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タイガースが欲した男、欲する男

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今のタイガースに必要な補強は、選手よりコーチだ。
中村GMに人脈あるなら、選手よりいいコーチを捕まえて来い。
とかくタイガースファンは生え抜きにこだわる。
だから監督は外圧が厳しいから外から連れてくるのはもう無理だろう。
だが、コーチなら別。
有能な外様コーチに、無能な生え抜き監督の面倒を、謹んで見てもらえ。

解説を見る限り、金本も監督としてはイマイチだが、リーダーシップはありそうだから、矢野や赤星をコーチとして養成するいい環境をつくれそう。
下柳も解説聞いてたら、思ってたより指導者として向いてそう。
今岡は全然ダメ、川藤と言ってること変わらない(笑)。
桧山は…どうかな?

金本を監督にする場合を想定すると、ヘッドコーチには広沢がタイガース出身選手としては一番の適役かも。

でも、あくまでそれは、生え抜きの可能性。
外には、コーチとして実績を残して優秀な人材があまたいる。

ヘッドハンティングでもなんでもいいから、そこをちゃんと補強しろ。

無論、今季タイガースが優勝したら和田が続投なのはわかってるから、あくまで、コーチ、監督が代わっても、そのまま続投をお願いしたいコーチを見つけてこい、ってこと。
それが将来の、和田以降のはえぬき監督の為でもある。



2軍からの昇格組が打撃回復 またも注目される巨人・内田コーチの手腕

フルカウント 6月21日
◆深刻な打撃不振からの脱却を目指す巨人
深刻な打撃不振により、巨人は交流戦で苦戦した。
ピッチャーががんばっても、2点を取られてしまえば追いつくことが難しかった。
主力にケガ人が続出し、原監督も理想のオーダーが組めなかった。
1、2軍の入れ替えも多く、若手選手を思い切って起用。
その2軍から昇格した選手の中では、堂上剛裕外野手が11日の日本ハム戦で4打数4安打の大活躍。
即先発出場し、期待に応えた。

「2軍でやってきたことを1軍で出せたと思う。
色々と内田コーチに教わってきました」

内田コーチとは、内田順三2軍打撃コーチのことを指す。
67歳。
1983年から広島のコーチに就任し、巨人と広島を行き来しながら、多くの選手を育成してきた。

広島時代は前田智徳、金本知憲、野村謙二郎ら多くの主力選手を輩出。

巨人移籍後は高橋由伸、松井秀喜、清水隆行らが指導を仰ぎ、成長していった。

内田コーチも左打者だったため、特に左打者は多くの選手が耳を傾けている。

堂上も2軍調整中、内田コーチとマンツーマントレーニングを行った。
バットのトップの位置や、自然と力む癖などを指摘された。コーチが他の選手に対しても言っていることはシンプル。
「笑顔が出てないな」
「もっと歩く時から背筋を伸ばせ」
などという指導もある。
技術指導のほかにも、忘れていたものを取り戻させてくれる。

◆「技術屋」と呼ばれるコーチの存在
なぜそのような指導者が1軍ではなく2軍にいるのかという疑問もあるかもしれない。
ただ、野球のフォームは少し変えるだけでも、習得まで時間を要する。
その間、試行錯誤を続けるため、結果が出ないことも多く、1軍に出ていてはチームに影響をする。
1軍は勝負の世界。
調整で出場するわけにはいかない。
また、1軍のコーチが担う役割では、技術指導よりも相手投手の攻略方法など、監督の考えを理解した上での戦術指導が多く占める。

そのため、強いチームには「技術屋」と言われるコーチが2軍にいる。
1軍にいる選手が不振で落ちてきたタイミングですぐに矯正に取り掛かれるようにするためだ。

もちろん、内田コーチは左打者だけでなく、右打者にもアドバイスを送っている。
今年は主力が19日のリーグ再開前に2軍で調整。
長野久義は登録抹消はしていないが、2軍戦に出場し、内田コーチの助言を受けた。
そして19日から1番に座ると、4打数3安打。
20日の試合は5打数3安打と、2試合で9打数6安打の大暴れ。
不振がウソのよう。
ファームでつかんだ感覚があったのだ。
阿部慎之助や村田修一も打撃フォームを変えて、1軍に戻ってきた。
阿部も堂上同様に力みのないフォームに。
村田もトップの位置を変えている。

