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天皇制の本質 4/教育勅語の真実

転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』


■教育勅語の真実
『教育勅語の真実 伊藤 著』から抜粋しました。
明治天皇のご下命で、井上毅(いのうえこわし)が、大先輩・元田永孚(もとだながざね)と激論と友情を交わしながら、日本の将来を思い、教育勅語が起案されました。
本書は、非常に分かり易く平易に書かれており、どうが、原文を手にとって、篤い日本人の意気込みを感じ取っていただければと思います。

当時の人々が日本の将来を思い起案した「教育勅語」ですが、現代の私たちの常識とは異なる部分や、私たちの知らない日本の歴史が語られています。
それでも、当時の人達がどのように考え、思い、そして「教育勅語」を作成したのかを知ることは、日本人の魂の歴史でもあるのだと思います。

神武天皇の建国の精神は、聖徳太子の十七条憲法、五箇条の御誓文、教育勅語、昭和天皇の建国の詔へと引き継がれ、先の大震災の時にいまだに陛下をいただく日本人の心の中に息づいているのだと思いました。

(引用)↓

◆はじめに
『世界が感嘆した日本人の国民性』

平成二十三年三月十一日、東日本の太平洋沿岸を未曾有の地震と津波が襲いました。
二万人を越える死者・行方不明者を出し、東京電力福島第一原子力発電所で起こったあの深刻な事故が、日本国民の心を何日も衝撃と不安に揺り動かし続けました。

しかし、そうした中、この大災害に対処した日本人の冷静沈着な行動に対し、世界中の人々が感嘆と称賛の声を寄せたことは、今なお記憶に新しいところです。

東京においても電車が全面ストップして帰宅難民があふれる中、やむをえず徒歩で家路を急ぐ人々に対して、沿道の企業や商店、学校などがロビーを開放して休息所やトイレを進んで提供した事例が、テレビなどで数多く報道されました。

中には社員総出で帰宅する人々に、自社を開放していることを知らせ「皆さん頑張りましょう」と呼びかけた会社もあったといいます。

震災の翌朝、私が訪れた新宿駅では、帰宅が困難になった方々が階段に座って電車が動き出すのを待っていました。
しかし、誰が呼びかけた結果なのかはよくわかりませんが、座る場所もないくらい混雑している中でも、中央の通路だけは「通る人がいるから」と空けてあったのです。

計画停電が実施された時には、電車の本数が削減されたこともあり、どの駅も乗客が入りきれないような大混雑となりました。
しかし、この時も一切混乱はありませんでした。
人々は文句をいうこともなく、ただひたすら駅員の指示に従い、整然と行列をつくって、電車の来るのを静かに待ちました。

それを見たあるドイツ人が、「日本国民はアーミーか」と叫んだそうです。
軍隊でしか考えられないような規律正しさを、日本国民は示したのです。

さらに、震災直後から続々と手を挙げたボランティア希望者の数や義援金の総額など、いずれも私の想像を越えるものでした。

こうした状況を、アメリカのニュース専門チャンネルCNNテレビは「住民たちは、自助努力と他者との調和を保ちながら礼儀を守っている」と報じ、
またハリケーン被害に遭ったニューオリンズのケースと比較しながら、商店などの略奪行為について、
「そんな動きはショックを受けるほど皆無だ」と仙台からリポートしています。

あるいは、中国の新華社通信の記者は、
「信号機が停電し、交差点に警察官も立っていないのに、ドライバーはお互いに譲り合い、混乱はまったくない」
と驚きをもって伝えていました。

それだけではありません。
被災地の避難所で十分な食料もない当初は、被災者が順番を守り、列をつくって少ない食物を平等に分配し、しかも全員が感謝の意を表しているニュース映像に、中国国内では
「われわれ中国人は、モラル、道徳心の面ではまだまだ日本に遠く及ばない。
被災した日本人に学ばねばならない」
との声が期せずして挙がったといいます。

◆日本人の心となっている「教育勅語」
それともうひとつ、今回の震災後の対応で感動的だったのが、わが身の危険も顧みず、福島第一原発では現場に赴き、地震・津波の被災地では懸命に死者、行方不明者の捜索・救援にあたった自衛隊員、消防隊員、警察官などの行動です。

例えば、自衛隊が福島原発での放水作戦に出動が決まった時のこと。
「これはいわば覚悟の作戦だ。
強制はしない。
行ける者は一晩じっくり考えて自分の気持ちを固めてほしい」
と述べた上官の言葉に対して、全員が躊躇なく「自分が行きます」と口をそろえて答えたといいます。

また、勤務先から直接、福島第一原発へ行くよう出動命令が下った、ある消防レスキュー隊の隊長が、家族に対して
「必ず帰ってくるから、それまで安心して待っていてくれ」
というメールをしたところ、奥さんから
「家族のことは心配なさらず、日本の救世主になってください」
というメールが返ってきたという感動的な報道もありました。

まさに、自己犠牲をいとわず、公のための任務を遂行するという、われわれのまぶたを熱くするようなできごとがあったのです。

もちろん自衛隊員は、
「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえる」
と宣誓して自衛官になっており、これは他の公務員とは比較にならない重い義務だともいえるわけですが、その奥にあるのは、
「教育勅語」にある
「一旦緩急アレハ、義勇公二奉シ」
という精神だったのだと思います。

こうした意識は、なにも自衛隊員や警察官などの公務員に限りません。

有名な話が、宮城県南三陸町職員で防災放送を担当していた遠藤未希さんです。
彼女は最後まで
「皆さん、津波が来ます。
逃げてください」
という放送を続け、最後に津波にのみこまれて亡くなりました。

たとえ自分の身は危険にさらされても、津波が来る瞬間までマイクを握り続けた姿は、大東亜戦争の末期、樺太の電話局で交換手をしていた乙女たちが、ソ連軍が侵入してきたにもかかわらず最後まで職場を守り、
「これが最後です。皆さん、さようなら、さようなら」
といって自決していった姿に重なります。

また、海水の侵入を防ぐために水門を閉めにいって津波に流された消防士も、お年寄りを助けにいってそのまま波にさらわれ殉職した警察官もいました。

以下は岩手県の陸前高田市の市長さんから聞いた話です。
同市では六十八人の職員が亡くなられていますが、その大半が「危険だから行くな。みんな避難しろ」という声を振り切って、市民を守るために職場を飛び出していった職員だったとのことです。
市長さんは「だから、亡くなった六十八人は、私にとっては かけがえのない職員だったんです」と声をつまらせておられました。

自分の身を顧みず、勇気を奮い起こして「義勇公二奉シ」たこの人たちの姿は、まさに 「教育勅語」が説いた日本人の生き方そのものでした。

「教育勅語」の精神が今も精神のDNAとして日本人の心の中に残っていたとしか考えられません。
また、これらの話に感動した人たちも、そのことを思い起こしたのではなかったでしょうか。

このことは、アメリカ・ジョージタウン大学教授で日本文学の研究者でもあるケビン・ドークさんが、
「日本国民が自制や自己の犠牲の精神で震災に対応した様子は、広い意味での日本の文化を痛感させた。
日本の文化や伝統も米軍の占領政策などにより、かなり変えられたのではないかと思いがちだったが、文化の核の部分は変わらないのだと思わされた」
(『産経新聞』 三月二十五日)

と論評していることとも重なり、とても的確な指摘だと感じました。

では、こうした日本人の良質な精神、行動を生み出した「教育勅語」とは、どのようなものだったのか。
改めてその成立過程から見ていくことにしましょう。

◆近代化の道を歩み始めた明治の日本
確かに明治維新は、日本を欧米諸国による植民地化から救い、新政府による富国強兵・殖産興業の掛け声の下、中央集権の国家体制を築き、さまざまな近代的法制度を導入し、教育制度を整え、産業を興し、憲法をつくり、国民が力を合わせて欧米と対峠し得る近代国家をつくり上げていった、まさに近代化の出発点でありました。

その結果、日本はそれまでに締結した不平等条約により関税自主権も持たず、治外法権も撤廃できなかった遅れた国から、第一次世界大戦後には世界の「五大国」の一つに数えられるまでに発展していくことができたのです。

その改革の出発点となったのが、
「五箇条の御誓文」でした。

一、広ク会議ヲ興シ、万機公論二決スヘシ

一、上下心ヲ一ニシテ、盛二経論(世の多くの人々の様々な議論のこと)ヲ行フヘシ

一、官武一途庶民二至ル迄、各其志ヲ遂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス

一、旧来ノ陋習ヲ破り、天地ノ公道二基クヘシ

一、智識ヲ世界二求メ、大二皇基ヲ振起スヘシ

中でも、四、五項目は「将来に向けての開国宣言」といってもいいものです。
国を開き、旧来の晒習を捨て、西洋の思想文物をどんどん取り入れ、それを学び、新しい日本をつくっていくのだという、先取の意気込みにあふれています。

維新政府は国を挙げて、西洋文明の摂取に取り組みます。
「岩倉使節団」は一年半も掛けて西洋を見聞し、現実の差を見せつけられる。
その結果、産業を興して国を富まし、軍備を強化する「殖産興業・富国強兵」の実践と、国体体制の整備が何よりも大切だと考えるに至ります。

◆混迷する明治日本の精神文化・道徳
欧米文化に触れ、日本が遅れた要因は、封建制の歴史が長すぎたからだとして、日本を共和制にしようという意見も出てきました。
政府が将来を嘱望して派遣した青年官僚の多くが、そのような主張を展開するようになり、佐々木や岩倉などの尊皇家と度々激しい議論をすることになったというのです。

当時、岩倉使節団以外にも、江戸時代の各藩単位で多くの西洋視察団や留学生が欧米各国に派遣されていました。
そうした人たちからも、古来の日本の国柄への不信を公言する者が現れました。
彼らの中には「日本が遅れているのは、世界に通用しない日本語にある。日本語をやめるべきだ」などと主張する人間も少なからずいたのです。

こうした、西洋に魂を奪われる若者は、年々増加し、明治十年を過ぎる頃には無視できない存在になっていきました。
皇室のご存在や前述した日本語、さらには日本の精神文化を軽視する者が続出し、国の体制を揺るがすまでになったのです。

そのひとつが、自由民権運動でした。
ただ漠然とフランス革命に憧れ
「フランスの共和制こそ理想の国家のあり方だ」
「イギリスの議院内閣制こそ、わが国が導入すべき制度だ」
と、彼我の国情の違いを無視して「天賦人権」だの「議会開設」だのを一方的に要求する強硬派が多数を占めていました。

他方、こうした日本の文化的、政治的混乱に加え、学校教育の現場も混乱を極めていました。

例えば、エリート校では「とにかく英語だ」ということになり、英語さえ教えればそれでいいというように、現場は植民地のような状況に陥っていたのです。
昔から日本では勇者といえば、子供たちは鎮西八郎為朝、源義経などを語り、智者・忠臣といえば楠木正成、新田義貞をあげるのが常となっていた。
ところが、今はそんな風は既になく、むしろアメリカ、ヨーロッパの豪傑を理想とするような風潮がみなぎつており、日本などは顧りみないような考え方の兆しがあった。
つまり、欧米人を一等高く見て、日本人を劣等な国民とし、日本の歴史習慣を無視して欧米化せねば駄目だというような雰囲気になっていました。
また、中央の教育界にはその頃、米国からの留学帰りが多くなっており、こうした連中が「学士会」というものを文部省内に組織して大いに羽振りをきかせていたというのです。
日本の伝統的な教育、文化を教えることのできる旧士族などは、教育の現場から排除される傾向にありました。

当時、天皇はこのような状況をご覧になり、
「徳育に関する資源を編纂して、それを子供たちに教えたらどうか」
と、山縣と楠本に自ら仰有られたのです。
更に、芳川文部大臣に、天皇より改めて
「教育上の基礎となるべき『箴言』を編纂せよ」
と命じられ、これが教育勅語の発端となりました。

◆国体の基本理念と井上毅(いのうえこわし)
天保十四年、熊本藩の下級武士の三男として生まれる。
体は丈夫ではないが、その神童ぶりは誰もが認めていた。
横井小楠の四海兄弟説では、開国して貿易をやらなければに対し、国を開けば他国の悪習がドンドン入ってくる。
キリスト教も入ってくる。
その混乱をどうするのだ。
「本当の文明ならそんなことは絶対にしないはずだ」
と主張したのです。

東京大学の助手に選ばれ、西洋の司法制度を詳しく学ぶために、フランスに留学します。
留学中、井上は手段として「西洋に何を学べば日本の独立を保てるか」とばかりを考えていた。
米仏は共和制、英国は不文法なので、日本のモデルにはなりませんでした。
そして、フランスに勝ったプロシアだけが日本のモデルになるとの思いをもって帰国しています。
日本で初めて、刑事訴訟法を紹介するのですが、これを植木枝盛が高く評価し、その抽象的な人権思想だけを利用して自由民権運動を繰り広げました。
井上のように、人権を保障する制度までは考えていませんでした。

大隈重信は英国流の議院内閣制を採用すべしとしたのですが、井上は岩倉や伊藤に進言して欽定憲法への制定に向かわせました。

◆皇室典範を作った井上毅
女性天皇は存在しても、女系天皇は一人もいない。
女性天皇はあくまでも次の男系天皇への一時的な橋渡しという実態であった。
皇位継承の流れはすべて男系でつながれている。例外はない。
ゆえに、これを守ることが万世一系を守るということである。
尚、女性天皇は結婚禁止。

◆明治憲法と井上毅
シナ、ヨーロッパでは一人の豪族が、多くの土地を武力で占領し、一つの政府を立てて征服し、国家としている。
欧米の国家成立は、君民の約束である国家契約で成り立っているが、日本は天皇の徳によって国家が始まる。
即ち、天皇の源は、皇祖の心を知り、これを民に伝え、民の心を知ることだ。
これは日本固有のものだから、井上は、明治憲法の第一条を
「日本帝国は万世一系の天皇の治める所なり」
とした。
つまり、井上毅は天皇の徳による国柄とし、専制主義を排するように明治憲法を書き上げた。

◆明治憲法と教育勅語の基本理念
天照大神の命を受けた建御雷神(鹿島神宮の御祭神)が、出雲を治めていた大国主神に
「この葦原中国は本来、天照大神の御子が『しらす』ところの国であるから、この国を譲るように」
と国譲りの交渉をするお話です。

その中の一説に、
「大国主神が『うしはける』この地」と、
「天照大神の御子が本来ならば『しらす』国である」
という二つの謎の言葉が出てきます。

そこで、井上はこの「うしはく」という言葉と「しらす」という言葉はどう違うのだろうか、という疑問を抱き、それを調べてみることにしたのです。

すると、天照大神や歴代天皇に関わるところでは、「治める」という意味で「しらす」という言葉が使われ、
大国主神をはじめとする一般の豪族たちのところでは「うしはく」という言葉が同様な意味で、使い分けられていることがわかったのです。
二つの言葉は明確に違う使われ方をしていました。

では、この「うしはく」と「しらす」は、どこが適うのか?

井上は『言霊』という彼が書き残した文章の中で、こう説明しています。
「うしはく」というのは西洋で「支配する」という意味で使われている言葉と同じである。
すなわち、日本では豪族が私物化した土地を、権力をもって支配するというような場合にこれが使われている。

それに対し「しらす」の意味は、同じ治めるという意味でもまったく適う。
「しらす」は「知る」を語源にしており、天皇はまず民の心、すなわち国民の喜びや悲しみ、願い、あるいは神々の心を知り、それをそのまま鏡に映すように、わが心に写し取って、それと自己を同一化し自ら無にしようとされるという意味である。
この「しらす」の理念こそが国体の根本であると確信しました。

「支那(中国)、ヨーロッパでは一人の豪傑がおって、多くの土地を占領し、一つの政府を立てて支配し、その征服の結果をもって国家の釈義(意味)となすべきも、
日本国の天皇の大御業(なさってこられたこと)の源は、皇祖の御心の鏡もて天が下の民草をしろしめすという意義より成り立ちたるものなり」

要するに、鏡というものは、それで人々の心を照らし、そこに映ったものを見るためのものである。
それが「知る」ということであり、そこから「しらす」という言葉は誕生している。

だから、天照大神はニニギノミコトが地上に降臨される時に彼に鏡を授けて、
「これを見ることは、わが心を見るがごとくせよ」
とおっしゃった。
それは、神の心を知るということだ。
その鏡を磨き上げて、にごりない心で常に神の心・民の心を知るということが天皇にとって最も大切なことである。
従って、三種の神器の中で一番大切なものとして鏡が位置づけられている。
こうした精神をもって歴代天皇はこの国を「しろしめして(治めて)」こられたのだ。

「かかれば日本国の国家成立の原理は、君民の約束にあらずして、一つの君徳なり。
国家の始めは君徳に基づくという一旬は、日本国家学の開巻第一に説くべき定論にこそあるなれ」

すなわち、外国では国家成立あるいは憲法成立は、君民の約束といった形、あるいは国家契約といった形で成り立っているかもしれないが、日本ではなによりも無私の心で神々の心、民の心を知ろうとされ、それに自らを合わせようとされる天皇の「徳」によって国家は始まっている。

これは非常に重要なことであって、日本国家学は日本固有のものであり、決してドイツなど西洋模倣の国家学ではないというのです。

井上はこうして、留学で得た法学の知識をもとに、さらに日本の歴史伝統を踏まえた日本固有の君主のあり方に視点を据えた憲法案を起草し、それを天皇の名をもって国民に与えるという「欽定憲法」の制定に全力を傾けたのです。

こうして井上は、明治憲法の第一条を、
「日本帝国ハ万世一系ノ天皇ノ治ス所ナリ」
としました。

しかし、日本の近代憲法を世界に知らしめようとした伊藤博文らから、これでは法律用語として外国からも誤解を招くとの異論が出されたとみえ、
「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之レヲ統治ス」と最終的には改められることになります。

明治憲法下の「国体」などというと、天皇が国家の主権を一手に掌握した絶対主義専制憲法、といったようなことがこれまでにもしばしばいわれてきました。
しかし、井上の考えはそれとはまったく次元を異にしていたのです。
そこには天皇中心の絶対主義専制国家などという発想はいささかもありませんでした。

逆に、天皇が国民の思いを広く「知る」ためには、むしろ専制主義であってはいけない、というのが井上の考えでもあったのです。
明治憲法が、当時の諸外国が驚くほど議会の権限を広く認めた内容になっているのは、その表れといえるでしょう。

明治憲法はプロシア憲法の単なる引き写しではない。
諸外国の憲法の良い点を取り入れながらも、まさに日本の憲法としてつくられたものだったのです。
その中心となったものは、まさに国体の精神であり、それは「しらす」の精神に基づくのでした。

この「しらす」の精神は、次に井上が手がけることになる「教育勅語」にも生かされることになりますが、このことは後で詳しく触れたいと思います。

◇教育勅語の起草
文部省案を井上が否定し、彼は七項目の作成条件を掲げます。
この気遣いは、太子の十七条憲法「神・仏・儒を大切にせよ」を想起させます。

第一.教育勅語は他の行政上の勅語と同様であってはならない。
立憲君主制の国では「君主は臣民の良心の自由に干渉せず」というのが基本原則であるがゆえに、権力による強制ではなく、社会上の君主の著作として発せられるのが好ましい。

第二.勅語には天とか神とかいう言葉を避けなくてはならない。
宗教上の争いを引き起こさないようにとの配慮です。

第三.勅語には深遠な哲学上の理論を避けるべき。
哲学上の理論は、必ず反論が出てくるので、天皇が片方に肩入れすることはない。
論争は専門家に任せておくべきだ。   第

第四.勅語には、政治上の臭味を避けるべき。
政治上の思惑や言葉は、陛下のお言葉のありかたとしてふさわしくない。

第五.漢学や洋学に踏み込むことも、陛下のお言葉としてはふさわしくない。

第六.「これをしては、あれをしてはいけない」などの消極的な言葉を用いてはならない。

第七.宗派争いを助長したり、それに巻き込まれるようなことがあってはならない。


教育勅語原文 
「国憲ヲ重シ、国法二遵ヒ」
の部分を元田は、天皇の統治大権を制限するもので好ましくないとしましたが、
天皇はあえて
「それは必要だから残すように」
と仰有られたといいます。
憲法第四条に
「天皇ハ……此憲法ノ条規二依り之ヲ行フ」
とあるのを、天皇はよく認識しておられたのです。



◆《現代語訳 その1》
私が思うには、わが祖・神武天皇をはじめとする歴代の天皇がこの国を建てられ、お治めになってこられたご偉業は宏大で、遼遠であり、そこでお示しになられたひたすら国民の幸せを願い祈られる徳は実に深く、厚いものでありました。
それを受けて、国民は天皇に身をもって真心を尽くし、祖先と親を大切にし、国民すべてが皆、心を一つにしてこの国の比類なき美風をつくり上げてきました。
これはわが国柄のすぐれて美しいところであり、教育が基づくべきところも、実にここにあると思います。

国民の皆さん、このような教育の原点を踏まえて、両親には孝養を尽くし、兄弟姉妹は仲良くし、夫婦は心を合わせて仲睦まじくし、友人とは信じ合える関係となり、さらに自己に対しては慎ましやかな態度と謙虚な心構えを維持し、多くの人々に対しては広い愛の心をもとうではありませんか。

また、学校では知識を学び、職場では仕事に関わる技術・技法を習得し、人格的にすぐれた人間となり、さらにそれに留まらず一歩進んで、公共の利益を増進し、社会のためになすべき務めを果たし、いつも国家秩序の根本である憲法と法律を遵守し、その上で国家危急の際には勇気を奮って公のために行動し、いつまでも永遠に継承されて行くべきこの日本国を守り、支えて行こうではありませんか。

このように実践することは、皆さんのような今ここに生きる忠実で善良な国民だけのためになされることではなく、皆さんの祖先が古から守り伝えてきた日本人の美風をはっきりと世に表すことでもあります。

ここに示してきた事柄は、わが皇室の祖先が守り伝えてきたものでもあり、われわれ皇室も国民もともどもに従い、守るべきものであります。
これは昔も今も変わるものでなく、また外国においても充分に通用可能なものであります。
私は皆さんと一緒になってこの大切な人生の指針を常に心に抱いて守り、そこで実現された徳が全国民にあまねく行き渡り、それが一つになることを切に願います。


◆《現代語訳 その2》
ここで、大雑把ではあるが『教育勅語』の内容を現代語の意訳で眺めていきたい。
書き始めの「朕惟(おも)フニ」は勅語全体にかかる言葉で、以降はすべて明治天皇の考えが示されていることが分かる。
そして、先ず歴代天皇は立派だった旨が
「太古の昔に徳のある国を建てて育んできたことが立派だった」
と語られた後、
立派だったのは歴代天皇だけではなく、「臣民」
つまり、国民に触れ、
「国民も立派だった」と続く。
すなわち
「いつの時代の国民も、心を一つにして国をよく支えてくれた」
というのだ。

勅語の冒頭に天皇と国民との関係性が示されていることには重要な意味がある。
天皇と国民が一体となつて二千年来、国を守り育ててきたことが、日本人の修身・道徳の根本であることが示されている。

続けて勅語は
「親孝行しなさい、兄弟は仲良くしなさい、夫婦は伸睦まじくしなさい、友達はお互いに信じなさい、
そして、我儘な振る舞いをせず、周りの人たちに愛情を注ぎなさい」
と、人間としての基本的な道徳を説く。
儒教の教えをそのまま丸写ししただけという指摘があるが、それは儒教を学んだことがない人の意見であろう。
儒教的に書くなら、子は親に従い、弟は兄に従い、嫁は夫に従い、となるはずである。

その後、勅語は
「勉強しなさい、職業を身に付けなさい、賢い人になりなさい、徳を備えた人になりなさい、
そして、それを世のため人のために使いなさい」
と、国民国家の一員としての生き方を説く。
他者のために生きなさいという伝統的価値観がここに投影されているのである。

続く
「常に憲法と法令を重んじ、もし国が危機に直面したら、正義に照らし合わせて勇気を持って公のために奉仕して、万世一系の皇統が続くようにしなさい」
という部分は
「戦争が起きたら天皇のために戦って死ね」
と理解され、
『教育勅語』が「軍国主義教育の象徴」といわれる根拠となっているが、
そう読むのは誤りである。

ここは
「国の危機にあたり、国のためにできることを実践しなさい」
という意味であり、
「天皇のために死ね」
という意味ではない。

そもそも、近代国家においては憲法の明文規定の有無にかかわらず、国民には当然に国防の義務がある。
国民国家が攻められて国・民が国を守らなければ、一体誰が国を守るのか。
中国と韓国の憲法には国民の国防義務が明記してあるし、EU27カ国中、20カ国が憲法に兵役の義務を書いている。
これには敗戦国のドイツも含まれる。
もし日本国民に国防義務がないというのであれば、それは国民国家の否定を意味する。

再び勅語に戻っていこう。
次に
「これまでに述べてきたことは、天皇のために実行するのではない。
ご先祖棟たちが大切にしてきた生き方を実行してこれを顕彰することは、あなたたち自身のためになることなのです」
と説く。

そして、全体を総括する言葉で締めくくられる。
「ここに示した生き方は、歴代天皇の遺訓で、天皇と国民が共に守るべきものであって、これは時代と共に変化するものではなく、また世界のどの地域においても共通するものであるから、天皇である私がまず率先してこれを実行するので、あなたたちもぜひこれを実行し、徳をひとつにすることを願っている」

かつて、世界の王や皇帝が民に命令を下したことは数多の例があろうが、修身・道徳の規範を示して、これを自ら実践した帝王が他にいたであろうか。
現代日本人が『教育勅語』を取り戻して、国民こぞってこれを実行したら、日本は素晴らしい国になるであろう。
たとえこのまま復活できなくとも、小中学校の道徳の授業で、『教育勅語』の精神を余すところなく教えることができたら、と思う。
([正論 2014年06月号 君は日本を誇れるか]竹田恒泰著より抜粋)

◆絶賛された教育勅語
当時日本は、東郷平八郎率いる連合艦隊が世界最強といわれていたロシア・バルチック艦隊を破り、中国大陸でもロシア軍に勝利を重ねていました。

「極東の小さな島国である日本が、大国ロシアを相手に戦況を有利に進めている。」

このニュ-スは世界中を駆けめぐり、世界の人々を驚嘆させました。

一方、ロシアも黙って見ていたわけではありません。
欧米各国を味方に引き入れるべく、彼らも彼らなりの活発な海外広報戦略を展開していました。
そうした中、日本政府は対日世論を親日的なものにするために、貴族院議員の末松謙澄(伊藤博文の娘婿)をヨーロッパに、また金子堅太郎をアメリカに派遣し、広報活動を展開することになります。

その時、この二人は教育勅語の英訳をもっていき、それを説明して、
「ここにロシアにも負けない日本人の精神が込められている」
と各地で講演し、大変な感動を呼んだ、という記録が残っています。

実際、金子は自身の著した『日露戦役秘録』のなかで、
「米国の陸海軍人や教育家たちは日本兵の強くなった訳は此の教育勅語及軍人読法(軍人勅諭)のお陰である事がわかって皆大に喜びました」
と記しています。

そして明治三十八年九月五日、アメリカ・ポーツマスで日露両国の講和会議が開かれ、日本が世界最強を自負していたロシアを屈伏させるや、日本に対する関心は世界中に爆発的に広がっていったのです。

中でも英国は、日本発展の原動力を、教育勅語をもとにした道徳教育の力と捉え、講演者の派遣を日本政府に要請してきました。
この時、文部省が白羽の欠を立てたのが、英国への留学経験もあり、英語も堪能だった元東京帝国大学総長で理学博士の菊池大麓だったといいます。

菊池はロンドンへの派遣が決まると、直ちに「教育勅語」の新たな英訳に着手。
これをテキストに、明治四十年、英国各地を巡回して、精力的に日本の道徳教育の紹介活動を展開していったといいます。
そこで菊池は、教育勅語の根本にある道徳は「忠孝」にあり、「忠孝」は他のあらゆる道徳の源泉であることを力説。

「勅語には一定の行動規範が示されており、われわれは 
『以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ』。
これは天皇の忠良の臣民たるのみならず、
『又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン』
からである。
すなわち、
われわれはこうして天皇・国家に対し、また両親・祖先に対して義務を完遂することができるのである」
と述べたというのです。

つまり、日本国民は天皇・国家のみならず両親・祖先を敬うことにより人格を陶冶し、国家永続の力を求めようとしているとして、祖先崇拝は
「古代から現在に至るまで、常にわが国の性格を陶冶する最も有力な要素であった」
と語り、それは西洋文明が日本を席巻しても変わることがなかった、と説いたのです。

これに対して全英教員組合の機関誌は、
「教育勅語と合致した教育精神を有する国民は、いかなる困難に直面しても進化上の出来事と済まされ、決して進歩の大道を逸脱することはない……

この愛国心が強く、勇敢無比な国民は、教育上の進化を統け、結果としてその偉大な勅語に雄弁に示された精神をもって、国民的伸展の歴程を重ねていくであろう」
と論評しました。

また、教育専門月刊誌『エデュケーショナル・タイムズ』は、勅語の前段を引用して、
「ここに威厳があって思慮深く、人心に感動を与えるような訴えかけの好例を発見することができるであろう」
と教育勅語を絶賛してやまなかったという記録が残っています。
(以上、平田諭治『教育勅語国際関係史の研究』より)

◆日本弱体化の切り札にされた「教育勅語」
占領軍としても、欧米各国でも絶賛され、普遍的で正しいことしか書かれておらず、しかも国民に権力をもって命令・強制するわけでもないこの教育勅語を、いきなり否定することは簡単にはできないことでした。

そこで、まず憲法を変え、次に教育基本法を押しつけて外堀を埋めた上で、衆参両院が教育勅語の「排除・失効」を決議するようにもっていったのです。

教育基本法を成立させた時も、
「教育は教育基本法ですべて行えるものではない。
日本人の心の源泉となっている教育勅語はその背景の精神をなすものであって、そのまま残すべきだ」
という意見の大臣や議員が大半を占めていました。

当時の吉田内閣も
「教育勅語は普遍性豊かなものであって、今後の日本社会でも十分通用する内容のものである」
と表明していました。
しかし、最終的には占領軍によって排除・失効へともっていかれたのです。

その結果、どうなったかというと、
「父母二孝」「兄弟二友ニ、……」
といった日本人が本来持っていた道徳観が徐々に失われていくことになり、
拠るべきは「個の自由」であり「人権」のみであるという世の中になっていきました。
それに代わる新たな規範を、という要求はときおり聞かれたことは事実ですが、世の中を動かすような流れにはなりませんでした。

◆今甦る「教育勅語」の精神
平成二十三年三月十一日に起きた未曾有の「東日本大震災」後の、世界も絶賛した日本人の冷静な行動とボランティア精神は、本書の冒頭でも述べたように、すでに失われていたと思われていた教育勅語の精神が日本人の心の中に民族のDNAとして、ささやかな形ではあれ、依然として残されていることを証明しました。
それだけではありません。
漂流する政治とは次元の異なるところで、まさに今上陛下による「しらす」の精神そのもののお姿を、私たちは拝したのです。

以下は、甚大な被害を受けた宮城県南三陸町の佐藤仁町長が記す、被災地における両陛下のお姿ですが、読む者をして感激させずにはおきません。

「ヘリコプターで高台にある小学校に到着された両陛下は、グラウンドから壊滅した町並みを見られた後に、深々と黙礼されました。
その後、約二百人が避難していた中学校の体育館を訪れたのですが、とても心に残ることがありました。

両陛下にはスリッパが用意されていました。
私は先に体育館に入ってお待ちしていたのですが、入り口付近で皇后陛下は私がスリッパを履いてないのを見られると、自らもさっとお脱ぎになられたのです。
また、天皇陛下もそうなされようとしたので、私はそのままお履きいただけるように必死にお願いいたしました。
こうした両陛下のさりげない謙虚な姿勢から、国民はいつも勇気と元気をいただいているのでしょう。
皇室の『存在感』というものを間近で実感いたしました」

両陛下はまずご到着されるや、がれきの山に向かって深々と頭を下げられ、黙躊を捧げられたのです。
町長はこれについてはあっさりとしか触れておられませんが、私にはこれは実に貴い光景だと思われてなりませんでした。

この時の写真が翌日の新聞にも大きく載りましたので、今もそれを拝した時の感動を記憶されておられる方も多いかと思います。
両陛下は何をなされるよりもまず先にこの大震災の犠牲者のみたまに深い祈りを捧げられたのです。

その後、両陛下は体育館に進まれ、町長がここに記すようなスリッパの一件が起きました。
私はこうした両陛下の行為の一つ一つに、あくまでも被災者と同一の平面に立たれ、彼らの思いをより深く知ろうとされ、彼らの心と一体になろうとされてやまない、両陛下の切なる思いが感じられてならなかったのです。

町長はさらに記しています。
「さらに私が感動したのは、避難所の体育館を出られる際、天皇陛下から『がんばってください』とお声をかけられると、町民から『ワァ』という大きな歓声と同時に、拍手が巻き起こったことです。
泣いている人もいました。
それまで町民は慣れぬ避難所生活で疲れ、精神的にもギスギスしていたところを、両陛下のお見舞いによって本当に救われたのです」

これこそが教育勅語が前提とした、天皇と国民の「一体性」だったのではないでしょうか。

なぜ泣く人がおり、人々が救われたかといえば、両陛下の真心が人々に伝わったからです。
両陛下は本当にわれわれ被災者のことを考えていてくださるのだと、
これこそが井上が天皇の「徳」と呼んだものだったと私は思うのです。

大震災直後の陛下のお言葉にもそれが表れておりました。
陛下は「被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ」とお呼びかけになられました。
つまり、「心を寄せる」とは、その相手のことを知ろうとし、それに一体化する、ということです。
井上風にいえば、「しらす」ということです。

ところが、今の政治家には、この「心を寄せる」という心が不足しているのではないでしょうか。
というより、自分勝手な「我欲」があるだけなのです。
どうすれば支持率を上げることができるか、あるいはどうすればメディアに好感をもって報道してもらえるか、ということです。

いつからこんな世の中になってしまったのか、と嘆かわしい限りです。
しかし、嘆いているだけでは日本はよくなりません。
こうした世の中を正すためにも、私たちはもう一度、この教育勅語の原点に立ち返る必要があると思います。

◆『逆にしたらよく分かる教育勅語』より 
世の中には、実物を見ないで思い込みだけで決めつける人がいます。
「教育勅語は危険思想だ~」
というような人たちです。

でも「何がどう危険なのか?」と聞いたら、「学校でそう習った」「世間でそう言われている」「なんとなく危険」と、
結局「なんとなく」の登場です。

とにかく教育勅語と言うと、
「戦前軍国主義の象徴、らしい」
「カルト宗教みたいに戦前の日本人は覚えさせられた、らしい」
「いざとなれば天皇のために死ねとか無茶苦茶言っている、らしい」
とか、刷り込みがなされているので、何を言っても無駄のようです。
とはいっても、そこであきらめたらこの本の負けですから(笑)、
少しショック療法をしてみようと思いました。
そこで、「もし教育勅語と逆のことが教えられていたら」という意味で、
「逆・教育勅語」を考えてみました。

講演などで時々読み上げることもあるのですが、最初はみなさん笑ってくださるのですが、最後まで行くと だんだん青ざめた顔になっていきます。
つまり、
戦後民主主義の行き着く先ではないか。
ついでにアメリカンデモクラシーとか、
グローバリズムとか、
儒教思想(実は韓非子)も混ざっている。
たぶんこの「逆・教育勅語」は、マッカーサーとスターリンと宮沢俊義の合作に違いない。
「逆・教育勅語」は現代日本では実現している、今の日本そのものではないか、
という認識が青ざめる理由だと思います。

1.親に孝養をつくしましょう(孝行)。

逆.親に孝養をつくしてはいけません。
  家庭内暴力をどんどんしましょう。

2.兄弟・姉妹は仲良くしましょう(友愛)。

逆.兄弟・姉妹は仲良くしてはいけません。
  兄弟姉妹は他人の始まりです。

3.夫婦はいつも仲睦まじくしましょう(夫婦の和合)。

逆.夫婦は仲良くしてはいけません。
  じゃんじゃん浮気しましょう。

4.友達はお互い信じ合って付き合いましょう(朋友の信)。

逆.友だちを信じて付き合ってはいけません。
  人を見たら泥棒と思いましょう。

5.自分の言動を慎みましょう(謙遜)。

逆.自分の言動を慎しんではいけません。
  嘘でも何でも言った者勝ちです。

6.広く全ての人に愛の手を差し伸べましょう(博愛)。

逆.広く全ての人に愛の手をさしのべてはいけません。
  わが身が第一です。

7.勉学に励み職業を身につけましょう(修業習学)。

逆.職業を身につけてはいけません。
  いざとなれば生活保護があります。

8.知識を養い才能を伸ばしましょう(知能啓発)。

逆.知識を養い才能を伸ばしてはいけません。
  大事なのはゆとりです。

9.人格の向上に努めましょう(徳器成就)。

逆.人格の向上につとめてはいけません。
  何をしても「個性」と言えば許されます。

10.広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう(公益世務)。

逆.社会のためになる仕事に励んではいけません。
  自分さえ良ければ良いのです。

11.法律や規律を守り社会の秩序に従いましょう(遵法)。

逆.法律や規則を守り社会の秩序に従ってはいけません。
  自由気ままが一番です。

12.正しい勇気を持って国のため真心を尽くしましょう(義務)。

逆.勇気をもって国のため真心を尽くしてはいけません。
  国家は打倒するものです。

天皇制の本質 5/日本国家の真髄とは

転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

■日本国家の真髄とは

◆何故天皇制を残したのか
天皇制を残したのは、統治するのに天皇の利用価値があったというのが定説ですが、モルデカイ氏はそうではないと断言する。

ユダヤ人ルソーは、民主主義を超える政治システムは無いとして、国民を意思の無いロボット化してしまう社会契約論を構築した。
そのルソーでさえ、もし天皇制を知っていれば、社会契約論を書くのを止めたことだろうとまで、モルデカイ氏は述べている。
つまり、狂気のルソーでさえ君臣共治のシステムを思いつかなかった。
だから、彼は不満でしようがないけど、他にないので民主主義を選ぶしか無かったのです。

天皇とマッカーサーとの会見において、天皇制こそは、彼らユダヤ人の求める理想的な政治形態だと気がついた。
だから、ニューディール派の中でもこのことに気がついた者との間で論争となり、やっと残せたと、モルデカイ氏は述べている。

本書『日本国家の神髄』は日本の敗戦後、GHQにより禁書とされた『国体の本義』を解釈したものです。
『国体の本義』は、経済と道徳が一致する理想の社会の実現を目指しており、個人主義的な西洋社会ではなく、君民共治の日本の国体の中にこれを追求したものでした。
ですから、日本の国体が理想的に描き出されているとしても、多くの学ぶものが有りました。
今回、日本の国体を微力ながら再検討しました。

日本神話では、神が国と人を作り、神の子孫が民と共に日本を統治した。
皇室はその正当な末裔であり、民を父のように愛し、民は天皇に徳を感じ忠誠を尽くし、自然と和し、ひいては神の国の実現を願ってきた。
この上下関係ではない、君民共治の精神は、仁徳天皇の勅語に良く現われている。

「百姓貧しきは、即ち朕が貧しきなり。
百姓富めるは、即ち朕が富めるなり」

西洋での正義は、国法に従うことである。
しかし、日本国体では「まこと」を最重要とする。
「まこと」とは、即ち私心を離れた純粋の心、純粋な行いの事で、
「まこと」とは芸術に現われては美と成り、徳としては善と成り、知識においては真と成る。
真善美を生み出す根源だと解釈されている。
また、「まこと」は理性と感情の根源で在るが故に、智仁勇として現われ、相手を滅ぼす為の戦争ではなく、戦争の目的を和とするに至る。
従って、憲法は二次的なものであり、仕事や学問を通じて、国家に奉仕することは当然だった。
この大和魂を基本とする国家が、日本の国体だった。

西洋では正義とは何かという命題が、ギリシャ時代から問われてきました。
自然権もその一つです。
その過程で、国家社会の目的が正義です。
この正義の目的を問い、その一つの答えとして、最大多数の最大幸福とした。
これを追求すると、幸福が人によって異なる。
金銭的な幸福であれば、数値化できるが、君民共治、大和魂、「まこと」は、数値化できない。

こうして、最大多数の最大幸福という空論が、弊害ばかりを残し捨て去られた。

国民平等、福祉向上など、共産党宣言同様に、空理空論で、人類に害悪を及ぼすのみならず、自己の為に如何なる手段も正当化してしまうサイコパスを大量生産してしまう。
ところが、自由民主的な憲法と君民共統の政治体制が、最大多数の最大幸福を齎すのです。

◆神道はユダヤ教を超えていた
考えてみると、江戸時代から、複数の密教宗派、神道、儒教などの多くの宗教が、互いに争うことなく共存しながら、天皇制・武家社会を維持存続させてきました。
宗教に関しては、江戸時代の日本には信仰の自由が有り、互いに批判し合ったり、また良いところを活用したりもしています。
しかし、全知全能の神=唯一神のキリスト教だけは、他の宗教を絶対に認めず、しかも政治的に国家の基本をも揺るがしてしまう為、キリスト教を禁じ、諸外国との通商窓口を一部に留めました。
それ故、国内が安定し、税金が安くなり、江戸は世界で最大の都市であり、最も治安が良かった。
これを支えた武家社会は貧乏だったが、武士は食わねど高楊枝として、政務に尽くした。
西洋諸国、シナ王朝においては、庶民は重税にあえぎ、キリスト教支配、官僚支配により自由が奪われていたが、華麗な貴族文化が花開いていた。

一方、減税により余裕が出来た江戸市民達は、公家や武家を見習い、私塾としての寺子屋が有志により村々に開設された。
しかも、士農工商の区別無く平等に教育を受ける事ができた。
それ故、江戸文化は、能狂言、北斎、他多くの町民が自由を謳歌し、その才能を開花させた庶民の文化である。将に、驚異的な事実であった。

何ゆえ、江戸時代はこれほどまでに繁栄したのだろうか。
それは天皇制が元になり、宗教紛争が存在せず、日本式儒教精神が武家による政治を清廉なものに保っていたが故に、人心が安定していたからです。

西洋式の全知全能の神は日本には存在しない。
天照大神でさえ祖先の神から生まれており、神話に登場する神々には個性が有り、生死が有り、子育てや家族生活及び社会生活の基本となる物語が多く残されている。
これは、アブラハム以来受け継がれてきた伝統でも有る。
更に、聖徳太子の「和を持って尊としとする」の合議精神が、天皇制から一神教的な排他精神を失わせた。
つまり、新しい宗教として、神道が与えられた。
これは、ギリシャ文明の復活でもある。
イエスを救世主とするキリスト教の渡来以来、日本はダビデの一神教と戦ってきた。

江戸を引き継いだ明治・大正・昭和人は、キリスト教の邪悪さと、共産主義の脅威を直観的に察知していた。
それ故、ロシア革命を食い止めるべく、満州国を拠点とし、かつシナの共産化を食い止めていた。
日本人には軽挙妄動も有るが、当時の日本は純粋に反共に徹していたのです。
この点、皇軍は聖戦を戦った。
残念な事に、当時の世界は共産主義の脅威に、気付いてなかった。

キリスト教を原点とすれば、人間は悪であり、子供は悪の存在に近く、子を産み育てる事さえ罪悪に繋がる。
しかも、子育てについても、母性についても、夫婦愛についても、社会と個人について何も語られていない。
只々、神を殺した罪悪と、神への妄信のみが語られている。
マッカーサが日本人を贖罪の民とした手法とそっくりである。

◆イブは良妻、神罰は不当
ヘビはイブにリンゴを食べると賢くなると真実を教える。
まずは自分がリンゴを食べてみると、美味しくまた、賢くなった。
そこで、彼女は低脳な夫のアダムを馬鹿にせず、リンゴを食べさせる。
日本的には良妻である。
ところが聖書の神は神罰を与えるのだ。

神罰として、食べ物を得るのに耕し、産みの苦しみを与える。
だから、キリスト教圏では、勤労と出産を嫌悪し、奴隷を好むのだ。
日本では、農耕を通じて豊穣を神に感謝し奉納する。
出産の苦しみを喜びとし、神に感謝する。
日本では勤労を貴び、女性を尊いとする。
だから日本神話からすれば、この聖書の神がアダム夫妻に与えた神罰は不当なのだ。

◆日本神話とウーマンリブ
イブはアダムから作られ、ヘビに騙されアダムを道連れに楽園を追い出される。
女性憎しから男尊女卑となり、ウーマンリブが生まれた。
が、性差を無視したため、女性の家庭での役割を蔑視し、家庭と社会の荒廃をもたらした。
これを補うように、洋画では恋愛劇が過剰なのである。

日本では人権やウーマンリブやジェンダーフリーという言葉は、不要だった。
それだけ、正常な家庭と社会だった。
理由は、イザナギとイザナミは足りない所を補い合い、家庭と国造りをした。
日本では、男尊女卑でも、平等でも無い、互いに睦まじく助け合うものだ。
科学的なのです。

◆「三種の神器」と日本精神     天照大は孫のニニギ尊に「三種の神器」を与える。
「鏡」は “善悪を判断できる正直な心” 、
「草薙剣」は “勇気と決断” 、
「曲玉」は “思いやり” とされる。
そして、天照大は
「この中つ国(大和国)は、私の子孫である皇室が治める国です。
永遠に栄えていくでしょう」
と仰せられた。

神武天皇は「三種の神器」の精神を武人として、また歌人として引き継がれた。
そして、家族のように仲良く暮らせる道義国家を目ざし(八紘一宇)、建国を宣言されました。

日本神話の中で、
「鏡」の “善悪を判断する正直な心” は天照大の大司祭としての歴代天皇が、
「草薙剣」の “勇気と決断” は日本武尊をはじめとする英雄が、
「曲玉」の “思いやり” は神武以来の和歌として、
今も日本神話の中に、日本人の心の奥底に生きている。

神武天皇は、祖先に学び、軍事による統一ではなく、道義国家をめざし、信頼と献身にによる国にしたいと宣言された。
この精神は、大化改新、十七条憲法、五箇条の御誓文、明治憲法にも生きていました。
明治憲法では他の国に比べ天皇の権限は驚くほど小さく、またそれを明治天皇も良しとされたとのことです。
そして、教育勅語に結実したのです。

その後、敗戦で苦しむ国民に希望と誇りを取り戻して貰おうと、昭和天皇は「新日本建設に関する詔書」を公表されました。
当時は占領軍により、国旗国歌・教育勅語が禁止されていた時代でした。
まず初めに神武天皇の精神を受け継ぐ「五箇条の御誓文」を掲げられました。

また、外国の勢いに圧倒されていた当時、明治天皇が民主主義を採用されたのであり、決して輸入ものではなかった。

◆戦後レジュームからの脱却
この精神こそが、安倍総裁の掲げる戦後レジュームからの脱却そのものなのだと思います。
つまり、日本は約7年もの占領下において、内政と外交の主権を奪われ、憲法と東京裁判史観までも押しつけられ、自らが判断し決定する習慣が失われてしまった。
ここから脱却するには、不法で人種差別の東京裁判に対しては人類全体に対して法治(道義国家)をめざすこと、
GHQ憲法に対しては独自憲法を制定し国軍を持つことである。
即ち、神武精神の復活そのものなのです。

皇統の断絶を恐れたのは、私たち現代人だけではありませんでした。
新井白石は皇統断絶を防ぐため、徳川御三家のように、宮家を作った方が良いと考えました。
そこで
「朝廷では後を継ぐ天皇はいいが、ほかの皇子・皇女はみな寺に入る。
これは人間として実にかわいそうではないか」
と将軍に説き、新たに現皇室に繋がる閑院宮家が創設されました。
現代であれば、GHQにより皇籍離脱させられた旧宮家の皇籍復帰を認めるべき、という話になります。

厄介な隣国/司馬の見た韓国観に異論あり 1

転載元 柴野貞夫の『時事問題研究会』
 
 
キム・ヨンボム著
「日本主義者の夢」より抜粋(訳 柴野貞夫 2010・8・11)

朝鮮人による司馬遼太郎の歴史観批判

【第3部】
『記憶との戦争』を展開する人々

○「李王朝500年は世界に例のない貨幣0の国であり」
「朝鮮は、歴史の発展から取り残された落伍した社会」と、
一貫して主張して来た司馬遼太郎の朝鮮史観は、「朝鮮停滞論」を軸に、
「朝鮮民族による自主的な近代化は望めない」
と朝鮮半島の植民地化と侵略を推し進めて来た日本帝国主義の主張を、正当化して余りある。

○特に、この章でキム・ヨンボムが指摘した、近世朝鮮の貨幣経済の実態は、司馬遼太郎の朝鮮の歴史に対する、あきれるばかりの無知と、根拠なき歴史叙述の実態を暴露している。
(訳者注釈)


◆江戸時代の、韓・日善隣交流
(129p~139p)

二人の(藤岡信勝と井沢元彦を指す)
応答を聞きながら、
筆者が、最初に先ず感じた点は、司馬の韓国観と彼らの韓国観が、同じ版から刷り出した版画の様に瓜二つということだった。

司馬が、『明治という国家』という著作で、冗漫に言及した朝鮮王朝のソンビ(在野の学者)の〝日本蔑視〟が、そのまま繰り返されているのを見ると、彼らの韓国批判の方式は、司馬から習ったものではないかと思われる。

彼らは、とやかく言うまでもなく、忠実な司馬史観の信奉者だ。
朝鮮人が、日本人を蔑視したという証拠として、シン・ユウハン(申維翰)の『海游録』を例に挙げたのを始めとして、アジア停滞論=朝鮮停滞論に立脚し、日本だけが一人、真先に立って経済発展を成し遂げた事を強調する点、中国と韓国の関係を徹底して主従関係として見ているという点、日本が遠い昔から中国に対して独立的であったという点が、司馬の見解と一致する。

こんな諸点は、前にすでに言及したので再び反復しない。
ただ、日本人達の間で、もしくは韓国人達の間で、誤解の素地があるいくつかの点に対してだけ、建設的な批判を加えよう。

まず、「お金を物乞いする日本の乞食」に対する部分だ。
結論から言えば、井沢の話は間違っていた。
無論、『海游録』には、確かに乞食に関する一節が出てくる。

粛宗45年(1719)、ホン・チジュン(洪致中)を正使(使節団長)とする、第9次朝鮮通信使が関東地方に踏み込んだ頃、シン・ユウハン(申維翰)は、相模と武蔵の間の村の通りの風景を描写する中で、

《田畑では、秋の収穫真っ盛りなのに、腹を空かした百姓と乞食達が村の通りのあちこちで見られた。
その中に盲目者が半分を越えるのが、まことに奇妙だ。》

と、記録していた。

筆者が知る、同じ申維翰が乞食に関して言及した部分はこの一節だけだ。
申維翰は、
「お金を物乞いする日本の乞食」
のことに言及したかったわけではなく、
日本の商品・貨幣経済が、朝鮮より発展しなかったと書いているわけでもない。
それなのに、まるで申維翰が、
「朝鮮より発展していた日本社会の商品経済を、全く理解せず、間違って記述している」
と云うような話にしている。

17世紀末葉の、朝鮮の商品・貨幣経済
朝鮮では、1678年に、すでに常宝通宝(サンピョントンボ・상평통보)という貨幣が鋳造され始めた。
そのために、申維翰が日本を訪問した頃である18世紀初葉には、貨幣が全国的に流通され、貨幣経済が農村の農民生活までも支配するようになった。
カン・ジンチョル教授に依れば、

《18世紀に入るその前後の時期に至っては、農村の貧困な農民達までも、少額貨幣を支払って、野菜や塩の様な生活必需品を買わなければならない程に、(朝鮮社会は)貨幣・商品経済の荒い波濤に巻き込まれた。》

その上、カン・ジンチョルの論文『停滞性理論批判』で引用された、『粛宗実録』(粛宗)44年閏(うるう)8月の、一つの上疏文(王に申し上げる文書)の内容を見ると、

《蔬菜を掘る老婆や塩商人も、穀物よりは貨幣を好み、それなしには物を求める事が出来なくなった。》

と言い、甚だしくは、貨幣を得るために、仕方なく安値で穀物を売って、高い価格で木綿を仕入れる農民もいたという。

粛宗44年といえば、シン・ユウハンが日本を訪問する前の年だ。
従って、その頃朝鮮では、すでに商品・貨幣経済が相当発達したということを知ることが出来る。
のみならず、それを背景として、巨大な産業資本を蓄積した〝都賈(도가)〟という独占的な産業資本家も出現し、広範囲な流通組織網を整え活動したという学者達の研究結果もある。

これを推し量って見るとき、

《日本側が、貨幣経済面で、朝鮮より抜きんでている》
という主張は、至極日本中心的であることと同時に、隣の朝鮮の経済発展に対しては、目をつぶったまま言い捨てる、実に無責任な発言と言えよう。

無論、『海游録』の内容が、全体的に日本を見下して見る印象を、濃く漂わすのは否定出来ない事実だ。
朱子学の学識の程度と詩文作成能力を基準に、日本知識層の水準を低く評価し、朝鮮文化を羨ましがる日本人の姿を多く描写した為、日本側から見れば朝鮮人の日本蔑視に関した指摘として映ることもあるだろう。
しかし、その書物の一冊の内容だけをもって、朝鮮人の日本観を〝蔑視思想’〟と要約してしまうのは、歴史の複雑な現実を単純に処理してしまおうとする、意図的な処置と言わざるをえない。

さらには、朝鮮人の日本蔑視は、『壬辰倭乱』(1592)以後に強化されたものであることを、日本主義者たちは知らなければならない。
7年に及んだ侵略戦争が、朝鮮人に負わせた精神的・物質的被害と痛手を少しでも理解するなら、シン・ユウハン(申維翰)のような朝鮮ソンビの日本卑下が、何処から由来したものであるか、斟酌することが出来るはずだ。

◆明治以前の善隣関係
二人の対談者は、更に韓・日関係が、江戸時代(1603~18689)には無論のこと、それ以前にも、決して良い関係ではなかったと断定する。
たとえ朝鮮通信使が往来していたとしても、明治以前には対等な関係、互恵の関係ではなかったと言うのだ。

これに対しては、在日史学者、カン・ジェオン、イ・ジンフェ教授が明快に批判した事がある。
二人の教授によれば、韓・日関係は、頻繁な交流があった古代時代は差し置くとしても、豊臣秀吉の朝鮮侵略で悪化された期間を除外すれば、中世日本の武家政権である室町(1336~1573)幕府の全体の期間と、江戸時代のほとんど大部分を通して、善隣友好関係を維持した。

朝鮮と日本の善隣関係が成立されたのは、1404年、太祖、イ・ソンゲ(李成桂―1335~1408)が朝鮮を建国してから12年後の事だった。
その年7月、室町幕府の3代将軍である足利義満が日本国王の名前で使節を送って以後、室町幕府が崩壊するまで約160年間、日本国王の使臣が60余回も派遣されている。
これに対して朝鮮は、最初には答礼として『回禮使』という名の使節を送り、
1428年からは通信使を派遣した。

イ・ジンフェ教授は、『新版 日本文化と朝鮮』で、
「通信という信、即ち信じる事と友誼を通ずる様にする」という意味で、これはつまり、
《朝鮮国王と足利将軍(日本国王)が、〝항례(伉禮)〟の関係、
即ち、対等であることを意味する。》
と解釈した。

朝鮮と日本の間には、使節団だけが行き交ったのではない。
貿易関係も活発だった。
朝鮮は日本の商人達に、釜山浦など三つの入り江を解放し、自由に往来させた。
無論これは、朝鮮朝のはじめ、頻繁に海岸を襲撃、略奪する日本人海賊達に対する懐柔策の一環でもあったが、とにかく、三浦(プサンポ、チェポ、ヨンポ、4代世宗時に決められた日本との三つの通商港)に入って来た日本人は、年間5千名を越えたし、接待費だけでも莫大な金額に上るものとして知られている。

一旦、三浦に入ってくるだけで、帰国するまで船員達には米、豆、醤油、炭、酒と鮮魚類が支給されるが、1439年(世宗21年)には、日本人達に支給した米は総計10万石に達し、
年毎に対馬島主に送る세사미(歳賜米)の準備を心配せねばならぬほどだったと言う。

このように長い間、維持されてきた善隣友好関係が決定的に破壊され、朝鮮人の間で日本人に対する不信感が大きくなったのは、7年に及ぶ豊臣秀吉の朝鮮侵略の為だった。
しかし、天下の大勢が決着した1600年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、朝鮮との国交回復に積極的だった為に、両国関係は、新たに朝鮮通信使の往来を通した善隣関係に向かった。

朝鮮の最初の使節団が、江戸幕府に派遣されたのは、1607年1月だった。
しかし460名で構成された大規模の第一回使節団は、通信使と呼ばなかった。
通信使という名前が付けられたのは、
1634年第4回使節団の時からだった。
続いて、朝鮮朝廷は1811年まで江戸幕府の指導者である将軍が世襲で承継される時毎に、慶祝する意味で12回も通信使を送った。
この通信使派遣が19世紀に入って、ぷっつりと一度で終わった理由は、江戸幕府の莫大な経費負担と、国内政治の混乱に起因したに過ぎず、両国間の関係が悪化した為ではない。

いずれにせよ、通信使派遣で象徴される朝鮮・日本間の善隣友好関係は経済・貿易交流は無論のこと、文化・医学・芸術など各種文化分野の交流を活発に増大させたし、
特に日本文化に多大の影響を及ぼしたものとして、今日の多くの日本の学者たちも指摘している。

◆草梁倭館(チョリャンワグアン)の役割
イ・ジンフェ教授は、当時朝鮮が江戸幕府との関係を、どれだけ重視したかを説明する為に、日本の駐朝鮮外交代表部兼貿易代表部ということが出来るプサン(釜山)のチョリャン(草梁、現・プサン広域市チョリャン洞)倭館を、例に挙げた。

《倭館に関係する朝鮮の実務者達は、訓導(朝鮮時代ソウルと地方で教育を担当する正・従九品の教官)以下、3千名に達したし、時には5千名を越えた。
さらに、倭館内の建物修理(最初は25年毎にしたが、後では40年毎に変更)、防波堤と巡らした石垣などの保守を行い、各種名目で来訪する使節の3カ月分の滞在費まで全部負担した。
ここには、船員たちも含まれる。
その経費は、莫大な金額に達したが、これは、朝鮮が日本との善隣関係の維持をどれだけ重視したのかを、見せてくれるものだと言うことが出来る。》

朝鮮側の配慮がこうであるのに、日本人の中では、日本の使節団が首都ハニャン(漢陽、朝鮮王朝の首府・ソウルの古称)を訪問したことが無いことを挙げ、対等な関係が無かったと主張したりする。

これに対して、イ・ジンフェ教授は、日本に対する朝鮮の外交姿勢は〝警戒しながら交わる〟という立場であった為に、日本使節のハニャン(漢陽)訪問を許諾しなかったのだと説明した。

《日本の天下を統一した江戸幕府は、朝鮮との国交回復を慶祝する為、
1609年、300余名規模の使節団を派遣するが、この使節団はプサンポ(釜山浦)に到着し、ハニャンから来た朝鮮官吏達の迎接を受け、帰国した。
朝鮮朝廷が日本の使節団をプサンポで迎接した理由は、室町幕府時代の日本の使節が歩いたその道に沿って、豊臣の軍隊がいっぺんに、ハニャンに上がってきた例があった為だ。
即ち、室町時代の日本使節団は、朝鮮情勢を恬淡(てんたん)したものだった。その上、豊臣一族がいまだに残っていて、イムジン倭乱時、捕まえられて行った朝鮮人たちも送還されない状態だったので、朝鮮朝廷は、徳川幕府に対する不信感を消してしまう事が出来なかったのだ。》

それが慣例として定着され、その後、日本使節のハニャン(漢陽)訪問は許諾されなかった。
しかし、そのことは両国間の善隣友好関係を阻害する要因とはならなかった。

要するに、紆余曲折はあったが、1868年明治維新の時まで、朝鮮・日本間の善隣交流関係は継続維持された。

◆明治日本の優越意識
朝鮮と日本の関係が、決定的に悪化したのは、周知の通り、明治維新によって日本が天皇中心の王政に復帰してからだ。
それまで、幕府時代の実質的な統治者である将軍と朝鮮国王が、260余年の間、対等な位置で交隣関係を維持して来た点に照らしてみれば、
〝王〟の字と〝勅〟の字が入った日本側の外交文書は、朝鮮側の疑懼心(ぎくしん)を買うのに十分だった。
日本側が中国王政の国書にも使用される二つの文字を、いかなる予告もなく、公式外交文書に使用したのは、何はさておき外交慣例に外れる行為だった。
その為、朝鮮側ではその様に不遜な外交行為をしながら、王政復古を誇示する使節を派遣するというのは、不遜な意図を隠しているのではないか という、不吉な疑問を抱く事となったのだ。

これに対して、カン・ジェオン教授は『朝鮮の攘夷と開化』で、
《初期明治政府の首脳部には、日本国内の権力交代、天皇と将軍の地位の差を、対朝鮮外交に一方的に利用しようとする傾向があった。
またそれと同時に、徳川幕府時代に朝鮮通信使が江戸を訪ねて来た事を、朝鮮国王が徳川将軍に〝藩属の禮〟を取ったものとして理解する傾向もあった。 》
と指摘した。

〝藩属の禮〟というのは、
江戸幕府時代『藩』と呼んだ地方領地の指導者達である大名達が、一定期間江戸幕府に来て勤務することで、日本の実質的統治者である将軍に対する忠誠を誓い、自分たちが幕府に隷属されていることを確認した行為を言う。

言ってみれば、〝藩属の禮〟を云々したのは、朝鮮国王を一段階低い序列として格下げさせようとする悪意的意図が覗われる、見解だった。

これを見れば、明治支配層の間では、将軍が天皇の臣下であるのと同じとして、その将軍と対等な外交関係を開いてきた朝鮮国王は、同様に天皇に臣下として臣隷(예속)しなければならないとする、日本優越意識が一層強かったものと見える。
であれば、幕府政府と対等な外交関係を維持してきた朝鮮政府が、そんな不純な意図が込められた明治政府の外交文書を、受理するはずが決してないではないか。

のみならず、修正を要求したことにも、固く〝王〟の字と〝勅〟の字に最後まで固執するので、朝鮮側としては、明治政府の隠れた政略と策謀を疑う他はなかったのだ。

中国王政を敬う〝小中華の国〟と非難する日本人達が、天皇の下に朝鮮国王が〝臣隷〟する事を願うのは、朝鮮蔑視を超えて征服思想の表出というほかに見ることは出来ない。
その点で、幕府末期、天皇を敬って西洋の蛮人を追おうという尊王攘夷思想が明治日本に始まり、尊皇征韓、即ち王政復古とともに、韓国を征伐しようという思想に変質したと言うカン・ジェオン教授の指摘は、相当な妥当性を持っている。

その様な、明治日本の『征韓論』的策謀が込められた外交文書の接受を拒否し、修正を要求した朝鮮の行為を、単純に中国を親分と奉る子分 朝鮮の小中華思想から由来する排日姿勢にほかならぬと罵倒するのは、真実の歴史解析ではない。
それは、明治時代の栄光を今日の日本国に塗布しようとすることにだけ汲々とする狭量な民族主義者たちが、明治日本による韓半島の植民地化と帝国主義的特性を意図的に糊塗する、自己中心的日本主義の表出に違いない。

日本に初めて武家政権が成立して以来、天皇と将軍の関係が曖昧模糊なかたちのまま、特異な2元的国家元首制が長く存在する状態が続き、
やがて明治日本の時代に入り、王政復古によって、天皇一人に権力が一元化されることとなった。
そういう状況下で、朝鮮と日本の間に外交文書を取り巻く相互不信が発生する事態が発生したのは、理解出来ない事ではない。

しかし、カン・ジェオン教授の指摘通り、それは「朝鮮側から見れば、日本の国内事情を対外関係に拡大させた無理難題」であることに違いない。
そしてそれは、8年後の1876年、
不平等な江華島条約を結ぶという、
明治日本が朝鮮を半植民地化する征韓論の序論となった。

◆皇国史観の再版
『自由主義史観研究会』の対談講演に出た藤岡と井沢の二人が、壇上に並んで座り、歪曲された韓・日関係史と韓国像を選定する姿は、さほど新しいことではない。
50余年前に大手を振って歩いた帝国主義日本の植民史観・韓国史観の内容を、再び反復しているだけのことだ。
だから、すでにその間違った正体が暴露され、今は輝き褪せた古着の様に捨てられている狭量な日本民族主義者の話に、いちいち言い返す必要があるのかと反問する人が居るかも知れない。
また、日本人の大多数が、藤岡グループの立場を支持することもなく、尚且つ、東アジアで望ましい韓・日関係の発展と、21世紀日本の新しい進路に対して苦悶する、良識ある多くの日本知識人達が、彼らの危険な発想法と狭い思考方式に今、警鐘を鳴らしている場面に、我々が出て、可否を問うことは蛇足かも知れない。

しかし、藤岡グループの歴史書き換え運動は、日本の教育現場で相当な共感を広げているし、政治家たちの間でも、新保守主義の精神的滋養分を提供している。
そのため、彼らの発想と思考方式の危険性を指摘、批判せざるを得ない。

さらに、彼らは幅広い人気を享有している国民的人気作家 司馬遼太郎の〝司馬史観〟なるものを、自分たちの神輿の上に奉り、『自由主義史観研究会』のラッパを騒々しく吹き鳴らしているゆえに、さらに注目する必要があるのだ。
(引用終わり)
 
 
 
●申維翰が日本を訪問した頃である18世紀初葉には、貨幣が全国的に流通され、貨幣経済が農村の農民生活までも支配するようになった。
カン・ジンチョル教授に依れば、

《18世紀に入るその前後の時期に至っては、農村の貧困な農民達までも、少額貨幣を支払って、野菜や塩の様な生活必需品を買わなければならない程に、(朝鮮社会は)貨幣・商品経済の荒い波濤に巻き込まれた。》

18世紀?
ヤッパリ、だいぶ遅いじゃん!(笑)


●《日本側が、貨幣経済面で、朝鮮より抜きんでている》
という主張は、至極日本中心的であることと同時に、隣の朝鮮の経済発展に対しては、目をつぶったまま言い捨てる、実に無責任な発言と言えよう。

このころ日本では、
もう米相場とかやってたんだけど・・・



●無論、『海游録』の内容が、全体的に日本を見下して見る印象を、濃く漂わすのは否定出来ない事実だ。
朱子学の学識の程度と詩文作成能力を基準に、日本知識層の水準を低く評価し、朝鮮文化を羨ましがる日本人の姿を多く描写した為、日本側から見れば朝鮮人の日本蔑視に関した指摘として映ることもあるだろう。


それが、勝手な優越感だというのだ。
当時の日本人が、朝鮮の知識層の水準に卑屈になったり、朝鮮文化を羨ましがってたなんて、一体どういう資料から うかがtって、言ってるんだ?


