転載元: ねずさんの ひとりごと時代は、音をたてて変化していきます。
幕末、世の中が混沌としてくると、方谷は、藩内に、農民で組織する「里正隊」をつくります。
「里正隊」の装備は、英国式で、銃も最新式です。
方谷は、西洋の力を認め、藩政改革に積極的に組み入れたのです。
教練も、西洋式です。
農民兵を用いて、西洋式装備と教練を施し、新たな軍事力とする。
後年、この方谷の「里正隊」を、高杉晋作が「奇兵隊」つくりのモデルにしています。
こうしてさまざまな藩政改革をし、藩の立て直しをはかった、まさに天才といえる山田方谷ですが、本人は、別な意味でも大変なご苦労をされています。
農民出身でありながら、藩主のおぼえめでたいことをいいことに、藩政を壟断し、武士を苦しめる、と、藩内ですさまじい誹謗中傷に遭っているのです。
実際、方谷は、農民からの取立てを減らし、商人からの税を増やして(当然です。商人たちは藩の事業用の商品資材を運んで大儲けした)います。
一方で、藩の冗費の削減のために、藩士たちの俸禄(給料)を減らしています。
城内でも、ご婦人たちにとことん節約を命じている。
これが一部の藩士たちの反感をかい、目先の欲に取りつかれた一部の御用商人たちが、その反動者たちへの一種のスポンサーとなります。
反、方谷が、一定の財力まで持ち出したのです。
当時の川柳や狂歌が残っています。
やま山車(だし)(山田氏)が
何のお役に立つものか
お勝手に
孔子孟子を引き入れて
尚このうえに
カラ(唐)にするのか
さらに武士たちを怒らせたのが、彼ら上級武士に、藩の辺境の地での開墾にあたらせたことです。
なんで武士が百姓などするのだ!というわけです。
さらに「里正隊」です。
西洋の実力を知った方谷からしてみれば、いつまでも「刀による戦い」ではないだろう、となるのだけれど、これが刀に固執する武士たちに通じない。
方谷は、武門の血を穢している、となる。
こうなると、方谷が、藩の物資を江戸藩邸で販売していることさえも、敵意の対象となります。
挙句の果てに、ねつ造されたのが、賄賂疑惑です。
方谷は、商人や豪農から、賄賂をもらっていると、あらぬうわさまでたてられた。
このことはウワサだけにとどまらず、ついには、藩内の過激派武士たちによって、方谷は、命さえ狙われるようになる。
実際にはどうかというと、方谷は、賄賂などまったくもらっていないし、むしろ藩から大加増の内示をいただくけれど、これも辞退。
もっとも辞退したはいいけれど、彼は藩内を、毎日あっちこっち移動しています。
人が動けば、それなりにカネがかかるものです。
おかげで家計は火の車。
ついには方谷は、奥さんにまで逃げられてしまいます。
そしてこれがまたいけない。
普段の服装は、全部奥さんが見ていたのに、離婚後は、誰も方谷の服装をみない。
こうなると方谷自身は、日ごろほとんど服装に構わない男だっただけに、真っ黒に日焼けして、街道を歩く姿は、どこからみても、貧乏浪人です。
威厳のカケラもない。
しかも、どういうわけか、大量に水を飲む男で、いつも馬鹿でかいひょうたんを持っている。
誇りまみれの粗末な着物で、バカでかいひょうたんを持って、街道をあっちこっちしている、これが山田方谷だったわけです。
要するに、見た目、ぜんぜん立派そうに見えなかった。
ただ、話すと、めっちゃめちゃ、明るく、さわやかだった。
でも、この男が、徳川第15代将軍の徳川慶喜の大政奉還の起草文を書いているのです。
そして、たとえば越後長岡の河井継之助は、戊辰戦争で負傷して亡くなるとき、
「備中松山に行くことがあれば方谷先生に伝えてくれ、俺は生涯、先生の教えを守ったと」と語って絶命した。
河井継之助は、死後、明治になってから、慰霊碑を建造することになったのですが、このとき日ごろ継之助が敬愛していた山田方谷に、碑文を書いてくれと依頼が来ています。
けれど、方谷は、手紙で断った。
そのときの文面です。
碑文を
書くもはずかし
死におくれ
実際には、備中松山藩は、方谷によって、軍事、教育の改革が行われ、藩内の塾13、寺子屋62という、圧倒的な教育体制がひかれました。
さらにこれらの学校で優秀な成績を修めた者は、百姓、町人の区別なく、どしどし役人に抜擢された。
さらに豊富な藩の財政をバックにした「里正隊」は、身分の別なく完全能力性によって洋式軍隊教練を受けています。
戊辰戦争では旧幕府側軍団として、藩主板倉勝清を先頭に立てて、ついには箱館まで転戦している。
最強の洋式軍団です。
明治2(1869)年、五稜郭の函館戦争で大暴れした後、備中松山藩は官軍に降伏します。
藩主板倉勝清は、禁錮刑となり、石高も2万石に減封された。
そして明治4年、廃藩置県によってり備中松山藩は、高梁県となり、以後、深津県、小田県を経由して、岡山県に編入されて現在にいたっています。
河井継之助碑文依頼への方谷の返事は、最後まで男を貫き死んでいった愛弟子に対し、戊辰戦争後もこうして生き残っている我とわが身を恥じた方谷の心を表しています。
どこまでも謙虚なのです。
方谷は、明治になってから私塾を開き、多くの人材を育てます。
そして明治10年6月、73歳でこの世を去る。
方谷の言葉です。
◆友に求めて 足らざれば 天下に求む
天下に求めて足らざれば 古人に求めよ
◆天下ノコト
敦レカ不滞二成リテ
滞二敗レザルモノアランヤ
(滞ることなく、少しでも「する」ことが大切だ、という意)
◆驚天動地の功業モ 至誠側但国家ノ為ニスル公念ヨリ出デズバ 己ノ私ヲ為久二過ギズ
(どんなすばらしい改革も、私のためにやったのではうまくはいかない)
山田 方谷(やまだ ほうこく)文化2年2月21日(1805年3月21日) - 明治10年(1877年)6月26日幕末期の儒家・陽明学者。名は球、通称は安五郎。方谷は号。備中聖人と称された。
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幕末・備中の聖人/山田方谷2
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