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ルーツ・ファンタジー/古代日本とイスラエル 2

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転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』より抜粋

2章.古代日本とイスラエル

2-7.秦氏と日本神道
秦氏が守ろうとした神道は旧事本紀として、古事記より先に完成した。
日本が密教化・漢字化される中で、本当の神道(イスラエルの神の教え)をサタン・ダビデから守るために、本書を「五十宮」「三輪宮」「四天王寺」に隠した。
50は大天使・ミカエルを、7(3+4)は七大天使を表しており、神の智恵だったことが分かる。



崇神天皇のとき、それまで皇居の中に祀られていた天照大神の御神体を、その神威を恐れて移すことにした。
だが次の垂仁天皇の代には、皇女・倭姫命を大神につけ、鎮座にふさわしい土地を求めさせた。
倭姫は、近江、美濃などを巡歴した後、最終的に現在の場所、伊勢国の五十鈴川の川上に至り、そこに宮を建てた。
これが内宮のおこりだという。

『謎の根元聖典 先代旧事本紀大成経』によれば、聖徳太子は、神代文字で書かれた貴重なものが、日本の密教化・漢字化に伴い忘れ去られるのを恐れ、推古天皇に『旧事本紀』の作成を申し出た。
そして、蘇我馬子,秦河勝と共に、皇室と六家、すなわち吾道、物部、忌部、ト部、出雲、三輪 各家に伝わる秘伝書
(各部族ごとに異なった神代文字で記述され、他の部族には知られないように工夫されている)を集め、
聖徳太子の死後1年後に、秦河勝により『旧事本紀』が完成した。

「天皇陛下、今しかありません。
先の世の正しい叡智をそのまま記録して後代の永遠の指針としましょう。
そうしないと神の道(これは今で言う神道とは字は同じだが、意味は違う。日本神道というのは本来宗教や信仰ではなく、正しく生きるための実践的な道である)は紛れて、
大切な部分が廃れてしまうでしょう。
それは陛下にとっても嘆かわしいことであるはずです」

六家の秘伝を収集する途中で、秘伝の入った箱に、50個の土簡(文字を刻んだ粘土板のような物)が見つかっている。

秦氏は『旧事本紀』を完成させて、イスラエルの十部族の秘法を手に入れ、宮中で今日も雅楽を担当している。
各部族に伝わる秘法は、それぞれ異なり、暦法、医術、天文、祭祀法、兵法、気象、物理、金属精錬など様々であった。
これらの秘法は、
人体はミクロコスモス=
「宇宙と人体は相似であり、すべての物事は生成と死を繰り返している」
という考え方を踏襲している。
この考え方を、多方面の一側面から見たものが各部族に秘法として伝わった。

例えば、人体だと医術、星空だと天文や暦というように。

『民数記 第36章』に、
「イスラエルの人々の嗣業は、部族から部族に移るようなことはないであろう。
イスラエルの人々は、おのおのその父祖の部族の嗣業をかたく保つべきだからである」
と、各部族が各部族内で、秘法を正しく伝授することが求められているのだ。

『旧事本紀』の完成について、その序文によれば、
『古事記』よりも90年も前に成立しています。
また、『旧事本紀』のミクロコスモスの考え方は、トートのヘルメス文書、インディアンの思想、アーユルベーダ、東洋占星術などと出所は同じでしょう。

この科学的な視点からすれば、サタン・ダビデの化身である全知全能の神は存在し得ず、それが謀略の邪魔であることが明るみになってしまう。
だから、『旧事本紀』の真実が、サタン・ダビデに葬り去られる可能性があったのです。

おそらくサタン・ダビデの恐ろしさを知っている推古天皇は、この書を失わないためにどうすれば良いかの神託を仰いだのだと思います。
神託に従い、「五十宮」「三輪宮」「四天王寺」に隠した、おそらく、50はヤハウェを、3+4=7は7大天使を現しているように推測します。

「三輪宮(大神神社)」には、三輪山を御神体とするため本殿が無く、三ツ鳥居ある。

「四天王寺(宮中図書館)」には、未来に向けて「旧事本紀」を隠し安置した。

このように『旧事本紀』については、50という数が目に付きます。


関連して、ユダヤ人の最後の王ヘロデ・アグリッパの後に、ユダヤはローマに併合された。
そして紀元66年に、ローマ第一次ユダヤ反乱が起こった。
(ユダヤ人にとってあくまでも独立戦争であった)

