■えこひいきの倍返しを心がけなさい
ミツハシ
えこひいきにはえこひいきで返礼する。
シマジ
そういうことだ。
そうして2時間かけて行った松本で、藤本さんが俺の目の前にドンと置いたのが、まだ封を切っていない陶器ボトル入りの白州だった。
「どうぞご自由に飲んでください」
というわけだよ。
この白州は相当な値打ちのものなのだが、そんなことは一言も言わずに「ご自由に」というところがいいだろ。
ここでまた、えこひいきの再返礼を受けた俺は、当然ながら次はどうやって藤本さんを喜ばせてやろうかと考える。
このえこひいきのやり取りが人生を愉しく豊かにするんだ。
えこひいきのお返しは、倍返しを心がけるといい。
「倍返し」というと最近はもっぱら復讐に使うようだが、本来はお礼こそ倍返しだね。
ただし、倍返しといっても倍の金額のものを返すということではない。
相手のえこひいきをいちいち金額換算するのは失礼だし、そもそも真心というのはお金に換算できるものではない。
相手から受けた好意をうれしいと思ったら、そのうれしさを上回るうれしさやサプライズを相手に味わってもらおうと思って返礼をすればいい。
あまり「お金の使い方」にこだわると不自由になるし、下品にもなるからね。
お金がなければないなりに真心の示し方というのはある。
たとえば、その一つが、相手からもらっ
たものを愛用するということだ。
これはとても大切なことだ。
自分がプレゼントしたものを相手が気に入って愛用してくれているというほどうれしいことはない。
(略)
ミツハシ
プレゼントというのは本当にセンスですよね。
シマジ
そうだな。それだけに、人に何かをプレゼントするときというのは、自分自身が欲しいと思うもの、あるいは欲しくて手に入れて満足したものを贈らなければいけない。
自分が要らなくなったものや余ったものをあげるというのはプレゼントではなく、廃棄物処理だ。
それでは相手が愛用してくれることなど期待できないし、仮に喜んで愛用している姿を見てもうれしいどころか心が痛む。
ここで少々難しい問題が生じるのは、自分が本当に欲しいものや欲しかったものというのは、手作りの品は別として、やはりある程度の値段になるということだ。
「お金の使い方にこだわるな」というさっきの言葉とはいささか矛盾するが、センスのあるプレゼントにはどうしてもお金がかかる。
「金は第六感のようなものだ。
これがないと、他の五感も十分に機能しない」
というモームの言葉は真実を穿っている。
ミツハシ
言いえて妙ですね。
シマジ
えこひいきに関して相談者にぜひ伝えておきたいのが、あらゆるえこひいきの中で最高のものは神様のえこひいきであるということだ。
ミツハシ
だとすると、神社に初穂料をはずみ、お返しをうけた相談者はこの縁を大事にしなければいけない。
シマジ
その通りだね。
一浪して青山学院大学に入り、そこで一留までして、なおかつ優が一つもなかった俺が集英社に入社でき、念願の編集者になれたのは間違いなく明治神宮のおかげだ。
(略)
シマジ
男と女の間には暗くて深い川が流れているんだと思うね。
これほど深く愛したのに、相手はそれに十分に応えてくれていないと、男も女も必ず思うようになる。
だから俺は、女から愛のお返しは望まないことにしているんだ。
「俺はこれだけお前のことを愛しているのに」という感情は嫉妬や恨みしか生まない。
女は俺をちょっぴり愛してくれればそれで十分。
女の薄情も多情もビンタも涙も、俺を粗砥で磨いてくれたと考えて、感謝することにしている。
結局、友情と恋情は別物なんだよ。
友情は積み重ねによって深まるが、
セックスは積み重ねによって倦怠が訪れる。
リビドーに突き動かされる恋情は良心なき正直者の営為だが、えこひいきというのは真心のやりとりだ。
だから相性が悪いんだよ。
少なくとも恋愛は欲望であり良心ではない。
そういえば、性欲と食欲というのは、それを司る部分が脳みその中で隣接しているそうだ。
俺は元気だったころ、わりない仲になった女とは食事の前にセックスをするのが好きだったが、これは理屈に合っていたわけだ。
食欲を満たしてしまうとギラギラした性欲はある程度鎮静してしまう。
獣のように求め合うには、すきっ腹の方がいいんだよ。
だから、「乗り移りの人生相談」の読者たちには、セックスをしてから食事を愉しむことを勧める。
そうすれば、むさぼり合うような激しいセックスが愉しめ、そのあとに満ち足りた気分で食事も満喫できる。
