転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』
★日本神話に刻まれた神々の叡智
■はじめに
人類の知的水準に合わせて神々は人類に法を与えてこられました。
古代バビロニアではハムラビ法典、
アブラハムと神との契約、ヤコブと神との契約、
そしてモーセと神との契約(十戒)などなどです。
しかし、そのどれもが神の命令を絶対とするもので、特に聖書にある原罪は女性蔑視、男性優位社会の前提となってしまいました。
その延長として、二千年前にイエスを殺してしまうのです。
イエス殺しの罪悪感から、ユダヤ人に濡れ衣を着せ、悪魔教が跋扈ばっこします。
ついには、キリスト教の暗黒時代に至り、余りの抑圧から、共産主義が人類を虐殺へと煽あおり立てました。
日本に渡来した天神は、この旧約聖書・新約聖書の残虐性を改めようと、大和民族に神話を与えられたのだと思います。
つまり、日本神話は、旧約聖書の延長線上に接木された神の叡智だと思うのです。
今後、日本神話、旧約聖書、古代シュメル神話を、テーマごとに比較し、日本神話の特徴を調査することで、天神は日本に何を与えようとされたのかが明確に分かると思います。
例えば、最初の死について、最初の男女の愛について、最初の国作りについて、冥界の女王について、武人について、高天原での天照大の後継者、数え上げればきりがありません。
一例として、男女についてですが、アダムが寂しそうなのでイブはアダムの一部から生成された。
つまり、イブはアダムを喜ばすための一部に過ぎず、イブの原罪からも男尊女卑から、過激なウーマンリブへと発展する。
また、新約聖書では母マリアは、処女受胎という無理無題にもかかわらず、神の命令に従順に従う。
それは夫への従順では無く、神への信仰を尊いとされた。
つまり、妻というよりは、修道女の始まりである。
日本神話では、伊弉諾は伊弉冉に国うみを提案し、伊弉冉が了承する。
そして、互いの男女の性差を認め尊重し合うのです。
■日本神話のはじまり
例えばブータンが憲法を新しくするとき、新憲法を制定する段階で参考にしたのが明治憲法、日本国憲法、そして聖徳太子の十七条憲法だというのです。
国王は皇太子の時代から、憲法公布にあたって国内各地をくまなく巡って、憲法についての説明を行い、同時に、国民たちの意見を細かく問うて議会に反映したのだそうです。
マッカーサ憲法=米国の日本占領施策を破棄し、日本国民の手による憲法の素案は、ブータン国の要領で良いのだと思うのです。
難しい言葉を使わず、世界の目を気にせず、見栄を張らず、大和民族としての建国の理念を踏襲し、日本人の日本人による日本人と祖霊と自然のための誇り高き憲法であれば、それで良いのだ。
◆日本国憲法について
ブータンが憲法を新しくするときの話です。
ブータンが新憲法を制定する段階で参考にしたのが明治憲法、日本国憲法、そして聖徳太子の十七条憲法『官僚や貴族に対する道徳的な規範を示したもので、道徳の遵守と社会平和の精神があったから』だというのです。
国王は皇太子の時代から、憲法公布にあたって国内各地をくまなく巡って、憲法についての説明を行い、同時に、国民たちの意見を細かく問いて議会に報告しました。
明治憲法は、伊藤博文がドイツの一王国の憲法をまねて作った物で、当時西洋列強との間で取り交わされていた治外法権・関税率等の不平等条約の早期是正をめざし、富国強兵のために急いで作成したものでした。
このため、英国の責任内閣制を知りながらも、残念なことに明治憲法には反映されませんでした。
太子の十七条憲法は、国家の理念を打ち出しました。
「和の精神」、「民に二君無し」です。
また、大化の改新後は日本式律令制に移行しましたが、実質は『十七条憲法』と『大化の改新』が法でした。
鎌倉時代に入り、律令制の下で、国民にも分かる言葉で書かれ、法廷ごとに同じ基準をもたらす式目が制定されました。これが国民憲法第一号でした。
信長は、戦の度に農民を駆り立てることを止め、職業軍人による軍隊を創設しました。
当然、農民が安心して農業に従事できる農民保護も兼ね、兵農分離を断行したのです。
後には身分制度へと発展して行きます。
江戸時代には、律令制が残り、立憲君主制に近く、士農工商の身分制度がありましたが、実質的な憲法は式目でした。
また明治の実質的な憲法は、五箇条の御誓文と教育勅語でした。
何を言いたいかというと、
憲法の前文は、国民の共通認識とすべきもので、国家の理念をうたえばよい。
細かいことは、法令集にまかせればよいのだと思います。
明治の時代では、明治憲法を学校で習うことはほとんど無く、教育勅語と五箇条の御誓文が学校で繰り返し教えられていたと聞いています。
つまり、米国で毎朝国旗に向かい忠誠を誓うのですが、日本はそれに相当するのが教育勅語だった。
ですから、明治憲法を知らなくても、教育勅語を知っていれば生活に困ることは無かった。
現在は、日本国憲法も、教育勅語も、日本神話も知らず、ただ古来の伝統が生活に生き残っている状態だと思います。
もし日本国憲法を一度破棄し、書き換えるのなら、日本神話を縦糸として、神武天皇の建国の詔、憲法十七条、五箇条の御誓文、教育勅語、昭和天皇の「新日本建設に関する詔書」を骨子とし、明治憲法の良いところを生かすのが良いのではないかと思います。
昭和21年の元旦に「新日本建設に関する詔書」の初めに「五箇条の御誓文」が全文そのまま掲げてあります。
それに続いて次のごとく仰せられています。
「すべからくこの御趣旨に則り、旧来の因習を去り、
・・・
官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、以って民生の向上を図り、新日本を建設すべし」
詔書に「五箇条の御誓文」を掲げられた意味合いを、昭和52年、昭和天皇ご自身が次のように語っておられます。
「それ(五箇条の御誓文を入れること)が実はあの詔書の一番の目的であって、
神格とかそういうことは二の次の問題でした。
当時はアメリカその他諸外国の勢力が強く、圧倒される心配があったので、民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義が決して輸入のものではない、ということを示す必要があった。
日本国民が誇りを忘れると具合が悪いと思いまして、誇りを忘れさせないために、あの宣言(詔書)を考えたのです」
(『読売新聞』)
まさに戦後の日本は、昭和天皇のもと、「五箇条のご誓文」(神武天皇の建国の理念)を原点として再出発することになったのでした。
◆神々は大和民族に知性と科学を与えられた
西洋では、暗黒のメシア・キリスト教時代を通じ、人々が抑圧され苦しみました。
そのため、ルネサンスが訪れ、神とはなんぞやと真実の神に帰ることで、人間性の復興と共に飛躍的に科学が発達しました。
つまり、間違った形の宗教の束縛から、科学が解放してくれたのです。
しかし、日本にはこのような暗黒の宗教史は全く存在していません。
しかし、科学は発達していました。
例えば、面積では世界一の仁徳天皇陵、四〇メートルを超す出雲大社社殿があります。
聖武天皇は東大寺を国民と一緒に建立しましたが、木造建築では高さ広さ共に、まさに三国一(インド、中国、ペルシャ)の大建造物でした。
つまり、それだけの科学知識と技術があったのです。
種子島に流れ着いた火縄銃を改造し、世界一の品質に高めるだけの科学的な分析力と技術がありました。
江戸時代には、ニュートンやライプニッツの少し前に、微分積分と同等な発見をしていました。
だから、明治時代すぐに科学技術を習得してしまいました。
では何故、日本に科学的な素養が培われ、高度な科学知識がもたらされたのでしょうか?
キリスト教では、イブが神に背き原罰を背負う。
この原罰が彼らの子にも影響し、兄カインは弟アベルを殺してしまう。
原罪故に、全知全能の神、永遠に生きる神に理性を委ね服従することを、信仰としたのです。
永遠の生命はあり得ない、何よりも宇宙を創造するような人格神は存在しない、非常に非科学的な教義を信じ込むように追い詰められた。
比較すると日本の場合、伊弉諾・伊弉冉の〝国産み神話〟では、二人は男女の生物学的な特性を尊重し合い、合意を求め協力しながら天つ神の助言を信じて、〝国産み〟を行いました。
更に、伊弉諾の冥界下りでは、伊弉冉は黄泉の国の住人となり、神には限られた寿命があることが当たり前とされたのです。
つまり、非常に科学的な生活態度と姿勢を日本神話から与えられていたということに、『古事記と日本人 渡部昇一』を読んで教えられました。
科学の発展に宗教の暗黒時代は必要なかった。
日本人でありながら、改めて教えられました。
◇
国うみ神話による和合国の根本は男女の和合にあると教えているのです。
だから、神武天皇は様々な地神と婚姻し、国の安定としました。
同じく、明治維新で破れた会津藩から皇室に嫁ぐことで日本の分裂という傷は癒やされました。
これが、伊弉冉と伊弉諾から始まる和の精神で、神武天皇はこれを踏襲され、太子は十七条憲法に〝和をもって貴し〟に反映されたのだと思います。
◇
ヘブライ語で 祇園祭は、古代イスラエルのシオン祭りがルーツであるとも。
7月1日から1ケ月間祭りは続き、
ノアの箱舟がアララト山に漂着した7月17日にクライマックスを迎えます。
技術者集団である秦氏が、古代イスラエル文化を日本に伝えたと云われています。
平安京をつくったのは桓武天皇を支えた秦氏が、技術・資金のほとんどを提供し、祇園祭を主催する八坂神社(「ヤサカ」は「神への信仰」)をつくり、故郷のエルサレ(平安という意味)神殿と都を再建したのだと思います。
また、イザナギは「あなにやし えをとめを」について、
「あなにやし」はヘブライ語で「私は結婚します」という意味だそうです。
◆かまどの煙の国柄
第16代仁徳天皇は難波の高津宮に住まわれました。
まもなく、高殿から回りを見渡され、民家から立ち上る炊飯の煙が少ない。
これは民の生活が苦しいのだと、お心にとめられた。
そこで、全国民の税や奉仕を3年間免除されたのです。
このため宮殿は荒れ宮廷の倉の蓄えも乏しくなりましたが、3年後に民のかまどから煙が多く立ち上るのを見て喜ばれたそうです。
この物語は大阪市の市歌として受け継がれています。
高津の宮の昔より
よよの栄を重ねきて
民のかまどに立つ煙
にぎわいまさる 大阪市
にぎわいまさる 大阪市
例えば、大国主命は、素戔嗚尊と天照大の正当な血統を認めたが故に、政権を禅譲しました。
出雲国から大量の青銅器が発掘されていることから、当時において、大和政権よりも巨大な軍事力を誇っていたと推測されます。
更に、徳川慶喜は天皇に恭順の意を示し、明治政府に政権を禅譲しました。
当時において、幕府のほうが薩長よりも軍事力では勝っていたのです。
西南戦争においても、もし国家的英雄の西郷隆盛が徹底抗戦するつもりであれば、佐賀の乱と共闘しないはずはない。
