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■『絶対正義』についての研究 ~謎の仮説についての研究と考察~
◆『絶対正義』仮説とは何か?
まずこの『絶対正義』仮説とは何の事を指しているか、具体例として私の専門の太平洋戦争を例に説明してみます。
太平洋戦争開戦直前にアメリカは各国と連携して、日本に対して「ABCD包囲網」と呼ばれる経済制裁を掛けています。
日本はこれで経済的に追いつめられて真珠湾攻撃に打って出ます。
結果、経済力に劣る日本は、最終的にはアメリカに敗北します。
この部分の歴史を研究する場合、考える必要があるのは、日本側の視点と、アメリカ側の視点になります。
当時の日本は日本側から見た視点で判断して、あのような行動をとり、またアメリカも自分側から見た視点で、あのような行動をしているのですから当然です。
ところが私がこの歴史を研究する場合は、非常に困った問題が発生します。
それはどうしてもよけいな『自分の視点』と言う物が発生してしまうことです。私は当時の日本人ではないし、アメリカ人でもない。
そしてその後どうなったかも知っている、あくまでも後世の第3者です。
この視点は全体像が見渡しやすいメリットもありますが、問題なのは「当時の人が何故あのような行動を取ったのか?」を考える場合です。
当然ですが当事者達は私の視点で物を見て考えて行動しているわけではありません。
当事者達は自らの視点で物を見て考えて行動しています。
そこで私の場合はどうするかと言いますと、当時の資料を読み、当時の人達が何を知っていて何を知らなかったかを調べ、なるべく当事者と同じ状態、同じ視点に持って行って、自分ならどのような行動をしたかを考えてみる。
要するに『自分の視点』を『日本の視点』とか『アメリカの視点』になるべく近づけようと試みる。
これが一番良い方法です。
先の太平洋戦争の例なら、始めに日本は中国と戦争をしており、そのため経済的に苦しい状態に置かれていた。
そんなときに欧州では第2次世界大戦は始まる。
そこで日本は欧米列強がドイツとの戦いで手一杯なうちに、東南アジアの植民地を取って資源を確保しようと仏印に侵攻。
この行動で アメリカを中心とした各国が怒り、日本は経済制裁を受ける。
アメリカの視点から見れば、この行動は火事場泥棒ですから当然です。
そこでさらに追いつめられた日本は、真珠湾攻撃に打って出るしかなくなる。
そして経済力に劣る日本は最終的にアメリカに負けた。
こんな所でしょうか。
こうするとこの時の歴史展開がすっきりと理解出来ます。
要するに視点を日本とアメリカの二つだけに絞ることが重要です。
ただ、完全に当事者の視点になることは無理です。
当事者には当事者の大きな人生があり、全部を知る事は出来ない。
そこで資料を調べて、足りない部分は『自分の視点』で補完したりして想像して 見る。
このときに資料が少なかったり、まとまって無くて理解出来なかったりすると、『自分の視点』部分が多くなって歴史分析に失敗します。
歴史資料は数多くありますから、『自分の視点』が無ければまとめることは出来ませんが、一歩間違えると、ある意味よけいな物になり得ます。
ところが歴史を論じている人の中には、これとは全く違う第4の視点が存在している事を信じている人がいるようなのです。
しかも無意識に信じており、かなり数も多い。
いわゆる『神の視点』です。
『神の視点』を説明しますと、この場合の『神』とはキリスト教の様な一神教の絶対神のことです。
神道のような米粒の中に3人いるような神様ではありません。
全知全能の絶対神なので『神』は、あらゆる人も、あらゆる小さい事象も、過去も未来も、全てのことを知り、頭が非常に良いので全てを理解しています。
間違える事はありません。
従って『神』は全ての善悪を判断出来て、その正義は間違いなく正しい、神の視点から見た『絶対正義』となります。
これを『大義』と呼ぶこともあります。
しかし人間は『神』ではありません。
知っていることには限界があり、頭も利口ではありません。
ですから『絶対正義』を理解することは不可能です。
しかし世の中には、知識が多い人もいれば、少ない人もいます。
数学の問題がすぐに解ける人もいれば、なかなか解けない人もいます。
要するに『神』により近い人と、そうでない人がいるわけです。
そこで人間は努力して知識を深め、理解力を高めればより『神』に近づけます。
そうすればより正しい判断をすることが出来ます。
『絶対正義』にも近づけます。
先の太平洋戦争の例で言えば、彼等はこう考えます。
日本は天皇を神としてあがめ、日本の正義に基づいて戦った。
アメリカもアメリカの正義に基づいて戦った。
日本が真珠湾へ奇襲攻撃をしたのはアメリカが経済制裁をしたからだ。
日本は戦争中、悪いことをしているが、アメリカも原爆を落としたでは無いか?
