転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』より抜粋
★古代日本とイスラエル
■古代日本とユダ族とエフライム族
聖徳太子は、夢殿に籠もり、日本の将来と最後の時のために、イスラエルの秘法を一文字もたがわずに写させ、漢字化させて『旧事本紀』を残した。
そして、秦一族がこれを踏襲し、皇室行事を取り仕切った。
一方で、皇室行事と国民を切り離し、原始キリスト教徒の秦一族は中国から偶像崇拝の密教を導入した。
そして、大陸との交流を通じて技術を習得し、当時の日本の産業,土木建築などを一手に引き受け莫大な財と権力を手中にし、目立たないように日本を裏から牛耳ったのではないか。
(秦氏は八幡神社を全国に建設した)
◆大物主神の正体
『神代文字の真実と二度の出エジプト』参照
邪馬台国(三世紀中葉)より以前の弥生中期(紀元前一世紀~紀元一世紀)頃、
既に青銅器を生産する小国家が、大和地方に誕生していた。
これが「唐古・鍵遺跡」で、三世紀末まで存続したと推測されている。
また、銅剣・銅鐸・青銅の矢じりの鋳型が発見されており、巨大な青銅器工房があったとされている。
その後、三世紀中葉から「まき向遺跡」へ移住し、わが国最大の大型前方後円墳である箸墓古墳をつくって全盛期を迎えた。
この「まき向遺跡」は、三輪山周辺にあるので、ここを支配した崇神天皇を中心とする “三輪山王朝” と呼ぶ者もいる。
魏志倭人伝には、卑弥呼が女王だと記載されている。
これは、中国では、神が預言者を通じて民を導く、もしくは国王を導く国家形態を理解できていなからだと思われます。
史記本記にあるように中国では、王位は民を思う徳により決まり、前王を滅ぼして王位に就きます。
だから、日神子(ヒミコ)の預言者としての卑弥呼=日巫女を、女王と勘違いしてしまったのだと推測されます。
大国主命は神武天皇に大和国を譲った。神武天皇は大国主命の娘(姫タタライ五十鈴命)を妻としています。
この出雲の大神は、日本最古の神社と言われる大神神社に祀られています。
ちなみに、天武天皇の妻の持統女帝は、『日本書紀』の編纂を引き継いだが、
691年、大神神社と石上神宮の古文書と、十六家の系図を没収し、抹殺しています。
大物主神の摂・末社には、大物主神や姫タタライ五十鈴命、日向の御子神などが祀られています。
この日向の御子神が、神武天皇のことなので、ご養子になられたのだと思います。
福井県小浜市加茂にある「弥和神社」の祭神は、大歳彦大明神(大明神とは、年代が古く由緒の正しい神々のこと)で、由来は
「大和の大三輪神をここに祀れるなるべし」
とあり、大物主は別名として大歳彦をもっていた。
『古事記』によれば、大歳彦は、スサノウが大山津の娘(神大市比売)をめとって生ませた子である。
祇園祭で有名な八坂神社に、スサノウの五番目の子として祭られている。
また島根県飯石郡三刀屋町の大歳神社の『神国島根』によれば、
「須佐之男、出雲において大歳生み給い」
と記されている。
島根県八束郡八雲村にあるスサノウの御陵に建てられた「熊野神社」には、スサノウ命は「神祖熊野大神櫛御食野尊」とある。
大神神社には大物主神は「大物櫛ミカ玉命」とある。
生駒山山麓の東大阪市東石切町にある石切剣ヤ命神社の祭神は、ニギヤハヒ命と、ニギハヤヒ命の子のウマシマジ命です。
ニギヤハヒ命は「天照国照彦天火明櫛ミカ玉ニギハヤヒ命」とあり、
大物主神と「櫛ミカ玉」が同じことから、本著者は、ニギヤハヒ命=大物主神と同定している。
ニギハヤヒ命は、弟のヤコブに、イスラエルの王位を譲っています。
その後、ニギハヤヒ一族はシナイ半島に居住し繁栄していたのでしょう。
そして、ヨセフを忘れたエジプト王が、エジプト居留のイスラエル人達を酷使し始めた。
そこで、イスラエル人の一部が、ニギハヤヒ命一族の居留地に移住した。
そして、石切剣ヤノ命神社の社伝によれば、
「神武天皇二年、天神から十種の瑞宝を賜り、天磐船に乗って河内の哮峰に降臨したニギハヤヒ命とウマシマジを祀った」
とあり、ニギハヤヒ一族は日本へ移住し、王位を神武天皇に譲ったことを意味していると思います。
一つの証拠として、大神神社の鳥居は、二本の杉にしめ縄が張ってあるだけで、決して出エジプト時の「過ぎ越」を象徴する赤い柱ではないので、ニギハヤヒ命の一族は出エジプト前に日本に飛来したのではないでしょうか。
結局、神話に封印された内容は、ヤコブ兄弟の王位の禅譲、大国主命の神武天皇への王権の禅譲、日本の島根にある出雲王国と神武系氏族との統一王朝の三重構造になっており、非常に複雑です。
このように、聖書に記述のない、事柄が、記紀や神社の伝承として残されており、日本は聖書の正当な民であることの一つの証だと思います。
また、
「わたしがイスラエルの父であり、エフライムはわたしの長子だからである」
(エレミヤ書 31章9)
とあり、エフライムがヤコブの正当な後継者なのです。
『旧事本紀』を隠した「三輪宮」は大物主を祀っています。
また、大物主=ニギハヤヒ命の子孫であれば、即ち、出雲系の神々、「主」関連の神々は、ヤハウェの命に従ったのだと思います。
◆ニギハヤヒ一族の降臨
丹後国一の宮とされ、国宝や重要文化財も多くある籠神社の祭神は、
「彦火明命」。
相神に天照大神と豊受大神、他二神とあり、「彦火明命」の方が、天照大神と豊受大神よりも上位に位置している。
籠神社の宮司の海部氏によれば、「彦火明命」は「当社のいいつたえによれば、彦火火出見尊の別名」とのこと。
しかし、彦火火出見尊=ニニギ尊(ヤコブ)は、天照大神の孫に当たり、上位ではない。
かつ尊は天皇家を表し、命は非天皇家を表していることが多く、別人だと思われます。
更に宮司は
「当社では彦火明命を彦火火出見尊の別名とみなし、養老元年(717年)以前までは彦火火出見尊を主神としてきましたが、その後は系図から祖先をとって彦火明命が主神にかわっています」。
また海部氏系図によれば、先祖の「彦火明命」は天孫降臨したニニギ命の弟となっている。
(日本書紀ではニニギの命の兄となっており、こちらが正しいと思います)
このように、籠神社は、祭神がニギハヤヒ命であることを隠し、ニニギ尊を祀っているかのように見せかけている。
愛知県一宮市大宮町に、尾張の国一の宮である真澄田神社がある。
草薙の剣が奉納されているという名古屋市の熱田神社は三宮で、古代においては真澄田神社の方が上位の神社だった。
その真澄田神社の祭神は「天火明命」(彦は天皇の御子のことを表します)で、
その社伝は
「天火明命は尾張開拓の祖神で、総産土神である。
祭神の子・天香山命は、大和葛城国より当地に来て建国の基をさだめ、この地を尾張の国と名づけ、御父君天火明命の神霊を祀られた。
時に神武天皇三三年」
とある。
神武天皇二年にニギハヤヒ一族(32神と25部の物部集団)が河内の哮峰に飛来し、三三年にはその子が尾張の国を建国しており、非常に興味深い。
また、河内に祭神をニギハヤヒ命とする天磐船神社がある。
ここは生駒山脈の北部で、天野川の上流にある巨石に囲まれている。
この地は交野台地があり、かつては物部氏の本拠地で、大和へ入る要地とされた。
巨石に囲まれた台地であれば、天磐船の着陸地には適当な場所だったのではないでしょうか。
