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【ノムラの記憶】江夏の21球

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【ノムラの記憶】江夏の21球(上)ノムさんが球史に残る名場面を語る
 

1979年の日本シリーズ第7戦。最後の打者、石渡(中央)を空振り三振に仕留めて万歳する江夏(背番号26)と水沼(中央)のバッテリー
1979年の日本シリーズ第7戦。最後の打者、石渡(中央)を空振り三振に仕留めて万歳する江夏(背番号26)と水沼(中央)のバッテリー【拡大】
 
 本紙専属評論家の野村克也氏(78)が球史に残る名場面を語る、「ノムラの記憶」を毎週土曜日にお届けします。1979年の日本シリーズ、広島のストッパー、江夏豊の伝説的なピッチング「江夏の21球」を、野村氏の視点で3回に分けて振り返る。南海兼任監督時代に阪神からトレードで獲得した江夏を守護神として再生した野村氏は、サンケイスポーツに評論を寄稿するために因縁の大阪球場に足を運び、この場面を見届けた。
 1979年の日本シリーズは、サンケイスポーツの評論のためにネット裏に座った私にとっても、感慨深いシリーズだった。近鉄の本拠地の日生球場、藤井寺球場を収容人数不足のため使えず、南海の大阪球場を借りて開催された。
 当時、私は西武で現役を続けていたが、77年までは南海の選手兼任監督だった。監督を解任されたのは、わずか2年前。その後もロッテ、西武の選手として大阪球場でプレーをしていたが、スーツ姿でネット裏から野球を見ることに、違和感を覚えたものだ。
 近鉄監督の西本幸雄さんには、南海を離れた後で「キミは間違っていない」と激励の手紙をいただいた。広島監督の古葉竹識は70年からの現役最後の2年間を南海で過ごし、その後2年間はコーチをしてもらい、73年の南海のリーグ優勝にも貢献してくれた。
 その古葉の広島で、ストッパーを務めていたのが、江夏豊だった。
 76年、江本孟紀らとの交換トレードで南海にやってきた江夏は、阪神を追い出されたようなものだった。かつての豪腕も、うなりを上げる速球を投げていた左腕の血行障害に苦しみ、50球も投げれば握力が落ちてしまう。私はウエートトレーニングを勧め、さらに「プロ野球に革命を起こしてみんか?」と抑えへの転向を促した。
 翌77年、私が監督を解任されると、数少ない味方になってくれた。大阪・豊中市の同じマンションに住んでいたこともあり、取材陣にマンションの出入り口を固められてしまい、江夏と柏原純一に裏から逃がしてもらったこともあった。
 江夏は「ワシは野村監督に拾われた人間や。監督がやめる以上、俺もとどまるわけにはいかん」と言い、古葉監督に請われて広島にトレードで移籍した。柏原も日本ハムにトレードされた。
 その江夏が11月4日のシリーズ最終第7戦、七回途中からリリーフに立ち、九回のマウンドを迎えた。4-3、1点リード。無念のトレードから2年、大阪球場で胴上げ投手になり、江夏自身にとっても初めての日本一の瞬間が近づいてきた。
 江夏はこの年、プロ13年目で31歳。ようやく苦労が報われる。その場に居合わせることに、感慨を抱いたのだ。

ところが、先頭の羽田への初球、簡単にシュートでカウントを取りにいったところを中前打された。この1球から、長く苦しい「江夏の21球」が幕を開けた。
 無死一塁で、代走に藤瀬。打者はアーノルド。2ボール1ストライクからの4球目、藤瀬は盗塁と捕手・水沼の悪送球で一気に三進。アーノルドは四球。続く平野の3球目にアーノルドの代走・吹石が二盗を決めると、平野を敬遠して、江夏はたった11球で、無死満塁のピンチを迎えた。
 今でも思い出すのは、この瞬間の西本さんの笑顔だ。キャッチャーの真後ろの記者席でスコアブックをつけながら、一塁ベンチを見た。西本監督が足を一歩踏み出して、笑っていた。土壇場でつかんだ、無死満塁のチャンス。『喜ぶのがちょっと早いんじゃないか』。気持ちは分かるが…。
 そしてここから、江夏の真骨頂のピッチングが始まった。次回は、投球術のすべてが詰まった「6球」を、詳細に評論したい。(本紙専属評論家)
 
