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山縣大弐を知る

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転載元 推考歴史の導火線

■『山縣大弐と龍馬の接点を探る』

私は現在、甲斐市に住んで34年になります。
地元では学問の神様として知られる山県神社があることは知っていましたが、どんな いわれが在るのかはずっと知らないままに過ごして来ました。

祀られているのは、明和4年(1767年)に江戸幕府によって明和事件で斬首された「山県大弐」という人で、この人が、遠く幕末に巻き起こる勤皇倒幕のうねりの基を提起していたなんて、考えもしませんでした。

明和事件とは、孟子の放伐論によって徳川幕府を否定し、日本の古代王朝政治に王道を見ようとして、民衆の教化に乗り出し、これを弟子が密告した為に捕らえられ斬首された事件で、
時に明和4年(1767年)8月22日、山県大弐43歳でした。

勤皇倒幕思想の人です。
ルソーの社会契約論に遡る事12年、
8代将軍吉宗から9代将軍家重、治世の時代に、思想を掲げて、書をなした人物であります。
この思想は「大弐」の著書『柳子新論』十三編に凝縮されているのです。

この時代、幕府の膝元にあって堂々、幕府攻撃の論陣を展開するものは、
深く国体を研究する漢学者、国学者多しといえども、大弐のみでした。

山県大弐の名は昌貞(まささだ)。
号を柳荘(りゅうそう)と唱え、
享保10年(1725年)某月日、
甲斐の国巨摩郡篠原村(現在の中巨摩郡竜王町篠原)に生まれ、
幼名は「三之助」。

父は領蔵(山三郎ともいう)といい、郷士、
野沢氏(新羅三郎義光の末裔)の後裔になると言われています。

この年は、新井白石が69歳で没した年にあたります。
これより3年あとには元禄の赤穂事件で浪士の切腹を上奏した荻生徂徠も63歳で没しています。

信玄公、勝頼公に仕えた飯富(おぶ)三郎兵衛 正景(信玄の長子、太郎義信のもり役飯富兵部少輔虎昌の弟、長篠の戦いで戦死)が絶えていた山県姓(清和源氏の末裔になる)を信玄公から許されて継いでから、その十一世(八世とも言われる)の孫に当たるといわれています。

大弐は、甲斐の国、山梨郡の山王権現の神官「加賀美桜塢」(かがみ・おうう)に5年学び、その学問は、すこぶる深博で皇学、儒仏、天文、地理、音楽、数学、医学まで通じないものはなかったと言われ、とりわけ兵法は突出していたそうです。

この他、同郷の大儒士「五味釜川」(ごみ・ふせん)に就いて深く交流を求め、13歳から藤田(南アルプス市藤田)の塾に通い学んでいます。
この後、現在史跡として昭和町西条に残されている山本家碑の、山本忠吉らとも深く親交があったことが、昭和町の同家所蔵の文書にあります。

18歳には京都に遊学、高倉、花山院、日野、綾小路等の諸家にて有識典故の学を修め、陰陽道を土御門泰邦に学び、27歳江戸に出て医を業とします。

30歳のとき岩槻藩主・大岡忠光(9代将軍家重の側用人、大岡越前守忠相の同族)に仕えて安房勝浦代官、典医、儒者、祐筆を努め、
35歳で『柳子新論』を書き上げます。
上梓されたのは構想より10年後1759年、1745年に吉宗政治が終って14年後、9代家重の時代です。

国学者、兵法学者で、京にあって皇道を説いた竹内式部、藤井右門などとも深く交流がありました。
「竹内式部」「藤井右門」は、宝暦の変(權大納言徳大寺公城など多くの公家に幕府非難の論を説いた)で追放になっています。

その後、忠光の死を得て、大岡家を去り、江戸八丁堀永沢町に私塾を開き儒学、医学、兵学、天文、経済、地理などを広く教えるのですが、
その中で、上野(こうづけ)小幡藩(織田信邦2万石)の家老・吉田玄蕃と最も親しく交流を持ったようです。
この小幡藩の改革を断行した家老の玄蕃に反対する藩士(今で言うところの抵抗勢力)が、大弐の門弟に小幡藩士が多くいるのを妬み、改革の根源は「大弐」にありと、反家老派が「玄蕃と大弐が結託し謀反を計る」と幕府に訴えたことによって事件に発展します。
幕府はこれを朝廷にひた隠しにしました。
この処分によって、明和事件は幕を閉じます。

