転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』
★天皇制の本質
■『日本国憲法失効論』を読んで(続き)
◆関東軍はなぜ暴走したか
(『日本の歴史 昭和編』P105 )
アメリカとシナで連動しての反日運動、米国のホーリー・スムート法をきっかけとして始まったブロック経済による不況、「天皇制打倒」を唱えるソ連共産主義に対する軍事的・イデオロギー的恐怖--この三要素が相まって、日本も真の危機感を抱くようになった。
昭和初年において、このような状況に対して最も危機感を募らせたのは、満洲にいた日本陸軍、すなわち関東軍の将校たちであった。
満洲ではコミンテルンに操られた反日運動が、民族主義の形をとって過激化しつつあったのである。
この危機感が日本陸軍に昭和六年(一九三一)、満洲事変を起こさせた。
満洲の諸都市を制圧するという軍事行動が、本国政府の意向を軽視して行われたのである。
彼らは満洲北方で、直接ソ連軍と対峙していたし、また、満洲内部では蒋介石や張作霖らが率いるシナ軍がいたるところで反日的行動を行っていて、日本人入植者(それには多数のコリア人も当然、含まれる)の生命や財産がつねに危険に晒されていた。
しかるに当時の日本政府は、幣原外相の方針で、徹底した国際協調外交を打っている。
それは「軟弱外交」と言われたほどで、シナ大陸で日本人居留民の生命が危険に陥っても、武力を用いず、話し合いで解決しようとしたから、満洲在住の日本人も関東軍将校も「日本政府は頼りにならない」と思うようになつた。
このような事態を打開するために、関東軍は昭和六年(一九三一)九月十八日、満洲事変を起こし、さらに満洲国(昭和七年三月一日建国宣言)を独立させたのである。
もちろん、日本政府の方針をまったく無視し、出先で勝手なことをやった関東軍将校の行動は暴走としか言いようがない。
この暴走は、陸軍の中央でさえ知らないところで起きたのであるから、事はさらに重大である。
このような事態になったのは、もとはと言えば、首相も内閣も規定されていない明治憲法の欠陥に起因する。
※皇軍および政治家それぞれは、国体を堅持し、生命を賭してでも日本を守ろうとした方々が多かった。
それは、東京裁判での弁護人陳述、東條英機の陳述、特攻隊に見る精神性の高さから明らかである。
しかし、昭和天皇の英米戦を何が何でも避けようとされたお気持ちに対し、政治と軍部がかみ合わなかった。
これが英米戦に突入した日本側の欠点であった。
元老院の方々が生きていれば、英米との決定的な決裂は避けられていたかもしれない。
◆日本憲法が甦る
『取り戻せ日本を。明治憲法がよみがえる』から抜粋
いったん憲法を破棄すると、現行憲法下で制定された法律その他の一切の行為が「効力を有しない」、つまり無効となってしまいます。
憲法を廃止した結果、刑事訴訟法も家族法も自衛隊法も、戦後の裁判も行政行為も、すべて無効となる。
それでは、あまりにも暴論に過ぎるのではないか、そうした懸念もあって、廃棄論より改正論の方が、より多く支持されているのでしょう。
※いったん破棄すると、憲法論上、明治憲法に戻るわけです。
例えば、皇室典範も、明治典範に戻るのです。
そうなれば、皇位継承問題も解消してしまい、加えて旧皇族の皆さんが、復帰することになります。
◆現行憲法が優れている点は残す
ならば、生まれ変わる新しい憲法は、どのような姿になるべきなのか。
それを考えるために、明治憲法と戦後の現行憲法を比べてみましょう。
現行憲法は廃棄されるべきだと申し上げましたが、実は、明治憲法より占領下の現行憲法のほうが優れている点が、いくつかあります。
その一つが、内閣総理大臣に関する規定です。
実は、明治憲法には「総理」に関する規定がありません。
いや、それどころか、案外知られていませんが、「内閣」という文言すらなかったのです。
憲法上は「内閣」も「総理」も規定されていなかった。
これを、そのまま復活させるわけにはいきません。
戦前の内閣制度はどうだったのか。
ここで簡単に振り返ってみましょう。
いわゆる「五箇条の御誓文」に示された政治の方針を実現するため、慶應四年(一八六八)に設けられた太政官制度に代わって、明治十八年(一八八五)、新たに内閣制度が創設されました。
この日、新たに内閣総理大臣並びに宮内、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、文部、農商務及び逓信の各大臣を置くことと、
「内閣総理大臣及び各大臣(宮内大臣を除く)をもって内閣を組織すること」
が定められました。
ご存知のとおり、初代の内閣総理大臣には、伊藤博文が任命されました。
その後、明治二十二年(一八八九)二月十一日に明治憲法が公布されました。
明治憲法は、内閣総理大臣についても特段の規定がなく、天皇を輔弼する関係においては、内閣総理大臣も「国務各大臣」の一人として、他の国務大臣と同格でした。
◆現行憲法で総理の地位と権限が向上した
平たく言えば、総理大臣であっても憲法上、特段、偉くない。
だから、国務大臣の一人がゴネると、クビにもできず、総辞職するしかない。
実際、戦前・戦中の多くの内閣が総辞職を余儀されました。
たとえば、陸軍と海軍が対立すると、総理がそれを調停できない。
あるいは、陸軍大臣がゴネて「辞任する」と脅かせば、内閣がつぶれる。
陸海軍大臣は現役武官制となつて以降、実際に、内閣が陸海軍の強い意向で動くことになりました。
その歴史を繰り返してはなりません。
昭和二十二年五月三日の「憲法記念日」に、現行憲法が施行され、同時に「内閣法」が施行され、現在の内閣制度が確立しました。
「国民主権」のもと、議院内閣制のもとで、内閣は行政権の主体として位置付けられました。
現行憲法は
「内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する」
(第六十六条第一項)
と定めています。
明治憲法下で「同輩中の首席」として他の国務大臣と対等の地位でしかなかった総理が、晴れて、内閣の「首長」となったわけです。
総理は「内閣の首長」として、内閣を代表する地位にあると同時に、内閣全体の統一性、及び一体性を確保する役割を有しています。
合議体である内閣が、国会に対して連帯責任を果たすためには、総理に強固な統率力が必要です。
そこで現行憲法は、総理に国務大臣の任免権のほか、内閣を代表して議案を国会に提出する権限や、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する権限などを与えました。
くわえて、内閣法も閣議の主宰権のほか、主任の大臣のあいだで権限の疑義がある場合は、閣議にかけてこれを裁定する権限などを認めています。
他方で、総理の権限は、基本的には閣議にかけて行使するのが原則です。
アメリカ大統領などと比べれば、大きな制約があります。
とはいえ、戦前までの内閣制度と比べれば、総理の閣内における地位も格段に高められ、権限も強化されました。
廃棄されるべき現行憲法ですが、この点は、率直に評価すべきだと思います。
◆証人への審問権がなぜ大切なのか
もう一つ、戦後の現行憲法で評価されるべき点があります。
それが以下の条文です。
(第三十七条)
「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
2.刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する」
とくに注目していただきたいのが、第二項にある証人への審問権です。
実は、明治憲法には、こうした規定がありませんでした。
なぜか日本の憲法学者はリベラル派を含め、この点を過小評価しますが、
実はきわめて重要な規定ではないかと思います。
思い出してみてください。
戦勝国が敗戦国を一方的に裁いた、あのインチキな東京裁判ですら、いちおう、形式的ながらも、反対尋問が実施されました。
具体例で考えてみましょう。
いわゆる「南京大虐殺」をめぐって、伝聞情報を証言した検察側証人のマギー牧師に対して、被告人側の代理人(ブルックス弁護人)が反対尋問しました。
すると、次第にトーン・ダウンしていったのです。
「証人自身が実際に見たのは、何件の不法行為または殺害の現行犯ですか」
すると答えは、なんと一人。
これが世界に喧伝された「大虐殺」の正体でした。
二日間にわたってマギー証人が証言した、日本軍による多数の不法行為が伝聞情報にすぎないことが、つまり裁判上の証拠価値に乏しいことが露呈したわけです。
念のため付言すると、戦後日本の刑事訴訟法でも伝聞証拠の採用は原則禁止されています。
(第三百二十条ほか)
しかも、直接証拠となるべき一件の目撃証言について、ブルックス弁護人から「どういう状況下で起こつたのか」と聞かれ、
「歩哨兵から、『止まれ』と言われた男が安全地帯に逃げ込もうとして撃たれた」
と証言しました。
考えてみてください。
事実上の戦場で、歩哨兵が「止まれ」と命じているのに、その場から逃走しようとしたのです。
「止まれ、止まらんと撃つぞ」と言っても逃走するなら、平時のアメリカの警察官だって撃つでしょう。
いわんや、熾烈な南京攻略戦の最中での出来事です。
これが「大虐殺」と呼べるでしょうか。
「証言」したマギーは、アメリカの名門イエール大学を卒業した立派な牧師でした。
国際安全区のリーダーでもありましたから、それなりに誠実な人物だったのでしょう。
そんな牧師でも、当初の証言と反対尋問に対する答えとのあいだには、大きな違いがありました。
もし、東京裁判で反対尋問が認められていなかったら、当初の証言だけが証拠として採用されていたでしょう。
実におそろしいことです。
それでは暗黒裁判になつてしまうからです。
◆マッカーサー憲法を廃棄し、
戦後レジームから脱却せよ
現行憲法には、明らかに明治憲法より良くなった点もあります。
悪くなった点もあるでしょうが、良くなった点もあるのですから、これらを生かした新憲法草案を準備し、国民の一定の理解を得てから、憲法の廃棄宣言をして、発布するという経緯を辿るべきでないでしょうか。
安倍総理をはじめ、自民党は「憲法改正の発議要件の緩和」を打ち出しています。
まずはそこから、という立場です。
そのうえで「日本らしさを憲法に掲げる国」を目指しています。
いずれも、政治の現実を踏まえた真撃な姿勢だとは思いますが、やはり筋を曲げてはいけません。
「日本らしさ」は当然ですが、現行憲法の規定を前提とした改正論議には、慎重であるべきでしょう。
