転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』
★すべての宗教は一つだった
日本にユダヤ教が伝来していないように見えてしまうのは、ユダヤ教の用語と仏教用語が同一だからです。
このことについて話を始めましょう。
古代中国では、ユダヤ教の用語を漢字に取り込み、後に伝播した仏教がこの用語を拝借した。
更に、孔子は旧約の教えを儒教とした。しかも、唐の時代に景教(ユダヤ教の一派で、イエスを人間とする原始キリスト教)が大流行し、ユダヤ教、仏教、密教、景教に同じ用語を当てたので、支那から輸入された文献からでは、神道は別として、日本では区別がつかなくなってしまった。
そして、秀吉の世に渡来したキリスト教徒による布教は、大成功した。
見かけや用語の違いからキリスト教と密教が元が同じものだとは誰も思わなかった。
キリスト教の元祖がユダヤ教や儒教だとは誰も思わなかったし、旧約の教えが漢字に込められている事も忘れ去られていた。
当時の日本は、政治体制を脅かさない限り、どのような宗教も黙認していた。
個人の信仰の自由が保護され、宗教の坩堝で有った。
元は同じ神の教えが、漢字(旧約)や、密教(景教)や、儒教(ユダヤ教)や、神道(ユダヤ教)というように表面的に形を変え、日本に定着し、別のものとして区別して考えられた。
この為、旧約の物語を漢字として創作したように、キリスト教の用語を新たに日本語として創作した。
その結果、これだけの、密教、キリスト教、旧約、神道などなど多数の宗教が乱立してしまった。
◇
一方で、国家体制としての神道は温存され、密教は葬式宗教・役所(国分寺)に落ち着いた。
一方、僧侶は密教を、神官は神道を、武士は武士道をここばらばらに教えるのではなく、日本式儒教(大和魂、真を最重要視する)を、日本人としての心と躾を、寺子屋を聖域と見なし庶民にも教えた。
ここに、日本人がユダヤ教徒としての魂を温存できた政治体制があった。
「寺」は仏教の寺院という意味ではない。
十字の上に土が在る。
十は人の意味で、十字に点は神の人の意味、土は神から造られたアダムを意味し、土から人を造る事を意味している。
子もまた同じで、十字の上に人で、教養ある人間を意味している。
だから、「寺子屋」なのです。
すべての宗教の元は一つであり、神の心が一つである事を実感しました。
というのは、日本国体では「まこと」を最重要とする。
「まこと」とは、即ち私心を離れた純粋の心、純粋な行いの事です。
「まこと」は芸術に現われては美と成り、徳としては善と成り、知識においては真と成る。
真善美を生み出す根源だと解釈されている。
また、「まこと」は理性と感情の根源で在るが故に、智仁勇として現われ、相手を滅ぼす為の戦争ではなく、戦争の目的を和とするに至るのです。
■古代エジプトの風俗・宗教概要
日本神話の源流がここにあった
エジプトの天創造神話は、シュメルのエヌマエリッシュと同質で、ラーによる天地創造の直後、四組の神々が出現する。
このエジプトの神話体系は日本の天御中主を中心とする神話体系、及び伊弉諾の右目から天照大神が誕生する神話とそっくりで、“天”を“アメ”と読むのはアメンが訛ったものだと思われます。
さらに、伊弉冉が死者の国の食べ物を食べたので、現世に帰れないとする神話もまた、死者の国で死者の食べ物を食べて永遠の命を得るとするエジプト神話が元になっていると思われます。
他にも、埋葬時に一緒に埋める定型の人形は、私にはコケシに見えてしまいます。
エジプトには、今日の吉凶を占う神籤に相当するものまで存在していました。
またエジプトには、創造主が創造活動で物質を生み出す力が「神の言葉」であるとする神話があります。
加えて、プタハは名前をつけることで天と地を分け、光と闇を分けたとあり、これらの神話が旧約聖書の天地創造の物語のタネになっているのは明らかだと思います。
エジプトでは手工業が盛んで、特に金属加工はプタハ神が力の源を象徴している。
様々な金属は彫刻や建築に利用され、プタハは独創力や工芸・建築の守護神とみなされた。
フリーメイソンはコンパスと定規をシンボルとしていますし、
そして、2000年前のイエスは大工であり、聖徳太子は大工の祖とされていた。
■古代エジプトの生活
画一化された彫刻に見るエジプトは、ピラミッドと共に卓越した文明を、現代の私たちに見せつけています。
しかし、死者の書による怨霊支配とは無関係に、庶民の生活は神との親愛感と共に華やぎ、豊かだった。
その一端をご紹介します。
彼らの生活には、転生輪廻の発想は無い。
日本神話と同じです。
伊弉諾伊弉冉はヒルコの誕生に困惑し、高天原の親神に訪ねる。
古事記では親神は深慮の末に返答する。
日本書紀では占って返答する。
アヌンナキの神々は決められないときに籤を引いた。
つまり、日本神話には全知全能の神も絶対神も存在しない。
さらに神々の誕生は植物のような生命が根源であり、進化論を受け入れる基盤が整っていた。
シュメルの人々も、古代エジプトの人々も、神々は生きた人物で有り、神々との関係において、日本神話と同じ基盤を有していたのです。
■ヤハウエとゾロアスター教
ゾロアスター教はイラン人ゾロアスターが説いた宗教である。
現代のイランはイスラム教であるが、それ以前はほとんどがゾロアスター教であった。
その教えを紹介する。
宇宙には元々対立する二つの霊が存在していた。
この二霊は全く無関係であったのだが、はじめて邂逅(かいこう)した時、一方の叡智の霊(アフラ・マズダー)は善と生を、対立霊は邪悪と死を選択した。
その後、この邪悪な対立霊を滅ぼすための戦いの場として、叡智の霊はこの宇宙を創造した。
この両霊の対立抗争が、自然現象や人間同士の軋轢の原因であるとされた。
叡智の霊を中心に、他の六神を加え、大いなる七神が存在している。
メシア・キリスト教同様に善悪二元のゾロアスター教ではあるが、古代宗教や他の宗教には寛容で、その広まりと共にミスラとアナーヒタの両神との共存を続けていた。
そして、司祭は訴訟やもめ事を神判する判事であり、各地方に祭司が点在し、集団の中心となった。
また、祭司の教育、神事や神判の書記を育てる学校が必要になり、そこでは聖なる教えの伝承が行われていた。
また、王の行政や立法への祭司の助言が求められた。
宗教を中心に、司法・律法・行政を有する王国へと発展していった。
このように宗教は古代国家の中心であった。
だから、非妥協的な教義を持つメシア・キリスト教と他の宗派間において、個人同士は憎しみあい殺し合う。
国家間でも同じだった。
しかし、ゾロアスター教は他の宗教に対して寛容だった。
古代日本は神道を中心とする宗教国家だった。
にもかかわらず、その教義と司祭の神判についてほとんど記録が無く、
唯一 “和をもって貴しとする” の精神だけが明記されている状況である。
もし、神道の教義と神判の実例が、江戸時代の武家諸法度,式目のように残っていれば、大和国の本当の姿が現代にまで伝えられたことだろう。
そして、私達日本人が大和国の成り立ちを見つけ出した時、現在も世界で続いている宗教国家間の対立抗争を正しく捉え、自国の歴史についても左翼史観から抜け出して多面的に見ることができるようになるのだと思う。
◇
新バビロニアの神々、エジプトの太陽神、イランのゾロアスター教は、どれも教義が異なり、寛容な姿勢がないかぎり、融和しない。
これは宗教による天下三分の計だと思う。
これが国家であれば、二国が共謀し残りを滅ぼすことがあり得るが、宗教の場合その心配は無い。
ローマ・エジプトのメシア・キリスト教、イランのゾロアスター教、アラブのイスラム教は、やはり、どれも教義が異なり、寛容な姿勢がないかぎり、融和しない。
これもまた宗教による天下三分の計だと思う。
蛇足ですが、イランのイスラム教・シーア派は、イラン固有の古代宗教とゾロアスター教の風習を多く取り入れたイスラム教のことです。
■ヤペテ帝国、モンゴルと日本
中東ではイエスの時代から現在までも宗教戦争が続いており、いつ終わるのかは誰にも分かりません。
ところが、キリスト教、景教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、ヒンズー教が共存し、しかも多言語多人種の国家が、13~14世紀にかけて人類史上最大の帝国として存在していました。
また、古代日本においても、宗教の共存、多人種が共存しておりました。
この人類史上最大の帝国と古代日本には、共通して懐の深いところがあったのです。
かつてロシア中東を包含した人類史上最大で最初の世界連邦・モンゴル帝国が、遊牧民族により建国されていました。
彼らこそがヤペテの子孫だったのです。
そのモンゴル帝国は、約二世紀の間世界を支配し、その後、ロシア帝国、大清帝国、オスマン帝国、ティムール・ムガル帝国へと分かれてしまいました。
神聖ローマ帝国を除いて、これら帝国群はモンゴル帝国の末裔だったのです。
そしてモンゴル帝国が形成されていく過程と、その統治方式が、武士が台頭して江戸体制が完成する過程に似ています。
更に、世界に対する役割もまた似ているのです。
これから紹介するモンゴル帝国については、主に『モンゴル帝国と長いその後』を参照にしています。
◇
『太古日本の王は世界を治めた!』
から抜粋
福井県鳥浜遺跡から、エジプトテーベ朝(第十八王朝)の女王が身につけていた櫛とそっくりな櫛が出土している。
他にも、西アフリカのナイジェリアやガーナでしか自生しない ”ひょうたん” の種子が大量に出土している。
