■沖縄の真実
転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』陛下の祈り
今上天皇(平成天皇)は、「日本人が記憶すべき四つの日」として、八月六日、九日、十五日の他に、六月二十三日(沖縄戦終結の日)を挙げておられます。
しかし、どうでしょうか。
本土の人間はこの日をきちんと記憶し、沖縄の人々の尊い犠牲によって本土が守られたその事実に、どれだけ思いを致しているでしょうか。
こう考えてくると、
「沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民二対シ後世特別ノ御高配ヲ」
という大田海軍少将の遺言に本当に忠実であられたのは、陛下お一人ではなかったかという気さえしてくるのです。
今上天皇の御製を拝すると、一入そう思われてなりません。
激しかりし 戦場の跡眺むれば
平らけき海 その果てに見ゆ
(平成五年 沖縄平和祈念堂前)
沖縄の いくさに失せし人の名を
あまねく刻み 碑は並み立てり
(平成七年 平和の礎)
対馬丸 見出さる疎開児の命
いだきて沈みた
船深海に見出されけり
(平成九年)
今上天皇のこの祈りをこそ、同じ日本人として沖縄の人々と共有したいものです。「沖縄決戦」の犠牲
(『日本の歴史 昭和編』P268-270)より
硫黄島の次は沖縄であった。
多数の民間人の住むところが近代戦の戦場になるということを、日本人ははじめて体験したことになる。
沖縄は「県」であり、そこはどうしても救わなければならない場所であった。
陸軍は制空権を失った状況の下で、独自の作戦による持久戦を試み、それはうまくいっていたが、現地を知らない大本営の命令のために、無理な総攻撃をやって一挙に防禦力を失った。
沖縄の学生や女学生の健気な戦闘参加も伝えられ、本土の学生も「明日は、わが身」と考えていた。
何といっても沖縄戦の特徴は、大量の神風特攻隊の出撃にある。
そして必死攻撃は日本人の国民性として世界で考えられるようになり、「カミカゼ」という言葉は英語にも入った。
日本側では、事の性質上、その効果は知りようがなかったが、アメリカ側が戦後に発表した資料に基づくカミカゼの実態は、どのようなものであったろうか。
伊藤正徳『大海軍をおも想う』(文芸春秋(昭和三十一年)四九〇~四九四ページ)によると、
日本軍が沖縄戦の期間中、基地および戦場で失った飛行機は実に七千八百三十機であり、そのうちカミカゼは約二千八百機である。
それによって被害を受けたアメリカ海軍の軍艦は、戦艦十隻、空母九隻、重巡洋艦三隻、軽巡洋艦二隻、駆逐艦百十八隻、その他四十隻の百八十二隻である。
そのうち沈没したのは十三隻であった。
アメリカ機動部隊長官スプルーアンス中将(ミッドウェー海戦の英雄である)は、ニミッツ長官に打電して、カミカゼによる米海軍の被害は堪えがたいので、全空軍を動員して、九州と台湾にある日本の航空基地を粉砕するように要請した。
スブルーアンスの乗っていた旗艦にも二回も特攻機が命中し、彼はそのたびに旗艦を変えなければならなかった。
四月、五月、六月と、九州の基地はアメリカ機動部隊による猛烈な攻撃を受けた。
だがカミカゼは吹きやまず、沖縄のアメリカ海軍は物質的にも精神的にも打撃を受け、
「なお数日、カミカゼの攻撃鉄郎冬ない場合は、アメリカ艦隊は、一時退却して、再挙の方法を考えるべし」
という説に傾いたという。
