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ルーツ・ファンタジー/日本神話に刻まれた神々の叡智 2

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転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

日本神話に刻まれた神々の叡智

■神話継承の法治国家(道義国家)

◆大化の改新、日本は太陽神を祀る国体
~日本式律令制=神話継承の律令制~
卑弥呼は日巫女で太陽神の巫女の意味だ。
女性アマテラスの本名は、オオヒルメムチで、太陽の妻の意味であり、つまり神妻の意味となるので、日巫女もアマテラスもほぼ同じ意味となります。
つまり、古代日本の時から、大和民族は太陽神を主神として祀ってきたのです。この祭儀の長が天皇=大司祭です。
モーセの民が彷徨を終え、イスラエル王国を建国したように、大和民族もまた国家としての体裁を整える必要があった。
そこで、王国ではなく、神を祀るに相応しい律令制を導入したのです。
(⇒『大化の改新』)。


( シナは随唐以来、というか孔子の儒教により、神にではなく、政治体制に救いを求めてきました。
全権を持つ皇帝が、官僚を通じて天下を支配するという思想です。
この政治形態を維持するために、律令制が成立しました。
ですから、シナの場合、神を祀る神祇官が政治家の下部組織の一つでしかありません )

大化の改新で、氏族制度から中央集権的な国家へと移行しました。
この時、律令制を取り入れます。

天皇の元に、太政大臣と天皇直轄の神祇官が並立しています。
神祇官が政治家の太政大臣より上位なのです。
この太政大臣が、藤原氏、武家、それから幕府に相当し、天皇は直接、太政大臣を統治することはありませんでした。

大和朝廷も同じで、氏族制度から、立憲君主国へと移行するために、律令制を参考にしたに過ぎませんでした。
これが、日本の国体です。

つまり、神を祀り、神に救いを求める国家システムが、日本の国体です。
そして、神道の神を祀る国家として樹立した。
さらに、神祇官は神道を、太政官は日本式儒教・日本式仏教・日本式景教・道教を取り入れ、護国を祈願した。
その結果、
神道と日本式仏教が互いに影響し合い、
律令よりも武家諸法度に価値を置き、政治の世界には民主主義の基本ができあがったのである。

( ちなみに、シナの律令制では民主主義は永久に生まれない )

現在は、天皇が即位するときに一度だけ行われる大嘗祭ですが、神と寝床を同じにして神霊を受ける儀式があります。
以前は毎年行われていたとのこと。

また、古代バビロニアでは、新年を迎える前に王は退位し、新たに新年に即位する。
この時、王は太陽神・マルドウクとして、天地創造の神話を祭儀劇として演じていたという。

大嘗祭は古代バビロニアの即位形式を受け継いでいる。

◆北条時代のサムライ教訓集
神話継承の法治国家をみる
たとえば、
葬式の近くで笑うな、
道は相手がだれであれ自分からゆずれ、
出家を誹諾するな、
親の教訓を守れ、
酒の肴や菓子は人に多くとらせろ、
料理は人より多くとるな、
服装はほどよく、大きな太刀や目立つ具足を持つな、
かげぐちをするな、
いやしい人でも道で会ったら挨拶せよ、
自分を抑えて人の言い分をきけ、
なるべく他人に用をいいつけるな、
知っていることでも一応きけ、
「知りて問ふを礼とす」(論語)、
その年齢らしく振舞え、
仏前・神前また沙門とゆきかうときは下馬せよ、
旅のとき人夫や馬に重い物を持たすな、
手紙は字のうまい人に代筆させ、悪筆の自筆を送るな、
親や祖父の仏事に人をわずらわすな、
理由もないのによくしてくれる人は何かあると思え、
借りたものは急いで返せ、
物を盗まれても、訴えてその者の一生を台なしにするようなことはするな、
百姓が垣内に植えた木の果物などを所望するな、
他人と議論するな、
境界争いの訴訟をするな…‥等々。

他にも、
独身の方が良いが一夫一婦にせよ(妾を禁じてはいない)、
妻子の言うことをきちんと聞きなさい、
酒や遊女などに溺れてはならない、
と現代にも通じる常識的なものだった。

更に、武士の法律である御成敗式目には、
裁判においては、親族とか好き嫌いや権威に左右されず、道理に従い言葉を出すべき。
また、
決断は一同の誓願した神に対する連帯責任である。
例え多数決で決められた法律でも、
適当でない場合には破棄すべしとある。

しかも皇室を尊んでおり、それが幕府そして五箇条の御誓文にまで受け継がれていく。
(『日本人とは何か』より抜粋 )

ここに、日本独自の神話継承の法治国家、即ち神武天皇の精神と民主的な法治国家が融合したのです。

明治に入り、日本型民主制を基本とし、明治天皇により西洋型の民主制が取り入れられ、「五箇条の御誓文」「教育勅語」が日本の基盤となりました。

敗戦後、昭和天皇の「新日本建設に関する詔書」、
俗称「天皇の人間宣言」に「五箇条の御誓文」を掲げ、日本の再出発の原点とされたのです。

◆御成敗式目の精神、皇室の役割
武家諸法度=貞永式目は、公家に適用される法律ではありませんでした。
庶民から立ち上がってきた武家と庶民に対する法律でした。
( 公家には公家の諸法度がありました )

武家諸法度ができる前は、裁判が起こると、律令制により漢字で規定された決まりがあり、誰も読むことができないもので、都度、専門家がやってきて裁定していました。
その裁定は、専門家以外は理解できないので、その時々により裁定が変わり、またそんな法律を誰も知らないので不満が募っていました。

そこで、ひらがなしか読めない庶民にも分かるように、しかも律令制の決まりではなく、当時の社会慣習通念を規範として、ぶれない裁判を行うことが式目の精神(前文)でした。

