転載元 ねずさんのひとりごと
■韓国問題と日本
保守系団体の記事や講演会などの花型は、これまではなんといっても政治問題でした。
ところが昨年は、この順番が入れ替わって、1位が韓国問題となりました。
政治、軍事、歴史を大きく引き離したように思います。
動画サイトをみても、なんといっても宮脇淳子先生や倉山満先生などの韓国問題が、いっきに10万~30万のアクセスを得たりしています。
それ以外の政治、軍事、歴史、教育では、ほとんどが1万以下のアクセスですから、これは大きな地殻変動が起きたといえるかもしれません。
書店においても「日韓関係史」がベストセラーにはいったり、歴史通やWillの韓国特集号が、過去最高販売数となったりしました。
このことは、おそらく従来の、いわゆる保守と呼ばれる人達とはまた別な層が、新たに目覚めつつあるという情況を表しているように思います。
そんなことから私もCGSで韓国問題について少々お話しをすることになり、一昨日その収録を終えたばかりですが、ねずブロにおける韓国問題の扱いも同じですが、私自身は、こういう話を単に韓国や韓国人への批判とは、まったく思っていません。
そうではなく、歴史を韓流ファンタジードラマで歪められ、一方で韓国では強烈な反日教育が行われる一方で、日本では、近現代史がまったく教えられない。
テレビでもやらない。
そして何も知らずに育った日本人が、歪められた歴史認識で好きなように弄ばれるということは、よくないことでと思っています。
「敵を知り己を知れば百戦して危うからず」といいますが、敵を知らないどころか、おかしな情報を垂れ流されてまるで180度違ったデタラメを吹き込まれる一方で、自国のことは何も知らないというのでは、百戦して危うからずどころか、百戦百敗です。
「敵を知り己を知れば百戦して危うからず」は孫氏の兵法ですが、ここから私達は3つの学びを得ることができます。
1 敵(韓国および韓国人)を知ること
2 己(日本および日本人)を知ること
3 彼我の違いをわきまえて付き合うこ
と
この3つです。
韓国および韓国人を知ることは、大事なことです。
以前このブログで「路上脱糞禁止令」のことを書かせていただいたことがあります。
これは、日本が朝鮮を統治した時代、朝鮮総督府が何度も出したお布令です。
路上脱糞は、我々日本人から見れば異質であっても、彼らにとっては、それは長年の習慣であり、ごく自然な行為でしかなかったわけです。
ですから、彼らの路上脱糞癖を、私達が笑いものにすることは間違っていると思います。
たとえば大陸の遊牧民は、糞を燃料として燃やす習慣がありました。
彼らは寒冷地の生活ですが、暖をとるためには火を燃やさなければなりません。
けれど、周囲は荒涼とした荒れ地です。付近に木はありません。
ですから彼らは、ヤギやヒツジの糞を集めて、これを乾燥させ、乾燥糞燃料として用いました。
彼らは「パオ」と呼ばれるテントに住みましたが、パオは床下でその糞を燃やします。
すると、床暖房となって、パオはとても温かくて居心地の良い空間になります。
パオの中は、ふかふかして温かく、まるでトトロに出てくる猫バスの中のようです。
けれど、床下では糞が燃えているわけです。
床に穴があくと、そこからは、まさに「やけくそ」な臭気が漂います。
ですから女たちにとって、毛皮によるパオの修復は、日常的かつ重要な仕事とされていました。
さらにアフリカに行きますと、糞で家の壁をつくる習慣の部族がいたりします。
それぞれの民族が、それぞれの土地や民族にもっとも適した生活を築くために、身の回りのあらゆるものを工夫してできあがったのが、それぞれの民族の生活習慣なのです。
朝鮮半島では、路上脱糞のおかげで、大陸にありながら、長い年月、他国が誰も攻めてこない。
宗主国に性奴として女性を献上し、国内を王宮にいたるまで糞尿だらけにしておくことで、大陸にありながら、他国から攻められずに生き残るという選択がされてきたのが、高麗であり、李氏朝鮮だったわけです。
それによって人口の97%の国民が飢えようが、3%の両班たちは安心して生活することができた。
それはそれで彼らの歴史の選択なのです。
他国がとやかくいうことではない。
民衆にとってとか、衛生面においてとか、我々から見れば疑問は尽きませんが、すくなくとも、両班たちはそれで満足した暮らしをしていたわけです。
私達は日本人です。
日本にも、やはり日本人としての歴史伝統文化に基づく、さまざまな慣習がありますし、日本人なりの美意識があります。
日本人は、道路は公共のものだから、そこを私的な産物である自己の糞をもって汚してはならないと考えます。
では、なぜ日本人がそのような公共心を持つに至ったか。