しかしその時には、日本のほうも飛行機がなくなり、搭乗員も不足し、燃料まで尽きて六月二十二日が最後の攻撃になった。
この頃になると、ようやく飛んで体当たりするだけの未熟な技偶の搭乗員も多かったと言われる。
しかもアメリカ海軍の弾幕のため、目的に到達しないで落とされた者が多かったという。
零戦がはじめてシナ大陸に登場した時は、まったく無敵であり、搭乗員は十分に飛行機に慣れ、戦闘に慣れる余裕があった。
そのヴュテランたちであったからこそ、ソ連のイ-15やイ-16、イギリスのハリケーンやスピットファイア、アメリカのP-36、P-40、バッファロー、ワイルドキャットといった世界的に名の轟いていた戦闘機を、ばたばたと落とすことができたのである。
今や神風特攻隊員は、空中戦をできるほどの練度をまだ持たない若者たちであったから、いみじくも英語で自殺攻撃と言われるものになった。
特攻攻撃は空中に限らなかった。
水中では魚雷を操縦する「回天」や、「神雷」が、
また、水上部隊でも、戦艦大和を中心として、沖縄に向かった連合艦隊の残存部隊は、帰還用の重油も持たぬ特攻だった。
(重油は帰還用まで積んだという説も出ているが、信じ難い。
大和は沖縄の海岸に乗り上げて艦砲射撃する予定だったという説のほうが正しいだろう)
カミカゼも戦艦大和も沖縄を救うことはできなかった。
しかし、救うために必死の攻撃を繰り返したことはたしかである。
日本の最後の戦艦「大和」は、沖縄のために出陣したのであり、沖縄の御楯になったのだ。
また、戦禍は本土においても実にひどかったことは、東京をはじめとする大都市無差別爆撃や原爆でも知られよう。
沖縄だけがひどい目にあって、本土は無事だったということはない。
一般住民の死傷は沖縄を超えていた。
そのことは、沖縄の人たちにも無視してもらいたくないと思う。青山繁晴氏の「ぼくらの祖国 扶桑社」を読んで
ご存知のように硫黄島は大東亜戦争3年八か月の最後の激戦地として、栗林忠道中将が率いる二万一千人の将兵達が玉砕された地である。
青山氏はクリントイーストウッド監督、主演渡辺謙の「硫黄島」の闘いを観て、今も眠る一万二千人の将兵の遺骨があることを知った。
硫黄島は東京都の小笠原村だが、日本の領土でありながら一般国民は立ち入り禁止区域となっている。
それでも是非、硫黄島へ行ってこの目で確かめたいとのことで手をつくし、自衛隊には断られたが新聞社のジェット機で行くことができた。
青山氏は硫黄島が眼下に迫った頃、ジェット機の中に無数の得体の知れぬものが入ってきて「帰せ!帰せ!戻せ!戻せ!」という声が聞こえて来たそうです。
青山氏は直感で、亡くなられた将兵の声だと断言された。
硫黄島にある滑走路は米軍が硫黄島を占領してから造ったもので、信じられないことに、亡くなられた日本兵の遺体をそのままにして、その上からコンクリートを流し込んで敷いた滑走路だった。
返還(1968年)後に、海上自衛隊が譲り受け、今もその滑走路を使っている。
青山氏らカメラマンを監視するために二人の海上自衛官がついてきた。
青山氏はどうしてこの滑走路を剥がして、遺骨を日本に戻さないのかと詰め寄った。
それは、英霊へのやむにやまれぬ気持ちからである。
この滑走路の下にはおびただしい日本将兵の遺体が埋め立てられていることを知りながら、平然と飛行機の離着陸をしている事実を隠蔽している日本国政府に対する怒りと、日本国民も67年前に終わったとして硫黄島での死闘を一顧だにしないことへのお詫びの気持ちとして、青山氏は今も島に埋められたまま帰還を待ちわびる英霊達に思いを馳せた。