抗戦4年、エルサレムは陥落し、一部のユダヤ人はマサダの砦に立てこもり、三年に渡って抗戦したが全員が玉砕した。

ついで60年後に、第二次ユダヤ反乱が起こった。
ユダヤ自身の貨幣を発行していることから、独立を回復し得たといわれている。

このユダヤの独立戦争には、
「抗戦4年」「マサダの抗戦3年」「六十年後の独立」のように、
「四天王寺」「三輪宮」「五十宮」と数字の並びが同じです。

◆日本の言霊について
日本の言霊信仰は、マハーバーラタ(ちくま学芸文庫)を読むと、
呪いの言葉、祝福の言葉、マントラが、そのまま現実の現象となる。
そして、この呪いを打ち消す方法を探し出すことに奔走しています。
また、旧約聖書でも「ノアの呪い」や「主の呪い」、新約聖書においてイエスは奇跡を起こす前に様々な言葉を語ります。
シュメルに由来するこれらの慣習が日本に引き継がれたのだと思います。
また、
「当時、詩人の呪言は矢よりも恐ろしい武器とされていた」
(コーラン 中 P226)
とあり、アラブ人にも言霊の影響があったことが伺われます。

ニンフルサグは人類創造の時に祈祷しながら作業しています。
また、『申命記』には動物の死体に少しでも触れただけで、午後まで穢れるという表現が幾度も記述されています。
さらに「のろう神」「ねたむ神」の記述が、幾度も何度も繰り返され、日本式表現すれば怨霊そのものです。

『記紀』を読むと、憤死した怨霊の祟り、死に対する穢れなどを、異常なほどに恐れ、嫌っている。
この怨霊の祟りを鎮めるために、原始仏教にはない葬儀と呪術を取り込んだ密教が日本に定着した。
元々原始仏教は死者のためではなく、生きた人間の悟りのための教えであった。
神道もまた、日本神話や聖書を読めば分かるように、死者の為の書ではない。

おそらく、怨霊の祟りや、怨霊の呪いは、日本に形骸化した仏教を定着させ、黄泉を広げることで、日本を支配するためのサタン・ナブーの計略だったのでしょう。
例えば、加持祈祷、陰陽道、呪術などで、如何に強力な怨霊になるかを教える。

次に、疫病や悲惨な状況を引き起こし、もしくは自然現象を利用して、祟りだと思わせる。
混乱した政権に、お告げの形で命令を出し国政と天皇を操ってきた。
このような事例は、大国主命、菅原道真、崇徳上皇 他、「記紀」の中にたくさん事例があります。
つまり、サタン・ナブーの悪行がそのまま描かれているのです。

また、神道で死を嫌うのは、モーセの律法(ユダヤ古代誌 司祭に関する特別の立法 P318)の中に、大司祭だけは死体に近づくことが許されない。
ただし、一般の司祭の場合には、兄弟や両親や子どもが死亡したときだけ、それに近づくことが認められていた。

また、モーセは司祭に常人に倍する純潔を要求した。
奴隷の女、戦争で捕虜になった女、水商売や客商売で生計を立てている女、理由の如何に問わず夫に離縁された女と、司祭が結婚することを禁じた。
また大司祭の場合は、寡婦との結婚も許されず、結婚相手は同じ部族の処女だけに限られた。
このようなモーセの律法を日本の大司祭も引き継いだのだと思われます。

◆倭姫についての補足(『天照の謎と正体』より抜粋)
『伊勢風土記』によれば、
「倭姫は飯野の高丘にお入りになり、
機屋を作って大神の御衣服を織らせた」
とあり、天照大神の食事、衣服、神殿を整えた。

「皇太神宮儀式帳」「倭姫命世記」によれば、倭姫の巡幸は伊勢の地を目指して、34年間も彷徨した。
この天照大神とその巫女である倭姫に、阿部臣、ワニ臣、中臣連、物部連、大伴連の遠祖達が随行した。
そして、巡幸した地域を恭順させながら進んだが、伊勢国は特に豪族の勢力が強く、「伊勢風土記」によれば激しい戦いがあった。
つまり、倭姫は自ら天照大神を祀り従いながら、戦いの最高司令官として戦闘をも指揮した。

この事実は、モーセの出エジプト時、ヤハウェに従い、荒野を40年間彷徨い、カナンの地を目指された当時と同じだと思います。

◆モーセ伝承に酷似する秦河勝
秦河勝の出自は不明で、モーセのように川に流されたが負けなかったというので、河勝という名前で呼ばれた。
モーセの時、神の真実を語るまに聖書の暗号化(聖書の暗号のこと)がなされたのですから、『旧事本紀』を完成させた秦河勝は、モーセと何らかの関係があったのでしょう。
おそらく、モーセが秦河勝を導いて『旧事本紀』を完成させたと考えられます。

◆神道家・長野采女と潮音が、『旧事本紀』を江戸時代に出版
『旧事本紀』の中に、伊勢の皇大神宮の別宮とされている伊雑宮の方が古いとする記述があったことを理由に、皇大神宮の神官たちが激昂し、
『旧事本紀』の詮議を幕府に申し立てた。
1681年、幕府は『旧事本紀』を偽書と断じ、発禁処分とした。
長野采女と潮音、伊雑宮神官は流罪と決まった。
しかし、潮音だけは時の将軍綱吉の生母・桂昌院の取りなしにより、謹慎五十日の後、黒竜山不動寺に身柄を移された。