現行憲法自体が、進駐軍(連合国軍総司令部= GHQ)による占領政策であった、つまり占領政策基本法であったと、そうはっきりと宣言しなければなりません。
そうでなければ、日本人が占領政策を認めたかのごとき印象が生じてしまいます。
「今の憲法は占領基本法である」
少なくとも、いったん、そう宣言する必要があります。
それこそが「戦後レジームからの脱却」に他ならないのですから。
東條英機とマッカーサーは、国家自衛のための戦いであったという同じ見解を披瀝しました。
ソクラテスが裁判を認めたのではなく、判決を受諾して毒を飲んだ。
日本も同じで、東京裁判を認めておらず、ただ敗戦国ゆえに、諸判決を受けいれたのです。
東京裁判史観は誤りです。
◆東京裁判に対するわが国の姿勢
後藤田正晴・内閣官房長官もその中心にいました。
前年の昭和六十年に中曽根首相の靖国公式参拝を実現するために尽力した藤波孝生・官房長官に代わって、中曽根政権で二度目の官房長官となっていた後藤田は、東條英機元首相らいわゆる「A級戦犯」の合祀にわざわざ言及して、「(前年の参拝は)近隣諸国の国民にA級戦犯に対して拝礼したのではないかとの批判を生んだ」「近隣諸国の国民感情にも適切に配慮しなければならない」と述べました。
見てのとおり、全面的に中国に譲歩した内容の談話を発表したわけです。
さらに後藤田は、参拝を中止した理由について、昭和六十一年八月二十八日の参議院内閣委員会で、「サンフランシスコ条約十一条であの裁判(東京裁判)を認めておるといった大前提に立って事柄を処理せざるを得ない」と答弁しました。
一貫して申し上げているとおり、日本政府は講和条約において「判決の執行」を認めたのであって、「東京裁判」自体を受け入れたわけではありません。
この後藤田の見解表明も中国の言い分に利を与えることになりました。
外交とは、所詮、かたちを変えた戦争であるというマキャベリズムを理解するのは、国政に携わる者の常識であるべきですが、まさに、その戦争において、驚くべき利敵行為を、当時の自民党首脳が行ったということです。
かつて、昭和二十七年十二月九日の衆議院本会議において、自由党、改進党、社会党の左右両派、無所属倶楽部の共同提案による「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が圧倒的多数で可決されたことを、いま、どれほどの国民が知っているでしょうか。
発議にあたって古屋貞雄議員(社会党)は、こう述べています。
「敗戦国のみ戦争犯罪の責任を追及するということは正義の立場から考えてみましても、基本的人権尊重の立場から考えましても、公平な観点から考えましても私は断じて承服できないところであります。
(中略)
世界人類の中で最も残虐であった広島、長崎の残虐行為をよそにして、これに比較するならば問題にならぬような理由をもって戦犯を処分することは、断じてわが日本国民の承服しないところであります。
ことに、私ども、現に拘禁中のこれらの戦犯者の実情を調査いたしますならば、これらの人々に対して与えられた弁明ならびに権利の主張をないがしろにして下された判定でありますことは、ここに多言を要しないのでございます。」
当時は社会党の議員ですら、こう述べていたのです。
◆ますらおの 愛しきいのち 積み重ね 積み重ね護る 大和島根を
国のために尊い命を捧げた英霊に、首相が哀悼と感謝の祈りを捧げるのは当然です。
外国との摩擦回避に譲歩を重ねるだけなら、外交の名に値しない。
事実に基づかない歴史認識で父祖を賤しめるのはもってのほかです。
わたしたちは何も、シナ人や韓国人に靖国参拝を求めているわけではありません。
日本人が参拝するのに文句をつけるなと、言っているだけです。
靖国問題は宗教問題です。
宗教問題は、一六四八年のウエストファリア条約以来、お互いに絶対干渉しない、それが国際法の大原則です。
内政干渉は国際習慣に反する。
国際法にも反する。
そう断固として拒絶すればよいのです。
同時に、靖国問題は国防上の、安全保障問題でもあります。
実は、シナ人は日本人を怖がっています。
それは、日清・日露戦争以来、シナ人の頭にこびりついたことです。
満洲事変、シナ事変もそうでした。
日本人は死ぬのは怖くない、なぜ日本人は怖がらないか。
シナ人の考えでは、日本に靖国神社があるからだ、こう理解されたからです。
だから、中国は靖国問題にこだわるのです。
宗教問題としても、国防上の問題としても、けっして靖国問題で中国に譲歩してはなりません。
第二次安倍内閣には、天皇陛下のご参拝が実現できるよう、最大限の努力をお願いしたいものです。
天皇陛下がご参拝しないで、いざというとき、誰が戦争で死ねるでしょうか。
昔なら、小学生でも知っていた「靖国神社の歌」があります。
「ああ大君(おおきみ)の
ぬかづき給う 栄光の官 靖国神社」
大君、つまり天皇陛下も拝む、栄光の宮が靖国神社だという歌詞です。
天皇は基本的に、神社に参拝しません。
春日神社であろうが、何神社であろうが、参拝しない。
なぜなら、それらは天皇が位をあげている対象だからです。
天皇が拝むのは伊勢神宮や明治神宮など、祖先を祀る神社です。
普通の神社は拝まない。
その例外として拝むのが、靖国神社なのです。
「大君のぬかづき給う栄光の宮」
なのです。
だから、戦死した軍人兵士が慰められる。
遺族も慰められる。
国民の象徴が頭を下げてお祈りしてくださる。
他の神社には、お祈りされない方でも参拝してくださる。
靖国には、そうした意義があることを忘れてはなりません。
くわえて、より実際的な問題を言えば、かつての戦友を弔おうとしても、簡単に海外に行ける人は少ないでしょう。
かつての戦地を訪れる機会があったとしても、正確な場所にたどり着けるのは困難ではないでしょうか。
戦死した友人の御位牌にお参りしたくても、住所を探すことは、地名変更もあって、ほとんど不可能です。
しかし、靖国神社に行けば、会えるのです。
これが、遺されたわれわれの慰めにもなるのです。
靖国神社があるから、必ず会える。
靖国で会おうと言って散っていった軍人も、生き残った戦友や遺族が拝みに来てくれるという望みが持てるわけです。
靖国神社の問題は、日本の存続に関わる死活的な問題です。
靖国を疎かにする政治家には、政権を担う資格がありません。
◆天皇の靖国参拝
(『日本の歴史 戦後編』より)
《天皇陛下も参拝される神社ということで、靖国神社に祀られている人々は天皇陛下の先祖並みの尊さになるという意味があるのだ。
この靖国神社にまつわる涙ぐましい話がある。
昭和十六年、第二航空戦隊がウエーキ島を攻撃した時、航空母艦に帰還できなくなった飛行機があった。
一機に二人搭乗していたが、その二人から航空母艦に、「戦死なりや」という電信が打たれた。
つまり、「自分たちは戦死扱いになるのかどうか」を問うてきたのだ。
敵に位置を知られないよう航空母艦からは電信を打ってはいけないことになっていたが、それを見た山口多聞司令官は、かまわんと言い、「戦死なれども生きて帰れ」と電信を打った。
結局、その二人は着艦こそできなかったものの海に着水して助かった。
そこで「なぜ『戦死なりや』という電信を打ったのか」と聞かれて、
「戦死ではなくなると靖国神社に祀ってもらえなくなると思い、心配になった」
と答えたという。
これが当時の兵隊たちの九九パーセントの思いである。
だから、靖国神社参拝反対などという輩は、日本人の敵だと言っていい。
自分が死ねば、頭を下げてくれるご神体になるのだという切実な思いを、神様よりも偉い天皇陛下すらも、兵士の誰もが持っていたのだ。
・・・
さらに言えば天皇のお言葉として本当に重要なのは詔勅である。
昭和天皇が靖国神社への公式参拝を止めたのは、A級戦犯が合祀されているからだとする論調がある。
しかし、昭和天皇が公式参拝を取り止められたのは、国際的な騒ぎを避けるためだと解釈しなければならない。
首相の公式参拝でもあれだけの騒ぎになるのだから、昭和天皇が公式参拝されれば大騒ぎになるとお考えになったのだろう。
ただ、昭和天皇は公式参拝こそ控えられたが、それ以後、毎年、例大祭に勅使をお送りになっている。
旧皇族の竹田恒泰氏は、これを素晴らしい政治的ご判断だと言っていらっしやる。
勅使というのは、天皇の名代として儀式を執り行うので、天皇御自身が参拝されるのと同じ意味を持つ。
迎える側も天皇陛下をお迎えするのと同じようにご対応しなければならない。
この勅使の意味が幸いにも朝日新聞の記者にはわからないので、問題にしなかっただけだ。
そして現在でも勅使の参拝は続いているので、天皇陛下の参拝は続いているということになる。》
■無条件降伏と天皇の人間宣言
ポツダム宣言の受諾は、日本の軍隊が無条件降伏するという意味であって、国家に対する無条件降伏ではないことは、次の第五項の条文で明らかです。
「我の条件は左の如し、
・・・
我らは日本人を民族として奴隷化せんとし、又は滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ず」
つまり日本人を奴隷にはしない、皆殺しにもしないという条件を付けた上での受諾であったのです。
それにも拘らず実質的に日本がアメリカに無条件降伏したのは、戦後であったのです。
占領軍の約7年に及ぶ占領政策から日本が独立国として再出発した講和条約の締結に於いて、日本は東京裁判を受け入れたのではなく、諸判決(Statements)を受け入れたのです。
それが戦後、あろうことか小和田雅子皇太子妃の父である亘氏(元外務事務次官)が法解釈を捻じ曲げ、東京裁判そのものを認めたとする見解を発表しました。つまり日本を東京裁判史観に拘束させ、戦後アメリカのやることは何でも正しい、日本のやったことはすべて間違っている、とした東京裁判の正当性を擁護した大悪人です。
それ以後、東京裁判の違法性を日本人自ら問えない状況を作ったのです。
それと同時に、日本が独立した1951年4月28日という記念すべき日を貶め、今や国民はその日が何時だかも知りません。
もし小和田氏が、東京裁判を日本が認めていないことを前提に日本の独立が認められたことを内外に示せば、戦後の日本の再興に新たな転機を迎えたであろうことは間違いない。
それ故に日本が本当に戦争に負けたのは、戦後であると言えるのです。
それも自ら好んで負けたのです。
さて、かくも日本人が自虐的になったのは、果たしてアメリカの占領政策とマルクシズムだけなのでしょうか?