しかも、13名の裁判官は、私利私欲や権力に左右されない裁定を下すことを、神に誓いました。
道教式に多数決により神意を問うたのです。

◆神話継承の国民の憲法を!
鎌倉時代に制定された御成敗式目は、
武士や農民にも分かること、
各裁判で基準が同じになること、
つまり「道理」に従うことを目ざしました。
声の大小に関わらず、権力者にこびず、
を実現しました。

日本独自の国民憲法だ。
天道をバックボーンとした「道理」というのは “因果応報” 、
つまり “目には目を” と同質で、
遠くは、古代バビロンのハムラビ法典、
モーセの律法、に立ち戻った大化改新の精神でもあります。

ハムラビ法典、モーセの律法では、神により与えられた掟が国家の絶対の法律で有り、これを実行することが正義とされました。
一方、御成敗式目では、
「天道」=日本神話(全知全能の神、創造神は無い)をバックボーンとし、
人間が社会通念としての「道理」の有り様を模索し、立法化した。
だから道理は相対的なもので、
その場その場に応じて柔軟に運用され、
筋を通しました。
(これが日本の社会正義)

それゆえ、道理を越えた「天道」=お天道様=天照大を崇敬していたのです。
(日本の正義)

だから、西洋式の正義と日本の正義には微妙な違いがあります。

◆礼は、変わらぬ武士の道理
藤原泰衡を捕虜とした。
誰の功労なのか分からず、審問者は泰衡に問うた。
が、無礼だというので彼は一切口を開かなかった。
困り果て、頼朝に伺いを立てた。
頼朝は、勝者であろうと敗者であろうと、武士の間には礼があるとし、審問者を交替させ、非礼を詫び、礼をもって問うたという。

◆北条泰時
ある武士が亡くなるとき遺言を残し、弟に所領を相続させるとあった。
父に尽くした孝行者の兄は不審に思い、訴えたが、当時は遺言が絶対であった。
兄はすぐに生活に困窮した。
泰時は不憫に思い、彼を自分の屋敷に置き、貧しくはあったが妻を娶らせた。
所領に空きができ、彼に与えたという。

◆ザビエルの日本人観
彼がポルトガル人から受け取った手紙。

日本人は非常に賢く、思慮分別があって、道理に従い、知識欲が旺盛であるので、私たちの信仰を広めるには大変良い状態である。
・・・
だが新井白石は、キリスト教宣教師について、科学知識はすばらしいが、形而上は子供だと述べている。

◆ザビエルの苦悩
ゼウスが全能の主だというのなら、なぜその教えが日本に伝わるのがこんなに遅くなったのか。
そしてデウスの教えを聞く以前に死んだ先祖達はすべて地獄に落ちることになるが、そのような不手際を犯すデウスが何故に全能で且つ十全の慈悲の主であるのか?との質問に答えられない・・・

◆ザビエルと真言宗
彼がデウスの属性について僧侶に話した。
僧侶には、ゼウスの属性が大日に非常に似ているように思われた。
そして、言語と習慣において異なっているが、デウスの教義と真言宗の教義とは一つで、同じだと語った。
・・・
つまり、ヤハウエと七大天使は、日本式仏教的には、大日如来と七福神として日本に渡来していた・・・

◆日本精神は卑弥呼以前から
明治時代末期で識字率は98%でしたが、江戸時代にも寺子屋での就学率は70%にも達していました。

ところが、信長の時代でも、外国人宣教師の記録には、日本人の多くが読み書きができ、治安がよく、温和で、思いやりのある日本精神を賞賛している記録が残っています。

また、三世紀頃の「魏志東夷倭人伝」の卑弥呼の所に、
「婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、訴訟少なし」
(婦人は淫らでなく、窃盗や争いごとが少ない)
と述べています。

更に、太子の時代の「隋書東夷伝」にも、
日本人は文明度が高く、物静かで争わず盗人も少ない、
性格は率直で上品なところがある、
と書かれています。

中華以外を「夷狄」として野蛮視する史書の記述としては、十分な褒め言葉だと『日本人は何故世界から尊敬され続けるのか』の中で、黄氏は指摘しています。

つまり、日本精神は太子以前の三世紀前にはほぼ確立していたことがうかがえるのです。

だから、君臣一体となり一つの家族として仲良くする国家観(道義国家)、
奴隷と独裁者を嫌い日本的な意味での自由を愛する精神は、
神武天皇自らが多くの和歌を詠み育まれてきた日本的な思いやりと感受性に根源をさかのぼるのだと思います。
これがユダヤの正当な末裔が神の御心を受け継いできた大和魂の原石( 核心 )ではないでしょうか。

◆個人の責任について
外国人なみに個々の責任というものが正しく究明され、それに応える人生を生きて来たなら、もっと理性でもってすべての事柄、事象を整理し、全体的総合的に整理して、それらを理解しようと努め、責任ある解明をなしたことでしょう。  

自由と放蕩の違いは、自由の前提である規律に他ならない。
自由は規律を伴い、そして自由を保障するものが勇気である。

◆独立国の条件
東京裁判でインド代表判事であった、ラダ・ビノード・パール博士は講和条約に対して次のように言われました。
下記の四条件は、当時もこれからも、一つでも欠けさせることはできません。

《 独立国には四つの条件が具備されなければならぬ。

① 国家の基本法である憲法は自分達の手で書く。
② 自分の国土(領土)は自分達が守る。
③ 国家の祭祀・信仰は何びとからも干渉を受けない。
④ 師弟に対する教育も同様に、他国からの干渉を排除して、自分達の意思に基づく。》