日本もアメリカもどちらが正しいと言うことは言えない。
『神の視点』から見ればどちらも同じような物だ。日本も正しかった。
なんだこりゃ?
とにかくこれで同じ歴史の議論をしているつもりでも、全く話がかみ合わなくなる理由が理解出来ました。
私の場合は歴史の真実に近づこうとする場合、当時の日本やアメリカの視点に近づこうとする事であるのに対し、彼等は『神の視点』に近づこうとしているからです。
最初から方向が完全にずれている、と言うより違う方向を向いています。
歴史を論じるときの問題として、彼等は「時間を超越して考える」と言う特徴があります。
私なんぞは、歴史を考えるのですから「この時代の人は何を知っていて何を知らなかっただろう」とか「この時代はどういう概念があり、どういう思想があったか?」とか、時間の概念は重要視と言うより絶対視するのですが、彼等に取ってはあまり重要では無いようです。
平気で現在の、しかも自分の概念に照らし合わせて歴史上の人物の行動を批判したり論評したりします。
この考えは私は前から不思議でしかたが無かったのですが、彼等が『絶対正義』を信じ『神の視点』に近づこうとしていると考えると納得がいきます。
『神』は全知全能の時空を超えた存在なので、当然時間の概念は重要ではありません。
それに近づこうとする場合、時間の概念は重要では無くなるのでしょう。
とりあえずこの考え方には、私は『絶対正義仮説』という名前を付けることにします。
何故、仮説なのかと言いますと、そもそもこの説は「『神の視点』が存在する」と言う事が前提となって始めて成立するからです。
私は今のところ神の存在を信じたことはありませんし、神の存在が証明されたと言う話も聞いたことがありません。
従って『神の視点』は、存在したほうが物事を説明しやすくなる仮説であると考えた方が良いでしょう。
もっともその存在を信じている人に取っては違うでしょうが、その存在が証明されていない以上仮説です。
それに対して私の様な考え方を『相対視点論』とでも名付けておきましょう。
少なくとも私の考え方には、仮に存在していると考えている部分は無いので『論』でかまわないでしょう。
◆その分類
そこで早速、この『絶対正義仮説』について、詳しく分析してみることにします。
まず気がつくのは、これを信じている人は大別して以下の2種類に分けられます。
A:一神教信者(キリスト教・ユダヤ教・イスラム教)
B:思想系(左翼・右翼など)
Aの方は分かりやすいでしょう。
この場合、『神の視点』とはその宗教の神様の視点であり、その神様は全知全能の万能神です。
そしてその神様の考えは『絶対正義』です。
もともとキリスト教・イスラム教はユダヤ教から発生していますので、基本的に同系列ですし、『神』の考え方についても基本的には同じです。
そしてその『絶対正義』が書かれた教典を持っており、それを基準に全ての物事を考え、行動します。
問題はBの方です。
この人達は神様は信じていませんが『神の視点』の存在は信じている。
しかもその信じ方は完全に無意識な物であり、他人も当然同じように信じていると考えています。
彼等は自分が『絶対正義』の存在を信じていることに気がついていません。
Aのタイプは非常に分かりやすく特に論ずることも無い、と言うか宗教論については他の人もやっているのでそちらに任せたいと思います。
問題はBのタイプの方。
こちらは非常に分かりにくく、分析もされていないので、ここではこちらを中心に分析を試みたいと思います。
最初に断っておきますが、B:思想系というのはあくまでも『絶対正義』を信じている思想系の人という意味です。
思想系でも信じていない人もいます。
しかし政治とかを語ろうとする思想系の人には、どうやら『絶対正義』を信じている人が大多数を占めているようです。
基本的に『正義』を唱える人はこちらのタイプです。
唱えない人もいますが・・・