また、軍事的にも軍隊の体をなさない明治政府と比べて互角以上だった。
日本の国柄として、軍事力では無く、血統を重んじ、大義につくことを正義としてきました。
それは、ひとえに「かまどの煙」に象徴されているのだと思います。
大東亜戦争に敗戦し、世界中が日本の皇帝は命乞いをし、亡命するだろうとたかをくくっていた。
しかし、昭和天皇は大戦中もですが、戦後においてのマッカーサーとの会見でもお命を賭してでも国民を救おうとされました。
ここに日本人の君臣共治の精神=大和魂の原点があるのだと思います。
だからこそ、戦前戦中戦後において、同じ天皇が日本の君主だった事実を知ると、まずは世界中は驚嘆し、その後に敬意を表するのです。
◆『論語』顔淵篇
中国は古代、孔子の弟子であった有若と君主の哀公との問で行われた、税をめぐる有名な話がある。
かまどの煙との違いは明らかです。
哀公が
「近ごろ不作であり (税収が少なく) 費用が不足してきておる。
どうすれば良いのじゃ」
と有若にたずねた。
すると有若は、減税して税率を一割にしてはいかがと答えた。
すると哀公は
「今の税率二割でも不足となっておるのに、どうして一割に減税することなどできようぞ」
と笑った。
有若はこう申し上げた。
「もし人々が (減税によって生活が) 足りているとなりますならば、為政者はだれと不足だとぼやくことになるのですか。
逆に、もし人々が (重税のために生活が) 不足ということになりますならば、為政者は (歳入増によってほくほく顔で) 誰といっしょに足りていると喜ぶことになるのですか」
と。
■「十七条憲法」は神に仕える「掟」
◆和歌と悟り
率直な気持ちを歌にするのは、神武天皇以来の日本の伝統である。
自分の心をその時その場に応じて、思いつくまま率直に歌にする。
悩み事や社会の規範などの束縛を忘れ、貧富の差や身分などを超越したところに、歌の感動があるのだ。
つまり、歌の前では日本人は誰も彼も平等だった。
逆に、身分や貧富や男女の差を云々していては名歌は生まれないのです。
この神武天皇により もたらされた、すばらしい伝統は、世界に誇れる内面の豊かさを私たちにもたらしました。
豊かな内面に、シルクロードを経由した外国からの官僚制度や漢詩やインド・中東の知識などが教養として昇華され、つまり自分のこととして受け入れられ、源氏物語などのすばらしい文化が花開いたのです。
情緒豊かな内面が大きく育っているが故に、客観性を育てる教養を消化できたのでした。
仏教では第三者の立場に立って物事を見・考えることが、悟りをもたらすというのです。
これは私情を大切にしながら、客観的に物事を見る習慣を身につけることで、個人のみ成らず社会の悩み事をも解決する手段としたのでした。
だから、日本人が和歌を愛し、教養を身につけ、これまでの視点に加え新しい視点を発見し、日本文化を豊かに育ててきたことは、まさに釈迦の教えを大和風に実践していたということになります。
内面と客観性の融合は、仏教では慈悲と戒律、キリスト教系では愛と律法として、その宗教の中心に存在する永遠の課題です。
この問題の解決として、表現は異なりますが本質は同じで、日本では歌を実践し、仏教では悟りを求め、キリスト教では神の愛を求めたのです。
ですから、悟りを得るには、なにも出家して僧侶になる必要も、神父を目指す必要もありません。
悟り=新しい視点=真実の前には、老若男女・貧富・身分の差はなく、全人類が平等で、毎日の生活の中で知恵を働かせて少しずつ日々得られるもの(自他一如)で、その先に既存の宗教を越えた共存共栄の社会も達成されるのではないでしょうか。
結局、宗教は手段で有り、目的では無いのだから、このことを理解すれば将来、宗教戦争も無くなることでしょう。
強調したいのは、内面の豊かさを育てる情操教育、人の心を思い測る思いやりの心は、乳幼児教育が非常に大切だということです。
日本の乳幼児への医療や教育の伝統は、世界のどこよりも早く発達してきました。
その一つが幼稚園教育ですがこれを破壊すること、自由でとらわれの無い歌の心が左翼人の提唱する『人権擁護法』により阻害されてしまえば、日本人の内面の崩壊はこれまで以上に加速されてしまいます。
それは、神武天皇から始まる日本民族の終焉でもあると思います。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・仏教は、戒律が厳しく、個人の内面の豊かさを軽視する傾向があります。
だから、互いに折り合うことが無いのです。
ところが、内面の豊かさをもたらす神道は、これらの宗教にはない柔和さがあり、全く別の宗教なのだと思われてしまいます。
フランス人アンドレイ・マルロー(1901~1976)は、伊勢神宮で
「伊勢とアインシュタインは収斂する」
との啓示を受けたとあり、
〝内面の宗教と客観性の科学は一致する〟
その通りだと思います。
◆ 仏壇と祖先崇拝
仏壇仏教は、仏陀の説いた仏教とは何の関係もありません。
全く無関係です。
日本の場合、天照大から始まる皇室の祖霊を祀り、皇室を大切にしています。
ところが、仏壇が登場するまでは、各集落や各家庭の祖先を祀る場所が何も無かったのです。
そこで、自分たち集落の祖霊を氏神とし社を建て、天照大を頂点においたのです。
家庭では仏壇に自分たちの祖霊を祀りました。
少なくとも仏壇仏教は、この素朴な祖先を祀る・大切にするという原点に返るべきだと思います。
尚、霊体には仏壇やお墓は本当は必要ではありません。
そんなジメジメした暗いところに、だれも長時間居たいとは思わないですよね。
◆「十七条憲法」は神に仕える「掟」
渡部著の『日本の歴史 古代編』を読んで、ハッとしました。
太子の「十七条憲法」は神に仕える十七の掟だというのだ。
米国では大統領が聖書に手を置いて神に宣誓する。
これの日本版なのだと納得した。
本書によれば、憲法は〝いつくしきのり〟と読み、
「いつく」は「斎く」、
つまり「心身を清めて神に仕える」という意味だから、
憲法とは、おごそかな気持ちで取り扱うべき捉、ということになるのだ。
太子はこの憲法を推古天皇の十二年(六〇四)の夏四月に制定した。
太子当時の有力士族はバビロン方面からの渡来人だという前提だが、この「十二」は古代シュメル・古代バビロン当時から聖なる数で、神々の最高神十二名のことだ。
また古代バビロンでは、「四」は四方世界を支配する四大天使を意味し、これを仏教が吸収して四天王とした。
だから、十二年の四月というめでたい日に制定したのだ。
また、冠位十二階が何故十二なのかも、すぐに理解されることでしょう。
さて、何故十七なのだろう。
皇室の紋章である「十六菊花紋」は、湾岸戦争当時の記者会見でイラクのフセイン大統領も腕にしていた。
つまり、この十六菊花紋は古代バビロニアの太陽神・マルドウクに由来する。
簡単に云えば、
「六」はマルドウクのシンボル、
「十」はマルドウクから王位を引き継ぐ月神(四代目ヤハウエ)のシンボルであり、
つまり「十六」は連合政権のシンボルなのだ。
さて古代バビロニア当時から、
神の聖なる数は「十二」「十」「七」だった。
ちなみに七は七大天使、裁きに臨席する神という意味だ。
だから、「十七」は神ヤハウエと七大天使を表す。
まさに「十七条憲法」は神に仕える「掟」にふさわしい。
そこで「心身を清めて神に仕える」という心構えだが、
日常の固定概念や貧富の差や身分に縛られていては達成できない。
なぜなら、己の良心と神との一対一の対峙だからだ。
この何者にもとらわれず、虚飾を廃止して、自分の素直な姿をあらわす。
それがまさに俳句や和歌の精神なのだ。
つまり、俳句の五七五は合わせて「十七」で、内面を豊かにし、しかも神に通じるように日本人に与えられた神の宝だったのです。
結論として、神武天皇即位時の国作りの理念
「正しい心を広めて、皆が一つの家族同様の国を造ろう」
と、神武天皇から始まる歌の伝統は、神々により日本人に与えられたものだった。
仁徳天皇は民の窮状をご自身の家族のこととされ、民を救おうとされた。
太子は戦乱の大和国を救わんと神武天皇の精神まで戻り、十七条憲法を制定した。
同じく日本の危機を救わんと明治天皇は、神武天皇の精神まで戻り、五箇条御誓文、教育勅語を制定されたのだ。
そして、大東亜戦争敗戦時の昭和上皇もまた、敗戦に自信喪失していた日本人を立ち直らせようと神武天皇の精神に戻られたのです。
独立外交を毅然として貫いた太子の「和をもって貴しとす」の精神は、英霊と共に、マッカーサ憲法の平和憲法(平和を愛する諸国民の公正と信義を信じて国軍を放棄する)に縛られた私たちに、
何時になれば神武天皇の精神に戻るのか、と訴えられているように思うのです。
◆日本人の「和の精神」の起源はどこから
妥協することのない三大宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム)に加え、左翼原理主義が油を注ぎながら、中東の宗教戦争は何時終焉を迎えるのでしょうか。
神の教えとその律法を生活規範とする三大宗教は、同じ宗教を信じる者同士が大規模な共同体を形成し、互いに他を排除してきました。
だから、生活規範の異なる宗教国家間では、妥協は許されないのでしょう。
ところが、同じ中東に生まれたゾロアスター教は、他の宗教に寛容でした。
ペルシャのキュロス王は、忠実なゾロアスター教の礼拝者で、宇宙の摂理に従って広大な新帝国を公正に善く治めようと努めました。
当時多種多様な宗教を寛容にも認め、イラン人の宗教を異民族に強制するようなことはしなかった。
キュロス王の寛容さの恩恵を受け、バビロン捕囚から解かれたユダヤ人はエルサレムに帰り、神殿の再建を許されました。
(前598年で、神武天皇即位もこの頃です)
ゾロアスター教では、「水」と「火」が重要視されます。
誓約の場合には「水」、
契約の場合には「火」による神判に従うべきものとされたからです。
「水」は他の宗教でも重要で、水で洗礼を授けた洗礼者ヨハネ、魔を払う聖水、沐浴による清め。
ソロモン神殿の入り口には水桶があり、人々は手を洗い清めました。
日本の神社と同じです。
水により罪を洗い流し、罪を清めるのです。
一方、「火」とは、神の裁きと律法のことで、最大の火はすべての罪を焼き尽くす太陽(日)です。
当然、男神です。
日本民族の起源は、天照大と素戔嗚尊との誓約から始まります。
だから、神道では「水」を大切にするのでしょう。
「水」にふさわしく、最高神は女神・天照大です。
太子の時代、宗教を異にする有力氏族がひしめき合う国内で、神の「火」は永遠の戦乱をもたらしたことでしょう。
太子は「和をもって貴しとする」の合議制を基本に据え、大和を一つにまとめ上げました。
その神の叡智と原動力は、日本神話の底流を流れ続ける「水」、
すなわち「誓約」の物語だったのだと思います。
