転載元
miyamoto kids' clinic
■日本一の名監督(03年時点)
はたして日本一の名監督は誰なんでしょう。
これはそれぞれのひいきチームがあり、また各チームの1回1回の優勝にはそれぞれドラマがあり、単純には決めにくいところですが、独断と偏見で決めたいと思います。
阪神ファンの私としてはごくごく単純に85年の吉田義男と03年の星野仙一以外にいないと断言したいところですが、これでは話にならないので、少しだけ冷静になって評価をして見ます。
まずまず名監督の条件なんですが、何はともあれ優勝監督であるのは最低条件だと考えます。
そうなると広島や西武などで育成の腕を振るった根本陸男は落選となりますが、「日本一」ともなるといたしかたないでしょう。
まずまず優勝回数の面から見てみましょう。
優勝回数
11 鶴岡一人、川上哲治
9 水原茂
8 西本幸雄、森祇晶、藤本定義
6 三原脩
5 上田利治、野村克也、長嶋茂雄
4 古葉竹識、藤田元司、王貞治、広岡達朗
3 星野仙一、仰木彬
2 石本秀一、東尾修
また優勝するのも難しいですが連続となると困難を極めます。
連続優勝 名前
9 川上哲治
5 水原茂、森祇晶
4 上田利治、藤本定義
3 鶴岡一人(2)、水原茂、三原脩、西本幸雄、森祇晶
2 石本秀一、西本幸雄(2)、長嶋茂雄、古葉竹識、藤田元司、仰木彬、野村克也、東尾修
これだけを並べると断然9連覇の川上哲治が抜き出ています。
日本シリーズの優勝も無敗の11回を数え、巨人が真に球界の盟主であり王者であった頃のものすごい成績を物語っています。
もちろん日本球界が生んだ不世出のスーパースターである長嶋茂雄と王貞治がほぼ同時に全盛期を迎え、大きな故障に悩まされること無く間断なく働いてくれたこと、それと今もあまり変わりませんが、親会社のあくどいほどの全面バックアップがあったにしろです。
ただしこれで結論ではおもしろくも何もありません。
プロ野球はとてつもない巨額な資金があれば強いチームを作ることが可能です。
巨人が常に強いのは巨額な資金のおかげですし、海の向こうのヤンキースも同様です。
西武やダイエーも同様の手法でパ・リーグの覇権を長年にわたって競っています。
今年の阪神もある意味同じことをやったといえます。
もちろんその手法を必ずしも否定するわけではありませんし、かきあつめたスターを有効に使いこなす手腕が監督には必要です。
(長嶋茂雄はあれだけバックアップされても第2期政権時代1度も連覇できなかった。)
9連覇の偉業をけなすわけではありませんが、これだけがすべてであるならロマンがなさ過ぎます。
私は名監督の条件にもうひとつ重要なファクターをかけたいと思います。
たしかにできあがったチームを十全につかいこなすのも大変な手腕ですが、弱小チームを一から育て上げて強豪チームに仕立て上げる事こそ名監督の条件ではないかと思います。
そこで複数の球団を優勝に導いた監督をリストアップしたいと思います。
優勝球団名
3 三原脩 巨人(49年)、西鉄(54,56,57,58)、大洋(60年)
3 西本幸雄 大毎(60年)、阪急(67,68,69,71,72年)、近鉄(79,80年)
2 水原茂 巨人(51,52,53,55,56,57,58,59年)、東映(62年)
2 藤本定義 巨人(36,39,40,41,42,43年)、阪神(62,64年)
2 広岡達朗 ヤクルト(78年)、西武(82,83,85年)
2 野村克也 南海(73)、ヤクルト(92,93,95,97年)
2 仰木彬 近鉄(89年)、オリックス(95,96年)
2 王貞治 巨人(87年)、ダイエー(99,00,03年)
2 星野仙一 中日(88,99)、阪神(03)
