)

偏った体を治そうとして風邪をひきます。
だから、風邪をひいたら体のどこかに無理をしていると思って下さい。
そのように偏りが出てきた時に体がすぐに反応するような敏感な人ほど風邪をよくひきます。
風邪をよくひく人は体が敏感な証拠で敏感な人ほど大きな病気はしません

しかし、風邪をひいたら薬などで症状を抑えてしまえば体は偏ったままなのでまた風邪をひいてしまいます。

「風邪を引くような偏り疲労を潜在させる生活を改めないで、 風邪を途中で中断してしまうような事ばかり繰り返しているのだから、 いつまでも体が丈夫にならないのは当然である。」
(『風邪の効用』野口晴哉著・全生社・P.28)

風邪をひくことは悪いことではなく、
生活の乱れで体に異常が出てきたためその異常を正すためにひく訳ですから、
風邪をひくような生活を改めて正しい生活をすることが病気の予防になります。
風邪をひくこと自体、治ろうという要求です。

「怪我でも、治すまいと思ったら絶えず傷つけていなくてはならない。
油断していると治ってしまう」
(『病気は怖くない』志賀 勝・はまの出版・P.104)

体は元々自分で治すようにできています。
だから体に任せるようにする方がいいのです。
風邪薬などで中断させることは病気を内在させることになります。
風邪をひくことを嫌がらないで積極的にひくようにした方が体を正常に維持してゆくためにいいことだと思います。

「一端方向づけられたら、意思でどんなに努力してもその空想には勝てない、 結局空想が方向づけられた方向に体の動きは行ってしまうということです。
寒いから風邪を引くと思っているお母さんの子供程、寒いと風邪を引く。
栄養が足りないと風邪を引くと思っているお母さんの子供程、栄養が悪いと風邪を引く。
寝相が悪いと風邪を引く、
コタツに入っていると風邪を引く、
ぬるい湯に入ると風邪を引く、
と言ってそれを警戒している人達程、
そういうことで風邪を引く。

それでいて私共のように、風邪を引いたらそれを機会に体を治そう、 癌になるような鈍い体にならないように上手に経過しようと思っていると、 今度は風邪の方が意地悪をしてついてこない。
だから風邪を引こうなどと決心したら最後、風邪はなかなか引けないのです。」 (『風邪の効用』野口晴哉著・全生社・P.163・164)

風邪をひく前は寝相が悪くなるそうです。
寝相が悪くなるのは潜んでいる偏り疲労が徐々に快復しようとして体を動かすのです。
しかし、寝相が悪ければ風邪をひくと思っている人は寝相を良くすると風邪をひかないと思い寝相を良くしてしまいます。
そうすると偏り疲労が快復しないので大きな病気をしてしまいます。
 
何々をすると風邪を引くと思っているから風邪をひいてしまうのです。
風邪をひかないように予防注射して風邪を予防しようとするような受け身の考え方が風邪をひきやすい体にしているようです。

◆風邪はどうして体にいいのでしょうか
「上手に風邪を引くと古い病気がいろいろと治ります。
私は昔、喘息を治すのに迷走神経を調整したりいろいろな事をやって骨を折りましたが、 近頃は風邪を引くのを待っている。
(中略)
リウマチなどでも風邪を引きさえすれば治る。」
(『風邪の効用』野口晴哉著・全生社・P.105・106)

風邪は体に異常があるとひくらしいのです。
その異常を治すために風邪をひき、発熱や発汗、鼻水、咳、下痢などをして、 体に蓄積している老廃物を体の外に出すことにより体を正そうとするようです。
「よくなろうとするときは必ず熱が『出る』、淡が『出る』、下痢が『出る』、発疹が『出る』という風に、 『出る』現象のオンパレードになります。
『出す』ことでよくしようとしているのです。」
(『東洋の智恵は長寿の智恵』渡部昇一・石原結實共著・PHP研究所・P.110)

アトピーは体に蓄積している体に不要なものを皮膚を通して体外に出そうとして起こる現象だと私は解釈しています。
しかし、現代医療は体が治そうとして熱など様々な排出症状自体を悪として出す症状をすべて抑えてしまいます。

考えて見て下さい。
便や尿は体に不要だから体外に出すために起こる「出す」作用です。
特に下痢は体に入ったO157のような病原菌を出そうとして起こります。
しかし、それすらも現代医療は悪いこととして抑えようとします。
O157の集団食中毒の時、下痢止めの処置をした病院がありましたがそのことが悪い結果を招きました。
体が非常に疲れているときにも食欲が無くなったりしても下痢をする事があります。
これもエネルギーを食べ物の消化に使わないで、 体を回復させるためにエネルギーを使うために食欲不振や下痢の症状を起こします。
下痢は体が出す必要があると体が判断したから出しているのに、人間の浅知恵でそれを止めてしまい自然摂理に逆らうから悪い結果を招きます。
便や尿が出ないことは体に悪いことと理解できると思います。
便や尿は毎日起こっている「出す」症状なので当たり前のこととして捉え悪いとは思っていません。
しかし、風邪を引いたときに出る症状はあまり日常性がないのでそれらの症状を悪い物として抑えようとします。

特に風邪は他の病気に比べて「出す」症状が多い病気です。
だから、皆さんは慌てるのだと思います。
便や尿と同じように出すこと自体は決して悪い事ではありません。
むしろ良いのですから積極的に出して下さい。
そしてもう一つ発熱と同じくらい重要なものに発汗があります。
この汗も体にとって不要な合成化学物質などを排出してくれるような非常に重要な役割を果たしています。
しかし、 現代生活はこの汗までもエチケット違反として悪者扱いをして制汗剤で抑制するようにコマーシャルで脅迫しています。
他にも、夏はエアコンなどで体を冷やし汗をかく環境にありません。
そして、昔ほど体を動かしませんので汗をかく機会は非常に少なくなっています。
その上、風邪を引いたときに解熱剤を飲み発熱を抑えますので汗もかきません。
このように現代生活は体から汗を「出す」ことが少なくなっています。

◆風邪は体から様々な物を出す症状が多いから体にいいのです
「熱はウイルスを退治する免疫反応を高める。
しかし、熱の作用はそれだけにとどまらない。
癌や肝炎に抗するインターフェロンの役割が知られるようになったが、 三十九、四十の熱は、インターフェロンの生合成(身体内部での化学合成のこと) を高めることが知られるにいったてる。
熱を出すことが癌に対しても有効なことがわかってきたわけだが、 このように生体の活動を活発にする熱は、癌だけではなく、 身体の病気であれ、疲労であれ、歪みであれ、これらを正すのに重要な役割を果たしているのかもしれない。」
(『病気は怖くない』志賀 勝・はまの出版・P.111)

風邪をひいた時や他の病気になった時、 熱が出れば熱を悪いものとして下げようとしますが発熱には計り知れない効用が隠されています。
解熱剤で熱を下げることがいかに愚かなことかお分かりだと思います

◆ではどのように治せばいいのでしょうか
「風邪を引いた時に食物を少し減らすというのはごく良いことです。
水分の多いものを食べ、刺激性の食物を多くする。
病気といえばすぐに刺激性の食物を慎むべしと考えていますが、風邪を引いた時には刺激性の多い物が良い。
生姜でも唐辛子でも胡椒でも何でも構わない。
ウンと胃袋が冷汗をかく位突込んでもいい。
その方が経過を早くします。」
(『風邪の効用』野口晴哉著・全生社・P.102)

「かぜにしてもガンでもリウマチでも、すべての病気にかかると動物や人間は発熱しますし、食欲もなくなります
これは、体内の老廃物を燃やし、胃腸を休ませ、 消化活動に使われるエネルギーを病気治癒の方向に向けようとする反応です。
と同時に、食を断つことで、病気のもとである老廃物、酸毒物を、これ以上体内でつくらせまいとするのです。」
(『東洋の智恵は長寿の智恵』渡部昇一・石原結實共著・PHP研究所・P.162)

どちらも食事の量を減らすように言われています。
風邪をひいた時も他のどんな病気でも同じですが食べる量を減らすことが基本です。
その上で風邪や他の病気の治療をすれば早く治ります。



風邪の時にはお風呂に入らない方がいいと言いますが、野口さんは風邪の時には大いに風呂に入ることを勧めています
湯の温度の効果は肌を刺激し体の外部、内部の運動を多くして汗をかきますのでいいそうです。
野口さんは赤ちゃんが風邪をひいたら風呂に入れて治されて来たそうです。
但し、寝る直前の入浴は体温調節が出来ないので止めるように言われています。 特に小さなお子さまは体温調節が未発達なので寝る直前の入浴は良くありません。

「どういうのがいけないかというと、まず寝際にはいることはいけない
よく温まって寝るといいと言うのですが、お酒の徳利じゃあるまいし、 温まっただけ冷えるに決まっているのです、人間の体は……。
それもただ冷えるだけではなく、冷えすぎになるのです。
起きていればそれの調節が付くが、寝ている時では調節が付かない。
だから寝際に入るというのは極く疲労した体を弛め休める、そういう時に限られる。
ちょうど、野菜のアク抜きのように、疲労している物質をとるという意味では、ぬるい湯に長く入るというのはいい。」 (『風邪の効用』野口晴哉著・全生社・P.69)

では、どの位の温度のお湯に入ればいいのかということになります。
正常な大人の標準は42度から45度の間だそうです。
40度、41度はぬるすぎるそうです。
42度が熱く感じるのが正常な大人の感覚だそうです。

「風呂の適温は、体が疲れを増すに従ってだんだん高くなってくる。
四十五度以上になれば老衰症状というよりも、体に非常に疲労物質が多くなったということである。」
(『風邪の効用』野口晴哉著・全生社・P.71)

42度という温度は子供には熱すぎますので注意して下さい。
適温は年齢や個人差によって違います。
適温に入ると皮膚が赤くなります。
それがその人の適温です。

「体に何等かの故障があると、頭では熱いとか、ちょうど良いとか思っているのに、 体の或る部分だけはそれを適温と認めない、つまり赤くならない場処があるのです。
例えば風邪を引くと片方の足が赤くならないとか、消化器が悪いと両方の膝の下が赤くならないとか、 食物に中毒していると背中の真中だけが赤くならないとかいうように、 感受性が鈍っている場処、あるいは疲労物質が溜まっている場処というのは、 体全体を風呂の中にいれてもそこだけが赤くならない。」
(『風邪の効用』野口晴哉著・全生社・P.77・78)

その反対で体の一部分が特に赤くなっているというのも その場処が異常なのだそうです
風邪のひき初めや風邪の時には適温が上がります。
そして体に赤くなる処と赤くならない処ができ、特にどちらかの足が赤くなりません
そういう時には風邪をひいている時です



風呂から出て来て、体を拭いた後で足を見て、片方が赤くなっていなかったら、 赤くならない方だけもう一回何分かお湯の中に突込んでおけばいい。
だいたい入浴温度より一度から二度上げて二分間入れて両方を揃えるというのが風邪の場合の足の温め方です。
だから入って出て来て片方の足が赤くなっていなかったら温度を一度か二度上げて、 それからその片足を突込んで出してそれで揃っていればもう風邪は脱ける。」
(『風邪の効用』野口晴哉著・全生社・P.80)

「バケツか何かに水を一杯汲んでおいて、 はじめ熱くて入りきれない位にして体の前にジャーッとバケツの水をあける。
すると自分の体の周囲がぬるくなる。
そこに入る。
それで囲りが熱くなった時にパッと出てくるという、そういう入り方が風邪の場合には一番良いのです。
だから、風邪を治すのには適温より五分から一度、熱い湯に入る。
適温から五分ないし一度というのはとても熱く感じるが、時間は半分にして短くする。
とても長く入っていられない。
だからパッ出てくる。
それで赤くならない片足だけもう一回突込むということをやれば、風邪は簡単に経過する。
(『風邪の効用』野口晴哉著・全生社・P.85)
 
風邪をひけば当然、熱が出ます。
熱が出た時にその熱を氷などで下げないようにして下さい。
むしろ、熱い蒸しタオルを40分間後頭部にあてて熱を上げてやれば汗をかき、風邪が抜けると熱が下がります。
42度までの高温は大丈夫だそうです。
42度以上になると脳が破壊されるそうですのでその時には下げなくてはいけません。

こういう風邪の治し方を知っていれば、あれほど嫌だった風邪を今度は味方にできます。
これで風邪をひいても病気の予防になったり治してもらえると思うと苦にならなくなると思います。
それともう一つ、 体を石鹸などで丁寧に洗い過ぎると風邪をひきやすくなり皮膚の排泄する能力を鈍らせるそうです。
何でもほどほどにということです。
 
 
【まとめ】
1 食事の量を減らし消化の良い物を食べる。
2 適温より5分から1度高めのお湯に短めに入る。
3 赤くならない片方の足だけ1度から2度上げたお湯に入れて両方の足を赤く揃える。
4 風呂から上がって水を飲んでおく。
5 風呂から上がって直ぐには寝ない。
6 熱が出ても下げない。むしろ、蒸しタオルなどで温めてやる。
  
【注意】
熱が高い時には少々のことをしても大丈夫だそうですが治り始めたときに平温よりも下がる時があるそうです。
平温以下から平温に戻るまでは絶対に安静にしておくことだそうです。
その時に無理をすると大病を招くそうです。

この風邪の治し方は『風邪の効用』野口晴哉著・ 全生社を読んで自分が納得してから自分の責任において行って下さい。



がんは感謝すべき細胞です

転載元
がんは感謝すべき細胞です

これからは、日本人の二人に一人が「がん」で死亡していきます。
現代の医学にとって、がんは難病とされています。
しかし、「医学」にとっては「風邪」も治癒できない「難病」なのです。
私たちの腸内には、約500種の細菌がおり、その数は約100兆個といわれています。
もう少し、分かりやすい数値として、
大便1グラム当たりに約3000億から5000億個の細菌が含まれています。
私たちは、この腸内細菌様たちと共生しています。
まさに、腸内は小宇宙です。

この腸内細菌の形態は、健全な状態ではビフィズス菌を中心として乳酸桿菌などの乳酸菌が優勢になっています。
この場合、腸内での分解・消化・原子転換・合成・吸収などの消化吸収が本来の生理システムに従い、バランス良くスムーズに営まれます。
その結果、綺麗なサラサラした正常な血液が腸内で作られます。

しかし、肉・卵・牛乳などの動物性蛋白質や、
ビタミン・ミネラルがほとんど取り除かれた、生命力がない精白食品(白米・白砂糖・白パンやうどんなどの小麦粉製品・白砂糖・食塩)、
化学肥料・農薬や食品添加物まみれの食品、
外国から輸入された食品、
などが腸内に入ってきますと、
人間本来の生理に合わない「食品」ですので、分解以下の動きがスムーズに行われなくなります。

すなわち、これらが腸内で処理されないまま停滞し腐敗していきます。

「腐」という字は「五臓六腑」の
「腑の中の肉」です。

その結果、蛋白質(アミノ酸)から有害物資(アミン・アンモニアなど)やガスが発生し、バクテリアやウイルスが作られます。
これと同時に、今まで劣勢だった大腸菌やウェルシュ菌などの悪玉菌が優位となり、
腸内細菌構成比のバランスが乱れます。

やがて、腸粘膜を刺激して、微小な傷を与え、そこから有害物質やウィルスなどが血管に入り込み、血液を汚し、その汚れた血液が全身を巡ることになります。

たまたま、上気道組織の細胞の抵抗力が弱かったため、そこに異状刺激を与えます。

それに対して、恒常性維持機能(自然治癒力)が作動し、血液が集中して炎症が生じます。
鼻やのどなどの上気道に炎症ができるのが「風邪」です。
風邪になりますと、
咳が出る、熱が出る、鼻水が出る、痰が出る、
という症状になります。
全部「~が出る」です。
自然治癒力が作動して「毒素」を出しているのです。
ですから、炎症・症状というのは風邪を治そうとして発症し、あらゆる手段を尽くして「悪いものを体内から出そう」と一生懸命に頑張ってくれている、ありがたい健康維持装置・延命装置といえます。

私たちの生命の中に、生命の健全性維持を「脅かすもの」が、存在することは百%ありません。

あらゆるもの全て、「生命の健全性維持」に必要であるから存在しています。
これが生命です。

ですから、このまま、炎症・症状という自然治癒力に任せ、そして自然治癒力を高めていきますと、

毒素を出し切り、炎症・症状は消え、風邪は根治されます。

病気のあらゆる症状は、自然治癒力は発動して、健康を取り戻そうとする治癒過程であります。
私たちの心身は、病気の治し方を知っています。
これこそ、自然治癒力です。
これこそ「生命」です。

(原因)
本来の「食べ物」ではない「食品」を入れ過ぎた。

(結果)
風邪(病気)になった。

(対策)
本来の「食べ物」を食べ、自然治癒力(自分で治す力)に任せ協力して、毒素を出してあげる。

これが、あらゆる病気の基本です。  

がん細胞は、強力な炎症です。
たまたま、胃組織の細胞の抵抗力が弱ければ、胃に炎症ができ「胃がん」と言われ、それが大腸であれば「大腸がん」、
子宮になると「子宮がん」と言われるだけです。
本来は、全身の血液が汚れている全身病です。



本来の食べ物、食性に適合した「穀菜食」を良く噛んで少量食べて、
腸内細菌群を正常な状態に回復させ、
綺麗なサラサラ血液を作り、これを全身に巡らせますと、
自然治癒力が高まり、
浄血装置の必要性がなくなりますので、ガン細胞は少しずつ消えていきます。
やがて、がん細胞は消え、根治となります。

一方、現代医学は、西洋医学の「アロパシー」で「逆療法」(一般的には「対症療法」と言われています)です。

すなわち、自然治癒力の表れである「炎症・症状(がん細胞)」を「悪い物」と決め付け、自然治癒力に「逆らい」、攻撃します。

手術で取り去り、
放射線で焼き、
抗がん剤で殺します。

そうしますと、一時的にがん細胞は消えますが、自然治癒力は低下し、
症状が現われた局所・部分を手当てしただけで、実際は全身病ですから、いずれ、必ず「転移」します。
臭いものに蓋をしただけで、「臭源」を絶っていません。

実際のところ、私たちは、「がん」ではなく、「がん治療」で殺されています。

この事実を、
厚生労働省は「黙認」しています。

このような「官・医・薬共同体」に「殺されない」ために、自分の生命は、自分の自然治癒力を信じて、自分で守るしかありません。

「臭源」への手当ては、自分でするしかありません。

つまり、血液をサラサラ状態に、正常にするには、
食生活を「食い改める」だけではなく、明るい気持ちで、大きな声で大いに笑い、ストレスを解消し、希望に満ち溢れた目標を持ち、夢を描き、あらゆるものに感謝申し上げ、
プラス思考でいきましょう。

一日60分は散歩しましょう。

自分の自然治癒力を信じましょう。

病は氣からです。

ここで、風邪に戻ります。
風邪に罹病した患者に対して、医師は症状を聞きます。
咳が出ていれば「咳止め」を、
熱が出ていれば「解熱剤」を、
結果、一時的に咳が止まり、熱が下がります。
そうしますと、患者は症状が消えたので「風邪は治った」と錯覚します。
この錯覚が、「前向きの気持ち」となり、患者は「風邪は治った」と確信します。
しかし、実際のところ、症状が消えただけで、原因への手当てはされていません。
根治とは言えません。
必ず再発します。

一方、風邪にかかったら「暖かくして寝る」のが一番と良く言われます。
その通りです。

自然治癒力が働き、
暖かくしますと「汗が出ます」
汗が出ますと「毒素が出ます」
寝ますと「食べ物が入りません」
つまり、小断食です。
入ってこないと「出す」ことに専念できます。



「心身に悪いものが体内に溜まっているよ」という警告が病気です。

ですから、自然治癒力を高めて、悪いものを徹底的に出してあげれば良いのです。

「食い改め」て、悪いものを出し切るまでに、湿疹・痒み・頭痛などの反応があります。
これは「好転反応」といい、身体の深層に隠れていた悪いものが、表に出てきた証拠です。

つまり、いよいよ治癒工程に入りましたよ、という自然治癒力の中間報告です。

ここで自然治癒力を信じて、湿疹などの痛み、辛さに耐えなければなりません。
この辛抱が、この精進が、「根治」という最終報告をもたらします。

島地勝彦/サロン・ド・シマジ GOROKU7

$
0
0
■えこひいきの倍返しを心がけなさい

ミツハシ
えこひいきにはえこひいきで返礼する。

シマジ
そういうことだ。
そうして2時間かけて行った松本で、藤本さんが俺の目の前にドンと置いたのが、まだ封を切っていない陶器ボトル入りの白州だった。
「どうぞご自由に飲んでください」
というわけだよ。
この白州は相当な値打ちのものなのだが、そんなことは一言も言わずに「ご自由に」というところがいいだろ。
ここでまた、えこひいきの再返礼を受けた俺は、当然ながら次はどうやって藤本さんを喜ばせてやろうかと考える。
このえこひいきのやり取りが人生を愉しく豊かにするんだ。

えこひいきのお返しは、倍返しを心がけるといい。
「倍返し」というと最近はもっぱら復讐に使うようだが、本来はお礼こそ倍返しだね。

ただし、倍返しといっても倍の金額のものを返すということではない。
相手のえこひいきをいちいち金額換算するのは失礼だし、そもそも真心というのはお金に換算できるものではない。
相手から受けた好意をうれしいと思ったら、そのうれしさを上回るうれしさやサプライズを相手に味わってもらおうと思って返礼をすればいい。
あまり「お金の使い方」にこだわると不自由になるし、下品にもなるからね。
お金がなければないなりに真心の示し方というのはある。
たとえば、その一つが、相手からもらっ
たものを愛用するということだ。

これはとても大切なことだ。
自分がプレゼントしたものを相手が気に入って愛用してくれているというほどうれしいことはない。

(略)
ミツハシ
プレゼントというのは本当にセンスですよね。

シマジ
そうだな。それだけに、人に何かをプレゼントするときというのは、自分自身が欲しいと思うもの、あるいは欲しくて手に入れて満足したものを贈らなければいけない。
自分が要らなくなったものや余ったものをあげるというのはプレゼントではなく、廃棄物処理だ。
それでは相手が愛用してくれることなど期待できないし、仮に喜んで愛用している姿を見てもうれしいどころか心が痛む。
ここで少々難しい問題が生じるのは、自分が本当に欲しいものや欲しかったものというのは、手作りの品は別として、やはりある程度の値段になるということだ。
「お金の使い方にこだわるな」というさっきの言葉とはいささか矛盾するが、センスのあるプレゼントにはどうしてもお金がかかる。
「金は第六感のようなものだ。
これがないと、他の五感も十分に機能しない」
というモームの言葉は真実を穿っている。

ミツハシ
言いえて妙ですね。

シマジ
えこひいきに関して相談者にぜひ伝えておきたいのが、あらゆるえこひいきの中で最高のものは神様のえこひいきであるということだ。

ミツハシ
だとすると、神社に初穂料をはずみ、お返しをうけた相談者はこの縁を大事にしなければいけない。

シマジ
その通りだね。
一浪して青山学院大学に入り、そこで一留までして、なおかつ優が一つもなかった俺が集英社に入社でき、念願の編集者になれたのは間違いなく明治神宮のおかげだ。

(略)

シマジ
男と女の間には暗くて深い川が流れているんだと思うね。
これほど深く愛したのに、相手はそれに十分に応えてくれていないと、男も女も必ず思うようになる。
だから俺は、女から愛のお返しは望まないことにしているんだ。
「俺はこれだけお前のことを愛しているのに」という感情は嫉妬や恨みしか生まない。
女は俺をちょっぴり愛してくれればそれで十分。
女の薄情も多情もビンタも涙も、俺を粗砥で磨いてくれたと考えて、感謝することにしている。

結局、友情と恋情は別物なんだよ。
友情は積み重ねによって深まるが、
セックスは積み重ねによって倦怠が訪れる。
リビドーに突き動かされる恋情は良心なき正直者の営為だが、えこひいきというのは真心のやりとりだ。
だから相性が悪いんだよ。
少なくとも恋愛は欲望であり良心ではない。

そういえば、性欲と食欲というのは、それを司る部分が脳みその中で隣接しているそうだ。
俺は元気だったころ、わりない仲になった女とは食事の前にセックスをするのが好きだったが、これは理屈に合っていたわけだ。
食欲を満たしてしまうとギラギラした性欲はある程度鎮静してしまう。
獣のように求め合うには、すきっ腹の方がいいんだよ。

だから、「乗り移りの人生相談」の読者たちには、セックスをしてから食事を愉しむことを勧める。
そうすれば、むさぼり合うような激しいセックスが愉しめ、そのあとに満ち足りた気分で食事も満喫できる。

ただし、これは既にわりない仲になった男女の愉しみ方だから、そうなる前の男は必要な手続きを省略しないように。
そして、もう一つ注意しておくと、こういう激しい愉しみ方を繰り返していると、良心なき正直者はあっと言う間に飽き始めるという副作用もある。
そうなっても苦情は受け付けないので、自己責任で愉しんでくれ。


■一人の時間を愉しくできない人間は、二人の時間も愉しくできない

シマジ
俺は何度も「退屈と無知は人生の大罪である」と言ってきた。
この相談者は退屈をしているんだよ。
退屈というのはたった一度の人生への冒涜だ。

「主婦をしています。
家事、育児の傍ら習い事などをして過ごしています。
でも、あまり楽しいと思えないのです」

と相談者は書いているが、専業主婦としての毎日に満足していないという気持ちが伝わってこないか?