見ている側には微妙な変化で気づかない部分も多いが、そこには選手の大きな決断と勇気、内田コーチの経験が含まれている。
原監督も堂上が活躍した時は
「ファームでは正しい練習をしているということですね」
と岡崎2軍監督や内田コーチの指導に感謝していた。
1軍と2軍と一体になることで、低迷する打線がこれから活気づいていくことだろう。



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金本、新井、緒方から菊池、堂林、丸まで二流の男は、こうして一流を育て上げた内田順三 前広島二軍監督「さらばカープ、愛しき赤ヘルたち」


2014年11月12日(水) 週刊現代

小さな大打者・若松勉の陰に隠れ、数字を残せなかった内田順三は、現役時代の悔しさをばねに、一流打者を育てる名人になった。
67歳になってもなお、請われる男が、カープ愛と赤ヘル魂を語った。

◆「ダメ」と言わずに育てる
《駒沢大学を卒業後、プロに入って今年で45年目。
選手、指導者として一度もユニフォームを脱ぐことなく、ここまでこられました。
ありがたいことです。

私が今の評価をいただいたのも、自分の力ではなく、携わった選手がうまく育ってくれたおかげです。
カープは自前で育てないといけない球団ですから、首位打者を2度とった正田(耕三)をはじめ、江藤(智)や金本(知憲)などもそれこそ、首根っこ捕まえてやらせました。
彼らもつらかったと思いますが、打者としての土台を作るのに少しでも役に立てれば、と思っていました。

今季は一軍の野村謙二郎監督が勝負をかけていた。
だから二軍を指揮した私も、勝利に執着できる選手の育成を求め、二軍戦も勝つことを求めました。

一軍は3位でCSに進出しましたが、日本シリーズは出られず、二軍もウエスタン・リーグで2年連続で2位に終わりました。

'08年に広島に復帰した時は広島に骨を埋めるつもりでした。
「あと一歩」の壁が、私の情熱の源です。》

内田順三(67歳)。
今季まで3年間、広島カープの二軍監督をつとめ、来季から巨人の二軍打撃コーチに転身する。

'70年に駒大からドラフト8位でヤクルトに入団、
シュアな打撃が持ち味の左打ち外野手だったが、レギュラーには定着できず。
日本ハム、広島と渡り歩き、'82年のシーズン途中から広島の二軍打撃コーチ補佐に就任した。
その指導力と人望には定評があり、広島では正田、江藤、金本といった往年の名選手から、丸佳浩、菊池涼介、堂林翔太といった「次代のスター」たちまで指導した。

選手、指導者として通算27年間在籍したカープを離れるにあたり、愛弟子たちと過ごした日々を振り返る。

《コーチになった当初、カープにいたベテランのコーチから言われた言葉を今でも肝に銘じています。

「ダメだ、と言ったら最後。
ダメ、という言葉を使わずに指導してみろ」

二軍にいる実績もない選手に「お前はダメだ」と言ってしまったら、その選手はもう辞めなきゃいけない。
ダメと言う前に、その選手の長所を見つけ、何とか伸ばす方法を考える。
若手の育成は、無論本人の努力もありますが、コーチの手腕も大きいのです。

私の指導者としての生き方を決めたエピソードがあります。
広島の一軍コーチになりたての'84年、
当時、巨人のユニフォームを脱いで浪人中だった長嶋茂雄さんが、我々の秋季練習に1日コーチとして来てくださった。
1番に定着していた高橋慶彦や外野のレギュラーを確保したばかりの長嶋清幸に、直接指導してくれたのです。

