『脳科学からみた「祈り」』
中野信子 (潮出版社)
ミラーニューロンは眼前の他者の行動を「鏡のように」反映して発火します。
その特徴から「共感細胞」とも言われる細胞です。
私たちがどのように他者に共感するかという仕組みが、ミラーニューロンの研究で明らかになってきたのです。
そのことが非常に大きな意味を持つため、ミラーニューロンの発見を「脳科学最大の発見」と呼ぶ人もいます。
1998年には、大人の脳神経細胞も日々新しく生まれていることが発見されました。
それまでに「大人になったら脳細胞はもう増えず、減る一方だ」と考えられてきた常識が、根底から覆されたのです。
この発見と、成人後の脳神経新生についてのその後の研究によって、私たちは何歳になっても「脳を育てていける」ということが分かってきました。
これは、人間の可能性についての大きな発見です。
脳細胞を育てるのは、筋力トレーニングをするのと似たようなものです。
毎日少しずつ、鍛えていく。
また、鍛えすぎてもだめなのです。
適度な刺激、適度な負荷を、自分が「これくらいはできるかな」と思うレベルより少し上を目標にしながらかけていく、そうすることで、脳は少しずつ育っていくのです。
トレーニングを継続する期間は、最低3か月。
それは人間の細胞が入れ替わる期間が3か月だからです。
継続するにしても、たんなる習慣になってしまった祈りは、たいした変化を脳に及ぼすこともなく、願いも漫然として、「叶う」という状態からは程遠くなってしまう。
それは、つまり、祈りが「無意識で行うこと」になってしまうからこそ惰性になるわけですから、祈りのたびに「意識の上に登らせる」よう心がけてみてはいかがでしょうか。
誰かに対して怒り・妬み・恐れ・不安と言ったネガティブな感情を持つと、それが社会的には「あまりいよくないこと」であるとされているのを自分の脳は分かっていて、「ストレス物質」であるコルチゾールという物質が分泌されます。
コルチゾールは生体に必須のホルモンですが、脳内で過剰に分泌されると、人間の脳が持つ最重要の機能と言っても過言ではない「記憶」の回路で中心的な役割を果たす、「海馬」という部位が委縮してしまうことが分かっています。
ネガティブな祈りは、自分自身に悪影響を及ぼす逆効果の祈りとなってしまうのです。
人の不幸を祈るようなネガティブな祈り(むしろ「呪い」に近いものと言えるかもしれません)は、まさにことわざに言うとおり、「人を呪わば穴二つ」の結果をもたらしてしまうのです。
ポジティブな祈りは脳にどのような影響を与えるのでしょうか。
まず、「ベータ―エンドルフィン」や「ドーパミン」「オキシトシン」など、「脳内快感物質」と一般的に呼ばれる一連の物質が分泌されます。
脳内快感物質とは、脳内で機能する神経伝達物質のうち、多幸感や快感をもたらす物質を一般的に総称した用語です。
自分を犠牲にして他者のために祈るような、どこか聖人めいた祈りではなく、
「自他とのも幸福」を祈ることの中にこそ、脳科学から見た「よい祈り」はあるように思えてなりません。
脳の中で記憶を司る部位である海馬は、これまでにあったことを記憶するだけでなく、
「未来にやるべきこと」「将来行う行動」についての
「展望的記憶」(Prospective Memory)もコントロールしています。
たとえば、「来週の水曜日に午後2時から○○さんと会う」という予定を記憶していることが、展望的記憶です。
ちなみに、認知症患者は、この展望的記憶の能力が極端に低下しています。
この展望的記憶をしっかり持っているか否かが、じつはその人の生き方にも深い次元で影響を与えています。
それは、たんに「スケジュール管理がうまい」といったレベルの話ではありません。
私たちが未来に対するヴィジョンをしっかり持ち、希望を持って人生を歩んでいけるのも、じつは展望的記憶の能力があればこそなのです。
展望的記憶の能力が低い場合、「こうなりたい」というヴィジョンに乏しく、目標達成への地道な努力も苦手で、何をするにも意欲がわきません。
そのように、展望的記憶の強弱が、生き方にも大きく影響を及ぼしていくのです。
また、最近の研究で、「人間が未来をいきいきと思い描くときに、海馬の活動が活発になる」ということが分かりました。
利他行動をとるとき、誰かからほめられなければ、大きな快感を得ることができないのでしょうか?
