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無私の激突、征韓論~西郷 対 大久保

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転載元: 
Japan on the Globe 国際派日本人養成講座 
http://blog.jog-net.jp/
 
 

■1.西郷の遠大な防衛構想■

朝鮮国の暴慢無礼はもはや許し難いものがある。
ただちに出兵すべきだ。

明治6年6月12日の閣議で、参議・板垣退助が強硬論を吐いた。
これが誕生したばかりの明治新政府をゆるがす征韓論の閣議における第一声であった。
    
明治元年以来、新政府は朝鮮に国交回復を5年以上も呼びかけていたが、朝鮮政府は国書の中に「皇祖」など清国皇帝が使う文字があると受け取りを拒否し、さらに「日本人は西洋人と交わって、もはや禽獣(鳥や獣)と変わるところがない」と、日本公館への食糧供給も拒んで国外退去を命じた。
日本国内はこれに激高していた。
特に別府晋介や桐野利秋など西郷門下の陸軍幹部達が強硬派だった。

西郷隆盛は板垣の強硬論を抑えて、
「先に軍事行動に出るのはよくない。まず特命全権大使を送り、朝鮮政府と意を尽くして話し合うべきだ。それでも応じなければ、議を世界に明らかにして出兵すべきだ」
と言った。
そして自分がその大使になり、護衛もつけずして朝鮮に行き、道理を尽くして修交と和親を求めようと提案した。
    
維新の際も、西郷は幕府代表の勝海舟と差しで話し合い、無事に江戸城明け渡しを実現して、江戸を戦火から守った。今回も西郷は朝鮮の実力者、国王の実父大院君に対して、同じ方法で解決を図ろうとしていた。
韓国と固く手を結べば、いずれ清国と結ばれる日も来る。
そうすれば、国内の不平派も、敵は韓国や清国ではなく、東アジアを狙うロシアであり、欧米諸国であることが分かるだろう・・・
西郷の遠大な防衛構想だった。

そのために、西郷は朝鮮や上海、満州にまで部下を潜入させて、大陸の実情を探らせていた。

三条太政大臣は戦争につながりかねない重大事なので、1年9ヶ月におよぶ欧米見学を終えてまもなく帰朝する右大臣・岩倉具視を待って熟議を尽くそう、と何とか先送りにした。

■2.大久保の覚悟■

9月13日に帰国した岩倉は、西郷が使節に発てば、かならず殺され戦争になる、そうなれば清国、ロシア、イギリスなどが介入してくると読んだ。
しかし、西郷を止められるのは、同郷の畏友・大久保利通しかいない。
岩倉は9月28日夜、大久保を訪ねて、参議就任を懇請した。
岩倉とともに欧米を見てきた大久保はもとより征韓論に反対だった。
しかし、西郷を敵に回すということは、薩摩士族を敵に回すということだった。
たとえ西郷を論破できても、自分は殺される。
即答を避けて、岩倉を帰した後、大久保は一人考えた。

このまま座して征韓を通すか。
帝には不忠。己には怯懦。
10月10日に至って、大久保はついに三条と岩倉に参議就任承諾を伝えた。
その夜、大久保は子供たちに遺言めいたものを書いた。

此難に弊(たお)れて無量の天恩に報答奉らん
・・・
此難小子(自分)にあらざれば外に其任なく
・・・
        
アメリカに留学中の次男伸顕には、こう書いた。
    

私は実によい時代にめぐりあわせた。
死すともすばらしいことである。
自分一人としては一点の思い残すこともない。
・・・
ただ外国で自分の変を聞いて、さぞかし驚くことであろうが
・・・



大久保は新参議として、自分とともに征韓派の先鋒である外務卿の副島種臣も加えるように岩倉に頼んだ。
征韓派にも閣議で十分発言させ、堂々と戦おう、との覚悟だった。


■3.両雄激突■

新参議の大久保と副島を加えた閣議は10月14日に開かれた。
岩倉が冒頭で反対論を陳べた後、大久保が発言を求めた。

「わたしは韓国問題はしばらく延期して時期を待つべきだと思う。
・・・
世界の情勢を考えれば、何よりもまず内治を整えて国力の充実をはかり、然る後に外征に及ぶのが順序であります。
これは三歳の童子にも明らかな道理であります」