ただし、これは既にわりない仲になった男女の愉しみ方だから、そうなる前の男は必要な手続きを省略しないように。
そして、もう一つ注意しておくと、こういう激しい愉しみ方を繰り返していると、良心なき正直者はあっと言う間に飽き始めるという副作用もある。
そうなっても苦情は受け付けないので、自己責任で愉しんでくれ。
■一人の時間を愉しくできない人間は、二人の時間も愉しくできない
シマジ
俺は何度も「退屈と無知は人生の大罪である」と言ってきた。
この相談者は退屈をしているんだよ。
退屈というのはたった一度の人生への冒涜だ。
「主婦をしています。
家事、育児の傍ら習い事などをして過ごしています。
でも、あまり楽しいと思えないのです」
と相談者は書いているが、専業主婦としての毎日に満足していないという気持ちが伝わってこないか?
ミツハシ
伝わってきますね。
何か他人事を報告しているみたいな文章で、現状を「仮の姿」と思っているような印象です。
シマジ
これこそ退屈だよ。
しかし、なぜ、愉しいと思えない習い事なんか続けているんだ?
別に強制されているわけでもなかろうに、面白くなければ無理して続けなくてもいい。
もっと他に興味が持てるものを見つけた方がよほど生産的だ。
「人に関心が持てず、内にこもって鬱々としてしまうことが多いです」
とも書いている。
まるで興味を持てない話しかしない人に関心を抱けないのは当たり前で、その点で相談者は正常だよ。
興味を持てない相手なら無理して付き合わなければいいだけの話で、そんなことで悩む必要もない。
ミツハシ
相談者は専業主婦のようですから、同じ学校に子供を通わせる母親たちとか、習い事の仲間とかとのネットワークが切れると孤立してしまうという懸念を抱いているんじゃないですか。
シマジ
まあ、そんなところだろうな。
だが、孤立したくないから、愉しくもない習い事を続け、関心のない話に相槌を打ち続けてきた結果、相談者はどうなった?
より大きな孤独感の中で立ち尽くし、オロオロしているではないか。
それなら、習い事も仲間付き合いも止めてしまった方がマシだ。
おそらく相談者は自分が何をしているときに一番幸せで、どんな人たちに囲まれているときが一番生き生きできるのか自分でもよく分かっていないのだろう。
こういう人は一度きちんと孤独と向き合った方がいい。
これも繰り返し言ってきたが、一人の時間を愉しくできない人間は、二人の時間も愉しくできない。
相談者がまずやるべきは、人と笑顔で親しく話す練習などではなく、一人の時間を愉しむ術を見つけることだ。
一番いいのは読書だよ。
人類には酒を飲める人間と酒を飲めない人間の二種類がいるように、本を読める人間と読めない人間は別の種類の人類だ。
本を読める方の人類は、一人の時間を決して退屈しない。
それどころか、一人になれる時間が待ち遠しくなる。
相談者にはぜひとも本の世界に遊べるようになってほしい。
そうなれば、知識も教養も表現力も自然と身に付いていく。
相談者は「自分の意見を言うことも苦手で、上手く表現できずオロオロしてしまいます」と書いているが、これはおそらく、自分の意見や自分なりのモノの見方がまだしっかり固まっていないのだと思うね。
だから、適切に表現できないんだよ。本を読むようになれば、これも変わる。
3つの退屈な真実よりも、ひとつの美しい嘘をこそ愛するべきだ。
この相談者で言えば、お母さんたちとの会話や習い事が退屈な真実に当たる。
そこからは、人生の深遠をのぞき見ることも、自分の新しい可能性を見つけることも叶わないだろう。
そんなことにかかずらわっていても時間の無駄だ。
それよりも本を読んで脳みそにたっぷりと栄養を与えてほしいね。
ミツハシ
えこひいきにはえこひいきで返礼する。
シマジ
そういうことだ。
そうして2時間かけて行った松本で、藤本さんが俺の目の前にドンと置いたのが、まだ封を切っていない陶器ボトル入りの白州だった。
「どうぞご自由に飲んでください」
というわけだよ。
この白州は相当な値打ちのものなのだが、そんなことは一言も言わずに「ご自由に」というところがいいだろ。
ここでまた、えこひいきの再返礼を受けた俺は、当然ながら次はどうやって藤本さんを喜ばせてやろうかと考える。
このえこひいきのやり取りが人生を愉しく豊かにするんだ。
えこひいきのお返しは、倍返しを心がけるといい。
「倍返し」というと最近はもっぱら復讐に使うようだが、本来はお礼こそ倍返しだね。
