■「イスラム国」事件
イスラム世界で禁じられた火あぶり…
信用失墜しても瀬戸際戦術にうって出た
産経新聞 2015.2.4
臼杵陽・日本女子大教授(中東現代史)
ヨルダン軍パイロットのモアズ・カサスベ中尉とされる映像の公開は、有志連合の攻撃などにより追い詰められた「イスラム国」が瀬戸際戦術にうって出たことを意味している。
イスラム国はシャリーア(イスラム法)に基づく厳格な国家の実現を標榜し、一部のイスラム教徒の共感を誘って勢力を拡大していた。
中尉は米軍主導の空爆に参加し、アラブの同胞を殺害した裏切り者として扱われた。
しかし、「火あぶりの刑」はイスラムの世界では禁止されている。
宗教的にも逸脱した残虐な処刑で、多少なりともあったイスラム国に対する信者の「信用」は完全に失墜してしまったのではないか。
カサスベ中尉の一家は国内では有力部族であり、ヨルダン社会でも影響力を持っている。
一家は中尉を救出できない国王に責任を求める動きを強め、王政自体を揺さぶる状況になっていた。
ただこの映像公開後、ヨルダン社会は一致団結した様相となっており、一家としてはもう国王に責任を転嫁することは難しい。
イスラム国の内部でもアラブ諸国の反応を恐れて、映像を公表することに反発があったはずだ。
しかし、空爆などによってすでに危機的な状況にあったため、求心力を保つためには、手の込んだより残虐な手法を選ばざるを得なかったのではないか。
この映像は、イスラム国が追い詰められている証左でもある。
■山岳ベース事件【ウィキペディア】
1971年から1972年にかけて連合赤軍が起こした同志に対するリンチ殺人事件。
当時の社会に強い衝撃を与え、同じく連合赤軍の起こしたあさま山荘事件とともに新左翼運動が退潮する契機となった。
・・・
1971年に入って共闘関係を結ぶようになっていた赤軍派と革命左派は、やがて「連合赤軍」の結成を宣言したが実態は無く、その一方で両派とも警察の厳しい追及によって活動に行き詰まっており、「殲滅戦」においても他党派に遅れをとるようになっていた。
両派は事態を打開するため共同の軍事訓練を行い、指導部会議を重ねていたが、その最中、「総括」と称するリンチで短期間に30名弱のメンバー中12名を殺害し、自ら組織を弱体化させたのが「山岳ベース事件」である。
その後、その残党である5名が長野県軽井沢町の別荘「あさま山荘」に立てこもり、警察と銃撃戦を繰り広げ、警官2名と民間人1名を射殺する「あさま山荘事件」を起こすことになる。
・・・
◆総括開始
榛名ベースでの「新党」においては、「総括」と称する内部でのメンバーに対する批判や自己批判がエスカレートするようになった。
総括対象者は最初は作業から外されるだけだったが、間もなく長時間の正座、更には殴打、ついには死者を出すようになった。
総括による犠牲者の多くは榛名ベースで出たが、その後脱走したメンバーが出たため移動した迦葉ベースでも複数の犠牲者が出た。
メンバーのさらなる脱走で迦葉ベースを放棄して移った妙義ベースで最後の犠牲者が出た。
「総括」の対象者は連合赤軍リーダーの森恒夫が決定した。
■オウム真理教男性現役信者リンチ殺人事件【ウィキペディア】
オウム真理教による一連の凶悪犯罪の1つ。
1994年7月10日に発生した。
「冨田俊男さんリンチ殺害事件」とも呼ばれる。
上九一色村の教団施設の井戸水から毒物が検出され、土谷正実の分析でイペリットが検出したとされる。
そこで麻原彰晃の命令で、林郁夫らによるナルコチェックで、信者がスパイかどうか調べられた。
ナルコチェックは完璧なものではないが、チェックの結果、タンクローリーで教団施設に水を運搬していた現役信者が疑われ、麻原の命令を受けた新実智光・杉本繁郎・中村昇・山内信一ら信者に、パイプ椅子に縛り付けて竹刀で叩く、爪の間に針をさすといったリンチを受けた。
被害者は「ミラレパ正悟師(新実)は人の心がわかるはず・・・」と身の潔白を訴え続けたが、意識を失った。
麻原はマイクロウェーブ焼却装置での殺害を指示し、新実も杉本らに「自白をしようがしまいが、どちらにしろ、ポアだ。」と麻原の指示を伝えた。
しかし、マイクロウェーブ焼却装置による殺害には抵抗があったようで、杉本によって絞殺され、遺体は指示通りマイクロウェーブ焼却装置で焼却処分された。
そこの浅い組織は崩壊を予感しだすと、
自家中毒を起こし、勝手に滅びの道に進む。
後藤健二 殺しは、
その終わりへの一歩と、後に知るだろう。
