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幕末・備中の聖人/山田方谷1

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山田方谷のはなし

 
山田方谷(やまだほうこく)は、
幕末の頃の備中松山藩の人で、十万両の借金にあえぐ藩財政を、わずか八年で逆に十万両の蓄財にかえてしまったという江戸時代の逸材です。

後に英雄となる河井継之助は、若いころ、はるばる備中まで山田方谷を訪ね、土下座してまで、山田方谷を師と仰いでだといいます。

それだけすごい人だったから、明治維新後は、岩倉具視や大久保利通らが、山田方谷に、新政府への入閣を願っています。
方谷は「二君にまみえず。二度と仕官つもりはない」と、これを頑として断り、弟子の育成に生涯を捧げています。

そういう人だから、維新後、100年以上忘れ去られ、歴史の中に埋もれています。

けれど、実は、高杉晋作の奇兵隊ですら、山田方谷の真似であったといわれる。
 
それだけの先見の明を持ち、戊辰戦争では、岡山県の山の中の小藩ながら、家康公以来の板倉家が率いる旧幕府軍として、殿様を先頭に函館五稜郭の戦いの最後の最後まで戦っています。
 
ちなみに薩長ですら、殿は最前線では戦っていません。
それを最後までやったのは、備中松山藩の板倉勝清と、ほかにほんのわずかしかいない。
そして板倉勝清の傍には、常に山田方谷がいたのです。

山田方谷が仕官した備中松山藩というのは、いまの岡山県高梁市にあった藩です。

藩主の板倉家は、徳川家康の代からの古い名門直参です。
小藩ながら、京都所司代や、幕府の老中職さえも勤める家柄です。

その板倉家が、備中松山藩を知行地としたのは、
将軍吉宗の時代の延享元(1744)年のことです。

板倉家は、そこに来てびっくりします。

表向き石高は5万石なのです。
ところが実際には、山ばかりで平野部がほとんどない。
実収入はわずか2万石です。

ここで話が違うと、泣き言を言えないのが、武士というものです。
常に痩せガマンする。それが武士です。

けれども板倉家は名門なだけに、殿は必然的に要職に就くし、出費はいやおうなしに出ていく。

おかげで藩の財政は、万年赤字垂れ流しで、もはや返すあてなどまったくない借金を、ただ毎年重ねるだけで、どうにも首が回らない状態になっていたのです。

このころの記録があります。
備中松山藩の、当時の年間収入が7万5千両です。
負債が10万両です。

1両というのは、だいたいいまの6万円に相当します。
ですから、板倉家の年収は45億円、有利子負債が60億円というのが、板倉家の財政だったということです。

そんな備中松山藩に山田方谷が生まれたのは、文化2(1805)年2月21日のことです。
場所は、西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)です。

文化2年といえば、まさに江戸文化が花開いた、江戸時代の中の江戸時代だった時代です。

方谷が生まれた山田家は、もともと清和源氏の流れを汲む、れっきとした元武家です。名門といっていい。

けれど、方谷が生まれるころは、農業と、菜種油の製造販売を家業とする農商家として生計をたてています。

江戸時代は、士農工商の身分制の時代です。
つまり、山田家は、武家であるけれど、浪人中で、農家の小作(水飲み百姓と商人を兼務して、生計を立てていた、というわけです。

江戸時代というと、なにやら武家がいい生活して、百姓、町人は、収奪されて苦しい生活を強いられていた、などという印象操作が戦後の日本では行われています。

わけのわからない貧農史観が最近の日本ではまかり通っている。

悪いけれど、はっきりいって、大嘘です。

実際には、農家といっても、年貢を納めるのは、いわゆる広大な農地を持つ、大地主さんです。

その大地主農家のところで、たくさんの小作農が、土地を借りて働き、生計を立てている。

一方武家は、家督がすべてですから、なんとしても男の子に家を継いでもらわなければならない。
ところが、昔は、子供というのは、すぐに死んでしまって、なかなか育たない。
特に男の子は、育てるのがたいへんだったから、保険をかけるために、子供をたくさん作った。