ただし、倍返しといっても倍の金額のものを返すということではない。
相手のえこひいきをいちいち金額換算するのは失礼だし、そもそも真心というのはお金に換算できるものではない。
相手から受けた好意をうれしいと思ったら、そのうれしさを上回るうれしさやサプライズを相手に味わってもらおうと思って返礼をすればいい。
あまり「お金の使い方」にこだわると不自由になるし、下品にもなるからね。
お金がなければないなりに真心の示し方というのはある。
たとえば、その一つが、相手からもらっ
たものを愛用するということだ。
これはとても大切なことだ。
自分がプレゼントしたものを相手が気に入って愛用してくれているというほどうれしいことはない。
(略)
ミツハシ
プレゼントというのは本当にセンスですよね。
シマジ
そうだな。それだけに、人に何かをプレゼントするときというのは、自分自身が欲しいと思うもの、あるいは欲しくて手に入れて満足したものを贈らなければいけない。
自分が要らなくなったものや余ったものをあげるというのはプレゼントではなく、廃棄物処理だ。
それでは相手が愛用してくれることなど期待できないし、仮に喜んで愛用している姿を見てもうれしいどころか心が痛む。
ここで少々難しい問題が生じるのは、自分が本当に欲しいものや欲しかったものというのは、手作りの品は別として、やはりある程度の値段になるということだ。
「お金の使い方にこだわるな」というさっきの言葉とはいささか矛盾するが、センスのあるプレゼントにはどうしてもお金がかかる。
「金は第六感のようなものだ。
これがないと、他の五感も十分に機能しない」
というモームの言葉は真実を穿っている。
ミツハシ
言いえて妙ですね。
シマジ
えこひいきに関して相談者にぜひ伝えておきたいのが、あらゆるえこひいきの中で最高のものは神様のえこひいきであるということだ。
ミツハシ
だとすると、神社に初穂料をはずみ、お返しをうけた相談者はこの縁を大事にしなければいけない。
シマジ
その通りだね。
一浪して青山学院大学に入り、そこで一留までして、なおかつ優が一つもなかった俺が集英社に入社でき、念願の編集者になれたのは間違いなく明治神宮のおかげだ。
(略)
シマジ
男と女の間には暗くて深い川が流れているんだと思うね。
これほど深く愛したのに、相手はそれに十分に応えてくれていないと、男も女も必ず思うようになる。
だから俺は、女から愛のお返しは望まないことにしているんだ。
「俺はこれだけお前のことを愛しているのに」という感情は嫉妬や恨みしか生まない。
女は俺をちょっぴり愛してくれればそれで十分。
女の薄情も多情もビンタも涙も、俺を粗砥で磨いてくれたと考えて、感謝することにしている。
結局、友情と恋情は別物なんだよ。
友情は積み重ねによって深まるが、
セックスは積み重ねによって倦怠が訪れる。
リビドーに突き動かされる恋情は良心なき正直者の営為だが、えこひいきというのは真心のやりとりだ。
だから相性が悪いんだよ。
少なくとも恋愛は欲望であり良心ではない。
そういえば、性欲と食欲というのは、それを司る部分が脳みその中で隣接しているそうだ。
俺は元気だったころ、わりない仲になった女とは食事の前にセックスをするのが好きだったが、これは理屈に合っていたわけだ。
食欲を満たしてしまうとギラギラした性欲はある程度鎮静してしまう。
獣のように求め合うには、すきっ腹の方がいいんだよ。
だから、「乗り移りの人生相談」の読者たちには、セックスをしてから食事を愉しむことを勧める。
そうすれば、むさぼり合うような激しいセックスが愉しめ、そのあとに満ち足りた気分で食事も満喫できる。
ただし、これは既にわりない仲になった男女の愉しみ方だから、そうなる前の男は必要な手続きを省略しないように。
そして、もう一つ注意しておくと、こういう激しい愉しみ方を繰り返していると、良心なき正直者はあっと言う間に飽き始めるという副作用もある。
そうなっても苦情は受け付けないので、自己責任で愉しんでくれ。
■一人の時間を愉しくできない人間は、二人の時間も愉しくできない
シマジ
俺は何度も「退屈と無知は人生の大罪である」と言ってきた。
この相談者は退屈をしているんだよ。
退屈というのはたった一度の人生への冒涜だ。
「主婦をしています。
家事、育児の傍ら習い事などをして過ごしています。
でも、あまり楽しいと思えないのです」
と相談者は書いているが、専業主婦としての毎日に満足していないという気持ちが伝わってこないか?
