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薩摩に周旋の才あり

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転載元: 
Japan on the Globe 国際派日本人養成講座 
http://blog.jog-net.jp/ 
 
 
明治維新の数年前、1861年から1865年にかけて、アメリカの南部と北部の間で激しい戦いが繰り広げられた。
この南北戦争は世界経済を激変させたのだが、その余波が薩摩藩にも及んで、明治維新を進める原動力をもたらした。

一つは、この戦争により南部の綿花畑が荒廃し、世界中が綿花不足に陥ったことである。
中国やインドの綿花がイギリスやフランスに輸出されたが、それでも足りない。これに目をつけた薩摩藩の御用商人・浜崎太平次は、日本国内で大量の綿花を買い入れ、長崎のイギリス商人トーマス・グラバーを通じて、高い値段で輸出した。

1863年当時、大阪での繰綿(くりわた)100斤が4、5両だったのが、グラバーを通して17、8両になったという。太平次は大阪で約3万6千両もの繰綿を買い集めたというので、その数倍の利益を得たはずである。
薩摩藩はこの利益を倒幕のための資金として使った。

もう一つは南北戦争により飛躍的に改良された小銃が、戦後、大量に世界市場に出回ったことである。
薩摩藩は綿花輸出で儲けた資金で、これらの小銃を大量に買い付けた。
さらに長州藩のために、薩摩藩名義で武器を購入し、斡旋した。
これが薩長同盟のきっかけとなった。

こうして南北戦争を契機として、綿花輸出による資金獲得、武器購入により、薩摩藩は大いに財力、武力を強化し、長州と組んで倒幕に乗り出したのである。
さらにこの資金は、近代工業の創設を目指した集成館事業にも投入され、日本の近代化の礎に役立てられた。

■浜崎太平次

薩摩藩が幕末ににわかに総合商社のような働きが出来たのには訳がある。
そのはるか以前から薩摩藩は琉球を拠点とした明国・清国との密貿易により大きな収益を上げていた。
さらに奄美の黒糖類を上方市場に持ち込み、高級品として売った。
こうした事業を通じて、薩摩藩は国際貿易のビジネス・センスを磨いていたのである。

上述の綿花貿易で薩摩藩に巨利をもたらした浜崎太平次は、その他にもテングサを原料に寒天を作り、ロシアや清国に輸出したり、奄美大島で醤油を製造してフランスに輸出したりするなど、多方面の貿易、海運で活躍した人物である。

国際貿易とは、攘夷が叫ばれていた幕末では命がけの仕事だった。
激烈に攘夷を唱えていた長州藩は、浜崎の綿積み船を関門海峡で狙い撃ちにし、薩摩では関門海峡を「三途の川」と呼んでいたほどである。
実際に浜崎の商船が攘夷の志士たちの襲撃を受け、船長が惨殺される、という事件も起きている。

この浜崎を藩の御用商人として活用したのが、家老・調所広郷(ずしょひろさと)だった。
天保年間(1830-1843)には薩摩藩は、藩の収入が14万両程度だったにもかかわらず、500万両もの借金を作っていた。
財政改革を担当した調所は浜崎を使って密貿易や薩摩特産品の販路拡大を行わせ、その利益で財政再建を図った。
弘化元(1844)年には備蓄金を50万両貯めたというから、貿易収入の大きさが分かる。

嘉永4(1851)年に藩主に就任した斉彬は、近代的軍備・産業の創設に強い意欲を持っており、その資金作りのために浜崎を引き続き重用し、それまで以上に密貿易を拡大させた。
これが幕府に発覚しそうになると、斉彬は浜崎の弟や奉公人を琉球や大島などに流罪として、浜崎を庇った。
しかし、琉球や大島は浜崎家が支店を置いていた場所で、流罪どころか実態は配置転換に過ぎなかった。

■島津斉彬

斉彬が近代産業の建設を推し進めなければならない、と決心したきっかけが、1840年に始まったアヘン戦争だった。
英国は清国にアヘンを売りつけ、清国がそれを禁じようとすると武力に訴えるという非道な戦争だったが、英国の圧倒的な軍事力は清国をねじ伏せ、日本の朝野を震撼させた。

弘化元(1844)年には、フランスの軍艦アルクメーヌ号が那覇に現れ、琉球政府に通信と貿易を要求した。
ペリー来航の9年前である。
翌年にはイギリス船もやってきた。
琉球は東アジアでの貿易・海運の重要拠点であり、欧米列強は競って琉球を狙っていたのである。