ミツハシ
伝わってきますね。
何か他人事を報告しているみたいな文章で、現状を「仮の姿」と思っているような印象です。

シマジ
これこそ退屈だよ。
しかし、なぜ、愉しいと思えない習い事なんか続けているんだ?
別に強制されているわけでもなかろうに、面白くなければ無理して続けなくてもいい。
もっと他に興味が持てるものを見つけた方がよほど生産的だ。

「人に関心が持てず、内にこもって鬱々としてしまうことが多いです」

とも書いている。
まるで興味を持てない話しかしない人に関心を抱けないのは当たり前で、その点で相談者は正常だよ。
興味を持てない相手なら無理して付き合わなければいいだけの話で、そんなことで悩む必要もない。

ミツハシ
相談者は専業主婦のようですから、同じ学校に子供を通わせる母親たちとか、習い事の仲間とかとのネットワークが切れると孤立してしまうという懸念を抱いているんじゃないですか。

シマジ
まあ、そんなところだろうな。
だが、孤立したくないから、愉しくもない習い事を続け、関心のない話に相槌を打ち続けてきた結果、相談者はどうなった?
より大きな孤独感の中で立ち尽くし、オロオロしているではないか。
それなら、習い事も仲間付き合いも止めてしまった方がマシだ。
おそらく相談者は自分が何をしているときに一番幸せで、どんな人たちに囲まれているときが一番生き生きできるのか自分でもよく分かっていないのだろう。
こういう人は一度きちんと孤独と向き合った方がいい。
これも繰り返し言ってきたが、一人の時間を愉しくできない人間は、二人の時間も愉しくできない。
相談者がまずやるべきは、人と笑顔で親しく話す練習などではなく、一人の時間を愉しむ術を見つけることだ。

一番いいのは読書だよ。
人類には酒を飲める人間と酒を飲めない人間の二種類がいるように、本を読める人間と読めない人間は別の種類の人類だ。
本を読める方の人類は、一人の時間を決して退屈しない。
それどころか、一人になれる時間が待ち遠しくなる。
相談者にはぜひとも本の世界に遊べるようになってほしい。
そうなれば、知識も教養も表現力も自然と身に付いていく。

相談者は「自分の意見を言うことも苦手で、上手く表現できずオロオロしてしまいます」と書いているが、これはおそらく、自分の意見や自分なりのモノの見方がまだしっかり固まっていないのだと思うね。
だから、適切に表現できないんだよ。本を読むようになれば、これも変わる。

3つの退屈な真実よりも、ひとつの美しい嘘をこそ愛するべきだ。
この相談者で言えば、お母さんたちとの会話や習い事が退屈な真実に当たる。
そこからは、人生の深遠をのぞき見ることも、自分の新しい可能性を見つけることも叶わないだろう。
そんなことにかかずらわっていても時間の無駄だ。
それよりも本を読んで脳みそにたっぷりと栄養を与えてほしいね。

奏論 ルーツ・ミステリー/日本を支配しようとした大魔王と、救世主の誕生と

$
0
0
転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』


「天は自らを神として自惚れたイエス・キリストに荷担はしていなかった」
とあるが、
自らを神として自惚れた著名な人物として思い浮かぶのは、織田信長である。
織田信長と謀反の明智光秀の関係と、イエス・キリストと裏切り者ユダの関係について、織田信長を通して少し検討してみましょう。

無神論者のように思われている信長は、桶狭間の戦いを前に、熱田神宮に先勝祈願を行った。
勝利の後、現存する「信長塀」を寄進している。
熱田神宮は、三種の神器の一つ「草薙神剣」を御神体としており、天照大神・素盞鳴神・日本武尊等が祀られている。
草薙神剣は、素盞鳴神が八岐大蛇を退治した際にその尻尾から出てきたとされる剣です。
おそらく信長は織田家の氏神と同じスサノオ神に祈願したのでしょう。

その当時、一向一揆の一向宗、武田信玄、上杉謙信、僧兵の居る比叡山などが、信長の天下統一の大きな障害となっていた。
そこで、彼は、足利義昭を将軍に押し、比叡山の焼き討ちの前年、一向宗を攻めた。
しかし、攻めきれず攻略に失敗している。

意気盛んな一向宗は、本願寺に君臨する生き仏の顕如法王が、法然も親鸞も説かなかった「宗門のために戦うことを拒んで破門された門徒は、極楽浄土に往生することはできない」と教えた。
そのため門徒は「進むは往生極楽、退くは無間地獄」と大書きした幟を押し立てて、戦った。
その結果、1482年、加賀の門徒は13万ないし20万の大軍で守護の富樫政親を自害に追い込んで、加賀一国を「百姓ノ持タル国」に変えた。
以後、加賀は国家権力の及ばない本願寺法王の「法王国」となったが、同じ事が日本各地で起こる可能性があった。

そこで信長は比叡山を一気に焼き落とした。
この時、信長は日本中の仏教界を敵に回し、仏敵となった。
これに対して、一向宗他仏教団体と当時の天皇と将軍に押された信玄は、「天台座主沙門信玄」の名で信長に書状を送り、信長を挑発した。
ところが、信長は「第六天魔王」を名乗って返信した。

信長は偶像崇拝の仏教は、全く信じておらず、高野山の焼き討ちを計画していた。
さらに安土城の建築の時、築城のための石が不足し、使えそうな仏像を壊して建築用材に使ったと伝えられている。
そして、信長は一向宗を滅ぼした、日本を密教革命から救った救世主である。

ここで、信長について書かれた『第六天魔王 信長』からの情報を元に、さらに検討を加えました。

無神論のように思われる信長は、氏神の大剣神社、津島牛頭天王社、愛宕神社(ダキニ天信仰)、泰山を信仰していたと云う。

(略)

当時、信長のみならず、武田信玄や上杉謙信等などの戦国武将達は、戦に勝つために鬼神を祭っていました。

信長が安土城を築城する時、「蛇石」という巨石を、4~5千人がかりで、安土山に上げたことが文献に残されています。
が、その巨石は遺跡としては発見されておらず、おそらく安土城の基礎の石として使われたのだと云われています。

ここで思い出されるのは、スサノオ神の黄泉の国から宝を持ち出した大国主命は、スサノオ神から「地の底の石根に宮殿の柱をしっかり据え、天空に垂木を高く上げて天地をしっかり領せよ」と励まされた。
その後に大国主命は、国造りを始めたということです。
つまり、「蛇石」=「石根」の上に、
「安土城」=「宮殿(出雲大社)」を建築し、
「大国主命は日本国の建国を始めた」=「信長は自分を神とする国を建国しようとした」
と、置き換えられないでしょうか。

更に、地下一階、地上六階の安土城は、
地下が地獄、地上六階が仏教で云う六つの階層から成る須弥山に例えられます。
須弥山は生きて活動するダイナミックな宇宙を、仏教の世界として、シンボル化した概念で、その最上階に第六天魔王が居り、すべての神々を支配する場所なのです。
そして、仏陀はこの須弥山から離れた、永遠の静寂の中に解脱していると云われている。
また、キリスト教宣教師のフロイスは信長が、
「日本の偶像である神や仏に対する祭式と信心を一切無視していた」、
「予、自らが神体である」
と言ったと述べています。
安土城の「天守」閣は、「天主」閣であり、「天主」は御神体である信長自身のことだったと伝えられている。

朝廷は、日々強大になってゆく信長に次々に官位を与え、本能寺の変の一ヶ月前には、征夷大将軍の座をちらつかせている。
しかし、信長は、既成の権威に関心を示さなかった。
これに対して、朝廷は信長の脅威から、暗殺を謀ったとしても不思議ではないと思われます。
これまでは、光秀が突然単独で行ったのではないかと言われていましたが、光秀は秦一族の出であり、信長と朝廷との連絡役を務めていたため、朝廷の命に従って信長を暗殺したのではないかという説もあります。

家康は今後の戦乱を予想して、光秀を討とうとせず、帰城する。
ところが、秀吉は毛利と停戦を結び、すぐに引き返した。
光秀一族は、本能寺の変後、同族の長宗我部元親を頼って土佐に潜伏していた。
おそらく、家康は、光秀と秀吉との戦いを予想し、秀吉を光秀・家康・毛利で滅ぼそうと計画していたのではないでしょうか。

『太平記 第十六巻 日本朝敵の事』と、
『沙石集』(1279~83年製作)に、
サタン・ダビデの霊言ではないかとおもわれる箇所があるので、参考文献の現代約から抜粋して紹介します。

これらの資料には、日本に仏教が導入されれば、第六天魔王が現れ、皇室を滅ぼすという事、それから第六天魔王の方が天照大神よりも上位なのだと述べられている。
結局、サタン・ダビデは、第六天魔王 信長により日本を支配しようとしたことが伺えます。

イザナギ・イザナミの第一の御子神が、『この国の主と成て』伊勢に鎮座したとき、第六天魔王が現れた。
魔王は、この日本の国に仏法が広まると力を失うという理由から、天照大神の働きを妨害しようとした。

そこで天照大神は、魔王に
「私は仏・法・僧の三宝には近づかない」
と誓った。

魔王は怒りを鎮め、その血で契約書を書き、天照大神に手渡した。

「世界が滅び去るまで天照大神の末裔をこの国の主とする。
もし、天皇の命に従わず、国を乱し、人民を苦しめるものがあれば、魔王の眷属が必ず罰を与え、死をもって報いさせよう」。
(『太平記』)

天照大神が大海の底にある大日如来の印文を鉾で探ったとき、第六天魔王が
「鉾のしたたりが国となって仏法を流布する相がある」
といって、大御神を攻め殺すために現れた。
そこで大御神は
「われ三宝の名をも言わじ、わが身にも近づけじ、とくとく帰り上がりたまへ」
といって魔王を帰した。
(『沙石集』)

さらに、日本の神楽の演目『八幡』の中に、悪魔「第六天魔王」が、宇佐八幡宮に祀られる「八幡神」に退治されるという物語がある。
八幡神は、神通の弓と方便の矢をもって滅ぼすという。
宇佐八幡宮によれば、八幡大神の御名は「応神天皇(誉田別尊)」とあり、継体天皇の父は応神天皇5世の孫に当たり、近江に本拠を持ち、母は越国の人だった。
住吉大社の「神代記」には、誉田別尊は、仲哀天皇の子では無く、住吉大神の子とある。
また、応神天皇が名前を交換した気比神社の主神は、航海安全と水産漁業の隆昌のイザサワケ大神で、住吉大社と同じ海神である。
つまり、織田信長は、海神・住吉大神=秦氏一族により滅ぼされたという意味だ。

応神天皇にも関連のある渡来人である秦氏に関して、武士の政治を終わらせた明治維新にもその血筋が流れていた。

信濃の秦能俊氏は、平安末期、土佐の長岡郡宗我部郷に入り、鎌倉時代に地頭として発達し、戦国時代に土佐を統一した。

薩摩の島津氏は、秦氏の末裔としての意識が強く、関ヶ原の合戦に敗れ、薩摩に強大な秦王国(隋書倭人伝にある『秦王国』は豊前地方のこの地にあったのだと言われている)を築きあげてきた。

長宗我部氏とゆかりが強い明智光秀をルーツとするといわれる坂本龍馬もまた、おそらく秦一族だったのであろうと推測されている。
つまり、現天皇家の祖神が、秦氏の血を引く明智光秀に命じて、秦一族である織田信長を許さなかった。
しかも、秦氏の血を引く坂本龍馬は、薩長連合を実現し、幕府の大政奉還を実現させた。

織田信長の死後、徳川家康は大坂夏の陣で豊臣家を完全に滅亡させ、偶像崇拝の仏教をそのままに、下克上を伴う戦乱よりも日本式儒教精神に基づく、徳川家の安泰と国家平和を目指し、天皇家を従わせる形で国家統一を成功させた。

長い平和の後、四方を海で囲まれた日本は、黒船により何処からでも武力侵略される脅威に晒された。
この脅威を取り除き、日本の存続のために明治維新が断行されました。

つまり平安時代のように秦氏が支援する明治の体制が実現されたのです。

この結果、坂本龍馬は暗殺された。
当時の武器商人グラバーのグラバー商会は、日本の内戦が大政奉還により終結したことにより、明治三年倒産した。
それは明治維新で各藩の財政事情は苦しくなり、商会が大量に買い付けた武器と戦艦が大量に売れ残り、長崎の倉庫に山積みとなったためだった。
つまり米国の南北戦争のような泥沼に至らず、欧米列強は日本に介入できず、植民地化する絶好のチャンスを失ってしまった。
欧州の手先である武器商人が、龍馬を暗殺したと推測する説もありますが、真実は今後の検証を待つしかありません。
同様に、西郷隆盛を挑発し西南戦争を引き起こさせたのもまた、武器商人にからむ者達なのかもしれません。



猿は太陽と関連しており、猿は日(太陽)の使いとされ、日吉(ヒエ 日枝)神社では神聖視されている。
一説には、「神」の字に「申」が入っていることにも関連しているのかも知れないと云われています。

日吉大社の復興に貢献した秀吉が、後に経歴に箔を付けるために、幼少期の名前を「猿」、日吉丸の名を付けたとも云われています。
また、天宇受売命の子孫が猿女君で、伊勢の氏族で、朝廷祭祀の舞などに奉仕する女を猿女という。
このことから、秀吉は自らの出生を、秦氏と並ぶ朝廷祭祀の氏族として世間に認めさせたかったのでしょう。



イエスの時代の納骨と日本の納骨堂の様式が似ていることからも、
ユダ一族の血流はもしかしたら、青森の八戸、戸来村に、たどり着いたのかもしれない、
ということが言えるのです。



日本には、表門と裏門があります。
太陽「○」の裏門は、亀の甲羅型の六角紋です。
イエスの墓には「○」があり、妻マリアの棺桶には「六角紋」が明確に掘り込まれています。
そこで、思い出されるのが、カゴメの歌です。
籠の中の鳥を救世主とすれば、この歌で救世主が飛び出るのは、鶴と亀が結ばれるときです。
結ばれるときが、救世主の誕生です。

しかし、この預言の真意は、鶴は太陽神、亀はその神妻で、このお二人が結ばれる、つまり正式に御結婚される時、
救世主が籠から飛び出ると言う意味だと思われます。
ですから、カゴメ歌で、手をつないで円状に取り囲んでいるのは、天の神々を意味しているのではないでしょうか。
私達日本人が意味も分からずに歌い続けてきた歌謡の中に、ダニエル書を完結するものとして、人類の救世主預言が秘められていたのです。

◆カゴメ歌について
カゴメ歌の特徴は、繰り返しと反語の対が多いことだ。

カゴメ、カゴメと二度繰り返される。
そして、「夜明け」と「晩」、
「後ろ」と「正面」のように、
表裏の関係が繰り返される。

鶴は「太陽」の象徴で、
亀は鶴の裏紋なので「月」とすれば、
これも表と裏の関係が繰り返されている。
カゴメ歌の謎かけ問答の答えは、籠の中の鳥が、出てくるタイミングと、その名前を当てることだ。

カゴメをイスラエルとすれば、二つのイスラエルは、表と裏の2種類のイスラエルを意味する。
また、籠はモーセの籠、鳥は救いを意味するとすれば、この鳥は救世主=メシアである。
このように推理すると、カゴメの歌は、下記のように解釈される。

カゴメ カゴメ
表のイスラエル=イスラエル
裏のイスラエル=日本

籠の中の鳥はいついつでやる
救世主はいつ現れる

夜明けの晩に
夜明け(太陽) 晩(月)

鶴と亀がすべった
鶴は太陽の象徴
亀は太陽の裏紋で月の象徴
もしくは、
太陽神 神妻

後ろの正面だあれ
太陽の後ろで、月の正面に居るのは誰?


それでは、太陽の後ろ、月の前に挟まれているのは、誰なのだろうか。
ヒントは、エジプトと日本神話の中にあった。
エジプトでも日本でも、
右目が太陽で、左目が月とされる。
つまり、太陽(天照大神)の後ろで、
月(月夜尊)の前は、鼻である。
古事記では、スサノオ尊のことである。

更に、イスラエルの太陽で思い出されるのは、義の太陽のイエス。
であれば、月は母マリアに相当する。

また、神を男性として、イスラエルを月や女性として表すことが多くある。

「娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。」
(ゼカリア書 9章9)

だとすれば、「鶴と亀がすべった」には複数の解釈が可能になりますが、いずれも成就しており、すでに過去の物語です。

ここで「すべった」の意味は当地の方言では、「むすばれる」の意味だという点にご注意下さい。

案1.イスラエルと日本が結ばれるときに、救世主スサノオが現れる。
旧約聖書の預言と同じで、
古代日本においてエフライム族とユダ族が合流しており、すでに成就しています。

「神である主はこう仰せられる。
見よ。
わたしは、エフライムの手にあるヨセフの杖(注:王権のこと)と、
それにつくイスラエルの諸部族とを取り、それらをユダの杖に合わせて、一本の杖とし、私の手の中で一つとする」
(エゼキエル書 三七章 十九)

案2.太陽神ミカエルと神妻が、結ばれるとき、救世主が現れる。

ダニエル書12章
「その時あなたの民を守っている大いなるミカエルが立ち上がります。」
に続く預言であり、
20世紀において成就しています。

案3.もう一つは、義の太陽イエスと妻マグダラのマリアが結ばれ、その子の血流が日本において救世主スサノオとして現れる。

つまり、有名な1999年に恐怖の大王(イエスの再臨)が、日本にスサノウとして誕生するという意味ですが、これはすでに天上界により阻止されています。

尚、この場合、「夜明けの晩」の部分は、
明けの明星=ルシファーと、宵の明星=ニンフルサグを象徴していると解釈できます。

震災から20年/桧山進次郎

$
0
0

桧山進次郎 /
代打の神様 震災20年を語る 

神戸新聞NEXT 1月1日(木)
1995年1月17日。プロ野球阪神タイガースの選手だった桧山進次郎さんは自主トレーニングに備え、京都の実家から西宮・苦楽園のマンションに戻っていた。
突き上げるような地鳴り。激しい揺れ。
体をこわばらせ、桧山さんは恐る恐る玄関のドアを開けた。
 
「周りの家の明かりが全部、消えていた。
辺りはシーンとしていて、聞こえてくるのは犬の鳴き声だけ。人の姿も見えない。
怖いぐらいに静かだった。
誰かの顔が見たくなって甲子園球場に向かった。
なぜか野球道具をバッグに詰め込んで。
今思えば、現実を受け入れられていなかったのかもしれない」
 
甲子園球場の被害は小さく、95年のシーズンは予定通りに開幕した。
神戸に本拠地を置いていたオリックスは「がんばろうKOBE」を合言葉にリーグ優勝。
一方、阪神は最下位に沈んだ。
 
「甲子園の周りには家族を亡くし、住む家を失った人がいる。
『こんな状況で野球なんかやったらあかんやろ』と思っていた。
開幕延期や甲子園を使わない案も出ていたが、結局、予定通りに始まった。
僕たちは野球が仕事。球団が決めた以上、やらなきゃいけない。
ただ、『野球で元気を』と言っても地震直後は迷いがあった。
シーズンが始まれば、同じ関西のオリックスがどんどん勝っていく。
こっちは結果が出せなくて。歯がゆかったし、みじめだった」
 
2002年から星野仙一監督が指揮。阪神は低迷期を脱し、震災から8年後の03年、リーグ優勝を果たす。
選手会長として中核を担った桧山さんは震災当時に実感できなかったスポーツの力を知る。
 
「シーズン終了後、神戸で優勝パレードがあった。
沿道のファンからは『おめでとう』と声を掛けられるものだと思っていた。
ところが、『ありがとう』と言われる。
おじいちゃんが涙を浮かべて『優勝してくれてありがとう』って。
その姿を見て自分たちがファンに元気や勇気を与えていたことに気付いた」
 
リーグ優勝の前年、選手は「あしなが育英会」のステッカーを付け、神戸の震災遺児施設との交流を深めた。
桧山さんはその施設で、震災で父を失った一人の少女と出会う。
 
「小学5年生ぐらいだったかな。
僕のファンで、『ひーやん、ひーやん』(桧山さんの愛称)ってすごく明るい笑顔で近寄ってきてくれた。
悲しい思いをしているのにそれを感じさせない。
この子の強さはどこから来るんだろうと思いながら接していた」
 
以来、桧山さんは毎年、シーズンオフに施設を訪問。
震災で親を失った子どもたちの成長を見守り続けた。
 
「小学生だった子が中学、高校生になっていく。
僕のファンだった女の子は大学生の時、甲子園で売り子のバイトをしていた。
うれしくて試合前の練習中にグラウンドから『頑張ってビール売れよ~』って手を振ったこともあった」
 
「子どもたちから僕が教えられていた。
幼いころに親を亡くした彼女たちは、周りに支えられていることを知っている。
仲間の大切さを感じ、助け合いながら生きていることを分かっている」
 