この事例にもある50については、五十鈴川、50個の土簡なども含め、ヤハウエの関与があったと、解釈しています。

◆『旧事本紀』の六家に関連して
『古事記 全訳注 上』の天照大神の天の岩戸神話に出てくる六神は、それぞれに役割が決まっています。
おそらく、これら六神の子孫が、吾道、物部、忌部、ト部、出雲、三輪に相当するのではないでしょうか。

高御産巣日神(タカミムスヒ)の子で、ニニギ命の母の兄の思金神は、天照大神が岩戸に隠れたときの天の岩戸開きの作戦を考え、豊葦原統治の段取りについて天照大神と一緒に実現を指揮した。
思慮を兼ね備えた智力の神と言う意味で、天照大神は「私の祭りに関することを取り扱って政事を行いさない」と仰せられたとあります。
また、五十鈴宮に、天照大神と思金神が祀ってあります。

政治関連を行う思金神とは、神社伝承では建築と知恵の神(思兼の「カネ」はカネジャクの「カネ」に通じ、これは曲尺、短尺のこと。
この曲尺は直角に曲がった物差しで、大工金とも呼ばれる大工道具の中では一番大切な物)とされ、
どうも神殿建設や生物学などに秀でていた科学者、トート(古代エジプトの知恵を司る神)関連の方のように思われます。

尚、天岩戸神話については日食であろうと考えます。
つまり、天の岩戸に隠れた天照大神=第三代ヤハウエは、天の岩戸から出現した第四代天照大神に王位を譲ったことを意味しているのです。

◆五瀬の命について
神武天皇の兄弟の、「五瀬(いつせ)の命」の呼び名が、「伊勢の命」と同じように感じられます。
また、イスラエルを、イス・ラー・エルに分解し、イスをイセに変えると、イセ・ラー・エルになります。
『出エジプト記の秘密 P118』によれば、イスラエルのエジプト語の意味は、「ラーと神の息子」です。
ラーは太陽、エルは正義なので、イセは神の息子に当たり、つまり正義の太陽神・天照大からの天孫降臨族=大和民族という意味だと解釈できる。
つまり伊勢神宮は、天孫族が太陽神を祀ると同義になると考えられます。
くわえて、数値5に同音の午には、くまのごおうほういん(熊野牛王宝印の神札)のように牛の意味もあり、エフライム族のシンボルです。
従って、五瀬の命は、エフライム族の御子という意味かもしれません。

◆スメラミコトの由来について
スメラは3千年前のサマリア(北イスラエル)に由来するものではなく、更に古いシュメル、バビロニア時代に使われた言葉に由来するという。
古代バビロニアのセム語で”神”を意味するスメルと”天降るもの”を意味するミグトが結びついて訛ったもので、本来は”天降れる神”の意であった。
エジプトの第18王朝アメンホテプ四世(アクエンアテン)の時代から発見された文書にはサマリアがスムル(Sumur)と記されていることに基づけば、2千8百年前から、3千年前のことだったかもしれない。
(『日本固有の文明の謎はユダヤで解ける』)

以上から、日本人は古来、自分達を「天孫降臨族」と呼んでおり、古代バビロニアのセム語での解釈”天降れるもの”と似た意味だと思います。

ただ、アヌンナキもまた“天降れるもの“であり、
アヌンナキとエフライムを同じ”天降れるもの”として表現することは、少し違和感があります。
やはり、ユダ族やエフライム族は“天降れるもの“の”子孫”という意味が正しいと思います。

関連して、『日本書紀と日本語のユダヤ起源』の中で、著者ヨセフ・アイデルバーグは、古代日本の伝統、宗教的儀式、俳句、民謡までもが、ヘブル語起源であり、「古代サマリヤ」との強いつながりを示していることを、記述しています。

一例ですが、他にも多くの事例が掲載されています。

『天孫民族』
「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである」
(申命記 14章1)

『神道』
「わたしの掟と戒めを守って、
わたしの道を歩むのなら」
(列王記上3章14)

「わたしの道」=「神の道」、
すなわち「神道」であり、
「神道」という言葉は、道教用語からの借用ではないと思われる。

つまり、祖先の行ってきた道を着実に執り行うことが神道の本質である。
その事によって、神の守護を得ることができる。

「神道の供え物」
神棚に供える餅(種なしパン)、酒、初物などは、イスラエル人の供え物と同じ。

イスラエル人が正月に種なしパンを食べるように、日本人も餅を食べ、休日を過ごす。

「正月の十四日の夕は主の過越の祭りである。
…あなたがたは七日の間は種入れぬパンを食べなければならない。
その初めの日に聖会を開かねばならない。
どんな労働もしてはならない。
…第七日には、また聖会を開き、どのような労働もしてはならない。」
(レビ記 23章5-8)

「彼らは正月の十五日にラメセスを出立した。」
(民数記 33章3)