複数の球団を優勝させることがいかに困難かが表されています。
阪急の全盛時代を謳歌した上田利治も日本ハムでは成功していません。
弱小広島を黄金時代に導いた古葉竹識も横浜では失敗しました。
無敵の西武を率いた森祇晶も同じく横浜で惨憺たる成績で解任されています。
また複数球団の優勝を成功させた監督のうちでも野村克也は阪神で大失敗をしましたし、知将として名高い三原脩でさえ近鉄をついに優勝に導けず、また最後のヤクルトでの成績は振るわないものでした。
水原茂も最後の中日では思うような成績を上げていません。
藤本定義に関しては古すぎて正しい評価をしにくいので、また後日書くことがあるかもしれません。
監督として就任した球団をすべて優勝に導いた監督は西本幸雄、広岡達郎、仰木彬、王貞治、星野仙一の5人ですが実績を比較すると西本幸雄がダントツです。
内容も濃く、優勝回数8回(歴代3位)、連続優勝3回(3連覇1回、2連覇2回)、とくに連続優勝が3回もあるのは西本だけでさらに複数球団で連続優勝を記録しているのも西本だけです。
管理野球で有名な広岡達朗も、ヤクルトはともかく西武では親会社の強力な支援があったのは間違いない事実ですし、
王貞治もどれだけの投資がダイエーからされたは周知のことですし、
星野仙一もまた中日時代は中日グループあげての支援があり、阪神でもシブチンで有名な親会社が驚天動地の大型支援を行っています。
仰木彬もすばらしい業績を上げていますが、後述しますが西本と比べると評価は辛いものになります。
西本幸雄が最初に監督をしたのは大毎オリオンズ、現在の千葉ロッテマリーンズの前身球団です。
どれぐらいの強さの球団であったか、さすがに大昔過ぎて私も知りません。
資料で見るしかしかたがないので、就任(60年)までの5年間の成績を記しておきます。
55年・・・85勝55敗2分(3位)
56年・・・84勝46敗4分(4位)
57年・・・75勝52敗5分(3位)
58年・・・62勝63敗5分(4位)
59年・・・82勝48敗6分(2位)
そこそこ強かったようで、就任前年などはかなりの成績(優勝は南海・・・88勝42敗4分、杉浦忠が38勝もしている!!)ですが、当時のパ・リーグの勢力分布は西鉄・南海の2強時代で、ちょうどその次ぐらいの強さのようです。
今ならダイエー・西武・近鉄につづく日本ハムぐらいの感じですかね。
大毎自体もそのさらに前身の毎日オリオンズ時代の50年に優勝したきりのチームですから、やっぱり日本ハムと言う雰囲気です。
それが就任1年目でいきなり優勝。
実はこの1年で大毎を辞任しているのですが、辞任理由はあまりにも有名なエピソードがあります。
日本シリーズ戦前の予想ではミサイル打線をようする大毎が圧倒的に優勢だったのですが、結果は4連敗で敗退。
怒った永田雅一オーナー(永田ラッパと呼ばれた名物オーナー、今なら巨人の渡辺オーナーみたいな感じ)に監督采配を非難され大喧嘩、結局就任1年目で優勝即解任と言う前代未聞の騒動になりました。
西本と言えば悲運の闘将がピッタリくる監督ですが、その前兆は順風満帆と思われた監督生活1年目から吹き荒れています。
その後63年(S.38)阪急監督に就任。
掛け値なしで弱小の名がふさわしい球団でした。
これも西本就任前の5年間の成績を示します。
58年・・・73勝51敗6分(3位)
59年・・・48勝82敗5分(5位)
60年・・・65勝65敗6分(4位)
61年・・・53勝84敗3分(5位)
62年・・・60勝70敗1分(5位)
とくに59年や61年はあんな成績でどうして最下位でないのか念のために調べてみたら、
59年近鉄39勝91敗3分、
61年近鉄36勝103敗1分と
ダントツどん尻チームがいたので5位と言う程度のチームです。