慶彦には「バットを『ブッ』と振るんだ、『ブッ』と」。
長嶋には「腰を『クッ』『クッ』『クッ』と切るんだ」とあの独特の言い回しで熱っぽく語るわけです。
慶彦と長嶋は直立不動で聞いていましたが、指導を受けた直後に、目が覚めるような、素晴らしい打球に変わった。
慶彦には、インパクトのスピードの意識を高めること、長嶋には、より腰を鋭く回すことを鮮明にイメージさせたわけです。

私は感心すると同時に、自分にはできない、と思いました。
長嶋さんの実績が醸し出すオーラ、言葉の重みは、私とは天と地ほど違う。
現役時代に二流選手だった私が、あの人にないものを指導者として出そうと思ったら、選手に近づき、一緒に汗を流し、選手の成長を手助けする指導をしつこく続けるしかない、と心に決めました。》

◆コーチはアイデアマンであれ
《現役時代を振り返ると、打つことは若松(勉、元ヤクルト監督)にも負けないぐらいの自信はあった。
オープン戦で首位打者をとったこともありましたが、足首骨折など負傷もあり、レギュラーには定着できなかった。
今思うと、若松と比べて私は「なぜ打てないのか」「どうして打てるようになったのか」と、問い続ける感性が弱かった。
長嶋さんもそうですが、好打者ほど「なぜ、どうして」という感性が強い。
同じ練習メニューをこなしていても、その感性が違うと、自ずと結果も変わってくる。

これは野球に限らず、すべての仕事にあてはまることかもしれません。

コーチになって、現役時代の失敗が糧になりました。
自分が抱いた後悔は、選手にさせたくない。
打者はどんなに才能があろうが、バットをたくさん振らなければいけないし、コーチは選手に飽きさせないよう、継続してやらせることが役目。
そこで、「打撃コーチはアイデアマンであれ」というポリシーが生まれました。

秋と春のキャンプで毎年同じような練習メニューを消化するのではなく、常識にとらわれないユニークなことをすると、選手は飛びついてくるのです。

たとえば数年前、スキューバダイビングでつける重りを腰に巻いて打撃練習をさせたこともあります。
身体の軸を作るために体重よりさらに負荷を10㎏近くかけて練習させたのです。
堂林はこの練習で、腰にキレが出て、スイングスピードが増したはずです。

コーチになって3年目の'85年に入団した正田には、私のほうが指導者として、勉強させてもらいました。
彼が入団した時のカープは強く、メンバーも不動。
内野に高橋慶彦、山崎隆造、外野に山本浩二さんがいた。
外国人がいたセカンドの定位置を狙う正田が「どうしたら試合に出られますか」と聞いてきたので、高橋や山崎に続き、スイッチヒッターへの挑戦をすすめました。元々右打者なので、左打ちの特訓です。

「バットを抱いて寝るぐらいじゃないと成功しないぞ」

そう発破をかけ、毎朝9時から500球打たせました。
さらに、マウンドからホームベースまで18・44mの約半分の位置に立たせ、打撃マシンの剛速球を打ち返す練習も課しました。

最初の1週間は当たっても、チップばかり。
それでも目が慣れると、少しずつ前に飛ぶようになる。
ボールをヒットするため、バットを最短距離で出すすべを体で自然に覚えるのです。
2年後の'87年から2年連続首位打者。
スイッチヒッターでの首位打者は正田がプロ野球史上初めてでした。
決して器用ではなかった正田が、振って、振って技術をつかんで得た栄冠は、指導者として駆け出しだった私にも自信になりました。》

◆崖を背にした男の意地
《私の自宅も、ある時から練習場に変わりました。
秋季キャンプを終え、12月から翌年の1月はどの球団も全体練習ができなかった。
この間、若手を遊ばせてしまうとレギュラーとの差は縮まらない。
そこで、自主練習を望む選手のために、新築した自宅の駐車場にネットを張り、若手が練習できる環境を整えました。ただ、朝早くから住宅街にボールを打つ音がカンカン響くので、近所迷惑になる。
家内が菓子折りを持ってお詫びに回っていました。