震災20年を迎える被災地へ、桧山さんはエールを込め、
「これからも皆で!」とメッセージをしたためた。
 
「この先もきっといろんな問題がある。
また、大きな災害が起きるかもしれない。
でも、何があってもそばに必ず誰かがいる。一人で考えても解決しない。
僕自身、震災当日、誰かの顔が見たくて甲子園に行った。
リーグ優勝した時はチームが束になった。人は一人では生きていけない。
人が集まれば、困難を乗り越えられる」
(聞き手・松本大輔)

〈ひやま・しんじろう〉
1969年、京都市生まれ。
京都・平安高(現龍谷大平安高)、東洋大を経て91年、ドラフト4位でプロ野球阪神タイガース入団。
22年の現役生活でリーグ優勝2回。
晩年は「代打の神様」と称された。
現役時代の背番号は24。西宮市在住。
 
 

国民の目隠しをする左傾マスコミ

$
0
0
転載元 伊勢雅臣のブログ

■目隠しされた日本
戦前も戦後も情報無しの手探り状態

日本は情報無しの目隠し状態で、戦前はアメリカと戦い、戦後は中ソと対峙してきた。

◆1.ずっと自衛隊の写真を撮っていた中国の震災救援

東日本大震災では中国軍が救援に来たが、その際に彼らは何をしたのか、
こんな証言がある。

__________
(中国の救援部隊が)ずっと写真を撮っていたという話を聞きました。
自衛隊の活動の写真を望遠レンズで撮っている。
結局、これは日本人の行動様式と自衛隊の装備を撮っていたんでしょう。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

被災地救援の名目でやってきて、実は自衛隊の装備などを調べる。
お人好しの日本人から見れば「まさか」としか思えないが、「渡る世間は鬼ばかり」の国際社会では不思議ではない。
ほかにも、こんな事実がある。

__________
(震災時には)中国のヘリコプターが南西方面で護衛艦に急接近したり、火事場泥棒のような出来事の連続でした。
あのとき、自衛隊の戦力の40%が災害派遣に投入され、日本がいかなる防衛体制を敷いているのか調査しに来たのですが、挑発行為は凄まじいものがありました。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

◆2.尖閣諸島でどうでるかという戦略的判断に必要な諜報活動

中国が自衛隊の戦力を調べているのは訳がある。
国内の経済的行き詰まりや党幹部の汚職、少数民族の反乱などで不満が溜まっている時に、尖閣諸島などをきっかけに対外戦闘を起こすのは、恰好のガス抜きになるからだ。

先の大戦で大敗を喫して、もう戦争はこりごりという日本人とは違って、中国の政府も人民も戦争にそれほどの拒否感はない。
1950年にのべ500万人を投入して約90万人の死傷者を出した朝鮮戦争以降も、
1962年のインドとの中印戦争、
1969年にウスリー河の中州でソ連国境警備隊と衝突した珍宝島事件、
1974年に南ベトナム軍を駆逐した西沙諸島占領作戦。

80年代にも南シナ海でベトナム海軍の輸送船を撃沈し、90年代にはフィリピンが支配していた南沙諸島を占領している。

数十人、数百人の死傷者が出ようと、この程度の事件は中国にとっては戦争というより、局地的な小競り合いとでも言うべきもので、外交の延長でしかない。

尖閣諸島においても、小競り合い程度で奪えるなら、中国は容赦しないだろう。逆に自衛隊が強くて、中国軍の面目が潰れるようなことになったら、逆効果なので手出しは控える。
そうした戦略的判断をするためにも、自衛隊がどの程度の戦力を持っているのか、について中国は諜報活動をしている訳である。


◆3.三百万の英霊たちの叫び声

こうした中国の動きに対して、いまだに「平和憲法さえ守っていれば平和は守れる」という声があるのは驚くべきことだ。
この態度からは、中国軍の戦力、意図などに関して、諜報活動をしようなどという発想が出てくるはずがない。

諜報活動に関する日本人の鈍感さが敗戦の一大要因だったと、米軍は指摘している。
昭和21(1946)年4月、米軍がまとめた『日本陸海軍の情報部について』という調査書には、次の一節がある。

__________
日本軍の精神主義が情報活動を阻害する作用をした。
軍の立案者たちは、いずれも神がかり的な日本不滅論を繰り返し表明し、戦争を効果的に行うために最も必要な諸準備を蔑(ないがし)ろにして、ただ攻撃あるのみを過大に強調した。
その結果彼らは敵に関する情報に盲目になってしまった。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

この一文を次のように変えてみたら、現代日本も同様であることが分かるだろう。

__________
護憲平和主義が情報活動を阻害する作用をした。
護憲論者たちは、いずれも神がかり的な「平和憲法さえ守っていればどこの国も攻めてこない」という護憲平和論を繰り返し表明し、防衛を効果的に行うために最も必要な諸準備を蔑(ないがし)ろにして、ただ護憲あるのみを過大に強調した。
その結果彼らは中国軍に関する情報に盲目になってしまった。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

大東亜戦争中に大本営の情報参謀として従事した堀栄三氏は、戦争中に我が国が諜報活動を軽視したために、いかに困難な戦いを余儀なくされたか、を著書『大本営参謀の情報戦記』に描いている。
そのあとがきにはこうある。

__________
また本書に掲げた多数の戦場での教訓の数々は、ひたすら祖国のためにと思いながら歯をくいしばって、正確な情報に基づかない、誤れる戦略に殉じて散華していった三百万の英霊たちの叫び声に他ならない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

12月8日の大東亜戦争開戦の日を機に、この英霊たちの叫び声に耳を傾けて見たい。
同じ過ちを現代にも繰り返さないために。

◆4.正確な地図もなく

日本陸軍は伝統的に対ソ連、中国を重視していて、情報収集や戦法研究などを対米重点に切り替えたのは、開戦後2年も経った昭和18(1943)年後半からだという。
すでにガダルカナルの戦いで、米軍の本格的な反転攻勢が始まっていた時期である。

__________
それゆえに、ニューギニヤ、ソロモン諸島方面では、正確な地図がなくてガリ版刷りの素図をもとに戦争をしたといったら、読者はびっくりするであろう。
そんな戦場へ赤紙一枚でやられたとあっては、収まるものも収まらないはずだ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

ニューギニア島北岸は、東西1300キロにわたる長い海岸線と、2~3千メートルを越す脊梁山脈の間は、一面のジャングルに覆われた前人未踏の地である。
米軍はここを統治するオーストラリアから地誌資料を得て、
「これを支配するのは歩兵ではない。
航空以外にない」
と判断していた。

しかるに日本の大本営は、ニューギニアの地図から普通の陸地と誤認して、東部ニューギニアのブナにいた南東支隊に、脊梁山脈を越えて、南岸の都市ポートモレスビーの占領を命じた。
__________


この場合の南東支隊の敵は、米軍でもなければ濠洲(オーストラリア)軍でもなかった。
道なきジャングルとスタンレー山脈と雨期で増水した名もわからない川の氾濫であった。
そして、とうとう皆無の補給による饑餓と疲労と寒気と疫病のために、ぼろぼろになって後退を余儀なくさせられてしまった。
(中略)
作戦が中止となり、十分の一の兵員となってやっとブナに帰りついた南東支隊に、米濠軍は海の方から廻って上陸し、攻撃を加えて、玉砕に追いやっている。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

多くの英霊を生んだ陰には
「正確な情報に基づかない、誤れる戦略」
があったのである。


◆5.米軍の用意周到ぶり
堀氏は、大正末期から昭和初期にかけて米国研究の第一人者・寺本熊市中将から、親しく教えられた内容を、次のように記述している。

__________
米国は大正10年以来日本との戦争を準備していた。
われわれは米国研究時代、補佐官時代からすでにそのことを指摘していた。
米国の考える戦場は、日本に対しては当然太平洋だ。
(中略)
ここで勝つには制空権以外にない。
彼らは日本の南洋委任統治領を研究していた。
小さな島の群島だ。
船以外に連絡の方法がない。
船を制するにも制空だ。
この間資源もない日本は、満洲の方を見つめて眠っていた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

大正10(1921)年はワシントン軍縮会議が開かれ、日本の海軍戦力が、米国5に対して3と抑えられた年である。
米国は日本の海軍力を軍縮条約で抑えつつ、同時に対日戦の研究を進めていたのである。

たとえば、大正10年頃は米軍はまだ馬を使っていたが、島への上陸作戦では馬を泳がせるのも一つの方法だが、その距離は5百メートルを越えてはならない、などと規定していた。

日本軍は正確な地図もないまま、2~3千メートルの脊梁山脈を越えての攻撃を命じたが、米軍はその20年以上も前に、上陸作戦で馬を泳がせても良い距離まで調べていたのである。

◆6.堀氏の考案した対抗戦術

参謀本部で米軍に対する諜報活動の任についた堀氏は、サイパン島などの玉砕の状況を研究して、太平洋での島嶼防衛の戦術を立案した。

サイパン島では昭和19(1944)年6月12日、13日と、米軍機数百機が港湾や飛行場、陣地を空爆した。
その間に戦艦8、巡洋艦2、駆逐艦22隻が島を完全に包囲して、艦砲射撃を3日続けた。
陣地はほとんど叩きつぶされ、日本軍は15日、16日の水際での戦闘で、ほとんど壊滅的打撃を受けた。

玉砕の前日、日本軍の発した訣別の電報は堀氏にも廻ってきたが、涙なくしては読むことができなかったと言う。

堀氏は米軍が空爆と艦砲射撃で徹底的に日本軍陣地を叩いてから、上陸してくる作戦を分析し、それに対抗しうる防御戦術を考え出して、これから太平洋に転用される関東軍の精鋭部隊に説いた。

水際での早すぎる突撃は自滅する公算が多いので避けること。
大砲や機関銃などは最低2メートル以上のコンクリートで覆って艦砲射撃から守ること、島内に2重、3重に地下陣地、洞窟陣地などを準備してゲリラ戦を挑むこと、等々。

ペリリュー島守備に向かう中川州男(くにを)大佐は、堀氏の説明を熱心にメモして、質問もしてきた。
その後、ペリリュー島の守備隊は4ヶ月で米軍の艦砲射撃と爆撃に耐える強固な陣地を構築し、米軍の猛攻を73日間も持ちこたえ、逆に死傷者1万人を超える損害を与えた。

この戦法は硫黄島や沖縄でも活用され、米軍はその損害の大きさから、日本に対する無条件降伏の要求を取り下げて、終戦に至ったのである。

このような諜報活動と作戦研究がもっと以前から行われていたら、開戦当初は航空母艦数などでは太平洋に配備された米海軍を上回っていただけに、その抑止力をもってして、米国からの挑発をはねつけ、開戦に至らずに済んだ可能性すらあった。

◆7.オスプレイ配備による抑止力
日本は島国で、国境も多くの離島からなるだけに、それらをどう守るか、は戦前、戦後を問わず、防衛上の重要課題である。
特に今、尖閣諸島は中国軍の直接的な脅威にさらされている。

離島防衛に威力を発揮するとして最近登場したオスプレイは、ヘリコプターのように垂直の離着陸ができるとともに、回転翼を前面に倒してプロペラ機として高速、長距離の水平飛行ができる。

従来のヘリコプターでは作戦行動半径約150キロで、普天間基地から440キロ離れた尖閣諸島には届かない。
しかし、オスプレイは約700キロと尖閣を含む海域を十二分にカバーできる。

しかも、時速520キロで尖閣まで1時間以内に着ける。
積載量も5.7トンあり、30名程度の要員や武器を積み込める。
中国船が尖閣に上陸しようとしたら、その前に沖縄からオスプレイが出撃して、待ち構える事ができる。
これでは中国の尖閣奪取も難しくなり、無闇な手出しはできなくなる。

オスプレイは災害救助にも威力を発揮する。
昨年11月に巨大台風によって大きな被害を受けたフィリピンへ沖縄から米海兵隊のオスプレイが直接飛んで、避難民や救助物資の輸送に活躍した。

東日本大震災などでもオスプレイがあれば、もっと迅速かつ効果的な救援活動ができたはずである。


◆8.国民の目隠しをする左傾マスコミ
このオスプレイを、一部のマスコミは開発途上の事故をとりあげて、危険性を大々的に訴えて配備に反対した。
しかし、2007年に実戦配備されてからの事故率は10万時間あたり1.93回と現行ヘリコプターCH-53Dの4.15の半分以下。
安全性を言うなら、オスプレイ配備を加速すべきなのである。

尖閣防衛にも災害救助にも活用でき、現行ヘリより安全なオスプレイの配備で困るのは尖閣諸島を狙う中国だけだ。
安全性のデータも隠して、「未亡人製造機」などとプロパガンダを行う一部のマスコミは、中国の代弁者として、日本国民の目から真実を隠そうとすしているのである。

戦前の情報活動の弱さについて、我が国は反省をしてこなかっが、戦後の日本は他国の情報活動によって真実から目隠しされてきたという点で、もっと始末が悪い。

朝日新聞など左翼勢力は中ソの代弁者として、日本の防衛力強化に様々な情報活動で妨害してきた。
最近も集団的自衛権や秘密保護法に対して「戦前に戻る、戦争のできる国になる」などと反対した。

平和を守るためにこそ、中国の侵略に対する抑止力が必要なのであり、そのためには国内の左傾マスコミによる目隠しを外さなければならない。


【関連】↓

■今日の南沙は明日の尖閣
米軍がフィリッピンから引き揚げた途端に、中国は南沙諸島の軍事基地化を加速した。

H12.08.20

◆1.日本近海で活発化する中国海軍の活動

昨年以来、日本近海での中国海軍の活動が活発化している。
最近の動きをリストアップしてみよう。

・平成11年5月、日中間の領土問題となっている尖閣諸島の魚釣島の北方110-260キロの海域で、フリゲート艦、ミサイル護衛哨戒艇など13隻が活動。

・同7月、同海域でミサイル駆逐艦、ミサイルフリゲート艦など10隻が活動。

・12年3月、鹿児島県・奄美大島北西360キロの海域で、中国海軍のミサイル駆逐艦2隻、ミサイルフリゲート艦1隻が活動。

・平成12年5月中旬~6月上旬、中国の情報収集艦が、約3週間、日本の本州、四国、九州の周辺海域を一周、わが国の対馬海峡、津軽海峡を含む日本周辺海域の海洋調査、および各地に展開する自衛隊基地および米軍基地の通信情報の収集などを行ったと見られる。

海上自衛隊の調査では、11年度に東シナ海の日本の二百カイリ(約370キロ)の排他的経済水域内などで、中国海軍艦船は8回31隻、海洋調査船は15回23隻が発見され、増加傾向にある。

◆2.問題は尖閣諸島
日本側は国連海洋法条約に則って、領海や排他的経済水域での軍艦や調査船の活動は日本の同意なしには認められないと抗議したが、これに対して中国側は「正常の活動であり、問題はない」と相手にしていない。

問題は、中国側が日本の排他的経済水域を認めていない点だ。
日本側は日中の中間線を排他的経済水域の境界としているが、

中国側は尖閣諸島を自国領土とし、それと石垣島の境の「沖縄トラフ(海溝)」まで主権が及ぶとしている。

ここで尖閣諸島の帰属が問題となるわけだが、南シナ海での領海紛争は中国の手口を調べるのに、好適な先例である。
まず、こちらを見ておこう。

◆3.南シナ海を海上要塞化
中国最南端、海南島の南南東に、計34の小島や岩礁などからなるパラセル(西沙)諸島がある。
73年にベトナムからアメリカ軍が引き揚げた後をついて、翌年、中国は駐留していたベトナム軍を武力で排除して実効支配した。
現在は、旧式戦闘機が離着陸できる約2600mの滑走路に、衛星通信ステーションなどの通信施設まで備え、部隊が常駐する軍事基地となっている。

南シナ海の中ほどに浮かぶスプラトリー(南沙)諸島は、中国、フィリピン、ベトナム、マレーシア、ブルネイ、台湾が領有権を主張している。
そのうちのジョンソン(赤瓜)環礁など6カ所を中国は1987年から88年にかけて占拠し、軍事施設を構築した。
米国がフィリピンのスービック海軍、クラーク空軍の両基地から撤退した92年以降、進出に拍車がかかる。
93年には、ペンシルベニア・ノース(陽明)環礁など6カ所に中国の建造物があることが判明した。

95年2月には、ミスチーフ環礁で中国が高床式の兵舎を建てて占拠態勢に入っていることをフィリピン政府が確認して抗議をしたが、無視された。

ミスチーフ環礁では、現在、対空砲や対艦砲、ヘリポートまで設置され、大型艦船停泊が可能な突堤も建設されたことが写真撮影されている。
フィリピンの抗議に対して、中国は「漁民の避難用施設」と強弁している。

◆4.世界で最重要のシーレーンを勢力下に

スプラトリー諸島に中国が半永久的な軍事施設を設けた結果、
海域のほぼ全体が中国監視網内に入ることになった。
中国は1992年2月に領海法を制定し、南沙諸島海域は同国の領海であり、
軍に「(同諸島周辺の)領海侵犯者を実力で退去させる権限」を与え、
外国艦船が同海域を通過するさいに中国の許可を必要とすると一方的に宣言している。

マラッカ海峡から南シナ海のスプラトリー諸島海域にかけては世界で最も重要なシーレーンといわれ、世界の貿易の15%がこの海域を通過している。
特に日本の場合、全貿易量の5割が同航路に頼っている。
中近東からの石油タンカーはこの海域を通過するので、それが中国の内海となれば、我が国のエネルギー供給は中国に首根っこを押さえつけられた格好となる。

アメリカとしても、同海域での中国の膨張を傍観していられない、という意思を持ち始めたようだ。米海軍戦略センターは米国船の通過も多く、
「海峡の自由航行は米国にとっても戦略上、最重要である」
と指摘している。

本年2月には、フィリピン軍と米軍約5千人が参加する合同軍事演習が約4年ぶりに再開された。
演習はクラーク旧米軍基地などルソン島を中心に行われるが、南沙諸島に近いパラワン島も含まれている。
中国への警告メッセージが含まれていることは明らかである。

◆5.中国が尖閣領有を主張し始めた理由
73年の米軍のベトナム撤退に合わせて西沙諸島を奪取し、92 年のフィリピンからの米軍基地撤収後、南沙諸島占拠を加速させる。
中国が恐れているのは米軍だけであり、米軍が手を引いた地域では中国が着々と手を伸ばす。
力のない他国の抗議はいっさい受けつけず、海洋調査から次第に恒久建造物構築へと進めて、実効支配に及ぶという戦術である。

このパターンは尖閣諸島でも繰り返されている。
昭和45年以前、中国が尖閣諸島を自国領土として主張したことは一度もなかった。
昭和43年秋に尖閣付近の大陸棚に膨大な海底油田が埋蔵している可能性が判明し、米国の統治下にあった沖縄が本土復帰する直前の昭和46年12月に尖閣諸島の領有権を主張し始めたのである。

実は尖閣諸島の一部は、昭和31年から昭和54年まで米軍の射撃練習場として使用されていた。
尖閣が中国領土なら、米軍の射撃練習は中国領土内で行われたことになる。
なぜそれを国際問題にしなかったのか?
これも自分より強い相手には、いっさい手も口も出さない、という中国流外交術なのである。

射撃練習の事実に関わらず、米国はこれまで「尖閣諸島の主権はどの国にも認めない」という立場をとってきたが、このあいまいさが中国の侵入を招いた。
米軍が退き、日本政府の弱腰を見透かして、冒頭のように調査船の侵入を繰り返し、ついには軍艦まで現れたのである。

◆6.尖閣領有の経緯
ここで尖閣諸島が我が国領土であるという根拠をまとめておこう。
国際法上、無人の土地は、ある国家がその領有の意思を持って、他国に先んじて領有することで、その国の領土と認められる。
これを「無主地先占」という。
尖閣諸島は沖縄とシナ大陸間の航路の標識として古くから知られていたが、無人島であった。
「中国は15世紀の地図に尖閣が領土として記されていることをもって、領有権を主張しているが、地図に線を引いても領有権は与えられない」
(Asian Wall Street Journal, 96.10.05) 。

明治18(1885)年、尖閣諸島を沖縄県の管轄とし、国標を建設したいとする申請が沖縄県知事から出され、政府は明治20年と25年に軍艦を派遣して調査を行い、同諸島にいかなる国の支配も及んでいないことを確認した上で、28年1月に沖縄県知事の上申通り閣議決定した。

尖閣諸島は、日清戦争の結果、台湾とともに日本に割譲されたという主張があるが、日清講和条約締結は28年4月であり、これは事実ではない。

◆7.99戸が定住して開拓事業
明治17年以来、尖閣の島々で漁業を営んでいた古賀辰四郎氏に対し、尖閣領有の閣議決定後、30年間の無償寄与が認可された。
古賀氏は魚釣島と久場島に、家屋、貯水使節、船着場、桟橋などを構築し、植林や60余町歩の開墾を行った。
明治42年には99戸248人の移民が定住して開拓事業に従事している。
昭和7年には、古賀氏に対して、政府は4島を有償で払下げした。
これらの住居跡や船着場は今も遺されている。

大正9年、中国福建省の漁民31名を乗せた漁船が尖閣付近で遭難し、魚釣島に漂着した。
古賀善次氏(辰四郎の子息)は これを救助し、石垣島に曳航。石垣島の役人が乗員を手当し、船を修理して、無事帰国させた。翌年中華民国から、石垣島村長や古賀善次氏らに対する感謝状が寄せられた。

この感謝状には、「日本帝国八重山郡尖閣諸島」と明記され、当時の中華民国政府が尖閣諸島を日本領土として正式に認めていたことの動かぬ証拠となっている。

これに対して、尖閣諸島に今まで中国人が住んだ事実はなく、 また昭和45年以前に尖閣領有を主張したこともない。
これらの事実から、国際法上、尖閣諸島が我が国領土であることはあきらかである。

◆8.着々と進む油田開発
東シナ海には一説にはペルシア湾に匹敵するほどの豊富な石油資源が眠っていると考えられている。
そして日中中間線を挟んだ海域がもっとも資源量が豊富であり、特に日本側海域の方が有望視されている。

中国は本年2月に、中間線の数キロ中国寄りの海域で試掘に成功し、天然ガス日量143万立方m、原油88万立方mが確認されている。
これだけで九州、沖縄地方の家庭用燃料を十分に賄える量である。

すでに95年12月には中間線の日本側海域に570m入った地点で、わが国政府の中止勧告を無視して試掘を行い、翌年2月中旬、石油・ガスの自噴を確認している。
中国政府は尖閣列島を自国領土とする立場から、この日中中間線を認めていないので、この日本側海域でいつ正規の採掘施設の建造に着手しても不思議ではない。
いったん採掘施設が完成し、付近を中国の海軍が防御するような事態になったら、日本側は手も足も出なくなる。
すでに東 海艦隊の高速ミサイル艇部隊が、東シナ海で軍事演習を繰り返している。
わが国政府は中国との面倒な政治問題に関わりたくない、石油は中東で十分との考えのようで、日本の4企業が鉱区を設定し、先願権を持っているが、日本政府が許可を与えていないので、日本側海域での試掘はもとより探査すら行われていない。

さらに尖閣は、台湾と沖縄の中間地点にある。
万一、ここに軍事基地を作られたら、台湾は東西から中国の軍事基地に挟まれた形となる。
また我が国へのエネルギー、物資輸送の大動脈がここでも中国に牛耳られることになる。

