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厄介な隣国/司馬の見た韓国観に異論あり 1

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転載元 柴野貞夫の『時事問題研究会』
 
 
キム・ヨンボム著
「日本主義者の夢」より抜粋(訳 柴野貞夫 2010・8・11)

朝鮮人による司馬遼太郎の歴史観批判

【第3部】
『記憶との戦争』を展開する人々

○「李王朝500年は世界に例のない貨幣0の国であり」
「朝鮮は、歴史の発展から取り残された落伍した社会」と、
一貫して主張して来た司馬遼太郎の朝鮮史観は、「朝鮮停滞論」を軸に、
「朝鮮民族による自主的な近代化は望めない」
と朝鮮半島の植民地化と侵略を推し進めて来た日本帝国主義の主張を、正当化して余りある。

○特に、この章でキム・ヨンボムが指摘した、近世朝鮮の貨幣経済の実態は、司馬遼太郎の朝鮮の歴史に対する、あきれるばかりの無知と、根拠なき歴史叙述の実態を暴露している。
(訳者注釈)


◆江戸時代の、韓・日善隣交流
(129p~139p)

二人の(藤岡信勝と井沢元彦を指す)
応答を聞きながら、
筆者が、最初に先ず感じた点は、司馬の韓国観と彼らの韓国観が、同じ版から刷り出した版画の様に瓜二つということだった。

司馬が、『明治という国家』という著作で、冗漫に言及した朝鮮王朝のソンビ(在野の学者)の〝日本蔑視〟が、そのまま繰り返されているのを見ると、彼らの韓国批判の方式は、司馬から習ったものではないかと思われる。

彼らは、とやかく言うまでもなく、忠実な司馬史観の信奉者だ。
朝鮮人が、日本人を蔑視したという証拠として、シン・ユウハン(申維翰)の『海游録』を例に挙げたのを始めとして、アジア停滞論=朝鮮停滞論に立脚し、日本だけが一人、真先に立って経済発展を成し遂げた事を強調する点、中国と韓国の関係を徹底して主従関係として見ているという点、日本が遠い昔から中国に対して独立的であったという点が、司馬の見解と一致する。

こんな諸点は、前にすでに言及したので再び反復しない。
ただ、日本人達の間で、もしくは韓国人達の間で、誤解の素地があるいくつかの点に対してだけ、建設的な批判を加えよう。

まず、「お金を物乞いする日本の乞食」に対する部分だ。
結論から言えば、井沢の話は間違っていた。
無論、『海游録』には、確かに乞食に関する一節が出てくる。

粛宗45年(1719)、ホン・チジュン(洪致中)を正使(使節団長)とする、第9次朝鮮通信使が関東地方に踏み込んだ頃、シン・ユウハン(申維翰)は、相模と武蔵の間の村の通りの風景を描写する中で、

《田畑では、秋の収穫真っ盛りなのに、腹を空かした百姓と乞食達が村の通りのあちこちで見られた。
その中に盲目者が半分を越えるのが、まことに奇妙だ。》

と、記録していた。

筆者が知る、同じ申維翰が乞食に関して言及した部分はこの一節だけだ。
申維翰は、
「お金を物乞いする日本の乞食」
のことに言及したかったわけではなく、
日本の商品・貨幣経済が、朝鮮より発展しなかったと書いているわけでもない。
それなのに、まるで申維翰が、
「朝鮮より発展していた日本社会の商品経済を、全く理解せず、間違って記述している」
と云うような話にしている。

17世紀末葉の、朝鮮の商品・貨幣経済
朝鮮では、1678年に、すでに常宝通宝(サンピョントンボ・상평통보)という貨幣が鋳造され始めた。
そのために、申維翰が日本を訪問した頃である18世紀初葉には、貨幣が全国的に流通され、貨幣経済が農村の農民生活までも支配するようになった。
カン・ジンチョル教授に依れば、

《18世紀に入るその前後の時期に至っては、農村の貧困な農民達までも、少額貨幣を支払って、野菜や塩の様な生活必需品を買わなければならない程に、(朝鮮社会は)貨幣・商品経済の荒い波濤に巻き込まれた。》

その上、カン・ジンチョルの論文『停滞性理論批判』で引用された、『粛宗実録』(粛宗)44年閏(うるう)8月の、一つの上疏文(王に申し上げる文書)の内容を見ると、

《蔬菜を掘る老婆や塩商人も、穀物よりは貨幣を好み、それなしには物を求める事が出来なくなった。》

と言い、甚だしくは、貨幣を得るために、仕方なく安値で穀物を売って、高い価格で木綿を仕入れる農民もいたという。

粛宗44年といえば、シン・ユウハンが日本を訪問する前の年だ。
従って、その頃朝鮮では、すでに商品・貨幣経済が相当発達したということを知ることが出来る。
のみならず、それを背景として、巨大な産業資本を蓄積した〝都賈(도가)〟という独占的な産業資本家も出現し、広範囲な流通組織網を整え活動したという学者達の研究結果もある。