また、イスラエルの供え物には、必ず塩が付されたように、神道にも付される。

「あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。
すべての、あなたの供物には、塩を添えてささげなければならない。」
(レビ記 2章13)

◆遺伝子で判明!!
日本人とユダヤ人は兄弟だった

下記、『月刊ムー 2010年11月号』久保有政 著より抜粋しました。

《科学的な面でも、今日ではDNAの研究から日本人とユダヤ人の遺伝子の近縁性が明らかになってきている。

日本人の持つY染色体D系統の遺伝子は、世界でも「日本人とチベット人にしか」高い頻度で見られない珍しいものだが、この遺伝子はユダヤ人ときわめて近縁な関係にある。

Y染色体は男性のみが持つが、大きく分けてA系統、B系統、C系統、DE系統、FT系統という5つの種類がある。
日本人とユダヤ人は同じ「DE系統」に属している。
日本人はD系統、ユダヤ人はE系統だが、DとEは同じ先祖から出て、古い時代にふたつに分かれたとされている。

DとEの系統はYAPという遺伝子マーカを持つ。
それで両者は「YAP型」とも呼ばれる。
これはDとEの系統だけで、日本人もユダヤ人もYAP型である。
日本人におけるD系統は、本土で約40パーセントもある。沖縄やアイヌの人々になるとさらに高率となり、計算上は日本人のほぼ半数近くにD系統がある、という結論になるわけだ。

ちなみに日本人はほかに、中国人や韓国人に多いO系統が50パーセント程度で、つまり日本人は、おおまかにD系統とO系統が半分ずつということになる。
興味深いことに、中国人(漢族)や韓国人はほとんどD系統を持っていない。

単純にいえば、DE系統のうち、シルクロードを乗へ進んだのがD系統であり、シルクロードの西側に残ったのがE系統であるという考えが浮かぶ。
両者はもともと同じグループだったが、古代に中近東あたりで分かれたのだ。

いずれにせよ、日本人と神道、そして秦氏は、シルクロードを通じて中央アジア、チベット、そして古代イスラエルへとつながっている。
それが明らかになる日も、さほど遠くはないと思われるのだ。



2-8.神武天皇を即位させた物部一族
記紀では、神武天皇がニギハヤヒ命を武力制圧したとあるが、石上神社の由緒や「物部神社」の社伝によれば、彼ら一族は天皇に恭順し、十種の神宝を奉り、即位に貢献した。
後に物部氏として皇室を護衛するようになった。

石上神社の由緒は、ニギハヤヒ命の長男ウマシマジ命が、神武天皇に王位を譲り、神武天皇即位時に、ニギハヤヒ命から授けられた王のしるしである十種神宝を渡したことを述べています。
つまり、記紀では、神武天皇が武力でニギハヤヒ一族を滅ぼしたことになっているが、事実は王位を譲ったことが分かります。

「ウマシマジ命は、父ニギハヤヒ命の薨去のあと、瑞宝を受けてその遺業を継ぎ、中州の開拓につとめられたが、神武天皇の大和入りにあたり、天皇を迎えて忠誠を尽くし給い、天皇の即位の元年にその瑞宝を奉り、鎮魂の神業を以て祈り奉った。
これが鎮魂祭の始めである。
天皇はミコトの忠誠を喜ばれ、武臣の首座として即位の威儀に立たしめ給いた。
その建国に功績を称えて祭祀される」

更に、ウマシマジ命が生涯を終えた地の島根県太田市に建てられた「物部神社」の社伝にも
「天皇(神武)をウネビノカシハラ宮にて天位につかせ給うとき、祭神(ウマシマジ命)は十種神宝を安置し、神楯を竪て斉い奉る」、
「ウマシマジ尊は物部氏の始祖なり。
神武天皇大倭国に御遷都のとき大功あり。
天皇その功を賞して、フツのミタマの神剣を賜う。
祭神もまた天祖(スサノオ尊)より拝承せる十種の神宝を奉りたまう。
かくて、天皇即位したまう…」
とあります。

従って、皇室は恩義を感じ、ニギハヤヒ命ゆかりの大和の三大神社を行幸し、祀ったのだと考えられます。
また、『出雲国造神賀詩』には
「国造りをした大国主命が子孫の神々を天皇家の守り神として奉って、自分は出雲大社に身を隠した」
(古代七大王国の謎 P146-147)
とあり、ニギハヤヒ一族もまた、天皇家を守護していました。

更に、天照神社、天照御魂神社、天照国照神社関連を調査したが、祭神は天照大神ではなく、ニギハヤヒ命だと突き止められている。
そして、三輪にある太陽神信仰の神がニギハヤヒ命であり、ニギハヤヒ命は太陽神だったことを述べています

◆日本の由来
『日本書紀 神武紀』に、
「ニギハヤヒ命、天磐船に乗り、太虚(おおぞら)をめぐりゆきて、この郷をおせりて天降りたまうとき、
名づけて『虚空見日本国(そらみつやまとのくに)』という」
とある。