けれど、長男が家督を継いだら、次男、三男、四男は、家からでなくちゃいけません。

家を出るということは、収入がないのです。
だから彼らの多くは、生きるために、農家から土地を借り、小作農をして生計をたてた。

つまり、領主様の息子さんが、自分とこの土地に小作にきて生活をしてるわけです。
兄貴が地主さんに高い年貢を命じれば、地主さんは、小作農から、やはり年貢を高く取り立てなきゃならない。

それでは生活ができないとなれば、なにもムシロ旗立てて強訴に及ばなくても、小作をしている領主さんの弟が、威儀をただして武家として兄貴のところに交渉に行く。
それでたいていは、まるく収まったりしていたのです。
 
話が脱線しました。

そんなわけで、方谷は、お家再興を願う農商人父の子として生まれたわけです。

この方谷、幼いころから、とにかく出来がいい。
寺子屋でも超がつく優等生だったそうです。

おかげで山田方谷は、20歳のときに藩主板倉氏によって、なんと武士にとりたてられたのみならず、藩校の筆頭教授に任命されてしまいます。

こういうところも、江戸社会のおもしろいところです。
ガチガチの身分制がひかれる一方で、こうした大抜擢ということが、実に頻繁に行われている。

藩校の教授をしていた山田方谷は、29歳のとき、江戸に遊学して、佐藤一斎の塾に入ります。

佐藤一斎は、のちに江戸の昌平坂学問所(いまの東京大学)の総長に任命される人で、当代随一の大教授です。

弟子にはあの天才の佐久間象山や、絵画で有名な渡辺崋山、幕末に大活躍する横井小楠などがいます。

その中で山田方谷は、毎日のように佐久間象山と激論を交わし、ことごとく象山を論破してしまいます。
それで、すごい奴だ!となって、山田方谷はここでも名を上げます。

時がたって、嘉永2(1849)年、方谷が44歳のときです。

藩主が交代し、新藩主の板倉勝清から、山田方谷は藩の元締役への就任を要請されます。

藩の元締めというのは、藩政の一切を仕切る者ということです。

立場的には、実質藩主に相当する強権を持つ。
その強権をもって、破綻寸前の備中松山藩を救ってくれ、と依頼されたのです。

元締めに就任した方谷は、そこで「理財論」を著します。

そして「義を明らかにして利を計らず」という漢の董仲舒の言葉をひき、藩政の具体的改革方向を具体的に示します。

彼が最初に取り組んだのが、負債の整理です。

彼は就任後すぐ、大阪の御用商人のもとに赴きました。

そして、利子の全額免除と、元本についての50年間の借金返済の棚上げを要請します。

これには、大名相手の貸金をしている両替商たちも、びっくりした。

けれど、方谷は、ただ債務を免除しろというのではありません。
具体的な藩の財政の再建計画を提示した。

財政再建というと、いまの政府や、多くのいまどきの企業がそうなのだけれど、まず語られるのは、経費の削減です。

人を切り、出費を抑え、人々のモラールも、ロイヤリティも委縮させ、それで一時的な経費削減によって、多少の利益が出たといって喜ぶ。

ところがその翌年には、今度は景気が悪化し、売上が下がり、経費を抑えて利益が出るはずが、売上の低迷で、さらにもっと経費を抑えなければならなくなる。

結果、縮小縮小へと向かい、企業なら潰れるし、国家や行政なら、財政が破たんする。

すこし考えたら、誰にでもわかる。
絵にかいたような動きです。

ところが方谷は、莫大な藩の借金を返すのに、ただ経費削減とかを語るのではなかった。

彼は、言うのです。

~~~~~~~~~~
政(まつりごと)で大切なことは、民を慈しみ、育てることです。
それこそが大きな力である。
厳しい節約や倹約だけでは、民は萎縮してしまう。
~~~~~~~~~~