これを推し量って見るとき、

《日本側が、貨幣経済面で、朝鮮より抜きんでている》
という主張は、至極日本中心的であることと同時に、隣の朝鮮の経済発展に対しては、目をつぶったまま言い捨てる、実に無責任な発言と言えよう。

無論、『海游録』の内容が、全体的に日本を見下して見る印象を、濃く漂わすのは否定出来ない事実だ。
朱子学の学識の程度と詩文作成能力を基準に、日本知識層の水準を低く評価し、朝鮮文化を羨ましがる日本人の姿を多く描写した為、日本側から見れば朝鮮人の日本蔑視に関した指摘として映ることもあるだろう。
しかし、その書物の一冊の内容だけをもって、朝鮮人の日本観を〝蔑視思想’〟と要約してしまうのは、歴史の複雑な現実を単純に処理してしまおうとする、意図的な処置と言わざるをえない。

さらには、朝鮮人の日本蔑視は、『壬辰倭乱』(1592)以後に強化されたものであることを、日本主義者たちは知らなければならない。
7年に及んだ侵略戦争が、朝鮮人に負わせた精神的・物質的被害と痛手を少しでも理解するなら、シン・ユウハン(申維翰)のような朝鮮ソンビの日本卑下が、何処から由来したものであるか、斟酌することが出来るはずだ。

◆明治以前の善隣関係
二人の対談者は、更に韓・日関係が、江戸時代(1603~18689)には無論のこと、それ以前にも、決して良い関係ではなかったと断定する。
たとえ朝鮮通信使が往来していたとしても、明治以前には対等な関係、互恵の関係ではなかったと言うのだ。

これに対しては、在日史学者、カン・ジェオン、イ・ジンフェ教授が明快に批判した事がある。
二人の教授によれば、韓・日関係は、頻繁な交流があった古代時代は差し置くとしても、豊臣秀吉の朝鮮侵略で悪化された期間を除外すれば、中世日本の武家政権である室町(1336~1573)幕府の全体の期間と、江戸時代のほとんど大部分を通して、善隣友好関係を維持した。

朝鮮と日本の善隣関係が成立されたのは、1404年、太祖、イ・ソンゲ(李成桂―1335~1408)が朝鮮を建国してから12年後の事だった。
その年7月、室町幕府の3代将軍である足利義満が日本国王の名前で使節を送って以後、室町幕府が崩壊するまで約160年間、日本国王の使臣が60余回も派遣されている。
これに対して朝鮮は、最初には答礼として『回禮使』という名の使節を送り、
1428年からは通信使を派遣した。

イ・ジンフェ教授は、『新版 日本文化と朝鮮』で、
「通信という信、即ち信じる事と友誼を通ずる様にする」という意味で、これはつまり、
《朝鮮国王と足利将軍(日本国王)が、〝항례(伉禮)〟の関係、
即ち、対等であることを意味する。》
と解釈した。

朝鮮と日本の間には、使節団だけが行き交ったのではない。
貿易関係も活発だった。
朝鮮は日本の商人達に、釜山浦など三つの入り江を解放し、自由に往来させた。
無論これは、朝鮮朝のはじめ、頻繁に海岸を襲撃、略奪する日本人海賊達に対する懐柔策の一環でもあったが、とにかく、三浦(プサンポ、チェポ、ヨンポ、4代世宗時に決められた日本との三つの通商港)に入って来た日本人は、年間5千名を越えたし、接待費だけでも莫大な金額に上るものとして知られている。

一旦、三浦に入ってくるだけで、帰国するまで船員達には米、豆、醤油、炭、酒と鮮魚類が支給されるが、1439年(世宗21年)には、日本人達に支給した米は総計10万石に達し、
年毎に対馬島主に送る세사미(歳賜米)の準備を心配せねばならぬほどだったと言う。

このように長い間、維持されてきた善隣友好関係が決定的に破壊され、朝鮮人の間で日本人に対する不信感が大きくなったのは、7年に及ぶ豊臣秀吉の朝鮮侵略の為だった。
しかし、天下の大勢が決着した1600年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、朝鮮との国交回復に積極的だった為に、両国関係は、新たに朝鮮通信使の往来を通した善隣関係に向かった。

朝鮮の最初の使節団が、江戸幕府に派遣されたのは、1607年1月だった。
しかし460名で構成された大規模の第一回使節団は、通信使と呼ばなかった。
通信使という名前が付けられたのは、
1634年第4回使節団の時からだった。
続いて、朝鮮朝廷は1811年まで江戸幕府の指導者である将軍が世襲で承継される時毎に、慶祝する意味で12回も通信使を送った。
この通信使派遣が19世紀に入って、ぷっつりと一度で終わった理由は、江戸幕府の莫大な経費負担と、国内政治の混乱に起因したに過ぎず、両国間の関係が悪化した為ではない。

いずれにせよ、通信使派遣で象徴される朝鮮・日本間の善隣友好関係は経済・貿易交流は無論のこと、文化・医学・芸術など各種文化分野の交流を活発に増大させたし、
特に日本文化に多大の影響を及ぼしたものとして、今日の多くの日本の学者たちも指摘している。