当時阪急は灰色と呼ばれるチームカラーのくすんだ弱小球団。
これを西本がほとんど一から育て上げて日本球界史上屈指の強豪にするのですが、優勝するまでに5年の歳月を要しています。
それもその間の成績はお世辞にも良いとは言いにくく、阪急首脳もよくそれだけ我慢したなと驚くほどです。
優勝までの4年間の成績ですが、
63年・・・57勝92敗1分(6位)
64年・・・79勝65敗6分(2位)
65年・・・67勝71敗2分(4位)
66年・・・57勝73敗4分(5位)
いつの年か資料が出てこないので書けませんが、キャンプの時に低迷する成績に悩んだ西本は選手に信任投票させるという前代未聞の事をさせました。
その時に1票だけ不信任票があるのを見つけたとき、「辞任する!」で大騒ぎになるという事件も引き起こしています。
その騒動も乗り越え阪急は強豪チームに生まれ変わりました。
その後7年間のうちに5度の優勝、73年に辞任し上田利治に引き継がれましたが、上田阪急も4連覇を含む5度の優勝を阪急は成し遂げています。
ただ西本は悲運でした。
プロ野球界は王・長島をようする川上巨人が9連覇の真っ最中、5度の日本シリーズでついに巨人には一矢も報えなかったのです。
阪急辞任後、これもまた「パ・リーグのお荷物」とまで酷評された近鉄監督に74年(S.49)就任します。
ここの弱小ぶりは阪急以上にひどかったようで、当時の西本の心境として次のように書かれています。
「このチームはブレーブスとは少し違う・・・
ブレーブスの時はブルドーザーで一気に整地していけば良かった。
荒涼地に落ちこぼれていく者は放っておいても、まともに整地する方が先だった。
・・・
しかしバファローズは違う。
整地しながら横にこぼれる石ころも土もひとつひとつ拾いあげて行かなければならない。」
阪急の時よりさらにきびしい条件の中で近鉄を育て上げます。
優勝までの道のりは阪急時代をさらに上回る6年を要しました。
優勝までの5年間の成績です。
74年・・・56勝66敗8分(5位)
75年・・・71勝50敗9分(2位)
76年・・・57勝76敗7分(4位)
77年・・・59勝61敗10分(4位)
78年・・・71勝46敗13分(2位)
当時は西本の後を継いだ上田阪急の黄金時代、コテンパンに叩きのめされながらようやく力をつけ79、80年の連覇を成し遂げます。
日本シリーズを争ったのは最強のストッパー江夏がいた全盛時代の広島カープ。
伝説の「江夏の21球」の前に苦杯を喫することになりますが、あの「灰色阪急」同様にあの「お荷物近鉄」をリーグを代表する強豪チームについに育て上げ、その遺産は今も脈々と近鉄の中に引き継がれているといっても過言ではありません。
ところで西本が育て上げたチームには西本カラーといってよい特徴があります。
簡単に言うとごついおっさんがずらっと並んでいるチームと言った感じです。
当時パ・リーグはあまりにも地味だったのでわかりにくいところですが、強かった頃の広島に雰囲気が似ていると言ってもよいと思っています。
今なら阪神で活躍した金本みたいな選手が1番から9番まで並んでいると言う感じで間違いないとも思います。
さらにそのごっついおっさん連中を手取り足取り育て上げたのが西本です。
仰木彬の評価が少し辛いのはこの点を比較してです。
仰木彬は「仰木マジック」と呼ばれる巧みな手腕で現有選手を短期間で鼓舞して成績を上げます。
この手法はかつて三原脩が
「劣等感を持つ選手達に暗示を掛け、力以上のモノを引き出す」
ことで三原魔術とよばれたものの延長線上で、仰木自信も「師匠は三原監督です」と言っています。
ただマジックで強くなったチームは本当の地力が必ずしもついたわけではなく、魔術師が去ると魔法が解け元の弱小チームに戻ってしまう事がしばしばおこります。