他にはこの近くに、祭神を登美ニギハヤヒ命とする登美神社があり、記紀に「登美の長髄彦」の記述があり、この地方はかつて長髄彦の領地だったのだと思われます。
◆大和の三大神社の社伝
古代に置いて天皇の行幸か一番多かったのは、大和の三大神社で
「大神神社」「石上神宮」「大和神社」であった。
大和神社の祭神は、右にヤチホコ大神、中央に大和大国魂大神、左に御年大神とある。
ヤチホコ大神は、諏訪の八剱神社などでスサノウ(ニギハヤヒ命の父)の別称としている。
また、古事記の御年神は、大歳神(ニギハヤヒ命)の生んだ子とあり、この親子関係から、中央の大和大国魂大神はニギハヤヒ命だと分かる。
社伝には
「上古、大和大国魂大神は天照大神と共に宮中の天皇の大殿に並斉されていたが、崇神天皇の五年、国内に疫病多く、死亡者が続出し、翌六年、天皇はこの二神が同床にあられるのはおそれ多いと、それぞれの場所に移した」
とある。
また、石神神宮の祭神はフツノミタマ大神、創祀は神武天皇即位元年(宮中に奉祀)、鎮座は崇神天皇七年とある。
天香山命は記紀によれば、神武東征のおり神武が熊野で倒れたとき、それを霊剣のフツツノミタマ剣で救出した神として記述されている。
また社伝には
「神武天皇の東征のみぎり、紀の国熊野において遭難のおり、天つ神のみことのりにより、ふたたび天降り給い、邪神賊徒をたいらげ建国の基礎を定めた。
神武天皇は即位のあと、その功績を称えて、長らく宮中に奉祀されていたが、第十代崇神天皇七年に物部氏の祖、イカガシコオ命が勅により現地石上布留の高庭に鎮め祀り、石上大神と称えまつったのが当宮の創である」
とあり、明らかにニギハヤヒ命の子天香山命を祭神としている。
◆神武天皇を即位させた物部一族
石上神社の由緒は、ニギハヤヒ命の長男ウマシマジ命が、神武天皇に王位を譲り、神武天皇即位時に、ニギハヤヒ命から授けられた王のしるしである十種神宝を渡したことを述べている。
つまり、記紀では、神武天皇が武力でニギハヤヒ一族を滅ぼしたことになっているが、事実は王位を譲ったのである。
「ウマシマジ命は、父ニギハヤヒ命の薨去のあと、瑞宝を受けてその遺業を継ぎ、中州の開拓につとめられたが、神武天皇の大和入りにあたり、天皇を迎えて忠誠を尽くし給い、天皇の即位の元年にその瑞宝を奉り、鎮魂の神業を以て祈り奉った。
これが鎮魂祭の始めである。
天皇はミコトの忠誠を喜ばれ、武臣の首座として即位の威儀に立たしめ給いた。
その建国に功績を称えて祭祀される」
更に、ウマシマジ命が生涯を終えた地の島根県太田市に建てられた「物部神社」の社伝にも
「天皇(神武)をウネビノカシハラ宮にて天位につかせ給うとき、祭神(ウマシマジ命)は十種神宝を安置し、神楯を竪て斉い奉る」
「ウマシマジ尊は物部氏の始祖なり。
神武天皇大倭国に御遷都のとき大功あり。
天皇その功を賞して、フツのミタマの神剣を賜う。
祭神もまた天祖(スサノオ尊)より拝承せる十種の神宝を奉りたまう。
かくて、天皇即位したまう…」
とある。
従って、天皇家は、すべてニギハヤヒ命ゆかりの大和の三大神社を行幸し、祀ったのだと考えられます。
また、『出雲国造神賀詩』には
「国造りをした大国主命が子孫の神々を天皇家の守り神として奉って、自分は出雲大社に身を隠した」
(古代七大王国の謎 P124-6-124-7)
とあり、ニギハヤヒ一族もまた、天皇家を守護していた。
更に、本著書では天照神社、天照御魂神社、天照国照神社関連を調査したが、祭神は天照大神ではなく、ニギハヤヒ命だと突き止められている。
そして、三輪にある太陽神信仰の神がニギハヤヒ命であり、ニギハヤヒ命は太陽神だったことを述べています
◆日本の由来
『日本書紀 神武紀』に、
「ニギハヤヒ命、天磐船に乗り、太虚(おおぞら)をめぐりゆきて、この郷をおせりて天降りたまうとき、名づけて「虚空見日本国(そらみつやまとのくに)という」
とある。
◆十種の神宝について
ニギハヤヒ命が大和の地に遠征したとき、父スサノウはわが子に祖先から伝わる十種神宝をもたせ、蘇生の術を教えた。
この呪文は物部氏の石切剣ヤ命神社に伝わっており、この神社は傷が治る神社として知られている。
また、『鎮魂の祝詞』には皇祖神が鋳造された十種の神宝をニギハヤヒ命に授けて、皇祖神がいわれるには、
「ニギハヤヒよ、この十種の宝をもち、か弱き国民が病になったときは、この十種の宝を用いて
『ひと ふた み よ いつ む なな は ここの たり』
と唱えよ。
これを唱えるなら、死人も生き返るだろう」
(神道行法の本 P78)
とある。
また、ウマシマジ尊は神宝だけではなく、鎮魂法も伝えたとされ、これが天武天皇に伝承されて鎮魂祭につながったと云われています。
◆天照大神は男神
スサノオ尊=アブラハム、
その妻を天照大神と偽証したことにより、混乱が生まれた。
本来であれば、
イザナギ=テラの子としてアブラハム、
アブラハムの子孫として
ニギハヤヒ と ニニギ というように史実通りに伝承する、
と伝えれば、何の問題もなかった。
ところが、アブラハムの妻を天照大神と偽り、天照大御神を歴史から抹殺しようとした。
かつ、ニギハヤヒ命とその子、ウマシマジ命、天香山命は、神武天皇を救い協力し、王権を禅譲して即位させたのに、その事実を歪めた。
ニギハヤヒ命とその子、ウマシマジ命と天香山命を、大国主神とその子、コトシロヌシ神とタケミナカタ神と名前を変えて、ニギハヤヒ命一族の国譲りを、大国主神の国譲りの物語のように、神武朝の力による支配、タケミナカタ神が敗走し諏訪神社へ逃げ込んだように改竄した。
しかも、天皇家を守護しているニギハヤヒ命一族を、大国主神が蛇神で、しかも呪う神、黄泉の神として描いた。
さらに、物部守屋と蘇我馬子を戦わせ、形骸化した葬式仏教(解脱を求める原始仏教には葬式はない)=「密教」を日本に導入して、神道の教義を隠蔽してしまった。
ここで『聖徳太子の秘密』から、物部守屋と蘇我馬子の宗教戦争はなかったことを説明します。
『日本書紀』には、聖徳太子は、仏教推進派の蘇我馬子につき従い、廃仏派の物部守屋を倒したとある。
ところが、蘇我入鹿神社では、蘇我入鹿と素戔嗚尊を祀っており、蘇我氏が物部氏と祖先は同じであることが分かる。
また、この神社の正面には「聖徳太子御自作大日如来仏起山普賢寺」とあり、蘇我入鹿は聖徳太子の末裔を滅ぼした人物であるにもかかわらず、聖徳太子を大切にしている。
ちなみに、大日如来信仰は、平安時代以降に密教と共に持ち込まれたもので、太子の作品ではない。
蘇我氏に近い立場で書かれたと思われる『元興寺縁起』によれば、物部氏の仏教推進派に対する迫害は確かにあったが、決定的な対決ではなく、和解したと書かれている。
さらに、物部氏系の文書『先代旧事本記』には、蘇我氏との仏教戦争に触れていないばかりか、物部守屋と蘇我馬子が対立したかどうかも明らかではない。
『先代旧事本記』では守屋は物部氏の傍流であり、本流は長く存続したと記述されている。
そして、蘇我馬子・入鹿を物部氏の系譜に載せている。
つまり、唐の植民地化政策である葬式仏教と漢字化に対して、日本を守るために真実が隠蔽されたのだが、同時に日本人はエフライム族の正当な末裔であることを忘却してしまった。
結局、バアル=スサノウ=頭天王=マルドゥクを偽装し、更にヤハウェを偽装したサタン・ダビデが、呪う神・祟る神・蛇神として天皇家を影で操ろうと画策した。
