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豊臣秀頼は秀吉の実の子ではない

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豊臣秀頼は秀吉の実の子ではない――
論証不能ともいわれたこのテーマに、服部英雄・九州大教授が新著『河原ノ者・非人・秀吉』で迫った。
 
秀吉は多くの妻妾を持ちながら子宝に恵まれなかった。
50歳を超えて側室の茶々(淀殿)との間にだけ、早世した鶴松、次いで秀頼を授かった。
秀頼については早くも江戸時代に、実父は大坂の陣で母子に殉じた家臣の大野治長だとする説が広まった。
作家の司馬遼太郎や遠藤周作も非実子説に言及している。
ただ、これらは憶測や俗説の域を出ていなかった。
そこで服部教授は、秀吉の誕生日である文禄2年8月3日から逆算、受胎が想定される前年の天正20年11月4日前後に秀吉と茶々が同衾した可能性を検討した。
秀吉は同年10月1日に朝鮮出兵の基地・名護屋(佐賀県唐津市)に向け大坂城をたち、翌年8月まで滞在した。
秀吉の子を宿したとすれば、茶々も同行していなければならない。
その根拠とされてきたのは、名護屋に従軍した平塚滝俊の日記にある「茶々が同行しているらしい」という記述だった。
しかし、ほかの多くの資料を再検討した結果、茶々の名護屋滞在を示すものはなかった。
名護屋には側室・京極龍子が滞在したことははっきりしており、服部教授は「平塚の日記は龍子を茶々と誤認したもの」と結論づけた。
 
さらに、秀頼生誕後の文録2年10月、大坂城の大勢の女房と僧、唱門師(しょうもじ=宗教的芸能者)が秀吉の命で処刑、追放された。
公卿日記『時慶記』によれば、大坂城での「妄(みだ)りに男女ト之義」が問題にされ、唱門師が「金銀多取候罪」(金銀多く取り罪)で追放、女房が「御成敗」された、とある。
この頃日本にいた宣教師フロイトも、同じく女房や仏僧30人以上が処刑されたと伝える。
この処分は、単なる風紀の乱れをとがめたのではなく、茶々と側近が僧や唱門師に「金銀」を与え、「子授けの祈祷」を行ったことによる、というのが服部教授の見立てだ。
「子宝を願って社寺に籠る『参籠』が実は男女交情の場であったという中世の民族事例からすれば、この祈祷も実は宗教者による茶々への性行為だったのではないか。
大坂に戻った秀吉は、茶々の懐妊の真相を知って激怒したのだろう。
 
ならば、なぜ秀吉は茶々を許し、秀頼を実子と認めたのか。
「茶々はかつての主君、織田信長の姪。織田家の覇権を簒奪した秀吉にとって、自らを正当化するためにも、茶々が子を産むことは望ましかった」
これまで学会では、秀吉が秀頼を実子と認めている以上、血のつながりにはあまりこだわってこなかった。
しかし、服部教授は史家の解釈に重大な影響を与える問題だと考える。
秀頼の誕生が、秀吉の後継者だった関白秀次の失脚・自刃につながったとされる定説や、関ヶ原の合戦で秀吉子飼いの武将の多くが東軍(徳川方)についた理由についても、「背景に秀頼出生の正統性に対する疑惑があった」という視点で再検討されるべきだと主張している。
 
 
 
 
 

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