◆草梁倭館(チョリャンワグアン)の役割
イ・ジンフェ教授は、当時朝鮮が江戸幕府との関係を、どれだけ重視したかを説明する為に、日本の駐朝鮮外交代表部兼貿易代表部ということが出来るプサン(釜山)のチョリャン(草梁、現・プサン広域市チョリャン洞)倭館を、例に挙げた。

《倭館に関係する朝鮮の実務者達は、訓導(朝鮮時代ソウルと地方で教育を担当する正・従九品の教官)以下、3千名に達したし、時には5千名を越えた。
さらに、倭館内の建物修理(最初は25年毎にしたが、後では40年毎に変更)、防波堤と巡らした石垣などの保守を行い、各種名目で来訪する使節の3カ月分の滞在費まで全部負担した。
ここには、船員たちも含まれる。
その経費は、莫大な金額に達したが、これは、朝鮮が日本との善隣関係の維持をどれだけ重視したのかを、見せてくれるものだと言うことが出来る。》

朝鮮側の配慮がこうであるのに、日本人の中では、日本の使節団が首都ハニャン(漢陽、朝鮮王朝の首府・ソウルの古称)を訪問したことが無いことを挙げ、対等な関係が無かったと主張したりする。

これに対して、イ・ジンフェ教授は、日本に対する朝鮮の外交姿勢は〝警戒しながら交わる〟という立場であった為に、日本使節のハニャン(漢陽)訪問を許諾しなかったのだと説明した。

《日本の天下を統一した江戸幕府は、朝鮮との国交回復を慶祝する為、
1609年、300余名規模の使節団を派遣するが、この使節団はプサンポ(釜山浦)に到着し、ハニャンから来た朝鮮官吏達の迎接を受け、帰国した。
朝鮮朝廷が日本の使節団をプサンポで迎接した理由は、室町幕府時代の日本の使節が歩いたその道に沿って、豊臣の軍隊がいっぺんに、ハニャンに上がってきた例があった為だ。
即ち、室町時代の日本使節団は、朝鮮情勢を恬淡(てんたん)したものだった。その上、豊臣一族がいまだに残っていて、イムジン倭乱時、捕まえられて行った朝鮮人たちも送還されない状態だったので、朝鮮朝廷は、徳川幕府に対する不信感を消してしまう事が出来なかったのだ。》

それが慣例として定着され、その後、日本使節のハニャン(漢陽)訪問は許諾されなかった。
しかし、そのことは両国間の善隣友好関係を阻害する要因とはならなかった。

要するに、紆余曲折はあったが、1868年明治維新の時まで、朝鮮・日本間の善隣交流関係は継続維持された。

◆明治日本の優越意識
朝鮮と日本の関係が、決定的に悪化したのは、周知の通り、明治維新によって日本が天皇中心の王政に復帰してからだ。
それまで、幕府時代の実質的な統治者である将軍と朝鮮国王が、260余年の間、対等な位置で交隣関係を維持して来た点に照らしてみれば、
〝王〟の字と〝勅〟の字が入った日本側の外交文書は、朝鮮側の疑懼心(ぎくしん)を買うのに十分だった。
日本側が中国王政の国書にも使用される二つの文字を、いかなる予告もなく、公式外交文書に使用したのは、何はさておき外交慣例に外れる行為だった。
その為、朝鮮側ではその様に不遜な外交行為をしながら、王政復古を誇示する使節を派遣するというのは、不遜な意図を隠しているのではないか という、不吉な疑問を抱く事となったのだ。

これに対して、カン・ジェオン教授は『朝鮮の攘夷と開化』で、
《初期明治政府の首脳部には、日本国内の権力交代、天皇と将軍の地位の差を、対朝鮮外交に一方的に利用しようとする傾向があった。
またそれと同時に、徳川幕府時代に朝鮮通信使が江戸を訪ねて来た事を、朝鮮国王が徳川将軍に〝藩属の禮〟を取ったものとして理解する傾向もあった。 》
と指摘した。

〝藩属の禮〟というのは、
江戸幕府時代『藩』と呼んだ地方領地の指導者達である大名達が、一定期間江戸幕府に来て勤務することで、日本の実質的統治者である将軍に対する忠誠を誓い、自分たちが幕府に隷属されていることを確認した行為を言う。

言ってみれば、〝藩属の禮〟を云々したのは、朝鮮国王を一段階低い序列として格下げさせようとする悪意的意図が覗われる、見解だった。

これを見れば、明治支配層の間では、将軍が天皇の臣下であるのと同じとして、その将軍と対等な外交関係を開いてきた朝鮮国王は、同様に天皇に臣下として臣隷(예속)しなければならないとする、日本優越意識が一層強かったものと見える。
であれば、幕府政府と対等な外交関係を維持してきた朝鮮政府が、そんな不純な意図が込められた明治政府の外交文書を、受理するはずが決してないではないか。