江夏の21球
江夏の21球1979年11月4日、3勝3敗で迎えた近鉄-広島の日本シリーズ第7戦(大阪)。広島の抑え、江夏は4-3の七回途中に登板したが、九回に無死満塁のピンチを招いた。代打・佐々木から空振り三振を奪うと、続く石渡への2球目にスクイズを外し三走を挟殺。最後は石渡を空振り三振に仕留め、広島が初の日本一に輝いた。後にノンフィクション作家の故山際淳司が九回の投球に焦点を当てて取材。「江夏の21球」の題で雑誌に掲載し、注目された。
 
 

本紙専属評論家の野村克也氏(78)が球史に残る名場面を語る、「ノムラの記憶」を毎週土曜日にお届けします。今回は江夏の21球(中編)。1979年の日本シリーズ、第7戦は1点リードも、九回無死満塁の大ピンチ-。ここから、広島の守護神、江夏豊の快投が始まった。サンケイスポーツの評論のため、ネット裏から見つめた野村克也氏(当時西武捕手)は、近鉄・佐々木恭介への全6球に、一流の投球術の全てが詰まっていたと振り返る。その6球を、当時を知らない読者にもわかるように、改めて詳細に解説した。
西本監督は、確かに笑っていた。喜ぶのはまだ早いが、気持ちは分かる。近鉄ベンチの誰もが同じ思いだろう。1点を追う無死満塁。近鉄は、右打者の佐々木を代打に送った。こうした場面では、直後のバッターでケリをつけなければいけない。佐々木が決められるか、どうか-。
 江夏は、三塁側のブルペンで北別府と池谷が投球練習しているのを見て、カッカしていたのだという。古葉監督の立場からすれば、このピンチは江夏に託すほかない。だが延長戦になれば、七回途中から投げてきた江夏を続投させる考えはなかっただろう。だがその思いは、お山の大将の江夏には通じまい。
 佐々木は前年の1978年にパ・リーグの首位打者となった。78年はシーズン10犠飛も、リーグトップだった。「最低でも犠飛」の場面で、その確率の高い打者が代打要員に残っていた。近鉄にはツキもあった。
初球、内角低めへのカーブ。左腕の江夏が右打者への内角へ投げ込むカーブは、打ってもほとんどファウルになる。「稼ぎ球」である。佐々木は南海時代の江夏とも対戦経験があり、カーブは十分意識している。膝もとに投げ込まれても崩されることがなかった。甘いカーブを狙っている、ように見えた。
 だが、カーブに意識が強かったことが、2球目に災いした。やや外寄り甘めのシュートを見逃し。江夏は「カーブを狙っているな」と察知し、ポンと直球系のシュートを投げ込んだ。これも「稼ぎ球」。ピンチでは特に2球かけて1ストライクを稼ぐ、というのが私の考えでもあるが、理想的だった。
 佐々木は後に、「もう一度やり直せるなら、この2球目を打ち直したい」と悔やんだ。それほどの絶好球だった。続く3球目、抜けぎみのフォークを三塁線ぎりぎりにファウル。江夏は本来なら低めのゴロゾーンに落としたかったはずだが、佐々木にも2球目を見逃した力みがあった。
追い込んだことで、江夏は「ゴロを打たせよう」から、「三振に仕留めよう」へと方針を変えた。4球目のカーブは真ん中高め、佐々木はやっとのことでファウルにした。初球のカーブには崩されなかったのに、追い込まれて直球にタイミングを合わせざるをえなくなった。だから高めのカーブを打ちきれない。
 5球目、内角低めへの直球でボール。これが最高に江夏らしく、味のある球だった。「捨て球」である。この直球を挟まれたことで、打者の心理はグラグラと揺さぶられた。次の球が読めなくなる。そして6球目、同じ軌道でストライクゾーンからボールになるカーブを投げ込んで、空振り三振に仕留めた。
 ピッチングには「稼ぐ」「誘う」「捨てる」「まとめる」とある。江夏の佐々木への6球には、その全てが詰まっていた。初球ボールの段階では、打者が心理的優位に立っていた。だが、カーブ狙いを見越しての2球目のシュートで稼ぎ、追い込んでから4球目のカーブで誘い、5球目の直球を捨てて、最後のカーブでまとめた。
当時私は「最後のカーブを見逃せるとすれば、王か長嶋だけだろう」と解説した。江夏が佐々木に投げた6球のうち、明らかなストライクは2球目のシュートだけ。無死満塁のチャンスで、唯一のストライクを振れなかったことで、佐々木は江夏の投球術に敗れた。
 無死満塁となり「もう負けた」と思った状況から、江夏の開き直りを生んだのは佐々木も「やり直したい」と悔やんだ2球目のシュート。野球は、終わってみれば「あの1球」だということを痛感した。
 日本シリーズという最高峰の舞台で、1球の恐ろしさ、難しさ、そして面白さを解説する場を、私はその4年後に得ることになる。それは「野球の見方」を大きく変えることになった。