硫黄島で勤務する自衛官から
「硫黄島に赴任していると、半透明のような帝国軍人と昼も夜も暮らすことになるんですよ」
「昼ご飯を食べていると、隣で、帝国海軍の士官も昼ご飯らしいものを食べているのです」
「夜、寝ていると、寝台の下で帝国軍人もお休みになっています」
という話を聞いたという。
《硫黄島が噴き出す凄い匂いのただなかで、立ち尽くしていると、頭の中に栗林中将の声が聞こえる気がした。
もちろん中将とは面識はないが、それでもここにいると声なき声が伝わってくる。
幻聴というのではない。
不可思議さはない。
栗林中将のお考えが、ただ真っ直ぐに、声なき声としてくたわって来る。
「アメリカの爆撃の目的は、もはや本土で女と子供を殺すことだ。
女と子供を殺す、
すなわち日本民族は根絶されてしまうぞと、日本を恐れさせて降伏に導くことが、アメリカ軍が硫黄島を取る本当の理由である。
だから今から穴を掘ろう、穴を掘って立て籠もって、やがて皆死ぬ。
皆死に、故郷には帰れない、家族には会えない。
しかし穴を掘って立て籠もったら一日闘いをひき延ばせるかも知れない。
最後は負けても、一日引き延ばしたら爆撃が一日遅れて、一日分、本土で女と子供が生き延びる。
二日延ばしたら二日分、本土で女と子供が生き残る。だから穴を掘ろう」と。
二万一千の将兵に向かって、二つのことを禁じられた。
一つ、自決をしてはならぬ。
一つ、万歳突撃をしてはならぬ。
そして水際で闘わず、島の奥へ引き、地下壕を掘って立て籠る作戦を決行した。
栗林中将の揺るがぬ信念を見て、やがて二万一千人が心を一つにして掘り始めた。》
青山氏と監視役の自衛隊はその地下壕に入り、目の当たりにした現実を青山氏は語った。
「皆さん、これを見ましたか。
生半可な努力でこんなものは掘れないよ。
そして一番大事なことは、これを掘った二万一千人の日本の方々のうち、一人でも自分の利益の為に、自分が助かりたいとか、自分の利益になるからと思って掘った人はいるんですか?
ここに居る人たちは一人残らず、ただ人のために、子々孫々のために、祖国のために、それだけが目的で掘ったんですね。
そしてこの掘った人たちを、私たちは戦後ずっと日本兵という一塊で呼んできました。
本当は大半が普通の庶民なんです。
・・・
これを見て、あの戦争は悲惨だったという話だけを僕たちは60年間してきたけど、それで済むのか。
ここにいらっしゃる、間違いなくこの部屋にいらっしゃる、この英霊の方々が本当に聞きたいのは戦争は悲惨でしたという話だけではなくて、今、自分たちが助けた女性と子供を手掛かりにして甦って行った日本民族が、祖国をどんな良い国にしているのか、その話を聞きたいんだ。
僕たちが、今、何をしているか、それを聞きたいんだ。
その英霊の方々に僕たちは、日本はこんな国になりましたと言えるんですか。
経済は繁栄したけども、未だ国軍すらないから隣国に国民を拉致されて、されたまま救えず、憲法はアメリカが原案を英語で作ったまま、
そして子が親を殺し、親が子を殺す。
さらにいじめられた子が自殺する。
そういう国に成り果ててしまいましたと、この英霊に言えるのか。
僕たちの一番の責任はそこでしょう。」
《そこに若い自衛官が話しかけてきた。
「青山さん、私たち、昼ご飯を食べていると、帝国海軍の方が横で昼版を食べているんです。
今まではただの幽霊だと思っていました。
しかし本当は、おい!お前たち!
祖国はどんな良い国になったか、今、教えてくれ!