敗戦直後、日本人はマッカーサー率いる占領軍を征服者としてではなく、解放者として迎えました。
昭和26年4月16日、衆参両院で「マッカーサー元帥に対する感謝決議」を行い、マッカーサーを「悩める敗戦国民に対する救世主」と称え、
「我が国独立の機運を促進したる偉大な業績は、国民を挙げて感激措く能わざるところ」
と絶賛しました。
マスコミも
「嗚呼!マッカーサー元帥、
日本を混迷と飢餓から救い挙げてくれた元帥、
元帥!その窓から、青い麦が風にそよいでいるのをご覧になりましたか。
今年も実りは豊かでしょう。
それは皆元帥の5年8カ月に亘努力の賜であり、同時に日本国民の感謝の印でもあるのです。
どうかお体をお大事に」
(昭和26年4月17日付夕刊)
国民の多くもマッカーサー元帥を「偉大なる大聖人」「永久救世主」「自由と公平の使者」「尊敬の的たる人格者」「天使」「女子学生の憧れの的」などと最大限の賛辞を送っていた。
50年を経た平成の世にも、マッカーサー元帥の記念像が建つ始末。
まるで、どこかの新興宗教の教主を、あるいは北朝鮮の将軍様を称える機関紙の文章と言ってもおかしくありません。
どうして日本人を無差別に殺戮した戦争相手の大将をここまで賛辞出来るのか大変不思議です。
ここに日本人生来が持つ状況の変化への適応の速さと吸収力が裏目に出たのではないかと思います。
言葉を換えれば状況によっては卑屈にも傲慢にもなる生来の気質を持っているとも言えます。
その上でそのきっかけになったのは、
「天皇の人間宣言」ではなかったでしょうか。
トップに天皇を置いて国民との共同体を作っていると考えたGHQは、これを破壊しようとした。
それが天皇の人間宣言ではなかったか。
昭和21年元旦、
昭和天皇は「年頭の詔書」(いわゆる人間宣言)を述べられた。
「朕と汝ら国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。
天皇を以って現御神とし、かつ日本国民を以って他の民族に優越せる民族にして、
延(ひい)て世界を支配すべき運命を有するとの架空なる観念に基くものに非ず」
と述べられました。
この人間宣言によって天皇と国民の紐帯は外され、国家と国民を結ぶ「共通の規範」を持つ天皇共同体はGHQによって事実上崩壊せしめられた。
そこに日本国民の中から天皇という大義、正統性を失い、自分の居場所を見失ってしまったのではないかと思う。
つまり無規範、無連帯を呈してしまった。
本来の天皇共同体が失われた代わりに、単なる機能集団としての共同体が誕生した。
その最たるものが戦後の企業集団である。
このような機能集団は二重規範を持ち、「内の規範」と「外の規範」が全く違う。
したがって、機能集団が共同体と化せば、そこに普遍的な規範は存在しない。
日本人は無規範になり、内と外の規範に分けて(二重基準)生きるようになった。
国民と国家は敵対関係となり、もはや国の為に何が出来るかと問う国民は消失した。
国に何をしてもらうかしか考えない、天皇(神)なき自由、利己主義、
個人主義の国にするべく時限爆弾を仕掛けてGHQは去って行った。
かくして日本解体計画の最大の目的は戦後65年で達成された。
世界の国家(民族、宗教)には、良い悪いは別にしてそれぞれ、その国が拠って立つ正統性、大義がある。アメリカなら建国の精神、中国なら中華思想、イスラエルならユダヤ教、西洋ならキリスト教、かつてのソ連ならマルキジズムというように。
勿論日本は天皇体制です。
その正統性や大義はその国に於いて絶対的なものであり、解釈を変えるということはその国を否定するに等しい。
だから人々は大義を求め、それを後ろ盾にして戦うことが出来るのです。
天皇は人間であることは言われなくても、私たちの祖先は分かっているのです。
しかし天皇は天照大・皇祖の男子男系血統として、権威の象徴として日本をまとめ上げていたのです。
そして私たち日本の歴史を顧みれば、
日本の神々は西洋のような全知全能の神ではないが、徳を有する賢者で有り、悪魔ではあり得ないこともよく分かります。
今後、個人や国家が何を正義とし規範とするのか。
人類は良心のよって立つ絶対不変の神の概念を必要としていますが、それに代わる概念を打ち立て、全知全能の神から脱出しなければならない。
自由と秩序を維持し、大義と正統性を持ち得る新しい概念とは何か。
天皇を現人神として祭り上げてしまった戦前の秩序も、戦後の混乱も、同じ日本人がもたらしたものです。
どちらも何かが足らないのです。
◆田母神統合幕僚学校長が中国に直言したこと
田母神統合幕僚学校長は、我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣であると述べ、国会に出て質疑応答をしましたが、
このことを国民の耳目に触れさせたくない、という思惑が働いていたことは明らかだと思います。
田母神さんは、著書の中で、こう述べています。
《日本には反日的言論の自由は無限にある。
日本のことをいくらでも悪く言うことができるし、それによって国会が紛糾することもない。
一方、親日的言論の自由は極めて制限されている。
特に自衛隊に関することと歴史認識については、言論が封じられ、言っただけで問題を引き起こす。
今回の私の論文がその典型である。
問題になるのが分かっていて何故言うのかという疑問があるだろう。
それは、問題にしないということは少しずつ反日に同調するということを意味するからだ。
これまでの歴史の推移を見れば、それは明らかである。
そのとき少し譲歩して収めたとしても、次回はもっとつらくなる。
もっと言論が不自由になる。
この繰り返しでは日本はやがて崩壊してしまう》
(『自らの身は顧みず』より)
まさに田母神さんの更迭で明らかになつたのは、これでした。
東京裁判史観に沿った発言は問題にされず、それに異を唱える発言は危険視、問題視され、公職にある者はその地位を脅かされる。
政治家、官僚、学者、マスコミの多くが束京裁判史観に摘め捕られ、そのことを疑いもしないとすれば、まさに田母神さんの言うとおり、「日本はやがて崩壊してしまう」でしょう。
それを防ぐためには、なんとしても東京裁判史観からの脱却が必要です。
田母神さんの現役時代の対中アプローチにも学ぶべき点があります。
平成十六年、統合幕僚学校長だった田母神さんは、学生の幹部自衛官らを引率して、研修のために中国を訪問しました。
その様子を、田母神さんの筆で紹介しましょう。
《人民解放軍総参謀部を表敬訪問した際、ナンバー2の範長龍参謀長助理は厳しい表情で、先の大戦で日本軍が残虐行為をしたとする歴史観をとうとうとまくし立て・・・》
それに対し田母神さんは、こう応じたそうです。
《私の歴史観は範中将とは異なる。
日本は諸外国との比較で言えば極めて穏健な中国統治をしたと思っている。
日本軍が実質満州を統治するようになってから満州の人口は毎年百万人以上も増加した。
残虐行為が行われるような場所にこれほど多くの人が集まるわけがない。
中国が日本に対してだけ残虐行為を吹聴するのは何のためか。
もし中国が日本に謝れと言うのであれば、たとえばイギリスに対してはその五倍、十倍謝れと言ってやっとバランスが取れるのではないか。
中国における反日教育は是非やめてもらいたい》
(『正論』平成二十一年三月号「やむにやまれぬ『防人』の思い」より)
田母神さんは、
《この会談の後、私は相当のリアクションのあることを懸念し、覚悟もした》
そうです。
実際、田母神さんが帰国前に開いた答礼の宴に中国側からは将官が一人も出席しなかったといいます。
翌月には中国国防大学の研修団が来日する予定でしたが、統幕学校訪問は取り止めるという連絡もあったそうです。
田母神さんは、「それなら、それで結構」という趣旨の返答をしたそうです。
しかし、結果は
《それ以上問題はこじれることなく、中国側の研修団も当初の予定通り統幕学校を訪れてくれた》