『絶対正義』を信じていない人にとっては、正義なんて暴力を振るう理由以外では使用されない物と認識していますから、めったなことで使用する言葉ではありません。
しかし彼等はかなり頻繁にこの言葉を使います。
簡単に言えば、一神教における正義の概念のみを取り出して、その部分のみを信じている感じです。
宗教の場合、生活全般が宗教教義に基づいて行動することになるのですが、『絶対正義』信者の場合は社会問題・国際問題・一部の歴史などの問題を考える時に、『絶対正義』に基づいてその解釈を考えます。
このことから明らかに一神教の進化型の概念だと考えられます。
まあ一神教は1000年も2000年も前に出来た物ですので、古くなった部分も大量にありますから、その部分をそぎ落として正義論だけにより純化した感じです。
このBタイプの『絶対正義』信者を観察していると、どうもさらに3つのタイプに分類出来るようです。
B1:狂信者
B2:理想主義者
B3:相対主義者
B1:狂信者とは『A:一神教信者』に極めて近いタイプです。
一神教の特徴として『教典』の存在があります。
ユダヤ教なら旧約聖書、キリスト教なら新約聖書、イスラム教ならコーランと言った具合。
B1タイプの人は必ず『絶対正義』が書かれた『教典』、若しくは『絶対正義』を語る『教祖』を持っています。
そしてその思想を基準にして考え、行動します。
共産主義者にとっての『資本論』がこれに当たります。
自らの考える『正義』の内容について全く疑っておらず、文字通り狂信しているのがその特徴です。
意外と『教典』を書いた人や『教祖』が、このタイプで無いのが面白いのですが・・・
B2:理想主義者とは『教典』は持っていませんが、『教典』に近い物を探している人達です。
人は『神』ではありませんので『神の視点』たる『絶対正義』を知ることは出来ません。
従って人の書いた『教典』にはどこかに必ず矛盾が生じます。
これが一神教の様に「教祖は神の代弁者である」とすれば問題ないのですが、彼等は神を騙る者を信用していません。
そこで自ら考え、神の視点に近づこうと日々努力します。
自らの考える『正義』について、絶えず疑っているのがその特徴です。
「人間の考えることは不完全である」が前提となっており、より神に近づいた理想的な『正義』を絶えず追い求めています。
B3:相対主義者とは「正義なんて所詮相対的な物」と考えている人達です。
ただこの場合の相対とは、あくまでも「神の視点から見て」の相対です。
太平洋戦争で言えば「日本の正義もアメリカの正義も、『神の視点』から見ればどちらも不完全な物であり、相対的に同等な存在である。どちらも正しい。」と考えています。
このタイプはさらに2種類に分類出来ます。
B31:ニヒリスト(虚無主義者)
B32:オポチュニスト(ご都合主義者)
B31:ニヒリスト(虚無主義者)とは
「人間は所詮神では無いのだから、『神の視点』など持ち得ない。
『絶対正義』など分からない。
『神の視点』から見ると全て同じだから、何をしても変わらない。」
と考えている人達。
ある意味、達観の域に達している人達です。
太平洋戦争の例で言えば、「日米双方とも正しく、そして間違っている」と考え、そこで考えることを放棄しています。
物知りで考える能力もあるが、他人のやっている事には文句ばかり言っている事が多いです。
基本的に「どうせ人間なんて」と考え、上に進むことを停止して虚無状態に陥っています。
B1・B2タイプの人が現実によって自分の理想が否定されると、このタイプに変化する事が多いようです。
B32:オポチュニスト(ご都合主義者)とは、
「『神の視点』から見れば、みな同じ正義なのに差があるのはおかしい」
と考え、
「正義は引き寄せるものだ」
と考えている人達です。
太平洋戦争の例では、『大東亜戦争肯定論』を唱えている人達がそうです。
やり方としては『ご都合主義』、
つまり「自己の正義に取って都合の悪い現実は無視して、都合の良い現実のみで正義論を組み立て、それで勝った正義が本当の正義になる。」