◆石渡のスクイズ失敗◆
 「江夏の21球」を振り返るとき、象徴的に語られるのは、続く石渡のスクイズを外した、この回19球目となる1球だ。だが実際には「佐々木への6球」で、江夏は冷静に戻っていた。
 一死満塁となり、打者は石渡。西本監督は「ストライクを3つとも振ってこい」と送り出したそうだ。だが、初球のカーブを見逃した。これを見て、スクイズを決断したのだろう。
 もちろん江夏も捕手の水沼もスクイズは想定内。それでも成功の可能性はあった。〔1〕江夏は右足を上げてから視線を地面に落とすため、走者の動きを察知するまでに時間がかかる。〔2〕江夏が選択したカーブは、ボールをしっかり握るため、とっさにコースを外すことは難しい。
 だが三走・藤瀬のスタートが早すぎたため、投げる瞬間、視界に入ったのか。または、広島ベンチ全体が藤瀬のスタートに注目し、その瞬間、一斉に上がった大音量の叫び声に反応したのか。江夏のカーブは高めに浮いて、石渡は空振り。藤瀬は挟殺された。
 江夏は外したのではなく、あくまで抜けたカーブだったろう。しかし本人は「神業」と語った。私はのちに21球すべての映像を見返し、また彼の波乱のプロ野球人生を思い、こう結論づけた。
 江夏が13年間歩んできた、プロの投手としての過程が生んだ「奇跡の1球」だと-。

