転載元:
Japan on the Globe 国際派日本人養成講座
http://blog.jog-net.jp/■1.戦前の日本の豊かな生活
昭和3(1928)年から11(1936)年まで、日本に滞在したイギリス外交官夫人キャサリン・サンソムは、当時の日本の庶民生活を活き活きと描いている。
[日本人には確かに暮らしをよくしていく知恵と才能が備わっています。
西欧のものに強い関心を払っていますし、持ち前の頭のよさと腕のよさでほとんど何でも作ってしまいます。
電化はイギリスよりも日本の方がはるかに進んでいます。
素晴らしい学校もありますし、良い道路も作られるようになりました。
・・・
映画館の数はイギリスの都市とほぼ同じですし、立派なものが建設中です。
有名な美しい映画館の音響設備は世界一です。
一般大衆の趣味が良いから、センスのよい商品が求められ、生産されるのです。]
嘉永6(1853)年にアメリカの黒船に脅かされて開国した極東の一島国が、わずか80年ほどの間に近代経済を発展させ、大英帝国に匹敵するような豊かな国民生活を実現した事は、まさに奇跡としか言いようのない出来事だった。
そして、この奇跡的成功は、明治政府が国民の自由を拡大することによって、そのエネルギーを解放したからだ、というのが、原田泰氏の近著『日本国の原則』での主張である。
■2.アメリカの経済的成功の理由は自主と自由にあり
明治4(1871)年、維新を成し遂げたばかりの明治政府は、岩倉具視を全権大使とし、維新の立役者、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら総勢48人からなる大使節団を欧米に送った。
彼らはアメリカの経済的成功の理由は、その自主と自由の精神にあると見た。
[欧州の自主の精神、特にこの地(アメリカ)に集まり、その事業も自ずから卓犖闊達(たくらくかったつ、とびきり自由なこと)にて、気力はなはださかんなり。
・・・
自主の論と、共和の議とは、欧州にも充ちたれども、ただ米国は純粋の自主民集まりて、真の共和国をなす。
自主の力を用うるにて自在にて、ますます欧州人民の営業を起こす地となりし。]
他のアジア、アフリカ諸国のように植民地に転落することを防ぐには、欧米流の「富国強兵」が唯一の道であることは、当時の日本人の共通認識であった。
そして富国強兵に至るには、人民の自主と自由の精神で、その力をいかんなく発揮させることが必要だと、使節団一行は見抜いたのである。
■3.職業選択の自由化、土地利用の自由化
ここから、明治政府は徹底的な自由化政策を採り始めた。
第一に、江戸時代の士農工商の身分制度を廃止し、職業選択の自由を認めた。
それによって人々は己の志や適性に合った仕事に就くことができるようになった。
また、目指す職業に就くための教育も盛んになった。
第二に土地の利用も自由化された。
江戸時代の納税はコメの収穫高の一定比率を納める形式をとっていたために、他の商品作物の栽培を行ったり、土地を転用したりすることには制限があった。
明治政府は明治6(1873)年に地租改正を行い、地価の3パーセントを金納するよう改めた。
これによって農民は作物を自由に選べるようになり、また工場用地などに転用することも自由になった。
江戸時代には、二宮金次郎の農村復興事業にも見られるように、生産性の高い農法が開発されていたが、明治時代にそれが急速に広まって農業生産性が飛躍的に高まったのも、一定の地代さえ納めれば、あとは自分の工夫次第でいくらでも収入が増やせるという自由が与えられたからである。
■4.貿易の自由化による活況
第三に貿易の自由化も、経済活動を大いに活性化した。
福澤諭吉は開港後4、5年しか経っていない時期に、東北のある地方が絹輸出で繁盛している様を、こう記述している。
[既に奥州辺十万石許(ばか)りのある大名にて、領分より絹の売出し追々増して、一か年にて90万両余の高になりたる由。
十万石の人数を十万人と積もり、平均一年一人九両ずつの金を得る姿なり。
誠に莫大の利益というべし。