この皇室崇拝の勤皇思想は、吉田松陰にも計り知れない影響を与えています。
『柳子新論』は秘密の写本として残り約100年後、浄土真宗の僧侶・黙霖(ぼくりん)によって松陰にも写本で伝えられ、問答をしています。

黙霖は松陰の考え方は水戸学に影響された幕府を諌める域をでないと見て質問します。
「幕府の政治は覇道にほかならず、わが国を古えの朝廷政治に戻さねばならない。
孔孟の道に従い今の幕府は放伐すべきである。
水戸学は口では尊王を説くが、未だかつて将軍に諌言して、天室を重んじたためしがない。
われらがなすべきことは一生でかなわねば、二世、三世かけても、王政復古を計ることである」
と説き、柳子新論の写本を渡すのです。

これによって松陰が、倒幕に転じ、革命家としての意識を身に付けたといわれています。
「松下村塾」の門下生にも多大な影響を与えたと推測できます。

司馬遼太郎は言います。
「歴史は非情だ、山形大弐・吉田松陰・久坂玄瑞・高杉晋作・武市半平太・坂本龍馬らを必要なときに遣わし、もう要らないと時がくると、人の及ばぬ時間(とき)にささっと、召し上げてしまう」
と。

明治13年、明治天皇が山梨に行幸の折、大弐の非命に死するのを悼み、尊王の志を痛み祭祀金を持って、志を尊んだことにより、やっと、日の目を見ることになったのです。

明治24年12月(没後125年)には朝廷がその誠忠を嘉(よし)とし、特別な旨を持って正四位を追贈しました。

およそ、革命家には、三種あるといわれます。
まず予言者、その後に、いわゆる主役つまり革命家、そして、最後は建設的革命家であろうと、かの徳富蘇峰は変節して改稿する前の著『吉田松陰』で述べています。

私は、維新の予言者が「大弐」であったと考えています。
本幕の革命家、思想家が「吉田松陰」、建設的革命家は、「高杉晋作」、「久坂玄瑞」、「桂小五郎」、「坂本竜馬」、「西郷隆盛」、「大久保利通」等です。彼らと佐幕派の血と汗によって完遂した幕末から維新の歴史は、縁もゆかりも無かったと思っていた甲斐(山梨県)出身の学者によって、すでにその100年も前から導火線が敷かれていた。
そう思うと、戊辰戦争終結から、136年、西南戦争から126年後の今、身近な話の歴史のめぐり合わせに驚くばかりです。

松蔭神社の入口の石碑に刻まれた「日本の夜明け胎動の地」の銘の原点は山梨にありました。



山県大弐の周りにはどんな人物が居たのか?
100年という時代の導火線はどんなかたちで連鎖したのか?
山縣大弐はどんな形で「柳子新論」を誰に残したのか?

記録によれば、根小屋出身の門下生薗部文之進は,小塚原の刑場から、師の首を奪って帰郷し,茨城県新治郡八郷町の根小屋の自宅墓地に埋葬し立ち去ったといわれています。
それでは、門下生の薗部文之進からどうやって「柳子新論」は宇都宮默霖まで伝わったのか?
宇都宮默霖の師は誰か?
また、
思想的な根源は何処にあったのか?
というところに突き当たり、なかなか史実としての実証が残っていない中で悪戦苦闘いたしましたが、取り周いていた人物像を浮かび上がらせる事によって、思想の原点が解明できるのでは、
そんな想いで、推考してみました。

江戸中期の「明和事件」は、
日本で鎌倉幕府成立以降の、武家政治を否定し、朝廷をもって国体の維持を図るという、当時としてはとてつもない考えでした。
朝廷から見れば、幕府が朝廷に対して弾圧した様な意識に受け取られかねない事件で、勤皇思想を弾圧した弱みをすねに持ち、ひたかくしに隠した勝者の歴史の中で勝者の影に埋もれています。