それを学ぶことが、「2つ目の己を知る」ということであろうと思います。
3つ目の「彼我の違いをわきまえる」は、互いに異なるのだということを、まずははっきりと自覚するということです。
日本人も朝鮮人も、同じ人間だ、同じ人だ、と単純かつ、お人好しに考えるのではなく、兄弟だって友達だって、ひとりひとりみんな違いがあるように、朝鮮人と日本人は「違う」ということを、はっきりと自覚することが大事だと思います。
このことを、「どっちが正しい」とか、「どっちが上だ」とか考えるから、おかしくなるのです。
どっちかが正しければ、どっちかが悪です。
つまり正義を名乗りながら、それは悪を故意につくっています。
路上で脱糞をしようが、トイレで脱糞しようが、それはそれぞれの文化の違いであって、どっちが上だとか、どっちが偉いという話でもありません。
良い悪い、正義か悪かではなくて、そうした彼我の違いを明確に認識することが、実の「対等」です。
あいつは成績は一番。
だけど駆けっこだったらオイラが一番。
これが対等です。
対等は平等とも違います。
平等はみんな同じですけれど、対等は彼我の違いを認識し、互いを活かそうとします。
そしてその対等意識こそ、日本古来の心です。
差別をなくせとか、差別は良くないとかいうのは、そもそも議論の次元が違います。
韓国や韓国人と日本や日本人は、歴史伝統文化慣習がそもそも全然違うのです。
ですから違うのが当然です。
それを「差別はいけない」というのは、「違いを認識することがいけない」といっているのと同じです。
成績で一番になるのも、駆けっこで一番になるのも、どちらもその子は努力してそうなっているのです。
ですから、それを「皆一緒」というのは、その子供達の努力自体を認めないことです。
そんなのではやってられません。
同様に、韓国も日本も、それぞれ歴史の中で様ざなま試行錯誤の上に、いまの韓国、いまの日本があるわけです。
それをあたまごなしに「差別は良くない。一緒なのだ」というのは、双方の歴史そのものを否定していることになるのです。
韓国は真実の歴史を否定してファンタジーに縋りたいのだから、歴史の否定は彼らにとっての希望かもしれませんが、私達日本人にとっては、歴史は誇りです。根本が違います。
違いは現実にあるのです。
ですから、その彼我の違いは違いとして認識し、その上で、自分の国が如何に生きるかが大切なのです。
路上脱糞は、彼らの文化です。
ですから、認めてあげれば良いのです。また彼らの国で自由に復活させてあげたって良いではないですか。
けれど、それを日本でされたら迷惑です。
( してますが )
ここは日本です。
したいなら、彼らの国のなかでしてもらうしかないのです。
ここは日本だからです。
ただ平等だからと彼らに迎合し、彼らのやり方を日本でされたら困るのです。
本来、日本は『明察功過』の国です。
しそうだ、やりそうだという段階で、それができないように手を打っていくのが日本です。
情況に応じて可能性がある者は本国に強制送還する。
それこそ日本流の文化です。
そういう彼我の区別をきちんとつけててこそ、対等というものです。
フランスは、中世ヨーロッパにおいて、きわめて高い文明文化を誇った国です。
イギリスさえも、そのフランスから分国して誕生しているくらいです。
けれど、そのフランスの王都パリでさえも、糞尿は壺に入れ、女中がそれを屋敷の窓から路上にぶちまけるということが、ごく自然に行われていました。
そのために道路は石畳となりました。
石畳なら、汚れ物は石の隙間から地面に吸い込まれてくれるからです。
それを良くないとか、汚いとか、遅れているだとか、邪だとか言い出すこと自体が、傲慢です。
彼らには彼らの文化があるのです。
そしてその文化があったからこそ、彼らは道路の敷石の隙間に吸い込まれた糞尿が、長年の間に結晶化したものが硝石となり、そこから火薬をつくり、大砲をつくり、炸裂弾をつくり、その炸裂大砲弾で、ナポレオンがヨーロッパを席捲しています。
硝石なら、彼らはいくらでもあった。
そして路上にぶちまける糞尿のために、フランスの貴族女性たちが、足が汚れないようにと靴底が厚くてカカトの高い靴を履きました。
これがハイヒールの元祖です。
そのハイヒールは、女性の足やヒップラインを美しく見せ、いまや世界中の女性たちを魅了しています。
良い悪いではなくて、そこから何を生み出すかが大事なのです。
そしてモノ作りに欠かせないのが、信頼関係です。
日本は、モノ作りのために、太古の昔から信頼関係を大切にしてきた国です。
差別はいけないとか、彼我の違いを認めずに、全部を一緒にするとかという程度の低いことを言っているうちに、日本は、そのモノ作り大国としての地位まで失おうとしています。