◆十種の神宝について
ニギハヤヒ命が大和の地に遠征したとき、父スサノオはわが子に祖先から伝わる十種神宝をもたせ、蘇生の術を教えた。
この呪文は物部氏の石切剣箭命神社に伝わっており、この神社は傷が治る神社として知られている。
また、『鎮魂の祝詞』には皇祖神が鋳造された十種の神宝をニギハヤヒ命に授けて、皇祖神がいわれるには、
「ニギハヤヒよ、この十種の宝をもち、か弱き国民が病になったときは、
この十種の宝を用いて
『ひと ふた み よ いつ む なな は ここの たり』
と唱えよ。
これを唱えるなら、死人も生き返るだろう」
(神道行法の本 P78)
とある。

また、ウマシマジ尊は神宝だけではなく、鎮魂法も伝えたとされ、これが天武天皇に伝承されて鎮魂祭につながったと云われている。


2-9.大化改新は
ヤマト(ヤハウエの民)の復活だった
大化改新では、モーセの律法が復活した。
そのことは、[日本書紀と日本語のユダヤ起源]が雄弁に物語っている。
また日本式律令制は、宦官と科挙を否定し、神祇官と太政官が、天皇の下にある。
この太政官が後に武士に代わり、幕府体制となる。
シナの律令制とは別物である。



大化改新の主要な目的は、天照大神のもとで、神道を、日本の国家的な宗教の座に回復させる事にあった。
『日本書記』の大化改新については、
『日本書紀と日本語のユダヤ起源』の中に、旧約聖書との関連が証明されております。
日本書紀と旧約聖書を読んでいても、意識して関連づけなければ、全く無縁のものとしか思わないことでしょう。

例えば、武烈天皇(在位498年~506年)に関して、
「長じて裁きごとや処罰を好まれ、法令にも詳しかった」
とあるが、
「法令」は書かれたもののことであり、漢字渡来以前に日本固有の文字が有ったことの証拠の一つ。

また、日本で18は長寿を示している。
なぜなら「生きている」を意味するヘブル単語「ハイ」の数値は18だからである。
俳句の17字、十七条憲法のように、
17は「良い兆し」を示すとされているが、「良い」を意味するヘブル語「トープ」の数値は17である。
さらにヘブル文字に酷似したカナ文字を使う日本人は、ヘブル文字を知っていたと述べています。
本書は非常に簡明で説得力があるので、これを抜粋して紹介いたします。

◆大化時代の開始
皇極天皇の治世第四年の七月一日に始まった。

七月一日は、ユダヤでは新年にあたる。
聖書ではこの日を「聖なる集会」の日としている。

「第七の一日の安息の日として守り、角笛を吹き鳴らして記念し、聖なる集会の日としなさい」
(レビ記 23章24)

◆捧げ物
七月十四日に使節を遣わし、神道の神々に捧げるための捧げ物を集めた。
聖書では、ユダヤ歴七月十四日の夕方から「仮庵の祭」が始まる。
その時、神殿に捧げ物がされるので、十四日にはその捧げ物が用意された。

◆奴隷の子
大化の政府は、男女に関する法の中で、
「もし二つの家の間で男奴隷と女奴隷が子を生んだなら、その子は母につけよ」
としている。
『出エジプト記 21章4』では、もし主人が男奴隷に女奴隷を妻として与え、彼らが子を生んだ場合、子は母につけよとしている。

◆土地再分配
大化の政府は「班田収授法」を作った。
これは六年ごとに、農業用地を人々に再分配するものだった。
『レビ記 25章3-4』では、六年の間収穫し、七年目には土地に安息を与えるとある。

◆人数に応じた土地
大化の土地配分は、戸籍に基づき、家族の人数に応じてなされた。
『民数記 26章54』では、
「人数の多い部族には多くの、少ない部族には少しの嗣業の土地を与えなさい。
嗣業の土地はそれぞれ、登録された者に応じて与えられねばならない」
としている。

◆親族の死
大化改新では、
「死者のために生きている者が断髪したり、股を刺したりて、しのびことを述べたりする旧俗は、ことごとくみなやめよ」
としている。
親族が死んだとき、
「自分の頭髪の一部を剃り上げたり、髭の両端をそり落としたり、身を傷つけたりしてはならない」
(レビ記 21章5)としている。

◆嘘言
大化改新では、
「見ていながら見ないと言ったり、見ないのに見たと言ったり、聞いていながら聞かなかったと言ったり、聞いてないのに聞いたなどと言う者がある。
正しく語り正しく見ることなくして、巧みに偽る者も多い」
と述べ、嘘を禁じている。

『レビ記19章11』に、
「盗んではならない。
うそをついてはならない。
互いに欺いてはならない」
と述べている。

◆証人
大化改新では、妻を疑って、三人の証言があっても皆で相談した後、官に訴えるべきであると述べている。
『申命記17章6』に、
「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。
一人の証言で死刑に処せられてはならない」
と述べている。