これは、伊弉諾と伊弉冉尊の“国うみ神話”に源流があることは明らかです。
◆神道の本当の姿
神道(イエスをメシアと認めないユダヤ教)はユダヤ教の正当な末裔であるにもかかわらず、旧約・新約のように教義が明確ではない。
だから、神道が、メシアキリスト教や共産主義からの攻撃に強い一面もあるが、このままでは自然崩壊してしまう危機も有ると思っていました。
しかし、ホメロスやケルト神話、エジプト神話などを読むと、その民族の特徴が分かります。
同じく、『古事記と日本人 渡部昇一』を読むと日本人の特質が明確に現れています。
白村江の戦いに敗れ、唐の植民地支配を受け入れ、それゆえ『記紀』は一部改竄されていますが、日本人の特質を明らかにするものです。
つまり、他の宗教を認めないユダヤ一神教に、日本神話を接ぎ木したものが、神道でした。
なぜそう言えるのか、それは、ユダヤ教でも原始キリスト教でも実現できなかった、君臣一体の共治(大和魂)の実現が神道にはあるからです。
そしてそれは、聖徳太子の時代から受け継がれ、江戸時代にほぼ確立し、明治維新を成功させた原動力でした。
それこそが、ユダヤ民族が求めて止まない、ユダヤ国家のあるべき姿だった。
さらには、天上界が一人の大王により統べられる王国であること。
その真の姿の映し鏡が、君臣一体の共治(大和魂)なのです。
◆日の丸は神の民の象徴
日の丸は、丸い赤い太陽と潔白の白で、日本民族の精神を表していると言われています。
ここでは、日本人が神の民に相応しい国旗だと言うことを説明します。
神との契約は、〝火と水〟です。
〝火〟は聖霊による魂の浄化を意味しています。
霊魂の極刑である消滅も火です。
また、〝水〟は信頼に基づく約束である誓約(うけい)を意味しています。
つまり戒律と誓約が、神との契約です。モーセの十戒とキリスト教には、戒律しかありません。
太陽神・天照大は、互いを信頼する誓約を聖書に接木され、新しい正法として神道を与えられました。
結局、〝火〟で一番偉大なのは太陽・天照大です。
そして、白は浄化された水をあらわしています。
つまり、日の丸は神の民という意味で、ヤマトと同じ意味だったのです。
◆日本神話に秘められた神道には
これといった教義がない
例えば、聖書であれば、
“汝殺すなかれ”
“汝の隣人を愛せよ”
など有名な神の命令・教義があります。
それゆえ、契約社会で有り、同じ教義を信じる者しか信頼できないのが通常です。
教義が明確であることは、後世に伝える点では良いのですが、かえって教義があるが故に排他的となり、他の有益な知識や習慣を取り入れることが難しくなってしまいます。
つまり、科学の進歩を拒否すれば、教義を信じる集団の知的進歩が後れてしまい、一層、他の教義を受け入れることができなくなってしまう。
大和民族に対しては、教義の代わりに、神の啓示による神話が与えられました。神話の中に生活一般に対する模範が示されており、これを読み続け伝承することで民族全体が神話の精神を共有するので、男女間のあり方、冠婚葬祭の方法、政治や祭儀など生活一般の指針が自然と身についてしまいます。
加えて、日本武尊は武士道からすれば卑怯な方法、つまり策略を用いて大和国を統一に導きます。
つまり、外敵から国を守る軍事的なことさえも教えられているのです。
私たち日本人は、この神話を元にした生活を知らず知らずのうちに身につけて生きてきました。
そして、時代に応じて、建国の詔、十七条憲法、日本式儒教、日本式仏教、日本式官僚制、諸法度、明治憲法、五箇条の御誓文、教育勅語、昭和日本の建国の詔など、神話の精神を継承してきました。
つまり、神の命令・教義に縛られないが故に、これを表現する方法として、時代に応じて必要な表現を柔軟に取り入れて使ってきたのでした。
例えば、
大和言葉で日本人の心情を表現する和歌が発達し、
論理的な表現として漢詩を使いこなし、
儒教、仏教、律令、科学などどを日本式に取捨選択して取り込みつつ、
日本文化は豊に育ってきました。
その原点は一つ、
ユダヤ教に “和を以て貴しとする” の精神を接ぎ木した日本神話こそが、神から与えられた当時の新しい法(神道)だったのです。
それが故に、日本は天皇制・君臣一体の共治の国体として進化しつつ、神々に守られ続けてきました。
近頃、西洋文明がやっと日本神話に近づいてきたと言えるでしょう。
◆民族のルーツ
何年か前に「ルーツ」という映画が評判になりました。
奴隷としてアフリカから強制的に米国に連れてこられた黒人の子孫の物語です。
彼は、自分のルーツを探し求め、故郷のアフリカにたどり着きました。
それは、自分の血の中に、生活の中にアフリカの大地が生きているからです。
欧州において、オリンポス神殿、ストーンヘンジのような偉大な建造物が目の前に存在していても、その思想や生活様式は、メシア・キリスト教により断絶し、欧州人の生活や習慣には無関係になってしまっています。ただの観光名所でしかないのです(“Out Of History”)。
王朝が前王朝を滅ぼしてしまうシナでは、現王朝以外は、総て破壊してもかまわない。
つまり、継続性のある生きた歴史ではありません。
十七条憲法、日本神道、正倉院、東大寺は、
また、靖国神社、伊勢神宮、明治神宮などは、
単なる観光名所ではない。
数千年前の建築物とその思想が現在の日本人の生活様式の中に浸透し、未だに影響を与え続けているからです。
それは一つの王朝が存続してきたこと、王朝の精神が、他国の文化を柔軟に消化してきたこと。
例えば、大和言葉に、漢字を取り込み、欧米文化をカタカナ表記するなど、オーケストラ的な取り込み方です。
他にも、教義のない神道を中心に、仏教、キリスト教を日本式に取り込んでいます。
オーケストラとでも、多様性とでもいうような共存の状態です。
つまり、和を以て貴しとする(互いの悪いところが最小限になる)。
◆思いやりという高等感情
今、英文学者の渡部昇一の「日本の歴史」を読み始めました。英文学者なので、その視点で「記紀」「和歌」を解釈していて、自分の知らないことばかり、というか如何に日本人としての素養に欠けているのかが思い知らされてしまいます。
下記は、日本の恋歌。
くらべこし 振り分け髪も 肩すぎぬ
君ならずして 誰かあぐべき
忍れど 色に出にけり わが恋は
ものや思ふと 人の問ふまで
ながからむ 心も知らず 黒髪の
乱れて今朝は 物をこそ思へ
朝寝髪 われはけづらじ うるはしき
君が手枕 触れてしものを
日本の恋歌は感受性と感応性が美しく消化され、子供の情操教育にも使える(例えば「百人一首」)と述べています。
このような日本独特の洗練された感性が、世界一の女流文学や科学や絵画などを創造したのでしょう。
◆天皇制はやはり素晴らしい
シナでは王朝が入れ替わり、その度に前王朝を完全否定しているので、重要な知識も書物も失われてしまっている。
ところが、日本では易姓革命が無く、万世一系なので、中国の各王朝の書物が保管され、それを編纂して辞典とされていた。
それゆえ、シナではとっくに失われてしまった文献が、日本経由で逆輸入されている。
また、元禄時代になると、米の先物取引も行われ経済が発展した。
『源氏物語』の時代から、女性が才能を発揮できていたし、
辞典や先物取引などは、世界で最初に行われていたし、
小児科も日本が世界初。
また、正倉院に世界中の宝物が蓄えられているが、当時の天皇が開封まかり成らぬとの詔を出している。
それゆえ、開封されずに貴重な宝物が現代まで残っている。
それは、万世一系だからです。
これがシナであれば王朝が変われば、当然ですが、暴かれ、破壊されていたことでしょう。
同じく、欧州の革命でも破壊されていたことは間違いない。
また、米軍が強制的に開封しなかったことも、幸運でした。
欧州諸国の大美術館には世界中の宝物が展示されていますが、それは総て奪った物です。
日本とはまったく違う。
米国も大統領が交代すると大きく変わる。
日本の伝統と文明は本当に貴重だと思います。
だからこそ、万世一系の立憲君主制を良しとされるのでしょう。
◆「天照大神」だった奈良の大仏
東大寺大仏・昆慮遮那仏(びるしゃな)というのは太陽神が仏教に入ったとされる。
つまり大日如来とされ、これが天照大神の「本地」(仏・菩薩の本来の姿)だというのである。
仏は元来、無始無終で絶対的なものである。
これを「本地」という。
この本地は人間を救うため、あちこちに具体的な形をとって現れる。
これを「垂遽」(すいじゃく)という。日本的な発想では、この本地が日本に垂逃した場合、それが日本の「神」になる。
そして仏のなかでもいちばん尊い本地は大日如来、つまり毘慮遮那仏であり、それが垂遽したのが天照大神というのである。
これはサンスクリット語の「大日」が「偉大な遍く照らすもの」と漢訳仏典にあるため、「天照」と結びつけられたのであろう。
だから、毘慮遮那仏を日本で祀るのは天照大神を祀るのと同じことになる。
そこで、大仏造営にあたって聖武天皇は橘諸兄(橘三千代の子。光明皇后の腹違いの兄)を、天照大神を祀る伊勢神宮に、わざわざ遣わして寺を建てる神許を乞うている。
さらに東大寺建立の僧侶行基も伊勢に行って神慮をうかがい、
「毘慮遮那仏を祀ることはけっしてこちらをゆるがせにすることではない」
と誓っているのである。
これは、伊勢神宮とは教義的にまったく矛盾しないという意思を示したものと考えられる。
つまり、聖武天皇の大仏造営は、仏教に対する革命ではないかとさえ思う。
衆生一致してやろう、というのはほとんど神道的な、
「みんなの神様」という考えに近い、
実に画期的な発想であった。
◆大和魂の根源について
古来から日本には神道がありました。
白村江の戦いに敗れ、一時ですが唐の支配を受ける以前の神道が本来の姿です。
聖徳太子は神道の心構えを政に活かし、十七条憲法として記しています。
当時の憲法とは、
「神に仕えるための掟(心構え)」
の事だったからです。
政は神事の次に神聖なものだったんです。
鎌倉時代には、神に仕える神道の心構えを真似て、武家諸法度が制定されます。
つまり、武人もまた神に仕えていたのです。
そこで、商人は自分たちも神に仕えたいとして、商いの領域を暖簾で囲い、この中を聖域(結界)とし、精進したのです。
お客様は神様ですとは雲泥の差があります。
簡単に言えば、神の前に一人立ち、自分の醜い所も含め全てを丸裸にされ、それでも
“心を尽くし、精神を尽くして、己の主である神を愛す”
という気持ちです。
それが、神前に立つ者の心境なんです。
現代の仕事に対する気持ちの中で、
「神に仕える心構えの精神」
が失われてしまったのだと思います。
勿論、神を棄てた共和国、共産・社会主義国からは、すでに失われてしまった人間の美徳です。
◆家庭における神事と夫婦関係
神主には神道、公家には公家諸法度、武家には武家諸法度、商人には暖簾があり、聖域とされていました。
では、各家庭ではいかにと問う質問があるかと思います。