駆けっこで一番だったはずなのに、みんな一緒でなければならないと言われて、練習もしなくなり、結果、駆けっこさえも勝てなくなっている。
それがいまの日本といえないでしょうか。
ですから誰も韓国問題で、韓国を叩こうとか、馬鹿にしようとか、ヘイトスピーチだとかのために、書いてはいません。
違いを認識して未来志向で行こうというのが、私の意見です。
そしてそれと同時に、日本に住む日本人である以上、他国のことよりも、もっともっと日本を学ぼうというのが、私の方向性です。
そして彼我の違いをわきまえることで、本当の意味での未来志向の日本が開けてくるものと私は思います。
■本当のことを教えない
▼ここ何日か続けて韓国問題を扱ったところ、さっそく私への中傷があちこちのサイトに書かれているようです。
( サルメラ:そら、そやろ(笑) )
けれど、韓国問題で火病を起こすということは、もう根っこがあまりにもわかりやすすぎです。
◇
九州は久留米の東側に筑後川(ちくごがわ)があります。
かつてこの流域の地方は、水は近くにあるのですが、川が低くて、流れが急なために田になかなか水が引けず、そのために作物が十分に採れず、住民たちがたいそう貧しい生活をしていました。
江戸時代の初めごろ、この地方に栗林次兵衛、本松平右衛門、山下助左衛門、重富平左衛門、猪山作之丞という五人の荘屋さんがいました。
五人は、村の困難をどうにかして救おうと相談しました。
そしてついに、筑後川に大きな堰を設けて、掘割を造って水を引こうと決めました。
測量も行い、成功の見込は立ちました。
けれど、これまで誰も計画したことのない大工事です。
人夫もたくさんいるし、費用もかかる。
けれど藩政は苦しい台所事情です。
藩の許可を得るのは、現実の問題として、なかなか容易なことではありません。
そこで五人は、
「ワシらがいったん思い立った以上は、たとえどんなことがあってもきっとこれを成就しよう。
それまでは、五人の者は一心同体であるぞ」
と、堅く誓いあいました。
五人はそれぞれに村人たちを集め、みんなに計画を話しました。
みんなも協同して働くと誓いあってくれました。
他の村の荘屋さんたちも、計画を聞いて仲間に加りたいと申し込んでくれました。
けれど五人は、
「この大工事がもし不成功に終わったら、ワシら五人は、命を捨ててお詫びしなければならない。むやみに人様を仲間に入れ、万一の迷惑をかけてはならない」からと、これを断りました。
それでも他の村の荘屋さんたちは、五人の志が堅いことを知って、いっしょになって藩への願い出に連署してくれました。
藩も、工事には理解を示してくれました。
けれど、あまりに費用が大きい。
許可はなかなかでません。
一方、この計画の水路にあたる一部の村の荘屋さんたちは、
「そのような堰を設られたら、洪水の際に我々の村に被害が出る」
と、工事に反対をしてきました。
五人の荘屋は度々藩の役所に出て、計画の確であることを熱心に説明しました。
役人は五人に向かい、
「もし計画通りに行かなかったら、お前方はどうするつもりか。」
と聞きました。
「そのときは、私ども五人、責任を負って、どんな重い刑罰でも、快くお受け致します」
と申しました。
役人は、五人の志を受け、藩にもかけあい、ついに五人の願いを許したのです。
五人の荘屋は、仲間の荘屋たちと一緒になって、村人たちを指図して、いよいよ工事にとりかかりました。
監督に来た藩の役人は、
「もし失敗したら、ふびんながら、五人を重く罰するぞ。」
と、改めて申し渡しました。
村人たちは口々に、
「荘屋を罪におとしてはすまない」
と言って、夜昼なく、一生懸命に働いてくれました。
女子供までも手伝って木や石を運んでくれましたから、さしもの大工事が意外にはかどりました。
いよいよ大きな堰が出来上りました。
水を通しました。
計画通り、筑後川の水がとうとうと掘割に流れ込みました。
そのときの村人たちの喜びはたとえようもないものでした。
その成功を見て、他の村々でも、水を引きたいと願い出てきました。
そして堰と掘割をひろげることになりました。
始めのうち工事に反対していた荘屋さんたちも、水の分前にあずかりたいと願い出てきました。
一部の人たちからは、
「あの人々は、当初工事に反対したから、俺たちの村に水が来るまでは、後回しにすべきだ」
という声もあがりましたが、五人の荘屋は、
「この工事は、もともとこの地方のために起したことですから、その水利は出来るだけ広く受けさせとうございます。
どうか皆様に同時にお許し下さい」
と、反対する人たちに頭をさげました。
役人も同意してくれました。