こうした情報に接して、斉彬は、このままでは日本は欧米諸国の植民地にされてしまう、と危機感を抱いた。
太平洋を漂流してアメリカで10年間過ごしたジョン万次郎を49日間も薩摩に留め、詳しく西洋事情を聴取したが、それによっても、ますます危機感を募らせた。

さらに斉彬は輸入された綿糸を見て、その技術が日本より遙かに進んでいることに驚愕した。
いずれ開国せざるをえなくなって、このような高品質な綿糸が輸入されたら、日本の綿織物業はつぶれてしまう、と考えた。

斉彬は富国強兵、殖産興業に向けて、幕府を動かそうとしたが、それが無理だと分かると、薩摩藩自身でやるしかない、と決心した。
そこで始めたのが集成館事業だった。
製鉄、造船、紡績、大砲の製造、洋式帆船の建造などの分野で、アジアで最初の近代工場群の建設を進めた。

そのための資金作りとして、斉彬は、浜崎太平次に密貿易を継続・拡大させたのである。
    
■小松帯刀

島津斉彬が安政5(1858)年に急死すると、その志を継いだのが小松帯刀だった。帯刀は安政2(1855)年に江戸詰めを命ぜられたが、その時に参勤交代で江戸に滞在していた斉彬に接し、植民地化を防ぐためには殖産興業と富国強兵が不可欠であることを教わった。

斉彬亡き後に藩の実権を握った久光に、帯刀は高く評価され、27歳の若さにして家老を命ぜられ、軍事・財政・教育などの重要分野を任された。

斉彬が設立した集成館は薩英戦争で焼けてしまったが、帯刀はさっそく再興に取り組んだ。
造船所、溶鉱炉、大砲鋳造所、ガラス工場などが造られた。
また、奄美や大島の砂糖は専売として、藩の役人が製造から販売まで管理していた。
お茶や油などの特産物の増産を奨励し、上方に売り出していた。

さらに、これで得た資金を使って、武器弾薬や艦船の買い付けを行った。
これらのすべてを、小松帯刀が取り仕切った。
    
■坂本龍馬

小松帯刀の支援を受けて、国際貿易に乗り出したのが、坂本龍馬だった。
龍馬が帯刀と会ったのは、元治元(1864)年だった。
幕府海軍奉行・勝海舟が運営していた神戸軍艦操練所が、尊王攘夷派との関わりで閉鎖され、行き場を失った坂本龍馬以下約30名は、海舟から西郷隆盛に依頼して、大坂の薩摩屋敷に匿われることになった。

ここで龍馬は帯刀に初めて会った翌慶応元(1865)年4月、帯刀は龍馬らを薩摩に連れて行った。
様々な近代工場が稼働し、また広範囲の貿易を行っている様子は、これこそ富国強兵・殖産興業の策と、龍馬を興奮させただろう。

6月には帯刀は長崎の亀山に家を借り、龍馬らに海運業を営む会社を起こさせた。
これが日本最初の株式会社「亀山社中」、後の海援隊である。
亀山社中は、貿易商社として活動した。薩摩藩が資金を出し、亀山社中の社員が薩摩藩の交易船に乗り込み、西洋の銃器などを輸入して藩に卸したのである。

亀山社中結成の一月前に、龍馬は長州に赴いて、薩長連合のための遊説を行った。
もちろん帯刀との相談の上でのことで、浪人という自由な身分は、こうした動きに好都合だった。

龍馬の遊説を受けて、7月21日、長州の伊藤俊介(後の伊藤博文)と井上聞多が亀山社中の上杉宗次郎を訪ねてきて、「武器や艦船を買いたいが、長州名義では購入できないので薩摩の名義を貸してほしい」と依頼した。
当時、幕府は第二次長州征伐を決定しており、長州はその備えとして近代兵器を必要としていたが、外国の商人は幕府の圧力を受けて、長州藩には武器を売ってくれなかったのである。

上杉宗次郎は二人を長崎の薩摩屋敷に連れて行き、帯刀と会わせた。
帯刀は即座に承知して、グラバーと交渉し、銃4千3百挺を薩摩名義で購入して、下関に届けさせた。

10月には、再び、長州側から艦船を薩摩名義で買って欲しい、という依頼が寄せられ、それも帯刀は承知して、実行した。
こうした武器の斡旋により、薩摩と長州の関係が深まっていった。