◆山縣大弐の学問の師
加賀美光章(加賀美桜塢)かがみおうう

正徳元年(1708年)2月15日江戸生まれ、17歳で京都に遊学し、和歌を姉小路実紀に、国学を鳥谷長庸、儒学を東條兼連、天文暦を曾我部元寛、朱子学を三宅尚斎に、神学を玉木正英について学びます。

元文3年28歳、家名を継ぎ小河原村山王神社の祠官となります。
1734年加賀美光章が小河原村山王神社に私塾「環松亭」をつくります。
現在の甲府市下小河原の日吉神社です。

1782年に72歳でなくなるまで、千数百人の門弟の指導に当たります。
今でいう一大大学です。
朱子学的道徳を強調する一方、強烈な尊皇思想を吹き込みました。
門弟からは、討幕論を主張し処罰された山県大弐などを輩出します。
明和事件では、謀反の門で連座投獄されるが、赦免になり。帰郷の後、再び塾生をおしえ、天明2年5月25日病没。
山県神社史では、帰郷途中 病死とある。

◆山縣大弐の二番目の学問の師
五味国県(五味釜川)ごみふせん(荻生徂徠の孫弟子)

五味釜川は(荻生徂徠の孫弟子)中巨摩郡藤田村(現南アルプス市藤田)の人で享保3年(1718年)に生まれ、父は貞蔵。
代々、医を持って業とした。
生まれながらにしてぬきんでて、7~8歳にして、すで俊傑の資質をそなえ11歳のときに江戸に出て、太宰春台(儒学の荻生徂徠の愛弟子)の門に学び、苦学、辛酸耐えること10年、学も徳も高く春台はとくにその才芸を愛で、護国学派の俊才と称された。
その後、帰郷し、先祖伝来の医を継ぎ、傍ら塾を開いて里の子供たちを教授し、大いにその考え方を啓蒙した。
しかも、治療・教授の合間にあって遅々として怠らず、古今の書を読み文理を極め、特に詩文に長じ、加賀美光章と東西相応し一斉を風びし、峡中の天地自然として文教の隆盛を極めた。
大弐は、加賀美光章に学んだ後、この五味釜川についてさらに勉学に励んだ。

◆宝暦事件で追放
藤井右門

江戸中期の享保時代に尊王論を唱え、明和事件で獄門に処せられた。
出会ったのは、兄 山縣昌樹が京にあって右門と知り合い、後に帰郷するに当り甲斐に来た右門を昌樹の紹介で知り合い、大弐と意気投合したのではないかと推考する。
寛延3年(1750年)には加賀美光章及び2~3の弟子と酒宴を催し、8月15日には旧友を集め快談し、帰りには山本忠告と一緒に、亡き友飯田正紀の墓参りをしている。
藤井右門の父は、赤穂浅野家の家老 藤井又左衛門宗茂で,浅野家が取りつぶされた後、越中射水郡小杉村で生まれたという。
16歳で京都に出て,地下の諸大夫藤井大和守忠義の養嗣子となり,皇学所の教授となって尊王論を説いた。
後に、京都を追放され(宝暦事件)、
江戸の山縣大弐宅に寄宿、講師となる。明和事件で、山縣大弐らと処刑される。

◆竹内式部 宝暦事件で追放 
切磋の朋 琢磨の友

竹内式部は正徳2年(1712年)に越後本町通9番町の医師の家に生まれました。
式部が上洛して、垂加神道を学んで徳大寺家の家臣となり、桃園天皇の近習徳大寺公城をはじめ、少壮公家の有志に神道と儒学を講じた。
そのうち教えを受けた公家が神書(日本書紀)を天皇に進講するまでになった。
竹内式部の説いた垂加神道は、徳川四代将軍 家綱の後見人 会津藩主 保科正之の賓師まで務めた山崎闇斎によって提唱されたものであったが、崎門三傑といわれる三派に分かれ、なかでも純儒派の浅見絅斎が提起した大儀名分論と勤王思想であった。
浅見絅斎の主著『靖献遺言』は尊王斥覇の大儀名分を説いた。
幕末水戸藩の志士たちに必読書とされたほどである。
式部はさらに、朝廷衰微の原因は関白以下の非器無才にあるとして、少壮・下級公家の奮起こそ朝威回復の道であると説き、有志を集めて軍学と武術の実地訓練を行ったと伝える。
式部の尊王思想は徳川将軍家のみならず、公家社会の序列を無視したもので、幕府転覆の企図が具体化する以前に、関白近衛内前は徳大寺公城らの官職を解いて永蟄居を命じ、式部を追放すへく所司代に告訴した(宝暦事件)。
その後,知人であった山縣大弐らが明和事件で処刑されると,式部も捕らえられ流罪となり,その途上,三宅島にて病死。 