というものでした。
これは、外交交渉を考えるうえで示唆的です。
いかなる国とのあいだにも摩擦や軋轢が生じうるのが国際間の常態で、その回避を専一にすることが外交の目的であってはならない。
摩擦を恐れずに、こちらの意見を率直に披瀝するほうが、相手に要らざる不信感を抱かせずに済む。
外交とは、相互に押し退きを繰り返す、駆け引きです。
問題視された論文と同じような見解を中国軍の高官相手に語っても、彼らはちゃんと研修団を来日させた。
しかるに日本国内では、日本政府によってかくの如く歪められ更迭されてしまう。
これはやはり、ある種の思考停止による自縛としか言いようがありません。
《自衛官の将官であればこそ、自国に対するいわれなき誹謗中傷には毅然と反論すべきと思っている。
日本を定め、見下すような軍事交流など本物の交流ではない》
(前掲論文)
という田母神さんの考え方と、田母神論文を批判した多くの人々の考え方と、どちらが、より日本を思う現実主義者でしょうか。
◆胡錦涛主席の理不尽な要求を拒否した安倍総理
本書の最後に、安倍さん自身のエピソードに触れながら、第二次安倍内閣が果たすべき課題について述べておきましょう。
《先に述べたように、第一次安倍政権はきわめて短期間のうちに、次々と新政策を打ち出しました。
教育基本法を改正し、愛国心や伝統の尊重といった道徳面の強化を実現しました。
防衛庁を防衛省に昇格させました。
集団的自衛権の行使についても前進させました。
憲法改正のための国民投票法も成立しました。
どれ一つとっても、意義深く、大きな政策課題でした。
あまりにも突然すぎた病気辞任表明会見がなければ、偉大な宰相として記憶されていたのではないでしょうか。
こうして短く業績を振り返ることで、安倍総理の資質が浮かび上がってきます。
なにより安倍さんは、スジを通すリーダーでした。
第一次安倍政権のエピソードを、一つご紹介しておきましょう。
二〇〇七年、ドイツのハイリゲンダムでサミット(先進国首脳会議)が開かれました。
そこに、中国がオブザーバーとして出席していました。
そこで、安倍総理が、中国の国家主席だった胡錦濤氏と話し合おうとしたのです。
すると、胡錦躊氏のほうから注文をつけてきました。
それは「李登輝の訪日は絶対に止めてもらいたい」ということでした。
ご存知のとおり、李登輝氏は、台湾(中華民国)の民主化に貢献した偉大な元総統ですが、すでに政界を引退していました。
中国主席の理不尽な要求に対して、安倍総理は毅然として「条件をつけられて会談する必要はない」と言って断ったそうです。
すると中国側が一歩下がって、
「李登輝が訪日しても政治的な発言はさせないと約束してほしい」
と迫ってきました。
それでも安倍総理は、
「そんな条件をつけられる筋合いはない」
と言って、また断ったというのです。
結局、中国側は無条件で日中首脳会談に応じました。
以上のやり取りを振り返ってみても、安倍さんが一国のリーダーとして、対中外交の場でも背筋がピンと伸びていたことがわかります。
広く知られたとおり、拉致問題でも、こうした安倍さんの資質が、いかんなく発揮されました。
平成十四年九月十七日、小泉純一郎総理が、日本の首相として初めて北朝鮮を訪問し、平壌市内の「百花園招待所」(迎賓館)で金正日総書記(当時)と会談しました。
当初、北朝鮮は拉致を認める予定ではなかったのですが、
「(小泉総理に随行していた)安倍晋三・内閣官房副長官と思われる人物が、午前の会談後の休憩中に、北朝鮮政権の公開謝罪の拒否に強く抗議して、首脳会談中断を強力に要求している」
という内容の盗聴資料を北側が入手し、金正日に報告を上げたため、金正日が午後の会談で、即興的に拉致を認めたことが、後に明らかになりました。
当日の模様を、後日、安倍さん自身がこう語っています。
「午前の会談では、専ら小泉首相が拉致問題などで北朝鮮側を非難し、金正日氏は何もこたえず聞いていました。
休憩で別室に案内されたとき、私は小泉総理に、北朝鮮が国家として拉致を認めず、謝罪もしないのであれば、平壌宣言に署名する必要もない。決裂でいい。
断固帰国しましょうと、申し上げました。
当然、盗聴されていると思いましたので、はっきり言いました」
こうして当初は北のシナリオになかった金正日による拉致認定が実現したのです。
もし日本側に帰国されれば、当てにしていた経済支援もなくなります。
困るのは北朝鮮です。
それを承知のうえで、盗聴されていると思ったからこそ、安倍さんは大芝居をうったのでしょう。
あのとき、安倍さんが決然としてスジを通そうとしなければ、拉致被害者が帰国することは実現できなかったでしょう。
拉致を認めることすら、なかったでしょう。
昨年 ( 2012年 ) 十二月二十八日、つまり、二度目の総理就任の翌々日、安倍さんは、横田めぐみさんの両親ら、北朝鮮による拉致被害者の家族と総理大臣官邸で会談しました。
会談には、古屋圭司・拉致問題担当大臣や菅官房長官も同席しました。
この会談で安倍総理は、
「五年前に私が総理大臣の職を突然辞して、皆さまに大変残念な思いをさせてしまった。
皆さまを落胆させたことが、私にとって最も辛いことだった」
と謝罪したうえで、
「今回もう一度、総理大臣の職に就いたのは、何とか拉致問題を解決しなければならないという使命感によるものだ。
この問題は、必ず安倍内閣で解決するという決意で臨みたい」
と強い決意を語りました。
◆日本製品が冷戦終結を促した
(『日本の歴史』より)
戦艦大和も零戦も、欧米技術の延長線上にある。
零戦の機関砲はスイスから買ってきた。
しかし、省エネ技術だけは日本発のもの。
日本のガソリンを食わない自動車技術が米国でも使われ、潰れかけたハーレー・ダビッドソンを救ったのはホンダだった。
気がついてみると、軍事機密関係や宇宙開発関係は別として、民生品であれば日本製品が世界を闊歩していた。
ベルリンの壁があった頃、ハンガリーの女の子が「ハンガリー人が欲しがっている物はみんな日本製です」と言うのだ。
鉄のカーテンの向こうでは、日本を天国のように思っていたのだ。
米国経営学者、ドラッカーが後に、戦後、一番大きな働きをしたのは日本であると言った。
一つは、政治的独立を旧植民地に教えた。
もう一つは、高い技術はどこからでも習ったほうがいいということを教えた。
これは明治維新から続く日本の伝統であると言うのだ。
そして、日本の技術移転によって、マレーシアでもインドネシアでも東欧圏では作れないものが作れるようになった。
鉄のカーテンの向こうは典型的な白人世界だ。
戦前の通俗なダーウィニズムで、一番進化したのが白人で、その次が黄色人種、その次が褐色人種、その下が黒人で、最後がオランウータン。
にもかかわらず、オランウータンの住む森に近い国が作っている物を自分たちが作れない。
どうして自分たちがオランウータンよりも遅れてしまったのか、と考えた時、体制が悪いのだと気づいた。
それがベルリンの壁の崩壊につながったのである。
ものすごくプライドが高い東ドイツ人が、オランウータンに負けているのだから我慢ならない。
このように、冷戦の終結に、一番貢献したのは日本であると、ドラッカーは評価している。
明治維新の頃に日本が存在しなかったら、白人の人種隔離政策は半永久的に行われたかもしれない。
また戦後においても、日本がなかったら、まだ冷戦が続いていた可能性がある。共産圏の庶民が体制を信用できなくなったのは、日本の経済成長および省エネ技術革新とそれにともなうアジア諸国の経済と工業の成長にあるのだから。
共産主義体制は民主主義運動だけで潰れるようなヤワなものではない。
トウ小平も台湾を見て改革開放政策を行った。
つまり庶民が商品を見たことで、共産主義イデオロギーは崩壊した。
そしてその省エネ型ハイテク商品を作ったのは日本だということなのである。
※だから、東南アジアを没落させ、中国に資本を注入したのだ!