◆国民に対する陛下の御期待
元侍従次長・木下道雄著
昭和44年『皇室と国民』より

最後に私は、陛下が国民に何を御期待になっておいでになるか、について、私の感得していることを申し述べたいと思う。

陛下の御記憶力は極めて強靱で、且つ一点の「私」をもお持ちにならないお方であるから、その御判断は、捉われるところもなく、また、傾くところもなく、極めて正確である、と私は信ずるが、めったに他を批判するようなお言葉はお口におだしにならないから、以下、申し述べるところは、私が、私なりに感得したものとして、おききを願いたい。

陛下は多年の御経験から、陛下の最も重視されるものは、国民の良識である、と私は思う。
この良識さえ、しっかりしていたならば、このたびの悲惨な戦争も起らなかったのではなかろうか、
現に開戦前に、戦うことの不利を主張した多くの憂国の非戦論があったではないか。
然るに、残念ながら、これらの非戦論は国民与論のために圧倒され、葬られてしまった。
というのが、陛下の御回顧である。
この非戦論を葬り去った国民与論なるものは、果たして国民の良識であったであろうか。
ここに陛下の御心配あるのである。

陛下の御胸中を拝察すれば、日本国民のただ一つの欠点は、一部煽動者の言説に、すぐ附和雷同する性僻であって、熟慮判断して所信を堅持する力が弱い、
この弱点を補強するには、国民の教養を高め、( 正しい )宗教心を深めるより他に途はない。
(陛下が宗教心と仰せになるのは、何も一宗一派に限って仰せになるのではない。)

教養が高くなれば、物ごとを熟慮判断する力が強くなって、流言蜚語に迷わされる虞れもなく、
また、宗教心が深くなれば、自分の信ずるところを守り抜く力が強くなって、脅迫や誘惑に打ち克つようになるであろう。

故に、将来は、どうしても国民の教養と宗教心とを向上させなければならない。日本がこれに成功して、日本人が世界のうちで優れたものとなり得た暁には、かつては戦争諸原因の根底をなした、かの人種問題にしても、嘗っての如く、嫌われたり疑われたりする代りに、各国民の尊敬と信頼とをかち得て、人種問題も、おのずから、その重大性を失うであろうし、
また、自由主義、民主主義も、正しい意味に於て、国民生活のうちに確立され、各人は自由の基礎に正義があり、権利の傍らに義務を存することを、よく知るようになる。

かくして、個人の人格と自由とは、国民相互の間に尊敬され、各自がその信念によって行動するところの自由闊達な国民が出現するに至るであろう。

かかる国民こそ世界平和の中核であり、
旦つまた、これが、古来、わが皇祖皇宗の期待し給うたところの大和民族の真の姿ではなかろうか。
というのが、陛下の真のお気持ちではないか、と私は考えている。


◆国民実践要領:前文
わが国は今や講和の締結によって、ふたたび独立国家たる資格を得、自主的な再建の道を歩み始むべき時期に際会した。
しかるに国家独立の根源は国民における自主独立の精神にあり、その自主独立の精神は、国民のよって立つべき道義の確立をまって初めて発現する。
道義が確立しない限り、いかなる国の国民も独立独行の気はくを欠き、その国家は必ずや内部から壊敗し衰滅する運命をもつ。

われわれは新たに国家再建に向って出発せんとするにあたって、建設へのたゆまざる意欲を奮い起すとともに、敗戦による精神の虚脱と道義のたい廃とを克服し、心を合わせて道義の確立に努めねばならないのである。
道義を確立する根本は、まずわれわれのひとりびとりが自己の自主独立である人格の尊厳にめざめ、利己心を越えて公明正大なる大道を歩み、かくして内に自らの立つところをもつ人間となることに存する。

また他の人格の尊厳をたっとび、私心を脱して互に敬愛し、かくして深い和の精神に貫かれた家庭、社会、国家を形成することに存する。
自主独立の精神と和の精神とは、道義の精神の両面である。

われわれの国家も、自国だけの利害にとらわれることなく、公明正大なる精神に生きなければならない。
それによって国家は、他の何ものにも依存しない独立の精神と気はくをもって、新しい建設の道を進み、世界の文化に寄与しうる価値をもった独自の文化の形成に向うことができる。
また同時に、他の諸国家との和協への道を開き、世界の平和に貢献することができる。

われわれのひとりびとりもわれわれの国家もともにかかる無私公明の精神に生きるとき、われわれが国家のためにつくすことは、世界人類のためにつくすこととなり、また国家が国民ひとりびとりの人格を尊重し、自由にして健全な生育を遂げしめることは、世界人類のために奉仕することとなるのである。

無私公明の精神のみが、個人と国家と世界人類とを一筋に貫通し、それらをともに生かすものである。
その精神に生きることによって、われわれは世界の平和と文化に心を向けつつ、しかも祖国を忘れることなく、われわれの国家も、犯すべからざる自主独立を保ちつつ、しかも独善に陥ることなく、天地にはじない生活にいそしむことができる。
ここに道義の根本があり、われわれは心を一つにしてかかる道義の確立に力を尽さんことを念願する。
この実践要領を提示する主旨も、ここに存するのである。



天照大神から授かった三種の神器(鏡・剣・勾玉)は、
「正義と真実・武・真心」とされ、
一言で言えば大和魂である。
その教義は古事記に語られている。

この精神は、神武天皇の建国の詔と和歌に引き継がれ、大東亜戦争では道義国家の建国と人種平等を目ざした。

GHQの占領政策により、第九条により「武」は封じられ、東京裁判により「正義と真実」が隠蔽され、神道禁止令と教育改革により「真心」まで歪められてしまった。

日本を取り戻すためには、大きな変革が必要だ。
国内では、憲法を改正して「武」を取り戻し、反日を嫌悪し親日を尊ぶ、東京裁判を再審して正義と真実を取り戻す。
すべての国家に対し道義国家(法治、人種平等)を主旨とした外交努力を行う。
それが、平成の大和魂=三種の神器=大和民族の復活である。