のみならず、修正を要求したことにも、固く〝王〟の字と〝勅〟の字に最後まで固執するので、朝鮮側としては、明治政府の隠れた政略と策謀を疑う他はなかったのだ。

中国王政を敬う〝小中華の国〟と非難する日本人達が、天皇の下に朝鮮国王が〝臣隷〟する事を願うのは、朝鮮蔑視を超えて征服思想の表出というほかに見ることは出来ない。
その点で、幕府末期、天皇を敬って西洋の蛮人を追おうという尊王攘夷思想が明治日本に始まり、尊皇征韓、即ち王政復古とともに、韓国を征伐しようという思想に変質したと言うカン・ジェオン教授の指摘は、相当な妥当性を持っている。

その様な、明治日本の『征韓論』的策謀が込められた外交文書の接受を拒否し、修正を要求した朝鮮の行為を、単純に中国を親分と奉る子分 朝鮮の小中華思想から由来する排日姿勢にほかならぬと罵倒するのは、真実の歴史解析ではない。
それは、明治時代の栄光を今日の日本国に塗布しようとすることにだけ汲々とする狭量な民族主義者たちが、明治日本による韓半島の植民地化と帝国主義的特性を意図的に糊塗する、自己中心的日本主義の表出に違いない。

日本に初めて武家政権が成立して以来、天皇と将軍の関係が曖昧模糊なかたちのまま、特異な2元的国家元首制が長く存在する状態が続き、
やがて明治日本の時代に入り、王政復古によって、天皇一人に権力が一元化されることとなった。
そういう状況下で、朝鮮と日本の間に外交文書を取り巻く相互不信が発生する事態が発生したのは、理解出来ない事ではない。

しかし、カン・ジェオン教授の指摘通り、それは「朝鮮側から見れば、日本の国内事情を対外関係に拡大させた無理難題」であることに違いない。
そしてそれは、8年後の1876年、
不平等な江華島条約を結ぶという、
明治日本が朝鮮を半植民地化する征韓論の序論となった。

◆皇国史観の再版
『自由主義史観研究会』の対談講演に出た藤岡と井沢の二人が、壇上に並んで座り、歪曲された韓・日関係史と韓国像を選定する姿は、さほど新しいことではない。
50余年前に大手を振って歩いた帝国主義日本の植民史観・韓国史観の内容を、再び反復しているだけのことだ。
だから、すでにその間違った正体が暴露され、今は輝き褪せた古着の様に捨てられている狭量な日本民族主義者の話に、いちいち言い返す必要があるのかと反問する人が居るかも知れない。
また、日本人の大多数が、藤岡グループの立場を支持することもなく、尚且つ、東アジアで望ましい韓・日関係の発展と、21世紀日本の新しい進路に対して苦悶する、良識ある多くの日本知識人達が、彼らの危険な発想法と狭い思考方式に今、警鐘を鳴らしている場面に、我々が出て、可否を問うことは蛇足かも知れない。

しかし、藤岡グループの歴史書き換え運動は、日本の教育現場で相当な共感を広げているし、政治家たちの間でも、新保守主義の精神的滋養分を提供している。
そのため、彼らの発想と思考方式の危険性を指摘、批判せざるを得ない。

さらに、彼らは幅広い人気を享有している国民的人気作家 司馬遼太郎の〝司馬史観〟なるものを、自分たちの神輿の上に奉り、『自由主義史観研究会』のラッパを騒々しく吹き鳴らしているゆえに、さらに注目する必要があるのだ。
(引用終わり)
 
 
 
●申維翰が日本を訪問した頃である18世紀初葉には、貨幣が全国的に流通され、貨幣経済が農村の農民生活までも支配するようになった。
カン・ジンチョル教授に依れば、

《18世紀に入るその前後の時期に至っては、農村の貧困な農民達までも、少額貨幣を支払って、野菜や塩の様な生活必需品を買わなければならない程に、(朝鮮社会は)貨幣・商品経済の荒い波濤に巻き込まれた。》

18世紀?
ヤッパリ、だいぶ遅いじゃん!(笑)


●《日本側が、貨幣経済面で、朝鮮より抜きんでている》
という主張は、至極日本中心的であることと同時に、隣の朝鮮の経済発展に対しては、目をつぶったまま言い捨てる、実に無責任な発言と言えよう。

このころ日本では、
もう米相場とかやってたんだけど・・・



●無論、『海游録』の内容が、全体的に日本を見下して見る印象を、濃く漂わすのは否定出来ない事実だ。
朱子学の学識の程度と詩文作成能力を基準に、日本知識層の水準を低く評価し、朝鮮文化を羨ましがる日本人の姿を多く描写した為、日本側から見れば朝鮮人の日本蔑視に関した指摘として映ることもあるだろう。


それが、勝手な優越感だというのだ。
当時の日本人が、朝鮮の知識層の水準に卑屈になったり、朝鮮文化を羨ましがってたなんて、一体どういう資料から うかがtって、言ってるんだ?