●いずれにせよ、通信使派遣で象徴される朝鮮・日本間の善隣友好関係は経済・貿易交流は無論のこと、文化・医学・芸術など各種文化分野の交流を活発に増大させたし、
特に日本文化に多大の影響を及ぼしたものとして、今日の多くの日本の学者たちも指摘している。


それが
ホントなら具体的に知りたい。
特に医学って何だろう?
ひょっとして、それって朝鮮からというより、朝鮮を経由して中国から入ってきたものを言ってるのか?
もしそうなら、書き方がだいぶ 紛らわしい。



●東アジアで望ましい韓・日関係の発展と、21世紀日本の新しい進路に対して苦悶する、良識ある多くの日本知識人達が、彼らの危険な発想法と狭い思考方式に今、警鐘を鳴らしている場面に、我々が出て、可否を問うことは蛇足かも知れない。


『21世紀日本の新しい進路に対して苦悶する、良識ある多くの日本知識人達』
の悩みの種は、歴史問題を政治ネタにし、真正面から向き合おうとしない隣国。
だが、あえて、どっちがどうかは言わない。
お互い様と言っておこう(笑)。
どっちがどっちにせよ、一方的に相手の瑕疵だけをあげつらう理屈には説得力はない。
一方的な物言いには、必ず〝我田引水〟な嘘や、ワザと語ろうとしない不都合な事実が隠されているからだ。

だから、真正面から向き合い語り合う姿勢が大事なのだが、それを拒んでいるのはどっちだ、って話だ。


以下、関連記事↓

転載元 「四倉幹夫の直球勝負!」

■消された韓国の歴史
-韓流ドラマのウソ

テキストは19世紀の英国地理学会特別会員で、金田一京助よりも前に世界にアイヌの風俗を紹介した冒険旅行作家のイザベラ・バード著『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』である。

イザベラおばさんが朝鮮半島を旅したのは、1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけて4回であるが、その間に日本の韓国併合が行われ、イザベラおばさんは併合前の朝鮮と併合後の朝鮮を詳細にレポートして韓国の近代化と近代化する以前の韓国を英国人しかも英国地理学会という半ば公的な視点で客観的に伝えている。
 
◆木工技術
-チュモンは馬車には乗れなかった
19世紀までの韓国には木工技術がほとんどなく、特に木を曲げる技術がなかったので、日本の大八車のような2輪以上の車輪を作ることができなかったのである。
日本では平安時代に牛車のような輿が存在したが、なんと韓国では19世紀の明治時代になっても車輪を作る技術がなかったのである。

それゆえ、当時の貴族階級である、両班(リャンバン)は、荷台にイスを乗せて下に一輪車のついた奇妙な輿を4人の従者(正確には奴隷)に担がせたのである。

木を曲げる技術を1000年間持たせなかった文明はこの朝鮮とインカ文明だけなのである。
ゆえに、大王四神紀やチャングムやチュモンで登場する2輪車及び4輪車は捏造されたものなのである。
木工技術が発達しなかった背景として、19世紀までのソウルでは2階以上の建物の建築が儒教的考え方から禁止されており、すべて地面に直接柱を立てて藁で葺いた単純な掘立小屋のようなところに住んでいたのである。

◆お金(貨幣)のない国
-通商も貨幣経済も発達しなかった
当時の朝鮮半島全般に言えることであるが、馬車や荷車が全くなかったことによって、集落と集落、都市と都市を結ぶ道路が未発達(ということは道路がない)な状態だったため、大規模な物資の移動もなく、通商は僅かに水運(それも一部の限定されたものであった)によるものがあるだけで、とても通商と呼べるようなものはなかった。
従って、物資の移動ができないので市が立つこともなく、また、立ってもそれは限定された小商い程度のものであった。

市場ができないということは通貨も流通しないということで、当時の朝鮮半島では日本のように金貨や銀貨のような国家が鋳造したきちんとした貨幣は存在せず、民間には実質、話と決済権の低い穴あき銭しかなかった。

これは、現在に例えて言うと、一万円札も500円玉も存在せず、1円玉のみで買い物をするようなもので、とても貨幣では買い物ができなかったのである。

イザベラ・バードは、この価値のない穴あき銭を100Kg近く持ってゆかないと1,2週間の旅ができない状況であった。
もちろん、外国の通貨も流通していないので、イザベラ・バートの旅した明治時代の朝鮮は世界でも珍しい貨幣文化のない国だったのである。

ゆえに、チャングムの誓いなどで市場でお金を出して筆を買ったり、酒を買ったりすることは有り得なかったのである。
(以下引用)

《通貨に関する問題は、当時朝鮮国内を旅行する者を例外なく悩ませ、旅程を大きく左右した。
日本の円や銭はソウルと条約港でしか通用しない。
銀行や両替商は旅行先のどこにも一軒としてなく、しかも受け取ってもらえる貨幣は、当時公称3200枚で1ドルに相当する穴あき銭以外になかった。
この貨幣は数百枚単位でなわに通してあり、数えるのも運ぶのも厄介だったが、なければないでまたそれも厄介なのである。
100円分の穴あき銭を運ぶには6人の男か朝鮮馬一頭がいる。
たった10ポンドなのにである!》

(以上、講談社学術文庫『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』イザベラ・バード著より一部引用)



転載元
BBの覚醒記録。無知から来る親中親韓から離脱、日本人としての目覚めの記録。

■朝鮮通信使の嘘に騙されるな!!


――――

◆日韓で朝鮮通信使を記憶遺産に
16年に共同申請
江戸時代に朝鮮王朝が日本に送った「朝鮮通信使」ゆかりの15自治体などでつくる協議会は、韓国側と協力し、関連資料の記憶遺産登録を2016年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に申請する。
17年の登録を目指す。

日韓国交正常化50周年を迎えることも踏まえ、共同申請で友好の機運を盛り上げたい考えだ協議会は通信使が通った栃木県から長崎県までの有志自治体を核に構成し対馬市長が会長を務める。

韓国・釜山市の外郭団体「釜山文化財団」から12年5月に共同申請の打診があり、準備を進めてきた。
今年3月、双方の関係者が釜山で会合を開き、16年申請で合意した。

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(聯合=共同)

(引用終わり)
――――

>朝鮮通信使400周年を記念して再現

再現ではなく美化・捏造。
当時染料の乏しかった朝鮮に、あんなカラフルで豪華な衣類はありません。

>来年に日韓国交正常化50周年を迎えることも踏まえ、

正常化してますか?
歪みに歪んでいると思いますが。

彼らが残した記録「日東壮遊歌」には日本への羨望と嫉妬、憎しみが綴られています。

韓国の教科書では「日本に高い朝鮮文化を伝えてやるための使節だった」と記述されています。

なぜ、対馬や静岡市栃木県他は、韓国側の嘘に加担、朝鮮通信使を美化・捏造するのですか。
これでまた更に誤った日韓の歴史を国民に刷り込み、なかんずく子どもたちには教育上の「犯罪」です。

朝鮮通信使を町おこしの材料に使うこと自体は反対しませんが、韓国と共催で
韓国側の嘘をまるごと認めて広めるような自治体は卑劣です。

日韓の歴史は、韓国側の捏造で歪みに歪められているのに、なんでまたこんな嘘を日本人が塗り重ねるのでしょうね。
日本人なのでしょうに?


◆韓国 高校国史 1996年版
《壬辰倭乱をきっかけに朝鮮と日本の外交関係は断絶していた。
したがって、日本は経済的に困難に陥った。
ために戦乱後成立した日本の徳川幕府は先進文物を受け入れるために、対馬島主をとおして交渉を許可するように朝鮮に懇請した。
朝鮮では日本が犯した誤りを恨みながらも建国以来の交隣政策の原則に照らし、制限された範囲内での交渉を許した。
(1609年 光海君2年 己酉約条)

そうして富山浦に再び倭館が設置され、そこで日本人は米、木綿、人参などを求めていった。
また日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。
これに対し朝鮮では通信使を派遣したが、その一行はおよそ400余人になり、国賓として待遇を受けた。
日本は通信使の一行をとおして先進学問と技術を学ぼうと懸命であった。
したがって通信使は外交使節としてだけでなく、朝鮮の先進文化を日本に伝播する役割も果たした。》



>また日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。

先進国の人を呼びつけるかいw
通信使が将軍への手土産を大々的に持っていたのは、なぜでしょうねーw


◆韓国の教科書記載
《江戸時代に、朝鮮から来日した朝鮮通信使は、徳川幕府が経済的に困窮に陥ったために、先進文物を取り入れようと、李氏朝鮮王に懇願して招いた》←大嘘

事実は真逆です。
当時、中国の奴隷国であった朝鮮には、水車を作る技術さえありませんでした。

日韓併合まで朝鮮は世界の最貧国でであり、栄華を極めていた江戸文化に対して
教えるものなど何も持ってはいませんでした。

朝鮮通信使を捏造で伝えるのは教育的「犯罪」でもあります。
止めてください。

それでなくても日本は韓国側の捏造歴史と言いがかりに苦しめられているのに、
日韓の歴史の真実をこれ以上歪めないでください。


また静岡市のNPO法人AYUドリーム雨宮令子氏の「朝鮮通信使は家康の平和外交であった」というのも虚偽です。

あなたの嘘は、善意のいわゆる「いい人」なのかもしれませんが、無知は時として大罪です。
賢くない地方自治体のそれぞれを騙すにとどまらず、日本の国益を損ねます。
朝鮮通信使の背景をきちんと学んでください。
余りにも日本はこれまでお人好しに韓国の甘言に乗せられてきました。
そのツケを払うのは将来国を担う子どもたちです!!

あなたのその思い込みか嘘が、日本を毀損しています。
しかも今度はその大嘘をユネスコを利用して世界に広めようとは・・・。

日本人として最低です。
雨宮令子さんも、それに乗せられる自治体各位も。

雨宮令子さんが主張なさっていることは事実ではありません。
史実を歪めた捏造です。

『日東壮遊歌』とは、江戸時代の1764年(明和元年)に第11次朝鮮通信使の書記として来日した金仁謙が書いた、日本への嫉妬と羨望憎しみ、侮蔑の言葉で満ちた記録。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9D%B1%E5%A3%AE%E9%81%8A%E6%AD%8C


『日東壮遊歌』
●1764年1月22日 大阪
100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。
凄い。
大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、
銅の屋根で、黄金の内装である。
この贅沢さは異常だ。
都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。
信じられない。
中国の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。
世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。
ソウルの繁華街の10000倍の発展だ。
北京を見た通訳が通信使にいるが、
「北京の繁栄も大阪には負ける」
と言っている。
穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。
そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。
嘆かわしく、恨めしい。

●1764年1月28日 京都
街の繁栄では大阪には及ばない。
しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。
山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。
この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。
悔しい。
「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。
悔しい。
この犬のような倭人を全て掃討したい。
この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。
(引用終わり)


朝鮮遣唐使は、江戸幕府の朝鮮出兵を恐れ、朝貢使として派遣していたのです。

平和外交の象徴などではなかった証拠なら『日東壮遊歌』の他にもあります。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-29.html


◆朝鮮通信使は文化度の低い盗人集団だった
『江戸時代を「探検」する』
山本博文 新潮社より、

「通信使の随員の中には、段々と尊大な行動をする者も現れた。
出船の時に、前夜 出された夜具を盗んで船に積み込んだり、食事に難癖をつけて、魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したりというような些細なことから、予定外の行動を希望し、拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりするようなこともあったという」
 
 
江戸幕府は朝鮮通信使の来日については琉球使節同様に「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現を専ら用いており、使節についても「朝鮮来聘使」・「来聘使」・「朝鮮聘礼使」・「聘礼使」と称し、一般にもそのように呼ばれていた。


◆朝鮮通信使の輿再現
市民団体がパレードでお披露目
2012.11.7 民団新聞

朝鮮国王の国書を納めた朝鮮通信使の輿が、江戸時代の通信使ゆかりの清水区興津清見寺町で再現された。
地元でまちおこしに取り組んでいるNPO法人AYUドリーム(雨宮令子理事長)が10月21日、イベント「アンニョンハセヨ!こども朝鮮通信使」のなかでお披露目した。

制作にあたっては民団静岡本部と雨宮理事長が協力。
哲学博士で評論家の金両基さんが時代考証を担当した。
再現行列には民団静岡本部や駐横浜総領事館の関係者を含む110人が参加した。

朝鮮通信使が宿泊した清見寺では、当時のおもてなし料理の一部も再現された。


◆朴大統領に「6月、静岡訪問を」 静岡知事が招待状
静岡県の川勝平太知事が、韓国の朴槿恵大統領と6月に静岡市内で会談するため招待状を送付。

慶長12(1607)年に朝鮮通信使が来日して、現在の静岡市で徳川家康から歓待を受けた6月19、20日を朝鮮通信使を顕彰する記念日にしたい考え。

◆「朝鮮通信使祭り」
パレードに参加者募集
釜山聯合ニュース

朝鮮王朝時代、日本に朝鮮の文化を伝えた外交使節団・朝鮮通信使の行列を再現する「朝鮮通信使祭り」(5月3~5日)で、 主催側の釜山文化財団は18日、より多くの市民に参加してもらうため、祭りのパレードに参加する市民や団体を募集すると明らかにした。
パレードは祭りのメーンイベント。
5月4日午後1~5時、釜山・中区の竜頭山公園と光復路一帯で行われる。
参加者募集は29日まで。
(引用終わり)


今回の企画は、韓国・釜山市の外郭団体「釜山文化財団」から12年5月に共同申請の打診。

あちらの狙いは韓国の教科書に記載されているごとく「韓国が日本に文化を教えてあげた」というたぐいの捏造補強です。

それに乗る地方自治体は、
飛んで火に入る夏の虫。
朝鮮が劣った日本に文化を伝えた、
というウリナラファンタジーに付き合う地方自治体のお人好し。
日本を損ねます。
 

 
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鶏泥棒をする朝鮮通信使。
この絵に関しては全体を見て判断して欲しいという健気な説もありますが、「日東壮遊歌」に見る通信使たちの民度から
推して知るべし。
通信使と争っている日本人の姿もはっきり描かれているではありませんか。

韓国では隙あらば捏造しても日本人を貶めようとしているのに、牽強付会してまで朝鮮人を擁護する日本人がいるのは、GHQの日本弱体化政策の刷り込み効果なのかもしれませんね。
 
全体像を見ても、朝鮮通信使が鶏ドロというせこいことをして、日本人の町民と争っている図にしか見えませんが。

全体を見て、と報じた京都新聞が紙上に載せた画像では、朝鮮通信使と町人が争っている箇所はトリミングでカットしているのですから、何をか言わんやですね。

京都新聞・神戸新聞・山陽新聞・中国新聞・新日 本海新聞・山陰中央新報 高知新聞・ 西日本新聞・北海道新聞・愛媛新聞・中日新聞は左翼新聞と言われていますが。在日も噛んでいるのでしょうか。漏らした新聞ってありますか?

赤旗と聖教新聞は別格ってことで。

朝日新聞も。


富岡製糸場の世界遺産登録や、東京五輪開催への韓国の執拗なまでの妨害工作を忘れまい!!
お人好しも極まれば、バカです。


◆朴槿恵大統領
「日本は歴史を正しく直視し責任負う姿勢を」
演説で対日認識初言及
朴槿恵大統領の2013年「三・一独立運動」を記念する政府式典での演説内容

「日本は歴史を正しく直視し責任負う姿勢を」

「われわれの同伴者として21世紀の東アジアの時代をともに導いていくためには、歴史を正しく直視して責任を負う姿勢を持たなければならない」

「加害者と被害者という歴史的立場」

「(この立場は)千年の歴史が流れても変わることはない」

朴槿恵 大統領はさらに、麻生太郎氏との会談で、日本と韓国を「加害者と被害者」という現実離れして劇画めく、わかりやすい構造で日韓関係を規定した。
日本の恩恵を受けて日本の学校を出て、知日派でもあれば、日韓の歴史の真実を知悉する父親の娘として至近にいた朴槿恵氏が、歴史の真実を知らぬわけはない。
「漢江の奇跡」が韓国自力ではなく、日本からの多大の支援を受けてのことであることも。
しかし、彼女は嘘をつく。
ご自身の人格がどうであれ、その時点で
「ビッチでなければ韓国大統領は務まらない」
ということであり、その道を彼女は選んだのだ。

ならば問う。
モンゴルとともにその属国であった(ここでも、しょせん属国)高麗が、日本に侵略戦争を仕掛け、日本女性を犯し、手に穴を開け数珠つなぎにした残虐の歴史にはどう応えるか、朴槿恵よ、いや全韓国国民よ!
〝千年の恨〟というなら、
そちらがはるかに先だ。

元軍と言いながら、実は高麗兵主体の軍であった。モンゴル兵は指揮官のみである。

ベトナムでの韓国兵の残虐と同じ構図。アメリカの手先としてやり放題。
常にトップではなくその手下としての暴虐。

●以下、『ウィキペディア』より↓
膨大な非戦闘員が殺戮された。

金方慶麾下の高麗軍は、対馬・壱岐において、島民を見つけ次第、男子は老人・子供を問わず斬殺し、女子は集めて暴行・陵辱した後で、手の掌に穴をあけ綱を通し、数珠つなぎにして船舷にぶら下げ、人間の盾とした。

《壱岐対馬九国の兵士並びに男女、多く或は殺され或は擒(と)られ或は海に入り或は崖より堕(お)ちし者幾千万と云ふ事なし》

日蓮の建治元年8月の書簡
泣き叫ぶ赤子を股裂き。
捕らえた妊婦の腹を裂き、胎児を掴み出して踏み殺す。
中国軍の残忍さに手口が酷似。
強姦、生きたままの老人子供の焼き殺し、退治の踏み潰しはベトナム戦争における韓国兵の所業として記録されている。

2度にわたる元寇で、対馬・壱岐は壊滅的な打撃。
家屋は残らず焼き尽くされ、家畜の被害も甚大で、7000頭居た壱岐牛は一頭残らず狩り殺され、壱岐に残された人口は、わずかに65人だったとの記録あり。
これらの残虐行為は、遠征目的とは何の関係もなく、民・百姓の殺傷を禁じるクビライの厳命をも無視したものであった。
(引用終わり)


捕虜の手に穴をあけ、そこに縄を通すのは朝鮮古来のやり口だと言われている。
中国も同様。
強姦した挙句、陰部に異物を突き刺すなどの遺体損傷も。
遺体を「ご遺体」と尊称する日本人の感性からは遥かに遠い。

それにしても、手に穴を空け人間を数珠つなぎ。
手口がかつての中国のまま。
中国は子供にも容赦なく、穴を開け鎖でつないだ。
ベトナム戦争における韓国兵の残虐はむろん、幼児どころか胎児にも及んだ。

これに対してどう応えるのか朴槿恵よ、韓国国民よ。
歴史を直視せねばならぬのは、あなた方だ。

対馬よ、朝鮮兵にやられた先祖の惨憺たる苦しみを、朝鮮通信使美化で足蹴にしてはならない。



日本が韓国の呼びかけに応じてユネスコの記憶遺産に『朝鮮通信使』が登録されてしまうと、韓国側の捏造日韓史の一画が世界的に定着してしまいます!!

静岡市とか対馬市の大人たちは、それによって不利益を被る子どもたちの将来を考えないのでしょうか。

日本文化を貶め、韓国の捏造日韓史を助長するごとき、記憶遺産登録に断固反対します!

朝鮮通信使の実態をきちんと学べば、お祭り騒ぎにして持ち上げることがいかに日本を傷つけ貶めることになるか、解ります。

韓国側が主張したいのは
「いかに朝鮮がその当時文化文明に秀でていて、それを後進国日本に乞われて、教えに来てやったか」
という大嘘です。

利用される雨宮礼子さんや自治体の皆さんは、愚かであると同時に日本国の毀損者です!!

大阪都抗争/ヨシトミのつぶやき 「鍵はやはり公明党」

大阪府議選 21議席が消える!
前代未聞の大幅定数削減でガチンコ勝負
公明は1人区から〝撤退〟

産経新聞 2015.1.3

統一地方選イヤーの平成27年が明けた。
大阪府内では前半の4月12日に府議選と大阪、堺両市議選の投開票が行われ、後半の26日には9市長選をはじめ、21市議選・町議選も行われる。
統一地方選の主な選挙の情勢などをまとめた。

大阪府議選は今回、選挙区が62から53に改編、定数が109から88に削減される。
橋下徹大阪市長率いる大阪維新の会は、公明の協力を得て大阪都構想の住民投票を5月に実施する道筋を作ったが、公明は選挙では自民との共闘で維新に対抗し、自公で過半数(45議席)を目指す構えをみせる。
議席を争う“イス取りゲーム”は今まで以上に熾烈になりそうだ。

前回府議選は、維新が57議席を獲得して過半数を確保。
維新は野党会派の反発を押し切る形で議員定数削減を断行するなど、単独で政策を推進できる勢力を得た。

ところが、この1期4年で、泉北高速鉄道を運営する第三セクターの株式売却や都構想の議論の進め方などをめぐり、維新から離脱者が相次いだ。
半数未満の47人となった昨年の9月定例議会では、都構想の設計図(協定書)議案に元維新の1人会派を除く全野党が反対し、可決することができなかった。

都構想の住民投票実施に限っては公明が賛成に転じたため、2月定例議会で可決できる見通しだが、野党との対立は続いており、主導権を握るには過半数確保は不可欠だ。

府議選には現職と新人の計50人を公認。
前回ほどの勢いはなくなったかにもみえるが、衆院選で維新が大阪の比例票を約114万票集めたことで地力を証明しており、松井一郎幹事長(知事)は「(比例で)維新に投じた人は都構想支持だ。十分戦える力は残った」と強気の構えを崩していない。

一方、“反維新”で連携してきた野党会派は公明の方針転換による結束への影響が気がかりだが、選挙では自民、公明がどこまで勢力を伸ばせるかがカギとなる。
両会派の現在の議席数は、公明が21、自民が13の計34議席。
今回の府議選では選挙協力を結び、1人区については候補者を統一するとしている。

ただ、公明は主要幹部が現職の選挙区でも、戦況が見通せない1人区へは擁立しない方針を決定。
公認は現職数より少ない15人にとどまり、自候補のいない選挙区は自民支援にまわる。
このため、自民が自公での過半数へ向けて人材を集めている。
自民は39人を公認・内定。自民府連は
「今後、立候補者の空白区は埋めたい」
としている。

民主は9人を公認し、統一会派を組む無所属候補も支援する。
態度を表明していない現職もおり、追加擁立に動く。
民主府連は
「全国的に第三極の流れは崩れ始めている」
と維新への対抗意識を燃やす。

国政選挙で躍進が続く共産は、全選挙区での擁立を検討し、
「10議席以上の獲得を目指したい」
(府委員会)
としている。
 
 
 
 


「21議席が消える! 前代未聞の大幅定数削減でガチンコ勝負 公明は1人区から〝撤退〟 大阪府議選」と産経新聞。

先の衆院選で府内114万票の比例票を獲得した維新の地力は大したもの。
その一方、自公が協力すれば大阪府議選1人区は維新惨敗という新聞社のシミュレーション(府内比例票を基にしたもの)もある。
もちろん選挙は水ものなのでフタを開けてみるまではわからない。
が、ここでも鍵はやはり公明党。

一転して住民投票に賛成した同党と自民は選挙協力できるのか。
統一地方選の結果は、いわゆる大阪都構想の是非を問う住民投票にも影響を与えるでだろうから公明党と自民党との動きにも注目が集まる。

もっとも、
水面下では様々な動きあり・・・。
 


新聞のシュミレーションはマユツバ。
参考にならない。
やはり、鍵は公明党。
公明党支持者が都構想に賛同してくれる気持ちをどのくらい強く持っているかだろう。
最後、公明党に、
「今回は自主投票で」
と言わせるくらいに。

旗幟あやふやな小早川秀秋が、関ヶ原で豊臣を裏切り、天下を徳川に取らせたように、
どっちに転ぶかわからない『大阪都構想』成就 最後のカードは、
公明党が握ってる。

都構想 成就のあかつきには、
後世、こう伝わるだろう。

あれは、厳密には橋下ではない。
橋下だけでは所詮、大阪都構想は絵に書いた餅に過ぎなかった。
政治は現実あるのみだ。
だから、あれは公明党支持者の手柄だ、
と。
 
 

厄介な隣国/司馬の見た韓国観に異論あり 2

転載元 
BBの覚醒記録。無知から来る親中親韓から離脱、日本人としての目覚めの記録。

■司馬遼太郎という名の「国賊」
まずお断りしたいのは・・
司馬遼太郎さんへ向けて個人的指弾の意図はありません。

どころか作家としては尊敬しています。文章が男性的でしかも、男性特有の
抑えた色気がある、というふうで。

敢えて取り上げたのは作家という立場で(おそらくは)「無意識に」日本毀損を行った、
というその「事実」に対してであります。

同様のことは、おそらく他作家にも例があるのではないでしょうか。
その日本毀損が無意識であれ意識的であれ、フィクションという形で
提示されるので、受け取るほうが逆に抵抗感なく、
いつしか、事実、真実という印象を抱いてしまう。
司馬さんの場合はしかも「歴史に通暁している」
という思い込みが読者にあるから、なおさら。

そして、それが半ば「エッセー」の体裁を取っているとしたら、中身が創作であっても真実だと思い込んでしまう。

先の稿で文禄・慶長の役を取り上げましたが、その補足的意味合いもあります。

司馬作品で問題としたいのは、『故郷忘じがたく候』です。

概略は以下です。


《十六世紀末、朝鮮の役で、薩摩軍に日本へ拉致された、数十人の朝鮮の民があった。
以来四百年、やみがたい望郷の念を抱きながら異国薩摩の地に生き続けた、その子孫たちの痛哭の詩》
『故郷忘じがたく候』

400年余前、全羅(チョンラ)南道・南原(ナムウォン)で陶磁器を作っていた祖先の沈当吉は朝鮮の先進の陶芸技術を狙った倭軍に捕まり、今の鹿児島である薩摩に強制連行されたが、
沈氏一家は日本の地で、朝鮮の名字の「沈」を使って、「薩摩焼」という華やかな陶芸文化を築き上げた。

結論から言うと嘘八百なんです。

朝鮮の先進陶芸技術など秀吉は狙っていません。
当時、茶道は隆盛の極み。
朝鮮の陶芸技術などさして欲しいわけでもなく、朝鮮出兵の目的は先の項で述べたとおり、
各地を植民地化しようとしていた明を倒すことにありました。

朝鮮は単に地政学上の理由でそこが「場」として使われたに過ぎません。

で、何らかの理由で朝鮮人の陶芸家たちが鹿児島に連れてこられ、あるいは自ら
望んで鹿児島に住み着いたのは事実です。

当時の朝鮮、両班の施政下では、陶芸家というのは卑しき仕事の従事者です。
それが日本では一転アーチストとしての処遇を受け、大名の庇護下に置かれ厚遇されるのですね。
誰が奴隷扱いされる朝鮮に戻りたいものですか。

ところが司馬遼太郎の創作上の作為は
「日本に無理やり連れてこられ、故郷を忘れられずに慟哭する朝鮮人工芸家とその子孫」
というふうに仕立て上げてしまったのですね。

それも、その子孫から話を聴く、という体裁で。
(実際に話は聞きに行っています)

よけい、読者は事実として信じます。
ところが、当の取材を受けたご本人が司馬氏の作品は
「創作です」事実ではありません、と困惑しているのです。

以下、
「『故郷忘じがたく候』の虚構性」
(大阪青山短期大学 福井雄三)
より転載
――――


◆史実か?創作か?
司馬遼太郎という著名な歴史作家について、次のエピソードを紹介しよう。

『故郷忘じがたく候』という作品をご存じであろうか。
これは、豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに、捕虜となって日本にやってきた李氏朝鮮の陶工たちの運命を描いた珠玉の傑作である。
彼らは、秀吉軍に薩摩藩に連れてこられた後、代々彼の地に住み続け、名陶を生み出してきた。
本書は、司馬氏が、現在14代目の当主にあたる沈寿官氏に直接インタビューした結果をもとに、エッセイ風の短編にまとめたものである。
日本と朝鮮半島の歴史の狭間で翻弄されながらに生きてきた、名もなき人々の運命に司馬氏が思いを寄せ、心の中にかき立てられた煮えたぎるような情念を、彼らの姿に投影させていて、エッセイとしては最高傑作である。
まさに、作家としての司馬遼太郎の面目躍如たるものがある。
ところが、
この作品こそ、司馬遼太郎の独断の最たるものなのだ。

◆ 「もらった!」

この作品を書く前、司馬氏が鹿児島の沈寿官氏の家を訪問して話を聞いている最中に、突然大声で「もらった!」と叫んだという。
司馬氏は興奮してくると額に汗をびっしょりとかく癖があり、このときも額に大粒の汗をかきながら叫んだので、沈氏は、最初何のことか分からず、さては床の間に飾ってある沈家先祖伝来の家宝である陶器をもらった、という意味かと訝った。
だが、実際は「今、あなたが語った話の内容を、自分がこれから書こうとしている小説のテーマとしてもらった」という意味だったのだという。

私の友人に、ソウル大学名誉教授の李杜玄という人物がいる。
東アジアの民俗学が専門の学者だが、この人も『故郷忘じがたく候』を読んで、あまりにも感動され、ソウルから飛行機に乗って鹿児島の沈寿官氏の家までわざわざ会いに行かれた。
そのときのことを、彼は私に次のように語っている。
「いやぁ、福井さん、あの『故郷忘じがたく候』は大変素晴らしい名作だけれども、内容的には大部分が司馬遼太郎の創作ですよ。
一応は、沈寿官から聞いた史実をふまえてのエッセイということになってますけれどね。まぁ、地名だとか、人名だとか年代などは、基本的に事実だとしても、あれはまさしく司馬さんが自分の空想を膨らませて書いた作品で、彼自身の思いこみが投影されたものですよ」

◆名誉毀損で訴えたい

拙著『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実』(主婦の友社)のなかで、私は以前『故郷忘じがたく候』をとりあげて論じたことがある。
すると、その後、読者の方からこれに関して次のような内容のお手紙を頂いた。

あの『故郷忘じがたく候』に出てくる沈寿官のエピソードは大嘘ですよ。
司馬遼太郎の作り話です。
私は沈寿官と同じ旧制鹿児島二中(現在の甲南高校)の卒業生ですが、彼が語ったとされる次のような差別問題など、我が母校にはまったく無縁です。

《沈寿官が入学した初日、上級生が集団で教室に押しかけてきて「このなかに朝鮮人がおるだろう。手を挙げて名乗れ」と叫んだ。
沈寿官が黙っていると激昂した彼らは
「名乗らないなら俺たちが暴いてやる。
おい、そこのお前だ」
と沈寿官を取り囲んで引きずり出し、集団で殴る蹴るの暴行を加えた。
沈寿官は失神寸前になりながらも歯を食いしばって耐えた。
服は破れ、大怪我をした彼が帰宅すると、両親が門のところに立ち、息子が帰ってくるのをいまや遅しと待ちかまえていた。
彼らはまるで、今日起こる出来事を神のように予見していたかのごとくであった。
同じ、鹿児島二中の卒業生である彼の父は、やはり彼と同様に、かつての入学式に上級生から集団暴行を受けており、そのことを涙ながらに息子に語った……。》

我が母校の鹿児島二中は、九州でも屈指の文武両道の進学名門校であり、嘘をつくな、けんかに負けるな、弱い者をいじめるな、という尚武の気風をモットーにしています。
卒業生たちも社会で名を成した立派な人たちが多く出ています。
そのわれらが母校の入学式で、上級生による朝鮮人新入生への集団暴行が、毎年恒例の伝統的な行事として行われるなど、前代未聞です。
そんなことが実際に起こっていれば、教師や父兄をも巻き込んだ大問題に発展し、校長の首は飛んでいるでしょう。
少なくとも、私の周辺や見聞した限り、そのようなことは皆無です。
司馬遼太郎がなぜこのようなでたらめを書くのか分かりません。
甲南高校も含めた鹿児島二中の同窓会では、司馬を名誉毀損で訴えてやりたい、という怒りの声が沸き起こっています。

福井先生、いつか機会があれば、是非、このことを世間に訴えて下さい。

◆民族差別はあったのか?

沈寿官氏は、中学生の頃、喧嘩に明け暮れていて番長クラスのボスだったという。
不良学生同士の喧嘩や学校同士の集団の喧嘩で、頭に血がのぼって取っ組み合っている最中に、心ない罵詈雑言を浴びせられたことはあったかもしれない。
だが、そのようなことは、子供の喧嘩の世界では日常茶飯事、珍しくもない話だ。
それをあたかも、名門中学の伝統的な恒例行事であったかのように話を創り上げ、ひいては日本と韓国の民族差別をめぐる、歴史的問題にまでテーマを膨らませてしまっている。

私自身の経験に照らしても、このようなあからさまな朝鮮人差別があったとは考えにくい。
たしかに、私の周辺にも在日の子供はごくわずかながらいたし、心の中で彼らに対する違和感がまったくなかったわけではない。
だが、これはむしろあって当然なのだ。
民族が違えば、当然、生活文化も違うわけで、子供ほどそのような文化ギャップを敏感に感じ取るものなのだから。
そうした多少の違和感を抱きながらも、むしろ腫れ物に触るように彼らに遠慮して気を遣っていた。
彼らを刺激しないよう遠くからそっと見守っていた、というのが本当のところだったのではないだろうか。
ましてや、あの『故郷忘じがたく候』のような芝居がかったテレビドラマのような差別など、私の周辺では皆無だった。

◆心地よい懺悔~自虐史観の病

純真無垢で素直な日本人の読者が、この作品を読めばどう思うだろうか。
とりわけ戦後の自虐教育を受けてきた世代は「日本は朝鮮を侵略して彼らに地獄の苦しみを味わわせた」という罪の意識を刷り込まれているがゆえに、この本を読めば、あたかも犯罪者が神父に自分の犯した罪を懺悔するときの感情にも似た、法悦の涙を流すであろう。
いかにも、ある種の人々にとっては、随喜の涙を流して喜びそうな話である。

かつて吉田清治というペテン師のでっち上げた『私の戦争犯罪~朝鮮人強制連行』が一世を風靡して、いともやすやすと日本国民の心に入り込んでしまったことがあった。
同書は、日本人が朝鮮人女性を拉致して「慰安婦」にしたかのような作り話だったが、今でも一部では信じられてしまっている。
これはおそらく今述べたような心理的背景が、日本の社会を覆っているからであろう。
司馬遼太郎という作家は、こういう話を書けば、世間が喜ぶだろうというツボを心得ていて、読者の心を自由自在に操る能力の持ち主だといえる。

そういえば、私が子供の頃、テレビで見て熱狂した力道山のプロレスも、それによく似た興奮と感動を、見る者の心にかきたててくれたものだった。

村松友視という作家が書いた『私、プロレスの味方です』という本の中で彼は次のように述べている。

《力道山のプロレスは、観客の心の中にまるで微粒破片のように入り込み、見る者によって千差万別、ありとあらゆる千変万化の物語と情念をかきたててくれた。
彼のプロレスは観客の心を自由自在に操る、芸術と言ってよいほどの境地に達していた。》

講釈師の筆さばきというものは、状況に応じて、如何に都合良く使い分けられるかということを思い知った。
司馬遼太郎氏ほどの文章のベテラン、達人になると、白を黒、黒を白として読者を煙に巻くくらいは朝飯前であろう。
近現代史に関する専門的知識を多少なりとも備えている者であれば、そのような作家の歴史認識の背後に潜む、誤謬と落とし穴にすぐ気づくことが出来る。
だが、一般の読者はそこまで注意しながら歴史小説を読むことはないので、まるで講談を聞いているような心地よい語り口に、いとも簡単に誘導されてしまうのである。

民主党政権は、鳩山前総理が言い出した「東アジア共同体」という構想をスローガンに掲げ、民主党の党是である在日外国人参政権付与を推し進めようとしている。
このような愚かな政策が実行に移されるのを私たちは断固として阻止しなければならない。
私が危惧するのは、『故郷忘じがたく候』のような虚構性が、この国を他国に売り渡すに等しい政策の推進に一役買うのではないかということである。

覚醒せよ、日本国民。
――――
(まで、転載終わり)


中には司馬氏を名誉毀損で訴えようかという動きもありました。
ある学校を舞台に、陶芸家の子孫が日本人学生たちによって大変な差別を受けて苦しんだ、
司馬氏はあたかも、それが事実であったごとき筆致で述べています。

《沈寿官が入学した初日、上級生が集団で教室に押しかけてきて
「このなかに朝鮮人がおるだろう。
手を挙げて名乗れ」
と叫んだ。
沈寿官が黙っていると激昂した彼らは
「名乗らないなら俺たちが暴いてやる。
おい、そこのお前だ」
と沈寿官を取り囲んで引きずり出し、集団で殴る蹴るの暴行を加えた。

沈寿官は失神寸前になりながらも歯を食いしばって耐えた。
服は破れ、大怪我をした彼が帰宅すると、両親が門のところに立ち、息子が帰ってくるのをいまや遅しと待ちかまえていた。
彼らはまるで、今日起こる出来事を神のように予見していたかのごとくであった。
同じ、鹿児島二中の卒業生である彼の父は、やはり彼と同様に、かつての入学式に上級生から集団暴行を受けており、そのことを涙ながらに息子に語った……。》

これが、大嘘だと当時の在校生たちが憤っているのですね。
こんな卑しげで卑怯なことはまったく、なかった、あるわけもない、と。

本当に、困ったものです。

朝鮮人が自分たちの被害を捏造して、日本からお金を引き出したり特権を得ているのみならず、当の、とりわけアンチ日本とも思えぬ、左翼とも思えぬ作家が思い込みでこういうことを「創作」してしまう。
司馬さんが、故意にありもしない差別を書いて日本人を毀損しようとしたとは思いません。
おそらく、
「無理やり朝鮮から連れて来られた陶芸家とその子孫が差別と苦難とに耐えながら祖国朝鮮をしのぶ」
というふうにまとめるほうが作品として盛り上がるから、それが動機であったと想像します。
そして司馬さんの愛読者である人たちはそれが創作という名の「嘘」とは思いも寄らない。

これに類することが、他にもありはしないでしょうか。

論旨からはやや逸れますが、大江健三郎の酷さはもう有名ですが
(この作家も才能ある人ですが、政治的には大嘘つきです。
本来の日本人なのかな?)

案外、村上春樹の反日言動は知られていないのではないでしょうか。
(この人も本来の日本人かな?
書籍の売られ方の部分にかなり組織の存在を感じます。
いつか記事にしたことがあったかもしれませんし、機会があればもっと具体的に検証してみるかもしれませんが)

何か微妙に日本人ではない人が書いたごとき「借り物」文章で べべこ はまったく受け付けませんが、
そこがかえって魅力になっているのかどうか、解りません・・・
端的に言えば、
あ、これ日本語じゃない・・・というごとき微妙~な違和感。
(ごく主観です)

が、人気のある作家ですね。
作品を嫌いになれとは言いません。
作家の人間性とは別に作品はあるという考え方もありますから。

しかしながら、日本の多大なる愛読者に支えられながら、本人は外国で日本毀損の言語を吐き散らしている、という事実だけは心得ておいたほうがよさそうです。
(村上氏の言説は自虐史観であり、
あるいは無邪気にそれを信じている“良心派”のかもしれません。
そうだとしても作家としては稚拙な思考力だと言わせていただきます。
作品評価とは別次元ですので、ファンの方はお気を悪くなさらないよう)

韓タレの、あるいは在日タレントの誰それが反日言動で、というごときことは比較的話題に賑やかに上りますが、司馬遼太郎にせよ、村上春樹にせよ、作家という立場で、そういう意味ではひっそりとした存在です。

だが一過性の反日韓タレより作家の影響は深く長い。
心していただきたいと思うのです。


◆備考:司馬遼太郎の発言

以下、
司馬遼太郎「『昭和』という国家」
(NHK出版1998年)より抜粋


P52
《われわれはいまだに朝鮮半島の友人たちと話をしていて、常に引け目を感じますね。
これは堂々たる数千年の文化を持った、そして数千年も独立してきた国をですね、平然と併合してしまった。
併合という形で、相手の国家を奪ってしまった。
こういう愚劣なことが日露戦争の後で起こるわけであります。

むろん朝鮮半島を手に入れることによって、ロシアの南下を防ぐという防衛的な意味はありました。
しかし、日露戦争で勝った以上、もうロシアはいったんは引っ込んだのですから、それ以上の防衛は過剰意識だと思うのです。
おそらく朝鮮半島のひとびとは、あと何千年続いてもこのことは忘れないでしょう。

倫理的な問題ではなく、利害の問題として考えてみましょう。
朝鮮を併合することが、国家として儲かることだったのでしょうか。
私は決して儲かることではないと思うのです。
そういうことを平気でやって、しかもそれは帝国主義であると言われています。
帝国主義という言葉は上等ですね。
泥棒主義と言ってもいいのです。

(中略)
明治三十年代にどれだけの産業がありますか。
生糸をアメリカなどに売って、やっと外貨を得ている程度です。
他の国に売れるようなものは、マッチとタオルぐらいです。

産業能力があって十九世紀的な帝国主義というものが成立します。
ところが何も売るべき産業もなくてですね、朝鮮半島を取ってしまったわけです。
何もないから、結局、東洋拓殖という一種の国策会社ができました。
朝鮮半島のひとびとが一所懸命、先祖代々耕してきた水田を取り上げたりした。

実際のソロバン勘定からいったら、持ち出しだったでしょう。
鉄道をつくったり、総督府をつくったり、学校をつくったり、郵便ポストをつくったり、それはそれでいいのですが、我を持ち出し、恨みを買った。

イギリス人やフランス人は国家運営を考えます。
外に出ていくときに、儲かるか儲からないか。
あるいは目先の儲けではなく、百年先に儲かるか。
常にそういう計算があるはずです。
それが戦略、政略というものだと私は思うのです。

強欲な百姓が隣の畑を略奪するように、ただ朝鮮半島を取っただけです。》



■司馬遼太郎という無知と自虐史観

過去記事「司馬遼太郎という名の”国賊”」という過去記事に対して、コメント欄で粘着、絡んできたネットでは有名なストーカー氏の出現があり、それを機にもう一度、司馬遼太郎という作家の思想について検証してみましたが、意見は変わりません。

「国民的歴史作家」という印象のみで司馬遼太郎という作家を捉え、素で語った言葉を案外知らない人が多いようです。

作家としては有能ですが、思想家としては驚くべく幼稚な歴史認識の方のようです、少なくとも朝鮮半島に関しては。


数千年の文化と数千年の独立、
という文言に腰を抜かした人もいるのではないでしょうか?
いったい、司馬さんはいかなる文献と資料を持ってこれを主張なさるのでしょう。
清という李氏朝鮮の宗主国の存在をよもやご存知ないのでしょうか。

水田を奪ったとおっしゃるが、農作物の飛躍的収穫の増大を何と説明するのでしょう。
進んだ農耕法を伝えたのは日本です。
あたかも日本が植民地にしたかのような司馬さんの言い分ですが、詳細を見れば、違うことは一目瞭然でしょうに。

そもそも植民地の定義とは何か。
少なくとも持ち出しで相手を豊かにすることに一生懸命になった植民地化など世界のどこに例がありますか。
損得とおっしゃるが、損は承知の投資でしたでしょうに?
相手を日本、日本人として扱ったからこその国費と人材の投入でした。

東洋拓殖(東拓)を何か朝鮮を一方的に虐げたニュアンスで捉えているようですが、東拓に絡んで移民した日本人たちの艱難辛苦はご存知ないのでしょうか。
開けていない極貧朝鮮農家の中に入って、言語を絶する貧しさに耐え、中には1尾の塩鮭を吊るして置いて、1ヶ月間もかかって細かく切り分けながら食用として命をほそぼそとつないだ、というエピソードも残っています。
そのような日本人たちの辛苦の果てに・・・
併合のたった30年間で、1千万人足らずだった人口が2500万人に激増、
平均寿命は24才から45才へと驚異的伸び、未開の農業社会だった朝鮮は短期間のうちに近代的な資本主義社会へと変貌、
日本からは優秀な教師が赴任して朝鮮人を教育し、日本政府からは莫大な資金が流入し、各種インフラが建設された事実すら、司馬氏には損得のソロバン勘定にしか見えないらしい。

日本の江戸時代、その後の近代国家の礎を日本が着々と築き続けていた頃、李氏朝鮮は暴虐の限りを尽くしていました。
民衆は単なる搾取の対象でした。
この簡単な事実に、反駁出来るか司馬遼太郎よ。

搾取と奴隷制から開放したのが日本であったというのも事実。
民は圧政に喘ぎながら、飢えに苦しむ日々。
平均寿命が24才というデータすら知らぬのだろうか。
それが日本の併合で圧倒的に長生きするようになった事実を見よ。
「日帝の帝国主義」とやらに虐げられていた民が、倍近くまで寿命を伸ばすというのか、愚かしい。

暴虐は朝鮮に対する清であり、民に対する李王朝であります。
李朝の容赦無い暴虐下で民の心は病み、ねじくれ現在の異常な韓国人の精神性のベースを作り上げました。
北朝鮮がその原型のままです。
民が飢えても我関せず、体制批判は地獄送り。

このような李氏朝鮮下での地獄絵図が、韓国の国定教科書では「この世の理想郷」であるかのように、言いなされています。
なぜなら、そうしないと日本が乗り込んできて暴虐の限りを尽くしたというフィクションが成立しないからです。
地獄から民を救い出したのが日本でした。
司馬氏は、併合前の朝鮮が世界の最貧国であったという単純な事実すら無視しています。
併合前の朝鮮にいったい、いかなる「文化」が存在したか、司馬氏は具体的に検証した上で、持論を述べるべきです。

台湾には古代から由来の文化がありました。
しかるに、日本によって台湾の文化が壊されたり、奪われた形跡は皆無です。
なぜ朝鮮ばかりがそれをわめき立てるのか、
司馬氏の耳には台湾の人々の声は受け付けぬようです。
そもそも、日本がなにゆえ朝鮮の文化を壊さねばならぬのか、
その理由を明示していただきたい。
文化というものがもし存在するならば。

あるのは因習、淫習、蛮習ばかり。
それらを開放させたが、日本の罪なのか。
併合解消後も、鉄鋼所、造船、地下鉄・オリンピック施設などの建設資金を援助したのはどこか、
日本です。

アジア通貨危機の時、IMF資金以外に、韓国を救けたのはどこか。
日本です。
しかもそのIMFすら、日本は世界で2位の拠出国なのですから、韓国は二重に日本に救われています。

戦後の日本からの借金80兆円は、ほとんど返さぬまま、罵り続け、日本は催促もせず黙っている。
5兆円に及ぶスワップにも感謝とてされない。
このような状況下で、日本がとにかく悪いと日本を打ち据え続ける司馬氏。
日本が永遠に韓国の奴隷になって貢ぎ続ければ、満足なのか。

思想家としては「脱亜論」を説いた福沢諭吉の足元にも及びません。
いえ、それどころか思想未満でしょう、
事実認識すら欠落しているのですから。

日本の精神論を司馬さんは儲かる、儲からないという次元に引きずり下ろして卑しい史観です。

「強欲な百姓」とは、いったい何を根拠にしての喩えでしょうか?
日本の歴史の中で農民が強欲であった時代はあったでしょうか?
せいぜい食糧の無い戦争中、物品と引き換えに行った人たちに対して示した傲慢さとか、思い当たるのはその程度の些事ですが。

「恨みを買った」は戦後の外交カードとしてにわかに形成された「恨」であって、当時の朝鮮の大勢は真逆です。
日本の軍隊の募集に応募者が殺到、
採用されずそれを悲観した自殺者まで出た事実を司馬氏はどう説明なさるのか。
日本の軍隊に朝鮮名のままで、高位高官に付き日本兵を指揮していた朝鮮人が一人ならずいたことも、司馬氏は知らぬほど無知なのか。

靖國には朝鮮人の兵士たちも朝鮮名のまま手厚く祀られていることをご存知か。
同じ統治を受けた台湾は「恨」どころか賛美賛嘆である事実をどう説明なさる気か。

本来「恨」は李氏朝鮮に向かうべきところ、それでは民族の歴史的無力と欠陥に行き着いてしまう。
近代化は「日本のおかげ」になってしまう。
だから「恨」の矛先を日本へ向けた。
恨みの中身を、日韓併合に国家レベルで置き換えてしまった。
それが真実です。

李氏朝鮮下における奴隷制度、因習の数々が司馬氏の目には、何千年も続いた朝鮮文化と映じるのだろうか。
日本に併合されるまでは、李氏朝鮮の社会は豊かで自由で素晴らしい楽園だった、というのが現在の韓国の主張で、学校でもそのように教えこまれますが、
司馬遼太郎氏よ、
あなたは韓国の国定教科書レベルの大嘘つきだ。
しかも論旨に一貫性が無く、

「韓国自身、どうにもならない。
李王朝はすでに五百年もつづいており、その秩序は老化しきっているため、韓国自身の意思と力でみずからの運命をきりひらく能力は皆無といってよかった」 (第二分冊、50ページ)

なんだか、支離滅裂で・・・そのつど気分と思いつきで口走っているのではないかとさえ疑われるほど。

「面白い物語の作り手」としては端倪すべからざる才能の持ち主ですが、その歴史認識はおそるべき幼さで「司馬史観」とか司馬の「世界観」などというごとき大仰な批評の対象にするのは滑稽です。
当時の「世界常識」すら心得ていません。
日本がロシアに勝った。
勝ったほうが統治する。
そこに何の問題もない。
そもそも「日露戦争に勝ったから、朝鮮統治は過剰防衛」だと言い放つ司馬氏はお花畑としかいいようがありません。
外交も侵略も50年100年先を見越してなされねばならず、あの時点で日本が併合していなければ、ロシアは再び朝鮮を狙ったでしょうよ。
今度こそは日本に負けないように強兵に励みつつ・・・
こういう単純な流れさえつかめぬという事実にむしろ驚愕します。
特有の史観と知識に基づき傑作を書いた作家という思い込みが世間に流布されているだけに。

「国家として儲かることだったのか」
という商人的発想に至っては絶句です。
地勢的に押さえておくべきエリアとして、日本は損を承知、持ち出しを覚悟で相手を同じ日本、日本人としてインフラ整備や学校、病院の建設に勤しんだ。
何を無知なことを口走っているのでしょう。

その作家的手腕は置いておくとして、大江健三郎、村上春樹と並ぶ自虐史観者ではありましょう。
上記3名よりは格落ちしますが、文芸作家に擬態した、その実、エロ作家 渡辺淳一もそう。
この三流作家は南京大虐殺を推定だけで肯定(週刊新潮のエッセーで)。
森村誠一というのもいます。
林真理子は単に愚かなだけで、定見というものはなく、そのつど鳩山由紀夫夫妻を褒めちぎったりという程度ですが。

事実に基づいての自省であるならば無問題、
しかし朝鮮が数千年の文化を有し、
数千年の独立国であったというごとき基礎知識すら欠落させた思考で朝鮮を持ち上げ日本を貶めることは、愚かさも度が過ぎましょう。

別記事で取り上げた『故郷忘じがたく候』という作品では、日本が強制的に拉致して来た朝鮮人陶工の子孫が日本で差別され虐められたなどという事実無根のことを書き散らし、現地の人たちから名誉毀損として訴えられる寸前にありました。

司馬遼太郎の、このような驚くべく稚拙な史観の依って来たる要因の一つに次のような思考形態があろうかと、愚考します。

同じく、
司馬遼太郎「『昭和』という国家」
(NHK出版1998年)より抜粋

《私は、青少年期にさしかかるころから自分を訓練してきたことがひとつあります。
中国のことを考えるときは、自分が中国人だったらと、心からそういうようなつもりになることです。
そのためには中国のことを少し勉強しなければいけませんが、とにかく中国に生まれたつもりになる。