すべての国家の法治と人種平等を旨とすることは、尖閣・竹島についてはこの視点から、民主主義国家と連帯して毅然と対応する。
チベット・ウイグル・内モンゴルの弾圧についても同じである。


■皇室と日本の歴史概観

皇室と日本の歴史に関連して、興味深い部分について『日本人の歴史』より抜粋しました。

◆楠木正成の「聖戦思想」
正成の戦いぶりが独特であったことは注目すべきであろう。
その戦術はゲリラのようでもあったが、まことに近代的であった。
それは「一所懸命」ではなかったということである。

後醍醐天皇の幕府討伐に参加した武士のほとんどは、主義というよりは所領を得たり増したりするために戦ったのである。
彼らは「建武の中興」が成功したあと、
自分たちがその恩恵に与ることが少ないことを知ると、今度は足利方について後醍醐天皇に敵対するのである。
武士に理想などなく、目に映るのは所領のみであり、その一つ所に命を懸ける。つまり「一所懸命」なのである。

ところが、楠木正成は自分の領土拡張のために戦ったのではない。
勝ち目があるから戦ったのでもない。
負けたら逃げればいいと思っている。
彼は所領よりは自らの信じた大義に目を向け、いわば理想のために戦った。
そのために損をすることも、生命を失うこともいとわなかった。
一種の「聖戦思想」と言ってもいい。
この点において後醍醐天皇と楠木正成は同じであった。
鎌倉幕府も、楠木正成がなぜここまで頑張るのかわからなかった。
だから、この当時もそれ以後も、正成は武士としては非常に理解されにくい、異質な存在であった。

楠木正成が再発見されたことこそ、日本が近代国家としての意識に目覚めたことの証なのである。
維新の志士は彼を偶像化し、明治以後の日本人も生き方の手本とした。
彼こそ近代国家の軍人のあり方の先駆であり、それが神風特別攻撃隊 菊水隊(菊水は楠木家の紋である)まで続いたのである。

戦後の子供たちが楠木正成の名前を知らなくなったのは、「国のため」という思想が稀薄になった証拠であろう。
 
◆応仁の乱(1467年~)から戦国時代へ
室町幕府時代に、金閣寺、銀閣寺、巨大な足利図書館(足利学校)などが建造されましたが、三代将軍・義満の時に彼は自分の子を天皇としようとした。
その直後から幕府の後継者争いから、応仁の乱へと発展し、戦国時代へ突入する。

応仁の乱から戦国時代にかけ、京は乱世となり、公家の収入が閉ざされ、天皇即位でさえ何十年も行うことが出来ない状況だった。
このような事情から、公家や文化人が地方へと流出した。

地方への文化の伝播ということで特別に興味をひくのは、伊勢神宮である。
伊勢神宮は神社の中の神社、皇祖を祀る至高の神社であって、元来は一般の人は参拝を許されていなかった。
しかし応仁の乱が起こると、神社を維持するための貢物を朝廷から出すことができなくなったのである。
そこで伊勢の御師たちは、維持策として伊勢神宮参拝の講中をつくったのであった。

これはお寺詣での「講」からヒントを得たものと思われる。
伊勢神宮の下級の神職たちは、日本中を回って講をつくり、年末に暦や御祓を配り、参詣者のための案内や宿泊の世話をするようになった。
各御師は何国の何村は自分の持ち分というように考え、その講中の売買までされるようになった。

このようにして、庶民は参拝できなかった伊勢神宮が庶民に支えられる全国的崇敬の対象となったのである。
応仁の乱は民主化の力も持っていたと言えよう。
(仏教の庶民化は東大寺建設時、聖武天皇、747年にも例がある。
だが庶民からの基金を募った時点で一般化したが、その時には神道は庶民に開放されていなかった)

生活に窮した公家が地方に散ったこと、
禅宗の僧侶たちが各地を回り、新しい宗教が広まったことにより、
戦国武将を中心に庶民の意識も変わってきた。

中央政府、つまり足利幕府は、九代将軍義尚以降はもう名ばかりのようなものだったから、地方の豪族たちには自分たちだけでやっていかなければならないという意識が高まったであろう。
加えて、逃げてきた公家などをかくまったり養ったりしていたこともあり、だんだん日本というものの中心は何かということを考えるようになったと思われる。

たしかにいままでは将軍という存在が漠然とあったけれども、その将軍がもはや全くあてにならず、崩壊寸前になってしまうと、さらにその奥に不変なものが存在するのではないかということに気づいた。
つまり、天皇に対する意識がだんだん高まってきたのである。

したがって、戦国も末期になると、上杉謙信、織田信長の父信秀、毛利元就など、天皇家に寄附したり献金したりする大名が出てくる。
そのうち、日本を再統一するためには京都へ出て天皇をバックにして命令しなければならない、それがいちばんだという明確な意識を持つ武将も生まれてきた。

それを最初に実行しようとした最も有力な大名の一人が今川義元、百万石の大大名である。
その今川義元が、自分こそ血筋から言っても実力から言っても、上洛してこの乱れた世の中を建て直す人間であると考えた。
義元は流れてくる公家たちを優遇していたから、その意識は初めから十分あったように思われる。

ところが、京へ上るといっても、その途中がある。
今川家の場合、すぐ隣は戦闘状態の尾張であった。
初めのうちは今川義元もまだ本気で尾張に攻め込むつもりはなく、要するに地域限定戦で十分力をつけてから一気に上洛しようと考えた。
そこに立ちはだかったのが信長であった。

隣国の信長には、もちろん義元が何をやろうとしているかわかっていた。
そして、やはり義元と同じ理念を抱いた。

※簡単に言えば、これまでは公家や上級武士のみの神道で有り、皇室であった。
しかし、戦国時代を通じて、日本人全体が神道と皇室を国の基本に据えようとする意識が芽生えたのです。

