『嫌な奴とつき合いなさい』 竹村健一
まず初めはでっかい態度に出る。それで相手が恐れ入ってしまえば、その男の勝ちである。もし相手が自分より格上とわかれば、手のひらを返したように下手に出る。
しかもその豹変ぶりは、彼らにとってははずかしいことでもなんでもなく、ごく当たり前のことなのである。ここに、日本人と外国人の大きな差がある。日本ではガラリと態度を変えるとさげすみを受けるけれども、彼らにとっては日常茶飯事であるからなんとも思わない。外国人は「オレのほうがこいつよりも上だ」と思うと、とたんに態度がデカくなるのである。
そのかわりに、こちらの突っ張りが功を奏すると、相手は恐れ入りましたとばかり、実に率直に話してくれる。相手が外国人の場合はすべてこういう調子だから、日本式の“謙譲の美徳”を発揮していては、最初からばかにされて十分な情報も与えてくれなくなる。自信などというものは、いいたいことをいい、人とぶつかって、いじめられ、辛い目に遭っていくうちに、自然に生まれてくるものである。
自信がないから何も言えない・・・といった消極的な態度では、いつまでたっても自信などつきっこない。『日本人のための新「幸福論」』
佐藤優×田原総一朗×宮崎学田原
日中両国ともメディアが焚きつけることで、民族主義が高揚する場面が、これからも出て来るんじゃないですか。
宮崎
そうかもしれませんけどね、日本人よりも、じつは中国人のほうが意外に冷めているんです。
日本人から見ているとわかりませんが、中国の愛国メディアが煽っても、それに乗せられる人は意外と少ない。
田原
それは、メディアを信用していないから?
宮崎
信用していませんね。
それ以前に、彼らは「損か得か」で動く。
分かりやすいですよ。
その点では非常に合理的です。
でも、合理一点張りかというとそうでもない。
「損だけどやらなくちゃならない。義理があるから」という変な話も多い。
そこは価値観が混沌としているんです。おもしろい国ですよ。
田原
以前、NHKのテレビで大ヒットした番組に『プロジェクトX』というのがありましたよね。
日本人ならだれでも感動するストーリーだったけど、中国ではまったく受けなかったという。
なぜかというと、「成功した人たちが大金持ちになっていない」と言うんだな。
宮崎
そりゃあ、おもしろい。
たしかに、中国では成功したら大金持ちになるはずだという発想ですね。
日本人は、作ること自体に喜びがあるんだ。『この国を変える力』 中丸薫
中丸
20世紀屈指の経済学者、ジャン・ガルブレイス氏は、97歳で亡くなる3年前、
「日本は文化的な発展、社会的な協力、社会的な成功、個人の満足という点で、独自の伝統を持っている。
日本は、より多くの財やサービスを生産する以外の価値に重きを置く、新たな文明に向かう発展段階にあり、世界を先導するであろう」
と語りました。『船井幸雄がいままで口にできなかった真実』 船井幸雄
船井
GHQの占領政策を調べているあいだに、気づいたことがあります。
「アメリカは意識的に日本人の精神的バックボーンを取り去り、人材を輩出しないようなあわれな国にしたかったようだ」と思うのです。
その1つが、学制改革です。
なかでも旧制高校の廃止です。
2つめは、大麻取締法を日本政府に制定させたことだと思います。
調べれば調べるほど、この法律は悪法です。
アメリカの石油資本のためのものであるらしいことがよくわかります。
3つめの大事な政策は、官僚制度の温存でした。『江戸の知恵』 養老孟司・徳川恒孝
徳川
江戸時代には、上に立つ武士階級に対して徹底的な儒教教育が行われました。
しかし、面白いことに、彼らは剣術以外、算数や技術などの実学をせず、ひたすら「人の道とは何か」を学んでいました。
そういう人たちがリーダーになり、実務は民に任せたから、江戸の社会はうまくいった。
その意味で、あまり行政組織や法律を細かくしてはいけないんです。
養老
大枠をつくり、あとは「よきにはからえ」と。
徳川
まさにそういうことです。
養老
作家のC・W・ニコルさんは「日本に住んでいてよかったことを一つ挙げてください」と質問されたとき、「宗教の束縛からの自由があること」と答えました。つまり、「宗教からの自由」があるのはきわめて例外的な国だということです。『ノウハウ 日本人バンザイ』 山本照男
近年、中国の人たちは、家電製品をわざわざ日本に買いに来たり、自国内で日本ブランドの製品を買うにしても、中国で作られた物ではなく、日本で作られた物を選ぶそうです。
それと同じような話が数十年前にもソニーであり、「中国やアメリカなどで作られた物ではなく、日本でつくられたテレビを買いたい」と言う外国人が多かったとのことでした。
マニュアルさえあれば、どこの国で作っても、デザイン・外装・操作方法からメンテナンスに至るまで、完全に同じものができるはずですが、そこには日本のノウハウが入っていないので、出来上がった物は決して同じではないということなのです。