古代シュメルでは、神前で結婚式を挙げ夫婦になると云うことは、夫婦が家を持つと云うことと同じ意味でした。
つまり、夫婦が一つの部屋を独占し、それが聖域だったんです。
エジプトでもほぼ同じでした。
卑弥呼の時代から日本では、家庭には神主から頂いた天照大を祀る神棚があり、家庭での政については妻が巫女の役割をし、夫がそれを実行していました。
つまり、皇室とほぼ同じ形態を習慣としていたのです。
間違いなく、古代シュメルの伝統をそのまま引き継いだのでしょう。
つまり、家庭では、神棚の及ぼす範囲をその家族の聖域としたのです。
だから、家を継ぐ時には跡取りが、暖簾や神棚を引き継ぎます。
日本では、夫婦関係・家族関係もまた、神事の一つででした。
そして、神棚に祈る時、陛下を見る時、その背後に存在する天照大(ヤハウエ)をも同時に感じていたんです。
そうやって、日本人一人ひとりが天照大を祀る大和民族だという意識を持ち続けていました。
そこが古代シュメル~イスラエルの正当な末裔である日本と諸外国との、
文化と伝統が大きく違う由縁だと思います。
■神話継承の法治国家(道義国家)
◆ 建国の歴史を考えてみる
“明治憲法” は、伊藤博文がドイツの一王国の憲法をまねて作ったもので、
当時、欧米との不平等条約(治外法権・関税率等)を是正するため、それには欧米と同じ文明国だということを示すことが必要でした。
例えば、日本の自主独立のために、鹿鳴館などを欧米諸国との外交の場としたのです。
そして、彼ら明治の元勲は良家の令嬢ではなく、芸者上がりの度胸と愛嬌があり、外交のできる女性を妻として迎えました。
また、彼らは元老としての身分と権威を子供に引き継がせることはしませんでした。
一方、明治憲法だけでは、日本という国柄が国民に不明確なので、教育勅語が発令されました。
つまり、明治の実質的な憲法は、五箇条の御誓文と教育勅語でした。
富国強兵は、明治維新直後だけではなく、大陸からの圧力に屈しないよう、古代から何度も繰り返されてきた日本の伝統でもあります。
そのお手本が日本武尊、神功皇后です。
“日の出ずるの天子” で有名な聖徳太子は、天皇を中心とした国家の建国をめざしました。
太子の十七条憲法では、国家の理念を公に打ち出しました。
即ち、“和の精神”、“民に二君無し”に要約されます。
この時代、強大な随の圧力もあり、多くの豪族が競い合う国内の統一が何よりも急がれていたらかです。
また、大化の改新後は、日本式律令制に移行しましたが、それには十七条憲法とモーセの律法の大和版 (大化の改新) が根底にあったのです。
その後、武士の台頭と共に、世界に先駆けて、実権は武士が、権威は皇室がというような政教分離がなされました。
戦国時代、スペインとポルトガルは、アジア諸国を植民地化し奴隷としていました。
そして日本をキリスト教国化し、明を滅ぼそうとしていた。
ところが、織田信長はあっという間に日本を統一し、豊臣秀吉がスペインとポルトガルからの脅威を跳ね返したのです。
江戸時代は、政教分離と律令制がバックボーンにあり、立憲君主制に近く、士農工商の身分制度はありましたが、実質的な憲法は生活の中での共通認識である式目としたのは、家康の智恵でした。
武士は金銭よりも名誉を重んじ、税率が世界で一番低率で自由な国柄となり、江戸では学問が競い合い、科学技術が進歩し、庶民文化が花を咲かせ、当時世界最大の都市に成長しました。
世界最古の女流文学を生み出した平安時代は貴族の文化でしたが、江戸時代の庶民の文化は世界に類を見ません。
何を言いたいかというと、憲法の前文は、国民の共通認識とすべきもので、
「伊弉諾伊弉冉の国うみ神話(男女の特性を生かして協力し合う)」
「神武天皇の建国の詔(皆が一つの家族のように信頼し合う)」
「十七条憲法(独断をいさめ、話し合いをする。最後には最終決定者の意思に従う)」
「五箇条の御誓文」「教育勅語」のように、これからの時代に相応しい国家理念をうたえばよい。
そして、後の細かなことは、法令集にまかせればよいのだと思います。
日本的な立憲君主制・和の精神は、神話の時代から、外圧を跳ね返し、血みどろの内戦を通じた二千数百年もの年月をかけて引き継がれてきた日本人の魂そのものです。
そこのところを、骨子とすれば良いのではないかと思います。
現実的には、現在のマッカーサ憲法を、一度破棄し、国防と教育部分を修正して、その後で、国民投票か何かで、憲法を改定する手順が穏当かもしれません。
ちなみに、太子の “和の精神” は伊弉諾伊弉冉の「国うみ神話」からの精神を引き継いだもので、神武天皇はこれを「八紘一宇」として踏襲されたました。
◆ 庶民的だった明治時代から
戦後日本の建国へ
私が爺さん連中から戦前の生活を聞いた話では、明治憲法を学校で習うことはほとんど無く、教育勅語と五箇条の御誓文が学校で教えられていたと聞いています。
つまり、米国で毎朝国旗に向かい忠誠を誓うのですが、日本はそれが教育勅語だったのです。
ですから、明治憲法を知らなくても、教育勅語を知っていれば生活には困らなかったし、不便もなかったようです。
現在の私たちは、日本国憲法も、教育勅語も、日本神話も知らず、ただ伝統が生活に残っている状態なのだと思います。
その日本の誇るべき伝統については、
311当時の東北の被災地の方々が日本のみならず世界に示されました。
また、明治憲法には内閣制の規定がなく、首相は軍部を統制できない欠点がありました。
ですから、大臣を罷免にするには総辞職しなければなりませんでした。
そのような欠点や時代に合わない部分もあるのではないでしょうか。
ただ、単純にそのまま明治憲法に戻ればそれでよしとするのでもありません。
昭和21年元旦に「新日本建設に関する詔書」の初めに「五箇条の御誓文」が全文そのまま掲げてあります。
それに続いて次のごとく仰せられています。
「すべからくこの御趣旨に則り、旧来の因習を去り、
・・・
官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、以って民生の向上を図り、新日本を建設すべし。」
詔書に「五箇条の御誓文」を掲げられた意味合いを、昭和52年、天皇ご自身が次のように語っておられます。
「それ(五箇条の御誓文を入れること)が実はあの詔書の一番の目的であって、
神格とかそういうことは二の次の問題でした。
当時はアメリカその他諸外国の勢力が強く、圧倒される心配があったので、民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義が決して輸入のものではない、ということを示す必要があった。
日本国民が誇りを忘れると具合が悪いと思いまして、誇りを忘れさせないために、あの宣言(詔書)を考えたのです」
(『読売新聞』)
まさに戦後の日本は、昭和天皇の平和の祈りと共に、「五箇条のご誓文」を原点として再出発することになったのでした。
だから、憲法の第一に、天皇の重要な行為として「祭祀」を明記し、政教分離という意味での元首だとはっきりさせることが肝要だと思います。
それはモーセの律法では大司祭に相当します。
つまり、国家の安泰、自然の豊穣を神の末裔として神に祈り、時には神のお言葉を国民に伝える役職で、神と人に使えることが天皇の職務です。
勿論、皇統は人類の創造主からの伝統である男子男系に限る。
◆庶民の思う、日本人による日本人のための憲法素案
~目標は、神話継承の法治国家(道義国家)~
日本には神話の時代から神聖な神域・聖域という観念があった。
そこに入るには、禊ぎを行い心身を清めたのちに、入ることが許されていた。
これは古代シュメルの時からの伝統で、ユダヤ民族、その正当な末裔の大和民族により観念は引き継がれたが、その形態は多少変わりました。
それは、日本神話が皇祖の言葉に従順に従い、男女の違いを認め合い助け合うことで、緑豊かな国作りが始まったからです。
江戸時代には、武家は公家諸法度を参考にして、武家諸法度を倫理・行動規範に据えます。
農村部では天照大に連なる氏神を祭ることで、山野田畑を聖域と見なしていました。
この時代に発展する商人達は、彼らの行動規範を暖簾という形で聖域化を図りました。
暖簾の中は彼らにとって聖域であり、商売よりも神に仕えるという意味合い、まごころを伝えるということを大切にしたのです。
だから、世界一治安のよい国へ発展したのだと思います。
その一つの例として、日本人の経営する店に入れば “いらっしゃいませ” 、何も買わなくても “ありがとうございました” と気持ちよい声が聞かれます。
ところが、シナでは何も買わないのなら邪魔だという発想しかないのです。
日本人には
“お天道様はいつでも見ている。隠すことはできない”
という良識がありました。
つまり、皇室の伝統である神事、聖域では心を込めて神に仕えるという伝統を、士農工商の各階級が独自に生活規範として取り入れたのが、日本の世界に誇る一大文化だと思います。
神に仕える精神は、神話から現代まで脈々と日本人のDNAの中に、魂の奥底に流れているのだと思います。
◆神に仕える国うみ神話
皇祖の言葉に従順に従い、男女相和して国家の基礎を作る。
(⇒『日本神話』)
◆神に仕える 神武天皇建国の詔
大和建国の最初に、妻とのむつまじさを歌われ、国家の基礎を固めることを国うみ神話に従い宣言されます。
そして、民が一つの家族のように仲良く暮らすこと、
つまり今風で言えば「道義国家」の実現をめざして建国の理念とされました。
つまり、家庭、国家の基礎を固めることは神に仕えることなのです。
(⇒『八紘一宇』)
◆神に仕える掟 憲法
国では大統領が聖書に手を置いて神に宣誓しますが、これの日本版なのです。
憲法は “いつくしきのり” と読み、
「いつく」は「斎く」、
つまり「心身を清めて神に仕える」
という意味だから、憲法とは、おごそかな気持ちで取り扱うべき捉ということになるのです。
(⇒『十七条憲法』)
これらの神に仕える精神を、簡単明快にまとめたものが、『五箇条の御誓文』『教育勅語』だったのだと確信いたします。
私たちの祖先は繰り返す混迷を打破するために、その度に「神に仕える」という大和魂の原点に戻りました。
その誇り高き歴史が、『記紀』に明記され、この魂を引き継いできたのが、
『五箇条の御誓文』『教育勅語』、
「新日本建設に関する詔書」だったのです。
現状を打破し、新しい日本の道しるべとして、どのような憲法前文が相応しいのか、文才も哲学もない私には未だに不明ですが、日本人一人ひとりが日本文明の担い手としての自覚と責任を持てるように、建国の精神に立ちり、天皇を祭儀を執り行う元首(男子男系)とし、国旗国歌を制定すると共に、公務員の心構えを明記し、ひいては自由と民主主義を守り、世界の平和に貢献するという文言が相応しいのではないかと思うのです。
また、男子男系を皇統とした日継の絶えることのない皇室典範に戻すべきだと思います。