と考えています。
歴史の話をしていて一番疲れるのがこのタイプですね。
彼等は自分にとって都合の悪い現実は認めませんし、またそれが自分の正義を高める方法であると考えています。
彼等と話していると史実を認めるかどうかの話になります。
彼等にとっては現実ですらどうでも良いことのようです。
前項で挙げた『絶対正義』信者の例はこのタイプです。
分類としてはこんな所でしょう。
気付いたと思いますが基本的に上から順番に変化していった物のようです。
具体的に書くとこんな感じ。
A: 一神教信者 教義を無批判に信じている。
↓
宗教に疑問を持つ。
B1: 狂信者 別の正義を見つける。
↓
現実を見て、新しい正義にも問題があることに気付く。
B2: 理想主義者 真に正しい『絶対正義』を追い求める。
↓
『絶対正義』には到達出来ない。
B31: ニヒリスト(虚無主義者)
『絶対正義』を追い求める事をあきらめる。
↓
現実に何の役にも立たない。
B32: オポチュニスト(ご都合主義者)
正義を自分の方に強引に引き寄せようとする。
基本的にはこのように変化します。
変化のたびにその主義主張も変化します。
ただこれは基本的な変化パターンなので、人によって変化はそれぞれです。
特定のタイプに止まっていたり、
理想主義者から宗教信者になったり、
狂信者からオポチュニストになったり、
右翼(民族主義者)の様にいきなりオポチュニストから始まったり、
かなりのパターンがあります。
ただ『絶対正義』信仰だけは変わらず、これを中心とした変化になります。
◆その分析
ここで『絶対正義』信者各タイプを視点の面から分析してみます。
この考え方の特徴は他人を見る場合に、対照を直接見るのでは無く、神の視線を介在することによって間接的に他人を見る点です。
例えばアメリカの行動を見る場合、直接アメリカを見ることはありません。
見るのは『神の視点』から見た視線です。
アメリカの行動を神がどのように見ているかを考えて、それを判断基準にします。
何かやたらと複雑な感じがしますが、彼等に取ってはこれが普通です。
それではタイプ別に順に分析してみましょう。
A:一神教信者
『絶対正義』信者の原型とも言えるこのタイプの人にとって最も重要なのは、自分を見ている『神の視線』です。
「全知全能の神様が何時でも何処でも貴方を見ていますよ。
貴方が他人に見つからない悪事を働いても神様はお見通しです。
だから何時いかなる時も神様の命に背くことをしてはいけません。」
だいたいこのような感じです。
そして神様の命は、神の代弁者たるモーゼ・キリスト・マホメッド等の預言者、その後継者たる司祭が伝えます。
この思想は元来はこの神の視線を意識させる為のものでしょう。
神様が何時も見ているとすれば悪事は全てバレているものなので、悪事を行うことは出来ません。
この考えによって人は自分の行動を正すことが出来ます。
これで誰が見ても信用がおける立派な人物になれる。
元来は自分を高めるための思想です。
問題はこの考えで他人を見る場合。
相手を見ている『神の視線』を見て判断しようとしますから、ある意味全く相手を見ていません。
「自分の神の命に背いているから悪だ。」
と普通に見てしまいます。
宗教がらみの対立が泥沼化する原因はこれです。
互いに別の『神の視線』を見て相手を見てないから、歩み寄りようが無くなります。
B1:狂信者
Aタイプの特徴は、神と自分との間に預言者とか祭司とか別の人間が入ることです。
問題なのは、「果たして彼等が本当に神の代弁をしているか?」と言う点。
実は宗教というものは、預言者とか祭司が神の代弁者であることを信じることによって成り立っています。
ところが預言者が神の言葉を聞いたのは1000年以上も前なので、人類の科学技術が進歩してくると色んな物が見えてきて、預言者の言葉を伝えている祭司達の言っていることの矛盾点が見えてくる。