「三宅島流人罪名帳」は明和4年(1767)に式部が病死したという記事と、式部の署名・花押が記された断簡です

◆大岡忠光 9代将軍側用人
上総勝浦より2万石譜代 雁間 城主

将軍家重の側用人から出頭した大岡忠光が上総勝浦より2万石で入って、以降、忠光の大岡家が代を継いで幕末に至る。大岡家は吉宗が忠相を抜擢して初めて、諸侯に列した。
忠光もその一族であったが、微禄の旗本の子に過ぎなかった。
西丸小姓として言語が不明瞭な将軍 家重が幼いときから付き従い、忠光だけが将軍 家重の言語を理解できた。
自然、大岡忠光を通さずしては上意を伺うことができず、権勢はいやが上にも増した。
ついに上総勝浦で1万石を得て大名となる。
この時代、山県大弐は勝浦代官、祐筆、典医、儒者などを勤め、
その後、「柳子新論」を書きあげる。
忠光の死後、暇を得、この後、岩槻に加増転封してきたものである。
とはいえ、柳沢吉保や間部詮房、田沼意次らの加増ぶりに比すと、2万石というのは病弱だった家重を補佐した功績を考えると過分なものとは言えないだろう。

◆小幡藩主 織田信邦 (後に天童藩へ移封)
2万石外様 大広間 国主格

織田信長の子孫は嫡孫の三法師 織田秀信が関ヶ原西軍について絶えたあとは、信長二男の信雄の子たちが結果的に嫡流となる。
大名家として残った織田家は、信雄の流れが、この小幡と、丹波柏原に。
信長の弟、織田有楽斎 長益の流れが大和芝村、大和柳本。
都合4家が大名家として存続する。
なかでもこの小幡藩の織田家は嫡流として、小藩ながら国主格を与えられていたが、のち、「山県大弐事件」の関わりを咎められ、大弐が 捕縛されると幕府から家格の特別待遇を剥奪され、出羽高畠(のち天童へ移転)へ転封となる。
山県大弐は過激な尊皇論を著わし、これと小幡織田家の家老・吉田玄蕃との間に親交があったことを咎められたものである。
上州小幡は、城下町の雰囲気を残した町である。

◆宇都宮默霖 うつのみや・もくりん
吉田松陰に「柳子新論」を伝えた僧
幼名は真名介、僧名は覚了・鶴染。
字は絢夫、雅は黙霖。
僧、宇都宮峻嶺の子。母は琴。
文政7(1824)年9月、安芸国賀茂郡広村長浜(現・広島県竹原市)に生まれる。幼少より学問を好み典籍に通暁していたという。
天保11(1840)年出家。
翌年、聴力を失い、筆談を以って諸国を歴遊。
弘化2(1845)年、本派本願寺僧籍に入った。
同3年黙霖と称して勤王を唱え、諸国を歴遊する。
真宗興正寺派摂信に帰依した。
嘉永年間、諸国の志士と交わりを結び、安政年間には幕府の追捕を免れつつ各地の志士と王政復古につき画策した。
特に吉田松陰・頼三樹三郎・梅田雲浜・僧 月性らとも親交があった。
安政の大獄にあたり藩牢に繋がれたが僧籍ゆえに死罪を免れた。
しかしその後も討幕に動いた為、第一次長州討伐の際、再度投獄された。
明治元(1868)年、大洲鉄然を訪れ、中国渡海の志を打明けた。
同2年に許され、のち湊川神社などの神官を歴任し、晩年は呉に隠棲した。
明治30(1897)年9月15日、74歳で没。
維新後、従五位を贈られる。
墓は広島県東広島市八本松町(西福寺)にある。



