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ルーツ・ファンタジー/日本神話に刻まれた神々の叡智 3

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転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

★日本神話に刻まれた神々の叡智

■ 皇室と日本古代史と統一王朝


◆山幸彦の兄・海幸彦の子孫は、九州南端に住む隼人として皇室に仕えた。

◆天皇の王冠
天皇家がエフライム族とユダ族だという証拠が、天皇の王冠の文様に明示されています。

神社に建っている二匹の狛犬。
片方のライオンに一本の角があり、ユニコーンです。
ユニコーンはエフライム族の紋章で、
ライオンはユダ族の紋章です。

天皇の王冠には、ユニコーンとライオンの間に、十六菊花紋が描かれ、その下に十二匹の獣、その下に桐の御紋が描かれています。
そして、十六菊花紋の上には、三連の山の中にユニコーンと十六菊花紋が描かれ、これを覆うように背後には六芒星が描かれています。

この王冠は十六菊花紋を中心に、南北イスラエルが集合し、統一イスラエルとしての象徴ではないかと思われる。

ちなみに、天皇の王冠と同じような文様を、イギリス王室も日本よりも後に用いるようになったとのこと。
これは、イギリス王室が皇室と何らかの関係があるのかも知れません。

◆皇室の「菊の御紋」とエルサレム「ヘロデ門の紋」は同じ

以前イラン・イラク戦争の時、ヨーロッパの記者が、イラクのフセイン大統領の腕輪のデザインが十六菊花紋であるのを見て、大統領に「日本の皇室の物とよく似ておりますが、何か日本と関係があるのですか?」と聞いた。

するとフセイン大統領は、「この紋章は、我が国の祖先が世界最古の文明を築いたシュメール王朝時代に用いていた、王家の紋章だ」と答えたという。

十六菊花紋は、エジプトや、イスラエル、バビロンにも見られ、中近東からイスラエルにかけて用いられた王家の紋章なのです。

◆卑弥呼と天照大神
日本には北イスラエルの正当な王家と、南ユダ王国のユダ族とレビ族が渡来し、イスラエルの十二部族が集結した。

もし、この当時に救世主が誕生すれば、聖書の預言では世界の富をイスラエル人が牛耳ることになっていました。

イエス様は馬小屋で生まれられ、大工であった。
聖徳太子も馬小屋で生まれ、日本の大工の祖といわれており、
その弟子 秦河勝は原始キリスト教徒です。

イエス様に十二弟子が仕えたように、聖徳太子に原始キリスト教徒の秦氏を含むイスラエルの十二部族が仕えて、秦氏が中心となり平城京(ちなみに、エルサレムは平安京という意味です)を建立したのではないでしょうか。

聖徳太子の時代、これまで皇室の祭礼と守りをしてきた物部氏と日本に仏教を導入した蘇我氏との争乱があり、秦氏が日本に渡来する前までは、物部氏が、南ユダ王国のレビ族とユダ族の代わりを務めていたと推測されますが、物部氏は偶像崇拝の仏教に反対し、蘇我氏に滅ぼされてしまいます。

( ニギハヤヒ命がトミビコの妹のトミヤビヒメと結婚して産んだ子が物部氏の祖となった )
 
天津神命を受け、「十種神宝」を授けられたニギハヤヒ命は、天磐舟に乗って葦原中国に降りる。
その時ニギハヤヒ命を守る32人の防衛、副官、職業団、船長、船員を引き連れていた。

神武東征時に、イワレビコ命は義兄弟のナガスネヒコを殺し、大和朝廷に貢献しました。
この時、最後まで大和朝廷に反抗した物部氏を外物部、
大和朝廷に与した物部氏を内物部といい、歴史から消えてしまいました。

「十種神宝」は物部氏によって大和朝廷に伝えられ、物部氏は軍事と祭祀の面で大和朝廷に貢献していました。
また、物部氏の軍事力の元となったのは金属製錬技術で、「鉄器」を作ることに長けていました。
当時、製鉄技術が未熟なため、隕鉄製の鉄器を制作していました。

つまり、
既に鉄器が日本で製作されていた。
(吉備王国)

聖徳太子と推古天皇の時代には、物部氏と秦氏が、蘇我氏に滅ぼされてしまい、偶像崇拝の仏教が日本に導入され、聖徳太子の血筋は絶えてしまいます。

その後、持統天皇の時代になり、持統天皇を擁護する藤原氏により、蘇我氏は滅ぼされてしまいます。

持統天皇の時代、天照大神を祀る伊勢神宮よりも、藤原氏を崇める神々の方が序列が上になっていたと言われています。

天照大神が伊勢神宮に祀られ、皇祖神となったのは、日本神話が形成された7世紀頃のことであるという。
その証拠に、宮廷や伊勢神宮に伝わる祭祀の様式を調べると、天照大神が皇祖神として登場するのは奈良時代以降とのことで、藤原不比等により、天照大神が皇祖神に据えられたとのこと。