「大久保、お前は!」
と西郷が驚きの声を上げたが、大久保は続けた。

新政府の基礎はまだ固まらず、地租改正や徴兵令をめぐる一揆が頻発している。
財政も貿易も赤字で、戦争となれば国内産業は衰え、艦船や武器弾薬の輸入は増えて、国家財政は破綻する。
英国には5百万両もの外債があるが、これが返済できなくなると、インドの二の舞になって独立を失いかねない。

西郷が「誰も戦争を起こせとは言っておらぬ。俺は韓国には一兵もつれて行かぬのだ」と言うと、

「君がどう思っていようと、相手が拒絶すれば戦争になるのだ」と応える。

西郷は怒鳴った。

「おれは今日まで、おまえを勇者だと信じていたが、いつ、どこで、腰を抜かして、薩摩一番の臆病者になってしまったのか!」

大久保は西郷の怒りをものともせずに、自説を続けた。

「政府の根本を画定するためには衆説にまどわされてはならぬ。
特に思い上がった陸海軍人どもが政府の命令を遵奉せずに、下士官兵士の末に至るまで粗暴軽率の行動に走りがちな現状においては・・・」

「兵隊を暴走させぬために、いかにおれが苦心しているのか、おまえにはわからぬのか」

「暴徒に媚びていては、暴動を鎮めることはでき申さぬ!」


■4.西郷が去れば■

各参議も思い思いに発言し始めたので、収拾がつかなくなった。
岩倉が三条の脇腹をついて、休息を宣言させた。
大久保が立ち上がって、部屋を出ていく。
西郷は三条と岩倉の前に行って、低く沈んだ声で言った。

「もし遣韓大使の議がつぶれるようなことがあったら、わたしは政府にとどまることはできませぬ。
辞職して故山に帰るつもりであります」

三条と岩倉は顔色を変えた。
西郷が去れば、陸軍や薩摩士族が黙っていない。

午後の閣議もついに結論なしに終わった。
外征の前にまず内政を整えよ、という原則には誰も異存がない。
困ったことに、西郷は出兵も外征も唱えていない、ただ一人、丸腰で韓国に行き、腹を割って大院君と話し合うことが、日韓摩擦を解決し、征韓論に沸き立つ民心を鎮める道だと確信している。
これに対して、大久保や岩倉は、大使派遣はそのまま戦争につながり、ロシア、イギリスの干渉を招き寄せて、国がつぶれると主張してる。
結局、先の読みの問題なので、双方に議論の決め手はなく、堂々めぐりをするだけだった。

■5.「右大臣はよくもふんばった」■

決断を下すべき太政大臣・三条の唯一下した決断は、明日も閣議を続けるということだけだった。
しかし、西郷は言うべき事は言い尽くしたとして、出席を断った。

翌15日の会議では、参議の江藤新平が、大使派遣をとりやめても兵隊がおさまらず、結局出兵になるのだから、大使を出した方が懸命だと論じたて、三条と岩倉は別室で協議の上、「やむなく西郷の見込み通りに委す」と決した。

大久保は翌朝、三条に辞表を出した。
絶句する三条に追い打ちをかけるように、岩倉の辞表も届いた。
岩倉は西郷の影に怯えて大使派遣に屈した自分が許せなかった。
決議通り天皇への上奏を迫る西郷と、辞職を申し立てる岩倉・大久保の板挟みとなった三条は、17日深夜に昏倒して人事不省に陥った。

太政大臣の代行を天皇から命ぜられた岩倉のもとに、西郷、板垣、副島、江藤の四参議が、桐野利秋や別府晋介など血相を変えた軍人を連れて押しかけた。
四人の参議は、大使派遣の閣議決定を奏上して、勅許を得るように迫ったが、岩倉は頑として承知しなかった。
「もう良い。わしはこれで御免こうむる」と西郷は出ていった。
岩倉は見送ろうともしない。
完全な決裂だった。
岩倉邸を出るとき、西郷は「右大臣はよくもふんばった」といかにも西郷らしい冗談を言った。