ロックフェラーが「次の超大国は中国だ」と言った意味がやっと分かりました。つまり、白人の世界支配を存続させたかったから。
◆日本に美しい虹をかけよ
そもそも、一国の歴史教育はどうあるべきでしょうか。
もちろん、事実を教えることも大切ですが、その前提になるのは、愛国心であり、国に対する自尊心、そしてそれを支える物語の存在です。
イギリスの哲学者オーウェン・バーフィールドは、こう語っています。
「歴史の事実は、雨上がりの大気中にある水滴のごとく、無数にある。
その断片を拾い集めれば、どれもが事実だが、ある視点から、それらを見ると、虹が見える。
その虹が歴史というものである」
無数にある歴史の事実から輝く虹を見せることが、一国の歴史教育の要諦なのです。
安倍さんは、よくよくご存知のはずです。
ぜひ、過去の失敗と教訓に学び、日本の子供たちに、美しい虹を見せてほしい。
もう一度「美しい国へ」。
東京裁判史観の闇を晴らし、美しい虹をかけることが、その一歩となるのです。
保守とは何か。
それは、現実の政治や世の中の動きに照らせば変化するものです。
福田恆存はかつて、こう語りました。
《最初に保守主義といふものがあつて、それに対抗するものとして改革主義が生じたやうに思はれがちだが、それは間違つてゐる。
(中略)
保守派は眼前に改革主義の火の手があがるのを見て始めて自分が保守派であることに気づく。
「敵」に攻撃されて始めて自分を敵視する「敵」の存在を確認する。
(中略)
したがつて、保守主義はイデオロギーとして最初から遅れをとつてゐる。
改革主義にたいしてつねに後手を引くやうに宿命づけられてゐる》
(『私の保守主義観』)
われわれは改めて、日本を侵そうとする者の存在を、はっきり意識しなければなりません。
保守派はマルクス主義に勝ったと思っていましたが、その実、「人権」「人道」「平等」「環境」といった、一見、善なる言葉の陰で、左翼的価値観は浸透拡散し、日本人はそれに蝕まれています。
「日本の敵」はマルクス主義の看板を隠し、「民主」とか「市民」を名乗ることでインヴィジブルな存在になりました。
しかし、消えてなくなったわけではありません。
闘いは終わってはいないのです。
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』
★天皇制の本質
■『日本国憲法失効論』を読んで(続き)
◆関東軍はなぜ暴走したか
(『日本の歴史 昭和編』P105 )
アメリカとシナで連動しての反日運動、米国のホーリー・スムート法をきっかけとして始まったブロック経済による不況、「天皇制打倒」を唱えるソ連共産主義に対する軍事的・イデオロギー的恐怖--この三要素が相まって、日本も真の危機感を抱くようになった。
昭和初年において、このような状況に対して最も危機感を募らせたのは、満洲にいた日本陸軍、すなわち関東軍の将校たちであった。
満洲ではコミンテルンに操られた反日運動が、民族主義の形をとって過激化しつつあったのである。
この危機感が日本陸軍に昭和六年(一九三一)、満洲事変を起こさせた。
満洲の諸都市を制圧するという軍事行動が、本国政府の意向を軽視して行われたのである。
彼らは満洲北方で、直接ソ連軍と対峙していたし、また、満洲内部では蒋介石や張作霖らが率いるシナ軍がいたるところで反日的行動を行っていて、日本人入植者(それには多数のコリア人も当然、含まれる)の生命や財産がつねに危険に晒されていた。
しかるに当時の日本政府は、幣原外相の方針で、徹底した国際協調外交を打っている。
それは「軟弱外交」と言われたほどで、シナ大陸で日本人居留民の生命が危険に陥っても、武力を用いず、話し合いで解決しようとしたから、満洲在住の日本人も関東軍将校も「日本政府は頼りにならない」と思うようになつた。
このような事態を打開するために、関東軍は昭和六年(一九三一)九月十八日、満洲事変を起こし、さらに満洲国(昭和七年三月一日建国宣言)を独立させたのである。
もちろん、日本政府の方針をまったく無視し、出先で勝手なことをやった関東軍将校の行動は暴走としか言いようがない。
この暴走は、陸軍の中央でさえ知らないところで起きたのであるから、事はさらに重大である。
このような事態になったのは、もとはと言えば、首相も内閣も規定されていない明治憲法の欠陥に起因する。
※皇軍および政治家それぞれは、国体を堅持し、生命を賭してでも日本を守ろうとした方々が多かった。
それは、東京裁判での弁護人陳述、東條英機の陳述、特攻隊に見る精神性の高さから明らかである。
しかし、昭和天皇の英米戦を何が何でも避けようとされたお気持ちに対し、政治と軍部がかみ合わなかった。
これが英米戦に突入した日本側の欠点であった。
元老院の方々が生きていれば、英米との決定的な決裂は避けられていたかもしれない。
◆日本憲法が甦る
『取り戻せ日本を。明治憲法がよみがえる』から抜粋
いったん憲法を破棄すると、現行憲法下で制定された法律その他の一切の行為が「効力を有しない」、つまり無効となってしまいます。
憲法を廃止した結果、刑事訴訟法も家族法も自衛隊法も、戦後の裁判も行政行為も、すべて無効となる。
それでは、あまりにも暴論に過ぎるのではないか、そうした懸念もあって、廃棄論より改正論の方が、より多く支持されているのでしょう。
※いったん破棄すると、憲法論上、明治憲法に戻るわけです。
例えば、皇室典範も、明治典範に戻るのです。
そうなれば、皇位継承問題も解消してしまい、加えて旧皇族の皆さんが、復帰することになります。
◆現行憲法が優れている点は残す
ならば、生まれ変わる新しい憲法は、どのような姿になるべきなのか。
それを考えるために、明治憲法と戦後の現行憲法を比べてみましょう。
現行憲法は廃棄されるべきだと申し上げましたが、実は、明治憲法より占領下の現行憲法のほうが優れている点が、いくつかあります。
その一つが、内閣総理大臣に関する規定です。
実は、明治憲法には「総理」に関する規定がありません。
いや、それどころか、案外知られていませんが、「内閣」という文言すらなかったのです。
憲法上は「内閣」も「総理」も規定されていなかった。
これを、そのまま復活させるわけにはいきません。
戦前の内閣制度はどうだったのか。
ここで簡単に振り返ってみましょう。
いわゆる「五箇条の御誓文」に示された政治の方針を実現するため、慶應四年(一八六八)に設けられた太政官制度に代わって、明治十八年(一八八五)、新たに内閣制度が創設されました。
この日、新たに内閣総理大臣並びに宮内、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、文部、農商務及び逓信の各大臣を置くことと、
「内閣総理大臣及び各大臣(宮内大臣を除く)をもって内閣を組織すること」
が定められました。
ご存知のとおり、初代の内閣総理大臣には、伊藤博文が任命されました。
その後、明治二十二年(一八八九)二月十一日に明治憲法が公布されました。
明治憲法は、内閣総理大臣についても特段の規定がなく、天皇を輔弼する関係においては、内閣総理大臣も「国務各大臣」の一人として、他の国務大臣と同格でした。
◆現行憲法で総理の地位と権限が向上した
平たく言えば、総理大臣であっても憲法上、特段、偉くない。
だから、国務大臣の一人がゴネると、クビにもできず、総辞職するしかない。
実際、戦前・戦中の多くの内閣が総辞職を余儀されました。
たとえば、陸軍と海軍が対立すると、総理がそれを調停できない。
あるいは、陸軍大臣がゴネて「辞任する」と脅かせば、内閣がつぶれる。
陸海軍大臣は現役武官制となつて以降、実際に、内閣が陸海軍の強い意向で動くことになりました。
その歴史を繰り返してはなりません。
昭和二十二年五月三日の「憲法記念日」に、現行憲法が施行され、同時に「内閣法」が施行され、現在の内閣制度が確立しました。
「国民主権」のもと、議院内閣制のもとで、内閣は行政権の主体として位置付けられました。
現行憲法は
「内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する」
(第六十六条第一項)
と定めています。
明治憲法下で「同輩中の首席」として他の国務大臣と対等の地位でしかなかった総理が、晴れて、内閣の「首長」となったわけです。
総理は「内閣の首長」として、内閣を代表する地位にあると同時に、内閣全体の統一性、及び一体性を確保する役割を有しています。
合議体である内閣が、国会に対して連帯責任を果たすためには、総理に強固な統率力が必要です。
そこで現行憲法は、総理に国務大臣の任免権のほか、内閣を代表して議案を国会に提出する権限や、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する権限などを与えました。
くわえて、内閣法も閣議の主宰権のほか、主任の大臣のあいだで権限の疑義がある場合は、閣議にかけてこれを裁定する権限などを認めています。
他方で、総理の権限は、基本的には閣議にかけて行使するのが原則です。
アメリカ大統領などと比べれば、大きな制約があります。
とはいえ、戦前までの内閣制度と比べれば、総理の閣内における地位も格段に高められ、権限も強化されました。
廃棄されるべき現行憲法ですが、この点は、率直に評価すべきだと思います。
◆証人への審問権がなぜ大切なのか
もう一つ、戦後の現行憲法で評価されるべき点があります。
それが以下の条文です。
(第三十七条)
「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
2.刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する」
とくに注目していただきたいのが、第二項にある証人への審問権です。
実は、明治憲法には、こうした規定がありませんでした。
なぜか日本の憲法学者はリベラル派を含め、この点を過小評価しますが、
実はきわめて重要な規定ではないかと思います。
思い出してみてください。
戦勝国が敗戦国を一方的に裁いた、あのインチキな東京裁判ですら、いちおう、形式的ながらも、反対尋問が実施されました。
具体例で考えてみましょう。
いわゆる「南京大虐殺」をめぐって、伝聞情報を証言した検察側証人のマギー牧師に対して、被告人側の代理人(ブルックス弁護人)が反対尋問しました。
すると、次第にトーン・ダウンしていったのです。
「証人自身が実際に見たのは、何件の不法行為または殺害の現行犯ですか」
すると答えは、なんと一人。
これが世界に喧伝された「大虐殺」の正体でした。
二日間にわたってマギー証人が証言した、日本軍による多数の不法行為が伝聞情報にすぎないことが、つまり裁判上の証拠価値に乏しいことが露呈したわけです。
念のため付言すると、戦後日本の刑事訴訟法でも伝聞証拠の採用は原則禁止されています。
(第三百二十条ほか)
しかも、直接証拠となるべき一件の目撃証言について、ブルックス弁護人から「どういう状況下で起こつたのか」と聞かれ、
「歩哨兵から、『止まれ』と言われた男が安全地帯に逃げ込もうとして撃たれた」
と証言しました。
考えてみてください。
事実上の戦場で、歩哨兵が「止まれ」と命じているのに、その場から逃走しようとしたのです。
「止まれ、止まらんと撃つぞ」と言っても逃走するなら、平時のアメリカの警察官だって撃つでしょう。
いわんや、熾烈な南京攻略戦の最中での出来事です。
これが「大虐殺」と呼べるでしょうか。
「証言」したマギーは、アメリカの名門イエール大学を卒業した立派な牧師でした。