このノウハウは微に入り細にわたっていて、口で言い伝えてもその言い回しに難しいことが多く、正確に伝えることは難しいので、ましてやマニュアルには書けないのです。
しかし、それこそが、我々日本人が長い時間をかけて作り上げた、日本人のものづくりの“コツ”の真髄なのです。
コツ、要領・・・何とも日本的な感覚と響きを感じる言葉であり、この言葉こそが“ものづくり日本”を本当に表していると言えるでしょう。
今、ものづくりの中心は日本から中国、インドネシア、タイ、ベトナム、さらにはインドやアフリカという、コストの安い国へと流れていっています。
しかし、本当のノウハウは伝わらないのです。
なぜなら、それは日本の丁稚奉公の真髄と精神が諸外国にはわからない、伝わらないからです。
道を極めるための修行の中で、技術はもちろん、精神的な部分のあり方までも、体のセンサーで感じ取り、それをノウハウとして脳の中にメモリーしていきます。
免許皆伝とか、その道を極めたということは、マニュアルには書けないノウハウの塊であり、そうなるまでには訓練の蓄積と長い時間が必要なのです。
訓練の仕方、奥義の極め方は、禅に通じるものがあり、日本人にしかわからない世界だったのですが、この頃はやっと世界の人々にも、それらを理解する人たちが出てきたように思います。『働く喜び』 田坂広志
なぜ、我々は「働く喜び」を失ってしまったのか。
その理由は、おそらく、あの「寂しい言葉」にあるのでしょう。
「生き残り」
「勝ち残り」
「サバイバル」・・・
(日本語の言霊における「働く」とは、
「傍を楽にさせる」こと。
だからそこに喜びがあった。
しかし、欧米発の経済学は、戦力発想で組み立てられているから、その用語の多くはダイレクトに軍事用語である。
生き残れるか否か、勝つか負けるか、
という考え方では、働く喜びなんて消えてしまう)『ヒーリング・プラクティス』 レバナ・シェル・ブドラ
私たちのオーラは、私たちが考えたり、感じたりすることにしたがって、常に変化を続けているのです。
私たちが手にする思いやフィーリングのすべてが、そのつど私たちのオーラ内の色として出現することになるからです。
あなたが何かでひどく落ち込んでいるときには、あなたのオーラの頭の上の部分がダークブルーに変わっています。
それはまさしく、あなたの上に覆いかぶさった暗雲そのものです。
そして、あなたが愛を感じると、あなたの周囲の生命エネルギー(オーラ)は、バラ色やピーチ色などのピンク系統の色に変化します。
あなたが自分の意識を効果的に利用するためには、意識を常に敏感に保つよう、つまり、常に覚醒しているよう、努めなくてはなりません。
最初は、努力がいります。
しかしやがて自然な覚醒が訪れ、その後には、あなたを通じて輝き、あなたの周囲のあらゆる人たちに降り注ぐ、神々しい光との「接触」が待っています。
あなたの肉体は、あなたのエネルギー体に従うようにできています。
そして、あなたのエネルギー体は、あなたの肉体の正確な複製です。
そのため、もしあなたが、たとえば腕に傷を負い、その傷を自分のエネルギー体の中で癒したとしたら、それがあなたの肉体の中からも速やかに消え去る、ということが実際に起こるのです。
あなたはまた、自分の家を光で満たすことで、暗い波動の低レベルの存在たちをそこから追い出すこともできます。
これは、自分の家が太陽の光で満たされる様子を明確にイメージすることで行なえます。
あなたがそうイメージすると、あなたの家は実際に光のエネルギーで満たされることになるのです。
また、もしあなたが自分の家を愛で満たしたならば、愛を持たない存在のすべてが、そこを離れることにもなります。
その一方で、もしあなたが何らかの恐れを抱いているとしたら、たちの悪い幽霊たちは何時までもあなたの家に留まる傾向にあります。
というのも、彼らは恐れが大好物だからです。
でも、もしあなたが自分の恐れを取り除き、愛で自分自身を満たしたならば、性悪な幽霊たちは退屈し、すぐにあなたの家から立ち去って行くでしょう。
悟りとは、正しいお経を唱えることでもなければ、単に心の中をきれいにしただけの状態でもありません。
それは、正しい波動の中に存在することであり、その状態にあるとき、あなたには、仏陀の言葉を唱えたりする必要など全くありません。
なぜならば、そのときあなたは、仏陀の言葉そのものであるからです。
そのとき、あなたの心はまさしく無の状態にあり、それゆえに、あなたは「活動する宇宙の霊」そのものになっています。
そのとき、あなたは風を感じません。
あなた自身が風であるからです。
さらにそのとき、あなたは光そのものでもあり、そのために、あなたの内なる闇は跡形もなく消え去っています。
あなたが考えることは、あなたそのものです!