最終的には救世主スサノウを装い、天照大神の子孫を滅ぼし、スサノウ・大国主神の支配する日本として乗っ取る謀略だったことが、理解される。
この謀略に関して、現在天皇家には男子の世継ぎが絶えつつあります。
もし、応神天皇や継体天皇の時のように、スサノウや大国主神の系統の男子が養子として迎えられた場合、スサノウ・大国主神の王権が確立します。
更に、女系を認めれば、天皇家の崩壊に繋がります。
「昭和上皇ももちろん女系天皇制反対です。
そして次のように申されました。
万世一系の代々の天皇方による皇室の成り立ちが女系に切り替わると、どういった者が現れるか、分かりません。
…神から与えられる皇位の継承者は、男系男子から変わっては成りません。
…それを破るのは日本が共産国になる時のみ。
と昭和上皇様が仰っています」
(エルアール瓦版 第一号より抜粋)
(注)「白村江の会戦」で日本は唐の植民地化政策を受け入れた
天智天皇の時、「白村江の会戦」で、日本・百済軍が、唐・新羅軍に敗北した後、おそらく唐からの侵略を恐れ、都を近江に移し、そこで即位された。
その間に、唐から全部で二百五四人が日本に到着し、約三ヶ月滞在したが、目的及び何を行ったか全く不明です。
例えば、神よりも仏教を信仰した慈悲のある天皇として紹介されている孝徳天皇の時、
『明神として天下の治める日本天皇は…』(日本書記 下P169)
とあり、この記述の後段には古代中国の皇帝の功績の紹介とともに、彼らの徳政に習ったとの記述があります。
この「明神」という神は、日本古来の由緒正しき崇敬の神々という意味です。
また、「日本天皇」という響きには、天地を創造した皇祖神ではなく、日本に閉じられた天皇であり、この天皇をまとめる大天皇が、別途存在しているように受けとられます。
おそらく、「白村江の会戦」で敗北した日本は、唐の植民地化政策を受け入れさせられた。
この米軍のGHQに相当する者達が、天武天皇の時代に来日したのだと推測されます。
このため、『明神として天下の治める日本天皇は…』の下りは、日本の独立と、中国の植民地としてのバランスを勘案した記述のように思われます。
この唐の植民地化政策により、日本における、神代文字が廃れ漢字化へ、神道が廃れ仏教国化へと向かわざる得なかった。
◆大化改新はヤマト(ヤハウェの民)の復活だった
大化改新の主要な目的は、天照大神のもと、神道を日本の国家的な宗教の座に回復させる事にあった。
『日本書記』の大化改新について、
『日本書紀と日本語のユダヤ起源』の中に、旧約聖書との関連が証明されております。
日本書紀と旧約聖書を読んでいても、意識して関連づけなければ、思いもよらない結末です。
例えば、武烈天皇(在位24-98年~506年)に関して、
「長じて裁きごとや処罰を好まれ、法令にも詳しかった」とあるが、
「法令」は書かれたもののことで、漢字渡来以前に日本固有の文字が有ったことの証拠の一つ。
また、日本で18は長寿を示しているが、なぜなら「生きている」を意味するヘブル単語「ハイ」の数値は18だからである。
俳句の17字、十七条憲法のように、17は「良い兆し」を示すとされているが、
「良い」を意味するヘブル語「トープ」の数値は17である。
さらにヘブル文字に酷似したカナ文字を使う日本人は、ヘブル文字を知っていたと述べています。
本書は非常に簡明で説得力があるので、これを抜粋して紹介いたします。
◆大化時代の開始
皇極天皇の治世第四年の七月一日に始まった。
七月一日は、ユダヤでは新年にあたる。
聖書ではこの日を「聖なる集会」の日としている。
「第七の一日の安息の日として守り、角笛を吹き鳴らして記念し、聖なる集会の日としさい」
(レビ記 23章224-)
◆捧げ物
七月十四日に使節を遣わし、神道の神々に捧げるための捧げ物を集めた。
聖書では、ユダヤ歴七月十四日の夕方から「仮庵の祭」が始まる。
その時、神殿に捧げ物がされるので、十四日にはその捧げ物が用意された。
◆奴隷の子
大化の政府は、男女に関する法の中で、「もし二つの家の間で男奴隷と女奴隷が子を生んだなら、その子は母につけよ」
としている。
『出エジプト記 21章24-』では、
もし主人が男奴隷に女奴隷を妻として与え、彼らが子を生んだ場合、子は母につけよとしている。
◆土地再分配
大化の政府は「班田収授法」を作った。これは六年ごとに、農業用地を人々に再分配するものだった。
『レビ記 25章3-24-』では、六年の間収穫し、七年目には土地に安息を与えるとある。
◆人数に応じた土地
大化の土地配分は、戸籍に基づき、家族の人数に応じてなされた。
『民数記 26章524-』では、
「人数の多い部族には多くの、少ない部族には少しの嗣業の土地を与えなさい。
嗣業の土地はそれぞれ、登録された者に応じて与えられねばならない」。
◆親族の死
大化改新では、
「死者のために生きている者が断髪したり、股を刺したりて、しのびことを述べたりする旧俗は、ことごとくみなやめよ」としている。
親族が死んだとき、
「自分の頭髪の一部を剃り上げたり、髭の両端をそり落としたり、身を傷つけたりしてはならない」
(レビ記 21章5)としている。
◆嘘言
大化改新では、
「見ていながら見ないと言ったり、
見ないのに見たと言ったり、
聞いていながら聞かなかったと言ったり、
聞いてないのに聞いたなどと言う者がある。
正しく語り正しく見ることなくして、
巧みに偽る者も多い」
と述べ、嘘を禁じている。
『レビ記19章11』では、
「盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない」
と述べている。
◆証人
大化改新では、妻を疑って、三人の証言があっても皆で相談した後、官に訴えるべきであると述べている。
『申命記17章6』に、
「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。
一人の証言で死刑に処せられてはならない」
と述べている。
◆宴会
大化改新では
「農耕の月には田作りに専念させ、美物(魚)や酒を食することを禁ずる」
と述べている。
聖書にはないが、古代イスラエルの伝統によれば、例えば収穫をしてから七週間は、いかなる宴会も慎まなければならなかった。
◆地域の監視
大化改新では、
「京師を創設し…区画ごとに長を一人置き、四つの区画に令一人を置き、戸口を管理し、正しくないことをする者を監視せよ」
と述べている。
『申命記16章18』に、
「主が部族ごとに与えられるすべての町に、裁判人と役人を置き、正しい裁判をもって民を裁かせなさい」
と述べている。
◆二倍の償い
大化改新では、
「不当に自分の身に入れたものは、倍にして徴収せよ」
と述べている。
『出エジプト記 22章8』に、紛失物での言い争いについて、
「神が有罪とした者が、二倍の償いをせねばならない」
と述べられている。
◆カタカナとひらがな
カタカナはヘブル文字に酷似している。
「カタカナ」は、「カナンの文字」を意味する
ヘブル語「クタ・カナン」が若干訛ったものではないだろうか。
また、「ひらがな」は、ヘブル・アラム語の「絡み合った」を意味する
「エーラ・クタ・カナン」(絡み合ったカタカナ)が、
後に「エーラ・カナ」となり、
これが短く訛ったものではないかいだろうか。
◆大化改新の正体はイスラエルの秘宝(モーセの律法に立ち返る)!?