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』
★日本神話に刻まれた神々の叡智
■はじめに
人類の知的水準に合わせて神々は人類に法を与えてこられました。
古代バビロニアではハムラビ法典、
アブラハムと神との契約、ヤコブと神との契約、
そしてモーセと神との契約(十戒)などなどです。
しかし、そのどれもが神の命令を絶対とするもので、特に聖書にある原罪は女性蔑視、男性優位社会の前提となってしまいました。
その延長として、二千年前にイエスを殺してしまうのです。
イエス殺しの罪悪感から、ユダヤ人に濡れ衣を着せ、悪魔教が跋扈ばっこします。
ついには、キリスト教の暗黒時代に至り、余りの抑圧から、共産主義が人類を虐殺へと煽あおり立てました。
日本に渡来した天神は、この旧約聖書・新約聖書の残虐性を改めようと、大和民族に神話を与えられたのだと思います。
つまり、日本神話は、旧約聖書の延長線上に接木された神の叡智だと思うのです。
今後、日本神話、旧約聖書、古代シュメル神話を、テーマごとに比較し、日本神話の特徴を調査することで、天神は日本に何を与えようとされたのかが明確に分かると思います。
例えば、最初の死について、最初の男女の愛について、最初の国作りについて、冥界の女王について、武人について、高天原での天照大の後継者、数え上げればきりがありません。
一例として、男女についてですが、アダムが寂しそうなのでイブはアダムの一部から生成された。
つまり、イブはアダムを喜ばすための一部に過ぎず、イブの原罪からも男尊女卑から、過激なウーマンリブへと発展する。
また、新約聖書では母マリアは、処女受胎という無理無題にもかかわらず、神の命令に従順に従う。
それは夫への従順では無く、神への信仰を尊いとされた。
つまり、妻というよりは、修道女の始まりである。
日本神話では、伊弉諾は伊弉冉に国うみを提案し、伊弉冉が了承する。
そして、互いの男女の性差を認め尊重し合うのです。
■日本神話のはじまり
例えばブータンが憲法を新しくするとき、新憲法を制定する段階で参考にしたのが明治憲法、日本国憲法、そして聖徳太子の十七条憲法だというのです。
国王は皇太子の時代から、憲法公布にあたって国内各地をくまなく巡って、憲法についての説明を行い、同時に、国民たちの意見を細かく問うて議会に反映したのだそうです。
マッカーサ憲法=米国の日本占領施策を破棄し、日本国民の手による憲法の素案は、ブータン国の要領で良いのだと思うのです。
難しい言葉を使わず、世界の目を気にせず、見栄を張らず、大和民族としての建国の理念を踏襲し、日本人の日本人による日本人と祖霊と自然のための誇り高き憲法であれば、それで良いのだ。
◆日本国憲法について
ブータンが憲法を新しくするときの話です。
ブータンが新憲法を制定する段階で参考にしたのが明治憲法、日本国憲法、そして聖徳太子の十七条憲法『官僚や貴族に対する道徳的な規範を示したもので、道徳の遵守と社会平和の精神があったから』だというのです。
国王は皇太子の時代から、憲法公布にあたって国内各地をくまなく巡って、憲法についての説明を行い、同時に、国民たちの意見を細かく問いて議会に報告しました。
明治憲法は、伊藤博文がドイツの一王国の憲法をまねて作った物で、当時西洋列強との間で取り交わされていた治外法権・関税率等の不平等条約の早期是正をめざし、富国強兵のために急いで作成したものでした。
このため、英国の責任内閣制を知りながらも、残念なことに明治憲法には反映されませんでした。
太子の十七条憲法は、国家の理念を打ち出しました。
「和の精神」、「民に二君無し」です。
また、大化の改新後は日本式律令制に移行しましたが、実質は『十七条憲法』と『大化の改新』が法でした。
鎌倉時代に入り、律令制の下で、国民にも分かる言葉で書かれ、法廷ごとに同じ基準をもたらす式目が制定されました。これが国民憲法第一号でした。
信長は、戦の度に農民を駆り立てることを止め、職業軍人による軍隊を創設しました。
当然、農民が安心して農業に従事できる農民保護も兼ね、兵農分離を断行したのです。
後には身分制度へと発展して行きます。
江戸時代には、律令制が残り、立憲君主制に近く、士農工商の身分制度がありましたが、実質的な憲法は式目でした。
また明治の実質的な憲法は、五箇条の御誓文と教育勅語でした。
何を言いたいかというと、
憲法の前文は、国民の共通認識とすべきもので、国家の理念をうたえばよい。
細かいことは、法令集にまかせればよいのだと思います。
明治の時代では、明治憲法を学校で習うことはほとんど無く、教育勅語と五箇条の御誓文が学校で繰り返し教えられていたと聞いています。
つまり、米国で毎朝国旗に向かい忠誠を誓うのですが、日本はそれに相当するのが教育勅語だった。
ですから、明治憲法を知らなくても、教育勅語を知っていれば生活に困ることは無かった。
現在は、日本国憲法も、教育勅語も、日本神話も知らず、ただ古来の伝統が生活に生き残っている状態だと思います。
もし日本国憲法を一度破棄し、書き換えるのなら、日本神話を縦糸として、神武天皇の建国の詔、憲法十七条、五箇条の御誓文、教育勅語、昭和天皇の「新日本建設に関する詔書」を骨子とし、明治憲法の良いところを生かすのが良いのではないかと思います。
昭和21年の元旦に「新日本建設に関する詔書」の初めに「五箇条の御誓文」が全文そのまま掲げてあります。
それに続いて次のごとく仰せられています。
「すべからくこの御趣旨に則り、旧来の因習を去り、
・・・
官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、以って民生の向上を図り、新日本を建設すべし」
詔書に「五箇条の御誓文」を掲げられた意味合いを、昭和52年、昭和天皇ご自身が次のように語っておられます。
「それ(五箇条の御誓文を入れること)が実はあの詔書の一番の目的であって、
神格とかそういうことは二の次の問題でした。
当時はアメリカその他諸外国の勢力が強く、圧倒される心配があったので、民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義が決して輸入のものではない、ということを示す必要があった。
日本国民が誇りを忘れると具合が悪いと思いまして、誇りを忘れさせないために、あの宣言(詔書)を考えたのです」
(『読売新聞』)
まさに戦後の日本は、昭和天皇のもと、「五箇条のご誓文」(神武天皇の建国の理念)を原点として再出発することになったのでした。
◆神々は大和民族に知性と科学を与えられた
西洋では、暗黒のメシア・キリスト教時代を通じ、人々が抑圧され苦しみました。
そのため、ルネサンスが訪れ、神とはなんぞやと真実の神に帰ることで、人間性の復興と共に飛躍的に科学が発達しました。
つまり、間違った形の宗教の束縛から、科学が解放してくれたのです。
しかし、日本にはこのような暗黒の宗教史は全く存在していません。
しかし、科学は発達していました。
例えば、面積では世界一の仁徳天皇陵、四〇メートルを超す出雲大社社殿があります。
聖武天皇は東大寺を国民と一緒に建立しましたが、木造建築では高さ広さ共に、まさに三国一(インド、中国、ペルシャ)の大建造物でした。
つまり、それだけの科学知識と技術があったのです。
種子島に流れ着いた火縄銃を改造し、世界一の品質に高めるだけの科学的な分析力と技術がありました。
江戸時代には、ニュートンやライプニッツの少し前に、微分積分と同等な発見をしていました。
だから、明治時代すぐに科学技術を習得してしまいました。
では何故、日本に科学的な素養が培われ、高度な科学知識がもたらされたのでしょうか?
キリスト教では、イブが神に背き原罰を背負う。
この原罰が彼らの子にも影響し、兄カインは弟アベルを殺してしまう。
原罪故に、全知全能の神、永遠に生きる神に理性を委ね服従することを、信仰としたのです。
永遠の生命はあり得ない、何よりも宇宙を創造するような人格神は存在しない、非常に非科学的な教義を信じ込むように追い詰められた。
比較すると日本の場合、伊弉諾・伊弉冉の〝国産み神話〟では、二人は男女の生物学的な特性を尊重し合い、合意を求め協力しながら天つ神の助言を信じて、〝国産み〟を行いました。
更に、伊弉諾の冥界下りでは、伊弉冉は黄泉の国の住人となり、神には限られた寿命があることが当たり前とされたのです。
つまり、非常に科学的な生活態度と姿勢を日本神話から与えられていたということに、『古事記と日本人 渡部昇一』を読んで教えられました。
科学の発展に宗教の暗黒時代は必要なかった。
日本人でありながら、改めて教えられました。
◇
国うみ神話による和合国の根本は男女の和合にあると教えているのです。
だから、神武天皇は様々な地神と婚姻し、国の安定としました。
同じく、明治維新で破れた会津藩から皇室に嫁ぐことで日本の分裂という傷は癒やされました。
これが、伊弉冉と伊弉諾から始まる和の精神で、神武天皇はこれを踏襲され、太子は十七条憲法に〝和をもって貴し〟に反映されたのだと思います。
◇
ヘブライ語で 祇園祭は、古代イスラエルのシオン祭りがルーツであるとも。
7月1日から1ケ月間祭りは続き、
ノアの箱舟がアララト山に漂着した7月17日にクライマックスを迎えます。
技術者集団である秦氏が、古代イスラエル文化を日本に伝えたと云われています。
平安京をつくったのは桓武天皇を支えた秦氏が、技術・資金のほとんどを提供し、祇園祭を主催する八坂神社(「ヤサカ」は「神への信仰」)をつくり、故郷のエルサレ(平安という意味)神殿と都を再建したのだと思います。
また、イザナギは「あなにやし えをとめを」について、
「あなにやし」はヘブライ語で「私は結婚します」という意味だそうです。
◆かまどの煙の国柄
第16代仁徳天皇は難波の高津宮に住まわれました。
まもなく、高殿から回りを見渡され、民家から立ち上る炊飯の煙が少ない。
これは民の生活が苦しいのだと、お心にとめられた。
そこで、全国民の税や奉仕を3年間免除されたのです。
このため宮殿は荒れ宮廷の倉の蓄えも乏しくなりましたが、3年後に民のかまどから煙が多く立ち上るのを見て喜ばれたそうです。
この物語は大阪市の市歌として受け継がれています。
高津の宮の昔より
よよの栄を重ねきて
民のかまどに立つ煙
にぎわいまさる 大阪市
にぎわいまさる 大阪市
例えば、大国主命は、素戔嗚尊と天照大の正当な血統を認めたが故に、政権を禅譲しました。
出雲国から大量の青銅器が発掘されていることから、当時において、大和政権よりも巨大な軍事力を誇っていたと推測されます。
更に、徳川慶喜は天皇に恭順の意を示し、明治政府に政権を禅譲しました。
当時において、幕府のほうが薩長よりも軍事力では勝っていたのです。
西南戦争においても、もし国家的英雄の西郷隆盛が徹底抗戦するつもりであれば、佐賀の乱と共闘しないはずはない。
