はじめに ~序章~
……「政治家・橋下徹」は突如現れたのではない。舞台となった大阪の自治体には、登場につながる前史がある。大阪市役所では04年、市職員への数々の過剰な福利厚生が発覚した。「市役所は大阪から出ていけ」と市民から指弾された。この職員厚遇問題で役所のお手盛りが大阪中に知れ渡ったことは「官」に厳しい橋下氏への共感を導いたのだろう。当時改革を進めた市長(關淳一)を選挙で破ったのが市職員の労働組合に推された平松邦夫前市長だった。次の選挙で橋下氏に敗れることになる。……断言と極論の多用が、聞き手によっては切れ味の鋭さと映り、そうでない人は危険と感じる。手法で最も目につくのは対決の姿勢だ。部下の職員、労働組合、霞が関、大政党、学者、文化人、電力会社、メディアなど、状況によって相手を変えながら、常に衆人環視の中で何者かと戦っている。大阪府知事となった08年から大阪市長に転身した現在まで、そんな「橋下主演」の激闘シーンが耳目を集めてきた。政策課題を次々にすっぱり善悪で断じることで、大阪の自治体行政の場は、橋下氏が敵とみなした組織や人々との戦場か、闘争を演じる劇場と化している。対決のたびに喝采と批判が交錯してきた。さらに橋下流の特徴として際立つのは、選挙で民意を受けた者の政策を尊重するように徹底して求める態度と、歴史や伝統の軽視である。よく表れたのが、12年春から夏にかけての文楽を巡る問題だった。大阪が発祥の地で、国立劇場もあり、この地の宝というべき古典芸能に対して、橋下氏は集客力が小さいと非難し、大阪市からの補助金の削減を主張してツイッターにこう書いた。<税を用いることへの謙虚さが全くない。税は一般市民が血みどろになって納めているカネだ><税をもらうには一般市民への最大限の感謝が必要だ>市民の金を使うなら相応の態度を示せ、ということだろう。有名な歴史の逸話を思い出す。織田信長の後継を決めるとき、羽柴秀吉は亡君の孫を抱きかかえながら「頭が高い」と叫び、居並ぶ同輩はひれ伏した。フィクションだろうが、才気にあふれて傲慢で芝居がかった、我われの知る秀吉像に似つかわしい場面だ。幼い貴人を「民意」と見れば、橋下氏のありように似ている。……真の改革者か、それとも民衆を先導するポピュリストなのか。その実像を追って、橋下たちが維新の結党を誓った3年前のクリスマスの夜から話を始めたい。第1章 維新旋風
……ジングルベルが街角に流れる09年12月、クリスマスの夜。大阪府庁近くのオフィス街の一角にある「エルカミーノ」。表通りから少し離れた隠れ家風のレストランバーである。……シャンパンを手にして談笑するカップルたちのテーブル席から離れた、2階の奥まった個室。人目を避けるように集まった客だったが、やがて声のトーンがひと際高まった。「平松市長はハッキリしませんね。もう、どうにもならないですよ」第17代大阪府知事、橋下徹は、グラスに残ったワインを飲み干し、大阪市長の平松邦夫への不満をぶちまけた。府と市でこの間、協議してきた水道事業の統合が頓挫したことへの苛立ちが募っていた。「来年に向けた作戦会議」と称し、小宴を囲んだのは、橋下氏のほか、大阪府議の松井一郎と浅田均だった。「府とか市とか、どうでもええねん。どっちもつぶして、ワン大阪にしようや」松井が橋下に水を向けた。「市を何とかするためには、新しいローカルパーティー(地域政党)を旗揚げせなあかん。橋下さんにトップになってほしい」隣の浅田も同調した。府議会(定数112)で、松井は自民党・維新の会(6人)、浅田は自民党・ローカルパーティー(5人)という少数会派をそれぞれ率いていた。いずれも最大会派・自民党府議団を飛び出してつくった親橋下の会派だ。このとき、松井は45歳、浅田は58歳。ともに元府議の父親から地盤を引き継いだ二世議員。生粋の自民党員だが、根っからの「跳ねっ返り」でもある。04年の知事選で、自民党は、民主、公明、社民各党とともに現職の太田房江を推薦し、圧勝で再選に導いたが、府議一期目の松井と二期目の浅田は「太田知事では大阪を再生できない」と党本部に反映を翻し、元プロ野球選手で参院議員だった江本孟紀を支援した。