こうして筑後川の流域は、この地方を代表する、大穀倉地帯に生まれ変わりました。
それは、五人の荘屋さんたちを始め、村人たちが心をあわせ必死になって尽くしてくれたおかげです。
・・・・・・
と、このお話は、実は戦前の尋常小学校6年生の修身の教科書にあったお話です。
文章は、ねずさん流の現代文にだいぶ手を加えさせていただいて、掲示させていただきました。
そして、この物語は、次のように締めくくられています。
《我等の住む市や町や村は、昔から人々が協同一致して郷土のために力を尽くしたおかげで、今日のように開けて来たのです。
協同の精神は、人々が市町村を成し、全体を反映させる基であります。》
考えてみれば、いまわたしたちが住んでいる町も、道路も、公園も、川に架かる橋も、電車も、電線も、全部わたしたちの先人達が、何代にもわたって築いてきてくれた大きな遺産です。
そしてその遺産は、同時にわたしたちの先輩達が、先輩達の生活のためでもあり、また同時に、後世に生きるわたしたちのためであり、そのまたわたしたちの子や孫、それに続く未来の世代のためにと、先輩達が力を合わせ、協同して築いてくれた遺産です。
上にご紹介した筑後川の流域の庄屋さんと村人たちの物語は、全国津々浦々で行われた物語でもある。
わたしたちの先輩たちまでは、そういうことを学校で学んでいました。
その前の先輩たちも、おなじことを、寺子屋で学んでいました。
ですから、それらは、わたしたち日本人にとっての常識でした。
けれど戦後のわたしたちや、その後の世代はどうでしょう。
「1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府」は学んでも、
そういう「協同」することの大切さや、父祖の恩、国や国土を愛する心を、果たして学んで育ってきたのでしょうか。
そして「学ばない」ことが、昨今ではまるで「学ばせないこと」が正義であるかのような論調さえもあるという体たらくです。
ちなみに戦後左翼というのは、嘘も教えますけれど、彼らの巧みなのは、嘘を教えればすぐにバレる。
だからそうではなくて、
「本当のことを教えない」、
「一番大事なことを教えない」
というやり方を徹底してきました。
今日のお話の中で
「藩のお台所が苦しい」
というくだりがありました。
江戸時代の全国の諸藩の大名たちが、みんな赤字財政で四苦八苦していたことは、みなさん学校でも習いますし、テレビの時代劇などでもご覧になったことがあろうかと思います。
大名たちは、江戸や大阪の大商人たちから、たいへんな借金をしていた。
そんな話はきっとみなさん聞き覚えておいでのことと思います。
けれど、それがウシハク世界の領主たちなら、赤字なら藩民から、徹底的に搾取したことでしょう。
なぜなら自分たちだけが人間であり、民というのは、自分たちを食わせるためのヒトモドキの道具ないし私有物でしかなかったからです。
大名たちには、年貢による収入があるのです。
にも関わらず、彼らはどうして大赤字で、大商人たちから借金を重ねていたのでしょうか。
自分たちが贅沢をするためでしょうか。
全然違います。
今日のお話しにもあったように、水路や堤防の工事、あるいは土砂災害や地震、噴火、火災からの復旧工事など、民のための土木や建築などに、藩政が赤字であっても、必要な工事を藩の事業として推進していたのです。
なぜなら、それが天皇のおおみたからを預かる武士の役割だと認識されていたからです。
藩の領土は、お殿様のものです。
けれど、藩民は、天皇のおおみたからです。
そして藩主は、そのおおみたからたちが幸せに安心して暮らせるようにすることが、藩主としての仕事であると認識されていたのです。
そういう自覚があったからこそ、彼らは明治時代にはいって、版籍奉還に応じているのです。
ここが一番大事なところです。
江戸の大火や、地震、あるいは富士山の噴火などによる被害、あるいは干ばつによる農産物の凶作など、日本は、各種自然災害などが民の生活を脅かすことが多々ある国です。
そしてその都度、幕府は、備蓄していたお蔵米を民のために炊き出ししたり、無償でお米を配ったりしていましたし、町並みの復興のために、莫大なお金を使っています。
だから赤字にもなる。
赤字になれば、大商人から借金する。
武士たちの贅沢のためではありません。
全部、藩民の生活を安定させるためです。
だから武士たちは、民から尊敬されたのです。
そういう肝心なことを教えない。
私達は、日本を取り戻そうとしています。
日本は、縄文以來、あるいはもっと古い昔から、民の安全で安心できる生活の保持を、政治の使命としてきた国です。
それが崩れたのは、むしろ、現代の戦後日本です。