朝鮮のことを考えるときには、自分が朝鮮人だったらと、あるいは自分が在日朝鮮人だったらと思う。
沖縄問題がありますと、自分が那覇に生まれたらとか、宮古島に生まれたらというように考える。そういう具合に自分に対して訓練をしてきました。》
(167ページ)

《これから世界の人間としてわれわれがつき合ってもらえるようになっていくには、まず真心ですね。
真心は日本人が大好きな言葉ですが、その真心を世界の人間に対して持たなければいけない。
そして自分自身に対して持たなければいけない。

相手の国の文化なり、歴史なりをよく知って、相手の痛みをその国で生まれたかのごとくに感じることが大事ですね。》(182ページ)

「中国のことを考える時」という言い方にある種の失笑を禁じえません。
なぜなら、彼の筆名の由来は「「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ているからです。
最初から日本を中国の下に置くごとき発想です。
その作家人生が、中国に尻尾を振るところに端を発している。
そもそも現在の中国と孟子たちが文化の華を咲き誇らせていた時代の中国と同一視するのが間違いです。

「史記」の著者司馬遷(しばせん)は中国前漢時代の歴史家ですが、現代の中国人や中国人たちとはなんの関係も有しません。
彼らは後漢の時代に、ほぼ滅び去っているのですから。

司馬さんも多くの日本人と同じく、誤解に基づく中国への思い入れがあるようです。
すなわち未だ孔子、孟子、老子、など偉大な思想家たちに連なる民族が住む文化的に偉大な国である、と。
いいえ、実態は文化後進国です。
2000年前、中国を形成していた民族とは似ても似つかぬのが現在の中国民族です。

日本は遣隋使、遣唐使が持ち帰った無数の漢籍を虚心に学び血肉にしましたが、その恩義を現在の中国や中国人に負っているわけではありません。
日本が恩恵を受けたのは異なる民族からです。
そもそも中国は異民族の集合体国家であり、孟子たちを綺羅星のごとく送り出したのは現在の文化貧しく、精神の格低い中国人たちではありません。
そして、日本が文化を頂いた中国を、司馬さんのように批判もなく崇め奉っていたかというと、そんなことはありません。
吸収すべきは吸収して、しかし唐の朝鮮半島侵略に危機感を抱いた日本は、即縁切りをして、外交再開は日清修好条規(1871年)からです。

日本が大切に保存、日本流に消化して血肉と化したのに比して、中国は文化とは隔絶した異民族が支配、中国文化の粋を身に着けているのはむしろ日本人であり、中国人はとっくに漢文の素養を喪失していました。
しかし彼らはそれは認めず、孔子や孟子の血脈にあるごとき嘘を並べ立てます。
孔子や孟子が彼らの精神性に生きているならば、チベット弾圧はあるはずもありません。嘘つき民族です。

そもそも異民族の集合体国家に、単一の言語など存在したことはありません。
異民族集合体で地方により言語が異なる中国で、漢文が統一文化として中国に影響を及ぼしたこともありません。

むしろ、日本が中国に影響を与えました。

魯迅がその中の一人ですが、日本に留学した彼は日本人が四書五経をスラスラ読みこなすばかりか暗唱さえしていることに、息を呑みます。
日本の漢文を模写しながら彼らは会話体の言葉(白話運動)を編み出しました。

かつての日本インテリ層の多くが手にした「阿Q正伝」(魯迅)を読んだことのある中国の学生が皆無という調査(北京大学)、
日本では中国教養の定番である「三国志」「紅楼夢」「水滸伝」すらが ほとんど読まれず放置されているというのが中国の現在の文化レベルであり、古来の中国文化を忠実に引き継ぎ尊重しているのは、むしろ日本人なのです。
レ点など編み出しながら、平仮名、片仮名と融通無碍の日本人の感性が中国の文字を守り抜いて来ました。

その結果、魯迅や胡適が推進した中国の文学革命が起こるのですから、日本が中国の言葉に影響を与えたと言っても言い過ぎではありません。
日本人は恩着せがましく言い立てませんので、知る人は少ないのですが、これが韓国だった大騒動でしょうね。
ウリたちが現代中国語を作ってやったニダ、と。

(余談に逸れました)

さて司馬遼太郎の中国信仰ともいうべき心情に立った、中国への敬慕と決意を、
「自己意識の相対化により、他者、他国の痛みを感知しようとする良心と誠実さ」
とでも褒め称える層がいるであろうことは容易に予見出来ますが、稚拙です。

司馬の思考形態じたいは、思春期の(言葉を変えれば未熟期の)純粋さに満ちてはいますが、いかにも稚拙。
この思考の前にひとたび「他者」を置くとき、もろく崩壊してしまうものだからです。
世界は思春期の思考を受け入れるほど、清くも良心的でもありはしない。
常に腹黒く奸計に満ちていて、そこでは反省や自省など食い荒らされる獲物でしかなく、悪いと思うなら謝罪と金よこせと、「誠意」を見せな、とヤクザ的外交カードに即すり替えられるのがオチ。
そして、この手の幼い自省家、反省家の特質は、相手の非は見ない、見えない。
必然的に、しなくてもいい謝罪をさせられ、そして世界は、いったん謝罪などしたら、それに対してペイし続けていかねばならぬほどにも邪悪です。
こちらが誠意を見せたら、相手も腹を割って誠意で接してくれる、というのが司馬遼太郎という永遠の思春期少年の姿勢ですが、幻想でしかありません。
それは大人なら、対特ア3カ国のみならず、ロシア、アメリカを見れば、したたか思い知ってすぐ悟る事柄であり、それが成長するということです。
対個人ならまだしも、韓国や北朝鮮、中国という特殊国家を前にしての良心や誠意など、寄ってたかって食いつくされる臓物の如きものでしかありません。
司馬氏の過失は、ひたすら自省的で誠実で相手本意に考える思考を外交の場に敷衍した愚かさにあります。
大人なら瞬時に理解出来ることですが、しかし大人になりきれない永遠の精神的未熟児ともいうべきハンパ大人はいるものです。
日教組の自虐史観が最も効率良く植え付けられていた団塊の世代をピークに、日の丸、君が代を拒否する精神的未熟児たちがそうです。
「良心」や「誠実」「反省」を日の丸の代わりに掲げ、侵略の象徴ゆえに国旗を忌避する。
そう言いながら、片や相手国の侵略や残虐行為には言及せず、相手の国旗も国歌も否定せず、ひたすら自国を貶め相手国からの謝罪に応じ、払う謂われもないお金を払い続ける。
しかも、貶めてやまない自国からお金を頂きながら、退職後の暮らしの保障を受けながら・・・
胸の悪くなるような卑怯な連中です。
外交は汚く熾烈な駆け引きです。
それを良心や誠実とごっちゃにする。
相手も同じ良心と誠実さを持つであろうという思い込み。
自省を表に、それに中韓から付け入れられ、奪われ、叩かれ、それをよしとし、自分たちの「誠実」ゆえに他の日本人や子供たちまで巻き込んで被害者にしているという自覚もない。
中韓の悪辣さが暮らしを痛打するのは生活不安定な一般層なのに、公務員という安定した国家保障の繭の中で国家に依存しつつ毀損し続け、その矛盾にも、誠意の欠如にも気づかない。
頭が悪いのです。
受験脳ではない、本質的な頭の出来。

司馬遼太郎は物語の紡ぎ手としては最大限に優秀ですが、頭の悪い作家です。
素で奇妙な発言をしなければ価値はもっと高かったのに。


↑右からも、↓左からも、
司馬遼太郎、ボロクソや(笑)


転載元
雁屋哲の今日もまた
「美味しんぼ」原作者、雁屋哲の公式ブログ

■共和国の友人たち7(完)
前回まで、明治以降日本が共和国( 北朝鮮のこと )・韓国に対してどんなことをしてきたか大雑把にまとめて見た。

全く荒っぽいまとめで、抜けが沢山あるし、ざっとかい撫でしただけなので、極めて底は浅い。
この日記では、この程度書くのが精一杯だ。

私が前に挙げた本を読んで頂ければ、ちゃんと深い理解が行く。
是非お読み下さるようお願いしたい。

共和国・韓国の人々と友人になりたいと思ったら、日本人は最低限私が挙げた事柄を知識として持っていてもらいたい。

共和国・韓国の人々は学校でしっかり学んでいるから、江華島事件以降、韓国併合を経て1945年の日本の敗戦による解放の時期まで日本が朝鮮・韓国に何をしたかよく知っている。

ところが、日本人の大半、特に若い人達は何も知らない。
初めて聞いて驚く。
驚くのはまだ良い方で、そんなことは嘘だという。
こんなことを言う私は、共和国・韓国、中国に洗脳されているんだろう、とまでいう。

それも無理はない。
日本の学校では明治以降の日本のアジア侵略の歴史はまともに教えられないからだ。

1945年の第二次大戦敗戦後に生まれた日本人の大半は、明治以降日本が朝鮮・韓国、中国に何をしたか良く知らない。

日本人は知らなくても、外国人はみんな良く知っている。

他の国の人間が良く知っていることを、我々日本人は知らない。
これでは、国際的に勝負にならない。
眞の友好関係も結べない。

「閔妃暗殺」を書いた角田房子氏は、次のように書いている、

「(前略)両国関係の歴史を学ぶ間に私は何度か『日本はこんなひどいことをしていたのか』と言う驚きに打たれた」

私もその通りだった。

角田房子氏がこの「閔妃暗殺」を書かれたのは1987年、その時氏は73歳。

その年代であっても、日本がしてきたことを御存知無かったのだ。

また、それより前の部分でこうも書いている、

「(前略)及ばずながら日韓関係の事実を知ったことで、私は実感の伴う”遺憾の念”を持つようになった。
私の使い慣れた言葉で言えば、
”申しわけなさ” がその基礎となった感情である。」

(中略)

「『閔妃暗殺』をお読み下さる方々の一人でも多くが、どうぞ隣国への ”遺憾の念“ を持ち、それを基とした友好関係、相互理解を深めて下さるようにと、私は切に願っている」

日本人は自分たちがしてきたことを、きちんと認識し、その結果、朝鮮・韓国の人々に対して与えてきた被害の大きさをはっきりと認識しないと、共和国・韓国の人々が心の底に持っているわだかまりに気がつかない。

わだかまりなどではなく、もっと強く言うなら「反日感情」である。

相手がそのような物を心の底に持っているのに、何も知らない日本人がのこのこ出かけて行って友好だ、相互協力だ、などと言っても上手く行くはずがない。

まず、共和国・韓国の人々が胸に深く抱いている日本に対するわだかまり・反感をしっかりと認識して、そのうえで、いかにして友好関係を樹立できるのか考えなくてはいけないだろう。

自分の国が過去に犯した間違いを認めるのは辛いことだが、自虐的だ、などと言って逃げたりしてはいけない。

過ちを過ちときっちり認めることは辛いが、それを避けていたらいつまで経っても卑怯な弱虫のままだ。
真実から逃げ続けているその姿こそ自虐的ではないか。

最近NHKの大河ドラマで司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」が放映されている。

このNHKのドラマのおかげで、また
「明治時代は明るかった」
「日本の明治時代は、溌剌とした青年のようだった」
などと喧伝されことになるだろう。

前掲 中塚明氏著「歴史の偽造を正す」の162頁に引用されているが、1996年3月2日の毎日新聞に、
《歴史万華鏡》岡本健一
「『司馬史観』再考―『近代化の原罪』からの解放」
と言う文章が転載されている。

その中で、岡本健一氏は次のように言っている。

《明治維新によって近代化の扉を開いた若き群像、彼我の実力を知って日露戦争を戦った指導者。
いずれも、ドグマで裁断されず、共感を込めて活写された。

誰もがさわやかな快男児で、抑制の効いた美しい「侍の倫理」と「合理精神」の持ち主として描かれた。

つまり、司馬さんは「太平洋戦争の否定」から出発して「明治の肯定」に至った。

暗黒史観とは対象的だ。

おかげで、私たちは、明治の近代化と共に背負わされた『原罪』――生まれつきの侵略国家感――から解放された。》

このような文章を読むとめまいがする。

この人は、日本の歴史に全く無智なのか、それとも、意図的に事実を曲げているのか。

これまで私の挙げた点だけで、明治政府がどれだけの権謀術数と暴力を用いて朝鮮・韓国を侵略して行き日本に韓国を併合してしまったか、まともな知能を持つ人間なら、間違える事なく理解できるだろう。

江華島事件以降、韓国併合に至るまで、関わり合った日本の軍人、政治家、官僚、その誰が「さわやかな快男児」で抑制の効いた美しい「侍の倫理」と「合理精神」の持ち主だったか。

そんな言葉は聞いただけで気恥ずかしくなる。

「坂の上の雲」は日露戦争を舞台にするようだが、日露戦争は、日清戦争の続きであり、日清戦争と日露戦争は切り離して考えられない。

日本は朝鮮に対して攻撃を重ね、朝鮮の権利を奪って行き、朝鮮王宮を占拠して日清戦争に韓国を巻込んだ。

そこの所を司馬遼太郎氏は書いていない。

その朝鮮を支配して日露戦争に導くまでの日本のやり方は、権謀術数と暴力にまみれた陰険極まりないものであって、「さわやかな快男児」で、抑制の効いた美しい「侍の倫理」と「合理精神」の持ち主のすることではない。

正に日露戦争までの日本の近代化の歴史は生まれつきの侵略国家と言う原罪から逃れる訳にはいかない。

司馬遼太郎氏は小説家である。

歴史家ではない。

小説家としてどんなに事実を脚色して面白く一般受けのする物語を書いても構わないが、読む方は、それを実際の歴史と混同してはいけない。

歴史物語は、あくまでも、歴史を題材に取った小説であって、歴史書ではない。

そこを間違えてはいけない。

司馬氏は日本人が喜びそうな部分にだけ光を当て、大いに美化して描く。
日本人とっては辛いところは伏せる。
結果的に、明治の日本を賛美して、実際の明治の姿と異なった明治像が描かれている。

小説だったら何を書いても良いというものではない。

歴史小説であるからには歴史の本質を曲げた物を書くべきではない。

司馬遼太郎氏のおかげでどれだけ多くの日本人が、史実に反する物語を史実と思い込まされてしまったことだろう。

司馬氏の本を読む際には、実際の歴史の本を横に置いて、事実と対応させながら読むことをお勧めする。

だが、一般読者は普通歴史の本を対照しながら司馬遼太郎氏の小説を読んだりしない。

すでに、司馬遼太郎という名声のある小説家が書くものなら、その通りに鵜呑みにするだろう。

司馬遼太郎氏の書くものは真実を認める勇気のない人間には心地よい。

しかし、その偽りの心地よさは、過酷な歴史の真実を隠す物であり、それを真に受けて良い気持ちになっていると、現実から必ず手ひどいしっぺ返しを食うことになることを肝に銘じて欲しい。

日本は世界中の国と友好関係を結ばないといけないが、すぐ隣の中国、共和国・韓国とは、特にしっかりした友情をもって手を結び互いに協力し合っていかないと21世紀以降の世界の中で日本は生き延びることが出来ないと思う。

そのためには、まず、ごまかしのない正直な過去の歴史の認識が第一に必要だ。

日本が、朝鮮・中国を侵略したことは間違いのない事実なので、
「今世紀の一時期において、不幸な過去が存在したことは、まことに遺憾」とか、
「迷惑をかけた」とか、
言われた方が返って腹が立つようなことを言って謝罪したつもりになっていないで、きちんと侵略の事実に対して謝罪をし、それに応じた補償を行うべきである。

日本は毎年アメリカの駐留軍の家族相手に思い遣り予算とか言って途方もなく巨額の金を支払っている。

そんなことを出来るなら、どうして、中国・朝鮮で日本の被害にあった人達に補償をしないのか。

アメリカは今非常な危機に立っているが、アメリカが崩壊しようとしまいと、そんなことには関係なく、日本、中国・共和国・韓国との関係は日本にとって決定的に重要なのだ。

今私たちが使っているこの日本語も、中国と朝鮮の文化がなかったら存在し得なかった物だ。

文化の根底である言語を、我々は、中国と朝鮮に深く負っていることを忘れてはならない。

その、中国、共和国・韓国と友好関係を結べずに、どうするか。

そう言う訳で、私はできるだけ多くの共和国の人びとと友人になりたい。

そう言うと、こんなことを言ってきた人がいる。

「金正日氏はノドンを日本に打ち込むと脅しているし、拉致被害者は返さないし、国内で強烈な反日教育を行っている。
そのような共和国の人間が、日本人と友人になりたいと思う訳がない」

また、

「中国では言論の自由が制限されていて、一般の中国人は天安門事件のことさえ知らされていない。
教科書は強烈な反日的な内容で埋まっている。
その中国人が日本人と友人になりたいと思うか」

確かにその通りで、今の金正日氏の支配する共和国の政治体制下では難しいところがあるだろう。

私としては、共和国や中国がロシアの轍を踏まず、開かれた国になることを願うしかない。

政治体制がもっと開かれた状態になったとき、それまでに築いて置いた友人関係が役に立つだろう。

お互いに腹蔵なく話し合い、どうすれば、国同士が和解し合い協力していけるのか、その道を見いだすことが出来るだろう。

中国と、共和国の政治体制が今のままでも、一般の市民同士の間で交友関係を広げて深めて行くことは、次の世代の日本、中国、共和国・韓国の人びとにとって重要なことである。

今は確かに、国として、日本、共和国、中国とは上手く行っているとは言いがたい。

しかし、国同士の関係を改善するのは、国民どうしが友情を築くこと以外にない。

私は、私の子供達、孫達、孫の子供達の世代のために、未来のために、共和国・韓国、中国の人びとと友人になりたいと思うのだ。

私が、出来るだけ多くの共和国の人びとと友人になりたいと言うのは、その意図による物だ。

共和国・韓国、中国は近代以降日本の侵略の被害者だったのだから、日本を憎み恨む根拠がある。

しかし、加害者である日本が、共和国・韓国、中国を嫌悪したり憎んだりするのは、逆恨みというもので、その根拠がない。

問われているのは日本人の腹である。

如何にして、共和国・韓国、中国の人びとの過去の歴史に基いた怒りと批判に正面から対応するか。

その腹の大きさが問われているのだ。

厄介な隣国/司馬の見た韓国観に異論あり 3

転載元 qazx

■NHKと司馬遼太郎の詐術
司馬遼太郎と言う人は、文芸春秋の巻頭を飾る文を長らく書いていた人物であり、およそ日本が大好きな人物であるとされている。
しかし、小生などは、彼の書く巻頭文を読むほどに、この人は、実は日本人嫌いなのだと思うようになっていた。

それは彼の小説「故郷忘じがたく候」を読んだ時にも強く感じたものだ。
その思いを一にする人物が居ることを発見したので、編集してお目に掛ける。
NHKは、ここでも日本人を貶める工作をしている。

ーーーーー
司馬遼太郎、沈寿官、NHK合議の詐術、欺瞞満艦飾の「故郷忘じがたく候」
酒井学(種子島・佐倉)

ーーーーー以下、編集qazx

司馬遼太郎は、「龍馬が行く」「坂の上の雲」「空海の風景」などを書いた、人気歴史小説家であり、平成三年度の文化功労者に選ばれている。
しかも小説家としてだけでなく、歴史家としても一目も二目も置かれた存在となっている。

司馬遼太郎は、「司馬遷に遼(はるか)及ばず」の意味の筆名であるらしい。
司馬遷は、言うまでもなく「史記」を著した歴史家だ。朝日新聞、平成三年十月二五日タ刊の記者は、「独自に資料や文献にあたり、歴史や人物を展開する手法は『司馬史観』と称される」と書いている。

しかし、彼には、不思議な著作がある。
「故郷忘じがたく侯」(文芸春秋社、昭和四三年刊)がそれである。

同書は、豊臣秀吉の朝鮮征伐の際、日本にやってきた鮮人陶工たちを描いたものだ。そして彼ら陶工たちは、鹿児島・苗代川(現・美山)に住みつき、薩摩焼を完成するのだが、故国を思う気持ちを持ち続けたと書いている。

問題は小説とは言え、大半が嘘で固められていることである。
司馬は、在日鮮人の主張そのままに、これら陶工たちが強制連行されたうえに、日本人から差別され続けたと書いているのである。

ーーーーー

このモデルとなった人物は、「薩摩焼宗家十四代沈寿官」である。
以下十四代と記すが、まず司馬が、十四代の経歴を書いている部分をお目に掛ける。

《鹿児島県旧士族沈寿官家はその朝鮮風の姓名が世襲であり、戸籍名であり、むろんいまの第十四代の当主もその名なのである》
(p8)

《薩摩に連れて来られて以来、江戸時代からこんにちにいたるまでついにその姓名をかえようとしていない》
(p9)

と。

しかし実際は違っている。
14代は、吉本恵吉、大正十五年十二月三日生れ、吉本祐康とその妻テイの実子、
と戸籍には記されているからだ。
テイは十三代の実妹。
その後、昭和三一年二月二二日に大迫エダ(実母・ハマノの母)と養子縁組をし、以後大迫姓と成っている。

十四代が沈姓になったのは、実父十三代の死(昭和三九年三月三一日)の前日、妻と共に実父・実母の養子となってからだ。
しかし、それから半年も経たないうちに大迫姓に戻っている。
(このあたりは、原文が説明不足のため小生には良く分からないqazx)

従って、旧制二中入学時の姓名は吉本恵吉であった。
ところが、司馬の小説内では次のように表現されている。

《入学早々、上級生が数人やってきて、
「このクラスに朝鮮人が居っとじゃろ。
手をあげい」
とわめいた。》
(p40)

上級生たちは、

《新人生名簿によって韓姓の少年がいることを知った》
(p41)

のだった。
その後、

《沈少年が名乗らなかったということで、少年たちは激昂した。
精神を注入してやる、と吼え、沈少年を教室のそとへ出し、屋上へつれてゆき、十人ほどが寄ってたかって殴った。》
(p42)

ーーーーー

十四代は、昭和三一年長女出生の届けを東京都で、昭和三四年長男のそれを横浜でしている。
昭和三六年三月三一日次女出生の届げ出が初めて鹿児島でなされている。
従って十四代が東京から帰鹿したのは昭和三五年以降のことになる。

つまり、十四代は、一時期、東京や横浜で暮らしていたことになる。
それでは実際の十四代の経歴はどうなのか。
昭和二〇年十四代は旧制中学を卒業すると鹿児島医専(現鹿大医学部)に入学したが、中退。
その後、早稲田大学政経学部に入学し卒業しているのだ。

そして、鹿児島選出の自民党代議士・床次徳二氏の秘書となっている。
その秘書稼業をやめ、帰鹿し窯場の苗代川に落ち着いても十四代が作陶に精出している姿を地元の陶工家で見た者はない。

十四代は政治向きのことで奔走していたのだ。
昭和四六年、四七年には大迫恵吉の名で鹿児島県PTA連合会会長となっている。
そういう下地を作ったあと十四代は参議院選挙に打って出る準備もしている。

ーーーーー

しかし司馬遼太郎は、昭和四三年刊行の著書の中で、十四代は十三代に
「少年のころから作陶の技術を教わった」
と書いているのである。

ところが十三代は京都帝大法科を卒業したあと朝鮮総督府の役人をやり、戦後は郷里で村会議員をしていたのだ。

つまり十三代は、陶工と言うよりも、役人であり、議員であり、十四代に作陶技術を教えることなど出来なかったのである。

さらに明治になるまで苗代川の陶工たちは島津藩の指示のもと、共同で雑器類を焼いていた。
従って宗家などというものがあったわけがない。
司馬は、このような十四代を宗家と呼び名工扱いして次のように書いている。

《黒薩摩は民間需要に、白薩摩は島津家御用のみ、と規定されてきたが、ただ黒にも、例外があり、御前黒という、肌質に、黄金の梨地が沈んだような玄妙な黒ものだけはかたく御用とされ、その秘法も一子相伝の口伝とされてきた。
十二代は十三代に口伝をあたえることなしに死んだためにこの技法は絶えた》
(p48)

が、十四代は家伝の書から推測することで、御前黒を再現したのだ、と。

しかし御前黒の呼称は、鹿児島の人が降る雨を島津雨などという類のものである。
「御前黒」なる代物など他の窯でも焼けるし、普通に焼かれていたものである。

つまり十四代は決して特別な名工などではない。
この事実は別の面からも証明出来る。

鹿児島県で最も権威のある陶芸作品発表会は、昭和四八年から始まった鹿児島陶芸展であるが、この陶芸展には十四代と同じ運命を辿ってきた鮫島佐太郎、荒木幹二郎の名は頻繁に出てくるものの、十四代の名は受賞者欄にも、賛助出品者欄にも一度も出ていないのである。

ちなみに鹿児島陶芸展の当時の審査員は東京芸大の人間国宝・藤本能道ら錚々たる(特に優れた)人たちであった。

ーーーーー

司馬自身が「鹿児島県旧士族沈寿官家」と書いているように、苗代川の陶工達は明治になるまで島津藩の保護を受け、士分の扱いを受けていたのである。

また苗代川出身者は明治になり、全ての日本人が姓を持つようになった際、日本姓に変えたあと、政界、教育界、軍関係で人材を多く輩出している。
その頂点に立ったのが、戦時中の東郷茂徳外相である。
彼の父、朴、製作の陶器が今も美山には残されている。

司馬は、これらの事実を無視するかのように、小説の中で、沈寿官の口を通じて、渡来後の三百七十年間、日本人の迫害を受け続けてきた、と書いているのだ。
司馬は、歴史の名を騙って(かたって)ウソ八百を書いていることになる。

ーーーーー

司馬遼太郎は文化功労者に選出されたおり、
「日本人とは何かという問いかけによって歴史に目を向けた」
と語っている。
しかし少なくとも、『故郷忘じがたく候』は、どう考えても、歴史を捻じ曲げている。
むしろ、
「日本人とは何かという問いかけに」
誤解を与えるものになっている。

ーーーーー

司馬は、勉強家で、多くの人から、独自に資料や文献にあたって居ると考えられていたはずだ。
読者も、詳しく書き込まれている彼の書く内容は、根拠の確かな史実に違いないと見なしてきた。
ところが、『故郷忘じがたく候』の内容は、ウソ八百のデタラメだった。

下手をすると彼の作品全体が、単なる小説になってしまう、そのような危険をおかしてまで、なぜ司馬はこのようなデタラメ作品を書いたのだろう。

ーーーーー

十四代が、政治好きであったことは、上記した彼の経歴を見れば良く分かる。
実際十四代は、昭和四一年、南鮮情報局KCIAの招きで渡南し、朴大統領に会い、ソウル大学で講演している。
が、陶工・薩摩焼きの第一人者の肩書はない。
司馬は、

《ソウル、釜山、高麗の三大学の美術史関係の研究者に招かれて渡南した》
(p59)

と書いているだけだ。
そして、十四代は南鮮名誉総領事代理を勤めている。

十四代は昭和五二年に東京で個展を開いた。
その個展には、司馬が駆けつけ、作品の一つに井光黒(いかりぐろ)と命名し、十四代を
「五〇歳を迎えた今、新しい自分の領域を広めて世に向かうことになった」
と絶賛する。
十四代の作品は販売され、売れ残りは鮮系パチンコ屋が買い上げた。

ーーーーー

十四代はNHKテレビに出た際、在日鮮人とされたことがあったが、抜群の演技力を発揮すればするほど、在日鮮人として扱われることになる。
嘘を吐くのは止めて欲しい。
司馬も同様である。
鮮系日本人である呉善花氏が「スカートの風」の中で、

《鮮人は朝鮮陶芸が駄目になったのは、秀吉が朝鮮から陶工を強制連行したからだと言っているが、実際は鮮人が陶工を蔑視していたからだ》

と書いている。

NHKは、十四代のインチキをそのまま「沈寿官の世界」で放送した。
恐らく、地元を取材しているだろうから、インチキを分かって居て放送したものと考えられる。
これは、NHKが、その運営資金を日本人から集めていることを考えれば、犯罪行為以外の何物でもない。




転載元 韓国と向き合う

■司馬遼太郎 vs. 荒山徹

司馬遼太郎『故郷忘じがたく候』(文春文庫)
カバーの紹介文によれば,次の通りである。

《十六世紀末,朝鮮の役で薩摩軍により日本へ拉致された数十人の朝鮮の民があった。
以来四百年,やみがたい望郷の念を抱きながら異国薩摩の地に生き続けた子孫たちの痛哭の詩「故郷忘じがたく候」。

少し補足すると,1592~1593年の文禄の役(임진왜란=壬辰倭亂)に続く1597~1598年の慶長の役(정유재란=丁酉再亂)において,島津義弘勢が南原の戦いで70余名の男女をつかまえた。
最初から陶磁の工人を捕獲する意図であったと司馬は推察している。

その後日本に渡ってきて薩摩に定住した沈一族のうち,14代沈壽官(심수관 シム・スグァン)へのインタビューを骨組みとしたエッセイ風小説である。》

◆姓氏
司馬は,〈沈寿官氏の先祖は貴族であったことはたしかで,…〉としている。
しかし身分制度が極めて厳しかった李朝で,沙器匠(사기장=陶磁器職人)や陶工(도공=素焼き職人)はその中でも特に下位に位置づけられていたはずだから,実際に陶磁器の製作に携わる工人であるなら,両班であったとは思えない。
当然,姓氏はなく名前だけで呼ばれていただろう。

さらに,「貴族」という言葉を目にするとどうしても反射的に立原正秋を思い浮かべてしまう。
実際には両親共に朝鮮人であったにもかかわらず,父母とも日韓混血で父は李朝末期の貴族と自称していた。

このような点から,沈壽官の先祖についてもかなり疑わしい目で読み進めた。

上垣外憲一『文禄・慶長の役』(講談社学術文庫)によれば,
〈もっとも苗代川で焼き物を作った者が全員陶工だったわけでなく,儒生だったものが仲間になって焼いた例もあった〉
らしい。

そうすると,青松沈氏청송심씨)、
という話もまんざらハッタリではないのかもしれない。

沈氏の先祖もはじめから沙器匠だったのではなく,何代目かから実作に携わるようになったとも考えられる。
司馬の他の箇所の記述からはそのようには解釈できないけれど。

また司馬は,橘南谿が書き残した『西遊記』(1795年刊行)から引用している。

〈はじめ捕らわれきたりし姓氏は十七氏。
いはゆる伸,李,朴,卞,林,鄭,車,姜,陳,崔,盧,沈,金,白,丁,何,朱なり。〉 

しかしこれは,渡って来た十七家族が当初から全員このように姓氏を名乗っていたことを意味するのではなく,200年ほど後にはこうなっていたということを示しているに過ぎないだろう。
そうでなければ,実作者がいなかったことになる。
司馬は李朝の身分制度を見落としているのかもしれない。

他の箇所で司馬は
〈とにかく,朴,黄,羅,燕……といった連中はとらえられた。
沈氏の先祖もいた。〉
と書くが,十七氏以外の姓氏とのつながりは分からない。

◆漂着
1598年秀吉の死後,和議が成立し島津勢も撤退する。
このとき陶工たちを連れ帰ったのではないようだ。
なぜなら,島津勢は博多湾に入っているのに対して,陶工たちは他のルートを通って漂着した。
この点ではどの資料も一致しているようだが,司馬が〈漂着したのは,関ケ原ノ役の直後〉としているのに対して,上垣外は1598年に上陸したと記している。

また漂着した場所についても,串木野島平以外の地名を挙げている資料もあり,どの説に与すればよいか分からない。
70余名が同じ船で漂着したのではない可能性も考えられる。
また当初,朴平意が主導したと思えるが沈氏との関係は明らかにされていない。
日本では捕虜の強制連行というニュアンスで語られ,現在の韓国では「拉致」という表現一色のように見える。
自発的に渡ってきたケースがあったとは思えないが,朝鮮での身分制度の苦しさから逃れたという安堵感を日本で持った人間も一部にはいたかもしれない。

後年(1607),李朝の回答兼刷還使(회답 겸 쇄환사)が徳川幕府に派遣される。
これは国書による回答=謝罪と捕虜の送還を求めるものであった。
上垣外によれば

〈…約五千人が送還された。
日本に連行された捕虜は二万から三万と見積もられている。
約五分の一しか故国に帰ることができなかったのだ。〉

この作品は『고향은 어찌 잊으리오(故郷がどうして忘れられようか)』として韓国でも紹介されていて,血統というものに極端にこだわる韓国人にとっては心地よく,当然のように李朝の身分制度の苛酷さには目をつぶる。
これに対する反発もあって,「強制連行」という言葉に敏感に反応する連中が,多数が帰国しなかったことで鬼の首でも取ったかのように司馬を自虐史観と批判する。
それは一見妥当な批判のようには見える。
しかしそのような批判も,所詮は全体像が見えていないか或いは見ようとしていないことからくる近視眼的批判に過ぎない。

嘗て吉本隆明が論争相手に投げつけた
「小手に隙を見せれば小手を打ってくる猪口才さ」
の類のようなものといえばいいか。
実際には
「小手に隙を見せているのに胴を打とうとする」類かもしれない。
この作品の問題点はそんなところにあるわけではない。 

◆エピソード①
この小説の重要なエピソードの一つが,14代沈壽官が中学入学時に受けた上級生による集団暴行事件である。
〈上級生たちは新入生名簿によって韓姓の少年がいることを知った〉
とあるが,他の箇所では
〈…彼自身,のがれようのない国籍上の日本人であるからだった〉のなら,戸籍上の名前で通学していなかったことになる。
まさか名跡「沈壽官」を用いたとは思えないから,沈○○とでもしていたのだろか。

実際には地元の研究者による証言では韓姓(※司馬は「韓人」「韓語」などの表現を使う)の生徒はいなかったようで,こちらの説のほうがかなり説得力がある。
そうすると,父親(13代)の体験譚と混同したのでもあろうか。
しかし常識的には自らの体験を混同することは有り得ないから,このエピソードは司馬か14代沈壽官のどちらかの創作ということになる。
もし14代沈壽官の創作なら,この小説自体が成立しないのではないだろうか。
これは検証可能な事柄と思えるから,有無を言わせぬ研究結果を是非知りたい。

◆エピソード②
もう一つのエピソードは,14代沈壽官がソウル大で公演した場面だ。
司馬のこの本が出版されたのが1968年で,その少し前に沈壽官が韓国へ行ったとあるから,1960年代の中頃のことであろう。
公演が終った時,聴衆は拍手をせずに歌を歌ったという。
〈歌詞は「見知らぬ男だが黄色いシャツを着た男」といったふうのもので,学生たちは沈氏へ贈る友情の気持ちをこの歌詞に託したのであろう。〉
とあるから,1961年に韓明淑(한명숙 ハン・ミョンスク)が歌って大ヒットした黄色いシャツの男(노란 샤쓰 입은 사나이)のことだろうと思われる。
フィドルをフューチャーしたカントリー調の歌謡曲である。
アップテンポな曲だから合唱は難しかったと思われるが,逆にスローテンポで歌ったのなら,この曲の持ち味を完全に殺してしまったことになる。

韓国では1960年の4.19学生革命で李承晩を倒したが,翌年5.16軍事クーデタで朴正煕が実権を握る。
この暗い世相を吹き飛ばそうと,意図的にこの明るい曲を広めたといわれている。
歌詞は次のようなもので若い女性の片思いの心理を表している。

黄色いシャツ着た無口な男
なぜかしら惹かれる
なぜかしら気になる

沈壽官は韓国語を解さなかったようだから歌詞は分からなかっただろうし,たとえ分かったとしても歌詞からだけでは込められたメッセージの謎は解けないと思える。
聴衆は何を意図したのだろう?
この場面を司馬は感動的なエピソードに仕立て上げたいようだが,沈壽官が黄色いシャツを着ていたのでもない限り意味不明のままだ。

◆疑問
① 郭冉佑
〈この戦いのとき,韓国側に義勇軍が編成されており,その将郭冉佑(かくぜんゆう)…〉
は,天降紅衣将軍(천강홍의장군)というニックネームのある郭再祐(곽재우)を指すのだろう。
「祐」は「佑」となっている資料もあるが.「冉」は分からない。

② パシンポウチュン
橘南谿から引用している部分に,伸屯なる人物が紹介されている。
そもそもこの小説のタイトルは,この人物の〈故郷忘じがたし〉という発言に由来する。
それにしてもパシンが分からない。
もともとの姓が申で,それと区別するために,「펴다(ピョダ=伸ばす)の伸」という意味で「펼 신(ピョルシン)」とでも言ったのか?

以上見てきたように,全体として14代沈壽官の話に寄りかかりすぎて深い検証が見られない点は大いに問題である。
勿論史実を追求するにも資料が乏しいだろうから,代々の言い伝えをそのまま利用するしかないのかもしれない。
しかしそうなると,エッセイ風とは言え歴史小説でもなんでもなく,雑な史実を多く含んだ「神話小説」とでも呼ぶしかない。

現実には歴史小説と誤解され,14代沈壽官の全国区でのブレイク(대박)のきっかけとなる役割を果したはずだから,誤解する読者が悪いでは済まされない。
あくまで司馬遼太郎と14代沈壽官の共同作業といえるだろう。
そうすると,単なるモデル小説にすぎないから批判は全て司馬に向けられるべきとは言い切れないのではないか。

ソウル大の講演の後,沈壽官は朴大統領と会う。
〈朴大統領自身が会うという。
日本人として単独会見をゆるされることは稀有であろう。〉
このように司馬は沈壽官を日本人と扱ったり「韓人」として扱ったり適当に使い分けている。
沈壽官自身も使い分けているようにも感じられる。
沈壽官が政治的にどのように立ち回り,韓国側がどのように利用しようとしたのかが語られていない。
あるいは,司馬が意図的に伏せたのかもしれない。
その辺のことこそ最も知りたかった部分だ。

エッセイ風であれ何であれ小説には違いないから,問題は得られる感動の質ということになる。
沈壽官を非常に魅力的な人物として描こうとしているが,どう見ても陶磁器製作に情熱を燃やすタイプというより商売上手な人間としか像を結ばない。
従って名作と絶賛するほどではないし,〈痛哭の詩〉という大仰なキャッチコピーに白けてしまう。
作品そのものの持つ緊張感は,小林勝,村松武司,梶山季之,飯尾憲士などの作品に接して得られるものに遠く及ばない。

司馬遼太郎はベストセラー・ロングセラー作家として絶大な人気を博し,その歴史小説は「司馬史観」とまで賞せられているようだ。
その一方で,主として歴史家からは史実に反するというさまざまな疑問・批判が投げかけられている。
われわれ素人の大衆にとっては話は簡単だ。
人気を博するということは,取りも直さず「危険な思想家」ではないということを意味するから,まともに取り上げる対象と見做す必要は全くない。
世に毒舌家とか歯に衣着せない発言で庶民の代弁者の顔をしている人士が,結局肝心なところで口をつぐんで的を撃たないということを何度も見てきているのと事情は同様だ。



荒山徹『サラン・故郷忘じたく候』

6つの短編
『耳塚賦(みみづかふ)』
『何処(いずれのところ)か是れ他郷(たきょう)』
『巾車録(きんしゃろく)』
『故郷忘(ぼう)じたく候』
『匠の風,翔(か)ける』
『サラン 哀しみを越えて』
が収められている。

単行本(2005年刊)では
『サラン 哀しみを越えて』
というタイトルであった。
山田風太郎の正統な後継者と呼べる荒山徹の短編集である。
タイトルからも分かる通り,司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』を意識している。

◆荒山徹と司馬遼太郎の朝鮮理解
荒山徹と司馬遼太郎の差は,朝鮮語を解するかどうかではない。
司馬遼太郎ほどの人物であれば,朝鮮語に堪能なスタッフを集めて原文に当たることは容易なことだっただろうと推察される。
それをしなかったのは,朝鮮は言うに及ばず歴史の全体像を自分は完全に把握しているという傲慢な思い上がりであろう。

司馬遼太郎は,日本と朝鮮を考える上で極めて重要な東学農民戦争には全く論及しない。
一方,荒山徹は李朝や江戸時代の身分差別を痛烈に批判している。
それでいて,日本と朝鮮の民衆に対する温かい眼差しか感じられる。
それに対して司馬遼太郎は,司馬史観だのと持て囃されたためか,一見グローバルに見えて朝鮮に対しては冷たさが垣間見える。
このような司馬遼太郎の朝鮮理解の浅さをこれでもかとあげつらうのはエネルギーの無駄と思える。

そもそも、国民的作家などというのは人畜無害の毒の無さが必須条件だから,政権批判など気の利いた言辞を期待する方が無理というものだ。




転載元
月見櫓
日韓翻訳チャットを通して見る韓国

■司馬史観と司馬朝鮮観について

直接日韓に関係する話というわけではないのですが、個人的にファンということもあり、また前回記事のコメント欄でのご意見に触発された部分もありまして、今回は司馬史観と司馬朝鮮観について述べてみたいと思います。

いわゆる、『司馬史観』というものの是非功罪は、しばしばさまざまなシーンで取り上げられることがあります。
それだけ司馬遼太郎氏の作品が、日本人に愛されているということでもありましょう。

『司馬史観』が取り沙汰される背景には、氏の歴史小説では史実に忠実な部分が多く、また氏の筆名からも、中国の史記の著者である司馬遷を連想してしまうために、ややもすると氏を「歴史家」と誤認してしまうからだと思います。

しかし氏は、言うまでもなく「作家」であり、「小説家」です。
氏の書いたものがどれほど史実に忠実であろうとも、その主眼は「史実を記すこと」ではありません。
正しい史実を誤解を生じない表現で書くか、たとえ史実との齟齬が生じようとも、小説として読んだ時に楽しめる表現で書くかを天秤にかけた時、「小説家」である司馬遼太郎氏がどちらを重要としたかは、考えるまでもありません。

また「歴史家」でも「歴史学者」でもない氏にとって、それがたとえ史実に対する誤解を生じさせるものであったとしても、自分の作品において「自分が感じたとおりに表現したい」という欲求を抑える理由には、全くなりません。
それが「作家」であり「小説家」というものではないかと思います。

歴史を歴史として見ようとする時、氏の著書に引かれた史料に直接当たるならばともかく、氏の主観を経た記述をそのまま史料とすることは出来ないし、やってはならないと思います。
おそらくは、司馬遼太郎氏本人もそれを望んではいないでしょう。

どれほどノンフィクションが混ざっていようとも、フィクションとして書かれた作品はフィクションとして受け取るべきです。
どうしても作中のノンフィクションの部分を抽出したいのであれば、それは作品の読解とはまた別の作業になります。

いわゆる『司馬史観』の是非功罪をここで全て論うのは、氏の作品を一点余さず読んだわけでもない私には、あまりにも荷が重過ぎますが、ただ、氏の朝鮮に関する認識や表現、述懐については、些かながら言上したいことはあります。

それは、氏がかなりの偏見を持って朝鮮を見ていたということです。
その根源は、昭和初期の日本への憤怒、もっと突き詰めて言うならば、若かりし頃の氏を戦地へ送り込み、そこで死ねと自分に強要した『日本軍部』というものへの憤怒の裏返しと言っても良いでしょう。

その憤怒の余り、氏は朝鮮に対しては極めて同情的だったと思います。
それは、共に『日本軍部』の暴力の被害者であったことについての共感と、氏自身が『日本軍部』の部品のひとつとして戦争に、ひいては朝鮮に対する加害に関与したことについての自責の念とがない交ぜになったためではないかと思います。

この複合感情は、あの時代の日本人には極めて共感を得やすい感情だったのではないでしょうか。
当時日本人の多くは、戦争被害者でありながら同時に敗戦国の国民として、加害責任を感じることを強要されていたからです。

加えて、司馬遼太郎氏の朝鮮観は極めて散漫で断片的な知識に基づいています。それについては氏自身、「街道をゆく」シリーズの『耽羅紀行』の中で、

《「両班」
これこそ朝鮮を知るための手がかりの一つだといわれてきたが、私は本気で関心をもったことがない。
「ボクは両班の子なんだ」
ということばを、こどものころから何度もきいた。
わりあい数が多かったから、朝鮮人はみな両班だと思うことにした。
そういうように、概念や実態を朦朧とさせておくほうが、かえって正確なのではないか。》

と述べています。

氏にとって朝鮮は、興味の対象ではなかったのでしょう。
仮に興味を持ったとしても、朝鮮自体には資料も史料も、絶望的なほどにありません。
日本や中国にある朝鮮の資料や史料に当たるとしても、それらを素直に且つ詳細に読めばどうなるかは、言うまでもありません。

ならば曖昧に、たとえて言うならばモザイクのかかった画像を目を細めて見たり、近視の人なら眼鏡を外して見れば、鮮明に見える「ような気がする」ということを、氏は朝鮮に対して行なっていたのではないかと思います。

氏は、日韓併合について
「そろばんに合わぬことをした」
「日本は損をした上に朝鮮人の怨みまで買った。
ばかげたことをしたものだ」
というような言い回しを用いて批判しておられるのを、幾度か見聞きしたことがあります。
これは当時の日本人の日韓併合に対する視点としては、かなり珍しいものであったのではないかと思いますが、おそらく氏が日本の明治期の史料を読み解くうちに気づいたことだと思います。

もっとも、NHKか何かで放送された氏のこの手の発言を聞いた在日朝鮮人が、
「朝鮮を馬鹿にしている」
という意味のことを怒りを込めて書いていたのを読んだ記憶があります(確か金両基ではなかったかと思うのですが、記憶が曖昧で確信はありません)。

この程度のことを言っただけでも、朝鮮人の不興を買うとなれば、興味も関心もない上に、作品の素材とすることも出来ない朝鮮については、氏は当たり障りの無さそうなことか、少なくとも朝鮮人の機嫌を損なわぬようなことだけしか言わぬように気を配っていたと思われます。

このことは確か、日本人である司馬遼太郎氏と、在日中国人の陳舜臣氏、在日朝鮮人の金達寿氏らとの鼎談に先立ち、司馬氏が「朝鮮」という語を使う理由を縷々述べ、使用の了承を求めていた点からも間違いないと思います。

司馬史観と、氏の作中に表れる朝鮮観の共通点は、どちらも
「資料や史料に忠実な部分もあるが、齟齬や虚構に基づく創作も多分に含まれており、且つ執筆に当たって最も重視されていたのは、作者自身の表現欲と、読者の『受け』である」という点だと思います。

ただし、氏がそういう姿勢で書いた物が、「韓国起源説」や「朝鮮文化大国説」のブースター的役割を果たし、今もなおその後遺症を残しているという一点に『ついては、氏の迂闊さを責めたいと思います。


転載元 本の紹介

朝鮮新報
■『司馬遼太郎と朝鮮』著者・備仲臣道

◆思想の根源に横たわる蔑視観
司馬遼太郎が朝鮮に関するものを素材として、最初に書いた小説が「故郷忘じがたく候」である。
この作品には、豊臣秀吉の朝鮮侵略・壬辰倭乱(日本では文禄・慶長の役)の際に、拉致してこられた陶工のその後が描かれている。
司馬自身、愛着があると記しており、彼の朝鮮や李朝陶磁に対する思いのたけは、この作品に余すところなく描かれている。

私が司馬の書いたものを読んだのは、たまたまこれがはじめてであったから、司馬という作家は朝鮮への愛が強い人なのだと、そのときは思った。

すでに世間ではそのように評価されていたらしく、司馬自身も、朝鮮に対するよき理解者であり、かの国の民衆の友人であると自負していたと思われ、「街道をゆく二」(朝日新聞社)に、私の朝鮮への関心のつよさは、私がうまれて住んでいる町が大阪であるということに多少の関係があるかもしれない、
と書いている。

さて、「故郷忘じがたく候」と「坂の上の雲」の間にある司馬の朝鮮観にはなはだしい隔たりがあると言われていて、確かにそのとおりであるが、
「坂の上の雲」は1968年の4月からサンケイ新聞紙上に連載を開始しており、不思議なことに「故郷忘じがたく候」も同じ年の6月に発表されている。
司馬は「坂の上の雲」執筆のために、国内外から膨大な資料を蒐集して、読破し構想を練るのに5年を費やしたと言われるから、「坂の上の雲」の朝鮮観は、このときすでにでき上がっていたと言っていい。

司馬が「坂の上の雲」で、日露戦争を自衛戦争あるいは祖国防衛戦争と表現して、正当化したことは広く知られている。
しかしながら、日露戦争が日清戦争とともに朝鮮への侵略戦争であることもまた自明のことであってみれば、司馬は日清・日露戦争を賛美し、日本の帝国主義的成長を称えたと非難されても、なんの反論もできないであろう。
自衛と言おうと祖国防衛と書こうと戦争に違いはなく、良い戦争と悪い戦争があるという道理もない。

いったい「坂の上の雲」と「故郷忘じがたく候」の間にあるずれは、なにに起因するものなのであろうか。
実は司馬は、「街道をゆく二」の中で、次のように驚くべきことを、すんなりと書いている。

「それは暴虐なる日帝30余年の支配によるものです」

と、韓国の知識人は例によって千枚透しの錐のようにするどい怨恨的発想の政治理論でもって規定しきってしまうかもしれないが、日帝がいかに暴虐であろうとも( げんにそうだが )。
しかし、長い朝鮮史のなかでその期間はたかが30余年であるにすぎない。
李朝五百年が、朝鮮の生産力と朝鮮人の心を停滞せしめた影響力のほうがはるかに深刻なようにおもうのだが、しかし私の知りうるかぎりの朝鮮人で、このことをいったひとにただ一人しか私はめぐりあっていない。

この文に象徴される朝鮮への蔑視が、司馬の思想の根源にあって、それが「坂の上の雲」では、日清・日露戦争を美化した、新興国日本の美しい物語となり、朝鮮侵略を隠ぺいしたと思われる。
だから、「故郷忘じがたく候」において、陶工の末裔である沈寿官が韓国の講演で、「36年を言うな」と学生たちに語ったと、さも意味ありげに書いたのも理由のないことではない。

「朝鮮を併合という形で奪ってしまうという、愚劣なことが日露戦争ののちに起こるのである」

と、司馬遼太郎は、日清・日露戦争を美化した同じ筆で、きれいに口をぬぐったように書く。
朝鮮半島の友人の前で気が引けるのだ、と。
しかも、そうでありながら同じ文のあとの所では、朝鮮を植民地としたことが、
「けっして儲かるものではないと思うのです」とさえ書いているのである。
(「『昭和』という国家」)。

このどうしようもない自己矛盾こそが、世に「司馬史観」と言われて、もてはやされているものの実態である。

「錦絵の中の朝鮮と中国」(岩波書店)で、著者の姜徳相氏は、つぎのように記している。

「坂の上の雲」の面白さを否定するわけではないが、司馬であれ、誰であれ、どの作品でも他民族の命運にかかわることは、かかわられた側がどう受容したのか、という視点があってもよいと思う。



荒野に向かって、吼えない…



『戦後思想家としての司馬遼太郎』

成田龍一著 『戦後思想家としての司馬遼太郎』




「プロローグ」に、司馬遼太郎が1991年に書いた「なぜ小説を書くのか」が取り上げられている。ここで司馬は、「栃木県佐野で迎えた「敗戦の日の実感」を記している――「なぜこんなばかな戦争をする国に生まれたのか」。日本の指導者の「愚かさ」について痛感するとともに、「むかしの日本人は、すこしはましだったのではないか」と続け、「だから、私の作品は、一九四五年八月の自分自身に対し、すこしずつ手紙を出してきたようなものだ」とみずからの問題意識を解説」しているのだそうだ。

本書を読むと司馬がある時期までの日本のマジョリティを象徴する存在であったということが様々な面から再確認できる。

司馬は1972年発表の「石鳥居の垢」で、「沖縄戦での日本軍による住民虐殺も「沖縄における特殊状況」であったとは、どうにも思えないと述べ」、「ある状況下におけるファナティシズム」について考察している。
また1962年発表の「軍神・西住戦車長」ではノモンハン事件について、「このきちがいじみた戦争のおかげで人間があまりに多く殺されすぎた。「軍神」だけがその死に特別な栄誉を与えられるのは、他の無名の死者への冒涜であろう」としている。
そして『竜馬がゆく』では、「司馬は吉田松陰と松下村塾の門下生らを「維新にける暴走派の諸才能」とし、長州藩の攘夷論者たちを維新の原動力としつつ、彼らのもつ過激さに批判を加える。『竜馬がゆく』をはじめ幕末を描く諸作品のなかで、「この時期の長州藩の異常過熱」「極端な過激主義」がくり返し指摘される」。また『世に棲む日日』では、「松陰以後、(長州藩の――註)暴走がはじまる」、「松陰がたとえ存在しなくても、歴史は動くし、幕末の騒乱は発生するし、また明治の統一国家は成立する」としている。
さらに『坂の上の雲』では乃木希典と伊地知幸介の「無能」ぶりを強調し、「「旅順の乃木をいまのままにしておいては日本は敗ける」という「ほとんど確実な予想」を児玉源太郎にもたせ」、「「日本存亡のかぎ」が、「もっとも愚劣でもっとも頑迷な二人(乃木と伊地知――註)の頭脳ににぎられている」と司馬は嘆く」のである。

このように司馬はファナティカルなものや無能な軍人を嫌悪している。しかしまた、国民国家の形成を称揚し、「健全なナショナリズム」の亢進にも務め、明治憲法をも批判的に捉えることはない。このあたりはある時期までの戦後日本の保守層の代表的な考えでもあったのだろう。

つまり司馬はまた、日本の保守層の限界を示す存在でもあろう。
司馬は「「現代というのは男が魅力を喪失した時代」と繰り返し述べ、「男の魅力」を「時代に探ろう」とする」。1962年には、「「女性に濃厚な興味」をもつが「面白さにかけては、同性の男という生きもののほうが、はるかに面白い」と述べる。「男性が野望に燃えたとき」に面白さを感じ、男性が「権力慾、栄達慾、求道慾、復讐慾、攻撃慾に燃えたとき」に、その行動は「きわめてダイナミック」になり、美しさも醜さも「いきいきと出てくる」として、時代小説を「一にも二にも男の魅力、悲しさ、おかしみをえがく小説」と規定した」。ここに男性中心主義を感じることができるが、実際に『燃えよ剣』における土方の周囲の「姉のまなざしを持つ女性は、「公」の場所で働く男性を補佐し支える女性であり、近代家族が作り出す性別役割分担に即応し男性にとり都合のよい女性」となっている。「また、司馬は「男色」を嫌悪する。近代社会は、夫婦菅家を単位とするがゆえに「男色」を排斥するが、『竜馬がゆく』では「男色」に言及し、「まったくこまった藩風」であり、「竜馬には、衆道の悪趣味など、毛ほどもない」などの記述」がなされている。

このあたりはもちろん世代的なすり込みも影響しているのだろうし、このようなジェンダー観やホモフォビアは司馬に限らず広く見られる近代の陥穽とでもいったものであろうが、司馬の中にそれを疑う視線はない。

1960年発表の「風の武士」では、「忍者」を「わざわざ「少数民族」と表現している」ように、「周縁」の存在に対し早くから関心を寄せていた。しかしそうであるにも関わらず、「国民国家」への批判的視線や自民族中心主義を疑う姿勢は極めて弱いものとなっている。

「『坂の上の雲』において、司馬の近代日本の歴史像の輪郭がはっきりさせられるとともに、歴史家たちと対決しながら、成功した「近代日本」の物語を紡ぎだす司馬の姿も浮上する。司馬には、「日本」「近代」とそれを作り上げた「ナショナリズム」への関心があり、「西洋」との緊張関係があった。この点を歴史像として描くことにより、『坂の上の雲』は「公的日本人」の形成過程が描き出されることとなった。ことばを換えれば、(a)国民国家の構成性はいうものの、「日本人」(民族)の実在性は疑われず、(b)国家形成の課題を成し遂げた十九世紀末―二十世紀初頭の「日本人」への賛辞を呈する。戦時の国家の暴走はこりごりであり、あらためて日本人(民族)の共同性を探り出そうとする戦中派として、一九六〇年代の司馬は再出発したといえよう」(pp.161-162)。

その結果、日本の植民地支配に対する批判的視線は非常に鈍ることとなり、右派お決まりの、当時の国際情勢を考えれば仕方がなかった、日本の統治は悪い面ばかりではなかったという立場に接近するどころか、そのものずばりの発言もしているのである。

司馬は豊臣秀吉の朝鮮侵略の無意味さを繰り返し述べ、朝鮮半島から日本への影響を進んで評価し、また国家神道への批判を行う。しかしまた、「植民地責任の回避」としか見えない発言もし、「植民地主義の加害者としての自覚が希薄である」ことも明らかである。例えば『街道をゆく 韓のくに紀行』にいて、「日帝」による支配の期間は「長い朝鮮史のなかでその期間はたかが三十余年間であるにすぎない。李朝五百年が、朝鮮の生産力と朝鮮人の心を停滞せしめた影響力のほうがはるかに深刻なように思う」と述べているという。これなどは典型的な居直りとするより他ないだろう。

また台湾についても、「私は日本人だからつい日本びいきになるが」と前置きしつつ、日本が「帝国大学を設け、教育機関を設け、水利工事をおこし、鉄道と郵便の制度を設けた」と、日本植民地時代の「遺産」を肯定的に評価している。『街道をゆく 台湾紀行』では台湾総督府土木局に勤めていたある人物を「顕彰」するのであるが、胎中千鶴は『植民地台湾を語るということ』において、司馬はこの人物が「昭和期の植民地官僚であることにはあまり言及せず」、「日本が本国の利益を優先し、住民の伝統的価値観や生活様式を軽視して経済開発を推し進めたこと」を欠落させていると批判しているという。


このように、ファナティカルな軍国主義を批判している良識的な人物と見られることもある司馬だが、一皮めくれば自民族中心主義に陥り、植民地支配などを等閑視するばかりか積極的に糊塗する姿も浮かび上がってくる。司馬が「ある時期までの日本のマジョリティを象徴する存在」と書いたが、それはこのような面も含めてのことである。

では日本のマジョリティを覆っていた「一皮」とは何かというと、それは戦争体験であったのだろう。司馬自身もアメリカないしソ連に殺されることを覚悟していた。そしてこれが神懸りや無能な軍人によってもたらされたということを嫌というほど思い知らされていた。このような体験が部分的には「良識的」と見えなくもない「皮」で日本を包ませていたのであろう。しかし戦争体験のない世代が日本の保守・右派層のマジョリティとなった「ある時期以降」になると、その「皮」はあっけなく破れ去り、暗澹たる惨状をさらしているというのが現状である。

司馬の古巣である産経新聞の現状を批判するために司馬を引き合いに出す人もいるが、むしろ種は司馬によって播かれていたとするべきかもしれない。もちろんこれは司馬のみに帰せられるものではなく、司馬が筑紫哲也のような「リベラル」な人物から好意的に評価されていたように、植民地支配や戦争責任への「リベラル」の「寛容」さもまた歴史修正主義の跋扈の芽を摘むことができなかった要因でもあろう。司馬の持つ「限界」よりもその「良識」に目にいってしまう状況が保守側、「リベラル」側双方の日本の植民地支配や戦争責任への意識を表すものになってしまっているのだろう。


本書の「プロローグ」に、司馬が亡くなった1996年はまた、丸山真男、大塚久雄、渥美清、藤子・F・不二雄が亡くなった年であることに触れられている。生まれた年こそ異なるものの、「みな戦後という時代を肯定的に考え、戦後に積極的な価値を与えるという共通点を有していた。彼らは、いずれも戦後が持つ理想に積極的にかかわり意欲的であった」。

冷戦が終わり、出口の見えない不況が深刻の度合いを深めていく1996年は、日本にとって「「戦後」の切れ目を印象づける」年なのであった。



Kawaji Osamu
http://www.o-kawaji.info/

 