安政二年(1855)夏のこと、
長州萩の城下に、一人の僧が飄然とあらわれた。
手には錫仗を突き、汚れた衣に頭陀袋をかけ、傘の下に鋭い眼が光る30代半ばの行脚僧である。
名は默霖といい、一向宗本願寺派の僧である。
彼は私生児で幼いときに寺にやられ、オシでツンボという二重苦を負いながら、当時諸国を行脚して勤皇を説く勤皇僧であった。

默霖は1年前にも萩に来たことがある。
土屋松知という藩の学者の家に逗留。
その時、先に下田の渡海事件で世間を騒がした吉田松陰という若い学者が、野山獄で書いた『幽囚録』一巻を読んだ。
これは松蔭が国禁を犯してまで、海外渡航を企てた理由を明らかにしたもので、その中で松蔭は
「鎖国の陋法(ロウホウ)は徳川の世に限ってのことであり、外国を知ることは国の三千年の運命にも関する重大問題であるから、あえて自分はほうを犯した」
と書いている。
「自分は皇国に民である。黙然と座視して、国の運命に目をつぶっていることはできない」。

默霖がこの萩の城下町に二度目にやってきたのは、『幽囚録』の筆者と論争をするのが目的であった。
松蔭は出獄して場外の松本村の父の家に謹慎をさせられていた。
「蟄居」という罪だから、人との面会は許されない。
松蔭と黙霖との間には、手紙で論争が続けられた。

山獄の一年間では、読書と思索にふけり、百六冊の本を読み十一人の囚人に孟子の講義をしたりした松蔭だが、彼はまだ少年時代から教育を受けた水戸学の影響から抜けてはいなかった。

兄の梅太郎に出した手紙にも
「幕府への忠節は、すなはち天朝への忠節にこれなく候」
と書いたように、
「君は君道もて臣を感格し、
臣は臣道もて君を感格すべし」
という臣としての厳格な立場を守っていたのである。

このころ、ハリスは下田に着任して、大統領の国書を将軍に奉呈しようとさかんに運動中であった。
開国か攘夷かの論争が、京都でも江戸でもようやく活発になった頃で、志士の活躍も目立ってきた。
松蔭は僧 月性とも親しく、月性に送った手紙にはこう書いている。
「天子に請うて幕府を討つことは、不可である。
大敵が外にあるいま、国内相せめぐ時ではない。
諸侯と心を合わせて幕府を諌め、強国たらんとするはかりごともなすべきである」

つまり、この頃の吉田松陰の思想は、
どこまでも「諌幕」であった。
その手段としては、
「藩主を通じて幕府をいさめる。
幕府が聞き入れないときには、はじめて藩主をおし立てて討幕にのり出す」
ということだ。

こうして萩に来た默霖と、三畳間に蟄居する松蔭との間の手紙のやり取りによる論争も、その内容が急所に近づき、また、対立も深刻になった
默霖が一度ひそかに会って話したいと申し入れたのに対して、松蔭は藩への遠慮もあり「わが容貎にみるべきものなし」とこたえて、面会を断った。

しかし默霖の手紙は、松蔭を根底からたたきのめしたのであった。
「茫然自失し、ああ、これまた妄動なりしとて 絶倒いたし候」
と正直に黙霖に書き送った。

「僕、ついに降参するなり」。
松蔭を「絶倒」させた黙霖の論というのは次のようなものである。

「幕府の政治は、支那でいう覇道にほかならなず、この国を古の朝廷政治の王道に戻さねばならない」

「孔孟の道にしたがい、今の幕府は放伐すべきである」

「水戸学は口では尊王を説くが、いまだかって将軍に諫言をし、天室を重んじたためしが無いではないか」

つまり、松蔭のいう「諌幕論」は、
じっさいは行われない空理空論の過ぎない。
われわれのなすべきことは、
「一生でかなわなければ、二世、三世かけても、王政復古をはかる」
ことである。