また、軍事的にも軍隊の体をなさない明治政府と比べて互角以上だった。
日本の国柄として、軍事力では無く、血統を重んじ、大義につくことを正義としてきました。
それは、ひとえに「かまどの煙」に象徴されているのだと思います。
大東亜戦争に敗戦し、世界中が日本の皇帝は命乞いをし、亡命するだろうとたかをくくっていた。
しかし、昭和天皇は大戦中もですが、戦後においてのマッカーサーとの会見でもお命を賭してでも国民を救おうとされました。
ここに日本人の君臣共治の精神=大和魂の原点があるのだと思います。
だからこそ、戦前戦中戦後において、同じ天皇が日本の君主だった事実を知ると、まずは世界中は驚嘆し、その後に敬意を表するのです。
◆『論語』顔淵篇
中国は古代、孔子の弟子であった有若と君主の哀公との問で行われた、税をめぐる有名な話がある。
かまどの煙との違いは明らかです。
哀公が
「近ごろ不作であり (税収が少なく) 費用が不足してきておる。
どうすれば良いのじゃ」
と有若にたずねた。
すると有若は、減税して税率を一割にしてはいかがと答えた。
すると哀公は
「今の税率二割でも不足となっておるのに、どうして一割に減税することなどできようぞ」
と笑った。
有若はこう申し上げた。
「もし人々が (減税によって生活が) 足りているとなりますならば、為政者はだれと不足だとぼやくことになるのですか。
逆に、もし人々が (重税のために生活が) 不足ということになりますならば、為政者は (歳入増によってほくほく顔で) 誰といっしょに足りていると喜ぶことになるのですか」
と。
■「十七条憲法」は神に仕える「掟」
◆和歌と悟り
率直な気持ちを歌にするのは、神武天皇以来の日本の伝統である。
自分の心をその時その場に応じて、思いつくまま率直に歌にする。
悩み事や社会の規範などの束縛を忘れ、貧富の差や身分などを超越したところに、歌の感動があるのだ。
つまり、歌の前では日本人は誰も彼も平等だった。
逆に、身分や貧富や男女の差を云々していては名歌は生まれないのです。
この神武天皇により もたらされた、すばらしい伝統は、世界に誇れる内面の豊かさを私たちにもたらしました。
豊かな内面に、シルクロードを経由した外国からの官僚制度や漢詩やインド・中東の知識などが教養として昇華され、つまり自分のこととして受け入れられ、源氏物語などのすばらしい文化が花開いたのです。
情緒豊かな内面が大きく育っているが故に、客観性を育てる教養を消化できたのでした。
仏教では第三者の立場に立って物事を見・考えることが、悟りをもたらすというのです。
これは私情を大切にしながら、客観的に物事を見る習慣を身につけることで、個人のみ成らず社会の悩み事をも解決する手段としたのでした。
だから、日本人が和歌を愛し、教養を身につけ、これまでの視点に加え新しい視点を発見し、日本文化を豊かに育ててきたことは、まさに釈迦の教えを大和風に実践していたということになります。
内面と客観性の融合は、仏教では慈悲と戒律、キリスト教系では愛と律法として、その宗教の中心に存在する永遠の課題です。
この問題の解決として、表現は異なりますが本質は同じで、日本では歌を実践し、仏教では悟りを求め、キリスト教では神の愛を求めたのです。
ですから、悟りを得るには、なにも出家して僧侶になる必要も、神父を目指す必要もありません。
悟り=新しい視点=真実の前には、老若男女・貧富・身分の差はなく、全人類が平等で、毎日の生活の中で知恵を働かせて少しずつ日々得られるもの(自他一如)で、その先に既存の宗教を越えた共存共栄の社会も達成されるのではないでしょうか。
結局、宗教は手段で有り、目的では無いのだから、このことを理解すれば将来、宗教戦争も無くなることでしょう。
強調したいのは、内面の豊かさを育てる情操教育、人の心を思い測る思いやりの心は、乳幼児教育が非常に大切だということです。
日本の乳幼児への医療や教育の伝統は、世界のどこよりも早く発達してきました。
その一つが幼稚園教育ですがこれを破壊すること、自由でとらわれの無い歌の心が左翼人の提唱する『人権擁護法』により阻害されてしまえば、日本人の内面の崩壊はこれまで以上に加速されてしまいます。
それは、神武天皇から始まる日本民族の終焉でもあると思います。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・仏教は、戒律が厳しく、個人の内面の豊かさを軽視する傾向があります。
だから、互いに折り合うことが無いのです。
ところが、内面の豊かさをもたらす神道は、これらの宗教にはない柔和さがあり、全く別の宗教なのだと思われてしまいます。
フランス人アンドレイ・マルロー(1901~1976)は、伊勢神宮で
「伊勢とアインシュタインは収斂する」
との啓示を受けたとあり、
〝内面の宗教と客観性の科学は一致する〟
その通りだと思います。
◆ 仏壇と祖先崇拝
仏壇仏教は、仏陀の説いた仏教とは何の関係もありません。
全く無関係です。
日本の場合、天照大から始まる皇室の祖霊を祀り、皇室を大切にしています。
ところが、仏壇が登場するまでは、各集落や各家庭の祖先を祀る場所が何も無かったのです。
そこで、自分たち集落の祖霊を氏神とし社を建て、天照大を頂点においたのです。
家庭では仏壇に自分たちの祖霊を祀りました。
少なくとも仏壇仏教は、この素朴な祖先を祀る・大切にするという原点に返るべきだと思います。
尚、霊体には仏壇やお墓は本当は必要ではありません。
そんなジメジメした暗いところに、だれも長時間居たいとは思わないですよね。
◆「十七条憲法」は神に仕える「掟」
渡部著の『日本の歴史 古代編』を読んで、ハッとしました。
太子の「十七条憲法」は神に仕える十七の掟だというのだ。
米国では大統領が聖書に手を置いて神に宣誓する。
これの日本版なのだと納得した。
本書によれば、憲法は〝いつくしきのり〟と読み、
「いつく」は「斎く」、
つまり「心身を清めて神に仕える」という意味だから、
憲法とは、おごそかな気持ちで取り扱うべき捉、ということになるのだ。
太子はこの憲法を推古天皇の十二年(六〇四)の夏四月に制定した。
太子当時の有力士族はバビロン方面からの渡来人だという前提だが、この「十二」は古代シュメル・古代バビロン当時から聖なる数で、神々の最高神十二名のことだ。
また古代バビロンでは、「四」は四方世界を支配する四大天使を意味し、これを仏教が吸収して四天王とした。
だから、十二年の四月というめでたい日に制定したのだ。
また、冠位十二階が何故十二なのかも、すぐに理解されることでしょう。
さて、何故十七なのだろう。
皇室の紋章である「十六菊花紋」は、湾岸戦争当時の記者会見でイラクのフセイン大統領も腕にしていた。
つまり、この十六菊花紋は古代バビロニアの太陽神・マルドウクに由来する。
簡単に云えば、
「六」はマルドウクのシンボル、
「十」はマルドウクから王位を引き継ぐ月神(四代目ヤハウエ)のシンボルであり、
つまり「十六」は連合政権のシンボルなのだ。
さて古代バビロニア当時から、
神の聖なる数は「十二」「十」「七」だった。
ちなみに七は七大天使、裁きに臨席する神という意味だ。
だから、「十七」は神ヤハウエと七大天使を表す。
まさに「十七条憲法」は神に仕える「掟」にふさわしい。
そこで「心身を清めて神に仕える」という心構えだが、
日常の固定概念や貧富の差や身分に縛られていては達成できない。
なぜなら、己の良心と神との一対一の対峙だからだ。
この何者にもとらわれず、虚飾を廃止して、自分の素直な姿をあらわす。
それがまさに俳句や和歌の精神なのだ。
つまり、俳句の五七五は合わせて「十七」で、内面を豊かにし、しかも神に通じるように日本人に与えられた神の宝だったのです。
結論として、神武天皇即位時の国作りの理念
「正しい心を広めて、皆が一つの家族同様の国を造ろう」
と、神武天皇から始まる歌の伝統は、神々により日本人に与えられたものだった。
仁徳天皇は民の窮状をご自身の家族のこととされ、民を救おうとされた。
太子は戦乱の大和国を救わんと神武天皇の精神まで戻り、十七条憲法を制定した。
同じく日本の危機を救わんと明治天皇は、神武天皇の精神まで戻り、五箇条御誓文、教育勅語を制定されたのだ。
そして、大東亜戦争敗戦時の昭和上皇もまた、敗戦に自信喪失していた日本人を立ち直らせようと神武天皇の精神に戻られたのです。
独立外交を毅然として貫いた太子の「和をもって貴しとす」の精神は、英霊と共に、マッカーサ憲法の平和憲法(平和を愛する諸国民の公正と信義を信じて国軍を放棄する)に縛られた私たちに、
何時になれば神武天皇の精神に戻るのか、と訴えられているように思うのです。
◆日本人の「和の精神」の起源はどこから
妥協することのない三大宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム)に加え、左翼原理主義が油を注ぎながら、中東の宗教戦争は何時終焉を迎えるのでしょうか。
神の教えとその律法を生活規範とする三大宗教は、同じ宗教を信じる者同士が大規模な共同体を形成し、互いに他を排除してきました。
だから、生活規範の異なる宗教国家間では、妥協は許されないのでしょう。
ところが、同じ中東に生まれたゾロアスター教は、他の宗教に寛容でした。
ペルシャのキュロス王は、忠実なゾロアスター教の礼拝者で、宇宙の摂理に従って広大な新帝国を公正に善く治めようと努めました。
当時多種多様な宗教を寛容にも認め、イラン人の宗教を異民族に強制するようなことはしなかった。
キュロス王の寛容さの恩恵を受け、バビロン捕囚から解かれたユダヤ人はエルサレムに帰り、神殿の再建を許されました。
(前598年で、神武天皇即位もこの頃です)
ゾロアスター教では、「水」と「火」が重要視されます。
誓約の場合には「水」、
契約の場合には「火」による神判に従うべきものとされたからです。
「水」は他の宗教でも重要で、水で洗礼を授けた洗礼者ヨハネ、魔を払う聖水、沐浴による清め。
ソロモン神殿の入り口には水桶があり、人々は手を洗い清めました。
日本の神社と同じです。
水により罪を洗い流し、罪を清めるのです。
一方、「火」とは、神の裁きと律法のことで、最大の火はすべての罪を焼き尽くす太陽(日)です。
当然、男神です。
日本民族の起源は、天照大と素戔嗚尊との誓約から始まります。
だから、神道では「水」を大切にするのでしょう。
「水」にふさわしく、最高神は女神・天照大です。
太子の時代、宗教を異にする有力氏族がひしめき合う国内で、神の「火」は永遠の戦乱をもたらしたことでしょう。
太子は「和をもって貴しとする」の合議制を基本に据え、大和を一つにまとめ上げました。
その神の叡智と原動力は、日本神話の底流を流れ続ける「水」、
すなわち「誓約」の物語だったのだと思います。