◆9.中国に学ぶ領海防衛術
尖閣列島を中国流浸食術から護るためには、どうすれば良いのか?
国際法上は我が国の立場の方がはるかに強いので、あとは防御手段の問題である。
そこは調査船-軍艦-恒久的構造物建設という中国流浸食術に学べばよい。
第一に尖閣諸島付近の海洋調査や、自衛隊艦船の演習を活発化する。
フィリッピンと同様に、米国第7艦隊との共同演習なども牽制効果が大きいであろう。

第二に尖閣列島での実効支配を進める。96年6月に日本青年社が地元漁民の協力を得て灯台建設をした時に、日本政府は 中国政府からの抗議に屈して、正式灯台として認可しなかった。
もしそうしていれば、世界各国の海図に日本の灯台として記載され、日本の尖閣実効支配を世界にアピールできたのである。
灯台だけでなく、警官の常駐、漁民の保護施設建設など、定住と開発を政府が進めるべきである。

第三に、中間線の日本側での油田開発を早急に進める。
それは我が国のエネルギー供給の対外依存度を下げ、経済の安定性、独立性を高めることにも貢献する。

こうしたアプローチに対して、当然中国は猛烈な抗議をしてくるだろう。
そこで初めて国際法上、尖閣はどちらの領土か、中国側を議論のテーブルにつかせることができる。
もっとも勝ち目のない議論に乗ってこない可能性も十分あるが。

◆10.逃げ腰は危険
理性的な議論ではなく、恫喝や罵倒で攻めてきたら、ODA見直しをもって警告することである。
そもそもODA大綱では
「軍事支出、大量破壊兵器・ミサイルの開発・製造、武器の輸出入などの動向に十分、注意を払う」
と定められており、こうした行為を行っている中国には本来提供されてはならないものだ。
日本側が対中ODA見直しを言い出した途端に、中国があわてて感謝式典を行ったり、森首相の神の国発言の際も従来とはうって変わって、声高な批判を抑制していた。
ODA見直しは中国が最も恐れている我が国の切り札なのである。

南沙でも、尖閣でも、米軍が近くにいた時には、中国政府はおとなしくしていた事を思い起こそう。
相手が強ければ静かにしており、弱ければ傍若無人に振る舞う、というのが中国の外交パターンである。
「事を荒立てたくない、相手を刺激したくない」という日本政府の逃げ腰の態度は、中国側にさらに一歩進んでもよいという誤ったシグナルを送る事になり、今日の南沙を明日の尖閣にする最も危険なアプローチなのである。

ルーツ・ファンタジー/天皇制の本質 1

$
0
0
転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

★天皇制の本質

■鎌倉・室町そして戦国時代へ

源頼朝は朝廷の命を受け平家を倒した。
朝廷・貴族から警察権を譲渡され、国主の安住を保障した上で、鎌倉幕府が成立した。
当時の武士は、能力主義、実力本意であり、土地が生活の糧のすべてであった。
相続は法定相続ではなく、年が若くても実力があると認められた者に相続された。
一方で、貨幣経済が発達し、日本固有の法制度が整備され、二度の元寇を北条氏により跳ね返したが、経済的に鎌倉幕府は行き詰まってしまった。
この行き詰まりを打開したのは、朝廷の命を受けた足利氏だった。
室町幕府の時代となった。

足利氏は、国防、警察権をすべて地方に任せ、中国に土下座外交をして、経済のみを取り仕切り、利権を貪った。
貨幣経済はさらに発達したが、税として金銭を徴収するだけの無責任な幕府は、信頼されなくなっていった。
地方の治安は乱れ、土地から離れた者達による自衛団が結成された。

この自衛団は一揆を起こし、国主をも追放しもしたが、血縁・地縁による集団ではなく、平等の権利を持つ契約者として、神に宣誓した。
目的は、土地を守り、安全を確保する事だった。
集団どうしが集まり、契約により代表が選ばれた。
小単位ではあるが君主の権限を規定する法治国家としての特徴を備えていた。
これが合議制を基盤とする戦国大名である。
大きな時代のうねりでは在るが、モーセの律法の根底に在る弱者に対する慈悲と血縁・地縁を超えた合議制により正義を遵守する精神が、息づいている。
でなければ、武力により天皇制は滅ぼされていた。


■徳川家康の知恵
モーセの民は40年の彷徨の末、奴隷から国家を建国するまでに精神的にも成長した。
12部族に分かれ、各々は独自の役割・言葉・立法を持ち、互いに干渉は許されなかった。
部族内では頭領制では在るが、役職については、法定相続ではなく、実力による相続であった。

この社会システムを基盤に、日本式官僚制=大宝律令が導入され、鎌倉幕府以後にも引き継がれた。
鎌倉幕府の律法は、当時の社会常識を記述したものだった。
皇室・貴族、武士、農民それぞれにまったく別の律法を与え、互いに干渉しないとした。

学問好きの家康は、鎌倉幕府以来の律法を充分に研究した後、これを踏襲する形で天下統一の2年後に、用意周到に律法を制定した。
何ら新しいものは無かったが、新たな社会問題に対しては、過去の事例を踏まえて、法令を作った。
即ち「武家諸法度」「禁中並に公家諸法度」「寺社諸法度」「村法」である。

家康は2人の外国人を特別外交官として採用し、多くの学問を学んだ。
信長・秀吉・家康は、信仰の自由としてのキリスト教については、仏教の各宗派、儒教、道教、神道と同様に否定していない。
信仰の自由は守られていたのだが、宗教が政治結社化し一揆へと発展することについては、社会システムを守る為、宗派関係なく弾圧した。
特に、キリスト教は、絶対神で在るが故に、他宗教との共存が出来ず常に争いを引き起こし、ついには島原の乱の勃発にいたった。

(島原の乱他のキリスト教徒の頑迷さに対し、仏教界から批判が起こった。
キリスト教が教理を絶対とすることは、人の事を思わず「我が身を思う」ことであり、煩悩である。
煩悩を満足させようとすれば、却って「病を愛する」結果となり、「生に苦しみ、死にも悲しむ」ことになる。
であるから、「世間の法」を認めたうえで、世間での生き方を修行の手段とすれば、誰でも「自由」になれると仏法は述べている)

家康の制定した律法は、鎌倉以前からの常識や慣例をまとめたものであり、神武天皇当時のものがそのまま残っている。
ところが、日本に仏教が入ると、密教・道教・儒教がこれに混交した。
この日本式仏教が市民の中に浸透したのは、日本を穢地としインドを浄土とし憧れたからだ。
さらには、自然科学・医学がキリスト教として日本に浸透したのも、日本よりも西洋を極楽として憧れたからだ。

それは、国を失った十氏族が、モーセの律法を実践する場として、郷土から夢と憧れを抱いて日本に渡来した、さらには、出エジプト当時、エジプトを捨て、夢を描いてカナンの地へ向かった心理と同じではないのだろうか。

鎌倉幕府から江戸時代に至るまでの日本には、信仰の自由が有り、社会を良くする為に、どの宗教が優れているのかを横に並べ批判して取捨選択することが出来た。
その結果、仏教渡来時には官僚制を取り入れ、キリスト教熱が冷めると、合理的な部分(自然科学、医学)のみを社会に取り入れ続けたのです。
日本の縦割り社会、伝統と実力主義、新しい変化に柔軟な社会システムは、このようにして形成されてきました。

一方、シュメルを滅ぼしたアッカドは、シュメル文明に憧れ、言葉と文明を受け入れた。
古代欧州はギリシャに憧れ、言葉・学問を受け入れた。
ところが、キリスト教を受け入れたローマだけが、旧約聖書・ベブライ語、その風俗さえも受け入れなかった。
新約聖書は当時のアラム語ではなく、ギリシャ語に翻訳して出版されていた。
旧約聖書を反故にして、新約聖書のみを信じ込ませることで、全知全能の神として地球を支配しようとする悪魔の謀略を垣間見る思いがします。

■大和建国に想いを馳せて

政治屋が一番怖いのは民意です。
その民意を左右するマスコミの影響力は第四の権力です。
マスコミはあるキャッチフレーズで民意を操作します。
例えば「民営化」「金融ビックバン」「多様性」「政権交代」「政治主導」「霞が関解体」等など。
民意は事の真実ではなく、分かり易く、衝撃的な言葉によって形成されてゆく。
敗戦後には、「民主」「自由」「平等」「人権」「正義」なる美しい言葉で、GHQが日本国民を洗脳しました。
それは皇軍に対して悪いイメージを植え付ける為です。

概して左派はキャッチフレーズを駆使して民意を扇動することに長けています。
何時も保守派はその言葉に翻弄され続け、妥協に妥協を重ねて騙されてしまうのです。
対外的には、北方領土の二島返還、尖閣、竹島もそうです。

外国人参政権問題に、代案はない。
憲法違反なのだから、代案はない。
落としどころはない。

一方で分かり易い悪法を進め、それに対する反対を煽り立て、あるところでさっと引かせると、それ今が決め時、落としどころだと「現実的」な発言をはじめる。
どうしてそうなのか。
保守界に朝鮮カルトが正体を隠して入り込み、攪乱しているからと思えば、いろいろ符節が合うのではないか。

保守派は憲法改正を安易に唱えてはいけない。
その中身が問題で、その言葉だけに誤魔化されてはいけない。
その改正が悪しき改正になるのか、正しい改正になるのか。
自民党の自覚と検察の公正な法の適用と国民の正しい判断力及び良識に懸っている。

民主主義は二五〇〇年前の古代ギリシャのアテネで始まったと言われます。
そのアテネは誤った民主主義で滅亡しました。
アテネ人は民主主義や自由をわがまま放題と勘違いしてしまったからです。
プラトンの「国家」によるとその全てが今の日本と酷似している。
時代を超え人種を超えて人間の性格の本質は変わらない。
放って置くと衣食足りれば堕落するようです。


■サイコパスと共産主義
殺人鬼=サイコパスの特徴は、人を殺したいとの衝動が発端で、快楽殺人を繰り返すことです。
脳の一部が損傷、もしくは不当に肥大化しているという特徴があります。

サイコパスでも、個人的な人への恨みを晴らしたいだけであれば、それは単純な殺人でこと足りるのでしょうが、知能は非常に高いのです。
殺人願望がさらにエスカレートすると、社会全体を苦しめたい、大量殺人を行いたい、その手段を毎日毎日飽きることなく探求し続けます。
殺人鬼は、常に殺人衝動に駆られており、殺人のための大義名分を探しています。
もしサイコパスが、捕虜から情報を聞き出すような役割を命じられた場合、全精力と全知能を振り絞り、拷問方法を創造することでしょう。
最悪のサディスト達です。
だから、彼らには常に戦争が必要なのです。

フランス、ベトナム、カンボジア、チベット、中国、などで左翼革命が起こり、多くの難民が出ました。
今でも不当に弾圧され、飢え死にしているのが実情です。

日本や米国など多くの国々で、こうした革命が受け入れられないのは、民主的な政権と法治国家があるからです。
国家無くして、民主制度も、自由も平等も、人権すら存在しません。

世界中には報道すべき事実が、沢山あるのに、バラエティでお茶を濁し、無能国民を増産し続けようとしている。

共産主義、社会主義にカブレた者達、狂った政治家達は、常に社会への恨み、権力欲に取り付かれており、国家を苦しめたり、崩壊させる目的で、美辞麗句と嘘を手段として国民を騙し続けている。
マスコミ連中もまた、同じ心情で、マスメディアは醜い心情を開放するための手段でしかない。

現在の私達は、マスコミに洗脳されない事、サイコパスを自分の心の中に容認しない事。そして、社会悪を少しでも啓蒙する事だと思います。

■平和憲法と破壊衝動
H22年正論8月号で、金美齢さんが指摘する。

《日本国憲法前文「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」を信奉した結果、日本人は他国を善意の隣人と思い込むことで、自らの安全や主体性、運命を自ら決する姿勢を放棄し、それゆえに意思を持った国民である「国家」という認識が出来なくなってしまった。
選挙は単なる人気投票、大衆迎合の競い合いの場でしかない。

民主主義が衆愚政治に陥るときの大きな引き金がマスコミであることを国民は認識しなければならない。
国民は本当に自分の頭で考え、自覚しない限り、民主主義は衆愚に陥る。
国家・家族の基本で在る自助や共助ではなく、己の利害が第一と考える人々が、民主党の「国民の生活が一番」に無批判に投票したのだ。

国家の利益を置き去りにした奇麗ごとの追求の一つが、二酸化炭素の25%削減という国際公約である。
日本は先進的に削減に努めている。
肥満者が多数居る中で、痩の日本が更なる削減を宣言するのは滑稽である。
まずは、大量排出国に削減を求めるべきだろう。
ここでも「諸国の公正と信義を信頼」しての日本先行の一方的な譲歩がある。

事業仕分けで、17億円の予算を3千万円まで削減した。
直後、「はやぶさ」が帰還し、国民が快挙だと言い出した。
大衆に迎合し、予算を見直すと言う。
これこそが「国家」意識の欠落を表している。
国を牽引していく産業の育成なくして、「国民の生活が一番」などと言ったところでどうやって担保していくというのか。
民主党には、「国家」意識だけではなく、科学技術立国日本に対する基本方針は無い。

問題は民主党の判断が「国民目線」などという大衆迎合で行われている事なのである。
「国家百年の計」を考えるのが政治家の役目ではないのか。
過去と未来を含めた総体としての日本を守る姿勢が無ければならない。
「子供手当て」「高校無償化」「外国人参政権」「夫婦別姓」がそれに繋がるとは、到底思えない。

第一次安倍内閣を潰したのは「国あっての個人、個人あっての国」という事が分からなかった国民と、国民がパンとサーカスに興じるように仕向けたマスコミ、野党の無責任な攻撃だった。

「天は自ら助くる者を助く」。
この自助精神が民主主義に緊張と責任感を齎し、国と個人の関係を健全なものにする。
しかし、戦後の日本は「諸国の公正と信義を信頼」に頼りきり、国家国防を忘れ、「国民の生活が一番」から「結果平等主義」が幅を利かせている。
平等を強いれば、結果は低位の方に無理やり合わせる。
それでは人は生き甲斐や働き甲斐を感じられなくなる。
菅首相が語った「最小不幸の社会」とは、実は人間の幸福追及の意欲を殺ぐものではないのか。》
(引用終わり)


金さんにまったく同感です。
戦後の日本は「諸国の公正と信義を信頼」に頼りきり、国家国防を忘れた。
その結果、「国民の生活が一番」から「結果平等主義」が幅を利かせ、社会主義化へ突き進もうとしている。
これも破壊衝動である。

日教組の「結果平等主義」により、勉学意欲の低下、やる気の喪失、不登校、イジメが大きな社会問題化している。
しかも、この鬱積は、鬱病、低体温症とも関連しており、健全な精神と肉体が蝕まれている。

実現不可能な美辞麗句を並べ、目的の為には総てを手段として、良心を捨てる事を正当化する共産主義思想は、破壊衝動そのもので在るサイコパスを量産する。

破壊衝動の原因となるのは、
「諸国の公正と信義を信頼」
「国民の生活が一番」
「結果平等主義」・・・
共産主義だけではない。

例えば、ケニア第二のスラム、下水溝は剥き出し、ゴミの中に人が住み、エイズ患者が多く、孤児が溢れている。
明日食べるものも確保できない。
そこで、お金を寄付したところ、むしろ働かなくなり、お金くれと文句ばかり言うようになった。
必要なのは、学校と職場なのだ。
与えられることは、実は奪われることだ。
スラムの人々はお金を与えあられたことで、自らの手で生きる幸せを奪われたことになる。

私達は与える事が奪うことだということを忘れてはならない。

「諸国の公正と信義を信頼」という蜃気楼により、平和を与えられた日本人は、国家・国民・家庭の価値をGHQから奪われてしまった。
見失ってしまいった。
正常な精神を取り戻さない限り、破壊衝動が「国民の生活が一番」「結果平等主義」という魑魅魍魎を蔓延させてしまい、未来への希望を総て奪ってしまうことでしょう。
最後に、私達は本当に自分の頭で考え、自覚しない限り、正法もまたは衆愚に陥る。

「国民の生活が一番」とは、国益であり、民主主義であり、税金であり経済の安定てす。
その為の軍備であり、国民の愛国心です。

戦前は曲がりなりにも殆どの国民は、金さんと同じ心を持っていました。
権利の存在するところには、義務と責任も同時について回っていることを日本人は忘れています。
取り返しの付かない所まで行かないと目覚めないのでしょうか?!


■悪魔の思想と共産革命について
~政党の哲学、異端の思想を読んで~

皇帝思想は一人の独裁者とその一族が、他の総てを支配するシステムです。
独裁を支える為、皇帝に使える官僚が居り、これを科挙の試験で選別し、中国式儒教はこの体制を強化した。
人民は単なる民草とされ、草木と同じように取り扱われた。
大東亜戦争、日本撤兵直後から、中国は内乱に陥り、様々な思想があったが結局は、共産主義という体制を用いて、皇帝思想=中華思想を再建した。
彼らにとっては、清王朝→日本帝国→共産中国へと王朝が移ったのだ。
共産主義を道具として易姓革命を実現した。
だから、日本を徹底的に否定する。
天帝は至高神の事で、古代中国ではヤハウエを現していたが、いつの間にか神を失ってしまった。
その結果、個別の王朝の皇帝は、全人類の上に君臨するメシアと見なされて来た。
であれば、再臨のイエスのそのものである。
ここに、ヨハネの黙示録の原型を見る思いがする。

一方、旧ロシアにはギリシャ正教由来のメシア思想が在る。
ロシア帝国・ロシア国民は、真正のキリスト教=ギリシャ正教によって全人類に光明を与えるべき神聖な使命を持っていると信じ込んでいた。
このメシア思想の信奉者で在るレーニンは、共産主義体制を利用して革命を実現し、旧ソ連が誕生したのです。

結局、旧ソ連も共産中国もまったく同じ図式により、国民を大量虐殺する悲惨な共産主義へと突き進んでしまったのです。

『日本国憲法失効論』を読むと、ユダヤ教・旧ソ連・共産中国と同じ図式が、植民地支配の道具である日本国憲法にも、そのまま当てはまる事が分かる。
日本国憲法は、天皇と臣民の国体を、天皇制を継続しながらも、天皇の存在理由を主権在民とし、諸国民の良心と信義を信じて、すべての軍事を放棄している。そして、エジプトの奴隷であったイスラエル人同様、依然として奴隷根性から抜け出していない事が明らかになる。

さて、共産主義思想のルーツは、フランス革命にある。
フランス革命に思想的な根拠を与えたのは、デカルトの人間理性への信頼の哲学である。
これをルソーが引き継いだ。
ルソーは、現在の政治体制・教会・歴史を旧体制として全否定し、理性による支配を提唱した。
旧体制に代わり「人民主権」、「平等」を絶対視させる事で、不満を扇動し、旧体制を破壊しようとしたのだ。

恐ろしいことにルソーは、善悪の区別の出来ない者達を「自然人」と定義し、理想的な人間とした。
この思想を引き継いだのは、マルクス・エンゲルスである。
ちなみに弁証法は、善と悪が発生し、善と悪が融合する事で、悪に染まる事を意味しており、これが「自然人」である。

つまり、人間の知性を絶対視する事で、全人類を支配する唯一者=皇帝=レーニン=全知全能の神が地上に誕生したのです。

善も悪もそれぞれの根源は一つ。
悪魔の思考のパターンはいつも同じで、時代に応じて現れ方と役者が違うだけです。
悪は人類を支配し悪の王国を建国しようと、共産主義思想を利用する。
善を滅ぼし、悪を栄えさせるための手段でしかない、
中国もロシアも独裁支配の強大化のために、自由主義と資本主義の市場経済主義を利用しているに過ぎないのです。

更に共産主義者は日本の天皇をも利用しようとしています。
戦後、天皇制度が生き残ったのは、昭和天皇のご人徳によるものでありますが、一歩覚めた目で見れば、天皇制を政治利用するために温存させていたとも考えられます。
つまり天皇を崇拝する国民を支配するには、天皇制度を認めた振りをして影から天皇を牛耳れば、日本国民を支配することが出来る。
だから日本にとって如何に正当な天皇制であろうと、常に危険に晒されているということを感じ取らなくてはならない。


■ルーズベルトの亡霊と事業仕分け
ポツダム宣言において、軍は無条件降伏であったが、他は無条件降伏では無かった。
言論と思想の自由、自国憲法は尊重されるべきものであったし、
戦闘行為においても、当時の国際法では、国家の権利として罪ではない。

ところが、マッカーサーは無条件降伏だとして、日本に乗り込んできて、絶対者としての独裁をしいた。
結果、陛下を人質とし、言論と報道をすべて統制し、不正な東京裁判を強行した。
パール博士は『裁判は同情でするものではない、真実であるから無罪の判決をするのだ』と言われた。
まさにその通りである。
しかも、マッカーサー自身が、東京裁判は過ちであると、後に公言している。

では何故、当時のマッカーサーは、無条件降伏だと日本国民に欺瞞を押し通せたのか。

大東亜戦争勃発の昭和17年、ルーズベルトが発案した無条件降伏方式が、連合国宣言に取り入れられた。
ルーズベルトは国家の無条件降伏という新しい方式を考えた。
即ち、敵国に賠償金や領土割譲という報復を課すだけではなく、進んで敵国の精神的な破壊を齎す国家改造方式を考え出した。
無条件降伏とは、一切交渉抜きで敵国を降伏させ、一方的に敵国を統治、改造する事である。

・敗者の発言権を奪い、勝者が何でも出来る権利を確保する。

・敗者の長期的無力化と半永久的な武装解除。

・長期間の占領下で、徹底的に社会的基盤を破壊し、新しい国家に改造する。

第一次世界大戦後までは、全世界の人々の間には戦後の敗戦処理に対し、このような理不尽な発想は皆無であった。

東京裁判がただただ無法に行われたのは、トルーマンがマッカーサーに対し「最高権力者で有るから何でも出来る」と無条件降伏の趣旨を伝えた事が背景にあった。
マッカーサーの日本軍に対する恨みを晴らす事、
世界の正義を破壊し、日本に自虐史観を植え付け、永遠の贖罪の民に変える事、神の守護される日本を徹底的に破壊する事が、東京裁判そのものだった。

イエスを殺した民が、罪もないユダヤ人をエスケープゴートに仕立て上げ、半永久的に流浪の民とした事実が二重写しになる。

ルーズベルトの当時、誰も考えつかない非情な無条件降伏は、彼が悪魔の支配下にあったことを物語っていると思う。
この日本を覆っている自虐史観と亡霊を一掃することは、聖戦でも有る。

■『徳の国富論』より
本書は、戦後のマルクス理論による階級闘争史観に捕われた江戸以降の近代史を、正してくれるものだと思います。
同時に、『日本人とは何か』山本七平を併読されることをお勧めします。
著者のあとがきを抜粋しました。

《民主党政権下で日本が力を失おうとしているが、それは日本のこれまでの目覚しい発展をもたらしてきた力を、衰えさせてきたからである。
その力は、優れた伝統文化から発したものだった。
その力は江戸時代に磨かれて、蓄えられた。

