『驕れる中国 悪夢の履歴書』
中国には中華思想はあっても、中華精神はない。つまり大和魂みたいなものがない。
一方の日本には、日本精神はあるけれど、日本思想がない。
多少海外との交流が生まれ、都会の若者が日本の文化や電化製品に興味を示そうとも、その国民性の根底には日本人の想像を絶するような「中華思想」と「奴隷根性」の文化的DNAが埋め込まれている。実のところ、戦後の日本人ほど中国という国を知らない民族はいない、というのが、私の持論である。日本人固有の「誠」を尊ぶ国民性と、戦後民主主義教育が、現代の日本人から中国の現実を見る目を奪ってしまった。国交はとうの昔に回復し、経済的にも結びつきを強めているはずの日中間の相互理解は、深まるどころか混迷の一途をたどっているとしか思えないだろう。
なぜ、このような事態が続いてしまうのか。一言でいえば、双方の国民性、あるいは民族性が正反対だからである。
中国人にしてみれば、日本人の「誠実」とか「正直」という教えは、子供に「カモになれ」と教えているに等しい。
中国人が日本人を見る場合は、つねに真逆の偏向を加えてきた。「美化」ではなく「醜化」、つまり日本人像をより醜く歪めてしまうのが中国人なのだ。
「大」が好きだから、自分たちは「大中華民族」。そして日本については「小日本」と呼ぶ。相手を軽蔑する場合に大の代わりに小を使う。大は良いことで、小は悪いことである。中国で一般的に「小人」といえば、これは「チンピラ」みたいな意味である。中国は有史以来の機密主義国家である。為政者にかぎらず、民間レベルでも 「秘密」には事欠かない。その代表的なものが漢方薬に秘方主義である。医学というのは人類に貢献するものだから、特許などで自己の利益を確保するにせよ、最終的には研究成果をなるべく多くの人々に提供することを考えるのが常識だが、中国はそうではない。魯迅は、中国の伝統社会を風刺した「灯火漫筆」のなかで次のように書いている。
「いわゆる中国文明というのは、じつは、ただ有閑階級の享楽のために用意された饗宴である。いわゆる中国文明というのは、実はただこの人肉の饗宴のために用意された厨房にすぎない。知らずに称賛するのは、まだ恕されるべきものであって、知って称賛するならば、このやからは永遠に呪われるべきものだ」さらに魯迅は、「われわれはきわめて奴隷になりやすい。しかも奴隷になっても、案外とそれを喜ぶ」「乱世の人は太平の犬に如かず」と嘆きながら、「中国人は人を人と思わない」、場合によっては「牛馬以下」だと指摘する。漢民族がいちばん幸せだったのは、じつは清の時代であろう。いちばん不幸な時代は、明の時代である。
中国史上最悪の時代が明である。宮廷内では廷臣たち、文武百官にいたるまでが、言葉遣いを誤るなどして皇帝の逆鱗に触れただけで杖刑。棒で肉体を打つこの刑罰で死んでしまう者はかなりの数に上がった。そのあと清の時代になると、中国は歴代王朝のなかでも、もっとも幸せな時代になった。康熙、雍正、乾隆帝の約140年間で人口が10倍以上に増えた。そして始めて人頭税が減免になった。税金をとらず、経済、政治面で汚職なども少なくなって、社会も安定した。満州人の奴隷になってはじめて中国人はいちばん幸福な時代を迎えたのだ。(つまり、漢民族が支配者なら奴隷でなくとも生活は苛烈になり、漢民族以外なら奴隷という地位であれ幸せになれる、ということ。)実のところ、中国人は異民族を熱烈歓迎する民族なのだ。日中戦争では、日本軍が入城するたびに日の丸旗を振っていたのである。だから、中国人とつき合ううえで、その奴隷根性を想定しながら取り組めば、たいがい成功する。そして実のところ、中国人に勝つには、このやり方しかないと言っても過言ではない。逆に、日本流に意見を尊重しよう、腹を割って話し合おうという方針を掲げた経営者達は、対中ビジネスでことごとく煮え湯を飲まされる想いをしている。(ゆえに、中国との交渉事は弱みを見られたらダメなのである。中国で成功しようと思うなら、奴隷根性を積極的に利用し、ワンマン経営で押さえるに越したことはない、というのが、台湾関係者や経営で成功した人の一般的な見解である)「民」の字源を探っていくと、じつは中国の社会構造に深く根差した文字だと言うことが分かる。「民」という字は中国の奴隷制と切っても切れない関係があり、じつは、奴隷が逃げられないように目に針を刺して潰し、見えないようにした、というのが、「民」の字源なのである。【奴隷の価値の推移】
古代中国の社会構造に関しては、考古学的にも研究が進んでいる。まず殷朝の時代にはすでに奴隷階級があったことがはっきりしている。