つまり、大化改新とは、神道を国家的宗教に回復させることだった。

神武天皇以外に、初代天皇・ハツクニシラス天皇である第十代崇神天皇(ほぼ三~四世紀)の活躍の中に、考古学上のヤマト建国と符合する点がみられ、一般的には日本を統一した初代天皇だと考えられています。

当時、北九州,吉備と出雲,畿内に大きな勢力があった。
「国譲りの神話」の中で、国造りをしたのは、物部氏である。

出雲からは、銅剣,銅鐸,巨大の柱(高さ48メートルもの巨大建築物)が発見されている。
吉備の国は製鉄が非常に盛んでした。

シナ王朝においては、シナにあった “倭人” の国の民族が、九州に移住したと見なしていた。
その後、大陸の倭人国が九州を本拠地とし、『魏志』倭人伝の ”邪馬壱国” 、邪馬台国として、独立した存在となった。
後に、邪馬台国は畿内のヤマト朝廷と統一王朝をつくり、王権は続いた。

後漢書:
「その大倭王は、邪馬台(壱)国に居る」

随書 :
「即ち『魏志』のいわゆる邪馬台(壱)国なる者なり」

整理すると、もしも、邪馬台国が畿内に遷ってヤマトになったのであれば、
なぜ『日本書紀』では、
卑弥呼から続く王権を挙げなかったのかが謎になります。

朝鮮半島から九州へのルートは、
博多から有明海を通り肥沃で人口の多い筑紫平野へ向かう九州北部西側と、
出雲へ向かう東側のルートがあり、
魏志倭人伝には九州北部西側は詳しく、
東側の記載はありません。
この九州北部東側からは出雲式銅剣が多く出土しており、ここまでが出雲王国(物部氏)の勢力範囲だったと考えられています。

一方、海上交通に便利で、肥沃な土地である筑紫平野の中で、戦略上の要所としては福岡県久留米の高良山があり防壁が築かれています。
景行天皇が高良山で国見をしました。
また、豊臣秀吉も九州征伐の時に高良山支峰に陣を敷きました。
そして、近くの八女市に山門(ヤマト)があり、戦略上の視点からこの地が非常に重要だった。

邪馬台国の女王卑弥呼の死が、247年頃。
こののち男王を立てたが国中が承服せず、しかたなく卑弥呼の宗女、壱与(台与)が立てられたとされています。
関連して、崇神天皇が国のうまく治まらないことを憂え、占いをしたところ、出雲神大物主の神が自らを祀れと神託を下し、天皇は祀ったとある。
このことが、卑弥呼と崇神天皇の関係だと推測されます。
これ以降、皇室は出雲を丁重に祭った。

神武東征以前、物部氏の始祖ニギハヤヒ命は、土着の首長・ナガスネヒコの妹を娶り、ヤマトの王として建国していた。
そして、神武天皇を平和理に迎え入れています。

一方、神武天皇以下三代もしくは六代天皇までが出雲神の娘を正妃に迎え入れています。
つまり畿内と出雲の統一王朝として、王が畿内から、王妃が出雲から選出されたのだと思います。

ところが、大嘗祭では、天皇の祭りのクライマックスに、中央の寝台に横たわる神に食事を供し、自らも食事をとるという儀式を行うが、
この神の正体が明らかにされていません。
しかも日本の最高神である女神・天照大神は別の場所に祀られたままであるから、女神・天照大神よりも大事な神がそこにいることになる。
すなわち、その正体こそが男神・天照大と推察されるのです。

天照大神には、男性の太陽神としての性格と、太陽神の巫女としての大日巫貴の二重の性格があり、後にこの巫女が太陽神自身として祀られてしまいました。
このことについては、中臣氏=藤原氏の改竄だといわれています。
おそらく、外国勢力から天皇家を守るためだったのでしょう。


◆統一王朝
天磐舟に乗り日本に渡来したニギハヤヒ命の出雲系の天孫族と、
その後渡来した神武天皇の天孫族が、
両王国を統一するヤマト王朝を畿内に建国した。

統一王家は、出雲王国から王妃を、畿内王国から王を選出し、統一王とした。
当時は現在とは異なり、母系家族なので、畿内選出の王は出雲王国に婿入りをしていたと考えられます。
従って、正当な王家の流れは出雲王国だったと考えられます。
また、出雲王朝は物部氏が軍事、技術面で、太陽神とその巫女を守護していた。

一方、魏志倭人伝の邪馬壱国の女王 卑弥呼は、太陽神の巫女ですから、常識で考えると、御神体のある神殿に仕えており、この御神体と巫女を守護するのが軍隊の仕事で、神殿と御神体と巫女子と守護軍は、同じ神殿で御神体に仕えていたと考えられます。

◆モーセの出エジプト当時の奇跡の中で、暗黒の三日間や、海が割れエジプト兵からイスラエル人を守ったとあります。
このモーセの奇跡とそっくりの神話が日本に残っています。

三日間の暗黒は、日食が起こり天磐戸神話と非常に似た話です。
さらに壱与の朝鮮征伐時に朝鮮兵が追ってくる時に海が割れ、朝鮮兵が滅ぼされたとのくだりも、モーセの奇跡にそっくりです。