そしてこのことを知るためには、黙霖は松蔭に山県大弐の『柳子新論』を読むことをすすめ、その秘密の写本を贈った。
九月になってから、松蔭はこの本を読んだ。
彼は大弐については、幕府の断罪文を読んだだけで、その思想に触れたことは無かったが、今初めて黙霖におしえられ、百年前に断罪になった革命家の理論を知ることができた。

大弐は孟子の放伐論によって徳川幕府を否定し、日本の古代王朝政治に王道をみようとした。
そして、彼はこの思想のじっさい行動として、民衆の教化にのり出すのだが、幕府転覆の嫌疑を弟子の密告によってかけられ、捕縛斬首された。
いわゆる「明和事件」である。
幕府は、この事件を朝廷にひたかくしに隠した。
朝廷に対して弾圧をかけたように受け止められるのを非常に恐れたためである。

今、百年前の思想によって、松蔭の目は開き、革命家としての松蔭の第一歩は踏み出された。
時に二十六歳、
百年の導火線に火がつきくすぶり始めたのである。



松蔭は言う。
「僕は毛利家の臣なり。
ゆえに日夜、毛利に奉公することを練磨するなり。
毛利家は天子の臣なり。
ゆえに日夜、天子に奉公するなり。
われら国主に忠勤するは、すなわち天子に忠勤するなり」

この理論では、幕府はあってないに等しい。
しかし、よくみると、その主君は六百年来、天子へ忠勤を励んだ しるし がない。
これは大罪である。
松蔭は、いまこそ、わが主君をして六百年の過ちを正させなければならないことを知った。
松蔭のこれからの道は決まった。
自分の行く手じっと見つめる黙霖に次のように書き送った。

「もしもこのことが成らずして、半途に首を刎ねられたればそれまでなり、
もし僕、幽囚の身にて死なば、われ必ず一人のわが志を継ぐ士をば、後世にのこしおくなり」

そしてこうも付け加えた。

「口先でとやかく言うのは、生来大嫌いで、以上のことも平ぜいは口に出しませんが、上人のことゆえ申すのです。
僕がこのことによって死ぬるのを、あなたは黙って見てくれよ」

この手紙を読んで、黙霖は毛髪が逆立ち、声を上げて泣いたと感想をしるした。
ひと月ほどあと、流僧黙霖は萩を後にした。

◆『柳子新論』概略
柳子新論は大弐がはげしい気魄で徳川幕府打倒の論をのべたものである。
当時は幕府盛世のときに痛烈な幕府排撃論を展開し、幕末に起こった尊王倒幕運動の一大先声をなしたのであるから、本書は日本思想史上高く評価されてしかるべきものである。

本書は13編からできている。
兵学者である大弐が、兵書 孫子13編を模したものである。
貫く精神は「正名」の2字につきる。
正名は孔子が政治について「必ずや名を正さんか」といったのに基づく。

名の乱れの最大は徳川氏が
「“名”は征夷大将軍太政大臣であるが、その“実”なく、
“実”は天子の位を僭窃している」
(正名)
ところにある。

どうしても
「名を正して君臣二なく、
権勢一に帰せしめなくてはならない」
(得一)
と大義名分論を真っ向から幕府につきつけた。
具体的には次の13編である。

1編・正名 2編・得一 3編・人文 4編・大体 5編・文武 6編・天民
7編・編民 8編・勧士 9編・安民 10編・守業 11編・通貨 12編・利害 13編・富強

「柳子新論」の内容は、古来の皇室尊重の考え方で、つまり孔孟の昔の思想であり、主権在民の戦後の体制には馴染まないが、江戸中期の幕藩体制が根付いていた当時の社会体制を考えると、
進歩的な、斬新な考え方であった。

