桧山進次郎 /
代打の神様 震災20年を語る神戸新聞NEXT 1月1日(木)1995年1月17日。プロ野球阪神タイガースの選手だった桧山進次郎さんは自主トレーニングに備え、京都の実家から西宮・苦楽園のマンションに戻っていた。突き上げるような地鳴り。激しい揺れ。体をこわばらせ、桧山さんは恐る恐る玄関のドアを開けた。「周りの家の明かりが全部、消えていた。辺りはシーンとしていて、聞こえてくるのは犬の鳴き声だけ。人の姿も見えない。怖いぐらいに静かだった。誰かの顔が見たくなって甲子園球場に向かった。なぜか野球道具をバッグに詰め込んで。今思えば、現実を受け入れられていなかったのかもしれない」甲子園球場の被害は小さく、95年のシーズンは予定通りに開幕した。神戸に本拠地を置いていたオリックスは「がんばろうKOBE」を合言葉にリーグ優勝。一方、阪神は最下位に沈んだ。「甲子園の周りには家族を亡くし、住む家を失った人がいる。『こんな状況で野球なんかやったらあかんやろ』と思っていた。開幕延期や甲子園を使わない案も出ていたが、結局、予定通りに始まった。僕たちは野球が仕事。球団が決めた以上、やらなきゃいけない。ただ、『野球で元気を』と言っても地震直後は迷いがあった。シーズンが始まれば、同じ関西のオリックスがどんどん勝っていく。こっちは結果が出せなくて。歯がゆかったし、みじめだった」2002年から星野仙一監督が指揮。阪神は低迷期を脱し、震災から8年後の03年、リーグ優勝を果たす。選手会長として中核を担った桧山さんは震災当時に実感できなかったスポーツの力を知る。「シーズン終了後、神戸で優勝パレードがあった。沿道のファンからは『おめでとう』と声を掛けられるものだと思っていた。ところが、『ありがとう』と言われる。おじいちゃんが涙を浮かべて『優勝してくれてありがとう』って。その姿を見て自分たちがファンに元気や勇気を与えていたことに気付いた」リーグ優勝の前年、選手は「あしなが育英会」のステッカーを付け、神戸の震災遺児施設との交流を深めた。桧山さんはその施設で、震災で父を失った一人の少女と出会う。「小学5年生ぐらいだったかな。僕のファンで、『ひーやん、ひーやん』(桧山さんの愛称)ってすごく明るい笑顔で近寄ってきてくれた。悲しい思いをしているのにそれを感じさせない。この子の強さはどこから来るんだろうと思いながら接していた」以来、桧山さんは毎年、シーズンオフに施設を訪問。震災で親を失った子どもたちの成長を見守り続けた。「小学生だった子が中学、高校生になっていく。僕のファンだった女の子は大学生の時、甲子園で売り子のバイトをしていた。うれしくて試合前の練習中にグラウンドから『頑張ってビール売れよ~』って手を振ったこともあった」「子どもたちから僕が教えられていた。幼いころに親を亡くした彼女たちは、周りに支えられていることを知っている。仲間の大切さを感じ、助け合いながら生きていることを分かっている」震災20年を迎える被災地へ、桧山さんはエールを込め、「これからも皆で!」とメッセージをしたためた。「この先もきっといろんな問題がある。また、大きな災害が起きるかもしれない。でも、何があってもそばに必ず誰かがいる。一人で考えても解決しない。僕自身、震災当日、誰かの顔が見たくて甲子園に行った。リーグ優勝した時はチームが束になった。人は一人では生きていけない。人が集まれば、困難を乗り越えられる」(聞き手・松本大輔)
〈ひやま・しんじろう〉1969年、京都市生まれ。京都・平安高(現龍谷大平安高)、東洋大を経て91年、ドラフト4位でプロ野球阪神タイガース入団。22年の現役生活でリーグ優勝2回。晩年は「代打の神様」と称された。現役時代の背番号は24。西宮市在住。
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震災から20年/桧山進次郎
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