イスラム世界で禁じられた火あぶり…
信用失墜しても瀬戸際戦術にうって出た
産経新聞 2015.2.4
臼杵陽・日本女子大教授(中東現代史)
ヨルダン軍パイロットのモアズ・カサスベ中尉とされる映像の公開は、有志連合の攻撃などにより追い詰められた「イスラム国」が瀬戸際戦術にうって出たことを意味している。
イスラム国はシャリーア(イスラム法)に基づく厳格な国家の実現を標榜し、一部のイスラム教徒の共感を誘って勢力を拡大していた。
中尉は米軍主導の空爆に参加し、アラブの同胞を殺害した裏切り者として扱われた。
しかし、「火あぶりの刑」はイスラムの世界では禁止されている。
宗教的にも逸脱した残虐な処刑で、多少なりともあったイスラム国に対する信者の「信用」は完全に失墜してしまったのではないか。
カサスベ中尉の一家は国内では有力部族であり、ヨルダン社会でも影響力を持っている。
一家は中尉を救出できない国王に責任を求める動きを強め、王政自体を揺さぶる状況になっていた。
ただこの映像公開後、ヨルダン社会は一致団結した様相となっており、一家としてはもう国王に責任を転嫁することは難しい。
イスラム国の内部でもアラブ諸国の反応を恐れて、映像を公表することに反発があったはずだ。
しかし、空爆などによってすでに危機的な状況にあったため、求心力を保つためには、手の込んだより残虐な手法を選ばざるを得なかったのではないか。
この映像は、イスラム国が追い詰められている証左でもある。
■山岳ベース事件【ウィキペディア】
1971年から1972年にかけて連合赤軍が起こした同志に対するリンチ殺人事件。
当時の社会に強い衝撃を与え、同じく連合赤軍の起こしたあさま山荘事件とともに新左翼運動が退潮する契機となった。
・・・
1971年に入って共闘関係を結ぶようになっていた赤軍派と革命左派は、やがて「連合赤軍」の結成を宣言したが実態は無く、その一方で両派とも警察の厳しい追及によって活動に行き詰まっており、「殲滅戦」においても他党派に遅れをとるようになっていた。
両派は事態を打開するため共同の軍事訓練を行い、指導部会議を重ねていたが、その最中、「総括」と称するリンチで短期間に30名弱のメンバー中12名を殺害し、自ら組織を弱体化させたのが「山岳ベース事件」である。
その後、その残党である5名が長野県軽井沢町の別荘「あさま山荘」に立てこもり、警察と銃撃戦を繰り広げ、警官2名と民間人1名を射殺する「あさま山荘事件」を起こすことになる。
・・・
◆総括開始
榛名ベースでの「新党」においては、「総括」と称する内部でのメンバーに対する批判や自己批判がエスカレートするようになった。
総括対象者は最初は作業から外されるだけだったが、間もなく長時間の正座、更には殴打、ついには死者を出すようになった。
総括による犠牲者の多くは榛名ベースで出たが、その後脱走したメンバーが出たため移動した迦葉ベースでも複数の犠牲者が出た。
メンバーのさらなる脱走で迦葉ベースを放棄して移った妙義ベースで最後の犠牲者が出た。
「総括」の対象者は連合赤軍リーダーの森恒夫が決定した。
■オウム真理教男性現役信者リンチ殺人事件【ウィキペディア】
オウム真理教による一連の凶悪犯罪の1つ。
1994年7月10日に発生した。
「冨田俊男さんリンチ殺害事件」とも呼ばれる。
上九一色村の教団施設の井戸水から毒物が検出され、土谷正実の分析でイペリットが検出したとされる。
そこで麻原彰晃の命令で、林郁夫らによるナルコチェックで、信者がスパイかどうか調べられた。
ナルコチェックは完璧なものではないが、チェックの結果、タンクローリーで教団施設に水を運搬していた現役信者が疑われ、麻原の命令を受けた新実智光・杉本繁郎・中村昇・山内信一ら信者に、パイプ椅子に縛り付けて竹刀で叩く、爪の間に針をさすといったリンチを受けた。
被害者は「ミラレパ正悟師(新実)は人の心がわかるはず・・・」と身の潔白を訴え続けたが、意識を失った。
麻原はマイクロウェーブ焼却装置での殺害を指示し、新実も杉本らに「自白をしようがしまいが、どちらにしろ、ポアだ。」と麻原の指示を伝えた。
しかし、マイクロウェーブ焼却装置による殺害には抵抗があったようで、杉本によって絞殺され、遺体は指示通りマイクロウェーブ焼却装置で焼却処分された。
そこの浅い組織は崩壊を予感しだすと、
自家中毒を起こし、勝手に滅びの道に進む。
後藤健二 殺しは、
その終わりへの一歩と、後に知るだろう。