ちょうど博覧会のパビリオンみたいなもので、短期間で建設され、見た目は華やかですが、博覧会が終わるとすぐに壊されてしまう建物のようです。
古くは三原大洋がそうでしたし、最近では仰木オリックスがそうではないでしょうか。
一方で西本が育てた阪急、近鉄は荒地を切り開き、整地を行い、入念に土台つくりを行ったうえで、職人肌の大工が柱の1本1本まで丹念に仕上げた大建築と言っても良いと思います。
だから西本が辞任してもチーム力は落ちるわけではなく、上田阪急が良い例ですが適切な指導者に引き継ぎさえすれば西本時代とかわらぬ強さを発揮することになります。
阪急や近鉄が優勝するまでの5年間、6年間は魔術師タイプの監督であったらとうに成果をあげて辞任するぐらいのサイクルですが、後任監督は華々しい成績は収めているものの内情はボロボロになったチームを引き継ぐことになります。
ところが西本の流儀は時間はかかりますがいったん完成させれば無敵のチームになり、たとえ西本が去っても強豪チームにかげりを生じさせません。
ところで西本幸雄は監督としてかなりおっかない人だったようです。
いい意味で熱血漢なんでしょうが、練習中・試合中を含めいつも無愛想な顔であったようです。
星野仙一の鉄拳制裁は有名ですが、西本のは鉄拳制裁が日常過ぎるぐらいで選手の間で話題にもならなくなったてな話も残っています。
采配も選手をうまくおだててのせていく様なマジシャン的手法とは無縁で、ひたすら自分が鍛え上げた選手を信頼し、真正面からぶち砕くといったものでした。
正攻法で勝ち抜くためには必然的に分厚い選手層の鍛錬が必要になり、いったん強くなると長期の黄金時代を招きよせる事が容易になります。
西本阪急はついに川上巨人に日本シリーズで勝てませんでした。
しかし当時の阪急を評して
「もしペナントレースを行えば最強のチームである。
それはV9巨人でもかなわない」
と言った人がいます、
私もそう思います。
それと日本シリーズで西本が勝てなかったのは最後まで真のスーパースターに恵まれなかったためではないでしょうか。
スターならいました。
「世界の盗塁王」福本豊、
「史上最強のサブマリン」山田久志、
「ガソリンタンク」米田哲也、
「草根」鈴木啓示、
「赤鬼」チャーリー・マニエル・・・
ただし相手には日本球界が生んだ伝説的なスーパースター、この先も出現するかどうか分からない真の天才選手である王貞治、長嶋茂雄、江夏豊が最後まで立ち塞がりました。
西本阪急のラインナップ、
1番福本
2番大熊
3番加藤秀
4番長池
5番森本
6番住友
7番大橋
8番岡村
もそうですし、
西本近鉄のラインナップ、
1番平野
2番小川
3番佐々木
4番マニエル
5番栗橋
6番アーノルド
7番羽田
8番梨田
9番石渡
なんてのも本当に地味なメンバーで、今時のFAみたいな派手な補強ではなく、ドラフトでなんとか拾ってきた(今以上にパ・リーグは嫌われ、とくに近鉄は嫌がられた)選手をひたすら鍛え上げて一級品にしていますので、ここに王・長島クラスのスーパースターが一人でもいれば巨人の9連覇なんて(日本シリーズで!)絶対にありえなかったと言えます。
日本シリーズで勝てなかったことで西本幸雄の評価を下げる人もいます。
「もし」が許されるなら、西本幸雄が巨人を指揮していたなら川上哲治同様に9連覇をしていたかもしれませんが、川上哲治が阪急や近鉄の指揮をとっても逆立ちしても優勝は無理でしょう。
どうしようもないぐらいの弱小チームを2つも真の強豪チームに作り変えた西本幸雄こそが、「闘将」や「悲運の名将」なんていう低い評価ではなく、間違いなく「日本一の名監督」であると断言します。
