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大阪都抗争/Drama under the bridge 9 政治家の存在意義は言葉にある

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第4章 橋下流分析

……
橋下はツイッターで、
〈日本のような大きな国になると政治家や行政マンは、メディアの反応によって有権者の反応を探るしかない。メディアの質が国の政治の質を左右することを知事の経験から確信した。メディアを鍛えることが日本の政治を良くする重要な要素だと思う〉と書き、メディアを非常に重視していることを公言している。
登庁時と退庁時の1日2回のぶら下がり取材では、質問が尽きるまで対応し、朝30分、夜1時間も珍しくない。
これとは別に週1回の定例記者会見は2時間を超えることもある。
日本では小泉純一郎が歴代首相で初めて1日2回のぶら下がり取材を取り入れたが、1回数分、長くても10分程度程度で、質問途中の打ち切りも多かった。
政治手法の類似性からよく比較される二人だが、取材対応は大きく異なる。
その分、橋下は報じられ方に強くこだわり、朝は出勤中の車中で主要新聞に目を通し、テレビのニュースを番組は録画しておいて、夜に自宅などでチェックする。
内容によっては、ツイッターで即座に反論し、〈○○新聞の記事は洞察力がない、頓珍漢な記事〉〈○○テレビは最悪極まりない〉〈○○新聞の○○氏は、自分は偉いんだぞ!という匂いがプンプンする〉などと、報道機関や記者を名指ししてヤリ玉にあげることが多い。
 
11年2月、民主党政調会長の前原誠司は、「口だけ番長」と前原を批判した記事を載せた産経新聞の記者を記者会見から締め出した。
この時、橋下が漏らした感想は「僕だったら、その記者に来てもらって、悪口を言いまくる」だった。
メディアへのこうした強い執着心こそが、橋下を他の政治家と異ならしめている大きな要因と言える。
 
橋下は大阪市長選出馬を前に、報道陣にこんな心境を吐露したことがある。
「メディア抜きには僕なんて存在できない政治家ですよ。メディアの皆さんが僕を無視して、報じないってことをやれば、僕は終了」
謙虚な物言いに聞こえるが、裏を返せば、自らの政治生命を維持するため、「メディアがいかに報じるか」「メディアにいかに報じさせるか」を常に意識していると受け取れる。
事実、橋下は市長選を知事選とのダブル選にした意図を問われ、「メディアの皆さんに、どういう風にやれば報道価値を認めてもらえるかを考えて仕掛けました」と明かしている。
……
「日本にも核武装が必要だ」などコメンテーター時代は物事を醸した発言が多いが、橋下は「すべて計算。メディアには圧倒的な特徴がないと出演できない。放送コードに引っかからないギリギリのところで発言してきた」と話す。
秒単位で発言を切り取られるテレビの世界で、コメンテーターに求められる役割は意識的に、あいまいさを排して単純化され、より面白く、より過激に、より挑発的になる。
政治・行政の世界でも存分に発揮される発信術は、生来の才能にテレビの世界が磨きをかけた。
今思えば、07年12月12日、大阪府庁4階で開かれた知事選への出馬会見は、橋下の存在基盤とその後の軌跡を暗示しているようで興味深い。
午前10時、緊張した面持ちで会見室に入室した橋下が着席後、最初に口にしたのは、こんな言葉だった。
「今回、立候補にあたり、周囲の方々、特に放送局の方、私が出演していた番組のスタッフの方に多大なご迷惑をおかけしました。編集に追われ、申し訳ないと思っております」
決意表明でもなく、公約発表でもなく、自らの突然の立候補表明によって、収録映像の編集に追われた番組関係者への謝罪で始まった第一声。
テレビメディアを何よりも重視する政治家ならでは、だった。
 
なぜ橋下の発言は新聞の見出しになり、テレビの電波に乗るのか。
その秘密を探るために、彼が日頃からメディアへの発言に、いかに心を砕いているかを示すささやかなエピソードがある。
 
08年10月16日午前8時半、大阪府都市警備部の電話が鳴った。
「知事が2週間遅れた時の損害額を出してほしいと言ってます」
電話の主は、当時知事だった橋下の男性秘書。
知事を乗せて府庁に向かう公用車の中からだった。
出勤中に主要紙を読む橋下がこのとき、手にしていたのは、その日の朝日新聞の朝刊だった。
府はこの日から、第2京阪道路の建設予定地で買収に応じなかった府内の農地約770平方mを強制収容する行政代執行に乗り出すことになっていた。
記事は、農地が近所の保育園の園児たちに畑として使われ、2週間後の10月31日には芋掘り交流会が控えていることを伝え、園児の保護者らから「月末の芋掘りまで(代執行を)待ってください」「子供たちが悲しんでいる」といった声が出ていると報じていた。
都市警備部は、この件に関し、代執行当日に発表する知事コメントを部として作成し、事前に橋下に渡していた。
紙には「説得交渉に努めて参りましたが、最終的に理解をいただけず、誠に残念に思っております」といった当たり障りのない言葉が並んでいた。
しかし、橋下は今朝の報道ぶりから、これでは府民の反感を招くと判断し、コメント案を破棄した。
車中で都市警備部から数字を聞き出し、午前9時20分、府庁で待ち構える報道陣の前で、代執行について、こう説明した。
 