また、インド原産の ”緑豆” の種子もたくさん見つかっている。
中尊寺に祀られている奥州藤原家三代のミイラは、アイヌの秘法に従って作られたが、六重の棺に遺体を納めたその葬法は、かの黄金のマスクで有名なエジプトの葬法とまったく同じ。
インドのタミル語については、日本語と文法や言葉が一つ一つ法則的に対応することが、すでに学習院大学の大野名誉教授(国語学・言語学)によってほぼ完全なかたちで証明されている。
つまり、大和民族の一部、おそらく神武天皇はインド経由で渡来した。
◆遊牧民族の風習と風俗
アブラハムを始祖とするイスラエル人は遊牧民族とされています。
つまり、乾燥した大地の草原にヒツジなどの家畜を放牧しながら、季節と共に移動する民のことです。
固定した国境を持たず、草を求めて国から国へと移動する民族は、オアシスなどの周囲で農業を営む部族や国を渡り歩き、家畜と食料を交換したり、ある時には村々を襲って食料を略奪していました。
そのような小集団がばらばらに、ユーラシア大陸にも散らばっていたのです。
騎馬遊牧民の元祖は、黒海からカスピ海の北の草原に勢力を誇ったスキタイ・サカ族です。
かれらは、一部族では無く、多くの部族を束ねた連合体でした。
彼らは、カッシート王国を築き、前千年頃にはバビロニアを征服しており、しかもシルクロード・草原の道を通じての交易で繁栄していました。
その後、月氏国を建国しています。
スキタイ・サカ族は、シルクロードを通じてユーラシア大陸の遊牧民に影響を与えます。
例えば、明王朝を恐れさせた騎馬遊牧民の大連合・匈奴です。
スキタイについてはヘロドトス、匈奴については司馬遷に記述があります。
そして両者の記述から、モンゴル高原の匈奴と黒海北方のスキタイが、シルクロードを通じて、均質な文化を保持していたということが分かります。
モンゴル帝国時代、情報ハイウェイが完備され、モンゴル帝国が一から建設した北京~フランスまで約四ヶ月で情報が伝達されていました。
ですから、イスラエル人,ユダヤ人が日本に渡来することも、シルクロードの遊牧民族を道案内にすれば案外たやすいことだったのです。
そして、スキタイ・サカ・匈奴は、イスラエル人同様に、バビロニアのマルドウクと月神を祀る民族なのです。
◆モンゴル帝国の影響
騎馬遊牧民族は、家畜を放牧しながらの移動で、山賊や他部族からの襲撃に備えなければならなりませんでした。
そのため、部族内の結束と規律は固く、男は兵士として育てられました。
つまり、民族の移動とは、軍・食料・家族・財産などの全ての移動であり、常に臨戦態勢の国家が移動しているのだと思えばただしく理解されると思います。
この遊牧軍事体制において、スキタイを引き継ぐ匈奴は、君主を中央にして、左翼と右翼に軍を分け、整然と遊牧を進めていた。
この君主・左翼・右翼の三極体制、そして十進法による軍事・社会組織を二大特徴とする国家システムが、ユーラシア遊牧系国家の基本システムとなりました。
バビロニアや中東の戦乱を逃れ、ユーラシア大陸に移動してきた民族は、イスラエル族も含め、騎馬遊牧民族と融合しながら、シルクロードのオアシスなどに国家を建国してゆきます。
騎馬遊牧民族からの防衛のために、国家では騎馬遊牧民族を傭兵として雇い、国防を任せていました。
そしてこの国家間を、騎馬遊牧民族が情報や物を交換しながら移動していたのです。
この様子は丁度日本で武士の勃興に似ています。
室町幕府が国軍を廃止し、各国ごとに防衛のために武士(騎馬遊牧民族)を雇います。
この武士が互いに連絡し合い、国を超えて、源頼朝(チンギス・カーン)を総大将とし幕府(モンゴル帝国)を開きます。
織田信長は日本を、女性の一人旅でも安全な国に作り替え、楽市楽座で商業を発展させました。
おそらく、騎馬遊牧民族を従えたイスラエル10部族やユダヤ人は、家畜と馬を捨て日本に渡来しました。
その時、ユダヤ人に同化した騎馬遊牧民族は、家畜と馬を捨て日本に渡来し、その末裔が忍者や武士階級、松尾芭蕉のような転々と移動する人々だったのでしょう。
騎馬遊牧民族は軍事力を全面に、多人種、多言語、多宗教を容認する柔軟な政治システムにて、ユーラシア大陸の各国々を取り込んだ形になったのです。
ですから、国から国への移動に関しては、道や馬や海路が整備され、しかも安全が確保されました。
そのため、モンゴル帝国時代には、西洋を含め洋の東西で人物金と文化の交流が一挙に進みました。
当時のフランク王国は聖地イスラエルの奪還のために、十字軍を送り出していましたが、結局は決着がつかない状況で、十字軍は打ち切られました。
例えば、当時のモンゴル帝国の地図にはユーラシアと西洋、及びインドを経由した海図までが書き込まれていました。
やがて、モンゴル帝国が衰微していく中で、その末裔であるロシア帝国、ムガル帝国、大清帝国、オスマン帝国の時代へと移行してゆきます。
そして、キリスト教圏では、暗黒のキリスト教時代を抜け出し、ルネッサンスを経て大航海時代へと大きく移行して行くのです。
結局、日本が大東亜戦争にて、東亜の国々を西洋の軛くびきから解放したように、モンゴル帝国はメシア・キリスト教の軛から解放したのでした。
◆モンゴル帝国の基盤と大和民族
さて、モンゴル帝国の正史 (集史) 他から、彼らの宗教と風俗について列挙してみました。
これを読まれれば、どこか古代日本=大和時代にそっくりではないかと思われることでしょう。
モンゴル帝国の宗教は、日月星を中心とする、マルドウク・月神信仰が根底にあり、中心と六名の合計七名の支配体制は天界の七大天使の構成そのものです。
しかも、各大天使には四名の天使が付き添っており、この四方向を天とする思想は古バビロニアに由来しています。
加えて、男子男系の皇統も同じです。
遊牧の厳しい生活では、軍規・規律が常に求められ、その組織は天界を体現し、何事も合議制で決めています。
このような生活自体が無意識のうちに、天界への信仰を表しているのです。
固定した土地を持たないが故に、一緒に行動する人を「仲間」とみなし、宗教・言語・文化にこだわらないのが、特徴です。
それが故に、人類史上最大の大帝国を築き上げ、メシア・キリスト教の暗黒時代に終止符を打ったのです。
一方、日本に渡来した大和時代の有力氏族と遊牧民族との間に、多言語・多宗教・多文化をまとめる聖徳太子の “和の精神” と “冠位十二階” と “合議の精神” が共通していることに驚かされました。
また、この序列をつけない合議は、中世武士団でもしばしば見られました。
そして、江戸時代には、政教分離・幕藩体制を中心として、各宗教・宗派が共存していました。
皇室と同じように、モンゴル王家は血統と血筋を非常に大切にしており、後継者は男子男系です。
ですから、ロシア帝国と大清帝国は、モンゴル王家から嫁をもらい婿として血縁関係を深め、統治の正当性としたのです。
しかし、男子男系では無いために、ウルスを名乗ることはできませんでした。
◆「チュルク」
ユーラシアの内陸部に大きく広がる人々を、一括して「チュルク」だと述べている。
つまり、ロシアから中国まで、モンゴル帝国内に点在する遊牧民族は全て同じ民族だ、ということ。
◆「モンゴル」とは一つの種族では無く、多言語・多人種・多文化の人々のこと。
◆「仲間」
敵方の人間・部族・国などを吸収する時、「仲間」になるかを選択させた。
「仲間」なにれば、言語・人種・文化に関係なく、彼らの一員として認められた。
遊牧民は固定した土地を持たず、一緒に集団で行動する人達を「仲間」とし、その「仲間」の総体を国と見なしていた。
モンゴル帝国には人種差別はほとんど無く、能力、実力、知恵、技術、才能など、人に勝る能力があれば、どんどん用いられていた。
だから、信じられないことに、モンゴル帝国には、キリスト教集団、景教集団、イスラム教集団、仏教集団、ユダヤ教集団、ヒンズー教集団が、共存していた。
このようにして、各地域の遊牧民を取り込みながら、国々を帰属させていった。
◆モンゴルの支配は、信教の自由をはじめ、基本的にどの地域でもゆるやかで、徴税も他の時代よりも低率だった(十分の一税)。
◆モンゴル帝国では、遊牧軍事体制を国権の中心に据え、
財務・行政にユダヤ・イラン人などの多人種の官僚組織、
各宗教・宗派ごとの聖職者組織を、
国家・社会の柱とした。
◆円座による合議制
強烈な一族の結束に基づき、部族単位の社会をとりまとめる長老達の会議は、
円座しながら合議制で決定・判断される。
円座する理由は、会議に集う者には上下の関係は無く、皆対等だということを意味している。
そして、部族を超えた大会議では、色服により区別された。
また、円座に飲食が加われば、宴会の意味にもなる。
キリスト教暗黒時代の神聖ローマ帝国時代、十字軍を繰り返し、イスラム共に消耗していた。
そこに、ヨーロッパと北京を4ヶ月で結ぶ情報ハイウエイと交通網が整備され、
宗教の共存、多人種、多言語国家で、活気あふれるモンゴル帝国が圧倒的な強さで出現した。
暗黒時代のヨーロッパは、モンゴルと比較にならないほど非科学的だった。
日本で言えば黒船到来と同じで、この暗黒時代の転換期をもたらし、キリスト教の軛を断ち切り、ルネッサンスへと向かわせたのが、モンゴル帝国でした。
大和国の有力氏族は渡来人達で、彼らはシルクロードを通じて、ユーラシア大陸を横断するのに騎馬民族の軍事力と道案内を借りなければなりませんでした。
ですから、イスラエル、ユダヤ、バビロニア、等々と騎馬民族文化とはシルクロードで融合していたのです。
■孔子誕生と諸子百家