講義余話


渡来人、朝鮮半島、そして司馬遼太郎のこと
司馬遼太郎の『街道をゆく』は、もと「週刊朝日」に連載されたものである。連載第一回が昭和四十六(1971)年一月一日号だから、もう三十八年前のことである。
連載第一回目の「楽浪の滋賀」の冒頭で、司馬遼太郎は次のように述べている。

「近江」
というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである。京や大和がモダン墓地のようなコンクリートの風景にコチコチに固められつつあるいま、近江の国はなお、雨の日は雨のふるさとであり、粉雪の降る日は川や湖までが粉雪のふるさとであるよう、においをのこしている。

私は、この冒頭の文章が好きである。世に「司馬史観」と称せられる歴史家、司馬遼太郎が、思わず溜息が出るほどのみごとな文章家であり文学者であることを実感させられるくだりだ。「近江」をふるさとに持つ人が、心底うらやましく思われるほど、この文章は美しい。
司馬遼太郎の「近江」に対するなみなみならぬ思いは、そこに「日本」の原風景を、確かに追い求めることができるという実感からきていることは間違いのないことであろう。そして、そこから感じ取ることのできる原風景こそ、朝鮮半島からの渡来人たちによる風景に他ならなかったのだ。連載第二回目の「湖西の安曇人(あずみびと)」には、冒頭「日本民族はどこからきたのであろう」と始まり、「しかしこの列島の谷間でボウフラのように湧いてでたのではあるまい」とする。昔はともかく、現代、記紀神話に見られる「天孫降臨」のような話をまともに信じる人はいないだろうが、しかし、戦前までこの種の議論はタブーだったのではないかと思われ、昭和四十年代のころでも、この国の起こりについて、冷静に考えようとする人はまだ少なかった。ましてや、まだ朝鮮蔑視の感情が泥に浸み込んだように残っていた時代のことだ。日本という国が、朝鮮半島からの血でかなりの部分ができあがっていた、というような発言をすることは、実に勇気のいることだったに違いない。さらに司馬遼太郎は、友人の金達寿との間に交わされた次のようなエピソードを載せている。

私の友人―といえば先輩にあたる作家に対して失礼だが―金達寿氏と話していたとき、
「日本人の血液の六割以上は朝鮮半島をつたって来たのではないか」
というと、
「九割、いやそれ以上かもしれない」
と、金達寿氏は、三国志のころの将軍のような風貌をほころばせながら笑った。私はそうかもしれないと思いつつも、
「それではみもふたもない」
と、閉口して見せた。

日本民族の大部分が稲作農耕民族としてのDNAを受け継いでいるとするならば、日本民族の祖形としては、むろん「弥生人」の存在を考えねばならないだろう。弥生人は稲作農耕の民であるから、これが日本土着のものでない以上、彼らは渡来人である。この列島には、過去さまざまな渡来人がやってきたと思われるが、その最大のルートは朝鮮半島から対馬、壱岐を伝って北九州へと連なる海上のコースであったに違いない。
古代日本と朝鮮半島―「日本を知る」ことの原点は、今、我々の前に、大きくそして確実なテーマとして存在している。

罪悪感のすすめ

加害者意識は、罪の意識である。
意思があれば、加害者意識もある。
深刻な反省もする。贖罪につながる。
罪の意識から人々を救おうとする宗教も盛んである。
意思がなければ、加害者意識も無い。
罪の意識にさいなまれることもなく、救いはいらない。
深刻な反省には至らない。

転載元
 

■脱亜の理由

北東アジアのパクリ文化圏には、イミテイションに徹する香港人と、それを乗り越えようと励む日本人がいる。
現実を現実に再現すれば、それは模倣である。模倣は比較的容易ある。
が、それだけ競争が過酷になる。
非現実の内容を現実に再現すれば、それは創造である。
創造は難しいので、競争は激しくない。
マイ・ペイスで仕事ができる。
特亜三国人 (日本人・韓国人・中国人) は、模倣が得意で、創造が苦手である。
創造は、人間だけが持つ能力である。
人類の英知である。
特亜三国の言語には、時制が無い。
特亜三国人の考えには、現実 (現在) があって非現実 (過去・現在・未来の別)が無い。
意思は、未来時制の文章内容である。
意思のあるところに方法がある。
意思のある人には、加害者意識もある。加害者意識は、罪の意識である。
深刻な反省が必要になる。
特亜三国人には、意思がない。
罪の意識がない。深刻な反省がない。
自分自身も罪びとであることを考えれば、罪を犯した人を見ても執拗にそれを責め立てることは出来ないものである。

聖書には、次のごとく書いてある。

《「先生、この女は、姦淫の場で捕まえられました。
モーゼは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」、、、、

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」、、、、、

これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、、、、》
(引用終り)

特亜三国人には、罪の意識が無い。
だから、加害に便乗する。
「やらなきゃ、損・損」ということである。
罪びとを見て執拗に攻めたてる。
こうした姿勢で、罪の意識のある西洋人と呼応しようとしている。
そのうちに、罪を知らない人たちの化けの皮がはがれよう。
深刻な反省に至らないことは、特亜三国は同程度でしょう。
脱亜入欧が必要である。

米MIT (大学) の教授・ジョン・ダワーは以下のように述べています。

『敗北を抱きしめて 下 第二次大戦後の日本人』
ジョン・ダワー 岩波書店 2004
p.261
《、、、、よしんば、これ( 東京裁判 ) が「代表的」指導者に戦争責任について説明責任を問うための発見学習的、あるいはショウケース的裁判であると了解したとしても、ある種の集団、ある種の犯罪がそこから見逃されていることは、いかにも顕著である。
ひとびとにおそれられた憲兵隊は誰も起訴されなかった。
超国家主義秘密結社の指導者も、侵略によって私腹を肥やし、「戦争への道」を拓くことに親しく関与してきた実業家も、起訴されていなかった。
日本が植民地統治していた朝鮮人と台湾人を強制動員したことは「人道に対する罪」として追及されなかったし、何万人もの外国人の若い女性たちを狩りあつめて帝国軍人に性的サービスを提供する「慰安婦」として働かせたことも訴追されなかった。
また、検察団を支配していたアメリカ自身が、残虐非道さにおいて疑問の余地のない罪を犯した特定の日本人集団を、秘密裏に、そっくり免責していた。
満州の七三一部隊で、何千人という捕虜を実験台に使って生物兵器を開発していた将校や科学者たちである (研究成果をアメリカに教えることを交換条件に訴追を免れた)。
中国における化学兵器使用の証拠についても、検察は真剣には追求しなかった。》
(以下、略)


サルメラ:
贖罪意識は持たねばならない。
それなしでは次に進めない。
自己矛盾を抱えたままでは、また、同じ過ちを繰り返す。

だが、それは、
厄介な隣国の〝政治〟に利用されるために、では当然ない。

臭いものにフタをせず。
されどそれは、
自分の頭のハエを追おうともしない、贖罪意識なき隣国や左翼主義者に、自虐を刺激され判断を狂わされるためではない。
すべてを受け入れる潔さと、
過ちをあらたむるに憚ることなかれ、の矜持を持って、
歴史と真摯に向き合い、酸いも甘いも嗅ぎ分け、勝手ツンボになることなく、温故知新を取捨選択する。

この国の和の精神はそれを可能にするバランス感覚を本来、身につけていたはずだ。



転載元 愛する人に愛される方法
恋愛や人間関係にお悩みの方へ、心が軽くなるメッセージ

■No.041 『罪悪感を認識しよう』
毎日のように伝えられる凶悪な犯罪のニュースを見るたびに、一般の人たちが感じる疑問は、
「犯人は、そんな残酷なことをして、なぜ罪悪感に苦しむことがないのだろうか」
ということでしょう。

犯罪を犯すほど心のゆがんでしまった人間は、他人には想像もできないような辛く苦しい、不幸な経験をしてきたに違いありません。

犯罪者のほとんどは、実は、罪を犯しておきながら、自分は加害者ではなく、むしろ被害者だと思っています。

「もともと自分は心の清らかな人間であったのに、こんな純粋な自分を虐げ、疎外し、苦しめてきた他人が悪い」
というわけです。

自分だけが損をしている、という被害者意識から、損得のバランスを取り戻すために他人に害を与えるのです。

人と人とのトラブルのほとんどは、「被害者意識のぶつかり合い」だといえます。

「自分の方が、より多くの被害を被っているのだ」
ということを認めさせるための不毛な闘いです。

世の中は、被害者だらけです。
いったい誰が加害者なのでしょうか。

皆、「自分はかわいそうな被害者である」と思い込むことによって、罪悪感から逃れようとしているのです。

罪悪感を感じることに怖れを抱く必要などありません。
むしろ、罪悪感こそが、実際の罪悪を抑える働きをするのです。

「罪悪感を感じている人」と「悪い人」とは異なります。
この世に、心に一点の曇りもない純粋な人間など、存在しません。

「自分は完璧に心の清らかな人間なのだ」と思い込み、罪の意識をまったく感じていない人が、その思い込みを否定されたときに、心が暴走し、ブレーキが効かなくなってしまうのです。
この世に、一度も他人を傷つけずに生きてきた人が、ひとりでもいるでしょうか。

他人とかかわるということは、互いにとって喜びであると同時に、ときには迷惑でもあり、負担でもあります。
皆、意図せずとも他人の権利を侵害しながら生きています。
大げさに言えば、生きていること自体が罪だともいえます。
それでも人間は、許しを乞いながら、他人とかかわり合い、生きていくしかないのです。

「絶対に許せない人がいる」と思っている人も、実は、自分こそ他人から許してもらわなければならない存在であることに気づかねばなりません。

自分の罪悪感をはっきりと自覚している人こそが、健全な心をもっている人だといえるのです。




サルメラ:
『贖罪意識は持たねばならない。
それなしでは次に進めない。
自己矛盾を抱えたままでは、また、同じ過ちを繰り返す。』

ただ、それは、
『自分の頭のハエを追おうともしない、贖罪意識なき隣国や左翼主義者に、自虐を刺激され判断を狂わされるためではない。』


・・・↓


転載元 
BBの覚醒記録。無知から来る親中親韓から離脱、日本人としての目覚めの記録。


■司馬遼太郎という無知と自虐史観

(略)
かつて吉田清治というペテン師のでっち上げた『私の戦争犯罪~朝鮮人強制連行』が一世を風靡して、いともやすやすと日本国民の心に入り込んでしまったことがあった。
同書は、日本人が朝鮮人女性を拉致して「慰安婦」にしたかのような作り話だったが、今でも一部では信じられてしまっている。

世界は思春期の思考を受け入れるほど、清くも良心的でもありはしない。
常に腹黒く奸計に満ちていて、そこでは反省や自省など食い荒らされる獲物でしかなく、悪いと思うなら謝罪と金よこせと、「誠意」を見せな、とヤクザ的外交カードに即すり替えられるのがオチ。

そして、この手の幼い自省家、反省家の特質は、相手の非は見ない、見えない。
必然的に、しなくてもいい謝罪をさせられ、そして世界は、いったん謝罪などしたら、それに対してペイし続けていかねばならぬほどにも邪悪です。

こちらが誠意を見せたら、相手も腹を割って誠意で接してくれる、というのが司馬遼太郎という永遠の思春期少年の姿勢ですが、幻想でしかありません。

それは大人なら、対特ア3カ国のみならず、ロシア、アメリカを見れば、したたか思い知ってすぐ悟る事柄であり、それが成長するということです。

対個人ならまだしも、韓国や北朝鮮、中国という特殊国家を前にしての良心や誠意など、寄ってたかって食いつくされる臓物の如きものでしかありません。

司馬氏の過失は、ひたすら自省的で誠実で相手本意に考える思考を外交の場に敷衍した愚かさにあります。

大人なら瞬時に理解出来ることですが、しかし大人になりきれない永遠の精神的未熟児ともいうべきハンパ大人はいるものです。

日教組の自虐史観が最も効率良く植え付けられていた団塊の世代をピークに、日の丸、君が代を拒否する精神的未熟児たちがそうです。
「良心」や「誠実」「反省」を日の丸の代わりに掲げ、侵略の象徴ゆえに国旗を忌避する。
そう言いながら、片や相手国の侵略や残虐行為には言及せず、相手の国旗も国歌も否定せず、ひたすら自国を貶め相手国からの謝罪に応じ、払う謂われもないお金を払い続ける。

しかも、貶めてやまない自国からお金を頂きながら、退職後の暮らしの保障を受けながら・・・

外交は汚く熾烈な駆け引きです。
それを良心や誠実とごっちゃにする。
相手も同じ良心と誠実さを持つであろうという思い込み。
自省を表に、それに中韓から付け入れられ、奪われ、叩かれ、それをよしとし、自分たちの「誠実」ゆえに他の日本人や子供たちまで巻き込んで被害者にしているという自覚もない。

中韓の悪辣さが暮らしを痛打するのは生活不安定な一般層なのに、公務員という安定した国家保障の繭の中で国家に依存しつつ毀損し続け、その矛盾にも、誠意の欠如にも気づかない。
頭が悪いのです。
受験脳ではない、本質的な頭の出来。



サルメラ:
それもたしかに大事だし・・・
罪悪感を持つ心も大事だし(笑)
だからこそ、

隣国の〝恨〟でなく、
西欧の〝〇バツ主義〟でもない・・・

『この国の和の精神はそれを可能にするバランス感覚を本来、身につけていたはず』

と信じたい。

マイセンのスープ皿

 
転載元 ねずさんのひとりごと

マイセンのスープ皿



マイセンのスープ皿
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マイセンのスープ皿


上の写真の絵皿は、1730年頃ドイツで作られたマイセンのスープ皿です。
ホンモノです。
国宝級の扱いを受けている逸品です。
 
マイセン磁器は、ごく最近の作品でも、絵皿付きのコーヒーカップ1個で30万円以上します。
女房と自分の分をセットでそろえたら、それだけで車が一台買えてしまう。

まして写真にあるような300年前の初期の頃の作品ともなると、もはや値段のつけようがなくなります。何千万とか億の世界です。
要するにマイセン磁器というのは、ヨーロッパ磁器の最高峰だ、ということです。
 
マイセンというのは、ドイツ東部のザクセン州のドレスデンの近くにあるエルベ河沿いの小さな城下町です。
 
そこにあるお城の名前が、アルブレヒト城で、むかしむかしこのお城にフリードリヒ・アウグスト2世(Friedrich August II.)という王様がいました。
王様は、錬金術師だったヨハン・フリードリッヒ・ベトガーに、磁器の開発を命じました。
 
錬金術師のベトガーは、見事、磁器焼に成功しました。
それが日本で江戸時代中期にあたる、1709年のことです。
 
翌1710年には、「王立マイセン磁器製作所」がアルブレヒト城内に設立され、本格的なマイセン磁器の生産が始まっています。

アウグスト2世という王様は、神聖ローマ帝国ポーランド王を兼ねた強王で、ザクセン選帝侯とも呼ばれた覇者です。
そのアウグスト2世が生きた時代は、実は、東インド会社から運ばれた支那や日本の磁器が、王侯貴族の憧憬の的となった時代です。

東インド会社というのは、アジア地域との貿易の独占権を与えられた会社でした。
世界初の株式会社でもあります。
後にイギリスがこの東インド会社を支配するようになりますが、アウグスト2世の当時は、まだオランダが東インド会社の権利を独占していました。

東インド会社は、当初、支那の景徳鎮(けいとくちん)の磁器を買付けて、ヨーロッパ各地で販売していたのです。

「支那の景徳鎮磁器」という言い方は、適切でないかもしれません。
景徳鎮(けいとくちん)というのは、昌江の南にあるので、昔は漢字で昌南と書きました。
昌南は、英語だとChangnanです。
で、そのChangnanから、たくさんの時期がヨーロッパに渡り、Changnanの磁器が縮まって「China」となりました。
従って、Chinaという呼称は、欧州では陶磁器をあらわす単語であり、China=陶磁器=支那、という意味の単語になっています。

なぜ昌南の陶器が欧州で好まれたかというと、これにも理由があって、当時の欧州の城塞宮殿には、トイレがありません。
用をたすときは、男女とも部屋の隅に行き、そこに置いてある壷をまたいでその中に、出しました。
壷に溜まった汚物は、窓からジャーっとばかり捨てたので、下の道が汚物だらけになる。
そこで考案されたのが、石畳で、石と石の間に隙間をつくることで、汚物をその隙間から土中に沁み込ませたというわけです。

そんなわけで、中世の欧州では、大小の用をたすための大型の「壷」の需要が高かったわけで、その壷として、昌南の大型壷のニーズが高まったわけです。

初期の頃の昌南の壷は、ただおおきいだけで彩色性がなかったのですが、そこは宮殿に置くものです。
だんだんに彩色がされるようになり、綺麗な絵柄が描かれるようになっていき、そうなると異国情緒あふれる壷がますますもてはやされる、というふうに昌南の壷が発展していったわけです。

ところが支那のことです。
せっかくこうして確立された安定的なビジネスルートを、自らの手で壊してしまったのです。

どういうことかというと、正保元(1644)年に明が滅んでしまった。
清が起こったからですが、当然、世は戦乱のまっただ中となります。

支那は易姓革命の国で、清王朝が誕生すると、過去の一切は否定されますから、それまであった利権や販売ルート、果ては工場に至るまで徹底的に破壊され、技術者も「旧王朝の利権派」とみなされて、殺されてしまう。
要するに、まるで反日デモの暴徒のような混乱のなかで、磁器生産が困難になってしまったのです。

ところが、モノはトイレ壷です。
需要は大きい。というより、なくては困るものです。

そこで東インド会社は、支那の昌南以外で磁器を探しました。
そして日本に目を付けたのです。

「やきもの」というのは、素地の状態や焼成温度などによって陶器と磁器に分けられます。

「陶器」は「土もの」です。陶土を原料とする。
益子焼や薩摩焼、美濃焼などが、これにあたります。

日本における陶器の歴史は、めちゃくちゃ古いです。
そもそも縄文式土器といわれるものが、陶器そのもので、世界最古の土器は、日本の大平山元1遺跡で発見された1万6,500年前のものです。

ちなみに、陶器と土器の違いは、1000度以下で野焼きされるものが「土器」、1000度以上の高温で窯で焼くのが「陶器」と区別されています。
要するに、陶器の基になったのが土器、といったところです。

誤解があるといけませんので、すこし補足しておくと、秀吉の朝鮮出兵の際に朝鮮人陶器職人が日本に連れて来られ、薩摩焼や唐津焼のモトを築いたという人がいますが、これは違います。
薩摩も唐津も、遥か太古の昔から陶器を作っていて、室町から戦国時代には、きわめて装飾性の高い秀麗な陶器を数多く産しています。

ところが流行というのはおもしろいもので、華美なものが流行ると、その次には地味なものが流行ります。
信長の時代は、ある意味、日本が高度成長をした時代だったわけですが、そうした中で、侘び、サビなどの飾りを捨てた質素なものがもてはやされるようになりました。

要するに、世界中の様々な華麗な物品が日本にはいってきた中にあって、「俺たち武家なんだから、質実剛健でいなくちゃ」という気風が一方に生まれ、それが地味なもの、華美を排したものに対して価値を見いだす、という方向に嗜好が動いたわけです。

そうした時代背景の中で、朝鮮では、当時、いまだに土器が生産されています。
李氏朝鮮は貧困が支配した国であり、まさに「貧しい」から技術も育たず、貧しい陶器、つまり縄文式土器からさらに装飾性までをも取り払ったような、厚手の土器があちこちで生産されていたわけです。

しかもいちおうは「輸入品」です。
これが当時の武家社会にウケた。

つまり「品がある」というわけです。
「品(ひん)」というのは「貧(ひん)」です。
みるからに「貧しい品」が、「品があるしなもの」です。

たとえ生活が豊かになっても、貧しさを忘れず、粗食、粗衣、粗品で身を包む。
それが「つつしみ」です。

そういう文化的土壌の中で、当時、朝鮮の陶器が、まさに稀少な(朝鮮半島では一般的な品であっても、日本では輸入品ですから稀少品)品として、「貧を忘れないための貴重な品」となったわけです。
これは、まさに黄金の国ジパングの住民ならではの発想といえるものかもしれません。

そして秀吉の時代になって朝鮮出兵が行われると、朝鮮にいた陶器職人の中で、粗品であっても、端正な陶器を作る職人が、貴重な存在として、日本に連れて来られ、薩摩焼や唐津焼などの技術の一端に加えられ、貧の良い焼き物として、日本中でもてはやされるようになっていったわけです。

誤解を得やすいことなのですが、要するに当時、朝鮮半島における陶器文化が高度に発展していたから、日本がそれを学んだのではなく、当時、東南アジア諸国に日本人町をつくり、欧州にまで旅をし、鉄砲の保有数世界一、黄金の所持高世界一であった豊かな日本にいた日本の武人たちが、武家社会の武人としての質実の道を忘れないためにともてはやしたのが、まるで縄文時代の遺物のような朝鮮半島の貧しい陶器だった、ということです。
このあたり、たいへんに誤解を生んでいるようなので、補足させていただきます。

ただ、こうして「貧のある(品のある)」陶器がもてはやされるようになると、一方では、さらに技術を磨き、洗練された物品を作り出すのも日本の特徴です。

江戸時代の初期になって、佐賀県の有田町の周辺で、陶石を発見するのです。
で、有田に「磁器」窯が開かれて、日本初(世界初)の磁器が作られました。

よく、陶磁器といいますが、陶器と磁器は、原料が違います。
陶器が土を原料とするのに対し、「磁器」は「石もの」で陶石を原料とします。
なにせ石ですから、陶器よりも高温で焼かなければなりません。
そのため磁器は、陶器よりもかなり硬くなり、素地は透き通った真っ白になります。

素地が真っ白だということは、彩色性がきわめてよくなるということです。
つまり、磁器に絵を描いて焼くことで、きわめて芸術性の高い磁器ができあがる。

支那では、明代になって、土で焼く「陶器」に、色や絵を付けたものが大流行します。
「なるほど、これはいい」と、支那の色絵の技術を聞いた佐賀の酒井田柿右衛門が、工夫を重ねて、石焼で、素地の真っ白な磁器に色を付けて焼く技術を開発します。

江戸時代の後期に、全国各地で「磁器」の生産が始まるまでは、有田が日本国内で唯一「磁器」を生産するところでしたが、積み出しが伊万里(いまり)港からされたので、「伊万里焼き」とも呼ばれています。

作品には、製造時期や様式などによって、初期伊万里、古九谷様式、柿右衛門様式、金襴手(きんらんで)などがあります。
さらに、献上用の極上品のみを焼いたものが、鍋島藩の藩窯のものが「鍋島様式」、天皇に納めたものが「禁裏様式」です。

江戸日本は鎖国中ですが、オランダとだけは通商をしていました。
そして当時の東インド会社は、オランダが所有しています。

そして明国の衰退によって、昌南の陶器の入手が困難になったオランダの東インド会社は、この日本の有田焼に目を付けます。


 
18世紀に作られた有田焼
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18世紀に作られた有田焼


 
 
有田焼は、万治2(1659)年から、本格的な輸出がはじまりました。
日本の有田焼が、ヨーロッパに紹介されたのです。

これが大評判になりました。
なにせ、素地が純白です。
そして絵柄がまさに芸術品です。

有田焼は、ヨーロッパの王侯貴族たちに「白い黄金」と呼ばれるようになりました。
彼らは有田焼を手に入れるために、わざわざアムステルダムまで人を派遣して、日本から入る船を待機させたもしています。

おかげで、佐賀からヨーロッパに渡った「磁器」は、約100年の間になんと120万個以上にのぼります。
記録に残っていない磁器を含めれると、実際にはその2~3倍の有田焼がヨーロッパに持ち込まれているとさえいわれています。

有田焼の絵柄が、支那の磁器と似ているという人がいます。
しかしそれは違います。
余白や間を活かして、花鳥風月を華麗に明るく可憐に描く手法は、日本独自のスタイルです。

有田焼のなかでも、とくに柿右衛門様式の磁器は、ヨーロッパで大センセーションを起こします。
東洋の陶磁器は欧州において、日本の有田焼によって、支那製の単なる大小の用たし壷という地位から、いっきに美術工芸品としての地位を欧州で確立したのです。

なかでも柿右衛門様式の有田焼は、最も高価で最も魅力的なものとされています。


 
柿右衛門様式
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柿右衛門様式


ヨーロッパ貴族たちは、自身の邸宅を有田焼きで飾ることを最高のステイタスとするようになりました。
柿右衛門様式の有田焼は、ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿、ロンドンのハンプトンコート宮殿やバッキンガム宮殿などを筆頭に、欧州各地の王宮や城を彩ります。

なかでもとりわけ有田焼のコレクションに熱心だったのが、冒頭のアウグスト2世(1670~1733)でした。
彼は熱烈に日本の磁器を愛し、ドレスデンのツヴィンガー城に、柿右衛門を含む膨大な数の東洋磁器を集めていたのです。
なにせ彼は、享保7(1722)年に「日本宮」という磁器の収集館まで建設している。

エルベ川側から見た日本宮
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エルベ川側から見た日本宮


そしてアウグスト2世は、コレクションするだけでなく、自らも日本の有田焼に似た磁器を作りたいと考えるようになりました。
で、錬金術師のベトガーに、マイセンで磁器の開発に取り組ませたわけです。

なんとアウグスト2世は、開発した磁器の技法が城外に洩れないようにと、ベトガーをアルブレヒト城内に幽閉してしまっています。

おかげでベドガーは、城から出たくても出られない。
ついにベドガーは、廃人同様となり、マイセン窯誕生のわずか9年後に、37歳で亡くなってしまっています。
一説によれば、城外に愛する女性がいて、その女性と逢えなくなったことがつらくてたまらず、廃人になったという説もあります。
なにか、気持ちはわかる気がします。

いずれにせよ、絶対的な王権を用いてまで門外不出にした、それほどまでにアウグスト2世は、有田焼にこだわりました。

ちなみに、冒頭のマイセン焼きの絵皿ですが、よく見ると(写真が小さいのでわかりにくいかもしれませんが)中央の木から、なぜか竹が生え、その竹からも太い枝が出て、先っちょにバラのような花が咲いています。

あたりまえのことですが、木から竹は生えないし、竹に樹木のような枝はつかない。バラのような花が咲くこともありません。
竹は、もともとイネ科の植物で、アジアの熱帯から温帯に分布している植物です。
ヨーロッパにはありません。

当然、マイセンの職人さんたちは、当時、竹の実物を見ることはなかったでしょうし、見たことのない植物は正確に描けない。
おかげでマイセンの食器には、こうしたありえない絵柄ができあがっています。

要するに、初期の頃のマイセン磁器は、日本の有田焼の模倣からスタートした、ということです。

アウグスト2世の磁器への情熱は、単に「日本の有田焼のような美しい磁器を作りたい」という憧れだけでなく、当時のヨーロッパで熱狂的な高値で売買される磁器を、自らの手で作り上げれば、莫大な富が手に入るという考えにも裏打ちされています。

こうした思考は、自然とヨーロッパの貴族社会に伝播します。
列国の王侯貴族や事業家も、自分で磁器を作れば、莫大な富が手に入ると考えるようになり、ヨーロッパ全土で磁器生産への熱意が高まる。
 
有田焼の模倣品は、イギリスのチェルシー窯、ボウ窯、フランスのシャンティー窯など、次々と欧州各国に広がりました。

現在、ロイヤルコペンハーゲン(デンマーク)は、特に日本で人気のある磁器メーカーなのだけれど、藍色の唐草模様を付けたブルーフルーテッドシリーズは、どうみても有田焼の模様です。

ブルーフルーテッドシリーズ
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ブルーフルーテッドシリーズ


ヨーロッパにおける有田焼の技法は、いまでは、あまりに大規模に模倣されたために、その起源が日本にあることすら忘れられてしまっているほです。
それだけ、日本の文化がヨーロッパ磁器に大きな影響を及ぼしたということです。

ちなみに、石から焼く磁器の製造方法は、当然のことながら支那にも(日本でいう江戸時代に)伝播しています。
模造品を作って、格安で売るのは、古来変わらぬ支那人の習性です。
ただし、最近のものでもそうなのだけれど、支那産のこうした美術工芸品は、申し訳ないけれど品がない。
派手に過ぎるか、絵柄がぼやけていて、これまた大量に欧州に渡っているのだけれど、ひとついえることは、日本製が上物とされ、支那製のものは、あくまで東洋風の模造品という扱いです。

なぜ日本製の有田焼がヨーロッパで高級品として絶賛されたのか。
理由はもちろん白い磁器の美しさもあるけれど、それ以上に、そこに描かれた絵柄が、なにより決して権威主義的でなく、明るく可憐であることが挙げられます。
 
華美なようでいて、質素
質素なようでいて、華やか
簡単なようでいて、複雑

こうした磁器がなぜ日本で生まれたのかといえば、そこには品と調和を重んじる日本人の心があるからだと思うのです。
磁器に描かれる絵は、磁器の上という小さな世界に描かれた非現実の世界です。
描かれているもの、たとえば鳥や草花は、それぞれ現実の世に存在するものであっても、それが描かれるときには、非現実です。
つまり、現実として虚偽があるところに、非現実としての、芸術としての真実が生まれます。

そういう「芸術としての真実」は、単なる模倣や、コピー商品による儲け主義のところには、決して生まれません。
あくまでもそこには、生涯をかけて追求するという鉄の意思と、どこまでも調和のある美しさを求めようとする、品性からしか生まれない。

オリジナルと模倣の違いが、ここにあると思うのです。
その違いが、支那の磁器と日本の磁器の大きな違いになっています。

マイセンの陶磁器は、日本の模倣から出発して世界最高峰の芸術を築きました。
それができたのは、ゴッホと同じく、日本美を謙虚に学び、自らの美意識のなかで芸術としての真実を追究したからです。

逆に特アが古来変わらず、世界中の秀逸な物品を模倣しながら、逆にその品の品位を貶め続けるのは、彼らに謙虚さがなく、いたずらに批判と金儲けだけに走るからです。

昨今の日本に「2位じゃだめなんですか?」と言ったおバカがいたけれど、最高のものを追求するというのは、スパコンにしても工芸品にしても実用品にしても、仮に最初は模倣から出発したとしても、最後は、オリジナルな真実をどこまでも追求していく姿勢によってしか、なし得ない。
批判と儲け主義だけでは、世界も歴史も認めないのです。

謙虚さと、真実を追求する姿勢、そういう姿勢を育成しようとする、国家国民の共通の意思と仕組みが必要です。
マイセンも、国王の庇護のもとに模倣からはじめて、結果的に現代社会になっても、今なお続くマイセン・ブランドを構築しています。

あたりまえのことですが、民と官は、本来、対立する存在ではない。
互いに、協力しあい、相互に力を合わせて発展さえていくためのものです。

建設談合が良い例です。
公共工事に伴う建設談合があって、建設業者は、20%の利益が確実に保証された。
しかも支払いはお役所ですから、固い。
利益が一定割合で保証されているなら、業者間の競争は「利益以外の部分」での競争となる。
つまり、どれだけ「よりよい仕事をしたか」になる。
だから、上はゼネコンから、下は下請けに至るまで、みんなが「より良い仕事」をしようとし、結果として日本は世界最高ともいえる建設技術を育んだのです。

海外にいくとすぐにわかることです。
ビルのガラスに映った隣のビルの景色が、日本なら、まるで一枚モノのガラスと見まごうばかりにきれいに写っている。
海外では、影がバラバラに歪みます。

戦後日本は、外圧と左翼の煽動に負けて、日本的な仕組みを否定し、談合を廃止しました。
結果、建設は儲からない仕事となり、利益を出すためには、下請けを叩くか手抜き工事するしかなくなり、人件費を浮かせるために外国人の素人作業員を雇われるようになって、日本人の職場が奪われ、かつての職人気質さえも、いまやほんの一握りの頑固者達が命がけで守っているだけのものとなりつつあるといわれています。

要するに日本の質が下がった。

道徳的に高い価値観を持ち、優れた社会システムを持った日本は、何も外国人のいいなりになって自ら品位を貶める必要など、まるでないのです。
すべてを受け入れる。
そしてみんなで工夫をしながら、それをより高次元なものに昇華させていく。

私達は、戦後日本が否定してきた一切のことを、いまあらためて再考すべきときにきているように思います。
 

『吉田調書』を褒めたたえる『新聞労連』の図太過ぎる神経を哀れむ

■沖縄2紙に新聞労連ジャーナリズム大賞
沖縄タイムス 2015年1月9日

新聞労連は9日、平和・民主主義の確立に貢献した記事などを表彰する第19回新聞労連ジャーナリズム大賞を発表し、沖縄タイムスと琉球新報の「基地移設問題と県知事選などをめぐる一連の報道」が大賞を共同で受賞した。

沖縄タイムスが受賞したのは
連載「新聞と権力」、
「知事選をめぐる一連の社会面企画」、
連載「日米同盟と沖縄 普天間返還の行方」
の3企画。

琉球新報は
「『普天間・辺野古問題』を中心にこの国の民主主義を問う一連の報道キャンペーン」。

選考委員はルポライターの鎌田慧氏ら4人。

「取材の蓄積に裏打ちされた奥深さや、一貫したぶれない姿勢が感じられた。
地元の視点にこだわった検証記事には特に迫力があった」
と講評した。

特別賞には、朝日新聞の「原発吉田調書をめぐる特報」を選んだ。

「応募はなかったが、昨年一番のスクープ。
隠蔽(いんぺい)された情報を入手して報じた功績は素直に評価すべきだ」
とした。

その他の表彰は次の通り。

優秀賞=特定秘密保護法成立後の一連の報道(北海道新聞)、
子どもの貧困をめぐる一連の報道(宮崎日日新聞、下野新聞)
疋田桂一郎賞=村松の少年通信兵(新潟日報)


サルメラ:
「原発吉田調書をめぐる特報」
に特別賞?
讃えるのか(笑)。

世間の一般常識にケンカ売ってんのか、
って、思えるくらいに図太い。
朝日新聞 自身が謝ってる記事なのに・・・

って言うか、
そんなあざといこと、せねばならぬほど、存在意義がなくなってること、自分らでわかっちゃってるのか、
労組(=左翼)は・・・
むしろ、哀れをそそる(笑)。


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転載元 ぼやきくっくり

■「逃げたとは書いていない」
「強制連行とは書いていない」
朝日知識人の騙しの論理!
「WiLL」2月号より

「WiLL」2015年1月号と2月号に、櫻井よしこさんと山田厚史氏(元朝日新聞編集委員)の討論が掲載されました。

テーマは朝日新聞。
1月号(昨年11月26日発売)は慰安婦報道について。
2月号(昨年12月19日発売)は「吉田調書」報道が中心。
 
4時間分の討論を2カ月に分けて掲載しているようです。

1月号の慰安婦報道の討論も山田氏は何だかなーでしたが、2月号の吉田調書ではもっとひどい。
櫻井さんが怒りの大きさが字面だけ見ていても伝わってきます。

山田氏は櫻井さんのツッコミにいちいちムッとして反論するのですが、結果、ますます朝日の問題点がさらけ出されるという自爆状態。

一部書き起こします。



山田
記事そのものについては、取り消しに値するような誤りはなかったと私は思っています。
たしかに「所長命令に違反 原発撤退」という見出しは誤解を招きましたが、内容は事故で指揮系統が乱れて所長の指示に反する集団行動が起きてしまった、という事実を書いたものです。

あの記事を書いた特別報道部の記者とデジタル委員は、『福島原発事故東電テレビ会議49時間の記録』(岩波書店)という資料的にも価値のある本を出版するなど、これまでも地を這うような丹念な調査報道を行ってきた非常に優秀な記者です。

櫻井
あの記事は、記者の反原発イデオロギーに沿う形で書かれたものであるとの疑惑を強く抱かざるを得ません。
同じ日の二面に、担当記者が「再稼働論議 現実直視を」として次のように書いています。

「暴走する原子炉を残し、福島第一原発の所員の9割が現場を離脱したという事実をどう受け止めたら良いのか」

「吉田氏は所員の9割が自らの待機命令に違反したことを知った時、『しょうがないな』と思ったと率直に語っている」

「命令違反」で「現場を離脱した」無責任な東電社員や下請け企業の従業員は信用できず、彼らが動かす原発の再稼働など絶対に許さない、という強い意思が読みとれます。

山田
櫻井さんがおっしゃるような「無責任な東電社員や下請け企業の従業員は信用ならない」など、記事にはどこにも書いていませんよ。
記者は別に反原発イデオロギーを持っているわけでも、そんな思いであの記事を書いたわけでもない。
記事の趣旨は、原子炉を制御する電力会社の社員が現場からいなくなる事態が十分に起こりうる。
その時、誰が対処するのか。
当事者ではない消防や自衛隊なのか。
特殊部隊を創設するのか。
それとも米軍に頼るのか。
現実を直視した議論が行われないまま原発を再稼働していいのか、ということです。

櫻井
山田さんのおっしゃることは朝日知識人の典型的な騙(だま)しの論理で、私はいま、お話を伺っていて正直、腹が立ちました。
たしかに言葉のうえだけを見ると、「東電は信用ならない」とは書いていないかもしれません。
しかし紙面全体を読めば、明らかに「東電は信用ならない。そんな彼らが動かす原発など絶対に許してはならない」との印象を受ける書き方をしています。
九割が現場から逃げたという…。

山田
「逃げた」なんて書いていないじゃないですか。
この記事にどこにそう書いてあるんですか。

櫻井
朝刊の一面トップで「所長命令に違反 原発撤退」「福島第一所員の9割」、
二面では「葬られた命令違反」などの見出しを大々的に掲げ、
「11年3月15日朝、第1原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第2原発へ撤退していた」と書いた。
事実上、「逃げた」と紙面全体で言っている。
山田さんは言葉の字面だけを追って「書いていない」とおっしゃいますが、これは極めて悪意のある印象操作だと断じざるを得ません。

山田
それは印象であって、印象で人を批判するのはよくない。
書かれた記事の内容にどこか間違いがあるのですか。

櫻井
間違いだらけではないですか。

山田
書いてある事実のどこが間違っているのですか。
九割が吉田所長の命令に違反して撤退した、というのが間違いなのですか。

櫻井
彼らは戻ってきているではありませんか。
撤退などしていません。
たしかに「吉田調書」を読むと、吉田所長は
「私は、福島第一の近辺で、所内に関わらず、線量の低いようなところに一回退避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2F(第2原発)に行ってしまいましたと言うんで、しょうがないなと」と述べています。

山田
あとで述べますが、ほとんど戻ってきていませんよ。

――退避と撤退は違います。

櫻井
だから吉田所長は、同時に次のようにも述べています。

「2号機が一番危ないわけですね。
放射能というか、放射線量。
(多くの所員が詰めていた)免震重要棟はその近くですから、ここから外れて、南側でも北側でも、線量が落ち着いているところで一回退避してくれというつもりで言ったんですが、確かに考えてみれば、みんな全面マスクをしているわけです。
それで何時間も退避していて、死んでしまうよねとなって、よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しいと思ったわけです」

所員が第二原発に行ったことをむしろ評価しています。
それを朝日の記事は意図的に書かなかったのではないか、と私は思っています。

◆「撤退」と「一時退避」

山田
吉田所長が「よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しい」と言ったのは結果論であって、事後承認ですよ。
九割が第二原発に行ってしまったあとの話で、結果的に作業員の一部が帰ってきたのは事実ですが、戻ってこられない事態に陥ったかもわからない。

櫻井
それは仮定の話であって、私はいま現実の話をしています。
吉田所長は調書のなかで、
「逃げていないではないか、逃げたんだったら言えと。
本店だとか官邸でくだらない議論をしているか知らないですけども、現場は逃げてないだろう」
と憤然と語っています。
所員が自分の命令に違反して撤退したなどとは、吉田所長は全く考えていない。

山田
しかし、吉田所長が「よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しい」と考える以前は、東電本社も吉田所長も第二原発に行くという計画を立てていたわけです。
これは撤退ですよね。

櫻井
山田さんは「撤退」という言葉をどのような意味で使っているのですか。
撤退というのは「陣地や拠点を引き払って退くこと」であり、もう戻ってこないという意味が含まれる。
しかし先ほども申し上げたように、実際には東電の職員や下請けの人たちは福島第一に戻ってきて、懸命に復旧活動に従事したではありませんか。
したがって、正確には一時退避と言うべきだというのが私の考えです。

山田
対策本部を福島第二に移すことを、所長名で国に通報しています。
対策本部を移すことは撤退と言えます。
原発が深刻な事態に陥り、ここにはいられないとなって九割が第二原発に行こうとしたことは事実であり、実際にそのようになった。
これは撤退ではないのですか。

櫻井
原子炉のオペレーションや復旧作業のために最低限、必要な人員を残して、あとの原発の操作に直接関係のない他の職員や作業員を第二原発に退避させることが考えられてはいました。

山田
原発の操作に関係のない人なんていませんよ。

櫻井
女性職員を含む総務、広報、人事などのホワイトカラーの人たちが、免震重要棟には大勢いました。
その人たちを第二原発に退避させなければいけない状況が続いていた。

<中略>

◆作業員の頑張りと教訓

櫻井
吉田所長が第一原発近辺で退避せよと言ったことに関して申し上げれば、ここで重要なことは、東電の職員や原発の作業員がいかにして自分たちの身を守るか、その目的は何かということです。
なにも朝日が主張するように「逃げようとした」のではなく、むしろ彼らが考えていたことは、あの大変な事故のなかでどうすれば自分たちの責任を全うできるか、ということですよ。
そのために、いかにして自分たちの身を守るかを考えていた。

山田さんは、本部長である吉田所長の言ったことがきちんと下まで伝わらない体制では危機に対応できない、だから朝日の記事は正しいという論理構成をとっています。
命令が行き渡らずに九割が第二原発に行ったことがダメだということですが、彼らは第二原発に退避するのが最善だと判断し、その後、戻ってきて復旧作業に従事している。
これは逃げたわけでも撤退したわけでもなく、一時的に退避したことを意味しています。

それを朝日は「所長命令に違反 原発撤退」「福島第一所員の9割」と書いた。東電の職員や下請け企業の作業員の事故に対する懸命な取り組みを、朝日は全くと言っていいほど考慮していません。

山田
そんなことはありません。
それは印象判断です。
記事に「逃げた」など、ひと言も書いていない。

櫻井
吉田所長は調書のなかでくり返し、作業員の勇気を讃えています。
三号機の爆発直後、所員を危険な現場に送り出さざるを得なかったときのことです。

「注水の準備に即応してくれと、頭を下げて頼んだ。
本当に感動したのは、みんな現場に行こうとするわけです」

事態の収束に向けて真面目に事に当たった現場の作業員の頑張りを、朝日は書いていますか。

山田
記事とは事態の一側面、重要と思う事実を書き出すものです。
だけれども、あの修羅場ではみんな散り散りになって、結果的に九割の人たちが吉田所長の指示に反した動きを取ってしまったということが起きた。
そのことを大きな教訓にしなければいけない。
戦争と同じです。

志があったりなかったり、いろいろな人がいますが、深刻な事態が起きたときどうなるか。
下手をすれば死者が出てしまう。
そうした大変な事態が、原発には起きる危険性がある。
そのことをきちんと議論していないのに再稼働の話を進めるのはおかしい、と記事は言っているんです。

櫻井
吉田調書は、A4判で四百ページという膨大な量です。
そこには多くの重要証言が含まれていますが、なぜ朝日はある一部分だけを、それも現場取材による確認をすることなく取り上げたのか。
この朝日の手法は歪曲報道の典型だと言えます。
全体像の一部を切り取ってそこだけを拡大して報道すれば、事実とかけ離れた内容になり得る。
記者の側に何らかの意図があり、イデオロギーが先に立った記事であると疑うのは当然です。

山田
新聞記事はある事実を選び取り、記事にしていくものです。
意図やイデオロギーなどで記事を書く記者などいません。
記事は何も、東電を責めたり撤退した人たちを悪く言っていない。
あくまでも事実を書いている。

櫻井
悪く言っているではないですか。
私は福島第一原発にも第二原発にも取材に行きました。
何人もの東電の職員や原発作業員の人たちと会いました。
彼らはこの朝日の記事を読んで、悔しさのあまり泣いたと言いました。
本当に許せないという彼らの激しい怒りを感じましたよ。

山田
書かれた事実が気に入らないからと、感情で反論されても困ります。
東電が良いとか悪いとかそういう話をしているのではなくて、繰り返しますが、原発は事故が起こると収拾のつかないことが起きる。
所長の命令に違反するような行動が起きてしまう。
そうした時、誰が事態の収拾にあたるのか、もっと議論をしないとダメだということを言っているんです。

◆記者を生贄にする経営陣

櫻井
朝日報道によって、国際社会の評価は一変しました。
原発事故に対処した人々は、それまで困難なミッションに果敢に立ち向かった勇気ある人々として世界中で賞賛されていたのが、「実は逃げていた」「福島の原発事故は日本版セウォル号だった」などと蔑まれたのです。

山田
海外メディアはきちんとした取材をしたのでしょうか。

櫻井
何も取材をせずに朝日の記事を読んだ外国の記者でさえ、先に述べたような受け止め方をしたことの意味は非常に大きいと思います。

山田
それなら海外メディアにそう言ってください。
朝日が書いたことは取り消さなければならない記事だとは、私には思えません。
たしかに「命令違反」というタイトルはきつい表現だったかもしれない。
しかし内容は事実を書いている。
木村社長が記者会見して詫びる話でも、記事を取り消す話でもありません。

木村社長もPRC(報道と人権委員会)も、
「命令違反とは命令が伝わっていたのにこれに逆らう行動を指すもので、命令が伝わっていなかったのだから命令違反とはいえない」とか
「違反する意思がなかったのだから違反ではない」などと言っていますが、滑稽ですよ。
普通だったら頑張っている現場の記者を擁護すべき経営陣が、謝罪する口実に記者を生贄(いけにえ)に捧げて自分たちが逃げる理屈合わせをしている。

一番槍を持って前線で頑張っている兵士を置き去りにして大将が一目散に逃げるようなもので、こんなことをやっていたら頑張る記者は誰もいなくなってしまう。

本来なら、慰安婦報道で謝罪し、池上彰氏のコラム掲載拒否問題で責任を取るべき社長が、不手際を認めたくないあまり、自分たちの関与が少ない吉田調書の記事を口実に謝罪した、というのが顛末(てんまつ)ではないかというのが私の見立てです。

櫻井さんは批判されるかもしれませんが、調査報道に一所懸命取り組む優秀な記者をもっと大切にしなければならない。

櫻井
この記事を書いた記者が優秀な記者なら、朝日新聞はもう絶望的です。
言論活動をする者にとってはある一つの事象も重要ですが、物事の全体をカバーして事実を正確に伝えるのがメディアとしての最低限の責務です。
ところが、それすらできていない。
そんな記者が優秀な記者だとは私は思いません。

山田
記事は結果として「命令に反する行動」があったことを書いたもので、解釈の問題です。
取り消すような内容ではありません。
そもそも新聞社であればまず「訂正」であって、「取り消す」などというのは新聞社の発想ではない。
記事はそんな軽いものか、と本当に怒りが込み上げてきました。

いま、朝日はどう思われているか。
「記事なんてはじめにシナリオありきで、取ってつけた取材で書かれているんだろう」というような印象を持たれてしまっている。
そんなことはない。
信頼を取り戻そうと現場の記者が頑張っているときに、経営者が自分たちが逃げるために部下を差し出して
「そうです。こいつらダメな記者で、いつも思い込みで書いていて取材もろくにしていないんです」
と、朝日を批判する側に同調した。
現場はやっていられませんよ。
本当に情けない気持ちでいっぱいです。

◆ジャーナリズムの自殺行為

櫻井
朝日の記事を読むと、あらかじめ考えたシナリオどおりに書いていると思われる記事が日常茶飯にあります。
これだけは明確に指摘しておきたいと思います。

山田
朝日には本当に頑張っている記者もいる。
真面目な記者をきちんと評価して守るべき時に、「頑張っても無駄なんだ」という方向にどんどん持って行ってしまっている。
ジャーナリズムの危機です。
記事を書いた記者を処分するようなことがあれば、それこそ朝日新聞は死ぬと思っています。

――山田さんは、朝日の慰安婦検証記事を批判した池上彰氏のコラムを朝日が掲載を拒否したことが最も重大な問題だ、と主張されています。

山田
そうです。
私はあの一件が、朝日の失態のなかで一番罪深いと思っています。
「排除の論理」だからです。
櫻井さんに「朝日新聞は廃刊しなさい」と言ってほしくないのは、世の中は違う意見を認めるということが前提にあるからです。
憎らしいことや納得できないことがあっても耳を傾けなければいけないし、議論をしていかなければならない。

朝日新聞は、これまで排除の論理はよくないと訴えてきました。
その朝日が自社に厳しい異なる意見を排除してしまった。
自分たちが絶対にやってはならないと主張し続けてきたことを、あろうことか朝日自身が行った。

現場のオピニオン編集部は掲載する方向で進めていたのに、十五階(経営陣)がダメだと掲載拒否を命じた。
木村社長は記者会見で「自分の感想を言っただけ」で杉浦氏に任せたと逃げましたが、杉浦氏がミスジャッジをしたのなら任せた木村社長の責任だって当然、問われる。
二重三重にお粗末なことをやっていて、そのしわ寄せが吉田調書の記事に来ているのです。

たしかに吉田調書に関しても、いろいろな議論はあります。
しかしあの記事を全面的に取り下げて、社長が「記者の思い込みでやった」とか「取材が不正確だった」などと罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせ、かつ自分たちと同じような意見をPRCの偉い先生方に言ってもらって記者を糾弾する。
心底憤りを覚えます。
あんなことをやっていたら、櫻井さんのおっしゃるように朝日は本当に廃刊、となってしまう。

櫻井
池上彰氏のコラム掲載拒否は私もジャーナリズムの自殺行為だと思っていますが、その前に私が「朝日は廃刊せよ」と言った理由を正確に申し上げておきたいと思います。

私は、言論の自由は100%認める立場です。
異なる意見の人とも対話をします。
ただし、言論の自由を認めることと、嘘をついて捏造や歪曲報道をする自由は全く異質な問題です。
そのことが理解できていない朝日新聞は、やはり廃刊すべきだと言ったのです。

山田
朝日にも一部は誤ったところがあったとしても、それを上回る良いところがあると私は思っています。

櫻井
良いところが全く感じられないから朝日はダメだ、と申し上げているのです。

山田
櫻井さんがそのようなお考えであるということは、前回(本誌一月号)と今回の討論を通じてよく分かりました(笑)。
ただ、印象ではなく事実で批判して下さい。

<以下略、書き起こしここまで>


この後、討論は、朝日新聞問題を軸にし、日本のジャーナリズムの問題へと移ります。

櫻井さんが、朝日の特徴は「イデオロギーの影があまりにも濃く全面に出るということ」だと主張。

しかし、ここでも山田氏は「そんなイデオロギーを持った根性のある記者なんていませんよ(笑)」。

それに対し、櫻井さんは、戦後の歴史を見ると、朝日はイデオロギー(共産主義)に凝り固まるあまり、事実を見ず、歴史の転換点でことごとく間違えてきたことを指摘。

具体的には、全面講和の主張、安保改正反対、北朝鮮礼賛、中国の文革礼賛、ベトナム戦争での反米、日教組支持、歴史教科書への反日的記述の肩入れ、「南京大虐殺」虚偽報道、PKO法案反対、等々。

これに対する山田氏の反応が、何とこう。

「そうでしょうか。
権力が暴走していくのをぎりぎりで止める大きな役割を(朝日新聞は)果たしてきたと思います」

討論の最後にはこんな発言も。

「朝日がなくなったら、日本は相当歪(いびつ)になると思います」

この間違ったエリート意識が改善されない限り、朝日は駄目でしょうね。


悪いけど、誰が見てもイデオロギーでやってますよ、朝日は。

吉田所長や現場の職員らを取材した門田隆将さんは、朝日の吉田調書報道から約2カ月後、ご自身のブログ7月25日付にこう書いています。

《朝日新聞だけは、現場取材の痕跡がない。
「ひょっとして朝日は現場に取材もしないまま、あの記事を書いたのではないか」
と、どうしても疑ってしまうのである。

現場を取材する他紙の記者たちの中にも、今は、あの時の “現場の真実” を知っている記者たちが多くなってきた。

彼らは、今回の朝日の「吉田調書」キャンペーンには、実に冷ややかだった。
そこには、裏取りが不完全なまま「9割の人間が逃げた」と書いてしまう同業者に対する諦めと怒りがあるように私には思えた。》
(くっくり注:
9月11日、朝日新聞は会見で現場取材を怠ったことを認めました)

《従軍慰安婦報道をはじめ、日本と日本人を貶める報道をつづける朝日新聞にとっては、それはそれで「目的は達せられた」のかもしれない。
しかし、自らのイデオロギーに固執し、そのためには世論を誘導することも、また真実とは真逆の記事を書いても良しとする姿勢には、同じジャーナリズムにいる人間にとって、どうしても納得ができない。》

門田隆将さんは産経新聞8月18日付への寄稿でもこう述べています。

《朝日新聞が、この吉田調書をもとに「所員の9割が所長命令に違反して撤退した」と書いたことが信じられない。
自分の命令に背いて職員が撤退した、などという発言はこの中のどこを探しても出てこない。》

《職員の9割は吉田所長の命令に “従って” 2Fに退避しており、朝日の言う “命令に違反” した部分など、まったく出てこない。》

《事実と異なる報道によって日本人をおとしめるという点において、先に撤回された慰安婦報道と図式がまったく同じではないか、と思う。
なぜ朝日新聞は事実を曲げてまで、日本人をおとしめたいのか、私には理解できない。》

朝日はこの寄稿について門田さんに「謝罪と訂正記事の掲載」を要求し、それをしない場合は「法的措置を検討する」という内容の抗議書を送りましたが、9月11日の謝罪会見の翌日にそれを撤回、謝罪する意思を示しました。

また、これは吉田調書ではなく慰安婦報道の方ですが、第三者委員会の岡本行夫委員がこんな「個別意見」を述べています。
(2014年12月22日に出された報告書要約版 P.34~)

《当委員会のヒアリングを含め、何人もの朝日社員から「角度をつける」という言葉を聞いた。
「事実を伝えるだけでは報道にならない、朝日新聞としての方向性をつけて、初めて見出しがつく」と。
事実だけでは記事にならないという認識に驚いた。

だから、出来事には朝日新聞の方向性に沿うように「角度」がつけられて報道される。
慰安婦問題だけではない。
原発、防衛・日米安保、集団的自衛権、秘密保護、増税、等々。
方向性に合わせるためにはつまみ食いも行われる。

(例えば、福島第一原発吉田調書の報道のように)。

なんの問題もない事案でも、あたかも大問題であるように書かれたりもする。

(例えば、私が担当した案件なので偶々記憶しているのだが、かつてインド洋に派遣された自衛艦が外国港に寄港した際、建造した造船会社の技術者が契約どおり船の修理に赴いた。
至極あたりまえのことだ。
それを、朝日は1面トップに「派遣自衛艦修理に民間人」と白抜き見出しを打ち、「政府が、戦闘支援中の自衛隊に民間協力をさせる戦後初のケースとなった」とやった。
読者はたじろぐ)

新聞社に不偏不党になれと説くつもりはない。
しかし、根拠薄弱な記事や、「火のないところに煙を立てる」行為は許されまい。

朝日新聞社への入社は難関だ。
エリートである社員は独善的とならないか。
「物事の価値と意味は自分が決める」
という思いが強すぎないか。

ここでは控えるが、ほかにも「角度」をつけ過ぎて事実を正確に伝えない多くの記事がある。
再出発のために深く考え直してもらいたい。
新聞社は運動体ではない。》


櫻井さんとの討論における山田厚史氏の発言は、まさに「物事の価値と意味は自分で決める」を地で行っていると思います。

一方で、実は変わり身も早かったりするんですよね。

櫻井さんの「記事に『逃げた』と書いてなくても、事実上、『逃げた』と紙面全体で言っている」という指摘に対し、山田氏は、

「それは印象であって、印象で人を批判するのはよくない」
「それは印象判断です。記事に『逃げた』など、ひと言も書いていない」

と言っておきながら、2014年9月26日(実際は日付変わった27日)の「朝まで生テレビ!」に出演した際は、このように発言していました。


●くっくり @boyakuri
山田厚史(元朝日)
「別に逃げたとかじゃなく、事故の時は指揮命令系統が目茶苦茶になってこんな事が起きたんだと、所長命令が伝わらずにそれに反したことが起きたと書いただけ。
全体のトーンは逃げたという風に受け取られるかもしれないが(ブーイング)」
あんたが目茶苦茶や #asamadetv
2014年9月27日


「全体のトーンは逃げたという風に受け取られるかもしれないが」

おまえ、どっちやねん(笑)

「WiLL」の誌上討論が行われた日と「朝生」、時系列でどちらが先かは分かりません。
ただ、どちらが先でもそんなに期間は空いてないと思います。

ちなみに山田氏はこの日の「朝生」で、他にも噴飯物の発言を繰り返していました。
(いずれも慰安婦報道について)


●くっくり @boyakuri
山田厚史(元朝日)
「テレ朝が吉田清治証言 流したらダメなの?」
山際
「90年代この番組で証言流してる。秦先生の済州島調査で嘘が明らかになってる。西岡力さんが抗議した。なのに訂正してない」
山田厚史(元朝日)
「産経も吉田を93年9月に取り上げた」
また「悪いのは朝日だけじゃない論」!
2014年9月27日


●くっくり @boyakuri
山田厚史(元朝日)
「確かに朝日は悪いが他社も乗った。捏造というより騙された」
また「悪いのは朝日だけじゃない論」
いい加減にして下さい。#asamadetv
2014年9月27日


●くっくり @boyakuri
山田厚史(元朝日)
「朝日新聞を批判するように、外務省や政府を批判するべき」
また、責任転嫁ばかりしますね、この人。
2014年9月27日



こんなふうに論点をすりかえて批判をかわそうとするのも、朝日知識人の特徴ですね。

そういや、「女子挺身隊=慰安婦」
“誤報” をした元朝日新聞記者の植村隆氏も、最近、山田氏と似たようなことを言ってましたっけ。


「文藝春秋」2015年1月号(12月10日発売)に寄せた手記で、植村氏はこう書きました。

《 「『女子挺身隊』の名で 」 は、決して、「『女子挺身勤労令』によっての連行 」 ということを意味したものではなかった。
植村は記事では、「 だまされて慰安婦にされた 」 とはっきり書いており、強制連行とは書いていない》

問題の1991年8月11日の記事、書き出し部分はこうです。

《日中戦争や第二次大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、1人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)が聞き取り作業を始めた。》

普通に読解力のある人がこれを読めば、誰でも「強制連行」と受け取りますよ。

それでなくても当時、朝日は社説その他でも「強制連行」「強制連行」と書きまくっていたんですから。

山田厚史「逃げたとは書いていない」

植村隆「強制連行とは書いていない」

……いい加減にしろ!!(#゚Д゚)



●くっくり @boyakuri
朝日新聞記者会見・社長冒頭コメント
「一人ひとりの社員が多様な社会の人々とのかかわりをより広く、より深くできれば、報道をさらに進化させられると考えます」

記事に「角度」つけてる限り無理。
2015年1月5日

『植村弁護団170名』の薄気味悪さ

■元朝日記者、文春などを提訴
「慰安婦報道で名誉毀損」
朝日新聞 2015年1月10日
慰安婦問題の記事を書いた元朝日新聞記者の植村隆氏(56)=北星学園大非常勤講師=が、「記事は捏造(ねつぞう)だ」との批判を繰り返され名誉を傷つけられたとして、西岡力・東京基督教大学教授と週刊文春を発行する文芸春秋に計1650万円の損害賠償などを求める訴訟を9日、東京地裁に起こした。