江戸時代の日本の実相は、今日多くの日本人が、信じているものとは、余りにかけ離れている。
当時の世界最大の百万を越す人口を抱えていた江戸の町は、実は優れた自治社会であり、庶民が自由で豊かな生活を楽しんでいた。
商業以外にも、歌舞伎や浮世絵など世界に冠たる文化が栄え、十九世紀には西洋美術にまで影響を与えている。

アメリカでは先住民族を虐殺、駆逐し、アフリカから夥しい奴隷を輸入していた同じ時代に、日本は奇跡とも言える調和社会を作り出していた。

江戸時代が「士農工商」の身分制度による圧制社会だったと、見なされるようになったのは、最初は明治政府が「御一新」を合言葉として、欧化政策を進めるために宣伝したこと、
次は日本文化の総てを悪と断じた占領軍の政策によって、広められた。

日本が力を蘇らせる為には、明治の奇跡の基盤で在る江戸時代を再評価することが必要だと、信じている。
世界に類を見ない繊細で、調和のとれた日本文明は、日本人の徳と美意識が生み出したものだ。

人々はその時々の時代精神と、先人が伝えた伝統精神が交差するところで、生きなければならない。
この二つの精神の間に均衡が取れていれば、何処の国だろうとまっとうな社会を営む事が出来る。

江戸二百七十年、人々はこの真理をわきまえていた。
それぞれの暮らしの中に在る恵みを拾い上げ、天にも、地にも、木々にも、雨風にも、竈にまで神を見て、奢ることなく、自己の本分を尽くして、互いを活かしあう穏やかな国民性が培われた。

江戸時代の成熟した安定社会を生み出したのは、身分制度を超えた国民的な「徳」の力によるものだった。
その徳こそ、最大の富なのである。

■『日本国憲法失効論』を読んで

日本が受諾したポツダム宣言は無条件降伏ではなく、
「一切の日本国軍及び軍隊の連合国に対する無条件降伏」とある。
つまり、日本国体を解体し、日本占領の為の暫定法を日本国憲法として力により押し付けることは、違法だった。
米国及びマッカーサーまでもが、ハーグ条約に抵触する事を認めている。

天地創造のゴッドとは違い、当時の日本では天皇は現人神、即ち伝統的な呼び名で有り、誰もが人間だと分かりきっていた。
詔書に「終始相互の信頼と敬愛により結ばれ、単なる神話と伝説とによりて生じたものではない」とあり、天皇と臣民の関係が明確にされている。
戦後の天皇人間宣言は、当時の日本人にとって不可解のそのもであり、現在でも放映され続けている録画は、日本人を洗脳する為のものです。文言までも戦勝国に強制されていた事が分かる。
立憲君主国としての統治は、「天皇と臣民」=「国と国民」との間に築かれた伝統に基づく信頼と敬愛を基盤とした君民共同の主権だった。

戦勝国は、日本弱体化に向け、違法で在るにも拘らず、天皇制の廃止を人質にして、欺瞞の極東裁判を行い、日本国憲法を押し付けた。条件降伏で在るにも拘らず、当時の日本に主権は無く、英雄が殺され、言論が統制され、GHQに反する者は処分され、自主憲法まで破棄させられた。
つまり、占領中の日本は、旧ソ連と同じく、収容所列島だった。

GHQは罪の隠蔽の為、日本を戦前と戦後に二分し、戦後の日本は善、戦前の日本は悪と決め付け、伝統と宗教を殲滅しようとした。
これは、共産革命と同質だった。

この為、護憲派と反米が大きな潮流となった。
護憲派は左翼であり、社会共産革命を齎す。
自主独立を目指す反米勢力ではあるが、左翼革命に繋がる様相だった。

しかし、陛下の我が身を捨てても臣民の幸福を願うお姿、そしてこれに応える臣民との敬愛と信頼関係が、戦後の日本を救ってきた事に、再度思い至りました。

日本国憲法は、国防放棄、左翼運動を抑止できない、衆愚政治から左翼革命へと進む危険性を阻止できないでいる。
しかも、国民全体が一丸になって政治を行う基盤が、日本国憲法に欠けている事を、本書は指摘している。
そして、自主憲法で在る明治憲法には、世界に類の無い君主と臣民との信頼と敬愛を基盤とする民主主義が体現されており、臣民の権利は無条件ではなく、律法に織り込まれていた。
目の覚める思いがしました。


下記、『日本の歴史 戦後編』より抜粋

◆日本国憲法は「占領政策基本法」
戦後を特徴づけた最大のマイナス要因が占領政策、なかでも公職追放令だとしたら、一般にプラス要因とされているのが新憲法(日本国憲法)だろう。
新憲法は、日本の新しい出発と平和の象徴として扱われてきた。
特に第九条は神聖視され、もはや宗教の段階にまで高められているのが現状である。

連合軍による日本の占領はポツダム宣言受諾によって始まった。
ポツダム宣言を受諾するにあたって日本は、国体が維持されるかどうかをたしかめるために連合軍に問い合わせている。
つまり天皇陛下をどうするかということだが、その時、連合国側は、天皇は連合国軍総司令官に「Subject to」と答えた。
直訳すると「天皇は隷属する」ということだ。
これを聞いた日本は、「隷属するなら廃止されるわけではない」のだと解釈し、ポツダム宣言を受諾したのである。

ポツダム宣言受諾の決断は、明治憲法第十三条にある「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」という「天皇の外交大権」によるものだ。
しかし、占領されると天皇は「Subject to」だから、占領軍の下に置かれることになった。
したがって、当然ながら占領下の日本には主権がなかった。
一番わかりやすい例を引けば、憲法は主権の発動によるものだと言うが、新憲法が発令された後でも、日本国内で日本の刑法によらずに死刑が執行された。
東京裁判である。

日本の新憲法が主権の発動でないことを、これほどわかりやすく示したものはない。
憲法の上にもう一つ憲法があるなどあり得ないことだ。
すなわち新憲法はふつうの憲法ではないということを理解することから始めなければいけない。
日本の憲法学者はさまざまなことを言うが、「主権のない時代に主権の発動たる憲法ができるわけがないではないか」というのが、一番まっとうな憲法に対する考え方だと私は思う。
では、日本国憲法とはいったい何なのか。

占領軍は直接軍事占領を行う予定でいたが、重光葵外務大臣の努力によって間接統治になった。
日本政府の上に占領軍があり、占領軍は日本政府を通じて日本国を統治するという図式だ。
日本国憲法は、この図式の中で占領軍が日本支配を都合よく行うための「占領政策基本法」だったのである(独は「占領政策基本法」と呼んでいた)。

これに対して今の護憲学者は、
「日本国憲法には天皇陛下のまえがき(上諭)もついており、議会でも議論したことになっている、
枢密院でも精査したことになっているではないか」
と言う。
しかし、大学で憲法を教えているような憲法学者の言うことには聞く耳を持たないほうがいい。
なぜなら、憲法というのはすでに存在するもので、憲法学を教えるということは今ある憲法を解釈して飯を食うということだからである。
その憲法を「憲法でない」などと言ったら飯が食えなくなる。
そもそも、憲法ではない日本国憲法を憲法だと言った親玉は、占領下における東京大学法学部教授であった宮沢俊義氏や横田喜三郎氏である。
今から見れば売国的な憲法学者だと言える。
その弟子たちが恩師に憲法学の席を譲ってもらって、「日本国憲法は憲法ではない」などと言うわけがない。
だから今の、特に東大から派生した憲法学者の意見など参考になるはずがないのである。

※ハーグ
「陸戦の法規慣例に関する規則」
占領者は、可能な限り占領地の現行法を尊重し、公共の秩序と生活を確保しなければならない。

◆新憲法は失効させるべし
ポツダム宣言で天皇は「Subject to」された。
その後、憲法を作れという命令が下り、草案まで押しつけられた。
それを新憲法にするために「憲法草案委員会」というものが作られたが、九九パーセントは占領軍の原案を翻訳するのが仕事だった。
日本の委員たちが草案を作ったわけではない。

「条約憲法」という概念がある。
日本が連合軍の占領下にあり、天皇陛下も連合国軍総司令官に隷属されていたということは、つまり、日本政府そのものが連合軍に隷属していたのである。
その中で新憲法を作ったということは、これは占領軍とのポツダム宣言に基づく条約だと考えられる。
言い換えれば、日本国憲法は条約憲法で、ふつうの憲法ではない。
正確に言えば、占領政策基本法ということになるだろう。

条約憲法だから、条約の終結時、つまり独立回復時に、日本政府は日本国憲法を失効とし、主権の発動たる憲法、つまり普通の憲法の制定か、明治憲法に復帰を宣言し、それと同時に、その手続きに基づき明治憲法の改正をしなければならなかった。

フランスはドイツに占領されビシー政権になった経験があるから、国土の一部、および全部が占領されている時は憲法を改正してはいけないことになっている。
そしてド・ゴールが政権を取った時、ビシー政権で制定されたことはすべてなかったことにした。

今、日本国憲法を改正しようという議論があるが、これは必ず後で傷となる。
素人の私にも気がつくことに、将来の憲法学者が気づかないわけがない。
主権のない時代に作られた憲法を改正したりしたら、独立後の日本人がその憲法に正統性を与えたことになるという議論が後に必ず起こる。

もちろん、新しく作る憲法の中身は現行本国憲法と同じでもいい。
しかし、今の憲法は一度失効させねばならない。
・・・
ところが、「占領政策基本法」である日本国憲法を本物の憲法だというようなインチキな主張をたてにとると、すべてがおかしくなる。
何かにつけて「日本の常識は世界の非常識」になったわけである。

◆第九条は宗教として考えよ
日本国憲法の中でも、とりわけ第九条は神聖視されている。
共産党や社民党が第九条を神聖視するのには理由がある。
そもそも当初、共産党は第九条に反対していたのだが、それが以下のような理由で神聖視することになった。

冷戦構造が明確になり、日本でも占領軍の要請により警察予備隊ができると、日本は明らかに西側につくことになった。
日本がアメリカ側について武力を増強すると、戦前の二大軍事国家が連合することになる。

アメリカと日本を戦前の二大軍事国家というのは嘘ではなくて、航空母艦主体の機動部隊を作る力があったのはこの二国だけだった。
ソ連の海軍はなきに等しかったし、ヒトラーも航空母艦を持っていなかった。
イギリスは持っていたけれども機動部隊を作るほどではなかった。
アメリカと日本の軍事力が突出していたのだ。

その日本が第九条の縛りもなく、アメリカと同盟を組んで行動するとなると、ソ連など敵ではない。
だから、スターリンが第九条を守れという指令を出した。

外務省の人から聞いたのだが、サンフランシスコ講和条約締結の頃からすでにスターリンの命令は届いていた。
日本がサンフランシスコ講和条約を結べば、西側につくことは明白だった。
だから日本の左翼的知識人は血眼になって反対し、全面講和を主張した。

日本が四十数カ国と講和条約を結ぶのに反対したのは、ソ連とその衛星国二~三カ国でしかなかった。
そのたかだか二~三カ国を除いて講和条約を結ぶことを、南原繁東大総長をはじめとする知識人たちは単独講和だと言って反対したのである。

吉田茂首相は全ての党をあげて講和条約にサインをしたかったが、共産党、社会党は最後まで反対した。
それほどスターリンの命令は重かったのだ。
スターリンの命令から始まった嘘に左翼は酔える。
オウム真理教に酔えた人もいるくらいだから酔えるのだろう。
つまりは、馬鹿げたことではあるが第九条は宗教の域に達しているのだ。

『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)を書いた宗教学者、中沢新一氏もオウム真理教を弁護した一人である。
オウム真理教に酔ったように第九条に酔えるのだろう。

宗教とはそうしたもので、オウム真理教の教祖・麻原彰晃の空中浮遊など、正気では信じられないことも信じてしまうものなのである。
第九条も同じだ。両手を挙げて攻めてきてくださいというのだから、正気の人には理解できない代物である。
しかし、宗教にはなる。

だから第九条は憲法論として考えるのではなく、宗教論として考えるのが適当だ。
法律論として考えると馬鹿馬鹿しいが、宗教上の信念として「上着を取られたら下着も差し出します」とか、「右の頼を殴られたら左の頼も差し出します」というのはいいだろう。
しかし国を預かる人が、「対馬を取られたら島根県も差し出します」では困る。

◆明治憲法と新憲法
成文憲法を最初に作った国はアメリカである。
ヨーロッパからやってきた人たちが自由を求めて作ったものだが、いざ作ってみたら「言論の自由」や「宗教の自由」を書き忘れていた。
そんな欠陥だらけの憲法だから常に改正を続けている。

戦後のドイツ憲法も同じで、常に変化している。
つまり完璧なものなどないということだし、変わらなければ憲法は生きていないのと同じなのである。

憲法、「CONSTITUTION」は直訳すれば「体質」という意味だ。
つまり憲法は国の体質であって、昔、「国体」と訳していたのが正しい。
国の体質が変われば、憲法は時代に合わせて変化してもいいのだ。

イギリスにはちゃんと書かれた憲法、
「Written CONSTITUTION」
というものはない。
立憲君主国でありながら、理想的なのは憲法を作らないという選択だったのだ。
しかし、「CONSTITUTIONAL」(憲法的・国体的)と言われる法律はある。

イギリスでは重要法案が通ったりすると、「あの法律はCONSTITUTIONALだ」と言う。
体質に関わるほどの法律であるという意味だ。
そして新しい法律ができ、それが古いものと矛盾すると古いものが自然と無効になる。
それほどシステムは簡単だ。
イギリスは書かない憲法を選択した。

アメリカは独立したことを世界に示さなければならないため憲法を書いた、
つまり成文化した。

革命を起こしたフランスも同様に文字にした。
すると、書くとわかりやすくて都合がよいということで立憲運動が起こり、それが明治の日本にも入ってきたのである。

ちなみに指摘しておけば、天皇の地位については、明治の帝国憲法でも占領下の新憲法でも変わっていない。
ポツダム宣言を受諾する時、鈴木貫太郎内閣は「天皇の国法上の地位を変更する要求を含まざるもので諒解する」ということを述べていたが、これは実現した。というのは帝国憲法においても法律を作るのは天皇でなく議会であった。
議会が作った法律の発布に天皇の名前と玉璽が使われたのである。

これは現在でも同じで、法律は議会が作り、その議会の開会や法律の発布には天皇の権威が関与する。
天皇を日本国民の、つまり日本統合の「象徴」と考えることは明治時代から普通であり、新渡戸稲造の『武士道』にも用いられている表現である。
天皇に対する国民の反乱など、フランス革命みたいなものは日本ではなかったのであり、「天皇 VS 国民」の対立ではなく、常に「政府(幕府)VS 国民」であった。

天皇・皇室に関することで占領軍が根本的に変更したのは、「憲法」においてではなく、「皇室典範」に関してであった。
「皇室典範」は前に述べたように、「皇室の家法」であって、憲法とは関係ないと明言したのは、「皇室典範」を成文化した責任者の伊藤博文であった。

ところが占領軍は「皇室典範」を「憲法」の下位法規にしてしまったのである。


◆明治憲法と日本国憲法、こんなに違う

大日本帝国憲法(明治憲法)には、男系男子の天皇と臣民の敬愛と信頼を基盤とした立憲君主制度が語られている。
ここで、この国体を自分の子孫に引き継ごうとして、英国王室同様に、伝統に従い国体を神聖と見なし、変革を許さない=「犯すべからず」というような表現になったのでしょう。

明治憲法での臣民の権利は、憲法の範囲内だと明記されている。
また、独立国である証拠として、第八条に
「天皇は公共の安全を保持し、またはその災厄を避ける為緊急の必要があれば、帝国議会が閉会の場合、律法に代わるべき勅令を出す。
しかし、議会において承諾されない場合は、効力を失う」
とあり、緊急事態に備え日本の安全と国民の安寧を守る意思が表明されています。

一方、日本国憲法は、それまでの日本の伝統と常識を捨て去り、基本的人権、主権在民を侵す事の出来ない永久の権利として絶対化し、憲法の上においている。
さらに、諸国民の信義を絶対化し、防衛力を含む一切の軍事を放棄させ、国家の威光としての戦闘行為を認めていない。

更に、国民の権利が無制限=絶対化にならないよう公共の福祉の範囲、律法の範囲というような制限を設けていない項目が散在しています。
なによりも、天皇の地位が国民主権に従属されており、これはGHQが天皇制の廃止を企てたものです。

さて、これから明治憲法と日本国憲法(事実はGHQによる日本占領政策)とを比較します。
下記の通り、日本国憲法では、国民の安全と財産生命の保護の担保は無く、無制限で侵すべからざる信仰の自由、言論の自由、労組の自由を保障しています。
しかし、明治憲法では主権の言葉は出てこないのです。
というのも、国体において、天皇と国民とを分けてしまい、主権在民、主権は君主に在るとかというような考えが無いからです。
古来日本の国体は、君臣合一(君臣共治)の道義国家を目ざしており、しいていえば主権は君臣の合一に在るからです。

日憲:
信仰の自由は何人もこれを保障する。
如何なる宗教団体も特権は無い。
国及び機関は、宗教教育その他のいかなる宗教活動もしては成らない。

明憲:
臣民は安寧を妨げず、臣民の義務に背かない限り信教の自由を有する。

日憲:
集会、結社、言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

明憲:
臣民は法律の範囲内にて言論著作集会及び結社の自由を有する。

日憲:
検閲、通信の秘密は、これを侵してはならない。

明憲:
臣民は法律に定める場合を除く、外信書の秘密は侵されない。

日憲:
議員は、議会で行った演説討論表決について、議会外で責任は問われない。

明憲:
議員は、議会で行った演説討論表決について、議会外で責任は問われない。
ただし、議員がその言論を公布した場合は、法令により処分される。

日憲:
勤労者の団結、団体交渉、団体行動をする権利は、これを保障する。

明憲:
対象無し。つまり、必要なかった。


日本国憲法では、国を滅ぼす左翼運動、労組運動、左翼マスコミの扇動を制限できない。
「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」
と既定されているにも拘らず、日教組は特定イデオロギーに染まり、違法な政治活動を続けている。

この亡国憲法が、君臣合一の天皇制を崩壊させ、左翼教育を蔓延させ、日本人の良心を失わせ、現在の日本の混乱と堕落の張本人と言えよう。

一方で、授業では社会が嫌いで、先生の話もまともに聞いていなかった私のようなものでさえ、個人の自由は他の人の迷惑にならない範囲で、法律の範囲内だと、暗黙のうちに了解している。
それは、昭和の時代、素朴な両親や親族の背中を見て育ったからだ。

大東亜戦争に敗北し、植民地支配のまま、昭和天皇亡き後、日本人の精神的な支柱が崩壊し、これを埋めることが出来ずに居る。


◆明治憲法は責任内閣制度が無い
(『日本の歴史 昭和編』 P106 )

明治憲法には責任内閣の制度がなく、
内閣の規定もなければ内閣総理大臣(首相)の規定もない。
明治憲法公布の四年前(一八八五年)に内閣制度ができてはいるが、内閣および首相の存在は、明治憲法の条文に立脚したものではない。

行政府たる内閣の規定がないのだから、内閣が軍隊を指揮するという規定もない。
また、議会が軍隊を監督するという条文もない。
やがて、天皇の信任を得ていた明治の元老院が亡くなっていくと、この欠陥が顕わになった。

この欠陥に気づいた一部の海軍高官は、昭和5年(一九三〇)のロンドン海軍軍縮会議をきっかけに、いわゆる統帥権干犯問題を起こした。

※ちなみに、
明治の元老院は子孫にその地位を継がせることも、地位を利用して蓄財することも無かった。


◆ロンドン軍縮会議が引き金となった統帥権干犯問題
(『日本の歴史 昭和編』 P107 )

ロンドンで海軍軍縮会議が開かれた昭和五年は、満洲事変の前年である。
日本の抵抗にもかかわらず、軍縮の対象には主力艦に加えて、補助艦や潜水艦までが含まれることになった。
これは、明らかにアメリカの日本攻撃を有利にするための決定であると考えられた。

当時想定されていたアメリカの対日攻撃計画は、主力艦を中心に、航空母艦、巡洋艦、駆逐艦が周りを取り巻き、直径何十キロもの大円陣を作って日本に迫るというものだった。

実際にアメリカ海軍は演習を行っていた。
また、日本海軍も、その大艦隊を小笠原沖で迎え討つという想定を持っていた。

しかし戦艦の数からいっても、日本が必ず勝てるかどうか分からないほどの大艦隊である。
そこで、日本海軍のプランとしては、主戦場となる小笠原に近づくまでに、一隻でもアメリカの戦艦を減らそうと考えた。
それは、第一次大戦で日本がドイツから委任統治領として受け取ったマーシャル群島やトラック群島の珊瑚礁の島々に、潜水艦を潜ませて攻撃するという苦肉のアイデアであった。
ほかに選択肢は考えられなかった。

この計画で重要な役割を果たす潜水艦の数を条約で制限するということは、明らかに日本の作戦への妨害であると日本側では考えた。

しかし、当時の国際世論や英米両国との力関係などから、日本の首脳はロンドン条約を締結せざるをえないと判断した。
ところが、代表団の帰国を待ちかまえていたのは軍部の厳しい反発であった。

条約締結の責任者とされた濱口雄幸首相は東京駅構内で右翼の青年にピストルで狙撃され、重傷を負った。
これだけでは終わらなかった。

海軍の軍備は、明治憲法第十一条及び第十二条に規定された「統帥権」(軍隊の最高指揮権)にかかわることであり、天皇の専権事項だから、政府が勝手に軍縮条約に調印することは天皇の統帥権を干犯する憲法違反だと、軍部が政府攻撃を激しく行うこととなった。
濱口首相の暗殺の動機も、屈辱的ロンドン条約によって神聖なる統帥権が干犯されたと信じての公憤によるものとされた。

濱口首相の「統帥権干犯問題」についての議会答弁は立派なものであった。
その主旨は次の通りである。

《明治憲法の第十一条、十二条はたしかに天皇の統帥権を明らかにしているが、十三条は天皇の外交大権を規定している。
だからと言って天皇が直接に外国との条約を決めているのではなく、外務省を通じて、つまり立憲制度のなかでの責任内閣を通じて外交を行っている。
統帥権についても同じではないか。
(天皇はルイ十四世でもフリードリヒ大王でもないのであるから)》

これは筋の通った立派なものである。
しかし当時の野党政治家(鳩山一郎、犬養毅など)はこれを政局の問題にし、マスコミもこれに乗った。
日本の悲劇の始まりである。

こうした世論の動きを見て、ロンドン会議の五年前(大正十四年=一九二五年)に四個師団を廃止され、軍縮を心配していた陸軍も共感した。
そして陸軍も憲法を盾に「政府の言うことを聞く必要はない」という理由をこしらえたわけだが、それを関東軍はさらに拡大して「政府の言うことも、陸軍中央の言うことも聞く必要はない」としたのである。

東京にいる陸軍首脳は関東軍の暴走に激怒したが、それは元を質せば、国家全体の指揮系統を乱した彼ら自身の責任なのである。

ルーツ・ファンタジー/天皇制の本質 2

$
0
0
転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

★天皇制の本質

■『日本国憲法失効論』を読んで(続き)

◆関東軍はなぜ暴走したか
(『日本の歴史 昭和編』P105 )

アメリカとシナで連動しての反日運動、米国のホーリー・スムート法をきっかけとして始まったブロック経済による不況、「天皇制打倒」を唱えるソ連共産主義に対する軍事的・イデオロギー的恐怖--この三要素が相まって、日本も真の危機感を抱くようになった。