国際安全区のリーダーでもありましたから、それなりに誠実な人物だったのでしょう。
そんな牧師でも、当初の証言と反対尋問に対する答えとのあいだには、大きな違いがありました。
もし、東京裁判で反対尋問が認められていなかったら、当初の証言だけが証拠として採用されていたでしょう。
実におそろしいことです。
それでは暗黒裁判になつてしまうからです。
◆マッカーサー憲法を廃棄し、
戦後レジームから脱却せよ
現行憲法には、明らかに明治憲法より良くなった点もあります。
悪くなった点もあるでしょうが、良くなった点もあるのですから、これらを生かした新憲法草案を準備し、国民の一定の理解を得てから、憲法の廃棄宣言をして、発布するという経緯を辿るべきでないでしょうか。
安倍総理をはじめ、自民党は「憲法改正の発議要件の緩和」を打ち出しています。
まずはそこから、という立場です。
そのうえで「日本らしさを憲法に掲げる国」を目指しています。
いずれも、政治の現実を踏まえた真撃な姿勢だとは思いますが、やはり筋を曲げてはいけません。
「日本らしさ」は当然ですが、現行憲法の規定を前提とした改正論議には、慎重であるべきでしょう。
現行憲法自体が、進駐軍(連合国軍総司令部= GHQ)による占領政策であった、つまり占領政策基本法であったと、そうはっきりと宣言しなければなりません。
そうでなければ、日本人が占領政策を認めたかのごとき印象が生じてしまいます。
「今の憲法は占領基本法である」
少なくとも、いったん、そう宣言する必要があります。
それこそが「戦後レジームからの脱却」に他ならないのですから。
東條英機とマッカーサーは、国家自衛のための戦いであったという同じ見解を披瀝しました。
ソクラテスが裁判を認めたのではなく、判決を受諾して毒を飲んだ。
日本も同じで、東京裁判を認めておらず、ただ敗戦国ゆえに、諸判決を受けいれたのです。
東京裁判史観は誤りです。
◆東京裁判に対するわが国の姿勢
後藤田正晴・内閣官房長官もその中心にいました。
前年の昭和六十年に中曽根首相の靖国公式参拝を実現するために尽力した藤波孝生・官房長官に代わって、中曽根政権で二度目の官房長官となっていた後藤田は、東條英機元首相らいわゆる「A級戦犯」の合祀にわざわざ言及して、「(前年の参拝は)近隣諸国の国民にA級戦犯に対して拝礼したのではないかとの批判を生んだ」「近隣諸国の国民感情にも適切に配慮しなければならない」と述べました。
見てのとおり、全面的に中国に譲歩した内容の談話を発表したわけです。
さらに後藤田は、参拝を中止した理由について、昭和六十一年八月二十八日の参議院内閣委員会で、「サンフランシスコ条約十一条であの裁判(東京裁判)を認めておるといった大前提に立って事柄を処理せざるを得ない」と答弁しました。
一貫して申し上げているとおり、日本政府は講和条約において「判決の執行」を認めたのであって、「東京裁判」自体を受け入れたわけではありません。
この後藤田の見解表明も中国の言い分に利を与えることになりました。
外交とは、所詮、かたちを変えた戦争であるというマキャベリズムを理解するのは、国政に携わる者の常識であるべきですが、まさに、その戦争において、驚くべき利敵行為を、当時の自民党首脳が行ったということです。
かつて、昭和二十七年十二月九日の衆議院本会議において、自由党、改進党、社会党の左右両派、無所属倶楽部の共同提案による「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が圧倒的多数で可決されたことを、いま、どれほどの国民が知っているでしょうか。
発議にあたって古屋貞雄議員(社会党)は、こう述べています。
「敗戦国のみ戦争犯罪の責任を追及するということは正義の立場から考えてみましても、基本的人権尊重の立場から考えましても、公平な観点から考えましても私は断じて承服できないところであります。
(中略)
世界人類の中で最も残虐であった広島、長崎の残虐行為をよそにして、これに比較するならば問題にならぬような理由をもって戦犯を処分することは、断じてわが日本国民の承服しないところであります。
ことに、私ども、現に拘禁中のこれらの戦犯者の実情を調査いたしますならば、これらの人々に対して与えられた弁明ならびに権利の主張をないがしろにして下された判定でありますことは、ここに多言を要しないのでございます。」
当時は社会党の議員ですら、こう述べていたのです。
◆ますらおの 愛しきいのち 積み重ね 積み重ね護る 大和島根を
国のために尊い命を捧げた英霊に、首相が哀悼と感謝の祈りを捧げるのは当然です。
外国との摩擦回避に譲歩を重ねるだけなら、外交の名に値しない。
事実に基づかない歴史認識で父祖を賤しめるのはもってのほかです。
わたしたちは何も、シナ人や韓国人に靖国参拝を求めているわけではありません。
日本人が参拝するのに文句をつけるなと、言っているだけです。
靖国問題は宗教問題です。
宗教問題は、一六四八年のウエストファリア条約以来、お互いに絶対干渉しない、それが国際法の大原則です。
内政干渉は国際習慣に反する。
国際法にも反する。
そう断固として拒絶すればよいのです。
同時に、靖国問題は国防上の、安全保障問題でもあります。
実は、シナ人は日本人を怖がっています。
それは、日清・日露戦争以来、シナ人の頭にこびりついたことです。
満洲事変、シナ事変もそうでした。
日本人は死ぬのは怖くない、なぜ日本人は怖がらないか。
シナ人の考えでは、日本に靖国神社があるからだ、こう理解されたからです。
だから、中国は靖国問題にこだわるのです。
宗教問題としても、国防上の問題としても、けっして靖国問題で中国に譲歩してはなりません。
第二次安倍内閣には、天皇陛下のご参拝が実現できるよう、最大限の努力をお願いしたいものです。
天皇陛下がご参拝しないで、いざというとき、誰が戦争で死ねるでしょうか。
昔なら、小学生でも知っていた「靖国神社の歌」があります。
「ああ大君(おおきみ)の
ぬかづき給う 栄光の官 靖国神社」
大君、つまり天皇陛下も拝む、栄光の宮が靖国神社だという歌詞です。
天皇は基本的に、神社に参拝しません。
春日神社であろうが、何神社であろうが、参拝しない。
なぜなら、それらは天皇が位をあげている対象だからです。
天皇が拝むのは伊勢神宮や明治神宮など、祖先を祀る神社です。
普通の神社は拝まない。
その例外として拝むのが、靖国神社なのです。
「大君のぬかづき給う栄光の宮」
なのです。
だから、戦死した軍人兵士が慰められる。
遺族も慰められる。
国民の象徴が頭を下げてお祈りしてくださる。
他の神社には、お祈りされない方でも参拝してくださる。
靖国には、そうした意義があることを忘れてはなりません。
くわえて、より実際的な問題を言えば、かつての戦友を弔おうとしても、簡単に海外に行ける人は少ないでしょう。
かつての戦地を訪れる機会があったとしても、正確な場所にたどり着けるのは困難ではないでしょうか。
戦死した友人の御位牌にお参りしたくても、住所を探すことは、地名変更もあって、ほとんど不可能です。
しかし、靖国神社に行けば、会えるのです。
これが、遺されたわれわれの慰めにもなるのです。
靖国神社があるから、必ず会える。
靖国で会おうと言って散っていった軍人も、生き残った戦友や遺族が拝みに来てくれるという望みが持てるわけです。
靖国神社の問題は、日本の存続に関わる死活的な問題です。
靖国を疎かにする政治家には、政権を担う資格がありません。
◆天皇の靖国参拝
(『日本の歴史 戦後編』より)
《天皇陛下も参拝される神社ということで、靖国神社に祀られている人々は天皇陛下の先祖並みの尊さになるという意味があるのだ。
この靖国神社にまつわる涙ぐましい話がある。
昭和十六年、第二航空戦隊がウエーキ島を攻撃した時、航空母艦に帰還できなくなった飛行機があった。
一機に二人搭乗していたが、その二人から航空母艦に、「戦死なりや」という電信が打たれた。
つまり、「自分たちは戦死扱いになるのかどうか」を問うてきたのだ。
敵に位置を知られないよう航空母艦からは電信を打ってはいけないことになっていたが、それを見た山口多聞司令官は、かまわんと言い、「戦死なれども生きて帰れ」と電信を打った。
結局、その二人は着艦こそできなかったものの海に着水して助かった。
そこで「なぜ『戦死なりや』という電信を打ったのか」と聞かれて、
「戦死ではなくなると靖国神社に祀ってもらえなくなると思い、心配になった」
と答えたという。
これが当時の兵隊たちの九九パーセントの思いである。
だから、靖国神社参拝反対などという輩は、日本人の敵だと言っていい。
自分が死ねば、頭を下げてくれるご神体になるのだという切実な思いを、神様よりも偉い天皇陛下すらも、兵士の誰もが持っていたのだ。
・・・
さらに言えば天皇のお言葉として本当に重要なのは詔勅である。
昭和天皇が靖国神社への公式参拝を止めたのは、A級戦犯が合祀されているからだとする論調がある。
しかし、昭和天皇が公式参拝を取り止められたのは、国際的な騒ぎを避けるためだと解釈しなければならない。
首相の公式参拝でもあれだけの騒ぎになるのだから、昭和天皇が公式参拝されれば大騒ぎになるとお考えになったのだろう。
ただ、昭和天皇は公式参拝こそ控えられたが、それ以後、毎年、例大祭に勅使をお送りになっている。
旧皇族の竹田恒泰氏は、これを素晴らしい政治的ご判断だと言っていらっしやる。
勅使というのは、天皇の名代として儀式を執り行うので、天皇御自身が参拝されるのと同じ意味を持つ。
迎える側も天皇陛下をお迎えするのと同じようにご対応しなければならない。
この勅使の意味が幸いにも朝日新聞の記者にはわからないので、問題にしなかっただけだ。
そして現在でも勅使の参拝は続いているので、天皇陛下の参拝は続いているということになる。》
■無条件降伏と天皇の人間宣言
ポツダム宣言の受諾は、日本の軍隊が無条件降伏するという意味であって、国家に対する無条件降伏ではないことは、次の第五項の条文で明らかです。
「我の条件は左の如し、
・・・
我らは日本人を民族として奴隷化せんとし、又は滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ず」
つまり日本人を奴隷にはしない、皆殺しにもしないという条件を付けた上での受諾であったのです。
それにも拘らず実質的に日本がアメリカに無条件降伏したのは、戦後であったのです。
占領軍の約7年に及ぶ占領政策から日本が独立国として再出発した講和条約の締結に於いて、日本は東京裁判を受け入れたのではなく、諸判決(Statements)を受け入れたのです。
それが戦後、あろうことか小和田雅子皇太子妃の父である亘氏(元外務事務次官)が法解釈を捻じ曲げ、東京裁判そのものを認めたとする見解を発表しました。つまり日本を東京裁判史観に拘束させ、戦後アメリカのやることは何でも正しい、日本のやったことはすべて間違っている、とした東京裁判の正当性を擁護した大悪人です。
それ以後、東京裁判の違法性を日本人自ら問えない状況を作ったのです。
それと同時に、日本が独立した1951年4月28日という記念すべき日を貶め、今や国民はその日が何時だかも知りません。
もし小和田氏が、東京裁判を日本が認めていないことを前提に日本の独立が認められたことを内外に示せば、戦後の日本の再興に新たな転機を迎えたであろうことは間違いない。
それ故に日本が本当に戦争に負けたのは、戦後であると言えるのです。
それも自ら好んで負けたのです。
さて、かくも日本人が自虐的になったのは、果たしてアメリカの占領政策とマルクシズムだけなのでしょうか?