●いずれにせよ、通信使派遣で象徴される朝鮮・日本間の善隣友好関係は経済・貿易交流は無論のこと、文化・医学・芸術など各種文化分野の交流を活発に増大させたし、
特に日本文化に多大の影響を及ぼしたものとして、今日の多くの日本の学者たちも指摘している。


それが
ホントなら具体的に知りたい。
特に医学って何だろう?
ひょっとして、それって朝鮮からというより、朝鮮を経由して中国から入ってきたものを言ってるのか?
もしそうなら、書き方がだいぶ 紛らわしい。



●東アジアで望ましい韓・日関係の発展と、21世紀日本の新しい進路に対して苦悶する、良識ある多くの日本知識人達が、彼らの危険な発想法と狭い思考方式に今、警鐘を鳴らしている場面に、我々が出て、可否を問うことは蛇足かも知れない。


『21世紀日本の新しい進路に対して苦悶する、良識ある多くの日本知識人達』
の悩みの種は、歴史問題を政治ネタにし、真正面から向き合おうとしない隣国。
だが、あえて、どっちがどうかは言わない。
お互い様と言っておこう(笑)。
どっちがどっちにせよ、一方的に相手の瑕疵だけをあげつらう理屈には説得力はない。
一方的な物言いには、必ず〝我田引水〟な嘘や、ワザと語ろうとしない不都合な事実が隠されているからだ。

だから、真正面から向き合い語り合う姿勢が大事なのだが、それを拒んでいるのはどっちだ、って話だ。


以下、関連記事↓

転載元 「四倉幹夫の直球勝負!」

■消された韓国の歴史
-韓流ドラマのウソ

テキストは19世紀の英国地理学会特別会員で、金田一京助よりも前に世界にアイヌの風俗を紹介した冒険旅行作家のイザベラ・バード著『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』である。

イザベラおばさんが朝鮮半島を旅したのは、1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけて4回であるが、その間に日本の韓国併合が行われ、イザベラおばさんは併合前の朝鮮と併合後の朝鮮を詳細にレポートして韓国の近代化と近代化する以前の韓国を英国人しかも英国地理学会という半ば公的な視点で客観的に伝えている。
 
◆木工技術
-チュモンは馬車には乗れなかった
19世紀までの韓国には木工技術がほとんどなく、特に木を曲げる技術がなかったので、日本の大八車のような2輪以上の車輪を作ることができなかったのである。
日本では平安時代に牛車のような輿が存在したが、なんと韓国では19世紀の明治時代になっても車輪を作る技術がなかったのである。

それゆえ、当時の貴族階級である、両班(リャンバン)は、荷台にイスを乗せて下に一輪車のついた奇妙な輿を4人の従者(正確には奴隷)に担がせたのである。

木を曲げる技術を1000年間持たせなかった文明はこの朝鮮とインカ文明だけなのである。
ゆえに、大王四神紀やチャングムやチュモンで登場する2輪車及び4輪車は捏造されたものなのである。
木工技術が発達しなかった背景として、19世紀までのソウルでは2階以上の建物の建築が儒教的考え方から禁止されており、すべて地面に直接柱を立てて藁で葺いた単純な掘立小屋のようなところに住んでいたのである。

◆お金(貨幣)のない国
-通商も貨幣経済も発達しなかった
当時の朝鮮半島全般に言えることであるが、馬車や荷車が全くなかったことによって、集落と集落、都市と都市を結ぶ道路が未発達(ということは道路がない)な状態だったため、大規模な物資の移動もなく、通商は僅かに水運(それも一部の限定されたものであった)によるものがあるだけで、とても通商と呼べるようなものはなかった。
従って、物資の移動ができないので市が立つこともなく、また、立ってもそれは限定された小商い程度のものであった。

市場ができないということは通貨も流通しないということで、当時の朝鮮半島では日本のように金貨や銀貨のような国家が鋳造したきちんとした貨幣は存在せず、民間には実質、話と決済権の低い穴あき銭しかなかった。

これは、現在に例えて言うと、一万円札も500円玉も存在せず、1円玉のみで買い物をするようなもので、とても貨幣では買い物ができなかったのである。

イザベラ・バードは、この価値のない穴あき銭を100Kg近く持ってゆかないと1,2週間の旅ができない状況であった。
もちろん、外国の通貨も流通していないので、イザベラ・バートの旅した明治時代の朝鮮は世界でも珍しい貨幣文化のない国だったのである。

ゆえに、チャングムの誓いなどで市場でお金を出して筆を買ったり、酒を買ったりすることは有り得なかったのである。
(以下引用)

《通貨に関する問題は、当時朝鮮国内を旅行する者を例外なく悩ませ、旅程を大きく左右した。
日本の円や銭はソウルと条約港でしか通用しない。
銀行や両替商は旅行先のどこにも一軒としてなく、しかも受け取ってもらえる貨幣は、当時公称3200枚で1ドルに相当する穴あき銭以外になかった。
この貨幣は数百枚単位でなわに通してあり、数えるのも運ぶのも厄介だったが、なければないでまたそれも厄介なのである。
100円分の穴あき銭を運ぶには6人の男か朝鮮馬一頭がいる。
たった10ポンドなのにである!》

(以上、講談社学術文庫『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』イザベラ・バード著より一部引用)



転載元
BBの覚醒記録。無知から来る親中親韓から離脱、日本人としての目覚めの記録。

■朝鮮通信使の嘘に騙されるな!!