また、ノアの箱船の時には40日40夜、出エジプト時には40年間のようにエンキを示す40が記述されていますが、神功皇后にも40が出てきます。
つまり、中国や朝鮮の政治情勢が急変し、神功皇后はモーセのように、朝鮮にいたイスラエル人達を無事にヤマトに導いたのだと思います。

この当時の出雲王国では、巫女が預言者で男子が政治を行った。
統一王家の王と王妃として、畿内王家から第十四代仲哀天皇が、出雲王国から女王壱与が選ばれたのだと思います。
神功皇后(壱与)に降りた神託を武内スクネが聞き取ったり、常に付き添い守護していました。
神功皇后は朝鮮出兵時に身ごもっており、帰国後に九州で後の応神天皇を出産します。
ところが、『日本書紀』の中で、応神天皇は正式に仲哀天皇の子だはと記述されていません。
おそらく、壱与は出雲王国の後継者相続に従った。
そしてその子を応神天皇として即位させた。

関連して、参考文献には、武内スクネの末裔は蘇我馬子だといわれています。
物部氏の伝承『先代旧事本紀』には、『日本書紀』に記述されている蘇我氏と物部氏の争いが、まったく記録されておらず、つまり物部氏と蘇我氏は敵対関係に無かった。
また、蘇我系葛城氏の山に出雲神が祀られていること。
出雲大社のスサノオ尊を祀る神社の名が「素鷲(ソガ)社」であったこと。
聖徳太子の墓陵を守り続けている西方院の住職は代々 蘇我を名乗る尼僧が住職を務めている。

この寺に残された伝承によれば、小野妹子の娘、蘇我馬子の娘、物部守屋の娘が、聖徳太子の御廟を守るために出家したという。
『古事記』には蘇我氏の祖が、物部氏の女系から生まれたとしていることなどから、蘇我氏は物部氏の一族であったと考えられます。
更に、蘇我入鹿は鞍作大臣と呼ばれており、鞍作りは渡来人の職種なので、これを取り仕切っていた秦氏の一部だった。
また、新撰姓氏録には、蘇我氏は、竹内スクネの子孫と記している。
結局、物部、蘇我、秦一族は、同族である。

神道を信じる聖徳太子も蘇我氏も、日本へ仏教を導入するはずはなく、蘇我氏が聖徳太子の一族を抹殺しようとして自殺に追い込んだり、天皇家の図書館に放火したりするはずがありません。
おそらく、『日本書紀』で日本史を改竄した藤原氏(中臣氏=藤原氏は、天児屋命の子孫)が、女王卑弥呼、壱与、出雲王国、物部氏、蘇我氏や聖徳太子の真実を歪めてしまったのでしょう。

◆古代日本の政権交代
古代日本の複雑な政権交代の裏には、日本の歴史の真実を率直に伝えることができない事情があった。
例えば、「白村江の会戦」で敗れた日本は、中国の属国としての支配を受け入れざる得なかったのだと思います。
しかし、日本書紀の編纂者と著者は、旧約聖書から連綿と繋がる人類史を、天の使命として後世に伝えたかったのだと思います。

1.出雲王国
『日本書紀』を編纂した藤原氏は、神代文字で記述されていた『九鬼文書』を漢字に書き改めたと言われています。
つまり、藤原氏は自らが隠蔽した『日本書紀』の真実を伝えるため、『九鬼文書』を残したのではないかと思われます。

『九鬼文書』にはイザナギが単身で産んだ(男子の血統を意味する)三貴神として、天照大神の記述はなく、天皇家の血統はスサノオ尊の血統として記述されており、女神としての天照大神の存在は記述されていません。
また、スサノオはイザナギの鼻から生まれており、末っ子という記述とは裏腹に長男であったことを意味していると思います。
更に、スサノオは海を支配し、かつ出雲王国を兄弟に禅譲しています。

もし、古代日本の神話を正しく記述すれば、旧約の民であることが明らかになるので、これを避けるために、あくまでも日本国内の物語で、旧約の神話に似ているが、それと分からないように記述する必要があったのだと思います。



出雲地方の方言は東北弁と同じで、アイヌ(蒙古斑が出ず、青目の白人)と同じ風習が残っている。
つまり、出雲は白人系であることから推測して、ニギハヤヒ命は、神武天皇よりも速く出雲の地に足を踏み入れたのではないかと思われるのです。

2.神武東征は日本国内ではない
日本には存在しない駱駝や羊と一緒に描かれている神武天皇の絵が神社に残っていることから、神武天皇は日本を目指して中東から移動を開始されたのだと思います。
それゆえ、神武天皇が日本に向かって東に移動した様子や、神武天皇から第十代崇神天皇までの八代の天皇の歴史について、記述することができなかったのだと思います。

神武天皇の移動コースは、エジプト、インドを経由し、海を伝ってのコースだったと推測されます。
そして、やがて崇神天皇が九州に到着し、東征を行ったのだと思います。

補足:
秦の時代に日本に渡来した徐福の八三隻の大船団には技術者を含んだ数千人が乗船していた。
これは、秦氏のことだと思います。

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