その時、熱心に通って来たのが緒方(孝市)。
カープの新監督です。
当時はまだ一、二軍を行ったり来たりの選手でしたが、朝から昼までティー打撃をして、我が家で昼飯も食べ、午後はジムで筋力トレーニングです。
後に聞いた話ですが、当時、緒方は母親を亡くして間もない頃で、何か心に期するものがあったようです。

緒方は本当に無口で、家内も「あんな口数の少ない、線の細い子がプロでやっていけるかしら」と心配していました。 でもその後すぐに一軍に昇格して、翌年にはレギュラーに定着。
家内の心配も、杞憂に終わりました。

我が家の即席練習場に通ってきた若手の中に、金本もいました。
金本がまだ二軍の頃、広島は遠征費用を抑えるため、野手の何人かを残留させていました。
留守番をさせられた金本は、よほど悔しかったのでしょう。
私が冗談半分に「残留組は毎日1000回素振りをすべし」と言ったのを真に受け、毎日1000回素振りをしていたそうです。
付き添ったコーチから聞いたので間違いありません。
言いつけを守ったのは金本だけだったのではないかと思います。

その金本が阪神に移籍後、'03年に4番に座った新井貴浩にも、最初は苦労しました。
金本不在が精神的に影響したのか、打撃不振に陥り、打率・236、19本塁打と成績がガクンと落ちました。
当時26歳だった新井の将来性を見込んで辛抱強く起用した山本浩二監督は、新井と私を監督室に呼び、「オレも27歳からブレイクしたから」と励ましてくれました。

本拠地でのナイターの試合日は、真夏の灼熱の太陽が照りつけても、昼前から新井と特打を繰り返し、2年後の'05年に打率3割超え、本塁打王(43本)を取らせることができました。

一度は戦力外になりながら、はいあがったのが嶋重宣です。
'95年に投手として入団し、'99年から野手に転向。
しかし'03年までの5年間はレギュラーに定着できなかった。
当時、彼は内角球を苦手にし、腰痛の持病も抱えていました。
他のコーチたちは、先入観で「嶋はもう厳しい」と見ていました。

'02年まで巨人の打撃コーチだった私は、嶋をじかに見るのは'03年秋が初めてでした。
秋季練習で嶋と、成長が期待された若手を比べた時に、双方にはまだ力の差があった。
「嶋はまだやれる」と感じました。

しばらくして、嶋のトレードを画策していた球団から
「嶋を獲得する球団がない。解雇する予定だ」
と聞かされ、嶋の処遇について意見を求められました。
私はそこで「もう1年、嶋を置いてもらえないか」と、残留を懇願したのです。

この話し合いの後、嶋にはこう告げました。

「もう失うものはない。来年1年だけだ。
腰が壊れたら壊れたで終わるぐらいの気持ちで目一杯やってみろ。
俺は、お前の体調なんか気にせず、バットもどんどん振らせるぞ」

打撃コーチはいかに選手にいい癖をつけるかが大事。
嶋の悪い癖は、身体の開きが早く、内角の球を踏み込んで打てないこと。
二軍で3割打てても、一軍ではまったくのお手上げでした。
投手出身で、打者としての土台が出来ていない面もありました。
ティー打撃の時も打者にとって斜め前方ではなく、真横から投げたり、内角に緩いカーブを投げてファウルにしないように打たせることを繰り返しました。
断崖を背にした嶋の覚悟は、こちらにもひしひしと伝わってきました。

秋季練習から、翌年のキャンプでも好調をキープしましたが、オープン戦終盤2試合で続けて無安打に終わり、とうとう控えに回されました。
レギュラーを一度外され、他の選手に譲ってしまうと、出場機会を取り戻すのは難しい。
でもこの時は、先発として出場を予定していた選手たちが、相次いで負傷してしまったのです。

嶋自身が一番考えていなかった形で出場の機会を得たその試合で3安打と固め打ちし、念願のレギュラーを確保。
シーズン開幕3試合目に、中日のエース川上憲伸から本塁打も放ち、そこからとんとん拍子です。
結局、その年に首位打者を獲得しました。
シーズン終了後、球団幹部から「内田さんのアドバイスを聞いて良かった」とお褒めの言葉を頂きましたが、同時に選手への先入観がいかに恐ろしいものか、痛感しました。