祖国はいい国になったんだろうな!と、
それを聞いていらっしゃるんですね。
初めて今日、解りましたよ」
そしてベテランの幹部が寄り添ってきてこう言われた。
「青山さん、私は今まで防衛庁・自衛隊に何十年もいたけれど、憲法も変わらないし、この国はどうせこんなものだと思っていました。
だけれど、そんなことは関係ないと、今日解りましたよ。
あなたとあの地下壕にいて、よく解りました。
自分が定年になって退職しようが、そんなこと関係ない。
自分が命ある限りは、祖国再建の為にやらなければいけないんだなと、私は今日、それが解りました。」
ああ!硫黄島は、僕らの生きるヒントだ。
生きる手がかり、生き直す手がかり、祖国を甦らせる手がかりだ。
現役の海上自衛隊のパイロットから手紙をもらった。
「青山繁晴さん、私は哨戒機P3Cの機長でした。
硫黄島に着陸するために操縦桿を倒す時、いつも胸が痛みました。
自分がこの機体を滑走路に降ろせば、英霊の方々を踏みつけに、のしかかることになるのに、これでいいのかと着陸する度に苦しみました。
自分は自衛官として命令を守らねばならない。
しかし、誰か自由な立場の人が、硫黄島に入って、制限なく事実を見て、この現状を国民に知らせてくれないかと密かに願っていました。
硫黄島の真実は、本来は主権者が知らねばなりません。
あなたが、ついにそれをなさったと知って、心から喜んでいます。
どうぞ、国民に知らせて下さい。
私は部下にも、こうした自分の気持ちを話したことはありません。
それなのに、お付き合いもない青山さんに手紙など出していいのかと迷いました。
どうぞお許しください」》
・・・
こうした死闘を1ヶ月近くも続けた後、日本軍はようやく島の北辺に追いつめられ、残る人員も約9百人になっていた。
3月16日午後、栗林中将は参謀総長宛に訣別の辞と辞世を電報で送る。
「戦局最後の関頭に直面せり、敵来攻以来麾下(きか) 将兵の敢闘は真に鬼人を(な)かしむるものあり・・・
国の為
重き務(つとめ)を果たし得で
矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」
栗林中将はなおも、目的は玉砕することではなく、敵に出血を強要することだとして、10日間の抵抗を続け、最後の出撃 は26日の夜明けだった。
約4百の将兵で米軍の後方部隊を急襲し、死傷者172人の損害を与えた。
中将は攻撃の途中で負傷し、歩けなくなった所を「屍を敵に渡すな」といい残して、部下に介錯を命じた。
二人の部下は遺体を大木の根本に埋めた後に、自決したと伝えられている。
硫黄島が陥落するや、日本本土への空襲が始まった。
「重き務を果たし得で」
と中将は詠んだが、その後の歴史の展開によって、この36日間の死闘は次第に重い意味を持つようになっていく。
2万余の日本軍が守るちっぽけな小島を奪取するのに、米軍は2万6千近くの死傷者を出した。
残る内地237万余、外地310万余の陸軍兵力が日本全土と広大な中国大陸で、同様のゲリラ戦を展開したらどうなるか?
硫黄島の戦いでつきつけられたこの問いを、米国は沖縄戦でもう一度思い知らされることになる。
おりしもこの戦いの直後の4月12日、
日本の無条件降伏を主張していたルーズベルト大統領が急死する。
無条件降伏の方針は実質的に変更され、ポツダム宣言の諸条件が提示された。
国体護持を求めて本土決戦を主張する陸軍にも
「最終的の日本国の政府の形態は
・・・
日本国国民の中に表明する意志により決定されるべきものとす・・・」
との連合軍が矛を収めるきっかけとなった。
鈴木貫太郎首相は、昭和天皇に御聖断を願い、ポツダム宣言を受け入れ、綱渡りの終戦を実現した。
硫黄島と沖縄での日本軍の死闘がなければ、無条件降伏要求の方針は変更されず、歴史は本土決戦へのコースを辿っていたかもしれない。
「せめてお前達だけでも末長く幸福に暮らさせたい」
という中将の念願は、より大きな形で果たされたのではないか?