中国の奴隷価値は戦国時代に馬に追いつき、追い越した。ところが、その後時代は逆行するように、ふたたび奴隷の価値が下がってゆく。【人間不信社会】
およそ中国の「学」といわれるものには、一つの共通点がある。それはあらゆる古典がすべからく人間不信の「学」だということだ。兵法にかぎらず、『韓非子』や『戦国策』なども人間不信の社会をどのように克服してゆくかを教える。今でもよく誤解されていることだが、日本では、華僑の企業は家族企業だと一般的に信じられている。しかし、華僑の経営哲学が家族主義だなどというのは見当はずれである。華僑の事業ほど、血族の争いがすごいものはない。今でも中国で最も流行っている言葉に、「良心のある人間は社会から孤立する(あるいは孤立させられる)」というものがある。真面目な人間はやっていけないのである。そういう厳しい日常生活で培われ、長い歴史を積み重ねてたどりついたのが、中国の一つの文化、「騙(ペン)」(たぶらかす)の文化なのである。日本ではあまり紹介されてこなかった言葉だが、騙し騙されるということが、文化的DNAのレベルまでインプットされているのが中国人なのだ。(このような「騙し」はDNAレベルものもだから、中国では誰でも「騙し」に対する免疫が出来ている。だから、日本のような「オレオレ詐欺」や「振り込め詐欺」などの被害は生じようがない)中国人にとって詐欺は非常に生産的な仕事なのである。なぜなら詐欺師は人をだますけれど、本人にとっては財を得るための一つの手段として肯定されるからである。だから、騙す技術についての研究書は台湾・中国の出版市場にあふれていて、本屋には兵法書などの「騙」の関連書が多く見られる。残念なことに、日本の研究者、とくに中国専門家で詐術を真剣に研究している人は、たぶんいないと思う。研究したらバカにされて、学者としてやっていけない。しかし、中国では違う。「騙」研究は市場性をもっているから、やっていけるのだ。いかにしてずうずうしく、腹黒くなるか。日本人の感覚では、とても真面目に研究するようなテーマではないが、中国では清末に李宗吾という学者が 『厚黒学』 という有名な本を書いている。中国ではいまなお売れるロング・ベストセラーであり、台湾や香港でもそういう「学」の定番として今でも出版されている。しかし日本では、文庫を含め、解説までついた日本語訳が2,3種類あるが、どれも売れていない。なぜ、中国では「ずうずうしく、腹黒く」なることを勉強するハウツーものが売れて、日本では売れないか。やはり、そこに中国と日本の文化の壁があるためではないかと思う。
中国人は約束が効く、効かないという半径(範囲)があるのである。(範囲を定める因子は、専ら “利益” である。日中で合弁事業を立ち上げても、私欲を満たすだけの利益がなければ平気で裏切る。中国に進出した中小企業が、中国人の利益次第の約束に、どれほど騙され続けてきたことか。
日本の小学校の教科書にある『走れメロス』のような話は、恐らく大方の中国人にとって、馬鹿げた話なのである)
「利」以外に、中国人の行動を動機づけるものは何かというと、じつは非常に少ない。たとえば面子を守るとか、虚栄心を満足させるといった動機づけもあるにはあるけれども、それらは非常に弱いのである。中国人の信仰心は「鬼」までにとどまって、「神」にまでにはいたらなかったのではないか。要するに「神」(全能神)は生まれなかったのだ。しかし仏教が発祥したインドにもヒンドゥー教の神々が生まれたし、キリスト教にもイスラム教にも神がいるのに、なぜ中国に神が生まれなかったのか、今も中国文化史上、最大の謎の一つとして探求されている。ただ、「神」が生まれなかった理由はいくつか考えられる。私の考えでは、中国人は非常に世俗化した民族だったために、「神」は憧れの対象になりながらも、「神」とはいったいどういうものなのかという想像が深まらなかったのだ。しかし、永遠の存在、超自然的な力への憧れは中国人にもある。「神」の代わりに、生への貪欲さ、不老長寿の夢をみたすものとして中国人が到達したのが 「仙人」の思想である。儒教はすべてを倫理道徳に一元化する。要するに倫理道徳による「勧善懲悪」を求めるわけである。ところが、「勧善懲悪」というのは外的強制にほかならない。宗教が人間の心や信仰から出てくるものであるのに対し、外から善を強制することによって中国人から良心を奪ったのが儒教文化だと考えればよい。(中国とそこから生じた古典を褒めそやしてきた日本人の学者は、まさに机上の空論で中国を「美化」してきたのである。