蘇我入鹿は、皇極天皇(後の斉明天皇)の前で殺された。
この時、女帝に対して、息子の中大兄皇子は入鹿を非難し、
「皇室が乗っ取られようとしているのです」
と訴えた。
日本史では、律令制(土地の再配分、租税、戸籍)に反対する蘇我氏を、中臣鎌足と藤原不比等が成敗すると記述されています。
ところが、律令制度の導入の直前、蘇我氏は天皇家の直轄領(屯倉)の設置に奔走していたことがハッキリしており、当時、蘇我氏の専横という『日本書紀』の記述はおかしい。
この後、
「白村江の会戦」「壬申の乱」へと移っていくが、
大化改新による改革は成功した。
おそらく、「白村江の会戦」で敗北し、唐の植民地政策である漢字化と仏教化を受け入れざる得なくなった。
そこで、日本の独自性を保つため、聖徳太子という仮名を作り出し、蘇我馬子・蘇我入鹿を悪者にして、仏教を導入し漢字化を進めたように歴史を改竄した。
そして、壬申の乱にて、独立を獲得したのではないでしょうか。
(『聖徳太子の出自と謎解き』)
聖徳太子の死後1年後に、秦河勝により完成したと言われる『旧事本紀』こそが、つまりイスラエルの各部族の秘宝こそが、大化改新の核心だったのではないでしょうか。
神武天皇の強権により押し進められた律令制が、藤原不比等一族により、私物化されてしまいます。
参考文献によれば、『日本書紀』には中臣鎌足の両親の名は無く、天児屋命からの系譜も無い、まるで降って湧いたように、中臣氏が登場している。
中大兄皇子の懐刀であった中臣鎌足であったが、「白村江の会戦」の時、日本書紀の記述にその名が無く、会戦終了後戻ってくる。
ちょうど「白村江の会戦」の直前、日本に人質として滞在していた百済王子(豊璋)が、百済に帰った。
そして、会戦終了後、日本に戻っている。
このことから、豊璋=中臣鎌足だと思われる。
つまり、この中臣鎌足、その子、藤原不比等一族は、百済王家であり、天児屋命を始祖とするその一族ではな無かったのだと思います。
◆『ユダヤ製国家日本』より
本書によれば、日清戦争では、神戸に寄留してシェル石油会社を開いたユダヤ人・マーカス・サミュエルの支援があった。
そして、日露戦争では膨大な戦費の半分以上が、ロシアに虐げられていたユダヤ人達、及びユダヤ人、ヤコブ・シフにより調達された。
そして、シフへの感謝を明治天皇も、昭和天皇も忘れることはなかった。
更に、明治憲法は、ユダヤ人・アルベルト・モッセの忠告を受け入れ、立憲君主制度を柱として、きわめて民主的な憲法となった。
モッセは明治憲法の父と呼ばれている。
このように、明治初期に、多くのユダヤ人が、西洋の学問や技術や芸術を日本へ伝えるのに貢献している。
そして、敗戦後の日本国憲法・農地改革他に、ユダヤ人の多くが、差別の激しかったアメリカでは実現することができなかった社会改革の夢を、持ち込んだ。
明治の日本は、後に新生ユダヤ人国家であるイスラエルが建国されるのに当たって、大きな精神的影響を及ぼして、貢献した。
その仲介役が日露戦争時に、日本の捕虜となった「片腕の英雄」「イスラエル軍の父」と呼ばれているヨセフ・トランペドールだ。
日本でいえば、坂本龍馬か、吉田松陰のような存在であろう。
トランペールは、日本語を喋り、サムライの精神をイスラエル建国の柱とした。
今日、イスラエルではどのような小さな村でも、かならず日本の武道が行われている。
東と西に遠く離れて、同じ魂が脈打っているのだ。
更に興味深いことに、秦氏は多くの氏族を持ち、
伊賀の服部、宇佐の辛島、田川の赤染、長光、松尾、赤松、物集、島津、長宗我部、呉、等々。
しかも、各氏族が、養蚕・畜産・鍛金・治水・土木・修験・芸能など産業の専門である。
能の世阿弥、松尾芭蕉、服部半蔵、薩摩の島津家も、秦氏=ユダ族・レビ族である
◆大和民族の元をたどればシュメール人だった
シュメール時代には、王権は天から与えられたと考えられていた。
王はティアマトとの戦いにおいて、
そしてイナンナとの聖婚(王はドゥムジを体現する)において、
神を具現する儀式があった。
また、新年には、ティアマトとの戦いを朗読する。
神道では神話を物語にして唱える。
王は神と人間との間の仲介者であった。王は神の前で民を代表していた。
臣下の罪をあがなうのも王であった。
また、神像に毎日捧げられる料理を食べるのは、王とその廷臣であった。
(『世界宗教史 』より抜粋)
このシュメール時代に続けられていた神からの王権の授与が、大嘗祭の儀式と似ていると思います。
この儀式は古代バビロニアが滅ぶまで続けられていた。
しかし、この儀式は聖書には見られない。
また、シュメールの楔形文字は、表意文字と音節文字を併用していた。
それは、漢字とカナまじりの日本語と同じ要領で書かれていた。
また、シュメール文字には簡単な文字から複雑な形状の三種類があり、簡単な第一種文字については、カナ文字の個数に近い。
しかも、楔形文字の表意文字は、漢字と同じ要領で構成され、合成語も作られる。
また、この第三種の楔形文字は、セム語族の文字であるヘブライ語,アラム語,アラビア語に属することが分かっている。
更に、古代の楔形文字は、日本と同じく、縦書きで右から左に書かれていた。
しかし早い段階の粘土板から左横書きとなった。
ウルはシュメール名をナンナル、
アッカド名をシンと呼ぶ「月神」を主神とする古代都市であり、
アブラハムの故郷として知られている。
このウルからも多くの楔形文字の粘土板が出土しており、ウルの神官であるアブラハムの父テラは、楔形文字を習得していたと思われます。
おそらく、楔形文字から、ヘブライ語や表音文字が作られたのだと思われます。
そして、ヘブライ文字からカナ文字が作られた。
この表音文字は、後に漢字として人類に与えられたのだと思います。
シュメール人と日本人は共に黒い頭であり、髭を剃る習慣があった。
それだけではなく、シュメールの人々は粘土をこねた日干し煉瓦を、文字を記録する粘土板や家屋の建材として使っていた。
古代エジプトの「石の文化」に対して、「土の文化」といわれるゆえんである。
日本家屋も竹や材木に泥壁(粘土と藁)で家屋を作っており、これもまた共通している。
日本人が漢字を採用したのは、楔形文字をまったく言語の違うバビロニア人やアッシリア人が採用したことによく似ている。
バビロニアやアッシリアの文字は、シュメール読みと、彼ら独自の読みの二通りがあります。
これは、日本語に音読みと訓読みがあるのと同じです。
つまり、アブラハムからの正統なシュメールの血統は、失われた十部族に流れ、大和民族となったのだと思います。
ヤマト人が、シュメール語やヘブライ語を熟知していたからこそ、漢字とカナ文字混じりの記述方法、即ち新シュメール語として日本語を定着させることができた。
大和民族は、三種の神器だけではなく、アブラハムから引き継がれたシュメールの知識・秘宝をも、守ってきたのだと思います。
ヘブル人は楔形文字の表音文字であるヘブライ語のみを使っていた。
表意文字は秘密にされたか、使われなくなってしまったのだろう。
また、ヘブライ語と日本語には似た言葉が多くあるにもかかわらず、楔形文字のシュメール語発音は、日本語と全く似ていない。
では、何故シュメール語を、ヘブライ語のように、大きく変化させる必要があったのでしょうか。
旧約聖書には、
「そこで彼らの言葉を乱し、互いに通じないようにしよう。
こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。
これによってその町の名はバベルと呼ばれた」
(創世記 11章9)
とあり、その証拠なのかも知れません。
結局、楔形文字を使うシュメール語から、
