昭和58年11月15日朝。USジャパン・ビジネス・ニュースの編集室にいた北岡和義に電話が入った。友人のジャーナリストからで、週刊文春の記者が今LAに来ていて、是非北岡さんに会いたいと言っているというのだ。北岡はたまたまその日、前日の飲み過ぎでひどい二日酔いに悩まされていたのだが、言われるまま、リトル東京の指定のレストランに出かけた。記者は羽山と名乗ったが、会ってみると北岡には見憶えのある顔だった。ああ、あんたでしたか、と北岡は声をあげた。この記者とは約1年半前、サンフランシスコで会ったことがあるのだ。その頃「IBM産業スパイ事件」というものがあり、これも当時日本を揺るがしていた。北岡はこの時検事との単独インタビューに成功していて、このスクープを、羽山記者に手渡したのだった。「地元では、北岡さんが三浦の事件に一番詳しいと聞きましたので」羽山は言った。しかし話してみると、羽山は北岡の全然知らない情報を日本でたくさん掴んできていて、したがって彼は、もう自分にはさして期待もしていないように感じられた。浪速寿司の福山の情報も、彼は日本にいた頃から掴んでいて、すでに会っているらしかった。彼のLA取材は、赫々たる戦果をあげつつあるようで、そういう自信が、若い羽山の顔つきに溢れている。頭痛に堪えながら北岡は、自分の抱いてきた三浦という男への疑問を、ぼつぼつと語った。しかしそれらは大半、羽山のすでに知っていることだった。北岡は、日本の大手の出版社の機動力と自分の境遇との差を感じ、いくぶん劣等感を覚えた。地元の者にもかかわらず、北岡が教えられることの方が遥かに多く、しかもそれらは、羽山が心得ている事実のごくごく一部分らしいのだった。どのような初心者の記者でも、自分が足で掴み、今から記事にしようとしているネタを、同業者にすべて喋る者はない。一美にかかっていた保険金が1億円以上と聞いた時は、北岡はさすがに唸った。どう贔屓目に見ても、これで容疑は決定的だと思った。「しかし、保険会社は顧客の情報に関して守秘義務があると心得ているらしくてですね、今取材は少々難航しているんです」「そりゃあそうでしょうな。で、女房以外に女は?」北岡が訊くと、「いますね」羽山は即座に応えた。「三浦は、一美さんが死んだ後、1億円の豪邸を買って住んでるんですがね、そこでは、もとモデルの美女と一緒に暮らしているんですよ」北岡はまた唸ることになった。もとモデルと聞いては、反感を持つなという方が無理だ。「この女と、一美さんが生きている頃からできていたのかどうかは、これからの調べですがね」これはもう決まりきったようなものだった。もとモデルの美女と豪邸が手に入るとなれば、女房の一人くらいは殺す男は、世の中にいくらでもいるだろう。羽山もプロだから、北岡に訊かれた最小限のことしか応えない。しかしあまり隠し過ぎると北岡の協力が取りつけにくくなるものだから、適当には喋る。だから北岡もせいぜい尋ねた。羽山はここに来る前に、ニューヨークにも寄ってきたと語った。ニューヨークの日系人も、みんな三浦を疑っていたという。そしてこの地の者も、今まで会った限りではどうやら同じだ、羽山はそう言った。すでに何人かは聞き込んでいるらしいが、もっと紹介してほしいと言うから、何人か名前を挙げた。話が一段落すると、現場を見たいと羽山が言いだした。それで北岡は、加藤を誘い、自分の車で彼をフリーモント・アベニューに案内した。報知新聞の女性通信員にも連絡して、自分の車で現場に来てもらった。現場に着くと、「なぁるほど、ここですか!」と羽山記者は、感慨深げな声を出した。日本列島を飛び廻り、さんざん追ってきた事件の当の現場に、はるばる海を越えた今ようやく立てたのだから、それは記者として当然である。具合がいいことに時刻はちょうど正午前、銃撃事件発生とほぼ同じ時間帯だった。それで北岡は、そう羽山に教えた。彼は頷く。すでに心得ていたようだ。若いが、彼は優秀だった。加えて、この事件に本気の情熱を持って入れ込んでいる。羽山記者は、現場駐車場の道路端あたりに立っていた。ポケットからカメラを出し、パームトゥリーと背景のビル群に身かって構える。すでに現場には血の痕などかけらももなく、悲劇の発生を語る何ものも遺ってはいない 。当日の三浦の視界はこういう感じですね?彼は北岡を振り返って問い、北岡が頷くと、立て続けに何枚かシャッターを押した。「ちょっと写真撮りたいから、そこへ立ってみてください」「それじゃあ、私とこの女性とで事件当時を再現しましょうか。私が三浦をやって、この人が一美さんをやりましょう」北岡は自分用のカメラを出して構え、通信人の女性に指示をして、パームトゥリーの方に歩ませた。「そりゃあいい。お願いしますよ」羽山は言った。「とにかくまず、三浦の言う通りをやってみてください」三浦は、一美がカメラに対して後ろ向きになって立ったと言った。