そこでB1タイプの人達は、司祭の言っていることを信じず、自分で考え新しい教義を見つけ出し、それを信じます。
自分の位置をより高い方向に持って行くわけです。
要するに自分自身をより神に近い、宗教の場合の司祭の位置につける。
(あくまでも自分で思っているだけですが・・・)
この影響として視点もの面から見ると、自分の位置が上がったので、それと相対して自分を見ている『神の視線』への意識は弱まります。
そして他人を見る視点もより厳しくなります。
自分と意見の違う人を無茶苦茶に言うのがこのタイプですね。
何せ自分の視点は神に近いものと考えていますから、自分の考えと違うものは全て間違い。
ほとんど他人を見なくなります。
実はこのタイプ、大概は過渡的なタイプです。
自分で考えて特定の教義を見つけ出し、このタイプになっていますので、何かで挫折したときに、現実を見て自分の教義にも矛盾があることに気付いて、さらに考えを進めて別のタイプになっていく場合がほとんどです。
人は神ではないので人間の考えた教義が完璧なわけありませんから当然です。
と言いますか、このタイプは若年の単なる世間知らずが多いです。
もっとも挫折を知らずに、あるいは気付かずに、この時点で完全に考えが止まったままの人も稀には存在しますが。
このタイプの人は視野が極めて狭いので、自分に都合の良い現実しか見えてなかったりしますので、実際に自分が挫折している事に気付かない人もいます。
B2:理想主義者
B1タイプの人が何かで挫折して、自分の考えが絶対では無いことを理解します。
世の中には色んな考えがあり、色んな見方があります。
ただ、どの考えもどこかに矛盾を抱えていることも理解出来ました。
人は神様でないので、絶対的な『神の視点』に立てないことも理解出来ました。
しかし世の中には問題が山積しています。
それを解決する完璧な答え、
『絶対正義』が存在するはずです。
このタイプの人はここまで理解した上で、現実を直視し、絶えず考え、行動し、理想を追い求めようとします。
自分自身を限りなく神の位置に上昇させようと努力しています。
それが人の進むべき道だと考えています。
ただ絶えず考えているので、新しい現実を目にしたとき、自分の行動の結果を目にしたとき、それを基に考えが進み、思想信条ががらりと変わる場合があります。
そこで他のタイプの自分の正義を固定化させている人から見ると、変節漢として批判を浴びることが多いです。
どうも難しい人物として見られる事が多いようです。
しかし変化があるのは大概、自分の正義に基づいての行動が失敗したときです。
彼等は失敗と言う現実から逃げずに考え、さらに前に進もうとして自分の考えを変えているのです。
個人的にはこういう人達は好きですね。
現実から決して逃げようとはしませんし。
世間的に成功するのはこのタイプが多いです。
大失敗をする人もいますが。
このような上昇志向はかなり努力がいる事なので、それだけに力が入っています。
自分を見ている『神の視線』は、「自分が上に昇ろうしている事を見てくれている」と気にしていますが、他人を見る視線はあまり気にしていない。
が、むしろ他人は別の方向性で神に近づこうとしていると思っているので、結構他人の意見は尊重しています。
B31:ニヒリスト(虚無主義者)
このタイプの現状認識はB1タイプと同じです。
人は神にはなれない事を理解している。
ただB2と違いこのタイプの場合は、
「人はどうせ神にはなれない。」
としてあきらめています。
そして「全ての人、全ての思想、全ての正義は『神の視点』から見ればどうせ相対的に等距離だ。」と考えて上昇志向を持ちません。
全てが相対的に等距離なら、上昇することは無意味な努力ですから。
このため自らは何もせずに他人のやっていることをひたすら愚痴っている場合が多いです。
B1タイプからB2タイプになるか、このタイプになるかは、その人のプライドで決まるようです。
B1タイプは「自分は神に近い視点を持っている」と思っているだけあって、非常にプライドが高い状態にあります。