表音文字、表意文字、
単音文字(エジプト文字のことで、後にアルファベットとなる)
が派生し、
現在使われている言語に進化した。
シュメール語や日本語のように、表音文字と表意文字混じりの言葉は、非常に高度な言語体系だと思います。
高橋良典氏は、世界中の未解読の古代文字の中には、日本の神代文字で解読でき、その読みもまた日本語で読めると、
及びインドのタルミ語については、日本語と文法や言葉が一つ一つ法則的に対応すると述べています。
古代日本語の使用されていた地域は、シナイ半島だけではないので、黒い頭のシュメール人が点在していた地域で、使われていたのだと推測されます。
おそらく、シュメール語には二種類あって、シュメール発音と楔形文字と同等の言語として、古代日本語が使い分けられていたのではないでしょうか。
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』より抜粋
★古代日本とイスラエル
■古代日本とユダ族とエフライム族
聖徳太子は、夢殿に籠もり、日本の将来と最後の時のために、イスラエルの秘法を一文字もたがわずに写させ、漢字化させて『旧事本紀』を残した。
そして、秦一族がこれを踏襲し、皇室行事を取り仕切った。
一方で、皇室行事と国民を切り離し、原始キリスト教徒の秦一族は中国から偶像崇拝の密教を導入した。
そして、大陸との交流を通じて技術を習得し、当時の日本の産業,土木建築などを一手に引き受け莫大な財と権力を手中にし、目立たないように日本を裏から牛耳ったのではないか。
(秦氏は八幡神社を全国に建設した)
◆大物主神の正体
『神代文字の真実と二度の出エジプト』参照
邪馬台国(三世紀中葉)より以前の弥生中期(紀元前一世紀~紀元一世紀)頃、
既に青銅器を生産する小国家が、大和地方に誕生していた。
これが「唐古・鍵遺跡」で、三世紀末まで存続したと推測されている。
また、銅剣・銅鐸・青銅の矢じりの鋳型が発見されており、巨大な青銅器工房があったとされている。
その後、三世紀中葉から「まき向遺跡」へ移住し、わが国最大の大型前方後円墳である箸墓古墳をつくって全盛期を迎えた。
この「まき向遺跡」は、三輪山周辺にあるので、ここを支配した崇神天皇を中心とする “三輪山王朝” と呼ぶ者もいる。
魏志倭人伝には、卑弥呼が女王だと記載されている。
これは、中国では、神が預言者を通じて民を導く、もしくは国王を導く国家形態を理解できていなからだと思われます。
史記本記にあるように中国では、王位は民を思う徳により決まり、前王を滅ぼして王位に就きます。
だから、日神子(ヒミコ)の預言者としての卑弥呼=日巫女を、女王と勘違いしてしまったのだと推測されます。
大国主命は神武天皇に大和国を譲った。神武天皇は大国主命の娘(姫タタライ五十鈴命)を妻としています。
この出雲の大神は、日本最古の神社と言われる大神神社に祀られています。
ちなみに、天武天皇の妻の持統女帝は、『日本書紀』の編纂を引き継いだが、
691年、大神神社と石上神宮の古文書と、十六家の系図を没収し、抹殺しています。
大物主神の摂・末社には、大物主神や姫タタライ五十鈴命、日向の御子神などが祀られています。
この日向の御子神が、神武天皇のことなので、ご養子になられたのだと思います。
福井県小浜市加茂にある「弥和神社」の祭神は、大歳彦大明神(大明神とは、年代が古く由緒の正しい神々のこと)で、由来は
「大和の大三輪神をここに祀れるなるべし」
とあり、大物主は別名として大歳彦をもっていた。
『古事記』によれば、大歳彦は、スサノウが大山津の娘(神大市比売)をめとって生ませた子である。
祇園祭で有名な八坂神社に、スサノウの五番目の子として祭られている。
また島根県飯石郡三刀屋町の大歳神社の『神国島根』によれば、
「須佐之男、出雲において大歳生み給い」
と記されている。
島根県八束郡八雲村にあるスサノウの御陵に建てられた「熊野神社」には、スサノウ命は「神祖熊野大神櫛御食野尊」とある。
大神神社には大物主神は「大物櫛ミカ玉命」とある。
生駒山山麓の東大阪市東石切町にある石切剣ヤ命神社の祭神は、ニギヤハヒ命と、ニギハヤヒ命の子のウマシマジ命です。
ニギヤハヒ命は「天照国照彦天火明櫛ミカ玉ニギハヤヒ命」とあり、
大物主神と「櫛ミカ玉」が同じことから、本著者は、ニギヤハヒ命=大物主神と同定している。
ニギハヤヒ命は、弟のヤコブに、イスラエルの王位を譲っています。
その後、ニギハヤヒ一族はシナイ半島に居住し繁栄していたのでしょう。
そして、ヨセフを忘れたエジプト王が、エジプト居留のイスラエル人達を酷使し始めた。
そこで、イスラエル人の一部が、ニギハヤヒ命一族の居留地に移住した。
そして、石切剣ヤノ命神社の社伝によれば、
「神武天皇二年、天神から十種の瑞宝を賜り、天磐船に乗って河内の哮峰に降臨したニギハヤヒ命とウマシマジを祀った」
とあり、ニギハヤヒ一族は日本へ移住し、王位を神武天皇に譲ったことを意味していると思います。
一つの証拠として、大神神社の鳥居は、二本の杉にしめ縄が張ってあるだけで、決して出エジプト時の「過ぎ越」を象徴する赤い柱ではないので、ニギハヤヒ命の一族は出エジプト前に日本に飛来したのではないでしょうか。
結局、神話に封印された内容は、ヤコブ兄弟の王位の禅譲、大国主命の神武天皇への王権の禅譲、日本の島根にある出雲王国と神武系氏族との統一王朝の三重構造になっており、非常に複雑です。
このように、聖書に記述のない、事柄が、記紀や神社の伝承として残されており、日本は聖書の正当な民であることの一つの証だと思います。
また、
「わたしがイスラエルの父であり、エフライムはわたしの長子だからである」
(エレミヤ書 31章9)
とあり、エフライムがヤコブの正当な後継者なのです。
『旧事本紀』を隠した「三輪宮」は大物主を祀っています。
また、大物主=ニギハヤヒ命の子孫であれば、即ち、出雲系の神々、「主」関連の神々は、ヤハウェの命に従ったのだと思います。
◆ニギハヤヒ一族の降臨
丹後国一の宮とされ、国宝や重要文化財も多くある籠神社の祭神は、
「彦火明命」。
相神に天照大神と豊受大神、他二神とあり、「彦火明命」の方が、天照大神と豊受大神よりも上位に位置している。
籠神社の宮司の海部氏によれば、「彦火明命」は「当社のいいつたえによれば、彦火火出見尊の別名」とのこと。
しかし、彦火火出見尊=ニニギ尊(ヤコブ)は、天照大神の孫に当たり、上位ではない。
かつ尊は天皇家を表し、命は非天皇家を表していることが多く、別人だと思われます。
更に宮司は
「当社では彦火明命を彦火火出見尊の別名とみなし、養老元年(717年)以前までは彦火火出見尊を主神としてきましたが、その後は系図から祖先をとって彦火明命が主神にかわっています」。
また海部氏系図によれば、先祖の「彦火明命」は天孫降臨したニニギ命の弟となっている。
(日本書紀ではニニギの命の兄となっており、こちらが正しいと思います)
このように、籠神社は、祭神がニギハヤヒ命であることを隠し、ニニギ尊を祀っているかのように見せかけている。
愛知県一宮市大宮町に、尾張の国一の宮である真澄田神社がある。
草薙の剣が奉納されているという名古屋市の熱田神社は三宮で、古代においては真澄田神社の方が上位の神社だった。
その真澄田神社の祭神は「天火明命」(彦は天皇の御子のことを表します)で、
その社伝は
「天火明命は尾張開拓の祖神で、総産土神である。
祭神の子・天香山命は、大和葛城国より当地に来て建国の基をさだめ、この地を尾張の国と名づけ、御父君天火明命の神霊を祀られた。
時に神武天皇三三年」
とある。