それで女性をパームトゥリー手前で後ろ向きに立たせ、オフセット駐車場入口あたりに北岡が立ち、女性とパームトゥリーの方を向けてカメラを構えた。二人の間には、フリーモント・アベニューがあった。そして羽山は北岡のさらに後方フリーウェイ寄りに立ち、こういう姿勢の二人とパームトゥリーを入れ込みで、一枚の写真にした。この写真を北岡は、のちに自著『13人目の目撃者』の表紙に使っている。「あれ、こりゃおかしいな」羽山は、何枚か写してから言い出した。「今とだいたい同じ時刻ですよね、事件は。こっちだと逆行になりますよ。太陽はダウンタウンの方角にある」羽山は発見をしている。「三浦はカメラのプロだっていうでしょう?この時も、高級カメラを持ってきてたっていうじゃないですか。それなのに、なんでまたこんな逆光の写真なんかを撮ったんだろう。パームトゥリーがシルエットになっちゃう。こりゃやっぱり、写すふりだけしたんじゃないのかなぁ。本当のも目的は、写真なんかじゃなかったんですよ」若い彼は、生き生きした顔で言う。「三浦はコマーシャルに使う写真を撮っていたっていうんでしょ?Tシャツとかポスターに使うっていう。こんな逆光の素人写真じゃ、全然使えないですよ」これには北岡も同意した。北岡も以前からそう思っている。それで北岡は言った。「それにね、これはこっちの特捜班の刑事も言ってるんだけどこのパームトゥリーは、全然綺麗じゃないでしょ。ほかにいくらも綺麗なパームトゥリーがLAにはあるからね」羽山も頷く。「これ、ちょっと枯れてますよねぇ」「刑事はこういうことも言ってるんだけどね、あの高層ビル群ね、あのうちの二つは、2年前の事件当時工事中でね、クレーンが突き出してたんだな。とてもじゃないが、コマーシャル写真向きじゃないよな」北岡が言うと、羽山は、「本当ですか!」目を輝かせた。「まあいずれにしても、こりゃ観光客の来るところじゃないですねぇ。こんなところで呑気にカメラ構えてちゃ、犯罪誘ってるようなもんじゃないですか」北岡は頷いた。そういうことこそ大事だと彼は常々思っている。謎解きもいいが、それより大事なことがある。日本人観光客の無防備さだ。もしこれが三浦の巧妙な保険金殺人なら、こういうこの土地の犯罪性、そして日本人の平和ボケとの落差を、彼は巧みに衝いたのだ。そういう構造をこそ、日本人に訴えたい。「ここ治安あんまり良くないんでしょう?こんな寂れたとこ、観光客はまず来ないんじゃないですか?こんなとこに連れてこられて、一美さんはおかしいと思わなかったのかなぁ」「民家がないからねぇ、LAで一番危険な場所ってのはね、周りに窓がないところなんだ。たとえば倉庫街とかね、目撃者が出なけりゃ、人殺ししても有罪にならないよ、証拠がないもの」「三浦は、ロスに数十回も来てるんでしょう。ここが治安の良くないとこだって、自分は熟知してたはずでしょう。麻薬の取引とか、よく行われてるんでしょ?ここ」「らしいよね」「そういうとこわざわざ来るの、絶対おかしいですよ。それに治安の悪いとこだって知っていたはずなのに、自分はジーパンの尻のポケットに1200ドルも現金突っ込んでたっていうんでしょ?なんでそんな金、わざわざキャッシュで持ってる必要があるんです?狙ってくれって言ってるようなもんでしょう。絶対おかしいですよ。三浦くらい頭のいいやつが、そんなこと解らないワケないですよ」北岡も同意する。彼もまた、ずっとそう思っていた。「三浦がこうやって写真撮っていて・・・」「うん」「で、いつ撃たれたんです?」「解らんね。とにかくあいつの言うことはおかしいんだよ」「一美さんが被写体になって、あっちのパームトゥリーのところにいて、三浦がこっちにいたとしたら、そして犯人が車でこの道をこう来たとしたら、三浦がすぐそばですよ。犯人の。そして一美さんの方がずっと離れたあっちのパームトゥリーの方で・・・それで犯人は三浦を放っておいて、遠くの一美さんな頭をまず撃ったんですか?次が三浦で、しかもやつは足だけですか。おかしいよ!そんなの」「うん、そうね」「こりゃ絶対偽装でしょう。そんな馬鹿な話は聞いたことない」「うん」「一美さんはどこに倒れたんです?」「こっちの駐車場の中らしい」「あっちのパームトゥリーの方ってことはないんですか?」「それはないらしい」北岡はつぶやく。「いずれにしてもあの三浦っていう男はおかしい。たぶん前歴に何かある。調べてごらんなさい」北岡は羽山に向かって言った。リトル東京の聞き込みからも、北岡は漠然とそういう疑念を感じていた。(島田荘司/三浦和義事件)
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ロス疑惑16/パームトゥリーに立つ
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