最近のカープは丸や菊池、堂林といった若手の台頭が目立ちます。
これは野村前監督が、リスクを背負う覚悟を決めて、ファームから上がってきた選手をすぐに起用してくれたから。

二軍で指導する私たちがいくら「この選手はいいですよ」と推薦しても、一軍で試合に出場しなければ絶対に伸びない。

ある日、監督室を訪れると、黒板にレギュラーだけでなく、ファームの選手のその日の成績や内容がほぼリアルタイムで記されていました。
野村監督は、そうやってすべての選手の好不調を把握していたのです。
これは、なかなかできるものじゃない。
一軍の監督は目の前の試合で勝つことに頭がいっぱいですからね。

◆燃えたぎる闘争心の赤
セカンドに定着した菊池は無名の中京学院大出身ですが、攻守に見せる鋭い身のこなしは忍者そのもの。
これは天性のもので、ぜひ活かしてあげたいと思っていた。
野村監督も、菊池に迷わずチャンスを与え、才能が開花しました。

丸は打撃センスが際立っている。
その証拠に、孤高の天才と言われ、'13年シーズン後に引退した前田智徳が「それじゃダメだよ」などと言いながら、丸に声をかけていた。
前田はめったにほかの選手に話しかけない。丸の中にある将来性を見た、ということです。

隙を見て走る積極性も磨き、'13年には盗塁王にも輝いた。
まだまだ楽しみな選手です。

広島に最初に来てから37年。
日本ハムからのトレードが決まった直後、当時の古葉竹識監督から「代打稼業が中心になるかもしれないが、期待しているから、頑張ってほしい」と自宅に直接電話をもらい、意気に感じました。
入団2年目の'78年も首位ヤクルトに5ゲーム差の3位に終わったのに、チームで海外旅行に行き、同行した当時の松田耕平オーナー(故人)から家内ともども声をかけていただいた。

家族的な雰囲気を大切にし、FAで新天地を求めた選手以外は、在籍選手を簡単には交換トレードに出さないし、見捨てない。
実績のある大卒、社会人選手を早めに抜擢し、そのかわりに未熟な高卒選手をじっくり育てる。
私はカープで、指導者の基礎を学びました。

カープは市民球団だけに資金は限られています。
現在のマツダスタジアムが建設された時も、財政面がネックになりましたが、広島各地に置かれた「たる募金」で約1億2000万円が集まり、同スタジアム建設に一役買いました。

おカネがなくても、選手の素材に恵まれなくても、乗り越える原動力となったのは、市民のカープ愛です。
赤ヘルは、選手の燃えたぎる闘争心の象徴。私は広島で培った熱きハートを巨人の選手にもぶつけます。

「週刊現代」2014年11月15日号より


阪神幹部認めた 内田広島2軍監督入閣検討

日刊スポーツ 2014年9月24日
阪神が来季のコーチとして、今季限りで広島2軍監督を退任する内田順三氏(67)の入閣を検討していることが23日、分かった。
和田豊監督(52)の続投が厳しい状況に陥っているなかでヘッドコーチ格と打撃部門をてこ入れする方向だ。
情熱的な指導に定評がある同氏を若虎育成の指南役としてリストアップしている。

球団幹部が「候補の1人です」と認めた。
大打者を何人も育て上げた名伯楽が、打撃強化の切り札になるかもしれない。
経験豊富な指導手腕は球界でも定評があり、広島、巨人で主に打撃コーチとして活躍した。
巨人では長嶋監督が指揮していた94年から打撃コーチを務め、のちに大打者に育った松井秀喜(元ヤンキース)の若き日に指導を施した。
清原ら主力の相談役としても選手の信頼が厚かった。
阿部のルーキー時にも接するなど、スラッガー育成で力量を発揮。
広島でも金本や緒方らを鍛え上げ、打撃強化の実績は群を抜く。