彼は、タバコや茶、こうぞ、そうめん、菓子、高級和紙といった備中の特産品に、どれも「備中」の名を冠して、江戸で大々的にこれを販売するといいます。

その計画の内容も、実に緻密です。

要するに「備中」をブランド化するわけです。
いまでいったら「宮崎産品」みたいなものです。

西国の藩は、藩の製品は、大阪で卸すのが常道だったのです。
方谷は、これを船で江戸に持っていき、日本最大の消費地、江戸で、大々的にこれを行うという。

しかも、売るのは、藩の江戸屋敷を中心とする。

問屋や流通を経由しないから、中間マージンがありません。
その分、安く、良いものを消費者に提供できる。

商品はめずらしいものです。
しかも、おいしい。
その場で、食べることもできる。
備中そーめんなんか、江戸で大ヒット商品になります。

しかも直販です。藩はまる儲けです。

さらに方谷は、これをさらに効率的に推進するため、藩内の体制組織を、従来の身分制にとらわれない、能力主義による会社的機構にするという。

この時代、そもそも大名が、正直に実態の石高を商人に語ること自体が、まずなかった時代です。

その時代に、正直に藩の財政の実態を明かしたのみならず、彼は藩の産業振興政策を大阪商人たちに、実に具体的に提示した。

商いに厳しい目を持つ大阪商人たちは、方谷の財政再建計画書みて、完全に彼に賭けようという気になります。

結果、大阪商人たちの、備中松山藩に対する、支払い50年棚上げ、利払いの免除が実現します。

そして浮いたお金で、方谷は、上述の流通に手を染めるだけでなく、さらに備中にある砂鉄を使って、当時の日本人口の8割を占める農家を相手に、特殊なクワを開発し、販売したのです。

これが「備中鍬」です。

備中鍬というのは、3本の大きなつめを持ったフォークのような鍬です。

それまでの鍬は、爪の部分が平板です。
いってみればスコップのような形をしています。
土を耕そうとすれば、その面積全部の重量が手や足腰にかかりますから、たいへんな負担になる。
しかも木製のクワが当時はまだまだ主流で、これはすぐに壊れてしまう。

それを、鉄製で、しかも爪タイプにして、土を掘り返すのに適した便利な形に改良したのです。

自らも農業を営む方谷ならではの発想です。

この商品は、なんと全国で売れに売れます。
備中鍬は、全国的な大ヒット商品となったのです。

おかげで、50年棚上げしてもらったはず借金は、ほんの数年で、なんと元利金とも、全額返済できてしまいます。

さらにわずか8年で、無借金状態の上に、さらに10万両の貯蓄までできてしまう。

そして経済的には備中松山藩は、実質20万石の力を持つとまで言われるようになります。
すごいものです。

これが実現できた背景には、方谷の、「義」があって、そのうえで「利」をはかるという考え方が根底にあります。

儲けようとしたのではないのです。
「義」のために人々を豊かにしようと最大限の努力を払った。
その結果、「利」が生まれた。

「利」を得ようと鼻の下を伸ばしたら、かえって「利」などは生まれない。
そういうものだと、説いているのです。

目先の「利」だけで政治をすれば、あっという間に「利」はなくなって、日本は超のつく貧乏国家になってしまう。

あれほど世界に誇る高い技術力をもち、世界第二位の経済大国だった日本が、この20年、世界のGDPが2倍に成長する中で、完全に横ばいです。
世界が二倍に成長して、日本が横ばいということは、日本経済の世界での地位は、この20年で、二分の一に縮小したということです。

まずは人々が安心して働け、それこそ終身雇用が実現できるような社会体制を築き上げる。

仕事も労働も、すべては「はたを楽にする」みんながよくなることが大原点です。

会社利益のために、社員をリストラし、雇用を短期化したら、庶民の生活は不安定になり、個人消費は停滞し、企業はモノが売れなくなり、利益が上がらなくなり、金融機関は貸しはがしするから、会社はつぶれ、国民の生活はぐちゃぐちゃに崩れてしまう。

要するに「利」が先で、「義」を忘れているからこういうことになる。

方谷は、まったく逆に「義」優先したから、巨額の「利」が生まれたのです。

簡単な話、「この国を守る」と、国が明確に決断しただけで、この国のあらゆる産業が活性化し、工業は息を吹き返し、企業秘密は厳守され、食糧自給もあがり、景気も良くなり、生産物の品質もあがり、教育レベルも向上する。

まずは「義」をたてることが、先なのです。
 
 
 
 
to be continues.  

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