敗戦直後、日本人はマッカーサー率いる占領軍を征服者としてではなく、解放者として迎えました。
昭和26年4月16日、衆参両院で「マッカーサー元帥に対する感謝決議」を行い、マッカーサーを「悩める敗戦国民に対する救世主」と称え、
「我が国独立の機運を促進したる偉大な業績は、国民を挙げて感激措く能わざるところ」
と絶賛しました。
マスコミも
「嗚呼!マッカーサー元帥、
日本を混迷と飢餓から救い挙げてくれた元帥、
元帥!その窓から、青い麦が風にそよいでいるのをご覧になりましたか。
今年も実りは豊かでしょう。
それは皆元帥の5年8カ月に亘努力の賜であり、同時に日本国民の感謝の印でもあるのです。
どうかお体をお大事に」
(昭和26年4月17日付夕刊)
国民の多くもマッカーサー元帥を「偉大なる大聖人」「永久救世主」「自由と公平の使者」「尊敬の的たる人格者」「天使」「女子学生の憧れの的」などと最大限の賛辞を送っていた。
50年を経た平成の世にも、マッカーサー元帥の記念像が建つ始末。
まるで、どこかの新興宗教の教主を、あるいは北朝鮮の将軍様を称える機関紙の文章と言ってもおかしくありません。
どうして日本人を無差別に殺戮した戦争相手の大将をここまで賛辞出来るのか大変不思議です。
ここに日本人生来が持つ状況の変化への適応の速さと吸収力が裏目に出たのではないかと思います。
言葉を換えれば状況によっては卑屈にも傲慢にもなる生来の気質を持っているとも言えます。
その上でそのきっかけになったのは、
「天皇の人間宣言」ではなかったでしょうか。
トップに天皇を置いて国民との共同体を作っていると考えたGHQは、これを破壊しようとした。
それが天皇の人間宣言ではなかったか。
昭和21年元旦、
昭和天皇は「年頭の詔書」(いわゆる人間宣言)を述べられた。
「朕と汝ら国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。
天皇を以って現御神とし、かつ日本国民を以って他の民族に優越せる民族にして、
延(ひい)て世界を支配すべき運命を有するとの架空なる観念に基くものに非ず」
と述べられました。
この人間宣言によって天皇と国民の紐帯は外され、国家と国民を結ぶ「共通の規範」を持つ天皇共同体はGHQによって事実上崩壊せしめられた。
そこに日本国民の中から天皇という大義、正統性を失い、自分の居場所を見失ってしまったのではないかと思う。
つまり無規範、無連帯を呈してしまった。
本来の天皇共同体が失われた代わりに、単なる機能集団としての共同体が誕生した。
その最たるものが戦後の企業集団である。
このような機能集団は二重規範を持ち、「内の規範」と「外の規範」が全く違う。
したがって、機能集団が共同体と化せば、そこに普遍的な規範は存在しない。
日本人は無規範になり、内と外の規範に分けて(二重基準)生きるようになった。
国民と国家は敵対関係となり、もはや国の為に何が出来るかと問う国民は消失した。
国に何をしてもらうかしか考えない、天皇(神)なき自由、利己主義、
個人主義の国にするべく時限爆弾を仕掛けてGHQは去って行った。
かくして日本解体計画の最大の目的は戦後65年で達成された。
世界の国家(民族、宗教)には、良い悪いは別にしてそれぞれ、その国が拠って立つ正統性、大義がある。アメリカなら建国の精神、中国なら中華思想、イスラエルならユダヤ教、西洋ならキリスト教、かつてのソ連ならマルキジズムというように。
勿論日本は天皇体制です。
その正統性や大義はその国に於いて絶対的なものであり、解釈を変えるということはその国を否定するに等しい。
だから人々は大義を求め、それを後ろ盾にして戦うことが出来るのです。
天皇は人間であることは言われなくても、私たちの祖先は分かっているのです。
しかし天皇は天照大・皇祖の男子男系血統として、権威の象徴として日本をまとめ上げていたのです。
そして私たち日本の歴史を顧みれば、
日本の神々は西洋のような全知全能の神ではないが、徳を有する賢者で有り、悪魔ではあり得ないこともよく分かります。
今後、個人や国家が何を正義とし規範とするのか。
人類は良心のよって立つ絶対不変の神の概念を必要としていますが、それに代わる概念を打ち立て、全知全能の神から脱出しなければならない。
自由と秩序を維持し、大義と正統性を持ち得る新しい概念とは何か。
天皇を現人神として祭り上げてしまった戦前の秩序も、戦後の混乱も、同じ日本人がもたらしたものです。
どちらも何かが足らないのです。
◆田母神統合幕僚学校長が中国に直言したこと
田母神統合幕僚学校長は、我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣であると述べ、国会に出て質疑応答をしましたが、
このことを国民の耳目に触れさせたくない、という思惑が働いていたことは明らかだと思います。
田母神さんは、著書の中で、こう述べています。
《日本には反日的言論の自由は無限にある。
日本のことをいくらでも悪く言うことができるし、それによって国会が紛糾することもない。
一方、親日的言論の自由は極めて制限されている。
特に自衛隊に関することと歴史認識については、言論が封じられ、言っただけで問題を引き起こす。
今回の私の論文がその典型である。
問題になるのが分かっていて何故言うのかという疑問があるだろう。
それは、問題にしないということは少しずつ反日に同調するということを意味するからだ。
これまでの歴史の推移を見れば、それは明らかである。
そのとき少し譲歩して収めたとしても、次回はもっとつらくなる。
もっと言論が不自由になる。
この繰り返しでは日本はやがて崩壊してしまう》
(『自らの身は顧みず』より)
まさに田母神さんの更迭で明らかになつたのは、これでした。
東京裁判史観に沿った発言は問題にされず、それに異を唱える発言は危険視、問題視され、公職にある者はその地位を脅かされる。
政治家、官僚、学者、マスコミの多くが束京裁判史観に摘め捕られ、そのことを疑いもしないとすれば、まさに田母神さんの言うとおり、「日本はやがて崩壊してしまう」でしょう。
それを防ぐためには、なんとしても東京裁判史観からの脱却が必要です。
田母神さんの現役時代の対中アプローチにも学ぶべき点があります。
平成十六年、統合幕僚学校長だった田母神さんは、学生の幹部自衛官らを引率して、研修のために中国を訪問しました。
その様子を、田母神さんの筆で紹介しましょう。
《人民解放軍総参謀部を表敬訪問した際、ナンバー2の範長龍参謀長助理は厳しい表情で、先の大戦で日本軍が残虐行為をしたとする歴史観をとうとうとまくし立て・・・》
それに対し田母神さんは、こう応じたそうです。
《私の歴史観は範中将とは異なる。
日本は諸外国との比較で言えば極めて穏健な中国統治をしたと思っている。
日本軍が実質満州を統治するようになってから満州の人口は毎年百万人以上も増加した。
残虐行為が行われるような場所にこれほど多くの人が集まるわけがない。
中国が日本に対してだけ残虐行為を吹聴するのは何のためか。
もし中国が日本に謝れと言うのであれば、たとえばイギリスに対してはその五倍、十倍謝れと言ってやっとバランスが取れるのではないか。
中国における反日教育は是非やめてもらいたい》
(『正論』平成二十一年三月号「やむにやまれぬ『防人』の思い」より)
田母神さんは、
《この会談の後、私は相当のリアクションのあることを懸念し、覚悟もした》
そうです。
実際、田母神さんが帰国前に開いた答礼の宴に中国側からは将官が一人も出席しなかったといいます。
翌月には中国国防大学の研修団が来日する予定でしたが、統幕学校訪問は取り止めるという連絡もあったそうです。
田母神さんは、「それなら、それで結構」という趣旨の返答をしたそうです。
しかし、結果は
《それ以上問題はこじれることなく、中国側の研修団も当初の予定通り統幕学校を訪れてくれた》
というものでした。
これは、外交交渉を考えるうえで示唆的です。
いかなる国とのあいだにも摩擦や軋轢が生じうるのが国際間の常態で、その回避を専一にすることが外交の目的であってはならない。
摩擦を恐れずに、こちらの意見を率直に披瀝するほうが、相手に要らざる不信感を抱かせずに済む。
外交とは、相互に押し退きを繰り返す、駆け引きです。
問題視された論文と同じような見解を中国軍の高官相手に語っても、彼らはちゃんと研修団を来日させた。
しかるに日本国内では、日本政府によってかくの如く歪められ更迭されてしまう。
これはやはり、ある種の思考停止による自縛としか言いようがありません。
《自衛官の将官であればこそ、自国に対するいわれなき誹謗中傷には毅然と反論すべきと思っている。
日本を定め、見下すような軍事交流など本物の交流ではない》
(前掲論文)
という田母神さんの考え方と、田母神論文を批判した多くの人々の考え方と、どちらが、より日本を思う現実主義者でしょうか。
◆胡錦涛主席の理不尽な要求を拒否した安倍総理