◆宴会
大化改新では、
「農耕の月には田作りに専念させ、美物(魚)や酒を食することを禁ずる」
と述べている。

聖書にはないが、古代イスラエルの伝統によれば、例えば収穫をしてから七週間は、いかなる宴会も慎まなければならなかった。

◆地域の監視
大化改新では、
「京師を創設し…区画ごとに長を一人置き、四つの区画に令一人を置き、戸口を管理し、正しくないことをする者を監視せよ」
と述べている。

『申命記16章18』に、
「主が部族ごとに与えられるすべての町に、裁判人と役人を置き、正しい裁判をもって民を裁かせなさい」
と述べている。

◆二倍の償い
大化改新では、「不当に自分の身に入れたものは、倍にして徴収せよ」と述べている。

『出エジプト記 22章8』に、紛失物での言い争いについて、
「神が有罪とした者が、二倍の償いをせねばならない」
と述べられている。

◆カタカナとひらがな
カタカナはヘブル文字に酷似している。
「カタカナ」は、「カナンの文字」を意味するヘブル語「クタ・カナン」が若干訛ったものではないだろうか。

また、「ひらがな」は、ヘブル・アラム語の「絡み合った」を意味する「エーラ・クタ・カナン」(絡み合ったカタカナ)が、後に「エーラ・カナ」となり、
これが短く訛ったものではないかいだろうか。

◆『ユダヤ製国家日本』より
本書によれば、日清戦争では、神戸に寄留してシェル石油会社を開いたユダヤ人・マーカス・サミュエルの支援があった。
そして、日露戦争では膨大な戦費の半分以上が、ロシアに虐げられていたユダヤ人達、及びユダヤ人・ヤコブ・シフにより調達された。
そして、シフへの感謝を明治天皇も、昭和天皇も忘れることはなかった。
更に、明治憲法は、ユダヤ人・アルベルト・モッセの忠告を受け入れ、立憲君主制度を柱として、きわめて民主的な憲法となった。
モッセは明治憲法の父と呼ばれている。
このように、明治初期に、多くのユダヤ人が、西洋の学問や技術や芸術を日本へ伝えるのに貢献している。
そして、敗戦後の日本国憲法・農地改革他に、ユダヤ人の多くが、差別の激しかったアメリカでは実現することができなかった社会改革の夢を、持ち込んだ。

明治の日本は、後に新生ユダヤ人国家であるイスラエルが建国されるのに当たって、大きな精神的影響を及ぼして、貢献した。
その仲介役が日露戦争時に、日本の捕虜となった「片腕の英雄」「イスラエル軍の父」と呼ばれているヨセフ・トランペドールだ。
日本でいえば、坂本龍馬か、吉田松陰のような存在であろう。
トランペールは、日本語を喋り、サムライの精神をイスラエル建国の柱とした。
今日、イスラエルではどのような小さな村でも、かならず日本の武道が行われている。
東と西に遠く離れて、同じ魂が脈打っているのだ。

更に興味深いことに、秦氏は多くの氏族を持ち、
伊賀の服部、宇佐の辛島、田川の赤染、長光、松尾、赤松、物集、島津、長宗我部、呉、等々。

しかも、各氏族が、
養蚕・畜産・鍛金・治水・土木・修験・芸能など産業の専門である。
能の世阿弥、松尾芭蕉、服部半蔵、薩摩の島津家も、秦氏=ユダ族・レビ族である。

◆神の前の平等はシュメールから
神の前の平等については、その萌芽は既に古代シュメール時代の律法にありました。
日本では無礼講に相当します。
ニヌルタとエンリルの神殿=エニンヌ神殿の建立を祝賀して一時的に奴隷解放を行った。
この善政が、ウル王朝にて、奴隷解放を行うきっかけとなった。

「彼の主人(ニヌルタ神)が神殿に入った日から七日間、
女奴隷は女主人と同等であり、男奴隷はその主人と並んで立った」

発展して、モーセの律法では、
「ヨベルの年」50年に一度、全耕地が休墾され、負債が免除され、奴隷は解放される。
この影響を受けているキリスト教国では、後進国の債務を免除する習慣がある。

◆日本の律令制は唐の律令制と根本的に違う

『日本式律令制=神話継承の律令制』

大宝律令は、中国と違って、神祇官と太政官が、天皇の下にあり、しかも天皇直轄の神祇官が太政官の上位の形で並存していた。
この太政官が後に武士に代わり、幕府体制となる。
つまり、画期的な政教分離なのである。

隋唐以降のシナは、神にではなく政治に救済を求めた。
だから、日本の神祇官が政治の下位に来ている。

卑弥呼(日巫女)、天照の本名はオオヒルメムチ=太陽の妻(神妻)であり、ほぼ同じ意味となる。
つまり、古代日本の時から、太陽神を主神として祀ってきた。

しかし随・唐の覇権から独立を守るために、モーセの民がイスラエル国家を建国したように、国家としての体裁を整える必要があった。
そこで、神を祀るに相応しい律令制を導入したのです。
ここがシナの専制皇帝制と全く違う所で、イスラエルの神の叡智に従ったのでした。