「儒家」は葬儀業者として出発した。
春秋時代の六世紀半ば、魯国に生まれた孔丘(孔子)は儒家の祖とされるが、そもそも「儒」とは祈祷や葬送儀礼を職業とする「巫祝(ふくしゅく)」(シャマン)をさすことばであった。
「儒」はもともと「雨がやむのを待つ」「非活動的」という意味で、祭祀や儀礼をつかさどる人を、その態度や服装から「儒」といった。
のち孔子学派を批判する者が、その説を迂遠かつ非実用的であるとしてあなどり、「儒」と呼んだのである。
それから百年ほどのちに孟子が自己の学説を「儒」といいはじめ、孔子学派も儒を自称するようになった。
原始儒教の巫祝は、葬儀業者として遺族がおこなう葬礼にかかわっていた。
宗教としての儒教では、精神の主宰者「魂(こん)」と肉体の主宰者「塊(ぱく)」が一致しているのが生きている状態で、
「魂」が天上に、「塊」が地下へと分離するのが死である。
命日には頭蓋骨を生者の頭にかぶせて死者になぞらえ、魂塊を憑りつかせた。
やがて頭蓋骨が仮面となり、身代わりの人間が木の板にかわって位牌になった。
孔子のいう「孝」とは父母への敬愛、子孫を生むということを意味するだけでなく、祖先にたいする祭祀(招魂儀礼)を第一義とするものであった。
また、孔子は音楽を重要視したが、これも儀礼には音楽がつきものであったからである。
孔子は礼楽(礼節と音楽・文化)の専門家となり、「詩」と「書」を文献学的に整理統合し、行政官僚の教養を授ける塾をひらいた。
その後、性善説をとなえる孟子や、性悪説を主張する筍子によっで政治思想が深められ、また、徳をもって治めるのを理想とする儒家の徳治政治にたいして、筍子の弟子であった韓非子が法家の立場から法治政治を対置するようになった。
儀礼・葬儀を重んじる儒家にたいし、墨子(墨家)は「礼」の簡素化を主張し、
音楽は「非生産的」であると批判した。
また、儒家の「孝」のように親子や家族の関係を重視するのではなく、すべての人をわけへだてなく愛する、いわゆる「兼愛」を説いた。
いつの時代の人か、その実在さえたしかではないが、老子がひらいたとされる道家は、孟子と同時代の荘子に受けつがれた。
これはむしろ世俗を去って隠遁生活をすすめるものであった。
大小あわせて二百ともいわれる多くの国が五百年以上にわたって争いをくりかえした変転きわまりない時代が、儒家、墨家、法家、道家、孫子の兵家などの「諸子(子は先生の意)百家」を生む背景であった。
孔子の祭祀・儀礼・雅楽は、秦氏の役割とほぼ同じですが、秦氏は孝を最優先はしていません。
孔子の行き過ぎた「孝」は、孔子の心理的な要因がそのようにさせたのでしょう。
おそらく、親族との離別への苦悩を経験したからだと思います。
だから理念的なのです。
ですから、「孝」を優先する故に、親族が犯罪を犯しても、これを庇うのが当然とされ、公よりも私が優先されてしまった。
十戒には「汝盗むなかれ」「汝姦淫するなかれ」「汝殺すなかれ」といった「私」よりも「律法(公)」に従う掟があったのだが、これが抜け落ちてしまっている。
この歪みを正すべく、墨家、法家、道家、兵家などが現れたとも考えられるでしょう。
◆雅言
漢字で綴られた雅言の特徴は、名詞や動詞や性や数詞や時制の区別、接頭語も接尾語もなく、「てにをは」もない。
しかも、読みは「諸子百家」でばらばらで、互いの学派でどのように読んで良いのか分からなかった。
日本では漢文に返り点や「てにおは」を入れ独自の読みをしたが、
現在の中国人は論語は読めないのです。
■秦国(Chin)と秦氏
前770頃に周の時代が崩壊し、春秋戦国時代から、前221年に秦の始皇帝が中国を統一します。
前606年頃、長江の中流に勃興した「楚」は、周などの中原からすれば文化と民族を別にする夷狄(いてき)に当たります。
楚は高床式家屋に住み、稲作を行う民族で、祖先は周と同じとされています。
そして、前721年に北イスラエルが滅亡しており、個人的には、イスラエルの十氏族の末裔である楚が秦により征服される時、日本に亡命し稲作文化を伝えたのだと推測しています。
同時に、前700年頃、ユダヤ人であるイザヤの民が日本に直接移住しています。
秦はメディア人による王国で、儒教を弾圧しています。
そして、弾圧に耐えかねて “秦一族” が日本に渡来しています。
ちなみに、この秦(Chin)がインドに伝わりChinaになり、ドイツ語のChinaの語源となった。
支那についてもChinaを漢字音で移したものです。
天下を統一した秦は、楚を漢の地に封じます。
そして、秦が崩壊すると、周の後ろ盾により楚が挙兵し、秦を滅ぼして漢を建国します。
従って、漢はイスラエル十氏族の王朝です。
また、随文帝、唐の高祖は、軍人であり騎馬民族の血統です。
同じく、宋の朱全忠もまた反乱軍で、賤民でした。
それゆえ、彼は宦官と漢民族の貴族を皆殺しにしました。
その後の、元はモンゴル帝国、大清はモンゴル帝国の末裔です。
そして、元の後の明は、貧農の子・朱元璋により、モンゴル帝国の経営を継承し、皇帝の権限を強化しました。
まとめると、ほとんどの王朝が漢民族ではなく、中原中心史観からすれば蛮族とされた北方の遊牧騎馬民族モンゴル・満州族、南方の楚・越・呉の方が、歴史的にはかえって活躍していることが分かります。
しかも、楚が漢に封じられてはいますが、漢民族というその実態は不明のままで、事実はほんの少数に過ぎなかったのです。
◆秦の始皇帝の焚書令
漢字には文法が無く、各学派で、読み方も漢字の意味も形も違っており、教団が異なれば読み書きができないような状況だった。
そこで、漢字の用法、字体、発音を統一するために、医薬・占い・農業技術などの実用書を除き、民間の書物を没収して焼却し、私有を禁じた。
そして宮廷学者のテキストはそのままとし、今後文字を学ぼうとする者は、公共の機関で文字を学ぶことができるようにした。
■中華王朝の盛衰は必然
中原では、易姓革命により、大量虐殺の末に文明が滅び、賤民が勃興して新しい文明が起こり、しばらくの繁栄を謳歌し、再び大量虐殺の易姓革命が繰り返されました。
新しい王朝が始まると、封建制度の下で有力豪族や外戚と宦官、そして官僚が私腹を肥やし、皇帝一族は遊興にふけり、皇帝の権限が弱まる一方で、民は重税に苦しむようになります。
何故でしょうか。
それは、孔子式儒教は原始儒教(ユダヤ教)を模範としたが、神への愛と忠誠よりも親族への孝を最優先とし、しかも享楽については規制が全くないのです。
だから、家族最優先、しかも私利私欲を最優先とし、遊興に身を委ねるのは当然なのです。
孔子式儒教は易姓革命を完全否定します。
それどころか、いかなる皇帝でも尽くせと教えており、残忍な皇帝支配の暗黒政治から抜け出すには、易姓革命しか手段がないのです。
しかも、この易姓革命は、賤民や貧農によるもので、プロレタリア革命そのものです。
しかし、儒教と中華思想には、プロレタリア革命から抜け出す方法は、与えられていません。
それは、共産主義王朝においても同じで、このままであれば、易姓革命=プロレタリア革命を繰り返すだけでしかないのです。
流浪のユダヤ人は、王国を弱体化し、ユダヤ人に住みやすいような環境を創成する手法として、マルクスを通じて共産主義が人類に与えられました。
マルクス主義は、人民からの搾取については教えますが、分配の方法を教えていないのです。
だから、皇帝・孔子式儒教と全く同じ構図で、人民から奪うだけなのです。
ただ違うのは、共産主義下では、共産主義体制内でのプロレタリア革命を阻止するために、軍事を独裁し、敵を徹底的に虐殺することです。
中華思想では文人が最良とされ、科学・数学・軍事は卑しいものとされたゆえ、科挙の試験から理性を養う科学が削除されてしまいました。
だから支那版ルネサンスは起こりえず、神無き中華思想の決定的な欠点でもあります。
一方、ヨーロッパの皇帝は、皇帝権限を強化するために、メシア・キリスト教を国教と定めました。
それゆえ、人々は天国への切符を手にするために、地獄の苦しみから逃れるために、暗黒のキリスト教時代を堪え忍ばなければなりませんでした。
同じく、中国皇帝は皇帝権力を強化するため、神を捨てた孔子式儒教を取り入れました。
それゆえ、易姓革命を繰り返す暗黒時代が、現在でも支那人民並びに少数民族と呼ばれる人々を弾圧し続けているのです。
だからこそ、支那も韓国も北朝鮮も、君民共治の日本にあこがれているのです。
■三星堆積跡の巨人像
長江の上流にある三星堆積跡には、地元で取れる黄金、玉器、象牙などの高貴な遺物と、雲南省から取り寄せ加工した青銅器が大量に出土しています。
この雲南省の銅は、三星堆積跡を通過して、殷へ運ばれていたらしいのです。
三星堆積跡は滅ぼされ、殷は周に滅ぼされてしまいました。
ところが、セム族系の周は金属精錬を得意とせず、その技術はとうてい殷には及びませんでした。
似たような事例が、古代日本にもあります。
青銅器文明の出雲王国、鉄器文明の吉備王国、これを支配したユダヤの大和朝廷です。
違うのは、大和朝廷では、出雲王国を併合した時に三代にわたって女王を迎えています。
同じく、吉備王国を併合した時にも複数代に渡り女王を迎えており、統合王朝の形式を取っていることです。
中国のように、滅ぼしてしまったのではありません。
また、蘇我氏や藤原氏が皇后を出し、外戚として権勢を握りましたが、皇室を滅ぼそうとはしませんでした。
■カイン・カナン以外、もう一つの魔族(悪の種族)
ノアの大洪水を生き残ったのは、ノアの家族だけではありませんでした。
聖典には、カイン族、心正しい巨人族の預言者も生き残ったとあります。