幕府官僚の認識は朝廷を表向き、奉りながら現状維持が立場であるから、どうしてもその芽をつんでおく必要があった。

その後の経緯を見れば、ひた隠しに朝廷に対し秘している、皇室に対しての弾圧と受け取られたくない想いが透けて見える。

しかし、歴史の中では、時間という導火線がいつも、くすぶり続けている。
どんな体制も、現在もそうだが、地下に沁みこむ水の様な庶民の思いは如何ともしがたい。

以後、約100余年を経て、秘密の写本が黙霖によって長州萩の吉田松陰にもたされ、それまでの幕府を規諫(きかん=いさめ 戒め)してゆくという考えを一変させ、倒幕またやむなしという決心を抱かせるにいたった。

松蔭の教えた考え方は、激しく、弟子たちに伝わるが、やはり実現までには二世弱ほどの時間がかかったのであり、黙霖の説いたとおりに展開する。

「柳子新論」は、沁みこんだ大弐の思想が時節を得て、建設的革命家や佐幕派の血と汗によって開花した。
大弐はどんな思いで、この現実をあの世で受け止めたのだろうか?
わずか、100年後に幕藩体制が崩壊するとは夢々、思わなかったであろうが・・・



情報の連鎖を見ると、われらが敬愛する「坂本龍馬」は、武市半平太の使いで長州へ出かけ、久坂玄瑞と会った時に、話の中で、きっと師・松陰から学んだ『柳子新論』の骨格と趣旨を、玄瑞から聞いているものと、(勝手ですが)推測することができるのです。

そして、時の流れを敏感に感じ、土佐に帰国後の脱藩に結び付き、龍馬をして胎動し始めた勤皇倒幕思想のうねりの中に身を投じさせる一因になるのです。
河田小龍から「ジョン万次郎の西洋体験や、機械、文明、政治体制などの知識」を得、攘夷よりも産業経済の発展に人生の方向を嗅ぎ取り、
江戸では、仕組んで千葉重太郎を誘い込み、会いに行った勝海舟の思想の先見性を取り入れた龍馬はやはり、時代の寵児なのか、いや潮流に乗った大きな龍なのでしょう。

長州には長井雅楽(うた)という家老がいる。
この長井雅楽というのは土佐の吉田東洋と同じく佐幕派であり、藩では実力者である。
主義は
「幕府を助けて大いに貿易を行い、西洋の文物を取り入れ、船を造って五大州を横行し、国を富ませたのちに日本の武威を張る」
というものである。

龍馬は「幕府を助けて」というくだりを除けば賛成で、
この主義の「幕府を助けて」に変えて
「朝廷のもと日本が一致して」と置き換えれば龍馬の考えそのものになるのである。

そして、ここで久坂玄瑞がいった言葉が妙に龍馬をとらえて離れなかったのである。
それは
『諸侯も頼むことはできぬ。
公卿も頼むことができぬ。
頼めるのはおのれのみ。
志あるものは一斉に脱藩して浪士となり、大いにそれらを糾合して義軍をあげるほか策はない』。 

土佐に戻った龍馬は武市に長州の現状を語っている。
龍馬の把握した現状は鋭かった。
龍馬の発想の基本は自由、柔軟で、
藩と言う概念は無く、日本という概念から物を考える事によって、対外的にもひとつになれるという、当時としては飛躍的な考えであった。
その考えの元は、山縣大弐が説いた、皇室崇拝による統一国家日本だ。

しかし、佐幕派の優秀な人物までが犠牲になった藩閥政治は、その影響の大きさを推測すると、日本の発展を50年遅らせたような気がする。
維新のすばらしき志士たちは消え、残った優秀とはいえないまでも現代よりはしっかりした政治家が明治を動かしたのであるが、それなりに頑張り、思想も受け継がれた。
武家政治開闢の清盛以来、初めて四民平等を唱えた「山縣大弐」の起案が底辺となり、遅れる事100年、やっと明治維新はなったのである。

山縣大弐は、茨城県八郷町・東京本郷・そして山梨県甲斐市の山縣神社に眠り、今を見守っている。
毎年9月23日、「柳壮学問祭り」が開かれ学問の神様として地元に溶け込んでいる。


◆山縣大弐の年表

享保10年(1725)生まれる。

延享2年 (1745)
兄 昌樹(爲清)病気のため、家督を継ぎ、村瀬軍治と改名、甲府城へ出仕する(21歳)