中国の古典は、日本人によって解釈されてこそ、真に内在する“善”が輝きだしたのである。世界中のあらゆる文物は日本に到達することで“出藍の誉れ”となるのである。それは日本の次元界が最も高貴だからである)中国の思想家たちが自らの思想を説き明かすために駆使した道理は、実のところ一般の中国人にはまるで通用しないのである。「話せばわかる」などと、決して思ってはならない。中国人と「わかり合える」のは、「理」ではなく「利」が通った時だけである。中国本来の「君子」「小人」は社会階級の意味合いが強い。賄賂をもらえるのは当然「君子」であり、「小人」は絶対にもらえない階級なのである。このあたり日本人の感覚と真逆なので、注意が必要であろう。中国というのはあくまでも官僚不正が一つの前提として国家統一が保たれているわけで、不正が本当に禁じられてしまうと国政が回らなくなってしまう。「清廉潔白」などもってもほかで、権=銭関係がなければ、官僚のなり手すらいなくなってしまう。不正のできない権力は誰もいらないのだ。
(没法子(メイファーツ): 日本語で 「どうにもならない」 と言う意味。)「没法子」というのは、日本でいう「長いものに巻かれろ」より無力感が強く、中国人はそれだけ諦めも早い。戦争もそうである、勝てないと思ったら、すぐ投降するか、逃げてしまうのだ。中国チームは1対1まではものすごく強気だが、3対1まで負けてくるとだいたいすぐ諦めるのがわかる。国歌を熱狂的に合唱していたサポーターも、さっさと引き上げて最後まで観ようともしない。もう、どうにもならないと思ったらすぐ諦めるのが中国人なのだ。
(強気だけど、諦めも早い。
つまり、中国の為政者は、このような民族性を利用しているのである。)
「没法子」の文化に育まれた民衆だから、徹底的に弾圧するほど国が安定する、再起不能、反抗できないほど弾圧すれば、おとなしく奴隷になる。
【道理が通じない中国人を生む中国語】
中国人に道理が通じないのは、歴史的、社会的背景だけでなく、中国語の言語構造にも問題があるのではないかと私は考えている。
そもそも、中国語と言うのは、ドイツ語や英語のような世界の言語と違って、文法がない。名詞・形容詞・動詞もごちゃまぜに使っている言語であり、要するに、文字の積み立てだけによって成り立つのが中国語なのだ。中国語の学習がむずかしいのは、文法が(それらしきものはあるが、)実際にはないからだ。言語学的な文法がないということは、論理的言語ではないということである。人は言語によって思考する。中国語は文法やロジックによって成立した言語ではないので、中国語しか使用しない民族が言葉を通じて道理をわきまえることは、事実上不可能に近い。中国人が自己中心的な人間集団になったのも、非論理的な言語によって育成されたからではないだろうか。よってここでも、中国人に勝つには、道理ではなく力の優位のみ有効という結論になる。彼らは日本的な「話し合いによる円満解決」からもっとも遠い部類の人々なのである。
(それを言っちゃあ、お終いよ、という記述だけれど、これこそが、この著作の最重要ポイントだろう)
中国人は日本人と決して「互恵」できない。これは、中国人同士でさえ熾烈な利害対立を解決できず、今だに国内の経済格差が緩和されていないことからもわかる。もし「互恵」できるなら、今ごろ中産階級が出てきているはずであり、あれほど経済格差が広がるはずがない。
(広大な市場に魅せられて、大企業を中心に中国に進出しているけれど、日本側企業が考えるような「互恵」に至っていないのは明らかである。賄賂構造国家・中国での企業活動は、日本における利益率の5分の1程度にとどまってはずである)
【恐るべき自己正当化】
中国の文化人・知識人がよく主張しているのは、「経済大国日本が今日あるのは、日中戦争で中国人を搾取・略奪した財産のおかげである」というもので、日本人の戦後の努力は一切認めない。この問題に関して、私が驚いたのは中国の民主活動家だ。正直、だから中国はダメなんだ、と思った。彼らは民主化、民主主義を主張しながらも、チベットの独立や台湾の主張については否定的である。(まさに、中華民族を覆う中華思想という民族的亡霊の感がある)中国民主化運動の有名なリーダーの一人である王炳章という人物がいる。医学博士号をもち、米国を拠点に民主活動を手掛けていた、民主活動家の草分け的存在。その彼に、「台湾がなぜ経済成長を成し遂げることができたか」と問えば、「蒋介石政権が中国からすべての金を飛行機で持ち出したために、台湾が戦後繁栄したのだ」というのである。これは他の民主活動家も同じ見解だ。
(略奪と騙しのDNAが組み込まれている中華民族ならではである。民主活動家であれ何であれ、自分自身の民族性を通してしか発想できないから、こうなってしまうのである)【中国との腐れ縁を維持する人脈】