■韓国問題と日本
保守系団体の記事や講演会などの花型は、これまではなんといっても政治問題でした。
ところが昨年は、この順番が入れ替わって、1位が韓国問題となりました。
政治、軍事、歴史を大きく引き離したように思います。
動画サイトをみても、なんといっても宮脇淳子先生や倉山満先生などの韓国問題が、いっきに10万~30万のアクセスを得たりしています。
それ以外の政治、軍事、歴史、教育では、ほとんどが1万以下のアクセスですから、これは大きな地殻変動が起きたといえるかもしれません。
書店においても「日韓関係史」がベストセラーにはいったり、歴史通やWillの韓国特集号が、過去最高販売数となったりしました。
このことは、おそらく従来の、いわゆる保守と呼ばれる人達とはまた別な層が、新たに目覚めつつあるという情況を表しているように思います。
そんなことから私もCGSで韓国問題について少々お話しをすることになり、一昨日その収録を終えたばかりですが、ねずブロにおける韓国問題の扱いも同じですが、私自身は、こういう話を単に韓国や韓国人への批判とは、まったく思っていません。
そうではなく、歴史を韓流ファンタジードラマで歪められ、一方で韓国では強烈な反日教育が行われる一方で、日本では、近現代史がまったく教えられない。
テレビでもやらない。
そして何も知らずに育った日本人が、歪められた歴史認識で好きなように弄ばれるということは、よくないことでと思っています。
「敵を知り己を知れば百戦して危うからず」といいますが、敵を知らないどころか、おかしな情報を垂れ流されてまるで180度違ったデタラメを吹き込まれる一方で、自国のことは何も知らないというのでは、百戦して危うからずどころか、百戦百敗です。
「敵を知り己を知れば百戦して危うからず」は孫氏の兵法ですが、ここから私達は3つの学びを得ることができます。
1 敵(韓国および韓国人)を知ること
2 己(日本および日本人)を知ること
3 彼我の違いをわきまえて付き合うこ
と
この3つです。
韓国および韓国人を知ることは、大事なことです。
以前このブログで「路上脱糞禁止令」のことを書かせていただいたことがあります。
これは、日本が朝鮮を統治した時代、朝鮮総督府が何度も出したお布令です。
路上脱糞は、我々日本人から見れば異質であっても、彼らにとっては、それは長年の習慣であり、ごく自然な行為でしかなかったわけです。
ですから、彼らの路上脱糞癖を、私達が笑いものにすることは間違っていると思います。
たとえば大陸の遊牧民は、糞を燃料として燃やす習慣がありました。
彼らは寒冷地の生活ですが、暖をとるためには火を燃やさなければなりません。
けれど、周囲は荒涼とした荒れ地です。付近に木はありません。
ですから彼らは、ヤギやヒツジの糞を集めて、これを乾燥させ、乾燥糞燃料として用いました。
彼らは「パオ」と呼ばれるテントに住みましたが、パオは床下でその糞を燃やします。
すると、床暖房となって、パオはとても温かくて居心地の良い空間になります。
パオの中は、ふかふかして温かく、まるでトトロに出てくる猫バスの中のようです。
けれど、床下では糞が燃えているわけです。
床に穴があくと、そこからは、まさに「やけくそ」な臭気が漂います。
ですから女たちにとって、毛皮によるパオの修復は、日常的かつ重要な仕事とされていました。
さらにアフリカに行きますと、糞で家の壁をつくる習慣の部族がいたりします。
それぞれの民族が、それぞれの土地や民族にもっとも適した生活を築くために、身の回りのあらゆるものを工夫してできあがったのが、それぞれの民族の生活習慣なのです。
朝鮮半島では、路上脱糞のおかげで、大陸にありながら、長い年月、他国が誰も攻めてこない。
宗主国に性奴として女性を献上し、国内を王宮にいたるまで糞尿だらけにしておくことで、大陸にありながら、他国から攻められずに生き残るという選択がされてきたのが、高麗であり、李氏朝鮮だったわけです。
それによって人口の97%の国民が飢えようが、3%の両班たちは安心して生活することができた。
それはそれで彼らの歴史の選択なのです。
他国がとやかくいうことではない。
民衆にとってとか、衛生面においてとか、我々から見れば疑問は尽きませんが、すくなくとも、両班たちはそれで満足した暮らしをしていたわけです。
私達は日本人です。
日本にも、やはり日本人としての歴史伝統文化に基づく、さまざまな慣習がありますし、日本人なりの美意識があります。
日本人は、道路は公共のものだから、そこを私的な産物である自己の糞をもって汚してはならないと考えます。
では、なぜ日本人がそのような公共心を持つに至ったか。