昭和初年において、このような状況に対して最も危機感を募らせたのは、満洲にいた日本陸軍、すなわち関東軍の将校たちであった。
満洲ではコミンテルンに操られた反日運動が、民族主義の形をとって過激化しつつあったのである。
この危機感が日本陸軍に昭和六年(一九三一)、満洲事変を起こさせた。
満洲の諸都市を制圧するという軍事行動が、本国政府の意向を軽視して行われたのである。

彼らは満洲北方で、直接ソ連軍と対峙していたし、また、満洲内部では蒋介石や張作霖らが率いるシナ軍がいたるところで反日的行動を行っていて、日本人入植者(それには多数のコリア人も当然、含まれる)の生命や財産がつねに危険に晒されていた。

しかるに当時の日本政府は、幣原外相の方針で、徹底した国際協調外交を打っている。
それは「軟弱外交」と言われたほどで、シナ大陸で日本人居留民の生命が危険に陥っても、武力を用いず、話し合いで解決しようとしたから、満洲在住の日本人も関東軍将校も「日本政府は頼りにならない」と思うようになつた。

このような事態を打開するために、関東軍は昭和六年(一九三一)九月十八日、満洲事変を起こし、さらに満洲国(昭和七年三月一日建国宣言)を独立させたのである。

もちろん、日本政府の方針をまったく無視し、出先で勝手なことをやった関東軍将校の行動は暴走としか言いようがない。
この暴走は、陸軍の中央でさえ知らないところで起きたのであるから、事はさらに重大である。

このような事態になったのは、もとはと言えば、首相も内閣も規定されていない明治憲法の欠陥に起因する。

※皇軍および政治家それぞれは、国体を堅持し、生命を賭してでも日本を守ろうとした方々が多かった。
それは、東京裁判での弁護人陳述、東條英機の陳述、特攻隊に見る精神性の高さから明らかである。
しかし、昭和天皇の英米戦を何が何でも避けようとされたお気持ちに対し、政治と軍部がかみ合わなかった。
これが英米戦に突入した日本側の欠点であった。
元老院の方々が生きていれば、英米との決定的な決裂は避けられていたかもしれない。




◆日本憲法が甦る
『取り戻せ日本を。明治憲法がよみがえる』から抜粋

いったん憲法を破棄すると、現行憲法下で制定された法律その他の一切の行為が「効力を有しない」、つまり無効となってしまいます。
憲法を廃止した結果、刑事訴訟法も家族法も自衛隊法も、戦後の裁判も行政行為も、すべて無効となる。
それでは、あまりにも暴論に過ぎるのではないか、そうした懸念もあって、廃棄論より改正論の方が、より多く支持されているのでしょう。

※いったん破棄すると、憲法論上、明治憲法に戻るわけです。
例えば、皇室典範も、明治典範に戻るのです。
そうなれば、皇位継承問題も解消してしまい、加えて旧皇族の皆さんが、復帰することになります。

◆現行憲法が優れている点は残す

ならば、生まれ変わる新しい憲法は、どのような姿になるべきなのか。
それを考えるために、明治憲法と戦後の現行憲法を比べてみましょう。
現行憲法は廃棄されるべきだと申し上げましたが、実は、明治憲法より占領下の現行憲法のほうが優れている点が、いくつかあります。

その一つが、内閣総理大臣に関する規定です。
実は、明治憲法には「総理」に関する規定がありません。
いや、それどころか、案外知られていませんが、「内閣」という文言すらなかったのです。
憲法上は「内閣」も「総理」も規定されていなかった。
これを、そのまま復活させるわけにはいきません。
戦前の内閣制度はどうだったのか。
ここで簡単に振り返ってみましょう。

いわゆる「五箇条の御誓文」に示された政治の方針を実現するため、慶應四年(一八六八)に設けられた太政官制度に代わって、明治十八年(一八八五)、新たに内閣制度が創設されました。
この日、新たに内閣総理大臣並びに宮内、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、文部、農商務及び逓信の各大臣を置くことと、
「内閣総理大臣及び各大臣(宮内大臣を除く)をもって内閣を組織すること」
が定められました。
ご存知のとおり、初代の内閣総理大臣には、伊藤博文が任命されました。

その後、明治二十二年(一八八九)二月十一日に明治憲法が公布されました。
明治憲法は、内閣総理大臣についても特段の規定がなく、天皇を輔弼する関係においては、内閣総理大臣も「国務各大臣」の一人として、他の国務大臣と同格でした。

◆現行憲法で総理の地位と権限が向上した

平たく言えば、総理大臣であっても憲法上、特段、偉くない。
だから、国務大臣の一人がゴネると、クビにもできず、総辞職するしかない。
実際、戦前・戦中の多くの内閣が総辞職を余儀されました。

たとえば、陸軍と海軍が対立すると、総理がそれを調停できない。
あるいは、陸軍大臣がゴネて「辞任する」と脅かせば、内閣がつぶれる。
陸海軍大臣は現役武官制となつて以降、実際に、内閣が陸海軍の強い意向で動くことになりました。
その歴史を繰り返してはなりません。

昭和二十二年五月三日の「憲法記念日」に、現行憲法が施行され、同時に「内閣法」が施行され、現在の内閣制度が確立しました。
「国民主権」のもと、議院内閣制のもとで、内閣は行政権の主体として位置付けられました。

現行憲法は
「内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する」
(第六十六条第一項)
と定めています。

明治憲法下で「同輩中の首席」として他の国務大臣と対等の地位でしかなかった総理が、晴れて、内閣の「首長」となったわけです。

総理は「内閣の首長」として、内閣を代表する地位にあると同時に、内閣全体の統一性、及び一体性を確保する役割を有しています。
合議体である内閣が、国会に対して連帯責任を果たすためには、総理に強固な統率力が必要です。

そこで現行憲法は、総理に国務大臣の任免権のほか、内閣を代表して議案を国会に提出する権限や、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する権限などを与えました。

くわえて、内閣法も閣議の主宰権のほか、主任の大臣のあいだで権限の疑義がある場合は、閣議にかけてこれを裁定する権限などを認めています。

他方で、総理の権限は、基本的には閣議にかけて行使するのが原則です。
アメリカ大統領などと比べれば、大きな制約があります。
とはいえ、戦前までの内閣制度と比べれば、総理の閣内における地位も格段に高められ、権限も強化されました。

廃棄されるべき現行憲法ですが、この点は、率直に評価すべきだと思います。


◆証人への審問権がなぜ大切なのか

もう一つ、戦後の現行憲法で評価されるべき点があります。
それが以下の条文です。

(第三十七条)
「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。

2.刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する」

とくに注目していただきたいのが、第二項にある証人への審問権です。
実は、明治憲法には、こうした規定がありませんでした。

なぜか日本の憲法学者はリベラル派を含め、この点を過小評価しますが、
実はきわめて重要な規定ではないかと思います。

思い出してみてください。
戦勝国が敗戦国を一方的に裁いた、あのインチキな東京裁判ですら、いちおう、形式的ながらも、反対尋問が実施されました。

具体例で考えてみましょう。

いわゆる「南京大虐殺」をめぐって、伝聞情報を証言した検察側証人のマギー牧師に対して、被告人側の代理人(ブルックス弁護人)が反対尋問しました。
すると、次第にトーン・ダウンしていったのです。

「証人自身が実際に見たのは、何件の不法行為または殺害の現行犯ですか」

すると答えは、なんと一人。
これが世界に喧伝された「大虐殺」の正体でした。

二日間にわたってマギー証人が証言した、日本軍による多数の不法行為が伝聞情報にすぎないことが、つまり裁判上の証拠価値に乏しいことが露呈したわけです。
念のため付言すると、戦後日本の刑事訴訟法でも伝聞証拠の採用は原則禁止されています。
(第三百二十条ほか)

しかも、直接証拠となるべき一件の目撃証言について、ブルックス弁護人から「どういう状況下で起こつたのか」と聞かれ、
「歩哨兵から、『止まれ』と言われた男が安全地帯に逃げ込もうとして撃たれた」
と証言しました。

考えてみてください。
事実上の戦場で、歩哨兵が「止まれ」と命じているのに、その場から逃走しようとしたのです。
「止まれ、止まらんと撃つぞ」と言っても逃走するなら、平時のアメリカの警察官だって撃つでしょう。
いわんや、熾烈な南京攻略戦の最中での出来事です。
これが「大虐殺」と呼べるでしょうか。

「証言」したマギーは、アメリカの名門イエール大学を卒業した立派な牧師でした。
国際安全区のリーダーでもありましたから、それなりに誠実な人物だったのでしょう。
そんな牧師でも、当初の証言と反対尋問に対する答えとのあいだには、大きな違いがありました。

もし、東京裁判で反対尋問が認められていなかったら、当初の証言だけが証拠として採用されていたでしょう。
実におそろしいことです。
それでは暗黒裁判になつてしまうからです。


◆マッカーサー憲法を廃棄し、
戦後レジームから脱却せよ

現行憲法には、明らかに明治憲法より良くなった点もあります。
悪くなった点もあるでしょうが、良くなった点もあるのですから、これらを生かした新憲法草案を準備し、国民の一定の理解を得てから、憲法の廃棄宣言をして、発布するという経緯を辿るべきでないでしょうか。

安倍総理をはじめ、自民党は「憲法改正の発議要件の緩和」を打ち出しています。
まずはそこから、という立場です。
そのうえで「日本らしさを憲法に掲げる国」を目指しています。

いずれも、政治の現実を踏まえた真撃な姿勢だとは思いますが、やはり筋を曲げてはいけません。
「日本らしさ」は当然ですが、現行憲法の規定を前提とした改正論議には、慎重であるべきでしょう。

現行憲法自体が、進駐軍(連合国軍総司令部= GHQ)による占領政策であった、つまり占領政策基本法であったと、そうはっきりと宣言しなければなりません。
そうでなければ、日本人が占領政策を認めたかのごとき印象が生じてしまいます。

「今の憲法は占領基本法である」
少なくとも、いったん、そう宣言する必要があります。
それこそが「戦後レジームからの脱却」に他ならないのですから。

東條英機とマッカーサーは、国家自衛のための戦いであったという同じ見解を披瀝しました。
ソクラテスが裁判を認めたのではなく、判決を受諾して毒を飲んだ。
日本も同じで、東京裁判を認めておらず、ただ敗戦国ゆえに、諸判決を受けいれたのです。
東京裁判史観は誤りです。



◆東京裁判に対するわが国の姿勢
後藤田正晴・内閣官房長官もその中心にいました。
前年の昭和六十年に中曽根首相の靖国公式参拝を実現するために尽力した藤波孝生・官房長官に代わって、中曽根政権で二度目の官房長官となっていた後藤田は、東條英機元首相らいわゆる「A級戦犯」の合祀にわざわざ言及して、「(前年の参拝は)近隣諸国の国民にA級戦犯に対して拝礼したのではないかとの批判を生んだ」「近隣諸国の国民感情にも適切に配慮しなければならない」と述べました。
見てのとおり、全面的に中国に譲歩した内容の談話を発表したわけです。

さらに後藤田は、参拝を中止した理由について、昭和六十一年八月二十八日の参議院内閣委員会で、「サンフランシスコ条約十一条であの裁判(東京裁判)を認めておるといった大前提に立って事柄を処理せざるを得ない」と答弁しました。

一貫して申し上げているとおり、日本政府は講和条約において「判決の執行」を認めたのであって、「東京裁判」自体を受け入れたわけではありません。
この後藤田の見解表明も中国の言い分に利を与えることになりました。

外交とは、所詮、かたちを変えた戦争であるというマキャベリズムを理解するのは、国政に携わる者の常識であるべきですが、まさに、その戦争において、驚くべき利敵行為を、当時の自民党首脳が行ったということです。

かつて、昭和二十七年十二月九日の衆議院本会議において、自由党、改進党、社会党の左右両派、無所属倶楽部の共同提案による「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が圧倒的多数で可決されたことを、いま、どれほどの国民が知っているでしょうか。

発議にあたって古屋貞雄議員(社会党)は、こう述べています。
「敗戦国のみ戦争犯罪の責任を追及するということは正義の立場から考えてみましても、基本的人権尊重の立場から考えましても、公平な観点から考えましても私は断じて承服できないところであります。
(中略)
世界人類の中で最も残虐であった広島、長崎の残虐行為をよそにして、これに比較するならば問題にならぬような理由をもって戦犯を処分することは、断じてわが日本国民の承服しないところであります。
ことに、私ども、現に拘禁中のこれらの戦犯者の実情を調査いたしますならば、これらの人々に対して与えられた弁明ならびに権利の主張をないがしろにして下された判定でありますことは、ここに多言を要しないのでございます。」

当時は社会党の議員ですら、こう述べていたのです。

◆ますらおの 愛しきいのち 積み重ね 積み重ね護る 大和島根を

国のために尊い命を捧げた英霊に、首相が哀悼と感謝の祈りを捧げるのは当然です。
外国との摩擦回避に譲歩を重ねるだけなら、外交の名に値しない。
事実に基づかない歴史認識で父祖を賤しめるのはもってのほかです。

わたしたちは何も、シナ人や韓国人に靖国参拝を求めているわけではありません。
日本人が参拝するのに文句をつけるなと、言っているだけです。

靖国問題は宗教問題です。
宗教問題は、一六四八年のウエストファリア条約以来、お互いに絶対干渉しない、それが国際法の大原則です。
内政干渉は国際習慣に反する。
国際法にも反する。
そう断固として拒絶すればよいのです。

同時に、靖国問題は国防上の、安全保障問題でもあります。
実は、シナ人は日本人を怖がっています。
それは、日清・日露戦争以来、シナ人の頭にこびりついたことです。
満洲事変、シナ事変もそうでした。
日本人は死ぬのは怖くない、なぜ日本人は怖がらないか。
シナ人の考えでは、日本に靖国神社があるからだ、こう理解されたからです。
だから、中国は靖国問題にこだわるのです。

宗教問題としても、国防上の問題としても、けっして靖国問題で中国に譲歩してはなりません。

第二次安倍内閣には、天皇陛下のご参拝が実現できるよう、最大限の努力をお願いしたいものです。
天皇陛下がご参拝しないで、いざというとき、誰が戦争で死ねるでしょうか。

昔なら、小学生でも知っていた「靖国神社の歌」があります。

「ああ大君(おおきみ)の
ぬかづき給う 栄光の官 靖国神社」

大君、つまり天皇陛下も拝む、栄光の宮が靖国神社だという歌詞です。

天皇は基本的に、神社に参拝しません。
春日神社であろうが、何神社であろうが、参拝しない。
なぜなら、それらは天皇が位をあげている対象だからです。

天皇が拝むのは伊勢神宮や明治神宮など、祖先を祀る神社です。
普通の神社は拝まない。
その例外として拝むのが、靖国神社なのです。
「大君のぬかづき給う栄光の宮」
なのです。

だから、戦死した軍人兵士が慰められる。
遺族も慰められる。
国民の象徴が頭を下げてお祈りしてくださる。
他の神社には、お祈りされない方でも参拝してくださる。
靖国には、そうした意義があることを忘れてはなりません。

くわえて、より実際的な問題を言えば、かつての戦友を弔おうとしても、簡単に海外に行ける人は少ないでしょう。
かつての戦地を訪れる機会があったとしても、正確な場所にたどり着けるのは困難ではないでしょうか。
戦死した友人の御位牌にお参りしたくても、住所を探すことは、地名変更もあって、ほとんど不可能です。
しかし、靖国神社に行けば、会えるのです。
これが、遺されたわれわれの慰めにもなるのです。
靖国神社があるから、必ず会える。
靖国で会おうと言って散っていった軍人も、生き残った戦友や遺族が拝みに来てくれるという望みが持てるわけです。

靖国神社の問題は、日本の存続に関わる死活的な問題です。
靖国を疎かにする政治家には、政権を担う資格がありません。


◆天皇の靖国参拝
(『日本の歴史 戦後編』より)

《天皇陛下も参拝される神社ということで、靖国神社に祀られている人々は天皇陛下の先祖並みの尊さになるという意味があるのだ。
この靖国神社にまつわる涙ぐましい話がある。
昭和十六年、第二航空戦隊がウエーキ島を攻撃した時、航空母艦に帰還できなくなった飛行機があった。
一機に二人搭乗していたが、その二人から航空母艦に、「戦死なりや」という電信が打たれた。
つまり、「自分たちは戦死扱いになるのかどうか」を問うてきたのだ。
敵に位置を知られないよう航空母艦からは電信を打ってはいけないことになっていたが、それを見た山口多聞司令官は、かまわんと言い、「戦死なれども生きて帰れ」と電信を打った。

結局、その二人は着艦こそできなかったものの海に着水して助かった。
そこで「なぜ『戦死なりや』という電信を打ったのか」と聞かれて、
「戦死ではなくなると靖国神社に祀ってもらえなくなると思い、心配になった」
と答えたという。

これが当時の兵隊たちの九九パーセントの思いである。
だから、靖国神社参拝反対などという輩は、日本人の敵だと言っていい。
自分が死ねば、頭を下げてくれるご神体になるのだという切実な思いを、神様よりも偉い天皇陛下すらも、兵士の誰もが持っていたのだ。
・・・

さらに言えば天皇のお言葉として本当に重要なのは詔勅である。

昭和天皇が靖国神社への公式参拝を止めたのは、A級戦犯が合祀されているからだとする論調がある。
しかし、昭和天皇が公式参拝を取り止められたのは、国際的な騒ぎを避けるためだと解釈しなければならない。
首相の公式参拝でもあれだけの騒ぎになるのだから、昭和天皇が公式参拝されれば大騒ぎになるとお考えになったのだろう。

ただ、昭和天皇は公式参拝こそ控えられたが、それ以後、毎年、例大祭に勅使をお送りになっている。
旧皇族の竹田恒泰氏は、これを素晴らしい政治的ご判断だと言っていらっしやる。
勅使というのは、天皇の名代として儀式を執り行うので、天皇御自身が参拝されるのと同じ意味を持つ。
迎える側も天皇陛下をお迎えするのと同じようにご対応しなければならない。
この勅使の意味が幸いにも朝日新聞の記者にはわからないので、問題にしなかっただけだ。
そして現在でも勅使の参拝は続いているので、天皇陛下の参拝は続いているということになる。》


■無条件降伏と天皇の人間宣言
ポツダム宣言の受諾は、日本の軍隊が無条件降伏するという意味であって、国家に対する無条件降伏ではないことは、次の第五項の条文で明らかです。

「我の条件は左の如し、
・・・
我らは日本人を民族として奴隷化せんとし、又は滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ず」
つまり日本人を奴隷にはしない、皆殺しにもしないという条件を付けた上での受諾であったのです。

それにも拘らず実質的に日本がアメリカに無条件降伏したのは、戦後であったのです。
占領軍の約7年に及ぶ占領政策から日本が独立国として再出発した講和条約の締結に於いて、日本は東京裁判を受け入れたのではなく、諸判決(Statements)を受け入れたのです。
それが戦後、あろうことか小和田雅子皇太子妃の父である亘氏(元外務事務次官)が法解釈を捻じ曲げ、東京裁判そのものを認めたとする見解を発表しました。つまり日本を東京裁判史観に拘束させ、戦後アメリカのやることは何でも正しい、日本のやったことはすべて間違っている、とした東京裁判の正当性を擁護した大悪人です。
それ以後、東京裁判の違法性を日本人自ら問えない状況を作ったのです。
それと同時に、日本が独立した1951年4月28日という記念すべき日を貶め、今や国民はその日が何時だかも知りません。
もし小和田氏が、東京裁判を日本が認めていないことを前提に日本の独立が認められたことを内外に示せば、戦後の日本の再興に新たな転機を迎えたであろうことは間違いない。
それ故に日本が本当に戦争に負けたのは、戦後であると言えるのです。
それも自ら好んで負けたのです。

さて、かくも日本人が自虐的になったのは、果たしてアメリカの占領政策とマルクシズムだけなのでしょうか?