2人の個性はずいぶん違う。松井は選挙や政局での駆け引きを得意とする武闘派。……一方の浅田は、地方議員に珍しい国際派の政策通。哲学書を愛読し、白髪交じりのクセ毛がインテリの雰囲気を醸し出している。橋下、松井、浅田。3人のこの夜の「作戦会議」が、やがて大阪全体を巻き込むうねりを呼んでいく。橋下が府知事に就任したのは08年2月。テレビのコメンテーターとして過激な言動を繰り返し、物議を醸してきた経歴から、「チャラチャラしたタレント弁護士に何ができるのか」と府庁内の視線は冷ややかだった。しかし、橋下は就任直後から、巨額の借金を抱えた府財政の立て直しでリーダーシップを発揮し、6月には約1100億円の収支改善を図る改革案をつくり上げ、実行に移した。この頃、橋下は行政の専門書などを7,8冊同時並行で読んで勉強したという。府幹部らとのメールのやり取りが1日500通に上ることもあった。後に橋下自身、「就任1年目の睡眠時間は多くても1日3時間だった」と振り返っている。寝る間を惜しんで知事の職責を果たそうとする姿勢に、ある府幹部は「タレント知事という認識はすぐに変わった」と舌を巻いた。松井、浅田が所属していた自民党は、公明党とともに知事選で橋下を支援した。知事就任後は、選挙前に想像していた以上に懸命に府政に取り組む姿を見守ってきた。ところが、橋下が8月に府庁舎移転構想を打ち出すと、橋下と両党府議らとの関係はぎくしゃくし始めた。移転構想とは、大阪市の第3セクターが1193億円かけて建設したもののテナント不足で経営難に陥っていた「大阪ワールドトレードセンタービルディング」(WTC)を買い取り、新庁舎にするという型破りなものだった。……建て替えるより移転する方が安く、早く、劇的に庁舎問題を解決し、財政難の大阪市の支援にもつながると判断したからだった。……橋下は09年2月の府議会に、WTC購入予算案と府庁舎移転条例案を提案した。しかし、府議会の反発は強かった。……採決では、購入予算と移転条例案はいずれも否決された。浅田が会談トップの府議団幹事長を務めていた自民党は両議案への賛成を申し合せたが、採決は無記名投票で実質的に党議拘束がかからなかったため、ベテランを中心に大量の造反者が出た。同議案に賛成した松井ら当選1、2回の若手6人はこれを不満とし、自民党を飛び出した。橋下は庁舎移転をあきらめなかった。約半年後の09年9月に開かれた府議会で、購入予算案と移転案をあらためて提案した。徹夜の審議の末、過半数の賛成で済む購入予算案はかろうじて可決されたが、3分の2以上の賛成が必要な移転条例案は再び否決された。「庁舎の移転は認めないが、ビルは買ってもいい」。議会が示したのは、どっちつかずのわかりにくい結論だった。失望した賛成派の浅田ら5人は、松井らに続いて自民党は離れた。橋下は、議会の壁で思う通りの政策を実行できないもどかしさを痛感した。松井、浅田にも、重要議案で意思統一できない既成政党への不信が高まっていた。「大阪を変えるには、新しい政治集団をつくり、既成政党を倒さなければならない」。3人は心の中で思っていたのだろう。……橋下は知事就任直後、自身と同じように民間出身で大阪市長になった平松と、水道事業の統合を目指すことで合意した。大阪市は取水から市内各戸への配水まで一貫して担い、府は大阪市を除く府内42町村に浄化した水を卸売りしている。景気低迷や節水意識の高まりで府市ともに「水余り」に陥っており、事業統合によって組織や浄水場をスリム化するのが狙いだった。ところが、具体的な協議に入ると、府内の他市町村が求める企業団方式での運営を巡り、平松と合意できず、約2年の曲折を経て協議は破綻した。「水道でダメなら、その先の連携はもっとダメ。『もう(市を乗っ取る)略奪結婚しかない』と思ったのだろう」。橋下ブレーンの一人は後に、水道統合の挫折が、橋下をワン大阪=大阪都構想に駆り立てたと分析している。クリスマスの小宴に話を戻そう。