◆信長・秀吉は皇室を大切にした
戦国時代に入り、皇室・公家は衰亡の一途だった。
ところが、信長は祖先同様に皇室を大切にし、これを擁して天下に号令しようとした。
その威信を示すために、京都で馬揃えをしてみせた。
秀吉は北野に大茶会を催し、衆楽第に行幸していただき、醍醐に花見し、おまけに金銀を気前よく分与している。

信長は比叡山を焼き、高野山を攻め、本願寺と戦った。
秀吉は比叡山延暦寺も高野山金剛峯寺も再興し、本願寺を便通し、奈良の寺院にも好意的だった。
大仏を建てたことも昇平の気分を世の中につくり出した。
刀狩りを行って農民の武器を取り上げ、その金属を大仏殿に使ったのは象徴的でさえある。

平清盛の義母池禅尼が源頼朝の命を助けたために平家は滅んだ。
このことを武将は忘れず、頼朝夫人の北条政子を例外として、戦いのことに女は口を出さないことになっていた。

秀吉は、天下統一の原理は皇室にあると洞察して、天皇・皇族・公家らをすべて感激させるほど皇室関係者を優遇した。
そして最盛期の藤原氏のような高い位を天皇からいただいた。
諸将にも位を与えて天皇に忠誠を誓わせたが、その天皇の下で断然最高位にある秀吉は、こういう形で自分に忠誠を誓わせたのである。

そのため大坂城は武将の城であるとともに、公家的な要素が入っていた。
つまり、トップに公家化が進行した。
それとともに、女が公のこと、つまり軍事にロを出し、外交を司ることになって、大坂城は夏の陣で終わりを告げ、豊臣家は滅んだのである。


◆文禄の役
秀吉は、朝鮮を通過し、明を滅ぼそうとした。

(略)

秀吉は講和の条件、七力条を考える。
とくに重要なのは、下記の三つだった。

・明の皇女を日本の天皇に差し出すこと

・足利時代の勘合貿易のような通商を行うこと

・京城附近の南部四道を日本に譲ること

ところが講和に介入する人物が秀吉の条件を明に伝えない。
明の考えていることも秀吉に伝わらない。
日本側の小西如安(内藤忠俊という大名、キリシタン)は文禄三年に使者として北京に赴いて、王侯のようなもてなしを受けた。
この男が明に対して伝えたのは、大まかに言えば次の三つである。

一、明から封(位)をもらったら、釜山、対馬から引き揚げる。

二、秀吉は貿易を求めていない。

三、朝鮮とともに明の属国になる。

秀吉が知ったら怒り狂いそうな、じつにとんでもないことを言っている。

明の朝廷は如安に十六ほどの質問をしていて、その十二番目に、
「秀吉は六十六州を平定して自力で王になっているのに、なぜ明から王に封じられたいのか」という、実にもっともな疑問があった。
すると如安は、
「朝鮮は明から朝鮮王という位をもらって人心が安定している。
日本でもそうしたい」
と答えた。

質問の十三。
天皇という存在があるのに、なぜ秀吉は国王の地位を求めるのか。
天皇と国王は同じなのか。
これに対しては、
「天皇と国王は同じです。
信長が天皇を殺してしまったので、新しく秀吉を立てて国王にするのが国民の望みです」
と、これまた無茶苦茶なことを言っている。

こんなでたらめな外交交渉が秀吉の知らないところで進んでいたのである。

行長や如安は、明から属国扱いされてもまあ当然と考えている。
禅宗の坊さんなどは足利時代から、日本が明の属国であるかのような書き方をつねにしている。
秀吉に独立国家の意識があるのがむしろ異常にさえ思えてくるほどだ。

明は「それならよかろう」、
要するに
「秀吉を日本の王に封ずればいいのだろう」
くらいにしか考えておらず、
正式な講和の使者を送ることにした。

明の使者が日本に来て、封冊(天子の下す任命書)と金印、冤服(位の高い人の礼装用の冠と衣服)を秀吉に献上した。
秀吉は冤服を身につけて使者を引見し、承免に封冊を読ませた。

承免は
「ここにとくに爾を封じて日本国王と為す」
と読み上げた。
この言葉を開いて、秀吉は烈火のごとく怒り、明が献上した冠と衣服を脱ぎ捨てると、
「国王になど明の小せがれに任じてもらわなくともいつでもなれる。
そもそも日本には天皇がおわします。
わしが国王になったら天皇をどうするのだ」
と一喝した。

明の使いを追い返し、秀吉は再び朝鮮征伐「慶長の役」を命じた。
つまり、聖徳太子同様に、秀吉には、日本が独立国家だという強烈な意識があったのです。

◆慶長の役
シナではヌルハチ(後の清王朝)が勃興して明を脅かし、相次ぐ戦争に明の財政は窮乏していた。
このときから十八年後には後金の建国があり、二十八年後には北京が占領されて明は滅んでいるのだから、秀吉が家康くらいボケずに長生きしていれば、そのまま明を倒し、朝鮮を占領した可能性は高かった。
ところが、秀吉が亡くなり、日本軍は留まること無く引き上げてしまった。
それほど、日本にとって朝鮮に魅力は無かった。

明の文献によれば、明の属邦である朝鮮では宗主国・明の兵隊のことを天の兵隊、「天兵」と呼ぶ。
その天兵は威張り散らして朝鮮政府を侮辱したり、朝鮮兵を虐待したりしていた。
これは日本が言ったことではなくて、みんな向こうの記録に残っていることである。
日本兵一人の首を切ると武官に抜擢するというので、明の兵隊は朝鮮人の首を切って日本人だと言って出世した。
朝鮮人も同胞の首を取って手柄にしたという。

朝鮮の役が終わった後も明兵はしばらく駐留して掠奪をほしいままにし、慶長五年(一六〇〇)になってようやく引き揚げている。
そのときも めぼしいものや女をごっそり持ち去った。