ミツハシ
伝わってきますね。
何か他人事を報告しているみたいな文章で、現状を「仮の姿」と思っているような印象です。
シマジ
これこそ退屈だよ。
しかし、なぜ、愉しいと思えない習い事なんか続けているんだ?
別に強制されているわけでもなかろうに、面白くなければ無理して続けなくてもいい。
もっと他に興味が持てるものを見つけた方がよほど生産的だ。
「人に関心が持てず、内にこもって鬱々としてしまうことが多いです」
とも書いている。
まるで興味を持てない話しかしない人に関心を抱けないのは当たり前で、その点で相談者は正常だよ。
興味を持てない相手なら無理して付き合わなければいいだけの話で、そんなことで悩む必要もない。
ミツハシ
相談者は専業主婦のようですから、同じ学校に子供を通わせる母親たちとか、習い事の仲間とかとのネットワークが切れると孤立してしまうという懸念を抱いているんじゃないですか。
シマジ
まあ、そんなところだろうな。
だが、孤立したくないから、愉しくもない習い事を続け、関心のない話に相槌を打ち続けてきた結果、相談者はどうなった?
より大きな孤独感の中で立ち尽くし、オロオロしているではないか。
それなら、習い事も仲間付き合いも止めてしまった方がマシだ。
おそらく相談者は自分が何をしているときに一番幸せで、どんな人たちに囲まれているときが一番生き生きできるのか自分でもよく分かっていないのだろう。
こういう人は一度きちんと孤独と向き合った方がいい。
これも繰り返し言ってきたが、一人の時間を愉しくできない人間は、二人の時間も愉しくできない。
相談者がまずやるべきは、人と笑顔で親しく話す練習などではなく、一人の時間を愉しむ術を見つけることだ。
一番いいのは読書だよ。
人類には酒を飲める人間と酒を飲めない人間の二種類がいるように、本を読める人間と読めない人間は別の種類の人類だ。
本を読める方の人類は、一人の時間を決して退屈しない。
それどころか、一人になれる時間が待ち遠しくなる。
相談者にはぜひとも本の世界に遊べるようになってほしい。
そうなれば、知識も教養も表現力も自然と身に付いていく。
相談者は「自分の意見を言うことも苦手で、上手く表現できずオロオロしてしまいます」と書いているが、これはおそらく、自分の意見や自分なりのモノの見方がまだしっかり固まっていないのだと思うね。
だから、適切に表現できないんだよ。本を読むようになれば、これも変わる。
3つの退屈な真実よりも、ひとつの美しい嘘をこそ愛するべきだ。
この相談者で言えば、お母さんたちとの会話や習い事が退屈な真実に当たる。
そこからは、人生の深遠をのぞき見ることも、自分の新しい可能性を見つけることも叶わないだろう。
そんなことにかかずらわっていても時間の無駄だ。
それよりも本を読んで脳みそにたっぷりと栄養を与えてほしいね。