訴状によると、植村氏は1991年、韓国の元慰安婦の証言を記事化。
8月に「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」、
12月に「かえらぬ青春 恨の半生」などの見出しで掲載された。

これらの記事について西岡氏は雑誌などで、
①「女子挺身(ていしん)隊の名で連行された」と書いているが、その事実はなく、経歴を勝手に作った

②元慰安婦がキーセン(妓生)の育成学校にいた経歴が書かれておらず、身売りされて慰安婦になった事実に触れずに、強制連行があったかのように書いた

③植村氏の義母は、元慰安婦らが日本政府を訴えた裁判の韓国の支援団体幹部で、結果的に裁判が有利になる捏造記事を書いた、

などと指摘した。

週刊文春は昨年、「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」との見出しの記事などを掲載した。
「捏造記事と言っても過言ではない」との西岡氏の発言も載せた。

訴状で植村氏側は、
①当時の韓国では慰安婦を指す言葉として「女子挺身隊」が用いられていた

②キーセン学校に触れなかったのは、慰安婦になったことと直接関係がなかったため

③取材の端緒はソウル支局長からの情報であり、指摘された事実はない、

などと主張。

「捏造といういわれなき中傷を流布され、これに触発された人々から『言論テロ』とも言うべき激しいバッシングを受けた」とした。

植村氏の記事について、朝日新聞社の慰安婦報道を検証した第三者委員会は昨年12月、
「縁戚関係者を利する目的で事実をねじ曲げた記事が作成されたとはいえない」
とした。

一方、「強制的に連行されたという印象を与え、安易かつ不用意な記載があった」などと指摘した

◆「家族への攻撃耐えられない」
「家族がまきこまれるのは耐えられない」。
23年前に自分が書いた2本の記事が「捏造(ねつぞう)」と批判され続け、家族や周辺まで攻撃が及ぶ。
9日、東京・霞が関で記者会見した植村隆氏は苦しい心中を明かした。
「私の人権、家族の人権、勤務先の安全を守る」と訴えた。

植村氏は、西岡力氏と週刊文春が自身の記事を集中的に取り上げるのは「狙い撃ち」だと批判。

17歳の長女の写真がネット上にさらされ、「売国奴の娘」「自殺に追い込む」などと中傷されている状況に触れて、
「悔しくてならない」
「まるで白いシーツに黒いしみが広がっていくような気持ちでつらい」
と話した。

今回、代理人に170人近い弁護士が名を連ね、札幌地裁でも名誉毀損(きそん)訴訟を起こすという。
植村氏は「私は捏造記者ではありません。不当なバッシングには屈しません」と語った。

週刊文春編集部の話:
記事には十分な自信を持っている。

西岡力・東京基督教大学教授の話:
訴状を見ないと詳しいことは分からないが、私が書いていることは、憲法が保障する「言論の自由」の中だと思っている。
言論同士で論争すればよいと思うのに、裁判を起こされたのは残念だ。



■植村隆さん提訴
「私は捏造記者ではない」
~ 歴史修正主義者への反撃はじまる
転載元 レイバーネット

1月9日、慰安婦捏造とバッシングを浴びていた元朝日記者・植村隆さんが東京地裁に「名誉毀損裁判」を起こした。
植村さんは、「週刊文春」および西岡力氏によって捏造記者とされ、社会的信用を傷つけられ、個人攻撃を浴びたとして、両者に記事の訂正・謝罪・損害賠償を求めている。
弁護団は170名で
「これは植村個人の問題でなく、日本の民主主義・言論の自由がかかっている大問題」
と全国の弁護士が結集した。

提訴後の報告集会が午後5時から、参院議員会館講堂で開催された。
たくさんの市民がかけつけ、会場を急遽変更したが、300人近い人が詰めかけた。

「私の人権、家族・友人の人権、北星の仲間を守るために提訴した」。

植村隆さんは、提訴にいたった経緯と決意を時には涙を浮かべながら、じっくり語った。
話おわると激励の拍手が鳴り止まなかった。

報告集会で植村さんは、当時の記事の現物を示して、書いた記事はけして捏造ではなく、「週刊文春」が西岡力氏のコメントを使って意図的にフレームアップしたことを具体的に反論した。

「私が1991年に書いた記事では、はっきりと “だまされて慰安婦にされた” と書いています。
強制連行があったかのような記事は書いていません。
しかし、西岡氏はそれには触れずに “捏造” と決めつけました。
また当時は “女子挺身隊” と “慰安婦” の混同・誤用はどこの社でもあったことです」
などと述べ、おおすじで間違った記事ではなかったと強調した。
ちなみに、植村さんは朝日が誤報と認めた吉田証言に基づく記事は一本も書いていない。

筆者が一番関心をもったのは、家族まで標的にされ、犯罪者扱いされ、あれだけのバッシングを浴びながら、裁判提訴に立ち上がった植村さんの心境の変化だった。
報告集会で発言した「北海道新聞」の記者の話によれば、北星学園大学もバッシングの中で、2015年の「雇い止めはやむなし」が学内の大勢の意見になっていた。
それが、12月17日に「雇用継続」という大決断をしたわけだが、そうした動きをつくりだしたのは、市民の声・市民運動の力だったという。
北海道新聞の記者はこう語っていた。
「朝日がバッシングにあってから大手のマスコミはひるんでしまった。
植村さんへのひどい脅迫の事実も知っていたが、恐くてどこも書かなかった。
ジャーナリズムが植村さんを見殺しにしていたのだ。
それを救い変えたのは市民たちだった」。

当初、北星学園大学には800通近くの脅迫めいた「植村やめろメール」が届いていた。
そのとき植村応援メールはわずか10通だった。
それを知った市民の間から、応援メールの呼びかけが全国に広がり、たくさんの応援が寄せられるようになった。

また、10月6日に弁護士・学者・市民が中心になった「負けるな北星の会」がつくられ活動を開始した。
これらの動きが北星学園大学の「雇い止めやむなし」の雰囲気を変えていったのである。

また、植村さんの心境の変化に最初の火をつけたのは、狭山事件の主任弁護士でもある中山武敏弁護士だった。
北海道で10月に会ったときに中山弁護士は植村さんに
「一緒にたたかおう。
この問題は植村さんだけの問題ではない。
日本の民主主義の問題だ」
と語りかけたという。
「暗闇の中に光が見えた」
と植村さんは、そのときの感動を語った。

植村さんは娘がネットに顔写真をさらされて攻撃された話では、涙声になった。
「私は攻撃されても仕方がない。
でもなぜ関係のない家族をやるのか。
気丈な娘で平気を装っていたが、弁護士から事情を聞かれたとき初めてボロボロと涙をこぼしたのを見た。
本当はつらかったんだな……」。
植村さんの言葉が詰まった。

名誉毀損を訴えた相手は、「週刊文春」と西岡力氏。
植村さんは実際に脅迫をした人間よりそれを扇動したジャーナリズムの責任を問うている。

「今回の脅迫・バッシングを誘発したのはこの両者のフレームアップの記事である。
これは言論テロである。
かれらには法的責任をとってほしい。
それを司法の場で証明したい。
そうすれば北星への攻撃もなくなる」。そして話の最後はこの言葉で締めた。

「私は捏造記者ではありません!
不当なバッシングには屈しません」。
会場から長い拍手が続いた。

その後、集会では、激励のリレートークが16人からあり、問題の本質が浮かび上がってきた。

「名乗り出た慰安婦の名誉をまもるたたかい」
「日本軍慰安婦をなきものにし、侵略の歴史を改ざんしようとする歴史修正主義者たちとたたかい」
「問題の根っこは朝日攻撃。
朝日の政権批判をつぶしたい安倍政権の狙いがある」。

植村さんのたたかいは、歴史を修正し、戦争できる国にむけて日本を強引にねじ曲げていこうとする安倍政権に歯止めをかけるたたかいでもあった。(M)


サルメラ:

《その後、集会では、激励のリレートークが16人からあり、問題の本質が浮かび上がってきた。

「名乗り出た慰安婦の名誉をまもるたたかい」
「日本軍慰安婦をなきものにし、侵略の歴史を改ざんしようとする歴史修正主義者たちとたたかい」
「問題の根っこは朝日攻撃。
朝日の政権批判をつぶしたい安倍政権の狙いがある」。

植村さんのたたかいは、歴史を修正し、戦争できる国にむけて日本を強引にねじ曲げていこうとする安倍政権に歯止めをかけるたたかいでもあった。》

左翼らしい問題のすり替えだ(笑)。

「『言論テロ』との戦い」……?
どっちが(笑)。

言論に対し、司法に訴える考え方は、まるでサンケイ新聞を訴えた韓国当局と同じに見えるが・・・(笑)。

まあ、かの国と違い、日本の司法は感情で事実をねじまげようとしないから、むしろ、とことん法廷で注目集めて国内外に、ことのあらましを伝播してくれるなら、その方がいい。

それにしても、何の集会?って、聞き直したくなる盛り上がりだ(笑)。



■「ジャーナリズムは植村さんを見殺しにした」
脅迫事件の取材記者が「報道の鈍さ」指摘
弁護士ドットコムニュース 2015年01月11日

1991年に韓国人慰安婦の証言を初めて報道した元朝日新聞記者の植村隆氏が1月9日、雑誌の記事で「捏造記者」と書かれたのは名誉毀損だとして、文藝春秋と東京基督教大学の西岡力教授に損害賠償を求める訴訟を起こした。
同日の夕方、東京・永田町の参議院議員会館では、支援者による集会が開かれた。

約250人の参加者からは、植村氏を激励する発言があいついだ。
北海道新聞の長谷川綾記者は、植村氏が非常勤講師をつとめる北星学園大学(札幌市)への「脅迫事件」について、
「ジャーナリズムは植村さんを見殺しにした」
と述べ、新聞やテレビの報道が鈍かったことを指摘した。

◆「大学への脅迫を複数の記者が知っていた」

北星学園大学に対しては、昨年3月中旬から抗議の電話やメール、ファックスが殺到するようになった。
一連の脅迫事件を取材しているという長谷川記者は、そのときのメディアの動きについて次のように説明した。

「植村さんは通算5、6年、北海道の支局に勤務していたので、知り合いのジャーナリストもたくさんいた。
植村さんに対する激しいバッシングや、北星学園大学に脅迫状や脅迫めいた抗議メールが殺到していることを、複数の記者が知っていた」

昨年5月と7月には、
「売国奴の植村をやめさせなければ大学を爆破する」
という脅迫状も届いている。
しかし、長谷川記者によると、新聞やテレビなどのマスメディアは、この問題をすぐには報じなかったという。

「やはり、みんなひるんでいたと思う」。
長谷川記者は当時の状況について、こう指摘する。
朝日新聞は昨年8月、慰安婦報道の検証記事を出した。
植村氏の記事について「事実の捻じ曲げはない」としながらも、「女子挺身隊=慰安婦」という表現が誤っていたと認定していた。

「北星学園大学の記事を書いたら、植村さんの味方をしているということで、自分の会社もバッシングされるんじゃないかと、複数のメディアはひるんだ。
私は『これは民主主義の危機だ』と思った」

◆「市民が大学を支え、雇用継続を実現させた」

長谷川記者によると、新聞やテレビなどのマスメディアがこの問題を大きく取り上げはじめたのは、大学側が脅迫の経緯と対策を公表した昨年9月30日以降だという。

あいつぐ脅迫から大学を守ろうと立ち上がったのは、「市民」だったという。
10月には学者や弁護士、市民による「負けるな北星!の会」が結成された。

しかし10月末、北星学園大学が植村氏の雇用打ち切りを検討していることが、明らかになった。
それに対して、市民たちからは、雇用継続と支援を求める声があいついだという。
その結果、植村氏の雇用継続を決めた。

そのような経緯を振り返り、長谷川記者は語気を強めて次のように語った。

「ジャーナリズムは、結果として、植村さんを見殺しにしていた。
それを変えたのは、まさに市民だった。
こんなことでは、民主主義が守れない、自由な言論・学問が守られないという危機感を持った一般の人たちが大学を支え、植村さんの雇用継続を実現させた」



■慰安婦:元朝日記者
「脅迫には絶対に屈しない」
朝鮮日報/朝鮮日報本語 2015/01/10

1991年、旧日本軍の慰安婦とされた韓国人女性の証言を報じたとの理由で、本人はもとより家族の殺害まで予告されている元朝日新聞記者の植村隆氏(56)が
「不当な脅迫には絶対に屈しない」
と宣言した。
植村氏は9日、東京の日本外国特派員協会で行った記者会見で
「私を脅迫するのは、(慰安婦問題に関する報道を主導した)朝日新聞を委縮させようという意図によるものだ。
慰安婦問題が解決していない以上、朝日新聞が再び力を得て、慰安婦関連の報道を続けていけばよいと思う」
と述べた。

植村氏はこの日、自らの慰安婦に関する記事について「捏造(ねつぞう)」との主張を繰り広げている「週刊文春」と西岡力・東京基督教大学教授を相手取り、1650万円の損害賠償や謝罪広告の掲載などを求める訴訟を起こした。

今回の訴訟は約170人の弁護士が支援を表明している。
弁護士たちは「インターネット上で植村氏や家族を脅迫する書き込みをした人たちも捜し出し、一人残らず提訴していく」と発表した。

植村氏はフランスでジャーナリストを狙ったテロが発生したことについて
「1987年、朝日新聞の同僚記者が(極右派の)銃撃を受け亡くなった。
同じジャーナリストとして、暴力に屈してはならないという決意を新たにした」
と述べた。

植村氏は神戸松蔭女子学院大学(兵庫県神戸市)の教授として採用が決まっていたが、テロをほのめかした極右派の脅迫のため採用を取り消され、現在非常勤講師として勤務している北星学園大学(北海道札幌市)に対しても解雇を要求する脅迫が相次いでいる。

:車学峰(チャ・ハクポン)特派員



■元朝日記者提訴
言論の自由に反している

産経新聞【主張】2015.1.10
元朝日新聞記者の植村隆氏が「慰安婦記事を捏造(ねつぞう)した」などの指摘で人権侵害を受けたとして、文芸春秋と東京基督教大学の西岡力教授に損害賠償と謝罪広告などを求める訴えを起こした。

裁判を受ける権利はもちろん誰にでもある。
だが、言論人同士の記事評価をめぐって司法判断を求めるのは異様ではないか。

訴状によれば、植村氏は記事や論文などの指摘で社会的評価と信用を傷つけられ、ネット上の人格否定攻撃や家族への脅迫、勤務先大学への解雇要請などを招いた。
こうした人権侵害から救済し保護するために司法手続きを通して「捏造記者」というレッテルを取り除くしかない、
としている。

植村氏の解雇を求めた大学への脅迫については、産経新聞も昨年10月2日付主張で「言論封じのテロを許すな」と題して、これを強く非難した。
同時に文中では「言論にはあくまで言論で対峙(たいじ)すべきだ」とも記した。

同じ文言を繰り返したい。

自身や家族、大学に対する脅迫や中傷と、言論による批判を混同してはいないか。

指摘の対象となった平成3年8月、
元韓国人慰安婦の証言として書かれた植村氏の記事で「女子挺身(ていしん)隊の名で戦場に連行され」とした記述については、朝日新聞が第三者委員会の指摘を受け、その事実はなかったとして、おわび、訂正している。

その後の植村氏の記事で、この元慰安婦がキーセン学校に通っていた経歴を知りながら触れなかったことについても、第三者委は「書かなかったことにより、事案の全体像を正確に伝えなかった可能性はある」と批判していた。

訴状をみる限り、植村氏側はこうした朝日新聞、第三者委の判断や指摘を受け入れてはいないようだ。
まず朝日や第三者委の見解に、言論人として反論することから始めるのが筋ではないか。

大学や家族への脅迫を、自らを批判する記事や論文が招いたとする訴訟理由には首をひねる。

パリでは、イスラム教の預言者を登場させた風刺画などを掲載した週刊紙が襲撃され、編集長ら12人が殺害された。

テロの誘発を記事に求めることが認められるなら、広義ではパリの惨事も報道が招いたことになる。
そこに言論、報道の自由はあるのだろうか。


■娘の写真がさらされ、
「自殺するまで追い込むしかない」
慰安婦報道の植村元朝日記者、
ネットでの誹謗中傷明かす

J-cast news 2015/1/ 9

いわゆる従軍慰安婦の女性の証言を初めて報じた元朝日新聞記者の植村隆氏(56)が2015年1月9日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で会見し、自らの記事に対する批判に反論した。

同日、植村氏は自らの記事を「捏造」と非難した週刊文春の報道をきっかけに脅迫などの人権侵害を受けたとして版元の文藝春秋などに損害賠償や謝罪広告などを求める訴えを起こしている。
自らが「反日」だとして批判されていることについては「自分は愛国者だと思っている」などと話した。

◆支援団体が元慰安婦女性にヒヤリングしたテープの内容を記事化

自らが執筆した1991年の記事を手にする元朝日新聞記者の植村隆氏
植村氏が非常勤講師として勤務する北星学園大学(札幌市)には、こういったはがきが届くという。

「出て行け、この学校から。
出て行け、日本から。売国奴」
「日本でカネを稼ぐな。大好きな韓国に帰化して姑に食べさせてもらえ」

大半がいわゆる「反日」批判だが、
植村氏はこう反論した。

「しかし、私は反日ではない。
私は日本が他のアジアから尊敬される本当の仲間だと思われる国になってほしい。
そういう意味では、自分は愛国者だと思っている。
学生に言っている。
僕の学生は、韓国、中国、台湾から来る学生が多い。
『もちろん、今日本で不愉快なことが沢山あるかも分からないけど、日本も良いところがあるし、やはり日本と隣国は大切な関係なので、是非日本で色々なことを学んでほしい』」

植村氏に対する批判のきっかけになったのが、植村氏が1991年8月11日の朝日新聞大阪本社版の紙面に執筆した記事だ。

記事では、ソウル市在住の金学順(キム・ハクスン)さん(当時68=1997年死去)が従軍慰安婦としての体験を支援団体に明らかにしたことを報じた。
植村氏は金さんに直接インタビューしたのではなく、支援団体が金さんにヒヤリングしたテープを聴くことができただけだったが、慰安婦本人の証言が記事化された初めてのケースだ。
金さんは91年12月に日本政府を相手取って戦後補償を求める裁判を起こしたが、死去後の04年に敗訴が確定している。

◆就職が決まっていた大学にメールや電話で批判が殺到

会見場は多くの報道陣が集まった。

週刊文春は、この1991年の記事について、2014年2月6日号で
「『慰安婦捏造』朝日新聞記者がお嬢様大学教授に」
と題するキャンペーン記事で批判。
記事では、西岡力・東京基督教大教授が金さんについて、

「親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。
植村氏はそうした事実に触れずに強制連行があったかのように記事を書いており、捏造記事と言っても過言ではありません」
とコメント、植村氏を非難した。
西岡氏は同様の主張を別の論文でも展開している。

植村氏の説明によると、文春記事の影響で、就職が決まっていた神戸松蔭女子学院大学(神戸市)にメールや電話で批判が殺到し、就職話は立ち消えに。
非常勤として勤務している北星学園大学にも抗議の電話が相次ぎ、その内容がネット上に拡散されたケースもあった。

娘の写真がネット上にさらされ、
「こいつの父親のせいで、どれだけ日本人が苦労したことか」
「自殺するまで追い込むしかない」
などと誹謗中傷が相次いだ。
非公開のはずの自宅住所や電話番号もネット上に拡散された。

植村氏は提訴の理由を、

「こうした、週刊文春の『捏造』というレッテル貼り、そして西岡氏の言説が、結果的にこうした状況を引き起こしたのではないかと思っている。
言論の場でも手記を発表して反論している。
それだけではなく、法廷の場でも捏造記者でないことを認めていただこうと思っている」
と説明した。

訴訟は週刊文春の版元の文藝春秋と西岡氏を相手取って起こされ、
(1)インターネットからの西岡氏論文の削除
(2)謝罪広告の掲載
(3)損害賠償として1650万円の支払い、
の3点を求めている。

西岡氏は文春記事の中で、植村氏の記事が「強制連行」があったかのような内容だったとして「捏造」だと主張している。
ただ、植村氏の記事では、金さんについては、

「女性の話によると、中国東北部で生まれ、17歳の時、だまされて慰安婦にされた。
2、300人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた」
と書かれているに過ぎない。
植村氏はこれを根拠に、そもそも「強制連行」があったとは伝えていないことから「捏造」はないとしている。

◆西岡氏はリード文の「戦場に連行」根拠に
引き続き「捏造」主張

植村氏は「文藝春秋」15年1月号や「世界」15年2月号でも、同様の主張を展開しており、批判された西岡氏もすでに植村氏の「捏造ではない」という主張に反論している。

西岡氏は「正論」15年2月号への寄稿で、植村氏の1991年の記事のリード文を問題視している。
リード文の内容はこうだ。

「日中戦争や第2次大戦の際、
『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、
1人がソウル市内に生存していることがわかり、(後略)」

このリード文について、西岡氏は、

「植村記者は一般論として慰安婦を説明したのではない」
「普通の国語力があれば、この文章は、単純に慰安婦を挺身隊と混同して書いたのではなく、彼女(編注:金さん)の経歴について書いていたものだとわかる」
と主張。

金さんが「『女子挺身隊』の名で戦場の連行」の事実を記者会見や訴状では触れなかったとして、西岡氏は、

「本人が語っていない経歴を勝手に作って記事に書く、これこそ捏造ではないか」
などと、やはり「捏造」批判を展開している。

植村氏の記事をめぐっては、朝日新聞が14年8月に掲載した検証記事と14年12月の第三者委員会の報告で、「挺身隊」の用語の間違いはあったものの、「事実のねじ曲げ」はなかったと結論づけている。

さらに、朝日新聞社は、済州島で慰安婦が強制連行されたとする「吉田証言」は虚偽だったとして同証言に関連する記事18本を取り消しているが、植村氏は吉田証言に関連する記事は出稿、取材ともにタッチしていない。

サルメラ:
たしかに、娘にまで攻撃の手を加えるのは卑怯。
北朝鮮の問題が起きるとチョゴリを攻撃する連中と同じく、人間のクズに思える。
こういう連中がいるから、まっとうな主張が色眼鏡で見られる。
いや……それが計算か、左翼の?

ますます、卑怯な奴らだ。
ただの弱いものイジメ、ヘドがでる。

ワザと植村に同情するように仕向けてるんだろう。
そうして反撃の機会をうかがってたのかもしれない。

そう考えでもしないと、
この手の頭悪すぎる連中のやってることは理解できない。

それにしても、
この仰々しい植村弁護団の登場のおかげで、第三者委員会が、
「事実のねじ曲げはなかったと結論づけていた」話、
もう一度蒸し返されて、注目の法廷で審議にかけられることになった。
悪いことではない。


■2015年の慰安婦問題に4つの注目点
拓殖大・藤岡信勝客員教授
ZAKZAK 2015.01.06

朝日新聞社の渡辺雅隆社長は5日、東京都内で記者会見し、過去の慰安婦をめぐる記事の作成経緯について、「不明な部分が残ったとは考えていない」といい、これ以上検証しない考えを示した。
同社報道などで傷つけられた日本と日本人の名誉回復は果たされるのか。
拓殖大学の藤岡信勝客員教授が、2015年の慰安婦問題に迫った。



ひどい話だ。
朝日の渡辺社長の発言には「責任逃れ」「臭い物にフタ」という感想しかない。
世間もそろそろ慰安婦問題を忘れるだろうとでも思ったのか。
大誤報の検証は始まったばかりで、今年はさらに問題が深まり、国民の間に理解が広がることが期待される。

いくつかの焦点にしぼって指摘したい。

第1に、朝日問題である。
昨年8月5日、吉田清治氏の証言を虚偽と断定し、取り消したことを受けて、
12月には、第三者委員会が報告書を出した。
これは、画期的な内容であった。

私が報告書の中で最も注目するのは、
「強制連行」にかえて「強制性」を主張するのは「議論のすりかえ」であると明言したことだ。
慰安婦問題は実は問題として存在しないという主張にあと一歩である。
この辺の本質論議が必要だが、渡辺社長の発言を聞く限り、第三者委員会の報告書は無意味なものとなりかねない。
許し難い。

第2に、植村隆・元朝日記者問題である。
昨年、支援団体がつくられたことを転機に、植村氏は反撃に転じた。
初めに米韓などの海外のメディアで自己の主張を展開し、『文藝春秋』に反論の手記を寄せた。
北星学園の雇用継続も決まった。
今後、彼は捏造記事を書いたのか、
義母の訴訟を抱えている記者が事件を担当していいのか、などの論議が戦わされる。

第3に、朝鮮人強制連行問題である。
第三者委の報告書は「慰安婦以外の者の強制連行について吉田氏が述べたことを報じた記事」についても「適切な処置」をすべきであるとした。
私の主張と同じで、朝鮮人強制連行の嘘を本格的に問題にしたい。

第4に、国際情報戦への取り組み問題である。
昨年9月、アルフレッド・ジョンソン氏が米国立公文書館で「IWG(Interagency Working Group)文書(の読み方)」を発見した。
米政府は在米中韓反日組織の圧力で3000万ドル(約36億円)の費用と、7年の歳月をかけて、慰安婦たちの主張の裏付けを得ようとした。
多数の米政府職員や歴史学者が動員され、何万ページにものぼる過去の公文書を徹底的に調査したが、有力な証拠は何一つ見つからなかったのだ。

日本人は、この「決定的な武器」を自ら自家薬籠中のものとし、国際情報戦の主戦場・米国で戦うことになろう。




転載元 草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN
■元朝日記者、
植村氏が文芸春秋などを提訴
東京地裁
2015/01/10

「慰安婦記事を捏造(ねつぞう)した」
などとの指摘で名誉を傷つけられたとして、朝日新聞元記者の植村隆氏(56)が9日、
文芸春秋と東京基督教大学の西岡力教授を相手に計1650万円の損害賠償と謝罪記事の掲載などを求める訴えを東京地裁に起こした。

訴状によると、朝日記者だった植村氏が平成3年8月、韓国人元慰安婦とされる女性の証言を初めて掲載した。
「意図的に事実を捏造した」と批判する西岡氏の論文や、
「 “慰安婦捏造” 朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」との見出しが付いた昨年2月6日号の週刊文春の記事などについて
「植村氏や家族への敵意をあおり立てた」
としている。

提訴後に東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見した植村氏は
「司法の場で私が捏造記者でないことを証明したい。
不当なバッシングには屈しない」
と述べた。
反省や謝罪は一切なかった。

提訴を受け、週刊文春編集部は「記事には十分な自信を持っている」とコメント。
西岡氏は
「言論人が言論で批判されたのであれば言論で返すべきではないか。
なぜ訴訟に出たのか理解できない。
私の指摘は言論の自由の範囲内と考えている」
と話した。



以下、引用↓


◆政治家は「われわれをいじめて黙らせようとしている」
慰安婦記事書いた元朝日記者の言い分に「被害者ぶるな」の声
ネットでの誹謗中傷明かす

J-cast news 2014/12/ 4

朝日新聞で慰安婦問題の記事に関わった植村隆氏がニューヨーク・タイムズの取材に応じ、安倍晋三首相ら国家主義的な政治家について「彼らはわれわれをいじめて黙らせようとしている」などと述べ、朝日新聞や自身への攻撃を批判した。

記事は波紋を広げたが、言い分に賛同する声は少なく、「被害者ぶるな」と批判が集まっている。

植村氏は1991年に慰安婦だという女性へのインタビュー記事を書いた朝日新聞の元記者。
退職後は札幌市の北星学園大の非常勤講師を務め、国際交流に関する講義を担当している。
しかし、2014年8月に朝日新聞が慰安婦報道に関する記事の取り消しを発表した後は、非難を集め、大学あてに脅迫文が届くまでの事態となった。

ニューヨーク・タイムズ(電子版)が2014年12月2日に配信した記事は、北星学園大の校門前に立つ植村氏の写真を大きく掲載。
植村氏や朝日新聞を攻撃する、日本の右派について、「歴史修正主義」の動きがあると批判する内容だ。

植村氏は取材に対し、河野談話を見直そうとする安倍首相や政治家たちについて、

「彼らは脅迫によって歴史を否定しようとしている」
「われわれをいじめて黙らせようとしている」

などと語る。

大学への脅迫や、ネット上の家族を脅迫するような書き込みがあったことにも不満な様子で、朝日新聞については、植村氏を弁護することに恐れ過ぎているなどとも話したという。
一方、事実と異なる記事を書いたことへの反省や謝罪のコメントは、記事中には一切でてこない。

植村氏のコメントは自身への批判を抑えるどころか、かえって火に油を注いだようだ。
「いじめ」や「脅迫」という言葉を選んだことから、

「この期に及んでまだ被害者ぶるか」
「加害者が被害者面 全然懲りてないな」
「自分達がやってきたことは棚に上げて、
自分達が叩かれたら『イジメだ脅迫だ』とか。
なめてんのかこいつ」

と厳しい批判がツイッターに並ぶ。

また、これまで国内メディアの取材は受けていないにもかかわらず、米紙の取材に応じたことも、

「NYTでこんな出鱈目な反論をする前に、日本の他のメディアの取材に応じるべき」

「日本のメディアからは逃げ回ってるくせにお仲間のNYタイムスの取材は受けるとか植村って卑怯者だよな」

と批判されている。

産経新聞も12月3日の記事で「産経新聞は元記者に取材を申し込んでいるが、元記者は応じていない」と指摘。
経済評論家の池田信夫氏はツイッターで
「お前が日本のメディアに会見しろ」
と非難している。



転載元 依存症の独り言

■「私は捏造記者ではない」と
植村隆・元朝日記者が訴訟
2015/01/11

「代理人に170人近い弁護士が名を連ね」だと(爆)
弁護士に “反日変態” が多いのはネットでは常識。
植村隆の主張を正当に見せかける小細工はやめろ!と言いたいね。

《当時の韓国では慰安婦を指す言葉として「女子挺身隊」が用いられていた》

かもしれないが、
それが自身を正当化する根拠にはならないだろう?植村よ!

弁護士ドットコムの「私は捏造記者ではない」慰安婦報道の植村隆・元朝日新聞記者の会見スピーチ(全文)によると

《(私の記事では)本文2段落目に、
「女性の話によると、中国東北部で生まれ、17歳のときにだまされて慰安婦にされた」と書いてます。
そこには触れないで、(西岡氏は)「強制連行があったかのように書いており、捏造」としています。
これはフェアではないと思います。》

と主張しているようだが、朝日新聞だって

《(第三者委員会は)昨年12月、「強制的に連行されたという印象を与え、安易かつ不用意な記載があった」などと指摘した》

と書いているじゃないか!

植村隆、オマエは被害者ではない!
どこまで行っても加害者だ!

にもかかわらず、まったく反省がない!
その性根は韓国・朝鮮人そのものだよ!
今のままでは、おそらく死ぬまで糾弾され続けるな、間違いなく...



転載元ぼやきくっくり

■植村隆元朝日記者が文春と西岡力氏を提訴!
茶番の外国特派員協会記者会見と提訴報告集会
2015.01.10

昨日(1月9日)はとにかく不快な1日でした。

植村隆元朝日新聞記者の提訴、一連の会見、支援者らも交えた集会がその原因です。

植村氏は被害者面するばかりで、肝心なこと(最後に述べます)は何も話していない。

パソコンの前で口癖の「腹立つわ~!」が30回は出たと思います(-.-#)

まず、植村隆氏の日本外国特派員協会での記者会見について。

午後3時からニコニコ生放送の中継があるというので、出来レースだと分かってはいたけれども、いちおう見てみました。
 
植村氏らが会場に入ってきた時から、記者らが大量に寄ってきてパシャパシャ撮影。

何これ?
芸能人のおめでた会見?Σ(゚Д゚;

生で見ながらツイッターで実況したので、それを貼り付けます。
注釈も付けながら。

但し、生で見ながらその場でメモしたものなので、細かな言い回しはこの通りではありません。
主旨は間違いないと思いますが。
(「誤報」を避けるため、あやふやな箇所はツイートしていません)

よって、以下のツイートはあくまで要旨としてご覧下さい。


●くっくり @boyakuri
そもそも何でいきなり裁判なのか。
卑怯ですよ。
西岡力氏は「正論」など雑誌誌上で植村隆に「議論しましょう」とずっと呼びかけていたのに。
その後の話も「こんな脅迫が来た」と文章読み上げ被害者面。
さらに
「文春や西岡氏のおかげでこんなことになった」
「不当なバッシングに屈しない」。
2015年1月9日

※後で知りましたが、提訴を受け、西岡力さんは産経にこのようにコメントしています。
「言論人が言論で批判されたのであれば言論で返すべきではないか。
なぜ訴訟に出たのか理解できない。
私の指摘は言論の自由の範囲内と考えている」


●くっくり @boyakuri
植村の弁護士が発言。
「植村さんを攻撃している歴史修正主義者はたくさんいます。
私たち弁護士は今後も次々裁判を起こし、植村さんの名誉を回復していく」。
お里が知れますね。
私たち日本国民の名誉はどうしてくれるんでしょうか。
質問者(外国特派員協会)も左巻きだし、マッチポンプ。
2015年1月9日


●くっくり @boyakuri
聯合ニュース記者
「大学を脅迫した人が略式起訴で済んだ。処分が軽い」
植村
「ジャーナリストとして残念なのは、この人の動機をフォローした記事が日本のジャーナリズムにはない。
処分は抑止効果にはなった」。
この人さっきから自分を「ジャーナリスト」と言ってるけど多くの国民は認めないと思います。
植村隆は「大学を脅迫した人の動機をフォローした記事がない」と言ったが、
私は植村隆が日本を貶め続ける動機こそを知りたい。
2015年1月9日


●くっくり @boyakuri
日本人記者(年配男性)の質問
「植村さんは被害者の立場を強調されているが、一方で吉田清治の発言について植村さんは何本記事を書いたか。
これが虚偽だと朝日は表明したが、吉田証言が反日を煽った。
これについて植村は今どう思っているか」。
やっとマシな質問が。
さて植村隆は何と答えるか。
2015年1月9日

●くっくり @boyakuri
植村
「(吉田清治の記事は)1本も書いていません(どや顔)。
私は吉田証言のあとに慰安婦問題の取材を始めた。
慰安婦のお婆さんに直接取材を始めた世代。
朝日バッシングの本がたくさんあるが、吉田証言を書いた植村と書いてあるものもある。
こういうのこそ捏造と言う」
植村
「そのあたり昨日発売された『世界』に書いてある。
反日を煽ったと言われるが煽ってません。
むしろ日本がアジアの中で本当に信頼される仲間のなるための作業をしている」
駄目だこりゃ。
しかもここで会見終了。
拍手で見送られる植村隆。何この茶番。
2015年1月9日


こんな感じで、最初から最後まで私は呆れっぱなしでした。

日本人らしく、冒頭に「お騒がせしてすみません」ぐらい言うかと思ったけど、それもなく。
謙虚さが全く見られない。

ま、でも初めに書いたように、会場に入ってきた時から大量のカメラにパシャパシャ撮影されて、まるで芸能人のような扱いでしたからね。
悲劇のヒーロー気分になっても仕方ないのかもしれません。

支援者も大勢いますしね。
弁護士も現在170人もついてるらしいし。
これだけ甘やかされれば、誰だって勘違いしますよ。

一番腹が立ったのはこの発言です。

「慰安婦問題は解決していない。
朝日は今後も取り組んでいただきたい」

※正確な発言:
「もう謝罪して取り消したわけですし、改めて朝日新聞には元気を出して、慰安婦問題に取り組んでいただきたいと思います。
慰安婦問題は解決したわけではないので」

まさに中韓の代弁者です。

しかもこの日(9日)、植村氏は、日本外国特派員協会の会見が行われる前に司法記者クラブでも会見し、夕方からは参院議員会館での名誉毀損訴訟提起報告集会でも会見。

集会の生中継を途中から見ましたが、植村氏は在日の人権問題も絡めて話していました。

有田芳生氏もかけつけ、ヘイトスピーチ問題と絡めて発言しました。

ほかに福島瑞穂氏、北海道新聞の長谷川綾氏、新聞労連の小森陽一氏、出版労連の山口二郎氏、池田恵理子氏、週刊金曜日の青木理氏なども登場し、植村氏を激励するスピーチを展開しました。

これはサヨクの新年会ですか?

なんと朝日新聞の労働組合まで来ていて、こうスピーチしました。


●くっくり @boyakuri
植村隆氏を支援する集会、朝日労組のスピーチ。
「植村さんを支援すべきではないかという社内の声があった。
朝日問題があったので早く動けなかった反省がある。
記者を守る仕組みを作っていかなければならない。
訴訟を社内につなげて、力になれればと思う。
ここに集まった皆様に敬意を払います」
2015年1月9日


朝日新聞は社として植村氏を支援する気でしょうか。
そんなことしたら、ますます信用を落とすと思いますが。

でも、現在、植村氏の取材の窓口は朝日が担当してますし、あり得ないことではないですね。

ほかに、集会ではこんな発言もありました。


●くっくり @boyakuri
元読売新聞の記者(6年ほどで辞めた人で年齢は70歳超えてそうな男性)が植村隆氏を支援する集会で
「歴史修正主義者、こいつらは昔からいたんです。
でも物を言うだけの力がなかった。それが権力をバックにして言うようになった」
目茶苦茶なこと言う。
2015年1月9日


「権力をバックにして言うようになった」?!

違いますよ。実情はこうです。

ネットの普及とともに2000年前後から少しずつ、新聞やテレビなどが伝えてこなかった歴史の真実が、国民の目に触れるようになりました。

やがて、朝日などが主張してきた「慰安婦強制連行」だの「性奴隷」だのが虚構であることに、多くの国民が気づきました。

その過程で、1990年代初頭から「慰安婦強制連行」の虚構を粘り強く訴えてきた西岡力さんや秦郁彦さんらの主張が、広く国民に受け入れられるようになったのです。

その背景に権力の力などありません。

ほかにも「これは歴史修正主義との戦いである」という話をする人が、集会では何人もいました。
安倍総理の批判をする人も複数いました。

本音はそれなんですよね。

「植村隆さんの人権を守ろう」云々は表向きのことで、真の目的は、反日、反安倍。

アメリカで次々に慰安婦像を建てている韓国系団体(バックに中国系がいる)は、表向きは「女性の人権問題」と言ってるけれども、真の目的は「反日」。
それと同じです。

そもそも本当に人権問題を真剣に考えるんだったら、植村氏よりも先に救わねばならない人がいるでしょう?
産経の加藤さんですよ。

くっくり @boyakuri
【産経前ソウル支局長公判】
弁護人が出国禁止解除を要請 延長7回、5カ月超「深刻な人権侵害」
今日、元朝日の植村氏の集会に参加して「植村隆さんの人権を守ろう」と叫んでいた支援者たちは、加藤達也前支局長の人権についてはダンマリ。
2015年1月9日



それにしても「歴史修正主義」って嫌な言い方ですよね。

正しい歴史を子や孫の代に伝えようという当たり前のことを、なぜ「修正主義」などと言われなければならないのか。
(間違いを正すという意味で「修正」と言うなら分かるが)

集会でのサヨクの人々の発言を聞いていて、私は、朝日の吉田調書報道が虚報であることを早い段階で指摘した門田隆将さんが、「正論」2015年1月号に書いていた話を思い出しました。

《この慰安婦報道から「吉田調書」誤報事件へとつづく一連の騒動の中で、朝日の現場では、以下のような内容の話が交わされていることを私は聞いた。

それは、朝日新聞を叩いているのは「右翼」であり、「偏狭なナショナリズム」であり、自分たちはあくまで「平和」を愛する「リベラリスト」だ。
最近、“産経史観” に負けているものの、
「時が経てば、また盛り返すことができる」
というものだ。

朝日社内にいる友人の一人から、私はそんな興味深い話を聞いた。

一連の朝日批判は、社内では「産経史観」という言葉を用いて語られており、彼らによれば、
「今はたまたま劣勢に陥っている」
だけなのだそうだ。

私は、自分たちの主義主張のためには事実を曲げてもいい、という “朝日的体質” は、今後もなくならないだろうと思う。》


植村氏も、彼を支援する弁護団や言論人らも、朝日と同じく、
「時が経てば、また盛り返すことができる」
「今はたまたま劣勢に陥ってるだけ」
という思いで動いているのは間違いありません。

植村氏側は、文春と西岡力さんだけでなく、自分(植村氏)が捏造したと指摘した人々を順次訴えていく予定だそうです。

ひょっとしたら、
産経の阿比留瑠比さんなども標的にされるんじゃないですか(T_T)

その阿比留さんは、植村氏の「テープ問題」も指摘しています。

「テープ問題」を簡単に説明すると…

植村氏は、1991年8月11日朝日新聞朝刊の記事で、韓国の挺対協が録音した匿名の韓国人元慰安婦の証言テープをもとに、「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」と書きました。

記事では匿名だった金学順氏は、3日後の8月14日に実名を公表しました。

ポイントは、植村氏は8月11日の記事はテープを聴いて書いただけで、金氏には直接取材していないことです。

金氏のことを「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」たと書いた植村氏ですが、金氏本人はこの年の12月に起こした賠償訴訟の訴状で「養父に連れられて中国へ渡った」と記載しており、別の証言集でも「女子挺身隊の名で連行された」とは語っていません。
(詳細は産経2014.10.28を)

産経の阿比留さんは、昨日(9日)午後1時から開かれた司法記者クラブの会見で、
「テープで『挺身隊』と聞いたのか」
と問いましたが、
植村氏は「定かでない」との答えただけでした。
(産経2015.1.9)

この問題については、阿比留さんだけでなく、もちろん西岡力さん、秦郁彦さんらも指摘してきました。

秦郁彦さんは、
「朝日OBのなかにはテープ録音なるものが実在したのか、疑う人もいます」
とまで述べています。
(産経1月3日紙面掲載の西岡さんとの対談記事)

植村氏の記事と金学順氏の証言との矛盾は未だに解消されておらず、植村氏がテープになかった「女子挺身隊」という言葉を恣意的に付け加えた疑惑も残ったままです。

つまり、植村氏は、あっちこっちで会見したりインタビュー受けたり手記を出したりしていながら、肝心なことは何も話していないのです。

西岡力さんらにはお気の毒ですが、この件も含め、裁判の場で植村氏の欺瞞が白日の下に晒されることを期待します。


★おまけのツイート。
植村氏に直接関係ないけど聞き捨てならないので。

●くっくり @boyakuri
植村隆氏を支援する集会で新聞労連の人がスピーチし、朝日新聞の吉田調書をめぐる特報に特別賞を与えると。
まさかと思ったが事実らしい。
「応募はなかったが、昨年一番のスクープ。
隠蔽された情報を入手して報じた功績は素直に評価すべきだ」と・・・
2015年1月9日


◆沖縄2紙に新聞労連ジャーナリズム大賞
沖縄タイムス 2015年1月9日

新聞労連は9日、平和・民主主義の確立に貢献した記事などを表彰する第19回新聞労連ジャーナリズム大賞を発表し、沖縄タイムスと琉球新報の「基地移設問題と県知事選などをめぐる一連の報道」が大賞を共同で受賞した。

選考委員はルポライターの鎌田慧氏ら4人。

特別賞には、朝日新聞の「原発吉田調書をめぐる特報」を選んだ。

「応募はなかったが、昨年一番のスクープ。
隠蔽(いんぺい)された情報を入手して報じた功績は素直に評価すべきだ」
とした。

その他の表彰は次の通り。

優秀賞=
特定秘密保護法成立後の一連の報道(北海道新聞)、
子どもの貧困をめぐる一連の報道(宮崎日日新聞、下野新聞)

疋田桂一郎賞=
村松の少年通信兵(新潟日報)

植村記者の言い分

■「私は捏造記者ではありません。不当なバッシングに屈するわけには行かないのです。」

~慰安婦問題で元朝日新聞記者の植村隆氏が会見
 
9日、元朝日新聞記者で北星学園大学非常勤講師の植村隆氏が外国特派員協会で記者会見を行った。
これに先立ち、植村氏は「週刊文春」誌上での記述で名誉毀損されたとして、同日、発行元の文藝春秋と記事内で発言を行った西岡力・東京基督教大教授に対し、計1650万円の損害賠償と謝罪広告などを求める訴えを東京地裁に起こしている。
 
同氏をめぐっては、昨年の朝日新聞による慰安婦報道検証以後、勤務先の北星学園大学に脅迫状が送りつけられるなどしたことから、同大の学長が4月からの契約を更新しない意向を示していたが、大学教授や弁護士らが支援の動きを見せるなどした結果、昨年12月、契約の継続が発表された。

植村氏の取材の窓口は朝日新聞が担っており、これまで東京新聞のほか朝鮮日報やニューヨーク・タイムズなどの海外紙のインタビューを受けてきたほか、産経新聞が繰り返し取材を申し入れるなど、慰安婦問題の記事を執筆した本人による発言に注目が集まっていた。



皆さまお忙しいところ、私の会見に来ていただき、ありがとうございます。

パリの新聞社の襲撃で、多数の記者たちが亡くなったことに本当にショックを受けています。
1987年5月に、私と同期の朝日新聞記者の小尻知博記者が襲撃されて殺された事件がありました。
改めてそのことを思い出して、衝撃を持って受け止めています。
同じジャーナリストとして、こうした暴力には絶対に屈してはいけないと、改めて思いました。

私が非常勤講師として務めております北星学園大学にも、昨日、また脅迫状が送られてきました。
匿名の名に隠れた、こうした卑劣な強迫行為は絶対に許すことができないと思います。
なぜ脅迫状がくるかと言いますと、私が勤務してるからであります。

去年、日本の週刊誌「週刊文春」の記事で、私は"捏造記者"というレッテル貼りをされました。
それで私の記事とは全く関係ない大学にまでこうした強迫行為が及んでいるわけです。
私は訴訟準備のため東京におり、大学には行ってなかったんですが、私のために大学が脅迫にさらされていることに怒りを覚えます。

本日、私は「週刊文春」を発行する文藝春秋社およびその週刊誌にコメントを発表した東京基督教大学の西岡力氏を、名誉毀損の被告として裁判を起こしました。
私は、私の人権、家族の人権、友人の安全、北星学園を守るために、訴訟を起こしました。

私は24年前の91年、朝日新聞大阪社会部時代に、韓国で名乗り出た朝鮮人慰安婦のおばあさんの辛い体験の記事を、署名入りで2本書きました。
この記事が原因で、23年間ずっとバッシングを受けています。
この記事で私が存在を報じた方は金学順さんと言う方で、韓国でカミングアウトした第一号の慰安婦でした。

彼女の勇気ある証言によって、慰安婦の生の証言が世界に伝わって、たくさんの被害者が名乗り出るようになりました。そういう意味では、慰安婦問題が世界に知られるようになった第一号のおばあさんでした。

1年前、「週刊文春」2月6日号の記事に、その91年の8月の記事が批判的に紹介されました。
「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」とあります。
西岡氏は私の記事に対して、
「強制連行があったかのように記事を書いており、捏造記事と言っても過言ではない」
とコメントされています。

女性の話によると、中国東北部で生まれ、17歳で騙されて慰安婦されたと書いてあります。
しかし西岡は私の記述には触れないで、強制連行があったかのように記事を書いており、"捏造"と言っております。
これはフェアではないと思います。

私の記事は、リードで「女子挺身隊」という言葉を使いました。
当時、韓国では慰安婦のことを「女子挺身隊」あるいは「挺身隊」という言葉で表現しておりました。
しかし西岡氏は92年4月の「文藝春秋」で、これについて"重大な事実誤認"と批判しておりました。

その当時、西岡氏は記事では「朝日に限らず、日本のどの新聞も金さんが連行されたプロセスを詳しく報ぜず、大多数の日本人は当時の日本当局が権力を使って、金さんを暴力的に慰安婦にしてしまったと受けとめてしまった」と書いておりますが、しかし、その後は私だけを狙い撃ちにしております。

98年ごろから"捏造"という言葉に変わりました。
同じ91年の記事に対して、評価を変えてしまっているんです。
フレーム・アップだと思います。

そして結局、その流れで2月6日号の「週間文春」は、私を"捏造記者"だとレッテル貼りをしました。
これはフレーム・アップの延長線上だと思います。
この記事が原因で、私の転職先の神戸松蔭女子学院大学にいやがらせ、抗議の電話が殺到しました。
そして私が勤務している北星学園大学には、更に多くの抗議のメールや電話がかかってきます。
そうした抗議の電話の一部はインターネット上に公開されて、さらに憎悪を煽り立てています。

標的は大学だけではありません。
私の家族、娘にまで及びました。
娘の写真がインターネット上に晒され、誹謗中傷が書き連ねられています。

たとえばこんなのがあります。
"こいつの父親のせいでどれだけの日本人が苦労したことか。
親爺が超絶反日活動で…稼いだ金で、という意味でしょうか…贅沢三昧に育ったのだろう。
自殺するまで追い込むしか無い"
と書いてあります。

私のパートナーは韓国人です。
私の娘は父親は日本人で、母親は韓国人です。
ヘイトスピーチのような、コリアンを差別するような言葉まで出てきます。

私は「週刊文春」の捏造というレッテル貼り、そして西岡氏の言説がこうした状況を引き起こしたのではないかと考えています。
私は言論の場でも意見を発表しています。
法廷の場でも捏造記者でないことを認めてもらおうと思っています。

私は捏造記者ではありません、
不当なバッシングに屈するわけには行かないのです。

◆神原元弁護士
「次々と裁判を起こし、名誉回復を図っていく」

弁護団の方より若干補足させていただきます。

植村さんの訴状は、本日東京地方裁判所に提出されました。
被告は株式会社文藝春秋および東京基督教大学の西岡力さん、ということになります。

裁判で植村さんは3つのことを求めていきます。
インターネットからの西岡さんの論文の削除です。
ふたつめは謝罪広告の掲載です、
そして、損害賠償として1650万円の請求です。
根拠は、捏造という記載が不法行為に該当します。
現在170人の弁護士が代理人として植村さんを支援しております。

他方、植村さんを攻撃している歴史修正主義者は他にもたくさんおります。
私たち弁護士はこれからも次々と裁判を起こし、植村さんの名誉回復を図っていきたいと思います。

◆上智大・中野教授
「人権は守らなければいけない」

上智大学教授の中野晃一です。
私は何百人かの学者、ジャーナリストの代表として、植村さんと一緒にこの攻撃に立ち向かいたいと思っています。
やはり人権は守らなければいけないと考えている、多くの学者や報道関係者がいます。

皆さんのご記憶にも新しいと思いますが、私はこちらで3ヶ月前に山口二郎先生と会見をしました。
(編集部注:「言論と学問の自由を守るため立ち上がるべき」元朝日記者脅迫問題で山口二郎・中野晃一両教授が会見)

当時、植村さんの雇用契約が更新されるかどうか微妙でしたが、北星学園大学が英断をされ、とりあえず1年の契約更新になりました。
皆さんの記事や発信力が、多くの人の考えを変えることに役立ったと思います。
ここでお礼を申し上げたいと思います。
 
ーー 妻が韓国人であるために、あなたが慰安婦などの問題に対して中立の立場ではないのではないかという指摘もあるが?

植村氏:
まず家内のことについてお話したいと思います。
私の記事は1991年の夏に書いた記事でございますが、前年、1990年の夏、2週間韓国に取材に行きました。
当時、日韓で注目を浴びていた慰安婦問題で、慰安婦のおばあさんがもしかしたら生存していて、取材ができるのではないかと思って行ったんです。
ところがもちろん当時はそういう戦時中の辛い体験を語る方には一人も会えませんでした。
私は慰安婦のおばあさんたちを調査している「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)に行ったり、あるいは戦争の犠牲者たちの会「太平洋戦争犠牲者遺族会」(遺族会)の事務所などにもしょっちゅう行きました。
慰安婦のおばあさんたちにはその2週間で全く出会えませんでした。

でも一人の女性に出会いました。
先ほど言った遺族会で事務をしている若い女性でした。
韓国は母親と娘のファミリーネームが違うので後でわかったのですが、その女性は遺族会の幹部の娘でした。
その女性と恋に落ち入り、結婚しました。

91年の夏に、韓国の市民団体がこの慰安婦のおばあさんを調査しているという記事を書きました。
私を批判する人は、この記事が一番最初に、慰安婦のカミングアウトの前に、その存在を明らかにした記事だと、それで批判しているんです。
私の妻の母親の情報によって記事を書いたんだと、私を批判しているんです。

この団体は、私のパートナーの母親の団体と違う団体なんです。
そしてこの私の義母は、このおばあさんとは、私の記事の後に知ったというか出会ったわけです。
当時のソウル支局長の情報を使って書いたわけで、親族関係を利用して書いた記事ではありません。

朝日新聞の8月の検証記事でも、先日発表された第三者委員会の報告でも、縁戚関係を利用して記事を書いたとういう疑惑はまったく否定しております。

私は先ほども申し上げた通り、私のパートナーと出会う前に、慰安婦問題を取材しております。
これはfamily affair、家族の問題として取材しているわけではないんです。
女性の人権問題として取材しているわけです。
だから結婚しようが、結婚しまいが取材は続けたと思います。

ーー 慰安婦報道について謝罪した朝日新聞のスタンスについてどう考えるか

植村氏:
朝日新聞は、私の2本の記事とは別に、「吉田清治証言問題」というのを抱えていました。
この吉田清治というひとは、済州島で女性を慰安婦にするために人狩り、強制連行をしたということを証言して、それが朝日新聞だけでなくいろいろな新聞にも記事が出た人です。

8月の朝日新聞の特集紙面で、私の記事については"捏造がない"と明快に発表しました。
しかし、吉田さんの証言による記事については取り消しました。
その記事を取り消した時に、謝罪がなかったということで大きなバッシングを受けたわけです。
私もそう思います。
だけれども、謝罪はして取り消したわけです、遅くなったけれども。

ところが、朝日新聞は、私が非常にバッシングされて、家族までバッシングされている状態になっている。
それで非常に委縮していると思います。

私は捏造記者ではありません。
それはこれから証明していきますし、「文藝春秋」1月号でも記事を書いております。

私に対するバッシングの理由は、私が元朝日新聞記者であること、私が慰安婦のおばあさんに関する記事を最初に書いたこと、私の家内が韓国人であること。
そうしたことだと思います。
私を攻撃して委縮させ、私の出身母体である朝日新聞を委縮させたいと考えている人々がいるんだなと。

もう謝罪して取り消したわけですし、改めて朝日新聞には元気を出して、慰安婦問題に取り組んでいただきたいと思います。
慰安婦問題は解決したわけではないので。

ーー 首相はフランスの事件について「言論の自由、報道の自由に対するテロであり、断じて許すことはできない。」とコメントした。
北星学園大学の件については、首相にはどのような対応を望むか。

植村氏:
これまでも北星学園に対する脅迫、いやがらせ問題について、文部科学大臣がそれを批判する発言をされたりしております。
皆さんそういう気持ちを持っておられると思いますので、ぜひ北星学園大学を首相にも支えていただければと思っております。

ーー 朝日新聞を辞めた背景は?
朝日に辞めさせられたのか、それとも辞めたのは自分の意思なのか。

植村氏:
言っておきますが、私は朝日を辞めさせられたわけではございません。
私は1958年4月生まれで、今56歳です。だから、後4年ぐらいは働ける権利はあるわけですよ。
ただ私は50歳を過ぎてから、勉強をするのが好きになりました。
大学の後期博士課程に飛び込んで、博士論文にも取り組んでおります。
2012年から北星学園大学では非常勤講師をやっています。
教えているのは国際交流講義と言いまして、アジアの留学生たちに日本の社会事情、文化を教えています。
学生時代は勉強嫌いだったのですが、年を取ってから勉強が好きなことに気が付きました。
そして、アジアの学生たちと交流するのがとても楽しかったです。
それは私がソウル特派員、北京特派員、中東特派員を経験して、アジアとの関わりの大切さというものを知ったからです。
それで大学教員に転身しようと思いまして、いくつかに応募して、神戸の大学に採用が決まったんです。
しかし、抗議のメール等で、神戸松蔭女子学院大学は非常にショックを受けて、事実上、私に辞退を求めたわけです。
それは示談という形で、合意で契約を解消しました。
もちろん、その時に朝日新聞に戻る方法もあったかもしれません。
だけれども、"捏造記者"というレッテルはもう貼られたままです。
そのレッテルを剥がすため、レッテルを貼った者と闘うためには朝日に戻らず、一人のジャーナリストとして闘おうと思いました。
何故なら、闘うためにはたくさんの時間が要るんです。
"捏造記者"という風に記事を書かれてから、私は捏造記者ではないという証拠を探すために、毎日とてもたくさんの時間を使ってきました。
そして、私を取材する色んなメディアがたくさんの質問状を送りつけてきます。
時間がたくさんかかるんです。
残念ですが、フリーになって時間があるので、それができるというのが現状です。

ーー 嫌がらせの中に身体的な攻撃はあるのか?
また、ネット上での中傷に対して、家族はどう感じているのか

植村氏:
私は今のところ言葉で脅されてるだけです。
パリの事件は本当に痛ましい事件です。
何らかの憎悪が原因で起きたと思います。
やはり寛容さが欠けている人々がこういうようなことをしたんじゃないかと思います。

私は、今物理的な攻撃を受けているわけではありません。
私の記事が捏造という風に言われますが、当時は同じようなスタイルの記事が他の新聞にもたくさんあったんです。
それが今こういう風な形でターゲットになって、個人が標的になってバッシングされている。
やはり寛容でない社会で起きている現象という点では共通点があるかもわかりません。

歴史の暗部、日本でいえば、戦争中の触れられたくない過去。
それに対して、目を向けようとする人たちに対して、それを怯ませようという動きが日本にあると思います。
それが誰なのかわかりません。
例えば、私の家に嫌がらせ電話がかかってきました。
私の家の電話は全く公開していません。
だけれども後で調べたら、インターネットに私の電話とか、家の場所、娘の学校の名前、そういったものが出ていました。

弁護士にお願いして、誰が書いたか発信先を突き止める作業を何日もかけてやりました。
しかし、わかりませんでした。
こういう風な匿名性に隠れて非難する人々がどんどん増えていると思います。
それが私の記事とは全く関係ない私の勤務先にもこれだけたくさんの攻撃がなされている。
日本は民主主義の社会です。
こういう風な卑劣な行為は絶対に許さない。
皆さんのお力を借りたいと思っています。

◆「私は自分で愛国者だと思っています」
 
ーー 植村さんへの批判には「反日」というレッテルも貼られていると思う。
こうした記事を書く際に、植村さんは日本についてどのように考えているのか。
また、最近台頭しているといわれているナショナリズムについて、どのように考えているのか。

植村氏:
今、ちょうど関連する資料をお見せします。
ここにですね、私宛のハガキが大学の住所に送られてきました。
読みましょう。
「出ていけ、この学校から。出ていけ、日本から売国奴」。
これは大学に送りつけられたハガキであります。
こういうのもあります。
「日本で稼ぐな。大好きな韓国に帰化して姑に食べさせてもらえ」。

しかし、私は反日ではないんです。
私は日本が他のアジアから尊敬される、本当の仲間だと思える国になってほしいんです。
そういう意味では、私は自分で愛国者だと思っています。

学生に言っています。
僕の学生は、韓国、台湾、中国から来る学生が多いです。
いつも言っているんですが、
「もちろん今日本で不愉快なことがたくさんあるかもわからないけれど、日本もいいところがあるし、日本と隣国は大切な関係なので、是非日本でいろいろなことを学んでほしい」と。

私は幸いなことにソウル特派員と北京特派員という二つのアジアの街の特派員をさせていただきました。
その時の政治状況で国と国との関係は良くなかったりというのはありますが、どの街も人間として同じように触れ合えて、本当に隣国の人たちと仲良くなりました。
そういう風な学生と接しているわけです。
僕はアジアの中で隣国との関係はとても大切だと思っています。
それをずっと記者としても、考えてきましたし、訴えてきました。

まったく知らなかったのですが、僕の学生が日本語スピーチコンテストでスピーチをしてくれました。
「植村先生をやめさせないでくれ」と。
日本に「言論の自由」とか「学問の自由」とかがなくなっていたら、それは隣国にも影響がある。
そんな学生を持って僕は幸せですので、絶対にこんな卑劣な脅迫で大学を去りたくないと思っております。

こういう卑劣な書き込みとか攻撃する人たちのことを、何故そういうことをするのかわかりません。
ただ一つだけ言えるのは、多分そういう人たちは、韓国や中国の友達がいないんじゃないか。
そういう人たちと触れ合ったことがないんじゃないか。
だから、心の中で排外主義が高まっているんじゃないかと思います。

ーー 昨年11月、脅迫電話をかけて逮捕された人間がいたが犯人は略式起訴でした。
処分が軽すぎると思うのだが、こうした処置や今回の事件に関する政府の姿勢をどのように考えるか。

植村氏:
確か新潟県の男性が逮捕されたと思います。
全く面識のない人です。
名前も私は存じ上げませんでした。

一つ私がジャーナリストとして残念なのは、何故この人がまったく見知らぬ私、大学を脅迫したのか。
その後のフォローの記事が日本のジャーナリズムにないことです。
逮捕された時は大きく出て、処分・略式起訴の段階になると小さくなりました。
事件で一番大事なのは動機であります。
この人がどういう動機でこのようなことをしたのか。
それを考えることこそがこうした行為を防止する方法ではないかと思っています。

この処分が重かったかどうかはわかりません。
ただ、抑止効果になったとは思います。
北星学園というのは学生数がたった4200人の小さな学校です。
しかし、明治時代にアメリカの宣教師がつくったミッションスクールであります。
1995年の戦後50年の時に「北星平和宣言」というのを発表した学園でもあります。
アジアの侵略戦争の反対と人権教育の大切さを訴えています。
こんな小さな大学が、この激しい攻撃に耐えて、私を雇い続ける、「学問の自由を守る」と言ったんです。
小さな大学が大きな勇気を示したんです。
北星学園のこうした平和宣言というのは、日本政府が歩む道でもあると思います。
必ずや政府も北星学園を支援して、こうした卑劣な行為を食い止める力になってくださると思います。

神原弁護士:
今の件について、一言だけ。札幌の現地の弁護士から、現地の警察はこの脅迫問題について、必ずしも熱心ではないという情報をもらっています。
そこで弁護士が300人以上、名前を並べて刑事告発をする。
そのような運動も行っております。
日本の警察はキチンとこのような卑劣な犯罪を取り締まるために戦うべきだということもここで訴えさせていただきたいと思います。

◆「吉田清治証言についての記事は一本も書いていない」

ーー 「吉田清治証言」については、何本記事を書いたのか?
虚偽であった吉田発言は結果的に反日を煽ったわけだが、これについて植村さんはどう考えるか?