敗戦直後、日本人はマッカーサー率いる占領軍を征服者としてではなく、解放者として迎えました。
昭和26年4月16日、衆参両院で「マッカーサー元帥に対する感謝決議」を行い、マッカーサーを「悩める敗戦国民に対する救世主」と称え、
「我が国独立の機運を促進したる偉大な業績は、国民を挙げて感激措く能わざるところ」
と絶賛しました。
マスコミも
「嗚呼!マッカーサー元帥、
日本を混迷と飢餓から救い挙げてくれた元帥、
元帥!その窓から、青い麦が風にそよいでいるのをご覧になりましたか。
今年も実りは豊かでしょう。
それは皆元帥の5年8カ月に亘努力の賜であり、同時に日本国民の感謝の印でもあるのです。
どうかお体をお大事に」
(昭和26年4月17日付夕刊)

国民の多くもマッカーサー元帥を「偉大なる大聖人」「永久救世主」「自由と公平の使者」「尊敬の的たる人格者」「天使」「女子学生の憧れの的」などと最大限の賛辞を送っていた。
50年を経た平成の世にも、マッカーサー元帥の記念像が建つ始末。
まるで、どこかの新興宗教の教主を、あるいは北朝鮮の将軍様を称える機関紙の文章と言ってもおかしくありません。
どうして日本人を無差別に殺戮した戦争相手の大将をここまで賛辞出来るのか大変不思議です。
ここに日本人生来が持つ状況の変化への適応の速さと吸収力が裏目に出たのではないかと思います。
言葉を換えれば状況によっては卑屈にも傲慢にもなる生来の気質を持っているとも言えます。

その上でそのきっかけになったのは、
「天皇の人間宣言」ではなかったでしょうか。
トップに天皇を置いて国民との共同体を作っていると考えたGHQは、これを破壊しようとした。
それが天皇の人間宣言ではなかったか。

昭和21年元旦、
昭和天皇は「年頭の詔書」(いわゆる人間宣言)を述べられた。

「朕と汝ら国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。
天皇を以って現御神とし、かつ日本国民を以って他の民族に優越せる民族にして、
延(ひい)て世界を支配すべき運命を有するとの架空なる観念に基くものに非ず」

と述べられました。

この人間宣言によって天皇と国民の紐帯は外され、国家と国民を結ぶ「共通の規範」を持つ天皇共同体はGHQによって事実上崩壊せしめられた。
そこに日本国民の中から天皇という大義、正統性を失い、自分の居場所を見失ってしまったのではないかと思う。
つまり無規範、無連帯を呈してしまった。
本来の天皇共同体が失われた代わりに、単なる機能集団としての共同体が誕生した。
その最たるものが戦後の企業集団である。
このような機能集団は二重規範を持ち、「内の規範」と「外の規範」が全く違う。
したがって、機能集団が共同体と化せば、そこに普遍的な規範は存在しない。
日本人は無規範になり、内と外の規範に分けて(二重基準)生きるようになった。
国民と国家は敵対関係となり、もはや国の為に何が出来るかと問う国民は消失した。
国に何をしてもらうかしか考えない、天皇(神)なき自由、利己主義、
個人主義の国にするべく時限爆弾を仕掛けてGHQは去って行った。
かくして日本解体計画の最大の目的は戦後65年で達成された。

世界の国家(民族、宗教)には、良い悪いは別にしてそれぞれ、その国が拠って立つ正統性、大義がある。アメリカなら建国の精神、中国なら中華思想、イスラエルならユダヤ教、西洋ならキリスト教、かつてのソ連ならマルキジズムというように。
勿論日本は天皇体制です。

その正統性や大義はその国に於いて絶対的なものであり、解釈を変えるということはその国を否定するに等しい。
だから人々は大義を求め、それを後ろ盾にして戦うことが出来るのです。

天皇は人間であることは言われなくても、私たちの祖先は分かっているのです。
しかし天皇は天照大・皇祖の男子男系血統として、権威の象徴として日本をまとめ上げていたのです。
そして私たち日本の歴史を顧みれば、
日本の神々は西洋のような全知全能の神ではないが、徳を有する賢者で有り、悪魔ではあり得ないこともよく分かります。

今後、個人や国家が何を正義とし規範とするのか。
人類は良心のよって立つ絶対不変の神の概念を必要としていますが、それに代わる概念を打ち立て、全知全能の神から脱出しなければならない。
自由と秩序を維持し、大義と正統性を持ち得る新しい概念とは何か。
天皇を現人神として祭り上げてしまった戦前の秩序も、戦後の混乱も、同じ日本人がもたらしたものです。
どちらも何かが足らないのです。




◆田母神統合幕僚学校長が中国に直言したこと
田母神統合幕僚学校長は、我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣であると述べ、国会に出て質疑応答をしましたが、
このことを国民の耳目に触れさせたくない、という思惑が働いていたことは明らかだと思います。

田母神さんは、著書の中で、こう述べています。

《日本には反日的言論の自由は無限にある。
日本のことをいくらでも悪く言うことができるし、それによって国会が紛糾することもない。
一方、親日的言論の自由は極めて制限されている。
特に自衛隊に関することと歴史認識については、言論が封じられ、言っただけで問題を引き起こす。
今回の私の論文がその典型である。
問題になるのが分かっていて何故言うのかという疑問があるだろう。
それは、問題にしないということは少しずつ反日に同調するということを意味するからだ。
これまでの歴史の推移を見れば、それは明らかである。
そのとき少し譲歩して収めたとしても、次回はもっとつらくなる。
もっと言論が不自由になる。
この繰り返しでは日本はやがて崩壊してしまう》
(『自らの身は顧みず』より)

まさに田母神さんの更迭で明らかになつたのは、これでした。
東京裁判史観に沿った発言は問題にされず、それに異を唱える発言は危険視、問題視され、公職にある者はその地位を脅かされる。
政治家、官僚、学者、マスコミの多くが束京裁判史観に摘め捕られ、そのことを疑いもしないとすれば、まさに田母神さんの言うとおり、「日本はやがて崩壊してしまう」でしょう。
それを防ぐためには、なんとしても東京裁判史観からの脱却が必要です。

田母神さんの現役時代の対中アプローチにも学ぶべき点があります。
平成十六年、統合幕僚学校長だった田母神さんは、学生の幹部自衛官らを引率して、研修のために中国を訪問しました。
その様子を、田母神さんの筆で紹介しましょう。

《人民解放軍総参謀部を表敬訪問した際、ナンバー2の範長龍参謀長助理は厳しい表情で、先の大戦で日本軍が残虐行為をしたとする歴史観をとうとうとまくし立て・・・》

それに対し田母神さんは、こう応じたそうです。

《私の歴史観は範中将とは異なる。
日本は諸外国との比較で言えば極めて穏健な中国統治をしたと思っている。
日本軍が実質満州を統治するようになってから満州の人口は毎年百万人以上も増加した。
残虐行為が行われるような場所にこれほど多くの人が集まるわけがない。
中国が日本に対してだけ残虐行為を吹聴するのは何のためか。
もし中国が日本に謝れと言うのであれば、たとえばイギリスに対してはその五倍、十倍謝れと言ってやっとバランスが取れるのではないか。
中国における反日教育は是非やめてもらいたい》
(『正論』平成二十一年三月号「やむにやまれぬ『防人』の思い」より)

田母神さんは、

《この会談の後、私は相当のリアクションのあることを懸念し、覚悟もした》
そうです。

実際、田母神さんが帰国前に開いた答礼の宴に中国側からは将官が一人も出席しなかったといいます。
翌月には中国国防大学の研修団が来日する予定でしたが、統幕学校訪問は取り止めるという連絡もあったそうです。
田母神さんは、「それなら、それで結構」という趣旨の返答をしたそうです。

しかし、結果は
《それ以上問題はこじれることなく、中国側の研修団も当初の予定通り統幕学校を訪れてくれた》
というものでした。

これは、外交交渉を考えるうえで示唆的です。
いかなる国とのあいだにも摩擦や軋轢が生じうるのが国際間の常態で、その回避を専一にすることが外交の目的であってはならない。
摩擦を恐れずに、こちらの意見を率直に披瀝するほうが、相手に要らざる不信感を抱かせずに済む。
外交とは、相互に押し退きを繰り返す、駆け引きです。

問題視された論文と同じような見解を中国軍の高官相手に語っても、彼らはちゃんと研修団を来日させた。
しかるに日本国内では、日本政府によってかくの如く歪められ更迭されてしまう。
これはやはり、ある種の思考停止による自縛としか言いようがありません。

《自衛官の将官であればこそ、自国に対するいわれなき誹謗中傷には毅然と反論すべきと思っている。
日本を定め、見下すような軍事交流など本物の交流ではない》
(前掲論文)

という田母神さんの考え方と、田母神論文を批判した多くの人々の考え方と、どちらが、より日本を思う現実主義者でしょうか。

◆胡錦涛主席の理不尽な要求を拒否した安倍総理

本書の最後に、安倍さん自身のエピソードに触れながら、第二次安倍内閣が果たすべき課題について述べておきましょう。

《先に述べたように、第一次安倍政権はきわめて短期間のうちに、次々と新政策を打ち出しました。
教育基本法を改正し、愛国心や伝統の尊重といった道徳面の強化を実現しました。
防衛庁を防衛省に昇格させました。
集団的自衛権の行使についても前進させました。
憲法改正のための国民投票法も成立しました。

どれ一つとっても、意義深く、大きな政策課題でした。
あまりにも突然すぎた病気辞任表明会見がなければ、偉大な宰相として記憶されていたのではないでしょうか。
こうして短く業績を振り返ることで、安倍総理の資質が浮かび上がってきます。

なにより安倍さんは、スジを通すリーダーでした。
第一次安倍政権のエピソードを、一つご紹介しておきましょう。

二〇〇七年、ドイツのハイリゲンダムでサミット(先進国首脳会議)が開かれました。
そこに、中国がオブザーバーとして出席していました。

そこで、安倍総理が、中国の国家主席だった胡錦濤氏と話し合おうとしたのです。
すると、胡錦躊氏のほうから注文をつけてきました。
それは「李登輝の訪日は絶対に止めてもらいたい」ということでした。
ご存知のとおり、李登輝氏は、台湾(中華民国)の民主化に貢献した偉大な元総統ですが、すでに政界を引退していました。

中国主席の理不尽な要求に対して、安倍総理は毅然として「条件をつけられて会談する必要はない」と言って断ったそうです。

すると中国側が一歩下がって、
「李登輝が訪日しても政治的な発言はさせないと約束してほしい」
と迫ってきました。
それでも安倍総理は、
「そんな条件をつけられる筋合いはない」
と言って、また断ったというのです。

結局、中国側は無条件で日中首脳会談に応じました。

以上のやり取りを振り返ってみても、安倍さんが一国のリーダーとして、対中外交の場でも背筋がピンと伸びていたことがわかります。

広く知られたとおり、拉致問題でも、こうした安倍さんの資質が、いかんなく発揮されました。

平成十四年九月十七日、小泉純一郎総理が、日本の首相として初めて北朝鮮を訪問し、平壌市内の「百花園招待所」(迎賓館)で金正日総書記(当時)と会談しました。

当初、北朝鮮は拉致を認める予定ではなかったのですが、
「(小泉総理に随行していた)安倍晋三・内閣官房副長官と思われる人物が、午前の会談後の休憩中に、北朝鮮政権の公開謝罪の拒否に強く抗議して、首脳会談中断を強力に要求している」
という内容の盗聴資料を北側が入手し、金正日に報告を上げたため、金正日が午後の会談で、即興的に拉致を認めたことが、後に明らかになりました。

当日の模様を、後日、安倍さん自身がこう語っています。
「午前の会談では、専ら小泉首相が拉致問題などで北朝鮮側を非難し、金正日氏は何もこたえず聞いていました。
休憩で別室に案内されたとき、私は小泉総理に、北朝鮮が国家として拉致を認めず、謝罪もしないのであれば、平壌宣言に署名する必要もない。決裂でいい。
断固帰国しましょうと、申し上げました。
当然、盗聴されていると思いましたので、はっきり言いました」

こうして当初は北のシナリオになかった金正日による拉致認定が実現したのです。
もし日本側に帰国されれば、当てにしていた経済支援もなくなります。
困るのは北朝鮮です。
それを承知のうえで、盗聴されていると思ったからこそ、安倍さんは大芝居をうったのでしょう。

あのとき、安倍さんが決然としてスジを通そうとしなければ、拉致被害者が帰国することは実現できなかったでしょう。
拉致を認めることすら、なかったでしょう。

昨年 ( 2012年 ) 十二月二十八日、つまり、二度目の総理就任の翌々日、安倍さんは、横田めぐみさんの両親ら、北朝鮮による拉致被害者の家族と総理大臣官邸で会談しました。
会談には、古屋圭司・拉致問題担当大臣や菅官房長官も同席しました。

この会談で安倍総理は、
「五年前に私が総理大臣の職を突然辞して、皆さまに大変残念な思いをさせてしまった。
皆さまを落胆させたことが、私にとって最も辛いことだった」
と謝罪したうえで、
「今回もう一度、総理大臣の職に就いたのは、何とか拉致問題を解決しなければならないという使命感によるものだ。
この問題は、必ず安倍内閣で解決するという決意で臨みたい」
と強い決意を語りました。


◆日本製品が冷戦終結を促した
(『日本の歴史』より)

戦艦大和も零戦も、欧米技術の延長線上にある。
零戦の機関砲はスイスから買ってきた。
しかし、省エネ技術だけは日本発のもの。
日本のガソリンを食わない自動車技術が米国でも使われ、潰れかけたハーレー・ダビッドソンを救ったのはホンダだった。

気がついてみると、軍事機密関係や宇宙開発関係は別として、民生品であれば日本製品が世界を闊歩していた。

ベルリンの壁があった頃、ハンガリーの女の子が「ハンガリー人が欲しがっている物はみんな日本製です」と言うのだ。
鉄のカーテンの向こうでは、日本を天国のように思っていたのだ。

米国経営学者、ドラッカーが後に、戦後、一番大きな働きをしたのは日本であると言った。

一つは、政治的独立を旧植民地に教えた。
もう一つは、高い技術はどこからでも習ったほうがいいということを教えた。
これは明治維新から続く日本の伝統であると言うのだ。

そして、日本の技術移転によって、マレーシアでもインドネシアでも東欧圏では作れないものが作れるようになった。

鉄のカーテンの向こうは典型的な白人世界だ。
戦前の通俗なダーウィニズムで、一番進化したのが白人で、その次が黄色人種、その次が褐色人種、その下が黒人で、最後がオランウータン。
にもかかわらず、オランウータンの住む森に近い国が作っている物を自分たちが作れない。
どうして自分たちがオランウータンよりも遅れてしまったのか、と考えた時、体制が悪いのだと気づいた。
それがベルリンの壁の崩壊につながったのである。
ものすごくプライドが高い東ドイツ人が、オランウータンに負けているのだから我慢ならない。
このように、冷戦の終結に、一番貢献したのは日本であると、ドラッカーは評価している。

明治維新の頃に日本が存在しなかったら、白人の人種隔離政策は半永久的に行われたかもしれない。
また戦後においても、日本がなかったら、まだ冷戦が続いていた可能性がある。共産圏の庶民が体制を信用できなくなったのは、日本の経済成長および省エネ技術革新とそれにともなうアジア諸国の経済と工業の成長にあるのだから。

共産主義体制は民主主義運動だけで潰れるようなヤワなものではない。
トウ小平も台湾を見て改革開放政策を行った。
つまり庶民が商品を見たことで、共産主義イデオロギーは崩壊した。
そしてその省エネ型ハイテク商品を作ったのは日本だということなのである。

※だから、東南アジアを没落させ、中国に資本を注入したのだ!
ロックフェラーが「次の超大国は中国だ」と言った意味がやっと分かりました。つまり、白人の世界支配を存続させたかったから。


◆日本に美しい虹をかけよ
そもそも、一国の歴史教育はどうあるべきでしょうか。
もちろん、事実を教えることも大切ですが、その前提になるのは、愛国心であり、国に対する自尊心、そしてそれを支える物語の存在です。
イギリスの哲学者オーウェン・バーフィールドは、こう語っています。

「歴史の事実は、雨上がりの大気中にある水滴のごとく、無数にある。
その断片を拾い集めれば、どれもが事実だが、ある視点から、それらを見ると、虹が見える。
その虹が歴史というものである」

無数にある歴史の事実から輝く虹を見せることが、一国の歴史教育の要諦なのです。
安倍さんは、よくよくご存知のはずです。
ぜひ、過去の失敗と教訓に学び、日本の子供たちに、美しい虹を見せてほしい。
もう一度「美しい国へ」。
東京裁判史観の闇を晴らし、美しい虹をかけることが、その一歩となるのです。

保守とは何か。
それは、現実の政治や世の中の動きに照らせば変化するものです。
福田恆存はかつて、こう語りました。

《最初に保守主義といふものがあつて、それに対抗するものとして改革主義が生じたやうに思はれがちだが、それは間違つてゐる。
(中略)
保守派は眼前に改革主義の火の手があがるのを見て始めて自分が保守派であることに気づく。
「敵」に攻撃されて始めて自分を敵視する「敵」の存在を確認する。
(中略)
したがつて、保守主義はイデオロギーとして最初から遅れをとつてゐる。
改革主義にたいしてつねに後手を引くやうに宿命づけられてゐる》
(『私の保守主義観』)

われわれは改めて、日本を侵そうとする者の存在を、はっきり意識しなければなりません。
保守派はマルクス主義に勝ったと思っていましたが、その実、「人権」「人道」「平等」「環境」といった、一見、善なる言葉の陰で、左翼的価値観は浸透拡散し、日本人はそれに蝕まれています。
「日本の敵」はマルクス主義の看板を隠し、「民主」とか「市民」を名乗ることでインヴィジブルな存在になりました。
しかし、消えてなくなったわけではありません。
闘いは終わってはいないのです。

天皇制の本質 3/昭和天皇の苦悩

$
0
0
転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

■昭和天皇の苦悩

『昭和動乱の真相 阿部 著』の後に
『昭和の動乱 重光 著』を読みました。
阿部氏は警察内から見た当時の国内状況を語っておられる。
ゾルゲ事件への言及が無く、若干物足りないところもあるが、重光氏は国際感覚を持ち広い視野から昭和の動乱を見据えており、感銘を受けました。
また、両書ともに国内状況の分析に付いては一致している。
しかし阿部 著だけでは、常に平和を希求され続けられた昭和天皇のご意思と命令が、何故終戦間際まで実現されず、かえって英米との戦争に突入したのかが不思議でなりませんでした。

統帥権については帝国憲法に下記のごとく、天皇の大権として定めてある。
これについては、国内において軍部も含め何人も議論の余地は無い。

第十一条:天皇は陸海軍を統帥する。

第十二条:天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定める。

日独伊三国同盟に対し、陛下からは何時もの①~③に加え、下記のお言葉があった。
終戦まで陛下のお気持ちは終始諸国との親善、英米との協調であった。
つまり、天の声は陛下を通じて、何度も伝えられていた。
そして、重光外務大臣のように日本国の幸福を第一として、勇気を持って実情を正しく陛下に伝える者が多く居れば、かつ陛下の思し召しを軍部が優先していれば、中国の共産化ならびに我が国の敗戦はありえなかった。

①.憲法条項に従うこと。

②.国際親善を基調とし外交には無理をしないこと。

③.財政及び内政には急激な変化を起こさないこと。

④.英米両国とは協調しなければならぬ。

⑤.陸軍大臣には梅津か畑を選ぶこと。

⑥.内務、司法両大臣には治安に関係があるから選任には特に注意せよ。

重光氏によれば、日本は幕府体制から脱し、明治憲法と藩幕府体制を両輪として、日清日露の大戦に勝利した。
その後、第一次世界大戦での好景気、関東大震災と大不況により、世界経済がブロック化するなか、資源のない日本は苦悩する。
その中で、ロンドン条約にて日米英の海軍の軍縮比率に調印。
本条約の調印に対し、大権を犯したとして中堅の将校を中心とした軍部は不満を募らせた。
彼ら不満分子は、北一輝、大川周明などの皇室絶対論、そのためには手段を選ばずの左翼と右翼混交の極端な思想にかぶれていた。
その後、彼らにより5.15事件、2.26事件が勃発、浜口首相が狙撃され死亡、原首相、犬養首相が暗殺され、日本の政党政治は終焉した。
もし、この時に主犯に対し厳しい刑で望んでいれば、軍の暴走は止められていたのかもしれない。
近衛内閣をして、日中戦争へ、日米戦争へと駆り立てたゾルゲ配下の尾崎秀美の謀略も成功しなかったかもしれない。

最初に日本は資源を求め、満州に活路を求めた。
その時、政府と統帥権は別とし、軍が独走して満州事変から、中共軍の反日工作と謀略が重なり、満州国の建国へと追いやられてしまった。
しかし、当時の政府と軍高官達には関東軍を統制する事が出来なかった。
彼ら主犯の考えは、天皇と国体を堅持し、そのためには手段を選ばす、軍が統率する国家を夢見ていた。
あえていえば、理想化された美名のためには手段を選ばずの共産主義及びナチと同質のもので、陛下は置物でしかない。
勿論、陛下のご意思は、天皇は政府の一機関でもよいのではないかのお言葉に集約されている。
その後も、陛下のお気持ちとご意思が、日本国民一人一人に直接伝えられることは無かった。
それ故に、国民は政府の詔を信頼し、第二次世界大戦へと突っ走ってしまったのです。
内閣が短期に入れ替わるも、戦前戦中戦後を通じて、皇室は日本国民の心のよりどころであった。

◆戦争は終わっていない
親日家の助力の下、日米交渉の足がかりをつかみ、ハル長官と交渉に入り、順調に推移していた。
最初のハルノートには、満州国の権益については触れておらず、日本の南下について譲れないとされていた。
そして、近衛首相とルーズベルト大統領の会談が成立する見通しがあった。
この日米交渉については、逐次、旧ソ連に連絡されており、横槍が入り、日米の首脳会談は延期された。
しかも米国は日本の暗号を解読しており、常に先手を打っていた。
同時に、独ソ戦において独敗退に伴い更に厳しい前提が突きつけられたが、日本は協調を求めた。
米国の参戦準備が整い、ハルノートには、満州国の権益をも破棄する通告となった。
ABCD包囲網ゆえ、日本に先制攻撃=真珠湾攻撃を誘導、日本の外交努力は水泡と化した。

暗号解読していた米国上層部は、日本実情を正確に知っており、世界征服の野望が無いこともまた知っていたはず。
しかし、マッカーサーほか軍部には、日本についての事実は知らされていなかった。

加えて、当時の米国は旧ソ連に対して、独と戦う同盟国だと思い込み、無警戒だった。
旧ソ連は中国で蒋介石と日本軍を戦わせ中共をして大陸を共産化させた。
日ソ条約を破り北海道を占領しようと南下した。
更に、朝鮮を分断した。
この時点で、米国は日本が共産主義と戦っていた事に気付いたのです。

残念なのは、満州国樹立後、陛下の望まれる日米の協調を実現する機会が、何度もあったにもかかわらず、実現しなかったことです。

・蒋介石軍が中共軍を徹底的に叩いているとき、これを支援していれば。

・独の戦闘時、中立と東亜の安定を宣言していれば。

・独ソ会戦時、中立と東亜の安定を宣言していれば。


概観すると、当時、共産主義に無防備だった各国に対し、共産主義理念に共感する日米中独の共産主義者が、旧ソ連の謀略を忠実に実行した。
( 各国とも、よもや愛国心よりも共産主義を優先するとは思いもよらなかった )
ただし、日本においては、国体を否定するがゆえに、共産主義者を危険分子と見なし逮捕していた。


◆先の戦争は日本人自身が選択した宿命だ!
結局、大政奉還により、幕府体制の受け皿として立憲君主制・藩幕体制を樹立し、日本民族の自主独立に向けて、明治維新を断行。
日清・日露に辛うじて勝利した。
そして、第一次大戦を経て、日本国民の意識の変化を受けて、明治憲法の枠を一歩推し進め、更に民主化する必要があった。
つまり、天皇の大権である軍に関しては内閣の下に置かれ、藩幕制の自然消滅から政党制へ完全移行するべきだった。

更に、陛下と重光外務大臣と東條首相の考えのごとく、資源問題に対しては終戦間際のように、わが国が明治維新で歩んできたその通りに、アジア諸国の民族的自決を促し、親善を基調とする外交により解決すべきだった。
そうすれば、蒋介石軍は中共軍を全滅させていたことでしょう。

残念な事に史実は、ゾルゲの工作と中堅軍部の独走を止めることはできなかった。
しかし、陛下と側近の英断により終戦、
GHQとの交渉を通じ、尾崎の希求し実現を確実視していた日本の赤化革命は防止された。
ところが敗戦後のGHQによる占領政策にて、保守系公務員の一斉解雇、ついで逮捕されていた左翼・共産主義者の解放がなされ、彼らが最高学府他の高位の地位を占めるにいたる。
それゆえ、GHQに不法にも押し付けられた憲法第九条の放棄、もしくは改正が、今日まで出来ずじまいになっている。

◆平成の動乱
自民党が大敗し、民主党亡国政権が居座った。
原因はバブル崩壊、リーマンショクがもたらした日本経済の崩落による閉塞感と、自民党への不満だった。
そしていつの間にか、終戦直後の左翼かぶれの連中が日本中枢の幹部となり、左翼マスコミに洗脳され、道義を忘れ利益最優先の世相に拍車をかけた。

戦後、昭和天皇は国民の心の支えであり、貧しさからの脱出という国民の共通目標があった。
やがて高度成長を経て、物質的な豊かさに慣れ、国防を忘れてしまった。
半左翼化された平成動乱に至るも、大政奉還に相当する受け皿はどこにも無かった。
それは、国家・国民としての目標を見つけ出せずにいる、思想の貧困と道義心の低下が齎した結果だと思う。

日本人の勤勉と物作りへの情熱は、
ただ貧困であったからなのか、
それとも貧困からの脱出のみならず、
国家・国民の繁栄を願ってのことだったのだろうか。

平成動乱は、全人類に対してどのような意識改革を齎すのでしょうか。
第二次世界大戦では大不況に対し、自国の権益を確保する排他的な経済ブロックにて、謀略と軍事衝突を繰り返した。
その過ちを繰り返さないように、民族の自決・自立を認めることは当然ですが、現在は閉鎖的なブロック経済よりも、自由経済最優先=世界的な実力主義に傾注している。
しかし、韓国がIMFから借金をし、実力第一主義を強制・徹底した結果、民族の伝統を失ってしまった。
実力第一主義で経済は復興するが、中堅幹部の暴走を止めることは出来ず、却って煽る事になる。
それでは、欲望を抑制する前頭葉の働きが停止してしまう。
それゆえ、長老制や元老院といった道理をわきまえた国家体制が必要とされるのです。