『サムエル記』にすでに、ヤハウエは政教分離のあり方を示している。
サムエルが年を取り、息子達が父親より劣っているのを見ると、
イスラエルの民は周囲の強国のように自分たちの上に「他の全ての国のように」王を求めた。
そこで、サムエルは民が神の支配を退けたと感じ、神に祈った。
神は民の声に従うようにサムエルに答え、王政を導入する前に「王の権能」を民に知らせておくように告げた。
「王の権能」には、軍事活動やその他の活動への民の徴用、民の土地の没収、税の徴収などが含まれていることを、サムエルは民に告げ、次の言葉で締めくくった。

「こうして、あなたたちは王の奴隷となる。
その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。
しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない」

これに対し、民は次のように答えた。

「いいえ。我々はどうしても王が必要なのです。
我々もまた、他の全ての他国の国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いを戦うのです」

そして神の目にかなったベニアミン族の長身のサウルは、サムエルに油を注がれ、イスラエルの初代王となった。

「油を注ぐ」ことは、神がその人を王に任命したことを意味する。
油を注がれた者はヘブライ語で「マシアハ」と言い、この言葉が「メシア」の語源となった。

サウルは軍事的才能を発揮し、縦横無尽に活躍する。
ところがサウルは、神への感謝の犠牲を自ら捧げてしまう。
神への犠牲を捧げる儀式は司祭にのみ許された行為であり、王がこれを行うことは許されていなかった。
その結果、神はサウルを王位から退けたのだ。
神はサウルに代わり、ダビデという少年に油を注ぐようにサムエルに命じたのだ。

どうだろう、これが神を頂く政教分離の原型そのものだと思うのです。
どうだろう、イスラエルの神を天照大とし、天皇を大司祭とみなせば、大和朝廷がイスラエル王国と同等だと言うことは明らかでしょう。
そして、イスラエル人がヤハウエの民=神の民だから、
大和民族=神の民は、天孫族なのです。


2-10.愛と律法について
愛は律法と罪の概念を空しくするものではなく、律法を完成するものであり、慈悲は戒律と魂の研磨を離れては存在しない。愛は律法を完成するものとは、何という素晴らしい言葉でしょうか! 神武天皇は「道義国家」をめざされましたが、愛と律法無くしてそれは達成できないのです。



愛は律法と罪の概念を空しくするものではなく、律法を完成するものであり、慈悲は戒律と魂の研磨を離れては存在しない。
愛は律法を完成するものとは、何という素晴らしい御言葉でしょうか!!

「律法と愛」は「法治国家の憲法と愛」と同等で、正しい国体を守ろうとする愛国心が、正しい形の愛であれば、他者への思いやりと慈悲を伴うということ。
ひいては、平和をもたらすこと、即ち一国民として国法を守り、愛を実践することは、正法そのものだということが明らかになります

大東亜戦争においても、敵味方共に人類愛の発露がありました。
特に東京裁判は、カインの弟殺しから始まる心正しい方への報復そのものです。
日本の敗戦により、多くの国々が共産主義国となり、無実の人々が虐殺され、そして飢えで亡くなられている方々が多くいらっしゃったのが現実です。
戦後の日本国体は不完全のままではあっても、幸い経済的には復興しました。
現代において、左翼思想が日本を暗夜のように覆い尽くせば、シナの軍事介入から、ついには日本という国体が、今度こそ抹殺されてしまう可能性もあります。

出エジプトから荒野へ彷徨した時、神々は、奴隷としての集合体を国家を形成するまでに鍛え上げられました。
その制度はモーセの律法であり、文字と部族での役割分担の伝承でした。
失われた十氏族は、祖先の法を従順に実践する為、多くの苦難を背負いながらも日本に渡来されました。
小国に分かれていた古代日本では、卑弥呼=日巫(女性霊能者の職名)、日覡(男性霊能者の職名)により神に信託を仰ぎ、これを大司祭が部族制の元で、施政していました。

その後、皇室により国が統一され、随唐の脅威に対抗し、聖徳太子は国を立て直すため、統一大司祭を天皇と名乗らせたのです。
中国の古代史では、司馬遷により神の歴史は失われ、皇帝の歴史のみが残されました。
司馬遷もまた稗田阿礼同様に、神の歴史・真実を残そうとした悲劇の人でした。

日本では漢字化、密教化した仏教の導入により、日本の国体が失われかけました。
科挙の制度を排除した律令制、十七条憲法、イスラエルの各部族の秘宝=大化の改新、源氏物語、和歌他の日本文化の勃興により、異なった形でモーセの律法を存続させ続けたのでした。