本書の最後に、安倍さん自身のエピソードに触れながら、第二次安倍内閣が果たすべき課題について述べておきましょう。
《先に述べたように、第一次安倍政権はきわめて短期間のうちに、次々と新政策を打ち出しました。
教育基本法を改正し、愛国心や伝統の尊重といった道徳面の強化を実現しました。
防衛庁を防衛省に昇格させました。
集団的自衛権の行使についても前進させました。
憲法改正のための国民投票法も成立しました。
どれ一つとっても、意義深く、大きな政策課題でした。
あまりにも突然すぎた病気辞任表明会見がなければ、偉大な宰相として記憶されていたのではないでしょうか。
こうして短く業績を振り返ることで、安倍総理の資質が浮かび上がってきます。
なにより安倍さんは、スジを通すリーダーでした。
第一次安倍政権のエピソードを、一つご紹介しておきましょう。
二〇〇七年、ドイツのハイリゲンダムでサミット(先進国首脳会議)が開かれました。
そこに、中国がオブザーバーとして出席していました。
そこで、安倍総理が、中国の国家主席だった胡錦濤氏と話し合おうとしたのです。
すると、胡錦躊氏のほうから注文をつけてきました。
それは「李登輝の訪日は絶対に止めてもらいたい」ということでした。
ご存知のとおり、李登輝氏は、台湾(中華民国)の民主化に貢献した偉大な元総統ですが、すでに政界を引退していました。
中国主席の理不尽な要求に対して、安倍総理は毅然として「条件をつけられて会談する必要はない」と言って断ったそうです。
すると中国側が一歩下がって、
「李登輝が訪日しても政治的な発言はさせないと約束してほしい」
と迫ってきました。
それでも安倍総理は、
「そんな条件をつけられる筋合いはない」
と言って、また断ったというのです。
結局、中国側は無条件で日中首脳会談に応じました。
以上のやり取りを振り返ってみても、安倍さんが一国のリーダーとして、対中外交の場でも背筋がピンと伸びていたことがわかります。
広く知られたとおり、拉致問題でも、こうした安倍さんの資質が、いかんなく発揮されました。
平成十四年九月十七日、小泉純一郎総理が、日本の首相として初めて北朝鮮を訪問し、平壌市内の「百花園招待所」(迎賓館)で金正日総書記(当時)と会談しました。
当初、北朝鮮は拉致を認める予定ではなかったのですが、
「(小泉総理に随行していた)安倍晋三・内閣官房副長官と思われる人物が、午前の会談後の休憩中に、北朝鮮政権の公開謝罪の拒否に強く抗議して、首脳会談中断を強力に要求している」
という内容の盗聴資料を北側が入手し、金正日に報告を上げたため、金正日が午後の会談で、即興的に拉致を認めたことが、後に明らかになりました。
当日の模様を、後日、安倍さん自身がこう語っています。
「午前の会談では、専ら小泉首相が拉致問題などで北朝鮮側を非難し、金正日氏は何もこたえず聞いていました。
休憩で別室に案内されたとき、私は小泉総理に、北朝鮮が国家として拉致を認めず、謝罪もしないのであれば、平壌宣言に署名する必要もない。決裂でいい。
断固帰国しましょうと、申し上げました。
当然、盗聴されていると思いましたので、はっきり言いました」
こうして当初は北のシナリオになかった金正日による拉致認定が実現したのです。
もし日本側に帰国されれば、当てにしていた経済支援もなくなります。
困るのは北朝鮮です。
それを承知のうえで、盗聴されていると思ったからこそ、安倍さんは大芝居をうったのでしょう。
あのとき、安倍さんが決然としてスジを通そうとしなければ、拉致被害者が帰国することは実現できなかったでしょう。
拉致を認めることすら、なかったでしょう。
昨年 ( 2012年 ) 十二月二十八日、つまり、二度目の総理就任の翌々日、安倍さんは、横田めぐみさんの両親ら、北朝鮮による拉致被害者の家族と総理大臣官邸で会談しました。
会談には、古屋圭司・拉致問題担当大臣や菅官房長官も同席しました。
この会談で安倍総理は、
「五年前に私が総理大臣の職を突然辞して、皆さまに大変残念な思いをさせてしまった。
皆さまを落胆させたことが、私にとって最も辛いことだった」
と謝罪したうえで、
「今回もう一度、総理大臣の職に就いたのは、何とか拉致問題を解決しなければならないという使命感によるものだ。
この問題は、必ず安倍内閣で解決するという決意で臨みたい」
と強い決意を語りました。
◆日本製品が冷戦終結を促した
(『日本の歴史』より)
戦艦大和も零戦も、欧米技術の延長線上にある。
零戦の機関砲はスイスから買ってきた。
しかし、省エネ技術だけは日本発のもの。
日本のガソリンを食わない自動車技術が米国でも使われ、潰れかけたハーレー・ダビッドソンを救ったのはホンダだった。
気がついてみると、軍事機密関係や宇宙開発関係は別として、民生品であれば日本製品が世界を闊歩していた。
ベルリンの壁があった頃、ハンガリーの女の子が「ハンガリー人が欲しがっている物はみんな日本製です」と言うのだ。
鉄のカーテンの向こうでは、日本を天国のように思っていたのだ。
米国経営学者、ドラッカーが後に、戦後、一番大きな働きをしたのは日本であると言った。
一つは、政治的独立を旧植民地に教えた。
もう一つは、高い技術はどこからでも習ったほうがいいということを教えた。
これは明治維新から続く日本の伝統であると言うのだ。
そして、日本の技術移転によって、マレーシアでもインドネシアでも東欧圏では作れないものが作れるようになった。
鉄のカーテンの向こうは典型的な白人世界だ。
戦前の通俗なダーウィニズムで、一番進化したのが白人で、その次が黄色人種、その次が褐色人種、その下が黒人で、最後がオランウータン。
にもかかわらず、オランウータンの住む森に近い国が作っている物を自分たちが作れない。
どうして自分たちがオランウータンよりも遅れてしまったのか、と考えた時、体制が悪いのだと気づいた。
それがベルリンの壁の崩壊につながったのである。
ものすごくプライドが高い東ドイツ人が、オランウータンに負けているのだから我慢ならない。
このように、冷戦の終結に、一番貢献したのは日本であると、ドラッカーは評価している。
明治維新の頃に日本が存在しなかったら、白人の人種隔離政策は半永久的に行われたかもしれない。
また戦後においても、日本がなかったら、まだ冷戦が続いていた可能性がある。共産圏の庶民が体制を信用できなくなったのは、日本の経済成長および省エネ技術革新とそれにともなうアジア諸国の経済と工業の成長にあるのだから。
共産主義体制は民主主義運動だけで潰れるようなヤワなものではない。
トウ小平も台湾を見て改革開放政策を行った。
つまり庶民が商品を見たことで、共産主義イデオロギーは崩壊した。
そしてその省エネ型ハイテク商品を作ったのは日本だということなのである。
※だから、東南アジアを没落させ、中国に資本を注入したのだ!
ロックフェラーが「次の超大国は中国だ」と言った意味がやっと分かりました。つまり、白人の世界支配を存続させたかったから。
◆日本に美しい虹をかけよ
そもそも、一国の歴史教育はどうあるべきでしょうか。
もちろん、事実を教えることも大切ですが、その前提になるのは、愛国心であり、国に対する自尊心、そしてそれを支える物語の存在です。
イギリスの哲学者オーウェン・バーフィールドは、こう語っています。
「歴史の事実は、雨上がりの大気中にある水滴のごとく、無数にある。
その断片を拾い集めれば、どれもが事実だが、ある視点から、それらを見ると、虹が見える。
その虹が歴史というものである」
無数にある歴史の事実から輝く虹を見せることが、一国の歴史教育の要諦なのです。
安倍さんは、よくよくご存知のはずです。
ぜひ、過去の失敗と教訓に学び、日本の子供たちに、美しい虹を見せてほしい。
もう一度「美しい国へ」。
東京裁判史観の闇を晴らし、美しい虹をかけることが、その一歩となるのです。
保守とは何か。
それは、現実の政治や世の中の動きに照らせば変化するものです。
福田恆存はかつて、こう語りました。
《最初に保守主義といふものがあつて、それに対抗するものとして改革主義が生じたやうに思はれがちだが、それは間違つてゐる。
(中略)
保守派は眼前に改革主義の火の手があがるのを見て始めて自分が保守派であることに気づく。
「敵」に攻撃されて始めて自分を敵視する「敵」の存在を確認する。
(中略)
したがつて、保守主義はイデオロギーとして最初から遅れをとつてゐる。
改革主義にたいしてつねに後手を引くやうに宿命づけられてゐる》
(『私の保守主義観』)
われわれは改めて、日本を侵そうとする者の存在を、はっきり意識しなければなりません。
保守派はマルクス主義に勝ったと思っていましたが、その実、「人権」「人道」「平等」「環境」といった、一見、善なる言葉の陰で、左翼的価値観は浸透拡散し、日本人はそれに蝕まれています。
「日本の敵」はマルクス主義の看板を隠し、「民主」とか「市民」を名乗ることでインヴィジブルな存在になりました。
しかし、消えてなくなったわけではありません。
闘いは終わってはいないのです。