平成6年2月、小笠原諸島復帰25周年を記念されて、天皇皇后両陛下は硫黄島に行幸され、鎮魂の御製・お歌を詠まれた。
精根を 込め戦ひし人未だ
地下に眠りて 島は悲しき
慰霊地は 今安らかに水をたたふ
如何ばかり君ら 水を欲( ほ)りけむ
最後に、
栗林中将の詠んだ
「国の為 重き務を果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」
の「悲しき」の部分を軍人として相応しくない表現だということで別の表現に書き換えられましたが、皇后陛下は、中将の悲しき思いを受けて
「精根を 込め戦ひし人未だ 地下に眠りて 島は悲しき」
と応えられました。
国民の悲しみと共にあるのが皇室であることを歌の中で示されました。◇硫黄島遺骨収集へ 滑走路の移設を検討
産経新聞 2013/04/22
硫黄島の英霊は約2万2千人、うち遺骨収集は約1万人。
遺族によれば米軍が作った滑走路の下に、2千~3千人が埋まっている可能性もあるという。両陛下、白梅学徒隊元隊員と懇談 沖縄戦没者に祈り
2012/11/17 西日本新聞
沖縄県入りした両陛下は17日午後、沖縄平和祈念堂を訪れ、沖縄戦の野戦病院に看護要員として動員され、22人が犠牲になった「白梅学徒隊」の生存者ら3人と懇談された。
近くの国立沖縄戦没者墓苑も訪れ、約18万人の遺骨が納められた納骨堂の前に花を供えた。
両陛下は、白梅学徒隊の元隊員らでつくる白梅同窓会の中山きく会長(84)から、元学徒隊の有志が戦争体験を伝える活動をしていると聞くと
「大切なことですよね」
と言葉を掛けられた。
きくは
「これから白梅の塔に参りましてお花をお供えさせて頂きます。
ありがとうございましたというふうに言った。
白梅学徒隊や教職員らの慰霊碑『白梅の塔』がどの方向にあるかと質問されたので、こちらの方ですと申し上げた。
すると、両陛下は教えてもらった方角に向かい、2人そろって礼拝をしてくださいました。
感動しました。」
と話した。青山繁晴の解説
「ひめゆり部隊は有名なんですけれども、ひめゆり部隊以外に8つ、学徒看護隊があった。
沖縄で、アメリカ軍の侵略を食い止めようとして、頭が割れ、腸が出た、その時に看護してくれたのは、中山きくさんを含めた15歳の沖縄の少女たちでした。
で、そのうちのひとつが白梅学徒看護隊で、これは沖縄第二高等女学校の学徒看護隊でありました。
沖縄の人々もほとんど忘れていたんです。
…以来ずっとお参りしてきました。
少女たちは、日本に戻る時に、これで、アメリカの言いなりにならなくてもすむ、アメリカじゃなくて、アメリカに頭を押さえ付けられるんじゃなくて、日本国民として、みんなで一緒に生きていけると思ったら、そのあともずっと米軍基地、その、本当は米軍専用基地ですね、
米軍が好き勝手に使える基地がずーっと残っていって、実は日本国の人たちは、私たちと一緒だと思ってくれないんじゃないかと思って、悲しくて今まで祝えなかったんです、ってことをおっしゃったんです。」陛下、沖縄への深い思い
産経新聞 2015/01/07
平成6年6月。
米国を訪問中の天皇、皇后両陛下は日本時間の23日正午に合わせ、滞在先のサンフランシスコのホテルで人知れず黙祷された。
この日は昭和20年に沖縄戦が終結した日で、沖縄では戦没者の追悼式典が開かれ、同時刻に黙祷がささげられていた。
実は、外務省儀典長として随行していた元侍従長の渡辺允(まこと)さん(78)が事前に天皇陛下のご指示で23日正午の現地時間を調べたところ、市長主催の晩餐会が開かれる夕方と重なっていた。
それを聞いた陛下から晩餐会の時間を少し遅らせてもらえないかと依頼されたという。
陛下は疎開の原体験をへて、戦後に生存者や遺族らの話を聞き、歴史を学ばれた。
さらに、昭和天皇の思いを心に留められる。
「それらの積み重ねで、ご自身の中から慰霊への気持ちが芽生えられた」。
渡辺さんはそう推測する。
陛下は、皇太子時代の昭和56年の記者会見で「どうしても記憶しなければならない」4つの日として、
6月23日のほか、8月6日と9日の広島、長崎の原爆投下の日、同15日の終戦の日を挙げられた。