それが現実にぶつかって挫折したときに、プライドを捨てて別の考えを認められる場合はB2タイプになり、
プライドが捨てられず前の考えにこだわる場合はこのタイプになります。
このタイプは自分の位置を上昇させようとする考えはありません。
代わりに他人を見る視線(他人を見ている『神の視線』を見る視線)が非常に強い。
ちょうどB2タイプとは全く逆になります。
要するに挫折して自分の位置が上の方に無いと気付いたとき、違う考えの人が上にいるように見えるます。
それを「他人の位置も自分の位置も『神の視点』から見れば相対的に同じ位置にある」としてプライドを保とうとしています。
よくいる他人の批判ばかりしている人がこのタイプです。
基本的に虚無に陥っているので、自分で何も行動せず、行動している人のことの批判だけをしています。
どうやらプライドだけが高いので、行動して失敗するのが怖いようです。
まあ、つきあうには話だけ聞き流していれば、人畜無害なんですけど。
B32:オポチュニスト(ご都合主義者)
これはB31タイプがさらに変化したタイプです。
まれにB1タイプから変化したような人も見受けられるのですが詳しくは不明。
どのような変化かというと、B31タイプの人はあまり世間的に、つまり他人の視点から見ると評判がよろしくない。
しかし当人達は、
「人間は『神の視点』から見れば相対的に平等である」
と考えています。
でも世間には成功した人が確実にいます。
これが彼等のプライドを刺激するわけです。
「何故自分は下に見られるのか?」と。
そこで彼等は考えます。
「何故成功してる人は成功しているのか?」と。
その結論は「彼等は力ずくで成功している」ということです。
人は神でありませんから完璧な人はいません。
それは成功している人も同じはずです。
違いは「彼等は成功しているように現実を見せかけているだけだ。」と勘違いします。
そこで自分達も同じようにして成功しているように見せかけようと考えます。
そこで採る方法が『ご都合主義』。
つまり現実において自分達にとって都合の良い部分だけを強調し、都合が悪い部分を意図的に無視して、他人に見せかける事によって成功している様に見せかける。
さらに成功している人に対しても、失敗している現実を強調することによって落とし込めようとします。
彼等の場合は成功とはこういうものだと勘違いしています。
実際は成功している人というのは、現実を全て見つめ、その対処方法を知っているから成功しているのですが。
まあB2タイプのように努力して自分を上昇させようとするより、このやり方の方が簡単に出来るので、プライドを落としたくない人はこちらをとるのでしょう。
このタイプはB1狂信者タイプとあまり見分けがつきません。
私も最初は同一なのではないかと思っていましたが、根本的に違うようです。
違いは現実の見方にあります。
B1タイプの場合は、経験不足と視野の狭さ故に現実が部分的に見えていません。
しかしこのタイプの場合は、現実は見えているが都合の悪い部分を意図的に無視しています。
ついでに言うとB2タイプは全ての現実を見ようとしていますし、B31タイプは現実を見ることをあきらめています。
ここまで来ると『神の視点』はどうでも良くなっているので、説明不能。
あえて言えば神の代わりに『他人の視点』をより多く気にするようになっています。
当然、神様とは違い、他人は常に彼等を見ているわけではありませんので、見られている部分だけよく見せて、見られていない部分は誤魔化そうとする。
要するに「自分は神に近い位置にいる」と見せかけようとします。
歴史研究をやっていて、一番たちが悪いと思われるのがこのタイプですね。
彼等の場合、意図的に史実(現実)を無視しますから。
最悪な場合、史実(現実)を後から付け足そうとします。
もはや彼等に取っては現実(史実)など、どうでも良いことの様なのです。
おおざっぱな分析としてはこんな所でしょうか。