朝鮮人同士でも兵隊や盗賊がお互いに殺し合い、牛、馬、鶏、犬も見渡す限りみな食われていなくなった。
女子供は長いあいだ家から出ることもできなかった。

さらに言えば、この後わずか二十数年後には満洲族が明を滅ぼして満洲族の王朝・清を建国するのだが、朝鮮は明に建国の恩義があるので、清の言うことを聞かなかった。
それで清軍が攻め込んできた。
朝鮮の記録を見ると、
「清軍の荒らし方は日本軍よりひどかった」
そうである。

明治の世になって日本人は朝鮮が底抜けの貧乏なのに驚いた。
民間にはうまい料理などない。
通貨制度もない。
町の汚いこと不潔なこと言語を絶すると言った人もいるくらいだ。

私の家に一年ばかり北朝鮮の脱走兵をおいたことがある。
彼は知識階級の出で、旧制平壌中学の卒業生で私と同じ年であった。
彼が言うには、
「朝鮮ではおいしいものがあると必ずぜんぶシナに取られてしまった。
だからオコゲなんかをありがたがる。
シナの役人が入ってこないように町はできるだけ汚くした。
海があるのに魚料理があまりないのは、
和寇が怖いので海に出られなかったからだ」そうだ。

朝鮮は日本との併合時代に建国以来最大の繁栄を享受したが、それも朝鮮戦争で元の木阿弥となった。
それが復興したのは、朴正殿大統領が昭和四十年(一九六五)に日韓基本条約を結んで日本の経済的・技術的援助を惜しみなく受け、「維新革命」と称し、日本のやりかたにならって財閥まで作ったからである。
こうして「漢江の奇跡」が起こった。

◆博学のカソリックと天才・新井白石
五代将軍綱吉の(一七〇八)、屋久島の唐の浦(浦崎)に和服を着て刀を持った西洋人が上陸した。
この人物はイタリアの貴族出身のイエズス会士、シドッチである。
彼はフランシスコ・ザビエルの志を継ぎ、宣教師として日本にやって来たのである。

イエズス会は宗教改革の波を押しとどめる働きをし、フランス、南ドイツからポーランドに至る地域の宗教の争いにおいてことごとくカソリック側を勝利せしめるのに絶大な貢献をした修道会である。

この修道会の特徴は、命令さえあれば、殉教を怖れずに、ただちに死地とも思える危険な土地にも赴くという軍隊的組織であるとともに、プロテスタントとの論争にも負けぬよう、会員には徹底的に学問を修めさせるということであった。

シドッチは上陸するとすぐに捕えられて長崎に送られ、そこからさらに江戸の切支丹屋敷に送られた。
ここで白石によって、四回にわたる尋問を受ける。
十八世紀の初頭、西ヨーロッパでの最高の教育を受けた宗教家と、「鬼」とも言われた日本を代表する天才的学者・白石との対話という実に貴重な東西の交渉が起こった。

シドッチは後に獄中で死ぬので、白石からどのような影響を受けたかよくわからないが、白石の受けた影響は日本の精神史の上から見逃すことのできない大きなものであった。

まず白石は、シドッチが、上は天文、下は地理、知らざることのないのに驚嘆した。
当時の地球一周の航海術まで発見・実践している西洋人の知識から見れば、鎖国の日本で主として文字の学問を修めていた白石の知識はその足もとにも及ばない。
白石はただただ驚くぼかりだった。

ところが話が形而下のことから形而上のこと、つまり宗教の話に及ぶと、十分啓蒙された白石から見るとシドッチのバイブルの話などは子供の戯言にすぎなかった。

たとえば神の戒めを破った者(アダムとイヴ)の罪はあまりに大きくて自分では償うことができないので、デウスが自らに誓って三千年後にイエスとして生まれ、その代わりになって罪を償ってやるため礫刑になったなどというのは赤ん坊に聞かせる話だと思われた。

ノアの方舟の話でも、デウスはノア以外の人類を溺死などしないで、みんなを善人にしてやったらよかったのではないか。
そんなこともできないで全能の天地創造主などというのはおこがましい。
・・・
これは仏教の言うことと同じで、しかも浅薄なこと甚だしく、仏教とは比べものにならないくらいひどい。
幕府がキリシタンを厳禁したことは「過防」ではないと白石は結論している。

白石のキリシタン批判は、啓蒙時代以後のヨーロッパでも今日の日本でも珍しいものではない。
カソリックで原義と言われるものはそもそも理屈を超越していることであり、
アウグステイヌスの如く、
「荒唐無稽なるが故に私は信ずる」
という「信仰」が入らないと話にならないのである。
白石は儒者であり、儒学は仏教をも迷信と見るほど啓蒙カのある学問であった。
ましてバイブルの話など問題にならぬほど幼稚に思われたのは当然である。

しかし、白石がシドッチとの対話をもとにして書いた『西洋紀聞』は、最初は新井家に秘蔵されていたが、一七九三に十一代将軍家斉に献上され、さらに一八〇七以降、写本が作られ、その後の思想に大きな影響を与えたのである。

この「上巻」はシドッチの取り調べの話であり、「中巻」は当時の世界の地理・風俗・歴史である。
そして「下巻」がキリシタンの話である。

白石はオランダ人から聞いた話をも参考にしているので、「中巻」は客観性も高く、白石が後に将軍家継に海外事情を説明するために書いた世界地理の本である『采覧異言』とともに、当時は地理・外国事情を知るための最高の本とされ、
福沢諭吉の『西洋事情』の先駆となった。
とくにシドッチとの話し合いの結果としての「西洋は形而下の学では日本よりはるかにすぐれているが、形而上の学においては幼稚」という認識は、菅原道真の言葉と言われていた「和魂漢才」の系譜を受け継ぐ「和魂洋才」の思想の元となった。