いずれの日も、鎮魂の祈りをささげられるのを忘れない。
とりわけ、国内で最大の地上戦が行われた沖縄への思いはお強いものがある。
陛下が皇后さまとともに初めて沖縄を訪問されたのは、皇太子・同妃時代の昭和50年7月。
名誉総裁として国際海洋博覧会に臨席するのが目的だったが、空港から真っ先に向かわれたのは、南部戦跡にある慰霊碑「ひめゆりの塔」(糸満市)だった。
ひめゆりの塔では、両陛下が供花される直前、過激派から火炎瓶を投げつけられる事件が起きた。
それにもかかわらず、その後も他の慰霊碑を予定通り慰問された。
陛下が事件のあった日に出されたお言葉に、沖縄に心を寄せ続ける覚悟が込められている。
「多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものでなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人一人、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」
これを体現するように、両陛下での沖縄ご訪問は10回を数える。
ご訪問には毎回別の目的もあるが、必ず初日に南部戦跡を慰問される。
「それを必ず守る。そのことに意味がある」。
渡辺さんもこう強調する。沖縄反基地集会の実態
沖縄では毎年この時期になると、「米軍基地反対」を叫ぶ左翼の集会が盛んに開かれるが、周辺情勢の急変は、どんな影響を沖縄に与えているのだろうか。
この目で見てみようと、幾つかの集会に参加してみた。復帰を祝う沖縄の大学生
普天間基地の真横に位置する沖縄国際大学の学生たちに話を聞いてみた。
平成十六年には米軍ヘリが沖縄国際大学の構内に墜落しており、ヘリ墜落時に被害を受けた校舎の壁の一部や燃え残った木がモニュメントとして残されている。
学内の大学生約百人に話を聞いた。
九割が沖縄出身の大学生だった。
「沖縄が日本に復帰して四十年経ちますが、皆さんどのように受け止めていますか」
と聞くと、ある男子学生は
「復帰して良かったと思っています。
学校やテレビでは『屈辱の復帰だ』と言われていますが、復帰の時に日本国旗を振っている写真なんかを見ると、戻れたことは素直に喜ぶことだと思います」
と答えた。
別の男子学生も
「うちのおじい(沖純の方言で「祖父」)が、復帰して嬉しかったって言っていました。
だから復帰して良かったんじゃないですかね」。
もちろん、「米軍基地の関係で復帰を素直に祝えないのでは」とする声もあったが、そのような懸念を抱いていたのは、大学入学と同時に沖縄に移住した本土出身の学生たちだった。
大学の講義で
「沖縄は平和憲法の下の日本に復帰した。
にもかかわらず沖縄には基地が残り、本土からの差別を受け続けている」
と聞き、そうかもしれないと思うようになったという。
宮崎出身の男子学生は「テレビと新聞の受け売りですが」と前置きしたうえで
「基地が残っている以上、復帰が良かったとは言えないのではないか」
と話していた。
教職員組合が主導する学校教育や地元メディアから「屈辱の復帰だ」と聞かされてきた沖縄出身の大学生が「復帰を祝いたい」と答え、何も知らずに本土から来た学生が講義やメディアの報道に影響され「復帰を祝えない」という、大変奇妙な、いや沖縄をめぐる歪な言論状況を象徴するような聞き取り結果となった。基地周辺は「日の丸」歓迎
復帰四十周年をお祝いする行事もいくつか開催された。
五月十二日、日本会議沖縄を中心とした民間実行委員会主催で開かれたパレードと記念大会に参加してみた。
実は普天間基地の真横で「日の丸」の小旗をもってパレードをするという計画を聞いたときには、地元住民から大反発を受けないのだろうかと心配だった。
何しろ普天間基地の周辺は住宅地で、「世界一危険な基地」とも言われている。
西側にある普天間第二小学校のすぐ近くで米軍ヘリが墜落したこともある。
ところか、約三百人のパレード参加者が「日の丸」の旗を手に
「沖縄の祖国復帰をお祝いしましょう」
「沖縄を守り続けている自衛隊と海上保安庁に感謝しましょう」
と声を挙げて行進し始めると、その横を通り過ぎる尊から、
「日の丸の小旗を下さい」