■6.西郷、動かず■

薩摩に帰ろうとする西郷に、板垣が手を握りたいと提案した。
西郷は「ほっておいてくれ」と断った。
この時点で兵を動かせるのは、薩摩の外には板垣の土佐だけであった。
薩摩と土佐が組めば、政府は明日にもひっくりかえる。
そんな事をすれば、イギリスやロシアを喜ばせるだけだ、というのが、西郷の考えだった。
西郷は桐野利秋ら強硬派の軍人たちと鹿児島に帰ったが、実弟・従道、従兄弟の大山巌はじめ、多くの薩摩出身の人材は東京に残った。
強硬派のみを鹿児島に連れ帰って、東京を沈静化させたかのようである。
そして鹿児島では私財を投じて私学校を設立し、来るべきロシアとの戦争に備えて、青年の教育にあたった。

翌明治7年2月、江藤新平が佐賀で反乱を起こした。
江藤は薩摩の呼応に期待したが、西郷は立たなかった。
政府軍に鎮圧された後、江藤は鹿児島に逃れたが、西郷に保護を断られ、逮捕されて、死刑に処せられた。

明治9年10月熊本での神風連の乱、同月福岡での秋月の乱、萩の乱と、士族の反乱が相継ぐが、西郷はじっと動かず、大久保は一つ一つ鎮圧していった。

■7.「わいの体をおはんらに預け申そう」■

明治10年1月、陸軍省が鹿児島の兵器・弾薬庫から夜陰にまぎれて武器や火薬を運び出すと、それをかぎつけた私学校生徒らが憤激し、武器弾薬を奪い取った。
西郷は「しもた」と叫んだが、燃え上がった火はもう収まらなかった。
桐野らに挙兵の決断を求められると、西郷は言った。
「わいの体をおはんらに預け申そう」

2月15日、西郷軍1万5千は鹿児島を出発。
「政府に尋ねたき儀これあり」
という素っ気ない理由で、勇ましい政府批判の声はなかった。
一挙に船で、東京、大阪に上陸すべしという主張も出たが、奇策として退けられた。
西郷軍は愚直に熊本城を攻めたが、城攻めの大砲もなく、また関門海峡を渡る船の意もなかった。
西郷は勝利を狙っていたのだろうか?

西郷軍は熊本から敗退して、鹿児島に戻り、城山に立て籠もった。
9月24日、政府軍の一斉射撃で2発の銃弾を浴びると、西郷は「晋どん、もうここでよか」と別府晋介に介錯を命じた。
享年51歳。

■8.生も死も天命■

隆盛挙兵の報を聞いた時、大久保は座敷内をぐるぐる廻りながら、「馬鹿なことを」とつぶやき、そして絶句した。
目からポロポロ涙を流しながら。

その大久保も、翌明治11年5月14日、馬車で出勤する途上を士族6人の刺客に襲われ、惨殺された。  生も死も天命という信念から護衛をつけていなかった。
享年49歳。

大久保の死後、親族が遺産を確かめたら、わずかな現金しかなく、逆に8千円もの借金が発見された。
公共事業の予算が足りない分を、大久保が個人で借り受けたものであった。
土地や建物も抵当に入っていたため、遺族は住む家さえなくなってしまう。
政府は大久保が生前鹿児島県庁に「学校費」として寄付した8千円を回収し、さらに8千円を加えて計1万6千円を遺族に贈った。

■9.無私の激突■

韓国近代史の第一人者・李セン(王ヘンに宣)根博士は、次のように語ったと伝えられる。

「これまで自分は、西郷隆盛を征韓論の親玉のように誤解していた。
もしあの時西郷の遣韓が実現して、大院君と二人で腹を割って話していたら、その後の日韓関係は違ったものになっていたであろう。
惜しいことをした」


西郷の夢見た日韓中連合による欧米諸国への対抗が実現していたか、あるいは、大久保の読み通り、韓国との戦争からロシアやイギリスの干渉を招いて亡国に至ったか、知るよしもない。
しかし、この点で西郷と大久保は意見を異にしていても、その生き様は共通だった。
司馬遼太郎は次のように語ったそうである。

「征韓・内治両派の巨魁は、それぞれの意見を通すために死を通していた。
が、これほど小説になりにくい事件もなかろう。
小説になるために必要な人間現象、たとえば私利や私権の追求といったふうなものが、奇跡といっていいほどに双方の巨魁になかった。
意見の純粋さだけで、かれらは国家をふたつに割るほどの対立をしてしまったのである。

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