他には、ノアの大洪水後、スンダランド大陸の山々の頂上のみが顔を出して、ポリネシア諸島になり、島々に生き残った人々がいました。
それは小柄で色黒のポリネシア人です。
彼らの神話にも大洪水のこと、生き残ったことが伝えられています。
ノアの大洪水後に生き残ったポリネシア人は、船でマレーシアに渡り、北上を続け、長江の東まで広がりました。
というのは、この地域から、頭を南に向けて埋葬された人々がいるからも納得できると思います。
つまり、長江の東側では、遊牧民族とポリネシア人が融合しました。
ある部族は遊牧の生活様式の家を作り、もう一つは稲作に適応した高床式の生活を取り入れました。
この中国大陸の長江中流から下流、南に住む高床式・稲作民族のことが、史記では “倭” と呼ばれています。
『古代中国と倭族』によれば、野生米からジャポニカ米への変化は、殷の時代に長江中流で起こったと述べています。
野生米は小粒で、実ると自然落下してしまい、手で拾うしかなく、脱穀が出来ずにとても不便なのです。
それが突然に、粒が大きく、自然落下しないように品種改良してしまったのです。
これは、小麦やブドウなどと同じで、アヌンナキによる品種改良の賜だと思います。
中原では小麦の畑作が中心ですが、小麦を捨て稲作の民として、湿潤なこの地域に適した生活様式を取り入れて、木造の高床式住居に住むように変わったのだと推測されます。
ポリネシア系稲族は、万古神話を持ち、蛇を崇拝し、体に入れ墨をします。
魏志倭人伝の中に、倭人は入れ墨をしていると書かれていることからも、彼らの一部は日本に渡来したのです。
同時に楚人も渡来している。
さらに、彼らの部落の入り口には二本の棒が立ち、しめ縄がはられており、日本の鳥居と同じ様式です。
更に彼らの高床式建築には千木があり、千木や鳥居には二羽の鳥が置かれています。
この鳥は、神様が降臨するための乗り物とされ、鳥居以外にも巨石や巨木をしめ縄でかこう習慣もあります。
これらの習慣は、イスラエルの十部族である楚人と混交した故に広まったのだと思います。
そしてこの生活様式に切り替えた稲族として東南アジアへ再度広がっていったのでしょう。
ポリネシア系稲作部族の一部には、食人の信仰がありました。
農耕民族はタンパク質の摂取量が不足しがちなので、狩猟民族に比べ、残酷な食習慣があったのですが、この信仰が日本に渡来して影響を与えなかったことに感謝したいと思います。
一方、中国人は人間を食料・家畜として見ており、死体の塩漬けを孔子は好んで食していたそうです。
他にも、子供や妻を殺して、客人に振る舞うことを当然とし、政治的に有利な官職を手に入れる手段としています。
かの劉備玄徳も人肉でもてなされ、おいしかったと感謝し、後に官職を与えて報いています。
信じられない、残忍で冷酷な習慣です。
この残忍な習慣は楚人と混交した食人信仰の稲作族が、秦の時代に漢族(カイン、カナン)と更に混交した結果なのではないかと思います。
(余談1)
参考文献によれば、「倭」を“わ”と呼んでいたその前は、“を”と呼んでいた。
中国では「越」=“を”と呼んでおり、物部一族の豪族「越智」の「越」は高床式・稲作民族のことだとすれば、彼らはしめ縄を左にするので、出雲大社のしめ縄が伊勢神宮と逆で左なのは、大社を封印するという意味ではなく、古代の習慣をそのまま残したためではないでしょうか。
(余談2)
大洪水用の箱船は複数個あった
一つは有名なノアの箱船だ。
ノアの家族以外にも、シッチン氏の本では金属技術を持つカインの末裔が生き残っていた。
更に、インカ神話では箱船に乗った夫婦がクスコ近くで生き残っている。
欧米人はノアの箱船だと位置づけるが、それは余りに傲慢だと思う。
ポリネシアにも箱船神話がるように、世界中に大洪水と生き残る人類の神話が残されている。
それに、ノアの家族とその妻だけから、白人・黒人・黄人種のすべてが生まれるはずはない。
だから、箱船は複数個あったのだと思う。
■悪魔の儀式 人身供養の元は同じ
人身供養を伴う農耕神儀式(雲南省)、
この中央の柱には一匹の蛇が刻まれ、殺された女性がこの蛇に化身するとされています。
この恐ろしい儀式が、日本の建築様式、
しかも、伊勢神宮にそっくりな社で執り行われているではありませんか。
一歩間違えば、古代日本はニンギジッダ夫妻の悪魔教に支配されていたのかもしれません。
表面的には、ほとんど変わりのない生活様式と風習を持っていても、悪魔教と天照大神の支配する日本では地獄と天国です。
尚、一匹の蛇=“独龍”と見なせば、
ポリネシア系稲作民族と同じ信仰です。
■何故、漢民族はロシア人より残虐なのか
白人が何故、有色人種に対して残忍で、しかも平気で殺せるのか。
◆色素不足は感情を抑えきれないことの理由
腸からカルシウムが摂取されるためには、ビタミンDが必要です。
いくらカルシウムを食べても、ビタミンDが足りなければ、吸収効率が悪いためカルシウムはあまり吸収されません。
人体の骨や歯の形成に必要なビタミンDは、太陽光を浴びることで紫外線がコレステロールを変化させる事でおよそ必要な分のビタミンDの半分の量をまかなっている。
(残り半分は食べ物から得られている)
ビタミンDが不足すると骨や歯が弱くなったり疲れやすくなったり、情緒不安定になる。
だから、メラニン色素を持たない、白人はメラニン色素を持つ有色人種よりも、紫外線を多く浴びるので、腸からのカルシウム吸収が多くなり、自然に骨太の体型となり易い。
さて、メラトニンは体内時計の調節を担う物質として知られ、夜間に多く分泌され、睡眠を促し体を休ませる。
メラトニンは脳のほぼ真ん中にある『松果体』と呼ばれる、松かさに似た、トウモロコシ1粒くらいの大きさの器官から放出されるホルモンです。
この物質がメラニン色素の量を変えることから「メラ」、
そしてセロトニンから作られるから「トニン」の2つをくっつけたものです。
メラニンを作る能力を持たない、もしくは非常に低い白人は、日光の影響を体内に取り入れる事が不得手なので、体内時計の調節を行うことも不得手だと推測される。
つまり、世界旅行をする場合、
白人は体内時計の調節が不得手なので、
有色人種に比べ睡眠薬を多用する事になる。
そして、ストレスや様々な環境変化に対し、睡眠調整が有色人種に比べ不得手なので、イライラが募り感情的な爆発が起こり易いのも当然頷ける。
だから、感情的な不安定は、体内のカルシウム蓄積量のより少ない、つまり骨太では無い白人の方がより大きいと思われる。
それゆえ、天上界は、白人には感情爆発に備え、知性を、理屈っぽい文明を与え、ネクタイを常用させたのでしょう。
◆天上界は、色素不足の白人を導かれた
さて、シュメル文明末期頃、地球環境の中で北欧は比較的ニビル星の生活環境に近いので、ニビル星人の血統の濃い金髪碧眼の種族が、人類から離れてこの地域に集まった。
ところが、白人が混血しながらもヨーロッパ大陸に広がると、生活環境が激変し、色素不足から、情緒不安が著しくなり、暴力や虐殺が多くなった。
そこで、天上界は白人に十戒や科学的な知性を与えることで、感情をコントロールすることを学ばせた。
その一方で、情緒不安定を数学的な音楽や絵画で調律することを教えたのです。つまり、色素不足という欠点を、知性で補うように導かれたのです。
産業革命後、白人がインドやアメリカ大陸に乗りだし、インド人やインディオを発見した時、アヌンナキが黒い頭の人類を使役した記憶が蘇り、彼らを奴隷として使役するのを当然とした。
アヌンナキは人類を使役したが、使えないからといって無慈悲に殺すことはなかった。
ところが、白人同士で働く知性がキリスト教の影響も有り、有色人種に対しては働かず、奴隷やインディオやシナ人を惨殺してしまったのではないかと推測されるのです。
◆漢人は人食いを美徳とした
それにしても、漢人は白人以上に残忍なのは何故なのか、
日本人と漢人は、同じモンゴロイドに区分されていますが、血統としては全く異なります。
これまでの議論から、漢人の出自は間違いなくカイン・カナンの子孫です。
ところが日本人はユダ族とプレアデスの子孫なのです。
シナ大陸の中原の歴史は、堕天使と交わり悪魔教を広めたカナン人の歴史と似ています。
どちらも交易の要衝で莫大な富と財宝をめがけて、周囲の異民族が武力支配しようとした。
そして、正しくは漢人という遺伝的な民族は存在せず、商売をするために、皇帝に税を納めれば、漢人として認られていた。
しかも、一番の交易の利権を独占していたのが皇帝でした。
シナ歴代王朝が創造したとされる、皇帝制、科挙、漢詩、偉大な発明はすべて異民族がもたらしたものです。
夏・殷はカインを意味し、交易に長けたカナン人も中原に渡来していたのでしょう。
そして、アトランティスが没した後、生き残ったポリネシアンが中原に移動する時に、女神を頂点とする悪魔教がもたらされています。
以上のような、古代中原の歴史の中で、地球史上最も残虐な歴史が繰り返されてきました。
例えば、自分より高位の貴族・官僚・武人などをもてなそうとして、自分の妻子を殺し料理として提供する。
また彼ら特権階級は “ご馳走になった” として、官位を与えることを、美徳とした。
また、食料が不足すると、村を襲いすべての村人を塩漬けにして保存食として保管し、常食していた。
さらに、生きたままのサルや人を食う、罪人の内臓を取り出し、当人が見ている前で焼く、
など白人でさえ恐れをなしてしまいます。
この人格破綻の残忍性は、どこから来るのだろうか。
◆家畜として創造された!?