神武天皇二年にニギハヤヒ一族(32神と25部の物部集団)が河内の哮峰に飛来し、三三年にはその子が尾張の国を建国しており、非常に興味深い。
また、河内に祭神をニギハヤヒ命とする天磐船神社がある。
ここは生駒山脈の北部で、天野川の上流にある巨石に囲まれている。
この地は交野台地があり、かつては物部氏の本拠地で、大和へ入る要地とされた。
巨石に囲まれた台地であれば、天磐船の着陸地には適当な場所だったのではないでしょうか。
他にはこの近くに、祭神を登美ニギハヤヒ命とする登美神社があり、記紀に「登美の長髄彦」の記述があり、この地方はかつて長髄彦の領地だったのだと思われます。
◆大和の三大神社の社伝
古代に置いて天皇の行幸か一番多かったのは、大和の三大神社で
「大神神社」「石上神宮」「大和神社」であった。
大和神社の祭神は、右にヤチホコ大神、中央に大和大国魂大神、左に御年大神とある。
ヤチホコ大神は、諏訪の八剱神社などでスサノウ(ニギハヤヒ命の父)の別称としている。
また、古事記の御年神は、大歳神(ニギハヤヒ命)の生んだ子とあり、この親子関係から、中央の大和大国魂大神はニギハヤヒ命だと分かる。
社伝には
「上古、大和大国魂大神は天照大神と共に宮中の天皇の大殿に並斉されていたが、崇神天皇の五年、国内に疫病多く、死亡者が続出し、翌六年、天皇はこの二神が同床にあられるのはおそれ多いと、それぞれの場所に移した」
とある。
また、石神神宮の祭神はフツノミタマ大神、創祀は神武天皇即位元年(宮中に奉祀)、鎮座は崇神天皇七年とある。
天香山命は記紀によれば、神武東征のおり神武が熊野で倒れたとき、それを霊剣のフツツノミタマ剣で救出した神として記述されている。
また社伝には
「神武天皇の東征のみぎり、紀の国熊野において遭難のおり、天つ神のみことのりにより、ふたたび天降り給い、邪神賊徒をたいらげ建国の基礎を定めた。
神武天皇は即位のあと、その功績を称えて、長らく宮中に奉祀されていたが、第十代崇神天皇七年に物部氏の祖、イカガシコオ命が勅により現地石上布留の高庭に鎮め祀り、石上大神と称えまつったのが当宮の創である」
とあり、明らかにニギハヤヒ命の子天香山命を祭神としている。
◆神武天皇を即位させた物部一族
石上神社の由緒は、ニギハヤヒ命の長男ウマシマジ命が、神武天皇に王位を譲り、神武天皇即位時に、ニギハヤヒ命から授けられた王のしるしである十種神宝を渡したことを述べている。
つまり、記紀では、神武天皇が武力でニギハヤヒ一族を滅ぼしたことになっているが、事実は王位を譲ったのである。
「ウマシマジ命は、父ニギハヤヒ命の薨去のあと、瑞宝を受けてその遺業を継ぎ、中州の開拓につとめられたが、神武天皇の大和入りにあたり、天皇を迎えて忠誠を尽くし給い、天皇の即位の元年にその瑞宝を奉り、鎮魂の神業を以て祈り奉った。
これが鎮魂祭の始めである。
天皇はミコトの忠誠を喜ばれ、武臣の首座として即位の威儀に立たしめ給いた。
その建国に功績を称えて祭祀される」
更に、ウマシマジ命が生涯を終えた地の島根県太田市に建てられた「物部神社」の社伝にも
「天皇(神武)をウネビノカシハラ宮にて天位につかせ給うとき、祭神(ウマシマジ命)は十種神宝を安置し、神楯を竪て斉い奉る」
「ウマシマジ尊は物部氏の始祖なり。
神武天皇大倭国に御遷都のとき大功あり。
天皇その功を賞して、フツのミタマの神剣を賜う。
祭神もまた天祖(スサノオ尊)より拝承せる十種の神宝を奉りたまう。
かくて、天皇即位したまう…」
とある。
従って、天皇家は、すべてニギハヤヒ命ゆかりの大和の三大神社を行幸し、祀ったのだと考えられます。
また、『出雲国造神賀詩』には
「国造りをした大国主命が子孫の神々を天皇家の守り神として奉って、自分は出雲大社に身を隠した」
(古代七大王国の謎 P124-6-124-7)
とあり、ニギハヤヒ一族もまた、天皇家を守護していた。
更に、本著書では天照神社、天照御魂神社、天照国照神社関連を調査したが、祭神は天照大神ではなく、ニギハヤヒ命だと突き止められている。
そして、三輪にある太陽神信仰の神がニギハヤヒ命であり、ニギハヤヒ命は太陽神だったことを述べています
◆日本の由来
『日本書紀 神武紀』に、
「ニギハヤヒ命、天磐船に乗り、太虚(おおぞら)をめぐりゆきて、この郷をおせりて天降りたまうとき、名づけて「虚空見日本国(そらみつやまとのくに)という」
とある。
◆十種の神宝について
ニギハヤヒ命が大和の地に遠征したとき、父スサノウはわが子に祖先から伝わる十種神宝をもたせ、蘇生の術を教えた。
この呪文は物部氏の石切剣ヤ命神社に伝わっており、この神社は傷が治る神社として知られている。
また、『鎮魂の祝詞』には皇祖神が鋳造された十種の神宝をニギハヤヒ命に授けて、皇祖神がいわれるには、
「ニギハヤヒよ、この十種の宝をもち、か弱き国民が病になったときは、この十種の宝を用いて
『ひと ふた み よ いつ む なな は ここの たり』
と唱えよ。
これを唱えるなら、死人も生き返るだろう」
(神道行法の本 P78)
とある。
また、ウマシマジ尊は神宝だけではなく、鎮魂法も伝えたとされ、これが天武天皇に伝承されて鎮魂祭につながったと云われています。
◆天照大神は男神
スサノオ尊=アブラハム、
その妻を天照大神と偽証したことにより、混乱が生まれた。
本来であれば、
イザナギ=テラの子としてアブラハム、
アブラハムの子孫として
ニギハヤヒ と ニニギ というように史実通りに伝承する、
と伝えれば、何の問題もなかった。
ところが、アブラハムの妻を天照大神と偽り、天照大御神を歴史から抹殺しようとした。
かつ、ニギハヤヒ命とその子、ウマシマジ命、天香山命は、神武天皇を救い協力し、王権を禅譲して即位させたのに、その事実を歪めた。
ニギハヤヒ命とその子、ウマシマジ命と天香山命を、大国主神とその子、コトシロヌシ神とタケミナカタ神と名前を変えて、ニギハヤヒ命一族の国譲りを、大国主神の国譲りの物語のように、神武朝の力による支配、タケミナカタ神が敗走し諏訪神社へ逃げ込んだように改竄した。
しかも、天皇家を守護しているニギハヤヒ命一族を、大国主神が蛇神で、しかも呪う神、黄泉の神として描いた。
さらに、物部守屋と蘇我馬子を戦わせ、形骸化した葬式仏教(解脱を求める原始仏教には葬式はない)=「密教」を日本に導入して、神道の教義を隠蔽してしまった。
ここで『聖徳太子の秘密』から、物部守屋と蘇我馬子の宗教戦争はなかったことを説明します。
『日本書紀』には、聖徳太子は、仏教推進派の蘇我馬子につき従い、廃仏派の物部守屋を倒したとある。
ところが、蘇我入鹿神社では、蘇我入鹿と素戔嗚尊を祀っており、蘇我氏が物部氏と祖先は同じであることが分かる。
また、この神社の正面には「聖徳太子御自作大日如来仏起山普賢寺」とあり、蘇我入鹿は聖徳太子の末裔を滅ぼした人物であるにもかかわらず、聖徳太子を大切にしている。
ちなみに、大日如来信仰は、平安時代以降に密教と共に持ち込まれたもので、太子の作品ではない。
蘇我氏に近い立場で書かれたと思われる『元興寺縁起』によれば、物部氏の仏教推進派に対する迫害は確かにあったが、決定的な対決ではなく、和解したと書かれている。
さらに、物部氏系の文書『先代旧事本記』には、蘇我氏との仏教戦争に触れていないばかりか、物部守屋と蘇我馬子が対立したかどうかも明らかではない。
『先代旧事本記』では守屋は物部氏の傍流であり、本流は長く存続したと記述されている。
そして、蘇我馬子・入鹿を物部氏の系譜に載せている。
つまり、唐の植民地化政策である葬式仏教と漢字化に対して、日本を守るために真実が隠蔽されたのだが、同時に日本人はエフライム族の正当な末裔であることを忘却してしまった。