苦難の歴史の中、仏教革命とキリスト教革命を断固として阻止しようとした戦国武将から、ついに明治の「神仏判然令」「明治憲法」「五箇条の御誓文」「教育勅語」へ、そして大東亜戦争の英霊へと大和魂は引き継がれてきました。
律法と愛の関係=神と人類の歴史が、旧約聖書を通じて日本につながることが再認識できました。

◆古代日本の危機と天皇制の勃興
神との契約はアブラハムに始まる。
アブラハムから皇室に至るまで、基本的に後継者は男系である。
それは旧約聖書に連綿とつづられている。

日本に定着した天孫族は、稲作を始めることで、イスラエル人特有の遊牧的な狩猟生活から、農耕民族へと移行していった。
その中で、社会変革が必要となり、モーセの律法を基盤とし、律令制を取り入れる必要があった。

ところが、天智天皇は「白村江の会戦」で敗戦し、日本は唐の植民地化政策を受け入れた。
漢字化を余儀なくされ、仏教をも受け入れざるを得なかった。
天武天皇により大宝律令が制定され、律令制の基盤が整った。
唐の律令制の基本は、最高の人徳者が皇帝として君臨し、誰もが受験できる科挙の試験により優秀な人材を選抜し、官僚がこれを支えるという社会システムである。
神儀官はあくまでも、政務官の支配下の一部局に置かれていた。
もしくは、存在しなかった。
皇帝はすべての政治事案を処理し、一族郎党が独裁者として君臨していたが、毎日が多忙だった。

つまり、唐の律令制をそのままの形式で日本が受け入れることは、小沢氏が陛下を政治に利用して当然とする野望同様、君主としての天皇制を破棄することだった。
そこで、統治者としての天皇を正当化する為、中国にも分かるよう漢文にて古事記、日本書紀が記録された。
そして、唐の律令制の基盤である科挙の制度を排除し、天皇の下に、神儀官と政務官を並列しておき、神儀官を上位とした律令制を完成させた。
名目上は律令制であるが、内情は古代イスラエル王国とそっくりの社会制度であり、モーセ当時からの社会システムを継承し続けたに過ぎなかった。
同時に、古代文字を隠蔽し、かな文字による日本文学が勃興した。
漢字はあくまでも日本語の表記に便利な道具として取り入れられたに過ぎなかった。
律令制をも取り入れた日本は、仏教の影響はあったが、源氏物語から始まる日本固有の文化を大きく発展させることに成った。

一方、韓国では全面的に唐の律令制と漢字化を受け入れ、自国の文化を捨てた。
この為、唐を基準とした視点でのみ日本を見続けていたので、自国よりも数段下等な国家と見なしていたのだ。

この当時の天皇の役割は、政治的なことについては政務官に任せ、承認を行っていた。
通常は、神儀を執り行っていた。
時代が進むにつれて、この政務部門が、藤原、平家、源氏、幕府に変わったが、国体は変わらなかった。

黒舟の襲来と共に、今度は日本国体に、西洋文明を受け入れ、近代国家としての明治憲法を立憲君主制として制定した。つまり、政務部門を国会とし、日本人固有の文化を育てたのです。

このように古代イスラエル王国のシステムに、時代に応じて律令制、西洋文明を柔軟に取り入れながら、日本の国体は発展してきました。
その原点は神武天皇の道義国家をめざす理念と、男女和合の日本神話、日本に平等と高等な感性をもたらした和歌である。

ここに古代からの天皇の役割について、非常に興味深い記録がありますのでご紹介します。

天皇が実際に統治権を行使した例はほとんどありません。
これは律令制以前からの状態が続いていると見なされています。
もし、天皇がキリスト教的な意味でのGODであれば、現在も未だ「神代」であるのですが、天皇は「人代」に出現しています。
しかも、天皇は神を祀る大司祭であり、祀られる対象ではないのです。
病気を治すとか、不幸や災いから救ってくれるとか、幸福を約束するとか、新興宗教の教祖ではありません。
逆に、困難が来た時に、神に祈るのが天皇なのです。

ではなぜ「アラヒトガミ」といわれるのか。
「ヒト」つまり「人」であり、「神代」の神々は「アラヒト」ではありません。
なぜ「カミ」が附くのかといえば、統治者への尊称です。
上代において、この尊称が出てくるのは「万葉集」に二例だけで、他にはありません。
マッカーサーは、天皇制=軍国主義を危惧しましたが、天皇制にはまったく軍国主義的なところはありません。

イスラエルの正当な末裔である日本人は、国体の危機に直面する毎に、神の民としての自覚が如何なる危機をも克服して来たといえるでしょう。
愛は律法と罪の概念を空しくするものではなく、律法を完成するものだとメッセージにあります。
愛国心が、正しい形の愛であれば、他者への思いやりと慈悲を伴う。
ひいては、平和をもたらします。
即ち一国民として国法=律法を守り、愛を実践することは、いつの時代を通じても、正法そのものだということです。

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