慶応2(1866)年、龍馬に説得された桂小五郎が京都に赴き、薩摩屋敷で帯刀、西郷、大久保らと会って、薩長同盟が成立。
龍馬自身は維新が終われば、いずれ上海、広東、ルソンなどに行き来して、国際貿易に従事したいと考えていたが、それを実現することなく、慶応3(1867)年11月、京都で何者かに暗殺されてしまった。

小松帯刀も維新後、新政府で要職を歴任し、手腕を発揮したが、明治2(1869)年に病気で引退し、翌年世を去った。
享年36歳。
帯刀と龍馬が長生きしていたら、明治日本の国際貿易はどれほど発展していただろうか。
    
■五代友厚

小松帯刀の国際ビジネスでの後継者が、五代友厚と言えよう。
友厚は薩摩藩の儒学者の家に生まれた。友厚と名乗る前は「才助」と呼ばれていたが、これは斉彬がその才能を讃えて、与えた名だと言われている。

安政2(1855)年、長崎に海軍伝習所が創設されると、そこでオランダ士官から航海術、砲術などを習った。
また同地でグラバーと懇意になった。

文久2(1862)年1月には、藩命により、グラバーとともに上海に渡って汽船を購入。
翌文久3(1863)年の薩英戦争では、イギリス海軍の捕虜となり、その後横浜で釈放された後も、藩の命令で、イギリスとの貿易に従事した。

友厚はロンドンにいた際に、ベルギー貴族モンブラン伯爵からの接触を受け、薩摩・ベルギー商会を立ち上げた。
小銃、蒸気船、紡績機械などを薩摩に輸出し、薩摩の物産をヨーロッパに輸入しようと考えたのである。

友厚が設立した薩摩・ベルギー商会は、慶応3(1867)年に開催されたパリ万国博覧会で、薩摩藩が単独出展した「薩摩パビリオン」の演出を担当し、一番人気を博した。
友厚は薩摩藩を動かして、出品物4百余箱を早々にパリの会場へと送った。
そして「日本薩摩太守政府」の名で、あたかも薩摩が独立国であるかのような体裁を整えた。
さらに薩摩藩は、あらかじめ「琉球薩摩国勲章」を用意していて、ナポレオン3世などに贈った。
これらの動きにより、日本という国は、いくつかの独立国家で構成されている連邦であるという印象を持たれ、幕府の権威は著しく損なわれた。
実は薩摩の狙いは、そこにあった。
当時、幕府はフランスから6百万ドルもの借款を受け、近代軍備を調えようとしていた。
これが実現したら、倒幕も難しくなる。
五代のパリ万博での活躍により、幕府が日本国内の一地方政権であるかのような印象をフランス政府に与え、借款契約をつぶすことに成功したのだった。

この時、幕府側の使節としてパリに来た人々の中に渋沢栄一がいた。
渋沢はかつては過激な尊皇攘夷の志士で、横浜の外人居留地に火を放ち、手当たり次第に外人を斬り殺そうと企画したほどだった。
しかし、最後の将軍・徳川慶喜が「渋沢は将来有為の人物だから、渋沢自身のためにも海外に遊学せしむべきだ」として、使節団の一員に加えたのである。

渋沢はそのまま約2年間留学を続け、帰国してから企業5百、公共・社会事業6百もの設立に貢献し、まさに明治日本の近代化と経済発展に大車輪の活躍をした。
一方、五代友厚は大阪商法会議所(後の大阪商工会議所)を設立して初代会頭となり、近代的企業の発展に尽くした。
二人は「東の渋沢、西の五代」と並び称されるようになった。
    
■国際ビジネスマンたちを駆り立てた「奉公の志」

極東の一島国だった日本が、わずか60年ほど後には「世界五大国の一つ」と言われるまでに発展したのは、ここで紹介した国際ビジネスマンたちの活躍による所が大きい。

これらの人々には一つの共通点がある。それは、国際ビジネスは手段であり、目的は殖産興業、富国強兵を通じて、日本の独立を護り、国民の幸せを実現しよう、という「志」であった。
単に一身の富裕を目指すだけなら、攘夷志士に命を狙われるような危険まで冒す事はない。
彼らを駆り立てたものは、国家公共のために尽くそうとする奉公の志だったのである。

彼らの生き様は現代日本人にも重要な示唆を与えている。奉公の志がなければ、人は小成に安んじて、それ以上の大を為そうという気概は生まれない。
一国の浮沈は、どれだけ奉公の志を持つ人々を生み出しているかに、掛かっている。
 
 

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