結局、バアル=スサノウ=頭天王=マルドゥクを偽装し、更にヤハウェを偽装したサタン・ダビデが、呪う神・祟る神・蛇神として天皇家を影で操ろうと画策した。
最終的には救世主スサノウを装い、天照大神の子孫を滅ぼし、スサノウ・大国主神の支配する日本として乗っ取る謀略だったことが、理解される。
この謀略に関して、現在天皇家には男子の世継ぎが絶えつつあります。
もし、応神天皇や継体天皇の時のように、スサノウや大国主神の系統の男子が養子として迎えられた場合、スサノウ・大国主神の王権が確立します。
更に、女系を認めれば、天皇家の崩壊に繋がります。
「昭和上皇ももちろん女系天皇制反対です。
そして次のように申されました。
万世一系の代々の天皇方による皇室の成り立ちが女系に切り替わると、どういった者が現れるか、分かりません。
…神から与えられる皇位の継承者は、男系男子から変わっては成りません。
…それを破るのは日本が共産国になる時のみ。
と昭和上皇様が仰っています」
(エルアール瓦版 第一号より抜粋)
(注)「白村江の会戦」で日本は唐の植民地化政策を受け入れた
天智天皇の時、「白村江の会戦」で、日本・百済軍が、唐・新羅軍に敗北した後、おそらく唐からの侵略を恐れ、都を近江に移し、そこで即位された。
その間に、唐から全部で二百五四人が日本に到着し、約三ヶ月滞在したが、目的及び何を行ったか全く不明です。
例えば、神よりも仏教を信仰した慈悲のある天皇として紹介されている孝徳天皇の時、
『明神として天下の治める日本天皇は…』(日本書記 下P169)
とあり、この記述の後段には古代中国の皇帝の功績の紹介とともに、彼らの徳政に習ったとの記述があります。
この「明神」という神は、日本古来の由緒正しき崇敬の神々という意味です。
また、「日本天皇」という響きには、天地を創造した皇祖神ではなく、日本に閉じられた天皇であり、この天皇をまとめる大天皇が、別途存在しているように受けとられます。
おそらく、「白村江の会戦」で敗北した日本は、唐の植民地化政策を受け入れさせられた。
この米軍のGHQに相当する者達が、天武天皇の時代に来日したのだと推測されます。
このため、『明神として天下の治める日本天皇は…』の下りは、日本の独立と、中国の植民地としてのバランスを勘案した記述のように思われます。
この唐の植民地化政策により、日本における、神代文字が廃れ漢字化へ、神道が廃れ仏教国化へと向かわざる得なかった。
◆大化改新はヤマト(ヤハウェの民)の復活だった
大化改新の主要な目的は、天照大神のもと、神道を日本の国家的な宗教の座に回復させる事にあった。
『日本書記』の大化改新について、
『日本書紀と日本語のユダヤ起源』の中に、旧約聖書との関連が証明されております。
日本書紀と旧約聖書を読んでいても、意識して関連づけなければ、思いもよらない結末です。
例えば、武烈天皇(在位24-98年~506年)に関して、
「長じて裁きごとや処罰を好まれ、法令にも詳しかった」とあるが、
「法令」は書かれたもののことで、漢字渡来以前に日本固有の文字が有ったことの証拠の一つ。
また、日本で18は長寿を示しているが、なぜなら「生きている」を意味するヘブル単語「ハイ」の数値は18だからである。
俳句の17字、十七条憲法のように、17は「良い兆し」を示すとされているが、
「良い」を意味するヘブル語「トープ」の数値は17である。
さらにヘブル文字に酷似したカナ文字を使う日本人は、ヘブル文字を知っていたと述べています。
本書は非常に簡明で説得力があるので、これを抜粋して紹介いたします。
◆大化時代の開始
皇極天皇の治世第四年の七月一日に始まった。
七月一日は、ユダヤでは新年にあたる。
聖書ではこの日を「聖なる集会」の日としている。
「第七の一日の安息の日として守り、角笛を吹き鳴らして記念し、聖なる集会の日としさい」
(レビ記 23章224-)
◆捧げ物
七月十四日に使節を遣わし、神道の神々に捧げるための捧げ物を集めた。
聖書では、ユダヤ歴七月十四日の夕方から「仮庵の祭」が始まる。
その時、神殿に捧げ物がされるので、十四日にはその捧げ物が用意された。
◆奴隷の子
大化の政府は、男女に関する法の中で、「もし二つの家の間で男奴隷と女奴隷が子を生んだなら、その子は母につけよ」
としている。
『出エジプト記 21章24-』では、
もし主人が男奴隷に女奴隷を妻として与え、彼らが子を生んだ場合、子は母につけよとしている。
◆土地再分配
大化の政府は「班田収授法」を作った。これは六年ごとに、農業用地を人々に再分配するものだった。
『レビ記 25章3-24-』では、六年の間収穫し、七年目には土地に安息を与えるとある。
◆人数に応じた土地
大化の土地配分は、戸籍に基づき、家族の人数に応じてなされた。
『民数記 26章524-』では、
「人数の多い部族には多くの、少ない部族には少しの嗣業の土地を与えなさい。
嗣業の土地はそれぞれ、登録された者に応じて与えられねばならない」。
◆親族の死
大化改新では、
「死者のために生きている者が断髪したり、股を刺したりて、しのびことを述べたりする旧俗は、ことごとくみなやめよ」としている。
親族が死んだとき、
「自分の頭髪の一部を剃り上げたり、髭の両端をそり落としたり、身を傷つけたりしてはならない」
(レビ記 21章5)としている。
◆嘘言
大化改新では、
「見ていながら見ないと言ったり、
見ないのに見たと言ったり、
聞いていながら聞かなかったと言ったり、
聞いてないのに聞いたなどと言う者がある。
正しく語り正しく見ることなくして、
巧みに偽る者も多い」
と述べ、嘘を禁じている。
『レビ記19章11』では、
「盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない」
と述べている。
◆証人
大化改新では、妻を疑って、三人の証言があっても皆で相談した後、官に訴えるべきであると述べている。
『申命記17章6』に、
「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。
一人の証言で死刑に処せられてはならない」
と述べている。
◆宴会
大化改新では
「農耕の月には田作りに専念させ、美物(魚)や酒を食することを禁ずる」
と述べている。
聖書にはないが、古代イスラエルの伝統によれば、例えば収穫をしてから七週間は、いかなる宴会も慎まなければならなかった。
◆地域の監視
大化改新では、
「京師を創設し…区画ごとに長を一人置き、四つの区画に令一人を置き、戸口を管理し、正しくないことをする者を監視せよ」
と述べている。
『申命記16章18』に、
「主が部族ごとに与えられるすべての町に、裁判人と役人を置き、正しい裁判をもって民を裁かせなさい」
と述べている。
◆二倍の償い
大化改新では、
「不当に自分の身に入れたものは、倍にして徴収せよ」
と述べている。
『出エジプト記 22章8』に、紛失物での言い争いについて、
「神が有罪とした者が、二倍の償いをせねばならない」
と述べられている。
◆カタカナとひらがな
カタカナはヘブル文字に酷似している。
「カタカナ」は、「カナンの文字」を意味する
ヘブル語「クタ・カナン」が若干訛ったものではないだろうか。
また、「ひらがな」は、ヘブル・アラム語の「絡み合った」を意味する
「エーラ・クタ・カナン」(絡み合ったカタカナ)が、
後に「エーラ・カナ」となり、
これが短く訛ったものではないかいだろうか。
◆大化改新の正体はイスラエルの秘宝(モーセの律法に立ち返る)!?