まだかなり不十分ではありますが、私が端から観測して、分析した限りではこんな所です。
色々なタイプの人がいるように見えますが、基本的に『絶対正義』の存在を信じている点では同じです。
B2:理想主義者になってくれると社会的にも非常に有益な人達になりますが、その他のタイプの人はちょいとです。
歴史を研究していると、この『絶対正義』信者に関しては、一見同じ正義を信仰しているが、時代によって内部的に変化している場合が多く見受けられます。
具体的には共産主義者がそうです。
私が研究している20世紀前半の共産主義者は、明らかに『B2:理想主義者』が多い。
当時は最初の社会主義国ソ連が出来てないか出来たばかりでしたから、当然、その後にどうなるかを知らない。
しかし現在、21世紀の共産主義者は『B31:オポチュニスト』がほとんどです。
彼等は失敗したという現実を知っていて、なおかつそれを無視しています。
◆○○史観
それと歴史研究をしていて思うのですが、根本的にこの『絶対正義』信者は、歴史分析に向いていない事は確かです。
原因はさんざん言っていますが、
「他人を見るときの視点」。
その対象を直接見ず、対象を見ている『神の視点』から間接に見ることで判断しようとしますから、その対象の本質を見ることは出来ない。
それと全知全能の神には時間感覚が無いため、時間順に歴史を見ることが出来ない。
歴史の本を読んでいると、よく共産主義史観、皇国史観、自由主義史観などの○○史観と呼ばれるものによくぶつかります。
しかも私が研究している太平洋戦争前後の歴史本には特に多い。
私もこの手の○○史観で書かれた本を読んでみるのですが、私には内容がほとんど理解出来ない。
ようやく気がついたのですが、この史観というものが『神の視点』の事だったのです。
要するに『共産主義の神様』、『皇国の神様』、『自由主義の神様』から見た視点で書かれています。
共産主義史観で見れば、
「明治から戦前に掛けての日本は天皇制に支配された暗い時代だった」、
(調べている限りそんなことは全然無いのですが・・・)
皇国史観で見れば、
「開戦前のアメリカは日本を落とし込める陰謀をもって日本に経済封鎖を掛けた」、
(単純に日本軍の仏印侵攻が向こうから見れば泥棒なんで、それで怒って経済封鎖したとしか見れないのですが・・・)
自由主義史観から見れば、
「大正期の労働運動は共産主義者に騙されたもの」、
(当時としては目新しい新・理論だった社会主義を試しているようにしか見れないのですが・・・)
と、こんな調子です。
それと○○史観の場合、やたらと陰謀論が好きです。
これは『神の視点』で全体を説明するには、どうしてもカバー仕切れない部分が出てくる。
このため、この部分を『陰謀』で説明しようとするようです。
例えば先の例での、「アメリカの経済制裁陰謀論」がそうですね。
もともと皇国史観は日本中心の史観なので、アメリカを見る部分は非常に弱い。
そこで陰謀論で説明するわけです。
さらにもう一つ、時間感覚を気にしないと言う特徴もあります。
例えば自由主義者は当たり前のように、20世紀前半の共産主義に染まった人達を悪く言います。
当時の人はその後の結果を知らなかったわけで、私から見ると染まるのも無理は無いな、と思えるのですが、
自由主義史観の人は自分は結果を知っていて、結果を知らなかった当時の人を批判します。
私から見るとそれは「じゃんけんの後出し」、反則技なんで、絶対にしてはいけないことなのですが、○○史観の人は何の疑問も無くこの手の事を行います。
あと皇国史観の人が太平洋戦争の原因をペリー来航に求めたり、基本的に起きた順番を全く気にしていない。
そしてB1タイプの人の考えでは、
「自分が信じている史観だけが歴史」なのであり、
B2・B31・B32タイプの人の考えでは、
「幾つもの史観が戦い遭い、最終的に生き残った史観が正式な歴史になる」というのが歴史の概念です。
なんじゃこりゃ?