右に付、その領分にては、われもわれもと蚕を仕立、中々(なかなか)奉公などするものはなく、何れも勝手向きよくなり、普請をしたり着物を着たり、先年麦飯を塩にて食したる者も、当時は米の飯にて肴(さかな)を喰う様になり、就いては米も魚類も高値となり、米を作る百姓も、魚を取る漁者も、大工も、左官も金回りよく、一国中世柄直りたる由。
右は奥州許(ばか)りに限らず、日本国中同様のことにて、絹の出来ぬ国なれば綿を作り、綿の出来ぬ国なれば油種子を作り、仮令(たと)ひ外国交易に持ち出さぬ米でも麦でも、日本国中廻り持の融通にて諸色売捌(うりはけ)よく、百姓も職人も仕事に追はるる程忙しくなりたり。]
貿易の自由化が、土地利用の自由、職業選択の自由と相俟って、経済発展を活性化した様子が、活き活きと描写されている。
■5.官営工場の行き詰まりと民営企業の発展
明治期の産業発展の一因として、政府が富岡製糸場などの官営模範工場を作り、後に民間に払い下げた産業政策が挙げられるが、これも事実は異なるようだ。
他にも深川セメント製造所、品川硝子(ガラス)製造所、深川白煉瓦(れんが)製造所などが設立されたが、官営ではうまくいかず、政府は財政赤字を縮小するために、明治13(1880)年に払い下げ方針を決定して、順次民間に移管したのだった。
欧米の新しい技術を日本の状況に適応させる創意工夫は、その後の民間の起業家によってなされた。
製糸業では諏訪の中山社は、設備を近隣の大工、鍛冶屋になるべく木で作らせ、繭をゆでる釜は陶器にして、極力、高価な鉄を使わないようにした。
その結果、官営の富岡製糸場が300釜で19万円余の設備費を要したのに対し、100釜の中山社の設備費はわずか1900円だった。
当時の製糸業では女工たちが10数時間も働かされた、といういかにも資本家が労働者を搾取したという「女工哀史」が語られている。
しかし実態を記述した『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』では、長時間労働を苦しかったと答えているものは3%だけで、あとの大部分は「それでも家の仕事より楽だった」と答えている。
当時の農業では、朝暗いうちから夜なべ仕事まで、もっと長時間の労働をしなければならなかったのだ。
また細い糸を引くことに長けた女工は「百円工女」と呼ばれて、年に100円も稼げた。
当時100円で普通の平屋なら2軒建てられたという。
「官営工場による産業振興」や「女工哀史」は、社会主義的な色眼鏡を通して見た歴史観だろう。
事実は、民間企業が自由な創意工夫を発揮して事業を発展させ、その中で従業員も以前より、はるかに豊かな生活を送れるようになっていたのである。
■6.自由に対する日本人の鋭敏な感度
ここで考えなければならないのは、当時の日本人がなぜこれほど素早く政府の自由化政策に呼応して、経済発展を実現できたのか、という問題である。
清朝は、欧米列強が押し寄せてきてからも、72年続いた。
その間、日本の明治維新に倣って部分的な近代化政策をとったり、西洋技術の導入を図ったりしたが、国民の自由を大幅に拡大し、そのエネルギーによって経済発展を進める、というアプローチはついに見られなかった。
清朝が倒れてからも、蒋介石は軍の近代化は図っても、その振る舞いは過去の軍閥と同様であったし、逆に自由を抑圧する共産主義の浸透は日本よりも早かった。
中国で自由化が進んだのは、毛沢東の大躍進政策などで共産主義が行き詰まり、トウ小平が改革開放路線を打ち出した1978年である。
日本の明治維新の110年後、それも自由は経済面に限られ、政治、報道、言論の自由はいまだ大きく制限されている。
これに比して、日本の欧米使節団は欧米の経済的発展の原動力が国民の自由にあることを直ちに見抜き、急ピッチで自由化政策を進めた。
日本と中国では、自由に対する感度が、政府も国民もまるで違うのである。
それは、日本の歴史伝統の中に、欧米の自由と共鳴するものがあったからだろう。
■7.「国家人民の為に立たる君にて」
市場経済システムが成り立つためには、所有権や取引契約といった「法の支配」の概念、
そして法が禁じた事以外は、往来や取引など個人の自由を認める事が、常識として一般国民の間で広く共有化されていなくてはならない。
政治においても、たとえば徳川幕府から「美政」として3度も表彰された米沢藩では、