◆江夏の21球◆
 1979年11月4日、3勝3敗で迎えた近鉄-広島の日本シリーズ第7戦(大阪)。広島の抑え、江夏は4-3の七回途中に登板したが、九回に無死満塁のピンチを招いた。代打・佐々木から空振り三振を奪うと、続く石渡への2球目にスクイズを外し三走を挟殺。最後は石渡を空振り三振に仕留め、広島が初の日本一に輝いた。後にノンフィクション作家の故山際淳司が九回の投球に焦点を当てて取材。「江夏の21球」の題で雑誌に掲載し、注目された。
本紙専属評論家の野村克也氏(78)が球史に残る名場面を語る、「ノムラの記憶」を毎週土曜日にお届けします。今回は江夏の21球(下編)。1979年の日本シリーズ第7戦。広島の守護神、江夏豊は九回無死満塁の大ピンチを切り抜けた。稼ぐ、誘う、捨てる、まとめる-とピッチングの全てが詰まった投球術に、サンケイスポーツの評論のためネット裏から見つめた野村氏(当時西武捕手)は感嘆。現役引退後の83年、NHK特集でこの場面の解説を務めた。「1球の根拠」を重視する野村氏の評論・解説が確立され、ファンの試合の見方も変える革命的なドキュメントだった。
無死満塁からピッチングの醍醐(だいご)味が詰まった「6球」で佐々木を空振り三振に仕留めた江夏は、石渡のスクイズを外し、さらに空振り三振を奪った。勝利の女神にそっぽを向かれた状況から、強引に振り向かせた。
広島が球団初の日本一に輝き、古葉監督が胴上げされた後で、江夏の巨体も宙を舞った。評論のために訪れた大阪球場はかつて、南海の正捕手、4番打者、監督だった私の庭だった。そこでかつてバッテリーを組んだ「江夏の21球」を見届けて、感慨深かった。    
 サンケイスポーツでの評論後、ノンフィクションライターの山際淳司氏から、この試合の取材を受けた。江夏と水沼のバッテリーの心理や配球について解説したことを覚えている。山際氏は翌1980年にスポーツ雑誌「Number」に「江夏の21球」を発表し、大きな反響を呼んだ。
 私は80年、西武で27年間の選手生活にピリオドを打ち、翌81年から評論家、解説者としての第2の人生をスタートさせた。すると82年だったか、NHKのディレクターが私を訪ねてきた。山際氏の協力も得て、第7戦の江夏の投球を克明に振り返るドキュメントを作りたい、という。
 「確かに、ノーアウト満塁からの江夏の投球には一球一球に目的と意味がありましたからね」と答えると、担当者は「それでいきたい」という。広島・古葉、近鉄・西本の両監督をはじめ、選手も広島の江夏、水沼、衣笠ら、近鉄の佐々木、石渡、藤瀬らが出演して証言を重ねた。私は1球ごとに、江夏と打者との心理の変化などを語っていく、ガイド役を務めることになった。放送されたのは83年1月。79年の後、3度の日本シリーズを終えている。本来なら旬をとうに過ぎており、番組にすること自体が冒険だったかもしれない。それでも「江夏の21球」は色あせてはいなかった。
結果として、「江夏の21球」はファンの野球の見方を大きく変えることになったと考えている。無死満塁のピンチで、佐々木を空振り三振に仕留めた。前回詳しく解説した「佐々木への6球」をはじめ、1球の根拠、技巧派の投球術、投手と打者との心理の変化が如実に表れていて、短編小説のようだった。
 初球の内角カーブを佐々木が平然と見送った時点では、打者の心理が優位。2球目にシュートで平然とカウントを稼ぐと、佐々木は動揺した。続く抜けぎみのフォークをファウルさせると江夏が優位に立ち、捨て球で混乱させて、初球の時点では狙われていたはずのカーブで三振-。まさに「筋書きのないドラマ」の展開には、江夏の阪神時代から浮き沈みが激しかった投手人生、さらには広島、近鉄ともに初の日本一がかかるという背景もあった。それ以上に「この一球」「次の一球」を知りたい、解説してほしいという欲求がファンの中で満ちてくるようになった。
「どうしてカーブだったのか」「次の一球はどこに何を投げるべきなのか」などといった解説を求められ、私もまたそうした解説、評論を心がけるようになっていった。その中で生まれてきたのが、テレビ朝日の野球解説での「野村スコープ」(別項)などにつながっていった。

戦後、野球は根性野球から情報野球へと進化した。現代では選手の体格、体力、技術、さらには用具も向上した。昨季は楽天・田中(現ヤンキース)がレギュラーシーズンで24連勝し無敗の最多勝投手となり、ヤクルト・バレンティンは、王らが持っていたシーズン最多本塁打記録を更新した。しかし、お茶の間のファンは記録に歓喜する一方、「この一球」の根拠を求めてくる。それこそ「江夏の21球」のもたらしたものである。プロ野球は80周年を迎える。私は79歳になる。プロ野球の歴史とほぼ同じ時間を生きてきた私にとっても、「江夏の21球」は評論家生活での大きな転機だった。

◆野村スコープ◆
 野村氏は1983年、プロ野球中継に“革命”を起こした。当時解説を務めていたテレビ朝日の中継で導入された「野村スコープ」だ。
 ストライクゾーンを内外角、高低で9分割し、どのコースにどの球種が来たかを表示するもので、現在では他局も採用している。「何か新しいことができないかとプロデューサーと話し合ったとき、次の球がどこに来るか画面に表示してみたらどうか、と話したんだよ」と野村氏。
 やってのけたのは次の一球の予測だった。当時は結果を語る解説が主流で、予測型の解説は少なかった。「正捕手として配球を組み立てる」「4番打者として配球を読む」を27年の現役生活を通じて繰り返してきた野村氏が、経験をもとにネット裏から瞬時に次の一球を予測、的中させる解説に視聴者は感嘆した。

◆江夏の21球◆
 1979年11月4日、3勝3敗で迎えた近鉄-広島の日本シリーズ第7戦(大阪)。広島の抑え、江夏は4-3の七回途中に登板したが、九回に無死満塁のピンチを招いた。代打・佐々木から空振り三振を奪うと、続く石渡への2球目にスクイズを外し三走を挟殺。最後は石渡を空振り三振に仕留め、広島が初の日本一に輝いた。後にノンフィクション作家の故山際淳司が九回の投球に焦点を当てて取材。「江夏の21球」の題で雑誌に掲載し、注目された。

 

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