阪神は近年、生え抜きの若手育成が急務だ。
ウエスタン・リーグの打撃成績上位にも阪神勢は不在。
北條の打率2割5分3厘が最高で中谷、一二三らも伸び悩む。
一方、6本塁打のルーキー横田など伸び盛りの逸材に磨きもかけたい。

67歳の内田氏だが、体力面での支障はない。現役から45年間、ユニホームを着続け、情熱は冷めない。
巨人、広島の強力打線を築いた名指導者が阪神入りする可能性が出てきた。

◆内田順三(うちだ・じゅんぞう)
1947年(昭22)9月10日、静岡県生まれ。
東海大一から駒大。
13年間の現役生活はヤクルト、日本ハム、広島で主に外野手としてプレーし、計950試合出場で打率2割5分2厘、25本塁打。
82年に現役引退後、83年に指導者に転身。
広島、巨人で打撃コーチを務め、12年に広島2軍監督に就任。
177センチ、75キロ、左投げ左打ち。


CS直前に巨人が広島と阪神にコーチ人事で先制攻撃

2014年10月16日 『週刊実話』

これも、クライマックスシリーズ(以下=CS)に向けての陽動作戦か…。

ペナントレース優勝によってCSファイナルステージで1勝分のアドバンテージを持つ巨人が10月2日、内田順三前広島二軍監督(67)の来季コーチ入閣を発表した。

広島はもちろんだが、阪神もこの一報を聞くなり、地団太を踏むような思いに駆られたという。

「阪神も内田氏の招聘に動いていました。
広島経営陣は他球団が動いているのを知っていましたが、『こんなに早くか!?』という心境です」
(球界関係者)

内田氏は
「わたしは打撃コーチ。二軍監督ではない」
というセリフを残し、広島を去った。
ウエスタンリーグ全日程終了の報告のため、9月24日に松田元広島カープオーナーを訪ね、その際に辞表を提出した。
二軍監督の職が不向きだというのが表向きの理由だが、内田氏が同職に着任したのは2012年。
他に何か事情があったと見るべきだろう。

「巨人が無理矢理に引き抜いた形跡は見られません。
年齢的理由? 肉体的に指導が辛くなったのなら、巨人に再就職しないはずです」(同)

自身でも打撃コーチ向きと言うように、同氏の指導には定評がある。
1983年に初めて二軍打撃補佐のコーチ職に就き、以後は一軍担当、二軍と部署を変えたが、小早川毅彦、江藤智、前田智徳、金本知憲らの育成に尽力。
巨人でも松井秀喜、高橋由伸、仁志敏久などを一人前に育て上げた。
広島が二軍監督職を託したのは、その実績を評価しての昇格でもあった。

「キクマルコンビ(菊池涼介と丸佳浩)も内田氏に学んだと言っていい。
野村謙二郎監督も内田コーチの教え子の一人なんです。
でも、野村監督が最も信頼を寄せているのは畝龍実投手兼分析コーチ。
畝コーチも選手からの信頼が厚く、“分析”という肩書を持ったのは、打撃部門への関与も認められてのことでした」(同)

畝コーチには独自の理論がある。
打撃ゲージの上空部分にカメラを設置し、バット軌道を確認しながらアドバイスを送るなどし、その効果も高かった。
だが、職人肌の内田コーチとは合わなかったようだ。
教え子がチームを指揮している現状もあり、「広島での仕事は終えた」と感じたのだろう。
そこで退団を選択したのである。

「阪神は来季の一軍監督がどうなるか分からない状況だったため、きちんとしたオファーが出せなかったんです」
(ベテラン記者)

「内田氏をさらわれた」という思いは阪神の方が強そうだ。
ウエスタンリーグの日程が終わっても、秋季教育リーグ、練習試合など公式日程は終わっていない。
当面は水本勝己二軍バッテリーコーチが代行統括するが、チームへの動揺は隠せないだろう。

「内田氏は駒沢大OBですが、東海大一校の出身でもあるんです」
(前出記者)

CSで争う阪神と広島に、思わぬところからダメージを与えた巨人。
原監督の東海大派閥はいろんな状況や場面でも万能ということか。




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