植村氏:
先程も少し触れましたが、「吉田清治証言」の記事がありますね。
私は一本も書いておりません。
私は「吉田清治証言」の後に慰安婦問題の取材を始めた世代です。
「吉田清治証言」の取材はしておらず、その後に慰安婦のおばあさんに直接取材を始めた世代です。

本屋さんに売っている本に、「朝日バッシング」の本があるんですけれども、そういうのにも「吉田清治証言についてたくさん書いている植村記者」という表現がありました。
だいたいこういうのこそ捏造というのではないかと思います。
今月号、昨日発売された「世界」にその辺のことを書いています。
以下に、デマ情報が活字にまでなっているのか、ということを書いています。

私が書いた金学順さんの記事というのは、当時のことを調べましたら、8月11日の記事は、まったく韓国でも報道されていませんでした。
このため、私は「反日気分を煽った」と言われても煽ってません。
むしろ、日本がアジアの中で本当に信頼される仲間になるための作業をしていると思っています。




サルメラ:
「私は捏造してません」 ・・・?
ならば植村に聞きたい。
捏造記事を直接書かなかったにせよ、
捏造に未必の故意による関与をし、
増幅を仕掛けなかったと、果たして言うことができるのか?

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「強制連行」をでっち上げたのは植村隆ではない
池田信夫
2014年12月11日

きのう発売の『文藝春秋』に、
「慰安婦問題『捏造記者』と呼ばれて」
という朝日新聞の植村隆元記者の手記が掲載されている。
28ページにわたる記事のほとんどが「他社もやっていた」という言い訳と、彼が迫害されて職を失った話で、反省も謝罪もない。

特に大きな問題は「女子挺身隊」という日本政府による徴用を意味する言葉を、私的な慰安婦に使ったことだ。
問題の1991年8月11日の記事はこうなっている。

《日中戦争や第2次大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、1人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)が聞き取り作業を始めた。》

これについて植村は「意図的な捏造ではない」と主張し、「他社も挺身隊と書いていた」とか「朝日の記事でも過去にそうなっていた」などという。

この情報は当時のソウル支局長(小田川興)から教えてもらったと主張し、義母がその「挺身隊」を指弾する遺族会の幹部だったことは偶然だという。
慰安婦問題を取材しているうちに、同じ問題を調べている妻と出会って結婚し、あとから義母が遺族会の幹部であることを知ったという。
都合のいい偶然だ。

最大の疑惑は、金学順が「戦場に連行された」と言ったのかという点だ。
これについて1991年12月6日に提出された慰安婦訴訟の訴状では

「14歳からキーセン学校に3年間通ったが、1939年、17歳の春、『そこへ行けば金儲けができる』と説得され、養父に連れられて中国へ渡った」

と書いている。
ところが12月25日の植村の記事では、こうなっている。

《その後は子守をしたりして暮らしていました。
「そこへ行けば金もうけができる」。
こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。
仕事の中身はいいませんでした。
近くの友人と2人、誘いに乗りました。
17歳(数え)の春(1939年)でした。》

訴状には「14歳からキーセン学校に通った」と書かれているのに、17歳でいきなり「連行」されたように書いている。
しかも訴状ではキーセンに仲介したのは養父(おそらく朝鮮人の女衒)だが、植村の記事では「地区の仕事をしている人」に連れて行かれたことになっている。

訴訟が起こされたのは記事が出る前であり、彼は訴状を読んだことを認めている。
それなのに14歳から17歳の部分を落としたのはなぜか。
彼は「弁護団の聞き取り要旨にはキーセンのくだりがなかった」などと言い訳をしているが、そのすぐ後で「キーセンだから慰安婦にされても仕方がないというわけではない」と書いている。

つまり植村は、キーセンに売られた経歴を知りながら落として「連行」の話にしたのだ。
これは単なる誤報ではなく、芸者になる訓練をしてから慰安所に売られたという金学順の話を「女子挺身隊の名で連行」されたという(本人が言っていない)話に仕立てた捏造である。

植村は「だまされて慰安婦にされた」と書いているが、だました主語は誰なのか。
「挺身隊の名で連行」したなら朝鮮総督府か日本軍だが、人身売買なら女衒である。
これはまったく違う話だが、肝心の点をぼかしている。
しかし彼は一つ重要な告白をしている。

《私は[8月11日の記事の]本文では、この女性が「だまされて慰安婦にされた」と書いた。
暴力的に拉致する類の強制連行ではないと認識していた。
[…]
私自身は<女子挺身隊の名で>は、
決して<女子挺身勤労令によっての連行>ということを意味したものではなかった。

植村は記事では<だまされて慰安婦にされた>とはっきり書いており、強制連行とは書いていない。》

なぜか最後の文だけ主語が「植村は」となっており、第三者が介入した形跡があるが、それはともかく、彼が金学順について書いた署名記事は2本だけで

「旧日本軍の慰安所設置などを示す資料が発見されたという92年1月の有名な記事は私が書いたものではない」
という。

つまり強制連行をでっち上げて政治問題にしたのは、植村ではないのだ。
それが誰であるのかを彼は書いていないが、当時の彼の上司で慰安婦問題に熱心だった北畠清泰(故人)ではないか。

つまり慰安婦デマは植村の個人的な犯罪ではなく、大阪社会部の組織ぐるみの犯罪なのだ。
その部長だった渡辺雅隆社長が、問題を解明できるとは思えない。

植村は自分を言論弾圧や脅迫の被害者として描きたいようだが、その問題を解決するのは簡単だ。
逃げ回らないで記者会見を開いて、以上の疑問に答えることである。
それをしないで一方的に手記を載せても、誰も説得できない。

追記:1992年1月の「軍関与示す資料」の記事を書いたのは、辰濃哲郎記者(東京社会部)だと思われる。
本人がそう証言している。
ただし「挺身隊として強制連行」という囲み記事を書いたのは別人だろう。


サルメラ:
戦後70周年、植村裁判を煽って、左翼弁護士がうごめき出したという印象。

だが問題は『植村個人』にあらず、
もちろん、植村も含めてだが、『〝従軍〟慰安婦』捏造疑惑に、どこまで、誰が、どういうふうな経路で関与してきたのか、にある。

朝日新聞が一部で謝った。
これを蟻の一穴とし、せっかく流れはそっちに向かい始めたはずなのに、偏った右翼がそれを台なしにしてる感もあるなか、
この裁判を左翼の思惑通りにさせず、
ワンサイドでしか モノを見れない両ウィングに左右されることなく、
平坦な目で真実をつまびらかにするためのリスタートにしてほしいもんだ。

韓国の人々は自分たちが枢軸国側の一員だったことを忘れないでほしい

転載元 木走日記

韓国の人々は自分たちが枢軸国側の一員だったことを忘れないでほしい

◆アンジェリーナ・ジョリー「日本の反発気にしない」…
ネットユーザー応援相次ぐ
2015年01月02日17時00分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
 
「日本の反発は気にしない」。
ハリウッド女優アンジェリーナ・ジョリーの発言が新たに注目されている。
映画『アンブロークン』の韓国内での封切り(1月7日)を控えてだ。
今回ジョリーがメガホンをとった『アンブロークン』は、米国のオリンピックの英雄であり日本軍の戦争捕虜として数奇な運命を体験したルイス・ザンペリーニの人生を題材にしている。
 
この映画には、第2次世界大戦中にザンペリーニが850日間日本軍の捕虜収容所で拷問・虐待を受けるシーンが描かれている。
この事実が知られる中で日本の極右団体が激しく反発した。
日本の極右団体はこの映画で描写された日本の捕虜収容所シーンについて「ねつ造」と主張して映画の上映禁止とジョリーの入国禁止を要求した。
日本のあるサイトでは『アンブロークン』の上映ボイコットを要求する嘆願書に1万人以上が署名した。
 
日本の極右団体の反応についてジョリーは先月23日、米国日刊紙USAトゥデイとのインタビューで日本国内の反発は気にしないと伝えた。
彼は「美しいメッセージを込めた美しい映画だ。私たちは東京大空襲を含めて戦争のあらゆる面を扱おうと努めた」と話した。
引き続き
「ルイスは戦争捕虜としてとても大変な時間を体験した。
私たちは彼に敬意を表わしたい。
そして戦争で苦痛を受けたすべての人を映画で見せてあげたかった」
と語った。
 
米国のネットユーザーはジョリーの発言に対して
「戦犯国家である日本の歴史の『洗濯』を許容してはいけない」
「世界大戦の中で日本の残酷な行為を暴露したジョリーを応援する」
「私の親戚も日本の拷問のために苦しみながら死んだ。
日本の悪行はナチスに劣らない」
などのコメントを寄せた。
 
監督に変身したジョリーの2本目の演出作である『アンブロークン』は、製作段階から世界的な注目を浴びていた。
世界的巨匠コーエン兄弟が脚本を担当し、ハリウッド最高のスタッフが参加したからだ。
『アンブロークン』は、1936年ベルリンオリンピック米国陸上代表選手だったルイス・ザンペリーニの感動的な人生と共に、戦争のさまざまな面を写実的に見せるブロックバスター映画だ。
イタリア移民者であるザンペリーニは19歳のときに米国のオリンピック国家代表に選抜されたが、第2次世界大戦に参戦し日本の捕虜として850日を送って多くの苛酷な行為にあう。
先週、北米での公開と同時にボックスオフィス1位を占めた。
(引用終わり)
 
 
「戦犯国家である日本の歴史の『洗濯』を許容してはいけない」
「世界大戦の中で日本の残酷な行為を暴露したジョリーを応援する」
「私の親戚も日本の拷問のために苦しみながら死んだ。
日本の悪行はナチスに劣らない」
 
米国のネットユーザーのコメントまで拾っています。
うむ、大変興味深い記事です。
 
「日本の極右団体はこの映画で描写された日本の捕虜収容所シーンについて「ねつ造」と主張して映画の上映禁止とジョリーの入国禁止を要求した」が、
ジョリーは先月23日、米国日刊紙USAトゥデイとのインタビューで日本国内の反発は気にしないと伝え、そして多くのネットユーザーの応援が相次いでいるというわけです。
 
いかにも韓国メディアが好きそうな話題ではあります。
 
さて例によって当ブログとしては、事実に基づき、少しこの記事を角度を変えて分析してみたいのです。
 
この記事もそうですが、どうも韓国メディアは戦時中の日本軍の蛮行について「加害者」日本の一部がそれを「捏造」と批判することに嬉々として取り上げ、アメリカなどの戦勝国側視点で報道するわけでありますが、これ自体はお好きにどうぞとしか言えませんが、歴史的事実は曲げられないことは押さえておきたいです。
 
つまり戦時中、朝鮮人も台湾人も「日本人」として戦争に加担していた事実であります。
 
さて、朝鮮人戦犯148人のうち、129人が、捕虜収容所の監視員として徴用され、タイ・ジャワ・マレーの捕虜収容所に配属された軍属であることは、事実として押さえておきましょう。
 
 
◆朝鮮人・台湾人の戦争犯罪人[編集]
BC級戦犯の中には、当時併合していた朝鮮の朝鮮人と旧植民地出身の・台湾人がいた。
その数は、朝鮮人が148人、台湾人が173名だった。
連合国が、日本の戦争犯罪の中でも捕虜虐待を特に重視していたこと(ポツダム宣言の第10項)、日本軍が、東南アジアの各地に設置した捕虜収容所の監視員に朝鮮人・台湾人の軍属を充てたこと、連合国各国が朝鮮人・台湾人を、「敵国に使用された臣民」と見なし、日本人として裁いたこと、上官の命令に基づく行為でも責任を免除されないとしたことが、多くの朝鮮人・台湾人の戦犯を生み出した要因となった。
泰緬鉄道建設の例に見られるように、日本政府が「ジュネーヴ条約」の準用を連合国各国に約束しながら、それに基づいた処遇を適正に行わなかった為、条約に反した命令・処遇の実行責任が、末端の軍属にも問われた(厳密には「準用」は「遵守」に比べて実行側の裁量の余地が大きいが、そうした主張が通る状況ではなかった)。
 
朝鮮人戦犯148人のうち、軍人は3人だった。
1人は洪思翊中将であり、2人は志願兵だった。
この他、通訳だった朝鮮人16人が中華民国の国民政府によって裁かれ、うち8人が死刑となった。
残る129人全員が、捕虜収容所の監視員として徴用され、タイ・ジャワ・マレーの捕虜収容所に配属された軍属である。
尚、敵国の婦女子をはじめとする民間人を抑留したジャワ軍抑留所の監視にも朝鮮人軍属があたったため、オランダ法廷で戦犯となっている。
 
朝鮮人については
「一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりももっと凶暴だった」
「体罰では、日本兵よりも彼ら(韓国人)を遥かに恐れた」
「日本人戦犯の責任を軽減するつもりは毛頭ないが、占領地域で最も嫌われたのは、このころ日本国籍を持っていた朝鮮人だった」
などをはじめ、その凶暴性についての証言が数多く出ている。
 
台湾人軍属は、ボルネオ捕虜収容所に配属された。
オーストラリア法廷で多くの台湾人が戦犯として裁かれ、うち7人が死刑、84人が有期禁錮となった。
 
ちなみに、朝鮮人・台湾人の戦犯は、日本人が「内地送還」になる際、一緒に日本へ送還され、巣鴨プリズンに収容された。
(引用終わり)
 
 
 
戦時中の旧日本軍の捕虜収容所における戦争犯罪において、少なからずの朝鮮人も日本軍の一員として犯罪行為を犯していた事実は、韓国のメディアでは一切取り上げられません。
・・・
 
韓国の人々は自分たちが枢軸国側の一員だったことを忘れないでほしいものです。
事実は事実として押さえておきましょう。
(木走まさみず)

池田信夫/ティラミスの鍵

転載元 池田信夫のブログ
 

「江戸時代化」する世界

ギリシャが大統領の選出に失敗して年明けに議会選挙をやり直すことになりましたが、急進左派の候補が有力になり、ユーロは大きく下がっています。
ギリシャの問題はユーロ危機の原点ですが、根本的な問題はゼロ金利と不況から抜け出せない状況です。
これは日本の「失われた20年」と同じで、低金利・低インフレは世界的な傾向です。
その原因は労働人口の減少と投資機会の減少で、この背景には新興国との競争激化があります。
日本のデフレは、大収斂による長期停滞のトップランナーだったわけです。
 
もう一つの共通点は、決められない政治です。
ギリシャをユーロからたたき出せば、問題が片づくことはわかっているのですが、そうすると危機がポルトガルやスペインなどに波及するので、EU議会で合意できない。
国家を中途半端に統合した幕藩体制に似たしくみには、主権者がいないからです。
 
與那覇潤さんと書いた『「日本史」の終わり』では「グローバル化する世界で日本は江戸時代から抜け出せない」と書きましたが、同じ病気が世界にも広がっているようです。
江戸時代型システムで400年以上やってきた日本は、世界のモデルになるかもしれません。
 
 

獣と主権者

参考文献: 獣と主権者I (ジャック・デリダ講義録)
 
安倍首相のめざす憲法改正の意味を考えてみる。
彼を含めて右派の人々が意識しているのは、日本の主権(sovereignty)を実質的にはアメリカがもっている現状だ。
これを是正して一人前の主権国家になるという目標は悪くないが、それは自明の概念ではない。
ウェストファリア条約は神聖ローマ帝国を300の領邦に分割したが、「至高の存在」という意味でsovereignな国家が300もあること自体が矛盾していた。
その後も、戦争や併合は続いた。
本書のタイトルは奇抜にみえるが、実はそうでもない。
カール・シュミットがいったように、主権者とは例外的な事態について決定する法の上に立つ存在だが、獣(人間ではない者)は法の下にある。
 
前者の権力は、後者を国家から排除することで成り立っているのだ。
逆にいうと主権は、「人間」以外を排除する暴力で支えられている。
アガンベンは、主権をになう市民からなるビオス(社会的な生)と、それ以外の難民などのゾーエー(むき出しの生)の差別を近代の「生政治」の基礎だとしたが、デリダはこれを執拗に批判する。
 
アリストテレスが人間を「政治的動物」と規定したように、ギリシャの昔から政治はゾーエーを含んでいた。
それどころか動物的な恐怖――特に肉体的な死の恐怖――に訴えることで政治権力は維持されてきた、というのがホッブズ以来の近代政治学の認識だ。
この意味で、フーコーのいう「死の政治」と「生政治」は切れていない。
 
主権とは、国家の中のこうした動物的な部分を抑圧して「ロゴスによる統治」をよそおい、被支配者である国民が選挙によって「主権者」になると思わせる組織された偽善(Krasner)である。
ロゴスとは何よりも、人間と獣の閾を画し、暴力の対象を獣(とみなされる者)に限定するための概念装置なのだ。
 
主権国家は、その内なる獣を抑圧し、他国を排除する閾によって成り立っているので、みずからその閾を壊す連邦国家が成り立つことはむずかしい。
それは近代国家の依拠している偽善を白日のもとにさらしてしまうからだ。
そして今、EUは神聖ローマ帝国の主権なき混沌に戻ろうとしているようにみえる。
 
日本は古来、主権を徹底的に拒否してきた。
形式的な主権者である天皇は、受動的に「まつられる」存在であり、何も決めないことで1000年以上続き、国家の同一性を維持してきた。
この世界にもまれに見る伝統は、ポストモダン国家の最先端なのかもしれない。
 
このような曖昧さを安倍氏がきらうのはわかるが、憲法改正で主権を「取り戻す」ことはできない。
それはデリダも丸山眞男も指摘するように、近代国家の本質的な欺瞞だからである。
 
 

世界政府という見果てぬ夢

参考文献: 政治的なものの概念
 
デリダが主権の批判者として評価するのはシュミットだが、彼はその先駆者としてマルクスをあげている。
カントの「世界政府」は主権国家の集合体であり、国家を統治する国家をもたない、と嘲笑したのはヘーゲルだが、彼の『法哲学』でもすべての特殊性を止揚した普遍が、なぜかプロイセン国家だった。
これを御用哲学と批判したマルクスはインターナショナルを創設し、完全な自由貿易を提唱した。
 
シュミットは本書で、このインターナショナルこそ近代国家を乗り超える形態だという。
国際連盟は中途半端な主権国家の寄せ集めにすぎないが、
「第三インターナショナルのように国家の境界を超え、その壁を突き破って国家の領土的閉鎖性を否定する運動こそ、戦争を最終的に終わらせる可能性をもつ」
と彼は評価した。
これが(国際化と区別される)グローバル化の本質である。
 
国際機関は政治家や官僚機構の妥協の産物であり、国際法は「主権国家の自己制限」でしかない。
それは本源的に国家主権に依存しているので、国家に不利な改革はできない。
もともと経済活動はグローバルであり、16世紀まで世界に国境はなかった。
労働運動はそういう資本主義以前の普遍的な連帯を求めている。
 
現代でインターネットが驚異的な成長を遂げたのも、国際機関の官僚機構をバイパスしたからだ。
しかしシュミットのいうように、政治が友と敵を区別することだとすれば、外のどこにも敵をもたない国家は、すべての内なる敵を弾圧することによってしか維持できない。
その根拠になるのは、みずからの理念の絶対的な普遍性である。
レーニンやルカーチがプロレタリアートの不可謬性をとなえたことは、この意味で一貫している。
 
もちろんそんな絶対的真理はないので、プロレタリア階級が全人類を解放するというレーニンの理想は、恐るべき逆ユートピアをもたらした。
シュミットはここから、主権国家がいかに欺瞞的であろうとも、それ以外の実在はないのだという。
だがデリダは、あえて21世紀に「新しいインターナショナル」の可能性をマルクスの中に見出そうとする。
それは主権国家を超えて連帯する人々のアソシエーションだ。
世界の不平等は、移民を無制限に受け入れる歓待で(論理的には)解決できる。
資本が国境を超えて自由に移動できるのに、どうして人々は国籍にしばられるのだろうか。
 
向こう数十年はシュミットのシニシズムが正しいだろうが、100年ぐらい先を考えると、マルクスやデリダの理想が実現する可能性もゼロではない。
ただしそれができるとすれば、人々の善意によってではなく兵器の均衡によってだろう。
 
暴力革命が先進国で不可能になったのは、政治が改善されたからではなく、国家の軍事・警察力と市民の武力の不均衡がきわめて大きくなったからだ。
中東で戦争が続くのは武力が多いからではなく、テロリストを鎮圧する国家の武力が不十分だからである。
 
マルクスは主権国家の矛盾を「市民社会」への回帰で乗り超えようとしたが、彼は市民社会(societas civitas)の本質が暴力にあることに気づかなかった。
暴力装置としての主権国家を乗り超えるには、暴力を完全にコントロールする世界政府をつくるしかないが、それは見果てぬ夢だろう。
 
 

ピケティと主権国家

ピケティは、レジオン・ドヌール勲章を拒否した。
「名誉ある人を決めることが政府の役割だとは思わないからだ」という。
ここには彼の国家観がよくあらわれている。『21世紀の資本』の冒頭に掲げられているのは、フランス人権宣言の第1条である。
 
人は自由かつ権利において平等(egaux en droits)なものとして生まれ、生存する。
社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ設けられない。
 
ここにいう平等は、日本人のイメージする結果の平等ではなく、すべての人が等しく同じ人権をもっているという同等性である。
これは今では自明にみえるかもしれないが、1789年にはそうではなかった。
特定の国にも身分にも依存しない人権という概念は、それまでヨーロッパにはなかった。
 
バークは、このような普遍的な人権という思想を批判した。
すべての人間が「同じ人権をもって生まれた」などという迷信にもとづいて革命を起こすと、その政権は人権の名のもとに他の国民を「解放」する戦争を起こすだろう、
という彼の予言は正しかった。
 
他方、マグナ・カルタで定められたのはイギリス人の権利なので、他国には適用されず、他国がイギリスの革命に干渉することもなかった。
抽象的な人権ではなく慣習を尊重し、政治も経済もあるがままにする英米的な自由主義が、その後もずっと資本主義の主流である。
 
それでいいのか、というのがピケティの問題提起だ。
資本の論理にまかせると、富は大企業や資本家に集中し、タックス・ヘイブンに逃避する。
今や世界の富の1割近くが地下経済になり、税率は逆進的になりつつある。
節税技術に多額の金をかけることのできる大富豪の税率が最低になるからだ。
 
マルクスが1848年に発見したグローバル資本主義は、主権国家と闘いながら成長してきたが、つねに国家にまさっていたわけではない。
戦後のブレトン=ウッズ体制では、国家が資本主義をおさえこんできた。
しかし今、この闘いは資本主義の勝利に終わろうとしている。
それを可能にしたのは、情報ネットワークである。
 
保守主義者はそれでいいというだろうが、資本が国家から自由になってオフショアに集まると、可処分所得の不平等はますます拡大し、財政をおびやかす。
主要国で対外純資産を計上しているのは日本とドイツだけだが、日本の企業も合理的に行動するようになると、連結の経常利益は上がるが、納税額は減る。
 
ここでわれわれは、資本主義か主権国家かという問いに直面する。
ピケティは経済システムとしての資本主義は守るべきだとしつつ、国家を守るために「グローバルな資本課税」を提案する。
それは今はユートピアだが、人権を守るために必要なユートピアかもしれない。
 
国家は巨大な資本の力の前には無力にみえるが、軍事力を発動すれば、資本主義をコントロールすることは不可能ではない。
ブッシュ政権は「マネーロンダリング防止」と称してケイマン諸島に介入し、EU各国の警察はリヒテンシュタインの銀行を差し押さえた。
これが保守と左翼の本質的な対立である。
 
私はピケティの意見には賛成しないが、富のグローバルな分配が21世紀の最大の問題になるという彼の見通しは正しいと思う。
派遣法反対などというお涙ちょうだいの政策しか出せない日本の左翼は、ピケティを読んだほうがいい。
 
 
 

ピケティは「現代のマルクス」か

きょうのアゴラ経済塾では、『日本人のためのピケティ入門』をテキストにして『21世紀の資本』の内容を解説する。
 
メディアがよくピケティのことを「現代のマルクス」と紹介するが、彼は「マルクスはよく知らない」と言っている。
『21世紀の資本』で「マルクスは資本が無限に蓄積されると予言した」と書いているのは、『資本論』第1巻の最後の部分の「資本が集中して労働者は窮乏化する」という話だと思われるが、これは理論的に説明されていない。
 
未刊の第3巻では「資本の有機的構成の高度化によって利潤率は傾向的に低下する」と書いており、一般にはこちらがマルクスの理論的な予言と考えられている。
これは独創的な見解ではなく、リカードの収穫逓減の法則だが、先ほどの労働者が窮乏化するという予言と矛盾する。
 
両方を矛盾なく理解するには、一定の規模までは収穫逓増するが、それを超えると収穫逓減すると解釈するしかない。
これは経済学でおなじみのU字型の費用曲線である。
固定費が大きい場合は、一定の規模までは大量生産のメリットがあって限界費用MCは低下(収穫が逓増)する。
これは市場には取引費用があるので、個人で生産するより工場でまとめて生産したほうがいいためだ。
 
これを進めると、全世界の企業が合併して一つの「世界株式会社」のようなものになり、それを労働者が乗っ取ってコントロールする、
という姿をマルクスは考えていたと思われる。
 
しかし実際には企業規模が無限に拡大することはなかった。
20世紀後半には多角化したコングロマリットが解体され、専門化したベンチャー企業が有利になった。
 
 
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A点を超えて規模が大きくなるとMCが上昇(収穫が逓減)し、資本蓄積によってMCが限界収入(MR)と等しくなる点Bに到達し、ピケティの言葉でいえば資本/所得比率βが安定する。
 
最近では、アップルやグーグルのように特定の分野でグローバルに水平分業して大規模化する企業が増えている。
これはインターネットなどの通信手段の発達で取引費用が下がり、最適なβが大きくなった(費用曲線が右にシフトした)と考えることができる。
 
ピケティは、この図の左側の部分をみているが、いうまでもなく資本が無限に蓄積されることはありえない。
これは彼も認めており、現代の成長理論の黄金律では、資本収益率rが成長率gと等しくなる点でβが決まることになっている。
 
だから問題は均衡状態Bでβの値がどうなるかという実証的な問題に帰着し、理論的には決着がつかない。
ピケティは最適なβの値を10~15と考えているが、今の先進国のβは5~7ぐらいだという。
この推定が正しいとするとr>gになり、資本蓄積が進む。
 
そういう資本過小の状態は発展途上国では考えられるが、現代の成熟した資本主義でそれほど大きな資本蓄積の余地があるとは考えられない。
10を超える極端に大きなβは動学的に効率ではない、とAcemoglu-Robinsonは批判している。
 
マルクスは『資本論』の第1巻では資本が蓄積されて企業が集中する図の左側の状況を想定したが、第3巻では資本が過剰に蓄積され、Bを超えると過剰生産が発生し、恐慌が起こって資本が破壊されると考えた。
この過少消費の理論は、ローザ・ルクセンブルクやカレツキからケインズに受け継がれた。
 
このようにピケティの資本蓄積論はマルクスとはまったく違い、世界で一律に資本蓄積が増大して格差が拡大するという彼の予言は疑わしい。
どちらかといえば、収穫逓増と逓減の両方を視野に入れていたマルクスのほうが21世紀の現実に近い。
 
 

タックスヘイブンという「新しい植民地」

参考文献: タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!
 
ピケティの本の前半は日本とほとんど関係ない。
ここで注意が必要なのは、彼のデータが税引き後の国民所得であることだ。
資本家にとっては税もコストの一つなので、それが最低の場所で納税することが合理的だ。
 
アメリカの不平等化の一つの原因が、タックスヘイブンを利用した租税回避である。
アップルの海外法人は、所得の1.8%しか税金を払っていない。
経済学者はタックスヘイブンは単なる税制の抜け穴だと思っているが、その規模は大きい。
ピケティはその規模を世界の総資産の1割と推定しているが、本書は1/4と推定している。
おおむねアメリカのGDPと同じだ。
2008年の金融危機を起こしたのはアメリカの金融資本だが、それをかつてない規模に拡大したのは、オフショアの「影の銀行」だった。
 
本書はその歴史を戦前までさかのぼり、植民地支配や金融システムとの関連で論じる。
ケイマン諸島や香港などの古くからあるタックスヘイブンの特徴は、その多くがイギリス領だったことだ。
これは偶然ではない。
大英帝国の植民地は世界の表舞台からは姿を消したが、それを支える金融資本の力は衰えていないのだ。
イギリスが旧植民地を経済的に支配するには政府を統治する必要はなく、シティを中心とする金融ネットワークに組み込めばいい。
その舞台に選ばれたのがカリブ海や香港・マカオ・シンガポールだが、それを運営しているのはシティの出身者である。
スイスやルクセンブルクなどのヨーロッパの小国も有力なタックスヘイブンだが、今や世界最大のタックスヘイブンはアメリカだ、と本書はいう。
世界の「地下資金」の多くは、ニューヨークでコントロールされている。
それは米国内でやったら脱税で、ネットワークを経由してカリブ海でやれば「金融技術」だが、どっちも実際に金を動かしているのはNYのファンドマネジャーである。
 
ケインズは第2次大戦後に、このような資本逃避が経済を混乱させることを懸念して資本移動を規制しようとしたが、アメリカの金融資本が反対し、その妥協としてブレトン=ウッズ体制ができた。
それも1970年代には崩壊し、変動相場制や「ビッグバン」で資本は自由になったが、それは人々を幸福にしたのだろうか。
多国籍企業の経営者の最大の関心事は「海外法人の最適配置」による租税回避だ。
その収益率は実業よりはるかに高いが、生産性はゼロだ。
80年代から法人税率も所得税率も下がり、各国の財政を悪化させている。
タックスヘイブンを利用できるのは大富豪だけなので、税は逆進的になった。ウォーレン・バフェットの実効税率は、彼の会社の受付係より低い。
 
著者は「金融資本が国家を脅かしている」と批判するが、法人税の租税競争は法人税(二重課税)を廃止すれば解決する。
しかし個人の所得税を廃止することは困難であり、ピケティのいう「グローバルな資本課税」は不可能だ。
OECDが規制を強化すると、途上国に新たなタックスヘイブンができる。
このようにグローバル資本主義は主権国家のフリーライダーになりつつあるが、それを根底で支えているのは国家による安全保障や財産権の保護である。
地下経済の規模がここまで大きくなると、それは国家の財政基盤を浸食するだけでなく、資本主義そのものを滅ぼすかもしれない。
 
 

ろくでなしのロシア

参考文献: ろくでなしのロシア─プーチンとロシア正教
 
今年の世界経済の震源地は、おそらくロシアだろう。
プーチンを理解するには、ロシア正教を理解することが不可欠だ。
彼はロシアの伝統的なツァーリであるとともに、ロシア正教会を支配するカリスマにもなりつつあるからだ。
ロシア正教は、キリスト教から出ているが特殊ロシア的に土着化したスラブ系信仰である。
聖書はほとんど読まないで、教会は信徒を叱る。
民衆は教会の権威に従うことで「人生の意味」を教えてもらう。
ドストエフスキーの「大審問官」の世界である。
キリスト教の特徴は教権と俗権の分離だが、ロシア正教ではツァーリが教会を支配する神権政治になった。
これは「タタールの軛」と呼ばれるモンゴル人による征服のあと、16世紀にイワン4世がロシアを統一したときできた伝統である。
これは皇帝が「天子」だった中国と似ているが、ロシアでは正教会の精神的権威が強く、宗教的な正統性をめぐる争いが絶えなかった。
東方教会の教義はマリア信仰が重要な地位を占めるなど異教的だが、ローマ帝国が没落した後は正教会(Orthodox Church)を名乗った。
こうしたロシア正教の権威を利用したのがレーニンだった。
彼はロシア社会民主党の主流だったメンシェヴィキを「異端」として罵倒し、自分こそ「マルクス=レーニン主義」の正統だと主張した。
西欧的な社民主義は、スラブ的な家父長主義に慣れた民衆には根づかなかった。
 
プーチンは、こうしたツァーリズムの伝統を典型的に継承している。
彼は事実上の終身大統領となり、政府がロシア正教を支援して実質的な「国教」にしようとしている。
彼に対抗できる政治的勢力は、国内にはない。
それをくつがえす力があるとすれば、経済危機だろう。
 
日本やEUの問題が主権の不在による「決められない政治」だとすれば、ロシアの問題は主権の過剰である。
これは中国と共通の「ユーラシア中央型専制国家」で、日本とは対角線上にある。
ロシアとつきあうには、まず相互理解は不可能だということを理解したほうがいい。
 

総力戦体制の亡霊

参考文献: 総力戦体制 (ちくま学芸文庫)
「戦争が資本主義を生んだ」というのが『資本主義の正体』のテーマだが、この問題はようやく日本でも論じられ始めた。
本書は私とは違う角度から、戦時中の総力戦体制が戦後の高度成長を生んだ、という議論を検証している。
これは野口悠紀雄氏の「1940年体制論」としておなじみだが、その起源はなんと丸山眞男の学生時代の論文「政治学に於ける国家の概念」(1936)にさかのぼる。
 
個人主義と天皇制国家を止揚する「弁証法的な全体主義」を展望した丸山の思想は、当時の社民勢力に呼応するものだったが、彼らが大政翼賛会に真っ先に合流して戦時体制に協力した。
これは大河内一男などの社会政策の伝統にもつながる。
 
大河内は戦前の論文で、労働者を疎外して部品化する資本主義を批判し、「戦争は経済体制の戦時体制への編成を通じて社会政策を強度に押し進める」として、産業報国会を高く評価した。
これらの論文は戦後はすべて絶版になったが、彼の理念は丸山や大塚久雄にも共有されていた。
そして戦後の占領統治でも、こうした左翼が占領軍のニューディーラーに協力し、戦後復興の総動員体制ができた。
それは不在地主や財閥を解体することによって、資本主義の中心を株式会社から銀行に移す国家資本主義だった。
これは結果的に大成功し、通産省のターゲティング政策も効果を発揮した。
 
しかし総力戦体制は「一国資本主義」であり、グローバル化とともに行き詰まる。
金利を規制して資本コストを抑え、貯蓄を奨励して高い資本蓄積を実現した日本型の産業政策と産業金融は、目的関数がはっきりして資本不足の時代には機能したが、資本過剰になるとその効率的な配分ができない。
 
本書はマルクス主義の側からこの問題をみているので議論が混乱しているが、
1930年代以降の日本の政治・経済体制がほぼ一貫して国家社会主義だったという指摘は正しい。
それが複数均衡状態でのビッグ・プッシュとして機能したことも、最近の経済史で再評価されている。
その伝統を受け継ぐ(岸信介のつくった)通産省の産業政策は「均衡選択」の局面では きいたが、経済が成熟するとじゃまになる。
官民ファンドが乱立している状況は、総力戦体制の末期症状である。
 
こうした霞ヶ関の家父長主義の源流は、社会政策の流れをくむ戦後リベラルと同じなのだ。
 
 

桑田佳祐/麗しLove Korea

【コラム】桑田佳祐のソウル公演
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
2015/01/11

1995年夏、
日本の人気ロックバンドが「LOVE KOREA」という曲をリリースした。
「チゲ」「キムチ」「オモニ(母さん)」「僑胞(キョッポ=在日韓国人)」「チョゴリ(韓服の上衣)」「ゲンチャナヨ(大丈夫)」
などの韓国語が入り混じり、
「そりゃオモニが言った麗しLove Korea」と歌っている。

このバンドのボーカルはテレビで韓国料理店に行き、韓国語で「オモニ」「ヨボセヨ(もしもし)」と叫び、韓服を着た人たちと一緒に「アリラン」を歌った。最も日本的で、だからこそ日本人が最も愛するが歌手がなぜこのような「親韓的な行動」をするのか、彼自身が直接説明したことはない。

それからほぼ20年たった2014年12月、このバンドのボーカルは日本人の2人に1人が視聴するNHK『紅白歌合戦』のステージで、『ピースとハイライト』という曲を歌った。

「教科書は現代史をやる前に時間切れ/そこが一番知りたいのに」
「悲しい過去も 愚かな行動も 人間(ひと)は何故(なぜ)に忘れてしまう?」。
ステージのバックには安倍首相や朴槿恵(パク・クンヘ)大統領のお面をかぶった子どもたちが小突き合うシーンが登場した(原文ママ)。
その数日前、このバンドはコンサート会場を訪れた安倍晋三首相に向かって「衆院解散なんてむちゃを言う」と「直撃弾」を飛ばした。

桑田佳祐(58)と、彼が率いるバンド「サザンオールスターズ」のことだ。
1978年にデビューした桑田は、韓国で例えるなら「チョー・ヨンピル」クラスの大物人気歌手だ。
異なる点があるとすれば、今も彼が新曲を出せば間違いなく音楽ランキングの1位になるということだ。
音楽的にも社会的にも絶対的に尊敬されている桑田が2013年夏、安倍政権の暴走ぶりを批判した『ピースとハイライト』をリリースするや、日本社会は騒然とした。
そして昨年末に桑田が見せた「反安倍パフォーマンス」はさらに議論を呼び、彼に対する中傷が増えた。


しかし、桑田はやめなかった。
彼はこのほど、公式ホームページに3月リリース予定の新曲『平和の鐘が鳴る』の歌詞を事前公開した。
今年は韓国にとっては光復(日本統治からの開放)70周年、日本にとっては敗戦から70周年だ。
桑田は「過ちは二度と繰り返さんと/堅く誓ったあの夏の日/未だ癒えない傷を抱えて/長い道を共に歩こう」と歌う。

桑田の歌は慰安婦強制動員などの明白な歴史的事実すら否定する日本に自省を促す。
こうした状況のため「天下の桑田」もコーナーに追い込まれている。
「あんな歌は日本ではなく韓国でまず歌え」「また反日の歌か」「お前、在日韓国人じゃないの?」…。
毎日悪質な書き込みがネット上に飛び交っている。

桑田は韓国にも大勢のファンを持つが、来韓公演はまだない。
韓日両国共に意義深い今年、ソウルで桑田のステージを見てみたい。
桑田と意思を同じくする両国の歌手がステージにそろって立てば、両国国民の閉ざされた心を開く「平和のコンサート」になるだろう。
ソウル公演の成功は、東京公演につながる可能性がある。
今、韓日間には形式的な首脳会談よりも歴史と現実に踏み込んだ人々の連帯の方が切実に必要とされている。

鄭佑相(チョン・ウサン)次長


サルメラ:
この記事、ちょっと違う印象だ。

私から見れば、日本で行われるヘイト・スピーチや、正月早々、桑田の事務所に押しかけ騒いでる連中も、
かの国の『挺対協』を代表とする反日団体も、
主義主張に違いはあれ、同じ穴のムジナに見える。



◆ピースとハイライト
歌手:サザンオールスターズ
作詞:桑田佳祐
作曲:桑田佳祐

何気なく観たニュースで
お隣の人が怒ってた
今までどんなに対話(はな)しても
それぞれの主張は変わらない

教科書は現代史を
やる前に時間切れ
そこが一番知りたいのに
何でそうなっちゃうの?

希望の苗を植えていこうよ
地上に愛を育てようよ
未来に平和の花咲くまでは…憂鬱(Blue)
絵空事かな? お伽噺かな?
互いの幸せ願うことなど

歴史を照らし合わせて
助け合えたらいいじゃない
硬い拳を振り上げても
心開かない

都合のいい大義名分(かいしゃく)で
争いを仕掛けて
裸の王様が牛耳る世は…狂気(Insane)
20世紀で懲りたはずでしょう?
燻(くすぶ)る火種が燃え上がるだけ

色んな事情があるけどさ
知ろうよ 互いのイイところ!!

希望の苗を植えていこうよ
地上に愛を育てようよ
この素晴らしい地球(ふるさと)に生まれ
悲しい過去も 愚かな行為も
人間(ひと)は何故に忘れてしまう?

愛することを躊躇(ためら)わないで



サルメラ:
この歌を何で特定の国に置き換える必要があるのかがわからない。
以下のブログの記事のとりかたの方がよほどしっくり来る。



■紅白歌合戦でサザンが歌った
「ピースとハイライト」の歌詞の意味は?
水島 宏明
法政大学教授・元日本テレビ「NNNドキュメント」ディレクター
投稿日: 2015年01月01日


当初の出場歌手には入っていなかったのが、きゅうきょ紅白に出場することになったサザンオールスターズ。
横浜からの中継で登場したサザンオールスターズの桑田圭祐が歌った「ピースとハイライト」が目を引いた。

強いメッセージ性を持った「ピースとハイライト」の歌詞。

現在のどこかキナ臭い時代への批判精神に満ちたものだった。

「教科書」「歴史を照らし合わせる」
など、今の時代を表す言葉が次々に出てくる。

「都合のいい大義名分」という歌詞では、「大義名分」を「かいしゃく」と歌った。

まるで2014年に起きた「ある出来事」とも符号する。
「癒合のいい解釈」で憲法が事実上変更された、とされた出来事だ。

もっともこの歌が発表されたのは2013年6月。

発表後には「歌詞に政治色が強い」などと一部から批判も出ていた。

「硬い拳を振り上げても」というフレーズは、日本と周辺国の指導者たちをたしなめる言葉に聞こえている。

「裸の王様牛じる世」という言葉も、各国の指導者たちの顔が浮かんでくるではないか。
国同士がいがみ合ったり、拳を振り上げるでのはなく、お互いに理解し合えばいい。

そんな歌詞が大晦日の全国のお茶の間に届けられた。

現在、日本は近隣諸国との間で領土をめぐって緊張が高まっている。

歴史認識でも近くの国同士が批判し合っている。

そんななかで日本も武器輸出が容認され、アメリカ軍との連携がますます進み、軍事色は一気に強まっている。
「愛の力」で現状を変えていこうと訴えるこの歌の歌詞。

ジョン・レノンの「イマジン」を思い起こさせる曲だ。

日本では珍しい平和へのメッセージソング。

その歌詞の意味を改めて噛み締めたい。

歌ったサザン、そして放送したNHKの勇気が伝わってきた。

そういう意味では2014年大晦日の紅白歌合戦は、歴史的な一瞬があった。


サルメラ:
ようは、受けとる側の心が曲がっていればそう聴こえる、ってこと。
真実が多面体っていうのは、そういうとこでなんだろう。





【これは酷い】右翼団体がサザンオールスターズの事務所で抗議デモ!
「桑田佳祐は国民に対して謝罪しろ!」 new!!
転載元 真実を探すブログ

1月11日にサザンオールスターズの事務所があるビル前で抗議運動が行われた事が分かりました。
主催したのは右翼系の団体で、日本国旗を掲げながら、
「桑田佳祐の不敬発言を糾すぞ!アミューズは出てきて釈明しろ!」
等と叫んでいた様子が撮影されています。

これは年末年始の紅白対抗歌合戦等で安倍首相を批判するパフォーマンスをサザンオールスターズの桑田佳祐氏が行ったからで、先週にも在特会の櫻井元会長が
「(桑田氏を)日本人とは認めません」
というようなコメントを投稿していました。

ネット上の反応を見てみると、大半の方が呆れているような感じになっています。
意外と「右翼や国旗のイメージ悪くなる」という意見が保守系の方達からも多く出ていました。

右翼系のまとめブログやSNSが物凄いサザンバッシングをしていたので、
「近い内にデモや抗議運動をやりそうだな~」
と思っていましたが、本当にやってしまうとは苦笑するしか無いです。

フランスなどでは「言論の自由を守れ!」と言って愛国系の団体が抗議運動をしているのに、日本では「音楽は政治に口を出すな!」と言ってデモをしているのはどうかと思います。
海外と比べると、日本の右翼団体はあまりにも幼稚すぎです。


【動画】「桑田佳祐は国民に対して謝罪しろ!」サザン所属事務所・アミューズ前で抗議行動
URL http://blogos.com/article/103243/

引用:
大晦日に放送されたNHK紅白歌合戦でサザンオールスターズが演奏した「ピースとハイライト」(発売は2013年8月7日)。
この曲の歌詞を巡り、ネット上では「政権批判」等の解釈がなされ、話題を呼んでいる。

また、桑田佳祐さんがライブ中に自らが受章した紫綬褒章を持ってパフォーマンスを行ったとされることも相まって、
「反日」「在日」といった書き込みまで飛び出す騒動になっている。

そんな中、11日、東京・渋谷にあるサザンの所属事務所「アミューズ」が入居するビルの前で抗議行動が行われ、「ライブで不敬な言動」「猛省せよ」と書かれた横断幕や国旗を持って集まった人々が「桑田佳祐の不敬発言を糾すぞ!アミューズは出てきて釈明しろ!」等、謝罪を求めるシュプレヒコールを上げた。
(引用終了)


サルメラ:
なんか もう・・・(笑)
『挺対協』と『在特会』で、どっかよその国行って、ずっとやってればいい。

下村満子/『挺対協』ある限り

転載元 ぼやきくっくり

■下村満子さん、慰安婦問題を複雑にしている挺対協の暴露会見をお願いします。
2014.11.24

慰安婦問題に関しては、まだまだ皆様にお伝えしたいことがあります。

挺対協とは、韓国挺身隊問題対策協議会の略。
表向きは慰安婦支援団体ですが、韓国当局が「北朝鮮工作機関と連携し、北朝鮮の利益を代弁する親北団体」として監視しています。

その常任代表の尹美香(ユン・ミヒャン)は、2014年5月20日の日本人記者団との慰安婦問題に関するやり取りで、
「日本政府がどうすれば納得するのか」
という質問に対し、こんな無茶苦茶な要求をしています。

「人道に対する犯罪について、国際法的にも国内法的にも認めることが解決の出発点だ。
覆されることのない謝罪も必要だ。
そして、国庫からの賠償や教科書への(慰安婦問題)記述、亡くなった(元慰安婦の)方々の追悼事業、さらに当時の加害責任者を処罰することだ」

元慰安婦の金福童(キム・ボクトン)氏は挺対協に連れられて世界中を回っています。
グレンデール市の慰安婦像の除幕式にも参加していましたね。

金福童氏は日本にも何度も来ています。

2013年5月には、やはり挺対協に連れられて大阪市の橋下市長との面談のため来日したものの、面談は直前にキャンセルされました。

参考:面談ドタキャンで元慰安婦支援団体会見
http://www.youtube.com/watch?v=EC_nzqHTuJc

この後、当の橋下市長は午後の会見で、面談中止になったことについて、こう述べています。
http://www.youtube.com/watch?v=APngTZZxmUAより


とはいえ、今回はこの2人にはこれ以上は言及しません。

じゃあなぜ冒頭に2人を取り上げたのかというと、「元慰安婦を操る挺対協」という実態と見事に重なって見えたからです。
(これは上記のドタキャン会見からも垣間見えます)
 
前置きがやや長くなってしまいました。

「正論」2014年12月号に掲載されている、ジャーナリストで元朝日新聞ソウル特派員の前川惠司氏の論説『慰安婦問題解決を阻んだ朝日新聞と韓国』を中心に、今日はご紹介。
 
前川氏はここ数カ月、保守系オピニオン誌やテレビでよく見かけます。
古巣の朝日新聞を批判しているから需要が多いのでしょう。

この人は言い訳がましい発言が散見され、ちょっとなぁと思うことも多いのですが…

たとえば植村隆記者が女子挺身隊と慰安婦を「混同」した記事について、前川氏は「明らかな間違いですから、訂正は早々と出しているだろうなと思っていた」などと弁解しています。

とはいえ、今回の論説には、これは皆様に知っていただきたいという箇所がいくつかあったので、あえて紹介させて下さい。

実はそれは前川氏自身のコメントではなく、前川氏が紹介している他の人たちのコメントです。

それは「アジア女性基金」の元理事だった下村満子氏と、
「日本の戦争責任をハッキリさせる会」の代表だった臼杵(うすき)敬子氏です。

この2人の女性は、反日親韓という立ち位置ですが、実は韓国側に、突き詰めて言えば挺対協に煮え湯を飲まされた人たちなのです。

以下、前川氏が直接取材した彼女たちのコメントです。

まずは下村満子氏。


[画像は2014年5月30日放送「朝まで生テレビ!」より]

「日本が挺対協の人たちに妥協する必要性は絶対にない。
あの人たちは、(元慰安婦の)おばあさんたちを踏みにじっています。
おばあさんたちは、あの人たちにセカンドレイプされているようなもの。
それをコントロールできない韓国政府は何とだらしがないのか」

「挺対協のメンバーと来日した慰安婦のおばあさんが、『宿泊所に閉じ込められ、外に出るなと言われて嫌になる』と電話をかけてきたこともあります。
おばあさんたちは、内心で挺対協を恨んでいました。
挺対協が怖いから、公の場に出てこいと言われれば出て行き、デモをしろと言われればデモをした。
気の毒な弱者でした」

※「元慰安婦=気の毒な弱者」といえば、前川氏もソウル特派員時代にこんな目撃をしています。

《1993年11月、韓国の古都・慶州で当時の細川護煕首相と金泳三大統領との会談があったときのことだ。

韓国はもう冬の季節、身を刺す氷雨の日に、韓国の支援団体が、おばあさんたち10数人を中心にしたデモをした。

分厚いジャンパーを着こんでいても堪えられない寒さなのに、おばあさんたちときたら、薄い生地の白いチマチョゴリで、傘もささず雨の中を歩かされていた。

時おり、リーダーのハンドマイクに合わせ「日本は補償しろ」と叫んでいたが、顔は蒼白である。

「いくらなんでもカッパぐらい着せてあげなければ。
おばあさんたちが風邪をひいてしまう」
と案じた目の前で、おばあさんたちの1人が倒れた。

「これが人権団体のやることか」と思わざるをえなかった。》


再び下村満子氏のコメント。

「国交正常化の時の請求権協定からして、挺対協が主張するような国家補償はありえない」

「挺対協の人たちは、200年戦争だ、とも言っていた。
彼らが反日運動をやるのは自由だけど、おばあさんたちがどんどん死んで、仮に国家賠償が20年、30年後に取れたとしても何なのですか、
みんな死んでいるでしょうと、いくらいっても、おばあさんたちが死のうが生きようが、我々には関係ないと言っていた。
おばあさんたちに償い金をもらわれてしまったら、彼らの運動は終わってしまうから。
人権とか尊厳とかは口先だけでおばあさんのことを反日運動の看板として利用しているだけだ」

※これは日本の反日サヨクの多くにも当てはまることですね。
元慰安婦の幸せなど考えてなくて、日本を叩けるから利用しているだけ。


次に、臼杵敬子氏のコメント。


[画像は東亜日報2001/8/13付より]

臼杵氏は1997年7月に韓国政府により入国禁止措置を受けました。

「アジア女性基金」活動の架け橋的な役割をしてきたため、基金受け取りに反対する挺対協が、臼杵氏の入国を認めないよう韓国政府側に要求したのです。

入国禁止措置は2年2カ月にわたりました。

「入国拒否になる前に、韓国大使館から接触があった。
訴訟の打ち合わせもあるし、韓国のためにやっている人間をどうして入国拒否するのかと聞いたら、挺対協が法務省と外交通商省に、臼杵は基金を受け取れと言って動いているから入国させるなと申し入れたという返事だった」

※挺対協は「アジア女性基金」活動を徹底的に邪魔しました。
基金を受け取ろうとした元慰安婦らが挺対協からハラスメントや脅迫を受けたことは、日本政府による河野談話作成過程の検証結果報告書(PDF)にも掲載されています。

臼杵敬子:
「ジャングルの中を兵隊と手をひっぱりあい進んだおばあさんもいた。
部隊の中に、おばあさんを助けた兵隊さんが何人かいたケースもあったろう。
恋仲になった日本の兵隊の名前を万年筆のペン先で彫った刺青を右手にしていたおばあさんがいた。
平和な時が来たら一緒になろうねと約束して、彫りあったようだったが、その広島出身の飛行機乗りは戦死してしまったそうだ。
日本の兵隊だって1銭5厘で集められた命。
お互いに青春時代、いつ死ぬか、殺されるか分からないなかで出会った、ある意味ではピュアな間柄の面もあった。
しかし、おばあさんたちは、挺対協の調査でそんな一面は言えなかっただろう」


実は、下村満子氏と同じく「アジア女性基金」理事を務めていた大沼保昭明治大特任教授も、韓国や挺対協の批判をしています。

2014年8月、韓国メディアのインタビューにこう述べています。

◆「韓国の強硬姿勢に絶望」
アジア女性基金の元理事
産経新聞 2014.8.31

慰安婦問題をめぐり、元慰安婦に償い金を支給した「アジア女性基金」理事を務めた大沼保昭明治大特任教授は韓国メディアとの会見で、同問題が「極度に政治化している」と指摘し、強硬な姿勢を示す韓国側に「失望し、ひいては絶望している」と苦言を呈した。

日韓記者交流の一環で来日した韓国報道陣に語ったと聯合ニュースが31日報じた。

大沼氏は、朴槿恵大統領がこれまで以上の謝罪要求を続ければ、日本社会で受け入れられる解決策を日本政府が提示するのは難しいとの認識を示した。

また、韓国の支援団体が慰安婦問題を「韓国で根深い反日問題の方向に曲げた」と批判、
「元慰安婦の幸せや置かれた状況に関する問題ではなく、支援団体の正義を実現するためのものにすり替わった」と指摘した。
(共同)

ここに出てくる「韓国の支援団体」とは、言わずと知れた挺対協です。

この聯合ニュースの報道を見た前川惠司氏は、どういう意図で韓国メディアに対して発言したのかを、大沼氏に直接尋ねたそうです。

すると大沼氏の真意というのは、こういうものだったそう。

「韓国の市民社会は成熟していると期待していた。
しかし、そうでなかったことにもがっかりしているが、最後までお互いに絶望せずにやろうよ、
そのために韓国のメディアも反省して欲しい」

そしてそんな大沼氏に対し、韓国の取材団も
「私たちも、挺対協の言い分だけを鵜呑みにしていた点は、問題があった」
と打ち明けていたとのことです。
(いや、あんたら今も鵜呑みにしてませんか?)