じつは、「他者からのよい評価」は必ずしも必要ではないのです。
人間には、自分の行動をつぶさに監視する機能を持つ内側前頭前野の働きがあります。
これは、天台大師の『摩訶止観』巻八に説かれる「同生天」「同名天」の働きを思わせるような部分で、自分の行動のいちいちを記録したり評価したりするところです。
誰かからほめられなくても、自分の内側前頭前野が自分の行動を「すばらしい!」と評価することにより、非常に大きな快感がもたらされるのです。
これが、いわゆる「社会脳」と呼ばれたりする機能のひとつです。
つまり、心の底から人々の幸福を願っての利他行動なら、たとえ誰にもほめられなくても、そんなことでは幸福感は全く揺るがないのです。
見返りなど必要ないくらい、大きな快感があるのが本来の利他行動です。
そして自ら進んでやろうとする利他行動こそ、最も大きく、持続的な幸福感に結びつくのです。
「仏教徒は瞑想や祈りの行為によって深い宗教的境地に達する前後で、どのように脳の働きが違うのか」を調べた実験があります。
実験では、被験者の脳に「方向定位連合野」という部分の活動が抑えられることがわかりました。
方向定位連合野は「自分」と「他者」の境界を認識する部分です。
興味深いことに、この宗教的境地について、被験者は「自己と他者の境界がなくなるような感覚であることを実際に報告しています。
具体的には、
「自分が孤立したものではなく、万物と分かちがたく結ばれている直感」
「時間を超越し、無限が開けてくるような感じ」
という表現で、その感覚の説明を試みます。
なぜなら、人は他者とのつきあいにおいて、言語情報よりも口調や声のトーン、表情などの「非言語コミュニケーション」からたくさんの情報を得ているからです。
それは、美味しいものを食べる時に感ずる幸福感などよりずっと深く、長く持続する幸福感なのです。
学びつづけ、成長しつづけ、達成をくり返すことの中にこそ、脳が感じる幸福感はあります。
脳にとっての幸福とは静的・固定的なものではなく、変化のダイナミズムの中にあるのです。
「もう学ばなくてもいい。成長しなくてもいい」
と現状に満足してしまったら、脳はそこで成長を止めてしまうどころか、衰え始めてしまうのです。
なぜならそれは、
「知りたい・学びたい」
「達成感を味わいたい」
という本能に反する生き方であるからです。
法華経を最高の経典として讃えた日蓮は、仏という存在を固定的にはとらえず、菩薩道を行じつづけていく凡夫の姿の中に仏があると説いています。
この話は、脳科学的な見方からも納得できる話です。
「成仏=仏になる」というゴールがあって、そこにたどりついたらもう菩薩行をしなくてもよいというなら、それ以後は脳にとってなんの刺激もない、退屈な状態に苦しみ続けなければならなくなってしまいます。
幸福感は感じられず、脳もどんどん衰えていってしまうでしょう。
真の仏とは、衆生を救うために次ぎから次へと困難に立ち向かい、利他の行動を生涯最後の日までつづける存在なのです。
脳の仕組みから見ても、これこそが最高の生き方、脳が喜ぶ生き方だと思います。
人間は「配慮範囲(自分が責任を持つ範囲)」が広ければ広いほど、幸福な人生を送っているのです。
逆に、「自分一人だけで生きていけばいい」と思っている人は、配慮範囲が最小となり幸福を感じられる機会もごく少なくなるでしょう。
「その人の幸せを心から祈れる相手」が増えれば増えるほど、私たちの「自己」の範囲は拡大され、その分だけ脳が幸福を感じる機会も多くなります。
利己の幸福から利他の幸福へ。
安穏を求める静的な幸福から、困難に挑戦しつづける動的な幸福へ。
脳科学の最先端は、こらからの時代に相応しい新しい幸福のありかを指し示しているのです。
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中野信子/脳科学の最先端が、幸福のありかを指し示している
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