白人は有色人種を奴隷にし、使役できなくなると殺していました。
当たり前ですが、食べることはしていません。
人間が人間を食うのは、自然の法則に反しおり、極端な飢餓状態でなければ起こりえません。
欧米社会でさえ、身内を殺したり、食べたりすることは、悪魔の傀儡とされ忌み嫌われています。
しかし、中原では、妻子を料理してもてなすことは美徳とされ、人間の塩漬は高価な食材の一つとして常食されていたのです。
まったく吐き気のする事実です。
一方、日本人は違いますが、欧米人は、家畜を殺すことに罪悪感はありません。
家畜は大切に取り扱い、太らせはしますが、使役はしません。
そして殺して冷凍保管します。
また、家畜の繁殖率は高い方が喜ばれるのですが、漢人の繁殖率も異常に高いのです。
ここまで検討すると、欧米人の牛に対する取り扱いは、シナ人の食人習慣とまったく同じだと、気がつきました。
つまり、黒い頭の人々は神々に奴隷として創造され、後に人権を与えられて、地球文明を再建築する神々のパートナーとなった。
だが、一方、中原では漢人は、奴隷ではなく、家畜として創造された。
だから、家畜人間は労働せずに、食事を与えられ、神・真理・正義・契約などには全く無関心で、より美味しく沢山食べることが生きる目的だった。
その最高の食材が人肉だったのだ。
だから、西洋で牛の部位の味と料理法と酒のレシピが発達したように、おぞましいことですが、シナでは人間の全身の料理方法が発達したのです。
この視点からすれば、歴代皇帝や毛沢東が人民を家畜のように殺していたこと、現在のシナでさえも、死刑囚の内臓を売り買いし、人肉饅頭が売られても平然としているのは、当然のことなのです。
そこで、シナ人は世界一利己的で、彼らの唯一の信仰は腹一杯食べることなのだとの石平氏の指摘は、まさに事実そのものだったと云うことが理解されます。
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』
★すべての宗教は一つだった
日本にユダヤ教が伝来していないように見えてしまうのは、ユダヤ教の用語と仏教用語が同一だからです。
このことについて話を始めましょう。
古代中国では、ユダヤ教の用語を漢字に取り込み、後に伝播した仏教がこの用語を拝借した。
更に、孔子は旧約の教えを儒教とした。しかも、唐の時代に景教(ユダヤ教の一派で、イエスを人間とする原始キリスト教)が大流行し、ユダヤ教、仏教、密教、景教に同じ用語を当てたので、支那から輸入された文献からでは、神道は別として、日本では区別がつかなくなってしまった。
そして、秀吉の世に渡来したキリスト教徒による布教は、大成功した。
見かけや用語の違いからキリスト教と密教が元が同じものだとは誰も思わなかった。
キリスト教の元祖がユダヤ教や儒教だとは誰も思わなかったし、旧約の教えが漢字に込められている事も忘れ去られていた。
当時の日本は、政治体制を脅かさない限り、どのような宗教も黙認していた。
個人の信仰の自由が保護され、宗教の坩堝で有った。
元は同じ神の教えが、漢字(旧約)や、密教(景教)や、儒教(ユダヤ教)や、神道(ユダヤ教)というように表面的に形を変え、日本に定着し、別のものとして区別して考えられた。
この為、旧約の物語を漢字として創作したように、キリスト教の用語を新たに日本語として創作した。
その結果、これだけの、密教、キリスト教、旧約、神道などなど多数の宗教が乱立してしまった。
◇
一方で、国家体制としての神道は温存され、密教は葬式宗教・役所(国分寺)に落ち着いた。
一方、僧侶は密教を、神官は神道を、武士は武士道をここばらばらに教えるのではなく、日本式儒教(大和魂、真を最重要視する)を、日本人としての心と躾を、寺子屋を聖域と見なし庶民にも教えた。
ここに、日本人がユダヤ教徒としての魂を温存できた政治体制があった。
「寺」は仏教の寺院という意味ではない。
十字の上に土が在る。
十は人の意味で、十字に点は神の人の意味、土は神から造られたアダムを意味し、土から人を造る事を意味している。
子もまた同じで、十字の上に人で、教養ある人間を意味している。
だから、「寺子屋」なのです。
すべての宗教の元は一つであり、神の心が一つである事を実感しました。
というのは、日本国体では「まこと」を最重要とする。
「まこと」とは、即ち私心を離れた純粋の心、純粋な行いの事です。
「まこと」は芸術に現われては美と成り、徳としては善と成り、知識においては真と成る。
真善美を生み出す根源だと解釈されている。
また、「まこと」は理性と感情の根源で在るが故に、智仁勇として現われ、相手を滅ぼす為の戦争ではなく、戦争の目的を和とするに至るのです。
■古代エジプトの風俗・宗教概要
日本神話の源流がここにあった
エジプトの天創造神話は、シュメルのエヌマエリッシュと同質で、ラーによる天地創造の直後、四組の神々が出現する。
このエジプトの神話体系は日本の天御中主を中心とする神話体系、及び伊弉諾の右目から天照大神が誕生する神話とそっくりで、“天”を“アメ”と読むのはアメンが訛ったものだと思われます。
さらに、伊弉冉が死者の国の食べ物を食べたので、現世に帰れないとする神話もまた、死者の国で死者の食べ物を食べて永遠の命を得るとするエジプト神話が元になっていると思われます。
他にも、埋葬時に一緒に埋める定型の人形は、私にはコケシに見えてしまいます。
エジプトには、今日の吉凶を占う神籤に相当するものまで存在していました。
またエジプトには、創造主が創造活動で物質を生み出す力が「神の言葉」であるとする神話があります。
加えて、プタハは名前をつけることで天と地を分け、光と闇を分けたとあり、これらの神話が旧約聖書の天地創造の物語のタネになっているのは明らかだと思います。
エジプトでは手工業が盛んで、特に金属加工はプタハ神が力の源を象徴している。
様々な金属は彫刻や建築に利用され、プタハは独創力や工芸・建築の守護神とみなされた。
フリーメイソンはコンパスと定規をシンボルとしていますし、
そして、2000年前のイエスは大工であり、聖徳太子は大工の祖とされていた。
■古代エジプトの生活
画一化された彫刻に見るエジプトは、ピラミッドと共に卓越した文明を、現代の私たちに見せつけています。
しかし、死者の書による怨霊支配とは無関係に、庶民の生活は神との親愛感と共に華やぎ、豊かだった。
その一端をご紹介します。
彼らの生活には、転生輪廻の発想は無い。
日本神話と同じです。
伊弉諾伊弉冉はヒルコの誕生に困惑し、高天原の親神に訪ねる。
古事記では親神は深慮の末に返答する。
日本書紀では占って返答する。
アヌンナキの神々は決められないときに籤を引いた。
つまり、日本神話には全知全能の神も絶対神も存在しない。
さらに神々の誕生は植物のような生命が根源であり、進化論を受け入れる基盤が整っていた。
シュメルの人々も、古代エジプトの人々も、神々は生きた人物で有り、神々との関係において、日本神話と同じ基盤を有していたのです。
■ヤハウエとゾロアスター教
ゾロアスター教はイラン人ゾロアスターが説いた宗教である。
現代のイランはイスラム教であるが、それ以前はほとんどがゾロアスター教であった。
その教えを紹介する。
宇宙には元々対立する二つの霊が存在していた。
この二霊は全く無関係であったのだが、はじめて邂逅(かいこう)した時、一方の叡智の霊(アフラ・マズダー)は善と生を、対立霊は邪悪と死を選択した。
その後、この邪悪な対立霊を滅ぼすための戦いの場として、叡智の霊はこの宇宙を創造した。
この両霊の対立抗争が、自然現象や人間同士の軋轢の原因であるとされた。
叡智の霊を中心に、他の六神を加え、大いなる七神が存在している。
メシア・キリスト教同様に善悪二元のゾロアスター教ではあるが、古代宗教や他の宗教には寛容で、その広まりと共にミスラとアナーヒタの両神との共存を続けていた。
そして、司祭は訴訟やもめ事を神判する判事であり、各地方に祭司が点在し、集団の中心となった。
また、祭司の教育、神事や神判の書記を育てる学校が必要になり、そこでは聖なる教えの伝承が行われていた。
また、王の行政や立法への祭司の助言が求められた。
宗教を中心に、司法・律法・行政を有する王国へと発展していった。
このように宗教は古代国家の中心であった。
だから、非妥協的な教義を持つメシア・キリスト教と他の宗派間において、個人同士は憎しみあい殺し合う。
国家間でも同じだった。
しかし、ゾロアスター教は他の宗教に対して寛容だった。
古代日本は神道を中心とする宗教国家だった。
にもかかわらず、その教義と司祭の神判についてほとんど記録が無く、
唯一 “和をもって貴しとする” の精神だけが明記されている状況である。
もし、神道の教義と神判の実例が、江戸時代の武家諸法度,式目のように残っていれば、大和国の本当の姿が現代にまで伝えられたことだろう。
そして、私達日本人が大和国の成り立ちを見つけ出した時、現在も世界で続いている宗教国家間の対立抗争を正しく捉え、自国の歴史についても左翼史観から抜け出して多面的に見ることができるようになるのだと思う。
◇
新バビロニアの神々、エジプトの太陽神、イランのゾロアスター教は、どれも教義が異なり、寛容な姿勢がないかぎり、融和しない。
これは宗教による天下三分の計だと思う。
これが国家であれば、二国が共謀し残りを滅ぼすことがあり得るが、宗教の場合その心配は無い。
ローマ・エジプトのメシア・キリスト教、イランのゾロアスター教、アラブのイスラム教は、やはり、どれも教義が異なり、寛容な姿勢がないかぎり、融和しない。
これもまた宗教による天下三分の計だと思う。
蛇足ですが、イランのイスラム教・シーア派は、イラン固有の古代宗教とゾロアスター教の風習を多く取り入れたイスラム教のことです。
■ヤペテ帝国、モンゴルと日本
中東ではイエスの時代から現在までも宗教戦争が続いており、いつ終わるのかは誰にも分かりません。
ところが、キリスト教、景教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、ヒンズー教が共存し、しかも多言語多人種の国家が、13~14世紀にかけて人類史上最大の帝国として存在していました。
また、古代日本においても、宗教の共存、多人種が共存しておりました。
この人類史上最大の帝国と古代日本には、共通して懐の深いところがあったのです。
かつてロシア中東を包含した人類史上最大で最初の世界連邦・モンゴル帝国が、遊牧民族により建国されていました。