これがどういう意味なのかをご存知でしょうか?
私は、自分を年寄りだと考えているために、不自然に腰を曲げて歩いたり、実際に体の柔軟性を著しく欠いてしまっている人たちを知っています。
明るく・元気に・前向きに考えるのか、それとも、ネクラな考えのままにそんな人生を創造するのか。
(低級な宗教にかかわると、このような思念と創造の関係など教えず、「因縁が悪いから」と言いつつ暗い考えに支配された人生を歩み続けさせる。
低級な宗教は信者をカモにする)
これまで私たちは、
「人間は何を行うときにも、もし努力さえ払わなければ、それをはるかに簡単に行うことができる」
という事実を何度となく確認してきました。
何を行うにときにも、それを努力抜きで行えるようになったときから、あなたは何を行ってもうまくできるようになるのです。
オーラ透視を学ぼうとする生徒たちが最初に試みることの一つが、オーラを「努力抜き」で見ようとする作業です。
(いわゆる「コツを掴む」的なこと。
繰り返しているうちに自ずと掴めるコツは、努力して掴むという感じではない。
人類が霊的な進化を遂げて行けば、
「努力」という言葉は次第に使われなくなるだろう。
「労働」という言葉もこれに連動し、
「労働」に代わる言葉は「奉仕」である。『出光佐三の日本人にかえれ』 北尾吉孝
出光の第一線の人は良く働くが、「あれはどうしてか」というのが一般の謎らしい。僕はこの問いに簡単に答える。「僕がわがままをしなかったからです」と。
僕がわがままをしないということは、従業員に対する愛情なのだ。給料を上げてやったり、うまいものを喰わしてやったり、遊ばせたりするのが愛情ではない。
僕が従業員を愛するから従業員も僕に対して愛情をもち、会社を愛する、ただそれだけのことだ。上の人がわがままをしなければいい。
世間で言われている人間尊重は、何かうまいものを食べさせたり家を与えたりして「人を尊重するために物を与える」というように妙なふうに使われている。
それは実は人間そのものを尊重するのではなくて、物を尊重して、それを人間に与えることである。
我々の人間尊重は他人がなんと言おうが、自分が自分を顧みて立派な人間になるということなのだ。物質文明に行き詰まりを感じている西洋人が期待しているのが、日本だ。日本人は、茶道や生け花に見られるような、簡素静寂を尊ぶ。持たなくても心が満たされる、むしろないことを楽しむ、ないところを想像する、そんな心の豊かな世界、精神文明が西洋の国々にも求められている。行き詰まった人類が盛んに人間性を唱え出したこと、このとき日本が認識され、日本人の姿が強く浮かび出てきたという事実を、日本人はいかに見るべきか。解決策は「人間性」であり、それを持っているのは日本人であると、欧米の先進国が認識しているのだ。日本人は世界に存在感を示していかなければならない。しかし、肝心の日本人が堕落していることを出光さんは嘆かれました。その状況に対し「日本人にかえれ」と唱えられた一方で、出光さんは青年たちに非常に期待してもいました。己を離れ得る伝統の精神を堅持して今日の危機を救う力は、政党にはない。教育界・言論界また然りである。しかし大いに頼むべきものがある、それはただ、素質の良い青年と田舎にある純朴なる国民大衆の最後の守りである。僕の家も人情に厚い地方の影響を受けて、よい家風だった。父は僕に「働け、働け」と言い、怠けたら非常に叱られた。「働け、そして質素にせよ。ぜいたくをするな」と言われた。
この父の教えが、僕の会社の今のあり方になっている。そうして「ぜいたくをせず、人のため、国のために尽くせ」と。また「自分に薄くして人に厚くせよ」とも教えられた。これが今日の出光の根幹になっている。現在では日本でもアメリカ的な働き方が広がりつつあり、会社に忠誠を尽くすという考えはよく思われない傾向にすらあります。
しかし面白い例がアメリカでもあります。「社員が会社のために尽くす」という社風の会社が、多くはありませんが確かに存在しているのです。そして、そういう会社は好業績が長続きしています。そうしたところでは優秀な人ほど辞めずに勤め続けているというケースが少なからずあるのです。中でも家族的な会社は、社員と経営者、社員同士が深く信頼し合い、つながりを大切に働いています。