――――

◆日韓で朝鮮通信使を記憶遺産に
16年に共同申請
江戸時代に朝鮮王朝が日本に送った「朝鮮通信使」ゆかりの15自治体などでつくる協議会は、韓国側と協力し、関連資料の記憶遺産登録を2016年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に申請する。
17年の登録を目指す。

日韓国交正常化50周年を迎えることも踏まえ、共同申請で友好の機運を盛り上げたい考えだ協議会は通信使が通った栃木県から長崎県までの有志自治体を核に構成し対馬市長が会長を務める。

韓国・釜山市の外郭団体「釜山文化財団」から12年5月に共同申請の打診があり、準備を進めてきた。
今年3月、双方の関係者が釜山で会合を開き、16年申請で合意した。


(聯合=共同)

(引用終わり)
――――

>朝鮮通信使400周年を記念して再現

再現ではなく美化・捏造。
当時染料の乏しかった朝鮮に、あんなカラフルで豪華な衣類はありません。

>来年に日韓国交正常化50周年を迎えることも踏まえ、

正常化してますか?
歪みに歪んでいると思いますが。

彼らが残した記録「日東壮遊歌」には日本への羨望と嫉妬、憎しみが綴られています。

韓国の教科書では「日本に高い朝鮮文化を伝えてやるための使節だった」と記述されています。

なぜ、対馬や静岡市栃木県他は、韓国側の嘘に加担、朝鮮通信使を美化・捏造するのですか。
これでまた更に誤った日韓の歴史を国民に刷り込み、なかんずく子どもたちには教育上の「犯罪」です。

朝鮮通信使を町おこしの材料に使うこと自体は反対しませんが、韓国と共催で
韓国側の嘘をまるごと認めて広めるような自治体は卑劣です。

日韓の歴史は、韓国側の捏造で歪みに歪められているのに、なんでまたこんな嘘を日本人が塗り重ねるのでしょうね。
日本人なのでしょうに?


◆韓国 高校国史 1996年版
《壬辰倭乱をきっかけに朝鮮と日本の外交関係は断絶していた。
したがって、日本は経済的に困難に陥った。
ために戦乱後成立した日本の徳川幕府は先進文物を受け入れるために、対馬島主をとおして交渉を許可するように朝鮮に懇請した。
朝鮮では日本が犯した誤りを恨みながらも建国以来の交隣政策の原則に照らし、制限された範囲内での交渉を許した。
(1609年 光海君2年 己酉約条)

そうして富山浦に再び倭館が設置され、そこで日本人は米、木綿、人参などを求めていった。
また日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。
これに対し朝鮮では通信使を派遣したが、その一行はおよそ400余人になり、国賓として待遇を受けた。
日本は通信使の一行をとおして先進学問と技術を学ぼうと懸命であった。
したがって通信使は外交使節としてだけでなく、朝鮮の先進文化を日本に伝播する役割も果たした。》



>また日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。

先進国の人を呼びつけるかいw
通信使が将軍への手土産を大々的に持っていたのは、なぜでしょうねーw


◆韓国の教科書記載
《江戸時代に、朝鮮から来日した朝鮮通信使は、徳川幕府が経済的に困窮に陥ったために、先進文物を取り入れようと、李氏朝鮮王に懇願して招いた》←大嘘

事実は真逆です。
当時、中国の奴隷国であった朝鮮には、水車を作る技術さえありませんでした。

日韓併合まで朝鮮は世界の最貧国でであり、栄華を極めていた江戸文化に対して
教えるものなど何も持ってはいませんでした。

朝鮮通信使を捏造で伝えるのは教育的「犯罪」でもあります。
止めてください。

それでなくても日本は韓国側の捏造歴史と言いがかりに苦しめられているのに、
日韓の歴史の真実をこれ以上歪めないでください。


また静岡市のNPO法人AYUドリーム雨宮令子氏の「朝鮮通信使は家康の平和外交であった」というのも虚偽です。

あなたの嘘は、善意のいわゆる「いい人」なのかもしれませんが、無知は時として大罪です。
賢くない地方自治体のそれぞれを騙すにとどまらず、日本の国益を損ねます。
朝鮮通信使の背景をきちんと学んでください。
余りにも日本はこれまでお人好しに韓国の甘言に乗せられてきました。
そのツケを払うのは将来国を担う子どもたちです!!