寛延3年 (1750)
弟 武門が飯田新町の名主倅新三郎を殺害、失踪(26歳)

宝暦元年 (1751)
弟 武門の殺害事件の罪に連座させられ村瀬家の家禄・泰樹を没収される。
浪人になり母方の姓である山形に復姓し、山県惟貞と改名、後に昌貞と改める。
江戸へ出て、医者を業とした。
このとき五味釜川に送った「留別の詩」がある。(27歳)

宝暦4年 (1754)
秋ごろ、幕府若年寄りの大岡忠光に仕え、勝浦代官(千葉県)を勤める。
在任中、香取神社(佐倉市)を訪れ和歌を詠む。(30歳)

宝暦6年 (1756)
勝浦から戻り、藩医となり、江戸藩邸に残る。
大岡忠光、9代将軍家重の側用人となり、岩槻藩主となる。(32歳)

宝暦8年 (1758)
宝暦事件が起き、多くの者が処罰される。
竹内式部は重追放となり、江戸、近畿、越後の出入りを禁じられる。
この事件は、尊王論者の竹内式部が権大納言徳大寺公城など大物公卿のほか多くの公家に幕府非難の論説を講じたため、多くの式部 支持者(公家)が処罰された。(34歳)

宝暦9年 (1759)
『柳子新論』を著す。(35歳)

宝暦10年(1760)
大岡忠光が没する。
後嗣の忠善の命により、忠光の墓碑、および行状書を撰する。
その後、大岡家を去り、江戸北八丁堀永沢町に私塾を開き、儒学・武術・医学・天文学・兵学・経済。地理などを教える。(36歳)

明和2年 (1765)
肥後 細川藩に藩政の改革について投書する。(41歳)

明和3年 (1766)
門下生と共に、吾嬬森(墨田区吾妻神社境内)に碑を建立する。
小幡藩家老の吉田玄蕃を失脚させるため、数人の藩士が捏造した謀によって、大弐と玄蕃が謀反を起こすと幕府に訴えられる。
このとき藤井右門は大弐のもとに身を寄せていた。
右門は酒の席で口論の末、桃井久馬というものに逆恨みされ、大弐と玄蕃が謀反を起こすと幕府に訴えられた。

明和4年(1767)
2月18日、大弐は捕縛される。
幕府は大弐と右門を捕らえて糾問、謀反の事実はないとわかったが、兵学の講義に甲府や江戸の要害地を例えに用いたり、天皇は行幸もできず囚人同然であるなどと語ったことが、不敬、不届きであるとして、大弐は獄門、右門は牢死した。
同時に、宝暦事件で京都を追放された竹内式部を、禁を犯して京都に立ち入ったとして八丈島に遠島、護送途中の三宅島で病死した。

8月21日判決が言い渡され、同日伝馬町(東京都中央区)の獄内処刑場にて斬首される。
一説には小塚原の処刑場(東京都荒川区)で処刑されたといわれる。(43歳)

●時世の句
曇るとも 何か恨みむ月こよひ
はれを待つべき 身にしあらねば
(瓣疑録)  
曇るとも 何か恨みむ月今宵
はれて眺むる 身にしあらねば
(好古類纂)

曇るとも 何か恨みむ月今宵
とてもよにある 身にしあらねば
(資治雑笈)


勤皇思想のパイオニアは図らずも、山梨県出身の江戸中期の学者「山県大弐」だった。
山崎閑斎 門下から繋がる思想の基はやはり儒学であり、徳川家康が選んだ思想家の考え方が源流になり、やはり家康の意思が働いていたと見るのは考え過ぎかもしれない。
当初、家康は、幕府は三代持てば、次の時代を担う武士(もののふ)が、神の意思によって使わされると踏んでいた。

しかし、老中 土井利勝は、家康の隠し子であり、秀忠の母違いの兄であったが、本家には呼ばれず、土井家のまま幕府そのものを牛耳ることになり、基礎固めに奔走する。
この基礎が生きて、270年にも及ぶ安泰の幕府が続くのであり、明和事件は、その老中・土井利勝の夢を揺さぶる、初めの撃砲だったのかもしれない。 

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