◆鎖国の時代における江戸の科学
大坂夏の陣(元和元年=一六一五)の頃、日本が持っていた鉄砲の数はヨーロッパのどの国よりも多かったであろう。
性能も劣ってはいなかった。
その軍事大国が全く自発的に軍備の発達を抑えることにした、というような例は、われわれの知っている世界史の中にはない。
『信長の発明した連続射撃法は、西洋に先駆けた戦術だった』

家康の死んだ一六一六年はイギリスでシェイクスピアの死んだ年であり、その頃の日本人の科学的知力はイギリス人に匹敵していたと言ってよい。
しかし、その後の鎖国政策はキリシタン・バテレンに対する厳しい取り締まりとともに、西欧で急速に発達していた自然科学や工学への接触や導入を厳禁することとなった。
(オランダ医学が例外的に認められるのも後のことである)

『江戸時代は鎖国により、外敵の心配が無く、実力主義や下克上を嫌い、お家の安定のために長子相続を基本とする官僚的な支配体制に移行してしまった。
安定した支配体制ではあっても、硬直し、現体制を揺るがす恐れがあるものに対しては拒否することで対応した。
これが戦国時代・実力主義であれば、鉄砲を導入し利用したように、柔軟に取り入れていたことでしょう。』

江戸時代の日本人の科学的知力を示すものとして、よく数学の例が出される。
イギリスのニュートンやドイツのライプニッツに先んじて、関孝和(一六四二?~一七〇八)とその弟子たちは行列式に相当するものを発見し、その後、微分や積分、さらに二重積分に相当するものも全く独創的に発見していた。
しかし、数学を応用する工学大型船の建造などは禁じられていたのである。
数学そのものは当時のイギリスやドイツに劣らないところまで進歩したのに、応用の道がふさがれてしまっていたため、近代的な学問というよりは恐ろしく知的な「芸」のようなになったのである。

工学のほうは、幕府に対して無難な「からくり人形」を作るなどにとどまった。

江戸小紋のような、遠目には無地に見える高度な染色技術を用いた織物を作るのと一脈相通ずるものがある。

しかし科学に対する知力は眠っていなかったから、幕末にべリーがやってきて幕府が造船や武器保有に関する禁制をゆるめると、すぐに船も造るし、大砲も造り出した。
ただ、幕末は、ヨーロッパにあってはかのナポレオン戦争から半世紀も経っており、その間の艦船、銃砲の進歩はめざましく、それに比べれば日本のものは当然、幼稚であった。
それでも、「黒船は蒸気で動かす船だそうだ」という情報だけで、ともかくすぐに蒸気船を造った藩が複数あったことは感嘆すべきことである。


◆閑院宮家を創設した新井白石の功績
五代将軍綱吉は学問をよくし、尊王の心が厚かった。
養子家宣の奥方が近衛家から嫁いでいたので、彼女から「朝廷はお金に困っている」ということを聞いたらしく、朝廷の石高を一万石加増した。
家康が与えた一万石に、秀忠が和子を嫁がせる時に化粧料として一万石を上乗せし、綱吉がさらに一万石を足したので、これで朝廷の石高は三万石となった。
(和子により徳川家は、藤原氏と同じ立場に立ち、朝廷の石高が上積みされたおかげで、朝廷文化が再び華やかになる)

また、先帝には三千石、後にさらに二千石足している。
綱吉の頃から歴代天皇の山陵が荒れ、庶民が勝手に木を伐ったりしているので、それを止めさせ、大がかりな修繕も行っている。

綱吉の跡を継いだ六代家宣は歴代将軍の中では地味な存在だが、新井白石を登用するなど、なかなか優れた将軍であった。
白石は、
「朝廷では後を継ぐ天皇はいいが、ほかの皇子・皇女はみな寺に入る。
これは人間として実にかわいそうではないか」
と家宣に説き、新たな宮家を立ててはどうかと進言した。
こうして、東山天皇の皇子の秀宮(直仁親王)という方を初代として閑院宮家が創設された。

この閑院宮家創設は非常に重要な出来事であった。
現在の皇室はその直系にあたり、この時の閑院宮家から出ているからである。

白石が危倶したのは、
「現在の将軍家は綱吉、家宣と養子が続いた。
つまり二代にわたって世継ぎが生まれなかったことになる。
皇室でもそういうことが起こるだろう」
ということであった。
だから皇統断絶を防ぐため、徳川御三家のように、跡継ぎの資格を持つ宮家を作っておいたほうがいいと考えたのである。

これは現在の問題でもある。
国民が心配しているのは、悠仁親王がお生まれになって一安心したものの、男子がお一人しかいらっしやらないから、これから先、どういうことがあるかわからない。
何か事故があるかもしれない。
徳川家もわずか十五代のあいだに七人も養子を迎えなければならなかった。
その血を受け継いでいくには、やはり藩屏になるものを作る必要があるというのが白石の意見だった。
その意見は今日にも生きているのではないだろうか。

※文化、形而上、経済、科学のどれをとっても、日本文明は先行していた。
それは、万世一系の立憲君主制が、紆余曲折はあるが、これまでのどの文明に比べても劣ることが無いことを示している。
 

◆伊東博文がプロイセン憲法を手本にしたわけ
当時、議会制民主主義の最先進国はイギリスである。
しかし、イギリスの憲法は長年の慣習を積み上げた不文憲法であり、まとまった「憲法」とはなっていないから、一朝一夕に真似できるものではない。
また、アメリカやフランスは成文法の憲法であるが、共和制ということで、天皇を戴く日本には合わない。