「復帰万歳」
などの声が次々と寄せられたのだ。
住民たちも、嬉しそうに手を振ってくれる。
青空にはためく「日の丸」に拒否反応を示す人はいなかった。
パレードに参加していた沖縄の男子大学生も
「ここで生まれ育った僕も沖縄は左翼の県だと思っていましたが、国旗を振って歓迎して下さる方や車のクラクションを鳴らして激励して下さる方がいて驚き、嬉しく思いました」
と、興奮気味に話してくれた。
こうした沖縄の状況を意識して、記念大会の冒頭では、中地昌平・日本会議沖縄県本部会長が「五月十五日は県民の願いが実り、沖縄県祖国復帰が達成された素晴らしい日。
五月十五日は、断じて『米軍基地が押し付けられた屈辱の日』などではない」と挨拶した。
俳優、津川雅彦氏の記念講演の後、最後は沖純の音楽舞踊エイサーが披露された。
「万歳」を三唱しながら、参加者が一斉に「日の丸」の小旗を振る様子は圧巻だった。
確かに基地には危険もあるし、騒音もある。
地元マスコミは「基地反対」を煽り、
「五月十五日は、沖縄に基地を押し付けた『屈辱の日』だ」
といった報道を繰り返している。
こうした報道に影響を受けていないと言えば嘘になるが、沖縄県民が、左翼主導の反基地運動、反日運動に同調しているわけではない。
反基地闘争の中心地である普天間基地周辺であっても、地元の住民たちは日の丸パレードを温かく歓迎してくれたのだ。
よく言われることだが、基地反対集会の参加者や実質的な運営者の多くは本土の左翼活動家・団体であり、地元の声が反映されたものではないことも今回、自らの目で確認することができた。
学生の中には
「米軍基地はないに越したことはない。
しかし尖閣事件を機に基地が抑止力となっていることに気付いた」
と話す学生が何人かいた。
基地反対派も認めているように沖縄の意識は確実に変わっており、
「尖閣を守れ」という国民世論の高まりや、政府に尖閣防衛のための取り組みを求める署名など様々な活動は、左翼に大きなダメージを与えているのである。
左翼によって作られた「沖縄は反基地・反日」というイメージに惑わされて、
「尖閣、沖純、日本を守るために基地は必要だ」
と考える沖縄県民の真実の声を蔑ろにすることがあってはなるまい。
尖閣、そして沖縄防衛を求める世論をさらに高め、中国の侵略の「尖兵」となる左翼の活動や謀略工作には断固として対抗していかなければならない。◆中国の方が脅威 早く辺野古へ移設を
『市民団体がデモ行進』より抜粋
沖縄・宜野湾市の安全で活力ある街づくりを求め
「普天間飛行場の迅速な辺野古移設を求める市民行進」、
2012年10月28日の参加者50名。
デモ参加者は
「一日も早い辺野古移設で安全な空を宜野湾に取り戻そう」
「周辺住民を不安と危険に陥れる(オスプレイ)反対行動は、即刻中止せよ」
「抑止力強化のために日米同盟を強化せよ」
などと市民に呼びかけた。
また
「若者たちは、オスプレイ反対なんて言っていない。
それより、尖閣領海に侵入している中国に脅威を感じている人が多い」
「かつて、宜野湾市議会は辺野古移設を歓迎した経緯がある。
私たちの求めているのは、宜野湾市民の安全と安心を守るためには基地の早期移設だ。
オスプレイの撤去ではない」
「人数の問題ではなく、行動できたことに意義がある。」
と話した。報道されない天皇陛下奉迎 提灯大パレード
2012/11/18 那覇
18日、七千名の天皇陛下奉迎提灯大パレードが那覇市で行われた。
沖縄県民が歌う『君が代』の歌声、天皇陛下バンザイの声に、これが沖縄県民の本心だと思った。
同日、秋葉原で拉致被害者奪還デモ行進が行われた。
おそらく左翼・反日・シナに支配されたマスコミは報道しないだろう。
•久米島県民8千5百名のうち6千千名が奉迎を行った。
•全国学生奉迎団が結成され、提灯奉迎行事に7千名が参加。
•糸満市では1万4千名が奉迎「今日の雨は英霊の喜びの涙です」と!
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陛下の祈り/沖縄県民斯ク戦ヘリ
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