私にはとても出来ない発想です。
歴史を研究している者としては理解不能の考えです。
だからこそ、この考え方の分析をしてみる必要があったのですが。
私の考えでは、
「歴史なんて物は、過去に起きたことを研究する事なので、当時の人が何を知って、何を知らなくて、どう考え、どう行動したか、が重要であり、
史実はすでに起きたことなので確実に答えは一つである」
なので、史観というものがあること自体が疑問なんですけど。
だいたいにおいて、
歴史を考えるのに当時の人の視点に立って考えようとしていない、
歴史的順番を無視して考える、
この時点で歴史を見るには役に立たないものだとしか思えないのですが。
私は学生時代からの根っからの理工系人間なので、科学技術と言うものが大好きなのですが、
科学とは〝現にそこにあるもの〟が、
「どういう物か?」
「どういう法則でできているか?」
の分析であり、
技術とはそれで見つけた法則の応用です。
例えば、16世紀の科学者コペルニクスは、惑星の動きを観測をして、その結果を論理的に詳細に分析することで、「地球は太陽の周りを回っている」と言う地動説に達する。
「太陽が地球の周りを回っている」とした天動説より、「地球も惑星の一つであり、太陽の周りを回っている」と考えた方が、観測結果をすっきりと説明出来たから。
そして17世紀にはいると、ケプラーが「ケプラーの法則」を導きだし、惑星の動きを数学的に完璧に説明する。
ガリレオは望遠鏡を用いての天文観測でさらに検証する。
この時期に何故、天文学が盛んだったというと、正確な暦を作るためと、遠洋航海をするのに必要だったからです。
陸地が見えない海原の中にいても、北極星の角度を観測すれば現在位置の緯度が分かり、何時にこの星がこの位置にあるかを観測すれば経度が分かる。
天文学は地図のない時代に、未知の大海に繰り出すための必需品。
この発達と共に、コロンブスに始まる大航海時代があり、欧州各国が世界に進出する帝国主義の時代につながります。
これが科学を応用した技術。
別に科学者たちが地動説を唱えたから地球が太陽の周りを回り始めた訳ではない。
それ以前から地球は太陽の周りを回っていた。
科学者たちのやったことは、その以前からあった現象を正確に解き明かしただけです。
そこで理工系人間の私としては「歴史」も当然、同様の物であり、すでに存在していた過去の事実を解き明かす、と言うか、掘り起こすことだとの認識があります。
事実、普通の歴史研究者もこちらの認識です。
そもそも対象物(歴史)は見る側の都合に関係なく存在していることは説明する必要も無いこと。
ところが私が専門としている日本近代史、特に太平洋戦争前後に関してのみ言えば、この○○史観で考えようとする人が余りにも多い。
しかもごく自然に何の疑問も抱かずに。
根本的に史観という物は、対象物(歴史)を見る場合に、見る側の視点と考え方、というか、見る側の信じている『神の視点』を、もっとも重要視する考え方です。
それでは目的と手段が逆転している。
そりゃ科学技術の分野にも視点はありますよ。
世の中には無数の物があり、無数の現象がありますから、その全てが見られる様な物ではない。
だから視点を持って一部分を選択して見て、こうなっているのではないかと仮説を考え、実験・観測・観察で確証を得る。
しかし、あくまでも視点は正解を求めるための手段であって目的ではない。
いくら画期的な視点で、苦労を重ねて作り上げた仮説であろうとも、現実と一致しなければ無意味な物である。
それに対して、この○○史観で歴史を考えようとする人たちは、自分が信じている『神の視点』が、より『絶対正義』に近い事という評価を得ることが目的となっている。
基本的に「分析」と「応用」の区別をあまりつけない考え方で、
評価(応用)をあげるためには「史実がどうであったか?」の追求(分析)など、多少は無視してもかまわないと考える。
やっぱり私には理解不能な考え方です。
理工系の世界では実験・テストの結果を誤魔化すのは問題外の事なんですが。
そこで疑問に思ったのが、
「そもそもこの『絶対正義』と言う考えはどのように発生、発達していった物なのか?」
と言う歴史です。
いやAタイプの宗教はかなり古くからありましたし、各国の正義もそれぞれにありました。
ただBタイプ『絶対正義』の考えは、
どうも近代になってから出来たようです。
しかも近現代史において、かなりの影響を与えている。
個人的にその考え方は兎に角、
『絶対正義』の歴史の方には興味がある、と言うより、近代史に与えた影響があまりにも大きいため、これを研究せずして近代史は理解しにくい。
そう言うわけで次にこの考えがどのように発生したか分析して見ることにします。