蘇我入鹿は、皇極天皇(後の斉明天皇)の前で殺された。
この時、女帝に対して、息子の中大兄皇子は入鹿を非難し、
「皇室が乗っ取られようとしているのです」
と訴えた。
日本史では、律令制(土地の再配分、租税、戸籍)に反対する蘇我氏を、中臣鎌足と藤原不比等が成敗すると記述されています。
ところが、律令制度の導入の直前、蘇我氏は天皇家の直轄領(屯倉)の設置に奔走していたことがハッキリしており、当時、蘇我氏の専横という『日本書紀』の記述はおかしい。
この後、
「白村江の会戦」「壬申の乱」へと移っていくが、
大化改新による改革は成功した。
おそらく、「白村江の会戦」で敗北し、唐の植民地政策である漢字化と仏教化を受け入れざる得なくなった。
そこで、日本の独自性を保つため、聖徳太子という仮名を作り出し、蘇我馬子・蘇我入鹿を悪者にして、仏教を導入し漢字化を進めたように歴史を改竄した。
そして、壬申の乱にて、独立を獲得したのではないでしょうか。
(『聖徳太子の出自と謎解き』)
聖徳太子の死後1年後に、秦河勝により完成したと言われる『旧事本紀』こそが、つまりイスラエルの各部族の秘宝こそが、大化改新の核心だったのではないでしょうか。
神武天皇の強権により押し進められた律令制が、藤原不比等一族により、私物化されてしまいます。
参考文献によれば、『日本書紀』には中臣鎌足の両親の名は無く、天児屋命からの系譜も無い、まるで降って湧いたように、中臣氏が登場している。
中大兄皇子の懐刀であった中臣鎌足であったが、「白村江の会戦」の時、日本書紀の記述にその名が無く、会戦終了後戻ってくる。
ちょうど「白村江の会戦」の直前、日本に人質として滞在していた百済王子(豊璋)が、百済に帰った。
そして、会戦終了後、日本に戻っている。
このことから、豊璋=中臣鎌足だと思われる。
つまり、この中臣鎌足、その子、藤原不比等一族は、百済王家であり、天児屋命を始祖とするその一族ではな無かったのだと思います。
◆『ユダヤ製国家日本』より
本書によれば、日清戦争では、神戸に寄留してシェル石油会社を開いたユダヤ人・マーカス・サミュエルの支援があった。
そして、日露戦争では膨大な戦費の半分以上が、ロシアに虐げられていたユダヤ人達、及びユダヤ人、ヤコブ・シフにより調達された。
そして、シフへの感謝を明治天皇も、昭和天皇も忘れることはなかった。
更に、明治憲法は、ユダヤ人・アルベルト・モッセの忠告を受け入れ、立憲君主制度を柱として、きわめて民主的な憲法となった。
モッセは明治憲法の父と呼ばれている。
このように、明治初期に、多くのユダヤ人が、西洋の学問や技術や芸術を日本へ伝えるのに貢献している。
そして、敗戦後の日本国憲法・農地改革他に、ユダヤ人の多くが、差別の激しかったアメリカでは実現することができなかった社会改革の夢を、持ち込んだ。
明治の日本は、後に新生ユダヤ人国家であるイスラエルが建国されるのに当たって、大きな精神的影響を及ぼして、貢献した。
その仲介役が日露戦争時に、日本の捕虜となった「片腕の英雄」「イスラエル軍の父」と呼ばれているヨセフ・トランペドールだ。
日本でいえば、坂本龍馬か、吉田松陰のような存在であろう。
トランペールは、日本語を喋り、サムライの精神をイスラエル建国の柱とした。
今日、イスラエルではどのような小さな村でも、かならず日本の武道が行われている。
東と西に遠く離れて、同じ魂が脈打っているのだ。
更に興味深いことに、秦氏は多くの氏族を持ち、
伊賀の服部、宇佐の辛島、田川の赤染、長光、松尾、赤松、物集、島津、長宗我部、呉、等々。
しかも、各氏族が、養蚕・畜産・鍛金・治水・土木・修験・芸能など産業の専門である。
能の世阿弥、松尾芭蕉、服部半蔵、薩摩の島津家も、秦氏=ユダ族・レビ族である
◆大和民族の元をたどればシュメール人だった
シュメール時代には、王権は天から与えられたと考えられていた。
王はティアマトとの戦いにおいて、
そしてイナンナとの聖婚(王はドゥムジを体現する)において、
神を具現する儀式があった。
また、新年には、ティアマトとの戦いを朗読する。
神道では神話を物語にして唱える。
王は神と人間との間の仲介者であった。王は神の前で民を代表していた。
臣下の罪をあがなうのも王であった。
また、神像に毎日捧げられる料理を食べるのは、王とその廷臣であった。
(『世界宗教史 』より抜粋)
このシュメール時代に続けられていた神からの王権の授与が、大嘗祭の儀式と似ていると思います。
この儀式は古代バビロニアが滅ぶまで続けられていた。
しかし、この儀式は聖書には見られない。
また、シュメールの楔形文字は、表意文字と音節文字を併用していた。
それは、漢字とカナまじりの日本語と同じ要領で書かれていた。
また、シュメール文字には簡単な文字から複雑な形状の三種類があり、簡単な第一種文字については、カナ文字の個数に近い。
しかも、楔形文字の表意文字は、漢字と同じ要領で構成され、合成語も作られる。
また、この第三種の楔形文字は、セム語族の文字であるヘブライ語,アラム語,アラビア語に属することが分かっている。
更に、古代の楔形文字は、日本と同じく、縦書きで右から左に書かれていた。
しかし早い段階の粘土板から左横書きとなった。
ウルはシュメール名をナンナル、
アッカド名をシンと呼ぶ「月神」を主神とする古代都市であり、
アブラハムの故郷として知られている。
このウルからも多くの楔形文字の粘土板が出土しており、ウルの神官であるアブラハムの父テラは、楔形文字を習得していたと思われます。
おそらく、楔形文字から、ヘブライ語や表音文字が作られたのだと思われます。
そして、ヘブライ文字からカナ文字が作られた。
この表音文字は、後に漢字として人類に与えられたのだと思います。
シュメール人と日本人は共に黒い頭であり、髭を剃る習慣があった。
それだけではなく、シュメールの人々は粘土をこねた日干し煉瓦を、文字を記録する粘土板や家屋の建材として使っていた。
古代エジプトの「石の文化」に対して、「土の文化」といわれるゆえんである。
日本家屋も竹や材木に泥壁(粘土と藁)で家屋を作っており、これもまた共通している。
日本人が漢字を採用したのは、楔形文字をまったく言語の違うバビロニア人やアッシリア人が採用したことによく似ている。
バビロニアやアッシリアの文字は、シュメール読みと、彼ら独自の読みの二通りがあります。
これは、日本語に音読みと訓読みがあるのと同じです。
つまり、アブラハムからの正統なシュメールの血統は、失われた十部族に流れ、大和民族となったのだと思います。
ヤマト人が、シュメール語やヘブライ語を熟知していたからこそ、漢字とカナ文字混じりの記述方法、即ち新シュメール語として日本語を定着させることができた。
大和民族は、三種の神器だけではなく、アブラハムから引き継がれたシュメールの知識・秘宝をも、守ってきたのだと思います。
ヘブル人は楔形文字の表音文字であるヘブライ語のみを使っていた。
表意文字は秘密にされたか、使われなくなってしまったのだろう。
また、ヘブライ語と日本語には似た言葉が多くあるにもかかわらず、楔形文字のシュメール語発音は、日本語と全く似ていない。
では、何故シュメール語を、ヘブライ語のように、大きく変化させる必要があったのでしょうか。
旧約聖書には、
「そこで彼らの言葉を乱し、互いに通じないようにしよう。
こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。
これによってその町の名はバベルと呼ばれた」
(創世記 11章9)
とあり、その証拠なのかも知れません。
結局、楔形文字を使うシュメール語から、
表音文字、表意文字、
単音文字(エジプト文字のことで、後にアルファベットとなる)
が派生し、
現在使われている言語に進化した。
シュメール語や日本語のように、表音文字と表意文字混じりの言葉は、非常に高度な言語体系だと思います。
高橋良典氏は、世界中の未解読の古代文字の中には、日本の神代文字で解読でき、その読みもまた日本語で読めると、
及びインドのタルミ語については、日本語と文法や言葉が一つ一つ法則的に対応すると述べています。
古代日本語の使用されていた地域は、シナイ半島だけではないので、黒い頭のシュメール人が点在していた地域で、使われていたのだと推測されます。
おそらく、シュメール語には二種類あって、シュメール発音と楔形文字と同等の言語として、古代日本語が使い分けられていたのではないでしょうか。