これは、伊弉諾と伊弉冉尊の“国うみ神話”に源流があることは明らかです。
◆神道の本当の姿
神道(イエスをメシアと認めないユダヤ教)はユダヤ教の正当な末裔であるにもかかわらず、旧約・新約のように教義が明確ではない。
だから、神道が、メシアキリスト教や共産主義からの攻撃に強い一面もあるが、このままでは自然崩壊してしまう危機も有ると思っていました。
しかし、ホメロスやケルト神話、エジプト神話などを読むと、その民族の特徴が分かります。
同じく、『古事記と日本人 渡部昇一』を読むと日本人の特質が明確に現れています。
白村江の戦いに敗れ、唐の植民地支配を受け入れ、それゆえ『記紀』は一部改竄されていますが、日本人の特質を明らかにするものです。
つまり、他の宗教を認めないユダヤ一神教に、日本神話を接ぎ木したものが、神道でした。
なぜそう言えるのか、それは、ユダヤ教でも原始キリスト教でも実現できなかった、君臣一体の共治(大和魂)の実現が神道にはあるからです。
そしてそれは、聖徳太子の時代から受け継がれ、江戸時代にほぼ確立し、明治維新を成功させた原動力でした。
それこそが、ユダヤ民族が求めて止まない、ユダヤ国家のあるべき姿だった。
さらには、天上界が一人の大王により統べられる王国であること。
その真の姿の映し鏡が、君臣一体の共治(大和魂)なのです。
◆日の丸は神の民の象徴
日の丸は、丸い赤い太陽と潔白の白で、日本民族の精神を表していると言われています。
ここでは、日本人が神の民に相応しい国旗だと言うことを説明します。
神との契約は、〝火と水〟です。
〝火〟は聖霊による魂の浄化を意味しています。
霊魂の極刑である消滅も火です。
また、〝水〟は信頼に基づく約束である誓約(うけい)を意味しています。
つまり戒律と誓約が、神との契約です。モーセの十戒とキリスト教には、戒律しかありません。
太陽神・天照大は、互いを信頼する誓約を聖書に接木され、新しい正法として神道を与えられました。
結局、〝火〟で一番偉大なのは太陽・天照大です。
そして、白は浄化された水をあらわしています。
つまり、日の丸は神の民という意味で、ヤマトと同じ意味だったのです。
◆日本神話に秘められた神道には
これといった教義がない
例えば、聖書であれば、
“汝殺すなかれ”
“汝の隣人を愛せよ”
など有名な神の命令・教義があります。
それゆえ、契約社会で有り、同じ教義を信じる者しか信頼できないのが通常です。
教義が明確であることは、後世に伝える点では良いのですが、かえって教義があるが故に排他的となり、他の有益な知識や習慣を取り入れることが難しくなってしまいます。
つまり、科学の進歩を拒否すれば、教義を信じる集団の知的進歩が後れてしまい、一層、他の教義を受け入れることができなくなってしまう。
大和民族に対しては、教義の代わりに、神の啓示による神話が与えられました。神話の中に生活一般に対する模範が示されており、これを読み続け伝承することで民族全体が神話の精神を共有するので、男女間のあり方、冠婚葬祭の方法、政治や祭儀など生活一般の指針が自然と身についてしまいます。
加えて、日本武尊は武士道からすれば卑怯な方法、つまり策略を用いて大和国を統一に導きます。
つまり、外敵から国を守る軍事的なことさえも教えられているのです。
私たち日本人は、この神話を元にした生活を知らず知らずのうちに身につけて生きてきました。
そして、時代に応じて、建国の詔、十七条憲法、日本式儒教、日本式仏教、日本式官僚制、諸法度、明治憲法、五箇条の御誓文、教育勅語、昭和日本の建国の詔など、神話の精神を継承してきました。
つまり、神の命令・教義に縛られないが故に、これを表現する方法として、時代に応じて必要な表現を柔軟に取り入れて使ってきたのでした。
例えば、
大和言葉で日本人の心情を表現する和歌が発達し、
論理的な表現として漢詩を使いこなし、
儒教、仏教、律令、科学などどを日本式に取捨選択して取り込みつつ、
日本文化は豊に育ってきました。
その原点は一つ、
ユダヤ教に “和を以て貴しとする” の精神を接ぎ木した日本神話こそが、神から与えられた当時の新しい法(神道)だったのです。
それが故に、日本は天皇制・君臣一体の共治の国体として進化しつつ、神々に守られ続けてきました。
近頃、西洋文明がやっと日本神話に近づいてきたと言えるでしょう。
◆民族のルーツ
何年か前に「ルーツ」という映画が評判になりました。
奴隷としてアフリカから強制的に米国に連れてこられた黒人の子孫の物語です。
彼は、自分のルーツを探し求め、故郷のアフリカにたどり着きました。
それは、自分の血の中に、生活の中にアフリカの大地が生きているからです。
欧州において、オリンポス神殿、ストーンヘンジのような偉大な建造物が目の前に存在していても、その思想や生活様式は、メシア・キリスト教により断絶し、欧州人の生活や習慣には無関係になってしまっています。ただの観光名所でしかないのです(“Out Of History”)。
王朝が前王朝を滅ぼしてしまうシナでは、現王朝以外は、総て破壊してもかまわない。
つまり、継続性のある生きた歴史ではありません。
十七条憲法、日本神道、正倉院、東大寺は、
また、靖国神社、伊勢神宮、明治神宮などは、
単なる観光名所ではない。
数千年前の建築物とその思想が現在の日本人の生活様式の中に浸透し、未だに影響を与え続けているからです。
それは一つの王朝が存続してきたこと、王朝の精神が、他国の文化を柔軟に消化してきたこと。
例えば、大和言葉に、漢字を取り込み、欧米文化をカタカナ表記するなど、オーケストラ的な取り込み方です。
他にも、教義のない神道を中心に、仏教、キリスト教を日本式に取り込んでいます。
オーケストラとでも、多様性とでもいうような共存の状態です。
つまり、和を以て貴しとする(互いの悪いところが最小限になる)。
◆思いやりという高等感情
今、英文学者の渡部昇一の「日本の歴史」を読み始めました。英文学者なので、その視点で「記紀」「和歌」を解釈していて、自分の知らないことばかり、というか如何に日本人としての素養に欠けているのかが思い知らされてしまいます。
下記は、日本の恋歌。
くらべこし 振り分け髪も 肩すぎぬ
君ならずして 誰かあぐべき
忍れど 色に出にけり わが恋は
ものや思ふと 人の問ふまで
ながからむ 心も知らず 黒髪の
乱れて今朝は 物をこそ思へ
朝寝髪 われはけづらじ うるはしき
君が手枕 触れてしものを
日本の恋歌は感受性と感応性が美しく消化され、子供の情操教育にも使える(例えば「百人一首」)と述べています。
このような日本独特の洗練された感性が、世界一の女流文学や科学や絵画などを創造したのでしょう。
◆天皇制はやはり素晴らしい
シナでは王朝が入れ替わり、その度に前王朝を完全否定しているので、重要な知識も書物も失われてしまっている。
ところが、日本では易姓革命が無く、万世一系なので、中国の各王朝の書物が保管され、それを編纂して辞典とされていた。
それゆえ、シナではとっくに失われてしまった文献が、日本経由で逆輸入されている。
また、元禄時代になると、米の先物取引も行われ経済が発展した。
『源氏物語』の時代から、女性が才能を発揮できていたし、
辞典や先物取引などは、世界で最初に行われていたし、
小児科も日本が世界初。
また、正倉院に世界中の宝物が蓄えられているが、当時の天皇が開封まかり成らぬとの詔を出している。
それゆえ、開封されずに貴重な宝物が現代まで残っている。
それは、万世一系だからです。
これがシナであれば王朝が変われば、当然ですが、暴かれ、破壊されていたことでしょう。
同じく、欧州の革命でも破壊されていたことは間違いない。
また、米軍が強制的に開封しなかったことも、幸運でした。
欧州諸国の大美術館には世界中の宝物が展示されていますが、それは総て奪った物です。
日本とはまったく違う。
米国も大統領が交代すると大きく変わる。
日本の伝統と文明は本当に貴重だと思います。
だからこそ、万世一系の立憲君主制を良しとされるのでしょう。
◆「天照大神」だった奈良の大仏
東大寺大仏・昆慮遮那仏(びるしゃな)というのは太陽神が仏教に入ったとされる。
つまり大日如来とされ、これが天照大神の「本地」(仏・菩薩の本来の姿)だというのである。
仏は元来、無始無終で絶対的なものである。
これを「本地」という。
この本地は人間を救うため、あちこちに具体的な形をとって現れる。
これを「垂遽」(すいじゃく)という。日本的な発想では、この本地が日本に垂逃した場合、それが日本の「神」になる。
そして仏のなかでもいちばん尊い本地は大日如来、つまり毘慮遮那仏であり、それが垂遽したのが天照大神というのである。
これはサンスクリット語の「大日」が「偉大な遍く照らすもの」と漢訳仏典にあるため、「天照」と結びつけられたのであろう。
だから、毘慮遮那仏を日本で祀るのは天照大神を祀るのと同じことになる。
そこで、大仏造営にあたって聖武天皇は橘諸兄(橘三千代の子。光明皇后の腹違いの兄)を、天照大神を祀る伊勢神宮に、わざわざ遣わして寺を建てる神許を乞うている。
さらに東大寺建立の僧侶行基も伊勢に行って神慮をうかがい、
「毘慮遮那仏を祀ることはけっしてこちらをゆるがせにすることではない」
と誓っているのである。
これは、伊勢神宮とは教義的にまったく矛盾しないという意思を示したものと考えられる。
つまり、聖武天皇の大仏造営は、仏教に対する革命ではないかとさえ思う。
衆生一致してやろう、というのはほとんど神道的な、
「みんなの神様」という考えに近い、
実に画期的な発想であった。
◆大和魂の根源について
古来から日本には神道がありました。
白村江の戦いに敗れ、一時ですが唐の支配を受ける以前の神道が本来の姿です。
聖徳太子は神道の心構えを政に活かし、十七条憲法として記しています。
当時の憲法とは、
「神に仕えるための掟(心構え)」
の事だったからです。
政は神事の次に神聖なものだったんです。
鎌倉時代には、神に仕える神道の心構えを真似て、武家諸法度が制定されます。
つまり、武人もまた神に仕えていたのです。
そこで、商人は自分たちも神に仕えたいとして、商いの領域を暖簾で囲い、この中を聖域(結界)とし、精進したのです。
お客様は神様ですとは雲泥の差があります。
簡単に言えば、神の前に一人立ち、自分の醜い所も含め全てを丸裸にされ、それでも
“心を尽くし、精神を尽くして、己の主である神を愛す”
という気持ちです。
それが、神前に立つ者の心境なんです。
現代の仕事に対する気持ちの中で、
「神に仕える心構えの精神」
が失われてしまったのだと思います。
勿論、神を棄てた共和国、共産・社会主義国からは、すでに失われてしまった人間の美徳です。
◆家庭における神事と夫婦関係
神主には神道、公家には公家諸法度、武家には武家諸法度、商人には暖簾があり、聖域とされていました。
では、各家庭ではいかにと問う質問があるかと思います。