実は、大沼氏がこの種の発言をしたのは、今回が初めてではありません。
すでに8年前、2006年の時点でこう述べています。

PDFファイルの文章、主要部分を起こしておくと…

「35年以上やってて自分ですごく嫌なのは、韓国の社会の余りにも変わらない、反日さえ言っていればいいという体質です」

「これほどだめだったのかということを韓国について知ってしまって、はっきり言って僕は今、韓国があんまり好きじゃないですね」

「自分が慰安婦問題についてやったことは日韓関係の改善には役に立たなかったのでしょうね」

大沼氏と臼杵氏は日本のメディアではほとんど露出がないようですが、下村満子氏は最近、慰安婦問題についてよく発言しています。

慰安婦問題などがテーマとなった2014年5月30日と9月26日の「朝まで生テレビ!」では、こういう発言がありました。


●くっくり @boyakuri
朝生で下村満子(アジア女性基金理事)が再び「なぜアジア女性基金のお金を慰安婦に受け取らせてあげなかったのか。韓国の団体は慰安婦を抗日運動に利用することしか考えてない」。
韓国の論客たちアタフタ。
2014年5月31日


●くっくり @boyakuri
河野談話について
早野透「植村君が連行と書いたのは間違いだが、甘言強圧はその通り」
秦郁彦「日本政府に責任はないのにそう並べてる」
早野透「日本が管理した」
下村満子「河野談話はこのままにして、これ以上謝る必要ない。
日本が管理しなかったら戦場であんな商売できませんよ」。
下村氏が意外な発言
2014年9月27日


下村満子氏は、8月19日のBS日テレ「深層NEWS」にも、秦郁彦さんとともに出演しましたが、ここまで言っています。

「私はもう朝日新聞はもう辞めた後ではありましたけど、朝日新聞はどちらかと言うと国家賠償と言うような立場だったけど、私はどう考えたってそんなものは成立するはずがない」

「まぁ、実はアジア女性基金の元理事たちと、実は最近こんな風になってきて、われわれのあの15年はなんだったんだろうと。
もう命がけで一銭のお金もいただいてるわけじゃないんですよ、ボランティアで。
むなしくなって全部、暴露するインタビューをしようかなんて、インタビューじゃなくて記者会見をしようかなんてジョークを言ってますが、あの、これ以上の、これ以上のものはこれからはできないでしょうと言うのが。
あの、あのときだからねできたんで、
しかもほとんど当事者が居なくなってるんだから、お渡しのしようもないわけですね。
挺対協にそんなおカネを渡したって謝ったってしょうがないわけで」

※詳細は『続・慰安婦騒動を考える』様>元女性基金理事による挺対協批判(下村満子)(文字起こし)をご覧下さい。


つまり、
「韓国=善、日本=悪」という固定観念に凝り固まっていた下村満子氏らは、見事にその幻想を打ち砕かれたわけです。

私はそんな彼らに同情する気持ちにはあまりなれませんが、ただ、その体験や証言は貴重だと思います。

日本が韓国とつき合う上で教訓を残してくれたという点では、むしろ感謝すべきかもしれません。

究極の教訓は「韓国には関わるな!」ですけどね(笑)。


そして「深層NEWS」で秦郁彦さんはこんな話をしています。

「これはもうね、挺対協というのは今やモンスターなんですよ。
韓国政府の高官が言ってるんですね。
『わが国ではこの問題に関する限り絶対的な拒否権は挺対協が持っている』。
だからいくら韓国政府と交渉してですね、話がまとまってもダメなんです」

下村氏もこの発言に同意し、
「そうです」「そうです」
と細かく相づちを挟んでいます。

挺対協が結成されたのは1990年11月ですが、1992年12月には、東京で開かれた「『従軍慰安婦』等国際公聴会」で北朝鮮の「朝鮮日本軍性的奴隷及び強制連行被害者補償対策委員会(朝対委)」と合流し、すでに慰安婦を「性奴隷」と位置づける政治宣伝工作に着手していました。
(産経新聞2012年9月23日)

その同じ時期、1992年6月から約半年かけて、挺対協の運動家とともに慰安婦40数人に本格的な聞き取り調査をしたソウル大学の安秉直教授は、調査終了後、挺対協から離れましたが、その理由を2006年12月に出演した韓国のテレビ番組でこう説明しています。

「挺対協の目的が、慰安婦問題の本質を把握し、今日の慰安婦現象の防止につなげることにあるのではなく、単に日本と争うことにあると悟ったからだ」

挺対協の目的を日本側がもっと早くに把握していたら、慰安婦問題はあるいは今とは違った経過をたどっていたかもしれません。
(「アジア女性基金」の発足は1995年7月)

下村氏、ジョークで終わらせず、本当に記者会見してほしいですね。

慰安婦問題を複雑にしている元凶が挺対協であることを、日韓両国民と世界に向けて知らせてほしい。

『続・慰安婦騒動を考える』のブログ主さんも、
「外国特派員協会辺りでぶちまければ、多少日韓関係の改善に役立つのではないか?
その方が、韓国政府もありがたいだろう」
と言われています。

ただ、もともと反日の下村氏はよけいなこともたくさん言っちゃいそうですから、ストッパー役として秦郁彦さん、あるいは西岡力さんなどに同席してもらった方がいいでしょうね(笑)。



関連記事↓


転載元 続・慰安婦騒動を考える

2014/08/24

■元女性基金理事による挺対協批判

「わたしが怒りを感じたのは、この慰安婦の人権だとか色んなことを言いながら、(挺対協は)実は彼女たちの人権とか一切考えてなくて、200年戦争だって言うんだから」

アジア女性基金の理事であった下村満子が、挺対協に対する不満と内幕を暴露している。
日本人にとっては目新しい話ではないが、外国特派員協会辺りでぶちまければ、多少日韓関係の改善に役立つのではないか?
その方が、韓国政府もありがたいだろう。

秦郁彦は、実はアジア女性基金に批判的で、著書の中で
「問題は……関係者のほとんどが不満足な気持ちを捨てきれず、対決ムードが充満するなかで、見切り発車した点にあったろう」
(慰安婦と戦場の性 p.289)

と批判しているように、
混乱の原因は基金側にもあると考えているが、ここではその事については黙っている。
挺対協がモンスター化し、韓国政府から当事者能力を奪っているという点では両者同意している。

なお、日本には反基金派もいて、先日、朝日新聞が女性基金を評価したことに(下村も言っているように、朝日は転向組)、wamが
「朝日新聞が相変わらず『女性のためのアジア平和国民基金』を評価していることには、失望を禁じえません」
などと声明を発表した。



以下、「深層NEWS『慰安婦問題を考える』」(一部) 2014.8.20

小西美穂キャスター
「慰安婦問題を巡って日本政府としてはどういう対応をしてきたのかと言いますと、こちらの年表にあります1995年なんですが、元慰安婦に対する補償を行うアジア女性基金、正式名称は女性の為のアジア平和国民基金というのですが、こういう民間の団体を設立しました。
このアジア女性基金は、韓国を含め数カ国の元慰安婦に対して、当時の橋本総理大臣によるお詫びの手紙の手渡しや国民の寄付から一律200万円の償い金の支給などの償い事業を行って来たということなんですけれども、下村さんはこのアジア女性基金の一員として業務に関わったおられたということなんですが」

下村満子
「一員というか、理事なんですが、呼びかけ人でもあったのですが」

小西美穂キャスター
「韓国の慰安婦に対する償い事業はうまくいかなかったということなんですが、どういう状況で、どうしてそうなったのか」

下村満子
「お時間がないので、簡潔に申し上げますけどね。
さっきちょっと私言わせてもらったように、現実に、しかも名乗り出るということ自体がですね、
やはり韓国の社会の中では、日本兵に身を売った女とかね、もう汚い女とかね、韓国の中でも親戚づきあい出来ない、そういう女性たちというか、みんなが名乗り出で来ているわけじゃないですよね。
名乗り出るにはよほどの勇気と、非常に困っているとか。
それと償い事業は、国民の200万円の寄付と政府が税金から……
国家賠償を請求されると言っても、国家賠償は日韓条約でもう終わっているということで、それは絶対にできないということで、医療福祉費、あの医療とか病気を治すおカネということで、道義的責任ということで出したんです。
合計500万円なんですが。
(1995.7設立)
それをね、それはまぁ不完全でありね、向こうも十分ではない、国家賠償、絶対だと言い続けていたし、日本はそれはできないということで、そこが不幸の始まりではあったんですが。

私はもう朝日新聞はもう辞めた後ではありましたけど、朝日新聞はどちらかと言うと国家賠償と言うような立場だったけど、私はどう考えたってそんなものは成立するはずがないし、少なくともお婆さんが生きている間、お婆さんというのは慰安婦のこと、おばあちゃん、絶対、生きている間、どうせならば命ある間にね、少なくとも、とにかく困っていて、その日の……ほとんど皆さん貧しい。
喉から手が出るように必要なんですよ。
その方たちにね、せめて500万円だろうがなんだろうが手渡したいという意志でやったんですよ。

で、さらにそのおカネだけじゃなくて、さっきおっしゃった総理のお詫びの手紙。
これは橋本さんだけじゃなくて、小泉さんにいたるまで。
で、それは私が実はお渡ししたときに、もう皆さん、ワーーっと号泣してね。
もう、これだけで十分ですと。
もう親戚縁者にこれを見せればね、お墓にも入れてもらえる。
おカネよりこれだって方が多いくらい感動して……
わたしはもう本当にね、現場で一緒に抱き合ってね、泣いてっていうことが結構あったんですね。
そのぐらい私は逆に言えば日本は真面目に、一生懸命にね、やれる範囲でやったと。

それを、挺対協という先ほどから出ている慰安婦を、なんて言うんですか、なんて言うの、
慰安婦を保護して慰安婦の権利を主張する代弁者ですね。
代弁者の団体の人たちが絶対に受け取るなとかね、受け取ったら将来、国家賠償が2000万円取ってやるのに、そのお前たちはもう権利がなくなるとか。
もう嘘はっぱちを、ごめんなさい、嘘っぱちと言うか、そう言うことを……
で、おばあちゃんたちはもう、学問もないし、分からないですよ、そんなことね。
そして、しかも、かなり逆に強制的に管理されていて、これを受け取りたいと言う方がいっぱい居ても、これを受け取ったら政府から出ている一種の生活保護も全部ストップするとかね。
そう言うことをしたんですね。
で、私は死んでも受け取らないと言う人は結構ですが、受け取りたいという方を妨害するのは、まさに人権問題じゃないんですかと。
すごく(やりとりが)あったんです。
これは台湾もそうでした。

ところが、私の感じから言うと、この方たち(挺対協)は慰安婦をタテに取って、慰安婦というこの方たちを利用してね、ハッキリ言って慰安婦のおばあちゃんの方たちのことなんか、ぜんぜん考えてないんですよこの方たちは」

玉井忠幸キャスター
「そうすると政治運動に」

下村満子
「そう。政治運動というか、反日運動の」

玉井忠幸キャスター
「に、引きずられて元慰安婦の方たちの想いが、こう置き去りにされてしまったと」

下村満子
「そう、まったくそうです」

玉井忠幸キャスター
「と言うことになるわけですね」

下村満子
「だから、受け取りたいって方には、もうどんどん今、死んでいて、あの頃の方たちもほとんど亡くなっています。
その方たちがせめてね、わずかでもこれによって少しはその生活が」

玉井忠幸キャスター
「その韓国の元慰安婦である方たちが、そういう状況、想いであることを、たとえば韓国政府とかあるいは韓国の世論というのは、きちんと理解できていないということなんですか」

下村満子
「できていないですね。
政府は分かっていますが、政府はこの挺対協が怖いんですよ。
日本と一緒でやっぱりその世論とかね、それとか新聞にどう書かれるとか。
だんだん弱腰になってきて。
最初このアジア女性基金はご存じだと思いますが、両国の政府がほぼ合意してこれで良かろうということでできているんですよ。
韓国政府とも実は、それは書いてありますよね、今度の新聞にも。
私たちもそう聞いていました。
ところが開けてみたら挺対協がもう断固反対とかね。
言い出した政府が弱腰になって挺対協の側について。
挺対協がオーケーすればいいけど、そうじゃない限り、みたいなことを言い出して。
まぁ、われわれはもう本当に、なんなのコレと。
で、一番、わたしが怒りを感じたのは、この慰安婦の人権だとか色んなことを言いながら、実は彼女たちの人権とか一切 考えてなくて、200年戦争だって言うんだから。
おばあちゃんが死のうが生きようが関係ないんだと。
われわれは戦う、200年戦争をするんだとハッキリおっしゃった方も居るくらいですから。
私は、今まで言わなかったんです。
こういうことはね。
やっぱり言ってはいけないと思ったけど、私はやっぱり今の日韓関係がこんなになったのは、確かに先生(秦)がおっしゃるように最初のスタートラインは吉田証言とかね、そういうものに飛びついてそれを非常に大きく報道したりとか、それはあったかもしれないけど、今は全部、分かっていながら、それをもうフルに利用して反日運動の道具に使っているというのは、ま、どっちもどっちと言えばどっちもどっちだけど、政治問題化をすごくしていて、本当にお婆さんたちの立場には立って居ないんです」

小西美穂キャスター
「秦さん、どうですか。
本当のその癒されるべきおばあさんたち、その女性たちの立場に立っていないような政治問題化してしまった愚かさみたいなところを指摘されているんですが」


「これはもうね、挺対協というのは今やモンスターなんですよ」

下村満子
「そうですね」


「韓国政府の高官が言ってるんですね」

「わが国ではこの問題に関する限り絶対的な拒否権は挺対協が持っている」

下村満子
「そうです」


「だからいくら韓国政府と交渉してですね」

下村満子
「だめなんですね」


「話がまとまってもダメなんです」

下村満子
「情けないじゃないですか韓国は、自分の国のそういう運動をねぇ」


「おまけにですね今度は韓国の司法部、裁判所がまたね」

下村満子
「あ、そうそう」


「これ政府が結んだ条約もダメだって、平気で言うでしょ。
だから端的に言いますと、いまや韓国政府は当事者能力がないわけです」

下村満子
「そうです」


「だからそれについて、なんとかしようと思っても、わたしは見込みがないと。
何をやってもですね。
だから今、その、まだ慰安婦を救え、とかなんとか言ってますよね」

下村満子
「だってもうほとんど居ないんですよね」


「もう、ほとんど居ないんですけどね」

下村満子
「あのとき一番若かった人でも85歳ぐらいですから」


「そうなんですね」

下村満子
「当事者が居なくて運動だけが残るんですかね。
だからこう銅像を立てたりとかね」


「いろいろやってますね」

下村満子
「いろんな形にして」


「そうなんです。
それで朴大統領もね、日本人の顔を見るたんびに言うわけでしょ。
慰安婦問題を善処しろとね。
じゃあどういう要求なのかと」

下村満子
「まったくそう」


「ぜったい、言わないんですね。
つまり言いようがないんですよね。
だからその日本側から知恵を出してくれと言うことだろうと思うんですよ、わたしの推測ではね」

下村満子
「アジア女性基金」

玉井忠幸キャスター
「活動されてきたアレで言うと、日本が新たに知恵を出す余地っていうのは何か考えられますか?」

下村満子
「まぁ、実はアジア女性基金の元理事たちと、実は最近こんな風になってきて、われわれのあの15年はなんだったんだろうと。
もう命がけで一銭のお金もいただいてるわけじゃないんですよ、ボランティアで。
むなしくなって全部、暴露するインタビューをしようかなんて、インタビューじゃなくて記者会見をしようか、なんてジョークを言ってますが。
あの、これ以上の、これ以上のものはこれからはできないでしょうと言うのが。あの、あのときだからね、できたんで。
しかもほとんど当事者が居なくなってるんだから、お渡しのしようもないわけですね。
挺対協にそんなおカネを渡したって、謝ったってしょうがないわけで」


「だから、挺対協もね、だからおカネは出しなさいと、追加でね、出しなさいと。
そのおカネもですね、筋の通らないカネじゃなくて国会で議決してとかね、
それからお詫びもね、誠意のこもったね、総理大臣なり国会決議とかね」

下村満子
「だからね、壊れたレコードみたいにおんなじことの繰り返しなんですね。
だから私は正直、あの、どうしたらいいかと言うときに、まぁ、二つあって、
一つはもう放っとけと。
もう両方がどん底まで行ったら嫌でも反転するから、と言うのが一つと、
同時に、もう戦争を知っている世代ではない、新しい若い世代が過去のこの不幸な歴史をですね、
70年前に時計を戻すことはできないんですよ。
どうしろと言われたって、謝れとか処罰せよと言われたって。
だからこれをね、本当により良い日韓関係を作るために次の世代がね、もう戦争のそういうことと関係のない世代が本当に知恵を出してやっていただくしかないんで、しばらくは、あの……」


「ただね、向こうの人でもね、ちゃんとものの分かる人が居るんですよ。
そういう人が発言するとね、袋だたきに遭うんです」

下村満子
「そうそう」


「親日派だー、っていう一言でね。
だから、この前も首相候補で就任するかと思われたら、これ親日派だと誰が言い出した途端にですね、もう本人も辞退と。
だから親日派はね、学者でもなんでも呼び出されてですね、挺対協の前で土下座させられて殴る蹴るなんですよ。
ですから、わたしはね、これどうしようもないからね、向こうからですね、あのちゃんとねこう冷めた気持ちになって、それで日本はいつでもドアは開いていますという……」

下村
「ただ先生ね、一方において日本にもせっかくこう、また引っくり返すようなことを言う閣僚なんかもときどき出てくるんで」

小西美穂キャスター
「これだけでは時間がちょっと短いのは大変恐縮なんですが、ココでお時間となりました。
今日はありがとうございました」


サルメラ:
日本にも『在特会』というのがある・・・

大阪都抗争/急転直下 ゴール前

辛坊治郎(す・またん):
大阪都協定書決定。
急転直下っていう感じです。こないだまでは公明党が反対って言ってたんで、これ議会通らないんで、そしたらもう、ほとんど潰れたも同然と思ってたら、突然、公明党が衆院選ですね、例の橋下徹、松井一郎が立候補する、しないで……多分、誰も認めてませんけども、公明党の中央本部と維新に密約があったんだと思います。
橋下市長は急に兵を退きました。
これもう、2月に大阪都の協定書を議会通すこと決まってますんで、間違いなく5月17日に住民投票ということになるでしょう。
すごい勢いですけども、これ、もしこれで大阪市が大阪都になれば、今の市会議員、全員クビですからね。
普通通らないですよこんな条例、
だって議員が自分で自分の首絞めるようなもんですもん。
議員さんには結構ドラスティックな改革ですけども(笑)。
公明党の市議団もかなり、冗談っじゃないって感じなんでしょうけども(笑)。
公明も共産も中央に言われると、「一糸乱れず」という特色がありますから、大阪の公明も中央には逆らえなかった。
維新とs中央の公明党の間に何らかのバーターがあったんだろうな、というのは想像つきますけども。
で、大阪都になるとどうなるかっていうと…

まず、産経新聞です。
「橋下氏が言う現在の大阪府・大阪市体制の弊害として、それぞれが同様の施設整備に莫大なカネを注ぎ込むなどしてきた二重行政を指摘。
さらに市民260万人に対して市長一人では地域のニーズにきめ細かく対応できないと訴えており、これらを解消する切り札」と…

確かにこないだの広島の土砂災害なんかでもですね、被害の起きたところと、市長のいるところでは全然かけ離れた場所でしてね、市長のいるところでは広島北部であんなひどい災害が起きてるなんてわからない。
基礎自治体が小さければ、もうちょっと何かあった時でも、きめ細かく対応できるんじゃないか、っていうことですね。

これに対して反対する派は、例えば読売新聞。
維新以外はみな反対、の小見出しで
「区によっての財政のバラツキ」
「区庁舎建設など新たなコスト」
「維新が当初、年4000億円としていた財源効果はごくわずか」
「都、一部事務組合、区」の三重行政となり、かえって非効率」
「維新単独で策定した区割り案には住民の意見が反映されていない」
などと批判しています。

次、毎日新聞、「市民も賛否割れ」という記事で、

鶴見区の主婦(64)
「行政のムダを解消し、将来への投資や大阪の活性化につなげてほしい。
住民が選択できるようになったことはよかった」

西成区の男性(65)
「二重行政解消による節約は、さほどの額ではなく、メリットが見えない。
大きな制度改革が必要なら住民から機運が高まっていくはずだ」

西淀川区の理髪店店主(73)
「都構想にかかる多額の費用こそ税金の無駄使いだ」

ただ、もうこれ、5月17日に大阪市民は判断を求められますから。
その一票で、大阪市が、その名前がなくなるかどうか、大変な判断を迫られることになるわけですが…

あっ、それで言うと次のニュース、関連するかな。

『ハリーポッターの魔法 USJ入場者、最速1000万人』。

これがどうして今の話と関連するのかというと、
産経新聞のトップで、大きな記事出てますが、

ハリポタ効果でものすごく人が増えてますが、開業した初年度(平成13年)こそ、お客さんたくさん入ったんですが、その後、低迷して長かった。
なんでかって言うと、最初つくったとき、これ、大阪市が出資する『第三セクター』だったんです。
その時、潰れそうになった、っていうか、実質、運営が行き詰って経営難に陥ったんです。
で、平成17~18年に第三者割当増資などを通じて米投資銀行大手ゴールドマン・サックスが筆頭株主となって、債権が進められた。

かつて大阪市は、大規模開発、天王寺の南側の「フェスティバルゲート」とか、いろんなとこで、いろんな事やって、何百億円の損を出した。
次々、破綻させていったんですね。

そんなこともあって、その当時の反省とか、どうケジメつけんのか、っていうのも、今回の大阪都構想、あるのかな、っていう気がします。

で、昨日ですね、安倍首相も関テレの夕方の番組に出て、都構想について発言。
「二重行政をなくして、住民自治を拡大していく意義がある。
住民投票で賛成多数なら、必要な手続きを粛々と行いたい」

都構想となると、法律を変えないといけない。
中央の議会の賛成…というか、手続きに入らないといけないんですが、
それを安倍さんはやると明言してるということなんで、
ホントに住民投票だけで全部が決まりそうな勢いです。
そうなると、なにか背後にあったんじゃないのかっていう話なんですが、
やっぱり産経新聞の一番最後のところなんですが、

「維新顧問の松井一郎・大阪府知事と、菅官房長官が調整して公明党を動かした」
んじゃないかという話が、各紙に少しずつ書かれ出してますね。




宮根誠司(情報ライブ ミヤネ屋):
これ普通に考えると、われわれ思ってたのは、大阪市町の橋下さん、大阪府知事の松井さん、これ選挙にうって出ると、公明党の選挙区にうって出ると、言った時には、われわれ、われわれ本気なんじゃないかと…ところが一転出ない、ってなった時に、あれっ、っと思いましたよね。

春川正明:
まあ、だから、この状況考えると、密約があったとしか、思えない状況ですよね。
密約なかったと、公明党の幹部も言ってますけども、なんで変わったんだって言った時に、説明できないんですよね。
あの、揉めてる時に私、公明党の人と話聞いたら、橋下さんの「宗教の前に人の道があるだろう」という、あの言葉は絶対許さないと、言ってましたけどもね。
でも、今回のこと、知ってたんですか、って聞いたら、
「党の本部がらボンと降りてきて、急に知ったんだ」と。

宮根:
つまり、大阪の市議の方とかは全く知らなくて、公明党本部から、
「住民投票とか、設計図づくりには協力したらいいんじゃない」ってこと、
トップダウンで降りてきたから、何も知らない、わからない、ってことですか…



橋下氏、都構想否決なら「政界引退」 BS番組で明言

2015/1/7 夕刊フジ

維新の党の橋下徹最高顧問(大阪市長)は6日夜のBS番組で、5月にも実施される住民投票で大阪都構想への賛成が得られなかった場合、市長の任期満了(今年12月18日)をもって政界を引退する意向を示した。「政治家やめますよ。負けたらやめます」と明言した。
 
都構想をめぐっては、反対姿勢を示していた公明党が昨年12月末、住民投票実施賛成に突如方針転換した。
公明党が翻意に至った背景について、橋下氏は「松井一郎大阪府知事の政治力だ。
(公明党内の)いろんな所と話をしながら事を動かした」と説明した。
 
先の衆院選では、公明党が候補を立てる選挙区への出馬を検討していた橋下、松井両氏が、公示直前に立候補を断念した。このため、都構想をめぐる維新、公明両党の「密約説」も流れた。
 
この件について、橋下氏は
「昨年の話なので忘れました。今、(住民投票に向けて)動いているのだから、事の経緯はいいんじゃないですかね」
とけむに巻いた。



橋下市長 “大逆転”にニンマリ 天敵・公明が味方に

2014/12/30 デイリースポーツ

大阪市の橋下徹市長(45)の看板構想で、10月の大阪府市の両議会で否決され暗礁に乗り上げていた「大阪都構想」を巡って、30日、制度設計(設計図)を作成する法定協議会が約3カ月ぶりに大阪市役所で再開された。
 
敵対していた公明党の“急転賛同”を得て、住民投票で是非を問う流れを復活させた橋下市長は、この日の法定協で、一度議会で否決された協定書案をたたき台に修正協議を行い、来年2月議会に議案提出することを提案。
自民など他会派から反対意見が出たが、公明が賛成に回り、了承された。
 
御用納めを終えた市役所で、頓挫寸前だった看板構想が天敵・公明の“ナゾの翻意”によって一転。
大逆転の格好で、都構想実現への動きを再度つかんだ橋下市長は、会議後、ほくそ笑みとも映る笑顔を隠せなかった。
 
法定協では、橋下市長が「建設的な意見なら修正に応じる」と1月13日の次回法定協で現行協定書案の修正を行い、2月議会に議案提出することを提起。
 
これに自民などは「期限ありきだ」「一度議会で否決された重みを考えるべき」と時間をかけた議論継続を求めて、反発した。
 
ただ橋下市長は、今月の衆院選で維新の党が大阪では比例代表で得票最多だったことを挙げ「この状況で都構想を葬り去ることは民主主義への冒涜だ」と指摘。
公明議員も、現行協定書案の内容には反対としたうえで「民意に真正面から向き合い、住民投票で決着をつけるべきではないか」と主張した。
 
一方で公明党が橋下市長の提案について「持ち帰る」としたが、15分の暫時休憩がとられ、松井一郎大阪府知事が「トイレ休憩の間に考えをまとめてほしい」と求めた。
 
結局、休憩後に採決がとられ、公明も賛同。賛成多数で、来春の住民投票を目指す橋下案が了承された。
 
大阪都構想を巡っては、12年衆院選時に選挙協力のバーターで、都構想推進を了承した公明が今年に入って反対派に回り、議論は暗礁に。橋下市長は「公明にやられたままで終われない」と今月の衆院選前に、一時、公明現職のいる選挙区に自らが出馬することを示唆し“揺さぶり”ともとれる動きをみせた。
今回衆院選後、公明が突然、都構想の住民投票を容認する姿勢を打ち出し、事態が急転した。



<大阪都構想>
法定協が制度案決定…5月17日に住民投票へ

毎日新聞 1月13日

大阪市を解体し、五つの特別区に再編する大阪都構想の制度設計を議論する大阪府・市の法定協議会は13日、設計図に相当する協定書案を大阪維新の会と公明党の賛成多数で決定した。
昨年10月に府・市両議会で否決された案と実質的に同じ内容で、2月開会の両議会に再提案される。
公明が住民投票の実施に協力する姿勢に転じたため、可決は確実な情勢で、5月17日に住民投票が実施される見通し。
 
協定書案は14日に、総務相に提出し、意見を求めたうえで、知事、市長が議案として議会に再提案する。
大阪市民対象の住民投票で有効投票の過半数が都構想に賛成すれば、2017年4月に市が再編され、都構想が実現する。
 
この日決定した協定書案の内容は、
大阪市を 北▽東▽中央▽湾岸▽南 の五つの特別区に分割。
 
特別区は身近な住民サービスを行い、府が広域行政を担う。
各区の区長は選挙で選び、市議会の現行定数86を割り振った12~23人の区議会を置く。
各区の人口は約34万~約69万人になり、病院や施設の統合を進めるほか、府市それぞれによる大規模開発など二重行政の解消を図るとしている。
 
公明は「反維新」で野党と連携してきたが、昨年12月、住民投票容認に転じた。先の衆院選で維新の党が比例で大阪府内第1党を維持したことを受け、党本部などが「維新と対立を続けるのは大阪の公明にとってマイナスだ」と、公明大阪府本部に維新への協力を要請した。
公明は「協定書の中身には反対だが、最後は住民自身が決めるべきだ」とのスタンスで、自民などは「衆院選での橋下市長の出馬見送りに絡み、裏取引があったと言われても仕方ない」と指摘する。


大阪都構想:公明党の住民投票賛成「反維新」のはずが驚き

毎日新聞 2014年12月27日
 
大阪維新の会(代表・橋下徹大阪市長)が掲げる大阪都構想について、対立する公明党が、都構想の是非を問う住民投票の実施に賛成する方針であることが26日、分かった。
一転、歩み寄りを見せた公明党。大阪維新の会と対立しながら、急な方針転換に公明内部からも疑問の声が上がった。
「反維新」で連携してきた自民など他党も慌ただしく対応に追われた。
 
大阪市西区の公明党府本部で26日、大阪府・市の議員団が集まった会議は荒れ模様だった。
「都構想は反対だが、住民投票まで持っていく。民意をくむべきで、党本部の判断だ」。
 
前日に維新の橋下徹代表(大阪市長)、松井一郎幹事長(大阪府知事)と会談した幹部が説明した。
出席者からは「納得できない」「党幹部の国会議員が説明すべきだ」との反発が相次いだ。
ある市議は「事前に知らされていなかった」と不満をあらわにした。
 
清水義人・府議団幹事長は記者団に「協定書の中身は無理があり、反対の見解は変わっていない。
住民投票という住民の権利を尊重することだけ、今回は決めた」と説明した。
 
自民市議団も同日、対応を協議。公明側に問い合わせると「今のままの協定書は認められない」と回答されたという。
柳本顕幹事長は
「公明のスタンスが急変したとすれば、許されないことだ。
橋下氏の衆院選の出馬騒動に絡み、裏取引があったと言われてもしかたない」
と語った。
 
26日夜には、公明府本部幹部と自民・公明の地方議員が集まる会合があり、自民だけでなく公明の議員も、橋下代表に方針転換を伝えた公明幹部を責め立てたという。
出席した自民議員は「最終的に支持者にそっぽを向かれるのは公明だ」と突き放した。
 
維新の府議団総会では、今井豊府議団幹事長が「衆院選の民意を受けて公明は判断したのではないか。一つの方向性の光が見え始めた」とほっとした様子。
 
ただ、住民投票で過半数の賛成を得なければいけないため、
「説明責任が問われ、大阪の将来像を説明しないといけない。
気を引き締めて活動にまい進したい」
と付け加えた。
 
橋下代表は同日午後の市長記者会見で、何度も水を口にしながら質問に答えた。
公明との協議の経緯について「何で秘密話を言わないといけないのか」と明言を避け、「オープンの場(法定協議会)で議論の経過を見てもらったらいい」と繰り返した。


大阪都構想:橋下市長、住民投票否決なら政界引退

毎日新聞 2015年01月07日
大阪維新の会代表の橋下徹・大阪市長は7日、大阪都構想の是非を問う住民投票で、都構想への反対が過半数を占めた場合、市長の任期終了と同時に政治家を辞める考えを示した。
市役所で報道陣の質問に答え
「住民からノーを突き付けられたら、僕自身の感覚が狂っていたということ」
と述べた。
 
住民投票は、設計図に相当する協定書議案が府・市両議会で可決されれば、5月17日に実施される見通し。
橋下市長は「4年も5年もエネルギーを割いて大量の人員とお金も費やした中で、民意に反していたということであれば政治家としての能力がなかったということだ」と説明した。
 
一方、住民投票で賛成が過半数を占めた場合、大阪都(府)移行後の初代知事を目指すかを問われ「その時にいろいろ考える」と述べ、否定しなかった。


大阪都構想、5月17日住民投票へ 府と市の法定協賛成

朝日新聞 2015年1月13日

大阪市をなくして五つの特別区に再編する大阪都構想が、住民投票で決着することになった。
大阪府・大阪市の首長と議員でつくる法定協議会が13日、都構想案を決定。
賛成した大阪維新の会と公明党で府・市両議会の過半数を占め、3月に議会で可決されることが確実になった。
住民投票は5月17日に実施される見通しだ。
 
住民投票できるのは、大阪市内に暮らす20歳以上の日本国民で、先月2日時点で約215万人にのぼる。
有権者は都構想案に賛成か反対かの二者択一で投票し、有効投票総数のうち賛成が過半数に達すれば、大阪市の解体が決まる。
反対が過半数なら廃案になる。
 
都構想は維新代表の橋下徹大阪市長が掲げた。
府と政令指定市の大阪市が開発を競うような二重行政によるムダの解消を目指す。
 
都構想案では市を五つの特別区に分け、広域のインフラ整備などの成長戦略の権限を府(大阪都)に集める。
特別区は選挙で選ばれる首長と議会を置き、住民に身近な行政を担う。
 
この日の法定協では、昨年10月に大阪府・市両議会で否決された都構想案に形式的な修正を加えたうえで審議。自民、民主系、共産の各会派からは
「区割りに市民の意見がまったく反映されていない」
「市民の生活に新たな不安を押しつける」
といった反対意見が相次いだ。
 
一方、住民投票実施に協力する方針に転換した公明党は「あまりにもずさんで問題点が多い」と案の内容を批判したものの、「議論の収束をはかる」と表明。
採決では19人の委員のうち維新側8人と公明党4人が賛成して決定した。
橋下氏は法定協後、記者団に「市と府が長年いがみ合ってきた関係をきちんと整理する」と語った。
 
都構想案は総務相の意見を受けたうえで、府・市の2月議会に提出される。
昨年10月に反対した公明党が賛成に回ることで、いずれも3月中旬に可決される。
 
この日の法定協で、維新側は4月の統一地方選後の5月17日に住民投票を実施する日程を提案。
議会での可決を受けて、市選挙管理委員会が正式に決定する。
通常の選挙と同じように期日前投票も可能で、結果が有効となる最低投票率のラインは設定されない。
 
都構想案で定める大阪都への移行時期は2017年4月。
府から「大阪都」に名称を変更するには、改めて法整備が必要になる。
 
大阪都構想経緯
橋下徹大阪府知事(当時)が2010年に大阪都構想を掲げ、大阪維新の会を立ち上げた。
維新は11年春の統一地方選、同年秋の大阪府知事・大阪市長のダブル選で勝利し、12年8月に自民、公明、民主など主要政党の賛成で大都市地域特別区設置法が成立。
それに基づき法定協議会が13年2月に設置され、議論が始まった。
当初は協力的だった公明党が議論の進め方をめぐって対決姿勢を強め、昨年1月に決裂。
7月に維新単独で決めた都構想案は10月の府・市両議会で否決された。
昨年末に公明党が住民投票実施に賛成する方針に転換したことを受け、橋下氏は都構想案を法定協に再提出していた。


大阪市解体、215万人が判断 最大規模の住民投票へ

朝日新聞 2015年1月14日
橋下徹大阪市長(大阪維新の会代表)が政治生命をかける大阪都構想が、5月17日の住民投票での決着に向けて動き出した。
維新と他会派が泥沼の論争を繰り広げてきた大阪市廃止の是非は、過去最大規模の約215万人の有権者に委ねられる。
 
「絶体絶命と言われていたが、皆さんが衆院選を頑張った結果、政治が動いた。いよいよ残す階段は住民投票可決だ」
 
法定協議会で住民投票実施が固まった13日。
橋下氏は大阪市内の維新の党本部で所属議員に訴えた。

昨年10月の大阪府・市両議会で都構想案が否決され、知事・市長の専決処分による住民投票実施を検討するまで追い込まれていたが、公明党の方針転換で息を吹き返した。
維新は「住民投票は仕掛けた側が強い」(幹部)と高揚する。
 
維新幹部は、昨年の衆院選比例区や過去最低の投票率だった出直し大阪市長選で維新や橋下氏が獲得した30万票超を「維新の固定ファン」と分析。
他会派にも呼びかけた公開討論会などで市民の関心を集め、賛成票の積み上げを狙う。
 
橋下氏は13日、
「住民説明会を少なくとも行政主催で30~40回。
維新の政治活動としても、それ以上の量をやっていきたい」
と記者団に表明した。
6日には、住民投票で反対多数になった場合に12月の任期満了で政界を退くことを宣言。
自らの人気を賛成票に結びつけようともくろむ。
 
一方、反維新側は足並みがそろわない。
 
「市民に『百害あって一理なし』と明確にしたうえで両議会で否決したものを闇取引でよみがえらせて、賛否を問うなど断じて認められない」
 
13日の法定協。
共産党の山中智子市議団幹事長は住民投票実施に協力した公明党の対応を批判した。
公明党の清水義人府議団幹事長は法定協で、都構想案の内容には反対する考えを表明。
終了後、記者団に「知恵を出して理解の輪を広げたい」と、住民投票に向けて反対運動を展開する考えを示した。
 
わかりにくい対応に、公明党の支持母体・創価学会は複雑だ。
学会関係者によると、関西組織の最高幹部が6日、住民投票反対という党の決定を尊重しつつも「ただ、我々としては推移を見守っていきたい」と発言。
反対運動には様子見の姿勢を示したという。
 
反維新の中核を担う自民党も定まらない。
花谷充愉(みつよし)府議団幹事長は13日の法定協後、記者団に
「あまり政党や議員が表に立つのは良くない。議会の手は明らかに離れた」
と漏らした。
自民党支持層にも都構想の支持者を抱え、積極的に動きにくい事情がある。
自民党内には公明、民主、共産各党と都構想の問題点を共闘して追及する動きもあるが、改選を迎える統一地方選では競争相手にもなるため、一枚岩とはいかない。
 
「統一選を目の前に控えて新年会など地域の行事に各議員が追われている状態で、住民投票まで目が向いていない」。
自民党の市議団幹部は、こう嘆いた。

異例の賛否、市民にゆだねる
大阪維新の会代表の橋下徹大阪市長は、住民投票を「究極の民主主義」と位置づけている。
賛否を二分する政策課題を住民投票に諮る先駆けは、1996年に新潟県巻町(現・新潟市)で実施された原発建設の是非を問う住民投票だ。
反対が6割を超え、建設計画撤回につながった。
 
2000年には吉野川の可動堰(ぜき)建設が徳島市の住民投票で反対多数になり、中止された。
11年には減税を掲げた河村たかし名古屋市長が住民を動かし、市議会解散につなげた例もある。
 
一方、06年の山口県岩国市では米軍艦載機の岩国基地への移転計画に反対が87%に上ったが、今も計画は進む。沖縄県名護市沖の米軍基地建設をめぐる97年の住民投票は条件付きも含めた反対が上回ったが、名護市への移設計画は候補地を変えながら続いている。
鳥取市では3年前、市庁舎の耐震改修が新築移転を上回ったが、昨年末に新築移転で決着した。
 
結果が住民の意思と異なるのは、こうした条例による住民投票に法的拘束力がなく、首長や政府の決定を最終的に縛れないためだ。
 
議会や首長が「壁」になる場合もある。大阪市や東京都では12年、原発の再稼働の是非を問おうと市民グループが直接請求した条例案が否決された。
橋下市長はこの時、脱原発依存を掲げる自身が市長選に勝ったことから「市民の意思は明確で投票の必要性は乏しい」とし、条例案に反対する意見書を議会に出した。
 
だが、都構想の住民投票は法律に基づくため条例は不要。
賛成票が上回れば、大阪市の廃止と特別区の設置が決まる。
市町村合併の賛否を住民投票で問うことは過去にも多くあったが、自治体の解体の賛否を問うという前代未聞の内容。
その判断は5月17日、大阪市民の投票に委ねられる。
 
橋下氏は13日夜、維新の会合で「住民投票が終われば死んでもいいぐらいの勢いでやる。どこにでも行く」と意気込んだ。
 
住民投票
議会の解散、首長の解職などの直接請求のほか市町村合併については地方自治法に基づいて行われる。
原発建設や基地移転、庁舎建設など個別の政策課題では、常設型の住民投票条例がなければ有権者の50分の1以上の署名によって住民が条例制定を求めて実施される。
ただ、条例を議会で可決しなければならず、法的拘束力もない。
都構想の住民投票は大都市地域特別区設置法に手続きとして明記されている。
都構想案が大阪府・市両議会で可決されれば実施され、投票結果で都構想の可否が決まる。

橋下市長のつぶやき/今の役人区長の下、市長も知らないカネの流れが末端でできている

橋下徹@t_ishin



◆2015年01月11日

●『 幸子@sachiko_515
大阪市民の皆さんは大阪都構想について
「わからない、わからない」と言われますが
まず 大阪都構想のHPがあります。
ぜひ一度見てください。
見ていて楽しくなります(*^_^*)
 http://oneosaka.jp/tokoso/ 』
Retweeted by 橋下徹

●『 mina.n @mina99106987
御堂筋イルミネーション2014
Most illuminated trees on a single street(最も多く街路樹にイルミネーションを施した通り)ギネス認定
(๑•̀ㅂ•́)و✧ 』
Retweeted by 橋下徹


●『 笹川 理 (大阪維新の会・府議会議員)@OsamuSasagawa
御堂筋イルミネーションがギネス認定!!
めちゃくちゃ嬉しいニュースです!! (≧∇≦)
“@gogoichiro: 府市一体で取り組んできた大阪光の饗宴御堂筋イルミネーションがギネスに認定されました。
もずやん副知事しっかり広報してね。” 』
Retweeted by 橋下徹


朝から朝日新聞批判。
ただこれは一般的なメディア批判に通じること。
結論先にありきのメディアの姿勢が民主主義をゆがめることは、朝日の慰安婦報道で実証済み。
ただこれは朝日に限ったことではい。
結論先にありきだからロジックは場当たり的。論理矛盾だらけ。
日本のメディアのレベルは低すぎる。

先日、朝日新聞の社説で、大阪都構想について住民投票は早すぎるとあった。
そのことについては反論済み。
議会で色々と指摘があったことを朝日は理由としたが、僕は議会の指摘は根本部分ではなく、些末な部分と反論した。
根本の部分の指摘は全て解決策を講じた。

政治家の議論は根本部分を対象にすべきだ。
この部分は霞が関から膨大な指摘を受けてきちんと解決策を講じた。
今大阪都構想になされている指摘は些末な部分。
ある意味趣味の領域。
そうであればあとは住民投票で決めてもらえれば良い。
そういう反論を先日ツイートした。

そうしたら本日の朝日の天声人語で、大事争うべし、些事構うべからず、だと。
だから大阪都構想の議論もそうあるべきなんだ。
朝日の先日の都構想住民投票批判の社説は、本日の天声人語と論理的整合性をとるべき。
こんなことを役所がやったら論理矛盾だと失笑を買う。

また本日の朝日の天声人語は、まだ保守だリベラルだとやっている。
下らん議論。
暇な自称インテリや学者がやる議論をまだやるのか。
そもそも保守やリベラルなんて定義が定まっていない。
だから保守だ、リベラルだなんてやっても全く意味がない。
それぞれの政治的態度振る舞いには両方の性格を帯びる。

だから政治的振る舞い、当該政策の方向性が保守かリベラルかの分類は意味がない。
そもそも保守だ、リベラルだというのは他人(多くは暇な自称インテリ)から事後的に分類されるものであって、自分から名乗るものではない。
保守・リベラルが今やファッションになってるね。
天声人語ももう少し深く考えよ。

テレビもだらしない。
昨年の衆議院選挙のときよりも民主党代表選の方がテレビ討論が多い気がする。
国政選挙の方が大事に決まっている。
民主党の代表選は、民主党内部のもの。
投票権も、一般の国民が持っているわけでなく、今、投票権を持っているのは30万人程度だろう。

国政選挙では有権者は1億人。
大阪都構想を決する住民投票での有権者は200万人。
にもかかわらず、テレビで公開討論なんか全くやらない。
それは各政党が公平性を理由にクレームを出すから。
昨年の衆院選挙でも自民党からの要請文でテレビ局は完全に腰が引けてしまった。

ところが今回の民主党代表選は、他の政党からはクレームが来ない。
だからテレビ局は積極的に放送している。
テレビ局サイドは自民党の要請文が理由ではなく、衆院選挙のテレビ討論会の視聴率が低いことを理由としていた。
じゃあ、民主党の代表選は視聴率が高いのか?
テレビ局もいい加減な事を言うよな。

民主党の代表選挙の投票者は30万人程度。
それよりも、国政選挙や、大阪都構想の住民投票のために、テレビ局はもっと公開討論会をすべきだ。
政治と有権者を繋げることがメディアの責務。
きちんと報じないにもかかわらず、説明が足りない、分からいという批判は、報道の職務放棄だ。


●『 RT @uG4BqkXS3IlIZdk:大阪都構想応援してるみんなのところに反都構想の人たちが嫌がらせのように異常な数のTwitterを送って来ます。
もう悪質としかいえません。
みんな迷惑しています。
こんなことして何になるのでしょうか… 』

言論による戦です。
頑張りましょう!!


◆2015年01月12日

●『 高橋洋一(嘉悦大)@YoichiTakahashi
大阪都構想。
1人の政令市長から複数のほぼ政令市長並パワーをもつ特別区長にする。
権限悪くならない、財政悪くならない(財政調整があるから)、住民参加度良くなる。
これに反対する論理は、公選特別区長より役人派遣天下り行政区長がいいとなってしまうなあ。』
Retweeted by 橋下徹

大阪都構想が分からないないという人は、まずこちら
 http://oneosaka.jp/policy/ 
をざっと見て下さい。
大阪都構想の設計図については、総務大臣から特段問題なしとの意見が出てからは、専門家からは批判は出なくなりました。
騒いでいるのは身分を守りたい大阪市議会議員と素人のみ。

大阪都構想の制度について、根幹部分は3点。
1、権限の配分
2、税源の配分
3、財政調整制度。
この点については行政のプロと徹底的に協議を重ねた結果、総務大臣からは特段問題なしとの意見を受けました。
すなわち、大阪都構想は制度として十分に成立するということです。

現在、大阪都構想の設計図については、専門家からは批判はなくなりました。
当たり前です。
専門家から指摘された課題は全て解決策を講じたからです。
今、維新の会以外の野党から指摘されていることは、根幹部分ではありません。
大阪都ができた後に、十分微調整が可能な話ばかりです。

物事を進めるにはプロセスが重要。
5年前、初めて大阪都構想を提唱したときには、メディアも学者もコメンテーターも大阪都構想の設計図を出せ!!の批判の嵐。
4年前の統一地方選挙、知事・市長のダブル選挙を勝った上で、設計図作りに入るんだといくら説明してもメディアは全く聞き入れなかった。

大阪都構想の設計図を作るために、まず選挙で勝って、役所組織をフル稼働しなければならない。
設計図を作るだけで4年かかった。
そして、今は、大阪都構想の設計図について微調整まで全て完ぺきに行え!!
というのが維新の会以外の野党や、よく勉強していないメディアや学者の主張。

大阪都構想の根幹分は完全に固まった。
今の大阪市や大阪府の体制でも微調整は無限大にある。
日々微調整、改革の連続。
そんなものは、大阪都が出来上がってから、いくらでもできる。
今やらなければならないのは、大阪都構想の根幹部分の議論だ。
ところが野党からはその点の問題提起は全くない。

大阪都構想の設計図については根幹部分は完全に固まった。
ゆえにこれで進むかどうか、住民投票で決する。
大阪都が成立したら、今、野党や勉強不十分なメディア・学者が指摘する事項ついて微調整はしていく。
野党やメディアが言っていることは通常の行革の類。
そんなのは今、全て解決するものではない。

大阪都構想の設計図は完成した。
制度としてはこれで全く問題ない。
総務大臣から特段問題なしとの意見を受けた。
大阪都を成立させたのちに、さらに良いものにブラッシュアップしていけばいい。

●『 RT @frosup0238: @t_ishin 特別区長が決まったあとはそれぞれ区議会のようなものが新たにできるんですか?』
『 RT @mrpopo8248:大阪都構想、メリット、デメリットが全然解らない。このままの訳の解らない状態で、賛成はできません。メディアなどを使って、沢山、しつこいくらい、説明して欲しい。』

まずこれ ↓
http://oneosaka.jp/policy/ 
を読んで下さい。


●『 RT @mrpopo8248: インターネットも大切な手段ですが、見れない人も沢山います。』

毎週1回2時間のタウンミーティングを3回ほどしています。
聞きに来て、質問して下さい。
日程はこちら
 http://oneosaka.jp/ 

過去のタウンミーティングの映像も見て下さい。



●『 RT @Min160Takumi: MBSで、中身の議論を住民投票迄に公明党としては良いのではないか?といって言ってたが、
中身の議論は終わったと思うですが?
彼らの指摘は的外れではないですか?』

全く的外れ。
根幹部分の議論は終わりました。
あとの議論を詰めだすと無限の時間が必要です。

●『 RT @syin_jp: 東京23区が、仮に巨大な1つの東京市に戻ったならばいったいどうなるか(大阪市のようにえらいことになるぞ)、
という論で大阪都構想の理解を促すこともできるかと思います。』

その通りです。
東京市長だけ選挙。
23区長は東京市から役人を派遣すると言ったら皆反対でしょう。


●『 RT @takaxxvi: 大阪都構想は これまでにないほど大きな改革ですよね。
でしたら、ちゃんと他政党と話し合うべきではないのですか?
なぜ他政党の意見を聞かずに 住民投票を強行するのですか?
それを教えてください。』

しっかりと話し合いました。
公明党は賛成してくれました。

昨年の市長出直し選挙では、意味がない選挙だと散々批判された。
再選されても議会の構成が変わるわけではないので意味がないと。
どうせ議会では過半数がないのだから、出直し市長選挙は意味がないと。
日本では戦略、戦術論、プロセス論の教育が欠如している。
これでは世界では通用しない。

状況は変わる。
状況の変化に耐えられるように今採り得る万全の準備をしておくのが、物事を成就させるイロハのイ。
昨年では公明党は反対だった。
しかし状況が変わる可能性はゼロではなかった。
もし昨年、出直し市長選挙をやっていなかったら住民投票までは行かなかった。一年経て、公明党の状況が変わった

その時はダメだ、絶体絶命だと思っても、将来状況が変わる可能性を諦めたら、そこで終了。状況は変わる。
そして変えなければならない。
そのためにも諦めてはならない。
いよいよ、階段はあと一段、住民投票での可決だけとなった。
これからも絶体絶命の壁にぶち当たるだろう。
しかし諦めてはならない。


●『 RT @shigemac:マスコミは大阪都構想の中身は報道する事なく、それでいて市民は都構想を知らないとだけは声を大きく伝える。
マスコミは伝えることを拒否し、知らないのは市民のせいだ!と責任転嫁してる。
橋下さん、寒いですがタウンミーティング頑張って下さい。』

ありがとうございます!


●『 RT @butamanapart:大阪都構想の微調整そのものを批判される方がいますが、東京都だって社会状況に合わせて都政を調整、改正をしているのに、そこは批判しないのですよねぇ・・』

仰る通りです。
改善は大阪都ができてからいくらでもできます。
しかし大阪都にする改革は今しかできません。

●『 RT @IgcaBabel2nd::ある意味、議論が煮詰まって、大阪都を”断行する”か”やめるか”の妥協の余地なしの押し問答状態になったので、「これではラチが開かん」大阪市民の信を問う選挙に打つしかないと判断されたのでは?
昨年末の大儀なき総選挙とは大違い。』

その通りです!!


●『 RT @aaa_marc: 数多くのタウンミーティングを実施しているのに、説明不足とか、よくわからないとか言ってるマスコミや評論家は一度でもタウンミーティングに足を運んでいるのでしょうか。一方的な批判は卑怯と思います。』

学者もコメンテーターも、一度も来たことがありません。


●『 RT @chachan564: 反対派市議会議員のツイートは都構想の問題点を教えてくれません。
意味ない、特ない、お金の無駄、等の低レベルな悪口。彼らのほうが説明不足。』

そうなんです。
専門家レベルでは問題点は全て解決済みなので、あとは悪口レベルしか言える事は残っていません。

●『 RT @chachan564: 都構想推進派が説明不足というなら都構想反対派はさらに説明不足ですね。』

反対派は、大阪都構想がダメな場合の対案は一切示しておりません。
結局今のまま、現状維持というのが反対派の主張です。


●『 RT @mitsubo0210:在阪メディアは、わからない、わからないと言い続けたいがために、都構想の中身を取り上げず、無視を決め込んでいると思います。
タウンミーティング、ツイキャスで視聴しています。東京都に馴染みがありますので、おおまかに理解できます。』

ありがとうございます!


●『 RT @madamadaya:両党一歩も譲れない状況まで至った!
ここで大砲放つ国も現実に存在するのですね!
大阪は住民投票! 素晴らしい!!』

その通りです。話し合いはここまで。
これ以上は無理。ゆえに住民投票。
政治家は、新聞の論説委員のように永遠に議論すればいい立場ではない。

●『 RT @kokubunakada323: 学者やコメンテーターも自分の主張に自信があるのなら、タウンミーティングに堂々と来たら良いと思います。
私ですら、数回のタウンミーティングで都構想を理解でき支持できたのに。』

僕のいないところで分からない、説明が足りない、そればかりですから。



◆2015年01月13日

●『 RT @gotchaness:都構想初期費用は逆に言うと過去の失敗したハコモノ事業の賠償金程度なんですよね。
それは捻出 出来るということ。
それに主だったものは新しい区役所建設費。
今ある区役所は出張所として使う。
区役所が一つ増えるんで更に便利。』

数あるハコモノ事業失敗例の一つ分くらいです。

大阪都構想の議論が深まらないのは、メディアやコメンテーターの質が悪すぎるから。
説明が足りないの一点張りの批判は止めるべきだ。
どこが問題なのかを具体的に指摘すべき。
そのために僕に対してどんどん質問すれば良い。
ところが現場の記者は何も質問しない。
にもかかわらず説明が足りないと報道する。

特に反対派の主張をきっちりと検証すべきだ。
すでに解決策を講じていたり、最初から事実誤認の荒唐無稽の批判がほとんど。
都構想の説明についてだけ厳格に検証するのではなく、今なされている反対派の主張も厳格に検証すべきだ。
そうすれば都構想の中身がどれだけ熟度の高いものかが分かる。

そして反対派は僕と直接議論すれば良い。
当然、公開で。
反対派の主張には全てきちんと答えられる。
ほとんどが解決済みや事実誤認、虚偽の主張。
朝日新聞の社説もそうだった。
そして朝日新聞の社説は議会で問題点を指摘されているからもっと議論すべきとと言っていたが、議会での指摘を検証せよ。

大阪都構想反対派の主張を検証すれば、もはや議論の継続の必要性はない、議論は熟したことが分かる。
あとはやるかやらないかの判断のみであることが分かる。
いずれにせよ、反対派は僕と直接公開討論すれば良い。
しかし反対派はテレビ番組からの誘いも全て断っているようだ。

●『 RT @odamakis: 住民票などのコンビニ発行サービスの申し込みに区役所に来たら結構みんな良く知っているのかどんどん来ています‼︎ 橋下改革に感謝☆ 』

ありがとうございます。
これも3年かかりました。
改革とはそれぐらい時間がかかります。
さらに住民サービスの充実に努めていきます。


●『 RT @miyuu11212: 橋下さんへ!難しい説法より、大阪都構想は大阪府民にどんなメリットがあるの?
貴方は1度も言わないね?』

まずは、これ↓
 http://oneosaka.jp/policy/ 
を読んで下さい。
タウンミーティングの映像記録も見て下さい。

●『 RT @osawa1979: 反対派を排除した維新議員のみの法定協だからね。
反対意見も出ませんわな。』

法定協の野党市議メンバーは自らボイコットしただけです。
参加はできたのです。
またそれまでの法定協でも実質的な議論はありませんでした。
全否定の主張のみで折り合う気配は全くなし。



◆2015年01月14日

●『 高橋洋一(嘉悦大)@YoichiTakahashi
1年前に書いたモノで今も意見は同じ。大阪都構想はゆっくりだが、judgement dayをむかえている。

【日本の解き方】
大阪都構想の反対論者、なぜ公選区長より役人選ぶのか

ZAKZAK 2014.02.04

《大阪都構想の制度設計を進める大阪府、大阪市の法定協議会は1月31日、新設する特別区の区割り案を1つに絞り込みたいとする橋下徹市長の提案を退けた。
橋下氏は辞職して出直し選挙に出馬するというが、何が問題になっているのか。

筆者は1月28日、大阪都構想をめぐる有識者ヒアリングで意見を述べた。
そこでは、大阪では市営地下鉄だが、東京では都営地下鉄、大阪では市水道局だが、東京では都水道局、大阪では市立高校だが、東京は都立高校-と、身近な物事で大阪と東京に違いがあることなどを説明し、東京の特別区は、都と役割分担をしてうまく運営されていると話した。

NHKのニュースでは筆者の意見は全く報道されず、都構想に否定的な立場の甲南大学の高寄昇三名誉教授の意見だけが出ていた。
「大阪市を特別区に再編すれば、防災などの政策を進める上で複数の区長の合意が必要になり、都知事と意見が対立すれば、府市統合で目指す行政の一元化はかえって後退する」
という。

しかし、筆者は、東京都における都知事と区長の役割分担を説明し、橋下市長も「役割分担すれば意見対立はない」と言っていたが、そのとおりだ。

高寄氏の意見では、特別区の権限は市より劣り、財源は今より減るというが、これは事実誤認だ。
特別区は中核市(人口30万以上)より権限があり、制度の仕組みによっては、ほぼ政令指定都市(人口50万以上)と遜色なくできる。
財源問題も今より悪くなるはずがない。

今の大阪市の区は「行政区」であり、区長は市職員からの派遣で、公選ではない。
市の人事異動の一環で行われるので、大阪市の区長の名前を区民はほとんど知らない。区議会もなく、区議会議員もいない。
ところが、東京の区は「特別区」であり、区長は公選で、区議も選挙で選ばれる。

こうした事実を理解していれば、大阪市を特別区に再編することは、大阪市民にとって悪いはずがない。
第1に、権限は今より悪くならない、
第2に、財政も特別区間での財政調整があるので今より悪くならない、
第3に、住民参加度は今より格段に良くなる。
いってみれば、1人の政令市長から複数のほぼ政令市長並みのパワーをもつ特別区長にするようなものだ。

このような単純な論理であるのだが、反対の立場の人は「公選特別区長」より「役人派遣の行政区長」の方がいいという、民主主義では考えられないものになってしまう。

高寄氏の意見もよく聞くと、急がないで慎重にという、役人答弁のようで、論旨が明快とはいえない。

筆者のこれまでの経験では、論旨が不明確な反対には大きな既得権が隠れていることが多い。
大阪に長く住んでいる筆者の友人がこっそり教えてくれたことがある。
今の役人区長の行政区制度の下で、市長にも気づかれないようなカネの流れが市の末端でできているので、もし特別区制度に移管して公選区長になると、カネの流れのシステムが壊れるという。
これがもし本当なら根が深い問題である。》
(元内閣参事官・嘉悦大教授、高橋洋一)』
Retweeted by 橋下徹


●『 RT @ShinichiUeyama:

【大阪都構想】
議会で一度は否決 異例の展開に
産経ニュース 2015.1.13

議会でいったん否決された協定書がこの日、「内容について反対多数。住民投票実施は賛成多数」という分かりにくい構図でよみがえった。
今後、敷かれたレールに乗って住民投票が実施されるとみられ、議会のチェック機能のあり方に一石を投じるとともに、住民投票の前哨戦ともいえる4月の府議選、市議選にも影響を与えそうだ。

橋下氏は現在の大阪府・大阪市体制の弊害として、それぞれが同様の施設整備に莫大なカネをつぎ込むなどしてきた二重行政を指摘。
さらに、市民260万人に対して市長1人では地域のニーズにきめ細かく対応できないと訴えており、これらを解消する切り札として都構想を掲げる。

協定書などによると、住民投票で都移行が決まった場合、市は北、湾岸、東、南、中央の5特別区に分割。
都(府)が大阪全体にかかわる広域行政を担い、住民に身近な行政サービスを特別区が行う。
府市それぞれが持つ大学や病院などは都に一元化される一方、現在は市が行う水道など6分野の事務は効率性などの理由から特別区が共同で作る一部事務組合で担う。

各区の人口は約34万~約69万人。
選挙で選ばれる区長、区議会が誕生し、区議会の定数の合計は現行の市議会の定数である86を維持する。
人口や企業が集中する都心部の北、中央の2区と残りの3区との間での歳入格差を抑えるために、都が法人区民税や固定資産税、国からの地方交付税などを各区に配分する財政調整制度が導入される。

職員数は都が約8万9200人、5特別区が計約1万2900人で、都が府職員数から約7千人増える一方、特別区は市職員数より約2万3千人減る。
北区以外は執務スペースが不足するため、湾岸区はアジア太平洋トレードセンター(ATC)を活用し、残り3区は新庁舎を建設する方針。

維新側は「大阪都」の名称を掲げているが、実際に「都」を使用するには国会で法案可決が必要になる。

@Sankei_newsさんから。』

産経のこの記事で、都構想の中身の説明は必要にして十分。

大阪都構想が分からないという人は、この記事を読んで下さい。
3分で都構想が分かります。
今の大阪市、大阪府の体制を維持するよりも、大阪都構想に進まなければならないことが明確に分かります。


2015.1.13
【大阪都構想】
議会で一度は否決 異例の展開に

《 議会でいったん否決された協定書がこの日、「内容について反対多数。住民投票実施は賛成多数」という分かりにくい構図でよみがえった。
今後、敷かれたレールに乗って住民投票が実施されるとみられ、議会のチェック機能のあり方に一石を投じるとともに、住民投票の前哨戦ともいえる4月の府議選、市議選にも影響を与えそうだ。