それを学ぶことが、「2つ目の己を知る」ということであろうと思います。
3つ目の「彼我の違いをわきまえる」は、互いに異なるのだということを、まずははっきりと自覚するということです。
日本人も朝鮮人も、同じ人間だ、同じ人だ、と単純かつ、お人好しに考えるのではなく、兄弟だって友達だって、ひとりひとりみんな違いがあるように、朝鮮人と日本人は「違う」ということを、はっきりと自覚することが大事だと思います。
このことを、「どっちが正しい」とか、「どっちが上だ」とか考えるから、おかしくなるのです。
どっちかが正しければ、どっちかが悪です。
つまり正義を名乗りながら、それは悪を故意につくっています。
路上で脱糞をしようが、トイレで脱糞しようが、それはそれぞれの文化の違いであって、どっちが上だとか、どっちが偉いという話でもありません。
良い悪い、正義か悪かではなくて、そうした彼我の違いを明確に認識することが、実の「対等」です。
あいつは成績は一番。
だけど駆けっこだったらオイラが一番。
これが対等です。
対等は平等とも違います。
平等はみんな同じですけれど、対等は彼我の違いを認識し、互いを活かそうとします。
そしてその対等意識こそ、日本古来の心です。
差別をなくせとか、差別は良くないとかいうのは、そもそも議論の次元が違います。
韓国や韓国人と日本や日本人は、歴史伝統文化慣習がそもそも全然違うのです。
ですから違うのが当然です。
それを「差別はいけない」というのは、「違いを認識することがいけない」といっているのと同じです。
成績で一番になるのも、駆けっこで一番になるのも、どちらもその子は努力してそうなっているのです。
ですから、それを「皆一緒」というのは、その子供達の努力自体を認めないことです。
そんなのではやってられません。
同様に、韓国も日本も、それぞれ歴史の中で様ざなま試行錯誤の上に、いまの韓国、いまの日本があるわけです。
それをあたまごなしに「差別は良くない。一緒なのだ」というのは、双方の歴史そのものを否定していることになるのです。
韓国は真実の歴史を否定してファンタジーに縋りたいのだから、歴史の否定は彼らにとっての希望かもしれませんが、私達日本人にとっては、歴史は誇りです。根本が違います。
違いは現実にあるのです。
ですから、その彼我の違いは違いとして認識し、その上で、自分の国が如何に生きるかが大切なのです。
路上脱糞は、彼らの文化です。
ですから、認めてあげれば良いのです。また彼らの国で自由に復活させてあげたって良いではないですか。
けれど、それを日本でされたら迷惑です。
( してますが )
ここは日本です。
したいなら、彼らの国のなかでしてもらうしかないのです。
ここは日本だからです。
ただ平等だからと彼らに迎合し、彼らのやり方を日本でされたら困るのです。
本来、日本は『明察功過』の国です。
しそうだ、やりそうだという段階で、それができないように手を打っていくのが日本です。
情況に応じて可能性がある者は本国に強制送還する。
それこそ日本流の文化です。
そういう彼我の区別をきちんとつけててこそ、対等というものです。
フランスは、中世ヨーロッパにおいて、きわめて高い文明文化を誇った国です。
イギリスさえも、そのフランスから分国して誕生しているくらいです。
けれど、そのフランスの王都パリでさえも、糞尿は壺に入れ、女中がそれを屋敷の窓から路上にぶちまけるということが、ごく自然に行われていました。
そのために道路は石畳となりました。
石畳なら、汚れ物は石の隙間から地面に吸い込まれてくれるからです。
それを良くないとか、汚いとか、遅れているだとか、邪だとか言い出すこと自体が、傲慢です。
彼らには彼らの文化があるのです。
そしてその文化があったからこそ、彼らは道路の敷石の隙間に吸い込まれた糞尿が、長年の間に結晶化したものが硝石となり、そこから火薬をつくり、大砲をつくり、炸裂弾をつくり、その炸裂大砲弾で、ナポレオンがヨーロッパを席捲しています。
硝石なら、彼らはいくらでもあった。
そして路上にぶちまける糞尿のために、フランスの貴族女性たちが、足が汚れないようにと靴底が厚くてカカトの高い靴を履きました。
これがハイヒールの元祖です。
そのハイヒールは、女性の足やヒップラインを美しく見せ、いまや世界中の女性たちを魅了しています。
良い悪いではなくて、そこから何を生み出すかが大事なのです。
そしてモノ作りに欠かせないのが、信頼関係です。
日本は、モノ作りのために、太古の昔から信頼関係を大切にしてきた国です。
差別はいけないとか、彼我の違いを認めずに、全部を一緒にするとかという程度の低いことを言っているうちに、日本は、そのモノ作り大国としての地位まで失おうとしています。