miyamoto kids' clinic
■日本一の名監督(03年時点)
はたして日本一の名監督は誰なんでしょう。
これはそれぞれのひいきチームがあり、また各チームの1回1回の優勝にはそれぞれドラマがあり、単純には決めにくいところですが、独断と偏見で決めたいと思います。
阪神ファンの私としてはごくごく単純に85年の吉田義男と03年の星野仙一以外にいないと断言したいところですが、これでは話にならないので、少しだけ冷静になって評価をして見ます。
まずまず名監督の条件なんですが、何はともあれ優勝監督であるのは最低条件だと考えます。
そうなると広島や西武などで育成の腕を振るった根本陸男は落選となりますが、「日本一」ともなるといたしかたないでしょう。
まずまず優勝回数の面から見てみましょう。
優勝回数
11 鶴岡一人、川上哲治
9 水原茂
8 西本幸雄、森祇晶、藤本定義
6 三原脩
5 上田利治、野村克也、長嶋茂雄
4 古葉竹識、藤田元司、王貞治、広岡達朗
3 星野仙一、仰木彬
2 石本秀一、東尾修
また優勝するのも難しいですが連続となると困難を極めます。
連続優勝 名前
9 川上哲治
5 水原茂、森祇晶
4 上田利治、藤本定義
3 鶴岡一人(2)、水原茂、三原脩、西本幸雄、森祇晶
2 石本秀一、西本幸雄(2)、長嶋茂雄、古葉竹識、藤田元司、仰木彬、野村克也、東尾修
これだけを並べると断然9連覇の川上哲治が抜き出ています。
日本シリーズの優勝も無敗の11回を数え、巨人が真に球界の盟主であり王者であった頃のものすごい成績を物語っています。
もちろん日本球界が生んだ不世出のスーパースターである長嶋茂雄と王貞治がほぼ同時に全盛期を迎え、大きな故障に悩まされること無く間断なく働いてくれたこと、それと今もあまり変わりませんが、親会社のあくどいほどの全面バックアップがあったにしろです。
ただしこれで結論ではおもしろくも何もありません。
プロ野球はとてつもない巨額な資金があれば強いチームを作ることが可能です。
巨人が常に強いのは巨額な資金のおかげですし、海の向こうのヤンキースも同様です。
西武やダイエーも同様の手法でパ・リーグの覇権を長年にわたって競っています。
今年の阪神もある意味同じことをやったといえます。
もちろんその手法を必ずしも否定するわけではありませんし、かきあつめたスターを有効に使いこなす手腕が監督には必要です。
(長嶋茂雄はあれだけバックアップされても第2期政権時代1度も連覇できなかった。)
9連覇の偉業をけなすわけではありませんが、これだけがすべてであるならロマンがなさ過ぎます。
私は名監督の条件にもうひとつ重要なファクターをかけたいと思います。
たしかにできあがったチームを十全につかいこなすのも大変な手腕ですが、弱小チームを一から育て上げて強豪チームに仕立て上げる事こそ名監督の条件ではないかと思います。
そこで複数の球団を優勝に導いた監督をリストアップしたいと思います。
優勝球団名
3 三原脩 巨人(49年)、西鉄(54,56,57,58)、大洋(60年)
3 西本幸雄 大毎(60年)、阪急(67,68,69,71,72年)、近鉄(79,80年)
2 水原茂 巨人(51,52,53,55,56,57,58,59年)、東映(62年)
2 藤本定義 巨人(36,39,40,41,42,43年)、阪神(62,64年)
2 広岡達朗 ヤクルト(78年)、西武(82,83,85年)
2 野村克也 南海(73)、ヤクルト(92,93,95,97年)
2 仰木彬 近鉄(89年)、オリックス(95,96年)
2 王貞治 巨人(87年)、ダイエー(99,00,03年)
2 星野仙一 中日(88,99)、阪神(03)