橋下氏は現在の大阪府・大阪市体制の弊害として、それぞれが同様の施設整備に莫大なカネをつぎ込むなどしてきた二重行政を指摘。
さらに、市民260万人に対して市長1人では地域のニーズにきめ細かく対応できないと訴えており、これらを解消する切り札として都構想を掲げる。

協定書などによると、住民投票で都移行が決まった場合、市は北、湾岸、東、南、中央の5特別区に分割。
都(府)が大阪全体にかかわる広域行政を担い、住民に身近な行政サービスを特別区が行う。
府市それぞれが持つ大学や病院などは都に一元化される一方、現在は市が行う水道など6分野の事務は効率性などの理由から特別区が共同で作る一部事務組合で担う。

各区の人口は約34万~約69万人。
選挙で選ばれる区長、区議会が誕生し、区議会の定数の合計は現行の市議会の定数である86を維持する。
人口や企業が集中する都心部の北、中央の2区と残りの3区との間での歳入格差を抑えるために、都が法人区民税や固定資産税、国からの地方交付税などを各区に配分する財政調整制度が導入される。

職員数は都が約8万9200人、5特別区が計約1万2900人で、都が府職員数から約7千人増える一方、特別区は市職員数より約2万3千人減る。
北区以外は執務スペースが不足するため、湾岸区はアジア太平洋トレードセンター(ATC)を活用し、残り3区は新庁舎を建設する方針。

維新側は「大阪都」の名称を掲げているが、実際に「都」を使用するには国会で法案可決が必要になる。》

大阪都構想は、大阪の住民が決める段階に入った。

●『 Shinichi Ueyama@ShinichiUeyama
現在の大阪府・大阪市体制の弊害はそれぞれが同様の施設整備に莫大なカネをつぎ込むなどの二重行政。
さらに、市民260万人に対して市長1人では地域のニーズにきめ細かく対応できない。』
Retweeted by 橋下徹


●『 RT @madamadaya: @t_ishin メディアはあれだけ定例記者会見や囲み取材をしているのに、得た情報をどうするつもりなのだろうか?』

そうなんですよ。
質問には全て答えています。

毎日新聞の社説も酷い。
税収の豊かな特別区から税収の乏しい特別区に税を回すと将来、特別区で争いが生じる可能性がある、だから問題だと。
そんなこと言ったら、どんな制度も作れない。
そもそも財政調整制度とは、格差を是正する制度。
格差是正にはかならずそういう争いの可能性はつきもの。

毎日新聞の社説でいけば格差を是正する制度は一切作れない。
もっと言えば格差是正制度の否定。
こういうのは議論ではない。
今回の大阪都構想の格差是正制度の「どこが」問題なのかを指摘しなければ有効な反論ではない。

格差是正制度に対して、得るものと取られる者との間で争いが生じる恐れがある、という指摘は、それすなわち格差是正制度の否定。
毎日新聞は口を開けば格差を是正せよ!
と言っているではないか。
そして大阪都構想の格差是正制度は否定。
大阪都構想の否定という結論先にありきだから頓珍漢ロジックになる。

毎日新聞よ、もうちょっと論の質を上げないと、部数がどんどん減るよ。
大阪都構想の格差是正制度である財政調整制度に問題があるというなら、この制度のどこに問題があるのか具体的に指摘せよ。
また人員配置について災害に対応しているのかという指摘がある、と社説にある。

これは問題点の指摘なのか、さっぱりわからない。
大阪都構想の湾岸区の人員配置は災害対応もきちんとできる配置である。
根拠は大阪湾に面している尼崎市や西宮市の中核市の役所を参考にした人員配置。
尼崎市や西宮市でもできているのだから湾岸区でもできないはずがない。

それに対して野党は災害対応ができない!
と言ってきているが、全く根拠がない。
このような根拠のない指摘があるからと言って、それで制度全体が否定されるべきではないし、話を止めるべきでもない。
毎日新聞は大阪都構想の粗探しを徹底的にするが、大阪都構想に対する批判については全く検証しない


●『 高村寿@kotobukitakamur
@t_ishin 大阪以外の地方に住んだからわかります。
田舎の方が住民サービスは充実しています。
では、その原資はどこから出ているのか?
どう見てもその地方では賄えないはず。
そういう事実が今現在もこの国に存在するのに、特別区間の財政調整だけに文句をつけるのはいかがなものかと。』
Retweeted by 橋下徹


すでに日本社会にはありとあらゆる格差是正の制度がある。
自治間では地方交付税制度。
個人間では累進課税・社会保障制度。
これらにも、取られる者と取る者との間に争いが生じる恐れがある。
しかしその恐れがあるからと言って格差是正制度を否定することなどない。
大阪都構想の財政調整制度も同じだ。

日本社会には既にありとあらゆる格差是正の制度がある。
自治体間では地方交付税制度。
個人間では累進課税・社会保障制度。
これらにも、取られる者と取る者との間に争いが生じる恐れがある。
しかしその恐れがあるからと言って格差是正制度を否定することなどない。
大阪都構想の財政調整制度も同じだ。

●『 RT @k1225jp: 大阪市の負債を大阪(都)府に移管されたら大阪府(都)は財政再建団体に。
この疑問点には橋下さんは市民府民に語りませんね。』

デマです。
都が財政再建団体にならないように制度設計しました。
特別区が償還財源を担保することで都の実質公債比率は上がりません。



●『 RT @Phantom_002: でも特別区は「村」以下の存在やからねえ。@kotobukitakamur 大阪以外の地方に住んだからわかります。田舎の方が住民サービスは充実しています。』

デマです。大阪都構想の特別区は中核市以上の権限と財源を持ちます。
今の大阪市の区が「村」以下です。

大阪都構想になると住民サービスが低下するというのも全くのデマ。
現在大阪市が行っている住民サービスに必要な一般財源は6500億円。
特別区はこの財源総額をそのまま確保する。
ゆえに住民サービスの低下はない。
選挙で選ばれた公選区長が住民のニーズに応えたサービスを提供できる。


●『RT @mitsusan2010: 政令市だけど村以下ってアタマ大丈夫か?』

政令市の「区」は村以下ですよ。
もう少しお勉強を。


●『 RT @ishincheck: 中核市の議員定数は40人規模ですが、橋下の都構想の特別区は町議会並みの議員定数。』

全国の地方議員は多過ぎます。
無投票選挙や、一人か二人が落ちるだけ。
大阪都が地方議員の大幅削減のモデルになります。


●『 RT @toronyan_s: 肝心な事は答えず。
人口と職員数は中核市並み、
財源とまちづくりの権限は一般市以下、
議員数は町議会並み。
これもデマ?』

財源と権限も中核市以上です 。
財源と権限が一般市以下というのがデマです。
協定書をきちんと見て下さい。
議員は今の地方議員が多すぎるのです。


●『 RT @gotchaness: この点も都との役割分担が出来て特別区でやることが減る、つまり仕事量が減るので議員数はこれで足りるというのも昨日の法定協でわかりました。』

その通りです。
今の大阪市議会議員の仕事を整理して仕事量を減らすので、今回の特別区の議員数でも十分仕事はできます。


●『 RT @1960chocochan: 公募区長を導入したのに?"@t_ishin: 政令市の「区」は村以下ですよ。 @mitsusan2010: 政令市だけど村以下ってアタマ大丈夫か?』

公募区長でも選挙で選ばれていないので村長以下です。
以前の区長よりもましになっただけです。


●『 RT @gotchaness: @t_ishin @toronyan_s 財源と権限を中核市以上にする為に条例化するということも昨日の法定協でわかりました。』

法令と条例の組み合わせです。


●『 RT @BrightTomi: このデマシリーズいいですねwどんどん論破してください。
分かりやすいです。』

ありがとうございます。
反対派の主張はほぼ全てデマですから。
朝日も毎日もそれに踊らされて、結局具体的な批判は何一つできません。
最後は議論が拙速だ!だけ。


●『 RT @paophelia: 今の大阪市は、例えば住之江は大きな箱モノいっぱい作ったから、市民生活に近い施設は我慢させるわ…みたいな役所と議員で勝手に決められてた感ありありでした。』

これこそ大阪都構想のメリット!
住民に近い公選区長ならこんなバカなことにはなりません。


●『 RT @valtain_2: @t_ishin @1960chocochan @mitsusan2010 Twitterを見返すと村長以下という発言を繰り返しているが市長がそんなに偉いんかい。』

「人間が」ではありません。
「持っている決定権限と財源が」です。
もっと国語の勉強を。


●『 RT @Phantom_002: そもそも大阪府が、「破綻・倒産・財政再建団体になる」というのが最初のデマだった(笑)。
デマの上にデマを塗り重ねて来た。』

隠れ借金のことを知らないのですね。
減債基金の借り入れが5500億円あったのです。
僕が知事に就任してその手法を断ち切りました。


●『 RT @1960chocochan: どのような条例なのか明確ではないですね。"@t_ishin: 法令と条例の組み合わせです RT @gotchaness: 財源と権限を中核市以上にする為に条例化するということも…… 』

事務処理特例条例です。
大阪府は全国で一番権限移譲を進めています。


●『 RT @igamacrp: 都構想の協定書やTM資料にもありますが、今の区は独自で決められる(出来る)事が非常に限られているので『村以下』という見方も出来ますね。』

その通りです。
今の区長で決められることは、村長以下です。かわいそうです。
もっと権限を持ってもらいたい。
それが大阪都構想です。


●『 RT @1960chocochan: 村長以下に年収1300万円?
"@t_ishin: 公募区長でも選挙で選ばれていないので村長以下です @1960chocochan: 公募区長を導入したのに?" 』

ええ、大阪市の局長がそれくらいの年収ですから。


●『 RT @RXE11411: 格差是正なんて、国税レベルでもやってる話ですよね。』

そうなんですよ。
それを毎日新聞は大阪都構想の財政調整制度にだけ当事者間で争いが生じる恐れがあるって・・・
飯を食えば太る恐れがあると言ってるのと同じ。
じゃあ飯は食わないの?


●『 RT @sae1200: ☆橋下市長は政令市大阪市が村以下と言ってないですよ。
今の大阪市の行政区が村以下と言ってますね。
"RT@mitsusan2010 政令市だけど村以下ってアタマ大丈夫か?" 』

その通り!


●『 RT @achiman44: 平松さんも知りもせんと噛みついてましたね、そこ。
"@t_ishin: 隠れ借金のことを知らないのですね。
減債基金の借り入れが5500億円あったのです。
僕が知事に就任してその手法を断ち切りました。"』

はい。


●『 RT @danjiri0429: @t_ishin はじめまして。
MBSの夕方のニュースVOICEを毎日見てるんですが、なんか都構想を反対と報道しているとしか思えません。
なんかムカつきます!』

反対するのが仕事ですから。


●『 RT @1960chocochan: ええ?旧区の出張所の責任者はいないの?
"@paophelia: え?現区長24人→特別区長5人 19人も減るんやけど… " 』

旧区には公選職ではなく役所組織の幹部が責任者として就きます。
今の区長も役所職員です


●『 RT @muramatsumantar: 行政区は政令市の行政単位なので、権限は政令市と同じです。
それ、住民投票実施確定後も言えますか?
大阪市長は都構想を正確に説明する義務を負うのですよ。』

それはデマです。
大阪市役所の組織についてもう少し知って下さい。
行政区には権限は全くありません



●『 RT @paophelia: @mmtomo3 @1960chocochan @t_ishin 現大阪の24区長は、選挙で選ばれてもいないのに年収1300万やってさ(笑)』

そりゃそうです。
企業の幹部並みのポジションなのですから。


●『 RT @ni_chikako_1980:NHKの夕方6時の全国ニュースで昨日と今日と2日間続けて、都構想について冷静でかつ簡素化されて流れていました。
マスコミで理解のあるメディアもあるみたいですね。』

テレビに出て「分からない」というコメントを出すコメンテーターは職務放棄。


●『 RT @Phantom_002: 興味あらへんもん。(笑)@t_ishin テレビで分からないと言うコメンテーターは一度もタウンミーティングに来たことがありません。
@kazbb4 @Kim_Tia』

それならテレビで分からないではなく、興味がないとコメントすべきです。



●『 RT @k1225jp: 実質財政再建団体なんですね。了解しました。
親方がこれでは心許ないですなぁ。
@t_ishin:デマです。都が財政再建団体にならないように制度設計しました。
特別区が償還財源を担保することで…… 』

償還財源が担保されれば実質的にも財政再建団体ではありません。


●『 RT @092koji: メディアは橋下さん関連の報道をするとき、反対、批判・前提で番組構成をしている気がします。
”橋下さんに賛同します”という人もいるはずなのに、そのようなことを言うコメンテーターがいる番組を今まで見たことがないです。』

批判することで自分をアピールできますからね。



●『 RT @Masao_hiro: 市政記者は大勢いるが、いつも質問、発言するのは決まっている?
無言のものは何をして報道している?
時々記事が全く同じ論調で掲載している。
垂れ流しのネタでの御用記者、政治に暗い政治記者等ロクな奴はいない!
あれでも大卒かね?』

勉強不足の記者も多いです。


●『 RT @uG4BqkXS3IlIZdk: @youkovanila @t_ishin やっぱ団体かかえてたらややこしいよねf^_^;
その点維新は支持団体ないから✨って、勝手に応援団が出来てきてるけど😙』

ありがごうとざいます!


●『 RT @basetiger: 最近の橋下市長のツイートを見てるとフォロワーの方のほうがメディアより大阪都構想について理解してきているように感じます。
メディアは反対ありきで理由を探してる感が否めません。』

その通りです。
フォローワーの皆さんは、コメンテーター、その辺の学者以上の理解です。



●『 Hirokazu Yamaguchi@Hiro1968
東京23区をモデルとするんだから、東京23区の財源と権限がどういうものか調べればわかること。
反橋下派はそれすら出来ないの?
RT @t_ishin: 財源と権限も中核市以上です 。財源と権限が一般市以下というのがデマです。協定書をきちんと見て下さい。RT @toronyan_s 』
Retweeted by 橋下徹



●『 RT @toronyan_s: これでええか?

https://pic.twitter.com/vdQf8hXRsu
RT @Hiro1968:東京23区をモデルとするんだから、東京23区の財源と権限がどういうものか調べればわかること。
反橋下派はそれすら出来ないの?』

デマです。財政調整交付金も含めて全て特別区が使える固有財源です。
自主財源と勝手に自分たちが定義しての比較には何の意味もありません。
財政調整交付金も全て特別区の住民サービスに充てられます


●『 RT @ayap5: こっちの方が解りやすいですかね?

https://pic.twitter.com/1OdGWzaXuR
デマです。東京23区は大阪市3つ分以上です。
総額が2.5倍になるのは当たり前です。

現行の大阪市と比べて特別区の財源が減っているように見えるのは、これまで大阪市役所がやっていた大阪市民へのサービスを大阪都庁がやるからです。
サービスは低下しません。


◆2015年01月15日


●『 RT @fckisn: 嘘つけ。なぜ大阪府が大阪市民限定のサービスをするのかね。
@t_ishin:現行の大阪市と比べて特別区の財源が減っているように見えるのは、これまで大阪市役所がやっていた大阪市民へのサービスを大阪都庁がやるから…… 』

お金だけでなく大阪市民対象の仕事も共に大阪都庁に移すからです。



●『 RT @gotchaness:住民サービスとして使ってた一般財源は確保されるんで住民サービスは低下しない。』

その通りです。
大阪都に移るお金もお金だけが移るのではありません。
大阪市民への仕事も移るのです。


●『 RT @Betteroff2525: 広域行政は「都」。
住民サービスは「区」。
それぞれの機能を最大化させる為に、仕事とお金を分ける。
至極わかりやすいんだけど、反対派はわからないって言うんですよね。』

大阪都構想の究極の説明!!


●『 RT @Toledo_ace: @t_ishin 都構想の場合、議員給与は現在と比べどうなりますか?』

3割カットです。


●『 RT @fckisn: 広域自治体が特定の大阪市民限定の仕事をする理屈とは?
大阪市の必要性を自らで立証されているのですか?』

お金と同時に大阪市民対象の仕事(協定書に記載)も移るからです。
仕事の主体が大阪市役所から大阪都庁に変わるだけです。
知事も大阪市民の代表ですよ。


●『 RT @rachel0209: 数十年後には、大阪府って言ってたよね、という日がくるんでしょうね。
@t_ishin: 都だけがmetropoliceを名乗れます。ニューヨーク、パリ、ロンドン、東京に並びます。』

そうなりたいですね。
東京都も72年前は東京府でした。


●『 RT @happy2437564: @quetzal924 私は、湾岸区に成りますね、実行あるのみ☝』

湾岸区は統合型リゾート(IR)を誘致し、海上交通を発達させて東洋のベネチアを目指します。
湾岸区マニフェスト
 http://oneosaka.jp/ 
をご覧下さい。


●『 RT @sokuin55: @t_ishin @quetzal924 区役所の位置がどちらか言うと区の中央部でなく偏心しているように思えますが、現状のを利用するから?
でしょうか?』

そうです。
現在の24区役所は全てそのまま窓口機関として存続します。

『言葉狩り』 奏功す、の巻


桑田 ラジオ謝罪【ほぼ全文】「家内の杞憂が現実に…」

デイリースポーツ 1月18日 
サザンオールスターズの桑田佳祐(58)が17日、パーソナリティーを務めるTOKYO FM「桑田佳祐のやさしい夜遊び」で、昨年の年越しライブでの一部演出について、14分間かけてあらためてファンに説明し、謝罪した。
 
以下、桑田の14分ほぼ全文
お正月休み、いただいていたんですけども、私、ネットとかやらないものですから、世間の話題に疎いといいますか。
最近になってご批判をいただいていることを知りました。
1月3日と先週の放送も3日に収録したものだったんですけども。
その時点では私自身気付いておりませんで、ノーテンキで申し訳ございません。
対応が遅くなって申し訳ないんですが。
 
今週の木曜日(15日)にお詫び出させていただいたいたんですが、それについて私の口からご説明させていただきたいと思います。
 
(ファンからのメールを読み上げる)『オークションギャグはやるべきじゃなかった。
客観的に見ても批判されても仕方がないかな、と思いました』
 
(続いて桑田がネット上で批判された内容などについて状況と経緯を説明)
 
(1)紫綬褒章をポケットから取り出した件
年越しライブの4日間のライブの中で、4日間ともお客様にお披露目しようとする場面を(ステージで)いたしました。3日間は木箱に入れて、白い手袋をしたスタッフが私に丁寧に手渡してたんですが、4日目のライブだけは、紅白と年越しというのがありまして。
すでに言い訳になってしまってますけども、時間調整に舞い上がったりしたのもあり、段取りを間違えてあのように扱ってしまいました。
大変反省しておりますし、心より、心よりお詫び申し上げます。
 
(2)天皇陛下のモノマネを披露した件
昨年秋の(紫綬褒章の)皇居での伝達式の話をみなさんにお話する時に、伝達式の陛下のご様子を皆さんにお伝えしようとしたというとこが…私の浅はかなところで。大変失礼にあたり、私自身、大変反省しております。
 
(3)紫綬褒章をオークションにかけるギャグ
オークションのパロディーはジョークにしたつもりだったんですけども、軽率。
こういう場面で下品なじょうだんを言うべきじゃありませんでした。
うちの神棚から紫綬褒章を持ち出す時も、家内が「大丈夫?」なんて言ってたんですが、家内の杞憂が現実になってしまいました。
 
(4)紅白出演時につけていたちょびヒゲ
アドルフ・ヒトラーという人もいたようですが、ヒットラーのつもりは全くありません。
31年ぶりに紅白出させていただくというということで、緊張しておりまして、笑いをとりたいな、と。
本当ははげヅラかぶろうかな、と思ってたんですが。
結局、ちょびひげを頼んでおいたんです。
ちょびひげというとコントの定番なんですが、そこをヒトラーと結びつける人がいるということに驚いております。
 
(5)「ピースとハイライト」の歌詞について
これについていろいろな方がネットで私の意図とは違う解釈をされていることに驚いておりまして。
この曲、一昨年の夏に発売して、歌詞は春に作ったのかな。
集団的自衛権とかも話題になる前だったと思うんですけども。
東アジア全体で起こってる問題として作った歌詞なんでございます。
二度と戦争などが起きないように仲良くやっていこうよ、という思いを私は込めたつもりなんですけども。
たかが歌ですのでたいした力はないかもしれませんけども、希望の苗を植えていこうよ、地上に愛を植えていこうよ、というメッセージをね。
平和を願う者として今後も時折こういうメッセージを発信していきたいと私は思っております。
 
※ここで「ピースとハイライト」をオンエア。
 
◆ここで改めてファンへ。
今までもいろんなことを言われたり書かれたり、語られたことはあるんですけども。大衆芸能を生業にしてると、誤解とか曲解とか避けて通れない。
今後ともよろしくお願いします。
昨年の年越しライブの一部の内容についてお詫びを説明させていただきました。
いい年して失敗したり、相変わらずのおっちょこちょいなことをやったりしてますけどもね、これからもサザンオールスターズをどうぞよろしくお願いしたいと思います。
不愉快極まりない思いをさせた方々には、ごめんなさいとか申し訳ないじゃ済まないと思うんですけども。
ファンの方がとても温かくて、頑張れよ、とかどんまいどんまいというメールやお手紙をいただきまして。
きちっと反省するところは反省して、気持ちを切り替えてアルバムとツアーに、サザン、舵を切らせていただけたらと思うわけでございます。
 
 
 

サザン桑田の謝罪にファン「ガッカリした」
作家からも「この程度の批判精神」と散々けなされる

J-CASTニュース 2015/1/16
 
年越しライブや紅白歌合戦での演出についてサザンオールスターズの桑田佳祐さんが謝罪コメントを発表したことに、ファンの間では
「すごくがっかりした。なんで謝るんだよ」
と失望が広がっている。
 
作家の東浩紀さんからは「世間の顔色見すぎだよね」と批判され、
フィフィさんからは「世間に言論の弾圧をされたというアピールにはなるよね」という皮肉な見方をされてしまった。
 
「謝らない桑田さん格好良かったのに」と失望
桑田さんと所属事務所アミューズは2015年1月15日、連名で謝罪文を発表。年越しライブで紫綬褒章をズボンのポケットから取り出し、オークションにかけるマネをしたとされるパフォーマンスについて、
 
「表現方法に充分な配慮が足りず、ジョークを織り込み、紫綬褒章の取り扱いにも不備があった為、不快な思いをされた方もいらっしゃいました。深く反省すると共に、ここに謹んでお詫び申し上げます」
と謝罪した。
 
また、紅白に出演した際のチョビひげについては「お客様に楽しんで頂ければという意図であり、他意は全くございません」と釈明した。
 
 一連のパフォーマンスは、「紫綬褒章への敬意を欠く」「安倍晋三首相をやゆしたのでは」と批判を浴びていた。
 
11日にはアミューズが入居するビルの前に日の丸を掲げた集団が押し寄せ、「国民に向かって謝罪しろ、出てきて釈明しろ」と抗議活動を行う騒ぎに発展した。
 
今回の謝罪を受け、サザンファンからは、
「大人の事情なんだろうけど桑田佳祐さんガッカリだ」
「ロッカーなんだから謝る必要全くなし。この謝罪文で桑田さんにちょっとガッカリした」
「謝らない桑田さん格好良かったのに」
という声がツイッターなどネット上に広がっている。
 
謝罪へ追い込まれた形となったことに
「カッコ悪すぎ」「とことん貫けばいいのに」
という意見も目立つ。
 
批判していた人たちからは
「これで納得する愛国者は少ない」「自己保身だけを心配しただけで反省してない」
とさらに追い打ちをかけられた。
 
「世間に言論の弾圧をされたというアピールにはなるよね」
東さんは一連の騒動について「とにかく決着はついたね。批判だったとしてもこの程度の批判精神だったということだ」とツイッターで見立てを語る。
「政権以前に世間の顔色見すぎだよね」と手厳しい。
桑田さんのパフォーマンスに対し、一部の人たちが政権批判、表現の自由と弁護していた動きがあったことは「絶賛して擁護してた人たちが滑稽」とバッサリ切って捨てた。
 
また、「価値を見出せないのであれば辞退するべきでしたね」と当初からパフォーマンスを批判していたタレントのフィフィさんは
「例えばフランスの件があった、このタイミングで自分のパフォーマンスについて謝罪したとする、世間に言論の弾圧をされたというアピールにはなるよね」
と皮肉っている。
 
 

サザン桑田の謝罪に抗議団体「今後も監視は続けていく」

東スポWeb 1月18日
 
国民的人気バンド「サザンオールスターズ」の桑田佳祐(58)と所属事務所「アミューズ」が、昨年末大みそかの“不敬パフォーマンス”について15日に謝罪コメントを発表し、17日に桑田がパーソナリティーを務めるラジオ番組「桑田佳祐のやさしい夜遊び」(TOKYO FM)の冒頭で謝罪した件を受けて、抗議活動を行った団体が18日、都内で会見を行った。
 
書面で「『サザンオールスターズ年越しライブ2014に関するお詫び』に対する声明文」を発表。
団体の一つである「牢人新聞社」の渡邊昇氏(41)は、改めてアミューズとの経緯などを説明。
「声明文はネット上でも公開する」とした上で「公の人間なら公の場できちんと謝罪会見をすべき。
この抗議は(相手にダメージを与えるということでなく)きちんと(政治的な問題などを)分かってほしいという思いから。今後も監視は続けていく」
とした。
 
 

サザン桑田“火消し謝罪”の舞台裏

東スポ 2015年01月17日
国民的人気バンド「サザンオールスターズ」の桑田佳祐(58)と所属事務所のアミューズが15日、昨年大みそかの年越しライブでの“天皇不敬パフォーマンス”について謝罪コメントを発表した。
この問題は本紙が14日付の1面記事で詳報し、大きな波紋を呼んでいた。
自身のライブでは、演出面も含め細部にまでこだわりを持つ桑田だけに、この結末は今後のアーティスト人生を左右するほどのショックに違いない。
そうまでしてこのタイミングで“火消し”しなければいけなかった理由とは…。
舞台裏を徹底追跡した――。
 
問題となったのは先月31日に横浜アリーナで行われたサザンの年越しライブ「ひつじだよ!全員集合!」でのパフォーマンスだ。
 
桑田は昨年11月に受章した紫綬褒章をジーンズの後ろポケットから無造作に取り出し、客席にアピール。
そこまではまだ良かったが、その後のMCで
「え~、まずは5000円から行きましょう。欲しい人~?」
と即席オークションのパフォーマンスを始めてしまった。
 
さらに宮中参内・拝謁を示唆してか、
「お元気ですか。朝からご苦労さまでございます」
と、明らかに天皇陛下とわかるモノマネも披露。
この時点で単なる悪ノリでは済まなくなった。
 
今月11日には「天皇陛下を侮辱した」と右翼系団体が東京・渋谷区にある所属事務所のアミューズ前で抗議運動を展開。
公開質問状を同社に送付したことは本紙既報通りだ。
 
ネット上でも桑田のパフォーマンスは話題となり、巨大掲示板ではこの件に関するスレッドが乱立。
大半が桑田に批判的な書き込みだった。
 
こうした世論の高まりを受け、アミューズは対応を協議。
この日、桑田との連名で謝罪書面を発表するに至った。
 
文中で桑田側は、一連の言動について
「感謝の表現方法に充分な配慮が足りず、ジョークを織り込み、紫綬褒章の取り扱いにも不備があった為、不快な思いをされた方もいらっしゃいました。
深く反省すると共に、ここに謹んでお詫び申し上げます」
と謝罪。
 
また、ライブで×印がつけられた日本国旗や「中國領土 釣魚島」と書かれた映像を流し、それが一部で「反日思想だ!」と反発を招いていることに対しても「緊張が高まる世界の現状を憂い、平和を希望する意図で使用したものです」と釈明した。
 
エンターテイナーを自負する桑田が自身の言動で謝罪するのは異例中の異例。
そうまでしなければならなかったのは、事務所経営を左右する看板アーティストだからだ。
アミューズはれっきとした東証1部上場企業。
この手のスキャンダルはそのまま企業イメージの悪化につながりかねず、火消しを急ぐ必要があった。
 
しかもサザンは同社の屋台骨で、10年ぶりのオリジナルアルバムが3月31日に発売されることが元日に発表されると、大発会の1月5日に株価は一時、昨年12月30日比190円高の3675円にまで上昇し、昨年来高値を更新した。
 
「逆に言えば、サザンの一挙手一投足が経営に直結するということ。
3月には社の命運を懸けた一大事業『東京ワンピースタワー』の開業も控えている。
大事な時期だけに、事務所が神経をとがらせるのも、無理はありません」
とは芸能プロ幹部。
 
6日以降、株価は3400円を割り込む時期もあり、15日の終値は前日比10円安の3430円。
一連の不敬パフォーマンスが影響したかは不明だが、ここ数日は伸び悩んでいた。
 
一方、桑田本人のダメージを危惧する声も上がっている。
「彼はライブの演出や構成には強いこだわりを持っている。
それが今回否定されたわけだから、アーティストとしてこれ以上のショックはない。これまでの桑田イズムが失われないか心配だ」
(音楽関係者)
 
なお、先日の抗議運動を行った「牢人新聞社」主幹の渡邊昇氏(41)は本紙取材に「やっと問題を認識してもらった」と一定の評価はするものの「18日に行う記者会見で最終的な見解を明らかにしたい」と話すにとどまった。
 
騒動はまだ尾を引きそうだ。

サザンファンの爆笑・太田は
「桑田佳祐がどんだけ日本を明るくしたか」

東スポ 2015年01月17日
「サザンオールスターズ」の桑田佳祐(58)と所属事務所のアミューズが15日、昨年大みそかの年越しライブでの“天皇不敬パフォーマンス”と、NHK紅白歌合戦に特別出演した際のチョビヒゲ姿について謝罪コメントを発表した。
 
年越しライブを行う横浜アリーナから生中継された際、桑田はナチスドイツの独裁者ヒトラーを思わせるチョビヒゲをつけて画面に登場。それに対する説明もなかったため、ネット上では安倍晋三首相に否定的な桑田が「安倍首相をヒトラーになぞらえたのでは?」と臆測を呼んだ。
 
これに対し、桑田側は謝罪書面で「紅白歌合戦に出演させて頂いた折のつけ髭は、お客様に楽しんで頂ければという意図であり、他意は全くございません」と説明。政治的な意味はないことを強調した。
 
一方で、すぐ騒ぎ立てる社会の風潮に苦言を呈したのが、大のサザンファンで知られる「爆笑問題」の太田光(49)だ。
 
1月13日深夜放送のTBSラジオ「爆笑問題カーボーイ」の中で、サザンの社会風刺はデビュー当時から行われていることで「あれをなぜ安倍政権批判と思うのか不思議だ」と擁護。
ネットなどで、桑田が「反日」とやゆされていることについても「桑田佳祐がどんだけ日本を明るくしたか。どんだけ日本人を勇気づけてきたか!」と声を大にした。
 

サザン桑田に右翼抗議
ライブでの不敬パフォーマンス問題に

東スポ 2015年01月14日
国民的人気ロックバンド「サザンオールスターズ」の桑田佳祐(58)が右翼系団体の猛反発を招いている。
発端は昨年末に行った年越しライブでのパフォーマンス。
桑田が昨年11月に受章した紫綬褒章をステージ上で、ファンを盛り上げるための“道具”として使用したり、日本国旗に「×」マークをつけた映像を流したことから、右翼系団体が「天皇陛下への侮辱行為だ!」と激怒。
11日午後には東京・渋谷区にある所属事務所前に現れ、抗議運動に出たのだ。警察も出動した緊迫の現場を緊急リポートする――。
 
「ライブでの不敬な言動! サザン桑田は猛省せよ!」
横断幕にはそう書かれていた。所属事務所「アミューズ」前には約30人の男女が集結。それぞれが桑田に対し、シュプレヒコールを上げた。
 
問題視されたのは、昨年大みそかのNHK紅白歌合戦でも生中継されたサザンの年越しライブ(横浜アリーナ)だ。
ここで桑田は紫綬褒章をジーパンのうしろポケットから無造作に取り出し、客席にアピール。ステージ上のMCでは「紫綬褒章をネットオークションに…」との爆弾発言まで飛び出した。
 
11月に都内で催された褒章伝達式を振り返った時には、明らかに天皇陛下と思われるモノマネも披露したという。
 
さらに「ピースとハイライト」を歌った際には、ステージ後方に×印がつけられた日本国旗や「中國領土 釣魚島」と書かれた映像が流れた。
 
これに激怒したのが、右翼系団体だ。
 
冒頭の横断幕を広げ、拡声器で「サザン桑田は出てきて釈明しろ!」「アミューズと桑田は国民に対して謝罪しろ!」と、約1時間にわたって声を張り上げた。
 
物々しい雰囲気に現場は騒然。やじ馬も続々と集まりだし、私服職員を含む警察官数人と警察車両も出動した。
 
今回の抗議運動を主宰した「牢人新聞社」主幹の渡邊昇氏(42)の言い分はこうだ。

「我々は表現・言論の自由を潰そうとしているわけではない。
ただ、日本人としてやっていいことと悪いことがある。
今回の桑田のパフォーマンスは天皇陛下に対する侮辱、国家の尊厳を踏みにじる行為だ。
日本固有の領土である尖閣諸島を『中国領土』とした映像は国益を無視するもので、断じて見過ごすことはできない」
 
同氏は一連のパフォーマンスに至った経緯や事実関係の確認を求め、公開質問状をアミューズのポストに投函。5日以内に納得のいく回答がない場合は
「再度、協議して今後の活動を決めていく」(渡邊氏)
というが、現時点で桑田やアミューズから明確なリアクションはない。
 
その一方で、サザンのライブは過激なパフォーマンスがウリでもある。
美女ダンサーに抱きついて腰をカクカク振ってみたり、客席に水をブチまけたり…。
それらを引っくるめてサザンなのだ。
 
今回の年越しライブも会場の雰囲気は「いつもと変わらず大盛り上がりだった」(一般客の男性)。
問題となった桑田の言動に対しても、客席からは笑いが巻き起こっていたという。
 
「批判されている『ピースとハイライト』も一部で政治的と言われているが、もとは世界平和を願った曲。
×印の日本国旗や『釣魚島』の映像は、中国との間で領土問題が存在し、解決の糸口すら見えないことを伝えたかっただけだと思う。
つまり右翼的思想も左翼的思想もなく、問題提起をしたかっただけ。
桑田一流のパフォーマンスですよ」
とは音楽関係者。
 
しかし、それが全員に正しく伝わるとは限らない。
ネット社会となったいま、動画は瞬時にアップされ、ライブの一部分を切り取ったものが出回るようになった。
ツイッターなどで桑田の発言をリアルタイムで知ることもできるようになった。
 
桑田本人に悪意がないのは当然だが、一部分を切り取った画像を見た人が「桑田は反日だ」と思い込むことを止めることはできない。
紫綬褒章を受章した当時、本紙は桑田が照れ隠しのために、勲章をライブの“小道具”に使用する可能性を報じた。
それは「桑田ならやりかねない」ということだったが、今回ばかりはそのサジ加減を誤ってしまったようだ。
 
 
 
《桑田本人に悪意がないのは当然だが、一部分を切り取った画像を見た人が「桑田は反日だ」と思い込むことを止めることはできない。
紫綬褒章を受章した当時、本紙は桑田が照れ隠しのために、勲章をライブの“小道具”に使用する可能性を報じた。
それは「桑田ならやりかねない」ということだったが、今回ばかりはそのサジ加減を誤ってしまったようだ。》
 
 
それをこんなに大騒ぎする、非寛容で優しくない、ヒステリックな連中。
天皇陛下への不遜を怒る気持ちはわかるが、
群れを組み、声を大きくして主義主張を『押し付ける』連中に共感はできない。
 
で、最後にこの記事を…
 
 
 

世界に逆行…
サザン桑田も爆笑問題も謝罪するこの国の息苦しさ

日刊ゲンダイ 1月18日
世界中が言論の自由のために結束しているのに、この国だけが逆行している。
そう思わざるを得なかったのが、サザンオールスターズの桑田佳祐と爆笑問題の謝罪である。
 
桑田と所属事務所のアミューズは15日、昨年末のライブやNHK紅白歌合戦での中継で見せたパフォーマンスについて、「配慮が足りなかった」「不備があった」などと謝罪した。
 
爆笑問題は年明けにNHKのお笑い番組に出た際、「政治家ネタは全部ダメと言われた」ことをラジオのレギュラー番組で暴露、NHKの圧力として、大きな話題になったが14日、「政治ネタを言うなというのは、打ち合わせの段階で僕らは了承しているし、NHKでなくても民放でもある」(太田光)などと弁明。
「言論統制なんてない」(同)と、軌道修正した。
 
桑田のパフォーマンスなんて、目くじら立てることではないのに、謝罪に追い込まれたのはネトウヨを中心に批判が集中したからだろう。
 
爆笑問題についてはNHKの籾井会長が会見で「個人名を挙げてネタにするのは品がない。
しゃべる人も品性や常識があってしかるべき」と語ったことも無関係ではないはずだ。
 
2人とも芸能界では大物なのに、こうした“圧力”にすぐに反応する風潮って何なのか。
言論の自由も何もないじゃないか、と思ったら、NHKは今月1日から15日までオンデマンドで紅白を配信した際、桑田の場面をカットしていた。NHKに理由を聞くと、「権利の関係などにより、部分的に配信しないことがあります」と答えたが、NHKが期間限定で「配信させてくれ」と頼んで、断る事務所があるだろうか。
 
桑田が紅白で歌った「ピースとハイライト」は明らかに安倍政権の近隣外交に警鐘を鳴らしたメッセージソングだ。
ネトウヨは「サザンの電波ジャックだ」と騒いでいた。
それだけに配信カットは見過ごせない。
 
ジャーナリストの鳥越俊太郎氏はこう言った。
「彼らが謝罪したのは本人の意向なのか、事務所が“わずらわしいから”とやらせたのかは知りません。
とはいえ、枠からちょっとでも外れたことを言うと、突出してしまい、こうした事態に追い込まれるのは実にイヤな風潮です。
フランスの風刺画については、ちょっとやりすぎと思ったが、日本は自主規制なのだから、もっとヒドイ」
 
日本は今や、言論の自由において、北朝鮮以下である。
 
 

識者に聞く
NHK「政治ネタ却下」騒動と「表現の自由」危機

日刊ゲンダイ 2015年1月9日
これも「公平中立な報道」の一環なのだろうか。
7日未明放送のラジオ「爆笑問題カーボーイ」でNHKからの“圧力”を暴露した「爆笑問題」。
3日に生放送された「初笑い東西寄席2015」の制作サイドが政治家ネタにNGを出したと明かし、
太田光(49)は「プロデューサーにもよるけど“自粛”なんですよ。政治的圧力は一切ない」、
田中裕二(49)は「それが色濃くなってるのは肌で感じたね」と語った。
 
NHKは
「放送にあたって娯楽番組の打ち合わせを出演者とする際、その中身について普段から明らかにすることはありません」(広報局)
というが、この一件に
「民放もNHKの姿勢に合わせていくことになれば、テレビ全体に猜疑の目が向くのも時間の問題かもしれません」
と話すのは上智大の碓井広義教授(メディア論)だ。
 
「以前、自民党が民放各局に公平中立な報道に配慮するよう要請したのも正直、圧力だと思います。
籾井(勝人)さんが会長になって以降、目に見えない自主規制をたくさんしているんだろうなと感じました。
ネタうんぬんに限らず、扱うニュースの順番、長さ、論調に至るまで気にしているのではないでしょうか。
しかも今回、そういった空気がエンターテインメントにまで浸透しつつあるということがハッキリした。
これは嫌な世の中になってきているなと。
『爆笑問題』はこれまで何度も生放送をこなしてきたプロですから、どこまでならOKか分かっているはず。
それなのに過剰に気にして表現の自由を奪うのはいかがなものか。
今の政治家は特に器が小さいところもあるから過敏になるのかもしれませんが、今回NGの前例をつくってしまったことで、今後の影響が気になります」
 
一方、民放はというと、元日の「爆笑ヒットパレード」(フジテレビ系)では爆笑問題の政治ネタはなかった。
しかし、昨年12月26日深夜放送の「検索ちゃん ネタ祭り」(テレビ朝日系、※事前収録)では、太田が
「小渕優子なんて当選した瞬間、“小渕ワイン”で乾杯。ルネッサ~ンス! その後、だるまの目にドリルで穴開けて」とボケ、
「うちわ問題」で蓮舫(47)が松島みどり(58)を追及する場面を顔マネを交えて再現。
これぞ爆笑問題の本領だろう。
 
安倍政権に対して弱腰及び腰をバラされてしまったNHK。
4日から始まった大河ドラマ「花燃ゆ」も、安倍首相のご当地・山口を舞台にした「ゴマすり大河」といわれているが、政治介入もないのに、勝手に忖度して自主規制とは愚の骨頂だ。
 
 
ヒステリックで偏狭な連中の言葉狩りは奏功した。
非常に嫌な気持ちにさせるニュースだが、
一歩離れてみた場合、
桑田に対し、「謝るなんて、ロッカーじゃない」とか言ってる連中の話を聞くにつけ、逆に感じることもある。
 
フランスのように、よその宗教をバカにしてテロの引き金 自分から引いておいて、
なお『謝らない』どころか、『逆撫で』を続けてるエセ博愛主義者の連中と比べて、
「この国の『和の精神』は、なんと どこまでも平和を愛す」のか、と。
 
苦々しいが、
桑田は『損して、徳を採った』と解釈したい。
調子乗り過ぎで顰蹙高まり、そのうち勝手に自爆するであろう連中を軽くいなしたと。

『ゴール動かし続ける韓国』  欧米もどうやら、わかり始めた

歴史問題で“ゴール”を動かし続ける韓国
欧米からも疑問の目が…
阿比留瑠比の極言御免

zakzak 2015.01.19

韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は12日の年頭記者会見で、日韓首脳会談について「日本側の姿勢の変化が重要だ」と曖昧な注文をつけ、慰安婦問題を早期に解決しなければ「韓日関係だけでなく、日本の歴史にも重荷になる」と言い募った。
一方的でかたくなな態度には、ため息が出るばかりだ。
冷めた日本政府
「ムービング(動く)・ゴールポストだ」
韓国について政府関係者らと話すとき、何度この言葉を聞いたことか。
慰安婦問題などで着地点を求めてそこを目指すと、いつの間にか韓国側がゴールをさらに先の方に動かしているという意味だ。
 
それでいて韓国側は日本に対し、具体案を示さずに「誠意を見せろ」と要求し続けているのである。
 
日本政府は現在、こうした韓国側の十年一日のようなあり方に冷めた視線を向けている。
小紙の加藤達也前ソウル支局長の出国禁止のような現在進行形の人権侵害を除き、韓国に対しては「放置でいい」(政府高官)との基本姿勢だ。
 
何ともやるせない現状だが、予期せぬ効果もあった。
韓国が日本だけを標的に歴史問題にこだわればこだわるほど、欧米で「なぜなのか」という疑問が高まり、客観的な事実関係を知ろうという新しい動きが出てきているのだ。
 
今年に入り、韓国メディアは相次いで次のような米国の元政府高官の「妄言」を伝えている。
 
「日本は過去、恐ろしいことをしたが、韓国もベトナム戦争の際は非常に冷酷だった。
ベトナムではそれが非難を浴びている」
(デニス・ブレア元国家情報長官・太平洋軍司令官)
 
「日本は韓国人戦争犠牲者に8億ドルを支払ったが、当時の朴正煕政権が慰安婦と呼ばれる被害者たちに伝えていなかった。
古傷が治癒しない理由がここにある。
韓国は、ベトナムで韓国軍が民間人に犯した行為を脇へ置いて、韓国と国交を結んだことを考えるべきだ」
(ロバート・シャピロ元商務省次官)
 
欧米も疑問視
欧米メディアも昨年来、韓国側の負の歴史に注目するようになり、日本を執拗に非難する韓国の外交姿勢に疑問の目を向け始めた。
次のような報道がだんだん目立つようになってきた。
 
「慰安婦問題は、政争の具として利用されるべきではない。
結局、日本から支払われた何億ドルもの賠償金を、犠牲者のためにではなく、莫大な公共事業のために使ったのは朴大統領の父親だ」
(米フォックス・ニュース)
 
「ライダイハンはベトナム戦争中、ベトナム人の母親と韓国人の父親の間にもうけられた子供を指す。
多くは韓国人兵士によるベトナム人慰安婦への虐待から生まれた」
(米CNN)
 
「韓国には、米軍基地周辺に基地村と呼ばれる売春街が存在した。
ここで働いていた元米軍慰安婦120人以上が、『韓国政府が米軍のために組織した』として、1人1千万ウォンの賠償を求めて韓国政府を提訴した」
(英BBCニュース)
 
元米軍慰安婦の訴訟に関しては昨年末、米軍準機関紙「星条旗新聞」も取り上げている。
朴大統領が慰安婦問題を提起し続けた結果、韓国が触れてほしくない問題もまた、白日の下にさらされることになった。
 
日本は過去の経験から、韓国にいくら譲っても結局、ゴールポストを動かされるだけだと見切った。
韓国側も、そろそろ歴史カードの乱用は控えないと「重荷」になるばかりではないか。
(政治部編集委員)
 
 
これが外交。
きっと水面下で政治が働いてるはずだ
 
中国が一筋縄で いかないのはわかるが、
韓国ごときの浅い政治力にナメられ、これまで頭を下げ続けてたのは、
日韓、お互いのためにも良くなかった。
 
優しい気持ち、思いやる気持ち、反省する気持ちは、
あってもここは封印し、
慰安婦問題、そろそろ、終止符を打って、
これまでのさばってきた『挺対協』なんぞの極右が、
ゴネ得とならないよう しないといけない。
それが両国が前向きに話し合える前提条件だ。
 
日本にも『在特会』、なんていうのがある。
こういうのがいると、いつまでも前に向いて進まない。

ムハンマドを冒涜する『イスラム国』が日本に刃を向けた/各紙社説

イスラム国 許しがたい蛮行だ

朝日新聞 2015年1月21日
過激派組織「イスラム国」が、その凶暴な刃を日本人にも向けた。
日本人2人を人質とし、72時間以内に2億ドルを支払わなければ殺害すると脅迫するビデオをインターネットで公開した。
 
人命の重みを顧みず、国際社会に恐怖を与えて優位に立とうとするふるまいは、身勝手で、許されるものではない。
「イスラム国」はすみやかに2人を解放すべきだ。
 
「イスラム国」は昨年6月、カリフ(預言者ムハンマドの後継者)制国家の樹立を一方的に宣言し、シリアとイラクで勢力を広げた。
昨年来、欧米人らを拘束し、一部を殺害し、映像をネット上で公開してきた。
被害者はジャーナリスト、援助活動家など、現地情勢を憂慮する民間人だった。
 
今回の事態は、「イスラム国」の脅威が遠い世界の出来事ではなく、日本と直接つながりがあることを如実に示した。
ビデオの中で脅迫者は、中東訪問中の安倍首相が2億ドルを「イスラム国」対策として避難民支援にあてると表明したことに矛先を向けた。
首相の中東訪問のタイミングを狙った脅しとみられる。
 
しかし、日本からの医療や食料の提供は、住んでいた街や国を追われる人たちが激増するなかで、不可欠の人道的な援助である。
「イスラム国」に向けた攻撃ではなく、脅迫者たちの批判は筋違いだ。
 
安倍首相は記者会見で「許し難いテロ行為に強い憤りを覚える」と述べ、中東地域の平和や安定を取り戻すための非軍事の支援を続けていく意思を強調した。毅然として向き合っていくべきだろう。
 
「イスラム国」は暴力的な戦闘行為を続けることを存立基盤としており、その統治システムも判然としない。
今までの国際社会のルールも通用しない。
そんな相手と対峙することは容易ではないだろう。
 
一方、国際協調なしにテロ行為には対処できない。
日本政府は関係各国と連携して情報を集め、2人の救出に向け粘り強く交渉していく必要がある。
 
2人が拘束された経緯ははっきりしないが、どんな事情で現地にいたにせよ、人命の重みを最優先に対応すべきだ。
 
米国などが実施する「イスラム国」の空爆に日本は関与せず、人々の生命と生活を守ることに焦点をあててきた。
 
これまで培ってきた中東地域との協力関係もある。
「イスラム国」が暴挙を重ねることのないよう伝えていくしかない。
 
 

誰に、どう伝えるんだよ(笑)。
相変わらず支離滅裂でインテリぶるだけの朝日新聞
 
《毅然として・・・》
 
と言いつつ、
 
《2人が拘束された経緯ははっきりしないが、どんな事情で現地にいたにせよ、人命の重みを最優先に対応すべきだ。》
 
と、記事にはあるが、個人的には、
危ない仕事をしてる人はそれを無理やり やらされてるワケじゃなく、
自分で選んでそれを生業としてるわけで、
こういうことがあるのは覚悟の前だろう。
 
気の毒だが、その場で即効で殺されず、人質にされて「交渉条件」にされ、命乞いするくらいなら、最初から、そういうところに行くな、
と感じる。
 
命は大事なのは当たり前だが…
 
で、朝日とは やはり対照的な、
小気味いいほど、揺るぎなく体制寄りな読売新聞と、
変わらずマッチョな産経新聞 ↓
 
 

「イスラム国」 人質の殺害脅迫は許されない

読売新聞2015年01月21日
安倍首相の中東歴訪に照準を合わせた、卑劣な脅迫である。
断じて許すことはできない。
過激派組織「イスラム国」とみられる組織が、邦人2人の殺害を予告する映像をインターネット上で公開した。
人質解放の条件として、日本政府に対し、72時間以内に2億ドル(約236億円)の身代金を支払うよう要求している。
2人は、湯川遥菜さんと、ジャーナリストの後藤健二さんとみられる。
 
湯川さんは昨年8月、シリア北部で写真を撮ろうとした際、イスラム国に拘束された。
後藤さんは、湯川さん救出と取材のため、シリアに入国したとされる。
 
動画投稿サイトに登場したテロリストは、日本に対し、「イスラム国に対する十字軍に参加している。
女、子供を殺し、イスラム教徒の家を破壊するために1億ドルを拠出した」と批判した。
 
「イスラム国拡大を防ぐ訓練費用」の1億ドル供与と合わせて、身代金額を算出したとしている。
身勝手で筋違いな要求だ。
 
安倍首相はエジプトでイスラム国対策の2億ドルの支援を表明したが、それは避難民向けの食料や医療など人道援助が中心だ。
あくまで非軍事活動に徹している。
 
そもそも、民間人殺害などの蛮行を繰り返しているのはイスラム国の方である。イスラム国を空爆した米国や英国などの民間人の身柄を拘束し、空爆中止や身代金の要求が聞き入れられないとして、計5人を殺害している。
 
安倍首相は記者会見で、「人命を盾にとって脅迫することは許し難いテロ行為であり、強い憤りを覚える」と強調し、人質2人の早期解放を求めた。
「人命尊重」の観点で対応する方針も示した。
 
政府は、ヨルダンに現地対策本部を設置し、首相に同行中の中山泰秀外務副大臣を派遣した。
米欧や中東の各国と連携し、人質の救出に全力を挙げねばならない。
 
過去には、国際的な協力により、交渉を通じて人質が解放された例もある。
イスラム国の様々な情報の収集と分析に力を入れたい。
 
不当な要求に応じれば、日本がテロに弱いとみなされる恐れがある。
テロ組織を勢いづかせ、同様の事件を引き起こしかねない。
 
菅官房長官が「テロに屈することなく、国際社会とテロとの戦いに貢献する我が国の立場に変わりない」と語ったのは当然だ。
 
テロの連鎖を断ち切るため、テロ資金対策やテロリストの渡航阻止などで、国際社会が一致して取り組むことが欠かせない。
 
 
 

邦人人質脅迫 テロに屈してはならない

産経新聞2015.1.21
極めて卑劣で残忍な犯行である。日本政府は「テロに屈せず」を大前提に邦人の解放に向けて全力を挙げてほしい。
 
過激派「イスラム国」とみられるグループが、身代金2億ドル(約236億円)を72時間以内に支払わなければ日本人2人を殺害すると警告する映像をインターネット上で公表した。
 
映像では、拘束された2人がナイフを突きつけられていた。
身代金は、中東歴訪中の安倍晋三首相がイスラム国対策に拠出を表明した額と同額である。
 
イスラム国は、シリアからイラクにかけて実効支配を広げるイスラム教スンニ派過激組織で、過去にも空爆停止要求が入れられなかったなどとして拘束していた米国人フリージャーナリストらを殺害している。
日本人を人質にとっての身代金要求は初めてだ。
 
声明は「日本の首相と国民へ」と題され、「おまえは8500キロも離れていながら、自発的に十字軍に参加した」などとして、米欧の対イスラム国政策への協力を批判している。身勝手な要求を受け入れるわけにはいかない。
 
エルサレム市内で会見した安倍首相は「人命を盾に脅迫することは許し難い行為で、強い憤りを覚える。
日本人に危害を加えないよう、直ちに解放するよう強く要求する」「国際社会は断固としてテロに屈せず、対応していく必要がある」と述べ、2億ドルの拠出は避難民への人道支援であることを強調し、実施する考えを示した。
 
菅義偉官房長官も「テロに屈することなく、国際社会とともにテロとの戦いに貢献していく」と述べた。この姿勢を支持する。
 
2004年にイラクのテロ組織が日本人を人質にとった際には、当時の小泉純一郎首相が直ちに「テロには屈しない」との大原則を示した。
 
事件は最悪の結末を招いたが、それでも大原則を曲げるわけにはいかない。
無法な要求を受け入れれば、日本が脅迫に屈する国であると周知され、同様の犯罪を招くことにもつながる。
 
日本が歩むべき道は、国際的な反テロリズムの戦いと連携することである。
 
同時に邦人救出に向けたあらゆる努力を尽くすことだ。
イスラム国の支配地域などへの渡航禁止を最高度の喫緊課題とし、徹底することも忘れてはならない。
 
 
・・・あと、当たり障りのない記事2本 ↓ 
 

社説:「イスラム国」人質 早期解放に全力挙げよ

毎日新聞 2015年01月21日  
恐るべき事件と言うしかない。安倍晋三首相の中東歴訪(エジプト、ヨルダン、イスラエル、パレスチナ)中に、イスラム過激派「イスラム国」を名乗る組織が日本人人質2人の身代金2億ドル(約240億円)を要求し、応じなければ72時間以内に2人を殺害すると予告したのだ。
 
首相へのメッセージとして誘拐組織は、日本は「イスラム国」に対する「十字軍」(米欧)の戦いに加わり、「背教者」の訓練を支援して計2億ドルを拠出したため2人の解放には2億ドルかかると説明したが、支離滅裂な論法と言うしかない。
そもそも人命を盾に取った卑劣な脅迫には何の大義もない。
 
誘拐組織がネットで公開した映像には、昨年誘拐が伝えられた湯川遥菜(はるな)さんとフリージャーナリストの後藤健二さんらしき人物が映っており、2人ともオレンジ色の囚人服を着せられている。
これまで「イスラム国」は欧米の記者や人道活動家などを公開処刑しているが、日本人に対する処刑予告は初めてだ。
 
だが、まったく的外れな要求であることを強調したい。
安倍首相は確かに訪問先のカイロで演説し、「イスラム国」対策として近隣のイラクやレバノンなどに2億ドルの支援を表明した。
だが、その内容は「イラク、シリアの難民・避難民支援」や「地道な人材開発、インフラ整備」など非軍事的な色彩が強く、「イスラム国」との戦闘に力点を置いた支援ではない。
 
また、日本はイスラエルとパレスチナの和平交渉を側面支援するとともに、大量の核弾頭を持つとされるイスラエルに核拡散防止条約(NPT)への加盟を求め、国際法違反に当たる入植地(住宅団地)建設をやめるよう忠告した。
日本はイスラエルにも厳しく注文しながら、パレスチナ人の自立と独立に向けて巨額の支援を行ってきたのである。
 
中東の石油に依存する日本がアラブ・イスラム圏との関係を大事にし、米欧とは異なる平和外交を推進してきたことは広く知られている。
日本が「十字軍」に加わったという主張は、言いがかりか日本をよく知らない者たちの一方的な決め付けと言うしかない。
 
だが、2年前、アルジェリアの天然ガス関連施設が襲われ、日本人も10人がテロの犠牲になった。
最近の欧州の騒乱を思えば、テロは日本にとって対岸の火事ではないと自戒することも大切だ。
 
イスラエルで記者会見した安倍首相は、人質の処刑予告に「強い憤り」を表明する一方、人命尊重を第一に早期救出を目指す方針を示した。
その通りである。
日本は中東に有する人脈を生かして人質解放に全力を挙げるべきだ。
 
 

「イスラム国」の卑劣な脅迫は許されない

日経新聞 2015/1/21
シリアやイラクで勢力を伸ばす過激派「イスラム国」とみられるグループが、日本人の男性2人の殺害を警告するビデオ声明を公表した。
72時間以内に2億ドルの身代金を支払うよう求めている。
 
安倍晋三首相がエジプトやヨルダンなど、中東4カ国・地域を訪問しているさなかの卑劣な脅迫である。
人命を取引材料とする非道な行為は断じて許されない。
安倍首相は訪問先のイスラエルで「人命第一での対応を指示した」と述べた。
 
映像に映る男性は昨年、内戦中のシリアで拘束された湯川遥菜さんと、取材でシリアに向かった後、行方のわからなくなったフリージャーナリストの後藤健二さんとみられる。
 
「イスラム国」は暴力による恐怖で支配地域を広げてきた。
残虐行為を繰り返し、従来の国家秩序を否定する過激派組織の台頭は国際社会に共通の脅威である。
 
米国が主導する有志連合が「イスラム国」の拠点に空爆を続けている。
これに対し、「イスラム国」は拘束した米国や英国の民間人を相次いで殺害し、残忍な映像を公開してきた。
 
今回の日本人の殺害警告は、「イスラム国」の蛮行が遠い地の話ではないことを示した。
映像に登場する黒覆面の男は「日本の首相へ」と呼びかけ、身代金を要求する理由として安倍首相が「イスラム国」対策のために2億ドルの拠出を表明したことをあげた。
 
見当違いも甚だしい。
「イスラム国」の暴力から逃れるため、シリアやイラクでは多くの人々が住む家を追われた。
難民を支える環境を整えることが急務だ。
そのための人道支援である。
 
「イスラム国」の支配地域から伝えられる民族や宗教の少数派や女性、子供に対する非人道的な行為こそ断罪されてしかるべきだ。
 
「イスラム国」の活動に加わった欧米出身の若者が母国に戻り、テロ行為に及ぶ危険も増している。
フランスの風刺週刊紙襲撃など同国での連続テロ事件をきっかけに、欧米とイスラム世界の亀裂が深まっている。
 
安倍首相は「テロに屈してはならない」と述べるとともに、「国際社会と連携し、地域の平和と安定に貢献する方針は揺るがない」と決意を示した。
 
「イスラム国」と対峙する各国と綿密に連携し、2人の早期解放に全力をあげてほしい。
 
 
 
ちなみに
菅官房長官の
「テロに屈することなく、国際社会とテロとの戦いに貢献する我が国の立場に変わりない」のコメント、社説に載せたのは読売と産経のみ。
 
東京新聞は、社説ではこの人質事件、一紙だけ採り上げなかった。
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