彼らこそがヤペテの子孫だったのです。
そのモンゴル帝国は、約二世紀の間世界を支配し、その後、ロシア帝国、大清帝国、オスマン帝国、ティムール・ムガル帝国へと分かれてしまいました。
神聖ローマ帝国を除いて、これら帝国群はモンゴル帝国の末裔だったのです。
そしてモンゴル帝国が形成されていく過程と、その統治方式が、武士が台頭して江戸体制が完成する過程に似ています。
更に、世界に対する役割もまた似ているのです。
これから紹介するモンゴル帝国については、主に『モンゴル帝国と長いその後』を参照にしています。
◇
『太古日本の王は世界を治めた!』
から抜粋
福井県鳥浜遺跡から、エジプトテーベ朝(第十八王朝)の女王が身につけていた櫛とそっくりな櫛が出土している。
他にも、西アフリカのナイジェリアやガーナでしか自生しない ”ひょうたん” の種子が大量に出土している。
また、インド原産の ”緑豆” の種子もたくさん見つかっている。
中尊寺に祀られている奥州藤原家三代のミイラは、アイヌの秘法に従って作られたが、六重の棺に遺体を納めたその葬法は、かの黄金のマスクで有名なエジプトの葬法とまったく同じ。
インドのタミル語については、日本語と文法や言葉が一つ一つ法則的に対応することが、すでに学習院大学の大野名誉教授(国語学・言語学)によってほぼ完全なかたちで証明されている。
つまり、大和民族の一部、おそらく神武天皇はインド経由で渡来した。
◆遊牧民族の風習と風俗
アブラハムを始祖とするイスラエル人は遊牧民族とされています。
つまり、乾燥した大地の草原にヒツジなどの家畜を放牧しながら、季節と共に移動する民のことです。
固定した国境を持たず、草を求めて国から国へと移動する民族は、オアシスなどの周囲で農業を営む部族や国を渡り歩き、家畜と食料を交換したり、ある時には村々を襲って食料を略奪していました。
そのような小集団がばらばらに、ユーラシア大陸にも散らばっていたのです。
騎馬遊牧民の元祖は、黒海からカスピ海の北の草原に勢力を誇ったスキタイ・サカ族です。
かれらは、一部族では無く、多くの部族を束ねた連合体でした。
彼らは、カッシート王国を築き、前千年頃にはバビロニアを征服しており、しかもシルクロード・草原の道を通じての交易で繁栄していました。
その後、月氏国を建国しています。
スキタイ・サカ族は、シルクロードを通じてユーラシア大陸の遊牧民に影響を与えます。
例えば、明王朝を恐れさせた騎馬遊牧民の大連合・匈奴です。
スキタイについてはヘロドトス、匈奴については司馬遷に記述があります。
そして両者の記述から、モンゴル高原の匈奴と黒海北方のスキタイが、シルクロードを通じて、均質な文化を保持していたということが分かります。
モンゴル帝国時代、情報ハイウェイが完備され、モンゴル帝国が一から建設した北京~フランスまで約四ヶ月で情報が伝達されていました。
ですから、イスラエル人,ユダヤ人が日本に渡来することも、シルクロードの遊牧民族を道案内にすれば案外たやすいことだったのです。
そして、スキタイ・サカ・匈奴は、イスラエル人同様に、バビロニアのマルドウクと月神を祀る民族なのです。
◆モンゴル帝国の影響
騎馬遊牧民族は、家畜を放牧しながらの移動で、山賊や他部族からの襲撃に備えなければならなりませんでした。
そのため、部族内の結束と規律は固く、男は兵士として育てられました。
つまり、民族の移動とは、軍・食料・家族・財産などの全ての移動であり、常に臨戦態勢の国家が移動しているのだと思えばただしく理解されると思います。
この遊牧軍事体制において、スキタイを引き継ぐ匈奴は、君主を中央にして、左翼と右翼に軍を分け、整然と遊牧を進めていた。
この君主・左翼・右翼の三極体制、そして十進法による軍事・社会組織を二大特徴とする国家システムが、ユーラシア遊牧系国家の基本システムとなりました。
バビロニアや中東の戦乱を逃れ、ユーラシア大陸に移動してきた民族は、イスラエル族も含め、騎馬遊牧民族と融合しながら、シルクロードのオアシスなどに国家を建国してゆきます。
騎馬遊牧民族からの防衛のために、国家では騎馬遊牧民族を傭兵として雇い、国防を任せていました。
そしてこの国家間を、騎馬遊牧民族が情報や物を交換しながら移動していたのです。
この様子は丁度日本で武士の勃興に似ています。
室町幕府が国軍を廃止し、各国ごとに防衛のために武士(騎馬遊牧民族)を雇います。
この武士が互いに連絡し合い、国を超えて、源頼朝(チンギス・カーン)を総大将とし幕府(モンゴル帝国)を開きます。
織田信長は日本を、女性の一人旅でも安全な国に作り替え、楽市楽座で商業を発展させました。
おそらく、騎馬遊牧民族を従えたイスラエル10部族やユダヤ人は、家畜と馬を捨て日本に渡来しました。
その時、ユダヤ人に同化した騎馬遊牧民族は、家畜と馬を捨て日本に渡来し、その末裔が忍者や武士階級、松尾芭蕉のような転々と移動する人々だったのでしょう。
騎馬遊牧民族は軍事力を全面に、多人種、多言語、多宗教を容認する柔軟な政治システムにて、ユーラシア大陸の各国々を取り込んだ形になったのです。
ですから、国から国への移動に関しては、道や馬や海路が整備され、しかも安全が確保されました。
そのため、モンゴル帝国時代には、西洋を含め洋の東西で人物金と文化の交流が一挙に進みました。
当時のフランク王国は聖地イスラエルの奪還のために、十字軍を送り出していましたが、結局は決着がつかない状況で、十字軍は打ち切られました。
例えば、当時のモンゴル帝国の地図にはユーラシアと西洋、及びインドを経由した海図までが書き込まれていました。
やがて、モンゴル帝国が衰微していく中で、その末裔であるロシア帝国、ムガル帝国、大清帝国、オスマン帝国の時代へと移行してゆきます。
そして、キリスト教圏では、暗黒のキリスト教時代を抜け出し、ルネッサンスを経て大航海時代へと大きく移行して行くのです。
結局、日本が大東亜戦争にて、東亜の国々を西洋の軛くびきから解放したように、モンゴル帝国はメシア・キリスト教の軛から解放したのでした。
◆モンゴル帝国の基盤と大和民族
さて、モンゴル帝国の正史 (集史) 他から、彼らの宗教と風俗について列挙してみました。
これを読まれれば、どこか古代日本=大和時代にそっくりではないかと思われることでしょう。
モンゴル帝国の宗教は、日月星を中心とする、マルドウク・月神信仰が根底にあり、中心と六名の合計七名の支配体制は天界の七大天使の構成そのものです。
しかも、各大天使には四名の天使が付き添っており、この四方向を天とする思想は古バビロニアに由来しています。
加えて、男子男系の皇統も同じです。
遊牧の厳しい生活では、軍規・規律が常に求められ、その組織は天界を体現し、何事も合議制で決めています。
このような生活自体が無意識のうちに、天界への信仰を表しているのです。
固定した土地を持たないが故に、一緒に行動する人を「仲間」とみなし、宗教・言語・文化にこだわらないのが、特徴です。
それが故に、人類史上最大の大帝国を築き上げ、メシア・キリスト教の暗黒時代に終止符を打ったのです。
一方、日本に渡来した大和時代の有力氏族と遊牧民族との間に、多言語・多宗教・多文化をまとめる聖徳太子の “和の精神” と “冠位十二階” と “合議の精神” が共通していることに驚かされました。
また、この序列をつけない合議は、中世武士団でもしばしば見られました。
そして、江戸時代には、政教分離・幕藩体制を中心として、各宗教・宗派が共存していました。
皇室と同じように、モンゴル王家は血統と血筋を非常に大切にしており、後継者は男子男系です。
ですから、ロシア帝国と大清帝国は、モンゴル王家から嫁をもらい婿として血縁関係を深め、統治の正当性としたのです。
しかし、男子男系では無いために、ウルスを名乗ることはできませんでした。
◆「チュルク」
ユーラシアの内陸部に大きく広がる人々を、一括して「チュルク」だと述べている。
つまり、ロシアから中国まで、モンゴル帝国内に点在する遊牧民族は全て同じ民族だ、ということ。
◆「モンゴル」とは一つの種族では無く、多言語・多人種・多文化の人々のこと。
◆「仲間」
敵方の人間・部族・国などを吸収する時、「仲間」になるかを選択させた。
「仲間」なにれば、言語・人種・文化に関係なく、彼らの一員として認められた。
遊牧民は固定した土地を持たず、一緒に集団で行動する人達を「仲間」とし、その「仲間」の総体を国と見なしていた。
モンゴル帝国には人種差別はほとんど無く、能力、実力、知恵、技術、才能など、人に勝る能力があれば、どんどん用いられていた。
だから、信じられないことに、モンゴル帝国には、キリスト教集団、景教集団、イスラム教集団、仏教集団、ユダヤ教集団、ヒンズー教集団が、共存していた。
このようにして、各地域の遊牧民を取り込みながら、国々を帰属させていった。
◆モンゴルの支配は、信教の自由をはじめ、基本的にどの地域でもゆるやかで、徴税も他の時代よりも低率だった(十分の一税)。
◆モンゴル帝国では、遊牧軍事体制を国権の中心に据え、
財務・行政にユダヤ・イラン人などの多人種の官僚組織、
各宗教・宗派ごとの聖職者組織を、
国家・社会の柱とした。
◆円座による合議制
強烈な一族の結束に基づき、部族単位の社会をとりまとめる長老達の会議は、
円座しながら合議制で決定・判断される。
円座する理由は、会議に集う者には上下の関係は無く、皆対等だということを意味している。
そして、部族を超えた大会議では、色服により区別された。
また、円座に飲食が加われば、宴会の意味にもなる。
キリスト教暗黒時代の神聖ローマ帝国時代、十字軍を繰り返し、イスラム共に消耗していた。
そこに、ヨーロッパと北京を4ヶ月で結ぶ情報ハイウエイと交通網が整備され、
宗教の共存、多人種、多言語国家で、活気あふれるモンゴル帝国が圧倒的な強さで出現した。
暗黒時代のヨーロッパは、モンゴルと比較にならないほど非科学的だった。
日本で言えば黒船到来と同じで、この暗黒時代の転換期をもたらし、キリスト教の軛を断ち切り、ルネッサンスへと向かわせたのが、モンゴル帝国でした。
大和国の有力氏族は渡来人達で、彼らはシルクロードを通じて、ユーラシア大陸を横断するのに騎馬民族の軍事力と道案内を借りなければなりませんでした。
ですから、イスラエル、ユダヤ、バビロニア、等々と騎馬民族文化とはシルクロードで融合していたのです。
■孔子誕生と諸子百家