そういう意味では、日本的な「和」の力は日本人の民族的特性とも言えますが、世界的にも通用する考えでもあるのです。日本の祖先は無欲、無我、無私である。しかし外国人には無という考え方はない。無私のあり方は外国人からもれば、自己否定であり、自分がないということになる。想像できないことである。ところが日本人は、無とは最高であると考え、無私のあり方を尊重し、無私でありたいと願っている。日本人は自己を人格的に修養し、鍛錬して人間としても尊厳をしっかり持って、その上で学問技術などを身につける。こうして自分に実力をつけて強い個人となり、その力を自分のためでなく、お互いのために使う。この無我、無私のあり方こそ日本道徳のもと、根幹なのである。一番、まとめ役として向いているのは日本なのです。なぜなら日本には昔から世界の異文化を、あっという間に既存文化と融和、融合してきたという歴史があるからです。江戸時代の儒学者、国学者である山鹿素行が 『中朝事実』に論じているように実は日本人は異文化を自由に摂取し、これを日本化する上で天縦(てんしょう)の神聖(天から許された非常に尊いもの)をそなえています。天縦とは中国の言葉では「鼎親」と言います。出光は戦災にあったところがない。日本国内にも、日本国外にもたくさんの施設があったが、一カ所として戦災にあったところがない。
東京の店はかつて歌舞伎座の隣にあったが、空襲によって周りはすべて焼け、歌舞伎座も焼けたけれども、出光の建物だけが一つ焼けずに残った。こういうことを挙げれば数限りがない。そういうわけで、「天佑神助(天や神の助け)」があると信じている。
1963年には出光興産の徳山製油所を昭和天皇・皇后陛下がご視察されています。
出光さんが亡くなられた際、昭和天皇は、「出光 佐三、逝く」として、「国のためひとよつらぬき尽くしたる きみまた去りぬさびしと思う」と詠まれました。『宇宙人と闇の権力の闘いが始まりました』 田村珠芳
古来、日本人は「お天道様が見ている」という倫理観を持ち、利害関係を超えて、モラル的にどうかを考える民族でした。
良心や魂に問いかけながら、正しいことを貫き、間違っていることには手を出さないのが、結果的には一番いいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。『「日本」を超えろ』 福田和也
福田
信仰と信頼の危機の時代に日本人が取るべき解決法があるのでしょうか。
山折哲雄
それには、義理人情に代表される日本人のヒューマニズムの回復しかないと私は考えています。
人情が義理を圧倒的に凌駕していく精神こそ日本人のヒューマニズムの神髄です。
弱者に対する慈愛、敗者に対する共感、劣者に対する同情といった精神のあり方です。これは浄瑠璃にもあるし、股旅物の世界にも武士道にもある。
弱いものに対する負い目を担いつづける精神です。
ただし、現代においてこれを実践するには、相当の精神力を要求されるだろうと思います。『和のルール』 加藤ゑみ子
文化は富の凝縮によってつくられるものという定説はありますが、決して富だけで文化が生まれるわけではありません。富はなくとも美しい生活文化をつくりあげることは可能だと信じたいものです。「もののあはれ」は、平安文学にみる和の美意識、審美感覚です。それを生み出し、つくり上げた貴族の生活感そのものです。本居宣長(1730~1801)によって、哲学的な「和」の観念のひとつとして定義づけられました。「もの」というのは、対象とする自然、事物など客観的なものであり、「あはれ」は感情や心、または心の動き、つまり主観的なものです。この客観的なものと主観的なものを一致させることによって生まれる調和のある情趣の世界、それが「もののあはれ」です。物に心を移入したり、物の心を察したりするのは、想像力と直感力に優れていることでもあります。自分自身の判断で自分自身から発するのではなく、自然や環境を寛容に受け止めること、その変化に順応することで生じる寛容さのなかにある悲しみ、甘いメランコリー、それが「もののあはれ」です。西欧が石の文化であるのに対して、「和」の文化は紙の文化です。紙は平面であり、その平面的思考によって物も空間もつくりあげてきました。