古代シュメルでは、神前で結婚式を挙げ夫婦になると云うことは、夫婦が家を持つと云うことと同じ意味でした。
つまり、夫婦が一つの部屋を独占し、それが聖域だったんです。
エジプトでもほぼ同じでした。
卑弥呼の時代から日本では、家庭には神主から頂いた天照大を祀る神棚があり、家庭での政については妻が巫女の役割をし、夫がそれを実行していました。
つまり、皇室とほぼ同じ形態を習慣としていたのです。
間違いなく、古代シュメルの伝統をそのまま引き継いだのでしょう。
つまり、家庭では、神棚の及ぼす範囲をその家族の聖域としたのです。
だから、家を継ぐ時には跡取りが、暖簾や神棚を引き継ぎます。
日本では、夫婦関係・家族関係もまた、神事の一つででした。
そして、神棚に祈る時、陛下を見る時、その背後に存在する天照大(ヤハウエ)をも同時に感じていたんです。
そうやって、日本人一人ひとりが天照大を祀る大和民族だという意識を持ち続けていました。
そこが古代シュメル~イスラエルの正当な末裔である日本と諸外国との、
文化と伝統が大きく違う由縁だと思います。
■神話継承の法治国家(道義国家)
◆ 建国の歴史を考えてみる
“明治憲法” は、伊藤博文がドイツの一王国の憲法をまねて作ったもので、
当時、欧米との不平等条約(治外法権・関税率等)を是正するため、それには欧米と同じ文明国だということを示すことが必要でした。
例えば、日本の自主独立のために、鹿鳴館などを欧米諸国との外交の場としたのです。
そして、彼ら明治の元勲は良家の令嬢ではなく、芸者上がりの度胸と愛嬌があり、外交のできる女性を妻として迎えました。
また、彼らは元老としての身分と権威を子供に引き継がせることはしませんでした。
一方、明治憲法だけでは、日本という国柄が国民に不明確なので、教育勅語が発令されました。
つまり、明治の実質的な憲法は、五箇条の御誓文と教育勅語でした。
富国強兵は、明治維新直後だけではなく、大陸からの圧力に屈しないよう、古代から何度も繰り返されてきた日本の伝統でもあります。
そのお手本が日本武尊、神功皇后です。
“日の出ずるの天子” で有名な聖徳太子は、天皇を中心とした国家の建国をめざしました。
太子の十七条憲法では、国家の理念を公に打ち出しました。
即ち、“和の精神”、“民に二君無し”に要約されます。
この時代、強大な随の圧力もあり、多くの豪族が競い合う国内の統一が何よりも急がれていたらかです。
また、大化の改新後は、日本式律令制に移行しましたが、それには十七条憲法とモーセの律法の大和版 (大化の改新) が根底にあったのです。
その後、武士の台頭と共に、世界に先駆けて、実権は武士が、権威は皇室がというような政教分離がなされました。
戦国時代、スペインとポルトガルは、アジア諸国を植民地化し奴隷としていました。
そして日本をキリスト教国化し、明を滅ぼそうとしていた。
ところが、織田信長はあっという間に日本を統一し、豊臣秀吉がスペインとポルトガルからの脅威を跳ね返したのです。
江戸時代は、政教分離と律令制がバックボーンにあり、立憲君主制に近く、士農工商の身分制度はありましたが、実質的な憲法は生活の中での共通認識である式目としたのは、家康の智恵でした。
武士は金銭よりも名誉を重んじ、税率が世界で一番低率で自由な国柄となり、江戸では学問が競い合い、科学技術が進歩し、庶民文化が花を咲かせ、当時世界最大の都市に成長しました。
世界最古の女流文学を生み出した平安時代は貴族の文化でしたが、江戸時代の庶民の文化は世界に類を見ません。
何を言いたいかというと、憲法の前文は、国民の共通認識とすべきもので、
「伊弉諾伊弉冉の国うみ神話(男女の特性を生かして協力し合う)」
「神武天皇の建国の詔(皆が一つの家族のように信頼し合う)」
「十七条憲法(独断をいさめ、話し合いをする。最後には最終決定者の意思に従う)」
「五箇条の御誓文」「教育勅語」のように、これからの時代に相応しい国家理念をうたえばよい。
そして、後の細かなことは、法令集にまかせればよいのだと思います。
日本的な立憲君主制・和の精神は、神話の時代から、外圧を跳ね返し、血みどろの内戦を通じた二千数百年もの年月をかけて引き継がれてきた日本人の魂そのものです。
そこのところを、骨子とすれば良いのではないかと思います。
現実的には、現在のマッカーサ憲法を、一度破棄し、国防と教育部分を修正して、その後で、国民投票か何かで、憲法を改定する手順が穏当かもしれません。
ちなみに、太子の “和の精神” は伊弉諾伊弉冉の「国うみ神話」からの精神を引き継いだもので、神武天皇はこれを「八紘一宇」として踏襲されたました。
◆ 庶民的だった明治時代から
戦後日本の建国へ
私が爺さん連中から戦前の生活を聞いた話では、明治憲法を学校で習うことはほとんど無く、教育勅語と五箇条の御誓文が学校で教えられていたと聞いています。
つまり、米国で毎朝国旗に向かい忠誠を誓うのですが、日本はそれが教育勅語だったのです。
ですから、明治憲法を知らなくても、教育勅語を知っていれば生活には困らなかったし、不便もなかったようです。
現在の私たちは、日本国憲法も、教育勅語も、日本神話も知らず、ただ伝統が生活に残っている状態なのだと思います。
その日本の誇るべき伝統については、
311当時の東北の被災地の方々が日本のみならず世界に示されました。
また、明治憲法には内閣制の規定がなく、首相は軍部を統制できない欠点がありました。
ですから、大臣を罷免にするには総辞職しなければなりませんでした。
そのような欠点や時代に合わない部分もあるのではないでしょうか。
ただ、単純にそのまま明治憲法に戻ればそれでよしとするのでもありません。
昭和21年元旦に「新日本建設に関する詔書」の初めに「五箇条の御誓文」が全文そのまま掲げてあります。
それに続いて次のごとく仰せられています。
「すべからくこの御趣旨に則り、旧来の因習を去り、
・・・
官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、以って民生の向上を図り、新日本を建設すべし。」
詔書に「五箇条の御誓文」を掲げられた意味合いを、昭和52年、天皇ご自身が次のように語っておられます。
「それ(五箇条の御誓文を入れること)が実はあの詔書の一番の目的であって、
神格とかそういうことは二の次の問題でした。
当時はアメリカその他諸外国の勢力が強く、圧倒される心配があったので、民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義が決して輸入のものではない、ということを示す必要があった。
日本国民が誇りを忘れると具合が悪いと思いまして、誇りを忘れさせないために、あの宣言(詔書)を考えたのです」
(『読売新聞』)
まさに戦後の日本は、昭和天皇の平和の祈りと共に、「五箇条のご誓文」を原点として再出発することになったのでした。
だから、憲法の第一に、天皇の重要な行為として「祭祀」を明記し、政教分離という意味での元首だとはっきりさせることが肝要だと思います。
それはモーセの律法では大司祭に相当します。
つまり、国家の安泰、自然の豊穣を神の末裔として神に祈り、時には神のお言葉を国民に伝える役職で、神と人に使えることが天皇の職務です。
勿論、皇統は人類の創造主からの伝統である男子男系に限る。
◆庶民の思う、日本人による日本人のための憲法素案
~目標は、神話継承の法治国家(道義国家)~
日本には神話の時代から神聖な神域・聖域という観念があった。
そこに入るには、禊ぎを行い心身を清めたのちに、入ることが許されていた。
これは古代シュメルの時からの伝統で、ユダヤ民族、その正当な末裔の大和民族により観念は引き継がれたが、その形態は多少変わりました。
それは、日本神話が皇祖の言葉に従順に従い、男女の違いを認め合い助け合うことで、緑豊かな国作りが始まったからです。
江戸時代には、武家は公家諸法度を参考にして、武家諸法度を倫理・行動規範に据えます。
農村部では天照大に連なる氏神を祭ることで、山野田畑を聖域と見なしていました。
この時代に発展する商人達は、彼らの行動規範を暖簾という形で聖域化を図りました。
暖簾の中は彼らにとって聖域であり、商売よりも神に仕えるという意味合い、まごころを伝えるということを大切にしたのです。
だから、世界一治安のよい国へ発展したのだと思います。
その一つの例として、日本人の経営する店に入れば “いらっしゃいませ” 、何も買わなくても “ありがとうございました” と気持ちよい声が聞かれます。
ところが、シナでは何も買わないのなら邪魔だという発想しかないのです。
日本人には
“お天道様はいつでも見ている。隠すことはできない”
という良識がありました。
つまり、皇室の伝統である神事、聖域では心を込めて神に仕えるという伝統を、士農工商の各階級が独自に生活規範として取り入れたのが、日本の世界に誇る一大文化だと思います。
神に仕える精神は、神話から現代まで脈々と日本人のDNAの中に、魂の奥底に流れているのだと思います。
◆神に仕える国うみ神話
皇祖の言葉に従順に従い、男女相和して国家の基礎を作る。
(⇒『日本神話』)
◆神に仕える 神武天皇建国の詔
大和建国の最初に、妻とのむつまじさを歌われ、国家の基礎を固めることを国うみ神話に従い宣言されます。
そして、民が一つの家族のように仲良く暮らすこと、
つまり今風で言えば「道義国家」の実現をめざして建国の理念とされました。
つまり、家庭、国家の基礎を固めることは神に仕えることなのです。
(⇒『八紘一宇』)
◆神に仕える掟 憲法
国では大統領が聖書に手を置いて神に宣誓しますが、これの日本版なのです。
憲法は “いつくしきのり” と読み、
「いつく」は「斎く」、
つまり「心身を清めて神に仕える」
という意味だから、憲法とは、おごそかな気持ちで取り扱うべき捉ということになるのです。
(⇒『十七条憲法』)
これらの神に仕える精神を、簡単明快にまとめたものが、『五箇条の御誓文』『教育勅語』だったのだと確信いたします。
私たちの祖先は繰り返す混迷を打破するために、その度に「神に仕える」という大和魂の原点に戻りました。
その誇り高き歴史が、『記紀』に明記され、この魂を引き継いできたのが、
『五箇条の御誓文』『教育勅語』、
「新日本建設に関する詔書」だったのです。
現状を打破し、新しい日本の道しるべとして、どのような憲法前文が相応しいのか、文才も哲学もない私には未だに不明ですが、日本人一人ひとりが日本文明の担い手としての自覚と責任を持てるように、建国の精神に立ちり、天皇を祭儀を執り行う元首(男子男系)とし、国旗国歌を制定すると共に、公務員の心構えを明記し、ひいては自由と民主主義を守り、世界の平和に貢献するという文言が相応しいのではないかと思うのです。
また、男子男系を皇統とした日継の絶えることのない皇室典範に戻すべきだと思います。