「儒家」は葬儀業者として出発した。
春秋時代の六世紀半ば、魯国に生まれた孔丘(孔子)は儒家の祖とされるが、そもそも「儒」とは祈祷や葬送儀礼を職業とする「巫祝(ふくしゅく)」(シャマン)をさすことばであった。
「儒」はもともと「雨がやむのを待つ」「非活動的」という意味で、祭祀や儀礼をつかさどる人を、その態度や服装から「儒」といった。
のち孔子学派を批判する者が、その説を迂遠かつ非実用的であるとしてあなどり、「儒」と呼んだのである。
それから百年ほどのちに孟子が自己の学説を「儒」といいはじめ、孔子学派も儒を自称するようになった。
原始儒教の巫祝は、葬儀業者として遺族がおこなう葬礼にかかわっていた。
宗教としての儒教では、精神の主宰者「魂(こん)」と肉体の主宰者「塊(ぱく)」が一致しているのが生きている状態で、
「魂」が天上に、「塊」が地下へと分離するのが死である。
命日には頭蓋骨を生者の頭にかぶせて死者になぞらえ、魂塊を憑りつかせた。
やがて頭蓋骨が仮面となり、身代わりの人間が木の板にかわって位牌になった。
孔子のいう「孝」とは父母への敬愛、子孫を生むということを意味するだけでなく、祖先にたいする祭祀(招魂儀礼)を第一義とするものであった。
また、孔子は音楽を重要視したが、これも儀礼には音楽がつきものであったからである。
孔子は礼楽(礼節と音楽・文化)の専門家となり、「詩」と「書」を文献学的に整理統合し、行政官僚の教養を授ける塾をひらいた。
その後、性善説をとなえる孟子や、性悪説を主張する筍子によっで政治思想が深められ、また、徳をもって治めるのを理想とする儒家の徳治政治にたいして、筍子の弟子であった韓非子が法家の立場から法治政治を対置するようになった。
儀礼・葬儀を重んじる儒家にたいし、墨子(墨家)は「礼」の簡素化を主張し、
音楽は「非生産的」であると批判した。
また、儒家の「孝」のように親子や家族の関係を重視するのではなく、すべての人をわけへだてなく愛する、いわゆる「兼愛」を説いた。
いつの時代の人か、その実在さえたしかではないが、老子がひらいたとされる道家は、孟子と同時代の荘子に受けつがれた。
これはむしろ世俗を去って隠遁生活をすすめるものであった。
大小あわせて二百ともいわれる多くの国が五百年以上にわたって争いをくりかえした変転きわまりない時代が、儒家、墨家、法家、道家、孫子の兵家などの「諸子(子は先生の意)百家」を生む背景であった。
孔子の祭祀・儀礼・雅楽は、秦氏の役割とほぼ同じですが、秦氏は孝を最優先はしていません。
孔子の行き過ぎた「孝」は、孔子の心理的な要因がそのようにさせたのでしょう。
おそらく、親族との離別への苦悩を経験したからだと思います。
だから理念的なのです。
ですから、「孝」を優先する故に、親族が犯罪を犯しても、これを庇うのが当然とされ、公よりも私が優先されてしまった。
十戒には「汝盗むなかれ」「汝姦淫するなかれ」「汝殺すなかれ」といった「私」よりも「律法(公)」に従う掟があったのだが、これが抜け落ちてしまっている。
この歪みを正すべく、墨家、法家、道家、兵家などが現れたとも考えられるでしょう。
◆雅言
漢字で綴られた雅言の特徴は、名詞や動詞や性や数詞や時制の区別、接頭語も接尾語もなく、「てにをは」もない。
しかも、読みは「諸子百家」でばらばらで、互いの学派でどのように読んで良いのか分からなかった。
日本では漢文に返り点や「てにおは」を入れ独自の読みをしたが、
現在の中国人は論語は読めないのです。
■秦国(Chin)と秦氏
前770頃に周の時代が崩壊し、春秋戦国時代から、前221年に秦の始皇帝が中国を統一します。
前606年頃、長江の中流に勃興した「楚」は、周などの中原からすれば文化と民族を別にする夷狄(いてき)に当たります。
楚は高床式家屋に住み、稲作を行う民族で、祖先は周と同じとされています。
そして、前721年に北イスラエルが滅亡しており、個人的には、イスラエルの十氏族の末裔である楚が秦により征服される時、日本に亡命し稲作文化を伝えたのだと推測しています。
同時に、前700年頃、ユダヤ人であるイザヤの民が日本に直接移住しています。
秦はメディア人による王国で、儒教を弾圧しています。
そして、弾圧に耐えかねて “秦一族” が日本に渡来しています。
ちなみに、この秦(Chin)がインドに伝わりChinaになり、ドイツ語のChinaの語源となった。
支那についてもChinaを漢字音で移したものです。
天下を統一した秦は、楚を漢の地に封じます。
そして、秦が崩壊すると、周の後ろ盾により楚が挙兵し、秦を滅ぼして漢を建国します。
従って、漢はイスラエル十氏族の王朝です。
また、随文帝、唐の高祖は、軍人であり騎馬民族の血統です。
同じく、宋の朱全忠もまた反乱軍で、賤民でした。
それゆえ、彼は宦官と漢民族の貴族を皆殺しにしました。
その後の、元はモンゴル帝国、大清はモンゴル帝国の末裔です。
そして、元の後の明は、貧農の子・朱元璋により、モンゴル帝国の経営を継承し、皇帝の権限を強化しました。
まとめると、ほとんどの王朝が漢民族ではなく、中原中心史観からすれば蛮族とされた北方の遊牧騎馬民族モンゴル・満州族、南方の楚・越・呉の方が、歴史的にはかえって活躍していることが分かります。
しかも、楚が漢に封じられてはいますが、漢民族というその実態は不明のままで、事実はほんの少数に過ぎなかったのです。
◆秦の始皇帝の焚書令
漢字には文法が無く、各学派で、読み方も漢字の意味も形も違っており、教団が異なれば読み書きができないような状況だった。
そこで、漢字の用法、字体、発音を統一するために、医薬・占い・農業技術などの実用書を除き、民間の書物を没収して焼却し、私有を禁じた。
そして宮廷学者のテキストはそのままとし、今後文字を学ぼうとする者は、公共の機関で文字を学ぶことができるようにした。
■中華王朝の盛衰は必然
中原では、易姓革命により、大量虐殺の末に文明が滅び、賤民が勃興して新しい文明が起こり、しばらくの繁栄を謳歌し、再び大量虐殺の易姓革命が繰り返されました。
新しい王朝が始まると、封建制度の下で有力豪族や外戚と宦官、そして官僚が私腹を肥やし、皇帝一族は遊興にふけり、皇帝の権限が弱まる一方で、民は重税に苦しむようになります。
何故でしょうか。
それは、孔子式儒教は原始儒教(ユダヤ教)を模範としたが、神への愛と忠誠よりも親族への孝を最優先とし、しかも享楽については規制が全くないのです。
だから、家族最優先、しかも私利私欲を最優先とし、遊興に身を委ねるのは当然なのです。
孔子式儒教は易姓革命を完全否定します。
それどころか、いかなる皇帝でも尽くせと教えており、残忍な皇帝支配の暗黒政治から抜け出すには、易姓革命しか手段がないのです。
しかも、この易姓革命は、賤民や貧農によるもので、プロレタリア革命そのものです。
しかし、儒教と中華思想には、プロレタリア革命から抜け出す方法は、与えられていません。
それは、共産主義王朝においても同じで、このままであれば、易姓革命=プロレタリア革命を繰り返すだけでしかないのです。
流浪のユダヤ人は、王国を弱体化し、ユダヤ人に住みやすいような環境を創成する手法として、マルクスを通じて共産主義が人類に与えられました。
マルクス主義は、人民からの搾取については教えますが、分配の方法を教えていないのです。
だから、皇帝・孔子式儒教と全く同じ構図で、人民から奪うだけなのです。
ただ違うのは、共産主義下では、共産主義体制内でのプロレタリア革命を阻止するために、軍事を独裁し、敵を徹底的に虐殺することです。
中華思想では文人が最良とされ、科学・数学・軍事は卑しいものとされたゆえ、科挙の試験から理性を養う科学が削除されてしまいました。
だから支那版ルネサンスは起こりえず、神無き中華思想の決定的な欠点でもあります。
一方、ヨーロッパの皇帝は、皇帝権限を強化するために、メシア・キリスト教を国教と定めました。
それゆえ、人々は天国への切符を手にするために、地獄の苦しみから逃れるために、暗黒のキリスト教時代を堪え忍ばなければなりませんでした。
同じく、中国皇帝は皇帝権力を強化するため、神を捨てた孔子式儒教を取り入れました。
それゆえ、易姓革命を繰り返す暗黒時代が、現在でも支那人民並びに少数民族と呼ばれる人々を弾圧し続けているのです。
だからこそ、支那も韓国も北朝鮮も、君民共治の日本にあこがれているのです。
■三星堆積跡の巨人像
長江の上流にある三星堆積跡には、地元で取れる黄金、玉器、象牙などの高貴な遺物と、雲南省から取り寄せ加工した青銅器が大量に出土しています。
この雲南省の銅は、三星堆積跡を通過して、殷へ運ばれていたらしいのです。
三星堆積跡は滅ぼされ、殷は周に滅ぼされてしまいました。
ところが、セム族系の周は金属精錬を得意とせず、その技術はとうてい殷には及びませんでした。
似たような事例が、古代日本にもあります。
青銅器文明の出雲王国、鉄器文明の吉備王国、これを支配したユダヤの大和朝廷です。
違うのは、大和朝廷では、出雲王国を併合した時に三代にわたって女王を迎えています。
同じく、吉備王国を併合した時にも複数代に渡り女王を迎えており、統合王朝の形式を取っていることです。
中国のように、滅ぼしてしまったのではありません。
また、蘇我氏や藤原氏が皇后を出し、外戚として権勢を握りましたが、皇室を滅ぼそうとはしませんでした。
■カイン・カナン以外、もう一つの魔族(悪の種族)
ノアの大洪水を生き残ったのは、ノアの家族だけではありませんでした。
聖典には、カイン族、心正しい巨人族の預言者も生き残ったとあります。
他には、ノアの大洪水後、スンダランド大陸の山々の頂上のみが顔を出して、ポリネシア諸島になり、島々に生き残った人々がいました。
それは小柄で色黒のポリネシア人です。
彼らの神話にも大洪水のこと、生き残ったことが伝えられています。
ノアの大洪水後に生き残ったポリネシア人は、船でマレーシアに渡り、北上を続け、長江の東まで広がりました。
というのは、この地域から、頭を南に向けて埋葬された人々がいるからも納得できると思います。
つまり、長江の東側では、遊牧民族とポリネシア人が融合しました。
ある部族は遊牧の生活様式の家を作り、もう一つは稲作に適応した高床式の生活を取り入れました。
この中国大陸の長江中流から下流、南に住む高床式・稲作民族のことが、史記では “倭” と呼ばれています。
『古代中国と倭族』によれば、野生米からジャポニカ米への変化は、殷の時代に長江中流で起こったと述べています。