日本と欧米列強との治外法権条項を撤廃するためにできるだけ早く欧米なみの憲法を作ろうと考えた伊藤は、こうした事情を知って、相当がっくりきたようである。

そこで伊藤はオーストリアとドイツに向かう。
オーストリアはハブスブルグ家の皇帝を戴く国である。
ドイツ帝国は一八七一年にドイツ統一を果たしたばかりの新興国家であった。

国王のことを英語ではKingと言うが、この言葉は本来「一族の長」という意味である。
「酋長」と言ったほうが分かりやすいかもしれない。
日本史の例で言うと、八幡太郎義家などは源氏という一族の統領、すなわちゲルマン語(英語やドイツ語)のキングに相当する者だった。

こうしたことから、元来ヨーロッパでは、実力だけで下から成り上がった人間は、まずキングになれない。
ナポレオンは実力で皇帝になったが、フランス国王になることはできなかった。
国王には “血統” が必要なのである。
そのくらい、キングとエンペラーは違うのである。

ドイツ帝国の初代皇帝ヴィルヘルム一世は、もともとプロイセンの国王であった。
プロイセンは、彼の先祖たちが異教徒たちと戦い、血と汗を流して作った国である。
彼の先祖フリードリヒ大王がオーストリアと死闘を繰り広げた話(シュレージュン戦争と七年戦争)は、ヨーロッパ史上あまりにも有名である。
このようなプロイセンの歴史を、ヴィルヘルム一世がたいへん誇りに思っていたのは当然のことである。

だから、彼がとうとうドイツを統一し、その初代皇帝の座に就くことになったとき、その心境は複雑であったという。
なぜなら、皇帝になるということは、プロイセン国王という呼び名と別れなければならないということになるからである。
皇帝戴冠式の前日、ヴィルヘルム一世はさめざめと泣いたと伝えられている。
また、戴冠式でも、自分を皇帝の座につけた張本人のビスマルク首相をまったく無視し、握手すら拒んだという。

彼にとって「国王」の座というのは、何ものにも代えがたいものであった。
それはそうであろう、“成り上がり” のナポレオンだって「皇帝」になったのだから。

ヨーロッパ的な意味では、日本の天皇は国王であって、皇帝ではない。
天皇は日本民族の長であり、一朝一夕に成り上がった権力者ではない。
だから、グナイストが旧プロイセン憲法を手本にすべきであると助言したのは、まことに正しかったのだ。


◆日本製品が冷戦終結を促した
戦艦大和も零戦も、ヨーロッパやアメリカで成長した技術の延長線上にある。
零戦の二十ミリ機関砲などはスイスの企業から買ってきたものだ。
しかし、省エネ技術だけは日本発のもので成功したと言える。

日本のガソリンを食わない自動車技術がアメリカで使われるようになった。
アメリカも省エネを無視できなかった。
ハーレー・ダビッドソンという伝統的なバイクメーカーがあるが、あの会社が潰れかかった時に救ったのはホンダだった。

気がついてみると、軍事機密関係や宇宙開発関係は別として、民生品であれば日本製品、もしくは日本のパテントを使用するか提携するかした製品でなければ世界で通用しなくなったのである。

まだベルリンの壁があった頃、古書学会でハンガリーのブダペストに行ったことがある。
そこには私の娘の同級生が留学していたので、一緒に食事でもしようということになった。
その時、その女の子が「ハンガリーでは日本は夢の国です」と言う。
「ハンガリー人が欲しがっている物はみんな日本製です」と言うのだ。
たとえばラジカセや小さな計算機がほしいのだが、そんな物はハンガリーにはないと言う。
鉄のカーテンの向こうでは、日本を天国のように思っていたのだ。

アメリカの経営学者、ドラッカーが後に、戦後、一番大きな働きをしたのは日本であるという主旨のことを言っている。
一つは、政治的に独立しなければならないということを世界中の旧植民地に教えた。
もう一つは、高い技術はどこからでも習ったほうがいいということを教えた。
これは明治維新から続く日本の伝統であると言うのだ。
そして、日本が経済成長したことによって、マレーシアでもインドネシアでも東欧圏では作れないものが作れるようになった。
技術の元は日本であったとしても、メイド・イン・マレーシアであれ何であれ、何でもそこで作れてしまう。

鉄のカーテンの向こうは典型的な白人世界だ。
彼らの人類観は簡単に言えば、戦前の通俗なダーウィニズムで、一番進化したのが白人で、その次が黄色人種、その次が褐色人種、その下が黒人で、最後がオランウータン。

にもかかわらず、オランウータンの住む森に近い国が作っている物を自分たちが作れない。
庶民の驚きは察するにあまりある。
どうして自分たちがオランウータンに近いとされた人種の国よりも遅れてしまったのか、と考えた時、体制が悪いのだと気づいた。
それがベルリンの壁の崩壊につながったのである。
東ドイツ人などはものすごくプライドが高い。
それが、メイド・イン・マレーシアに負けているのだから我慢ならない。

このように、冷戦の終結に、一番貢献したのは日本であると、ドラッカーは評価しているのだ。

明治維新の頃に日本が存在しなかったら、白人のアパルトヘイト(人種隔離政策)は世界中で半永久的に行われたかもしれない。
また戦後においても、日本がなかったら、まだ冷戦が続いていた可能性がある。
共産圏の庶民が体制を信用できなくなったのは、日本の経済成長、および省エネ技術革新とそれにともなうアジア諸国の経済と工業の成長にあるのだから。

共産主義体制は民主主義運動だけで潰れるようなヤワなものではない。
小平も台湾を見て改革開放政策を行った。
同じ民族であるはずの台湾が高度経済成長して先進国に入っているのに、シナ大陸は昔のまま。
それどころか文化大革命によって文明的に退化していることを見たのだ。

つまり庶民が商品を見たことで、共産主義イデオロギーは崩壊した。
そしてその省エネ型ハイテク商品を作ったのは日本だということなのである。

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