松井は「ほな、新しい政治グループをつくろう。大阪維新や。来年4月には発足させたい」とたたみかけた。……橋下「人数は集まりますか」松井「知らんわ。知事と浅田先輩と俺。3人でもええやん。もうやってまおう」浅田「現職で20人は集めたい。新人は公募したらいい」慎重な構えを見せていた橋下も、2人の気迫に、「わかりました。その線でつくっていってください。骨格ができたら僕も合流します」……ターゲットにしたのは、通称「白組」だ。橋下がこだわった府庁舎移転条例案とWTC購入予算案の両方に賛成票(白票)を投じた議員たちが、「橋下寄り」という意味を込めてこう呼ばれるようになっていた。……橋下や松井、浅田らからスカウトを受けた「白組」は、自民党、民主党、無所属と、政党の枠を超えて10数人に及んだ。この結集こそが、大阪都構想の実現を図る「橋下新党」の源流となる。……1月16日、府の第2庁舎となる事が決まったWTCで開いた自らの後援会パーティー。「僕がこれをやりたいと言っても平松市長がダメ。平松市長がやりたいと言っても僕がダメ。こんなことで大阪市運営はできない。指揮官一人の大阪丸をつくる。来年4月の統一地方選挙、一世一代の大勝負に出ます」。統一選に向けて各党の府議や大阪市議に結集を呼び掛けるとし、新人候補者の公募にも言及した。府議らに波紋が広がった。約4カ月前、09年9月の堺市長選で、橋下は「選挙の顔」としての破壊力を見せつけていたからだ。民主党の地方組織と、自民、公明両党が三選を目指す木原敬介を相乗りで支援したのに対し、橋下は元府政策企画部長の新人・竹山修身を応援し、圧勝に導いた。「知事の『この指とまれ』には心を動かされた。『橋下』という旗印があれば、府議選でかなりの得票が見込める」。新党に誘われた自民党府議団の若手は、取材に対して興奮気味に語った。「大阪の歴史が動こうとしているときにただ傍観していていいのか。もう腹を決めた」。……代表には橋下がつくと決めた。国政の政党と一線を画し、地域の課題に取り組む地域政党は、60年以上の歴史を誇る「沖縄社会大衆党」、市民運動から発展した「東京・生活者ネットワーク」、「神奈川ネットワーク運動」など数多いが、首長自らがトップになるのは異例だった。地域政党の前段階として、府議会の新会派・大阪維新の会が発足したのは4月1日。松井、浅田のグループ計11人、無所属系の会派からも2人が参加し、計22人の陣容となった。「20人」という当初の目標は達成した。……元々、府議会には都構想への抵抗感は少ない。歓迎の声が大多数と言ってもいい。「大阪府は、大阪市内のことに一切口を出せない」(府幹部)という不満は、各党府議に共通していたからだ。目障りな大阪市を解体して大阪都をつくり、府議がより力の強い都議に衣替えするなら、異論があるはずもない。しかし、大阪市議が都構想という市解体の踏み絵を踏むのは難しい。市議会からは、「俺らに『切腹しろ』と言っているのと同じ」「何がワン大阪や。橋下は好き勝手できる『ワンマン大阪』をつくりたいだけ」といった反発の声が相次いでいた。市長の平松も2月、橋下と公開の意見交換会に臨み、「市を分裂すれば、都市の活力が失われる」と都構想根の反対を鮮明にしていた。そんな中で4月15日、1人の自民党大阪市議が維新への合流を表明した。議長も経験した4期目のベテラン、坂井良和。「府市再編の方向性に基本的に異存はない。しかし、しがらみがなく、遠慮なく実行する橋下知事に期待したい」と理由を述べた。坂井の決断を知った橋下は「ムチャクチャ大きい。堺市もたぶん動きが出ると思う。ここからがスタートです」とはしゃいだ。(『橋下劇場』 読売新聞大阪本社社会部)to be continues.
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大阪都抗争/Drama under the bridge 1 09年クリスマスの小宴から始まった
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