野生米は小粒で、実ると自然落下してしまい、手で拾うしかなく、脱穀が出来ずにとても不便なのです。
それが突然に、粒が大きく、自然落下しないように品種改良してしまったのです。
これは、小麦やブドウなどと同じで、アヌンナキによる品種改良の賜だと思います。
中原では小麦の畑作が中心ですが、小麦を捨て稲作の民として、湿潤なこの地域に適した生活様式を取り入れて、木造の高床式住居に住むように変わったのだと推測されます。
ポリネシア系稲族は、万古神話を持ち、蛇を崇拝し、体に入れ墨をします。
魏志倭人伝の中に、倭人は入れ墨をしていると書かれていることからも、彼らの一部は日本に渡来したのです。
同時に楚人も渡来している。
さらに、彼らの部落の入り口には二本の棒が立ち、しめ縄がはられており、日本の鳥居と同じ様式です。
更に彼らの高床式建築には千木があり、千木や鳥居には二羽の鳥が置かれています。
この鳥は、神様が降臨するための乗り物とされ、鳥居以外にも巨石や巨木をしめ縄でかこう習慣もあります。
これらの習慣は、イスラエルの十部族である楚人と混交した故に広まったのだと思います。
そしてこの生活様式に切り替えた稲族として東南アジアへ再度広がっていったのでしょう。
ポリネシア系稲作部族の一部には、食人の信仰がありました。
農耕民族はタンパク質の摂取量が不足しがちなので、狩猟民族に比べ、残酷な食習慣があったのですが、この信仰が日本に渡来して影響を与えなかったことに感謝したいと思います。
一方、中国人は人間を食料・家畜として見ており、死体の塩漬けを孔子は好んで食していたそうです。
他にも、子供や妻を殺して、客人に振る舞うことを当然とし、政治的に有利な官職を手に入れる手段としています。
かの劉備玄徳も人肉でもてなされ、おいしかったと感謝し、後に官職を与えて報いています。
信じられない、残忍で冷酷な習慣です。
この残忍な習慣は楚人と混交した食人信仰の稲作族が、秦の時代に漢族(カイン、カナン)と更に混交した結果なのではないかと思います。
(余談1)
参考文献によれば、「倭」を“わ”と呼んでいたその前は、“を”と呼んでいた。
中国では「越」=“を”と呼んでおり、物部一族の豪族「越智」の「越」は高床式・稲作民族のことだとすれば、彼らはしめ縄を左にするので、出雲大社のしめ縄が伊勢神宮と逆で左なのは、大社を封印するという意味ではなく、古代の習慣をそのまま残したためではないでしょうか。
(余談2)
大洪水用の箱船は複数個あった
一つは有名なノアの箱船だ。
ノアの家族以外にも、シッチン氏の本では金属技術を持つカインの末裔が生き残っていた。
更に、インカ神話では箱船に乗った夫婦がクスコ近くで生き残っている。
欧米人はノアの箱船だと位置づけるが、それは余りに傲慢だと思う。
ポリネシアにも箱船神話がるように、世界中に大洪水と生き残る人類の神話が残されている。
それに、ノアの家族とその妻だけから、白人・黒人・黄人種のすべてが生まれるはずはない。
だから、箱船は複数個あったのだと思う。
■悪魔の儀式 人身供養の元は同じ
人身供養を伴う農耕神儀式(雲南省)、
この中央の柱には一匹の蛇が刻まれ、殺された女性がこの蛇に化身するとされています。
この恐ろしい儀式が、日本の建築様式、
しかも、伊勢神宮にそっくりな社で執り行われているではありませんか。
一歩間違えば、古代日本はニンギジッダ夫妻の悪魔教に支配されていたのかもしれません。
表面的には、ほとんど変わりのない生活様式と風習を持っていても、悪魔教と天照大神の支配する日本では地獄と天国です。
尚、一匹の蛇=“独龍”と見なせば、
ポリネシア系稲作民族と同じ信仰です。
■何故、漢民族はロシア人より残虐なのか
白人が何故、有色人種に対して残忍で、しかも平気で殺せるのか。
◆色素不足は感情を抑えきれないことの理由
腸からカルシウムが摂取されるためには、ビタミンDが必要です。
いくらカルシウムを食べても、ビタミンDが足りなければ、吸収効率が悪いためカルシウムはあまり吸収されません。
人体の骨や歯の形成に必要なビタミンDは、太陽光を浴びることで紫外線がコレステロールを変化させる事でおよそ必要な分のビタミンDの半分の量をまかなっている。
(残り半分は食べ物から得られている)
ビタミンDが不足すると骨や歯が弱くなったり疲れやすくなったり、情緒不安定になる。
だから、メラニン色素を持たない、白人はメラニン色素を持つ有色人種よりも、紫外線を多く浴びるので、腸からのカルシウム吸収が多くなり、自然に骨太の体型となり易い。
さて、メラトニンは体内時計の調節を担う物質として知られ、夜間に多く分泌され、睡眠を促し体を休ませる。
メラトニンは脳のほぼ真ん中にある『松果体』と呼ばれる、松かさに似た、トウモロコシ1粒くらいの大きさの器官から放出されるホルモンです。
この物質がメラニン色素の量を変えることから「メラ」、
そしてセロトニンから作られるから「トニン」の2つをくっつけたものです。
メラニンを作る能力を持たない、もしくは非常に低い白人は、日光の影響を体内に取り入れる事が不得手なので、体内時計の調節を行うことも不得手だと推測される。
つまり、世界旅行をする場合、
白人は体内時計の調節が不得手なので、
有色人種に比べ睡眠薬を多用する事になる。
そして、ストレスや様々な環境変化に対し、睡眠調整が有色人種に比べ不得手なので、イライラが募り感情的な爆発が起こり易いのも当然頷ける。
だから、感情的な不安定は、体内のカルシウム蓄積量のより少ない、つまり骨太では無い白人の方がより大きいと思われる。
それゆえ、天上界は、白人には感情爆発に備え、知性を、理屈っぽい文明を与え、ネクタイを常用させたのでしょう。
◆天上界は、色素不足の白人を導かれた
さて、シュメル文明末期頃、地球環境の中で北欧は比較的ニビル星の生活環境に近いので、ニビル星人の血統の濃い金髪碧眼の種族が、人類から離れてこの地域に集まった。
ところが、白人が混血しながらもヨーロッパ大陸に広がると、生活環境が激変し、色素不足から、情緒不安が著しくなり、暴力や虐殺が多くなった。
そこで、天上界は白人に十戒や科学的な知性を与えることで、感情をコントロールすることを学ばせた。
その一方で、情緒不安定を数学的な音楽や絵画で調律することを教えたのです。つまり、色素不足という欠点を、知性で補うように導かれたのです。
産業革命後、白人がインドやアメリカ大陸に乗りだし、インド人やインディオを発見した時、アヌンナキが黒い頭の人類を使役した記憶が蘇り、彼らを奴隷として使役するのを当然とした。
アヌンナキは人類を使役したが、使えないからといって無慈悲に殺すことはなかった。
ところが、白人同士で働く知性がキリスト教の影響も有り、有色人種に対しては働かず、奴隷やインディオやシナ人を惨殺してしまったのではないかと推測されるのです。
◆漢人は人食いを美徳とした
それにしても、漢人は白人以上に残忍なのは何故なのか、
日本人と漢人は、同じモンゴロイドに区分されていますが、血統としては全く異なります。
これまでの議論から、漢人の出自は間違いなくカイン・カナンの子孫です。
ところが日本人はユダ族とプレアデスの子孫なのです。
シナ大陸の中原の歴史は、堕天使と交わり悪魔教を広めたカナン人の歴史と似ています。
どちらも交易の要衝で莫大な富と財宝をめがけて、周囲の異民族が武力支配しようとした。
そして、正しくは漢人という遺伝的な民族は存在せず、商売をするために、皇帝に税を納めれば、漢人として認られていた。
しかも、一番の交易の利権を独占していたのが皇帝でした。
シナ歴代王朝が創造したとされる、皇帝制、科挙、漢詩、偉大な発明はすべて異民族がもたらしたものです。
夏・殷はカインを意味し、交易に長けたカナン人も中原に渡来していたのでしょう。
そして、アトランティスが没した後、生き残ったポリネシアンが中原に移動する時に、女神を頂点とする悪魔教がもたらされています。
以上のような、古代中原の歴史の中で、地球史上最も残虐な歴史が繰り返されてきました。
例えば、自分より高位の貴族・官僚・武人などをもてなそうとして、自分の妻子を殺し料理として提供する。
また彼ら特権階級は “ご馳走になった” として、官位を与えることを、美徳とした。
また、食料が不足すると、村を襲いすべての村人を塩漬けにして保存食として保管し、常食していた。
さらに、生きたままのサルや人を食う、罪人の内臓を取り出し、当人が見ている前で焼く、
など白人でさえ恐れをなしてしまいます。
この人格破綻の残忍性は、どこから来るのだろうか。
◆家畜として創造された!?
白人は有色人種を奴隷にし、使役できなくなると殺していました。
当たり前ですが、食べることはしていません。
人間が人間を食うのは、自然の法則に反しおり、極端な飢餓状態でなければ起こりえません。
欧米社会でさえ、身内を殺したり、食べたりすることは、悪魔の傀儡とされ忌み嫌われています。
しかし、中原では、妻子を料理してもてなすことは美徳とされ、人間の塩漬は高価な食材の一つとして常食されていたのです。
まったく吐き気のする事実です。
一方、日本人は違いますが、欧米人は、家畜を殺すことに罪悪感はありません。
家畜は大切に取り扱い、太らせはしますが、使役はしません。
そして殺して冷凍保管します。
また、家畜の繁殖率は高い方が喜ばれるのですが、漢人の繁殖率も異常に高いのです。
ここまで検討すると、欧米人の牛に対する取り扱いは、シナ人の食人習慣とまったく同じだと、気がつきました。
つまり、黒い頭の人々は神々に奴隷として創造され、後に人権を与えられて、地球文明を再建築する神々のパートナーとなった。
だが、一方、中原では漢人は、奴隷ではなく、家畜として創造された。
だから、家畜人間は労働せずに、食事を与えられ、神・真理・正義・契約などには全く無関心で、より美味しく沢山食べることが生きる目的だった。
その最高の食材が人肉だったのだ。
だから、西洋で牛の部位の味と料理法と酒のレシピが発達したように、おぞましいことですが、シナでは人間の全身の料理方法が発達したのです。
この視点からすれば、歴代皇帝や毛沢東が人民を家畜のように殺していたこと、現在のシナでさえも、死刑囚の内臓を売り買いし、人肉饅頭が売られても平然としているのは、当然のことなのです。
そこで、シナ人は世界一利己的で、彼らの唯一の信仰は腹一杯食べることなのだとの石平氏の指摘は、まさに事実そのものだったと云うことが理解されます。