着物は布を平面のまま縫製します。一巻(一反)の布で、どの人のサイズにも合わせて縫うため、切り捨てる無駄がありません。合理的な発想です。演劇の舞台も平面的です。和の能楽の舞台の背景は、いつも変わらず、松が描かれたひのきの鏡板一枚です。日本人は、二次元のもの(平面)の連続によって構成されるものを、立体とも空間とも感じることができるのです。
アニメーションや漫画を世界の多くの人々におもしろいもの、楽しいものとして知らしめたのは、日本人が平面の達人だからです。自然や宇宙と融合する手立てのひとつに「見立て」があります。これも日本文化特有の美意識、造形方法、美白から生まれ、培われてきたものです。見立てるとはなぞらえることですから、現代の日常生活においても、いろいろな場面の演出に使われているのですが、日本人にとってはあまりにも日常的なことであるので、あえて見立ての何々と意識することすらしていないのかもしれません。季節感に重きを置き、青磁、白磁をはじめとして、磁器のものやガラス器、竹製品などは夏に使い、色調や肌合いの温かみのある陶器は冬に使います。磁気は冬には冷めやすいということもあり、その点、お椀などの漆器は、冷めにくく汁ものには最適といえます。季節での使い分けのほかに、お正月はもとより特別なときに使う器もあり、自然とその量は多くなってしまうのです。「生成り(きなり)の文化」 堺屋太一
「生成り(きなり)の文化」というのは、あるがままの姿を美しいと感じる美意識たとえば、日本料理は人工的な味付けをしみこませない「生成り」の料理である。和を以って貴しとなす日本文化/ブログ『高次元への旅』より
国家統治には理念がいる。集団で暮らすからにはルールというか規準というか法律が必要になるからだ。対立軸が生じたときに力が強いものが勝つという話では「統治」する必要もなく、規準もいらないからだが、それでは国家というよりもならず者の集合体といったほうがよいだろう。
日本はその根本理念として仏法を採用した。その具体的現れが十七条憲法だろう。「和を以て貴しと為す」など争いを諌め、合議制を奨励し、公務員には勤勉を命じた憲法だ。これは日本在来の神道的多値観を仏教的に解釈した規範でもある。
世界には、唯一絶対神という絶対的存在を前提にその教えを説いた「聖書」を規範としたキリスト教社会とイスラム教世界がある。この社会ではすべてが「聖書」の教えに合っているか背いているかという二値論的規範になる。
また、「徳」という分かったようで分らない曖昧というか優柔無碍な理念を柱とした中華文明社会がある。この世界は強力で正しいリーダーシップの存在を前提に、皆がそれに従うという社会だ。ここではリーダーの意志が絶対的になりやすいのでやはり二値論的規範の社会となる。
二値論社会では勝つか負けるかしかないので論争は激烈なものになりがちだ。理屈が正しかろうと間違っていようと声の大きさで勝てば勝ったことになる社会でもある。要するに相手を圧倒できれば全てを得ることができ、負ければ全てを失うことになる。
ゆえに、二値論社会では声が大きく、どんな屁理屈でも皆に論理的に正しく思わせることができる能力を持ったものが伸し上がる社会なのだ。勿論、武力で相手を圧倒しても構わない。後付けでも理屈が通ればそれでよい社会なのだ。
しかし、多神教の神道と和の主義で殺生を禁じる仏教が融合した日本では、軸となる絶対的な規範がない。対立軸があって争い、全面的にどちらかの主張通りにしようとしても、絶対的な価値観がないので、どちらの主張にも理があるということになる社会なのだ。
力が強いからといって、力任せに相手をねじ伏せようとすれば非難される社会なのだ。ゆえに、どちらが正しいかではなく、双方がどれだけ歩み寄れるかが問題になる。