あなたのその思い込みか嘘が、日本を毀損しています。
しかも今度はその大嘘をユネスコを利用して世界に広めようとは・・・。

日本人として最低です。
雨宮令子さんも、それに乗せられる自治体各位も。

雨宮令子さんが主張なさっていることは事実ではありません。
史実を歪めた捏造です。

『日東壮遊歌』とは、江戸時代の1764年(明和元年)に第11次朝鮮通信使の書記として来日した金仁謙が書いた、日本への嫉妬と羨望憎しみ、侮蔑の言葉で満ちた記録。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9D%B1%E5%A3%AE%E9%81%8A%E6%AD%8C


『日東壮遊歌』
●1764年1月22日 大阪
100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。
凄い。
大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、
銅の屋根で、黄金の内装である。
この贅沢さは異常だ。
都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。
信じられない。
中国の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。
世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。
ソウルの繁華街の10000倍の発展だ。
北京を見た通訳が通信使にいるが、
「北京の繁栄も大阪には負ける」
と言っている。
穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。
そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。
嘆かわしく、恨めしい。

●1764年1月28日 京都
街の繁栄では大阪には及ばない。
しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。
山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。
この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。
悔しい。
「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。
悔しい。
この犬のような倭人を全て掃討したい。
この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。
(引用終わり)


朝鮮遣唐使は、江戸幕府の朝鮮出兵を恐れ、朝貢使として派遣していたのです。

平和外交の象徴などではなかった証拠なら『日東壮遊歌』の他にもあります。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-29.html


◆朝鮮通信使は文化度の低い盗人集団だった
『江戸時代を「探検」する』
山本博文 新潮社より、

「通信使の随員の中には、段々と尊大な行動をする者も現れた。
出船の時に、前夜 出された夜具を盗んで船に積み込んだり、食事に難癖をつけて、魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したりというような些細なことから、予定外の行動を希望し、拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりするようなこともあったという」
 
 
江戸幕府は朝鮮通信使の来日については琉球使節同様に「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現を専ら用いており、使節についても「朝鮮来聘使」・「来聘使」・「朝鮮聘礼使」・「聘礼使」と称し、一般にもそのように呼ばれていた。


◆朝鮮通信使の輿再現
市民団体がパレードでお披露目
2012.11.7 民団新聞

朝鮮国王の国書を納めた朝鮮通信使の輿が、江戸時代の通信使ゆかりの清水区興津清見寺町で再現された。
地元でまちおこしに取り組んでいるNPO法人AYUドリーム(雨宮令子理事長)が10月21日、イベント「アンニョンハセヨ!こども朝鮮通信使」のなかでお披露目した。

制作にあたっては民団静岡本部と雨宮理事長が協力。
哲学博士で評論家の金両基さんが時代考証を担当した。
再現行列には民団静岡本部や駐横浜総領事館の関係者を含む110人が参加した。

朝鮮通信使が宿泊した清見寺では、当時のおもてなし料理の一部も再現された。


◆朴大統領に「6月、静岡訪問を」 静岡知事が招待状
静岡県の川勝平太知事が、韓国の朴槿恵大統領と6月に静岡市内で会談するため招待状を送付。

慶長12(1607)年に朝鮮通信使が来日して、現在の静岡市で徳川家康から歓待を受けた6月19、20日を朝鮮通信使を顕彰する記念日にしたい考え。

◆「朝鮮通信使祭り」
パレードに参加者募集
釜山聯合ニュース

朝鮮王朝時代、日本に朝鮮の文化を伝えた外交使節団・朝鮮通信使の行列を再現する「朝鮮通信使祭り」(5月3~5日)で、 主催側の釜山文化財団は18日、より多くの市民に参加してもらうため、祭りのパレードに参加する市民や団体を募集すると明らかにした。
パレードは祭りのメーンイベント。
5月4日午後1~5時、釜山・中区の竜頭山公園と光復路一帯で行われる。
参加者募集は29日まで。
(引用終わり)


今回の企画は、韓国・釜山市の外郭団体「釜山文化財団」から12年5月に共同申請の打診。

あちらの狙いは韓国の教科書に記載されているごとく「韓国が日本に文化を教えてあげた」というたぐいの捏造補強です。

それに乗る地方自治体は、
飛んで火に入る夏の虫。
朝鮮が劣った日本に文化を伝えた、
というウリナラファンタジーに付き合う地方自治体のお人好し。
日本を損ねます。
 

 


鶏泥棒をする朝鮮通信使。
この絵に関しては全体を見て判断して欲しいという健気な説もありますが、「日東壮遊歌」に見る通信使たちの民度から
推して知るべし。
通信使と争っている日本人の姿もはっきり描かれているではありませんか。

韓国では隙あらば捏造しても日本人を貶めようとしているのに、牽強付会してまで朝鮮人を擁護する日本人がいるのは、GHQの日本弱体化政策の刷り込み効果なのかもしれませんね。
 
全体像を見ても、朝鮮通信使が鶏ドロというせこいことをして、日本人の町民と争っている図にしか見えませんが。

全体を見て、と報じた京都新聞が紙上に載せた画像では、朝鮮通信使と町人が争っている箇所はトリミングでカットしているのですから、何をか言わんやですね。

京都新聞・神戸新聞・山陽新聞・中国新聞・新日 本海新聞・山陰中央新報 高知新聞・ 西日本新聞・北海道新聞・愛媛新聞・中日新聞は左翼新聞と言われていますが。在日も噛んでいるのでしょうか。漏らした新聞ってありますか?