駆けっこで一番だったはずなのに、みんな一緒でなければならないと言われて、練習もしなくなり、結果、駆けっこさえも勝てなくなっている。
それがいまの日本といえないでしょうか。
ですから誰も韓国問題で、韓国を叩こうとか、馬鹿にしようとか、ヘイトスピーチだとかのために、書いてはいません。
違いを認識して未来志向で行こうというのが、私の意見です。
そしてそれと同時に、日本に住む日本人である以上、他国のことよりも、もっともっと日本を学ぼうというのが、私の方向性です。
そして彼我の違いをわきまえることで、本当の意味での未来志向の日本が開けてくるものと私は思います。
■本当のことを教えない
▼ここ何日か続けて韓国問題を扱ったところ、さっそく私への中傷があちこちのサイトに書かれているようです。
( サルメラ:そら、そやろ(笑) )
けれど、韓国問題で火病を起こすということは、もう根っこがあまりにもわかりやすすぎです。
◇
九州は久留米の東側に筑後川(ちくごがわ)があります。
かつてこの流域の地方は、水は近くにあるのですが、川が低くて、流れが急なために田になかなか水が引けず、そのために作物が十分に採れず、住民たちがたいそう貧しい生活をしていました。
江戸時代の初めごろ、この地方に栗林次兵衛、本松平右衛門、山下助左衛門、重富平左衛門、猪山作之丞という五人の荘屋さんがいました。
五人は、村の困難をどうにかして救おうと相談しました。
そしてついに、筑後川に大きな堰を設けて、掘割を造って水を引こうと決めました。
測量も行い、成功の見込は立ちました。
けれど、これまで誰も計画したことのない大工事です。
人夫もたくさんいるし、費用もかかる。
けれど藩政は苦しい台所事情です。
藩の許可を得るのは、現実の問題として、なかなか容易なことではありません。
そこで五人は、
「ワシらがいったん思い立った以上は、たとえどんなことがあってもきっとこれを成就しよう。
それまでは、五人の者は一心同体であるぞ」
と、堅く誓いあいました。
五人はそれぞれに村人たちを集め、みんなに計画を話しました。
みんなも協同して働くと誓いあってくれました。
他の村の荘屋さんたちも、計画を聞いて仲間に加りたいと申し込んでくれました。
けれど五人は、
「この大工事がもし不成功に終わったら、ワシら五人は、命を捨ててお詫びしなければならない。むやみに人様を仲間に入れ、万一の迷惑をかけてはならない」からと、これを断りました。
それでも他の村の荘屋さんたちは、五人の志が堅いことを知って、いっしょになって藩への願い出に連署してくれました。
藩も、工事には理解を示してくれました。
けれど、あまりに費用が大きい。
許可はなかなかでません。
一方、この計画の水路にあたる一部の村の荘屋さんたちは、
「そのような堰を設られたら、洪水の際に我々の村に被害が出る」
と、工事に反対をしてきました。
五人の荘屋は度々藩の役所に出て、計画の確であることを熱心に説明しました。
役人は五人に向かい、
「もし計画通りに行かなかったら、お前方はどうするつもりか。」
と聞きました。
「そのときは、私ども五人、責任を負って、どんな重い刑罰でも、快くお受け致します」
と申しました。
役人は、五人の志を受け、藩にもかけあい、ついに五人の願いを許したのです。
五人の荘屋は、仲間の荘屋たちと一緒になって、村人たちを指図して、いよいよ工事にとりかかりました。
監督に来た藩の役人は、
「もし失敗したら、ふびんながら、五人を重く罰するぞ。」
と、改めて申し渡しました。
村人たちは口々に、
「荘屋を罪におとしてはすまない」
と言って、夜昼なく、一生懸命に働いてくれました。
女子供までも手伝って木や石を運んでくれましたから、さしもの大工事が意外にはかどりました。
いよいよ大きな堰が出来上りました。
水を通しました。
計画通り、筑後川の水がとうとうと掘割に流れ込みました。
そのときの村人たちの喜びはたとえようもないものでした。
その成功を見て、他の村々でも、水を引きたいと願い出てきました。
そして堰と掘割をひろげることになりました。
始めのうち工事に反対していた荘屋さんたちも、水の分前にあずかりたいと願い出てきました。
一部の人たちからは、
「あの人々は、当初工事に反対したから、俺たちの村に水が来るまでは、後回しにすべきだ」
という声もあがりましたが、五人の荘屋は、
「この工事は、もともとこの地方のために起したことですから、その水利は出来るだけ広く受けさせとうございます。
どうか皆様に同時にお許し下さい」
と、反対する人たちに頭をさげました。
役人も同意してくれました。