日本の現在の政治状況をみてもおわかりでしょう。原発問題、消費税問題、年金・健康保険問題、いずれも何が正しいのか、どうすればベストなのか、議論を繰り返しつつも、裏ではどこまで互いに妥協できるかを探り合っている。
結果的に問題の解消には繋がらない結論が出ることが多いが、それでも大ゲンカしてどちらか一方が全滅するよりましだろう、という社会なのだ。
善悪は別として、日本はそのような政治・社会風土を持った国なのだ。そして仏教がそういう日本の政治・社会風土を強化したであろうことは間違いないと思う。『高次元の国日本』/飽本一裕
欲望性自動化症、特に金銭・商品依存症と地位・名誉依存症は認知度が低く、感染すると意識と愛が希薄化し、麻痺するため、自覚症状がほとんどなく、さらに強い伝染性のために集団感染する点が危険です。
欲望性自動化症に感染し、利己的で強欲な人が国内に増えるほど経済が発展し、国が栄えると思われるかもしれません。一時的にはそうかもしれませんが、その種の発展は決して永続きしないことは明白です。現代日本が停滞している背後には、自分さえよければと云う強欲な人々が増えすぎた事実が潜んでいます。今後、我が国を本当の意味で発展させようとするならば、日本人がどのように変貌すればよいか明らかでしょう。食肉1キロの生産に穀物10キロが必要です。それだけ地球にも重い負担になっています。そんな理由で著者は、肉食をほぼ止めました。この10年で一度食べたきりです。地球のため動物のためと肉食を減らしたのですが、その後、次のような情報を入手しました。肉食が多い人は少ない人に比べ、病気による死亡率がかなり高いという情報です。著者が属する日本物理学会の月刊誌に、著名な物理学者による『愛は脳を活性化する』と題された論文が発表されました。スポーツ科学でも、愛の表現である笑顔で運動すると、運動能力が高まることが確認されました。人生において笑いがどれだけ救いになるか、ここで述べる必要はないでしょう。愛を感じると脳は活性化し、運動能力も高まります。運動能力だけでなく免疫力さえ高まるという話もあります。日本人の1割がエコ生活をして節約し、全収入の1%でも、ユニセフ教会や他の慈善団体に寄付すれば、世界は確実に変わるでしょう。例えば、世界で毎日4万人もの命を奪う飢餓をなくすことさえできます!そしてそうするだけで、日本という国は自衛隊を海外に派兵するより遥かに効率的に、地球上から餓死を撲滅した歴史国家として世界中の人々に評価され続けるでしょう。ケチを付けるようですみませんが、自動化された日本人の現状は次のようなものでしょう。毎日世界中で何万、何十万もの人々が餓死に瀕しても、自らの贅沢を追求するあまり、全収入の1%でさえも彼らを助けるために使いません。自動化のせいで、他人のことにまで関心が及ばなくなっているからです。私たちの先祖たちは天照大御神を通して太陽を敬い、スサノオ神を通して地球に感謝してきました。『神』という呼称に抵抗を覚えるなら、ただ、『愛』と呼べばいいのです。四方八方から注がれる『愛』に感謝で答えることは、至極当然ではないでしょうか。このように人として当然のことを実行しなくなったからこそ、現代人は多くの悩みを抱えているのでしょう。禅僧は食事中は沈黙を守ります。沈黙し、集中し、自分を支えてくれる無数の命に感謝しながら食事をすると、沈黙の理由が分かります。食事がおいしいのです!そこで、感謝の念が深まります。食事だけでなく全てにおいて同様です。すべてへの感謝が深まって、私たちは物質主義の迷妄から解放され、そのとき本物の環境浄化(=地球革命)が始動するのではないでしょうか。感謝とは、私たちのこころの血液であり、欲望自動化症を駆逐する特効薬でもあるからです。
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「日本人考」控
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