赤旗と聖教新聞は別格ってことで。

朝日新聞も。


富岡製糸場の世界遺産登録や、東京五輪開催への韓国の執拗なまでの妨害工作を忘れまい!!
お人好しも極まれば、バカです。


◆朴槿恵大統領
「日本は歴史を正しく直視し責任負う姿勢を」
演説で対日認識初言及
朴槿恵大統領の2013年「三・一独立運動」を記念する政府式典での演説内容

「日本は歴史を正しく直視し責任負う姿勢を」

「われわれの同伴者として21世紀の東アジアの時代をともに導いていくためには、歴史を正しく直視して責任を負う姿勢を持たなければならない」

「加害者と被害者という歴史的立場」

「(この立場は)千年の歴史が流れても変わることはない」

朴槿恵 大統領はさらに、麻生太郎氏との会談で、日本と韓国を「加害者と被害者」という現実離れして劇画めく、わかりやすい構造で日韓関係を規定した。
日本の恩恵を受けて日本の学校を出て、知日派でもあれば、日韓の歴史の真実を知悉する父親の娘として至近にいた朴槿恵氏が、歴史の真実を知らぬわけはない。
「漢江の奇跡」が韓国自力ではなく、日本からの多大の支援を受けてのことであることも。
しかし、彼女は嘘をつく。
ご自身の人格がどうであれ、その時点で
「ビッチでなければ韓国大統領は務まらない」
ということであり、その道を彼女は選んだのだ。

ならば問う。
モンゴルとともにその属国であった(ここでも、しょせん属国)高麗が、日本に侵略戦争を仕掛け、日本女性を犯し、手に穴を開け数珠つなぎにした残虐の歴史にはどう応えるか、朴槿恵よ、いや全韓国国民よ!
〝千年の恨〟というなら、
そちらがはるかに先だ。

元軍と言いながら、実は高麗兵主体の軍であった。モンゴル兵は指揮官のみである。

ベトナムでの韓国兵の残虐と同じ構図。アメリカの手先としてやり放題。
常にトップではなくその手下としての暴虐。

●以下、『ウィキペディア』より↓
膨大な非戦闘員が殺戮された。

金方慶麾下の高麗軍は、対馬・壱岐において、島民を見つけ次第、男子は老人・子供を問わず斬殺し、女子は集めて暴行・陵辱した後で、手の掌に穴をあけ綱を通し、数珠つなぎにして船舷にぶら下げ、人間の盾とした。

《壱岐対馬九国の兵士並びに男女、多く或は殺され或は擒(と)られ或は海に入り或は崖より堕(お)ちし者幾千万と云ふ事なし》

日蓮の建治元年8月の書簡
泣き叫ぶ赤子を股裂き。
捕らえた妊婦の腹を裂き、胎児を掴み出して踏み殺す。
中国軍の残忍さに手口が酷似。
強姦、生きたままの老人子供の焼き殺し、退治の踏み潰しはベトナム戦争における韓国兵の所業として記録されている。

2度にわたる元寇で、対馬・壱岐は壊滅的な打撃。
家屋は残らず焼き尽くされ、家畜の被害も甚大で、7000頭居た壱岐牛は一頭残らず狩り殺され、壱岐に残された人口は、わずかに65人だったとの記録あり。
これらの残虐行為は、遠征目的とは何の関係もなく、民・百姓の殺傷を禁じるクビライの厳命をも無視したものであった。
(引用終わり)


捕虜の手に穴をあけ、そこに縄を通すのは朝鮮古来のやり口だと言われている。
中国も同様。
強姦した挙句、陰部に異物を突き刺すなどの遺体損傷も。
遺体を「ご遺体」と尊称する日本人の感性からは遥かに遠い。

それにしても、手に穴を空け人間を数珠つなぎ。
手口がかつての中国のまま。
中国は子供にも容赦なく、穴を開け鎖でつないだ。
ベトナム戦争における韓国兵の残虐はむろん、幼児どころか胎児にも及んだ。

これに対してどう応えるのか朴槿恵よ、韓国国民よ。
歴史を直視せねばならぬのは、あなた方だ。

対馬よ、朝鮮兵にやられた先祖の惨憺たる苦しみを、朝鮮通信使美化で足蹴にしてはならない。



日本が韓国の呼びかけに応じてユネスコの記憶遺産に『朝鮮通信使』が登録されてしまうと、韓国側の捏造日韓史の一画が世界的に定着してしまいます!!

静岡市とか対馬市の大人たちは、それによって不利益を被る子どもたちの将来を考えないのでしょうか。

日本文化を貶め、韓国の捏造日韓史を助長するごとき、記憶遺産登録に断固反対します!

朝鮮通信使の実態をきちんと学べば、お祭り騒ぎにして持ち上げることがいかに日本を傷つけ貶めることになるか、解ります。

韓国側が主張したいのは
「いかに朝鮮がその当時文化文明に秀でていて、それを後進国日本に乞われて、教えに来てやったか」
という大嘘です。

利用される雨宮礼子さんや自治体の皆さんは、愚かであると同時に日本国の毀損者です!!

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