中国とのつき合いは、「金の切れ目は縁の切れ目」でもあるのだが、日本の政財界は、今までえんえんと食い物にされ続けてきている。この期におよんで日中双方ともしがみつくようにしてはなれないでいるのは、日本の対中ODA援助の利権にむらがる政治家たちがいるからにほかならない。
(このような政治家の主要な人脈とは、経世会関連の人物なのであろう。日中国交回復をした田中角栄、金塊を貯め込んでいた金丸信、土建屋をわんさか率いてチャーター便で中国を訪問した竹下登、そして小沢一郎という権力の祭司たちの人脈である。
アメリカは、「日本の資金を中国に渡すくらいならアメリカが取る」という決意で、小泉改革に乗じて経世会潰しに躍起になっていたのだろう)(こういうのを読んでしまうと、日本人としては元も子もない感じであるけれど、中国人というのは日本人とは全然違う民族であるどころか、正反対の民族であることを、まずはきちんと認識する。
その上で、腹をくくって中国人に合わせた付き合い方をするか、中国との深い付き合いは止めて、日本人の 「至誠」 を理解できる国とだけ付き合うことにするか、を選択すればいいのだろう。
遠からず世界は、 「至誠」 を旨とする公正な態度を崩さない日本を評価するようになるはずである。中国のやり方がこのまま続くなら、間違いなく世界は混乱に落とし入れられることになるのである。)『マンガ 中国入門』
【死者に鞭打ち、敵を喰う中国】
『史記』などには、敵の屍に鞭うち、地中から掘り起こして荊棘で包むといった話がある。棺を開けて死体を灰にして飲み下すといった話なども多く記録されている。文革の際には、階級の敵として、敵の死体の大腿の肉を、食堂に高くかかげて見せつけながら売っていた。最近では、後ろ手を縛られて跪いている東条英機の彫像が作られた。中国人はそれをけり飛ばし、唾を吐いてうさばらしをしている。
「死者悉皆成仏」(死ねば皆仏になる)というのは日本人伝統の死生観だ。【食人文化】
中国は昔から「飢饉の国」と言われるほど飢饉が多発していた。飢饉時の食人や共食い記述は『正史』などの古典に多量にある。大飢饉の時「道端の屍を競って喰い 肉のついた屍はほとんどなかった」と『宋史』「五行誌」『文献通考』「物異考」にある。唐時代に入ってからの食人は多元的に進化し、じつに唐時代から20世紀初頭に至るまで人肉が公然と市場で売られていたのである。
こうした中国の食人文化を皮肉り嘆いたのは、かの文豪魯迅であった。魯迅の小説をめぐって文革中に「食人する階級」と「喰われる階級」について論争されたが、それは文学論争ではなかった。文学論争ではなく、文化論争だったのだろう。近代、中国政府に人肉を払い下げられた人物は、民国革命の志士である徐錫麟と、最初に日本に留学した女性の秋瑾である。彼らは革命蜂起に失敗したために、徐は殺され内臓を喰われた。秋瑾の血は、饅頭のなかに入れられ政府から民間に払い下げられた。このことを知った魯迅は『狂人日記』『薬』という小説を書いた。『本草綱目』(李時珍)に、人肉人血をはじめとする、人体の計33種の用い方と効能が記されている。そしてこれは今でも中国薬学の聖典として重用されている。中国では共食いのことを喫人(チーレン)と呼ぶ。喫はすなわち味わうの意味。人を味わう・・・このアナーキズムこそ中国人の本質といえるかもしれない。
【中国の真の姿】
中国社会主義体制が成立した当時、日本では中国とは蚊もハエもいないネズミも泥棒もいない、地上の楽園だと全国民がそう思っていたね。江戸時代から「聖人の国」「道徳の国」と思い込み憧れていたわけでしょう。
でもね、その実態はですよ、匪賊と物乞いだらけ餓死者が絶えない地獄絵図のようだったんですね。確かに情報が閉ざされた当時の中国の真の姿を知るのは難しかったかもしれないね。
【手足のない物乞い集団】
彼らは組織だってそれぞれの街角に出没しているわけですよ。ときには障害者を、ときには老人や子供を使って物乞いをさせて、1日のあがりを組織の親玉がまきあげる。さらに驚くことにね、こうした状況に対応するためにね、それぞれの県政府が有効期限1年の「乞食証」なる正式な許可証まで発行して手数料100元を物乞い達から徴収している。手足のない物乞いの多くはね、誘拐されて売られて手足を切り落とされたものなんですよ。
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黄文雄/『中国入門書』
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