「自助」(民が自ら助ける)、
「互助」(近隣社会で助け合う)、
「扶助」(藩政府が手を貸す)
の「三助」により、殖産興業と藩民の生活向上を追求した。
その根底には、藩主・上杉家の「国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候」という家訓があった。
すなわち、
君主としての権力は民の幸福のためにある、という考え方である。
この考え方は、武士が初めて権力を握った鎌倉幕府の時からすでに生まれていた。
平安時代に各地で開墾した土地の所有権を自ら武装して守ろうとしたのが、武士の始まりであった。
そして土地の所有権を守るために、より有力な武家を棟梁として仰ぐことになり、その帰結として鎌倉幕府が成立した。
しかし、土地争いが起こった時に、武力で決着をつけるというのでは、争乱は止まない。
そこから権利の保障は道理によるという鎌倉幕府の原則が生まれた。
武士の棟梁としての権力は、道理によって土地所有権も守り、ひいては万民の利益を守る事から正当化される、という考え方が行き渡った。
■8.我が国における「自由」の伝統
「政治は万民の利益を守るためにある」とする統治思想は、鎌倉幕府の発明ではない。
将軍とは、天皇に任命された「征夷大将軍」である。
将軍の権威は、皇室から国家の行政を委任された所から生まれたものである。
そして将軍を任命する皇室の理想こそ「国家人民の為に立たる君」であった。
初代・神武天皇が発せられた建国の詔には、人民を「大御宝(おおみたから)」と呼び、「八紘一宇(あめのしたのすべての人々が家族として一つ屋根の下に住む)」が理想として掲げられている。
国民の自由とは、洋の東西を問わず権力者による支配に制約を与えることによって守られるが、西洋の人民の自由は、フランス革命、英国の名誉革命、アメリカの独立革命に見られるように、権力者の戦いを通じて勝ち取られてきたものであった。
それに対して、我が国においては国家の成立時点から、権力の正当性は国民の幸福を守ることに存する、という思想があり、国民の自由を抑圧し、民を幸福にできないような政治は失格である、と考えられてきた。
このような政治思想から、国民の自由と幸福を守るための諸制度が徐々に発展し、それが国民のエネルギーを引き出して、江戸時代には自由市場経済として結実した。
自由とは、欧米から新たに学んだものではなく、我が国の政治伝統にすでに内在していたものである。
だからこそ、明治政府の使節団は欧米の富強の原動力が人民の自由な経済活動にあることを直ちに見抜き、また国民の方も戸惑うことなく、政府の自由化政策に即応して、経済発展に邁進できたのである。
■9.自由が生んだ日本文化
著書『日本国の原則』の結びで、原田泰氏はこう述べている。
[経済的な成功の意味は、その富を奢(おご)ることではない。
富を自分の価値あると思うことに、自由に使えることだ。
それが人々の文化を生む。
日本の優れた製品、マンガ、アニメ、食文化、カッコいい日本、クール・ジャパンとは、自由と繁栄が日本のすべての人々に広がった結果である。
自由な人々の文化は、自由な人々と自由に憧れる人びとを引き付ける。
それが日本の魅力であり、日本の守らなければならないものだ。
1930年代から、いや、古代から日本はそのような文化をつくってきた。
それが日本国の原則であり、私たちが守らなければならないものだ。]
我々の自由は、常に脅かされている。
たとえば、かつてのソ連や北朝鮮、そして現在においても中国のような全体主義国家を賛美してきた左翼勢力は、偏向報道や偏向教育を通じて、我が国を自由なき国にしようと日夜、努めている。
そうした活動から、我が国の自由を守るためには、まずは自由が我が国の政治伝統の重要な柱であり、それによってこそ我が国の文化も経済も発展してきたという「日本国の原則」を知る事から始めなければならない。
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「皇民自由主義」という、ジャパン・スタンダード
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