複数の球団を優勝させることがいかに困難かが表されています。
阪急の全盛時代を謳歌した上田利治も日本ハムでは成功していません。
弱小広島を黄金時代に導いた古葉竹識も横浜では失敗しました。
無敵の西武を率いた森祇晶も同じく横浜で惨憺たる成績で解任されています。
また複数球団の優勝を成功させた監督のうちでも野村克也は阪神で大失敗をしましたし、知将として名高い三原脩でさえ近鉄をついに優勝に導けず、また最後のヤクルトでの成績は振るわないものでした。
水原茂も最後の中日では思うような成績を上げていません。
藤本定義に関しては古すぎて正しい評価をしにくいので、また後日書くことがあるかもしれません。
監督として就任した球団をすべて優勝に導いた監督は西本幸雄、広岡達郎、仰木彬、王貞治、星野仙一の5人ですが実績を比較すると西本幸雄がダントツです。
内容も濃く、優勝回数8回(歴代3位)、連続優勝3回(3連覇1回、2連覇2回)、とくに連続優勝が3回もあるのは西本だけでさらに複数球団で連続優勝を記録しているのも西本だけです。
管理野球で有名な広岡達朗も、ヤクルトはともかく西武では親会社の強力な支援があったのは間違いない事実ですし、
王貞治もどれだけの投資がダイエーからされたは周知のことですし、
星野仙一もまた中日時代は中日グループあげての支援があり、阪神でもシブチンで有名な親会社が驚天動地の大型支援を行っています。
仰木彬もすばらしい業績を上げていますが、後述しますが西本と比べると評価は辛いものになります。
西本幸雄が最初に監督をしたのは大毎オリオンズ、現在の千葉ロッテマリーンズの前身球団です。
どれぐらいの強さの球団であったか、さすがに大昔過ぎて私も知りません。
資料で見るしかしかたがないので、就任(60年)までの5年間の成績を記しておきます。
55年・・・85勝55敗2分(3位)
56年・・・84勝46敗4分(4位)
57年・・・75勝52敗5分(3位)
58年・・・62勝63敗5分(4位)
59年・・・82勝48敗6分(2位)
そこそこ強かったようで、就任前年などはかなりの成績(優勝は南海・・・88勝42敗4分、杉浦忠が38勝もしている!!)ですが、当時のパ・リーグの勢力分布は西鉄・南海の2強時代で、ちょうどその次ぐらいの強さのようです。
今ならダイエー・西武・近鉄につづく日本ハムぐらいの感じですかね。
大毎自体もそのさらに前身の毎日オリオンズ時代の50年に優勝したきりのチームですから、やっぱり日本ハムと言う雰囲気です。
それが就任1年目でいきなり優勝。
実はこの1年で大毎を辞任しているのですが、辞任理由はあまりにも有名なエピソードがあります。
日本シリーズ戦前の予想ではミサイル打線をようする大毎が圧倒的に優勢だったのですが、結果は4連敗で敗退。
怒った永田雅一オーナー(永田ラッパと呼ばれた名物オーナー、今なら巨人の渡辺オーナーみたいな感じ)に監督采配を非難され大喧嘩、結局就任1年目で優勝即解任と言う前代未聞の騒動になりました。
西本と言えば悲運の闘将がピッタリくる監督ですが、その前兆は順風満帆と思われた監督生活1年目から吹き荒れています。
その後63年(S.38)阪急監督に就任。
掛け値なしで弱小の名がふさわしい球団でした。
これも西本就任前の5年間の成績を示します。
58年・・・73勝51敗6分(3位)
59年・・・48勝82敗5分(5位)
60年・・・65勝65敗6分(4位)
61年・・・53勝84敗3分(5位)
62年・・・60勝70敗1分(5位)
とくに59年や61年はあんな成績でどうして最下位でないのか念のために調べてみたら、
59年近鉄39勝91敗3分、
61年近鉄36勝103敗1分と
ダントツどん尻チームがいたので5位と言う程度のチームです。