◆昭和天皇の悲劇
『日本の歴史 戦後編』より抜粋

「人間宣言」の詔書をよく読むと
「単ナル神話卜伝説ニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」
とあるから、神話と伝説を否定したわけでもなく、
「それだけが根拠でない」と言っているとも解釈できる。
天皇が現御神であることを否定しているわけでもない。
ただマッカーサーに渡った英訳文(これを私は見たことがない)では、マッカーサーを満足させるようになっていたのであろう。
いずれにせよ天皇陛下は西洋で言うところの「ゴッド」ではないが、依然として日本の神道の中心であられることは紛れもない事実である。

昭和天皇が不幸であられたのは、ご成長なされるのと前後してロシア革命が起こつたことである。
ロシア革命は昭和天皇だけに関係があったことではないが、ロシア革命が起こった後、スターリン政府が日本に向けて「皇室をなくせ」という指令を出した。
これがコミンテルンによるいわゆる
「二二年テーゼ」「二七年テーゼ」
「三二年テーゼ」
などというものである。

コミンテルンが創設されたのはロシア革命から二年後の大正八年(一九一九)で、日本共産党は大正十一年(一九二二)に「コミンテルン日本支部」として発足した。
その「コミンテルン日本支部」である日本共産党に出された「二二年テーゼ」(大正十一年)を例に挙げると、以下のような項目になる。

・天皇制の廃止
・貴族院の廃止
・現在の軍隊、警察、憲兵、秘密警察の廃止
・労働者の武装
・朝鮮、中国、台湾、樺太からの軍隊の撤退
・天皇および大地主の土地の没収とその国有化

コミンテルンの「天皇制の廃止」命令を受けて、日本は治安維持法を作らなければならなくなった。
スターリンの指令はこういう いろいろな悲劇を生んでいる。

ロシア革命というものがなく、コミンテルンが暗躍しなければ、二十世紀は平穏な時代であったのではないだろうか。

まず、ロシア革命がなければヒトラーは生まれなかった。
ヒトラーはロシア革命、つまり共産党に対するドイツでの反対運動の中から出てきた人物である。
しかし、ナチスというのはドイツ国家社会主義的労働者党だから、ヒトラーも社会主義者にほかならない。
従ってヒトラーとスターリンの戦争は左翼同士の喧嘩ということになる。

また、イタリアでも共産党とムッソリーニ首相が対立した。
ムッソリーニはもちろん左翼である。

これを大学紛争にたとえると、共産党の代々木派と、反代々木系の中核や革マルの争いだと言える。
大学紛争の頃、左翼同士がお互いをファシストと罵り合っていた。
つまり、スターリンは民青、ヒトラーはドイツの中核派、ムッソリーニはイタリアの草マル派だと言ってもいい。

コミンテルンの魔の手はアメリカにも伸びて民主党の中心部に食い入り、これがアメリカを日本との戦争に駆り立てていく。

東條英機首相はアメリカとの交渉にあたって、昭和天皇のご意思に忠実に全力を尽くして和平への道を探っていた。
アメリカが一歩も譲らないのを受けて、最終的に日本はこれで話がつくであろうという乙案を出した。
これがハル・ノートという事実上、アメリカの最後通告によって突如ひっくり返り、日本は開戦へと踏み切らざるを得ない状況に追い込まれてしまった。

このハル・ノートはハル国務長官が書いたものではなく、実際はハリー・ホワイトという財務省の役人が書いたものだが、彼はソ連のエージェントだった。
スターリンからアメリカと日本を戦争させろ、という命令が下っていたのである。

もちろん、満洲およびシナでも共産党がなければ、あのような反日運動は起こらなかっただろう。
ソ連のコミンテルンの魔の手に日本は踊らされたのだ。

昭和天皇の御代の大部分がソ連共産主義と同時代であったということは、悲劇だった。
多少の救いと言えば、昭和天皇がソ連の解体に連なるペレストロイカ(ソ連建て直し政策)をご覧になってからお亡くなりになったことである。

◆五十年の反日教育の証拠
天皇陛下は戦後、日本中をまわられた。
これはすごいことだ。
どこの国でも、敗戦国の皇帝は命が危ないので、殺されるか逃げ出すかどちらかである。
しかし天皇陛下はSPもつけず、農村にも工場にも炭鉱にも、どこにでもいらっしやった。

今のようにどこにもホテルがある時代ではないから、県庁の会議室だとか汽車の中などに泊まられて日本中を巡幸された。

私はそれを実際に体験している。
昭和二十二年(一九四七)だったか、夏休みに川に泳ぎに行ったら、向こう岸の土手の上に見たこともない自動車が三~四台現れた。
最初は不思議に思ったが、「今日は天皇陛下がいらっしゃる」と新聞に書いてあったことを思い出した。

そこで土手をのろのろ走る車に追いつこうと、我々少年たちは、さすがにランニング・シャツを被ったものの、下はふんどし姿で下流の橋まで走っていった。
橋のたもとでそっとお待ちし、天皇陛下に触ることもできたのだが、畏れ多いので、私は陛下の単に触った。

そんなことをしても、天皇陛下ご一行からは何のおとがめもなかった。
終戦直後はこのような状況だったのだ。

空爆され、原爆を落とされ、また戦地でもあれだけの人が亡くなったにもかかわらず、天皇陛下に対して恨みを持った人は誰一人としていなかったことがわかる。

当時の人は、偉い人たちが打つ手を間違ったかもしれないが、天皇陛下が戦争をなさりたかったわけではないということを皆、わかっていたのである。

しかし、天皇陛下が亡くなられた時の大喪の礼に、どれだけの警備が必要だったか。
何万人もの警官が並んで警備したにもかかわらず、途中で操め事が起こったりした。

戦後、左翼が五十年間にわたる教育で、天皇陛下が悪かったと子供たちに刷り込んだため、亡くなられた時はソ連がゴルバチョフ体制になっているにもかかわらず、重警備なしではお葬式も執り行えない事態になってしまった。
これは恐ろしいことである。
半世紀にわたって、いかに左翼が反日教育を徹底したかがわかる。

敗戦を受けて、天皇陛下は退位すべきだったという議論がある。
しかし私は、退位されなかったことがよかったと思う。
よく事情を知らない外国人に、大東亜戦争は日本の侵略戦争だ、日本が悪かったと言われた時に、でも天皇陛下は裁かれていない、と言えるからだ。
会話の時に、いろいろ説明もできないので、簡単に一口で言えることがあると便利である。
ドイツで「ナチスは裁かれなかった」とは言えないであろう。
天皇は日本の元首であったのに裁かれなかったと言えることは、実に尊いことなのである。

私が西ドイツにいた頃、ドイツ人に「日本には天皇という人がいたがどうなったか」と聞かれた。
ドイツ人にしてみれば、どこかに逃げたか殺されたと思っているわけだ。
そこで私が「まだ戦争の時の方と同じ方が天皇ですよ」と言ったら、驚嘆していた。

天皇陛下がマッカーサーにお会いになる時、マッカーサーは命乞いに来たのではないかと思ったがそうではなかった、というのは有名な話だ。

◆天皇を中国に売った宮澤喜一
江沢民や温家宝は、日本に対して非常に倣慢だ。
なぜ倣慢かというところが大事である。

天安門事件で中国は、世界中のマスコミが見ている前で一般市民を大量に殺害し、当然ながら、国際的に孤立した。
その時、中国は、日本の天皇を招き、そこを外交の突破口にしようと考えた。
そして、日本政府は天皇陛下に訪中して頂くことを決めてしまったのである。

東アジアにおいては、周辺の国がシナを訪ねるということは朝貢だと見なされる。
シナの都に日本の天皇が行けば、それは日本がシナの家来になったということになってしまうのだ。

天皇陛下の訪中に中国は感激して、今後、歴史問題には言及しないなどと言ったが、家来になった国との約束を守るはずがない。

この天皇訪中という国賊的行為を決めたのは、宮澤喜一首相である。
官房長官は加藤紘一氏だった。

聖徳太子以来、日本の天皇はシナの皇帝と対等の立場を崩したことはなかった。
その積み上げてきた歴史を彼らは一切、葬り去ってしまったのだ。

諸外国の大統領が来日した時、代わりに各国を訪問するのは日本では首相である。
それが対等の立場だ。
そして、天皇陛下はその上にいらっしやる。
だから、各国の大統領が来日した時、天皇陛下の晩餐会に出席すると皆、緊張する。
田中角栄内閣の時に訪日したフォード米大統領も震えるほど緊張したと言われている。
それくらい畏敬の念を持っている。

しかし、宮澤首相が中国をつけ上がらせてしまった。
そもそも、温家宝は中国のナンバー3だから、天皇陛下の晩餐会に呼ぶ必要などない。
外務省のチャイナスクールが動いて画策したのだろう。

日本の歴史教科書の検閲権を北京とソウルに売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのである。
今上天皇にはぜひ長生きして頂き、中国共産党政権の崩壊をご覧になられれば、朝貢する形にさせられてしまったことに対するお慰めになるのではないかと思う。

◆和製原爆と昭和天皇
昭和天皇はある信頼する側近の方(真崎秀樹)に「私は二つの間違いをした」と言われたことを回顧されている文章がありました。
昭和天皇自らそのことを語られたのは異例のことです。
その二つの間違いについて、側近であられた真崎秀樹という方の証言とある方のコメントを以下に引用致します。

《真崎秀樹氏は昭和天皇の通訳を80歳を超えてからも、陛下のたってのご希望でお勤めになられていました。
ある日、部屋に陛下と真崎氏のみがいたとき、陛下は窓の方を見ながら、
「私がおまえをその歳になっても使っているのは、真崎大将の長男だからだ。 
私(陛下)は今までに二つ間違ったことをした」
とおっしゃられました。

その方は、
「二つの間違いの内の一つは、二・二六事件での処置である事は、陛下のお言葉から明らかである。
もう一つは確かにはわからない。私(陛下)はポツダム宣言を受け入れたことであると思う」
といわれました。

私(真崎)は、
「大東亜戦争を開戦したことではありませんか?」
と言ったところ、
あの時は政府が既に開戦することを決めていた。
政府が決めて了解を求めてきたら陛下は承認するしかなかった、とのお考えでした。

しかし、もう一つの本当の間違いとは、陛下が日本陸軍が研究していた原子爆弾の開発を禁止したことであることが分かりました。
結局、原子爆弾の惨禍にあったのは日本人だけだ。
相互抑止が働いて、日本が爆撃されただけでそれ以降は使われなかった。
それなら、日本が先に開発して実験だけすれば、誰も傷付かずに、あれほどの惨禍を日本人にもたらさずに終戦に持ち込めたはずだ。
その想いが陛下をさいなみ続けていたのでしょう。
・・・
私は、あの時点で日本の原爆開発は完成間近まで行っていたと確信いたしております。

一つには、当時陸軍の参謀で陸軍大学優等卒業の方から以前、
「昭和19年の夏に参謀長から新型爆弾が完成したので、これで戦争に勝てると聴いたが、12月にあれは陛下が使うなとおっしゃられたので使えなくなってしまった」
と聴いたからです。
・・・
(引用終わり)


陛下は、昭和19年に開発を禁じたことを間違いであったとおもわれたのでしょうが、戦後に、あるいは現時点で再度開発することを望まれていたとは私は言いません。
しかし、この「昭和の遺言」を知った以上なすべきことがあります。

それは昭和19年の時点でそれを使えば戦争に勝てる可能性が高いにもかかわらず、それを使えばどのような惨禍が待ち受けていたかを知った上で敢えて核兵器開発を禁じたお方がおられたということです。
そしてそのお言葉を慫慂(しょうよう)として受け入れた軍人がいたということです。

日本がこれから軍備をどのようにしていくにしても、このことを核兵器を既に持っている国の国民と指導者、現在、開発中の国の国民と指導者、そして誰よりも日本国民自体が知り、心に刻み込まねばなりません。
それができない人間に平和を語る資格はありません。

●『考察の杜』より抜粋
http://www.sun-inet.or.jp/usr/hiro7733/public_html/general/general_WAGYOU_LABEL.html
(引用)


◆『昭和天皇の極秘指令』

1.最高の軍事機密「二号研究」
戦時中の日本には、現在も知られていない秘密があった。
「二号研究」である。
それは、日本独自の原爆開発計画だった。

米国の原爆研究・開発は、昭和14年に開始。
アインシュタインはじめ、多くの科学者がルーズベルトに「ドイツでは相当開発が進んでいます!」と進言した。
この警告の手紙がきっかけとなり、研究が始まったのだ。

一方日本では、昭和15年4月 「二号研究」開始。
(「昭和天皇」読売新聞社編)

鈴木中佐は、陸軍航空技術研究所に着任するや、所長の安田中将から指示された。

「原子爆弾の可能性について調査してみろ」

彼は調査後、軍に報告書を提出した。

「原子爆弾は、出現する可能性がある。
原爆の材料になるウラニウム鉱石は、わが国にも埋蔵されている可能性がある」

当時は、まだまだ軍事利用など考えられない段階だった。
学術論文も国際的にやっと公開された段階だったのである。

昭和16年(1941年)4月
所長の安田中将は、理化学研究所の大河内所長に正式要請を出した。

「原爆製造に関する研究を願う・・・」

大河内は、仁科研究室の仁科芳雄博士に一任した。

昭和18年(1943年)
仁科博士は「原爆は可能である」との報告書を作成。

安田中将は、航空本部総務課長・川島大佐に、こう命じた。

「この研究を『強力に』推進せよ」

昭和18年(1943年)
陸軍省の大臣室に呼ばれた川島は、東條英機からこんな指示を受けた。
「アメリカとドイツで原爆製造計画が進んでいる。
もし我々が遅れたら戦争に負ける。
一つお前が中心になって製造を進めろ」

このようにして陸軍の原爆製造計画は、「最高機密」として開始された。

2.もう一つの計画
ところがここに、もう一つの原爆開発計画があった。海軍である。
こちらは「F計画」と呼ばれた。

昭和18年5月
陸軍に2年遅れで、それは始まった。
計画を委託されたのは、京都大学の荒勝教授である。京大の原子物理学は、世界の十指に入る実力を持っていた。
スタッフの中には、湯川博士も参加していたらしい。

昭和19年
ウラニウム235から「6フッ化ウラン」結晶を抽出成功。
(米粒大)

7月から分離テスト。
(失敗)

昭和20年
空襲により作業中断、研究室の機器壊滅。

陸軍の「二号研究」とも中止となる。

3.天皇の猛反対
天皇の「原爆に対する態度」を著した資料がある。

・『昭和天皇』 出雲井晶 著
・『日本・原爆開発の真実 究極の終戦秘史』 五島勉 著
・『天皇の真実』 河内正臣 著

これらの情報源は、昭和20年当時、海軍航空本部の嘱託、ウラン情報担当だった岩田幸雄氏である。
彼は、陸軍大臣・杉山元宅で聞いた極秘の話を故あって公表した。
(引用終わり)


資料『昭和天皇』の中に、こんなエピソードがある。

《昭和20年2月
杉山元帥が、私邸に来ていた岩田氏にこう言った。

「岩田君、君は軍籍のない一民間人であるにもかかわらず、この戦争では日本軍のため挺身して偉大な貢献をしてくれ心から感謝している。
その労苦に報いるためにも、一日も早く新兵器を開発し、劣勢を挽回すべく懸命の努力をしていたが、事情があって残念ながら『新兵器』製造は中止した。
実は『御上』から強いおしかりを受けたのだ。」
・・・》

ここで、『新兵器』とはもちろん『原爆』である。
そして『御上』とは、『昭和天皇』であった。

岩田氏は、「記録映画」を使って、杉山元帥に各国の原爆開発事情を伝えていた。
(この映像は秘密の記録だった)

それを見た元帥は、こう語ったという。
「自分としては猶予は赦されず、製造を急がせていた。
そして完成すれば、最初『ハワイ』に落とし、その威力を示し、戦況を日本軍有利に導く計画であった」

ところが、「横やり」が入ったというのだ。
日本の原爆開発が本格化した頃、当時の首相・東條英機が

《その旨を昭和天皇に上奏した。
彼は、「起死回生の決定打として、天皇に喜んでいただける」
・・・
と思っていたようだ。
しかし、昭和天皇は
〝意外に強い口調〟で反対されたという。

「数カ国が新兵器開発を競っているとのことだが、日本が最初に完成し使用すれば、他国も全力を傾注して完成させ使用するだろうから、全人類を滅亡させることになる。
それでは、人類滅亡の悪の宗家に日本がなるではないか。
またハワイに投下する計画とのことだが、ハワイには日本の同胞が多数移住し、現地アメリカ人民と共に苦労し、今日を築きあげたところだ。

そのような場所に新兵器を使用することには賛成できない。」
・・・
叱責を受けた東條は、杉山にこう言った。

「天皇陛下のご意志に反することはできない」

しかし、杉山元帥はこう主張した。

「敗戦となれば日本が滅びてしまい、
全てを無くしてしまう」

その論理はこうである。
「参謀総長の立場にある者として、日本を敗戦に導くことはできない。
戦争とは結果において勝利を得ることが肝要であり、今の日本は手段を云々できるときではない。
勝てば天皇にお喜び頂けるに違いない。
そして天皇が希求される世界平和を実現できるではないか」

しかし、東條とは平行線だった。
杉山は、参謀総長を東條に譲って退いた。

ところが、彼がカムバックする機会が訪れる。

同年7月
東條内閣総辞職後、『小磯国昭』内閣が誕生する。
杉山元帥は再び入閣し、陸軍大臣となった。
彼は秘密裏に、再度原爆開発を急がせた。
ところが新兵器を積むロケットの燃料製造過程で誤爆事故が突発。
天皇陛下の耳に入った。
杉山元帥は、こう述懐する。

「天皇陛下から呼ばれた私は、
『まだやっていたのか!』
と強く叱責され、まことに面目なく、これ以上開発を進めることはできなくなった。

私は、日本が勝っても負けてもこの責任は取る覚悟だ。
例え勝てたとしても天皇陛下の大御心を煩わせた罪は万死に価いする。
さらに多くの部下を死に至らしめた責任から逃れることはできない。

ここで話したことは誰にも話さないでくれ給え。
この事を知っている者は、天皇陛下と東條と自分だ」
・・・
杉山元帥は、敗戦直後自決した。》

当時、原子爆弾の開発を禁止した陛下のお怒りは、日本国の天皇としてというより人として、承諾することができなかったのでありましょう。
陛下がそのことで後悔されておられるかどうか、その本当のお気持ちは誰も分からないことです。
唯、後に世界で初めて原爆を投下された広島と長崎の惨状をご覧になって、ご自身の判断が正しかったのかどうか悩まれたであろうことも推測されます。

原子爆弾の制作担当者である杉山元帥が原爆をハワイで使うというようなことを勇んで陛下に進言して喜んでもらえる思い込んでいたということは、抑止力としての核兵器であるという認識がなかったということです。
陛下が御怒りになるのも尤もなことであります。
陛下に側近から核抑止力についての正しい情報と知識をお伝えする事が出来ていたのかどうかは甚だ疑問とするところです。

原爆を禁止したころが日本の敗戦に繋がったとは言い切れませんが、少なくとも原爆は落とされなかったであろうし、またポツダム宣言やサンフランシスコ講和条約でも日本の立場を今よりもより有利なものにしていたことは間違いありません。

しかし、軍部の核の専制攻撃を聞いた陛下のお気持ちは、国家の汚辱と日本国民、及び人類の未来の為にならないとの判断は正しい判断と言わざるを得ません。
結果だけを見て誰が陛下を責めることができようか。

ただ、私達の教訓として考えれば、
正しい知識と情報を知り伝えなければ、正しい判断はできないということです。

国際情勢を新聞とテレビの報道を見て行動している日本の政治家は、情報というものの価値を知らない。
世界では日々、情報戦が繰り返されているということすら知らないお粗末さ。
捕まらないスパイ天国日本は、世界中のスパイのサロンになっている。
すべては憲法前文と九条の非常識にその端を発している。
日本がこのまま憲法を改正せずズルズルと無駄な時間を過ごせば、やがて遠くない将来、亡国の道をたどることになるでしょう。


■昭和天皇の「終戦の詔勅」口語訳

朕は、深く世界の大勢と、帝国の現状をかえりみて、非常措置をもって事態を収拾しようと考え、ここに忠実にして善良なる汝ら臣民に告げる。

朕は、帝国政府に、米英中ソの四国に対し、そのポツダム宣言を受諾する旨、通告させた。

そもそも、帝国臣民の安寧をはかり、万国が共存共栄して楽しみをともにすることは、天照大御神からはじまる歴代天皇・皇室が遺訓として代々伝えてきたもので、朕はそれをつねづね心がけてきた。

先に米英の二国に宣戦した理由も、実に帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって、海外に出て他国の主権を奪い、領土を侵略するがごときは、もとより朕の志すところではない。

しかるに、交戦状態はすでに4年を過ぎ、朕の陸海軍の将兵の勇敢なる戦い、朕のすべての官僚役人の精勤と励行、朕の一億国民大衆の自己を犠牲にした活動、それぞれが最善をつくしたのにもかかわらず、戦局はかならずしも好転せず、世界の大勢もまたわが国にとって有利とはいえない。
そればかりか、敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、いくども罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、まことにはかりしれない。

この上、なお交戦を続けるであろうか。
ついには、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、さらには人類文明そのものを破滅させるにちがいない。
そのようになったならば、朕は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか、皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいか。

以上が、朕が帝国政府に命じ、ポツダム宣言を受諾させるに至った理由である。

朕は、帝国とともに終始一貫して東アジアの解放に協力してくれた、諸々の同盟国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。

帝国の臣民の中で、戦陣で戦死した者、職場で殉職した者、悲惨な死に倒れた者、およびその遺族に思いを致すとき、朕の五臓六腑は、それがために引き裂かれんばかりである。
かつ、戦傷を負い、戦争の災禍をこうむり、家も土地も職場も失った者たちの健康と生活の保証にいたっては、朕の心より深く憂うるところである。

思うに、今後、帝国の受けるべき苦難は、もとより尋常なものではない。
汝ら臣民の真情も、朕はよく知っている。
しかし、ここは時勢のおもむくところに従い、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、それをもって万国の未来、子々孫々のために、太平の世への一歩を踏み出したいと思う。

朕はここに、国家国体を護り維持しえて、忠実にして善良なる汝ら臣民の真実とまごころを信頼し、常に汝ら臣民とともにある。
もし、事態にさからって激情のおもむくまま事件を頻発させ、あるいは同胞同志で排斥しあい、互いに情勢を悪化させ、そのために天下の大道を踏みあやまり、世界の信義を失うがごとき事態は、朕のもっとも戒めるところである。

そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、道義を重んじて、志操を堅固に保ち、誓って国体の精髄と美質を発揮し、世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。

汝ら臣民、以上のことを朕が意志として体せよ。

御名御璽 昭和20年8月14日
Viewing all 2520 articles
Browse latest View live