こうして筑後川の流域は、この地方を代表する、大穀倉地帯に生まれ変わりました。
それは、五人の荘屋さんたちを始め、村人たちが心をあわせ必死になって尽くしてくれたおかげです。
・・・・・・
と、このお話は、実は戦前の尋常小学校6年生の修身の教科書にあったお話です。
文章は、ねずさん流の現代文にだいぶ手を加えさせていただいて、掲示させていただきました。
そして、この物語は、次のように締めくくられています。
《我等の住む市や町や村は、昔から人々が協同一致して郷土のために力を尽くしたおかげで、今日のように開けて来たのです。
協同の精神は、人々が市町村を成し、全体を反映させる基であります。》
考えてみれば、いまわたしたちが住んでいる町も、道路も、公園も、川に架かる橋も、電車も、電線も、全部わたしたちの先人達が、何代にもわたって築いてきてくれた大きな遺産です。
そしてその遺産は、同時にわたしたちの先輩達が、先輩達の生活のためでもあり、また同時に、後世に生きるわたしたちのためであり、そのまたわたしたちの子や孫、それに続く未来の世代のためにと、先輩達が力を合わせ、協同して築いてくれた遺産です。
上にご紹介した筑後川の流域の庄屋さんと村人たちの物語は、全国津々浦々で行われた物語でもある。
わたしたちの先輩たちまでは、そういうことを学校で学んでいました。
その前の先輩たちも、おなじことを、寺子屋で学んでいました。
ですから、それらは、わたしたち日本人にとっての常識でした。
けれど戦後のわたしたちや、その後の世代はどうでしょう。
「1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府」は学んでも、
そういう「協同」することの大切さや、父祖の恩、国や国土を愛する心を、果たして学んで育ってきたのでしょうか。
そして「学ばない」ことが、昨今ではまるで「学ばせないこと」が正義であるかのような論調さえもあるという体たらくです。
ちなみに戦後左翼というのは、嘘も教えますけれど、彼らの巧みなのは、嘘を教えればすぐにバレる。
だからそうではなくて、
「本当のことを教えない」、
「一番大事なことを教えない」
というやり方を徹底してきました。
今日のお話の中で
「藩のお台所が苦しい」
というくだりがありました。
江戸時代の全国の諸藩の大名たちが、みんな赤字財政で四苦八苦していたことは、みなさん学校でも習いますし、テレビの時代劇などでもご覧になったことがあろうかと思います。
大名たちは、江戸や大阪の大商人たちから、たいへんな借金をしていた。
そんな話はきっとみなさん聞き覚えておいでのことと思います。
けれど、それがウシハク世界の領主たちなら、赤字なら藩民から、徹底的に搾取したことでしょう。
なぜなら自分たちだけが人間であり、民というのは、自分たちを食わせるためのヒトモドキの道具ないし私有物でしかなかったからです。
大名たちには、年貢による収入があるのです。
にも関わらず、彼らはどうして大赤字で、大商人たちから借金を重ねていたのでしょうか。
自分たちが贅沢をするためでしょうか。
全然違います。
今日のお話しにもあったように、水路や堤防の工事、あるいは土砂災害や地震、噴火、火災からの復旧工事など、民のための土木や建築などに、藩政が赤字であっても、必要な工事を藩の事業として推進していたのです。
なぜなら、それが天皇のおおみたからを預かる武士の役割だと認識されていたからです。
藩の領土は、お殿様のものです。
けれど、藩民は、天皇のおおみたからです。
そして藩主は、そのおおみたからたちが幸せに安心して暮らせるようにすることが、藩主としての仕事であると認識されていたのです。
そういう自覚があったからこそ、彼らは明治時代にはいって、版籍奉還に応じているのです。
ここが一番大事なところです。
江戸の大火や、地震、あるいは富士山の噴火などによる被害、あるいは干ばつによる農産物の凶作など、日本は、各種自然災害などが民の生活を脅かすことが多々ある国です。
そしてその都度、幕府は、備蓄していたお蔵米を民のために炊き出ししたり、無償でお米を配ったりしていましたし、町並みの復興のために、莫大なお金を使っています。
だから赤字にもなる。
赤字になれば、大商人から借金する。
武士たちの贅沢のためではありません。
全部、藩民の生活を安定させるためです。
だから武士たちは、民から尊敬されたのです。
そういう肝心なことを教えない。
私達は、日本を取り戻そうとしています。
日本は、縄文以來、あるいはもっと古い昔から、民の安全で安心できる生活の保持を、政治の使命としてきた国です。
それが崩れたのは、むしろ、現代の戦後日本です。