当時阪急は灰色と呼ばれるチームカラーのくすんだ弱小球団。
これを西本がほとんど一から育て上げて日本球界史上屈指の強豪にするのですが、優勝するまでに5年の歳月を要しています。
それもその間の成績はお世辞にも良いとは言いにくく、阪急首脳もよくそれだけ我慢したなと驚くほどです。
優勝までの4年間の成績ですが、
63年・・・57勝92敗1分(6位)
64年・・・79勝65敗6分(2位)
65年・・・67勝71敗2分(4位)
66年・・・57勝73敗4分(5位)
いつの年か資料が出てこないので書けませんが、キャンプの時に低迷する成績に悩んだ西本は選手に信任投票させるという前代未聞の事をさせました。
その時に1票だけ不信任票があるのを見つけたとき、「辞任する!」で大騒ぎになるという事件も引き起こしています。
その騒動も乗り越え阪急は強豪チームに生まれ変わりました。
その後7年間のうちに5度の優勝、73年に辞任し上田利治に引き継がれましたが、上田阪急も4連覇を含む5度の優勝を阪急は成し遂げています。
ただ西本は悲運でした。
プロ野球界は王・長島をようする川上巨人が9連覇の真っ最中、5度の日本シリーズでついに巨人には一矢も報えなかったのです。
阪急辞任後、これもまた「パ・リーグのお荷物」とまで酷評された近鉄監督に74年(S.49)就任します。
ここの弱小ぶりは阪急以上にひどかったようで、当時の西本の心境として次のように書かれています。
「このチームはブレーブスとは少し違う・・・
ブレーブスの時はブルドーザーで一気に整地していけば良かった。
荒涼地に落ちこぼれていく者は放っておいても、まともに整地する方が先だった。
・・・
しかしバファローズは違う。
整地しながら横にこぼれる石ころも土もひとつひとつ拾いあげて行かなければならない。」
阪急の時よりさらにきびしい条件の中で近鉄を育て上げます。
優勝までの道のりは阪急時代をさらに上回る6年を要しました。
優勝までの5年間の成績です。
74年・・・56勝66敗8分(5位)
75年・・・71勝50敗9分(2位)
76年・・・57勝76敗7分(4位)
77年・・・59勝61敗10分(4位)
78年・・・71勝46敗13分(2位)
当時は西本の後を継いだ上田阪急の黄金時代、コテンパンに叩きのめされながらようやく力をつけ79、80年の連覇を成し遂げます。
日本シリーズを争ったのは最強のストッパー江夏がいた全盛時代の広島カープ。
伝説の「江夏の21球」の前に苦杯を喫することになりますが、あの「灰色阪急」同様にあの「お荷物近鉄」をリーグを代表する強豪チームについに育て上げ、その遺産は今も脈々と近鉄の中に引き継がれているといっても過言ではありません。
ところで西本が育て上げたチームには西本カラーといってよい特徴があります。
簡単に言うとごついおっさんがずらっと並んでいるチームと言った感じです。
当時パ・リーグはあまりにも地味だったのでわかりにくいところですが、強かった頃の広島に雰囲気が似ていると言ってもよいと思っています。
今なら阪神で活躍した金本みたいな選手が1番から9番まで並んでいると言う感じで間違いないとも思います。
さらにそのごっついおっさん連中を手取り足取り育て上げたのが西本です。
仰木彬の評価が少し辛いのはこの点を比較してです。
仰木彬は「仰木マジック」と呼ばれる巧みな手腕で現有選手を短期間で鼓舞して成績を上げます。
この手法はかつて三原脩が
「劣等感を持つ選手達に暗示を掛け、力以上のモノを引き出す」
ことで三原魔術とよばれたものの延長線上で、仰木自信も「師匠は三原監督です」と言っています。
ただマジックで強くなったチームは本当の地力が必ずしもついたわけではなく、魔術師が去ると魔法が解け元の弱小チームに戻ってしまう事がしばしばおこります。