「(第二京阪道路の開通が)2週間遅れると、6億から7億円の通行料がの損が出てきます。園児の方には大変申し訳ないが、公の損害があることをご理解いただきたい」
 
発言をあとに知った府幹部は「損得勘定をハッキリ示した説明で、我々には全くない発想だ」と舌を巻いた。
とっさの対応さえ、計算づくである。
注目度の高い節目の会合や記者会見では、さらに切れ味を増す。
 
08年の2月6日の知事就任日は、職員向けに訓示した「皆様方は、破産会社の従業員」だった。
……
誰もが漠然と認識する自治体財政の厳しさを、「非常に厳しい」といったありきたりな言い回しではなく、「破産」という言葉で伝えた。
……
11年12月19日の市長就任会見で発信したのは「決定できる民主主義」だった。
消費税率、TPP、米軍普天間飛行場問題など、国政の重要なテーマで進路を決められず、先送りし、迷走する国政への国民の苛立ちを意識していた。
 
一ヶ月後の1月24日、首相の野田佳彦首相が国会で行った施政方針演説は、「本来私は何よりも、国政の重要課題を先送りしてきた『決められない政治』から脱却することを目指します」で始まり、「今こそ『決断する政治』を成し遂げようではありませんか」で終わった。
橋下の就任会見の言葉を意識したのかどうかは定かではない。
ただ、、橋下の言葉が時代の空気をまとっていることは疑いようがない。
 
最も劇的な例は、国直轄事業負担金を変えるきっかけとなった「ぼったくりバー」だ。
……
刺激的な発言で物議を醸し、その後、自分が持っている権限をフルに行使して問題を先鋭化する。
首長としての力を得たことで、橋下は言いっ放しだったコメンテーター時代とは違う影響を及ぼすようになっていった。
……
負担金を巡る長い歴史の中で、廃止を訴えた知事は少なからずいる。
72年4月、参院地方行政委員会の参考人として呼ばれた当時の長野県知事・西沢権一郎は、こう述べている。
「直轄事業の負担金というのは、どうもなかなか納得がいかない制度でありまして、今の時代にそぐわないのではないかと思う」
 
77年4月、当時岡山県知事だった長野士郎は、衆院地方行政委員会でこう表明した。
「国と地方の責任分担と財政秩序を確立する見地からも、直轄事業負担金は是非、廃止することにしていただきたい」
 
05年2月には、当時宮城県知事だった浅野史郎が、新年度当初予算案に、負担金計上を見送ったことまであった。
こうした知事たちの問題は意識は橋下と同じだろう。
だが、彼らの発言や行動からは、制度を変革する力まで生み出すことはできなかった。
「ぼったくりバー」というどぎつい言葉を公の場で平然と言い放ち、政治力を行使して国に歯向かえる首長が登場することで、ようやく制度のおかしさが広く社会に認識された
 
火種一つで一気に燃え広がるような、制度に対する地方の不満が充満していたことも、橋下には幸いした。
橋下が「時代の寵児」と呼ばれる所以だろう。
 
なお、計上見送りを表明した大阪府の負担金について、橋下は09年5月、地方負担分が縮小されたことなどを理由に、補正予算で復活させている。
「押して引く」のも橋下流である。
 
「クソ教育委員会。も毒をはらんだ橋下語として有名だ。
……
およそ公人とは思えない「クソ」「バカ」発言は物議を呼んだ。
橋下自身も「オカンに『言葉遣いをいいかげんにしろ』とこっぴどく怒られ、謝りました。発言撤回はないが、以降は使いません」と〝反省〟もしてみせた。
ただ、、テスト結果の公開を求める主張が、主に保護者の共感を呼んだのも事実だ。
教育委員会は追い込まれ、翌年度、情報公開請求に応じて、市町村別の結果が原則公開されるとことになった。
 
直轄事業負担金や教育委員会の例は、橋下の過激な言葉が、ほころび始めた諸制度の弱点をうまく探り当て、それ故に世論の共感を集めることを示している。
 
 
 
(『橋下劇場』 読売新聞大阪本社社会部)
to be continues.

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