ちょうど博覧会のパビリオンみたいなもので、短期間で建設され、見た目は華やかですが、博覧会が終わるとすぐに壊されてしまう建物のようです。
古くは三原大洋がそうでしたし、最近では仰木オリックスがそうではないでしょうか。
一方で西本が育てた阪急、近鉄は荒地を切り開き、整地を行い、入念に土台つくりを行ったうえで、職人肌の大工が柱の1本1本まで丹念に仕上げた大建築と言っても良いと思います。
だから西本が辞任してもチーム力は落ちるわけではなく、上田阪急が良い例ですが適切な指導者に引き継ぎさえすれば西本時代とかわらぬ強さを発揮することになります。
阪急や近鉄が優勝するまでの5年間、6年間は魔術師タイプの監督であったらとうに成果をあげて辞任するぐらいのサイクルですが、後任監督は華々しい成績は収めているものの内情はボロボロになったチームを引き継ぐことになります。
ところが西本の流儀は時間はかかりますがいったん完成させれば無敵のチームになり、たとえ西本が去っても強豪チームにかげりを生じさせません。
ところで西本幸雄は監督としてかなりおっかない人だったようです。
いい意味で熱血漢なんでしょうが、練習中・試合中を含めいつも無愛想な顔であったようです。
星野仙一の鉄拳制裁は有名ですが、西本のは鉄拳制裁が日常過ぎるぐらいで選手の間で話題にもならなくなったてな話も残っています。
采配も選手をうまくおだててのせていく様なマジシャン的手法とは無縁で、ひたすら自分が鍛え上げた選手を信頼し、真正面からぶち砕くといったものでした。
正攻法で勝ち抜くためには必然的に分厚い選手層の鍛錬が必要になり、いったん強くなると長期の黄金時代を招きよせる事が容易になります。
西本阪急はついに川上巨人に日本シリーズで勝てませんでした。
しかし当時の阪急を評して
「もしペナントレースを行えば最強のチームである。
それはV9巨人でもかなわない」
と言った人がいます、
私もそう思います。
それと日本シリーズで西本が勝てなかったのは最後まで真のスーパースターに恵まれなかったためではないでしょうか。
スターならいました。
「世界の盗塁王」福本豊、
「史上最強のサブマリン」山田久志、
「ガソリンタンク」米田哲也、
「草根」鈴木啓示、
「赤鬼」チャーリー・マニエル・・・
ただし相手には日本球界が生んだ伝説的なスーパースター、この先も出現するかどうか分からない真の天才選手である王貞治、長嶋茂雄、江夏豊が最後まで立ち塞がりました。
西本阪急のラインナップ、
1番福本
2番大熊
3番加藤秀
4番長池
5番森本
6番住友
7番大橋
8番岡村
もそうですし、
西本近鉄のラインナップ、
1番平野
2番小川
3番佐々木
4番マニエル
5番栗橋
6番アーノルド
7番羽田
8番梨田
9番石渡
なんてのも本当に地味なメンバーで、今時のFAみたいな派手な補強ではなく、ドラフトでなんとか拾ってきた(今以上にパ・リーグは嫌われ、とくに近鉄は嫌がられた)選手をひたすら鍛え上げて一級品にしていますので、ここに王・長島クラスのスーパースターが一人でもいれば巨人の9連覇なんて(日本シリーズで!)絶対にありえなかったと言えます。
日本シリーズで勝てなかったことで西本幸雄の評価を下げる人もいます。
「もし」が許されるなら、西本幸雄が巨人を指揮していたなら川上哲治同様に9連覇をしていたかもしれませんが、川上哲治が阪急や近鉄の指揮をとっても逆立ちしても優勝は無理でしょう。
どうしようもないぐらいの弱小チームを2つも真の強豪チームに作り変えた西本幸雄こそが、「闘将」や「悲運の名将」なんていう低い評価ではなく、間違いなく「日本一の名監督」であると断言します。